『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」5-26~5-33(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]二六[#「二六」は中見出し]

「え、どうだった、カピトーヌイチ?」誕生日の前の散歩から帰ってきて、高い背のてっぺんから少年を見おろして、にこにこしている年とった玄関番に、襞《ひだ》の入った袖なし外套を渡しながら、楽しげに頬を赤くしたセリョージャは問いかけた。「どう、今日あの頬《ほ》っぺたを縛った役人が来た? パパはお会いになった?」
「お会いになりました。ただ、事務主任さんがお帰りになったばかりのところへ、わたくしがお取次ぎいたしましたので」と玄関番は愉快そうに目くばせしながらいった。「さあお入りあそばせ、お脱がせしますから」
「セリョージャ!」とスラヴ人の家庭教師が、奥へ通ずる戸口に立ちどまって、こういった。
「自分でお脱ぎなさい」
 けれども、セリョージャは家庭教師の弱々しい声を聞きながら、その方へなんの注意も向けなかった。彼は片手で、玄関番の帯につかまったまま、じっと立って、その顔をながめていた。
「それでどう、パパはあの役人にちゃんとしておやりになった?」
 玄関番はうなずいて見せた。
 もう七度もカレーニンのところへなにやら頼みに来た、頬っぺたを縛った役人は、セリョージャにも玄関番にも興味をいだかせた。セリョージャは一度、玄関でこの男に出会って、この男が、わたくしはおおぜいの子供をかかえて饑え死にしそうですから、などといいながら、哀れっぽい声でなにやら玄関番に頼んでいるのを聞いたのである。
 それから、もう一度この役人に玄関で出会ったので、それ以来セリョージャは、すっかりこの役人に興味をもってしまった。
「どう、とても喜んでいた?」と彼はきいた。
「そりゃもう、大喜びでございましたよ! もう小躍《こおど》りしながら、帰っていきました」
「何か持ってきた?」しばらく黙っていた後、セリョージャはこうたずねた。
「そりゃ、坊っちゃん」と玄関番は頭をふりながら、小さな声でいった。「伯爵夫人からお届けになりました」
 セリョージャはすぐに悟った。玄関番がいったのは、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナからきた、誕生日の贈り物なのである。
「え、なんだって? どこにあるの?」
「コルネイが、パパさまのところへ持ってまいりました。きっとけっこうなものでございましょう」
「どれくらいの大きさ? これくらい?」
「もうちょっとちいさそうございますが、それでもけっこうでございます」
「ご本?」
「いいえ、別のものでございます。いらっしゃいまし、いらっしゃいまし、ヴァシーリイ・ルキッチが呼んでおられます」しだいに近づいてくる家庭教師の足音を聞きつけて、自分の帯をつかまえている、半分手袋をぬぎかけた手をそっと開いて、ヴーニチのほうに目くばせしながら、玄関番はこういった。
「ヴァシーリイ・ルキッチ、ただいま!」とセリョージャは楽しげな、愛情にみちた微笑を浮べて、そう答えた。この微笑は、いつも規則ただしいヴァシーリイ・ルキッチを、負かしてしまうのであった。
 セリョージャはあまりにも楽しく、あまりにも幸福だったので、自分の親友である玄関番に、家庭的な喜びを分たずにはいられなかった。それは夏の公園《レートニイ・サード》で、リジヤ・イヴァーノヴナの姪から聞いたのである。この喜びは、頬っぺたを縛った役人の喜びと、玩具を持ってきてもらった自分の喜びと符合しているために、かくべつ重大に思われたのである。今日はみんなが喜んで、浮きうきしなければならぬ日であるように、セリョージャには思われた。
「おまえ、知ってる、パパがアレクサンドル・ネーフスキイをおもらいになったのを?」
「知らないでなんといたしましょう! もうお祝いのかたがたが見えました」
「どう、パパよろこんでらっしゃる?」
「陛下さまのお恵みを、どうして喜ばずにおられましょう。つまり、それだけのお働きをなさったのでございますからね」と玄関番はいかつい、まじめな顔をして答えた。
 セリョージャは、こまかい点まで研究し尽した玄関番の顔、ことに、頬髯の間からさがっている頤《おとがい》に見入りながら、じっと考えこんだ。この頤は、セリョージャのほかだれも見たことがない、というのは、いつも下からしか見ないからである。
「で、おまえの娘は、もうとっくに訪ねてきた?」
 玄関番の娘はバレーの踊り子であった。
「どうしてふだんの日にこられるものですか? あれだってやっぱり、勉強がありますからね。坊ちゃんももう勉強でございますよ、早くいらっしゃいまし」
 部屋へ入ると、セリョージャは勉強机にむかおうともせず、今日とどけてもらった贈り物は、きっと機械だろうという想像を、家庭教師にいいだした。
「先生どうお思いになります?」と彼はきいた。
 しかし、ヴァシーリイ・ルキッチは、二時ということにきまっている教師がくるまでに、文法の予習をしておかなければならぬと、ただそのことばかり考えていた。
「ねえ、先生、ちょっといって聞かせて下さい」もう勉強机にむかって、本を手にとりながら、セリョージャはふいにいいだした。「アレクサンドル・ネーフスキイより上の勲章はなんでしょう? 先生ごぞんじですか、パパがアレクサンドル・ネーフスキイをおもらいになったことを?」
 ヴァシーリイ・ルキッチは、アレキサンドル・ネーフスキイの上はヴラジーミルだ、と答えた。
「その上は?」
「一番上はアンドレイ・ペルヴォズヴァンヌイです」
「じゃ、アンドレイの上は?」
「知りません」
「え、先生でも知らないんですって?」それからセリョージャは両|肘《ひじ》ついて、物思いに沈んだ。
 彼の物思いはきわめて複雑な、多種多様のものであった。彼はこんなことを空想した。もしパパが一時に、ヴラジーミルもアンドレイももらったらどうだろう、そうしたら、きょう勉強の時間にずっと優しくしてくれるだろう。自分も大きくなったら、ありったけの勲章をみんなもらった上に、アンドレイより上のさえ考え出す。考え出したらすぐもらってしまう。人がそれより上のを考え出すと、自分はたちまちそれをもらうのだ。
 そういう物思いのうちに、時がたってしまった。教師がやってきたとき、時と、場所と、行為の状況に関する宿題ができていなかった。そのために、教師は不満に思ったばかりでなく、情なさそうな顔をした。この教師の顔つきは、セリョージャの心を動かした。彼は宿題を諳記《あんき》しなかったのを、悪いとは思わなかった。彼はどんなに努力してみても、どうしてもできないのであった、教師が説明しているあいだはそれを信用し、なんだかわかったような気がしているが、一人になるが早いか、『ふいに』という短いわかりきった言葉が、行為のありさまを示す状況詞[#「行為のありさまを示す状況詞」に傍点]だなどということを、どうしても思い出し、理解することができなかったのである。が、それにしても、彼は教師に情ない思いをさせたのが、気の毒でならなかった。
 教師が黙って本を見ている時を捕えて、彼はいいだした。
「ミハイル・イヴァーヌイチ、先生の命名日はいつですか?」と彼はふいにたずねた。
「あなたはそれより、勉強のことを考えたほうがいいのです。理性をもった人には、命名日なんてなんの意味もありゃしません。ほかの日と同じことで、やっぱり勉強しなくちゃならないのです」
 セリョージャはじっと注意ぶかく、教師の顔、うすい頤鬚、鼻の段より下にさがっている眼鏡などをながめながら、すっかり考えこんでしまって、もう教師の説明することなど、何一つ耳に入らなかった。彼は、教師が自分のいうことを考えていないのを悟った。それは、その語調で感じられるのであった。
『でも、なんだってみんな、申しあわせたように、いつもおんなじやりかたで、いつも退屈な、要もないことばかりしゃべっているのだろう? なんだってこの人たちは、僕をつき放すようにするんだろう、どうして僕を好いてくれないんだろう?』と憂愁の念をいだきながら、彼は考えたが、答えを考えつくことはできなかった。

[#5字下げ]二七[#「二七」は中見出し]

