『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」4-16~4-20(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一六[#「一六」は中見出し]

 公爵夫人は無言のまま微笑しながら、肘椅子に腰をかけていた。老公はそのそばへ腰をおろした。キチイはいつまでも父の手を放さないで、その椅子のかたわらに立っていた。みんな黙っていた。
 やがて公爵夫人が第一番に、すべてのものを言葉で呼び、すべての思想や感情を生活の問題に翻訳した。最初の瞬間には、それが一同にとって奇怪なばかりでなく、心に痛いほどにさえ思われた。
「いつにしましょうね? 祝福の式や、婚約披露もしなくちゃなりませんからね。そして、結婚式はいったいいつにしましょう? あなたどうお思いになって、アレクサンドル?」
「それはこの男だ」レーヴィンをさしながら、老公はいった。「この問題では? この男が主人公だからな」
「いつにしましょう?」とレーヴィンは赤くなっていった。「明日では? 僕の意見をおききになるのでしたら、僕の考えでは、きょう祝福をして、あす式を挙げるんですね」
「まあ、mon cher たくさんですよ、ばかなことは」
「じゃ、一週間後」
「この人はまるで気ちがいね」
「いや、なぜです?」
「まあ、とんでもない!」この性急さに、喜びの微笑をもって答えながら、母親はこういった。「では、したくはどうするんですの」
『いったいしたくだとか、なんとか、ああいったものが必要なのかしらん?』とレーヴィンは、ぞっとしながら答えた。『いや、まあ、したくだとか、祝福とか、そういったようないろいろのことが、おれの幸福を傷つけるわけでもあるまい? これを傷つけうるものは、何一つありはしない!』彼はちらとキチイを見やった。と、したくなどという考えも、もうとう、彼女の誇りを傷つけていないのを見てとった。『してみると、やっぱりそれも必要なんだな』と彼は考えた。
「いや、何しろ、僕はなんにもわからないんです、ただ自分の希望をいってみただけなんですから」と彼はわびるようにいった。
「じゃ、みんなでよく相談しましょう。もっとも、祝福や婚約披露は、今すぐでもできますがね。それはそのとおりですよ」
 公爵夫人は良人に近よって、接吻すると、そのまま出ていこうとした。が、老公はそれをひきとめて、抱きかかえると、まるで恋する若いもののように、微笑を浮べながら、幾度も接吻した。老夫婦はどうやら、ちょっとの間、頭が混乱して、自分らが二度目の恋をしているのか、それとも娘だけが恋しているのか、よくわからないようなふうであった。老公と夫人が出ていったとき、レーヴィンは自分の許婚《いいなづけ》のそばへよって、その手をとった。彼も今は正気に返ったので、話をすることができた。しかも、いうべきことがたくさんあったのである。けれど、彼はいわねばならぬことと、ぜんぜんちがったことを口に出した。
「これがこうなるってことは、僕もうちゃんとわかっていましたよ! 僕は一度も希望をいだいたことはないけれど、心の底ではいつも確信があった」と彼はいった。「これは、前世から予定されていたことだと信じます」
「ところが、あたしはどうでしょう?」とキチイはいった。「あのときでさえ……」ここでちょっと言葉を切ったが、例の真実みのこもった目で、決然と男を見つめながら、また語りつづけた。「あたしが自分の幸福をつき放したときでさえ、あたしはいつも、あなた一人だけを愛していました。でも、あのときは魔がさしたんですわ。あたしいってしまわなくちゃなりません……あなた、あれをお忘れになることができまして?」
「いや、あれがかえってよかったのかもしれません。あなたこそ、僕にたくさんのことを赦さなくちゃならないんです。僕どうしてもあなたにいわなけりゃ……」
 それは、彼がキチイにいおうと決心したことの一つであった。彼は最初の日から、二つのことをいおうと決心していた。一つは、自分が彼女ほど純潔でないということであり、いま一つは、自分が不信者だということであった。それはつらいことであったが、両方ともいわなければならぬ、と考えていた。
「いや、今でなくあとにしよう!」と彼はいった。
「いいわ、あとで。でも、きっといってちょうだいね。あたし、なんにも恐れはしないから。あたし、なんでもみんな知っておかなくちゃなりませんもの。今はこれで、何もかも決ったんですわ」
 彼はしまいまでいってしまった。
「僕がどんな人間であろうとも、僕を受け入れてくれる……ってことも、決ったわけですね、急に僕がいやになった、なんておっしゃらないでしょう? ね?」
「ええ、ええ」
 二人の会話は、マドモアゼル・リノンに中断された。彼女は、つくり笑いではあったが、優しい微笑を浮べながら、愛する教え子に、祝いの言葉を述べにきたのである。まだ彼女が出ていかないうちに、もう召使たちが、お祝いをいいにやってきた。やがて、親戚の人たちも乗りつけて、有頂天なてんやわんやがはじまった。レーヴィンは結婚の翌日まで、その中から脱け出すことができなかった。レーヴィンはいつもばつが悪く、退屈ばかりしていたが、しかし幸福の緊張は、たえず増大していった。彼は始終、自分の知らないことを、やたらに要求されるような気がした。で、なんでも人にいわれることをしていたが、それすら彼に幸福感を与えるのであった。彼は心の中で、自分の結婚はほかの人々の結婚と、なんら共通点がないのだから、ありふれた世間なみの条件は、自分の特殊な幸福をそこなうことになる。と考えていたが、けっきょく、彼もほかの人と同じことをすることになった。けれども、彼の幸福は、それがためにただ増大するばかりで、いよいよほかに類のない、かつて例のなかったような、特殊なものになっていくのであった。
「さあ、これから、みんなでお菓子をいただきましょう」とマドモアゼル・リノンはいった。で、レーヴィンは菓子を買いに行った。
「いや、じつにうれしい」とスヴィヤージュスキイはいった。「ところで、私はおすすめするが、フォミンの店から花束を買ってくるんだね」
「それが必要かしらん?」そこで彼は、フォミンの店へ出かけて行く。
 兄は金を借りておかなければならない、これから贈り物やら何やらで、莫大な出費があるから、といった。
「ああ、贈り物が要《い》るの?」そこで彼は、さっそくフルデのところへ駆けつける。
 菓子屋でも、フォミンの店でも、フルデのとこでも、みんな彼がくるのを待ち受けて、彼の来訪を喜び、彼の幸福に得々としている、それを彼はまざまざと見てとった。これは、その数日間かれが交渉をもったすべての人に、共通の現象であった。何よりも不思議なことには、すべての人が彼を愛したばかりでなく、今まで気に食わなかった人、冷淡だった人、無関心だった人たちまでが、彼に随喜の涙を流して、あらゆることで彼の意に服し、優しくこまやかな態度で、彼の感情をいたわり、自分の許婚は完成の極致であるから、したがって、自分は世界一の幸福者であるという、彼の信念をわかってくれるのであった。キチイもそれと同じことを感じた。ノルドストン伯爵夫人が僭越にも、あなたは何かもっとすぐれたものを望んでいらしったのに、とほのめかしたとき、キチイは急に無くなって、レーヴィンほど優れた人はこの世にあるはずがないと、否応いわさぬ力で論証したので、ノルドストン伯爵夫人も、それを認めないわけにいかなくなった。で、キチイのいるところでレーヴィンに会ったときには、必ず感嘆の微笑を浮べるようになった。
