『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」4-01~4-05(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#2字下げ]第四編[#「第四編」は大見出し]


[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

 カレーニン夫婦は、ひきつづき一つ家に暮して、毎日顔をあわせていたけれど、お互に全くの他人同士であった。カレーニンは、召使に揣摩臆測《しまおくそく》の権利を与えないために、毎日、妻に会うことを原則としていたが、家で食事をするのは避けるようにしていた。ヴロンスキイは一度も、カレーニンの家へ足踏みしなかったけれども、アンナは家の外で彼に会っており、良人もそれを知っていた。
 それは三人のだれにとっても、苦しい状態であった。やがてこの状態に変化が生じて、この悲しむべき難局も、一時的のものとして過ぎ去るだろう、という期待の念がなかったら、彼らの中のだれにもせよ、一日たりと、この状態を忍ぶことはできなかったに相違ない。カレーニンは、すべてのものが移っていくように、この情勢もやがて移ってしまい、世間の人もこのことを忘れて、自分の名も汚されずにすむだろう、とこう期待していた。アンナはこの状態を左右しうる人物であり、そのために最も苦しんでいる当事者であったが、それを辛抱していた。これはなにもかもごく近々解決がつき、明瞭になるだろうと、単に期待していたばかりでなく、固く信じきってさえいたからである。彼女は、この状態を解決するのが何であるかは、まるっきりわかっていなかったが、その何かがごく近いうちにやってくるものと確信していた。ヴロンスキイも知らずしらず、彼女の感化を受けて、自分の力ではどうもならないけれど、いっさいの困難を解決すべき何ごとかが起るのを、同じように期待していた。
 冬の中ごろ、ヴロンスキイは退屈きわまる一週間をすごした。ペテルブルグへ到着したさる外国の皇子のお付添いを命ぜられ、皇子にペテルブルグの名所を案内しなければならぬこととなった。当のヴロンスキイは押し出しもりっぱだったが、のみならず、上品でうやうやしい態度をとるすべも心得ており、そういう人たちと応対することにも慣れていたので、さてこそ皇子のお付添いを命じられたわけである。しかし、この任務は彼にとって、ひどく重苦しく思われた。皇子は国へ帰ってから、ロシヤであれを見たか、これを見たかときかれそうなことを、何一つ見のがそうとしなかった。それに、皇子自身もできうるかぎり、ロシア固有の歓楽を味わおうとしたのである。ヴロンスキイはその両方の手引きをしなければならなかった。午前中は、名所旧跡の見物にまわり、晩は国民的な歓楽の席につらなった。皇子は、皇族たちのあいだでも珍しいくらいの健康を賦与《ふよ》されていた。体操と細心な手入れで、彼はおのれの内部に驚くべき体力を養成し、ずいぶん過度な歓楽にふけっているにもかかわらず、まるで青い、大きな、つやつやした、オランダ胡瓜《きゅうり》のように新鮮であった。皇子はほうぼう旅行していたが、現代、交通が容易になった主なる利益の一つは、あらゆる国に固有の快楽を味わいうることだと考えていた。彼はスペインへ行って、そこでセレナードを実演し、マンドリンを弾《ひ》くスペイン女と接近したし、スイスでは羚羊《かもしか》を射った。イギリスでは赤い燕尾服を着て、馬で高い柵を飛び越したり、賭猟で二百羽の雉子を射ったりした。トルコでは皇室の後宮へ入り、インドでは象に乗った。こんどロシヤでは、とくにロシヤ固有の快楽を味わいたいという所望であった。
 彼のそばにあって、式部長官ともいうべき位置にあったヴロンスキイは、さまざまな人の外国皇子に提供する、ありとあらゆるロシヤの歓楽を割り振りするのにたいへんな苦労であった。逸物の※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]馬《だく》もあれば、薄餅《ブリン》もあり、熊狩りもあれば、トロイカもあり、ジプシイ女もあれば、ロシヤ風に食器をぶちこわす乱宴もあった。皇子はいともむぞうさに、ロシヤ気質《かたぎ》を身につけてしまい、食器ののっている盆をぶんなぐったり、ジプシイを膝に乗せたりして、どうだね、もうないのかね、それともロシヤ気質ってもうこれっきりなのかね? とでもききたげな様子であった。
 しかし、実際のところ、ロシヤの歓楽の中で、いちばん皇子のお気に召したのは、フランス女優であり、バレーの踊子であり、白封のシャンパンであった。ヴロンスキイは、皇族たちには慣れていたけれども、しかし――最近かれ自身に変化が生じたためか、それともこの皇子とあまり接近し過ぎたためか――とにかく、この一週間は彼にとって、恐ろしく苦しいものに思われた。彼はこの一週間ひっきりなしに、危険な狂人の付添いにおかれた人のような気持を経験した。狂人を恐れながらも、同時にあまり接近している関係から、自分の理性さえ心配になる、といったような感じであった。ヴロンスキイは、自分が侮辱を受けないために、厳格なうやうやしい調子を一刻もゆるめてはならぬという気持を、たえまなく感じていた。ヴロンスキイの驚いたことには、皇子にロシヤ的享楽を提供するために、さか立ちしてご奉公につとめている連中に対しては、皇子の態度は侮辱的であった。彼はロシヤの女を研究したがっていたが、それに対する意見といえば、ヴロンスキイが一再ならず憤慨のあまり、顔を赤くせずにはいられないていのものであった。が、皇子がヴロンスキイにやりきれなくなった原因は、心にもなく皇子の中に、自分自身の姿を見たことである。しかも、この鏡の中で見たものは、彼の自尊心を喜ばせなかった。それはきわめて暗愚な、きわめてうぬぼれの強い、きわめて健康な、きわめて身ぎれいにしている男、ただそれっきりであった。彼は紳士である。それはまさしくそうに違いない。ヴロンスキイもそれを否定するわけにはいかなかった。彼は長上に対するときも平静な態度で、媚《こ》びるようなところがなく、対等のものに向ったときは、自由でざっくばらんで、目下のものに対しては、侮蔑を含んだ人の好い態度を取った。ヴロンスキイ自身も以前はそのとおりで、それを大いに長所と考えていたが、皇子に対しては目下である彼としては、この侮蔑を含んだ人の好い態度に、憤慨せざるをえなかった。
