『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。

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『私の歩んだ道 』(1997年、中井久夫、『神戸大学医学部神緑会学術誌』第13号)

CiNii 論文 -  私の歩んだ道 (退官教授の歩み)

私の歩んだ道

 私の歩んだ道は,振り返ってみると,同じ時代と同じ条件を与えるからもう一度,おおまかでよいから繰り返してみろと神様にいわれても,とうていできないようなものであろうと自分でも思う.
 物心ついた時がすでに戦時であった.中国との戦争が始まった時を覚えている.最初から,それまでの摩擦や紛争とは違うという感じがあった.それから三国同盟であり,対英米戦争であった.百年戦争を覚悟せよと新聞に偉い人が書いていたが,それはまさかと思ったものの,この戦争が終わりになったらまたどこかと戦争するのだろうな,万一勝っても今度はドイツとやりかねないと考えていた.はてのないトンネルを歩かされている感覚であった.家にある本を空襲下に手当たり次第に読んで過ごした.私の宝物は,山本一清の「天体と宇宙」,シャンドの「地球と地質学」,ヴェルヌの「海底二万里」そして「ジェーンの海軍年鑑. 1904-1905」だった.何も読むものがなくなると明治・大正期の三省堂百科事典を読んだ.
 何になりたいかと聞かれたら「軍人」と答えなければならない時代であったが,私は「艦船設計者」と答えていた.実際,設計家だった大叔父に親近感を持っていた.しかし,敗戦直前の中学校入試は体育と面接だけだったから.
 「文弱の徒のお前は小学校で終わりだ」と教師に脅かされていた.私は多少早熟だったので,1年早く小学校に上がることを勧める向きがあったが,祖父が「そういうのはいけない」と断っていた.それが幸いした1つ上の学年だったら運命が変わっていたにちがいない.私は敗戦直後に中学校(旧制高等尋常科)に上がった.入学するとさっそく発疹チフスに教師が2人なったために休校となった.ここのいかめしさのない空気の中で私は生まれ変わった.
 しかし一面の焼け野原であった.それどころか,昭和13年阪神風水害の跡がまだ学校の辺りに歴然としていた.そしてインフレーションで家計はみるみる苦しくなった.ただ,高校の図書館が充実していた.当時は出版ブームで,戦時中に書き溜められていた本(たとえば「細雪」)が出たり,戦前の本がしきりに再販された.蔵書が売り出されて古書店が繁盛していた.ある朝日記者が蔵書だけで書店を開いた.その後著名な俳人となる伊丹三樹彦氏が小さな「伊丹文庫」を伊丹の宮の前通りに営み,結婚して塚口南口に移った.私は手当たり次第に乱読した.そのうちに原文が読みたくなって,言葉を勉強し,外国から書籍を注文した.一々占領軍の許可が必要で,注文してから手に入るまで1年もかかったが,その代わり宝石のようなものであった.装丁し直して保存してある.
 占領軍が「日本は五千トン以上の船舶を作ってはいけない」と指令して,私は船の設計家になる希望を捨てた.さりとて,何になろうかという希望も湧かず,友人が医者を勧めてくれたけれど,当時はインターン制度があって医者になるまでに7年,その先にはいつまでとも知れない「無給医局員制度」が待っていることがわかっていた.当然行くだろう先の大学医学部に,私の母方の親戚が多すぎるのも,ちょっと遠慮したい理由になった.その親戚からのそれとなくの誘いも,私の足を重くさせた.私はサラリーマンになって,ひっそり好きな文学を読む一生を選ぶ気持ちになって,法学部を受けた.