 彼の約束した告白は、その当時における一つの苦しい出来事であった。彼は老公と相談して、その許可を受けた後、彼を苦しめた事がらを書きこんである自分の日記を、キチイに渡した。また彼は、その当時この日記を、未来の妻を念頭におきながら書いたのである。彼を悩ましていたのは、自分の童貞でないことと、信仰をもたぬということであった。無信仰の告白は、たいして気にもとめられずにすんだ。キチイは宗教心が深く、かつて宗教の真理を疑ったことはなかったけれども、彼が外面的に無信仰であるということは、いささかも彼女の心にふれなかった。彼女は愛の力によって、男の心を残るくまなく知りつくしていたので、彼女はそこに自分の欲するものを見てとった。ところで、そういった心境は、無信仰と名づくべきものでなく、彼女にとって、そんなことはどうでもよかった。しかし、もう一つのほうの告白は、彼女に苦い涙を流させた。
 レーヴィンは多少、内部の闘争を感じながら、彼女に自分の日記を渡したのである。自分と彼女の間には、なんの秘密もありえないし、またあるべきでないと承知していたので、そうしなければと決めたわけである。しかし、それが彼女にどんな作用を及ぼすかということは、考えてみなかった。彼女の身になって考えることを、しなかったのである。その晩、芝居のはじまる前に、彼がシチェルバーツキイ家を訪れ、キチイの部屋へ入って行って、その泣き脹《は》らした顔を見たとき――彼の与えた取返しのつかぬ悲しみのために、さもふしあわせらしい表情をした、痛々しい、しかもかれんな顔を見たとき、彼は自分のけがらわしい過去と、彼女の鳩のごとき清浄さを隔てている深淵を悟って、おのれのなした行為に慄然《りつぜん》としておののいた。
「持ってって下さい、こんな恐ろしい本、持ってって下さい!」自分の前のテーブルの上にのっている手帳をおしやりながら、彼女はこういった。「なんだって、あたしにこんなものをお見せになりましたの!………でも、やっぱり読んだほうがよかったんですわ」男の絶望したような顔つきに、そぞろ哀れを催して、彼女はこうつけ加えた。「でも、恐ろしいことだわ、恐ろしいことだわ!」
 彼は頭をたれて、黙っていた。なんにもいうことができなかったのである。
「あなたは僕を赦してはくれませんか」と彼はささやいた。
「いいえ、わたしもう赦しましたわ。でも、これは恐ろしい!」
 とはいえ、彼の幸福はあまりにも大きかったので、この告白もそれを打ち砕くどころか、ただ新しい陰影を与えたばかりである。彼女は男を赦した。しかし、それ以来、彼はなおいっそう、おのれを妻に値しないものと感じ、道徳的にますます彼女の前に頭を屈し、自分の不相応な幸福を、いよいよ高く評価するようになったのである。

[#5字下げ]一七[#「一七」は中見出し]

 食事中から、そのあとへかけてかわした談話の印象を、われともなく心の中で思い返しながら、カレーニンは淋しいホテルの一室へ帰ってきた。赦してやれというドリイの言葉は、ただいまいましさを感じさせたばかりである。キリスト教の掟《おきて》を、自分の場合に適用するかしないかは、軽々に口にすべく、あまりに困難な問題であった。しかも、この問題はもうとっくの昔に、否定のほうへ解決されていたのである、今夜みなの口から出た言葉の中で、最も深く彼の心をついたのは、あの愚かな好人物トゥロフツィンの、男らしくやりましたよ[#「男らしくやりましたよ」に傍点]、決闘を申しこんでやっつけたんですからね[#「決闘を申しこんでやっつけたんですからね」に傍点]、といった言葉である、みんなも礼儀上、口にこそ出していわなかったけれども、明らかにそれに同感らしかった。
『もっとも、これは解決のついた問題だから、今さら考えることは、ありゃしない』とカレーニンはひとりごちた。で、目前に控えている出発と、調査のことばかり考えながら、彼は自分の部屋へ入って、いっしょについてきた玄関番に、従僕はどこにいるか、とたずねた。たったいま出て行ったばかりです、と玄関番は答えた。カレーニンは、茶を持ってくるように命じ、テーブルにむかって腰をおろし、フルームの案内記をとり出して、旅の行程を考えはじめた。
「電報が二通まいっております」帰ってきた従僕が、部屋へ入りながらいった。「閣下、わたくしはたった今、ちょっと外出いたしましただけで」
 カレーニンは電報を受け取って、開封した。一通の電報は、かねがねカレーニンの望んでいた位置に、ストレーモフが任命されたという知らせであった。カレーニンは電報を叩きつけて、顔を真赤にしながら、立ちあがり、部屋の中をあちこち歩きはじめた。Quos vult perdere dementat(神は亡ぼさんと欲するものをまず狂せしむ)といった。その quos という言葉は、この任命に助力した連中を意味するものであった、彼は、その位置を自分がものにしなかったということ、つまり、明瞭に除けものにされたということが、いまいましくてたまらなかったわけではない。ただ、あのおしゃべりでほら吹きのストレーモフが、この位置には最も不適任であるにもかかわらず、どうしてそれが当局の連中の目に入らないのかと、それだけがとんと合点《がてん》がいかなかったのである。あんな任命のしかたをしたら、それこそ自分たちの威信を地におとすことになるのに、どうして彼らにはそれがわからないのだろう?
『やっぱりまた似たりよったりのことだろう』と彼はもう一つの電報を開きながら、癇《かん》の立った気持でこうひとりごちた。それは妻からの電報であった。青い鉛筆で書かれた『アンナ』という署名が、まず第一に彼の目に映った。『死にかかっています、後生です、帰って下さい、お願いします、お赦しをえれば楽に死ねます』と彼は読んだ。にたりとばかにしたように笑って、彼は電報をほうり出した。これが偽りの手段であり、奸計《かんけい》であることは、なんの疑いもありえない、と最初の瞬間は、そんなふうに思われた。
『あれはどんな虚偽でも、躊躇なしに平然とやってのける女だ。あれは産を控えておるのだから、もしかしたら、産からきた病気かもしれない。それにしても、いったい何が目的なんだろう? 赤ん坊をちゃんと籍に入れたいからか、おれの顔に泥を塗って、離婚を妨害しようという肚《はら》か』と彼は考えた。『だが、なんとか書いてあったぞ――死にかかっています……』彼はもういちど電報を読みなおした。と、その中に書かれている言葉の直接の意味が、さっと彼の肺腑を貫いた。『もしこれが本当だったら?』と彼はひとりごちた。『もしあれが瀕死の苦痛の中で、本当に心から悔悟しているとすれば? それをおれが嘘に決めてしまって、帰ってやらなかったら? それは残忍な行為であって、みんなから非難を受けるばかりでなく、おれのほうからいっても、愚かなさただ』
「ピョートル、馬車を返さんでくれ。おれは、ペテルブルグへ帰るから」と彼は従僕にいった。
 カレーニンはペテルブルグヘひっ返して、妻に会おうと決心した。もし仮病《けびょう》だったら、なんにもいわずに発《た》ってしまおう。もし彼女が本当に瀕死の病人であり、生前に自分に会いたいと願っているのであったら、息のあるうちにあえば赦してやろうし、万一、手遅れになったら、最後の義務を尽してやろう。
 道中ずっと、自分はどうするかということを、それ以上考えなかった。
