『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

梶村秀樹先生の執筆物の引用と検討メモ(この記事の日付はよくかわります)

以下の作業も継続中。
『戦争と平和』『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』『死の家の記録』『賭博者』『貧しき人々』『分身』『スチェパンチコヴォ村とその住人』(ドストエフスキー作、米川正夫訳)の電子テキスト化をすすめます。第二次作業の期間は最低40日間です。(2024年2月11日までこの記事はこのブログのトップにあります) - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]


竹内好」という単語がふくまれる論文
竹内好氏の「アジア主義の展望」の一解釈」「排外主義克服のための朝鮮史(第一章)」「朝鮮からみた現代東アジア」「第1巻解説 梶村秀樹著作集」「朝鮮近代史の若干の問題」「現在の「日本ナショナリズム」論について」「「日本人の朝鮮観」の成立根拠について――「アジア主義」再評価論批判」「亜州和親会をめぐってーー明治における在日アジア人の周辺」「朝鮮からみた明治維新
梶村秀樹先生と竹内好氏との関係はどうしても徹底的に調べておかない「内在的発展」の描き方の核心部分がわからなくなると判断した。今考えても、わたしの判断は大英断だったといえる。


以下、参考
梶村先生の執筆物の検討

金嬉老への判決を支えた日本社会   [1972年]
 単に威勢よく拳をふりあげれば良いというほど、この「社会的世論」なるものが一筋縄でいかない錯雑・屈折した構造を持っていることは、いやというほど痛感させられてきた。また、一般的・抽象的に日本人の差別意識の変革を呼びかけることだけでは足りないことも、良く分かった。そういう一般論は、無理解のもとで金嬉老個人に向けられる毒舌の一言で、しばしば簡単に吹き消されてしまう。われわれが当初からそう考えてきたように、金嬉老の運命のかけられている法廷闘争の場と全くかけ離れた形で、空論にふけることはもちろんできない。

この「社会的世論」なるものが一筋縄でいかない錯雑・屈折した構造を持っていることは、いやというほど痛感させられてきた。

〇植民地と日本人   [1974年]
 しかも、それほど普遍的な植民地体験が、「邪悪なる国家権力と善良なる庶民」という体裁のよい図式だけでわりきることを許さない屈折・錯雑した深層意識を形づくらせたことが、いっそう重要である。なにかに傷ついた心がそれだけ強烈に希求する権威への帰属意識、そこから出てくる利己的・独善的な国家意識とアジア認識。このパターンが、確かに今でも生き続け、受け継がれていることを感じる。

屈折・錯雑した深層意識


〇論文「朝鮮統一は在日朝鮮人問題を解決するか」に対する私の意見   [1978年]

事実としての定住という言葉で私が何をいおうとしたかは一七六号五五~五六頁にかなり具体的な議論をしているので、重複はさけたい。最近、韓国への母国留学体験を契機として、在日朝鮮人大衆とともに生きることを決意して戻る人が少数だが出ている。それは意識的定住といえるケースであろう。総連の活動家の中にも、別の意味で、やはり少数、意識的定住といえるケースがある。しかし、日々の生活に追われている多くの下づみの人々ほど、意識的な選択の契機さえ持てぬまま、最も日本社会にまきこまれた生活を余儀なくされ、生活のために帰化をさえ望まざるをえない所に追いこまれ、しかもそれすら拒否されるという状況におかれている。サルトル哲学流にいえば、そういう人々も実は、本人も気づいてはいないかもしれないが日々自由に選択しており、その結果として意識的に定住しているのだといえなくもなかろう。しかし、そういう人々に「あなた方は実は意識的に定住しているのだ」ときめつけることから何かが生れるとは思わない。

サルトル」が登場するのは、著作集全6巻で1カ所だけ。アルベール・メンミのほうが何度も登場する。

 まず、最も重要なこととして、在日朝鮮人の実存を徹底的に理解しぬこうとする姿勢。現実が多様で動いている以上、これはどこまでいってもきりがない課題であって、何でも分ってしまったように思い上った瞬間、一旦成立した自立した関係も、たちまちくずれ去ってしまう。この点は、理解の深さが、関係の深さを規定するというほど重要であると思う。これなしには、見当ちがいのことを「いわねばならない」と思いこんでしまう。
 次に、おのれを凝視し続ける執拗さ。関係を持続させていくなかで、たえず自分が何者であるかをみつめつづける態度。
 次に、自然さ。まず、「頭が上らない」と一面的に自己規定し、次にそれではいけないと思うと相手のだめなことばかりをいいつのればいいと思い定めるような、どこまでいっても、あらわれ方はちがうが棒を呑んだようにぎこちない、観念的で一方的な関係設定の姿勢を克服しなければならない。よく人のいう「複眼でみる」とか「柔軟な思考」とかいうのも同じことかもしれない。
 次に、往々にして一世の朝鮮人が造作なく到達しているような、ある本質的な意味でのやさしさ、暖かさ。うまく表現できないが、本誌一六八号で和田春樹氏がいおうとしたことも、同じことかもしれない。
 まだまだいろいろあると思うが、とてもまだ考えきれることではないので、今後の課題としなければならない。もちろん、われわれの内にも外にも、以上のことに反する数多くのありようがあり、それらと一々闘うこともわれわれの課題である。

 付言すれば、五氏が私に具体的に詳論せよとせまったことのうち、私が全然言及していないことも幾つかある。それは、考えていないからでも、いう勇気がないからでもなく、あえていうまいと決意しているからである。もちろん、そんな決意はばかげていると思うのは、とる人の自由にまかせざるをえない。近ごろよく無限定、感傷的、そして時に自己欺瞞的に使われる「実感」とか「ホンネ」とかの言葉の使い方を、私は好きではない。「ホンネで生きる」ということは、それ自体立派なことでもない最低限の要求であり、ホンネを自ら凝視し、深化していく努力をぬきにして、何でも「ホンネ」でありさえすればいいというものではあるまい。
 状況が困難であればあるほど、豊かな可能性を夢みることができるような人間でありたい。

ここは、あえて省略せずに引用した。
実は、国立国会図書館でこの論文を閲覧できる。
朝鮮研究 (185) - 国立国会図書館デジタルコレクション




〇義烈団と金元鳳   [1980年](1982年)

「朝鮮革命宣言」

 だが、急激なイデオロギー分化のなかでは、そうした姿勢をうらづけるためにも最低限の理論構築が要求された。その要求に応えるべく書かれたのが、金元鳳の要請をうけて北京で申采浩が執筆したといわれる有名な「朝鮮革命宣言」(一九二三)なのである。(略)

民衆はわが革命の大本営である
暴力はわが革命の唯一の武器である
我々は民衆のなかに行き民衆と手を携え
絶えざる暴力――暗殺、破壊、暴動を以て強盗日本の統治を打倒し
わが生活の不合理な一切の制度を改造し
人類が人類を圧迫することを許さず
社会が社会を搾取することを許さぬ
理想的朝鮮を建設するのだ。

 以上のような内容をもつ「朝鮮革命宣言」には特徴的な点が二つある。その第一は、いわば「民衆の発見」ということである。(略)
 第二に、考え方としては、マルクス主義アナキズムとかさなる部分を大いに持ちながらも、それぞれに独特なキーワードのいずれをも、みごとなほど使っていないことである。(略)
 以上二点ともが、義烈団・金元鳳が、やがて二〇年代後半に、厳密な意味での民族協同戦線派に展開していく道筋を暗示しているともいえるのである。

「第二に、考え方としては、マルクス主義アナキズムとかさなる部分を大いに持ちながらも、それぞれに独特なキーワードのいずれをも、みごとなほど使っていないことである。」


〇論説 旧韓末北関地域経済と内外交易 [1989年]
論文内には、「内在」という単語は1回も使われていない



https://s3731127306973.hatenablog.com/entry/2049/12/31/000000

梶村秀樹先生の仕事を引用している人一覧(敬称略)

姜徳相
「一国史を超えて : 関東大震災における朝鮮人虐殺研究の50年」「」
晩年のインタビューに梶村先生が登場
姜徳相 | CiNii Research all 検索
・宮田節子
「私が朝鮮に向かいはじめたころ(東洋文化講座・シリーズ「アジアの未知への挑戦 : 人・モノ・イメージをめぐって」講演録)」

・山田昭次
たぶんどこかで引用していたはず

徐京植
『分断を生きる―「在日」を超えて』『半難民の位置から―戦後責任論争と在日朝鮮人』のどちらか
・山本興正
「戦後朝鮮史研究における「60年代の問題意識」の一断面 : 「民族」と「日本人の責任」をめぐる梶村秀樹と旗田巍の思想的交錯」『戦後思想の再審判―丸山眞男から柄谷行人まで』
『排外主義克服のための朝鮮史』(解説)
・中野敏男
朝鮮史研究者以外で、中野氏は一番よく読んでいる。梶村秀樹先生の死後の弟子といっていいぐらいよく読んでいる
『〈戦後〉の誕生―戦後日本と「朝鮮」の境界』『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』「「日本の戦後思想」を読み直す(7)「方法としてのアジア」という陥穽--アジア主義をめぐる竹内好梶村秀樹の交錯」「「日本の戦後思想」を読み直す(第8回)植民地主義批判と朝鮮というトポス--アジア主義をめぐる竹内好梶村秀樹の交錯(その2)」
・板垣竜太
『日本植民地研究の回顧と展望:朝鮮史を中心に 板垣竜太,戸邉秀明,水谷智 校正前』
・加藤圭木
「1920~30年代朝鮮における地域社会の変容と有力者・社会運動 ─咸鏡北道雄基を対象として─」
・車承棋
・洪宗郁
・姜元鳳
・林雄介
・戸邉秀明
・水谷智
吉野誠
梶村秀樹朝鮮史研究 -内在的発展論をめぐって-」
・金泰相
・中村平八
・姜萬吉
・吉見義明
『草の根のファシズム : 日本民衆の戦争体験』のどこか
・石田米子
「月報」に寄稿、『黄土の村の性暴力』という記念碑的労作が生まれた背景には、梶村秀樹先生の存在があったのではと真剣に考えている。
調査中
並木真人
中塚明
山辺健太郎
遠山茂樹
井上清
芝原拓自
竹内好武田泰淳丸山眞男加藤周一中野重治大西巨人
林達夫花田清輝、、、吉本隆明
和田春樹
村松武治、小林勝、上野英信森崎和江
大門正克、吉沢南
旗田巍
澤地久枝
幼方直吉、
林えいだい
岡まさはる
米津篤八
宋連玉
金富子