 法学部の入学の面接で,国際私法の教授から「この分野をやりませんか」と誘われ,そういう経緯からか,東京海上火災の大阪支店に学部の先輩を訪問することになった.そこで,必読書などを教えられた.18歳の少年は,薄暗い煉瓦建ての部屋に慟く人々を見渡して,自分の一生を見てしまったような気になった.「エリア随筆」のチャールズ・ラムが描く19世紀のサラリーマン世界そのままだと思った.この椅子からあの椅子に移るまでに10年以上かかるのだろうなー.
 当時の京大法学部は,瀧川事件の傷跡がまだ残っていた.残留組の教授は,講義で,ことごとに東大を引き合いに出して,その誤謬を指摘し,「しかるにわが京大はこうこう」と言うのであった.最初に出会ったのがそういう先生だったので,善良な人ではあったが,法学部に対する熱が完全に醒めた.たまたま結核が発見されたのでさっさと休学届けを出して,学生診療所の若い医者に「何だ,えらく気が早いな」といわれた.当時の結核はまだ脅威であったが,大叔父がどっさり贈ってくれた新薬ヒドラジッドが間に合って助かった.半年の休学期間に,エリオットの「荒地」とリルケの「ドゥイノの悲歌」のかなりの部分を訳して,退屈しのぎと精神衛生の維持とを図った.
 当時はインフレーションと就職難が続いていて,成績がどうであろうと結核経験者はせいぜいが縁故採用で就職して肩身狭く過ごすほかはなかったから,縁故がないわけではなかったけれども,そのボスがやめた後を考えるとやめておこうと思った.そこで,おおっぴらに医学部を受験することにした.医学部を選んだ大きな理由は,今度は「自由」であった.サラリーマン社会と違って,入った先が見込み違いだったら,やりなおしがきく.
 それに,先の学生診療所の医者が,復学して会いに行ってみると,何と結核死を遂げていた.弔い合戦というわけでないけれども,多少それに近い気持ちもあった.当時は,実験も含めて単位さえ足りていれば,どの学部からでも医学部の専門課程に入学できた.もっとも,法学部は,同じ大学の医学部だけを受けるなら戻ってもいいが,「法学部の名誉」のためにも他を併願したらそれはできないということであった.大時代な台詞であるが,そもそも通るかどうかがはなはだ疑問であったので,単願にした.
 当時の医学部は,戦前に自分の医学を作ってしまった教授ばかりで,当時滔々と入り込んできた米国医学との落差は大きかった.まともに出席したのは,解剖学と臨床講義ぐらいであったか.私は高校がドイツ語クラスだったが,とにかくアメリカ軍のCIE図書館海賊版の教科書とを読み込もうとした.それから,クラブの先輩の臨床助手にしてもらった.これは,医学部に入ってからは生活費を全部自分で賄わなければならなかったためであるが,この先輩はただものではなくて,臨床というものの根本を啓示して下さった.
 インターンは親戚に紹介してもらって大阪大学でやって,ずいぶん可愛がってもらったけれども,結局,そこに残らなかった.その辺の心理を今思い起こしてみると,私は,どうもまだやり残した挑戦があるような気がしていた.裹からみると「まだ自分か決まっていなかった」のである.
 結局,私がウイルス研究所という,かなり意外な選択をしたのは,たしかに,クラブの先輩がいて.助手のポストが空いているということもあった.私は生活しなければならなかったのである.しかし,それだけなら他にも選択の可能性はある.ちょうどポリオの流行があって,NHKが仲介をしてソ連からセービン式生ワクチンを緊急輸入し,その後から学術視察団が追認しにゆくというぶざまな事態があった.実際には,日本にほんとうのポリオ研究者は1人,陽の当たらない場所にいただけであった,そういうことに促されたことが確かにあったと思う.もう1つは,小学校時代の科学少年が急に目を覚ましたということがある.「ちゃんとした科学を経験しておかないで臨床に行ったら科学が一生気になってしかたなくなるのではないか」と私は思った。(略)