『ばかな牛肉野郎! おれもいったいあんなふうなんだろうか?』と彼は心に思った。
 何はともあれ、七日目に皇子がモスクワへ出発する前に別れを告げ、感謝のしるしを受けとったとき、彼はこのばつの悪い状態と、不快な鏡からのがれることができたのを、幸福に思った。二人は熊狩りに行って、夜っぴてロシヤ式の勇みと、いなせぶりが演じられるのを見て、その帰りに停車場で別れたのである。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 ヴロンスキイが、家へ帰ってみると、アンナからの手紙が届いていた。彼女はこう書いていた。『わたしは病気で不幸でおります。わたし外出できないのですけれども、このうえあなたにお目にかからないではいられません。今晩いらしって下さいまし。アレクセイ・アレクサンドロヴィッチは、七時に会議に出かけて、十時までそちらにいるはずでございます』良人が家へ入れてはならぬと、要求しているにもかかわらず、彼女がいきなり自分をわが家へ呼んでいることを、ちょっとふしぎに思いながら、彼は出かけることに決めた。
 ヴロンスキイはこの冬、大佐に昇進したので、連隊を出て、ひとり住いをしていた。軽く食事をして、長椅子の上に身を横たえた。と、五分くらいのあいだ、この数日間に見たさまざまな醜い場面に関する追憶が、アンナの映像や、熊狩りで重要な役を演じた勢子《せこ》の百姓などと、もつれあい、からみあっていたが、やがてヴロンスキイは眠りに落ちた。ふいに彼は恐怖に身をふるわせながら、暗闇の中に目をさまし、急いで蝋燭に火をつけた。
『いったいなんだろう? なんだったっけ? おれは何か恐ろしいものを夢に見たんだが?そうだそうだ。頤鬚《あごひげ》をぼうぼうさした、汚らしい、小柄な勢子《せこ》の百姓が、かがみこんで何かしていたと思うと、ふいにフランス語で何か妙なことをいったんだ。そうだ、夢といっても、ただそれだけなんだが』と彼はひとりごちた。『しかし、それがなぜあんなに恐ろしかったんだろう?』
 彼はまたもや、百姓をまざまざと思い浮べ、この百姓が口にしたわけのわからぬフランス語のことを考えたとき、恐怖の悪寒《おかん》が彼の背筋を流れ走った。
『なんてばかばかしい!』とヴロンスキイは考えて、時計を見た。
 もう八時半であった。彼はベルを鳴らして従僕を呼び、そそくさと着替えをして、入口階段へ出た。もう夢のことなどけろりと忘れてしまい、ただ遅くなったことばかり苦に病んでいた。カレーニン家の車寄せに近づいたとき、時計を出して見ると、九時に十分まえであった。灰色の二頭立てをつけた、高い、ほっそりした馬車が、車寄せで待っていた。彼はそれをアンナの車と見た。『これは、おれのとこへこようというのだな』とヴロンスキイは考えた。『そのほうがいいのだ。この家へ入るのは不快だもの。しかし、どうせ同じことだ、逃げ隠れするわけにはいかないし』と彼はひとりごちた。そして、子供の時分から身につけている『何も恥じることなんかないのだ』といったような態度で、ヴロンスキイは橇《そり》をおりて、戸口に近よった。と、ドアが中から開いて、膝掛を腕にかけた玄関番が、馬車を呼んだ。細かいことを目にとめる習慣をもたないヴロンスキイも、いまは自分を見た玄関番の、びっくりしたような表情に気がついた。ちょうどドアのところで、ヴロンスキイはあぶなく、カレーニンと衝突しそうになった。ガスの光は、黒い帽子の下からのぞいている、こけた、血の気のないカレーニンの顔と、海狸《ビーヴァー》の外套の襟の下に光っている白いネクタイを、まともに照らし出した。じっと動かぬ、どんよりしたカレーニンの目は、ヴロンスキイの顔にそそがれた。ヴロンスキイは会釈した。と、カレーニンは、口をちょっともぐもぐさせ、片手を帽子のほうへ挙げて、そのまま通りすぎた。ヴロンスキイが見ていると、彼はうしろをふりむきもせず、馬車に乗って、窓から膝掛とオペラ・グラスを受けとると、姿を消してしまった。ヴロンスキイは控室へ通った。その眉は八字によせられ、目は毒々しい誇らしげな光に輝いていた。
『じつに困った立場だ!』と彼は考えた。『もしあの男が敢然と闘って、自分の名誉を守ろうとするのだったら、おれもとるべき行動をとって、自分の感情を表白することもできるんだが、あの意気地なさ、卑屈さ……あの男は、おれを偽りものの立場におきやがる。ところが、おれはそんなものにされるのは、いつもいやだったし、今でもごめんなんだがなあ』
 ヴレーデの庭のそばでアンナと話しあって以来、ヴロンスキイの考えは変ってしまった。アンナは彼に身も心もまかせてしまって、はじめからいっさいに服従するつもりで、自分の運命が決せられるのを、ただ彼からのみ待ち設けている。その弱い気持にわれともなくひきこまれて、彼はあのとき考えたように、この関係に結末がつこうなどとは、とくの昔から考えなくなっていた。名誉心から出た計画は、ふたたび後方へ退いてしまった。すべてがはっきり規定されている活動圏の外へ出たことを感じながら、彼は一身を感情に捧げてしまった。そして、この感情はいよいよ強く、彼をアンナに結びつけるのであった。
 まだ控室にいるうちに、遠ざかりいく彼女の足音を聞きつけた。彼は悟った――彼女は自分を待ちかねて、しきりに耳を傾けていたが、今とうとう客間へひっ返していったのである。
「だめだ!」男の姿を見るなり、彼女はこう叫んだ。と、自分の声の最初の響きとともに、涙が彼女の両眼に浮んだ。「だめだ、もしこんなふうにつづいていったら、ずっとずっと早くあれが起ってしまいますわ!」
「どうしたんです、アンナ?」
「どうしたのかですって? わたし苦しい思いをしながら、待っていたんですわ、一時間も、二時間も……いえ、よしましょう!………わたしあなたと喧嘩するわけにいきませんもの。きっとこられないわけがあったんでしょう。いえ、何もいいません!」
 彼女は男の肩に両手をのせて、歓喜にみちた、と同時に試すような、深いまなざしで、長いこと彼を見つめていた。彼女は会わずにいたあいだに、男の顔を研究したのである。いつもあいびきのたびごとに、彼女は空想に描いている彼の面影と(それは、現実にはしょせんありえないほど、比べものにならないほど、はるかに優れたものである)実際の彼とを一つに溶けあわすのであった。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

