『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」3-31~3-32(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]三一[#「三一」は中見出し]

 階段を半分ほど駆けおりたとき、彼は控室でなじみのある咳の声がするのを聞きつけた。しかし、自分の足音にまぎれて、はっきりとは聞えなかったので、まちがいであってくれればとねがった。が、つづいてなじみの深い、ひょろ長い、骨ばった姿ぜんたいが目に入った。もうこれで、自分を欺くことはできないはずであるにもかかわらず、彼はまだ希望をつないで、毛皮外套をぬぎながら咳を切ろうとしているこのひょろ長い男が、兄のニコライでなければいいがと思った。
 レーヴィンは兄を愛してはいたけれど、この兄といっしょにいるのは、いつも彼にとって苦痛であった。しかも、レーヴィンが自分の心に浮んだ考えと、アガーフィヤの思い出させたことに影響されて、あいまいなこんぐらかった心持になっていたので、目前に迫った兄との対面は、ことに苦しく思われた。にぎやかで健康な他人の客が、このばくぜんとした心持をまぎらしてくれるだろう、という予期に反して、彼という人間を見とおしている兄と、顔をあわせなければならない。この兄は、彼の心にある最も大切な思想を呼び起して、なにもかもいわせてしまわなければ承知しない。それが彼はいやだったのである。
 このいまわしい感情に、自分で自分に腹をたてながら、レーヴィンは控室へ駆けおりた。兄をちかぢかと見るが早いか、この個人的な幻滅感はたちまち消えてしまって、憐愍《れんびん》の情に入れ変った。いままでの兄も、その痩《や》せようと病的な感じで、たまらないほど恐ろしく思われていたが、今の兄はそれよりもっと[#「もっと」は底本では「もって」]やせて、もっと弱りきっているのであった。それは皮をかぶっている骸骨であった。
 彼は控室に立って、襟巻を取ろうとしながら、長いやせた頸をしきりにしゃくって、奇妙にみじめな微笑を浮べていた。このつつましやかな忍従の微笑を見ると、レーヴィンは痙攣《けいれん》に喉をしめられる思いであった。
「さあ、とうとうやって来たよ」一刻も弟の顔から目を放さないで、ニコライは陰にこもった声でそういった。「前から来たかったのだけれど、どうも体の具合が悪くってな。だが、もう今は非常によくなったよ」大きな瘠せた掌《てのひら》で、自分の頤鬚《あごひげ》を拭きながら、彼はこういった。
「そうですね、そうですね!」とレーヴィンは答えた。が、接吻するとき、自分の唇で兄の体のかさかさしているのを感じ、妙にぎらぎらする大きな目を間近く見たとき、彼はいっそうおそろしくなってきた。
 その二三週間前に、レーヴィンは兄に手紙を書いて、まだ分けずにあった家の中のものの一小部分を売ったから、兄はいま自分の分け前、約二千ルーブリの取り前がある、といってやったのであった。
 ニコライはその金を受け取るためと、ことに自分の生れた巣にしばらく暮して、土に親しく身をふれ、昔話の英雄のように、将来の活動に必要な力を蓄積にきたのだ、とそう説明した。前にも増して目立ってきた猫背と、その背丈に比べて驚くばかりの瘠せようにもかかわらず、その動作はいつものとおり敏捷で、突発的だった、レーヴィンは兄を書斎へ案内した。
 以前なかったことに、兄は特に念入りに着替えをし、まばらなカールのない髪の毛を梳《す》いて、にこにこしながら二階へあがった。
 彼は、レーヴィンが少年時代によく見たことのある、いたって愛想のいい、楽しい気分になっていた。コズヌイシェフのことを話すのさえ、いつもの毒々しい調子が出なかった。アガーフィヤを見ると、彼は冗談口などきき、古い召使のことなどたずねた。パルフェン・デニースイチの訃報は、彼に不快なショックを与えた。その顔にはおびえたような表情が現われた。が、彼はすぐ気分をとりなおした。
「しかし、あれはなにぶんもう年取っていたんだからなあ」と彼はいい、話題を変えた。「いや、こうしておまえのとこで一、二ヵ月暮したら、モスクワへ出て行くよ。じつはね、ミャーフコフが就職の世話をしてやると約束したんだよ。でね、僕も勤めることにしたのさ。今こそ僕もすっかり別なふうに生活を建設するつもりだよ」と彼はつづけた。「じつはね、僕あの女に暇をやってしまったんだぜ」
「マリヤ・ニコラエヴナですか? どうして、なんだって?」