「近況報告」(2000年、中井久夫、『神戸大学医学部神緑会学術誌』第16号)

CiNii 論文 -  近況報告 (名誉教授の近況)

 自宅で机に向かっている時が,いちばん自分が自分のところにいるという感じです.
 山の中腹に住んでいますので,右の谷でも左の谷でも,春から夏にかけて鶯が啼きます.
 南側に縁側のようなものを出して,思い切り部屋を明るくしました.それからオクスフォード英語辞典二十巻を揃えました.それまでは虫眼鏡で見る縮刷版一巻本を使っていたのですが,ついにどう工夫しても超細字が読めなくなったのです.CD-ROMでもよいようなものですが,それでは同時に何箇所も見て比較したり選択するのに不便です.それに何よりも,オクスフォードの濃紺色の端正な装丁を眺めていますと,心が落ち着きますし,英語の総体が実体として存在しているという感じはいいものです.しょっちゅう引いているわけではありませんが,それでも,この辞書を引いて初めてわかったことばがいくつかあります.
 もっとも.ふだんは一昨年に出たNew Oxford Dictionary of English を使っています.これは英文の説明が卓抜です.語源もことばの意味を深く理解できるようになっています.
 子どもの時から辞書や百科事典を読む習慣があり,ゆううつな時は何か辞書を買うのが気分を直すのにいちばんてっとり早い方法です.
 蔵書というものは,年とともに辞書・事典の比率が自然に増えるものだそうですが,私も3割近くなってきました.
 現場を離れますと,オリジナルな仕事はできません.精神医学は何十年も前の古典でも必読のものがありますので,翻訳できるものはしておこうと思っています.ただ訳するだけでなく,きちんと注をつけ,索引をつくり,内容要約もして,とにかく使えるものにすることを目指してきたのですが,さすがに年令とともに索引つくりなどはおっくうになってきました.
 教科書や啓蒙書を依頼されることもありますが,私は自分の意見が強すぎるので,こういうものは苦手です.同じ理由で事典項目も断っています.
 文学の翻訳をしたこともありますが,ぜひ翻訳したい詩はあと二つしかありません.この二つの一つは古代ギリシャの,一つは現代ギリシャの,いずれも長詩ですが,ひじょうに難しいので,心を残したまま,やらずに終わるでしょう.未踏峰を残しておくのもよいことかもしれません.
 昨年は絵本を一つ出しましたが,これはもののはずみのようなものです.素人さし絵まで描いたのは,急な代筆をしてくれる画家がいなかったからで,編集者は,いつもの年賀状ぐらいの絵でよいですよ,と渋る私をその気にさせました.
 こう書いてくると,机にへばりついている日々のようですが,昔からけっこう家事もしますし,戸外も好きです.机の前にすわるのは朝十時まででしょう.
 甲南大学文学部の教授(退職後再雇用の扱い)であるのですが,専攻は「精神医学」とあり,知らぬ人々は医学部があるのかと驚きます.実際は臨床心理の人たちのための精神医学です.文学部の先生は皆,本のある自宅で勉強しますから,出てくるのは講義と会議だけで,医学部に比べると,校舎は閑散としたものです.私は会議は事実上免除されているので(投票権がありません),講義のほかは大学院生とおしゃべりをするくらいです.
 その代り,県や市の精神科関係の審議会や何やかやの長は神戸大学教授経験者がつとめることになっていて,けっこうそちらの会議があります.震災後の「こころのケア・センター」は5年の時限立法によるもので,今春閉鎖しましたが,県は継承機関として「こころのケア研究所」なるものを作りましたので,初代所長として理念と当面の方針をデザインせねばなりません.

『まず「まちづくり」という概念について』(1998年、中井久夫、『都市住宅学』第22号)

