『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」2-26~2-30(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]二六[#「二六」は中見出し]

 妻に対するカレーニンの態度は、外面から見ると、もとのとおりであった。たった一つ違ってきたのは、彼が前よりもっと多忙になったことである。前年と同じように、春になると共に、冬のあいだ毎日毎日懸命に働くため損《そこな》った健康を回復に、外国の温泉に出かけた。そして、いつものとおり、七月に帰ってくると、すぐさま前にも増した精力をもって、例のごとき仕事にとりかかったのである。そして、いつものとおり、妻は別荘へ移り、彼はペテルブルグに残った。
 トヴェルスカヤ公爵夫人の夜会の後、アンナと話しあって以来、彼はもう二度と妻に自分の疑念や、嫉妬の話をしなかった。で、だれかの役を演じているような、例のごとき彼の調子は、今のような妻に対する関係のためには、このうえなく便利なものとなった。彼は前より、いくらか妻に対して冷淡になった。彼ははじめてあの夜、話しあおうとしたのに、妻がそれを避けたことに対して、ちょっとした不満を持っている。ただそれだけのように思われた。妻に対する彼の態度には、いまいましさの陰があったが、それきりだった。
『おまえは、私と本当に話しあおうとしなかったが』と彼は心の中で妻に向って、こういっているようであった。『それは結局、おまえの損なんだよ。今となっては、おまえのほうから頼んでも、私は話しあいなんかしないからね。結局、おまえの損になるばかりだ』と彼は心の中でいった。それはちょうど、火事を消そうとして空しい努力をしたあげく、自分の空しい努力に腹をたてて、『さあ、これがおまえの罰だ! それならもうかってに燃えろ!』という人のようであった。
 彼も――勤務にかけては聡明で、細かい神経をもった人物も、妻に対するそうした態度がはなはだ気違いめいていることを、理解しなかった。理解しなかったのは、自分の本当の立場を理解するのが、あまりに恐ろしかったからである。で、自分の家族、すなわち妻子に対する、自分の感情をおさめた手箱の蓋《ふた》をしめ、鍵《かぎ》をかけ、封印をしてしまった。これまで注意ぶかい父親であった彼が、この冬の終りごろから、わが子に対してひどく冷淡になり、わが子に対しても、妻に対する時と同じ、小ばかにしたような態度をとりはじめた。「ああ! わが青年!」と彼はセリョージャにいうのであった。
 カレーニンは、今年ほど勤務上の仕事の忙しいことはないと、考えもし、いいもした。しかし、彼はこういうことを意識しなかった――彼は今年わざと自分で仕事を考え出したので、それは妻子に対する感情と、思想の入っている箱を、開けない方法の一つであったが、それが長く入っていればいるほど、恐ろしくなるのであった。もしだれかがカレーニンに、あなたは奥さんの行状をどう思っていらっしゃいますかと、きく権利をもっているとしたら、柔和で温厚なカレーニンは、なんにも返事をしないで、そんなことをきいた男に腹をたてたに相違ない。つまり、それがために、妻の健康をきかれた時のカレーニンの表情が、何か傲慢《ごうまん》で厳《いか》めしくなるのであった。カレーニンは妻の行状や感情のことは、なんにも考えたくなかったし、事実、彼はそれについて、何一つ考えなかったのである。
 カレーニン家のいつもきまった別荘はペテルゴフにあって、たいてい、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナが、毎年の夏、近所に住んで、始終アンナと交渉をもつ習わしになっていた。ところが、今年はリジヤ・イヴァーノヴナはペテルゴフで暮すのをやめて、一度もアンナを訪ねてこず、カレーニンにむかって、アンナがベッチイやヴロンスキイと親しくするのはおもしろくない、とほのめかすのであった。カレーニンはそれをおし止めて、自分の妻はそんな疑いを超越していると言明したが、それ以来リジヤ・イヴァーノヴナを避けるようになった。彼は、社交界で多くのものが、自分の妻を白眼でにらんでいることを、見まいとしたし、また見もしなかった。そして、妻がベッチイの住んでいるツァールスコエ――ヴロンスキイの連隊の野営地に近いツァールスコエヘ移ろうと、特にいいはったわけを、理解しようとしなかった、また理解しなかったのである。彼はそんなことを考えるのを、いさぎよしとしなかったし、また考えもしなかったが、それと同時に、決して自分で自分にそんなことをいいもせず、またそれに対する証拠はもちろん、疑惑さえなかったにもかかわらず、心の深い底のほうでは、自分が欺《あざむ》かれたる良人であることをまちがいなく承知し、そのために心から不幸であった。
 八年間の幸福な結婚生活のあいだに、世間の不貞な妻や欺かれた良人を見て、カレーニンは幾度こういったことだろう。『どうしてあんなになるまで、うっちゃっといたのだろう? どうしてあの醜悪な状態を解決しないんだろう?』ところが、いま不幸が自分の頭上に落ちてきた時、彼はこの状態を解決しようと考えなかったばかりか、その事実を認めようともしなかった。彼が認めようとしなかったのは、それがあまりに恐ろしく、あまりに不自然だったからである。
 外国から帰って以来、カレーニンは二度別荘へ行った。一度は食事をし、一度は客と一夕をすごしたが、以前の習慣に反して、一度も泊まらなかった。
 競馬の当日は、カレーニンにとってはなはだ多忙な一日《いちじつ》であった。しかし、朝のうちに一日の時間割をきめた。早|昼食《ひる》をすましたら、すぐ妻のいる別荘へ行き、そこから競馬へ駆けつける。そこには両陛下が扈従《こじゅう》を従えて、臨御されるはずであるから、ぜひ顔を出さなければならない。妻の所へは、世間体《せけんてい》のために週に一度、行くことにきめていたからでもあるし、そのほか、一定のしきたりに従って、この十五日に生活費を渡さなければならないからでもあった。