「いや、どうもけしからんやつでね! あとからあとからと、僕に不快な思いばかりさせるもんだから」しかし、それがどんな不快なことだったかは、彼も別に話さなかった。マリヤを追った理由が、薄い茶を出したからだとは、さすがに彼もいえなかった。しかし、第一の原因は、マリヤが彼を病人扱いしたからなのである。「それに、概して、僕はこれから生活をがらりと変えてしまいたかったんだ。もちろん、僕は多くの人間とご同様に、馬鹿なことをやってのけたが、しかし財産なんてことは、末の末だよ。そんなものなんか惜しいとは思わん。ただ健康が元手なんだが、その健康もおかげで回復したしね」
 レーヴィンはそれを聞きながら、なんといったものかと考えていたが、考えつくことができなかった。おそらくニコライも同じことを感じたらしい。彼は弟に仕事のことをききだした。レーヴィンも自分の話をするのは楽だった。それなら、仮面をかぶらず[#「かぶらず」は底本では「かぶらす」]に話すことができる。彼は自分の計画や行動を、兄に話して聞かせた。
 兄は耳をかしてはいたけれど、察するところ、そんなことに興味はないらしかった。
 この二人は親身であり、おたがい同士きわめて近しい間柄だったので、ほんのちょっとした動作や、声の調子だけでも、彼らにとっては、言葉でいいうるより以上のことを語るのであった。
 いま彼ら二人には、一つの共通な考えがあった。ほかでもない、ニコライの病気と死の接近であって、それが他のいっさいを圧倒しているのであった。しかし、二人のうちどちらも、あえてそれを口に出す勇気がなかったので、自分の心にかかっている唯一のことを口にしない以上、何を話しても、嘘になってしまうのであった。レーヴィンは夜がふけて寝る時刻になったのを、このときほどうれしく思ったことはなかった。彼が今夜のように不自然で、わざとらしかったことは、どんな赤の他人を相手にしているときでも、どんな儀式ばった訪問の際にもなかったほどである。すると、この不自然の意識と、それに対する慚愧《ざんき》の念が、いっそうかれを不自然にするのであった。彼は死に近づいている愛兄に、哀惜の涙を流したかったにもかかわらず、いかにして生きるかという兄の話を聞き、それに相槌を打たなければならない。
 家の中はしけていて、暖炉を焚いている部屋は一つしかなかったので、レーヴィンは自分の寝室に仕切りをして、そのむこうに兄を寝かした。
 兄は床に入ったが、眠っているのか、寝られないのか、とにかく病人の癖として、寝返りを打っては咳をしていた。咳が切れないときには、何かぶつぶついうのであった。ときおり重々しく吐息をついて、『ああ、神さま!』というし、またどうかして痰《たん》で息がつまりそうになると、彼はいまいましそうに、『ええ、悪魔め!』という。レーヴィンはそれを聞きながら、長いあいだ眠ることができなかった。彼の考えたことは、種々雑多であったが、すべての考えの帰着するところは、ただ一つ――死であった。
 すべてのものの避くべからざる終末である死は、はじめて否応のない力をもって、彼の前に立ち現われた。この死、すぐそこにいる死、つい習慣で、神と悪魔を無差別にかわるがわる呼びながら、夢うつつにうめいているこの愛兄の中にひそんでいる死は、決してこれまで考えていたように、さほど遠くはないのだ。それは彼自身の中にもいるのだ――彼はそれを感じた。今日でなければ明日、明日でなければ三十年さき、それは要するに同じことではないか! この避けることのできない死とは、そもそも何であるか、彼はそれを知らなかったばかりでなく――かつて一度も考えたことがないばかりでなく、それを考えるすべも知らなければ、考える勇気もなかったのである。
『おれはせっせと働いて、何かをしでかそうと思っているが、すべてのものに終りがあるということを、死があるということを、忘れていたのだ』
 彼は暗闇の中でベッドの上に坐り、身を縮め、膝を抱いたまま、思想の緊張に息さえ殺しながら、じっと考えた。しかし、彼が思想を緊張させればさせるほど、いよいよ明瞭になってきた。疑いもなく、それはそのとおりなのだ。本当に自分は忘れていたのだ、人生におけるたった一つの小さな事実――死がやってきて、すべては終りを告げるのだから、何もはじめる価値はないし、しかもそれを救うことは断じて不可能である。そういう事実を自分は見のがしていたのだ。ああこれは恐ろしい、けれどもこれはそのとおりなのだ。
『だって、おれはまだ生きてるんじゃないか。これから何をしたらいいのだ、いったいなにをしたら?』と絶望をいだきながら叫んだ。彼は蝋燭をともして、用心ぶかく立ちあがり、鏡のそばへいって、自分の顔や髪の毛をながめはじめた。そうだ、鬢《びん》には白い毛がまじっている。彼は口を開けてみた。奥歯は虫くいになりかかっている。彼は筋骨たくましい腕をむき出してみた。そうだ、力はうんとある。しかし、今あすこに寝て、肺の残りで呼吸しているニコーレンカだって、やはり健康な肉体をもっていたではないか。ふと彼は思い出した。子供の時分から、二人はいっしょにねていたが、フョードル・ボグダーヌイチが戸の外へ出て行くのを待ちかねて、おたがいに枕を投げあい、きゃっきゃっと止めどなく笑ったものである。フョードル・ボグダーヌイチにたいする恐怖さえも、この縁を溢れて泡立つ生の幸福の意識を、止めることができなかったのである。『ところが、今はあのひん曲ったような空洞な胸……そして、なんのために、どういうことが自分の身に起るか、それさえ知らないこのおれ……』