 汽車の中で、一夜をすごしたために、疲労と不潔な感じをいだきながら、カレーニンは早朝のペテルブルグの霧の中を、がらんとしたネーフスキイ通りづたいに馬車を進めながら、自分を待ち受けていることなど考えもせずに、じっと前の方をながめていた。彼はそのことを考えられなかったのである。というのは、これから起ることを心の中で考えるたびに、妻の死は自分の困難な状態を、一挙に解決してくれるという想像を、追いのけることができなかったからである。パン売り、閉《しま》った店、夜稼ぎの辻待ち馭者、歩道を掃いている庭番などが、彼の目の前をちらちらした。そういったものをいちいち観察しながら、自分を待ちもうけていること、自分として望んではならぬことながら、やはり望まずにいられないこと――そういうことを考えないように、そういう考えをもみ消すように、努力するのであった。やがてわが家の車寄せに近づいた。車寄せのそばには、一台の辻待ち馬車と、馭者の居眠りしている箱馬車がとまっていた。玄関へ入りながら、カレーニンはまるで脳の遠いすみっこから、自分の決心をひっぱり出すようにして、もう一度それをあらためてみた。それは、『もし嘘だったら、平然たる軽蔑の態度をとって立ち去ること、もし本当なら、紳士としての作法を守ること』というのであった。
 カレーニンがまだベルを鳴らさないうちに、玄関番は戸を開けた。ペトロフ、一名カピトーヌイチと呼ばれている玄関番は、古いフロックを着て、ネクタイもしめず、スリッパばきという奇妙なかっこうをしていた。
「奥さんはどうだね?」
「きのう無事にご安産でございました」
 カレーニンは歩みをとめ、さっと蒼くなった。自分がどんなにはげしく妻の死を望んでいたかを、今こそはっきりと思い知ったのである。
「ところで、体のぐあいは?」
 前垂れがけの朝起き姿で、コルネイが階段を駆けおりた。
「たいそうおわるいのでございます。昨日お医者さま方の立会い診察がございまして、ただ今もう一人いらっしゃいます」
「荷物を持ってこい」とカレーニンはいい、まだとにかく、死ぬる望みがあるという知らせを聞いて、いくらか胸の軽くなったのを覚えながら、控室へ入っていった。
 帽子掛けに、軍人の外套がかかっていた。カレーニンはそれに気がついて、たずねた。
「どなたが見えておるのだ?」
「お医者さまと、産婆と、ヴロンスキイ伯爵でございます」
 カレーニンは奥へ入った。
 客間にはだれもいなかった。アンナの居間から、彼の足音を聞きつけて、藤色のリボンつきの室内帽をかぶった産婆が出てきた。
 カレーニンのそばへよると、死の迫っている場合の慣れなれしさで、いきなり彼の手をとって、寝室へひっぱっていった。
「まあ、お着きになってよろしゅうございましたこと! ただもうあなたさまのことばかり、本当にあなたさまのことばかり」と産婆はいった。
「早く氷をくれたまえ!」という医者の命令的な声が、寝室の中から聞えた。
 カレーニンは妻の居間へ入った。テーブルのそばには、低い椅子の背に脇を向けて、ヴロンスキイが腰をかけていた。両手で顔をおおって、泣いている。医者の声に驚いて跳ね起き、両手を顔からはなしたひょうしに、カレーニンの姿が目に入った。良人を見ると、彼はすっかりまごついてしまい、まるでどこかへ消えてしまいたそうに、両肩の間へ首をひっこめた。が、強《し》いて自ら励ましながら、立ちあがってこういった。
「あのひとは死にかかっています。医者も望みはないといいました。僕は自分をあなたの全権にゆだねますが、しかしここにいることだけは許して下さい……もっとも、万事あなたのお心まかせで、僕は……」
 カレーニンはヴロンスキイの涙を見ると、いつも他人の苦しみを見たときに感じる心の弱りが、発作的に湧き起るのを覚えた。彼は顔をそむけ、相手の言葉をしまいまで聞かずに、せかせかと戸口の方へ歩き出した。寝室の中からは、アンナの何かいう声が聞えた。その声は楽しげに、生きいきとしていて、抑揚が恐ろしくはっきりしていた。カレーニンは寝室へ入って、ベッドに近づいた。アンナは、彼の方へ顔をむけて寝ていた。双の頬はくれないに燃え、眼はぎらぎらと光って、小さな白い手は、上衣の袖口からぬけ出して、毛布の端をひねりながら、おもちゃにしていた。ちょっと見には、元気で溌剌としているばかりでなく、この上もないきげんでいるようにさえ思われた。彼女は響きのいい声で、早口に、度はずれに正しい、感情のこもった調子で、しゃべっているのであった。
「だって、アレクセイは――わたしアレクセイ・アレクサンドロヴィッチのことをいってるんですの(二人ともアレクセイだなんて、まあ、なんというふしぎな恐ろしい宿命でしょう、そうじゃなくって?)アレクセイはわたしの頼みを拒絶なんかしませんわ。わたしも忘れてしまうし、あの人も赦してくれるに相違ないわ……でも、どうしてあの人は帰ってこないんでしょう? あの人はいい人だわ、どんなにいい人かってことを、自分でも知らないのよ。ああ、たまらない、なんて苦しみだろう! 早く水をちょうだい! あら、そんなことしたら、あの子に、わたしの赤ちゃんに毒だわ! でも、まあ、いいわ、乳母《うば》をおつけなさい。いえ、わたし賛成よ、かえってそのほうがいいくらいだわ。あの人が帰ってきたら、あの子を見るのが、さぞつらいでしょうね。あの子をちょうだい」
「奥さま、旦那さまがお帰りになりました。そら、ここにいらっしゃいます」と産婆は、彼女の注意をカレーニンに向けようとつとめながら、こういった。
「まあ、なんてつまらないことを!」とアンナは、良人が目に入らないままに、つづけるのであった。「さあ、その子をちょうだい、赤ちゃんをわたしにもちょうだいったら! あの人はまだ帰ってこない。あなたは、あの人が赦しはしないというけれども、それはあの人を知らないからよ。だれひとり知るものがなかったんだわ。知ってるものはわたしだけ、それでよけい苦しくなったの。あの人の目を知らなくちゃわからないわ。セリョージャが、ちょうどあれと同じ目をしていてね、そのために、わたしあの目が見ていられないのよ。セリョージャにご飯を食べさせてやったかしら? だって、みんなが忘れるってこと、わたし知ってるんですもの。あの人だったら、忘れやしない。セリョージャを角の部屋へ移して、マリエットにいっしょに寝てもらわなくちゃ」
 とつぜん、アンナはひと縮みになって、鳴りをひそめた。そして、何か打撃を待ちかまえるように、その打撃からわが身をかばうように、両手を顔の方へ上げた。良人の姿が目に入ったのである。
「いいえ、いいえ!」と彼女はまたいいだした。「わたし、あの人を恐れたりなんかしません、わたし死ぬのが恐ろしいの、アレクセイ、もっとこっちへよって。わたしがこんなに急ぐのは、ぐずぐずしている暇がないからなの。もういくらも生きていられないからなの。今にまた熱が出てきたら、もうなんにもわからなくなるんですもの。今ならわかるわ、なにもかもわかるわ、なにもかも見えるわ」
 カレーニンのしなびた顔は、受難者めいた表情をおびてきた。彼は妻の手をとって、何かいおうとしたが、どうしても物がいえなかった。下唇がわなわなふるえていた。が、それでもやはり、自分の興奮と闘いながら、ときおり妻の方を見やるばかりであった。しかも、そちらへ目をやるたびに、なんともいえぬ優しい感激と歓喜の色を浮べて、自分の方をながめている妻の目が見えた。それは、かつて見たこともない表情であった。
「待ってちょうだい、あなたは知らないのよ……待ってちょうだい。待ってちょうだい……」彼女は考えをまとめようとするかのごとく、ちょっと言葉を休めた。「そう、そう、そう。わたし、こういうことがいいたかったんだわ。どうかあきれないでね。わたしは前と同じ女なの……でも、わたしの中には、もう一人の女がいてね、それがわたし恐ろしいの。その女があの人を好きになったの。わたし、あんたを憎みたかったんだけど、前の自分のことが忘れられなかったのよ。それはわたしじゃありません。今のわたしこそ本当のわたし、どこからどこまでも本当のわたしよ。今わたしは死にかかっています、必ず死ぬことがわかっています。まあ、あの人にきいてごらんなさい。わたし今でも、ほら、あれが、大きな錘《おも》りが手の上にも、足の上にも、指の上にものってるような気持がする。指なんて――ほら、こんなに大きいんですもの! でも、まもなく、こんなことはなにもかもすんでしまうわ……ただ一つわたしに必要なのは、あんたの赦しなの、きれいさっぱり赦してちょうだい! わたしは恐ろしい女だけれど、いつか婆やがいったとおり、神聖な受難者なの――あれはなんて名前だったっけ? あのひとのほうが、わたしよかもっと悪い女だったんだわ。わたしローマへ行くわ、あすこには沙漠があるから、そこへ行ったら、わたしだれのじゃまもしやしない。ただセリョージャだけは連れて行くわ、そして赤ちゃんも……いえ、あんたは赦すことができないのね! わかってるわ、こんなことを赦すわけにいかないんですもの! いや、いや、行ってちょうだい、あんたはあまりいいかたすぎますわ!」彼女は熱っぽい片手で彼の手をおさえ、片手で追いやろうとするのであった。