 妻に関してこれだけのことを考えた後、自分の想念を支配する習慣から、それ以上妻のことをいろいろと考えるのは、自分で自分に許さなかった。
 この朝、カレーニンは多忙をきわめた。前日、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナが、有名な中国旅行家のパンフレットを送ってきて、当の旅行家に会ってもらいたい、それはさまざまな点から考えてしごく興味のある、また必要な人物だから、と添え手紙をしてよこした。カレーニンは昨夕、そのパンフレットを読み終ることができなかったので、朝になって残りを読んだ。それから、請願人が出頭して、報告、面接、任命、免職、賞与や年金や俸給の割振り、往復文書――カレーニンのいわゆる日常茶飯事がはじまって、それが非常に時間をとった。そのあとは私事で、医師が来訪し、執事がやってきた。執事はあまり手間をとらせなかった。ただカレーニンに必要な金を渡して、財政状態を簡単に報告しただけであるが、それはあまりよくなかった。というのは、今年は私用の旅行が多くて、支出がかさみ、赤字が出たからである。そのかわり、カレーニンと友だち関係になっているペテルブルグで有名な医師は、ひどく時間を潰さした。カレーニンは今日この医師を期待していなかったので、突然の来訪に驚かされた。ことに、医師がひどくまじめに、カレーニンの健康を根掘り葉掘りききただし、胸部を聴診したり打診したり、肝臓をおさえてみたりしたから、なおさらびっくりしてしまった。カレーニンは次の事情を知らなかったのである。彼の親友であるリジヤ・イヴァーノヴナが、今年はカレーニンの健康が思わしくないと見てとって、行って病人を診察してほしいと、この医師に頼んだのであった。
「どうかわたしのために、そうして下さいな」と伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは、医師にそういった。
「私はロシヤのためにいたしますよ、伯爵夫人」と医師は答えた。
「かけがえのないかたですものね!」とリジヤ・イヴァーノヴナはいった。
 医師は、カレーニンの容態にひどく不感服であった。彼の診察によると、肝臓はいちじるしく腫《は》れているし、食欲は減退して、温泉の効果は少しも認められないのであった。彼は、なるべく肉体運動に力を入れて、精神的緊張を減らし、ことに心配事はいっさい無用と命じた。それはつまり、カレーニンにとっては、呼吸をせずにいろというのと同様に、不可能なことであった。こうして、医師はカレーニンの心に、何か自分の内部にはよくないことがあるけれどもそれを匡正《きょうせい》することは不可能だという、不快な意識を残して、立ち去った。
 カレーニンのもとを辞した医者は、入口階段のところで、カレーニンの事務を鞅掌《おうしょう》している、かねてごく懇意な仲のスリュージンに、ぱったり会った。彼らは大学時代からの友だちで、めったに会うことはなかったけれど、お互どうし尊敬しており、したがって、きわめて親しい間柄であった。こういうわけで、病人について忌憚《きたん》のない意見を述べるのに、スリュージンほど適当の聞き手はなかったのである。
「君が見に来てくれて、じつによかった」とスリュージンはいった。「どうもアレクセイ・アレクサンドロヴィッチは具合がよくない。それに、僕の見るところでは……しかし、どうなの?」
「じつはね」スリュージンの頭越しに、自分の馭者に手をふって見せ、馬車をまわすようにと合図しながら、医師はいった。「じつはね」と医師は白い手にキッド革の手袋をとって、指にはめながらいった。「絃《いと》を強く張らずにおいて、そいつを切ろうとしても、なかなか容易じゃないが、これ以上だめというまで張って、その張りつめた絃を指一本でおさえてみたまえ、――ぷつんと切れてしまうから。ところが、あの人は辛抱づよくて、仕事に対して良心的だから、これ以上だめというところまで張りつめているわけだ。そこへもってきて、わきのほうから圧迫がくわえられている、しかも重い圧力だからね」と医師は意味ありげに眉を上げて、こう結んだ。「ときに、競馬へ行くかね?」廻された馬車の方へ降りて行きながら、彼はつけ加えた。「そう、そう、もちろん、非常な暇つぶしさ」スリュージンに何かいわれたが、よく聞えないままに、医師はこう答えた。
 ひどく手間をとらした医師のあとから、有名な旅行家が姿を現わした。カレーニンは読んだばかりのパンフレットと、この方面に関して前から蓄えていた知識を利用して、おのれの博学と文化的な視野の広さで、旅行家を驚かした。
 この旅行者と同時に、ペテルブルグへ出て来たさる県の貴族団長の来訪が取りつがれた。この男とは用談があったのである。これが帰ると、そのあとでスリュージンと日常茶飯事を片づけ、それからさらに重大な用件で、ある名士を訪問しなければならなかった。カレーニンはやっと、五時の食事までに帰ることができた。スリュージンといっしょに食事をすると、彼を誘って、別荘行と競馬見物に同行させることにした。
 自分でもそれを意識しないままに、今もカレーニンは妻と会うのに、第三者をそばにおく機会を求めていたのである。

[#5字下げ]二七[#「二七」は中見出し]

 アンナは二階で鏡の前に立ちながら、アンヌシカに手伝わせて、いま最後のリボンを服にとりつけるところであったが、ふと車寄せのあたりで砂利を噛む轍《わだち》の音を耳にした。