 教師のあとは、父の授業であった。まだ父がこない間に、セリョージャはテーブルに向って、小刀をおもちゃにしながら、考えはじめた。セリョージャの好きな仕事の一つは、散歩の間に母を捜すことであった。彼は一般に、死ということを信じなかったが、まして自分の母親の死などにいたっては、リジヤ・イヴァーノヴナや父親が、きっぱりそういいきったにもかかわらず、なおさら信じられなかった。で、お母さんは死んでしまったといわれたあとも、散歩のあいだ母親をさがしていた。肉づきのいい、優美な、黒っぽい髪をした婦人は、母親なのであった。そういう婦人を見ると、彼の心には、なんともいえない愛情がこみあげてきて、息がつまり、目には涙がにじんでくるのであった。今にも母親がそばへよってきて、顔のヴェールを上げるだろうと、心待ちにした。顔がすっかり見えて、母親はにっこり笑い、自分を抱きしめてくれる。いい香りがぷんと匂ってきて、しなやかな手ざわりが感じられる。すると自分は、いつかの晩、母の足もとにねて、母に体をくすぐられ、きゃっきゃっと笑いながら、指輪のはまった白い手を噛んだ、ちょうどあの時のように、幸福のあまり泣き出すのだ。その後、偶然ばあやの口から、母は死んだのでないということを聞いた。すると、父とリジヤ・イヴァーノヴナに、あれはお前にとって死んだも同様だ、なぜなら、あれはよくない女だから、といって聞かされた(母がよくない女だなどということは、それこそもう本当にしなかった。母を愛していたからである)。それでも、彼は相変らず母をさがし、待ちもうけていた。今日も夏の公園《レートニイ・サード》で、薄紫色のヴェールをかけた一人の婦人がいた。そのひとが小径《こみち》づたいに、自分の方へ近よってくるあいだ、彼は胸のしびれる思いをしながら、あれこそ母に違いないと待ち受けていた。ところが、その婦人は彼のそばまでこないうちに、どこかへ隠れてしまった。今日はいつもよりさらにはげしく、セリョージャは母に対する思慕の情の潮来を感じたので、今も父親を待っているあいだ、なにもかも忘れつくして、輝かしい目で前の方を見つめ、母のことを考えながら、ナイフでテーブルの端を傷だらけにしてしまった。
「パパがおいでになりますよ」とヴァシーリイ・ルキッチが、彼の空想を破った。
 セリョージャはおどりあがって、父のそばへいき、その手を接吻して、注意ぶかくその顔を見つめながら、アレクサンドル・ネーフスキイをもらった喜びの徴候をさがし出そうとした。
「今の散歩はおもしろかったかね?」といいながら、カレーニンは肘椅子に腰をおろし、旧約聖書を引きよせて、ページを開いた。カレーニンは、キリスト教徒はだれでも旧約をしっかりと知っていなければならぬと、一度ならずセリョージャにいって聞かせたにもかかわらず、自分でも旧約の講義をしながら、よく本をくって調べてみた。セリョージャもそれに気がついた。
「ええ、とてもおもしろかったんですよ、パパ」差し止められているにもかかわらず、椅子の上へはすかいに坐って、それをぐらぐら揺すりながら、セリョージャはそう答えた。「僕ナージェンカに会いました(ナージェンカは、リジヤ・イヴァーノヴナのひき取って世話している姪であった)。ナージェンカから聞いたんだけど、パパは新しい勲章をおもらいになったんですってね。うれしいでしょう、パパ?」
「第一に、お願いだから、椅子を揺すぶらないで」とカレーニンはいった。「第二に、大切なのはほうびじゃなくて、仕事をすることです。お父さんもおまえにそれをわかってもらいたいのだ。だから、もしおまえがごほうびをもらうために働くなら、その仕事は苦しく思われるだろう(とカレーニンは、今朝、百十八通の書類に署名した、あの退屈な仕事をつづけながらも、義務の意識でおのれを励ましたことを思い出した)。仕事を愛すると、仕事の中にごほうびを見いだすことになるんだよ」
 愛情と楽しさに輝いていたセリョージャの目は、父の視線のもとに光を失い、下へ伏せられた。それは、いつも父親が彼にたいするとき、とくの昔にわかりきった調子であって、セリョージャもそれに調子をあわせることをのみこんでしまった。父親がいつも彼に話す態度は――セリョージャの感じたところによると――父が自分で想像している子供、よく本に出てくるような子供で、セリョージャには似ても似つかぬ子供に話しかけているようであった。で、セリョージャも父親に向ったときは、そうした本の中の子供らしく見せかけようとつとめた。
「おまえそれがわかるだろうね、きっと!」と父はいった。
「わかります、パパ」空想裡の子供の役をしながら、セリョージャはこう答えた。
 課業は福音書の句をいくつか諳誦《あんしょう》し、旧約のはじめをおさらえすることであった。福音書の句は、セリョージャもかなりよく知っていたけれども、諳誦しているうち、こめかみのところが急角度をなして曲っている父親の額骨をふと見た瞬間、彼は頭がごっちゃになってしまって、似かよった句の終りの言葉を、別な句のはじめへもっていってしまった。彼が自分のいってることを理解していないのは明瞭だったので、カレーニンはいらいらしてきた。
 彼は眉をひそめて、セリョージャがもう幾度も聞かされながら、あまりよくわかりすぎるために、どうしても覚えられないことを説明しはじめた。たとえば、『ふいに』が行為のありさまを示す状況詞である、といったようなことであった。セリョージャは、おびえたような目つきで父をながめ、ただ一つのことばかり考えていた。父がよくやるように、自分のいったことを繰り返させはしないだろうか? そう思うと、セリョージャは気が気でないので、もう何一つ頭に入らなかった。でも、父は復誦を強《し》いないで、旧約の授業に移った。セリョージャは事件そのものはうまく話したが、ある事件が何を予示したかという問いに答えなければならぬ段となると、もう一度そのために罰をくったにもかかわらず、なんにもわからなかった。彼がそれこそ、何一ついうことができないで、もぞもぞしながら、ナイフでテーブルに傷をつけたり、椅子をゆらゆらさせたりしたのは、大洪水以前の族長のことをいわなければならぬ時であった。その人たちの中で、彼の知っていたのは、生きながら天へ連れて行かれたエノクだけであった。もと彼はいろいろの名前を知っていたが、今はすっかり忘れてしまった。そのわけは特に、エノクが旧約の中でも一番すきな人物で、これが生きながら天へ連れていかれたという事実には、彼の頭の中で、長い長い一連の想念が結びあわされていた。彼は今それに没頭してしまっていたので、父の時計の鎖と、半分かけられたチョッキのボタンを、じっと動かぬ目で見つめていた。
 セリョージャは、よく人から聞かされる死というものを、まるきり信じていなかった。自分の好きな人が死ぬ、特に自分が死ぬなどということ、信じるわけにいかなかった。それは、彼にとって全く不可能であり、不可解であった。彼は、人はだれでも死ぬと聞かされていた。で、自分の信用している人たちにたずねてさえみたが、やっぱりそのとおりだといわれた。ばあやでさえ、しぶしぶながらそういった。しかし、エノクは死ななかったから、だれもかれも死ぬわけではない。『どうしてだれでもあんなふうに、神さまの思し召しにかなって、生きながら天へ連れていかれないのだろう?』とセリョージャは考えた。悪い人、つまりセリョージャの嫌いな人は、死んでもかまわないが、いい人はみんな、エノクのようになることができる。
「さあ、どうだね、どういう族長たちがいる?」
「エノク、エノス」
「いや、それはもういったよ。いけないな、セリョージャ、どうもよくない。キリスト教徒にとって、なにより必要なことを知ろうとしないとすれば」と彼は腰をもたげながらいった。「いったいおまえは何がおもしろいんだね? 私はおまえに不満足です。ピョートル・イグナーチッチ(それは主任の教師であった)も、おまえには不満だといっておられるよ……私はおまえに罰をしなくちゃならない」
 父も教育家も二人ながら、セリョージャに不満であった。また事実、彼は不勉強であったが、彼をできない子供ということは、断じて不当である。それどころか、教育家が模範にする子供らよりも、ずっと素質があった。父の目から見ると、彼は自分の教えることを勉強しようとしないのであった。ところが、彼にしてみれば、そんな勉強などできなかったのである。というのは、彼のこころの中には、父や教育家の提出する要求よりも、もっと必然的な要求があって、それらの要求が相|矛盾《むじゅん》するために、彼は頭から、自分の教育者たちと闘っているのであった。
 彼は九つであった。彼はまだねんねえであった。しかし、彼は自分の魂を知っていた。それは彼にとって貴重なもので、彼はさながら瞼《まぶた》が瞳を守るように大事にして、愛の鍵がなければ、だれも自分の魂の中へ入れなかった。教育する人たちは彼のことを、勉強しようとしないといってこぼしたが、彼の心は知識欲でいっぱいだったのである。彼は教師たちでなく、カピトーヌイチや、ばあやや、ナージェンカや、ヴァシーリイ・ルキッチについて学んだ。父と教育家が、自分の水車に待望していた水は、とくの昔に漏れてしまって、べつのところで働いているのであった。
 父たちは罰として、セリョージャをリジヤ・イヴァーノヴナの姪の、ナージェンカのとこへ行かせなかった。その罰はセリョージャにとって、もっけのさいわいであった。ヴァシーリイ・ルキッチが上きげんだったので、風車の造り方を教えてくれた。その夜は一晩じゅうその仕事と、どうしたら乗ってくるくるまわれるような風車がつくれるか、という空想のうちにすぎてしまった。両手で翼《はね》につかまるか、それとも体を縛りつけるかして、ぐるぐるまわるのだ。一晩じゅう、セリョージャは母のことを考えなかった。が、床の中へ入ってから、ふとそのことを思い出して、どうか明日の誕生日には、お母さんが隠れるのをやめて、自分のとこへ来てくれますようにと、自分の言葉でお祈りした。
「ヴァシーリイ・ルキッチ、僕がきまったお祈りのほか、何を余分にお祈りしたか、知ってますか?」
「勉強のよくできるように、でしょう?」
「いいえ」
「おもちゃ?」
「いいえ、あたりゃしませんよ。すばらしいこと、でも秘密なの! でも、本当にそうなったら、いいますよ。わかりませんか?」
「いや、わかりそうもありません。坊っちゃん話して下さいよ」とヴァシーリイ・ルキッチは、めったにないことに、微笑しながらいった。「さあ、おやすみなさい、蝋燭を消しますよ」
「僕はね、蝋燭のないほうが、今お祈りしたものがよく見えるんです。ああ、危く秘密をしゃべってしまうとこだった!」セリョージャは楽しげに、笑いながらいった。
 蝋燭が持ち去られた時、セリョージャは母の声を聞き、その姿を見た。彼女は枕もとに立って、優しいまなざしで彼をいたわっている。けれども、そのなかに風車やナイフが現われて、なにもかもごっちゃになってしまった――こうして、彼は眠りに落ちた。

[#5字下げ]二八[#「二八」は中見出し]