「あなた、あの人にお会いになって?」二人がテーブルの前で、ランプの下に座を占めたとき。彼女はこうきいた。「あなたが遅れなすった、これが罰よ」
「そう、でも、どうしたの? あの人は会議に出ているはずじゃなかったの?」
「出たんだけど帰って来て、またどこかへ出かけて行ったんですの。でも、そんなことなんでもないわ。もうその話はしないで、あなたどこへ行ってらしたの? ずっと皇子さまとごいっしょ?」
 彼女は男の生活の詳細を、残らず知っていた。ヴロンスキイは、ゆうべ夜っぴて寝なかったので、ついひと寝入りしたのだといおうとしたが、女の興奮したしあわせらしい顔を見ると、彼は気がさしてきた。で、じつは皇子の出発について、報告を提出にいかなければならなかったのだ、といった。
「でも、もう今はおしまいになったんでしょう? 皇子さまもお立ちになったんでしょう?」
「ありがたいことに、やっとおしまいになりましたよ。あの仕事がどんなにやりきれなかったか、あなたには想像もつかないでしょうよ」
「なぜですの? だって、それはあなたがた、若い殿方がどなたでも、しじゅう送ってらっしゃる生活じゃありませんか」彼女は眉をひそめてそういうと、テーブルの上にあった編物をとりあげて、ヴロンスキイのほうを見ずに、突き刺してあった編棒を抜きにかかった。
「僕はもう前っから、あんな生活はやめていたんですよ」女の表情の変化にびっくりして、その意味をつかもうと努力しながら、彼はこういった。「それに、正直なところ」とにっこり笑って、びっしりと並んだ白い歯を見せながら、「僕はこの一週間、ああいう生活を見ているうちに、鏡をながめているような気がしてね、いやあな気持がした」
 彼女は編物を手にもっていたけれど、編もうともせず、何か親しみのない、ぎらぎら光る奇妙な目つきで、じっと男を見つめていた。
「今朝リーザがよってくれましたわ――あのひとはリジヤ伯爵夫人にはかまわないで、いまだにわたしのところへ出入りしていますのよ」と彼女は口を入れた。「そして、あなたがたのおやりになった、アテネの夜の話をして聞かせてもらいましたが、なんていやらしいことでしょう!」
「僕はちょうどいおうとしてたとこなんだけれど……」
 彼女はそれをさえぎった。
「それは、あなたが前からごぞんじの、テレーズなんでしょう?」
「僕がいおうと思ったのは……」
「あなたがた男って、ほんとにいやらしいものね! 女はそれを忘れることができないってことが、どうしてあなたがたには想像がつかないんでしょうね」と彼女はしだいに熱くなりながらいったが、それで自分のいらいらしているわけを暴露するのであった。「ことに、あなたがたの生活を知ることのできない女にとってはね。いったいわたしは何を知っているのでしょう? 何を知っていたのでしょう?」と彼女はいった。「あなたに話して聞かせてもらうことだけですわ。それに、あなたが本当のことをおっしゃるかどうか、なんでわたしにわかるものですか?……」
「アンナ! 君は僕を侮辱するんだね? いったい君は僕を信用しないの? 僕はそういったじゃないか、君に打ち明けなかったような考えは、この胸の中に一つもないって」
「ええ、ええ」見かけたところ、嫉妬ぶかい考えを追いのけようとするらしく、彼女はこういった。「でもね、わたしがどんなに苦しいか、それがあなたにわかったら………わたしあなたを信用するわ、信用するわ……ところで、あなたなんの話をしてらしったっけ?」
 しかし、彼は何をいおうとしたのか、急に思い出せなかった。最近、だんだん頻繁に彼女を訪れるようになった、こういう嫉妬の発作は、彼に恐れをいだかせ、どんなに隠そうとしても、彼女にたいする愛情を冷まさずにはおかなかった。そのくせ、嫉妬の原因が、自分に対する愛であることを、彼はよく承知しているのであった。あの女の愛情は幸福だと、彼はいくたびひとりごちたかしれない。現に彼女は、恋を人生のいかなる幸福にも換え難いものとしている女性が、捧げうるかぎりの愛を傾けて、彼を愛しているのであるが――彼は、かつて彼女のあとを追ってモスクワを発ったときよりも、はるかに幸福から遠ざかっているのであった。あのとき彼はおのれを不幸に感じたが、しかし幸福は前方にあった。ところが、今はよりよき幸福は、もはや後方に去ったのを感じている。彼女ははじめて見たころとは、すっかり別人のようになった。精神的にも肉体的にも、彼女は悪いほうへ変っていた。体ぜんたいが横に広くなって、あの女優のことをいったときなどは、毒々しい表情がその顔を歪めていた。彼はちょうど、自分の摘み取った花をながめて、そのしおれた花瓣の中に、つい摘み取らずにいられなかった美しさを見出しかねる思いで、むなしく滅ぼした美を傷んでいる人のように、彼女の顔を見つめるのであった。にもかかわらず、彼は自分の恋がもっとはげしかったときでさえ、もし強いてその気になれば、それをわが胸から掻き取ることができたけれども、彼女に対して愛を感じないように思われる今この瞬間は、彼女との関係を断つことはできないと感じた。彼はそれを知っていたのである。
「ね、ね、あなた、皇子さまのことで何をいおうとなすったの? わたし追っぱらいましたわ、悪魔を追っぱらいましたわ」と彼女はつけ加えた。彼らのあいだでは、嫉妬のことが悪魔と呼ばれていたのである。「さあ、皇子さまのことで何をいいかけなすったの? どうしてそんなに苦しかったんですの?」
「ああ! じつにたまらなかった!」とり落した思想の糸口を捕えようとつとめながら、彼はこういいだした、「あの人はあまり近く知ると、値うちがさがってくる人なんでね。もし定義を下せば、あれは共進会で一等賞をもらうような、りっぱに飼い肥らせた動物なんですよ。それだけのものです」と彼はいまいましげにいったが、それがアンナの興味をひいた。
「でも、どうしてですの?」と彼女はいい返した。「なんといっても、あのかたはたくさんのことを見てきたかたでしょう[#「でしょう」は底本では「でしよう」]、教育のあるかたでしょう?」