 カレーニンの心の弱りは、いよいよ増してきて、今はもうそれと闘う気力もないほどになった。彼は忽然《こつぜん》と悟った――今まで心の弱りと思っていたのは、その反対に法悦的な心境であって、それが突如として新しい、かつて覚えのない新しい幸福をもたらしたのである。彼の生涯奉じてきたキリストの掟が、おれの敵を赦し、かつ愛せよと命じている――そんなことを彼は感じたのではなかったが、敵にたいする赦しと愛の喜ばしい感情が、彼の心を満たしてきたのである。彼は膝をついて、妻の腕の曲り目に頭をのせた、その腕は上衣ごしに、彼の顔を火のように焼いた。彼は子供のように泣き出した。アンナはその禿げた頭を抱くようにして、身を近づけ、いどむような誇らしい表情で、目を空へ向けた。
「ああ、帰ってきた、わたしちゃんとわかっていた! では、みなさん、さようなら、さようなら………ああ、またやってきた、なぜ行ってしまわないのかしら? ああ、こんなたくさんの毛皮外套をのっけて、はやくどけてちょうだい!」
 医者は彼女の両手をはずして、そっと枕の上にのせ、肩まで毛布をかけた。彼女はおとなしく仰向《あおむ》きにねて、目の前を輝かしいまなざしで見つめるのであった。
「たった一つだけ覚えててちょうだい、わたしに必要なのはただ赦しだけで、それよりほかには、なんにもほしくないんだから……どうしてあの人はこないんだろう?」と戸の外のヴロンスキイの方へ向いて、彼女はこういった。「こっちイいらっしゃい、こっちイいらっしゃい! この人に手をさしのべてちょうだい」
 ヴロンスキイは寝台の端に近よったが、アンナを見ると、また両手で顔を隠をした。
「顔から手をどけて、この人をごらんなさい。この人は聖人なんだから」と彼女はいった。「さあ、顔から手をおどけなさいったら、手を!」と腹だたしげにいうのであった。「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、この人の顔から手をどけてちょうだい。わたし見たいんですから」
 カレーニンはヴロンスキイの手をとって、その顔からはなした。それは苦痛と羞恥の表情をとどめて、恐ろしいほどであった。
「この人に手をのばして、赦してあげてちょうだい」
 カレーニンは、双の眼《まなこ》から溢れ落ちる涙をせきかねて、ヴロンスキイに手をさし出した。
「ありがたいこと、ありがたいこと」とアンナはいいだした。「これでなにもかもすんだわ。ただちょっと足をのばさしてちょうだい。そう、そんなふうに、これですてき。まあ、この花のつくりかたの無趣味なこと、まるで菫《すみれ》らしくないわ」と彼女は壁紙をさしながらいった。「ああ、ああ! いったいこれはいつ片がつくのだろう? モルヒネをちょうだい。先生! モルヒネをちょうだい。ああ、なんてことだろう、なんてことだろう!」
 そういって、彼女は寝台の上で身もだえしはじめた。

 主治医もその他の医師たちも、これは産褥熱《さんじょくねつ》であって、百のうち九十九までは助からない、といっていた。その日は終日、熱と、譫言《うわごと》と、前後不覚の状態がつづいた。夜半に近いころは、病人はなんの感覚もなく横たわり、脈さえほとんど感じられなくなった。
 人々は刻一刻、終焉《しゅうえん》を待つばかりであった。
 ヴロンスキイは、いったんわが家へ帰ったが、翌朝また様子をききにやってきた。カレーニンは控室で彼を迎え、「まあ、残っていらっしゃい、もしかしたら、会いたいというかもしれないから」といい、自分で妻の居間へ案内した。朝になると、またもや興奮がはじまり、思想と言葉が生きいきとして、敏活になり、最後はまた人事不省で終った。翌々日もそれと同様であったが、医師たちは望みがあるといった。その日カレーニンは、ヴロンスキイのいる居間へ入ってくると、扉に鍵をかけて、彼の真向かいに坐った。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ」とヴロンスキイは、話合いの時が近づいてくるのを感じて、こうきりだした。「僕はものをいうことも、理解することもできません。どうかゆるして下さい! あなたもさぞかし、おつらいでしょうが、僕の立場のほうがもっと恐ろしいのです、それを信じて下さい」
 彼は立ちあがろうとした。が、カレーニンはその手をとって、いった。
「おねがいですから、私のいうことをひととおり聞いてください、それはぜひとも必要なことです。あなたが私のことで考え違いをなさらんように、これまで私を指導してきた、また将来も指導する感情を、あなたに説明しなくちゃなりません。ごぞんじのとおり、私は離婚を決心して、訴訟事件さえはじめかけたほどです。あえて隠しだてしませんが、事件をはじめるにあたって、私は決断がつきかねました、煩悶しました。白状しますが、あなたと妻に復讐したいという願望が、私を離れなかったのです。電報を受けとったとき、私は依然として同じ感情をいだきながら、ここへ帰って来ました。いや、もう一歩すすんでいえば、妻の死をさえ願ったのです。が……」自分の感情を打ち明けようか、打ち明けまいかと、思いまどう態《てい》で言葉を休めた。「が、私は妻を見て、いっさいを赦してしまいました。すると、赦すことの幸福感が、私の義務を啓示してくれました。私は完全に赦したのです。私はもう一方の頬をさし出したいのです。上衣を剥ごうとするものに、下着まで渡したいのです。私はただ神に向って、赦すことの幸福を奪わないように、とただそれのみを祈っております!」
 涙が彼の目にたまっていた。その明るいおちついたまなざしに、ヴロンスキイははっと思った。
「これが私の立場です。あなたは私を泥の中に踏みにじることも、世間の笑いぐさにすることもできます。が、私は妻を見棄てませんし、またあなたにも、一言として非難の言葉をいいますまい」とカレーニンは語をつづけた。「私のなすべき義務は、私にとって明瞭にしるされています。私はあれといっしょに暮さなければならないので、必ずいっしょに暮します。もしあれがあなたに会いたいといえば、お知らせしますが、しかし今は、遠ざかっておられたほうがよかろうと思います」
 彼は立ちあがった。慟哭《どうこく》の声がその言葉を中断した。ヴロンスキイも同じく席を立ち、前かがみになった体をなおそうともせず、額ごしにカレーニンを見上げていた。彼はカレーニンの気持が理解できなかったけれども、これは何かしら高遠な人生観で、自分などの及ばない境地のように感じた。

[#5字下げ]一八[#「一八」は中見出し]