 ペテルブルグへ到着すると、ヴロンスキイとアンナは一流のホテルに投宿した。ヴロンスキイは階下《した》のほうへ別に部屋をとり、アンナは赤ん坊と、乳母と、小間使をつれて、四室から成る階上の大きなアパルトマンに陣取った。
 着いた当日、ヴロンスキイは兄のもとへおもむいた。そこでは、モスクワから用事で来た母に出会った。母も兄嫁も普通に彼を迎えた。外国旅行のことなどたずねたり、共通の知人の噂をしたりなどして、アンナとの関係については、ひと言もふれなかった。その翌朝、兄がヴロンスキイを訪ねてきて、自分のほうからアンナのことをききだした。で、アレクセイ・ヴロンスキイはきっぱりと、自分はカレーニナとの関係を結婚と見なしているし、離婚も可能だと期待しているから、そのときは正式に結婚する、それまではアンナを世間普通の妻と変りなく、自分の妻と認めているから、そのことを母にも兄嫁にも伝えてほしい、といった。
「よしんば、世間がそれをおもしろからず思ったところで、僕はおなじことです」とヴロンスキイはいった。「しかし、僕の身内の人たちが、僕と親類づきあいをしたいなら、僕の妻にたいしても、そのつきあいをしてもらわなくちゃならない」
 いつも弟の判断を尊重している兄は、世間がこの問題を決定するまでは、弟の是非がよくわからなかった。自分はどうかというと、別に異見はなかったので、アレクセイと連れ立って、アンナの部屋へいった。
 ヴロンスキイは兄の前でも、ほかの人の場合と同様に、アンナに『あなた』言葉を使って、近しい知人という応対のしかたをしたが、その裏には、兄が自分たちの関係を承知しているという気持をこめて、アンナがヴロンスキイの領地へ行くという話もした。
 社交人としては、じゅうぶん経験があったにもかかわらず、ヴロンスキイは現在おかれているような新しい状態のために、妙な錯覚に陥っていた。彼は、自分やアンナにとっては、社交界の門戸が閉ざされているということくらい、ちゃんとわかっていそうなはずであった。ところが、いまの彼の頭の中には、何かぼんやりした考えが動いていた――それはただ昔の話で、今は世の中が急速に進歩していくのだから(彼は自分でも気がつかないうちに、今は進歩の味方になりすましていた)、社会の見解が一変してしまった、したがって、自分たちが社交界に入れられるかどうかは、まだはっきりきまっていない。『もちろん』と彼は考えた。『宮中関係の社交界は入れてくれないだろうが、近しい人たちはこれを正しく理解してくれるだろうし、またしなくちゃならないはずだ』
 何一つ自分の位置を変えるのを妨げるものはないとわかっていたら、何時間もぶっつづけに足を折って坐っていることができる。ところが、足を折ったままじっと坐っていなければならぬとわかっていたら、そのうちに痙攣《けいれん》が起って、のばしたいと思うところがしびれてくる。それと同じことを、ヴロンスキイも社交界関係で経験したのである。
 もっとも、心の底では、自分たちにとって社交界の門戸は閉ざされている、ということを知ってはいたけれども、今は社交界も変っているのではないか、自分たちを入れてくれはしないか、と探りを入れてみた。しかし、すぐにまもなく気がついた。社交界は彼一箇のためには開放されているが、アンナのためには閉ざされているのであった。まるで『猫と鼠』の遊戯のように、彼のために上げられていた手は、アンナの前ではたちまちおろされた。
 ヴロンスキイがはじめて会ったペテルブルグ名流婦人の一人は、彼の従姉《いとこ》のベッチイであった。
「ああ、やっとのことで!」彼女は喜ばしげにヴロンスキイを迎えた。「そして、アンナは? 本当にうれしいこと! どこに泊ってるの? あんたがたはすばらしい旅行をしたあとで、このペテルブルグはさぞ殺風景に思われるでしょうね。あんたがたのローマですごした蜜月が想像されますわ。ときに、離婚は、もうすっかり片づけてしまって?」
 まだ離婚がすんでいないと聞いたとき、ベッチイの歓声が薄らいだのに、ヴロンスキイは気がついた。
「わたしは世間から石を投げられるでしょう」と彼女はいった。「でも、わたしアンナを訪ねて行きますわ。ええ、きっと行きますわ。あんたたち、ここに長くは逗留《とうりゅう》しないんでしょう?」
 はたして、彼女はその日すぐアンナを訪ねて行った。が、その調子はもう前とすっかり違っていた。彼女は明らかに、自分の大胆なふるまいを誇りとして、アンナにその友情の深さを買ってもらいたいらしかった。彼女は社交界の新しい噂をしながら、ほんの十分くらいしかいなかったが、帰りしなに、こんなことをいった。
「あなたがたは、離婚がいつごろになるかおっしゃいませんでしたわね。かりにわたしは、世間なんかかってに思うがいいと多寡《たか》をくくっているとしても、でも、お高くとまっている連中は、あなたがたが結婚なさらないあいだは、つらくあたりますよ。そんなことなんか、今じゃ簡単にできるんですがね。〔C,a se fait〕(できますとも)じゃ、金曜日にはお立ちになるのね? もう一度お目にかかれなくって、残念ですこと」
 ベッチイの語調でヴロンスキイは、もはや社交界には期待をかけることはできないと、悟れそうなはずであったが、彼は自分の家庭内で、もう一度その試みをしてみた。彼は母親に望みをかけていなかった。はじめて知りあった時、あれほどアンナに有頂天《うちょうてん》になった母親が、息子の出世をめちゃめちゃにした因《もと》というので、今は彼女にたいしてかたくなな気持になっていることは、ヴロンスキイも知っていた。しかし、彼は兄嫁のヴァーリャに、大きな期待をつないでいた。このひとならアンナに石など投げず、単純な気持で思い切りよく出かけて行って、彼女を受け入れるだろう、というような気がした。
 到着の翌日、ヴロンスキイはヴァーリャを訪ねたところ、ちょうど一人きりだったので、ぶっつけに自分の希望を述べた。
「ねえ、アレクセイ」彼の言葉を聞き終って、彼女はこういった。「わたしはあなたを愛していますから、あなたのためなら、なんでもしてあげたいのは山々だけれど、それでもずっと黙っていましたの。だって、あなたのためにも、アンナ・アルカージエヴナのためにも、お役に立つことはできないのが、わかっていたからなんですの」『アンナ・アルカージエヴナ』という言葉を、とくべつ念入りに発音しながら、彼女はそういった。「でも、わたしが悪く思っているなんて、そんなことはどうか考えないでちょうだい。決して決して。わたしだって、あのひとの立場におかれたら、同じことをしたかもしれませんもの。わたし立ち入ったことはいえませんから、それはいいませんけれど」相手の暗い顔をおずおずと見上げながら、彼女はいうのであった。「でも、ものごとははっきりいわなくちゃなりません。あなたは、わたしがあのひとのところへ行ったり、家であのひとに会ったりして、それであのひとを社交界に復活させるようにとお望みですけど、ねえ、わかってちょうだい、わたしはそれができません[#「せん」に傍点][#「できません[#「せん」に傍点]」はママ]。うちでも、娘たちがだんだん大きくなっていきますし、わたしは主人のために、社交界で生きていかなくちゃなりません。まあ、かりにわたしが、アンナ・アルカージエヴナのとこへ行くとしても、わたしがあのひとを家へ呼ぶわけにはいかないのは、あのひともわかって下さるでしょう。もし呼ぶとしても、別な見方をしている人にぶつからないようにしなくちゃなりませんもの。そんだことは、あのひとにとって侮辱になりますわ。わたしには、あのひとをひき起すわけにいきません……」
「しかし、あなたが家で会ってる何百人という女以下に、あれが堕落してるとは思わないね!」とヴロンスキイはさらに暗い顔をしてさえぎったが、兄嫁の決心は動かすことができないと悟って、無言に席を立った。
「アレクセイ! わたしに腹をたてないでね。お願いだから、わたしが何も悪くないってことを、わかってちょうだいね」臆病げな微笑を浮べながら、ヴァーリャはこういった。
「僕は腹なんかたてやしませんよ」と彼は相変らず陰気な調子でいった。「しかし、僕にとっては二重につらいですよ。僕にとってもう一つつらいことは、これが僕とあなたの間柄を裂くということです。まあ、裂いてしまわないでも、遠々しくすることは確かですね。僕にとっても、それよりほかにしかたがないのは、あなただってわかるでしょう」
 それで彼は兄嫁のもとを辞した。
 ヴロンスキイも、これ以上の試みは無益と悟った。この二三日はペテルブルグで、まるで知らない町にでもいるように暮さなければならぬ。そして、自分にとって堪え難い不快事や、侮辱に会わないために、以前の社交界との交渉を、いっさい避けるようにしなければならぬ、と観念した。ペテルブルグで、この状態にいるおもな不快事の一つは、カレーニンとカレーニンの名が、いたるところに待ち伏せているように思われることであった。何を話しはじめても、話題がカレーニンに転じていくし、どこへ行っても彼に出会うのであった。少なくとも、ヴロンスキイにはそう思われた。それはちょうど指を痛くした人が、いつもわざとその痛い指で物にさわるような気がするのと、同じことであった。
 ペテルブルグの逗留《とうりゅう》が、ヴロンスキイにもう一つ苦しく思われたのは、そのあいだ始終アンナに、何か新しい不可思議な気分が認められたからである。ときには、彼にほれぼれとなっているようなふうでいながら、ときには冷淡になり、いらいらして、窺※[#「穴かんむり/兪」、第 4水準 2-83-17]《きゆ》を許さぬようになる。彼女は何かに苦しみ、何かを彼にかくし、彼の生活を毒する侮辱、彼女ほど繊細な理解力をもっていたら、彼女自身にとっても、なおさら苦しいはずの侮辱を認めないかのようであった。

[#5字下げ]二九[#「二九」は中見出し]