引用していないと思われる人
鹿野政直
山田昭次氏の著作は引用していた。
鈴木裕子
いちはやく「慰安婦」問題に接近した
安丸良夫
色川大吉

司馬遼太郎、黛
中井久夫安克昌(あん・かつまさ)
津田左右吉家永三郎
浅田彰


アミン
「韓国の社会科学はいま」「六〇~七〇年代NICs現象再検討のために   ――主に韓国の事例から――」「“やぶにらみ”の周辺文明論」「「日帝」との対峙は過去のものであるか?」「旧植民地社会構成体論」「歴史の発展は幻想だろうか(聞き手 菅孝行)」

フランク
「韓国の社会科学はいま」「旧植民地社会構成体論」

サルトル
「論文「朝鮮統一は在日朝鮮人問題を解決するか」に対する私の意見」「歴史の発展は幻想だろうか(聞き手 菅孝行)」「」

内在的発展
「朝鮮近代史研究における内在的発展の視角」「「一筋の赤い糸」としての内在的発展」「『常緑樹』(解説)」「『朝鮮史の枠組と思想』あとがき」「排外主義克服のための朝鮮史」「六〇~七〇年代NICs現象再検討のために   ――主に韓国の事例から――」「第5巻解説 梶村秀樹著作集」「申采浩の朝鮮古代史像」「第4巻解題 梶村秀樹著作集」「『東学史』によせて」「第2巻解説 梶村秀樹著作集」「第2巻解題 梶村秀樹著作集」「東アジア地域における帝国主義体制への移行」「朝鮮からみた日露戦争」「朝鮮からみた現代東アジア」「朝鮮思想史における「中国」との葛藤」「朝鮮社会における移行法則」「朝鮮史研究の方法をめぐって」「日本における朝鮮研究」「朝鮮近代思想史の課題」「“やぶにらみ”の周辺文明論」「朝鮮近代史研究の当面の状況」「朝鮮近代史の若干の問題」「朝鮮近代史と金玉均の評価」「私にとっての朝鮮史 『朝鮮史 その発展』序章」「一九一〇年代朝鮮の経済循環と小農経営」「旧植民地社会構成体論」「日本帝国主義支配下の朝鮮ブルジョアジーの対応」「「民族資本」と「隷属資本」 ――植民地体制下の朝鮮ブルジョアジーの政治経済的性格解明のためのカテゴリーの再検討」「書評 『日本帝国主義と旧植民地地主制 ――台湾・朝鮮・満州における日本人大土地所有の史的分析』」「書評 『朝鮮社会経済史研究』書評」「書評 『韓国経済史』書評」「朝鮮史をみる視点」


投企
定住外国人としての在日朝鮮人」「論文「朝鮮統一は在日朝鮮人問題を解決するか」に対する私の意見」

梶村秀樹先生を知るための30章、または50章

石田米子、竹内好、(花田清輝なし)、姜徳相、内在的発展論、経済史、民衆思想史(色川、安丸、鹿野)、言語論翻訳論、植民者論、家族関係(とくに父)、華青闘、日韓条約、昆虫採集、実証主義、史料とはなにか論、最後の論文、申采浩、夏目漱石魯迅、民族責任論、国境をまたぐ生活圏、金嬉老サルトル、メンミ、咸錫憲、朴正煕、西岡の転向と2つの論文、文学観(国民文学論争にふれないといけないかもしれない)、日本帝国主義論、


網野善彦メモ
「時国」での検索結果(メモ CiNiiで「時国」で検索したら、「戦時国家」というキーワードが入った論文がたくさん出た)

〇『蒙古襲来』
項目「幕府とその周辺」「四方発遣人」「時宗の死」

〇『日本の歴史をよみなおす(全)』
項目「日本人の識字率」「太良荘の女性たち」、「百姓は農民か」「奥能登の時国家」「廻船を営む百姓と頭振(水呑)」「村とされた都市」「襖下張り文書の世界」、「飢饉はなぜおきたのか」「海上交通への領主の関心」
(「水田に賦課された租税」には「時国」なし)

〇『歴史の中で語られてこなかったこと』(宮田登との対談)
項目「隠然たる力を発揮する隠居たち」「誤解されている二男、三男のあり方」「稲作地帯は近世の現象」「百姓と農民は違う」「日本像の書き替え」「崩れつつある日本史の常識」

〇『米・百姓・天皇』(石田進との対談)
項目「3 主食は米か」「6 東と西のちがい」「7 女性の力の再評価」

〇『対談 中世の再発見』(阿部謹也との対談)
「時国」なし

〇『増補 無縁・公界・楽』
「時国」なし

〇『日本中世の民衆像 平民と職人』
「時国」なし

〇『海民と日本社会』
「百姓は農民、「村《むら》」は農民という誤解」「誤解の根深さ」「日本列島の社会と海民の諸活動」「注記」、「非農業分野への視点」、「はじめに――時国家の調査について」「能登の豊かさ――「頭振」の実像」「能登の「百姓」の生業」「中世能登の都市」「むすび――残された課題」、「はじめに」「能登半島の特質」「奥能登・時国家の調査から」

〇『中世再考 列島の地域と社会』
「中世民衆生活の様相」の「結び」「注」、「地名と名字」「民具学と農業史 宮本常一氏と日本常民文化研究所

〇『日本列島再考――海からみた列島文化』


川崎という歴史家


梶村秀樹著作集1:朝鮮史と日本人

第1章 朝鮮史の意味
013 排外主義克服のための朝鮮史(はじめに/なぜ朝鮮史を学ぶのか/朝鮮侵略の理論と思想/戦後民主主義のもとでの朝鮮観/朝鮮史の内在的発展/若干の補足と論争の深化のために)
078 朝鮮語で語られる世界
089 私にとっての朝鮮史――『朝鮮史――その発展』序(朝鮮民衆の内在的発展/朝鮮史の意味/本書の限定条件)
第2章 日本のナショナリズム
097 竹内好氏の「アジア主義の展望」の一解釈
104 「日本人の朝鮮観」の成立根拠について――「アジア主義」再評価論批判
123 自由民権運動と朝鮮ナショナリズム(朝鮮への接近/士族民権派豪農民権派/貧農民権派
136 朝鮮からみた明治維新(私のジレンマ/侵略の歴史と連帯の歴史?/「民衆」の未発の契機/からめとられた中で)
151 朝鮮を通してみた天皇制の思想――さめた思想(はじめに/皇民科教育の詐術/天皇はえらい、えらいは人間、人間はわたし/民族差別の根源と天皇制思想)
165 亜洲和親会をめぐって――明治における在日アジア人の周辺(だれが主導したのか?/清国留学生の状況/亜洲和親会の約章と活動/亜洲和親会に参加した各国人/朝鮮人民族主義者の不参加問題/亜洲和親会その後)
第3章 在朝日本人
193 植民地と日本人(在朝日本人史の欠落/一旗組の生きざま/国家権力との癒着/植民地化の時代)
217 植民地朝鮮での日本人(三・一運動下の日本人/在朝日本人の存在形態/在朝日本人の意識と行動)
244 植民地支配者の朝鮮観(自己合理化の感情/煙に巻く「教化」の論理/戦後の継承と変形)
256 「旧朝鮮統治」はなんだったのか(何の差別もなく?/事実の誤り/近代化に心血を注いだ?/植民地支配肯定論の継承/植民地支配をごまかすな!)
第4章 日本人と朝鮮
271 在日朝鮮人・韓国人差別の淵源――皇民化の問題を中心に
297 差別の思想を生み出すことば
308 サハリン朝鮮人の特集にあたって
315 竹島=独島問題と日本国家(はじめに/日本国民の「竹島」認識/韓国・朝鮮側の基本姿勢/日韓両政府間の論争文献/竹島=独島の自然条件/竹島=独島の地理的位置/竹島=独島の歴史的名称/竹島=独島の認知/一七世紀の実効的経営?/竹島=独島の帰属についての意識/帝国主義的な一九〇五年の日本編入/戦後の竹島=独島/日韓条約竹島=独島/国際法とは何か?/最近の事態/おわりに)
358 「日帝」との対峙は過去のものであるか
371 歴史的視点からみた日韓関係――日本側発題(日本人の歴史認識/教育の軍国主義化/教科書検定の内実/侵略の合理化/私たちの課題/歴史家の責任/日韓の相互交流)
381 歴史をねじまげてはいけない――「日韓合邦」の真相(応急まで制圧下/抵抗試みた高宗/侵略を直視せよ)
385 近代史における朝鮮と日本

397 「朝鮮史と日本人」解説 新納豊
409 解題 初出誌その他 新納豊

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梶村秀樹著作集2:朝鮮史の方法

第1章 内在的発展の視角
013 李朝後半期朝鮮の社会経済構成に関する最近の研究をめぐって(はじめに/(一)通年の形成/(二)北朝鮮歴史家の問題提起/(三)内在的批判)
036 朝鮮近代史の若干の問題((一)朝鮮近代史の時代区分/(二)大院君の政治的性格のついて/(三)「日本の朝鮮侵略」の質の問題/(四)日帝時代の朝鮮人ブルジョアジーについて/(五)侵略のイデオロギーとしての「朝鮮援助」論について)
060 朝鮮近代史と金玉均の評価
080 朝鮮近代史研究の当面の状況
086 日本における朝鮮研究
108 朝鮮史研究の方法をめぐって(はじめに/(一)第一段階――知らないから知る/先学たち/侵略史の勉強/「善意の悪政」論との出会い/第二段階――内在的発展の歴史/日朝比較論/第三段階)
126 朝鮮社会における移行法則
148 朝鮮近代思想史の課題
160 “やぶにらみ”の周辺文明論
164  朝鮮近代史研究における内在的発展の視角)
第2章 朝鮮史と東アジア
181 朝鮮思想史における「中国」との葛藤((一)はじめに/(二)「事大主義」の条件と特徴/(三)新羅以前の朝・中関係/(四)高麗時代の事大主義と民族主義/(五)李朝の成立と事大主義の定着/(六)小中華論の完成から否定へ/(七)近代以後の事大主義)
208 朝鮮からみた現代東アジア((一)東アジアとプロレタリア国際主義の理念/(二)朝鮮革命と国際条件/(三)社会主義国際関係のイメージ/(四)日本の問題状況)
241 朝鮮からみた日露戦争(はじめに/(一)朝鮮中立化構想をめぐって/(二)開戦前の朝鮮の世論/おわりに)
275 東アジア地域における帝国主義体制への移行((一)世界資本主義の編入過程における東アジアでの国際的両極分解/(二)遠山氏の東アジア地域史論をめぐって/(三)更新資本主義発展の世界史的条件/(四)東アジア地域史像の再検討/(五)補論)
第3章 意味としての歴史
305 日本帝国主義の問題(はじめに/(一)日帝像の原型――近代民族運動のなかでの日本像/(二)マルクス主義者の自国史認識と日本帝国主義像/(三)南朝鮮と日本での「日帝」)
336 申采浩の朝鮮古代史像(はじめに/(一)運動経歴と思想の展開/(二)啓蒙運動器の歴史観/(三)一九二〇年代の古代史研究/(四)『朝鮮上古史』の朝鮮古代史像/おわりに)
361 歴史と文学((一)意味としての歴史と事実としての歴史/(二)科学としての歴史の意味/(三)史料としての文学)