CiNii 論文 -  まず「まちづくり」という概念について:「ストレス・ケアとまちづくり」を考える前に

(略)
 テントで育ったカナダ・インディアンは斜めの線に敏感で、斜めの線によって精神的に安定するという報告がある。われわれは直角を基本とする部屋に生まれ育っている。おそらく、直交する線に精神的安定を感じるだろう。また、地図が概念として頭の中に入りやすいだろう。
 しかし直交する線から成るモンドリアンの絵は何か足りないと感じられる。足りないのは、同じく幼い時からの馴染みである自分や周囲の人の身体の線である。
 おそらく、精神衛生によい設計は、都市であろうと建築であろうと、直交する線とやわらかな肉体の輪郭線との適切な組み合わせなのだろう。斜めの線は、直交する線から成る世界で最短距離を求めることから生まれたと考えられる。やや遅い時期に頭にしみこんだものといえるだろう。歩行の経済性によるものである。
 住民側の発想に立つたまちづくりも、この限定から逃れるわけにはゆかない。むしろ、それを積極的に取り入れてゆくということが「人間の顔をしたまちづくり」であると私は思う。奇を衒う時代は過ぎ去ったのである。
 そもそも住民側の発想に立った都市づくりはいつごろからあるのであろうか。
19世紀前半のオウエンやフーコーあたりから始まって、19世紀後半から20世紀初頭にかけての英国や米国の郊外住宅地に実現したものではないか。それが大正デモクラシー時代に日本にも大ってきた。私か少年時代を送った住宅地も英米田園都市構想を採り入れたものであって、いろいろの工夫があった。
 戦後の公団住宅にも、いろいろな制約の中で住民側の発想に立とうとした努力が評価できる。道路の配置もあまりに息づまるほどに碁盤の目でなく、斜めの路線やゆるやかに曲線を描く路線をも採り入れ、緑地や遊園地を散らばせた。八角の住宅やピロッティなど、消えていった実験的な試みもある。
 公団住宅的なまちづくりの論理が怪しくなったのは、地価高騰と階層分化とによってである。それは高度成長の歴史と同じ運命を辿った。地価の高騰は、4階ついでは5階建てであった公団住宅の標準的な形を不可能にして、高層住宅、超高層住宅の建設に移ってゆくほかはなかった。階層分化は、庶民の高層住宅と高級マンションあるいは一戸建て住宅団地とへの2極分化を起こさせた。
 これはどういう変化を住民に起こさせたか。
 4-5階建ての公団住宅は8-10家族が階段でつながっている。基本的には長屋を縦にしたものである。核家族の欠陥を補うだけの隣人があった。むろん、隣人は相手次第で悩みの種になるものであるけれども、「いつも近所に恵まれていたね」というのが私の家族がくりかえし語る感想である。実際、団地を去って20年余り、なお交際があり、子どもたちの交際がある。エレベーターではそうは行かない。一戸建ても大きくなればなるほど孤独は深まる。子どもが友達を得ることも、大人が隣人を得ることも難しくなる。
