『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」3-16~3-20(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一六[#「一六」は中見出し]

 どの部屋もどの部屋も、庭番や、園丁や、下男たちが、荷物を運び出しながら歩きまわっていた。戸棚や箪笥は開け放しになっていた。二度も近所の小店へ、使が紐《ひも》を買いに駆け出した。床には新聞紙がちらかっていた。二つの大トランク、それから旅行袋や物をくるんだ膝掛などが、玄関の控室へ運ばれた。箱馬車と二台の辻馬車が、入口階段のところに待っていた。荷造り騒ぎで内心の不安を忘れたアンナは、自分の旅行袋をまとめていたが、ふいにアンヌシカが、馬車の近づく音に彼女の注意を向けた。アンナは窓の外を見やった、とカレーニンの小使が入口階段に立って、扉のベルを鳴らしているのが、目に入った。
「行って、きいてごらん、なんの用だか」と彼女はいい、いっさいのことに対して覚悟のできているおちつきはらった態度で、肘椅子に腰をおろし、両手を膝の上に組みあわせた。下男が、カレーニンの筆蹟で上書きした分厚な包みを持ってきた。
「小使はご返事をいただいてこいと申しつかったそうで」と下男はいった。
「いいわ」と彼女は答え、下男が出ていくが早いか、ふるえる指先で手紙の封を切った。帯封をした紙幣の束が、曲げないままで封筒から出てきた。彼女は手紙を抜き出して、終《しま》いのほうから読みはじめた。『あなたの引越しに必要な処置を講じておきます。私はこの希望の実行に特殊な意味を賦与《ふよ》しているのです』とアンナは読んだ。彼女はその先に目を走らせ、前のほうを読み、ぜんぶ読み通したが、さらにもう一度はじめから読み返した。それがすんでしまうと、彼女は寒けだってきて、夢にも思いがけない恐ろしい不幸が、くずれかかったような気がした。
 つい今朝は、良人にあんなことをいったのを後悔して、あの言葉が口から発しられたのでなかったら、とそればかり願ったものである。ところが、この手紙はあの言葉がいわれなかったものと見なして、彼女の望んだとおりのものを与えてくれたわけである。にもかかわらず、今この手紙は、自分の想像しうる最も恐ろしいものに思われたのである。
『本当だ! あの人が本当だ!』と彼女はひとりごちた、『もちろん、あの人はいつも正しいんだわ、あの人はキリスト教徒なんだから、度量が大きいんだわ! でも、卑劣な、いやらしい人間だ! それはわたしよりほかだれ一人わかってもいないし、またわかりっこないんだわ。それに、わたしも得心のいくように説明ができない。世間では、宗教的で、道徳的で、潔白で聡明な人だといってるけれど、世間の人はわたしの見たことを見てやしない。あの人が八年間わたしの生活を窒息させたことを、わたしの中に生きているいっさいのものを窒息させたことを、世間の人は知らないんだ――あの人は、わたしが愛情を必要とする生きた女だってことを、一度も考えたことがない、それをみんなは知らないんだわ。あの人が一歩ごとにわたしを侮辱しながら、自分で自分に満足していたことを、だれも知りはしない。わたしは生活の意義を見つけ出そうとして、努力しなかったとでもいうのかしら? 一生懸命に努力しなかったかしら? わたしはあの人を愛しようと試みなかったかしら? もうあの人を愛することができなくなった時、わたしは子供を愛するように努めたんだわ。でも、もう時がきた、わたしはこれ以上、われとわが身を欺くことができないと悟ったのだ。わたしは生きた人間だから、神さまがわたしをこんな女につくって下すったからって、何もわたしのせいじゃありゃしない。わたしは愛さなくちゃならない、生きなくちゃならない。それなのに、これはまあ、なんだろう? もしカレーニンがわたしを殺したら、あの人を殺したら、わたしは何もかも耐え忍んで、いっさいを赦したに違いない。ところが、だめ、あの人は……』
『どうしてわたしは、あの人のしそうなことを察しなかったのかしら? あの人は自分の卑劣な性格にふさわしいことをするにきまっていたものを。わたしはもう破滅した女なのに、それをもっとひどく、もっと惨めに破滅させようとしていながら、あの人はどこまでも正しい人間で通っていくのだ……』
『何があなたとあなたの息子を待ちもうけているかは、あなた自身たやすく想像しうるところであります』という手紙の文言を彼女は思い浮べた。『これはあの子を取りあげるぞという脅かしなのだ。そして、あの人たちのばかげた法律では、それができるんだわ。でも、なんのためにあの人がこんなことをいうのか、わたしにそれがわからないと思ってるのかしら? あの人はセリョージャに対するわたしの愛情を信じないか、でなければ軽蔑しているんだわ(いつもなんでもせせら笑うあの調子で)。あの人は、わたしのその感情を軽蔑してはいるものの、わたしがあの子を棄てはしない、棄てることはできないってことを承知しているのだ。あの子なしには、たとえ好きな人といっしょになっても、わたしにとって生活はありえない、ところで、あの子を棄てて良人のもとを[#「良人のもとを」はママ]走ったら、わたしが何よりも卑しい、けがらわしい女と同じ行動をとることになる、それをすっかり知りつくしているのだ。そして、わたしにそれができないってことを知りぬいているのだ』
『われわれの生活は従前どおりにつづけられるのが当然です』と彼女はまた別の文言を思い出した。『あの生活は前だって苦しかったのに、近ごろではもう恐ろしいものになっていたのだから、これから先はいったいどうなるのだろう? しかも、あの人はそれをなにもかも知っているのだ、わたしが呼吸したり愛したりするのを、後悔するわけにいかないってことを、ちゃんと承知しているのだ。そんなことをしたって、嘘とごまかしのほか、なんの結果も得られないってことを、承知しているくせに、ひきつづきわたしを苦しめることが、あの人にとっては必要なんだわ。わたしはあの人がちゃんとわかっている。あの人は魚が水の中を泳ぐように、虚偽の中を泳ぎまわって、いい気持でいるんだわ、ちゃんとわかってる。でも、お気の毒さま、わたしはいい気持になんかさせてあげはしない。あの人は虚偽の蜘蛛《くも》の巣にわたしを包みこもうとしているけれど、わたしはそれを破ってやる。どうともなるようになるがいい、どんなことだって、嘘やごまかしよりかましだもの』
