『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」4-06~4-10(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]

 カレーニンは八月十七日の委員会で、はなばなしい勝利を博したが、その勝利の結果が彼を裏切った。異民族の生態をあらゆる点において研究すべき新しい委員会は、カレーニンの督促によって、目ざましい早さと意気ぐみで編成され、現地へ派遣された。三ヵ月後には報告が提出された。異民族の生態は、歴史的、行政的、経済的、人種誌的、物質的、宗教的方面で研究された。すべての問題にたいして、立派な解答や報告が作成された。それは一点の疑いをはさむ余地もなかった。というのは、常に誤謬に陥りやすい人間の思想の産物ではなくて、公務的活動の所産だったからである。解答はすべて公けの資材、すなわち郡長や教区管長の報告に基づいた、知事や主教の報告の結実であったし、郡長や教区管長の報告はまた、村役場や区教会の僧侶の報告を基礎としたものであった。したがって、それらの解答は疑いを容れないものである。たとえば、なぜときどき凶作があるか、なぜ住民は自分の宗教に固執するか、等々の疑問は――公共機関という便利なものがなくては解決されず、また幾世紀かかっても解決されえない疑問は、疑うべからざる明瞭な解決を得たのである。しかも、その解決はカレーニンにとって有利であった。しかし、ストレーモフは最後の会議で、急所をつかれたのを感じて、委員会の報告を受け取ると、カレーニンの思いもかけなかった戦術を用いた。ストレーモフは他の委員二三人を抱きこんで、突然カレーニンの陣営へうつり、カレーニンの提唱した方策の実行を、熱心に支持したのみならず、同じ方向の極端な方策を提言した。それらの方策は、カレーニンの根本思想を曲げるまでに強化したものであったから、これが実施されたときはじめて、ストレーモフの戦術が表面に表われてきた。あまり極端に走り過ぎたこれらの方策は、忽然《こつぜん》としてその愚劣さを暴露したので、要路の人々も、一般世論も、聡明な婦人たちも、新聞も、いっせいにこの方策それ自身に対して、またその生みの親であるカレーニンに対して、憤慨の念を表明しながら、総攻撃を開始した。ストレーモフは、自分はただ盲目的にカレーニンの案に追従したばかりで、今さらできてしまったことに驚きかつ当惑している、といったようなふりをしながら、すっと身をひいてしまった。これはカレーニンにとって、手痛い打撃であった。しかし、カレーニンは健康も衰え、家庭内の心配事があるにもかかわらず、決して屈しはしなかった。委員会の内部に分裂が生じた。ストレーモフを頭とする一派の連中は、自分たちのあやまりを弁護するために、カレーニンの指導する調査委員会の提出した報告を信用したからだといい、あんな報告は全くでたらめで、ただ書きつぶした紙きれにすぎないと揚言《ようげん》した。公けの書類に対するこういう革命的態度の危険を見たカレーニンとその一党は、調査委員会の提出した資料を支持しつづけた。そのために政治界の上層はもちろん、一般社会にまで混乱が生じて、だれもが極度にこの事件に興味をいだいていたにもかかわらず、はたして異民族は破滅に瀕するほど困窮しているのか、それとも繁栄状態にあるのか、だれ一人としてはっきりわかるものがなかった。カレーニンの地位はそのために、また部分的には妻の不貞から、侮蔑の目で見られるようになったために、ひどく動揺し始めたのである。こういう状態におかれたカレーニンは、ある重大な決心をした。彼は事件を現地で調査したいから、自分自身出張さしてほしいと申し出て、委員会の人々を驚かした。許可をえると、カレーニンは遠隔の県へ向けて出発した。
 カレーニンの旅行は、大いに世間を騒がした。ことに出発のまぎわに、目的地までの旅費として支給された駅馬十二頭の代を、正式に書面をもって返納したので、ますます噂がかしましかった。
「あれは大変きれいななさりかただと、思いますわ」とベッチイは、ミャーフカヤ公爵夫人にいった。「今はどこにだって鉄道があることは、だれひとり知らないものはないのに、なんのために駅馬の代なんか支給することがありますの?」
 が、ミャーフカヤ夫人はそれに不同意であった。トヴェルスカヤ公爵夫人の意見は、癇《かん》ざわりでさえあった。
「そりゃあなたは」と彼女はいった。「何百万か知りませんが、莫大な財産をもってらっしゃるから、そんなのんきなこともおっしゃれるでしょうが、わたしなんか、主人が夏検察旅行に出かけるのは、大歓迎でございますよ。主人の体のためにもなりますし、ほうぼう旅をする楽しみもありますし、わたしのほうはまたそのお金で、馬車の維持費や、馭者の月給をひねり出すということに、ちゃんと決めてあるんですもの」
 遠隔の県へむかう途上、カレーニンは三日の予定で、モスクワに足をとめた。
 着いた翌日、彼は総督を訪問に出かけた。いつも自家用車や、辻待ち馬車の群がっている新聞横町に近い四つ角で、カレーニンはふと自分の名を呼ぶ、元気そうな高い声を耳にして、ついふり返らずにいられなかった。すると歩道の角に、流行の短い外套を着、流行の鍔《つば》の狭い帽子を横っちょにかぶったオブロンスキイが、赤い唇のあいだから真白い歯を見せて、笑み輝きながら、快活な、若々しい様子をして立ちはだかり、思い切った強い調子で叫びたて、執拗に馬車をとめろと要求するのであった。彼はその角に待たしてある馬車の窓に、片手をかけていたが、その中からは、ビロードの帽子をかぶった婦人の頭と、二人の子供の首がのぞいていた彼はにこにこ笑いながら、片手で義弟をさし招くのであった。婦人は善良そうな微笑を浮べて、おなじくカレーニンにむかって手をふっていた。それはドリイとその子供たちであった。
 カレーニンは、モスクワではだれにも会いたくなかったが、自分の妻の兄にはなおさらであった。彼はちょいと帽子を持ち上げて、通りすぎてしまおうとしたが、オブロンスキイは馭者に停車を命じ、雪を踏んで、カレーニンのほうへ走ってきた。
「いやどうも、知らせもしないなんて実によくないよ! もう前から? 僕は昨日ホテル『ジュソー』へ行ってみると、記名板に『カレーニン』と書いてあるじゃないか。しかし、それが君だろうとは夢にも思わなかった!」とオブロンスキイは、頭を馬車の窓へつっこみながらいった。「そうと知ったら、君の部屋へ訪ねて行ったのに。でも、君に会えてじつにうれしい!」雪を落すために、足と足をぶっつけながら、彼はそういった。「僕に知らせないなんて、本当によくないよ!」と彼はくりかえした。
「暇がなかったんだよ、非常に忙しくってね」とカレーニンはそっけない調子でいった。
「さあ、家内のとこへ行こう。あれはとても君に会いたがってるから」
 カレーニンは、冷え性の足をくるんでいた膝掛をはねて、馬車の中から出てくると、雪を踏み分けて、ドリイのそばまでたどりついた。
「まあ、どういうことですの、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、なんだってわたしどもを袖になさいますの?」とドリイはほほえみながら、話しかけた。