 子どもにとって、今、友人を得ることが大問題になっている。子どもは核家族の中で孤独なのである。余りに「息子、娘」であることを要求されているのだ。同様に、大人も、余りに「父」であり「母」であり「妻」であることを要求されている。子どもにとっての友人と同じく隣人が重要になってくるのである。この必要が満たされなくなる。
 実際、戦後急速に階級上昇を果たした家族の子が、「文化住宅」に生まれてそこから団地へ、団地からマンションへ、マンションから豪華な邸宅へと、成長期に次々に移った挙げ句に、その孤独が精神科医を必要とする事態を招くこともあった。引っ越しは橲物の移植と同じく、人間の環境に下ろしたヒゲ根を断ち切ることであり、環境への適応の努力が引っ越しの都度、無になることは子どもには特に打撃である。それが友人を得にくくする方向への引っ越しであればなおさらである。
 今、同じことが、それもごく短期間に、阪神・淡路大震災後の神戸で起こりつつある。避難所から仮設住宅へ、仮設住宅から復興住宅(恒久住宅)への動きである。復興住宅は高層、超高層住宅であって、そのパステル・カラーの塗装は神戸の緑によく合う。しかし、そこに住む人にとってはどうか。
 思えば避難所は戦後期の再現であった。
1960年ごろまでは「団地」入居は高根の花であって、間借りで始める新婚生活が多かった。次の仮設住宅は基本的に長屋である。低層団地の急造版である。何がなくとも隣人があり、土の香りがあった。しかし、仮設住宅の中身である住民はどんどん変わっていった。団地がそうであったように階層分化という因子が働いて、富裕な人から先に仮設住宅を脱けていった。今、残った弱者が高層、超高層に入居しつつある。しかも、高齢者中心である。 65歳以上の人が9割という住宅が出てきている。
 10年ほと前すでに、老人の医療へのアクセス性(近づきやすさ)を兵庫県医師会が調査したことがある。良好なのは中心部と、意外にも郡部の過疎地帯であった。もっともよくないのが郊外の住宅地、高層団地だった。同じように、警察の幹部は治安の把握が困難なのは郊外の住宅地、高層団地であると語っていた。
 ストレス・ケアのような施設を作ることは後手に回ることでもあり、少数の人しかうるおせないことである。悪性のストレスが限度を越えないための予防は、やはり都市環境整備である。何々高原都市のようなものは人口減少時代に逆らうものである。都市中心、高層やむなしという条件下で考えてゆかなければならないとすれば、江戸という、当時世界最大であった百万都市のまちづくりに学ぶところがあるのではないか。少なくとも江戸は名所づくりがうまかった。
 人口減少は高層建築をゴースト・タウン化するかもしれない。神戸の高齢者9割という復興住宅の10年後はかなりの確率でそうなるだろう。さらに、人口減少は真空が周囲の空気を呼びこむように移民を引きつける。フランス人で20世紀初頭にフランス人だった者の子孫は世紀半ばで4割といわれた。今は2割ぐらいであろう。すべての先進国に起こったことが日本に起こらないとは考えにくい。移民を第二級の市民としてパリ郊外の団地の荒廃の二の舞を招くかどうか、これはまちづくりを越えて市民と行政との意識が問われている問題となるだろう。