『でも、それにはどうしたものだろう? ああ神さま! 神さま! わたしみたいにふしあわせな女が、いつかこの世にあったでしょうか?』
「いいえ、破ってみせる、破ってみせる!」と彼女はおどりあがり、涙をおさえながら叫んだ。彼女はまた新しく良人あての手紙を書くつもりで、書きもの机のそばへ寄った。しかし、心の深い底のほうでは、自分には何一つ破る力はない、いかにも虚偽にみちた不正なものであろうとも、従前どおりの境遇から抜け出る力はないということを、早くも感じていたのである。
 彼女は書きもの机に向って腰をおろしたが、書こうともしないで、机の上に両手を重ね、その上に頭をのせて、子供のようにしゃくりあげ、胸ぜんたいをふるわせながら泣き出した。それは、自分の位置を明らかに決定しようと思った空想が、永久に崩壊したのを悲しむ涙であった。なにもかももともとどおり、いな、もともとどおりよりさらに悪くなるということが、彼女には今からわかっていたのである。今まで享楽していた社交界の地位、つい今朝ほどはなんの価値もないように思われていた地位、その地位が彼女にとっては貴いものであって、良人を棄てて仇《あだ》し男のもとに走った卑しい女の立場に、それを見変える気はないに相違ない、どんなにも がいてみても、しょせん自分自身より強くはなれない、それを彼女は感じたのである。自分はなっても、恋愛の自由を味わうことができないで、罪の女として残るだろう。しょせん一つの生活に溶けあうことのできない、自由きままな境涯にある、縁のない男と恥ずべき関係をつづけるために、良人を欺きながら、たえず罪証発覚の脅威下におかれるのだ。彼女はそうなるにきまっていることを承知しながら、同時に、それが恐ろしくてたまらず、結局どういう終りを告げるのやら、想像することもできないほどであった。彼女はついにこらえかねて、罰を受けた子供のように、ひた泣きに泣いた。
 近づいてくる下男の足音が、彼女をわれに返らせた。顔を見せないようにして、手紙を書いているようなふりをした。
「小使がご返事をと申しておりますが」と下男はいった。
「返事? そうね」とアンナはいった。「まあ待たしておいてちょうだい。わたしベルを鳴らすから」
『わたしに何を書くことができるだろう?』と彼女は考えた。『わたし一人で何が決められるだろう? わたしに何がわかってるというの? わたしが何を望んでるというの? わたしが何を愛しているというの?』ふたたび彼女は、自分の心が二つに割れていくのを感じた。彼女はまたもやこの気持にぎょっとして、自分にばかりかまけたがる物思いをそらしてくれるような、申し訳ばかりの行動計画が頭に浮ぶと、いきなりそれにしがみついた。『わたしはアレクセイに会わなくちゃならない(彼女は心の中でヴロンスキイをそう呼んだ)、わたしが何をしなくちゃならないか、それがいえるのはあの人だけだわ。ベッチイのとこへ行ってみよう、ひょっとしたら、あそこで会えるかもしれない』とひとりごちた。彼女はすっかり忘れてしまっていた。つい昨日、彼女がトヴェルスカヤ公爵夫人のとこへは行かないといったら、彼はそれなら自分も行かない、といったのであった。彼女はテーブルのほうへいって、『お手紙落手いたしました。A』と良人あてに書いて、ベルを鳴らし、下男に手渡しした。
「わたしたち、発つのは見合わせたよ」と彼女は入ってきたアンヌシカにいった。
「すっかりおとりやめでございますか!」
「いいえ、明日まで荷物はとかないでおくれ。そして、馬車もそのままにしてね。わたしこれから公爵夫人のとこへいくから」
「お召し物はどれにいたしましょう?」

[#5字下げ]一七[#「一七」は中見出し]

 トヴェルスカヤ公爵夫人がアンナを招待したクロケットの仲間は、二人の貴婦人とその崇拝者のはずであった。この二人の貴婦人は、ペテルブルグで何かの模倣を模倣して、Les sept merveilles du monde(世界の七不思議)と呼ばれている、新しい選り抜きのサークルのおもな代表者であった。二人の属しているのは、正に最高のサークルではあったものの、それはアンナの出入りしているサークルとは、にらみあいの関係にあった。のみならず、リーザ・メルカーロヴァの崇拝者であり、ペテルブルグでも有力者の一人であるストレーモフ老人は、勤務上からいってカレーニンの敵なのであった。それやこれやを考えあわせて、アンナはここへきたくなかったので、トヴェルスカヤ公爵夫人の手紙にあったあてこすりも、この点に関係していたのである。ところが今アンナは、ヴロンスキイに会えるという希望のために、出かける気になったのである。
 アンナはほかの客人たちよりも先に、トヴェルスカヤ公爵夫人の別荘へ到着した。
 彼女が中へ入ろうとした時、頬ひげをきれいに撫でつけた、侍従武官然としたヴロンスキイの従僕が、同様に入りかけていた。彼は戸口に立ちどまって、帽子をぬぎ、アンナを先に通した。アンナはこの男を見分けたが、その時はじめて、昨日ヴロンスキイがこないといったことを思い出した。おそらくそのことで、手紙を持たしてよこしたのであろう。
 彼女が控室で上衣をぬいでいる時、従僕がRを侍従武官気どりで発音しながら、『伯爵から公爵夫人へ』といって、手紙を渡しているのが聞えた。
 彼女はこの男に、旦那さまはどこにいらっしゃるかとききたかった。彼女はひっ返して、この男に手紙を渡し、ヴロンスキイが自分のところへくるか、自分のほうから彼のところへ行くように、いってやりたかった。しかし、それもこれもできない相談であった。もうむこうのほうで、彼女の来訪を告げるベルの音が聞え、トヴェルスカヤ公爵夫人の従僕が、もう戸口のところで半ば横向きになって、彼女が部屋の中へ通るのを待っていた。
「奥さまはお庭にいらっしゃいますが、今すぐお取次ぎいたします。いかがでございます。お庭のほうへいらっしゃいましては?」と、別の部屋にいる別の従僕がこういった。
 思い切りの悪い気持、あいまいな状態は、家にいた時と変らなかった。というより、もっと悪かった。なぜなら、なに一つすることができず、ヴロンスキイに会うこともできず、ここで見も知らぬ連中にまじって、自分の気分と正反対な席に残っていなければならないからであった。けれど、自分でもよくうつることのわかっている身じまいをしているし、またここではひとりぼっちではなかった。しかも、彼女をとり巻いているのは、いつもなじみの、華麗な無為《むい》の環境であったから、家にいるよりは楽であった。もう何をしなければならぬか、などということを考え出す必要がなかった。なにもかも自然に進行していく。はっと目を見はらせるほど優美な白い衣装をつけたベッチイに出会った時、アンナはいつものようににっこり笑った。トヴェルスカヤ公爵夫人はトゥシュケーヴィッチと、それから一人の令嬢といっしょであった。これは、娘が有名な公爵夫人のもとで夏をすごしているというので、田舎の両親を有頂天にさしている親戚の娘であった。