「私は非常に忙しかったもんですから。いや、お目にかかれて愉快です」明らかにがっかりしていることを示すような調子で、彼はこういった。「お体はどうですか?」
「ときに、わたしの大好きなアンナは、どんなふうでございます?」
 カレーニンは何か口の中でうなるようにいって、そのまま立ち去ろうとした。が、オブロンスキイはそれをひきとめた。
「おい、明日はこうしようじゃないか。ドリイ、あの人を食事にお招きしな! コズヌイシェフとペスツォフを呼んで、この人にモスクワの代表的インテリゲンチヤをごちそうしようじゃないか」
「では、どうぞいらしって下さいまし」とドリイはいった。「五時にお待ち申しておりますから、でも、なんでしたら、六時でもけっこうでございます。ときに、いかがでございます、わたしの大好きなアンナは? もうずいぶんひさしく……」
「あれは達者です」とカレーニンは顔をしかめていった。「たいへん愉快でした!」と彼は自分の馬車へ向けて歩き出した。
「いらして下さいますね?」とドリイは叫んだ。
 カレーニンは何やらいったが、ドリイはその辺を動きまわる馬車の音にまぎれて、よく聞きとれなかった。
「明日寄るよ!」とオブロンスキイはわめいた。
 カレーニンは馬車に乗って、その中に深く身をひそめ、自分のほうからも見えなければ、人にも見られないようにした。
「変人だなあ!」とオブロンスキイは妻にいったが、時計を見ると、顔の前で片手を動かして、妻と子供たちに対する愛撫のしぐさを見せ、さっそうと歩道を歩き出した。
「スチーヴァ! スチーヴァ!」とドリイは顔を赤らめて叫んだ。
 彼はくるりとふり返った。
「わたしほら、グリーシャとターニャに、外套を買ってやらなくちゃなりませんの。お金ちょうだい」
「なにかまわんよ、勘定は私がするからといっときなさい!」
 彼は通りかかった知人にむかって、快活に頭を一つふり、姿を隠してしまった。

[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]

 あくる日は日曜であった。オブロンスキイは大劇場《パリショイ・テアトル》のバレーの稽古に乗りつけ、新しく彼の世話で入座したマーシャ・チビーソヴァというかわいい踊り子に、前の晩約束した珊瑚珠を渡したあと、楽屋で劇場固有の昼の薄くらがりにまぎれて、贈り物の効き目でにこにこしているかわいい顔に接吻した。珊瑚珠の贈り物のほか、バレーがはねたあとのあいびきのことで、彼女と打ちあわせをしなければならなかったのである。バレーのはじめにはこられないわけを説明して、最後の幕にはきっとやってくる、そしてあとで食事に連れて行ってやる、と約束した。オブロンスキイは劇場からまっすぐに、猟師広小路《オホートヌイ・リヤド》へ行って、自分で晩餐用の魚とアスパラガスを選み、十二時にはもうジュソーヘ姿を現わした。ここで彼は、三人の知人を訪ねなければならなかったが、さいわいとその三人が三人とも、同じホテルに泊っているのであった。一人は、最近外国の旅から帰って、ここに足をとめているレーヴィン、もう一人は今度オブロンスキイの属している局の長官という高位に任ぜられ、モスクワへ検察にやって来た顕官、いま一人は義弟のカレーニン――これはどうしても晩餐会にひっぱり出さなければならない。
 オブロンスキイは宴会に出るのも好きであったが、自宅で宴会を催すのはもっと好きであった。それに、大げさではないが、料理にしても、飲みものにしても、客の選択にしても、洗練されたものでなければならない。今夜の宴会のプログラムは、自分でも大いに気に入っていた。生きた鱸《すずき》、アスパラガス、それから 〔la pie`ce de re'sistance〕(腹にこたえるもの)としては、すばらしいがさっぱりしたローストビーフと、それに相応した酒。これは料理と飲みもののほうで、客はどうかというと、キチイとレーヴィン、ただしそれを目立たないようにするために、従妹《いとこ》と若いシチェルバーツキイが呼んである。それから客の 〔la pie`ce de re'sistance〕としては、コズヌイシェフとカレーニンがいる。コズヌイシェフはモスクワっ子で哲学者、カレーニンはペテルブルグの人で実際家である。それからもう一人、有名な変人で、感激派でおしゃベリ[#「おしゃベリ」はママ]で、音楽家で、歴史家で、この上もなく愛すべき五十歳の青年、ペスツォフを呼ぶことになっていた。これは、コズヌイシェフとカレーニンに対するソースであり、つまとなるべき男であった。この男なら二人をけしかけて、うまく噛《か》みあわせてくれるに相違ない。
 森を売った金の第二回目の払いは、例の商人からちゃんと受け取っており、まだ費い果してはいない。ドリイはこのごろとても優しくて、しおらしい。こういうわけで、この宴会の思いつきは、あらゆる点から見て、オブロンスキイにとって喜ばしいもので、彼は上々のきげんであった。ただ二つだけ、いささかおもしろくないことがあったけれども、それは二つながら、オブロンスキイの胸に海のごとく湧き立っている、人の好いごきげんの中に沈んでしまった。この二つの事情というのは、ほかでもない。一つは、昨日カレーニンに往来で会ったとき、その顔にそっけないきびしい表情が認められたことである。カレーニンの顔に見られたこの表情と、彼がモスクワへ来ながら知らせもしなかったことを、アンナとヴロンスキイについて小耳にはさんだ世間の噂と思いあわせて、オブロンスキイはあの夫婦のあいだが何か円満にいってないことを、察したのである。
 これが不快事の一つであるが、もう一ついささかおもしろくないのは、今度の新しい長官がすべて新任長官の例にもれず、早くも怖い人という評判を立てられていたことである。毎朝、六時に起きて、馬のように働き、それと同じような働きを部下からも要求する、というのである。のみならず、この新任長官はおまけに、態度が熊のようながさつもので、噂によると、前任長官の属している思想系統、したがって、今までオブロンスキイ自身の属していた思想系統と、ぜんぜん反対の人だということである。昨日オブロンスキイは礼装で出頭したところ、新任長官は非常に愛想がよく、さながら旧知のごとくオブロンスキイと話しこんだ。そこで、オブロンスキイは今日フロック姿で訪問するのを、自分の義務と心得たわけである。新任長官の自分を迎える態度が、あまりよくないかもしれぬ――この心配が彼にとって不快な第二の事情であった。しかし、オブロンスキイは本能的に、なにもかも丸く上々吉におさまるという気がしていた。『だれだって、人間だ、われわれ罪の深い連中と同じ人間だ。何も怒ったり、喧嘩したりするわけはありゃしない』と彼はホテルへ入りながら考えた。
「やあ、ヴァシーリイ、ごきげんよう」帽子を横っちょにかぶって廊下を通りながら、彼はおさななじみのボーイに向ってこういった。「おまえ、頬髯を生やしたのかい? ときに、レーヴィンは七号だったね、え? ひとつ案内してくれないか。それから、アニーチキン伯爵が(これは新任長官である)お会いくださるかどうか、伺ってみてくれ」