 アンナにとって、ロシヤヘ帰る目的の一つは、わが子との対面であった。イタリーを出発したその日から、この対面を思うこころは、たえず彼女をわくわくさせていた。ペテルブルグへ近くなればなるほど、この対面の喜びと重大さが、だんだんにましていくように思われた。どういうふうにこの対面の段取りをつけるか、というようなことは、考えてもみなかった。同じ町にいたら、わが子に会うくらい自然で、単純なことはないような気がしていた。が、ペテルブルグへ着いてみると、思いがけなく、今の自分の社交界における位置がはっきりするとともに、対面の段取りをつけるのが困難なことがわかった。
 彼女はもうペテルブルグに二日すごした。わが子を思う心は、片時も彼女を去らなかったが、いまだにわが子に会えないでいる。カレーニンに出くわすおそれのある邸へいきなり行く権利は、自分にないと感じた。それに、入れてもらえないで、侮辱を受けるおそれもあった。良人に手紙を書いて交渉をもつことは、考えただけでも苦しかった。良人のことを考えないでいる時だけ、心のおちつきが得られるのであった。わが子がどこへ、いつごろ散歩に出るかを聞いて、その出先で会うのは、彼女にとって物足りなかった。彼女は一生懸命、この対面の心がまえをしていたので、いいたいことが山ほどあり、抱きしめたり、接吻したりしたかった。セリョージャの年とったばあやは、彼女の力になって、うまい方法を教えてくれたかもしれないが、このばあやはもうカレーニン家にいない。こうして、あれこれと迷ったり、ばあやをさがしたりしているうちに、二日すぎてしまったのである。
 カレーニンが、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナと親しくしていることを聞いて、アンナは三日目に思いきって、苦しい努力をしながら、あの手紙をしたためた。その中に、彼女はわざと意識して、わが子に会わしてもらえる許しは、一にかかって良人の寛大心にあると書いた。この手紙を良人に見せたら、彼はその寛仁大度の役割をつづけて、拒絶などしないことを承知していたのである。
 手紙を持って行った用たしが、この上もなく残忍な思いがけない返事をもたらした――返事はありません。用たしを呼びよせて、さんざん待たされたあげく、返事はいっさいないといいわたされた顛末《てんまつ》を聞いたときほど、彼女は自分を卑下されたように感じたことはない。アンナは辱しめられ、貶《おと》しめられたように感じたが、リジヤ・イヴァーノヴナの立場に立ってみれば、無理からぬことだと納得《なっとく》した。彼女の悲しみは、それが孤独なものであるだけに、なおこたえた。彼女はそれをヴロンスキイと分つこともできなければ、また分ちたくもなかった。ヴロンスキイは、自分が彼女の不幸の原因であるにもかかわらず、彼女と子供の対面などという問題は、彼の目からみれば、ごくつまらぬことに思われる、それは彼女もちゃんと知っていた。ヴロンスキイにしてみれば、アンナの苦しみの深刻さを、しょせん理解することができない。それも彼女にはわかっていた。もしこのことをいいだして、冷やかな調子を聞かされたら、そのために男を憎むに相違ないことがわかっていた。彼女はそれをこの世の何よりも恐れていたので、わが子に関することは、いっさいかくすようにしていた。
 まるで一日じっと宿にこもっていて、わが子との対面の方法をいろいろ思案した末、良人に手紙を出すことに肚を決めた。もうリジヤ・イヴァーノヴナの手紙が届けられた時、彼女はその手紙の文案を考えていた。伯爵夫人の沈黙は彼女を諦めさせ、征服したのであるが、この手紙とその行間に読みとられるいっさいは、心から彼女を激昂させた。そこに含まれた毒念は、わが子に対する正当な熱烈な愛情に比べて、あまりといえばあまりのことのように思われたので、彼女は他人を責める義憤でいっぱいになって、おのれみずからを責めるのをやめてしまった。
『この冷淡さは、感情を偽るものだ!』と彼女はひとりごちた。『あの人たちはただわたしを侮辱して、小さい子供をいじめさえすればいいのだけれど、わたしはあんな人たちに負けやしないから! どうしてどうして! あの女はわたしより以下だわ。わたしは少なくとも嘘なんかつかないから』
 そこで彼女はさっそく決心した。明日、セリョージャの誕生日に、いきなり良人の家に乗り込んで、召使を買収するなりだますなりして、是が非でもあの子に会おう。そして、あの人たちが不幸な子供をとり囲んでいる醜い虚偽を、微塵に打ち砕いてしまおう。
 彼女は玩具屋へ行って、いろんな玩具をしこたま買いこみ、行動計画を考えた。朝早く、八時ころ、まだきっとカレーニンの起き出さない時分に、着くことにしよう。手には金を用意していて、玄関番や従僕にやって通してもらおう。そして、ヴェールを上げずに、自分はセリョージャの名付親の名代で、お祝いのためにやってきたのだが、あの子の枕元へ玩具を置いてくるように頼まれたのだ、といおう。彼女は、ただわが子にいうべき言葉だけ準備ができなかった。どんなに考えても、何一つ考えつけなかったのである。
 翌朝八時、アンナはただ一人、辻馬車からおりて、かつて自分の住居であった邸の大きな車寄せで、ベルを鳴らした。
「おまえいって、なんのご用かきいてこい。どこかの奥さんだ」まだ着替えもしないで、外套とオーヴァシューズのままのカピトーヌイチは、戸のすぐそばに立っているヴェールで顔を隠した婦人を、窓越しに見てこういった。玄関番の見習いで、アンナを知らない若者が、戸口を開けたか開けないかに、婦人は早くも中へ入って、マッフの中から三ルーブリ札を出して、手早く若者に握らした。
「セリョージャ……セルゲイ・アレクセエヴィッチ」と彼女は口走って、ずんずん歩いて行こうとした。
 紙幣をよくあらためて見て、玄関番の見習いは、次のガラス戸のところで彼女をひきとめた。
「どなたにご用でいらっしゃいます?」と彼はたずねた。
 彼女はその言葉が耳に入らなかったので、なんとも返事をしなかった。
 見知らぬ婦人のどぎまぎした様子を見て、御大《おんたい》のカピトーヌイチが出てきて、婦人を戸の中へ入れてから、何ご用ですかときいた。
「スコロドゥモフ公爵から、セルゲイ・アレクセエヴィッチヘお使いでございます」と、彼女はいった。
「若さまはまだお目ざめでございません」と玄関番は注意ぶかく、彼女をじろじろ見ながらいった。
 アンナは、九年間も住んでいた邸の、いささかも変りのない控室の様子が、これほど強く自分の心を動かそうとは、夢にも思いもうけなかった。あるいは喜ばしく、あるいは悩ましい追憶が、あとからあとからと胸にわいてきて、つかのま、彼女はなんのためにここへ来たか、忘れるばかりであった。
「しばらくお待ちくださいますでしょうか?」とカピトーヌイチは、毛皮外套をぬがせながらいった。
 外套をぬがせて、顔をのぞきこむと、だれかということに気がついて、黙って低く腰をかがめた。 
「どうぞいらして下さいまし、奥さま」と彼はいった。
 彼女は何かいおうとしたが、ひと言も声が出なかった。すまなさそうな、祈るような目つきで、ちらと老人を見やると、彼女は軽々とした早い足どりで、階段を昇っていった。
 彼女に追いつこうと骨折りながら、全身を前へかがめ、オーヴァシューズをだんだんにひっかけひっかけ、カピトーヌイチはそのあとから駆け出した。
「そちらには先生がいらっしゃいます、まだお召し替えがすんでいないかもわかりません。わたくしがそう申しあげますで」
 アンナは、老人のいうこともうわの空で、なじみの深い階段を昇りつづけた。
「こちらへ、どうぞ左の方へ。ごめんくださいまし、汚しておりまして。若さまは以前の長椅子部屋《ジヴァンルーム》のほうにいらっしゃいます」と玄関番は息を切らしながらいった。「失礼ですが、奥さま、ちょっとお待ち下さいまし、わたくしがのぞいてまいりますから」と彼はいって、アンナを追い越すと、高いドアを細めにあけて、姿を隠してしまった。「たったいまお目ざめになったばかりでございます」またドアの中から出てきて、玄関番がこういった。アンナは心待ちに歩みをとめた。
 玄関番がこういった時、アンナは子供らしいあくびの声を聞きつけた。そのあくびの声を聞いたばかりで、彼女はわが子だということに気がついた。すると、その姿をまざまざと目の前に見る思いであった。
「入れて、入れてちょうだい、おまえはあちらへ行って!」というなり、彼女は高いドアの中に入った。
 戸の右手には寝台がおいてあって、寝台の上には、ボタンをはずしたシャツ一枚の少年が、起きあがって坐っていた。小さい体を曲げるようにして、伸びをしながら、あくびをし終ろうとしているところであった。唇が合わされたとたんに、幸福らしい眠そうな微笑が口辺に浮んで、その微笑とともに、彼はまたゆっくりと、さも気持よげにうしろへ倒れた。 
「セリョージャ!」音のせぬように近づいて、彼女はこうささやいた。
 わが子と別れているあいだ、ことに最近、たえず思慕の情のさしよせてくるたびごとに、彼女は自分の一番すきだった四つ時分の子供の姿で、わが子を心に描いていた。ところが、今は自分が残して行った時と比べても、すっかり面《おも》変りがしていた。まして四つの時から見ると、たいへんな変りようで、ぐっと背丈が伸び、やせてきた。これはなんとしたことだろう! この顔のこけたこと、この髪の短いこと! この手の長いこと! この子を置いて来てから後、なんと変ったものだろう! が、それにしても、これはまさしく彼である、彼の頭のかっこうである。彼の唇である、柔らかい頸筋も、幅の広い肩も、彼のものである。
「セリョージャ」と彼女は、子供の耳のすぐそばに口をよせて、ささやいた。
 少年はまた片肘ついて身を起し、何かをさがし求めるように、もつれた頭を左右に動かして、目を見ひらいた。幾秒かの間、しずかに不審げな目つきで、身じろぎもせず立っている母親をながめていたが、突然さも幸福そうににっと笑った。が、また自然にくっついてくる瞼《まぶた》を閉じて、体を倒した。が、今度はうしろの方でなく、母の方へ、母の腕へ身を投げかけたのである。
「セリョージャ! わたしのかわいい坊や!」息を切らして、ふっくらした体を両手に抱きしめながら、彼女はこう口走った。
「ママ!」自分の体のいろいろ変った部分を、母の腕にさわらせようと、あちこちもぞもぞと動きながら、セリョージャはそういった。
 相変らず目をふさいだまま、眠たそうにほほえみながら、ふっくらした小さな両手で、寝合の格子越しに母の肩にしがみつき、ぴったりと身をよせて、子供独特のえもいわれぬ夢の香りと温かみを浴びせかけながら、母の頸や肩に顔をこすりつけるのであった。
「僕わかってた」と彼は目を開けながらいった。「今日は僕の誕生日だから、ママが来て下さるってことが、ちゃんとわかってた。僕いますぐ起きる」
 そういいながら、またしても眠りに落ちかけた。
 アンナは貪るようにその様子をながめた。自分のいない間に、わが子が大きくなって、ひどく変ったのを見てとった。毛布の下から出ている露《あら》わな足、今はこんなにも大きくなっている足に、彼女は見覚えがあるような、ないような気がした。このやせた頬や、以前よく接吻してやった、うしろ頭の短く刈った捲き毛には、見覚えがあった。彼女はそれを残らず手でさわってみながら、何一ついうことができなかった。涙に息がつまるのであった。
「ママ、何を泣いてるの?」と彼はすっかり目をさましていった。「ママ、何を泣いてるの?」と今度は泣きそうな声で叫んだ。
「もう泣きません……わたしはね、うれしくって泣いてるのよ。ずいぶん長いこと、坊やに会わなかったからね。泣きません、泣きません」と彼女は涙をのみこみのみこみ、顔をそむけながらいった。「さあ、坊や、そろそろ着替えをしなくちゃ」やっと気をとりなおして、しばらく黙っていたあと、彼女はこうつけ加えた。そして、わが子の手を放さずに、寝台のそばの椅子に腰をおろした。その上に、セリョージャの服が用意してあったのである。
「ママのいない間、どうして、着替えているの? どんなにして……」彼女はざっくばらんに、快活に話をしようと思ったけれども、やっぱりそれができないで、顔をそむけてしまった。
「僕ね、冷たい水で顔を洗わないの。パパがいけないとおっしゃったから。ママはヴァシーリイ・ルキッチを見たことないでしょう? いまにきますよ。あ、ママは僕の服の上に坐っちゃった!」
 そういって、セリョージャはからからと笑い出した。彼女はそれを見て、にっこり笑った。
「ママ、僕の大好きなママ!」また母に飛びかかって、抱きしめながら、彼はこう叫んだ。いま彼女の微笑を見て、はじめてこの出来事の意味が、はっきりわかったかのようであった。「こんなもの要らない」と母の帽子をとりのけながら、彼はいった。帽子なしの母の顔を見ると、彼はまたもや飛びかかって、母を接吻しはじめた。
「でも、おまえママのことをなんと思ってた? 死んでしまったと思ってたの?」
「そんなことちっとも本当にしやしなかった」
「本当にしなかったって、坊や」
「僕ちゃんと知ってた、ちゃんと知ってたよ」と彼はおはこ[#「おはこ」に傍点]の言葉をくりかえして、自分の髪を撫でている母の手をつかみ、掌のほうを自分の口ヘおしあてては、接吻しはじめた。

[#5字下げ]三〇[#「三〇」は中見出し]