373 「朝鮮史の方法」解説 吉野誠((一)侵略史から内在的発展論へ/(二)一国史的把握と世界史的観点/(三)法則的把握と近代批判/(四)民衆像の探求/(五)朝鮮観の「先祖帰り」現象)
388 解題 初出誌その他 吉野誠

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梶村秀樹著作集3:近代朝鮮社会経済論

第1章 外圧への対応
011 李朝末期(開国後)の綿業の流通および生産構造――商品生産の自生的展開とその変容(問題設定/洋貨の流入と土布生産の発展過程/洋貨の土布市場奪取過程/原料輸出・製品購買の構造への転化過程/要約と展望)
135 近代朝鮮の商人資本等の外圧への諸対応――甲午以後(一八八四~一九〇四年)期の「商権」問題と生産過程(はじめに/商権の自主性の問題/生産過程での営為/まとめ)
第2章 植民地化前後の地域経済
157 旧韓末北関地域経済と内外交易(はじめに/北関地域と国内隔地間交易の進展/ウラジオストーク貿易と北関地域経済/「併合」後、ウラジオスト-ク交易の切断と日帝による地域経済再編)
188 一九一〇年代朝鮮の経済循環と小農経営(問題状況/一九一〇年代前半の生産・流通・消費/農家経済調査データの分析/おわりに)
第3章 植民地社会論
237 旧植民地社会構成体論(問題設定/既存の旧植民地社会構成体論/植民地半封建社会構成体論の一般的前提/国際分業の諸段階と植民地半封建社会構成体の歴史的位置)
265 日本帝国主義支配下の朝鮮ブルジョアジーの対応――平壌メリヤス工業を中心に(問題視覚/平壌メリヤス工業の位置づけ/草創期/小経営史/企業化ブーム/自動化と恐慌/「満州進出」問題と総合メリヤス工業化への展開/戦時経済と資本の「同化」/要約にかえて)
328 「民族資本」と「隷属資本」――植民地体制化の朝鮮ブルジョアジーの政治経済的性格解明のためのカテゴリーの再検討(狭義の「民族資本」概念の成立過程/朝鮮における「民族資本」認識/経済的側面からみた「民族資本」)
354 一九二〇~三〇年代朝鮮農民渡日の背景――蔚山群達里の事例(はじめに/蔚山達里村落の概況/渡日者とその他の流出人口/流出人口の出身階層別/途日者の学歴と人口流出の影響/おわりに)
第4章 内在的発展の展望
375 「一筋の赤い糸」としての内在的発展 
383 「民族経済」をめぐって

387 「近代朝鮮社会経済論」解説 李洪洛
400 解題――初出誌その他 李洪洛

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梶村秀樹著作集4:朝鮮近代の民衆運動

総論 朝鮮民族解放闘争と国際主義
013 朝鮮民族解放闘争史と国際共産主義運動(序章 朝鮮史の主人公としての朝鮮人民/第一章 朝鮮革命運動の前史/第二章 朝鮮民族解放運動の国際的試練/第三章 在日朝鮮人運動と日本人民と日本人民の堕落/第四章 金日成抗日パルチザン闘争と八・一五への若干の諸問題)

第1章 三・一運動
089 『東学史』によせて
101 三・一運動を考える
106 民族主義社会主義のはざま――朴慶植『朝鮮三・一独立運動』によせて
117 大韓民国臨時政府をめぐって(一 民族主義者たちの情勢判断と運動方針/二 三つの政府とその統合/三 民族主義者の理想国家像/四 改造か創造か?)
第2章 国外における解放闘争
135 義烈団と金元鳳(テロリズムと共同戦線/金元凰のおいたち/設立当初の義烈団/三・一後の民衆意識/実力抗争の論理/「朝鮮革命宣言」/テロリズムの時期/中国革命のなかへ/安光泉との出会い/共同戦線の論理/民族革命党の結成/金九との合作/革命後の金元鳳/おわりに)
171 1930年代満州における抗日闘争にたいする日本帝国主義の諸策動――「在満朝鮮人問題」と関連して(一 「在満朝鮮人民問題」/二 共産主義者の指導する抗日武装闘争の展開(一九三〇年代前半)/三 集団部落設定(匪賊分離)と民生団・協助団の策動(民族離間工作)/四 「華北安全農村」について/おわりに)
212 『アリランの歌』〈解説〉
223 一九四〇年代中国での抗日闘争(日中戦争以前の民族運動/在中朝鮮人大衆の情況/朝鮮義勇隊韓国光復軍華北朝鮮義勇軍/おわりに)
235 解放前の在日朝鮮人運動史――在日朝鮮人労総結成~全協への解消を中心として(はじめに/ 一 路線転換前の運動/二 路線転換をめぐる諸過程/三 全協指導下の在日朝鮮人運動/四 全面戦争下の個別抗争)
第3章 ブルジョア民族主義から民衆的民族主義
281 朝鮮共産党――断章
292 新幹会研究のためのノート(はじめに/一 新幹会の活動/三 新幹会解消問題/結びにかえて)
321 甲山火田民事件(一九二九年)について(はじめに/一 朴達『曙光』に記された甲山火田民事件/二 ソウルから見た事件の経過/三 若干の考察――結びにかえて)
350 『常緑樹』〈解説〉
357 一九二〇~三〇年代の民衆運動(二〇~三〇年代は空白ではない/二〇年代民主運動者の精神史の軌跡/民衆的民族主義のヴィジョン/おわりに)

369 「朝鮮近代の民衆運動」解説 劉孝鐘
387 解題――初出誌その他 劉孝鐘

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梶村秀樹著作集5:現代朝鮮への視座

第1章 8・15以後の朝鮮人
013 八・一五以後の朝鮮人民(序 朝鮮現代史研究の実践的視点/一 戦後世界分割と朝鮮人民の苦闘/二 朝鮮南北分断の軍事的固定化/三 統一への苦難の時代/四 革命と統一への新たな画期)
第2章 日韓関係を考える
105 日韓条約のゆくえを追跡します
108 対韓経済進出の具体的状況(一 はじめに/二 国家資本の投下/三 民間資本の進出/四 貿易関係/五 人の往来と外交とりきめ/六 おわりに)
119 日刊体制の再検討のために(一 歴史的パースペクティブ/二 南朝鮮の高成長経済/三 従属資本主義発展の諸要因/四 日本資本主義の「戦略」/五 従属の問題/六 ゆがみの問題――結論にかえて)
第3章 韓国経済の展開
135 一九六〇年代初頭の南朝鮮の支配構造といわゆる隷属資本(第一節 問題設定/第二節 地主階級の没落/第三節 アメリカ帝国主義南朝鮮支配政策と「隷属政策」の育成/第四節 一九六〇年代初頭の独占財閥資本の状況/ 第五章 結びにかえて――独占財閥資本の志向と朴政権の「民族主義」)
157 韓国経済における政府の役割――一九六〇~七〇年代(はじめに/一 国家資本の比重/二 国家の経済介入/おわりに)
229 六〇~七〇年代NICs現象再検討のために――主に韓国の事例から(はじめに/一 NICs現象の世界史的規定条件/二 NICs現象と内在的諸要因/三 八〇年代NICs――不安定性の顕在化/四 若干の方法論的コメント)
第4章 韓国の民衆運動
259 歴史としての四・一九(四月革命ということば/自由と民主の理念/李承晩独裁下の批判勢力/大邱の二・二八デモ/馬山の事件/四・一八から四・一九/四・一九へ/四・一九当日のソウル/李承晩の下野/四月革命の歴史的位相)
278 ベトナム派兵の傷痕(一 はじめに/二 派兵の経緯/三 派兵の名分/五 韓国軍の戦い様/五 兵士の苦悶/六 血であがなわれたドル/七 結びに――日本の罪)
318 韓国の労働運動と日本(労働者の手記を読んで/韓国労働運動の現段階/生存権闘争と基層労働者/日本独占資本の韓国侵略/安い韓国製品は何を語るか?/日本人としての立脚点)
329 語りはじめた労働者たち(闘いの糧としての手記/蓄積される闘いのエネルギー)
339 韓国現代史における「南民戦」(はじめに/「南民戦」の目ざしたもの/「自生的社会主義」/現代史の中の「南民戦」)
350 韓国の農村で(本当にハゲ山か?/渦巻の目、ソウル/自負と悪戦苦闘/日本経済の後追いか?)
第5章 北朝鮮への視点
357 北朝鮮における能動協同化運動(一九五三~五八年)についての一考察(はじめに/一 農業協同化運動の経過の概観/二 個別組合の事例/三 若干の問題点の検討/おわりに)
406 朝鮮北半部からみた現代日本(朝鮮からみた現代日本/「日本軍国主義」とは何か?/「日本帝国主義」について/米帝日帝との関係/侵略の戦略論/日本の国内体制論/七二年以降の情勢について)