「かしこまりました!」ヴァシーリイはにこにこ顔で答えた。
「ずいぶん久しくお見えになりませんでしたね」
「おれは昨日も来たのだが、違う口から入ったのでね。これが七号室かい?」
 オブロンスキイが入っていったとき、レーヴィンはトヴェーリの百姓と二人で、部屋のまんなかに立ち、なまなましい熊の毛皮を尺《ものさし》で計っていた。
「ほう、やっつけたのかい?」とオブロンスキイは叫んだ。
「たいしたしろものだなあ! 牝《めす》かい? やあ、ごきげんよう、アルヒープ!」
 彼は百姓と握手して、外套も帽子もとらず、椅子に腰をおろした。
「まあ、外套をぬいで、ゆっくりしていけよ!」相手の頭から帽子をとりながら、レーヴィンはいった。
「いや、そうしてる暇がないんだ、僕はほんの一分間だけよったんだから」とオブロンスキイは答えた。彼は外套の前をぱっとひろげたが、やがてそれも脱いでしまい、レーヴィンを相手に猟のことからはじめて、親密な打明け話をしながら、まる一時間坐りこんでしまった。「まあ、聞かせてくれないか、君は外国でどんなことをしたんだい? どこにいたの?」百姓が出ていったとき、オブロンスキイはこう問いかけた。
「そう、僕はドイツ、プロシャ、フランス、イギリスなどで暮したが、しかし首都じゃなくて、工業都市なんだ。そして、いろいろ新しいことを見てきたよ。僕は行ってよかったと思ってる」
「ああ、君が労働者の厚生問題を考えてるのは、僕も知ってるよ」
「まるで違うよ。ロシヤには労働者の問題なんかありゃしない。ロシヤにあるのは、労働民衆と土地との関係の問題だ。そりゃむこうにもあるけれど、あちらじゃただ破損修理の問題だが、こちらじゃ……」
 オブロンスキイは注意ぶかく、レーヴィンの言葉を聞いていた。
「うん、うん!」と彼はいった。「それはおおきに本当かもしれない」と彼はいうのであった。「しかし、君が元気なので僕もうれしいよ。熊狩りにも行くし、仕事もするし、物ごとに熱中できるんだからな。ところが、僕はシチェルバーツキイに聞いたんだが――君あの男に会ったろう――君はなんだかばかにしょげて、死ぬことばかりいってた……そうじゃないか……」
「それがどうしたっていうんだい? 僕は今でも、死について考えるのをやめてやしないよ」とレーヴィンはいった。「全くだよ、もうそろそろ死んでいいころなので、こんなことはみんなくだらないこったよ。本当のことをいうけれど、僕は自分の思想も仕事も高く評価している。が、全くのところ、考えてみると、このわれわれの世界ぜんたいが、小っぽけな遊星の上に生えた小さな黴《かび》にすぎないじゃないか。それだのにわれわれは、何か偉大なものが、偉大な思想とか事業とかが、現われるように思っているのだからね! そんなものはみんな砂っ粒だよ」
「だって、君、それはこの世界とともに古い言いぐさだよ!」
「古いには違いない、が、これをはっきり理解すると、なんだかいっさいのものがつまらなくなるんだ。今日あすにも死んでしまって、なんにも残らないと思うと、なにもかもがつまらなくなるのさ! 僕も、自分の思想を非常に重大なものと思っているが、よしんばそれが実現されたとしても、この牝熊をせしめるのと同じくらい、けっきょくつまらないことになってしまうんだ。つまり、ただ死ということを考えたくないばっかりに、猟だの仕事だので気をまぎらしながら、一生を送っているわけさ」
 オブロンスキイはレーヴィンの言葉を聞きながら、微妙なやさしい笑いを浮べていた。
「そりゃいうまでもないさ! ところが、君はこのまえ僕のところへきて、ね、覚えてるだろう、僕が生活に享楽ばかり求めるといって、攻撃したじゃないか? だからよ、道学先生、やたらに固いことばかりいうもんじゃないよ!……」
「いや、そりゃなんといったって、人生にはいいこともあるさ……」とレーヴィンはまごついた。「まあ、僕にもわからないんだよ。ただわかっているのは、まもなく死んでしまうってことだ」
「どうしてまもなくだね?」
「ねえ、君、死ということを考えると、人生の魅惑が減ってくるけれど、そのかわり気持はおちつくね」
「いや、あべこべだ、お名残りってものは、よけいにたのしいものさ。だが、僕はそろそろいかなくっちゃ」これでもう十度くらい尻を上げながら、オブロンスキイはこういった。
「まあ、いいじゃないか、もうちょっと話していきたまえ!」とレーヴィンはひきとめながらいった。「今度はいつあえる? 僕はあす出発なんだが」
「僕もどうかしてるよ! そのためにやってきながら、……今夜はぜひ家へ食事にきてくれ。君の兄さんもくるし、僕の義弟のカレーニンもくるから」
「いったいあの人がここにいるのかね?」とレーヴィンはいい、キチイのことをききたいと思った。彼はキチイが冬のはじめにペテルブルグへ行って、外交官夫人になっている自分の姉のところへ滞在していると聞いたが、それから帰ったかどうか知らなかったのである。しかし、思いなおして、きくのをやめた。『来ようと、来まいと、おんなじこった』
「じゃ、来てくれるね?」
「そりゃ、もちろんさ」
「では、五時に、フロックでね」
 オブロンスキイは立ちあがり、下へおりて、新任長官のもとへおもむいた。はたして、本能はオブロンスキイを欺かなかった。恐ろしい新任の長官は、会ってみると、ごく慇懃《いんぎん》な人で、オブロンスキイはこの人といっしょに、昼食のテーブルにむかった。こんなことで、すっかり御輿《みこし》を据えてしまい、カレーニンの部屋へ出かけたのは、もう三時まわったころであった。

[#5字下げ]八[#「八」は中見出し]

 カレーニンは祈祷式から帰ってくると、午前中ホテルですごした。この朝、彼は二つの用件を控えていた。第一は、目下モスクワに滞在中で、これからペテルブルグへ発《た》とうとしている異種族の代表団に接見して、しかるべき指導を与えてやることであり、第二には、弁護士あての手紙を書くことであった。代表団のほうは、カレーニンが自分で呼び出したものではあるが、いろいろ具合の悪いところや、危険のおそれさえ蔵しているので、カレーニンはモスクワで偶然会ったのを、非常に喜んだわけである。代表団の面々は、自分の役目や義務に関して、まるっきり理解をもっていなかった。彼らはただ単純に、自分たちの仕事は、ただ窮状を訴え、実際の状態を陳述して、政府の援助を乞うことであると信じきって、ある種の陳述や要求が、敵方を支持することになり、したがって、なにもかもぶちこわしてしまうということを、てんで理解していないのであった。カレーニンは長いあいだ、彼らを相手に時間をつぶし、一定の行動のプログラムを授けて、その範囲を脱しないようにいい聞かせ、彼らを帰してから後、代表団の指導に関して、ペテルブルグへ送る手紙を書いた。この件については、おもに伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナが、力になってくれるはずであった。彼女は代表団のことに関しては専門家で、彼女ほど各種の代表団に暗示を与え、適当な方向へ動かす腕をもったものは、またと二人ないのであった。この件を片づけると、カレーニンは弁護士あての手紙をもしたためた。彼はいささかの躊躇もなく、独断で行動してよいという許可を与えた。その手紙の中に、例の無理にとり上げた折カバンの中にあった、アンナあてのヴロンスキイの手紙を三通、同封した。