 その間、ヴァシーリイ・ルキッチは、はじめこの婦人がだれか知らないでいたが、あとからこの家へ入った自分は知らないけれども、これこそ良人を棄てていった母親に違いないと悟って、中へ入っていったものかどうか、カレーニンに報告したものかどうか、と思い惑った。とどのつまり、きまった時間にセリョージャを起すのが自分の義務であるから、だれが中にいようが、母親であろうがほかの人であろうか、自分はそんな穿鑿《せんさく》をする必要はない、ただ義務を果せばいいのだと思案して、服を着換えると、部屋の入口に近よって、ドアを開けた。
 しかし、母と子の愛情のありさまや、二人の話し声や、二人の語りあっていることや――これらすべては、彼に意向を変えさせた。彼はちょっと頭をひねり、ほっと吐息をついて、ドアを閉めた。『もう十分だけ待ってみよう』咳ばらいをし、涙を拭きながら、彼はそうひとりごちた。
 その時、邸の召使たちのあいだには、はげしい動揺が起っていた。奥さまがやってきて、カピトーヌイチが中へ通したので、いま子供部屋にいらっしゃるということは、みんなの耳に入ってしまった。ところで、八時すぎには、いつも旦那さまが子供部屋へいかれることになっているが、夫妻が顔を合わすわけにはいかぬから、どうかしてそれを妨げなければならぬ、ということもみな承知していた。従僕頭のコルネイは、玄関番部屋へ降りていって、だれがどうして奥さまを通したかをたずね、カピトーヌイチが出迎えて、案内したことを知ると、老人にさんざん小言をいった。玄関番はかたくなに黙りこくっていたが、コルネイが、そんなことをすると、追い出してしまわなくちゃならんといった時、カピトーヌイチはそのそばへとんでいって、コルネイの顔の前で両手をふりまわしながら、まくしたてはじめた。
「ふん、おまえならお通しせずにおられたろうよ! 十年もご奉公しているあいだ、お慈悲ぶかいお仕打ちよりほか、何一つ覚えていねえんだぞ。まあ、おまえ一つあちらへいって、どうかとっととお帰りを、といってみるがいいや。おまえはそういうことを、お上品にやってのけるこつを、心得てるんだからな。へん! ちったあ考えてみるがいい、旦那のものをこそこそくすねて、浣熊《あらいぐま》の毛皮外套をせしめたりしやがったくせに!」
「兵隊め!」とコルネイはばかにしたようにいって、おりから入って来たばあやに話しかけた。「ああ、マリア・エフィーモヴナ、ひとつ分別を貸してくれないかね、だれにもいわないで、かってにお通ししてしまったんだよ」とコルネイはいいだした。「ところが、旦那さまは今にも居間からお出になって、子供部屋へ入ってお行きになるんだからな」
「そりゃことだ、大変なことだ!」とばあやはいった。
「そんなら、コルネイ・ヴァシーリッチ、おまえさんなんとかして、おひき止めしておくれよ。旦那さまをさ。わたしはあちらへ駆けつけて、なんとか奥さまをお連れ出しするからさ。さあ、ことだ、ことだ!」
 ばあやが子供部屋へ入ったとき、セリョージャは母に向って、ナージェンカといっしょに手橇《てそり》ですべっているとき、橇がひっくり返って、三度もとんぼ返りをしたことを話していた。彼女はわが子の声の響きを聞き、その声や表情の変化をながめ、その手の感触を楽しんでいたが、いうことは少しもわからなかった。もう帰らなければならぬ、この子を残して行かなければならぬ――彼女はただそのこと一つだけを考え、感じていたのである。戸口に近よったヴァシーリイ・ルキッチの足音も、その咳ばらいも耳にしたし、近づいてくるばあやの足音も、ちゃんと聞えていたが、ものいう力も、立ちあがる力もなく、化石したもののように、じっと坐っていた。
「まあ、おなつかしい奥さま!」アンナのそばへよって、その手と肩に接吻しながら、ばあやはいいだした。「坊ちゃまのお誕生日にこんなうれしいこと、きっと神さまのお授けでございます。奥さまはちっともお変りになりませんねえ」
「あら、ばあや、うれしい、おまえがここにいるとは知らなかったよ」ふと、つかのま我れに返って、アンナはこういった。
「いいえ、違います。わたくしは娘のとこにおりますので、今日はお祝いにあがったのでございますよ、奥さま、ほんにおなつかしい!」
 ばあやはだしぬけに泣きだして、またアンナの手に接吻しはじめた。
 セリョージャは目を輝かし、満面に笑みをみなぎらせ、片手で母につかまり、片手でばあやにすがりながら、むきだしのふっくらした足を、カーペットの上でばたばたさせはじめた。自分の好きなばあやが、母に優しい情愛を示すので、有頂天になってしまったのである。
「ママ! ばあやはよく来てくれるのよ。そして、くる時には……」と彼はいいかけたが、そのまま口をつぐんだ。ばあやが何か母にひそひそとささやき、母の顔におびえたような表情と、母にはいかにもふさわしくない羞恥の色が現われたのを、早くも見てとったからである。
「かわいい坊や!」と彼女はいった。
 彼女はさよなら[#「さよなら」に傍点]ということができなかった。けれども、その顔の表情は、この言葉をいっていた。セリョージャはそれを悟った。
「かわいい、かわいいクーチック!」と彼女は、小さい時によく呼んでいた名をいった。「おまえわたしを忘れやしないだろうね? おまえ……」彼女はもうそれ以上、いうことができなかった。
 その後になって、彼女はわが子にいうべき言葉を、どれだけ考えついたかしれない。それなのに、今は何一ついうことができなかったのである。が、セリョージャは母のいおうと思ったことを、全部さとった。彼は母がふしあわせであり、また自分を愛してくれているのを悟った。そればかりか、ばあやかひそひそ声でいったことさえ、悟った。『八時すぎになると』という言葉を小耳にはさんで、これは父親のことをいっているのだ、そして母は父と会うわけにいかないのだな、と悟った。それは彼にもわかったけれど、なぜ母の顔におびえと羞恥の色が浮んだのか、それだけはわからなかった。……母に罪はないけれども、父を恐れて、何かを恥じている。彼は問いを発して、その疑いをはらしたいと思ったが、そうするだけの勇気がなかった、ただ母が苦しんでいる様子を見てとって、母がかわいそうになった。彼は無言のままひしと身をよせて、ささやくようにいった。
「まだ行っちゃいや。パパはまだすぐにはいらっしゃりゃしないから」
 母は、わが子がいっているのと同じことを考えているか、それを見ぬこうと思って、自分の体からおし離すようにした。と、そのおびえたような顔には、こんな表情が読みとられた――彼は父親のことをいっているばかりでなく、父のことをどう考えたらいいのかと、たずねてでもいるようであった。
「セリョージャ、かわいい坊や」と彼女はいった。「パパを好きにおなりなさい。パパはわたしより、もっといいりっぱなかたなんだから。わたしパパにたいして申しわけないことをしたの。おまえも大きくなったら、自分でわかるでしょう」
「ママよりいい人なんかありゃしない!………」とセリョージャは涙ながら、絶望の声を上げた。そして、母の両肩にしがみついて、緊張のあまりふるえる手で、一生懸命にひきよせはじめた。
「かわいい坊や、セリョージャ!」とアンナはいい、わが子と同じような弱々しい、子供らしい声で泣き出した。
 そのとき戸が開いて、ヴァシーリイ・ルキッチが入ってきた。また別の戸口に足音が聞えた。ばあやはおびえたような声で、「いらっしゃいます」といいながら、アンナに帽子を渡した。
 セリョージャは寝床の上にどっかと尻を落し、両手で顔をかくしながら、しゃくりあげて泣きだした。アンナはその手をひき離して、その濡れた顔にもういちど接吻すると、足早に戸口を出て行こうとした。すると、むこうからカレーニンがやってきた。アンナに気がつくと、歩みをとめて、首をかしげた。
 彼女はたった今、パパはわたしよりもっといいりっぱな人だ、といったばかりにもかかわらず、ちらと彼の方へ視線を投げかけて、その全身を細かいところまで残らず見てとるが早いか、良人にたいする嫌悪と毒念と、わが子を独占している羨望の念が、彼女の心を包んだ。手早くヴェールをおろし、足を早めて、ほとんど走るように部屋を出て行った。
 彼女は昨日、あれほどの愛情と悲しみをこめて、あの店屋で選び出した玩具を、とりだす暇さえなく、そのまま持って帰った。

[#5字下げ]三一[#「三一」は中見出し]