427 「現代朝鮮への視座」解説 水野直樹
439 解題――初出誌その他 水野直樹

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梶村秀樹著作集6:在日朝鮮人

序 在日朝鮮人とは
013 定住外国人としての在日朝鮮人(はじめに/歴史的形成過程――国境をこえた農民層分解/国境をまたぐ生活圏/定住外国人指向の必然性/二者択一論批判/「帰国」か「帰化」か/民族への帰属意識/おわりに)
第1章 植民地下の在日朝鮮人
037 在日朝鮮人の渡来史
048 「同化主義の刻印」
065 八・一五以前の在日朝鮮人の歴史(1渡航の歴史/2日本での生活/3たたかいの歴史)
075 在日朝鮮人の生活史(一 朝鮮人労働者層/二 労働運動の昂揚から戦時体制への移行/三 むすび――戦後史の展望) 
108 海がほけた!――山口県長生炭坑遭難の記録(一 はじめに/二 ききがき/三 若干の蛇足)
127 戦時下の在日朝鮮人
第2章 解放後の在日朝鮮人
137 解放後の在日朝鮮人((一)解放直後の在日朝鮮人運動(一九四五・八~一九五〇)/(二)朝鮮戦争下の在日朝鮮人運動(一九五〇~一九五三)/(三)分断固定化時代の在日朝鮮人運動(一九五三~一九六五))
232 論文「在日朝鮮人の処遇政策確定過程にみられる若干の問題について」への内在的批判
242 なぜ朝鮮人が日本に住んでいるのか――指紋拒否者への脅迫状に答える
第3章 入管法・外登法と在日朝鮮人
253 在日朝鮮人にとっての国籍・戸籍・家旅(上)
267 在日朝鮮人にとっての国籍・戸籍・家旅(下)
287 外国人登録法と常時携帯義務制度(一 治安立法としての外国人登録法/外登証常時携帯制度の機能/三 外国人登録制度のねらいは朝鮮人/ 外国人登録制度の推移/ 日本人にとっての外登法問題)
302 在日用先人の指紋押捺拒否の歴史(指紋制度の前史/”協和会手帳”の再現/一九五二年の外登拒否闘争/二重登録はそんなにあったか?/共通した指紋制度への怒り/指紋押捺拒否事例)
318 朝鮮人に対する同化政策の歴史と現状(意見書/鑑定書要旨)
331 在に外国人管理の歴史と現在(在日外国人管理の思想/人権を保障されるのは「国民」だけ/強制退去条項はなぜなくならないのか/名ばかりの「永住」許可/生存権を脅かされる在日三世、四世/同化か、追放か/在日朝鮮人の闘いを支援する意義/制度的差別の解体に向けて/日本社会のオルタナティブとは)
第4章 在日朝鮮人と日本社会
351 金嬉老への判決を支えた日本社会(「健全なる常識」?/警察の「論理」/マスコミの役割/誰からの被害者か?)
365 金嬉老裁判の現在
374 私における呉林俊氏の肖像
381 論文「自立した関係をめざして」に対する私の意見
389 論文「朝鮮統一は在日朝鮮人問題を解決するか」に対する私の意見
405 定住外国人県民の生活とニーズ――「県内在住外国人実態調査」を終えて(はじめに/定住外国人と民族差別/「見えない外国人」/当事者の実存的真実/職業構成と民族教育へのニーズ/おわりに――自治体と県民の責務)
412 「指紋」の闘いは終わっていない(”指紋”問題とは/人権としての”指紋”/国側が固執するわけ/民族差別としての指紋制度/欧米人拒否者の気持/「共に生きる」ために)

427 「在日朝鮮人論」解説 佐藤信行
439 解題――初出誌その他 佐藤信行

『戦争と平和』『ハックルベリー・フィンの冒険』の入力作業中、『戦争と平和』は一区切りつくまで最低でも6カ月以上かかる、『トム・ソーヤーの冒険』『死の家の記録』『賭博者』『貧しき人々』『分身』『スチェパンチコヴォ村とその住人』(ドストエフスキー作、米川正夫訳)の電子テキスト化はいちおう完了。(2024年4月2日付の記事)

死の家の記録 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
『賭博者』 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
『貧しき人々』 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
『分身』 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
『スチェパンチコヴォ村とその住人』 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

2024年3月1日から、最低0時間作業、10日で5時間ごとに報告。
(『トム・ソーヤーの冒険』、いちおう読書可能の状態する)
『トム=ソーヤーの冒険』 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
『戦争と平和』 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
ハックルベリー=フィンの冒険 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]



『カラマーゾフの兄弟』三回目の校正終了 カテゴリーの記事一覧 - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]
『アンナ・カレーニナ』 カテゴリーの記事一覧 - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]
『悪霊』 カテゴリーの記事一覧 - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]
ドストエフスキー短編 カテゴリーの記事一覧 - 京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会
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第一次作業の方針

〇原則全文字を約10ミリ(6倍、親指大の大きさ)にする。
〇通信障害は基本的に7日、いや4日以内に解消されていると仮定。
〇被災者とその関係者約10万人のなかで、約2人のおたがいをしらないだろう読者がいると仮定して作成。
〇厳密な校正にとらわれない予定。仮設建築物みたいになると予定。
〇インターネットのみにしかできない「支援物資」として試行錯誤する予定。

2024年1月10日朝、40分、192-232、校正

死の家の記録』作業時間、校正
■21ー■33 096-117
■34-■46 118-144
■47-■59 112-144 演劇の場面
■05-■17 049-096
山高帽子、ウチダヒャッケン
■20-■32 145-192
■33-■45 193-240,241-265
■45-■57 241-288
■01-■21ー■38 073-086ー096
■42-■00ー■33ー■57 097-110-131-144
■00ー■10 整理 
花火、ウチダヒャッケン 
■14-■34-■44ー■08 145-162-172-192
■23ー■54-■20ー■43-■55 233-249-266-274-280
■15-■22-■33-■40-■44 281-284-288-289-292
一応、校正完了、いちおう読むことができる
■10-■50 いちおうやすむ
2日間作業、なかなかつかれた。よくねることがひつようだ。

■22-■02、321-349、ざっと
■43-■03、350ー362
■28-■33、363-370

20240118
■00-■14、382まで
■23-?、383から394まで

賭博者(休憩を確保しながら)
■13-■26 ー402
■27-■38 ー410
■43-■55 ー420(約90分ぐらい)
■21-■41 ー330(以下、二回目)
■21-■04 ー355
■27-■56 ー370
■56-■15 ー379
■16-■39 ー391
■43-■56 ー397
■05-■23 ー403
■24-■41 ー409
■43-■01 ー430
■18-■25 ー424
■56-■16 ー433
■47-■08 ー440






死の家の記録
241-292
約55カ所、10分で訂正

20240124
最善の支援だとは思っていないが、金は6万円+1万円以上募金したし、せいふのしえんのおくれの情報をいろいろ確認して怒りを燃やしている。現地入りできない以上、「書籍」の支援ぐらいしか思いつかない。そもそもインターネット上でできる支援はほとんどない、というところからすたーとしないといけないとずっと考えている。

公開投票受付中プラス梶村秀樹先生の年表(工事中)

注釈メモ 「論説 旧韓末北関地域経済と内外交易」「朝鮮語で語られる世界」「竹内好氏の「アジア主義の展望」の一解釈」「朝鮮からみた明治維新」「歴史と文学 朝鮮の場合」「解放前の在日朝鮮人運動史」「解放後の在日朝鮮人運動」「定住外国人としての在日朝鮮人」「論文「自立した関係をめざして」に対する私の意見」「論文「朝鮮統一は在日朝鮮人問題を解決するか」に対する私の意見」など(梶村秀樹) - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
梶村秀樹先生の著作物・執筆物のうち、校正が完了したもののリスト(工事中) - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

梶村秀樹先生の重要著作物の復刊は、2023年01月時点で、まだ先。あと6カ月はかかりそうだ。
本屋か古本屋か古物商取引サイトで、とにかく著作を買って3回読んでほしい。まず5000円分買ってください。お願いします。
https://www.amazon.co.jp/
出版 – 神戸学生青年センター KOBE STUDENT YOUTH CENTER
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【楽天市場】梶村秀樹の通販
eBay Direct Shop - イーベイダイレクトショップ
Yahoo!オークション - 日本最大級のネットオークション・フリマアプリ
dl.ndl.go.jp

梶村秀樹先生の執筆物のランキング(「私」の選択)
1位 『朝鮮語で語られる世界』
2位 『排外主義克服のための朝鮮史
2位 『論説 旧韓末北関地域経済と内外交易』
2位 『定住外国人としての在日朝鮮人
2位 『朝鮮からみた明治維新
2位 『なぜ朝鮮人が日本に住んでいるのか』
3位 『排外主義克服のための朝鮮史
4位 『解放後の在日朝鮮人運動』
4位 『白凡金九』『東学史』『常緑樹』の翻訳
4位 『朝鮮における資本主義の形成と展開』
4位 『朝鮮史 その発展』
5位 『論文「自立した関係をめざして」に対する私の意見』『論文「朝鮮統一は在日朝鮮人問題を解決するか」に対する私の意見』
5位 車承棋氏の『梶村秀樹の「未発の契機」一植民地歴史叙述と近代批判-』で引用されている論文すべて――「“やぶにらみ”の周辺文明論」「朝鮮近代史の若干の問題」「日本帝国主義の問題」「現在の『日本ナショナリズム』論について」「朝鮮近代史研究における内在的発展の視角」
5位 『申采浩の朝鮮古代史像』『申采浩の啓蒙思想』『申采浩の歴史学
5位 『一九二〇~三〇年代朝鮮農民渡日の背景――蔚山群達里の事例』
5位 『歴史と文学 朝鮮の場合』
6位 『朝鮮史の枠組と思想』収録論文


かなりしぼって選んだ。2位の4本プラス1本は、梶村秀樹先生の視野の広さから考えて、どれもおとせない。最後につけくわえた『なぜ朝鮮人が日本に住んでいるのか』、これは短すぎるから(実はそれだけではないのだが)、あとにつけくわえた。『排外主義克服のための朝鮮史』は別格として(この「別格」という認識がいろいろ問題をひきよせているのだが)、翻訳の仕事、特にあの3冊は絶対にはずせない。




梶村秀樹先生を研究対象とした論文のランキング
1位 車承棋氏、『梶村秀樹の「未発の契機」 : 植民地歴史叙述と近代批判(論文)』
1位 中野敏男氏、『「日本の戦後思想」を読み直す(7)「方法としてのアジア」という陥穽--アジア主義をめぐる竹内好梶村秀樹の交錯』『「日本の戦後思想」を読み直す(第8回)植民地主義批判と朝鮮というトポス--アジア主義をめぐる竹内好梶村秀樹の交錯(その2)』(季刊前夜


「全体を見ろ!」という教え

1910年、竹内好、生まれる。
1935年、梶村秀樹先生、生まれる。
1964年、梶村秀樹先生、『竹内好氏の「アジア主義の展望」の一解釈』『「日本人の朝鮮観」の成立根拠について――「アジア主義」再評価論批判』、このとき、竹内好54歳、梶村秀樹29歳。重要さで上位5位に入る、きわめて重要な論文の1つ。
1965年、日韓条約、おおくの反対のなか締結されてしまう。
1965年、梶村秀樹先生、『現在の「日本ナショナリズム」論について』、竹内好批判。梶村先生の一生の仮想論敵だった。
1965年5月と7月、安丸良夫氏、『日本の近代化と民衆思想』上下(日本史研究 = Journal of Japanese history / 日本史研究会 編)を発表。
1968年、梶村秀樹先生ら、『シンポジウム日本における朝鮮研究の蓄積をいかに継承するか』、ここで部落差別発言が出る。
1969年、梶村秀樹先生、『私の反省〔本誌昨年12月号掲載・座談会「日本における朝鮮研究の蓄積をいかに継承するか」に関連して〕』
1969年、梶村秀樹先生、『申采浩の歴史学――近代朝鮮史学史論――』
1970年7月7日、華僑青年闘争委員会による、いわゆる「華青闘告発」。梶村秀樹先生の「排外主義克服のための朝鮮史」全三回の講義は、この告発に答えるものであった。
1970年11月、梶村秀樹先生、『東学史――朝鮮民衆運動の記録』(呉知泳)(平凡社東洋文庫)の翻訳
1971年、梶村秀樹先生、『排外主義克服のための朝鮮史』(第1章)。重要さで上位5位に入る、きわめて重要な論文の1つ。
1973年、梶村秀樹先生、『白凡逸志――金九自叙伝』(金九)(平凡社東洋文庫)の翻訳