 カレーニンが二度と帰らぬ決心で、家を出て以来――弁護士を訪問して、この男一人だけにでも自分の意図を語って以来――この実生活の事実を、紙の上の事件に移して以来、彼はだんだんと自分の意向に慣れていって、今はその実行の可能を、明白に認めるようなった[#「認めるようなった」はママ]のである。
 彼が弁護士あての手紙を封筒へ入れたとき、オブロンスキイの声高な話し声が耳に入った。オブロンスキイは、カレーニンの従僕といい争って、ぜひ取り次げと主張しているのであった。『どうせ同じことだ』とカレーニンは考えた。『かえって好都合なくらいだ。今すぐあの男におれの立場、あの男の妹に対するおれの立場を打ち明けて、あの男の家で食事をするわけにいかない理由を、説明してやろう』
「お通ししろ!」書類を集めて紙挟みにしまいながら、彼は大きな声でそういった。
「そうら見ろ、きさま、うそついてるじゃないか、ちゃんといらっしゃるくせに!」中へ通さなかった従僕にむかって、こういうオブロンスキイの声が聞え、やがてその当人が、歩き歩き外套をぬぎながら、部屋の中へ入ってきた。「ああ、君に会えてじつにうれしい。では、あてにしてるよ……」とオブロンスキイは、快活な調子でいいだした。
「私はいくわけにいきません」とカレーニンは立ったままで、客にも坐れといわず、冷やかにそういった。
 カレーニンは、離婚の訴訟をはじめようとしている妻の兄にたいして、当然とらなければならぬ態度を、今からすぐとれるものと考えていた。しかし、オブロンスキイの心の岸から溢れ出る、澎湃《ほうはい》たる善良性だけは、彼も計算に入れてなかったのである。
 オブロンスキイは、その輝かしい明朗な目を、大きく見ひらいた。
「どうしてくるわけにいかないの? それはどういう意味なんだね?」と彼はけげんそうにフランス語でいった。「だめだよ、いったん約束したんじゃないか。僕たちはみんな、君をあてにしてるんだからね」
「私のいう意味は、われわれのあいだにあった親戚関係が断絶されなければならぬから、それでいくわけにいかんということです」
「えっ! そりゃまたどうして? なぜ?」とオブロンスキイは、微笑しながらきいた。
「なぜって、私は君の妹と、私の妻と、離婚の訴訟を起そうとしているからです。私はやむをえず……」
 しかし、カレーニンが自分の言葉を語らぬうちに、もうオブロンスキイは、彼にとってぜんぜん意想外の態度に出た。オブロンスキイは「あっ」といって、肘椅子に腰をおろした。
「いや、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、君は何をいうのだ!」とオブロンスキイは叫んだ。苦痛の色がその顔に現われた。
「これはそのとおりなんです」
「失敬ながら、僕はそんなこと信用できない、できない……」
 カレーニンは腰をおろした。自分の言葉が予期の効果を奏さなかったので、どうしても、こまかい説明をしなければならぬが、どんな説明をしたにもせよ、妻の兄と自分との関係は依然かわらないだろう、と感じたのである。
「さよう、私は離婚を要求せねばならぬ、苦しい立場に立たされたのです」彼は言った。
「僕はただ一つだけはっきりいっとくよ、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、僕は君がりっぱな、公明正大な人だってことも知ってるが、またアンナをも知っている――失礼ながら、僕は妹について、自分の意見を変えることはできない。あれはりっぱな人並すぐれた女なんだよ。だから、失礼ながら、僕はそんなことを信じるわけにいかない。そこには誤解があるのだ」と彼はいった。
「そう、もしこれが単なる誤解だったら」
「失敬、そりゃ僕にもわかる」とオブロンスキイはさえぎった。「しかし、もろちん……ただ一つ大事なのは、急いじゃいけない。急いじゃいけない、急いじゃ!」
「私は急がないようにしたんですよ」とカレーニンは冷やかにいった。「しかし、こういう問題については、だれに相談することもできない。そこで私は固く決心した次第です」 
「それは恐ろしいことだ!」とオブロンスキイは、重々しく吐息をついていった。「しかし、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、ただ一つだけ聞いてもらいたいことがあるんだ。お願いだから、それをしてくれたまえ!」と彼はいった。「僕の解する限りでは、事件はまだはじめられていないようだね。だから、君、事件を起す前に、僕の家内と会って、話をしてくれたまえ。家内はアンナを妹のように愛しているし、また君をも愛している。あれは驚くべき女なんだよ。後生だから、ひとつ家内と話をしてみてくれたまえ! それくらいな友情は見せてもいいじゃないか、お願いだ!」
 カレーニンは考えこんだ。オブロンスキイはその沈黙を破ろうとせず、同情の目で相手を見つめていた。
「来てくれるね?」
「さあ、どうしたものかねえ。それだからこそ、君の家へもよらなかったわけで。私の考えでは、われわれの関係は当然かわるべきものです」
「どうして? 僕にはその必要が認められないね。僭越かもしれないか、僕はこう思っている――われわれの親戚関係を別にして、僕がいつも君にたいしていだいている友情と……心からなる尊敬の、せめて何分の一かにせよ、君のほうでも僕にたいして持っていてくれる、とね」オブロンスキイは彼の手を握りしめながらいった。「たとえ君の最悪な想像が、万一ほんとだったとしても、僕は君がたのどちらがいいとか、悪いとかそんな批判はしやしない、また先々《さきざき》も決してしないつもりだ。だから、なぜわれわれの関係が一変しなくちゃならないか、その理由がわからないんだよ。しかし、今はまず一つだけ頼む、家内のところへ来てくれたまえ」
「いや、われわれはこれについて、見方が違っているわけです」とカレーニンは、冷たい調子でいった。「しかし、もうこの話はしないことにしましょう」
「いや、君、どうして今夜うちへ食事に来ちゃいけないんだね? 家内は君を待ちこがれてるのに。どうか来てくれたまえ。第一、あれと話しあってみてもらいたいんだ。あれは驚くべき女なんだから。後生だ、膝をついて頼むよ!」
「それほどお望みなら、行くことにしましょう」とカレーニンは、ほっとため息をついていった。
 それから、話題を変えるために、彼は両人ながら興味のある問題について、質問をはじめた。それはまたさほどの年配でもないのに、突然ああいう高い地位に任命された、オブロンスキイの新しい長官のことであった。
 カレーニンは前からアニーチキン伯爵が嫌いで、つねづね意見を異《こと》にしていたが、今は栄達した同僚にたいして、勤務に失敗した人間のいだくような憎悪を、禁ずることができなかった。これは、官吏にはよくわかる気持である。
「え、どうだね、君、会ったかね?」毒を含んだ微笑を浮べて、カレーニンはこうきいた。