「それがぜんぜん別な教育なんでね――あの連中の教育というのは。あの男はどうやら、教育を軽蔑する権利を得るためのみに、教育を受けたらしい。あの連中は動物的な満足のほか、いっさいのものを軽蔑してるんだから」
「だって、あなたがたはみんな、その動物的満足がお好きなんじゃありませんか」と彼女はいったが、またもや暗いまだざしが男を避けて通ったのに、彼は気がついた。
「なんだって君は、そんなにあの男を弁護するんです?」と彼はほほえみながらきいた。
「わたし弁護なんかしませんわ、わたしにとっては、まるっきりどうでもいいことなんですもの。でも、わたしそう思うわ、もしあなたが自分でそういう満足がいやだったら、そんなものお断りになることもできたはずですわ、ところがあなたは、イヴの扮装をしたテレーズなど見るのがおもしろいので……」
「また、また悪魔が出てきた!」女がテーブルの上にのせた手をとって、それに接吻しながら、ヴロンスキイはそういった。
「そうね、でも、わたしいわずにいられないんですもの! わたしがあなたを待ちながら、どんな苦しい思いをしたか、あなたはごぞんじないでしょう! わたし別に、自分が嫉妬ぶかいとは思いませんわ。わたし嫉妬ぶかくなんかありません。あなたがそこに、わたしといっしょにいらっしゃると、わたしあなたを信用しますもの。でも、あなたがどこかで一人、わたしにわからない生活をおくっていらっしゃると……」
 彼女は男から身を離し、やっとのことで編針を抜き出して、人差し指の助けをかりながら、ランプの光に輝く白い毛糸の目を、一つ一つ拾いはじめた。そして、刺繍のある袖口につつまれた華奢《きゃしゃ》な手首が、すばやく神経質にくねりはじめるのであった。
「で、どうでしたの? どこでカレーニンにお会いになって?」という彼女の声が、ふいに不自然に響いた。
「戸口のところで出会ったんです」
「そして、あの人はおじぎをして?」
 彼女は顔をぐっとのばして、両眼を半ば閉じ、たちまち顔の表情を変えて、両手を組みあわせた。ヴロンスキイはその美しい顔に、思いがけなく、カレーニンが自分に会釈したときの表情を見いだしたのである。彼はにやっと笑ったが、アンナは胸の中から出るようなかわいい笑いかたで、さもおもしろそうに笑い出した。それが彼女のおもな魅力の一つであった。
「僕はどうしてもあの人の気持がわからない」とヴロンスキイはいった。「もし競馬の帰りに君と話し合ったあとで、君と関係を断ってしまうか、僕に決闘を申しこむかしたら、それなら僕もわかるけれど、どうしてこんな状態をがまんできるんだろう。あの人は苦しんでいる。それは見えていますがね」
「あの人が?」と彼女は冷笑の口調でいった。「あの人はすっかり満足していますわ」
「なにもかも実にうまくいくはずなのに、どうして僕たちはみんな苦しんでいるのだろう?」
「でも、あの人だけは別ですわ。あの人が嘘で固っているのを、わたしが知らないとお思いになって?……多少でも感じをもっている人だったら、あの人がわたしとつづけているような生活が、どうしてできるものですか? あの人はなんにもわからないのです、なんにも感じないのです。多少でも感じをもった人なら、不貞の妻と一つ屋根の下に暮せるでしょうか? 口がきけるでしょうか? おまえ[#「おまえ」に傍点]なんて打ち解けた呼びかたができるでしょうか」
 そこでまたしても、彼女は思わず良人の口まねをして、「おまえ、〔ma che`re〕, おまえ、アンナ!」といった。
「あれは男じゃありません、人間じゃありません、あれは人形です。それはだれも知らないことだけど、わたしだけは知っています。ああ、もしわたしがあの人だったら、とっくの昔に殺していたでしょう、八つ裂きにしたでしょう、わたしみたいな女房は……わたしだったら、『おまえ、〔ma che`re〕, アンナ』なんていやしませんわ。あれは人間じゃありません、あれは――大臣の機械です。わたしがあなたの妻だってことが、あの人がただの他人で、よけい者だってことが、あの人にはわからないんですわ……でも、よしましょう、よしましょう、こんな話は!………」
「それは君、まちがってますよ、どこまでもまちがってますよ、アンナ!」とヴロンスキイは相手をおちつかせようとして、そういった。「しかし、どうせ同じことだ、あの人の話はよしましょう。それより、君なにをしていたか聞かせて下さい。どんなふうです? その病気ってのはなんです、医者はなんといってるの?」
 アンナは皮肉な喜びを浮べて、男をながめた。見うけたところ、彼女はまだ良人のこっけいで、醜悪な面を見つけて、それをいいだす機会を待っているらしかった。
 が、ヴロンスキイは言葉をついだ。
「僕の察しだと、それは病気じゃなくて、君の体のせいだと思いますね。いったいそれはいつなの?」
 皮肉な光は彼女の目から消えて、なにか別の微笑が、前の表情に入れ代った――それは男の知らぬあるものを知っているためと、静かな悲しみからくるものであった。
「じきよ、じきですわ。あなたは、わたしたちの状態が苦しいから、解決をつけなくちゃならないとおっしゃるけれど、わたしにとってそれがどんなにつらいか、とてもおわかりになりゃしませんわ! わたしは自由に、大っぴらに、あなたを愛することができるようにするためなら、どんな犠牲でも払う覚悟でいますわ。そうなれば、わたしも焼きもち[#「焼きもち」に傍点]なんかやいて、自分をもあなたをも困らせなどしませんからね……それももうじきですけど、でも、わたしたちが考えているようなふうじゃありませんの」
 どんなふうにそれがやってくるかを考えると、アンナはわれながら自分がかわいそうに思われて、目に涙が浮んできて、彼女は話をつづけることができなかった。彼女は、ランプの光に輝く指環をはめた白い手を、男の袖の上にのせた。
「それはね、わたしたちが考えているのとは違うんですの。わたし、あなたにお話したくなかったんですけど、あなたがいうようにお仕向けになったんですもの。もうすぐ、本当にすぐ解決がついて、わたしたちもみんなおちつけるようになり、これ以上くるしまないことになりますわ」
「わからないね」と彼はわかっているくせに、そういった。