 おそらく、アンナには何か特別なところがあったのであろう、ベッチイはすぐそれをいいだした。
「わたしよく寝《やす》まれなかったものですから」とアンナは答えながら、むこうからくる従僕にじっと目を据えていた。彼女の想像によると、ヴロンスキイの手紙を持ってきているらしい。「でも、あなたがきて下すって、わたし本当にうれしゅうございますの」とベッチイはいった。
「わたし少し疲れたものですから、みなさんがお見えになるまでに、お茶を一杯いただこうと思っておりましたの。ところで、あなたは」と彼女はトゥシュケーヴィッチにいった。「マーシャといっしょにクロケットのグラウンドへ行って、あの刈りこみをしたところを試してごらんになったら。ねえ、アンナ・アルカージエヴナ、お茶をいただきながら思う存分、we'll have a cosy chat.(おもしろいおしゃべりをしようじゃありませんか)いかがでございます?」パラソルを持ったアンナの手を握って、笑顔で話しかけた。
「そうね、まして今日は長くお邪魔できませんのですから、なおさらですわ。わたしどうしても、ヴレーデ老夫人のとこへまいらなければなりません。わたしもう百年も前から、行く行くって約束をしたものですからね」とアンナはいった。彼女は、嘘をつくことなどに縁のない生れつきであったにもかかわらず、今では嘘をつくことくらい朝飯前で、社交界では自然であるのみならず、かえってある満足をすら覚えるのであった。つい一分前まで考えていなかったことを、なんのためにいいだしたのやら、自分でもとうてい説明できなかったに相違ない。彼女がこんなことをいったのは、ヴロンスキイがこない以上、自分の自由を確保して、なんとか彼に会う試みをしなければならないと、そう考えたからにすぎない。しかし、ほかのすべての人と同様、なんの用もない老女官のヴレーデのことをもちだしたのが、彼女自身も説明できなかったけれども、それと同時に――これはあとでわかったことだが――ヴロンスキイと会うために、どんなに巧妙な手段を考え出そうとしても、これ以上の方法はなかったのである。
「いいえ、わたし金輪際《こんりんざい》あなたを放しゃしませんよ」じっと注意ぶかくアンナの顔に見入りながら、ベッチイは答えた。「本当に、もしあなたが好きでなかったら、わたし腹をたてるはずですよ。まるであなたは、わたしの家へ集まる人と一座したら、ご自分の沽券《こけん》にかかわる、とでもおっしゃるようですわ。どうかわたしたちのお茶を、小さいほうの客間に用意しといて」いつも召使にものをいうときの癖として、目を細めながら彼女はそういった。
 従僕から手紙をとって目を通した。
「アレクセイは嘘をつきましたわ」と彼女はフランス語でいった。「こられないって手紙をよこしたんですの」まるでヴロンスキイはアンナにとって、クロケットをして遊ぶ以外なにかの関係がありえようとは、夢にも考えないような、自然で率直な調子で、彼女はつけたした。アンナは、ベッチイがなにもかも知っているのを承知していたが、ベッチイが自分の前でヴロンスキイのことをいいだすと、いつもちょっと一瞬、『このひとはなんにも知らないんだわ』といったような気がするのであった。
「ああ!」そんなことはたいして興味がないらしく、アンナは無関心な調子でいい、微笑を含みながら言葉をつづけた。「どうしてお宅のお客様と一座するのが、どなたの沽券《こけん》にかかわるのでしょう?」
 こうした言葉の戯《たわむ》れや、こうした秘密ごっこは、すべての女の例に洩れず、アンナにとっても大きな魅力であった。秘密にしなければならぬ必要でもなければ、その目的でもなく、秘密にする経過そのものが、アンナをひきつけるのであった。
「わたし、ローマ法王以上にはカトリック的になれませんわ」とベッチイはいった。「ストレーモフさんも、リーザ・メルカーロヴァも、社交界の花の花ですからね。それにあの人たちは、どこでも歓迎されていらっしゃるんですもの。それに、わたし[#「わたし」に傍点]だって」彼女はわたし[#「わたし」に傍点]という言葉に力を入れた。「時にはさほどやかましいことも申しませんし、短気でもなくなりますのでね。ただ暇がないだけですの。ああ、そうじゃない。あなたはもしかしたら、ストレーモフさんと顔をあわすのが、おいやなのかもしれませんね? なにね、あの人とアレクセイ・アレクサンドロヴィッチは、かってに委員会でしのぎをけずらせておいたらいいんですわ――それはわたしたちに関係したことじゃありませんもの。でもね、あの人は社交界でも、わたしの知っている限りでは、このうえもない愛想のいい人でしてね、クロケット気ちがいなんですの。今にごらんになったらわかりますわ。それに、年とってからリーザに恋しているあの人の立場は、そりゃこっけいなものに相違ありませんけれど、あの人がそのこっけいな立場をうまく切りぬけていらっしゃるところは、とにかく見ものですわ! とても気持のいいかたですのよ。あなたサフォ・シュトルツをごぞんじ? これは新しい――全く新しいタイプなんですの」
 ベッチイはこんなことをしゃべっていたけれども、その愉快らしい利口そうな目つきで、アンナは悟った、――このひとはある程度、自分の立場をのみこんで、何か企らんでいるらしい。二人は小さいほうの書斎にいたのである。
「それにしても、アレクセイに返事を書かなくちゃなりませんわ」そういって、ベッチイはテーブルに向い、二三行かいてから、封筒に入れた。「わたしね、あの人に食事にいらっしゃいと書きましたの。うちでは、女の人がひとり食事に残ることになってるんですけど、相手になる男のかたがないんでしてね。ちょっと読んでみて下さいな。これであの人を説き伏せられますかしら? 失礼、わたしちょっとあちらへまいります。お願いですから、封をして、使の者に渡して下さいません?」と彼女は戸の外からいった。「わたしちょいと指図をしなければなりませんのでね」