『ベッチイにしては早すぎるわ!』と彼女は考えて、窓の外をのぞいた。と、箱馬車が目に入り、その中からつき出ている黒い帽子と、知りすぎるほど知っているカレーニンの耳が見えた。『これは都合のわるいこと。いったい泊まるのかしら?』と彼女は考えたが、それから生じる結果を思うと、恐ろしくてたまらなくなったので、彼女は一刻も思案せず、楽しげに顔を笑みかがやかせて、良人を出迎えにいった。早くも自分の内部に、かねて覚えのある虚偽と、欺瞞の悪魔がひそんでいるのを感じながら、彼女はすぐさまこの悪魔に身をゆだね、自分でも何をいうかわからずに、しゃべりだした。
「まあ、よくいらっしゃいましたこと!」良人に手をさしのべ、スリュージンには内輪の人として微笑であいさつしながら、彼女はこういった。「あなた、今夜は泊まって下さるでしょうね?」これが虚偽の悪魔の助言した最初の言葉であった。「ところで、今はごいっしょにまいりましょう。ただ残念なのは、わたしベッチイに約束したことなんですの。あのひと、わたしを迎えに来てくれることになってますのよ」
 カレーニンは、ベッチイの名を聞くと、顔をしかめた。
「いやあ、私は何も離れがたい仲をひき離そうとはしないよ」と彼は例の冗談口調でいった。「私はスリュージン君といっしょにいくから、それに、医者も運動しろというから、途中すこし歩くよ。そして、温泉場にいるものと想像しよう」
「何もお急ぎになることありませんわ」とアンナはいった。「お茶はいかが?」
 彼女はベルを鳴らした。
「お茶を持ってきてちょうだい。それからセリョージャに、お父さまがいらっしたといってね。ときに、あなたのお体はどうですの? ミハイル・ヴァシーリッチ、あなたここにおいでになったことがおありですの? 見て下さいな、うちのバルコンはいい気持でしょう」と彼女は二人にかわるがわる、話しかけるのであった。
 彼女の話しぶりはきわめて率直で、自然だったが、しかしあまり言葉が多すぎ、あまり早口すぎた。彼女は自分でもそれを感じた。ことに、自分を見るスリュージンの好奇心にみちたまなざしで、彼女はこの男が自分を観察しているらしいのを見てとったので、なおさらそう感じないわけにいかなかった。
 彼女は良人のそばへ腰をおろした。
「あなた、あまりお顔の色がすぐれないようですわね」と彼女はいった。
「ああ、きょう医者がやってきてね、一時間も暇をつぶさしたよ。これはどうも友だちのだれかが、私のところへさしむけたらしい。それほど私の健康は貴重なものとみえるよ……」
「それよか、お医者さまはなんとおっしゃいまして?」
 彼女は良人の健康や仕事のことを、いろいろとたずねたあげく、休暇をとって自分のところへ移るように勧めた。
 そういったようなことを、彼女はさも楽しそうに、早口に、一種特別の光を眼にたたえながらいった。しかし、今カレーニンは彼女のこうした調子に、なんの意味も認めなかった。ただ妻の言葉を聞いて、その言葉のもっている直接の意味を認めるだけであった。そこで、彼はふざけた口調ではあったが、率直に受け答えをした。この会話ぜんたいに、何一つ特別なものはなかったが、アンナはその後いつになっても、羞恥の悩ましい痛みを感じずには、この短い一場面を思い出すことができなかった。
 セリョージャが、家庭教師につれられて入ってきた。もしカレーニンがあえて観察眼を働かせたなら、セリョージャがおどおどした、途方にくれたような目つきで、父と母とを見上げたのに、心づいたのであろう。しかし、彼は何も見たくなかったので、何一つ見なかった。
「ああ、青年! 大きくなったものだね。本当に、りっぱな一人前の男になっていく。ごきげんよう、わが青年」
 そういって、彼はおびえたようなセリョージャに手をさしのべた。
 セリョージャは前から、父親に対しては臆病だったが、カレーニンが彼をわが青年と呼びはじめて以来、またヴロンスキイが味方か敵かという疑念が、頭に忍びこんでからというもの、父を避けるようになった。彼は保護を求めるように、母親の方をふり返った。ただ母といるときだけ、彼はぐあいがよかった。そのあいだに、カレーニンは家庭教師に話しかけて、わが子の肩に手をのせていたが、セリョージャは苦しくてたまらず、今にも泣きだしそうなのを、アンナは見てとった。
 わが子が入ってきた瞬間、さっと顔を赤らめたアンナは、セリョージャのばつの悪そうな様子を見ると、つと立ちあがって、わが子の肩にのっているカレーニンの手をのけ、わが子に接吻して、テラスへ連れて出たと思うと、すぐさまひっ返した。
「でも、もう時間ですわ」と彼女は自分の時計を見て、いった。「どうしてベッチイはこないのかしら……」
「そう」とカレーニンはいった。そして、椅子から立つと、手を組みあわせて、ぽきぽきと指を鳴らした。「私はおまえに金を渡そうと思って、よったんだよ。なにしろ、鴬《うぐいす》だっておとぎ話だけで飼うことはできないからね」と彼はいった。「おまえも要《い》るだろうと思って」
「いいえ、いりません……でも、いりますわ」良人の顔を見ず、髮の根まで赤くして、彼女はそういった。「そして、あなたも競馬のあとで、ここへいらっしゃるでしょうね」
「ああ、くるとも!」とカレーニンは答えた。「そら、ペテルゴフの花、トヴェルスカヤ公爵夫人のお越しだ」イギリス風の馬具をつけた、バネの上に車体が恐ろしく高くのっている幌馬車が近よるのを、窓越しに見て、彼はこうつけ加えた。「じつにしゃれた車だね! すてきだ! さあ、われわれもいくとしようか」
 トヴェルスカヤ公爵夫人は、馬車から降りなかった。ゲートル付きの靴をはいて、肩あてをのせ、黒い帽子をかぶった従僕が、車寄せへ飛び降りたばかりである。
「じゃ、わたしまいりますわ、さよなら!」といって、アンナはわが子に接吻し、カレーニンに近づいて、手をさしのべた。「ほんとに、よくいらして下さいましたわね」
 カレーニンは妻の手を接吻した。
「じゃ、さよなら! あなたお茶を飲みにいらっしゃいますわね、けっこうですわ!」といい、彼女は楽しげに笑みかがやきながら、出て行った。けれども、良人の姿が見えなくなるやいなや、彼女は自分の手に良人の肩のふれた場所を感じて、嫌悪の念にぶるっと身ぶるいした。