『私と現代ギリシャ文学』(1991年、中井久夫、『プロピレア』第3号)

CiNii 論文 -  私と現代ギリシャ文学 <エッセイ>

私と現代ギリシャ文学

 私は、たまたま高等学校において、古代ギリシャ文学を愛する教師に勧められ、当時ようやく出版された独習書を使って古代ギリシャ語を勉強しようとした。哲学よりも詩を好み、ギリシャ詞華集の一部を暗誦しようとした。
 この勉強は、京都大学法学部に入学してからも継続した。私は、そのまま行けば、ひそかにギリシャ文学を読む会社員か公務員になっていたであろう。
 しかし、私は結核になった。当時、結核の経歴があるということは卒業しても失業を意味した[リッツォスの青春期と似た状況である]。治癒後、私は、独立して生きる可能性が高い医師になろうと思い、医学部に転入学した。私はギリシャ語・ギリシャ文学から遠ざかった。最初は、ウィルス学研究者、1966年(32歳)からは精神科医としていそがしく働いた。
 ウィルス学研究者時代、アテネのパストゥール研究所の論文のギリシャ語が何とかわかるので、同僚に読んでやった記憶がある。また、関本至先生の、日本最初の現代ギリシャ語文法を購入し、 Teach Yourself Modern Greekで勉強しようとしたがやり通せなかった。セフェリスがノーベル賞を受賞したことは記憶にあり、現代ギリシャにすぐれた詩人がいることは知っていた。いくつかの英訳を購入しているが、それ以上にでなかった。
 1984年10月、私は、若い同僚の結婚式で祝婚歌を読もうとして、よい詩を求めて私の本棚を探し、エリティスの、エドマンド・キーリーによる英訳詩集(ペンギン)に出会った。巻頭の「エーゲ海」は、彼が友人の婚礼の際に作った祝婚歌にちがいない。すらすらと日本語になった。私が神戸に住み、多島海に面して、ヨットに乗る機会が多かったからであるが、非常によくイメージできた。
 これが契機であった。私は突然、現代ギリシャ詩にひきつけられた。本棚の The Penguin Book of Greek Verse を間いて、最後の何ページかの現代ギリシャ詩の部分をみた。
 カヴァフィスの「野蛮人を待つ」が真先に眼にとまった。この対話詩は、私の中に、かつて青年時代に聞いて感銘した、芥川比呂志宮口精二との、ラシーヌの悲劇『ブリタニキュス』(三島由紀夫)における、すばらしいやりとりの記憶を呼び覚ました。私には、この二俳優が、「野蛮人を待つ」を演じているのが、ほとんど実際に聞こえるようであった。私は、それを書き取っていった。
 私は、現代ギリシャの詩が、長い間の渇きを満たすであろうことを予感した。私は、何人かの内外の詩人に高校生のころ親しんだが、「私の詩人」のリストはその後久しく増えていなかった。
 神戸のギリシャ人土産物店の主人に本の入手を依頼してみたが、残念ながら文学は何も知らなかった(ただカヴァフィスの名は知っていた)。たまたま、哲学者の東大教授・坂部恵(さかべ・めぐむ)氏が東京のギリシャ物産展示場で現代ギリシやの本を販売していることを発見して教えてくださった。以来、私は出品しているヘルソネス書房から現代ギリシャの本を入手することができるようになった。
 しかし、現代ギリシャ語は難しい。英訳、独訳、仏訳を入手し、精神科医の推理力を生かして、語学力の不足を補おうとした。また、詩人が好んだ詩人の詩を考え合わせるようにした。さらに、詩朗読のテープをできるだけ入手して、詩人の声あるいは俳優の朗読を聞くことに努めた。1984年から85年にかけての私は、いささかクレージーであった。おそらく、私の言語意識が、精神科医として、「憂欝 melancholy」「分裂 splitting, schizophrenia」「解体 disintegration」「葛藤 conflict」などの言葉ばかりを使うのに疲れて、「海」や「空」や「花」という言葉を使ってみたくなったのであろう。言語意識のみずからに対する反乱であった。最初、エリティスにもっともひかれたのには、その四大(four elements)に向かって開かれたみずみずしい感覚性による。
 結局、私は1985年春、小さな私家版の現代ギリシャ訳詩集を作って知人に配付した。カヴァフィスのしたことに倣うという気持ちがあった。
 その夏、有名な文学者・大岡昇平氏が、私の私家版を人手されて、エッセイ集『成城だよりⅢ』で、「野蛮人を待つ」と「単調」とをたいへん高い評価を以って紹介され「私の好きな詩人が一人増えた」と書かれた。また、みすず書房の編集長・小尾俊人(おび・としと)氏が、出版しようといわれた。ためらう私に、小尾氏は「日本語(のよさ)で勝負しよう」といわれた。私は、20年来、精神医学誓の翻訳者として、よい西欧精神医学邦訳書の出版元であるみすず書房とは長年の付き合いがあり、多少、私の日本語を評価しておられたのであろう。この書店から本を出すのはなかなか得られない名誉である。私は感謝とともに承諾した。
(略)

話題のモノゴトをとりあげる その7 その二つの”事件”に署名しました。

(声明)安倍政権に韓国敵視政策をやめることを求めます

あいトリ署名 Petition Campaign

正直、ひじょうにこわい。しかし、自他の人生を破壊しない、させないために署名します。

2004年度公開シンポジウム報告 「トラウマ概念の再吟味 埋葬と亡霊」(中井久夫ほか)

CiNii 論文 -  パネルディスカッション (2004年度公開シンポジウム報告 「トラウマ概念の再吟味 - 埋葬と亡霊 -」)