 一分の躊躇もなく、アンナはベッチイの手紙を持ってテーブルにむかい、読みもせずにその下へ、『わたしぜひともあなたにお目にかかりたいことがあります。ヴレーデの庭までいらして下さいまし。わたしは六時にそちらへまいっております』と書き添えて、封をした。で、ひっ返してきたベッチイは、彼女の前で手紙を渡した。
 涼しい小さな客間へ、小さな台にのせて運ばれた茶に向ったとき、事実、二人の婦人のあいだには、ベッチイの約束したとおり、客の集まるまでの a cosy chat がはじまった。待ち受けている人たちの品定めをしているうちに、話はリーザ・メルカーロヴァのことにおちついた。
「あのかたは本当にいい人ですわね。わたしいつも好もしく思っていましたのよ」とアンナがいった。
「あなた、リーザを好いておやりにならなくちゃなりませんわ。あのひとはあなたを、夢にまで見てるんですもの。昨日、競馬のあとで、わたしのとこへきましてね、あなたに会えなかったって、涙をこぼさないばかりでしたの。まあ、こんなことをいうんですのよ――あのかたは本当に小説のヒロインで、もしわたしが男だったら、あのひとのために数え切れないほどばかけたことをしたに相違ない、って。すると、ストレーモフさんが、あなたはそれでなくっても、ばかげたことばかりしていらっしゃるって、そういったんですの」
「でも、一つおたずねしますが、わたしどうしても、わからないことがありますの」とアンナは、しばらく黙っていたあとにいいだしたが、その調子から推して、これは暇つぶしの問いではなく、彼女がたずねているのは、当人にとって当然以上の重要性をもっていることが、まざまざとわかった。「ねえ、後生ですから、教えて下さいましな、いったいあのひととカルージュスキイ公爵、通称ミーシュカとの関係はどういうのでしょう? わたしあのお二人には、あまりお目にかかりませんけど。いったいどういうんですの?」
 ベッチイはにっと笑って、注意ぶかくアンナを眺めた。
「新しいやり口なんですの」と彼女はいった。「あのひとたちは、そのやり口を選んだわけでしてね、見栄も外聞も蹴飛ばしてしまったんですわ。でも、その蹴飛ばし方だって、いろいろやり方がありますもの」
「そうですわね、でもあのひとと、カルージュスキイ公爵の関係は、どうなんですの?」
 ベッチイは突然さもおもしろそうに、おさえきれない笑い声を立てた。こんなことは彼女として珍しいことであった。
「それはあなた、ミャーフカヤ公爵夫人のお株をとるっていうものですよ。それは|怖るべき子供《アンファン・テリーブル》の質問ですわ」ベッチイはこらえようとしたらしいが、結局こらえきれなくて、めったに笑わない人によく見られる、他人に感染させなければやまぬ笑いを爆発させた。「そりゃあの二人にきかなくちゃわかりませんわ」笑いに誘われた涙のひまから、彼女はこういった。
「だめですよ、あなたはお笑いになるけれど」とアンナは思わず笑いを感染《うつ》されながらいった。「わたしどうしてもわかりませんの。その場合、ご主人の役割はどんなふうなのか、それがわかりませんの」
「主人ですって? リーザの主人はあとから膝掛を持って歩いて、いつでもご用を勤めるしたくをしていますわ。でも、本当のところ、それから先はどうなのか、そんなことはだれも知りたがるものはありませんわ、ねえ、たしなみのいい社会では、お化粧の詳しい秘密は口にも出さないし、考えもしないじゃありませんか。これもそれと同じですわ」
「あなたロランダキ夫人のお祝にいらっしゃいます?」とアンナは話題を変えるために、こうたずねた。
「そのつもりはありませんねえ」とベッチイは答え、自分の親友を眺めながら、小さな透き通った茶碗に用心深く、香りの高い茶を注ぎにかかった。茶碗をアンナのほうへ進めて、巻タバコをとりだし、銀のパイプへさして、吸いはじめた。「ね、ごらんのとおり、わたしはつごうのいい立場にいますから」と彼女はもう笑わずに、茶碗を手にとっていいだした。「わたしにはあなたのことも、リーザのこともわかりますの。リーザはね、ナイーヴな性質でしてね、まるで子供みたいに、何がいいか何が悪いかがわからないんですの。少なくも、まだごく若い時分には、それがわからなかったことだけは本当ですわ。ところが今は、このわからないってことが、自分に似合うのを悟ったんですの。今ではひょっとしたら、わざとわからないふりをしてるのかもしれませんわ」とベッチイは微妙なほほえみを浮べていった。「だけど、なんといっても、それがあのひとには似合いますね。ところでねえ、同じ一つのことを、悲劇的に見て苦しむこともできれば、単純な見方、どころか、楽しい見方をすることもできますわね。ひょっとしたら、あなたは物事をあまり悲劇的に見る傾きが、おありになるかも知れませんね」
「わたしは自分に自分のことがわかるように、ほかの人のこともわかりたくってたまらないんですけどねえ」とアンナはまじめな、物思わしい調子でいった。「わたしはいったいほかの人より悪いかしら、いいのかしら? どうも悪いほうらしいわね」
「|怖るべき子供《アンファン・テリーブル》、|怖るべき子供《アンファン・テリーブル》!」とベッチイはくりかえした。「ときに、みなさんがみえました」

[#5字下げ]一八[#「一八」は中見出し]

 幾人かの足音と、男の声、それから女の声と笑い声が聞えたかと思うと、つづいて待たれていた客が入ってきた。サフォ・シュトルツと、健康の過剰《かじょう》に輝くような、ヴァシカと呼ばれている青年である。一目見たばかりで、この男は血のたれるようなビフテキや、松露や、ブルゴン洒や、そういうものの栄養が役に立っていることが明瞭であった。ヴァシカは二人の婦人に会釈して、その顔をちらと見たが、それもほんの一瞬であった。彼はサフォのあとから客間へ入り、まるで縛りつけられてでもいるかのように、彼女のあとに従いながら、客間の中を歩きまわった。そして、食べてしまいたいとでも思うように、ぎらぎら光る目を彼女から放さなかった。サフォ・シュトルツは、黒い目をしたブロンドであった。踵《かかと》の高い靴をはいた足を、小刻みに元気よく運びながら入ってきて、男のするように強く二人の婦人に握手した。