[#5字下げ]二八[#「二八」は中見出し]

 カレーニンが競馬場に姿を現わした時、アンナはもうベッチイと並んで、上流社会の全部が集っている桟敷に坐っていた。彼女はまだ遠いところから、良人に気がついた。良人と情夫、この二人は彼女にとって、生活の二つの中心だったので、外部の感覚の助けをからずとも、彼女は常にその接近を感じた。彼女はまだ遠くのほうから、良人の接近を感じたので、群衆の波を分けて動いている彼の姿を、思わずじっと注視した。見ると彼は、ごきげんをとるような会釈にたいして、わざとていねいに応えたり、同輩にはあるいは親しげな、あるいは放心したようなあいさつのしかたをしたり、この世の権力者に会うと、一生懸命にその視線を待ち受けて、耳の端をおさえつける大きな円い帽子をとりながら、桟敷の方へ近づいてくるのであった。
 良人のこういう態度は、彼女のよく知りぬいているところで、それが一から十までいやらしかった。
『ただ虚栄心ばかり、ただ成功したいという気持ばかり――あの人の心にあるのは、ただそれっきりなんだわ』と彼女は考えた。『高遠な思想、文化にたいする愛、宗教、そんなものはみんな、成功のための武器にすぎないんだわ』
 婦人席を見まわす彼の目つきによって(彼はまともに妻の方を見ながら、紗《しゃ》の着物や、リボンや、羽や、パラソルや、花の海にまぎれて、見分けがつかなかったのである)、彼が自分をさがしているのを悟った。しかし、彼女はわざと良人に気のつかないふりをしていた。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ!」と公爵夫人ベッチイは叫んだ。「あなたはきっと奥さまがお目に入らないんでしょう。ここですよ!」
 彼は持ち前の冷やかな笑い方で、にっとほほえんだ。
「ここはあまり光輝|燦然《さんぜん》としているので、目移りがしてしまいますよ」といって、彼は桟敷に入ってきた。彼は妻にほほえみかけたが、それはたったいま別れたばかりの妻を見た良人が、当然うかべるような微笑であった。それから、公爵夫人をはじめ、その他の知人にあいさつして、その一人一人にしかるべき応対をした。つまり、婦人たちには冗談をいい、男連とはあいさつの言葉をかわしたのである。下の方の桟敷のそばには、カレーニンの尊敬している、頭脳と教養で知られた将官の侍従が立っていたので、カレーニンはその人に話しかけた。
 ちょうど競馬の間だったので、だれも話のじゃまをするものはなかった。将官の侍従は競馬攻撃論をした。カレーニンはその反駁《はんばく》をして、競馬を弁護した。アンナはそのなだらかな細い声を、一語ものがさず聞いていたが、そのひと言ひと言に誠実みがないように思われ、聞くに堪えない気がした。
 四露里の障碍物競走が始ったとき、彼女は身を乗り出して、自分の馬に近より、やがてその背に跨がるヴロンスキイを、わき目もふらずながめていたが、同時に、あの止み間のないいとおしい良人の声を聞いているのであった。彼女は、ヴロンスキイを気づかう恐怖に悩まされていたが、それよりもさらに、聞き慣れたアクセントをつけてしゃべる良人の、かぼそい[#「かぼそい」は底本では「かばそい」]、やみまのないように思われる声の響きに悩まされた。
『わたしは悪い女だ、堕落した女だ』と彼女は考えた。『でも、わたしは嘘をつくのは嫌いだ、嘘というものはがまんできない。ところが、あの人[#「あの人」に傍点](良人)のおしゃべりは嘘なんだ。あの人はなにもかも知っている、なにもかも見ている。それなのに、あんなにおちついて話ができるなんて、いったいあの人は、どんなふうに感じているのだろう? もしあの人がわたしを殺したら、ヴロンスキイを殺したら、わたしあの人を尊敬したに相違ない。ところが、だめ、あの人に必要なのは嘘なんだ、ただ世間態なんだ』自分は良人から何を望んでいるのだろう、良人がどういうふうであってほしいのだろう、と考えながら、こうひとりごつのであった。しかし、これほど彼女をいらいらさせた今日のカレーニンの多弁は、単に彼の内部の不安の表現にすぎないことを、彼女は悟らなかったのである。怪我をした子供が、痛みをまぎらすために、足をばたばたさせて、筋肉を運動させるのと同じように、カレーニンにとっては、いま妻とヴロンスキイを目の前におき、ヴロンスキイの名がたえず繰り返されるために、自分の注意を強要する妻に関連した想念をまぎらすためには、知的運動が必要なのであった。子供にとって、足をばたばたさせるのが自然なように、彼としては、上手な気のきいた話をするのが自然だったのである。彼はこんなことをいっている。
「軍人、つまり騎兵の競馬に危険が伴なうことは、競馬に必須の条件です。もし英国戦史において、騎兵の輝かしい業績を指示することができるとしたら、それはただただ英国が歴史的に、馬と人間の力を発達させていったおかげです。競技は、私にいわせると、大きな意義をもっておるものですが、われわれはいつものとおり、最も皮相な面ばかりを見ているのです」
「皮相な面ばかりじゃございませんわ」とトヴェルスカヤ公爵夫人はいった。「一人の将校なんか、肋骨を二本折ったって話ですものね」
 カレーニンは持ち前の笑い方でにっと笑ったが、それは歯を見せただけで、何一つ語るものではなかった。
「じゃ、公爵夫人、それは皮相なものでなくて、内面的なものだとしましょう」と彼はいった。「しかし、問題はそんなことじゃないのです」と彼は前からまじめな話をしていた将官の方へ、ふたたび話しかけた。「しかし、競走に加わっているのは、特にこの業《わざ》をみずから選んだ軍人であることを、お忘れにならないでいただきたいものです。ところで、ご承知でもありましょうが、すべての職業は楯《たて》の半面をもっておるものでしてな。それは直接、軍人の義務に属するものですよ。拳闘とか、スペインの闘牛とかいう醜い競技は、野蛮の兆候ですが、専門化された競技は、文化発達の象徴です」