 アンナは、わが子との対面を心の底から願い、久しい前からそのことを考え、それに対する準備をしていた。けれども、この対面がこれほど深い感銘を与えようとは、思いもそめなかった。淋しい宿の部屋へ帰ると、なぜ自分はこんなところにいるのか、長いこと合点がいかなかった。『もうなにもかもすんでしまった、わたしはまた一人ぼっちなんだ』とひとりごち、帽子も脱がず、暖炉のそばの肘椅子に腰をおろした。窓と窓のあいだに据えてあるテーブルの上の青銅の時計に、じっと目をそそいだまま、彼女は物思いにふけりはじめた。
 外国からつれてきたフランス人の小間使が、お召し替えはいかがですといって、入ってきた。アンナはびっくりしたようにその顔をながめて、「あとで」といった。ボーイがコーヒーはいかがですといっても、「あとで」というばかりだった。
 イタリー人の乳母が、赤ん坊に着替えをさせて入ってくると、アンナのそばへつれてきた。栄養のよくとれたまるまっちい赤ん坊は、母を見ると、いつものように、手首を糸でくくったような露《あら》わな手を下向きにして、糊のよくきいた刺繍《ぬい》のあるスカートの襞《ひだ》をさらさら鳴らしながら、魚が鰭《ひれ》を動かすように、両手をふわふわさせ、まだ歯の生えない口で、にこにこ笑いだした。それを見ると、こっちもにっこり笑って、赤ん坊に接吻しないわけにいかなかったし、指を一本さしださないわけにもいかなかった。赤ん坊はその指につかまって、きゃっきゃっいいながら、全身を揺すぶった。また唇をさしださないわけにもいかなかった。すると、赤ん坊は接吻でもするように、それを自分の口ヘ入れるのであった。アンナはそれをすっかりやった。そのうえ、両手に抱きとって、ひょいひょい躍りあがるような身ぶりもさせれば、そのすがすがしい頬や、むきだしの肘に、接吻もしてやった。けれど、この赤ん坊を見るにつけても、セリョージャに対している気持に比べれば、この子にいだいている感情などは、愛とさえいえないような気がした。この子のどこもかしこもかわいかったけれど、なぜか心を強くとらえるものがなかった。はじめて生れた子供は、たとえ愛のない男の胤《たね》ではあっても、そこに愛の力が全部そそがれていて、しかもそれが十分な満足を与えられていないのであった。ところで、この女の子は、最も苦しい状況の中で生れたため、初子の場合の百分の一も心づかいがそそがれていない。のみならず、女の子のうちにあるのは、すべてがまだ期待であった。ところが、セリョージャはもうほとんど一人前の人間である、しかも自分の愛する人間である。その心の中では、思想と感情の闘いがあった。彼は理解している、愛している、判断力をもっている、とわが子の言葉や目つきを思い起しながら、彼女はそう考えた。しかも、彼女は精神的ばかりでなく、肉体的にもわが子とひき離されてしまって、それをとり返すことは不可能なのである。
 彼女は赤ん坊を乳母に渡して、さがらせたあと、ロケットを開けた。その中には、ちょうどいまの女の子とほとんど同じ年ごろの、セリョージャの細密肖像《ミニアチュール》が入っているのであった。彼女は立ちあがって、帽子をぬぎ、小テーブルの上にあったアルバムをとりあげた。その中には、いろいろ年ごろの違ったセリョージャの写真が納めてあった。彼女は、それらの写真を見くらべたいと思って、アルバムから抜き取りはじめた。すっかり抜きとってしまったが、最後に一枚だけ一番いい写真が残った。それは、白いルバーシカを着て、椅子に馬乗りになり、目をひそめ、口もとで笑っていた。それはセリョージャの最も特徴的な、そして一番いい表情であった。小さな器用そうな手で、今日はかくべつ緊張して働く白い細い指で、彼女は幾度も写真の角《かど》を起そうとしたが、どうしてもうまくいかなかった。紙切りナイフがテーブルの上になかったので、その隣にあった写真を抜き(それはローマで撮ったヴロンスキイの写真で、まるい帽子の下から、長い髪をのぞかしていた)、それでわが子の写真をおしだした。『そうだ、この人だ!』と彼女はヴロンスキイの写真をながめて、こういった。とふいに、いま自分の悲しみの原因がだれであるかを思い起した。彼女は今朝、一度も彼のことを思い出さなかった。すると、この男らしい、上品な、なじみのふかい、自分にとって懐かしいこの顔を見ると、ふいに彼女はこの男にたいする愛情が、潮のごとくおしよせてくるのを感じた。
『いったいあの人はどこへ行ったのかしら? こんな苦しい思いをしているわたしを、なんだって一人きりうっちゃらかしておくのだろう?』自分のほうがわが子に関するいっさいを隠しているのを忘れて、突然、非難がましい気持でこう考えた。彼女はボーイを男の部屋へやって、今すぐ来てほしいといわせた。なにもかもいってしまおうと思って、その言葉まで考えたり、自分の慰めになる男の愛情の表白を想像したりしながら、彼女は胸のしびれる思いで待っていた。やがて使がひっ返して、いまお客があるのだけれども、すぐやってくるという返事をもたらした。それと同時に、ペテルブルグへやって来たヤーシュヴィン公爵といっしょに行くが、会ってくれるかどうかとのことであった。『一人でくるのじゃないわ、昨日の食事の時から、まだ一度も会わないのに』と彼女は考えた『わたしはなにもかも話してしまいたいのに、ヤーシュヴィンといっしょにくるんじゃ、話もできやしない』すると、突然、妙な考えが頭に浮んできた。もしあの人の愛が冷めたらどうしよう?
 この二三日のことを、記憶の中にくりかえしてみると、いたるところに、この恐ろしい考えの裏書きが見いだせるような気がした。昨日、彼が宿で食事をしなかったことも、ペテルブルグでは、部屋を別にするように主張したことも、いま彼が自分とさしむかいになるのを避けでもするように、一人でなく友だちをつれてこようとするのも。
『でもあの人は、それをわたしにいわなくちゃならないはずだわ。わたしもそれを知らなくちゃならない。それがわかっていたら、わたしもどうするってことは、ちゃんとわかっている』男の恋冷《こいざ》めを確かめた場合、自分がどういう状態になるか、想像することができないままに、彼女はこうひとりごちた。彼女は愛が冷めたものと考えて、絶望に近い立場におかれているように感じ、そのために、とくべつ興奮した気持になってきた。彼女はベルを鳴らして、小間使を呼び、化粧室へいった。着替えをしながら、彼女はこの二三日にないほど、自分の身じまいに念を入れた。それはまるで、自分に似合う着物を着、自分に似合う形に髪を結ったら、いったん愛の冷めた男が、ふたたび自分を愛するようになる、とでも考えているかのようであった。
 まだすっかりできあがらないうちに、ベルの音が聞えた。
 彼女が客間へ入った時、彼女を視線で迎えたのは、彼ではなくヤーシュヴィンであった。ヴロンスキイは、彼女がテーブルの上におき忘れたセリョージャの写真をと見こう見して、急いで彼女の方を向こうとしなかった。
「わたしたちは、もうお近づきでしたわね」といいながら、彼女は自分の小さな手を、どぎまぎしている(大きな体や無骨《ぶこつ》な顔と対照して、それはいかにも奇妙に思われた)ヤーシュヴィンの大きな手の上にのせた。「去年の競馬以来お近づきでしたわね。ちょうだい」すばやい手つきで、ヴロンスキイの見ているわが子の写真をとり上げ、大きく目を見はって意味ありげに男を見ながら、彼女はそういった。「今年の競馬はよろしゅうございました? わたしたちはそのかわりローマで、コルソの競馬を見ましたわ。もっとも、あなた外国の生活はお嫌いでしたっけね」と彼女はやさしくほほえみながらいった。「わたし、あなたというかたを存じておりますわ、あなたの趣味だって、残らず承知していますの、あまりしょっちゅうお会いはしませんけれど」
「そりゃ大いに残念ですな。というのは、私の趣味は概して悪いほうですから」とヤーシュヴィンは、左の口髭を噛みながらいった。
 しばらく話をしたあとで、ヴロンスキイが時計を見たのに気がつくと、ヤーシュヴィンはアンナにむかって、まだ長いことペテルブルグに滞在するのかとたずね、大きな体をのばして、軍帽をとった。
「あまり長くないと思いますの」ちょっとヴロンスキイのほうをふりむいて、彼女はどぎまぎしながらいった。
「じゃ、もうお目にかかれませんな?」とヤーシュヴィンは、立ちあがりながらいって、ヴロンスキイのほうへ話しかけた。「君どこで食事する?」
「わたしどもへお食事にいらして下さいまし」自分で自分の当惑に腹をたてているようなふうではあったが、いつも新しい人の前で自分の境遇を露《あら》わにする時の常として、顔を赤らめながら、アンナは思いきってこういった。「ここの食事はよかありませんけど、少なくとも、この人とお会いになれるわけですもの。アレクセイは連隊のお仲間のだれよりも、あなたが好きなんですから」
「そりゃ大いに愉快です」とヤーシュヴィンは微笑を浮べながら答えた。その微笑でヴロンスキイは、アンナがすっかり彼の気に入ったのを見てとった。
 ヤーシュヴィンは会釈をして出ていった。ヴロンスキイは後に残った。
「あなたもやっぱりお出かけ?」と彼女はきいた。
「僕はもう遅れたくらいだよ」と彼は答えた。「先に行ってくれ! おれはすぐに追っつくから!」と彼はヤーシュヴィンに叫んだ。
 アンナは彼の手をとって、目もはなさずその顔を見つめながら、男をひきとめるために、なんといったものかと、心の中で口実をさがしていた。
「待ってちょうだい、わたしちょっとお話したいことがあるんですから」そういって、男の短い手をとって、それを自分の頸へおしあてた。「あの、わたしがあの人をお食事に呼んだの、別にかまわないかしら?」
「なに、大出来だよ」おちついた微笑で、びっしり並んだ歯を見せ、女の手に接吻しながら、彼はこういった。
「アレクセイ、あなたわたしに心変りなさいませんわねえ?」両手で男の手を握りしめながら、彼女はいった。「アレクセイ、わたしここへ来て、すっかりへとへとになってしまったわ。いつ出発するんですの?」
「すぐだよ、すぐだよ。僕だってここの生活がどんなに苦しいか、おまえとても本当にできないくらいだよ」といって、彼は自分の手をひっぱった。
「さあ、いらっしゃい、いらっしゃい!」と彼女は侮辱されたようにいって、さっと男のそばを離れてしまった。

[#5字下げ]三二[#「三二」は中見出し]

 ヴロンスキイが帰ってみると、アンナはまだ帰っていなかった。ボーイの話によると、彼が出かけてからまもなく、ある婦人がアンナを訪ねてきて、二人いっしょに出かけた、とのことであった。彼女が行き先をいわずに出かけたこと、今まで帰ってこないこと、おまけに今朝もなんにもいわないで、どこかへ行ったこと――こういったいっさいのことは、今日の彼女の奇妙に興奮した顔の表情や、ヤーシュヴィンの前で息子の写真を自分の手からほとんどひったくるようにした、あの敵意にみちたような態度の記憶といっしょになって、ヴロンスキイを考えこませてしまった。彼はどうしてもアンナと、よく話しあってみなければならぬと肚を決めた。で、彼は客間で待っていた。が、アンナは一人きりでなく、自分の叔母にあたるオブロンスカヤ公爵令嬢という、オールド・ミスといっしょに帰ってきた。それは今朝たずねてきた婦人で、アンナはこの女《ひと》といっしょに買物に出たのである。アンナは、ヴロンスキイの気づかわしげな、物問いたそうな表情に、気のつかないようなふりをして、今朝買ったもののことを、おもしろそうに話しだした。彼女の内部で何ごとか起りつつあるのを、彼は見てとった。男の上にちらと止まったぎらぎら光る目の中にも、話しぐあいにも、身のこなしにも、神経質な敏速さと優美さがあった。それは、二人がはじめて接近したころには、彼にとって強い魅力となったものであるが、今では何か不安を感じさせ、おびやかすようになってきたのである。
 食卓は四人前用意された。もうみんな顔が揃って、これから小さい食堂へ入っていこうとする時、トゥシュケーヴィッチがベッチイ公爵夫人の使で、アンナのところへ訪ねてきた。公爵夫人ベッチイは、健康がすぐれなかったため、暇乞いにこられなかったことをわび、六時半から九時までの間に、アンナに訪ねて来てほしい、というのであった。だれもほかの人に出くわさないように、ちゃんと手はずができていることを示すこの時間の制限を聞いて、ヴロンスキイはちらとアンナの顔を見やった。が、アンナはそれに気のつかないようなふうであった。
「たいへん残念ですこと、六時半から九時までの間は、わたしもちょうど都合が悪いんですの」と彼女はあるかなきかにほほえみながらいった。
「公爵夫人がさぞ残念にお思いになるでしょう」
「わたしだってご同様ですわ」
「あなたはきっと、パッチイを聴きにいらっしゃるんでしょうね?」
「パッチイですって……あなた、いいことをおっしゃって下さいましたわ。もし桟敷の切符が手に入ったら、わたしもまいりますわ」
「私が手に入れましょう」とトゥシュケーヴィッチが申し出た。
「それはまことにありがとうございます」とアンナはいった。「ときに、あなたもごいっしょにお食事をなさいません?」
 ヴロンスキイは、ようやくそれと知られるくらいに、肩をすくめた。アンナはいったいどうしようというのか、彼はてんで合点がいかなかった。なんのために、あのオールド・ミスの公爵令嬢をつれてきたのか、なんのためにトゥシュケーヴィッチを食事にひきとめたのか? ことに、何よりも驚くべきことは、なんのために桟敷をとりにやろうとするのか、彼女のような位置にありながら、顔見知りの社交界がぜんぶ集っている、パッチイの特別興行に姿を現わすなどということが、いったい考えられるものだろうか? 彼はまじめな目つきで彼女をながめた。が、彼女は相変らずいどむような、楽しいのか、自暴自棄なのかわからぬ視線で、答えるのであった。彼はその意味を解くことができなかった。食事の間、アンナはやたらに上きげんであった。まるでトゥシュケーヴィッチにも、ヤーシュヴィンにも、色っぽい所作をして見せているのか、と思われるほどであった。一同が食卓から立って、トゥシュケーヴィッチは桟敷をとりに出かけ、ヤーシュヴィンはタバコを吸いに外へ出た時、ヴロンスキイは彼を誘って、階下《した》の自分の部屋へいった。しばらく休んだ後、彼は階上へ駆け昇った。アンナはもうパリで仕立てた、胸あきの大きい、ビロードを配合した淡いろの絹の服を身にまとい、頭には高価な白いレースをつけていた。が、それは彼女の顔の縁《ふち》取りになって、その水ぎわ立った美貌を、特に有利な面から浮き出させるのであった。
「あなたは本当に芝居へ行くんですか?」彼女の顔を見ないようにしながら、彼はこうたずねた。
「なんだってあなたは、そうおびえたようにおききになるんですの?」彼が自分の顔を見なかったので、またもや侮辱を感じながら、彼女は答えた。「どうしてわたしが行っちゃいけないんですの?」
 彼女はさながら、男の言葉の意味を理解しないかのようであった。
「もちろん、なんの理由もありませんがね」と彼は眉をしかめていった。
「だから、わたしもそういってるんですわ」わざと男の語調にふくまれた皮肉な気持を理解しないで、香水の匂いのしみた長い手袋を、ゆっくりと折り返しながら、彼女はそういった。
「アンナ! お願いだ! いったいどうしたというのだ?」さながら相手の目をさませようとするかのごとく、彼はこういった。それはちょうど、いつか良人が彼女にいったのと、同じ調子であった。
「何をきいてらっしゃるのか、わたしとんとわかりませんわ」
「行っちゃいけないということは、自分でもわかってるじゃありませんか」
「なぜですの? わたし一人だけじゃありませんもの、ヴァルヴァーラ公爵令嬢も、着替えにお帰りになって、いっしょにいらっしゃることになってるんですの」
 彼は不審と絶望の表情で肩をすくめた。
「しかし、いったいあなたはわからないんですか……」と彼はいいかけた。
「ええ、わたしは知りたいと思いません!」と、彼女はほとんど叫ぶようにいった。「思いませんとも! 自分のしたことを、わたしが後悔してるとでもお思いになって? いいえ、いいえ、いいえ! たとえもう一度はじめからやりなおしてみたところで、やっぱり同じことになったに違いありません。わたしたちにとって、わたしにとっても、あなたにとっても、大事なのはたった一つ、わたしたちがお互に愛しあっているかどうか、ということだけですわ。ほかになんの考えもありません。なんだってわたしたちはここで別々に暮して、互の顔も見ないでいるんですの? どうしてわたしが行っちゃいけないんでしょう? わたしはあなたを愛しているんですから、そんなことはどうだってかまわないんですの」彼には意味のわからない特殊の光を目に浮べて、ちらと男を見やりながら、彼女はロシヤ語でいった。「もしあなたさえ変らなければ。どうしてあなた、わたしの方をごらんにならないの?」
 彼は女の顔をながめた。彼はその顔と、いつもうつりのいい衣装の美しさを、残りなく見てとったのである。けれど、今はその美しさと優雅さは、ただ彼をいらいらさせるばかりであった。
「僕の気持は変りっこありません、それはあなたも知っているとおりです。しかし、僕は行ってもらいたくないのです、どうかお願いです」無言の哀願を声に含めて、彼はまたフランス語でいったが、その目は冷たかった。
 彼女は言葉を聞かないで、ただ目の中の冷たい色だけを見てとった。で、いらだたしげに答えた。
「では、なぜわたしが行ってはいけないのか、そのわけを聞かして下さるようにお願いします」
「なぜって、それはあなたのために……」と彼はいいよどんだ。
「なんのことだか、ちっともわかりませんわ。ヤーシュヴィンは、n'est pas compromettant(連れにして不相応な人ではないし)ヴァルヴァーラ公爵令嬢だって、何もほかの人より劣ったところはありませんもの。おや、もういらした」