「あなたは、いつか? っておききになるのね。すぐですわ。それに、わたしも無事にはこれを越すことができません。どうか口を入れないでちょうだい!」と彼女は性急に言葉をつづけた。「わたしにはわかっています、まちがいなくわかっています――わたし死んでいきますわ。死んでしまって、自分をもあなたをも自由にするってことが、本当にうれしいんですの」
 アンナの双眼からは、涙がさめざめとくだった。彼は心内の興奮を隠そうとつとめながら、かがみこんで女の手に接吻しはじめた。その興奮になんの根拠もないことは、自分でも承知していながら、どうしても心を鎮めることができなかったのである。
「ええ、そうですわ、そのほうがいいんですの」はげしい身ぶりで男の手を握りしめながら、彼女はこういった。「それだけよ、わたしたちに残された方法は、ただそれだけですわ」
 彼はわれに返って、頭を上げた。
「なんてつまらない! 君はなんて無意味なつまらんことをいうのです!」
「いいえ、それは本当ですの」
「なに、なにが本当なんです?」
「わたしの死ぬってこと。わたし夢を見たんですもの」
「夢?」とヴロンスキイはおうむ返しにいったが、そのせつな、自分の夢にあらわれた百姓を思い出した。
「ええ、夢ですの」と彼女はいった。「もうずっと前に見た夢なんですのよ。わたし夢の中でね、自分の寝室の中へ駆けこみましたの、何かとりにいくか、調べにいくかする用がありましてね。あなたも覚えがあるでしょう、夢の中ではよくあることなんですけど」恐怖のために大きく目を見ひらいて、彼女はこういった。「寝室のすみになんだか立っていて……」
「ああ、なんてばかばかしい! どうしてそんなことを本当にするんです……」
 しかし、彼女は口をはさませなかった。いま話していることは、彼女にとってあまりにも重大なことであった。
「この何かが、くるりとこちらを向いたので、見ると、それはぼうぼう鬚《ひげ》を生やした、ちっぽけな、しかも恐ろしい百姓なんですの。わたしが逃げようとすると、その百姓は袋の上にかがみこんで、両手をつっこんで、何やらごそごそしてるじゃありませんか……」
 百姓が袋の中でごそごそしている様子を、彼女はしかたでまねてみせた。その顔には恐怖の色が現われていた。ヴロンスキイも自分の夢を思い浮べて、同じような恐怖を感じた。それはみるみる心の中いっぱいに、ひろがっていくのであった。
「その男はごそごそやりながら、フランス語で恐ろしく早口に、おまじないみたいなことを口走って、おまけにrをグラッセ([#割り注]rの音を咽喉で強くひびかせる[#割り注終わり])で発音してるじゃありませんの。〔Il faut le battre le fer, le broyer, le pe'trir〕(この鉄を叩いて、砕いて、捏《こ》ねなくちゃならん)……わたし恐ろしさのあまり、目をさまそうとして……目をさましたんですけど、やっぱり夢のなかでさめただけなんですの。いったいこれはなんのことなの、とわたしがたずねますとね、コルネイが、『お産で、お産で亡くなられますよ、奥さま、お産で……』というじゃありませんか。そのときわたし目がさめたんですわ……」
「なんてばかばかしい、なんてつまらない!」とヴロンスキイはいったが、われながら自分の声になんの説伏力もないのを感じた。
「でも、こんな話よしましょう。ベルを鳴らしてちょうだい、わたしお茶をいいつけますから。あ、ちょっと待って、今すぐ、わたし……」
 といったが、急に彼女は言葉を切った。その顔はつかのまに表情を一変した。恐怖と興奮は思いがけなく、静かな、まじめな、さも幸福らしい注意の表情に代った。ヴロンスキイは、この変化の原因を理解できなかった。彼女は自分の内部に、新しい生命の蠢動《しゅんどう》を感じたのである。

[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]

 カレーニンは、わが家の入口階段でヴロンスキイに会った後、予定通り、イタリー歌劇へおもむいた。彼はそこに二幕すむまでいて、必要な人にもぜんぶ会った。家へ帰ると、注意深く外套掛を一瞥《いちべつ》したが、軍人外套がないのを認めて、いつものごとく自分の書斎へ入った。しかし、いつもとちがって、すぐに床へ入ろうとせず、夜中の三時まで、書斎の中をあちこち歩きまわった。自分の体面を保とうともせず、情夫をわが家へ入れてはならぬという、たった一つの条件さえ守らない妻に対する怒りが、彼の気持をじっとさせないのであった。妻が自分の要求を履行しないからには、これを罰して、かつての威嚇《いかく》を実行せねばならぬ。すなわち、離婚を請求して、息子をとりあげることである。これに関連するいっさいの困難は、彼も承知していたが、そうすると予告した以上、今の彼としては、威嚇を実行しなければならぬ。伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは、それこそ現状を脱する最上の方法である、とほのめかしたし、最近、離婚がひんぴんとして実施されたため、その手続きもほとんど完全といっていいほどになっているから、カレーニンも形式上の困難を克服《こくふく》するのは、不可能でないと見てとった。のみならず、不幸は単独でやってくるものでないというたとえどおり、異民族の厚生事業も、ザライスカヤ県の灌漑《かんがい》問題も、カレーニンにはなはだしい勤務上の不快をもたらして、彼は最近、極度にいらだたしい気分になっていた。
 彼は終夜ねむらなかったため、その憤怒は何かものすごい幾何級数の割でつのっていき、夜の明けるころには、ぎりぎりのところまで達した。急いで着替えをすませた彼は、なみなみとたたえた憤怒の盃を捧げてでもいるように、それをこぼすのを恐れると同時に、また憤怒とともに妻との談判に必要な精力を浪費することを恐れながら、奥さまはもうお目ざめでございますと聞くやいなや、妻の居間へ入って行った。
 アンナは、良人という人をよく知りぬいていると思っていたが、彼が自分の部屋へ入ってきたときには、その様子を見てぎょっとした。額は皺《しわ》められ、目は妻の視線を避けながら、陰鬱に自分の前方を見つめてい、口はさげすむように固く閉されている。その歩きぶりにも、体の運動にも、声の響きにも、妻がかつて見たことのない決断力と、毅然たる精神が感じられた。彼は部屋へ入ると、妻にあいさつもせず、まっすぐに書きもの机の方へ行き、鍵をとって引出しを開けた。