中井:まず、港道先生が言われたことについて追加しておきたいと思います。アメリカ復員局は二〇年前から加害者のPTSDをも補償し治療するとしております。実際、アラン・ヤング(Allan Young)の『PTSDの医療人類学』(みすず書房)に出てくるケースの過半数は加害者です。そして、加害者のPTSDのほうが被害者のPTSDより重い。この事実は、我々人間にとってささやかな救いです。
 それから、歴史とトラウマですけれども、モードリス・エクスタインズ(Modris Eksteins)という人の『春の祭典 -第一次世界大戦とモダン・エイジの誕生』(TBSブリタニカ出版)は、トラウマの問題をベースにして書かれた本です。それによると、第一次大戦においてヨーロッパが崩壊した時のトラウマが、ミュンヘン会談という、ヒトラーに対する妥協を歓迎させたということです。現在の米国でも、慎重派はむしろベトナム戦争を経験した人ではないでしょうか。第二次大戦でフランスが非常に早期に降伏したのも、第一次大戦のトラウマと、人口を保存するという合理的な判断があったためです。そういうものが最近注目されております。
 徴兵された兵隊が敵に向かって鉄砲を撃つ確率というのは、南北戦争から第二次大戦までは一五から二〇%でした。つまり八〇%は敵に向かって撃たないんです。戦闘機は、わずか一%のパイロットが四〇%の敵機を撃墜しているそうです。大部分のパイロットは、戦場で敵を撃つよりもむしろ撃たれるほうを選ぶんです。兵隊の場合もそうで、このことは我々人間にとって一つの救いです。しかしこれでは軍隊にとって非常に具合が悪いので、一九四六年アメリカのウィリアム少将が海軍の心理学者に命じて、心理学的テクニックによって発砲率を上げようとしました。このテクニックはデーヴ・グロスマン(David A. Grossman)の『戦争における「人殺し」の心理学』(筑摩書房)という本に詳しく紹介されております。朝鮮戦争で五五%、ベトナム戦争では一七才の少年を選んで九五%の発砲率を達成しました。その代価は、その後のアメリカ社会の荒廃であろうと考えます。
 湾岸戦争の発砲率は、『ニューズウィーク』によると二四%。今回のイラク戦争でも、イラク兵と米軍の車がすれ違う場面が出てきますが、米兵は朝日の記者に「弾は当たらんもんだよなあ」とか「実に当たらん」と言い、イラク側も当てずにそのまま過ぎていくんですね。恐らく、高橋先生が引用された靖国神社を肯定している遺族の方の夫も、フィリピン戦線の一九四五年六月といえば、敵兵を一人も殺していないでしょう。
 この靖国神社肯定の遺族は、犯罪や天災の被害者の心理と一緒です。一つは、忘れられたくないという感情です。靖国神社がなくなったら全く忘れられるんじゃないかという恐れがあるのです。これは理不尽に家族を失った人の反応の一つです。もう一つは、理不尽さの意味付けです。たとえば、ある事故で誰かが亡くなって、それによって事故を起こした箇所が改善されるとします。そうするとそれは「無駄な死じゃなかった」となります。そういう意味付けを、人間はどうしてもしてしまいます。そして、「忘れたい」と「忘れられたくない」とのせめぎ合いが心のなかで起こって、結局はそれが浄化の過程になると私は思います。
 私は、戦時下の小学生として靖国神社の春と秋の大祭のラジオ中継放送を聞いております。それは本当に悲痛なものと感じました。アナウンサーも全然勇ましいことは言いません。ただ、肯定している遺族も本当はそれで満足しているわけではないと思います。その現場にどんな僻地であろうと繰り返し行ったり、戦死の真相を徹底的に調べようとする。これは、犯罪の被害者が心理の徹底的な究明を要求し、少年の事案ですと多額の費用を支払って民事訴訟を起こしてまで鑑定書を読もうとする――それが立ち直りの一助になるんですけれども――それと同じだと思います。
 吉田満の『戦艦大和ノ最後』(講談社)という本を読まれた方があると思いますけれども、最後に大和で出撃する学徒兵たちのあいだに、「何のために死ぬんだ」という激論が起こります。「新生日本のために死ぬ」、これでみんな一致するんですね。その新生日本に彼らはいない。だけど、そういう意味付けなしに人間は生きていけないし、死ねないんです。ただ、この見解を述べた臼淵大尉という学徒兵は敗戦を見通していて、それを踏まえての「新生日本」であったろうと私は思います。靖国神社問題というのは感情の問題であるということをいみじくも高橋先生は言われた。靖国の感情というのは、福沢諭吉以来、人間のこころに添うものとしてつくられていったんでしょうね。