[#5字下げ]三三[#「三三」は中見出し]

 ヴロンスキイは初めてアンナに、いまいましさ、というよりほとんど毒念を覚えた。それは、彼女がわざと、自分の位置を理解しようとしないからであった。この気持は、自分のいまいましさの原因を、彼女にいうことができないために、ひとしお募ってくるのであった。もし彼が自分の考えていることを、あけすけにいうことができたら、おそらくこういったであろう。こんななりで、みんなによく知られている公爵令嬢と劇場に姿を現わしたら、それは自分が破滅した女であることを認めるばかりでなく、社交界に挑戦することである。すなわち、永久に社交界と絶縁することである、と。
 しかし、彼はアンナにむかって、そういうことができなかった。『それにしても、どうしてあれにこれがわからないのだろう。いったいあれの心の中に、どういうことが起ってるのだろう?』と彼はひとりごちた。彼は、アンナにたいする尊敬が薄くなったと同時に、彼女を美しいと思う気持が強まるのを感じた。
 彼は顔をしかめて、自分の部屋へ帰ると、ヤーシュヴィンのそばに腰をおろした。ヤーシュヴィンは椅子の上に長い脚をのばして、ソーダ水を割ったコニャクを飲んでいた。ヴロンスキイもそれと同じものを命じた。
「君はランコーフスキイの『モグーチイ』のことをいったね。あれはいい馬だよ。君、あれを買えよ、勧めるね」友の暗い顔をちらと見て、ヤーシュヴィンはこういった。「あれは尻がちょっと下がってるが、脚と首は申し分なしだよ」
「僕も買おうと思ってるよ」とヴロンスキイは答えた。
 馬の話は興味があったけれど、彼はいっときもアンナのことを忘れないので、われともなしに廊下の足音に耳を澄まし、暖炉の上の時計を見るのであった。
「奥さまが、芝居へお出かけになったから、そのことを申し上げてくれということでございます」
 ヤーシュヴィンは、泡立つソーダ水の中へ、もう一ぱいコニャクを入れて、ぐっと飲み干すと、ボタンをかけながら、立ちあがった。
「どうだね、出かけようじゃないか」と彼は口髭の陰で、かすかにほほえみながらいった。この微笑で、自分はヴロンスキイの沈んでいるわけを知ってるが、そんなことなどたいしたことじゃない、という気持を示したのである。
「僕は行かない」とヴロンスキイは暗い調子でいった。
「ところが、おれは行かなくちゃならん、約束したから。じゃ、失敬、しかし、椅子席へでもこないか、クラシンスキイの席を買えよ」とヤーシュヴィンは出しなに、こうつけ加えた。
「いや、僕は用があるんだ」
『女房もやっかいなもんだが、本当の女房でないと、もっとやっかいだなあ』ホテルを出ながら、ヤーシュヴィンはそう思った。
 一人きりになると、ヴロンスキイは椅子から立って、部屋の中を歩きまわりにかかった。
『今日はいったい、なにがあるんだろう? 特別興行の四日目だ……兄貴のエゴールも、細君といっしょに行ってる。たぶんおふくろもいっしょだろう。それはつまり、ペテルブルグの社交界が、全部あそこに集っている、というわけだ。今あれは中へ入って、毛皮外套を脱いで、あかりの中へ姿を現わしたとこだ。トゥシュケーヴィッチ、ヤーシュヴィン、ヴァルヴァーラ公爵令嬢……』と彼は肚《はら》の中で想像してみた。『だが、おれはいったいどうしたんだ? それとも、おれは恐れているのだろうか、でなければ、あれの保護役をトゥシュケーヴィッチに渡したのか? どう考えてみても、ばかげてる、ばかげてる……いったいなんだって、あれはおれをこんな立場に立たせたんだ?』と彼は片手をひとふりしていった。
 この動作で、ソーダ水とコニャクのびんののっていた小テーブルにさわって、危く倒しそうになった。彼はそれを押えようとして、やりそこなったので、いまいましさに足でテーブルを蹴《け》とばして、ベルを鳴らした。
「おまえ、ちゃんと奉公するつもりなら」と彼は、入ってきた従僕にいった。「自分の仕事をよく覚えておくがいい。今後こんなことがあったら、承知しないぞ。ちゃんと片づけておかなくちゃならないんだ」
 従僕は、何も自分が悪くないと思ったので、言いわけをしようとしたが、旦那さまの顔をちらと見ると、その顔色で、黙っているに限ると悟って、急がしげに体をくねらせながら、絨毯《じゅうたん》の上に坐って、無事な器や、こわれたびんやコップを選り分けはじめた。
「それはおまえの役じゃない。ボーイを片づけによこして、おれに燕尾服を用意しろ」