「ああ、わたしはもう二度と来ませんわ。あんまり興奮させられるんですもの」と公爵夫人ベッチイはいった。「そうじゃなくって、アンナ?」
「興奮させられはしますけれど、そのくせ目が離されませんわ」ともう一人の貴婦人がいった。「もしわたしが古代ローマの女でしたら、一度だって闘技場を欠かしはしなかったでしょうよ」
 アンナはなんにもいわないで、オペラ・グラスを眼から放さず、じっと一つところを見つめていた。
 その時、背の高い将軍が桟敷を通りぬけた。カレーニンは急に話をやめて、忙しそうに、しかし威厳を失わぬように立ちあがり、かたわらを通りすぎる将軍に、うやうやしく会釈した。
「あなた競走に加わりなさらんのですか?」と将軍は冗談口をきいた。
「私の競馬のほうが、もっと骨が折れるのでございますよ」とカレーニンはいんぎんに答えた。
 その答えは、別に何の意味があるわけでもなかったが、将軍は聡明な言葉を聞いた、というような顔つきをして、十分に la pointe de la sauce(ソースのぴりっとしたところ)を玩味した。
「これには二つの面がありますよ」とカレーニンは言葉をつづけた。「実演者と観覧者です。こういう観せものを喜ぶのは見物人にとって、文化的発育の遅れている確かな証拠です。それには私も異存ありませんが、しかし……」
「公爵夫人、賭をしましょう!」とベッチイに話しかけるオブロンスキイの声が、下の方から聞こえた。「あなたはだれにお賭けになります」
「わたしとアンナは、クゾヴリョフ公爵ですわ」とベッチイは答えた。
「私はヴロンスキイです。手袋ひと組」
「よろしゅうございます!」
「じつに美しいじゃありませんか、え、どうです!」
 カレーニンは、自分のまわりで話し声のしているあいだは口をつぐんでいたが、すぐにまた話し出した。
「私も同感です、しかし、男性的な競技というものは……」と彼は言葉をつづけた。
 しかし、そのとき騎手たちがスタートを切ったので、いっさいの会話はぴったりやんでしまった。カレーニンも同様に口をつぐんだ。一同は立ちあがって、川の方へ向いた。カレーニンは競馬に興味がなかったので、走る騎手を見ないで、疲れたぼんやりした目つきで、観衆を見まわしにかかった。彼の視線はアンナの上にとまった。
 彼女の顔は蒼ざめて、いかつかった。彼女は明らかに、ただ一人のほか、だれひとり、何ひとつ見ていないらしかった。その手は痙攣《けいれん》的に扇を握りしめていた。彼女は息もしなかった。彼はその様子をちらと見ると、急いで顔をそむけ、ほかの人たちの顔を見まわした。
『ああ、あの婦人も、それからほかの婦人たちも、ひどく興奮しているが、それももっともな話だ』とカレーニンはひとりごちた。彼は妻のほうを見まいとしたけれども、その視線はわれともなしに、そのほうへひきつけられるのであった。彼は、そのうえにかくも明瞭に書かれていることを読まないようにつとめながら、ふたたびその顔にじっと見入った。と、思わずも自分の意志に反して、知ることを欲しなかったものを読みとって、ぞっとしてしまった。
 最初、川のふちでクゾヴリョフが落馬した時は、一同の興奮を呼び起したが、しかしカレーニンはアンナの蒼ざめた顔に、自分の見ている人は落馬しなかったという、勝ち誇ったような色を、まざまざと見てとった。マホーチンとヴロンスキイが、大きな柵を跳《と》び越したあとで、それにつづく将校がその場で真逆様《まっさかさま》に落ちて、致命的な打撲傷を負い、恐怖のざわめきが群衆ぜんたいを流れ走った時、アンナはそれに気さえつかず、まわりの人々が何を話しだしたやら、それすらほとんど合点がいかないでいるのを、カレーニンは見てとったのである。しかし、彼はますますひんぱんに、ますます執拗にその顔にながめいった。疾駆するヴロンスキイの姿に、心をのまれつくしていたアンナも、わきの方から自分にそそがれている良人の冷たい視線を感じた。
 彼女は一瞬ふり返って、いぶかしげに良人を見やったが、かすかに眉をひそめて、すぐまた顔をそむけてしまった。
『ああ、わたしはどうだってかまいませんわ』とでもいったようなふうであったが、彼女はもうそれっきり一度も、良人の方を見なかった。
 その競馬は不運なものであった。十七人のうちから半分以上が、馬から落ちて負傷した。競走の終り近いころには、だれもかれもが興奮しきっていた。その興奮は、陛下が不満をいだかれたがために、さらに大きくなっていったのである。

[#5字下げ]二九[#「二九」は中見出し]

 一同は声高に不感服の気持を表明し、だれかのいった、『ただ獅子のいる闘技場でないというだけのことだ』という一句を、だれもかれもがくりかえすのであった。恐怖は、すべての人がいだいている感情であったので、ヴロンスキイが落馬して、アンナが大きな声で、あっといったのも、別段なにも並はずれたことではなかったわけである。しかし、それにつづいてアンナの顔に起った変化は、もはや断じてはしたないものであった。彼女はすっかり途方にくれてしまった。さながら捕えられた小鳥のように身をもがきながら、立ってどこかへ行こうとしたり、ベッチイにこんなことを口走ったりするのであった。
「行きましょう、行きましょう」と彼女はいった。
 けれど、ベッチイはその声が耳に入らなかった。彼女は下の方へかがみこんで、そばへ寄ってきた将軍と話していたのである。
 カレーニンはアンナのそばへ行って、いんぎんに片手をさしのべた。
「よかったら、行きましょう」と彼はフランス語でいった。が、アンナは将軍のいっていることに耳を澄まして、良人に気がつかなかった。
「やっぱり足を折ったそうですよ」と将軍はいった。「まるでお話になりませんな」