「それどころか、きのう役所へやって来ましたよ。あの人はどうやら事務に精通していて、なかなかの活動家らしいね」
「そう、しかしその活動が、何に向けられてるかね?」とカレーニンはいった。「仕事をするためか、それとも人のしたことをやりなおすためか? わが国の不幸は、紙の上の行政というやつだが、彼はその方面のりっぱな代表者だね」
「どうも僕には、あの人のいかなる点を非難すべきか、よくわからないがね。あの人の思想的傾向は知らないけれども、ただ一つ――あの人がなかなか話せる男だってことだけは確かだね」とオブロンスキイはいった。「僕は今、あの人のとこへよってきたんだが、全く話せるね。二人でいっしょに昼食をしてね、僕ひとつ伝授してあげたよ――君あの飲みものを知ってる?――蜜柑入りの葡萄酒さ。あいつはじつにせいせいするね。しかも、驚いたことには、あの人はそれを知らないんだからね。すっかりお気に召したようだ。いや、全くあの人は話せるよ」
 オブロンスキイは時計を見た。
「やっ、たいへん、もう四時まわった。僕はまだこれからドルゴヴーシンのとこへよらなくちゃならないんだ! じゃ、どうか食事に来てくれたまえ。もしこなかったら、僕も家内もどれだけがっかりするか、君、想像もつかないほどだよ」
 カレーニンは義兄を見送ったが、はじめ迎えたときとは、すっかり態度が違っていた。
「約束した以上きっと行くよ」と彼は張りのない声で答えた。
「全くのところ、ぼく恩に着るよ。それに、君も後悔しないだろうと思うよ」とオブロンスキイは、にこにこしながら応じた。
 それから、歩き歩き外套を着ようとして、手がボーイの頭にさわると、からからと笑って出て行った。
「五時だよ、フロックでね。どうぞ!」戸口までひっ返して、彼はもう一度こう叫んだ。

[#5字下げ]九[#「九」は中見出し]

 もう五時すぎていた。当の主人公が帰ってきたときには、もう二三人の客が集っていた。彼はセルゲイ・イヴァーノヴィッチ・コズヌイシェフと、ペスツォフといっしょに入ってきた。車寄せのところでぶっつかったのである。この二人は、オブロンスキイのいわゆる、モスクワ・インテリゲンチヤのおもなる代表者であった。彼らは二人ながら、性格からいっても、頭脳からいっても、尊敬に値する人物であった。彼らは互に尊敬しあってはいたものの、ほとんどあらゆる点で、全く手のつけられぬほど意見が食い違うのであった――それは、彼らが相反せる党派に属していたからではなく、同一の陣営に属していたからにほかならぬ。敵は彼らを一つに混同していたが、この陣営の中でおのおのが、それぞれ自分のニュアンスをもっていたのである。しかも、意見の相違でも、半ば抽象的な問題に関する場合ほど、一致させにくいものはないので、彼らは未だかつて、意見の一致を見たことがないばかりか、もう久しい前から、互に相手の度し難い迷妄《めいもう》を、腹もたてないで笑うような習慣になってしまった。
 オブロンスキイが追いついたとき、彼らは天気の話をしながら、戸口へ入ろうとするところであった。客間にはアレクサンドル・ドミートリッチ・シチェルバーツキイ公爵、若いシチェルバーツキイ、トゥロフツィン、キチイ、それにカレーニンが座についていた。
 オブロンスキイは、自分のいないために、客間がぐあいよくいっていないのを、一目で見てとった。ドリイは灰色の絹の晴着をきていたが、子供らが子供部屋で別に食事をしなければならぬのと、良人がいつまでも帰らないので、気をもんでいるらしく、良人の助けなしには、この一座をよくつきまぜることができないのであった。みんなお客に呼ばれた坊さんの娘のように(これは老公の言いぐさであった)なんのためにこんなところへ落ちあったのか、がてんがいかぬという様子だったが、ただ黙っているわけにいかないために、言葉を絞り出しているのであった。お人好しのトゥロフツィンは、明らかに、とんでもないとこへ舞いこんだという形で、オブロンスキイを迎えたとき、厚い唇に浮べた微笑は、まるで言葉とおなじように、『いやあ、君、えらい賢人たちの中に坐らしたもんだなあ! どうも花屋敷《シャトー・デ・フルール》でいっぱいやるのなら、お手のもんだが』といっていた。老公爵は無言のまま、ぎらぎら光る小さい目で、カレーニンをじろじろ横目に見ていた。で、オブロンスキイは、すぐに悟ってしまった――まるで蝶鮫《ちょうざめ》かなんぞのように客人たちのおもなご馳走にされているこの天下の名士を形容するために、老公は何かうまい言葉を考えついたのである。キチイは、コンスタンチン・レーヴィンが入ってくるとき、顔を赤らめないために、緊張して戸口の方をながめていた。だれもカレーニンに紹介してくれなかった若いシチェルバーツキイは、そんなことは自分にとって平気だ、というようなふりをつとめて見せていた。当のカレーニンは、ペテルブルグの習慣で、婦人同席の晩餐のために、燕尾服に白いネクタイをつけていた。彼はただ約束を守るためにきただけであって、この席にいるのは苦しい義務を果すに等しいのを、オブロンスキイはその顔つきで察した。彼こそは、オブロンスキイが帰ってくるまでに、客一同に冷たい気持をいだかせていたおもな原因なのであった。
 客間へ入ると、オブロンスキイはまず平謝りに謝って、さる公爵にひきとめられていたのだといいわけした。それは彼が遅刻したり不参したりするとき、いつもだしに使われる身代りの山羊なのであった。それから、彼はたちまちのうちに一同を紹介して、カレーニンとコズヌイシェフを組みあわせ、ポーランドのロシヤ化というテーマをあてがったところ、二人のほか、ペスツォフまでがいっしょになって、さっそくそれに食いついた。さて今度は、トゥロフツィンの肩を叩いて、何か滑稽なことをささやいた後、妻と公爵のそばへ坐らせた。そのあとで、彼はキチイに、今日は格別きれいだよといって、若いシチェルバーツキイをカレーニンに紹介した。こうして、瞬く間に、この席にいる人間の捏粉《こねこ》をつきまぜたので、客間はそれこそ、どこへ出しても恥ずかしくないようになり、人々の声が活溌に響きはじめた。ただレーヴィンだけが見えなかった。しかし、それがかえってしあわせであった。というのは、オブロンスキイが食堂へ出て見ると、驚いたことに、ポートワインとシェリイ酒がレヴェーの店でなく、デプレの店からとったものであった。で、彼は一刻も早く、馭者をレヴェーの店へやるように指図して、客間へひっ返した。
 すると、食堂でコンスタンチン・レーヴィンに行き会った。
「僕おくれなかったかい?」
「いったい、君が遅れないですまされる男かね?」とオブロンスキイは、彼の腕をとっていった。
「お客はおおぜいなのかい? だれとだれ?」手袋で帽子の雪をはらいながら、レーヴィンは心にもなく、顔を赤らめてきいた。
「みんな内輪の人ばかりだよ。キチイも来ているよ。さあ、行こう、君をカレーニンに紹介するから」