1974年、梶村秀樹先生、『植民地と日本人』、植民者としての日本人批判
1974年、安丸良夫氏、『日本の近代化と民衆思想』(青木書店)。たぶん、梶村秀樹先生は1965年前後に「通俗道徳論」を読んでいる。
1975年、梶村秀樹先生、『朝鮮語で語られる世界』という講演をする。のちに活字化。重要さで上位5位に入る、きわめて重要な論文の1つ。
1977年1月、梶村秀樹先生、『朝鮮における資本主義の形成と展開』(龍渓書舎)
1977年10月、梶村秀樹先生、『朝鮮史――その発展』(講談社現代新書
1977年11月、安丸良夫氏、『「民衆思想史」の立場』(一橋論叢)を発表、CiNiiで閲覧可能。

1978年、梶村秀樹先生、『植民地朝鮮での日本人』、植民者としての日本人批判
1978年、梶村秀樹先生、『申采浩の朝鮮古代史像』発表。

1977年、竹内好、死去
1977年、梶村秀樹先生、『亜洲和親会をめぐって――明治における在日アジア人の周辺』
1977年、梶村秀樹先生、『申采浩の啓蒙思想』を発表。
1980年7月、梶村秀樹先生、『解放後の在日朝鮮人運動』(神戸青年学生センター)、現在でも購入可能。
1980年、梶村秀樹先生、『朝鮮からみた明治維新』、この論文を読むと、竹内好氏だけでなく、安丸良夫氏も仮想論敵だったのではないかと推測される。また、この論文から梶村先生の(おそらく父方)祖父が貧農~中農出身で出世競争に負けた(実態はもっと複雑)ことに挫折感をいだいていたこと、また梶村先生の父親が裁判官であり、いわゆる大正教養主義に傾倒していたこと、戦時中は鬱屈をかかえながら業務をしていたこと、そして梶村先生がそれにたいする反発から、あまり役に立たなそう(失礼だが梶村先生はそう考えていたようだ)だが広い世界を見せてくれるだろう学問の世界にはいったことが語られている。
1981年2月、梶村秀樹先生、『植民地支配者の朝鮮観』(『季刊 三千里』)、植民者としての日本人批判
1981年2月、梶村秀樹先生、『朝鮮現代史の手引』(勁草書房
1981年10月、梶村秀樹先生、現代語学塾常緑樹の会と共に『常緑樹』(沈熏)の翻訳。この翻訳作業はそうとうエネルギーをそそぎこんだものであることに注意。
1982年4月、『朝鮮史の枠組と思想』(研文出版)
1983年、梶村秀樹先生、『朝鮮を通してみた天皇制の思想――さめた思想』
1984年、梶村秀樹先生、『歴史と文学』を発表。
1985年、梶村秀樹先生、『定住外国人としての在日朝鮮人』。重要さと(多少下品な言い方だが)有用性では上位5位に入る、きわめて重要な論文の1つ。「国境をまたぐ生活圏」という単語が登場したのはこの論文。実は、「私」が著作集収録論文を調べた限りでは、「国境をまたぐ生活圏」という単語はこの論文だけである。
1986年1月18日、石母田正氏、死去。梶村秀樹先生は、石母田氏の幸徳秋水批判を一面的と批判。
1986年、梶村秀樹先生、『「旧朝鮮統治」は何だったのか』、植民者としての日本人批判、
「 『朝日新聞』大阪本社版に「語り合うページ」という欄があって、そこで昨年の六月から八月にかけて「旧朝鮮統治」の評価をめぐる読者間の大論争が展開されていた。同じ『朝日』をとっていても私ども東日本に住む者は論争の存在自体を知らずにいたということも、考えてみれば奇妙なことだが、編集部からコメントせよということで、その部分をまとめたコピーを読む機会を与えられた。」
1987年、吉見義明氏、『新しい世界史(7) 草の根のファシズム』(東京大学出版会)を発表。「第2節 民衆の序列」に、宮田節子氏、内海愛子氏、呉林俊《オリムシュン》氏らの著作を参考にした記述。ただし、梶村秀樹先生の著作の引用はなし。
1988年11月16日、エストニアソ連で初めて国家主権を宣言した
1988年、梶村秀樹先生、『<研究ノート>80 年代韓国の労働経済と労働政策 : 労働争議同時多発の背景』(神奈川大学、『経済貿易研究』)

1989年、梶村秀樹先生、『一九八七年の韓国情勢』『論説 旧韓末北関地域経済と内外交易』。『論説 旧韓末北関地域経済と内外交易』は重要さで上位5位に入る、きわめて重要な論文の1つ。CiNiiで閲覧可能。この論文は死の直前に書かれたものであり、長さと密度の点からみて、とてつもないエネルギーがこめられている。
1989年、梶村秀樹先生、死去。
1990年、並木真人氏、『戦後日本における朝鮮近代史研究の現段階--「内在的発展論」再考』(「歴史評論」、歴史科学協議会
1991年8月、ソ連共産党内の保守派と軍部のエリートがゴルバチョフ打倒のためのクーデターをおこす、だが失敗。1991年8月31日までに15の共和国が独立を宣言した。冷戦の崩壊
1991年9月、バルト三国の分離独立が認められる。
1991年、梶村秀樹著作集編集委員会、著作集第1巻の1番目に『排外主義克服のための朝鮮史』、2番目に『朝鮮語で語られる世界』を選択した。
※「私」コメント、この判断はきわめてすぐれている。とくに、2番目に『朝鮮語で語られる世界』を選択したことはきわめてすぐれている。ただし、このことをはっきりいっているのは、「私」が知っているかぎりでは車承棋氏と「私」ぐらいである。
1998年、牧原憲夫氏、『客分と国民のあいだ 近代民衆の政治意識』(吉川弘文館〈ニューヒストリー近代日本 1〉)

2001年、中野敏男氏、『大塚久雄丸山眞男――動員、主体、戦争責任』(青土社
2002年、徐京植氏、『半難民の位置から――戦後責任論争と在日朝鮮人』収録の『「エスニック・マイノリティ」か「ネーション」か――在日朝鮮人の進む道』のP169―P170に梶村先生の『定住外国人としての在日朝鮮人』(1985年発表)を紹介。
「ここで梶村秀樹氏が一九八五年の論文において、次のような貴重な指摘をしていたことは思い出しておく価値がある。
在日朝鮮人が日本に定住しつつも日本国家への帰属を否認するとき、それを裏返した観念は、日本側が神経を尖らせるような現にある南北いずれかの国家への忠誠観念では必ずしもなく、一般的には、国家への帰属意識というよりは、全体としての民族への帰属意識、南北と在日等をひっくるめて苦難と闘う民衆との一体化の希求と表現した方が適当なものとしてある。強力な母国の保護を受けてこれに依存して生きていこうというのではない。民族の一員としての実存を意識化していけばいくほど、苦難を克服しようとする母国民衆の課業に主体的に参与していこうとする意識に、到達せざるをえないのである。(略)国家の側の都合によって、こうした民族への帰属の志向、創造過程への主体的参与の意思を阻むことは、あってはならないことである。」
略をなくした引用は以下の通り
在日朝鮮人が日本に定住しつつも日本国家への帰属を否認するとき、それを裏返した観念は、日本側が神経を尖らせるような現にある南北いずれかの国家への忠誠観念では必ずしもなく、一般的には、国家への帰属意識というよりは、全体としての民族への帰属意識、南北と在日等をひっくるめて苦難と闘う民衆との一体化の希求と表現した方が適当なものとしてある。強力な母国の保護を受けてこれに依存して生きていこうというのではない。民族の一員としての実存を意識化していけばいくほど、苦難を克服しようとする母国民衆の課業に主体的に参与していこうとする意識に、到達せざるをえないのである。それは、真の意味の「国際性」ともかえって矛盾する意識ではない。
 在日朝鮮人青年としてこうした意識化の歩みを進め、現に韓国の獄中にいる徐勝・徐俊植兄弟の生の軌跡は一つの典型例をなしており、投企の具体的形態はさまざまで誰もが同じ行動をするというのではないとしても、思想の形としてのある普遍性をもっていることはまちがいない(32)。悪意に動機づけられてこれを背後から揶揄することはなされえても、正面から論駁することは誰にもできないのである。国家の側の都合によって、こうした民族への帰属の志向、創造過程への主体的参与の意思を阻むことは、あってはならないことである。」
2002年から2019年まで、姜徳相氏、『呂運亨評伝』(1)ー(4)発表。
2004年、石田米子氏と内田知行氏、『黄土の村の性暴力―大娘(ダーニャン)たちの戦争は終わらない』を発表、石田米子氏は梶村秀樹氏と交友があったことが著作集月報からわかる。
2004年2月27日、網野善彦、死去

2006年、牧原憲夫氏、『民権と憲法』(岩波書店岩波新書 シリーズ日本近現代史 2〉)
2006年9月4日、阿部謹也氏、死去
2006年、中野敏男氏、『「日本の戦後思想」を読み直す(7)「方法としてのアジア」という陥穽--アジア主義をめぐる竹内好梶村秀樹の交錯』『「日本の戦後思想」を読み直す(第8回)植民地主義批判と朝鮮というトポス--アジア主義をめぐる竹内好梶村秀樹の交錯(その2)』(季刊前夜)を発表。中野氏の梶村秀樹先生への接近はこのころからと思われる。戦後思想の再評価の過程で竹内好氏の再評価をするなかで梶村先生を「発見」したと推測される。

2008年、柏崎正憲氏、『反差別から差別への同軸反転 : 現代コリア研究所の捩れと日本の歴史修正主義』、CiNiiで閲覧可能。
2008年、牧原憲夫氏、『幕末から明治時代前期 文明国をめざして』(小学館〈全集日本の歴史 第13巻〉)
2010年、水谷智氏、塩川伸明氏、戸邉秀明氏による『日本植民地研究の回顧と展望 : 朝鮮史を中心に』(同志社大学人文科学研究所)、CiNiiで閲覧可能。
2010年、姜徳相氏、『日本と朝鮮のまっとうな過去と現在を結ぶための史観』(「コリア研究」立命館大学コリア研究センター)
2010年から2013年まで、「media debugger」氏、梶村秀樹先生のの著作に基づいて竹内好氏らを徹底批判。
media debugger
「私」もその批判に衝撃を受けた。ただし、本当に不思議な事だが、「私」が梶村秀樹著作集など入手可能な著作をすべて読むかぎり、梶村秀樹先生にとって竹内好氏はきわめて重大な仮想論敵だった。