「ごほん! ごほん! ええ、畜生! おまえなにをごそごそしてるんだい、寝られないのかい?」と兄の声が彼を呼びかけた。
「どうもね、なぜだかわからないけど、眠れなくって」
「ところが、おれはよく眠ったよ、このごろは寝汗もかかないし。ちょっとシャツをさわってごらん。汗は出てないだろう?」
 レーヴィンはシャツにさわってみて、仕切板のむこうへ戻り、蝋燭を消したが、まだ長いこと眠れなかった。いかに生くべきかの問題が、やっといくらかはっきりしたと思うと、たちまち解決することのできない新しい問題――死が立ち現われるのであった。
『ああ、兄は死にかけている、いや、春の来るころには死んでしまうだろう。ところが、いったいどうしたら救ってやれるのだ? 兄になんといったものだろう? おれはこの問題について、何を知っているのだ? おれはこれが何かってことさえ、忘れていたんじゃないか』 

[#5字下げ]三二[#「三二」は中見出し]

 レーヴィンはもう前から、こういう観察をしていた。人を相手にして、その過度な謙遜や従順のために、ぐあいの悪い思いをさせられると、やがてまもなく、その度はずれなわがままと意地の悪いからみぶりに、手を焼かされるものである。彼は、兄もこれと同じではないかと予感していたが、果せるかな、兄ニコライのおとなしさは、ほんのちょっとしかつづかなかった。彼はもうさっそくあくる日の朝から、いらいらしはじめてしつこく弟につっかかってきては、彼の最も痛いところにさわるのであった。
 レーヴィンは、自分のほうが悪いと感じながら、それを改めることができなかった。もし二人とも仮面をかぶらないで、いわゆる胸襟を開いて語りあったならば、つまり、本当に自分の考えたり、感じたりしていることだけを口にしたら、二人はただお互に顔を見合わせて、レーヴィンのほうからは、『あなたは死ぬのだ、あなたは死ぬのだ!』とだけいうだろうし、ニコライのほうは、『死ぬってことはわかってる、だが怖い、怖い、怖い!』とだけ答えたに相違いない。そんなふうに、レーヴィンは感じた。もし二人が衷心からのみ語りあったら、それよりほかのことはいわなかったであろう。しかし、そんなふうにして暮すことはできないから、レーヴィンはこれまで常にやってみながら、うまくやりおおせた例のないことをやろうと試みた。それは、彼の観察によると、多くの人が実にうまくやってのけることであり、またそれをしなくては生きていけないのであった。彼は心にもないことをいおうと試みたが、いつもそらぞらしく聞えるように思われ、兄がそれを悟って、なおいらいらするのを感じた。
 三日目に、ニコライは弟を呼びつけて、またもやその計画を説明させ、それを非難するばかりでなく、わざと共産主義と混同しはじめた。
「おまえはただ他人の思想を借りてきたばかりで、それを歪曲して、応用できないものに応用しようとしてるんだ」
「これは共産主義となんの関係もないって、そういったじゃありませんか。彼らは私有財産、資本、相続権を否定しているけれども、僕はこの主なる動機《スチムル》を斥けませんよ(レーヴィンは自分でも、こういう言葉を使うのがいやだったけれど、自分の著述に没頭して以来、知らずしらず、外国語を頻繁に用いるようになったのである)。僕はただ労働を調整しようというだけです」
「それそれ、だから、おまえは他人の思想を借りてる、というのだ。その思想の力となっているものを全部きり棄てて、それが何か新しいもののようにいいはるのだ」腹だたしげにネクタイの下で頸をしゃくりながら、ニコライはこういった。
「だって、僕の思想はそれとなんの共通点もないんで……」
共産主義には」毒々しく目を輝かし、皮肉なうす笑いを浮べながら、ニコライ・レーヴィンはいうのであった。「共産主義には、少なくとも、なんと いうか、幾何学的な美がある――明快で疑いを許さぬところに、美しさがある。それはユートピヤかも知れない。しかし、かりに過去のいっさいからtabula rasa(白紙状態)をつくり出して、私有財産もなければ家族もない、というようにすると仮定したら、そのときは労働も調整されるだろう。ところが、おまえの説には何一つありゃしない……」
「なんだって、僕を共産主義者といっしょにするんです。僕は一度も、そんなものだったことはありませんよ」