 アレクセイ・アレクサンドロヴィッチと話したあと、ヴロンスキイはカレーニン家の玄関口へ出たが、いったい自分はどこにいるのか、どこへ行こうとしているのか、歩いて行くのか、車に乗って行くのか、一生懸命おもい出そうとつとめながら、ちょっと足をとめた。自分が恥じしめられ、卑下《ひげ》せられた、罪深い人間であって、その屈辱をそそぐ可能さえ奪われたもののように感じられた。今まであれほど誇りやかに、軽々と歩んでいた軌道から、たたき出されたような思いであった。あれほど鞏固なものに思われていた生活の習慣も、規則も、突如として虚偽のものに感じられ、適用できないもののように思われてきた。今まで自分の幸福を妨げる、いささかこっけいな、偶然性をおびた、みじめな存在物と思っていた寝取られ男が、とつぜん彼女自身によって呼び出され、敬虔《けいけん》の念を感じさせるほどの高みにもち上げられた。しかも、その高みに昇った良人が、腹黒い人間でもなければ、いかさまでもなく、こっけいにも見えないばかりか、善良で、単純で、神々しいくらいなのである。それはヴロンスキイも、感じないではいられなかった。役割が急に変ってしまったのである。ヴロンスキイは相手の高潔さと自分の屈辱、相手の正しさと自分の不正を痛感した。良人は不幸な境遇にありながら寛大なのに比して、自分は虚偽の中にあって卑劣であり、浅薄である。彼はそれを痛感した。しかし、自分が不当にも軽蔑していた男に較べて、かえって卑小であるというこの意識も、彼の悲哀のわずか一小部分にすぎなかった。彼がいま自分を言葉につくせぬほど不幸に感じたのは、ほかでもない、最近さめてきたように思われていたアンナヘの恋が、今や永久に彼女を失ったと自覚したとなると、かつてないほどはげしく燃え立ったからである。彼は病中ずっとアンナを見てきて、彼女の魂をはっきり認識すると、これまで自分は彼女を愛していたのではない、というような気がした。しかも、彼女を認識して、本当の愛で愛しはじめた今というときに、彼は彼女の前で屈辱を受け、永久に彼女を失ってしまい、ただ恥ずべき記憶を彼女の心に残すにすぎないのだ。何よりも恐ろしいのは、カレーニンが、彼の恥じしめられた顔から両手を引きはなした、あのこっけいな恥さらしな場面である。
 彼はカレーニン家の入口階段に、途方にくれたように立ったまま、どうしていいかわからずにいた。
「辻馬車をお呼びいたしましょうか?」と玄関番がたずねた。
「ああ、辻馬車を」
 三晩つづけて不眠の夜をすごした後、わが家へ帰ったヴロンスキイは、着物もぬがず、長椅子の上へうつ伏しになり、両手を組んで、その上に頭をのせた。彼は頭が重かった。怪奇をきわめた想像、追憶、思想が、異常な早さと鮮明さで、あとからあとから入れかわって浮んできた。自分が病人のために薬をうつそうとして、思わず匙《さじ》からこぼしているかと思うと、産婆の白い手に変ったり、寝台のそばの床に膝をついているカレーニンの、奇妙なかっこうが浮んだりした。
『眠ることだ! 忘れることだ!』疲れて眠くなったら、すぐに寝入ることができると確信している、健康な人間のおちつきをもって、彼はこうひとりごちた。はたせるかな、その瞬間に頭がこんぐらかってきて、彼は忘却の深淵の中へ転落していった。無意識な生命の波が、早くも彼の頭をすっぽり包んでしまったと思うまもなく、彼の内部にこもっていたはげしい電力が、急に放散されたかのようであった。全身が長椅子のバネで躍るほど、びくっと身ぶるいして、おびえたように両手をつっぱり、膝をついて跳ね起きた。その目は、まるで一睡もしなかったように、大きく見開かれていた、一分前まで感じられていた頭の重さも、手足のだるさも、たちまち消えてしまった。
『あなたは、私を泥の中へ踏みにじることもできるのです』というカレーニンの声が聞え、その姿が目の前に見えた。と、熱病やみらしい紅《くれない》を潮《さ》し、目をぎらぎら輝かして、優しい愛情をこめて、自分のほうでなくカレーニンをながめているアンナの顔が見えた。またカレーニンが手をとりのけたときの、さぞ愚かしくこっけいだったろうと想像される、自分の姿をまざまざと見た。彼はふたたび両足をのばし、前と同じかっこうで長椅子の上に身を横たえ、目をふさいだ。
『寝るんだ! 寝るんだ!』と彼は心にくりかえした。が、目をふさいでいても、アンナの顔がなおいっそうはっきりと見えた。それはかの記憶すべき競馬のあとの晩と同じようであった。
『これがもうなくなったんだ、将来もないんだ、あれはこのことを、記憶から拭い去ろうとしているのだ。ところが、おれはこれなしには生きていけない。どうしたら仲直りができるだろう、ああ、どうしたら仲直りができるだろう!』と彼は声に出してそういうと、無意識にこの言葉をくりかえしはじめた。こういう同じ言葉の反覆は、新しい影像や追憶の湧き出るのを、おさえつける力があった。彼はそういったものが、頭の中でひしめいているような気がした。しかし、同じ言葉の反覆が空想をおさえつけていたのは、ほんのちょっとの間であった。またもや彼女とともに幸福であった瞬間と、同時に今しがたの屈辱が、目まぐるしいほどの早さで、かわるがわる頭に浮んできた。『手をどけて』というアンナの声が聞える。彼は手をどける、と自分の恥じしめられた愚かしい顔が、まざまざと感じられる。
 彼はじっと横になったまま、いささかの望みもないのを感じながらも、眠りに落ちようと努力した。そして、何かの連想から偶然出てきた言葉を、小さな声でたえずくりかえしていた。それで新しい影像が浮んでくるのを、防ぎ止めようと望んだのである。ふと彼は耳を澄ました――すると、奇妙な、気ちがいじみたささやきでくりかえしている自分の言葉が、耳朶《じだ》を打った。『値うちがわからなかったんだ、利用するすべを知らなかったんだ、値うちがわからなかったんだ、利用する術《すべ》を知らなかったんだ』
『これはどうしたというのだ? それとも、おれは気が狂ってるんだろうか?』と彼はひとりごちた。『そうかもしれない。人が発狂するのはどういうわけだと思う? ピストル自殺するのはどういうわけだと思う?』と自分で自分に答えて、目を開けると、兄嫁のヴァーリャの刺繍したクッションが、自分の頭のそばにあるのを見て、はっと思った。彼はクッションの房《ふさ》にちょっとさわって、ヴァーリャのことや、最後に兄嫁と会ったときのことなどを、想い起そうと努めた。けれど、何にもせよ、ほかのことを考えるのは苦しかった。『いや、寝なくちゃならない!』彼はクッションを引き寄せて、頭をぐっとおしつけた。が、じっと目をつぶっているためには、ことさら努力をしなければならないのであった。彼は跳ね起きて、坐りこんだ。『あのことはおれにとって、もうお終いになったのだ』と彼はひとりごちた。『どうしたらいいのか、よく考えなくちゃならない。そのほかに何が残っているだろう?』アンナに対する恋愛を除いた自分の生活を、心の中で手早く一巡かんがえてみた。『名誉心? セルプホフスコイ? 社交界? 宮廷?』何一つ心をひかれるものがなかった。それらはすべて、以前なにかの意味をもっていたけれども、今となっては、最早なにひとつなくなってしまった。彼は長椅子から立ちあがって、上衣をぬぎ、バンドをはずして、楽に息をするために、毛むくじゃらの胸をひろげて、部屋の中を歩きまわりはじめた。『人はこんなふうにして、気ちがいになるんだ』と彼はくりかえした。『こんなふうにして、ピストル自殺をやるんだ……恥ずかしい思いがしたくなさに』とゆっくりつけ足した。
 彼は戸口に近よって、ドアを閉めた。それから、目をすえ、歯を食いしばって、テーブルのそばへ行き、ピストルをとり上げ、ちょっとひとわたり見ると、装填《そうてん》してある銃身を引金の方へまわして、もの思いに沈んだ。二分間ばかり、緊張した思考の努力をおもてに現わしながら、頭をたれて、手にピストルを持ったまま、じっとたたずみ、考えつづけるのであった。『もちろんさ』さながら、論理的に明瞭な長い思索の道程が、疑いもなき結果へ導いたかのごとく、彼はついにこういったが、本当のところは、彼にとってこの上もない説伏力をもっているこの『もちろんさ』も、この一時間ばかりの間に、もう二十回も、三十回もくりかえした追憶や想像の堂々めぐりを、さらにもう一度くりかえした結果にすぎないのである。それは依然として、失われたる幸福の追憶であり、将来のいっさいが無意味だという想像であり、やはり同じおのれの屈辱を意識するこころであった。こうした想念や感情の順序も、同じであった。