2012年、中野敏男氏、『詩歌と戦争―白秋と民衆、総力戦への「道」』(NHKブックス)、梶村秀樹先生への言及あり。
2012年―2013年、加藤圭木氏、科研費による研究『植民地期朝鮮における港湾都市開発と地域社会』を行う。
2013年、「社会科学 = The Social Science(The Social Sciences)」(同志社大学人文科学研究所)に、梶村秀樹先生についての論文3本が発表される。CiNiiにて閲覧可能。
『日韓体制下の民衆と「意味としての歴史」 : 梶村秀樹の韓国認識と歴史認識』(姜元鳳)
梶村秀樹の韓国資本主義論 : 内在的発展論としての「従属発展」論』(洪宗郁)
『日本「戦後歴史学」の展開と未完の梶村史学 : 国家と民衆はいかに(再)発見されたか』(戸邉秀明)

2013年、車承棋氏、『梶村秀樹の「未発の契機」 : 植民地歴史叙述と近代批判(論文)』(「Quadrante : クァドランテ : 四分儀 : 地域・文化・位置のための総合雑誌東京外国語大学)を発表。CiNiiにて閲覧可能。
※「私」コメント、「私」がこの論文をpdfで読んだ時の衝撃はわすれがたい。梶村秀樹先生の視野の広さと最終目標をほぼ完全におさえた論文であり、この論文なしで梶村秀樹先生を評価することはできない。

2014年、『排外主義克服のための朝鮮史平凡社ライブラリーから再版、山本興正氏による解説。
※「私」コメント、やはりこの本は避けてとおれない。ただし、梶村秀樹先生の最終目標が非常に高いところにあるため、梶村先生を理解するにはこの本だけでは絶対にいけない。「絶対に」というのは「私」の強調するところである。2023年の時点でも、このことをはっきり言う人がきわめてすくない。
2014年、姜徳相氏、『一国史を超えて : 関東大震災における朝鮮人虐殺研究の50年』(「大原社会問題研究所雑誌」、法政大学大原社会問題研究所
2015年、山本興正氏、『戦後思想の再審判―丸山眞男から柄谷行人まで』に寄稿。
2015年、牧原憲夫氏、『山代巴 模索の軌跡』(而立書房)
2016年4月4日、安丸良夫氏、死去

2017年、「私」、梶村秀樹著作集全6巻の電子化を作成することを決定。
※「私」コメント、どうしてこの決定をすることができたのか。「私」個人の判断というより、東アジアの歴史の大きな流れの中の決定だったと思うし、だからこそしくじらないですんだ。
※「竹内好氏と梶村秀樹先生の関係」を徹底的にしらべることを主な目的として、全著作の電子化の作業をすすめた。わたしには鈍感なところがあって、金と時間があっても3000KB以上の電子化をすすめる作業をするような人はきわめてすくないことに気がついていなかった。
2017年、『〈戦後〉の誕生―戦後日本と「朝鮮」の境界』に中野敏男氏、寄稿。内容は、『「日本の戦後思想」を読み直す(7)「方法としてのアジア」という陥穽--アジア主義をめぐる竹内好梶村秀樹の交錯』『「日本の戦後思想」を読み直す(第8回)植民地主義批判と朝鮮というトポス--アジア主義をめぐる竹内好梶村秀樹の交錯(その2)』(季刊前夜)に、丸山真男氏の植民地認識についての分析をあわせたもの。
2017年、加藤圭木氏、『『1920~30年代朝鮮における地域社会の変容と有力者・社会運動』にて梶村秀樹先生の『論説 旧韓末北関地域経済と内外交易』を紹介。「私」が見るかぎり、梶村先生のあとをついで1920年代の朝鮮人側の動向を調べた論文はない、ということらしい。
近年、加藤圭木氏は植民地支配責任についても積極的に発言している。

2018年12月31日、「梶村秀樹著作群の電子化 約700KB分」「抜粋資料pdfの作成」「SYの供述書の電子化(途中まで)」
2019年12月31日、「梶村秀樹著作集のほぼ完全な電子化(4・2MB)(ただし未校正)」、「「オウム法廷」(降幡賢一)の電子化(6・8MB)(ただし未校正)」「「アンナ・カレーニナ」(トルストイ作、米川正夫訳)の1・2・3・8章の電子化(1MB)(ただし未校正)」「「証言台の子どもたち」「ほんとうは僕殺したんじゃねえもの」(浜田寿美男)の電子化(1・2MB)(前者だけ校正)」「中西新太郎先生の論文約30本の電子化(700KB)(ただし未校正)」
2020年12月31日、「「ひろしまタイムライン」で変なものをいくつか発見する。「公開質問状」をだしたが、何の返事もない」「京都アニメーション放火殺人事件についての公開質問状」「『梶村秀樹著作集』第1巻と第3巻収録の論文の校正、「亜州和親会をめぐってーー明治における在日アジア人の周辺」「私にとっての朝鮮史 『朝鮮史 その発展』序章」「竹内好氏の「アジア主義の展望」の一解釈」「「日本人の朝鮮観」の成立根拠について――「アジア主義」再評価論批判」「現在の「日本ナショナリズム」論について」「植民地と日本人」「植民地朝鮮での日本人」「竹島=独島問題と日本国家」」「一九二〇~三〇年代朝鮮農民渡日の背景――蔚山群達里の事例」「著作集第3巻の「解説」+「解題」」「一九一〇年代朝鮮の経済循環と小農経営」」「『オウム法廷』一部校正
」「『サリヴァンの精神科セミナー』2回校正」「『カラマーゾフの兄弟』電子化(まだ校正おわっていない)」「『罪と罰』電子化(まだ校正おわっていない)」「『おとなしい女』『おかしな人間の夢』電子化(校正おわり)、『九通の手紙に盛られた小説』『プロハルチン氏』『ポルズンコフ』『クリスマスと結婚式』『人妻と寝台の下の夫』『正直な泥棒』『弱い心』『白夜』『ボボーク』『キリストのヨルカに召されし少年』『百姓マレイ』『百歳の老婆』『宣告』電子化(まだ校正おわっていない)」「『ドラえもん』第1巻-第5巻の文字データの電子化」「『ドラえもん』『オバケのQ太郎』冒頭6Pの入力」
2021年12月31日、「梶村秀樹著作集電子テキストの校正1,2,3,4のすべて、5,6の一部」「ドストエフスキー電子化のみ、9000KB」「ドストエフスキー校正完了、1000KB」「「ひろしまタイムライン事件」検証、しっぽをつかんだ。」「沖縄戦記録、約900KB」「サリヴァンセミナー、電子化」「ツイッター文化が宣伝以外に自己の長所を主張できないこと(長所がないこと、ではない)を自分自身の眼で確証できたこと(2021年11月退会)」「インターネットに借金取りなみにしぶといやつは少ないことに気がついたこと」「NHKアーカイブス、収集」
2022年12月31日、「梶村秀樹著作集全六巻の電子テキストの校正を完了」
2023年03月、「アンナ・カレーニナの電子テキストの校正完了」「悪霊の電子テキストの校正完了」「および2テキストの青空文庫への寄贈手続きが完了」(←発表は2023年10月)
2021年、姜徳相聞き書き刊行委員会、『時務の研究者 姜徳相: 在日として日本の植民地史を考える』発表。
2021年6月12日、姜徳相氏、死去。
2023年、大槻和也氏、『「朝鮮と日本のあるべき関係」を求めて : 梶村秀樹による물레 (ムルレ) の会および指紋押捺拒否運動への活動従事を手がかりに』、CiNiiで閲覧可能。
2023年、「ある出版社」から、2024年中に梶村秀樹先生の著作の電子書籍が出版できると連絡があった。

梶村秀樹先生のライフヒストリーに関する資料で特に重要なもの
「回想」「月報」「私の反省」「朝鮮からみた明治維新」「排外主義克服のための朝鮮史全3部」「論文「自立した関係をめざして」に対する私の意見」「論文「朝鮮統一は在日朝鮮人問題を解決するか」に対する私の意見」「朝鮮語で語られる世界」「私にとっての朝鮮史」「竹内好氏の「アジア主義の展望」の一解釈」「差別の思想を生み出すことば」
※「回想」「月報」はもっと重要視すべきだろう。インターネット上では使用している論説がない。



梶村秀樹先生のライフヒストリーに関する資料(作成、約150分)

梶村秀樹著作集 月報(全六巻分)」(とくに、石田米子氏の回想が興味深かった)
梶村秀樹著作集遺文と回想」
梶村秀樹さんと調布■■の会(収録の回想)」
「追悼梶村秀樹さん(収録の回想)」
梶村秀樹先生を悼む(住吉高校  印藤 和寛)」(「先生は「私こそ竹内好さんの一番の弟子だと思っでいます」とおっしゃった。」は見落としてはいけない)



友邦協会での朝鮮総督府の元官僚へのオーラルヒストリー
東洋文化研究」2号から(学習院大学の出版)


梶村秀樹著作集第1巻より
「排外主義克服のための朝鮮史
朝鮮語で語られる世界」
「私にとっての朝鮮史
竹内好氏の「アジア主義の展望」の一解釈」
「朝鮮を通してみた天皇制の思想――さめた思想」
「朝鮮からみた明治維新
「植民地朝鮮での日本人」
「「旧朝鮮統治」は何だったのか」
「差別の思想を生み出すことば」
竹島=独島問題と日本国家」
「歴史的視点から見た日韓関係」
「歴史をねじまげてはいけない――「日韓合邦」の真相」
「近代史における朝鮮と日本」

梶村秀樹著作集第2巻より
「朝鮮近代史と金玉均の評価」
「朝鮮近代史研究の当面の状況」
「日本における朝鮮研究」
朝鮮史研究の方法をめぐって」
「朝鮮社会における移行法則」
「“やぶにらみ”の周辺文明論」
「朝鮮近代史研究における内在的発展の視角」
「朝鮮思想史における「中国」との葛藤」
「朝鮮からみた現代東アジア」
「東アジア地域における帝国主義体制への移行」
日本帝国主義の問題」
「申采浩の朝鮮古代史像」
「歴史と文学 朝鮮の場合」