 アンナはまだ一度も、この有名な新人に会ったことがなかったので、その美貌と、極端な化粧ぶりと、大胆なものごしに一驚を喫《きっ》した。自毛と入れ毛のまじった柔らかい金髪は、砲台ほどもある大きな髷《まげ》に束ねられて、そのために頭が、形のよいふっくらした胸と同じくらいの大きさになっていた。背は思い切り大きくえぐってあった。体の動かし方の激しさも驚くべきもので、歩くたびに、膝から股の形が着物を透して、はっきり描き出されるので、上のほうは存分むき出しにされ、下のほうやうしろは厳重に隠されている彼女の小さなすらりとした体は、この美しく揺れ動く山のような衣装のそもそもどこで終っているのか、思わず疑問をいだかずにはいられないのであった。
 ベッチイは急いで彼女をアンナに紹介した。
「まあ、どうでしょう、わたしたちあぶなく二人の兵隊さんを、轢《ひ》き殺すところだったんですのよ」と彼女は目配せしてほほえみながら、物語をはじめた。そして、あまり横のほうへ捌《さば》き過ぎた尾《トレーン》を、さっとひき戻すのであった。「わたしヴァシカといっしょに乗ってまいりますと……あら、あなたがたはまだごぞんじなかったんですわね」彼女は苗字《みょうじ》をいって青年を紹介し、顔を赤らめて、朗らかに自分の謬《あやま》りを笑い飛ばした。つまり、未知の人にヴァシカなどといったことなのである。ヴァシカはもう一度アンナに会釈したが、なんにもいわなかった。彼はサフォに話しかけた。
「賭《かけ》はあなたの負けですよ。僕たちのほうが先に着いたんですから。さあ、金を払って下さい」と彼はにやにや笑いながらいった。
 サフォはまた一段とおもしろそうに笑った。
「今はだめですよ」と彼女はいった。
「どうせ同じことですよ、あとでもらいますから」
「いいわ、いいわ。ああ、そうだ!」と彼女はふいに女主人の方へふりむいた。「わたしったらまあ……すっかり忘れてしまって……お客さまをお連れしてきたんですのよ。ほら、あのかた」
 サフォがひっぱってきて忘れていたふいの客は、まだ年こそ若かったけれど、なかなか身分の高い人だったので、二人の婦人はそれを迎えるために、席を立ったほどである。
 それはサフォの新しい崇拝者であった。彼も今はヴァシカと同様に、彼女のあとをつけまわしているのだった。
 まもなくカルージュスキイ公爵と、リーザ・メルカーロヴァが、ストレーモフと同道でやってきた。リーザ・メルカーロヴァは、東洋風のものうげな顔だちをしたブリネットで、すべての人の言葉によると、得もいわれぬ美しい眼をしていた。そのじみな着付けの性格は(アンナはすぐにそれを認めて、高く評価した)、彼女の美と完全に調和していた。サフォが思い切りよく、てきぱきしているのと同じ程度に、リーザはぐにゃぐにゃして、だらしがなかった。
 けれども、アンナの好みからいうと、リーザのほうにずっと魅力があった。ベッチイはアンナに向ってこの女のことを、無知な幼な子の役割を演じているのだといった。が、アンナは彼女を見ると同時に、それはまちがっていると感じた。彼女はなるほど無知な、頽廃した女ではあったけれども、愛すべき無邪気な性質であった。もっとも、彼女の調子もサフォの調子と同じで、やはりサフォの場合と同様、彼女のあとにも二人の崇拝者が、縛りつけられたようにつきまとって、貪るような目つきで見つめていた。一人は若くて、一人は老人なのである。しかし彼女には、自分をとり囲んだものを超越したようなところがあった。ガラスにまじる本物のダイヤモンドのような光輝があった。この光輝は、全く得もいわれぬ美しい眼から流れ出すのであった。暗い輪《わ》でくまどられたその疲れたような、同時に情熱的なまなざしは、まぎれもない真実みで人を打った。その眼をひと目みたものは、だれでも彼女の全部を知り尽したように思い、知った以上は愛さずにいられない。アンナを見るやいなや、彼女の顔は突如、喜ばしげなほほえみに輝きわたった。
「まあ、あなたにお目にかかれて、本当にうれしゅうございますわ!」と彼女は近よりながらいった。「きのう競馬場で、やっとお席までたどりついたと思うと、もうお帰りになったあとなんですものねえ。わたしね、ぜひ昨日お目にかかりとうございましたのよ。ねえ、恐ろしいことじゃございませんか?」心の底まで開いて見せるかと思われるような目つきで、じっとアンナを見つめながら、彼女はそういった。
「ええ、わたしもあんなに興奮させられようとは、われながら存じませんでしたの」とアンナは顔を赤らめていった。
 そのとき一座は、庭へ出ていこうとして、席を立ったところであった。
「わたしまいりませんわ」とリーザは微笑を浮べ、アンナのそばへ腰をおろしながらいった。「あなたもいらっしゃらないでしょう? クロケットなんかして、何がおもしろいのでしょう!」
「いいえ、わたしは好きなんですの」
「あら、そんなふうにして、あなたは退屈でないようになさるんですのね? あなたをお見受けしていますと、気が浮きうきしてまいりますのよ。あなたは生活していらっしゃる、ところがわたしは退屈なんですものね」
「どうしてお退屈なんでしょう? それどころか、あなたがたはペテルブルグでも、いちばん華やかなお仲間じゃございませんか」とアンナはいった。
「もしかしたら、わたしどものお仲間以外の人は、もっと退屈してらっしゃるかもしれませんわね。でも、わたしたちは、もっと確かに申しますとわたしは、おもしろくないどころか、とても、とても退屈なんですの」
 サフォはタバコをくゆらせながら、二人の青年といっしょに庭へ出た。べッチイとストレーモフはお茶に残った。
「どうしてお退屈なんですの?」とベッチイはいった。「サフォの話では、昨日お宅でたいへんにぎやかにお遊びになったそうじゃございませんか」
「ああ、わたしやりきれないほどくさくさしましたわ!」とリーザ・メルカーロヴァはいった。「あの競馬のあと、みんなで、宅へ集ったんですけど、いつもいつも、同じ顔ぶればかりでねえ! いつもいつも同じことばかりなんですもの。一晩じゅう長椅子の上でごろごろしていましたわ。それで、いったいなにがおもしろいのでしょう? ねえ」と彼女はまたアンナに問いかけた。「あなたは退屈しないために、どうなすっていらっしゃいますの? あなたを拝見していますと、ああこれこそ幸福であろうと、不幸であろうと、とにかく退屈しない女のかただ、という気がいたしますものね。いったいどういうふうにしていらっしゃるか、教えて下さいましな」
「どんなふうにもいたしませんわ」このしつこい問いに顔を赤らめながら、アンナは答えた。
「それがいちばんいい方法なんですよ」とストレーモフが話に口を入れた。