 オブロンスキイは、自由主義者であるにもかかわらず、カレーニンと知己になるのが、だれしもうれしくないはずはないと承知していたので、自分の親しい友人たちにはこれをご馳走としていた。けれども、この瞬間のレーヴィンは、こういう知己のありがたみを感じることのできない状態にあった。もしあの街道で見うけたときを勘定に入れなければ、彼はヴロンスキイに出会ったあの記憶すべき夜会からこのかた、キチイに一度も会っていないのである。彼は心の深い奥底では、今日こそここで会える、ということがわかっていた。しかし、自分の考え方の自由を保持するために、自分はそんなことなど知らないのだと、強《し》いて自分で自分にいい聞かせていた。ところが今、彼女がここにいると聞いたとき、レーヴィンは突然なんともいえぬ喜びと、同時におなじくらいな恐怖を感じたので、彼は息がつまって、いおうと思うことが口から出なかった。
『いったい、いったいあのひとは、今どんなかしらん? 前と同じようか、それともあの馬車のなかで見かけたようなのかしらん? もしダーリヤ・アレクサンドロヴナのいったことが本当だったら? しかし、本当でないって理屈もないじゃないか?』と彼は考えるのであった。
「あっ、どうかカレーニンを紹介してくれたまえ」やっとのことでこういって、彼はやけみたいな決然たる足どりで、客間へ入った。と、彼女が目に入った。
 キチイは前のようでもなければ、馬車の中みたいでもなく、全く別人であった。
 彼女はおびえたような、おずおずした、恥じしめられたような表情をしていたが、そのためさらに美しかった。彼女は、レーヴィンが部屋へ入ってきた瞬間に彼を見とめた。彼女は彼を待っていたのである。キチイは飛び立つほどうれしかったが、そのうれしさがわれながらきまり悪く、レーヴィンが主婦のそばへよっていきながら、もういちど自分の方をふり返ったときなどは、彼女自身も、レーヴィンも、いっさいの様子を見ていたドリイでさえも、彼女がこらえきれなくなって泣き出しはせぬか、と思ったくらいである。彼女は、さっと赤くなったかと思うと、まっさおになり、また顔を赤らめて、かすかに唇をふるわせ、彼のくるのを待ち受けながら、そのままじっとしていた。レーヴィンはそのそばへいって、腰をかがめ、黙って手をさしのべた。もし唇が軽くふるえていず、目がうるんで光を増さなかったら、その微笑はほとんど平静なものといえたであろう。彼女は微笑とともに、こういった。
「ずいぶん久しくお目にかかりませんでしたわね!」彼女はそういって、同じくやけに近い決然たる態度で、レーヴィンの手を冷たい手で握りしめた。
「あなたは、僕をごらんにならなかったかも知れませんが、僕のほうはあなたをお見かけしましたよ」とレーヴィンは幸福の微笑に輝きながらいった。「僕がお見かけしたのは、あなたが停車場からエルグショーヴォヘいらっしゃるときなんです」
「いつですの?」と彼女は驚いてたずねた。
「あなたが馬車で、エルグショーヴォヘいらっしゃる途中でした」魂に溢れる幸福感にむせかえりそうな気がして、レーヴィンはこういった。『いったいどうしておれはこのしおらしい少女に、何か無垢《むく》でないような考えを、結びつけることができたのだろう? そうだ、ダーリヤ・アレクサンドロヴナのいったことは、本当らしい』と彼は考えた。
 オブロンスキイは彼の手をとって、カレーニンのところへ連れていった。
「紹介させてもらいます」と彼は両方の名をいった。
 「重ねてお目にかかれて、欣快《きんかい》の至りです」レーヴィンの手を握りながら、カレーニンは冷やかにいった。
「え、君たちはもう知りあいなの?」とオブロンスキイはびっくりして、たずねた。
「僕たちは汽車のなかで、三時間いっしょにすごしたんだよ」とレーヴィンは微笑しながらいった。「ところが、まるで仮装舞踏会に巻きこまれたようなことになってしまってね――少なくとも、僕はそうだった」
「へえ、それはそれは! では、どうぞ皆さん」とオブロンスキイは、食堂の方を指さしながらいった。
 男たちは食堂へ入って、前菜《ザクースカ》ののっているテーブルへ近よった。そこには六種類のウォートカと、同じく六種類のチーズ――それには大きな銀の平匙のついているのも、ついていないのもあった――イクラ、鰊《にしん》、各種の罐詰類、それに薄く切ったフランス・パンなどがのっていた。
 男たちは立ったまま、香りの高いウォートカと前菜を囲んだ。そこで、コズヌイシェフと、カレーニンと、ペスツォフのあいだにかわされていた、ポーランドのロシヤ化論は、食事を待ち受ける気持のために、だんだん下火になった。
 コズヌイシェフはきわめて抽象的で、真剣な議論にけりをつけるため、思いがけなくアテネの塩([#割り注]気のきいた、しかも上品な洒落[#割り注終わり])をふりかけて、それでみんなの気分を一変することにかけては、肩を並べるもののない名人であったが、今もその手をつかった。
 カレーニンは、ロシヤの行政府が高遠な主義、原則を導入することによってのみ、ポーランドのロシヤ化は達成されうると論証した。
 ところがペスツォフは、一つの国民が他の国民をおのれに同化させるのは、その国がより以上人口|稠密《ちゅうみつ》である場合に限る、と主張するのであった。
 コズヌイシェフはそれを両方とも認めたが、しかし条件つきであった。彼らが客間を出ていくとき、コズヌイシェフは話にけりをつけてしまうために、にこにこしながらこういった。
「だから、異民族をロシヤ化する方法は、たった一つしかない――つまり、できるだけ子供をたくさんつくることです。ただ私や弟は、だれよりも働きがないわけですよ。ところで、諸君のように結婚されたかたがたは、ことにオブロンスキイ君などは、完全に愛国的な行動をとっていられることになりますね。お宅はいったいおいくたりです?」愛想よく主人にほほえみかけて、小さな杯をつきつけながら、彼はこう問いかけた。
 みんな声を揃えて笑い出したが、とりわけオブロンスキイの声が楽しそうに響いた。
「そう、それが一番いい方法ですなあ!」といい、チーズをむしゃむしゃやりながら、彼は何かしら特別な種類のウォートカを、つきつけられた杯に注いでやった。はたして、議論は洒落《しゃれ》でおしまいになった。
「このチーズは悪くないですよ、いかがです?」と主人はいった。「いったいきみは、また体操をやりだしたのかい?」と彼はレーヴィンの方へ向いて、左の手で彼の筋肉を探ってみた。レーヴィンはにっこり笑って、腕に力を入れた。すると、オブロンスキイの指の下には、鋼鉄のごとき肉の塊りが、まるで丸玉チーズのように、フロックの薄地ラシャをもち上げた。
「これこそ本当の二頭筋だ! ようよう、今サムソン!」
「熊狩りには、さぞ非常に力が要《い》るでしょうな」猟についてはきわめてばくぜんたる観念しかもたぬカレーニンは、蜘蛛の巣のように薄いパンの軟かなところにチーズを塗って、それに穴をあけながらたずねた。
 レーヴィンはにやっと笑って、
「決して。それどころか、子供にだって熊ぐらい殺せますよ」と彼はいいながら、主婦とともに前菜《ザクースカ》のテーブルに近づいてきた婦人たちに、軽く会釈しながら脇へつめた。
「あなた、熊をお殺しになったんですってね、わたしそういう噂を聞きましたわ」いうことをきかぬ滑《すべ》っこい茸《きのこ》をフォークで刺そうと、空しい努力をしながら、腕の透いて見えるレースをふるわせていたキチイは、こう問いかけた。「いったいお宅のほうには熊がおりますの?」美しい首を半ば彼の方へ向けて、彼女はにこやかにつけ加えた。