梶村秀樹著作集第3巻より
李朝末期(開国後)の綿業の流通および生産構造  ――商品生産の自生的展開とその変容――」
「近代朝鮮の商人資本等の外圧への諸対応」
「一九一〇年代朝鮮の経済循環と小農経営」
日本帝国主義支配下の朝鮮ブルジョアジーの対応」
「「民族資本」と「隷属資本」――植民地体制下の朝鮮ブルジョアジーの政治経済的性格解明のためのカテゴリーの再検討」
「一九二〇~三〇年代朝鮮農民渡日の背景――蔚山群達里の事例」
「「一筋の赤い糸」としての内在的発展」
「「民族経済」をめぐって」

梶村秀樹著作集第4巻より
朝鮮民族解放闘争史と国際共産主義運動
「義烈団と金元鳳」
「『アリランの歌』(解説)」
「解放前の在日朝鮮人運動史――在日朝鮮労総結成~全協への解消過程を中心として」
「新幹会研究のためのノート」
「甲山火田民事件(一九二九年)について」
「『常緑樹』(解説)」
「一九二〇~三〇年代の民衆運動」

梶村秀樹著作集第5巻より
「八・一五以後の朝鮮人民」
日韓条約のゆくえを追跡します」
ベトナム派兵の傷跡」
「韓国の労働運動と日本」
「語りはじめた労働者たち」
「韓国の農村で」


梶村秀樹著作集第6巻より
定住外国人としての在日朝鮮人
「海がほけた!――山口県長生炭坑遭難の記録」
「解放後の在日朝鮮人運動」
「なぜ朝鮮人が日本に住んでいるのか」
金嬉老への判決を支えた日本社会」
金嬉老裁判の現在」
「私における呉林俊氏の肖像」
「論文「自立した関係をめざして」に対する私の意見」
「論文「朝鮮統一は在日朝鮮人問題を解決するか」に対する私の意見」
定住外国人県民の生活とニーズ――「県内在住外国人実態調査」を終えて――」
「「指紋」の闘いは終っていない」



朝鮮史の枠組と思想』より
「「家族主義」の形成に関する一試論」
「申采浩の啓蒙思想
「申采浩の歴史学――近代朝鮮史学史論――」
「あとがき」


『朝鮮を知るために』より
「保育園にて」
「朝鮮との出会い」
「出しぬき合い社会」
「私と朝鮮語
「「先公よ、しっかりさらせ」を読んで」
「「自由」にたじろぐまい!  民族差別と闘う連絡協議会第七回全国集会(一九八一年)への感想」
「《書評》西順蔵著『日本と朝鮮の間』」
「《書評》宋孝順著『ソウルヘの道』」
「《書評》和田春樹著『北の友へ南の友へ』」


梶村秀樹著作集・単行本未収録の執筆物より
「日本における朝鮮研究の蓄積をいかに継承するか」
「『歴史と理論』を読みかえしてみて」
「私の反省」
「私の失業始末記」
「平均的私大生のアジアのイメージ」
「『東亜日報』意見広告に見る民衆意識(上)(中)(下)」
「教科書問題を考える一朝鮮史研究の視点から」

2017年から2023年の間 映画、「探偵ドラマシリーズ」2本と「画家の出る映画」1本だけ。読書、短編小説がほとんど、長編で読了できたのは、「そして誰もいなくなった」「動く指」「ペドロパラモ」「第三の警官」「ゴッホ日本に賭けた夢」「エドゥアールマネ西洋絵画の革命」「美の呪力」「子どもを殺してくださいという親たち」、はんぶんぐらいは、ドラマで見ていた。「ある長編戦争小説」を再読できなかったのはつらかった。
電子化の時に再読、「カラマーゾフの兄弟」「アンナ・カレーニナ」「悪霊」「白夜」。マンガ、3巻以上のストーリーもので読了できたものは2つしかない。
戦争証言アーカイブス、新しく読むことがほとんどできなかった。



追加作業のためのメモ
イタガキリュウタ、ヨシノマコトの反論論文、ニュウカントウソウ、



並木真人論文
歴史評論 (482) - 国立国会図書館デジタルコレクション
○戦後日本における朝鮮近代史研究の現段階--「内在的発展論」再考/並木真人 //p15~30


20230923。20分。
20240925、40分
20231001、40分
20231010、30分、


梶村先生の執筆物の検討 その他メモ - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]


メモ

「ほんとうに読むべき本になる条件」
ひろさふかさ、するどさ、すきのなさ、いきおい、独特の味
「固定客」をつかむ

『古文書返却の旅』P091、第六章より、「実際、読み切った文書は七、八年間でわずか五百点にとどまった。(略)そしてその過程で、なによりもわれわれが驚いたことの一つは(略)」→「、八年間でわずか五百点にとどまった。」