『もちろんさ』自分の考えが、例の追憶と想像の魔法の環を、三度目にたどりはじめたとき、彼はまたもやこうくりかえした。そして、左の胸にピストルをあて、一挙にして拳の中へ握りしめようとでもするように、ぐっとはげしく手に力を入れて、引金をひいた。彼は発射の音を耳にしなかったけれども、胸に受けた強い衝撃のために、足を薙《な》ぎ払われたかのようであった。彼はテーブルの端につかまろうとしたが、ピストルをとり落して、よろよろとしたと思うと、床にぺったり尻餅《しりもち》をついて、驚いたようにあたりを見まわすのであった。彼は下の方からテーブルの曲った脚や、紙屑籠や、虎の皮の敷物などを見たので、自分で自分の部屋を見ちがえる思いであった。せかせかと客間を歩いてくる従僕のきしむ靴音が、彼をわれに返らした。彼は思考力を緊張さして、自分が床の上に坐っていることを合点し、虎の皮や自分の手についている血を見て、自分がピストル自殺をはかったことを悟った……
『ばかげてる! やりそこなった』手でピストルを探りながら、彼はこう口走った。ピストルはすぐそばにあったのに、彼は先きの方をさがしているのであった。ひきつづきさがしながら、反対の方角へ身をのばそうとすると、重心を保つ力がなくて、出血に弱りながら、ぱったり倒れた。
 自分の神経の弱さを、いつも知り合いのものに訴えている、頬髯など生やしたおしゃれの従僕は、床の上に倒れている主人の姿を見ると、すっかり肝をつぶしてしまい、出血をそのままにしておいて、助けを求めに飛び出してしまった。一時間もたったころ、兄嫁のヴァーリャが駆けつけた。彼女が八方へ使を出したので、一時に三人も駆けつけた医師の助けをかりて、病人を寝台にねかし、そのまま看護に居残った。

[#5字下げ]一九[#「一九」は中見出し]

 カレーニンの犯した誤謬《ごびゅう》はほかでもない。妻との会見に心がまえしたとき、彼女の悔悟が誠実なものであって、自分はその罪を赦し、彼女も死なずにすむ、という偶然の場合を予想しなかったことである。この誤謬は、彼がモスクワから帰ってから二月もたったころ、完全に露呈されてしまったのである。しかし、彼の犯した誤謬は、この偶然を予想しなかったがためばかりでなく、なおそのほか、瀕死の妻と会うときまで、彼が自分の心を知らなかった、ということにも起因していたのである。彼は瀕死の妻の病床で、生れてはじめて、静かな感動に満ちた同情に身をまかせてしまった。これはいつも、他人の苦痛を見るたびに、呼びさまされる感情であって、以前は有害な弱点として心に恥じていたものであるが、妻にたいする哀憐と、自分が彼女の死をねがったという慚愧《ざんき》の念と、それに何よりも、赦すということそれ自体の喜びのために、彼は突如として、おのれの苦痛の癒《いや》されるのを覚えたばかりでなく、今までかつて感じたことのない精神の和《やわ》らぎすら、経験したのである。彼は思いがけなく、自分の苦痛のもとであったものが、精神的な喜びの源になったのを感じた。非難したり、責めたり、憎んだりしていたときには、解決することができないように思われたものが、赦し愛しはじめるやいなや、忽然として単純明瞭となったのである。
 彼は妻を赦した。そして、その苦しみと悔悟のために、彼女を憐んだ。彼はヴロンスキイを赦し、かつ憐んだ。ことに、彼が絶望的な行為をしたという噂が耳に入ってからあとは、なおさらであった。彼はまたわが子をも、以前にまして憐んだ。そして、あまり子供をかまいつけなかったのを、今では自ら責めるありさまであった。が、今度うまれた女の子にたいしては、ただ憐憫というばかりでなく、何か愛情のまじった、特別な感情をいだきはじめた。はじめ彼は単なる同情の念から、自分の娘でもないのに、生れたての弱々しい女の子のせわをやきにかかった。赤ん坊は、母親の病気のあいだうっちゃらかしにされて、もし彼が心を配らなかったら、死んでしまったかもしれないのであった。彼はこの子を愛しはじめたのに、自分では気がつかなかった。彼は一日のうちに幾度も、子供部屋へ入って、いつまでもそこに坐りこんでいたので、はじめ旦那さまの前でせんせんきょうきょうとした乳母や婆やまでが、慣れっこになったくらいである。どうかすると、彼はものの三十分くらいも、すやすやと眠っている赤ん坊の、生毛におおわれた、皺だらけなサフラン色がかった赤い顔を、まじまじと見つめて、妙にしかめられる額の動きや、指を握りしめている、ふっくらした小さな手の甲で、目や鼻すじをこすっているありさまを、じっと観察することもあった。そういうとき、カレーニンは特に自分の心が完全におちついて、自分自身にぴったり一致した気持になっているのを覚え、自分の境遇に何一つ異常なことはない、何も変更しなければならないところはない、といったような気がするのであった。
 しかし、時がたつにしたがって、彼はしだいにはっきりとわかってきた。いま自分にとって、この境遇がどんなに自然であろうとも、人々は長く自分をそこにとどめてはおかないだろう。自分の魂を指向している和《なご》んだ精神的な力のほかに、なお別の粗野な力がある。同じくらいに、いな、それより以上に権威のある力が存在していて、自分の生活を指向している。この力は、自分の望んでいる謙抑なおちつきを授けてはくれまい――と彼は感じたのであった。みんなけげんそうな、あきれた顔つきで彼をながめ、彼の気持を理解しないで、何ものかを彼から待ちもうけている、それを彼は感じた。わけても彼は、妻にたいする自分の関係のもろさ、不自然さを、痛切に感じた。
 死の接近によって、彼女の内部に生じた心の和らぎが去ってしまうと、カレーニンはアンナが自分を恐れ、自分の同席を荷厄介にして、自分の顔をまともに見つめられないのに気がついた。彼女は何か良人にいおうとして、いいだしかねているらしかった。そして同じく、二人の関係がこのままつづくことができないのを予感して、何やら彼から期待しているかのようであった。
 二月の末ごろ、同様にアンナと命名されたアンナの赤ん坊が、たまたま病気になった。カレーニンは朝のうち子供部屋へ入って、医者を呼びに行くように指図をし、役所へ出かけた。自分の仕事をすまして、彼は三時すぎに家へ帰ってきた。控室へ入ると、金モールに熊の皮の飾り襟をつけた好男子の従僕が、アメリカ犬の毛皮で仕立てた白い長袖外套《ロトング》を腕にかけているのが、目に映った。
「だれが来ておられるのだ?」とカレーニンはたずねた。
「エリザヴェータ・フョードロヴナ・トヴェルスカヤ公爵夫人でございます」と従僕は答えたが、カレーニンの目には、にこりと笑ったような気がした。
 この苦しい数ヵ月のあいだ、社交界の知人、ことに婦人たちは、彼ら夫婦のことに特殊な関心を示すようになった。それにカレーニンは気がついた。これらすべての知人は、何かうれしいことがあるのを、やっとの思いでこらえているように思われた。それはかつて弁護士の目に見、いまこの従僕の目に認めた喜びの色なのである。まるでみんな揃って、だれかを嫁にでもやるように、有頂天になっているかと思われた。彼に出会うと、みんなやっとのことでうれしさを隠しながら、奥さんのご健康はと尋ねるのであった。