 彼女のいったことには、何もべつだん変ったところもなさそうであったが、彼女がそういったとき、その言葉の一つ一つの響きも、唇、目、手などの動きの一つ一つにも、なにか言葉に現わせぬ意味があるように、レーヴィンには思われた。そこには赦罪の哀願もあれば、彼にたいする信頼もあり、愛撫、優しい臆病な愛撫もあり、約束もあり、希望もあり、彼にたいする愛もあった。彼はそれを信じないわけにいかず、幸福感に息がつまりそうであった。
「いや、僕たちはトヴェーリ県へ行ったのです。その帰り、汽車の中であなたの義兄《ボー・フレール》に、いや義兄《ボー・フレール》の義弟にお会いしたわけです」と彼は微笑を含みながらいった。「それはこっけいな遭遇でしたよ」
 それから、彼は愉快そうな調子でおもしろおかしく夜っぴて眠らないで、半外套のまま、カレーニンの室へ闖入《ちんにゅう》した次第を物語った。
「車掌のやつ、ことわざとは反対に、見なりを見て僕を追い出そうとしたものですから、そこで僕ももう大げさな言葉をつかって、弁じはじめたわけです。それに……あなたもやはり」と彼は名前と父称を忘れて、カレーニンに話しかけた。「はじめはその半外套のために、僕をつき出そうとされましたが、あとで味方になって下さいましたね、その点は大いに感謝しています」
「概して、旅客の座席選定の権利は、すこぶるばくぜんとしておるのでね」とカレーニンは、ハンカチで指の先を拭きながらいった。
「お見うけしたところ、あなたは僕のことを、なんとも決めかねるご様子でしたね」とレーヴィンは、人の好い微笑を浮べながらいった。「でも、僕は自分の行為を償おうと思って、大急ぎで利口そうな会話をはじめたものです」
 コズヌイシェフは主婦と話をしながら、片耳で弟の言葉を聞いて、そのほうを横目で見た。『あいつ今日はいったいどうしたんだろう? あんな勝ち誇ったような様子をして』と彼は考えた。レーヴィンが、心に翼が生えたような気持でいることを、彼は知らなかった。ところがレーヴィンは、彼女が自分の言葉を聞いていることも、また聞くのが楽しいことも、ちゃんとわかっていたので、ただそれだけしか考えなかったのである。単にこの部屋ばかりでなく、全世界に存在しているものは、自分自身にとって大きな意義と、重大性をおびてきた彼自身と、彼女ばかりだったのである。彼は、目もくるめくばかりの高みに立っているような気がした。どこかはるか下の方で、あの善良な愛すべきカレーニンや、オブロンスキイや、その他、世界中のものがうようよしている。
 オブロンスキイはそっと気のつかないように、二人の方には目もくれず、もうどこにも坐らせるところがないようなふりをして、レーヴィンとキチイを並べて坐らした。
「まあ、君、ここにでも掛けたまえ」と彼はレーヴィンにいった。
 料理も器《うつわ》も両方ともよかった。オブロンスキイは、食器類の好事家《こうずか》だったのである。マリー・ルイズ式のスープもりっぱにできたし、口の中で溶けるような小さい肉饅頭《ピロシキー》も、申し分なかった。白ネクタイをしめた二人の従僕とマトヴェイは、目立たぬように、静かに、手っとり早く、料理と酒のせわをした。宴会は物質的方面では大成功であったが、非物質的方面の成功も、おさおさ劣らなかった。ときには食卓ぜんたいの、ときには分れわかれの会話は、やむ暇がなく、食事の終りごろには、はなはだしく活気を呈して、男たちはしゃべりつづけながらテーブルを離れ、カレーニンすらいきいきしてきたほどである。

[#5字下げ]一〇[#「一〇」は中見出し]

 ペスツォフは、最後まで論じつめることが好きだったので、コズヌイシェフの言葉に満足しなかった。ことに、自分の意見の正しくないことを感じていたから、なおさらであった。
「私がいったのは」と彼はスープのときに、カレーニンに話しかけた。「人口の稠密ということばかりじゃありません。主義主張でなく、もっと根本的なものと結合しての話です」
「私の考えでは」とカレーニンはゆっくりと、張りのない声で答えた。「それは要するに同じことですよ。私にいわせれば、他国民を同化させうる国民というのは、一段たかい発達を遂げていて……」
「しかし、そこが問題なのですよ」とペスツォフは、厚みのあるバスでさえぎった。彼はいつもせきこんで話をし、自分の話していることに、全精神を集中するたちであった。「一段高い発達というものは、なんと解釈したらいいのです? イギリス人と、フランス人と、ドイツ人と、いったいどれが上に立っていると思います? このうち、他を同化させるのは何人《なんにん》でしょう? ラインがフランス化されたのは、現にわれわれの見るところですが、しかしそれかといって、ドイツ人のほうが劣っていはしません!」と彼は叫んだ。「そこには別の法則があります!」
「私の見るところでは、感化力は真の教養の側にあるようですな」カレーニンはかすかに眉を上げながらいった。
「しかし、その真の教養の徴候を、何に求めるべきでしょう?」とペスツォフは反問した。
「その徴候は周知の事実だと思いますが」とカレーニンはいった。
「さあ、完全に周知の事実といえるでしょうか?」とコズヌイシェフは皮肉な微笑をうかべて、口を入れた。「今日《こんにち》、真の教養は純古典([#割り注]ギリシャラテン語[#割り注終わり])教育のほかにはない、と認められていますが、しかし二つの陣営に激烈な論争がかわされているのは、われわれの目撃しているところです。しかも、反対側も自説を擁護する有力な論拠があることは、否定することができませんからね」
「あなたは古典教育派ですね、セルゲイ・イヴァーノヴィッチ。ときに、赤葡萄酒はいかがです?」とオブロンスキイはいった。
「私は古典教育と実科教育のどちらについても、自分の意見を吐くわけにいきません」とコズヌイシェフはコップをさしだしながら、まるで子供を相手にするような、わざとらしい寛大の微笑をうかべて、こういった。「私がいうのは、両方とも有力な論拠をもっている、ということです」と、カレーニンの方へ向きながら、言葉をつづけた。「私は、受けた教育からいえば古典派なのですが、この論争では個人として自分のいるべき場所がわからん始末です。なぜ古典的な学課が、実科的のそれに比べて優越を認められているか、私にははっきりした論拠がわかりかねるのです」
「自然科学も同様に、教化開発の影響力をもっておりますよ」とペスツォフがひきとった。「まあ、天文学をごらんなさい、植物学をごらんなさい、一般法則のシステムをもった動物学をごらんなさい!」
「私は、それにぜんぜん賛成というわけにいきません」とカレーニンは答えた。「私の目から見ると、言葉の形式を研究する課程そのものが、精神的発達にかくべつ好影響を与えるということを、認めんわけにはいかないと思います。のみならず、古典作家の影響がきわめて道徳的であるのに比して、自然科学の教授には、現代の病毒を形づくっている有害な、偽りの教えが結びついている事実をも、否定することができません」