 アンナは良人に答えないで、オペラ・グラスを取り上げ、ヴロンスキイの落馬した場所を見やった。しかし、ずいぶん遠く離れていたうえに、人が大ぜい黒山のように集っていたので、何一つ見分けることができなかった。彼女はオペラ・グラスをおろして、出て行こうとした。と、その時、一人の将校が駆けつけて、何事か陛下に奏上した。アンナは身を乗り出して、耳を澄ました。
「スチーヴァ! スチーヴァ!」と彼女は兄を呼んだ。
 しかし、兄には彼女の声が聞えなかった。彼女はまたもや出て行こうとした。
「もしあなたがお出になりたいのでしたら、私はもう一度あなたに手をお貸ししましょう」とカレーニンは、妻の手に触れながらいった。
 アンナは嫌悪の念を示して、良人から身をよけ、その顔を見ないで答えた。
「いえ、いえ、うっちゃって下さい、わたし残っていますわ」
 今や彼女は、ヴロンスキイの落馬したところから、一人の将校が場内を横ぎって、桟敷の方へ走ってくるのを認めた。ベッチイはそれにハンカチを振った。将校のもたらした知らせによると、騎手はなんの怪我もなく、ただ馬が背骨を折ったばかりだ、とのことであった。
 これを聞くと、アンナはいきなりどっと腰をおろし、扇で顔をおおった。彼女は泣いていた。そして涙ばかりか、胸を激しく上下させる慟哭《どうこく》すら、隠すことができないのを、カレーニンは見てとった。カレーニンは自分の体を妻の垣にして、彼女に様子をつくろう暇を与えた。
「もう一度、三度目に手をお貸しします」しばらくたって、彼は妻に言葉をかけた。アンナは彼を見上げたが、なんと答えていいか、わからなかった。公爵夫人ベッチイが、彼女に助け舟を出した。
「いいえ、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、わたくしが奥さんをお連れしてきましたので、お送りするのもやっぱり、わたくしと約束したんですの」とベッチイが割りこんだ。
「いや、公爵夫人」いんぎんな笑顔を見せながらも、きっとした様子で相手の眼を見つめながら、彼はこういった。「見たところ、アンナは体のぐあいがよくないようですから、私といっしょに家へ帰ったほうがよさそうです」
 アンナはびっくりしたように良人をふりかえると、おとなしく立ちあがって、良人の腕に手をのせた。
「わたしあの人のとこへ使をやって、はっきりつきとめたうえ、お知らせにさしだしますわ」とベッチイは彼女の耳にささやいた。
 桟敷の出口で、カレーニンはいつもと同じように、行き会う人たちと言葉をかわした。で、アンナもいつものとおり、返事をしたり、物をいったりしなければならなかった。けれど、心は上の空で、夢遊病者のように、良人と腕を組んで歩いていた。
『落ちて死んだのじゃないかしら? 無事だってのは本当かしら? 今夜あのひとに会えるかどうか?』と彼女は心に思った。
 彼女は無言のまま、カレーニンの馬車に乗って、無言のまま、乗物のひしめきあっている中を出た。カレーニンは、あれだけのことを見せつけられたにもかかわらず、やはり妻の本当の状態を考えることを、自分で自分に許さなかった。要するに、外的徴候を見たにすぎないではないか。しかし、妻のはしたない所業《しわざ》を目撃したのであるから、そのことを妻に注意するのを、おのれの義務であると考えた。とはいえ、彼としては、単にそれだけのことをいって、それ以上を控えるというのは、きわめて困難であった。彼は口を開いて、おまえは、はしたないまねをしたといおうと思ったが、自然と別のことをいってしまった。
「それにしても、どうして、われわれはああいう残酷なことを見たがるんだろう」と彼はいった。「私の気がついたところでは……」
「なんですって? わたしなんのことかわかりませんわ」とアンナは蔑《いや》しむようにいった。
 彼はむっとして、いきなりいおうと思ったことをいいだした。
「私はあなたにいわねばならんことがある……」と彼はきりだした。
『ああ、いよいよはじまった、真剣な話合いが』と彼女は考えて、恐ろしくなった。
「私はいわなければならん、今のあなたのふるまいは、はしたないものでした」と彼はフランス語でいった。
「どういうところが、はしたなかったんですの?」くるりと良人の方へ顔を向けて、まっすぐにその眼を見つめながら、彼女は大きな声でいった。しかし、それはもう前のように、何か隠している浮きうきした様子ではなく、決然たる面持であった。彼女はそのうわべ[#「うわべ」は底本では「うわへ」]のもとに、いま自分のいだいている恐怖を、かろうじて隠しているのであった。
「忘れないで」正面の馭者台にむかった窓が開いているのをさしながら、彼は妻にこう注意した。彼は身を起して、ガラスをあげた。
「何をはしたないふるまいとお思いになりまして?」と彼女はくりかえした。
「騎手の一人が落馬した時、あなたがうまく絶望を隠せなかったことです」
 彼は妻の反駁を待っていた。が、彼女は前の方を見つめたまま、黙っていた。
「どうか社交界へ出た時は、口の悪い連中も何一つ、あなたにうしろ指をさすことができぬようにして下さいと、もう前にもお願いしたはずです。私も内面的関係について、云々した時代もありましたが、今はそんなことをいいません。今はただ外面的な関係だけについていっておるのです。あなたのふるまいは、はしたないものでしたから、そういうことがくりかえされないようにしてもらいたいですな」
 彼女は良人の言葉を半分も聞いていなかった。ただ彼にたいする恐怖のみを感じながら、ヴロンスキイが死ななかったというのは、事実かどうかばかりを考えていた。騎手は無事で、ただ馬が背骨を折ったというのは、彼のことなのだろうか? カレーニンがいい終った時、彼女はただわざとらしく、にやりと冷笑を浮べただけで、なんとも返事しなかった。というのは、良人のいうことを聞いていなかったからである。カレーニンは敢然《かんぜん》として話しはじめたが、自分のいっていることを明瞭に理解した時――妻のいだいている恐怖が彼にも感染した。彼は妻の冷笑を見ると、ふしぎな錯覚に襲われた。