 ストレーモフは年のころ五十前後、頭こそ半白になっているが、まだみずみずしい男で、ひどく男前は悪いけれども、特色のある聡明そうな顔をしていた。リーザ・メルカーロヴァは、その妻の姪《めい》であるが、彼は暇さえあれば、いつも彼女とともに時をすごしているのであった。アンナ・カレーニナに出会うと――彼は勤務上カレーニンにとっては敵方であった――聡明な社交人の常として、政敵の妻である彼女に、かくべつ愛想よくしようと努めた。
「どうもしない」と彼は微妙なほほえみを浮べながら、ひき取った。「これが最上の方法なんです。あなたにも前からそういっておったでしょう」と彼はリーザ・メルカーロヴァの方へ向いて、「退屈しないためには、退屈だろうなどと考えないようになさいって。それは不眠症を恐れる人が、寝られないのじゃないかと心配してはならない、それと同じことですよ。アンナ・アルカージエヴナは、それをおっしゃったんですよ」
「もしわたしがそれを申したのでしたら、どんなにかうれしいでしょう。だって、それは気がきいているというだけでなく、真理でございますもの」とアンナは微笑を含んでいった。
「いいえ、わたしぜひ伺いとうございますわ、なぜ寝つくことができないか、なぜ退屈しないでいられないか」
「寝つくためには、働かなくちゃなりません。楽しい気持になるためにも、やっぱり働かなきゃなりませんな」
「わたしの働きなんかだれにも必要がないのに、いったいなんのために働くんでしょう? それかといって、わざと働くふりをするなんて、わたしにはできもしませんし、そんなこといやですわ」
「あなたはどうも手がつけられないな」ストレーモフは相手を見ないでそういうと、またアンナに話しかけた。
 あまりアンナに出会うことがないので、彼は月並なことより何も話すことがなかった。で、いつペテルブルグへ引き移るかだの、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナがひどく彼女を好いているだの、そんな月並をならべはじめた。しかもその表情は、心から彼女に好感を与え、自分の尊敬、いや、それどころか、さらにより以上のものを示そうとしている、といったようなふうであった。
 トゥシュケーヴィッチが入ってきて、一同がクロケットの勝負をお待ちかねですといった。
「いけません、お帰りにならないで」アンナが帰ると聞いて、リーザ・メルカーロヴァは哀願した。ストレーモフもそれに声をあわせた。
「あんまりコントラストがひど過ぎますよ」と彼はいった。「この一座から、ヴレーデのお婆さんとのころへいらっしゃるなんて。それに、あなたはあのお婆さんにとって、ただ人の悪口をいう機会を与えておやりになるだけのものですが、ここにいらっしゃれば全然べつな、悪口などとは正反対の、このうえもなく美しい感情を、呼び起しなさるばかりですからね」と彼はいった。
 アンナはちょっといっとき、決しかねるように考えこんだ。この聡明な人物の賛辞、リーザ・メルカーロヴァの示してくれた無邪気な好意、そしてこのなじみのふかい社交界の雰囲気――これらはすべてきわめて気やすい感じであるのに反して、彼女を待ち受けているのは、あまりにも苦しいことだったので、このままここに居残って、苦しい相談の時をもう少し延ばすことにしようかと、彼女はいっとき心を決しかねたのである。
 けれど、もしなんの決断もつけなかったら、わが家で一人きりになった時、どんな苦しみが待ち受けるかわからない、とそう思い起した時――あの思い出してさえ恐ろしい、われとわが髪を両手でひっつかんだありさまを思い起した時、彼女は暇《いとま》を告げて立ち去った。

[#5字下げ]一九[#「一九」は中見出し]

 ヴロンスキイは一見して、軽はずみな社交生活を送っているにもかかわらず、ほんとうはだらしのないことの大嫌いな男であった。まだ若い幼年校時代に、金につまって借金を申しこんだところ、まんまと断られて恥をかいたため、それ以来、一度も自分をそういう立場においたことがなかった。
 いつも自分の財政をきちんとしておくために、彼はその時の状況に応じて加減はするが、年に五度ばかり一室に閉じこもって、自分の財政状態をはっきりさせることにしていた。彼はそれを「勘定する」もしくは faire la lessive と称していた。
 競馬の翌日、おそく目をさましたヴロンスキイは、顔も剃《そ》らず湯浴みもしないで、白い夏の軍服を着て、テーブルの上に金や算盤《そろばん》や手紙をひろげ、仕事にかかった。ペトリーツキイは、こういう場合のヴロンスキイが、怒りっぽいのを承知しているので、朝、目をさまして、友だちが仕事机に向っているのを見ると、邪魔をしないように、そっと着替えをして、部屋を出た。
 どんな人でも、自分をとり巻いているやっかいな条件を、残りなく知りつくしながら、この条件の複雑さや、それを説明することのむずかしさは、単に自分だけの偶然な特性にすぎないと、なんとなしに漠然と想像するものである。が、ほかのものも自分と同じように、複雑な条件にとり囲まれていることは、夢にも考えないのである。ヴロンスキイもやはりそんな気がしていた。で、彼はいくらか内心の誇りを感じながら、もしほかのものがこんなやっかいな条件におかれたら、とっくに手も足も出ないようになり、よくない行動をとるに相違ないと考えていたが、あながち根拠のないことではなかった。しかし、ヴロンスキイは後日、窮地に落ちないために、今こそ財政を整理して、自分の状態を明瞭にしなければならぬと感じた。
 ヴロンスキイが一番らくな仕事として、まず最初に手をつけたのは金のほうであった。自分の借金を書翰箋《しょかんせん》に、こまかい筆で残らず書き抜いたのち、合計を出して、一万七千ルーブリ借りのあることを発見した。はしたの何百ルーブリかは、勘定をはっきりさせるために、切り棄ててしまった。現金と銀行の通帳を計算した時、自分の手に残っているのは、千八百ルーブリしかないことを発見した。ところが、新しい入金は新年までなんの見こみもなかった。借金の書抜きを読みなおして、ヴロンスキイはそれを三種類に分けて清書した。第一類は、今すぐ払わなければならないか、少なくとも、請求された場合、一刻の猶予もないように、現金を用意していなければならない負債であった。こういう負債が、約四千ルーブリあった。千五百ルーブリは馬の代、二千五百ルーブリは、若い同僚のヴェネーフスキイが、ヴロンスキイの見ている前で、いかさま師にかかってカルタに負けたとき、保証に立った金である。彼はその時、すぐ金を払おうとしたのだが(その時は金があったので)、ヴェネーフスキイとヤーシュヴィンは、それは自分たちが払う、勝負に加わらなかったヴロンスキイに出させはしない、と主張したわけである。それはよかったが、このけがらわしい事件について(もっとも、彼は言葉の上でヴェネーフスキイの保証をした、というだけの関係しかなかったけれど)、是が非でも、二千五百ルーブリの金を握っていなければならない、とヴロンスキイは覚悟していた。それは詐欺師《さぎし》野郎にこの金を叩きつけて、それ以上こんなやつと、口もきかないためなのである。そういう次第で、この最も重要な第一類のほうで、四千ルーブリを用意しておかなければならなかった。
