『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

2022-12-01から1ヶ月間の記事一覧

政治化の貧困、ちぢめていえばこれだけ、安倍晋三暗殺事件。仮病、借金、暗殺準備、、、「通俗」「普通」もうたよれない単語。

インチキリアルタイムとしてのSNS、とくにtwitter、えせリアルタイムではいいたりない。なぜリアルタイムがいんちきになってしまうのか。私小説論。国民文学論争。

演劇の脚本を書くことは小説家の収入獲得方法では例外中の例外、短編か長編か映画の脚本か。演劇は例外中の例外。シナリオはともかく文体が反通俗のフローベールはもちろん、どうみても通俗寄りのディケンズ、バルザックが戯曲をほとんど書いていないのは注目すべき。リアルタイムもどきの否定

ワーグナー、ゲーテ、ワイルド、トルストイ、サルトル、モーム、ベケット、クリスティ、ジュネ、ピンター、泉鏡花、岡本綺堂、井上ひさし、安部公房。小説を書ける劇作家、全員、読まれる「演劇論」を描いていない(全集の目次をみて確認した)。つけくわえると、映画論はあるらしいが、「テレビ論」はない。(ブレヒト、アルトー、三島由紀夫)

イーロンマスクはツイッターという道具を買うのに、フランシスコッポラの100倍の金を使った。しかし、ツイッターが広告機能をさしひいた場合、映画「地獄の黙示録」の100分の1の価値もない。

数学者6人(全員、大学の先生)のSNSを調べた結果、「SNSがアイデアを思いつくのに”役に立つ”とも立たないとも思っていない、ということがわかる。意外だったのは、そのうち1人は「ネット」

ゲーム音楽といわゆる吹奏楽の音楽、前提知識がなくても、ちがいがわかると思う

なぜ、目の前に「高慢と偏見」と「ボヴァリー夫人」があるのか?

つきまとい行動はなぜ「わかる」のか? 多重人格はなぜありにくいのか?

再評価、手塚治虫と藤子不二雄コンビ。1974年以後、一番先に気が付いたのは誰?

尾崎翠、佐藤泰志、夢野久作、再評価。インターネット オースティン「高慢と偏見」「エマ」(1994年―1998年)

「すこしふしぎ」が「ドラえもん」を生んだというより、「ドラえもん」が「すこしふしぎ」という方法を確立した、といえるのではないか。「オバケのQ太郎」なしの藤子論はもううんざり。とくに「新」なしの

政治化する、ということは、まったく、前提を考えないといけないことの一つである。たとえば、青少年の定義がそれである。そして、それこそ、狭い意味での主体的決断だけが、政治化する、ということではない。元首相暗殺事件もその一つである。

ドラミとピノコ、1974年3月ごろに初登場

タイムマシン、1巻に3本

2巻と3巻はセット、「手紙を~」から「あやうし!」へ。4巻の「のろいのカメラ」、挑戦的な配置

過去、恐竜、、未来、開拓史、、別の現代、大魔境、、魔法プラス宇宙、魔界

宇宙の話が、13巻ではじめて登場

1巻にはすべてがある。1巻から3巻までにはすべてがある。大長編への道は13巻で完成

通俗の王様、藤子・F・不二雄。その販売戦略はまだ徹底的にあきらかにできていない。手塚治虫にくらべて、あきらかに「通俗」なのに。もちろん、「通俗」であることと作品の良さ悪さとは特に関係がない。

EXPO2025年の工事費がたりないことは、三番目ぐらいの問題である(十分大きいが)。ピカソかマティスの贋作をつくって金を用意すればいいのだから。維新の党の主要人物にはそういうことができないが。

まず、やるならとっくにやっているから。愛知県の名簿捏造事件をいれても、ほぼそう言える。 なめてる? たしかにそうだが、もっと根本的には、「自由」に対するとらえかたのちがいだ。

「はだしのゲン」(中沢啓治)は、たしかに「古臭い」。なぜなら、

「遠近法の否定(※1)」という問題をあつかっていないから。べつのいいかたをすれば、「本物らしく」という問題をあつかっていないから。 たとえば、作中には「ゲルニカ」(ピカソ)が一度も登場しない。 だから、「遠近法遠近法、デッサンデッサン」という…

いわゆる「SNS」から「いいね」機能をはずせるかどうか、これは「権利の問題」かどうかはともかく(たぶんYESだが)、「独創性の根本問題」の1つといえる。この問題をつかむのには知識はあまりいらない。

ワールドカップ(なんの?)を忘れていたわたしは、世界一になれるかもしれないとふっと思った。