 コズヌイシェフは何かいおうとしたが、ペスツォフが持ち前の太いバスでさえぎった。彼は熱くなって、カレーニンの説のあやまりを論証しはじめた。コズヌイシェフは悠然として、その言葉が終るのを待っていた。明らかに、一挙にして敵を粉砕する駁論《ばくろん》を用意しているらしい。
「しかし」とコズヌイシェフは微妙な笑みをうかべて、カレーニンの方へ向きながらいった。「古典と実科の教育の利害得失を完全に計量するのが、困難なわざであることは申すまでもありません。したがって、そのいずれをとるべきかという問題も、そう早急《さっきゅう》に最後的の解決をつけることはできないわけでありますが、しかし古典教育の側には、ただいまあなたのおっしゃった道徳的な優越、disons le mot(まあいってみれば)反虚無主義的影響という優越がある」
「もちろんです」
「もし古典教育の側に、この反虚無主義的影響という優越がなかったら、われわれは両方の論拠を衡《はかり》にかけて、もっともっと長く考えこんで」とコズヌイシェフは、微妙な笑みをうかべながらつづけた。「両方の主張を発展させたことでしょう。しかし、今のところ、われわれはこの古典教育という丸薬の中に、反虚無主義の特効があることを承知しているので、敢然《かんぜん》とこれを患者たちにすすめているわけです……ところで、もしその特効がなかったら?」例のアテネの塩をふりまきながら、彼はこういった。
 コズヌイシェフの丸薬には、みんなどっと笑い出した。ことにトゥロフツィンは大きな声で、陽気な笑いを爆発させた。みんなの話を聞きながら、今かいまかと待ち受けていた笑いの機会に、やっとめぐりあわせたわけである。
 オブロンスキイがペスツォフを招待したのは、誤算でなかった。ペスツォフがいるために、知的な会話は一|刻《とき》もやむ間がなかった。コズヌイシェフがその洒落で話を結ぶが早いか、さっそくペスツォフが新しい話をはじめた。
「いや、政府がそういう目的をもっていたということにさえ、賛成するわけにはいきません」彼はいった。「明らかに、政府は一般的な考量に基づいて行動しているので、自分の採用した方策がどんな影響をもつかということには、無関心でいるのです。たとえば、女子教育の問題などは当然、害ありと認められて然るべきにもかかわらず、政府は女のために各種の学校や、大学を開いているじゃありませんか」
 そこで、会話は一足飛びに、女子教育の問題へ移った。
 カレーニンはこういう意見を吐いた。女子教育はふつう、婦人の自由の問題と混同されるので、ただそれがために、有害なものと認められるおそれがある。
「私はその反対に、この二つの問題は、切っても切れぬ関係で結びつけられている、と思いますな」とペスツォフはいった。「これは似て非なる循環小数です。つまり、婦人は教育の不足のために権利を奪われている。ところで、教育の不足は権利の欠如からきている、というやつですよ。婦人の隷属《れいぞく》があまりに大きくて根ざし深いので、われわれは自分たちと女性を隔てている深淵を、理解しようとしないことがしばしばある、それを忘れてはなりません」と彼はいった。
「あなたは権利といわれましたが」とコズヌイシェフは、ペスツォフの口をつぐむのを待って、こういった。「それは、陪審員の地位を占める権利、市町村の議員や議長になる権利、官公吏に就職する権利、国会議員に選出される権利……」
「もちろんです」
「しかしですな、もし女が、よしんば少数の例外としてでも、そういった地位を占めることができたにしろ、あなたのおっしゃる『権利』という言葉の使い方は、正しくないように思われますよ。それより『義務』といったほうがより正確ですね。これはだれしも異存のないことと思いますが、われわれは何かの職務――陪審員とか、町会議員とか、電信局員とかの職務を履行するとき、義務を果しているという感じがします。したがって、婦人は義務を求めているのだと、こういうのがいっそう正確なのであって、しかも彼らの要求は全く合法的です。だから、われわれとしては、一般男子の労働に力をかしたいという婦人たちのこの希望に、ただただ同感を表するよりほかありません」
「全くお説のとおりですな」とカレーニンが相槌《あいづち》を打った。
「問題はただ、私の考えでは、はたして彼らがこの義務を遂行しうるか、どうかにあります」
「おそらく、大いに遂行しうるでしょうよ」とオブロンスキイは口をはさんだ。「婦人のあいだにも、教育が普及してきましたらね。現にわれわれも見るとおり……」
「ところで、あのことわざはどうですな?」もう前から一座の話に耳を傾けていた公爵は、皮肉そうな小さい目を輝かせながらいいだした。
「娘の前だからかまいません。髪の毛は長いが([#割り注]智恵は短い[#割り注終わり])……」
「ネグロについても、解放前はみんなそう思っていたものです!」とペスツォフは怒ったようにいった。
「私はただね、女が新しい義務を求めているのが、ふしぎだと思うのです」とコズヌイシェフはいった。「なにしろわれわれは不幸にして、男がそいつを避けよう避けようとしているのを、目撃させられているんですからね」
「義務は権利と結びついておりますよ、力、金、名誉――それを女は求めておるんですよ」とペスツォフはいった。
「それはちょうど、わしが乳母になる権利を求めて、女は給金をもらっておるのに、わしにはくれないといって怒るのと、おんなじようなわけだよ」と老公爵はいった。
 トゥロフツィンは、どっとくずれるような笑い声を立てた。コズヌイシェフは、これをいったのが自分でないのを残念に思った。カレーニンさえにっと笑った。
「さよう、しかし男は乳を飲ませることができないけれども」とペスツォフはいった。「女のほうは……」
「いや、あるイギリス人は汽船の中で、自分の赤ん坊をミルクで大きくしましたよ」自分の娘たちの前で、わざとこんな思い切った話をもちだしながら、老公爵はそういった。
「そういうイギリス人の数だけ、女も官吏になれるわけですな」と、今度こそコズヌイシェフがいった。
「そう、しかし家庭のない娘は、どうしたらいいでしょう?」とオブロンスキイは、チビーソヴァのことを思い出して、こう口を入れた。彼は始終この娘のことを頭におきながら、ペスツォフの説に同感し、それを支持していたのである。
「もしその娘の身の上をよく調べてみたら、きっとそれは自分の家庭か姉の家をすてて、出て行ったってことがわかりましょうよ。そこにいれば、女らしい仕事も見つかったでしょうにね」思いがけなくドリイが話に割りこんで、いらだたしげにそういった。おそらく、オブロンスキイがどういう娘を頭においていたかを、察したものらしい。
「しかし、われわれは主義を、理想を擁護します!」とペスツォフは、よくとおるバスで抗言した。「女は教育のある独立独歩の人間となる権利を、もちたがっているのです。ところが、それができないという意識のために、圧倒され、屈服させられているのです」
「ところが、わしは乳母として、育児院に採用してもらえんので、圧倒され、屈服させられておるですよ」とまた老公爵はいって、トゥロフツィンを夢中になるほど喜ばせた。彼は笑ったひょうしに、アスパラガスの太い根もとのほうを、ソースの中へ落してしまった。