「何かお入り用なんですの?」アンナは叫んだ。
「あなたの情夫の手紙です」と彼はいった。
「そんなものはここにありません」と彼女は引出しを閉めながらいった。しかし、その動作からして、彼は自分の推察が正しかったことを悟った。で、ぞんざいに妻の手をおしのけ、手早く折カバンをひっつかんだ。この中にいちばん大切な書類がしまってあるのを、彼は知っていた。アンナは、カバンを奪い返そうとしたが、彼はそれをつきのけた。
「お坐りなさい! 私はあなたに話さなけりゃならんことがある」といいながら、彼は折カバンを小わきにかかえたが、あまり一生懸命に肘《ひじ》でしめつけたので、一方の肩がもちあがったほどである。
 アンナは驚きの色を浮べて、無言のまま、おずおずと良人を見上げた。
「自分の情夫を家へ入れることは許さんと、あれほどいっておいたじゃありませんか」
「わたし、あの人に会わなければならぬ用事があったのです、じつは……」
 彼女はなんにも考えつくことができないで、言葉を切った。
「なんのために女が情夫に会う必要があるか、そんな詳細に立ち入ろうとは思いません」
「わたしは……わたしはただ……」と彼女はかっとなっていった。良人の乱暴な言葉づかいが彼女をいらいらさせ、勇気を与えたのである。「あなたとして、わたしを侮辱するのがどんなにやさしいことか、それがおわかりになりませんの?」と彼女いった。
「潔白な男や女なら侮辱することはできるが、泥坊にむかって、泥坊いうのとは[#「泥坊いうのとは」はママ]、ただ la constatation d'un fait(事実の確立)にすぎません」
「あなたにそうした残酷な性質のあることは、わたしまだ知りませんでした」
「あなたはなんですか、良人がただ体面を守れというだけの条件で、妻に自由と名誉の保護を与えているのを、残酷というのですか? それがいったい残酷ですか」
「それは残酷以上ですわ、もしお望みなら申しますが、それは陋劣《ろうれつ》というものです!」憤怒の爆発するままに、アンナはこう叫ぶと、椅子から立ちあがり、出ていこうとした。
「いけない!」持ちまえのきいきい声を、今はふだんよりもう一音だけ高くして、こう叫ぶと、彼はその大きな指で、腕輪の痕《あと》が赤く残るほど強く妻の手をわしづかみにし、無理にもとの席に坐らせた。「陋劣だって? もしあなたがその言葉を使いたいなら、教えてあげるか、陋劣というのは、情夫のために良人や子供をすてながら、良人のパンを食うことです」
 アンナは頭をたれた。彼女は昨夜、じぶんの恋人にむかっていった、あなたがわたしの良人で、良人はよけい者ですという言葉を、今は単に口にしなかったばかりでなく、そんなことは考えもしなかった。彼女は、良人の言葉の道理さをひしひしと感じつつ、ただ低い声でこういった。
「あなたがわたしの境涯を、どんなに悪くおっしゃっても、わたしが自分で感じているより以上、悪しざまにいうことはおできにならないでしょう。でも、なんのためにそんなことをおっしゃいますの?」
「なんのためにそんなことをいうかって? なんのためだって?」と彼は依然、憤怒の語気でつづけた。「あなたが、世間体《せけんてい》を守ってほしいという私の意志を、履行しなかったから、私はこういう状態に片をつけるために、相当の方法を講ずる決心をしたということを、あなたに知ってもらうためです」
「そんなことをなさらなくっても、すぐ、じきかたがつきますわ」と彼女は口走ったが、今となっては望ましいものとなった近い死のことを考えると、またしても涙が目に浮ぶのであった。
「それは、あなたが自分の情夫と考えついたよりも、もっと早くかたがつくでしょう! あなたに必要なのは、動物的欲望の満足なのだから……」
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ! わたし、それは寛大でないとは申しませんが、あんまりごりっぱでありませんわ――倒れているものを打つなんて」
「そう、あなたは自分のことばかり考えている! だから、あなたの良人であった人間の苦しみなんかには、興味がないんだ。あなたは、その人間の生涯がめちゃめちゃになったって、痛痒《つうよう》を感じないんだ、その人間がさんざんくう……くう……くうしんだって……」
 カレーニンはあまり早口にいったので、舌もつれがし、どうしてもこの『苦しむ』という言葉が発音できず、やっとのことで『くうしんだ』といったわけである。アンナはおかしくなったが、それと同時に、こういう場合、なににもせよ、おかしく思われたということが、恥ずかしくなった。はじめて彼女はほんの一瞬、相手の身になって感じ、彼の立場になって考えた。すると、良人が気の毒になってきた。しかし、彼女として何をすることがあろう? 彼女は首をたれて、黙ってしまった。カレーニンもしばらく黙っていたが、やがて、あまりきいきい声でない冷静な調子で、いいかげんに選び出した、別にたいして意味もない言葉に力を入れながら、口をきった。
「私は、あなたにいっとくことがあって来たのです……」と彼はいった。
 アンナはちらと彼を見上げた。『いや、あれはわたしの気の迷いだ』良人が『くうしむ』という言葉で、舌もつれしたときの表情を思い起しながら、彼女は肚の中で考えた。『ちがう、あんなどんよりした目つきをして、あんな自己満足でおちつきはらった人間が、何かを感じるなんてはずがないわ』
「わたし何一つ変更するわけにまいりません」と彼女はささやいた。
「私はこういうことを申し渡しにきたのです。私は明日モスクワへ発って、もうこの家へは帰ってきません。で、あなたは私の決定について、弁護士から通告を受けるでしょう。その弁護士に、私は離婚の手続きを委任しますから。ところで、息子は姉のところへ移します」息子についていおうと思ったことを、かろうじて思い起しながら、カレーニンはこういった。
「あなたはわたしを苦しめるために、セリョージャが必要なんでしょう」と彼女は上目づかいに良人を見ながら、そういった。「あなたはあの子を愛してはいらっしゃらないのです……セリョージャを残して下さい!」
「さよう、私は息子にたいする愛さえなくした。それは、あなたに対する嫌悪の念が結びつけられてるからです。が、それでも私はあの子を連れていきます。さようなら!」