 ところで、現在言われている戦争のPTSDは、私が知っている限りでは、二回の世界大戦がモデルで、これは正規軍対正規軍の戦争です。通常、正規軍同士の戦闘は意外に短期間に終わります。実際に戦闘を行う前線と違って、大部分は後方として安心していられるんです。しかし、こうした「対称戦争」は恐らく今後起こらないと思います。
 一方、「非対称戦争」と呼ばれるものは、ゲリラ戦、人命を顧みない武装勢力との戦いですが、これはどの方向から、いつ、どういう形で攻撃が来るかわからない。前線も後方もないんです。これがどういう心理的打撃を与えるかは想像できますけれども、私はレポートを読んでおりません。非対称戦争には残虐行為はつきもので、ほとんど生理的なレベルで発生します。なぜなら、攻撃者と一般市民との区別が付かないからです。先制攻撃をやらなければ自分がやられる。やられる前にやるというロジックがある限りは、残虐行為は起こります。
 さらに、内戦というのはほとんどの時代にある。毎日新聞で連載されている『哀歌』という曾野綾子の小説がもう終わりに近づいていますけれど、あれはルワンダの内戦の物語です。フツ族ツチ族が戦っていますが、この二つの部族は言葉も一緒で、我々には全く区別が付きません。内戦はほんとうに悲惨です。どちらも相手を加害者と考えているからです。私は、朝鮮戦争の内戦で日本に亡命してきた方から聞いたことがありまして、「外国との戦争はどれだけいい(ましな)ことか。顔が同じ、昨日までは友達でも、思想が変わっていて殺されるかもしれない。殺される前にやれということになってしまう。内戦というのはとっても大変なんですよ」と語っていました。
 加藤先生と白川先生のお仕事については、私の次の世代あるいは次の次の世代がこういうふうに一生懸命やってこられることに敬意を表する、それに尽きます。私はもうこの年からやるわけにはいきません。多分、一つの世代が一つの課題を片づけていく、それでいいのでしょう。十分果たしたとは思いませんけれども、私は古希を過ぎました。それでは…。
横山:ありがとうございました。港道先生と中井先生から、シンポジストの先生方に問いかけがありました。お二人のご発言に対しての、シンポジストの先生方からのお答えを いただいていきます。
白川:私は個人のトラウマを診ている者ではありますが、港道先生、中井久夫先生のお話を聞かせていただいていて、やはり共同体の問題とか国家の問題というのにも、とても心をひかれると感じました。港道先生のおっしゃった加害者側の問題であるとか「共同体は医者にかかれない」というのには本当にうなずいてしまいました。
 それから私自身も、森先生のおっしゃった攻撃者との同一化とかトラウマの再演問題を考えるなかで、加害者の問題は取り組まないといけない重要な問題だと感じています。たとえば性虐待一つとっても、私の診ていた数だけ被害者がいて、その加害者は一説によると生涯のうちに数一〇人から一〇〇人の被害者を出すといわれています。そして被害者は再被害をうけたり、加害をしたり、性的な行動化をしたりしてそれらの再演の中で育った子どもがまた一〇代のうちに子どもを産んで、またその家庭が崩壊していくということを目の当たりにしています。それはとても怖いことです。
 この間、横浜でDV・児童虐待関係のシンポジウムがありまして、そこに二人の男性が見えました。アメリカのジルバーマン博士(Jay G. Silverman)という公衆衛生の専門家と、バンクロフト(Lundy Bancroft)さんという児童虐待調査官で、加害者のカウンセリング、加害者対策をしている方たちです。アメリカでDV・児童虐待問題が公衆衛生学的な問題としてとらえられ始めたのは七〇年代からだそうです。八〇年代からしっかりと取り組み始められて、加害者のためのプログラムもいろいろ行なわれています。
 私がお二人に伺ったのは、「三〇年加害者対策をやって、DVは減ったか」ということです。たとえば、天然痘は撲滅されました。エイズも減っています。それと同じように、この虐待の連鎖――私は怒りと憎しみだといつも言っています――が減ったのか。彼らから、非常に興味深い答えが返ってきました。DVそのものは、地域的に非常に強力なプログラムをやったところでは減っているというんですね。けれども全体的には減っていない。特に家庭の中の殺人の数は全く同じなんです。彼らの考えでは、再演を止めるためには(略)