『あれはおれの疑いを冷笑しているのだ。そうだ、今にもあの時と同じことをいいだすだろう――そんな疑いはなんの根拠もないことで、ただこっけいなばかりです、というに相違ない』
 今、なにもかも暴露されるおそれが目前に迫っているのに、彼は今度も以前と同じように、そんな邪推はこっけいです。なんの根拠もありはしませんという妻の答えが、なによりも期待されるのであった。彼は、自分の知っていることが、あまりに恐ろしかったので、今はどんなことでも、本当にしようという気になったのである。けれども、妻のおびえたような暗い表情は、今となっては、偽りの希望さえもたせなかった。
「もしかしたら、私の考え違いかもしれないが」と彼はいった。「それならば、私はお詑びをします」
「いいえ、お考え違いじゃありません」良人の冷やかな顔を、自暴自棄の表情で見つめながら、彼女はゆっくりとこういった。「お考え違いじゃありません。わたしは絶望していました、また絶望せずにはいられません。わたしは、あなたのおっしゃることを聞きながら、あの人のことを考えているのです。わたしはあの人を愛しています、わたしはあの人の情婦です、わたしはあなたががまんできません、わたしはあなたが恐ろしい、わたしはあなたを憎みます……どうともわたしを存分にして下さい」
 そういうなり、馬車の片すみに身を投げて、両手に顔をおおいながら、よよとばかり泣きだした。カレーニンは身じろぎもせず、まともに見すえた目の方向を変えもしなかった。しかし、その顔ぜんたいは、ふいに死人のように荘重な不動の表情を浮べた。そして、この表情は別荘へ着くまで、道々ずっと変らなかった。わが家のそばへ近づくと、彼は依然たる表情で妻のほうへ首をねじ曲げた。
「そうか! しかし、私は外面的にだけは体面を保つことを要求する」彼の声は慄えた。「私が、自分の名誉を保証するような方法を講ずるまではね。それはいずれ、あなたに知らせましょう」
 彼は先に馬車を出て、妻をたすけおろした。召使の見ている前で、無言のまま妻に握手すると、彼はまた馬車に乗って、ペテルブルグへ帰ってしまった。
 そのあとからすぐ、公爵夫人ベッチイの従僕が来て、アンナに手紙をもたらした。
『わたしはアレクセイのところへ使をやって、体のぐあいをきかせましたところ、無事でぴんぴんしているけれども、絶望しているという返書がございました』
『では、あの人[#「あの人」に傍点]はやってくる』と彼女は考えた。『なにもかもいってしまって、本当にいいことをしたわ』
 彼女は時計を見た。まだ三時間あいだがあった。最後に会ったときのこまごました思い出が、彼女の血を燃え立たせた。
『ああ、なんて明るいんだろう!([#割り注]ペテルブルグの白夜[#割り注終わり])これは恐ろしい。でも、わたしはあの人の顔を見るのが好きだわ、この幻想のような明りが好きだわ……良人! ああ、そうだ……まあ、あのほうはすっかり片づいて、本当にいいあんばいだった』

[#5字下げ]三〇[#「三〇」は中見出し]

 人の集まる場所はどこでもそうであるが、シチェルバーツキイ一家の到着したドイツの小さな温泉場でも、一人一人に一定不変の場所を与える、例のごとき社会的結晶というべきものが行われていた。水の微分子が一定の密度で、いつも必ず決まった雪の結晶形をとるように、この温泉場に来た新しい人は、さっそく自分に適当した場所へはまりこむのであった。
 〔Fu:rst Schtcherbazki zamt Gemalin und Tochter〕(シチェルバーツキイ公爵夫人と令嬢)は、その借りた住居からいっても、名声からいっても、彼らがここで発見した知己からいっても、さっそく前から予定されていた一定の場所に結晶した。
 この温泉場には、今年ほんとうのドイツの大公妃が来ていたので、そのために人々の結晶作用はいっそうさかんに行われた。公爵夫人は是《ぜ》が非《ひ》でも、娘を大公妃に拝謁《はいえつ》させたいという気を起して、二日目にその儀礼をすました。パリーからとりよせた、ごくさっぱりした[#「ごくさっぱりした」に傍点]、というのは、非常に豪華な夏服を着たキチイは、うやうやしく、しかも優美に会釈した。大公妃は、「いまにそのかわいらしい顔に、バラ色が戻ってくることと思います」といった。で、シチェルバーツキイ一家のためには、もはや二度とぬけることのできない一定の生活道程が、ただちに固定してしまったのである。シチェルバーツキイ一家は、英国の貴婦人の家族と、最近の戦争で負傷した息子を連れたドイツの伯爵夫人と、スウェーデンの学者と、M. Canut と、その妹とも知り合いになった。
 しかし、シチェルバーツキイ家のおもな交友は、自然のうちに、モスクワの貴婦人のマリヤ・エヴゲーエヴナ・ルチーシチェヴアとその令嬢(その令嬢は、キチイにとって不愉快に思われた。なぜなら、キチイと同じく失恋のために病気になったからである)、それから、モスクワの大佐ということになった。キチイはこの人を子供の時分から知っていて、よく肩章つきの軍服姿を見たものであるが、ここでは並はずれてこっけいであった。というのは頸筋をむきだしにして、色物のネクタイを締め、おまけに小さな眼をしているからであった。それに、しつこくつきまとうので、うんざりさせられるのであった。こういう状態が、はっきりきまってしまうと、キチイは退屈でたまらなくなった。まして、公爵がカルルスバードヘ行ってしまって、母夫人と二人でとり残されたから、なおさらであった。彼女は、自分の知っている人々には、興味をもたなかった。彼らから何一つ、新しいことは期待できそうにない、とそう感じたからである。今度この温泉場へ来てから、彼女のおもな精神的興味をなすものは、彼女の知らない人々に関する観察や想像であった。生れながらの性質で、キチイはいつも他人、ことに自分の知らない人々の中に、ありとあらゆる美しいものを想像する癖があった。今も彼女は、あれはだれだろう、あの人たちの間はどういう関係なのだろう、あの人たちは何者だろう、というような推察をしながら、きわめて美しい驚くべき性格を想像していたが、また自分の観察が確かめられるのを見出すのであった。