 第二類の八千ルーブリは、それほど重大でない借金であった。それは主として、競馬場の厩《うまや》とか、秣《まぐさ》商人とか、英国人の調馬師とか、馬具商などに借りた金である。この部門でも、すっかり面倒をなくするためには、やはり二千ルーブリくらいは播かなければならない。最後の部門は、ほうぼうの店やホテル、仕立屋などの借りで、それは考える必要もないていのものであった。こういうわけで、当面の支出として、少なくとも、六千ルーブリの金が要るのであったが、手もとに千八百ルーブリしかない。
 みんなが推定するところによると、ヴロンスキイは十万ルーブリの年収をもっているのであるから、それほどの資産家にとっては、これしきの借金など何も困ることはないはずであった。ところが問題は、彼の年収がこの十万ルーブリに遠く及ばないことなのである。父の遺した莫大な領地だけでも、二十万からの年収があったが、これは二人の兄弟で分割せずに、共有ということになっていた。ところで、兄のほうが山のような借財を背負っているくせに、一文の持参金もないヴァーリャ・チルコヴァ公爵令嬢という、十二月党員の娘と結婚した時、ヴロンスキイは父の領地からあがる全収入を兄に譲って、自分はその中から、ただ二万五千ルーブリだけもらうことにしたのである。ヴロンスキイはそのとき兄に向って、自分が結婚するまでは、これだけの金で十分だろうし、だいいち、決して結婚などはしやしない、といった。兄は最も費用のかかる連隊の長をしていたし、また結婚したばかりでもあったので、この贈り物を受けないわけにいかなかった。しかしヴロンスキイは、兄から保留しておいた二万五千のほか、さらに二万ルーブリずつ母からもらっていた。それを彼はみんな費いはたしていたのである。しかし、近ごろになって、母はわが子がああいう色恋沙汰をはじめ、かってにモスクワから帰ってきたことで腹をたて、その金を送らなくなったのである。その結果、もう四万五千ルーブリの生活に慣れてしまったヴロンスキイは、今年たった二万五千ルーブリしかもらわなかったために、いま動きのとれぬ状態になった次第である。このやっかいな状態を切りぬける手段として、母に金をねだるわけにはいかない。前日、母から受け取った最後の手紙は、ことに彼をいらいらさした。ほかでもない、その中には、わたしは社交界や勤務上の成功のためなら、どこまでもおまえの力になってやろうと思っているけれど、りっぱな社会に醜聞を流すためならお断りだと、思わせぶりが書いてあったからである。自分を買収しようという母親の腹は、彼に真底から侮辱を感じさせ、いよいよ母に対する気持を冷淡にしてしまった。今や彼は、カレーニナとの関係に、何か偶発事件が生ずるのを予想して、兄に向って発した寛大な言葉は軽率であり、独身の自分でも、収入の十万ルーブリがぜんぶ必要になる場合もありうる、とこう感じていたにもかかわらず、いったん口から出した寛大な言葉を、取り消すわけにいかなかった。そんなことはどうしてもできない。ただ嫂《あによめ》を思い出しただけで――あの愛すべき善良なヴァーリャがおりあるごとに、わたしはあなたの寛大な処置をいつも覚えていて、ありがたく思っているというのを思い起しただけで、いったんやるといったものをとり返すわけにいかないことが、身にしみて感じられるのであった。それは女をなぐったり、盗みをしたり、嘘をついたりするのと、同じくらい不可能なことだった。ただ一つ可能であり、当然である手段があった。で、ヴロンスキイは一刻の猶予もなく、そうと肚《はら》を決めた。それは高利貸から一万ルーブリの金を借りること(それはなんの面倒もないはずである)、ぜんたいに経費を削減《さくげん》すること、競馬用の馬を売ることであった。そう肚を決めると、彼はさっそくロランダキに手紙を書いた。これは彼に馬を売ってくれと、一再ならず使をよこした男なのである。それから、イギリス人と高利貸のところへ使を出し、手もとにある金を計画どおりに分けた。この仕事を片づけると、彼は母親にあてて冷やかな、とげとげしい返事をしたためた。それから、紙入れの中からアンナの手紙を三通とりだし、いちど読み返したのち、焼き棄てた。と、きのう彼女とかわした会話を思い出して、考えこんでしまった

[#5字下げ]二〇[#「二〇」は中見出し]

 ヴロンスキイの生活は特に幸福なものであった。というのは、しなければならぬことと、してはならぬことを、一つ残らず明瞭に決定する規則が、ちゃんとできあがっているからである。この規則は、生活条件のきわめて狭い範囲を包容するものであったが、そのかわり規則そのものは、一点の疑いを容れないのであった。で、ヴロンスキイは決してその範囲を出ることなく、しなければならぬことを実行するのに、かつて一度も躊躇することがなかった。この規則ははっきりと、次のことを規定していた。いかさま師に負けた金は払わなければならないが、仕立屋には払わなくてもよい。男に嘘をつくことはできないが、相手が女ならばかまわない。何人《なんぴと》をも欺くことは許されないが、良人だけはこの限りでない。侮辱を赦すことはできないが、他人を侮辱するのはさしつかえない、等々である。こういった規則は、不合理でよくないかもしれないが、しかし疑うべからざるものであった。で、ヴロンスキイはそれを履行しながら、心の安らかなるを感じ、昂然《こうぜん》と頭を反らすことができた。ただ最近アンナとの関係について、ヴロンスキイは、自分の規則が必ずしもいっさいの生活条件を規定するものでない、と感じはじめた。そして、前途に困難と疑惑が予想されてきたけれども、ヴロンスキイはもはやそれに対して、手引きの糸を見いだすことができなかった。
 アンナとその良人にたいする現在の関係は、彼にとって単純明瞭だった。それは彼の頼りにしている規則で、明瞭正確に規定されている。