 トヴェルスカヤ公爵夫人の来訪は、この夫人と結びあわされた記憶のせいもあり、また概して、この夫人が嫌いだったせいもあって、カレーニンには不愉快だったので、彼はまっすぐに子供部屋へ通った。第一の子供部屋ではセリョージャが、テーブルにもたれかかり、両足を椅子にのせて、何かおもしろそうにひとりごとをいいながら、画を描いていた。アンナの病中に、フランス女と入れ代ったイギリス婦人は、坊ちゃんのそばに坐って、飾り紐を編んでいたが、あわてて立ちあがって、小腰をかがめ、セリョージャをひっぱった。
 カレーニンは少年の髪の毛を撫でて、家庭教師の、奥さまのお加減はいかがでございますという問いに答え、ベビイのことを医者はなんといったかときいた。
「はい、旦那さま、お医者さまは何も危ないことはない、とおっしゃいまして、お湯をつかわせるように、とのことでございました」
「しかし、始終くるしがってるじゃないか」と隣の部屋から聞える幼児の泣き声に耳を澄ましながら、カレーニンはそういった。
「わたくしの思いますには、乳母がいけないのでございます、旦那さま」とイギリス婦人はきっぱりいった。
「どうしてそう思うんだね?」と彼は歩みをとめながらきいた。
「ポール伯爵夫人のところでも、そうだったのでございます、旦那さま。赤ちゃんの病気をいろいろに手当してみたのでございますが、けっきょく、お腹がすいていただけなのでした。乳母のおっぱいが足りませんでしたので、はい」
 カレーニンは考えこんで、ちょっとたたずんでいたが、次の戸口から隣室へ入った。赤ん坊は乳母の手の中で仰向けになり、頭を反らして身をもがきながら、さしだされるふっくらした乳房を含もうともしなければ、かがみこんでいる婆やと乳母か二人がかりで、しきりに口を鳴らしているにもかかわらず、泣きやもうとしなかった。
「やっぱり快《よ》くないかね?」とカレーニンはたずねた。
「たいへんおむずかりでございます」と婆やはひそひそ声で答えた。
「ミス・エドワードは、もしかしたら乳母のおっぱいが出ないのじゃないか、といってるんだが」と彼はいった。
「わたくしもそう思いますので、旦那さま」
「それじゃ、なぜそういわないんだ?」
「だれに申しあげるのでございます? 奥さまは相変らず、おすぐれになりませんし」と婆やは不満らしくいった。
 婆やはこの家に古くからいる召使であったが、この単純な言葉のうちにさえカレーニンは、自分の境遇にたいするあてこすりが響いているような気がした。
 嬰児《えいじ》は体を揺りたて、声をからしながら、さらにはげしく泣きだした、婆やは片手をふって、そのそばへより、乳母の手から抱きとって、歩きながら揺すぶりはじめた。
「これはいちど、医者に乳母を診てもらわなくちゃならんな」とカレーニンはいった。
 見たところ丈夫そうな、おめかしをした乳母は、暇を出されはしないかとびっくりして、何やら口の中でぶつぶついい、乳をかくしながらわたしの乳の出を疑うなんてというように、にっとばかにしたような笑い方をした。カレーニンはこの薄笑いのうちにも、自分の境遇にたいする嘲笑を読みとったのである。
「おかわいそうな赤ちゃん!」泣きやませようとして口を鳴らしながら、婆やはこういって、また歩きつづけていた。
 カレーニンは椅子に腰をおろし、さも苦しそうなしょげた顔つきで、あちこち歩きまわる婆やをながめていた。
 やっと泣きやんだ赤ん坊を、縁の高い小形ベッドに寝かしつけ、小さな枕をなおして、婆やがそばを離れたとき、カレーニンは腰をもちあげ、爪先立ちで赤ん坊の方へいって見た。ややしばらく黙ったまま、例のしょげた顔つきで赤ん坊をながめていた。とふいに、微笑が髪の毛や額の皮膚を動かしながら、彼の顔に浮んできた。彼はやはり静かな足どりで子供部屋を出た。
 食堂で彼はベルをならし、入ってきた従僕に、もういちど医者を迎えに行くように命じた。あのすばらしい赤ん坊のことを心配しなかった妻が、彼はいまいましい気がした。このいまいましい気持で、妻のところへいきたくなかったし、それに公爵夫人ベッチイにも会いたくなかった。しかしアンナは、どうして彼がいつものしきたりと違って、自分の部屋へ入ってこないのかと、いぶかるおそれがあったので、強いてみずから励ましながら、寝室へ足を向けた。柔らかいカーペットを踏んで戸口に近よったとき、彼は思わず、聞きたくもない話を聞いてしまった。
「もしあの人が行ってしまうのでなかったら、わたしだってあなたが拒絶なさるのも、あの人が遠慮するのも、その気持がわかるんですけれどね。でも、こちらのご主人は、そんなこと超越してらっしゃるはずじゃありませんか」とベッチイはいった。
「わたし主人のためじゃなくって、自分のためにいやなんですの。もうその話はしないで下さいな!」と答えるアンナの興奮した声が聞えた。
「そう、でも、あなたにしてみたって、あなたのために自殺しようとした人と、おわかれがいいたくないはずがないでしょうに……」
「だから、わたしいやなんですの」
 カレーニンはびっくりした、すまなさそうな表情をして歩みをとめ、そっとあとへひっ返そうとした。しかし、それはおとなげないと考えなおして、また廻れ右をし、一つ咳ばらいをして、寝室にむかって進んだ。話し声はぴたりとやんだ。で、彼は中へ入った。
 アンナは鼠色の部屋着を身にまとい、短くきった黒い髪を厚いブラシのように、丸い頭の上にのせて、寝椅子に腰かけていた。いつも良人を見たときの常として、その顔からは急に活気が消えた。――彼女は頭をたれて、不安げにベッチイをふり返った。ベッチイは、極端なほど流行を追ったいでたちで、帽子はまるでランプの笠のように、どこか頭の上の高いところにちょいとのっかり、鳩羽《はとば》色の服はくっきりした斜めの縞《しま》になっていたが、それは一方の側は胴についているし、いま一方の側はスカートについているのであった。肉の薄い長い上身をまっすぐに立てて、アンナと並んで坐っていたが、首を横にかしげ、あざけるような微笑をうかべて、カレーニンを迎えた。
「あら!」と彼女は、驚いたような顔をしていった。「あなたがお家にいらして、本当にうれしゅうございますこと。あなたはどこへも顔をお出しになりませんから、わたしアンナさんのご病気以来、まるでお目にかかりませんでしたわ。でも、すっかりお聞きしました――あなたのお心づかいを、ええ、あなたは驚くべき旦那さまでいらっしゃいますわ!」まるで妻にたいする態度に、寛大の勲章でも授けるように、彼女は意味ありげな、優しい顔つきをしていった。
 カレーニンは冷やかに頭を下げた。それから、妻の手に接吻して、気分はどうかとたずねた。
「少しよろしいようでございます」良人の視線を避けながら、彼女は答えた。
「しかし、あんたはなにか、熱病やみのような顔色をしているが」熱病やみという言葉に力を入れながら、彼はこういった。
「わたしたちあまりおしゃべりをしすぎたんですわ」とベッチイは口を入れた。「これはわたしとして、利己主義みたいな気がしますわ。もうお暇しましょう」
 彼女は立ちあがった。が、アンナは急に顔を赤らめて、つとその手を握った。
「いえ、もう少しいて下さいな、お願いですから。わたしあなたにお話があるんですから……いいえ、あなたにですの」と彼女はカレーニンの方へふりむいたが、くれないがその頸筋から額まで、さっと散った。「わたし何一つ、あなたに隠しごとをしたくありませんし、それに、できもしませんから」彼女はいいきった。
 カレーニンは指をぽきぽき鳴らして、頭をたれた。
「いまベッチイから聞いたんですけど、ブロンスキイ伯爵が今度、タシケントへお立ちになる前に、お別れがいいたいから、宅へこさしてくれとおっしゃるんですの」彼女は良人の方を見なかった。そして、ずいぶん骨の折れることではあるが、早くいってしまおうと、急いでいることは明瞭であった。「で、わたしはお会いできませんていいましたの」
「だって、あなた、それはアレクセイ・アレクサンドロヴィッチのお心次第だ、とおっしゃったじゃありませんか」とベッチイが訂正した。