 こういって出ていこうとしたが、今度はアンナがそれをひきとめた。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、セリョージャをおいていって下さいまし!」と彼女はもう一度ささやいた。「わたしそれ以上は、なんにも申しあげることがありません。セリョージャをおいて下さい、わたしのなに[#「なに」に傍点]まで……わたしまもなくお産なんですから、あの子をおいてって下さいまし!」
 カレーニンはかっとなって、その手をふりはらうと、黙って部屋を出ていった。

[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]

 有名なペテルブルグの弁護士の応接室は、カレーニンが入っていったとき、人でいっぱいだった。三人の婦人――一人は年寄りで、一人は若く、それからもう一人は商人の妻――と三人の紳士――一人は指輪をはめたドイツ人の銀行家で、一人は頤鬚《あごひげ》をのばした商人、もう一人は頸に十字章をかけた、いかにも怒ったような顔をした略服の官吏――であったが、みんなとうから待っているらしかった。助手が二人、ペンをきしませながら、テーブルにむかって書きものをしていた。カレーニンは文房具に興味をもっていたが、そこにある道具類はずぬけてりっぱだった。カレーニンはそれに気がつかずにはいられなかった。助手の一人は立ちもしないで、目を細めながら、ぷりぷりした様子でカレーニンのほうへ向いた。
「何ご用ですか?」
「ご主人にお目にかかりたいのですが」
「主人はいま手がふさがっています」待っている人々をペンでさして見せながら、助手はきびしい調子で答え、書きものをつづけた。
「ちょっと時間をさいてもらうわけにいかんでしょうか?」とカレーニンはいった。
「暇がないんです、いつも多忙なんですから。しばらくお待ち下さい」
「では、ごめんどうながら、この名刺を渡して下さらんか」微行で来たのを明かさねばならぬはめになったのをみて、カレーニンは品位を示しながらこういった。
 助手は名刺をとったが、どうやらその内容に賛成しかねるという様子で、戸の中へ入って行った。
 カレーニンは原則としては、公開裁判制に同感であったが、ロシヤにおけるその応用という点では、自分のたずさわっている高い勤務上の関係から、細部に若干同意しかねるところがあって、何ごとにもあれ、勅令によって制定されたものを非難しうる程度で、彼も非難をもらしていた。彼の全生涯は行政活動に過ぎていったので、何かに同意できないときでも、その不同意は、何ごとにも誤謬《ごびゅう》は生じうるものであり、かつ匡正《きょうせい》しうるものだという気持で、緩和されるのであった。新しい裁判制度では、弁護士のおかれている条件が感服できなかった。しかし、これまで弁護士と交渉をもつことがなかったので、彼はただ理論の上で不同意だったばかりである。ところが今は、弁護士の応接室で受けた不快な印象のために、不同意の気持がさらに強くなった。
「いま出てこられます」と助手はいった。はたして二分ばかりすると、戸口のところに、弁護士と相談をしていた年とった法律家のひょろ長い姿と、当の弁護士が現われた。
 弁護士は小柄な、ずんぐりした、禿頭の男で、黒みがかった赤い頤鬚をのばし、薄色の長い眉をして、額は垂れ下るようなかっこうをしている。ネクタイや時計の二重鎖をはじめとして、エナメルの短靴にいたるまで、まるで花婿のようにめかしこんでいた。顔は賢そうだが百姓くさいのに、身なりばかりしゃれて、しかも趣味が悪いのであった。
「どうぞ」と弁護士はカレーニンに向いていった。そして、陰気くさい様子でカレーニンを先に通すと、あとの戸を閉めた。「いかがです?」と書類のいっぱいのっている仕事机のそばの肘椅子をさして、自分は議長席然としたところへ腰をおろしながら、短い指に白い毛の生えた小さな手をもみあわせながら、首を横にかしげた。しかし、この姿勢でおちついたと思うまもなく、テーブルの上を紙魚《しみ》の成虫が一匹飛びすぎた。弁護士は、この男としては思いがけない敏速さで、両手をひろげ、その羽虫を捕まえると、また前の姿勢にもどった。
「私の用件についてお話する前に」驚いたように弁護士の動作を目で追った後、カレーニンはきりだした。「ぜひお断りしておかなきゃならんのは、これからお話しようという事件は、必ず秘密にしていただきたいということです」
 あるかなきかの微笑が、弁護士の赤みがかった垂れ髭を左右に開いた。
「もし依頼された事件の秘密が守れないようだったら、弁護士とはいわれませんよ。しかし、強いてそれを確かめたいとお望みでしたら……」
 カレーニンはその顔をちらと見て、利口そうな灰色の目が笑いを含み、もうなにもかも心得ているらしいのに気がついた。
「あなたは私の苗字をごぞんじですか?」とカレーニンは言葉をつづけた。
「あなたも、またあなたの有益な」と彼はまた羽虫を捕まえた。「ご活動も、よく存じあげております、すべてのロシヤ人と同様にね」と弁護士はちょいと頭を下げて答えた。
 カレーニンは気力をふるいながら、ほっと吐息をついた。しかし、いったん肚《はら》を決めた彼は、もうおめず臆せず、口ごもりもせず、ある言葉には力さえ入れながら、持ちまえのきいきい声でつづけた。
「私は不幸にして」とカレーニンはいいだした。「欺かれた良人なのです。で、合法的に妻との関係を断ちたい、つまり離婚したい、と思うのですが、ただし息子を母親のほうへやりたくないのです」
 弁護士の灰色の目は、笑うまいと苦心していたが、おさえきれぬうれしさに躍っていた。そこにひそんでいるのは、有利な注文を受けた人間の喜びばかりでないということを、カレーニンは見てとった。そこには勝ち誇ったような歓喜があった。彼が妻の目に認めた不吉な光を思わすような、一種の輝きがあった。
「あなたは離婚遂行のために、私の助力がご希望なんですね?」
「そう、そのとおりです。しかし、前もってお断りしておきますが、私はあなたのお時間を、むだにつぶすようになるかもしれないのです。ただ下相談にあがっただけなんですから。私は離婚を希望してはおりますが、しかし私にとっては、それを可能ならしめる形式が重大なんです。もし形式が私の要求に合致しなければ、法律に訴えることを断念するかもしれません」