 彼女は、彼に愛を捧げたれっきとした婦人であり、彼もまた彼女を愛している。したがって、彼女は法律上の妻と同様の、いな、それ以上の尊敬に値する婦人であった。彼女を侮辱することはおろか、単に婦人として要求しうる尊敬を示さないような言葉を口にしたり、あるいはほのめかしなどするくらいなら、むしろその前に、自分の手を切り落してもらったに相違ない。
 社会に対する関係も明瞭であった。だれでも二人の関係を知ることも、想像することもかってであるが、だれにもせよ、それを口に出すなどということは許されぬ。さもなければ、彼はそういう人間を沈黙させ、自分の愛している婦人の仮想の名誉を重んじることを、教えてやる覚悟であった。
 良人に対する関係は最も明瞭である。アンナがヴロンスキイを愛するようになって以来、彼はアンナに対する自分の権利を、とうてい奪うべからざるものと見なしていた。良人はただよけいな邪魔者にすぎなかった。良人の立場がみじめなのは疑いもないけれど、しかしなんともしかたがない。良人の有している唯一の権利は、武器を手にして満足を要求することであって、それならヴロンスキイは最初の瞬間から、心構えができていた。
 ところが最近、ヴロンスキイと彼女の間には、新しい内面的な関係が現われて、何かはっきりしないところがあるために、ヴロンスキイに無気味な感じをいだかせるようになった。つい昨日、彼女は妊娠していると打ち明けた。この知らせと、彼女が自分から期待しているものとは、何かあるものを要求している、そうヴロンスキイは感じたが、それは今まで生活の指針としてきた例の法典では、はっきりと規定されないのであった。全くのところ、彼はふいを打たれたので、最初、彼女が自分の状態を打ち明けた瞬間、彼の心は良人を棄てるようにという要求を彼にささやいた。彼はそれを口にしたが、今よく考えてみると、そんなことをせずにすましたほうがよいということが、はっきりわかった。と同時に、そう自分で自分にいいながらも、これは悪いことじゃないかと、心配になるのであった。
『[#「『」はママ]おれが良人を棄てろといったら、それはおれといっしょになれということになる。が、おれはそれに対する用意ができているだろうか? いま金もないのに、どこへあの女を連れて逃げるのだ? よしんば、かりになんとか方法がつくにしても……勤務のあるおれが、どうしてあの女を連れて逃げようというのだ? おれもああいったからには、その用意だけはしておかなくちゃならない。つまり、金をこしらえて、退職しなくちゃ」[#「」」はママ]
 そこで彼は考えこんだ。退職したものかどうかという問題は、もう一つの秘密な、彼一人だけしか知らぬ利害関係につながりをもっていた。それは深く秘められてはいるけれど、彼の全生活ちゅうほとんど最も重大なものといってよいほどであった。
 名誉心は彼の少年時代、青年時代を通じて、長い間の空想であった。彼はこの空想を、自分でも認めようとしなかったが、しかしきわめて強烈なものであって、今でもこの情熱が恋愛と闘っているほどであった。社交界と勤務の方面における第一歩はうまくいったが、二年前に、彼はとほうもないまちがいをしでかした。自分の独立|不羈《ふき》なところを見せて、それによって昇進を早めようという下心で、自分に勧められたある地位を断った。この拒絶でいっそう自分に箔《はく》がつくとあてにしたのである。ところがそのじつ、彼はあまり大胆すぎて、うっちゃらかしにされてしまった。いやおうなしに、独立|不羈《ふき》の人間という立場をつくってしまった彼は、自分はだれにも腹をたてていはしない、だれにも侮辱されたとは考えていない、ただかまわずにうっちゃっておいてもらいたい、自分は愉快なのだから、とでもいったようなぐあいに、きわめて細心かつ聡明な態度をとりながら、その立場を誇示するようにした。が、正直なところ、もう去年モスクワへ去ったころから、彼は愉快でもなんでもなくなったのである。なんでもしようと思えばできるのだが、ただ何もしたくないのだというような、この独立不羈な人間の立場も、そのうちにだんだん手ずれがしてきて、多くの人は彼のことを、正直で善良な青年というよりほか、なんの能もない人間だと考えるようになった、それを彼は感じたのである。あれほど世を騒がして、人々の注意をひいたカレーニナとの関係は、彼に新しい光彩を与えて、彼の心を蝕《は》む名誉心の虫を一時おさえつけたが、一週間ばかり前に、この虫がまた新たな力をもって目をさましたのである。彼の竹馬の友であり、同じ環境、同じ社会に属し、幼年学校の同窓で、学課でも、体操でも、いたずらでも、名誉心の空想でも、すべて彼の競争相手であったセルプホフスコイという男が、最近、中央アジアから帰って来たのである。彼はそこで二級昇進し、こんな年若な将官としては、珍しい勲章を授けられたのであった。
 彼が、ペテルブルグへ到着するやいなや、新しく穹窿《きゅうりゅう》にさし昇った一等星か何かのように、その噂でもちきりであった。ヴロンスキイと同年の同級であったこの男が、今はすでに将官であり、国家の政治をも左右すべき位置に任命されるのを待っている。しかるに、ヴロンスキイは独立不羈の人間で、美しい女性に愛されているはなやかな存在ではあるものの、しかし一介の騎兵大尉であって、いくらでも好きなだけ独立不羈でいるがよいと、つっぱなされた形である。
『もちろん、おれはセルプホフスコイをうらやみもしないし、またうらやむこともできないが、あの男の栄達は、時期さえ待っていれば、おれのような人間の出世は非常に早いものだ、ということを説明している。つい三年前には、あの男はおれとおなじ地位にいたのだ。退職するのは、自分の船を焼き払うのと同じことになる。ところが、軍職にとどまっていれば、何一つ失うことがないわけだ。それに、彼女自身も自分の境遇を変えたくないといったじゃないか。おれはあの女に愛されているのだから、セルプホフスコイをうらやむにはあたらない』
 そう考えて、ゆっくり口|髭《ひげ》をひねりながら、彼はテーブルから立ちあがって、部屋をひとまわりした。彼の目はことさらきらきらと輝いていた。彼はいつも自分の状態をはっきりさせたあとに経験するしっかりと、おちついた、喜ばしい気持を覚えた。先ほどの計算のあととおなじように、なにもかもがさばさばして明瞭であった。彼は顔を剃《あた》り、冷水浴をし、服を着替えて、外へ出た。