 そうした人々の中で、マダム・シュタールと呼ばれる、病身なロシヤの貴婦人といっしょにこの温泉場へ来た、一人のロシヤ娘が特に彼女の興味をそそった。マダム・シュタールは、上流の社会に属していたが、ひどく病身だったので、歩くことができず、ただたまに天気のいい時、車のついた肘椅子に乗って、鉱泉場へ姿を見せるだけであった。しかし、公爵夫人の解釈によれば、マダム・シュタールはただ病気のせいばかりでなく、高慢ちきな性分のために、ロシヤ人のだれとも近づきにならないのであった。ロシヤ娘は、マダム・シュタールの看護をしていたが、そのほか、キチイの観察したところでは、この温泉場に大ぜいいる重病人のみんなと親しくして、ごくしぜんに彼らのめんどうをみてやっていた。このロシヤ娘は、キチイの観察によると、マダム・シュタールの肉親ではなかったが、同時に雇われている助手でもなかった。マダム・シュタールが、彼女をヴァーレンカと呼んでいたので、ほかの人たちも『マドモアゼル・ヴァーレンカ』といっていた。この娘とシュタール夫人、ならびにその他の未知の人々との関係を観察することが、キチイの興味をそそったのは、いうまでもないとして、よくあることながら、キチイはこのマドモアゼル・ヴァーレンカにえたいの知れない好感を覚えるとともに、時おり出会う目つきから推して、自分も相手の気に入っていることを感じた。
 このマドモアゼル・ヴァーレンカは、ごく若いほうでないどころか、まるで若さをもたぬ存在のようであった。彼女は十七くらいにも見えれば、三十ぐらいかとも思われた。よく顔立ちを見ていると、その病的な色つやにもかかわらず、不器量というよりも、むしろ美人のほうであった。もし体がひどくかさかさしていず、ふつりあいに頭が大きくなかったら、中背ではあり、姿もよかったに相違ない。しかし、彼女は男好きのするほうではありえなかった。彼女は花瓣こそ揃っているけれど、もう盛りをすぎて香りのなくなった、美しい花に似ていた。なおそのほか、彼女が男好きのしないもう一つの理由は、キチイにはあり過ぎるほどあるもの――抑制のある生命の火と、自分の魅力にたいする意識が、彼女に欠けていることであった。
 彼女はいつも、なんの疑惑もありえないような仕事に追われていて、そのために、ほかのことに何一つ、興味を持つ暇がなさそうであった。こんなふうに、自分とまるで正反対な点が、ことにキチイをひきつけるのであった。この娘に、この娘の生活ぶりに、いま自分が苦しいほどさがし求めている生活の興味、生活の品位などの規範《きはん》が見つかるに相違ない、とこんなふうにキチイは感じていた。それらは、キチイにとっていまわしい、社交界の男女関係の外になければならぬ。そこでは、娘は買手を待って、恥さらしな共進会に並べられているように、今のキチイには思われるのであった。自分の未知の友を観察すればするほど、キチイはこの娘こそ、自分の想像に描いていた最高の完成である、という確信をたしかめ、いよいよこの娘と近づきになりたくなってきた。
 二人の娘は、一日のうちに幾度も顔をあわしたが、そのたびにキチイの眼は、『あなたはどなたですの? どういうかたですの? だって本当でしょう、あなたは、わたしの想像に描いているような、すばらしいかたでしょう? でも、後生ですから』と彼女の眼はつけ加えるのであった。『あたしがずうずうしく友情の押し売りをするなんて、そんなことを考えないで下さいましな。あたしはただあなたが好きで、あなたに見とれているだけなんですから』『わたしもあなたが好きなんですのよ。あなたは本当に、本当にかわいいかたなんですもの。もし暇があったら、もっと好きになるんですけどね』と未知の娘は答えた。またそのとおり、キチイが見ていると、彼女はいつも忙しそうであった。あるロシヤ人の家族の子供たちを、鉱泉から連れて帰ったり、病身な女のために膝掛を持っていって、その体をくるんでやったり、いらいらした病人を一生懸命になだめたり、だれかのために、コーヒーのとき食べるビスケットを選んで買ってやったり。
 シチェルバーツキイ親子が到着してからまもなく、朝の鉱泉にまた二人のものが姿を現わして、一同の快からぬ注目をひいた。その一人は図抜けて丈の高い、猫背の、大きな手をした男で、背丈にあわぬ短い古外套を着、黒いナイーヴな同時に恐ろしい眼をしていた。いま一人は、ひどく粗末で没趣味な服装《なり》をした、あばた[#「あばた」に傍点]ながら垢ぬけのした顔立ちの女であった。この二人がロシヤ人だとみてとったキチイは、早くも彼らについて美しい、感動的なローマンスを、想像の中で組み立てはじめた。けれど、公爵夫人は Kurliste(旅客名簿)で、これがニコライ・レーヴィンとマリヤ・イヴァーノヴナであることを知って、このレーヴィンがどんな悪い人間であるかということを、キチイに説明して聞かせた。で、この二人に関する空想は、きれいに消えてしまった。しかし、母に話を聞かされたためというよりも、むしろ彼がコンスタンチンの兄であるということによって、キチイの目にはこの二人が、急にこの上もなく不快になってきた。このレーヴィンは例の首をしゃくる癖で、どうしようもない嫌悪《けんお》の念を、彼女の心に呼び起すのであった。
 彼女をじっと注視しているその大きな恐ろしい眼の中には、憎悪と嘲りの色が浮んでいるように思われ、彼女はこの男と出会うのを避けるようにした。