「いや、それはいつもそうです」と弁護士はいった。「またそれはいつでも、あなたの胸一つなのですから」
 弁護士は自分のおさえきれない喜びの色で、せっかくの依頼者を怒らせはしないかと感づいたので、カレーニンの足もとへ目を伏せた。それから、つい鼻の先を飛んでいる羽虫を見つけて、ひょいと手を動かそうとしたが、カレーニンの位置に敬意を表して、捕まえるのをやめた。
「もっとも、この問題に関するわが国の法律は、概略、承知しているのですが」とカレーニンはつづけた。「しかし、一般に実際問題として、この種の事件が処理される形式ですね、それをうかがいたいので」
「あなたのお望みは」自分の依頼者の調子にひきこまれることに、多少の満足感をいだきながら、弁護士は目を上げずに答えた。「あなたのご希望を実現しうる方法を、説明しろとおっしゃるのですな」
 カレーニンが肯定のしるしに頭を下げたのを見て、彼は言葉をつづけた。ただときどき、点点と赤いしみを浮べたカレーニンの顔を、ちらと見やるばかりであった。
「離婚はわが国の法律によりますと」わが国の法律に対する軽い非難の陰を声に響かせて、彼はこういった。「ご承知のとおり、次の場合に可能なのでして……ちょっと待ってくれ!」戸口から首をのぞけた助手にそういったが、それでも立ちあがって、二こと三こといった後、また腰をおろした。「次の場合なのです。夫婦に生理的欠陥がある場合、それから五年間消息なくして不在の場合」と彼は毛の生えた短い指を折った。「それから姦淫(この言葉を彼はさもうれしそうにいった)。そして、その細別はつぎのとおりです(と彼はその太い指を折りつづけた。そのくせ、場合と細別はいっしょに分類することができないのは、明らかなのであった)。良人または妻の生理的欠陥、それから良人または妻の姦淫」ここで指は全部なくなってしまったので、今度はそれをのばしながら、彼はつづけた。「これは理論的な観点なのですが、しかしあなたがご光来くだすったのは、実際的な適用をきくためと考えますから、そこで私は判決例を参照して、こう申しあげねばなりません。離婚の場合は、すべて次の点に帰結されます――私の理解する限りでは、生理的欠陥はございませんな? また同様に無消息の不在も?」
 カレーニンはそれを確かめるように、頭を下げた。
「……次の点に帰結されます――夫婦のいずれかの姦淫と、双方合意による犯行の証明、それから、そうした合意なしに自然と証明された場合。お断りしておきますが、最後の場合は、実際として、あまり例がありませんな」といって弁護士はちらとカレーニンを見て、口をつぐんだ。それはピストルを売ろうとする商人が、二つの武器の長所を述べたてて、買い手の選択を待ち受けるようであった。しかし、カレーニンが黙っているので、弁護士は言葉をつづけた。「最も普通で、簡単で、かつ合理的なのは、私の考えでは、双方合意による姦淫の証明ですな。私は教養の低い人と話しているのでしたら、こういうぶしつけないいかたはしないのですが」と弁護士はいった。「しかし、あなたはおわかりくださると思いますので」
 カレーニンはひどく頭が混乱していたので、どうやら双方の合意による姦淫の証明が合理的なのを、すぐには合点しなかったらしく、その不審を目色に現わした。が、弁護士はすぐ助け舟を出した。
「人間同士がいっしょに暮せないということ――これは事実です。もし二人ともその点が同意なら、デテールや形式はどうでもいいのです。と同時に、これは最も簡単で正確な方法なのです」
 カレーニンも今度ははっきりわかった。が、彼は宗教的な要求をもっていて、それがこの方法を容認することを妨げた。
「それは今の場合、問題外です。ここで可能な場合は一つしかありません。つまり、私の持っている手紙で証明される、自然な犯行の証明です」
 手紙という言葉を聞いて、弁護士は唇をぐっとひきしめ、同情するような、ばかにしたような、か細い音を立てた。
「よろしゅうございますか」と彼はいいだした。「この種の事件は、ごぞんじのとおり宗務省で決定されます。ところが、主教たちはこの種の事件となると、きわめてこまかいデテールまで知りたがりましてね」主教たちの趣味に対する同感を微笑に見せて、彼はこういった。「手紙はもちろん、ある程度まで事を確かめることができます。しかし、説明は直接の方法によって、つまり、証人の口から得られたものでなければなりません。要するに、もしあなたが信頼の栄を賜わるならばですな、とるべき方法を私に一任していただきたいのですが。結果を望むものは、手段をも許容するわけですから」
「そういうことなら……」突然まっさおになって、カレーニンはいいだした。しかし、このとき弁護士は立ちあがり、またもや戸口から顔をのぞけて、話の腰を折った助手のほうへいった。
「あの奥さんにいってくれ、私は安物の事件は扱いませんて!」といって、カレーニンのほうへ戻ってきた。
 もとの場所へ戻りながら、彼はそっと目につかぬように、もう一匹|紙魚《しみ》の成蟲をつかまえた。
『この夏までには、うちの絹壁掛《レプス》はけっこうなことになってしまうぞ!』と彼は顔をしかめながら考えた。
「で、あなたのおっしゃいますのは……」と彼はいった。
「私は自分の決心を手紙でお知らせします」とカレーニンはいいながら、立とうとして、テーブルにつかまった。しばらく無言のまま立っていた後、彼はつづけた。「してみると、私はあなたのお話から、離婚は可能だと結論していいわけですな。それから、あなたの条件も知らせてもらいたいのですが」
「あなたが私に行動の自由を全的に許してくだすったら、どうでもできます」弁護士は問いには答えず、そういった。「いつころご通知がいただけるでしょうか?」戸口の方へ動いていきながら、眼とエナメル靴を光らせて、彼はきいた。
「一週間後ですな。そこであなたのご返事も――この件でご尽力くださるかどうか、また条件はどうかということも、恐縮ですが、お知らせを願います」
「承知いたしました」
 弁護士は依頼人を戸口から出して、会釈した。一人きりになると、彼は自分の喜ばしい感情に没頭した。彼はすっかりいい気持になったので、自分の原則に反して、礼を負けてくれという夫人に譲歩してしまった。そして、今度の冬までにはシゴーニンのところのように、家具をビロードに張りかえようと、すっかり肚《はら》を決めて、羽虫退治をやめてしまった。