「ところが、僕はそうだったんだ。で、それが時期尚早ではあるけれども、合理的で将来性があると思う、ちょうど初期のキリスト教のように」
「僕はただ思うんです、労働力というものは、自然科学の観点から観察しなければならない、つまりそれを研究して、その特質を認識し……」
「ところが、それもぜんぜん徒労だよ。その労働力は発達にしたがって、自分で一定の活動形態を見いだすのだ。いたるところに奴隷がいたが、その後、小作人になったのさ。ロシヤにも折半式の労働もあれば、借地もあり、日雇いかせぎもある――いったいおまえは何を求めているのだい?」
 この言葉を聞くと、レーヴィンは急にかっとなった。というのは、彼も心の奥のほうでは、それが本当ではないかと恐れていたからである。本当に、彼は共産主義と一定の形式との間に、均衡を取ろうとしたが、それはほとんど不可能なのではあるまいか。
「僕は自分にとっても、労働者にとっても、生産的に働く、そういう方法を求めているのです、僕が組織したいのは……」とレーヴィンはやっきとなって答えた。
「おまえはなんにも組織したくはないんだよ。ただ、今までずっとやってきたとおりに、独創ぶりたいんだ。単純に百姓を搾取《さくしゅ》しているのではなく、理想をもって搾取しているってことを、見せびらかしたいのさ」
「ふん。そう思ってるなら、思っているでいいから、うっちゃっといてもらおう!」とレーヴィンは答えたが、左の頬の筋肉が止めどもなく痙攣するのを感じた。
「おまえは信念なんてものを、持ったことがないし、現に持ってもいやしない。ただ自尊心を満足させたいばかりなのだ」
「なら、けっこうです、うっちゃっといてもらいましょう!」
「うっちゃってやるとも! もうとっくに出発しなくちゃならなかったんだ。とっとと失せやがれだろう! こんなとこへきたのを、心底から後悔しているよ」
 レーヴィンがどんなに兄をおちつかせようとしても、ニコライは何一つ耳に入れようとせず、二人は別れてしまったほうがはるかにいいのだ、というばかりであった。レーヴィンは悟った――兄はただもう、生きるということに堪えられなかったのである。
 ニコライがもうすっかり出発の準備を終ったとき、レーヴィンはまた兄のとこへいって、もし何かで侮辱したのなら、赦してほしいと、不自然な調子でわびをいった。
「ははあ、寛大心か!」とニコライはいって、にやっと笑った。「もしおまえ、自分のほうが本当だということにしたいのなら、その満足感をおまえにゆずってやるよ。おまえのほうが本当だ。が、とにかく僕は出発するからね!」
 いよいよ出発というときになって、ニコライははじめて弟と接吻をかわし、とつぜん妙にまじめな目つきで、弟をみつめながらいった。
「それにしても、僕のことを悪く思わないでくれ、コスチャ!」彼の声はふるえた。
 それが誠心誠意発せられた唯一の言葉であった。この言葉の下には、『おまえも見てわかっているとおり、僕は体がよくないんだから、ひょっとしたら、これきりもう会えないかもしれんよ』という意味が隠されているのを、レーヴィンも悟った。それを悟ると、レーヴィンの目からは涙がはらはらと落ちた。彼はもういちど兄を接吻したが、なんにもいうことはできなかった。いえもしなかったのである。
 兄の発《た》った翌々日、レーヴィンも外国旅行の途についた。鉄道で、キチイの従兄のシチェルバーツキイに会ったとき、レーヴィンの暗い顔はいたく彼を驚かした。
「君、いったいどうしたの?」とシチェルバーツキイはたずねた。
「別にどうも、しかしこの世にはおもしろいことって少ないからね」
「どうして少ないんだね? そんなら、ミュルーズとかってところよりも、僕といっしょにパリヘ行こうじゃないか。どんなにおもしろいかわかるから」
「いま、僕はもうなにもかもすましてしまった。もうそろそろ死ぬ時だよ」
「いやあ、これはどうも!」とシチェルバーツキイは、笑いながらいった。「僕なんか、やっとはじめるしたくをしたばかりなのに」
「そう、僕もついこのあいだまで、そう思っていたんだが、今ではもうまもなく死ぬことがわかったんだ」
 レーヴィンは、最近しんから考えていることを口にしたのである。彼はあらゆるものの中に死か、それでなければ死の接近のみを見るようになった。しかし、いったん計画した仕事はそのために、ますます彼の心を占めていった。死の訪れるまでは、なんとかして生き通さなければならない。暗黒が彼の目からすべてのものをおおいつくした。しかし、彼はほかならぬこの暗黒のために、この暗闇の中で自分を導く唯一の手引きの糸は、自分の仕事であると感じた。で、彼は最後の力をしぼって、ひしとばかりそれにとりすがったのである。
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