 ヴロンスキイが劇場へ入ったのは八時半で、ちょうど演技のクライマックスであった。小柄な年とった観客係は、ヴロンスキイの毛皮外套をぬがせると、だれかということに気がついて、『御前《ごぜん》』と呼びながら、どうか番号札などお持ちにならないで、ただフョードルと呼んで下さい、と申し出た。明るい廊下には、一人の観客係と、外套を手に持って、戸口で歌を聞いている二人の従僕のほか、だれもいなかった。細めに開かれた戸の陰から、用心ぶかいオーケストラの断音伴奏の響きと、くっきりした発音で歌詞を唱う一人の女声が聞えていた。戸が開いて、一人の観客係が出てくると、終りに近づいた歌詞が驚くほどはっきり、ヴロンスキイの耳朶《じだ》を打った。が、戸がすぐしまったので、ヴロンスキイはその歌詞と、結尾装飾《カデンツア》の終りを聞かなかったが、戸の陰から洩れる雷のような拍手のひびきによって、結尾装飾《カデンツア》の終ったことを察した。シャンデリヤと青銅のガス燈に、まぶしいほど照らされた見物席へ入った時、騒ぎはまだつづいていた。舞台には一人の歌い女《め》が、あらわな肩とダイヤモンドを輝かし、身をかがめ、微笑を浮べながら、テノールに片手を握ってもらって、フットライト越しにだらしなく飛んでくる花束を集め、それから、ポマードをてかてかにつけて、髪のまんなかを分けた紳士が、フットライト越しに長い手をのばして、何やらさしだす方へ近よっていった。平土間の見物も、桟敷の人たちも、みんなあたふたして、前の方へ乗り出しながら、わめいたり、拍手したりしていた。台の上に立っている楽長は、歌い女の手伝いをして物を渡しながら、白ネクタイをなおしていた。ヴロンスキイは、平土間のまんなかへ進み出ると、歩みをとめて、あたりを見まわしはじめた。彼はいつも、このなじみの深い、わかりきった場景――舞台や、この騒然たる人声や、すしずめになった場内の、よく知りぬいて興味のない、色とりどりな見物の群などに、あまり注意を向けないほうであったが、今夜はなおさら、一顧の注意をも払わなかった。
 いつもながらの桟敷には、相も変らぬどこかの貴婦人が、どこかの将校と奥の方に並んでいるし、だれか知らないが、相も変らぬ色さまざまな婦人たち、軍服、フロック、相も変らぬ天井桟敷の汚らしい群衆。こうした群の中でも、桟敷と平土間の前列あたりに、四十人ばかり本物の[#「本物の」に傍点]男や女がいた。この緑島《オアシス》にヴロンスキイはさっそく注意を向け、すぐさま仲間へ入った。
 彼が入っていった時、第一幕は終った。で、兄の桟敷へはよらずに、第一列目まで進み、フットライトのそばにいるセルプホフスコイに並んで立った。この旧友は片膝曲げて、かかとで舞台はなを軽くこつこついわせていたが、遠くからヴロンスキイを見つけて、呼んだのである。
 ヴロンスキイはまだアンナを見なかった。わざとその方を見なかったのである。しかし、人人の視線の方向によって、どこにいるかがわかっていた。彼は、目につかないようにふりむいたが、彼女をさがしはしなかった。もっと悪い場合をも覚悟して、彼は目でカレーニンをさがした。が、さいわいと、今晩はカレーニンは劇場に来ていなかった。
「君には軍人らしいところが、ほとんどなくなったじゃないか!」とセルプホフスコイはいった。「外交官か、芸術家か、まあそういったとこだね」
「ああ、僕は国へ帰るとすぐ、燕尾服を着たんだよ」微笑を浮べて、ゆっくりとオペラ・グラスをとりだしながら、ヴロンスキイは答えた。
「いや、正直なところ、それが僕はうらやましいのだ。僕は外国から帰ってくると、こいつを着けるんだからね」と彼は参謀肩章をさわって見せた。「僕は自由が名残り惜しくってね」
 セルプホフスコイは、軍人としてのヴロンスキイの栄達には、もう前からあきらめをつけていたが、愛情だけは前と変らなかったので、今夜も特に愛想がよかった。
「君が一幕目に遅れたのは残念だね」
 ヴロンスキイはそれを一方の耳で聞きながら、オペラ・グラスを一階桟敷から二階桟敷へ移して、一つ一つのボックスを見まわした。ターバンを頭に巻いた婦人と、オペラ・グラスを向けられて、腹だたしげに瞬きしている禿頭の老人のそばに、ヴロンスキイは突然アンナの顔を見つけた。レースに縁どられた、驚くばかり美しく、誇らしげにほほえんでいる顔。彼女は彼から二十歩ほど隔てた、一階桟敷の五つ目にいた。前列に坐って、軽く体を捩《ね》じ向けながら、何やらヤーシュヴィンにいっていた。美しい幅広な肩の上に据わった首のぐあいや、その目、その顔ぜんたいの控えめな、しかも興奮した輝きは、モスクワの舞踏会で見た時のアンナを、そっくりそのまま思い起させた。しかし、彼は今その美しさを全く別様に感じた。今や彼の感情の中には、なんら神秘的なものがなく、したがって、その美は前よりさらに強く彼をひきつけながらも、同時に侮辱を感じさせるのであった。彼女はヴロンスキイの方を見なかったが、彼は彼女がすでに自分に気づいているのを感じた。
 ヴロンスキイがふたたびその方ヘオペラ・グラスを向けた時、ヴァルヴァーラ公爵令嬢はとくべつ真赤になって、不自然に笑いながら、隣桟敷をふり返りふり返りしているのに、ヴロンスキイは気がついた。アンナはと見ると、たたんだ扇で手すりの緋《ひ》ビロードを叩きながら、どこかあらぬ方へ視線を凝らしていたが、隣桟敷の気配には見向きもしなかった。明らかに、見たくないらしかった。ヤーシュヴィンの顔には、カルタに負けたときのような表情が浮んでいた。彼は渋い顔をして、例の左の鼻髭を、だんだん深く口へおしこみながら、やはり隣桟敷に横目をつかっていた。
 この左隣の桟敷には、カルターソフ夫婦がいた。ヴロンスキイは彼らを知っていたし、またアンナが彼らと近づきなのも知っていた。やせて小柄なカルターソヴァ夫人は、自分の桟敷のまんなかに立って、アンナに背中を向けたまま、良人のさしだすマンチリヤを羽織っていた。その顔は蒼ざめて、腹だたしげであった。彼女はなにやら、興奮したようにしゃべっていた。ふとった禿頭のカルターソフ氏は、のべつアンナの方をふり返りながら、妻をなだめようと骨折っていた。細君が出て行った時、良人のほうは長いことぐずぐずして、アンナの視線を目で捕えようとしていた。どうやら、彼女に会釈したかったらしい。しかし、アンナはうしろむきになったまま、明らかに、わざとそれに心づかないふりをしながら、自分の方にいが栗頭をつき出しているヤーシュヴィンに、なにやら話していた。カルターソフはとうとう、お辞儀をしないで出て行った。こうして、桟敷は空になった。
 はたして何がカルターソフ夫妻と、アンナのあいだに起ったかは、ヴロンスキイにもわからなかったけれど、何かしらアンナにとって屈辱的なことであるのは、察しがついた。彼がそれを察したのは、いま見た場景によるが、なおそれ以上、アンナの顔つきで判断したのである。彼女が、自分のいったん決心した役割を最後までもちこたえようと、残り少なの力をふり絞っていることは、ヴロンスキイにちゃんとわかっていた。しかも、この表面おちつきを装おうという役割は、みごとに成功していた。彼女とその環境を知らないもの――彼女が大胆にも社交界に姿を現わしたのみか、麗々しくレースの頭飾りをつけ、おのれの美貌をこれ見よがしにしたのに対して、婦人連が憐憫や、憤懣《ふんまん》や、驚きの言葉を洩らしたのを聞かなかった人々は、彼女の平静と美貌に見とれて、彼女がさらし者の柱に縛りつけられた人間の気持を経験しているなどとは、夢にも想像がつかなかったのである。
 何か起ったということはわかっていたが、はたして何かということがわからないので、ヴロンスキイは悩ましい不安を覚えた。あすこへ行ったら、何か聞き出せるという心頼みで、彼は兄の桟敷をさしていった。わざとアンナの桟敷とは反対側にあたる平土間の通路を選んで、彼は廊下へ出ようとしたひょうしに、二人の知人と話をしている、自分の旧連隊長にぱったり出会った。ヴロンスキイは、カレーニン夫妻の名が呼ばれたのも、連隊長が急いでほかの二人に意味ありげな目くばせをし、大きな声でヴロンスキイを呼んだのにも、彼は気がついた。
「ああ、ヴロンスキイ! どうして連隊へやってこないんだ? 送別会をしなけりゃ発《は》たしゃせんぞ。君は連隊じゃいちばんの生え抜きだからな」と連隊長はいった。
「とても間にあいませんよ、非常に残念ですが、また今度にしていただきましょう」とヴロンスキイは答え、兄のいる二階桟敷をさして、階段を駆け昇った。
 鴉《からす》の濡羽色の髮をした、ヴロンスキイの母の老伯爵夫人は、兄の桟敷に坐っていた。ソローキナ公爵令嬢と連れだったヴァーリャが、二階の廊下で彼に行き会った。
 ソローキナ公爵令嬢を、姑《しゅうとめ》のところまで案内すると、ヴァーリャは義弟に手をさしのべて、すぐさま彼の聞きたがっていることを話しだした。彼女は、ヴロンスキイがめったに見たことがないほど興奮していた。
「わたし、あれは卑劣ないまわしいことだと思いますわ。マダム・カルターソヴァは、なんの権利もなかったんですもの。マダム・カレーニナは……」と彼女はいいだした。
「いったいどうしたんです? 僕は知らないんです」
「え、あなた聞かなかったの?」
「どうでしょう、僕はだれよりもいちばんあとにそれを聞くんですよ」
「あのカルターソヴァより以上に、意地のわるい人がいるでしょうか!」
「いったいあのひとが何をしたんです?」
「わたし主人から聞いたんですけど……あのひとはカレーニナ夫人を侮辱したんですの。あのひとのご主人が、桟敷越しにカレーニナ夫人と話をはじめたところ、カルターソヴァがご主人に食ってかかったんですの。なんでも人の話だと、なにやら大きな声で失礼なことをいって、ぷいと出てしまったんですって」
「伯爵、お母さまがお呼びでいらっしゃいますよ」ソローキナ公爵令嬢が、桟敷の戸から顔をのぞけながらいった。
「わたしはずっとおまえを待っていたんですよ」と母はあざけるように笑いながらいった。「まるでおまえの姿が見えないんだもの」
 母が喜びの微笑をおさえかねているのを、息子は見てとった。
ごきげんよう、お母さん、僕はここへこようと思っていたんです」と彼は冷たい調子でいった。
「どうしておまえは 〔faire la cour a` madame Kare`nine〕(カレーニナ夫人のごきげんとりに)行かないんだね?」ソローキナ公爵令嬢がそばを離れた時、彼女はこうつけ加えた。「Elle fait sensation. On oublie la Patti pour elle.(あのひとは大評判になっていますよ。あのひとのために、みんなパッチイのことを忘れているくらい)」
「お母さん、その話は僕にしないようにとお願いしたはずですが」と彼は眉をひそめながら答えた。
「わたし、みんなのいってることをいってるだけですよ」
 ヴロンスキイはなんとも返事しないで、ソローキナ公爵令嬢に二こと三こといった後、外へ出た。戸口のところで、彼は兄に出会った。
「ああ、アレクセイ!」と兄はいった。「なんていまわしいことだ、馬鹿女だよ、それっきりだ……僕は今あのひとのところへ行こうと思ってたとこだ。いっしょに行こう」
 ヴロンスキイは、兄のいうことを聞いていなかった。彼は足早に階下《した》へ降りていった。何かしなければならぬと感じながら、何をしたらいいのかわからなかった。彼女が自分自身をも、また彼ヴロンスキイをも、こういういかさまな立場においたのが、いまいましかったが、それと同時に、彼女の苦痛を憐れむ心持が、いっしょになって、彼の胸をわくわくさせるのであった。彼は平土間へおりていって、まっすぐにアンナの桟敷へ向った。桟敷のそばには、ストレーモフが立っていて、彼女と話をしていた。
「もうテノールらしいテノールはいませんね。〔Le moule en est brise'.〕(衰えたもんです)」
 ヴロンスキイは彼女に会釈して、ストレーモフにあいさつしながら、立ちどまった。
「あなたは遅れていらして、いちばんいいアリアをお聞きにならなかったようですね」あざけるように(とヴロンスキイには思われた)彼をちらっと見て、アンナは彼にそういった。
「僕はたいした鑑賞家じゃありませんから」きびしい目つきで彼女を見ながら、ヴロンスキイは答えた。
「ヤーシュヴィン公爵と同じようね」と彼女は、微笑を浮べながらいった。「公爵はね、パッチイはあんまり声が大きすぎるって、そうおっしゃるんですの。ありがとう」ヴロンスキイが拾ってくれた番付を、長手袋をはめた小さな手に受け取りながら、彼女はそういったが、突然その刹那、美しい顔がぴくりとふるえた。彼女は立ちあがって、ボックスの奥の方へひっこんだ。
 次の幕があく時、彼女の桟敷が空になったのを見て、独唱部《カヴァチーナ》の響きの中に静まり返った劇場に、「しっ、しっ」という制止の声を呼び起しながら、ヴロンスキイは平土間を出て、家路にむかった。
 アンナはもう帰っていた。ヴロンスキイが入った時、彼女は芝居へ行った衣装のままで、壁ぎわにあった一番手近な肘椅子に腰かけて、じっと目の前を見つめていた。彼の顔をちらと見ると、すぐまたもとの姿勢に返った。
「アンナ」と彼はいった。
「あんたが、あんたがなにもかも悪いのよ!」と彼女は立ちあがりさま、絶望と憤怒の涙を声にひびかせながら、こう叫んだ。
「僕は行かないでくれと頼んだじゃないか、哀願したじゃないか。おまえがいやな目に会うのが、わかっていたんだもの……」
「いやな目ですって!」と彼女は叫んだ。「あれは恐ろしいことですわ! このさき何年生きても、あれだけは忘れやしない。あのひとは、わたしと並んで坐るのがけがらわしいって、いったんですもの」
「馬鹿女のいったことなんか」と彼はいった。「しかし、なんのために冒険をやったんだ、挑戦したんだ……」
「わたし、あんたのおちつきすましているのが憎らしい。あんたはわたしをあんなとこまで追いつめちゃならなかったはずなのよ。もしあんたがわたしを愛していたら……」
「アンナ! この場合、僕の愛の問題が、なんのためになるんだ?」
「いいえ、もしあんたがわたしと同じくらい愛していたら、もしあんたがわたしと同じくらい苦しんだら……」おびえたような表情で男の顔を見上げながら、彼女はそういった。
 ヴロンスキイは彼女がかわいそうではあったが、なんといってもいまいましかった。彼は自分の愛を誓った。なぜなら、今はただこれのみが、女をおちつかせることができたからである。彼は言葉でこそ責めなかったけれども、心の中では彼女を責めていた。
 彼自身では、口にするのも気がさすような俗っぽい愛の誓いを、彼女はむさぼるように飲んで、少しずつおちついていった。そのあくる日、二人はすっかり仲なおりをして、田舎へ発《た》った。
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