「いいえ、違います、わたしあの人にお会いできません、また、なんにもならないことですもの……」彼女はふいに言葉を切って、たずねるような目つきで、良人をちらっと見やった(彼は妻の方を見ていなかった)。「一口にいうと、わたしいやなんですの……」
 カレーニンは身をよせて、妻の手をとろうとした。
 彼女は反射的に、自分の手を求めている、太い血管のふくれあがった、湿っぽい良人の手から、つと自分の手をひっこめたが、どうやら強いて努力した様子で、良人の手を握った。
「それほど私を信頼してくれるとはありがたい、しかし……」と彼はいいながらも、当惑といまいましさを覚えた。自分ひとりなら、簡単明瞭に解決できることが、トヴェルスカヤ公爵夫人のいるところでは、よく判断ができないのを、自分でも感じたからである。夫人は、社交界の見る目で彼の生活を指向して、彼が愛と赦しの感情に身をゆだねることを妨げている、かの粗暴な力の権化《ごんげ》のように思われた。彼はトヴェルスカヤ公爵夫人の方をちらと見て、言葉を休めた。
「では、さよなら、わたしの大好きなアンナさん」といって、ベッチイは席を立った。彼女はアンナに接吻して出ていった。カレーニンはそれを見送った。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、わたしはあなたを本当にお心の広いかたと存じあげておりますの」小さい客間に立ちどまって、もう一度、特別かたくカレーニンの手を握りしめながら、ベッチイはこういった。「わたしはただの他人ですけれど、奥さんが大好きで、それにあなたも尊敬しておりますので、さしでがましゅうございますが、一つ忠告さしていただきとうございますの。あの人をこさせてあげて下さいまし。あの人は潔白の権化といっていいくらいのかたで、今度タシケントへ行っておしまいになりますの」
「公爵夫人、いろいろお心にかけて下さって、ご忠告ありがとうございます。しかし、あれがだれかに会うか会わないかの問題は、あれが自分で決めるでしょう」
 彼はいつものくせで眉を吊り上げ、威厳を示しながらこういったが、しかしすぐさま、どんなに言葉をつくろっても、自分の境遇では威厳などありえない、ということを悟った。また、ベッチイがこの言葉の終ったあと、ちらと彼を見た控えめな、毒のある、嘲《あざけ》るような微笑によっても、カレーニンはそれを悟ったのである。

[#5字下げ]二〇[#「二〇」は中見出し]

 カレーニンは広間でベッチイに会釈して、妻の方へひっ返した。アンナは横になっていたが、彼の足音を聞きつけると、あわてて前の位置に身を起し、おびえたように良人をながめた。彼は妻が泣いているのに気がついた。
「おまえが私を信用してくれるので、じつにありがたい」ベッチイのいる前ではフランス語でいったこの一句を、つつましやかにロシヤ語でくりかえして、彼は妻のそばに腰をおろした。彼がロシヤ語で話しだし、妻に『おまえ』言葉をつかったとき、この『おまえ』が、たまらないほどアンナをいらいらさした。「そして、おまえの決心にも感謝する。私もおまえと同様に、ヴロンスキイ伯爵は旅に出てしまうのだから、ここへやってくる必要は全然ないと思う。が……」
「ええ、わたしもう申しあげてしまったんですから、何もお浚《さら》えすることはないじゃありませんの?」とアンナはいきなりさえぎった。いらだたしさをおさえることが、できなかったのである。
『必要は全然ないんだって』と彼女は考えた。『自分の愛している女へ、暇乞いにくる必要は全然ないんだって。そのために自殺までしようとしたのに、その女のために一生を破滅させたのに、また女のほうでも、その人なしには生きていかれないのに。必要は全然ないんだって!』アンナはきっと唇を食いしばって、血管の浮き出た良人の手に、ぎらぎら光る目を落した。その手はゆっくりと互にこすりあっている。
「もうこの話は二度としないようにしましょう」と彼女はややおちついて、つけ足した。
「私はこの問題の解決をお前にまかせたんだから。ところで、私は非常にうれしいよ、おまえの……」とカレーニンはいいかけた。
「わたしの望みが、あなたのお望みといっしょだってことが、でしょう」と彼女は早口に結びをつけた。良人のいうことはなにもかも、ちゃんとわかっているのに、のろのろと口をきくのが癇ざわりだったのである。
「さあ」と彼は相槌《あいづち》を打った。「それにトヴェルスカヤ公爵夫人も、この上もなくやっかいな家庭内の問題に口を出すとは、全くよけいなことだね。ことにあのひとは……」
「あのひとのことを世間がなんといおうと、わたしこれっから先も本当にしませんわ」とアンナは早口にいった。「あのひとが心からわたしを愛して下さることは、よくわかっているのですもの」
 カレーニンは歎息して、口をつぐんだ。アンナは良人に対する肉体的な嫌悪感に悩みながら、じっとその顔を見上げて、おちつきなく部屋着の房をいじっていた。彼女は、こんな感じをいだく自分を責めながらも、それをおさえることができなかったのである。いま彼女がねがっているのはただ一つ――あきあきした良人に早くいってもらうことであった。
「私はいま医者を呼びにやったよ」とカレーニンはいいだした。
「わたしもう丈夫ですのに、お医者なんて、なんのためですの?」
「いや、赤ん坊のためなんだよ。乳母におっぱいが足りないって話だから」
「じゃ、どうしてわたしが乳をやるのを、許して下さいませんでしたの、あんなにお願いしたのに。まあ、どうでもいいわ。(カレーニンは、この『どうでもいいわ』が、何を意味するかを悟った)。あれはほんの赤ん坊だから、どうせ干ぼしにされるんですわ」彼女はベルを鳴らして、赤ん坊をつれてくるようにいいつけた。「わたしが自分の乳で育てるとお願いしたのに、それを許して下さらないで、今さらわたしをお責めになるんですもの」
「私は何も責めは……」
「いいえ、責めてらっしゃるんですわ! ああ、どうしてわたしは死んでしまわなかったんだろう!」といって、彼女はしゃくりあげて泣きだした。「堪忍してちょうだい、わたし気がいらいらしてるもんですから、無理なことばかりいって」と彼女はわれに返っていった。「でも、行ってちょうだい……」
『いや、これはこのままに棄てておかれない』妻の部屋を出ると、カレーニンは断乎としてこうひとりごちた。
 世間の目から見た自分の立場のやりきれなさ、自分にたいする妻の憎悪、それに概して、彼の気持とは正反対に彼をひきまわして、おのれの意志の実行と妻にたいする関係の変更を要求する、あの粗野な力の偉大さが、今日ほど明瞭に彼の目に映ったことはない。彼は世間ぜんたいと妻とが、自分から何か要求しているのを、はっきりと悟ったけれども、それがいったいなんであるかは、合点がいかなかった[#「いかなかった」は底本では「いなかった」]。そのために、彼の心には毒念が湧き起って、おちつきも寛大の功業も破壊しつくすのを感じた。彼はアンナにとって最上の策は、ヴロンスキイとの関係を絶つことであると思ったが、もし世間のだれもがそれを不可能と見なすなら、自分はもう一度この関係を許すことさえあえて辞せない。ただ子供らに赤恥をかかせたり、自分が子供らを失ったり、現在の状態を変えたりさえしなければ、かまわない。それがどんなによくないことにもせよ、なんといっても離婚よりはましである。そんなことをすれば、妻は抜きさしならぬ恥さらしな境遇に身をおくことになり、彼自身は愛していたいっさいを失わなければならぬ。しかし、彼はおのれの無力を感じた。彼は前からちゃんと知っていた。みんな彼の敵となって、いま彼の目にきわめて自然で、良いと思われていることを実行させず、じつは良からぬことでありながら、みんなの目には当然と思われることを、強制するに相違ないのだ。