ハックルベリー=フィンの冒険(マーク=トウェイン作、吉田甲子太郎訳)、第18章とちゅうから第20章とちゅうまで

20240425
■09―■28、19分、スキャン33枚、264-327
20240426
■26-■36、10分、OCR264-327、

がいいのである。
19公爵と王さま
 二、三昼夜たってしまった。それは、月日がながれさったといってもいいくらいだった。なんのこしょうもなく、おだやかで、とてもたのしかったので、知らぬまにときがたってしまったのだ。わたしたちは、こんなふうにしてときをすごしたのであるiそのへんになると、川は、とほうもなく大きかったIどうかすると、川はばかIマイル半以上もあるところがあった。わたしたちは、夜、いかだをすすめ、ひるまは、かくれてやすんだ。夜が明けそうになるとすぐ、わたしたちは、いかだをとめてつな            さす かわしも  丶 丶 丶いだのだIたいていは砂州の川下のよどみにつないだ。そして、はこやなぎや、やなぎの若木をきってきて、それをいかだの上にかぶせておいた。それから、ながしづりのはえなわをおろすのだ。それがすむと川のなかにはいっていっておよいだが、すずしくて、気持ちがよかった。わたしたちは、水がひ
ざまでしかない砂地にすわって、日の出を待った。どこからも、もの音ひとつきこえてこないIまったく、しいんとしているIときどき、食用がえるが鳴きたてるほかには、まるで、全世界がねむっているようだ。川づらを見わたしていると、まず最初に、うすぼんやりした線のようなものが見えてくるiそれは、川むこうの森だ。そのほかは、なにひとつ見わけがっかないが、じきに、空か一か所、あお白くなってくる。そして、それが、だんだん大きくひろがっていく。すると、川のずっととおくのほうが、なんとなく、ほんのりしてき         はいいろ                                             丶 丶て、もう黒から、灰色にかわっている。それから、ずっととおくに、ちいさい黒いしみのようなものがただよってくるのが見えるIあきない舟かなにかだ。黒い長いすじのように               おお丶 丶なって見えるのは、いかだだ。大がいのギイッという音や、入りまじった人声がきこえてくることもあった。あたりがしいんとしているので、そのもの音や声は、ずいぷんとおくからでもきこえてきた。やがて、ひとすじのしまが、川づらに見えてくる。そのようすから、そこの川底にはかれた立ち本があり、しかも、そこはながれがはやいことがわかるのだった。川底の立ち木にながれがくだけて、そのようなしまをつくっているのである。もやは、うずまきながら川づらからたちのぼり、東の空か赤くなり、つづいて、川づらも赤くなってくる。そうすると、ずっととおい、むこうがわの川岸の森のはずれに、製材所らしい丸太小屋が見えてくる。だが、その小屋といったら、いかさま師の手でつくらせたものか、どこからでも
犬をなけこめるほどすきまだらけだった。それから、気持ちのいいそよ風が、さやさやとふいてきて、とおくからわたしたちをあおいでくれる。森をぬけ、花の上をわたってくる風なので、すずしくて、すがすがしくて、いいにおいがしていた。だが、いつもそうとはかぎら         丶 丶 丶 丶 丶                     しなかった。風は、おおざよりとか、そのほかのさかなの死んだのを、ふきよせてくることもあって、そんなときはひどくくさかった。やがて、夜がすっかり明ける。万物は朝日をあびてほほえみ、うたうことのできる鳥という鳥は、そろってさえずりはじめるのだ。 もうこうなると、すこしぐらいけむりをたてても、人目につく気づかいはなかった。そこ   丶 丶 丶 丶                          しょくじで、はえなわからさかなをはずして、あたたかい食事をこしらえる。そして、食事のあと、ひっそりとした川づらをながめて、ぼんやりしているうちに、うとうととねむってしまうのだった。やがて、目をさます。そして、どうして目がさめたのだろうと、あたりを見まわすと、蒸気船が、パ。フ、パップと機関の音をたてながら、川をさかのぼっていくのが見えることもあった。だが、その蒸気船は、ずっとむこうがわをさかのぼっていくので、水かき車が、船尾にあるか、舷側にあるかということぐらいしか見わけがつかなかった。それから一時間ばかりというものは、耳にきこえるもの音ひとつ、目にはいってくるものかげひとつない1しんそこからしずまりかえったさびしさだった。やがて、ずっとむこうのほうを、いかだが一つながれていくのが見えてくる。そのいかだの上で、うすぎたない男が、まきをわっ
ていることもある。いかだの上では、たいていいつでも、まきをわっているものだからである。おのがきらっとひかって、打ちおろされるIだが、音は、きこえてこない。またおのがふりあげられ、その男の頭の上まであがったときになって、カーンという音がきこえてくるI音が川づらをわたってくるのに、それだけ時間がかかるのだった。そんなふうに、わたしたちはぼんやりしてみたり、しずけさにききいったりして、一日をすごしたのであった。こいきりがかかったときには、いかだや小舟は、蒸気船にのりかけられないように、ブリキのなべをたたきながら、通っていく。平底船やいかだは、すぐ近くを通っていくので、話し声や、どなる声や、わらい声がきこえてくる1はっきりときこえてくる。そのくせ、彼らのすがたはぜんぜん見えないのだ。これは、気味のわるいことだった。まるで魔ものどもが、空中でふざけあっている声をきいているような気がした。ジムは、あれはきっと魔ものにちがいないといった。だが、わたしは、いってやった。 「ちがうよ。魔ものなら『なんて、くそいまいましいきりなんだろう』なんていやしないよ。」 夜になるとすぐ、わたしたちは、いかだをおしだして、川のなかほどまででる。それからは、いかだまかせだ。どこへなりとながれのはこぶままにながされていくのだった。それから、タバコに火をつけ、足を川のなかにぶらさげたまま、いろいろなことを話しあうのである1わたしたちは、蚊のいないときは、ひるも夜も、いつもはだかでいたIバックの家
268
の人たちがっくってくれたあたらしい服は、りっぱすぎてきごこちがよくなかったし、それに、わたしは、どうも、服などあまり、ありがたがらないたちだった。 ときによると、川の上には、長いあいだ、わたしたちのほかには、なにひとつ見えなくなることがあった。川のむこうには、岸があり、島が見えている。そんなとき、あかりが一つだけきらきらとひかっていることもあるI小屋の窓にともっているろうそくの光だ。また、ときには、川の上に一つ二つあかりがきらめいていることもあったIいかだや平底船のあかりだ。そして、そのいかだや平底船の一つから、バイオリンや歌声がきこえてくることもある。いかだの上でくらすのは、じつにたのしいものだ。上には空かあり、いちめんに星がちりばめられている。わたしたちは、いつもあおむけにねころんで、星を見あげながら、星がっくられたものか、ぐうぜんにできたものか、ということを論じあった。ジムは、つくられたものだといったが、わたしは、ぐうぜんにできたものだといって反対した。あんなにたくさん星をつくるには、とてもひまがかかりすぎると思ったからだ。ジムは、月が星をうんだにちがいないといいだした。なるほど、そういわれると、それはもっともらしく思われたので、わたしは、それには反対しなかった。かえるがほとんど星とおなじくらいたくさんのたまごをうんだのを見たことがあるので、月にも、もちろん、それぐらいのことができないはずはないと思ったからだ。わたしたちはまた、よくながれ星を見はっていて、それが尾を
269
ひいておちていくのを、ながめた。ジムは、あの星はくさったので、巣からほっぽりだされたのだといった。 一晩のうちに一度か二度は、蒸気船が暗やみのなかを、すべるようにすすんでいくのにて    きせん                       ひ  こあった。汽船は、ときおり、ひじょうにたくさんの火の粉をえんとつからふきだした。火の粉が雨のように川にふりそそぐのは、なんともいえずうつくしかった。やがて、蒸気船は、まがりかどをまがっていって、そのあかりもまたたきながら見えなくなってしまい、機関の音もきこえなくなって、また、川はひっそりとなる。蒸気船が見えなくなってしばらくすると、いまの汽船がたてた波が、わたしたちのところに、やっと、とどいてきて、いかだをすこしゆりうごかすのだ。そのあとは、長い長いあいだ、なんのもの音もきこえてこない。どうかして、きこえてくるのは、かえるかなにかの声ぐらいのものだった。 ま夜中をすぎると、陸の人たちは、寝床にはいってしまうので、それから二、三時間は、両岸ともまっ暗になりI小屋の窓にもあかりが一つも見えなくなる。このあかりが、わたしたちの時計だったIふたたび見えはじめてくる、その最初のあかりが、わたしたちに、朝の近いことを知らせてくれた。そこで、わたしたちは、すぐに、かくし場所をさがして、いかだをつなぐのだ。 ある朝、夜明けごろに、カヌーをIそうひろった。わたしは、それにのって、早瀬をのり
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きって、川岸にこぎよせたIその早瀬は、ほんの、二百ヤードばかりのものだったIそれから、いとひばがしげっている森のなかをながれているクリークをIマイルばかりこぎのぼってみた。いちごがいくらかとれるかと思ったからである。ちょうど、ほんのほそい小道がクリークをよこぎっているところにさしかかると、ふたりの男が、全速力でその小道を走ってきた。わたしは、もうだめだとかんねんした。と、いうわけは、だれかがだれかをおいかけているのを見ると、わたしはいつでも、自分か、さもなければ、ジムがおいかけられているように思いこむくせがついていたからだ。わたしは、いそいでそこからにげだそうとした。しかし、彼らは、もう、すぐ近くまでせまっていた。そして、大声で、わたしにむかってたすけてくれとさけんだIおれたちはなんにもしないのにおわれているんだ。人と大がおいかけてくるんだ、というのだ。そして、そのまますぐに、わたしのカヌーにとびこもうとした。だが、わたしはいった。 フしこでのってはだめだよ。犬の声も馬の足音も、まだきこえやしないぞ。まだまがあるんだ。そのやぶをくぐりぬけて、すこしクリークをのぼっていくんだ。そして、そこからクリークへとびこんで、ここまで歩いてきてからのるがいいIそうすれば、大に足あとをつけられる心配がなくなるじゃないか。」 彼らは、わたしのいうとおりにした。わたしは、彼らをカヌーにのせるとすぐ、わたした
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ちの砂州にむかって、大いそぎでこぎだした。五分か十分だつと、人や犬のさけび声がとおくのほうからきこえてきた。彼らは、クリークのほうにやってきたようだったが、すがたは見えなかった。そこに立ちどまって、しばらく、うろついているようなけはいがしていた。わたしたちは、ぐんぐんとおのいてしまったので、じきに、もの音はほとんどききとれなくなった。そして、森をIマイルもではずれて、川にこぎでたときには、なにもかもしずかになっていた。わたしたちは、砂州にこぎわたり、はこやなぎのしげみのなかにかくれた。きけんをだっしたのだ。 ふたりのうちのひとりは、七十歳あまりで、頭がはげあがり、ほおひげもまっ白になって’いた。古いぼろぼろのっぽ広帽子をかぶり、油じみた、青い、毛のシャツをきていた。紺もめんのズボンは、これもぼろぼろで、そのすそを長ぐつにつっこみ、手製のズボンつりをしていたが、そのズボンつりも、片方しかなかった。彼らはまた、すべすべしたしんちゅうボタンのついた、すぞ長の上着を片うでにひっかけていた。そして、ふたりとも、大きい、ふくれた、うすぎたない旅行かばんを持っていた。 もうひとりの男は、三十歳ぐらいだったが、やはり老人とおなじように、いやしい身なりをしていた。わたしたちは、朝の食事のあと、やすみながら話しあったが、まず最初に、このふたりが知りあいでもなんでもないということがわかった。
「どうして、あんなめにあったのだい」と、はげ頭が、もうひとりの男にいった。「うん、おれは、歯から歯くそをとるくすりを売っていたんだがね1そいつは、歯くそをとるかわり、たいてい、ほうろう質もいっしょにとってしまうんだよ1ところが、おれは一晩長居をしすぎたんで、こっそりにげだそうとしていると、町のこっちがわのあの道で、あんたとばったりでっくわしたんだ。そしたらあんたが、おっかけられているんだから、うまくにげられるようにしてくれとたのむんで、おれは、おれもご同様さまなんだから、いっしょにずらかろうっていったというわけさ。話は、それだけなんだが1ところで、おまえさんのほうは、どうしたんだい。」 「うん。おれは、あそこで一週間ばかり、禁酒復興運動をやっていたのだ。そして、のんべえどもを、したたかやっつけたもんで、おとな子どもにかぎらず、女という女には、大もてだったのだ。一晩のあがりが、五、六ドルにもなったのさiひとり十セント、子どもと黒人は無料というわけでなiしごとは、一日ましに、はんじょうするばかりよ。ところが、どういうわけだが、おれが人目をかすめて、ひまっぶしに、こっそり酒をのんでいるという、うわさが、ゆうべのうちにひろまったってわけさ。けさになると、黒人がおれをおこして、いうんだ。村の人が犬をつれ、馬にのって、こっそりあつまっている。じきにやってくるにちがいない。みんなは、あんたを半時間ぐらいさきに出発させておいて、それからおいつめ
ようとしているのだ。そして、つかまえたら、あんたのからだにコールタールをぬり、鳥の羽をはりっけ、それから、あんたを鉄ぼうにのせてかつぎまわろうとしている、と、そういうじゃねえか、おれは、朝めしなど待っていられなかったIはらはへっていなかったんだ。」 「な、じいさん」と、わかいほうがいった。「おれたちは、これから協力していこうじゃねえか、どうだい。」 「わるかあねえな。おめえの商売は、なんなんだIだいたい?」 「わたりの印刷職工だよ。くすり売りもちょっとはするし、役者もやるI悲劇役者をね。ときと場所によれば、さいみん術や骨相学にも手をだすんだ。どうかすると、めさきをかえて、地理唱歌をおしえることもあるぜ。それからときによっちや、講演もぶってのけるってわけさIうん、いろいろなことをやるんだI骨のおれるしごとでさえなきや、手あたりしだいなんでもやってのけるよ。あんたの商売はなんだい。」 「おれはな、わかいころには医者商売で、かなりうまくやってたものだ。手をあてて、おま                 丶 丶        ちゅうふうじないをするのがとくいでなIがんでござれ、中風でござれ、わるいところなら、なんでもござれだ。だれか、まえもってほんとうのことをおしえてくれるものさえありや、うらないだってそうとうにやれる。説教は、おてのものでな、野外布教をやってのけたり、伝道もして歩くよ。」
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 しばらくのあいだ、だれひとり口をきくものがなかった。それから、わかいほうが、ため息をついて、いった。 「ああ。」 「なんだって、そんなにため息をつくんだ」と、はげ頭がきいた。 「これまで生きてきたあげくのはてに、こんなくらしをし、こんななかまになりさがったかと思うと。」そういって、彼は、ぼろで目がしらをぬぐいはしめた。 「この罰あたりめ、これでも、おめえには、もったいなすぎるほどのなかまじゃねえか。」と、はげ頭が、おっかぶせるようにずけずけとやりかえした。 「そうですとも。もったいないくらいですよ。わたしには、これでちょうどいいのです。いったいあんなに高い身分だったわたしを、だれが、こんなになりさがらせたのです? わたしが自分でやったことなのです。わたしは、あなたがたをとがめだてなどいたしません、みなさんIとんでもないことです。わたしは、だれも、とがめだてなどしません。わたしは、それだけのねうちがない人間なのです。このつめたい浮き世の風に思いきりふかれてみるがいいのです。たったひとつ、わたしが知っていることは1どこにか、わたしのためにも墓場かおるということだけです。この世が、いまもむかしにかわることがなく、わたしから、いっさいのものをとりあげようとi愛するものも、財産もあらゆるものをとりあげようと
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も、墓場だけはとりあげることができません。いつかわたしは、墓のなかによこだわり、すべてをわすれ、そして、きずついたこのあわれなこころは、安息をえるでしょう。」 彼は、なきながら、そうかたりっづけた。 「なに、きずついた、あわれなこころだって」と、はげ頭がいった。「じょうだんじゃねえ。なんだって、そんなものをおれたちにあてつけるんだ。おれたちは、おめえに、なにもしやしなかったじゃねえか。」 「そうです。なにもなさりはしませんでした。わたしは、あなたがたをとがめだてしているのじゃございませんよ、みなさん。わたしは、自分でおちぶれたのですIそうです。自分からおちぶれたのです。わたしがくるしむのは、あたりまえのことなのですIまったくあたりまえなんですIもうなき声などあげません。」 「だが、どこからおちぶれたのだな、どこで、おちぶれさせられたのだな?」 「ああ、あなたがたは、わたしを信じないでしょう。世間は、けっして信じないものですIそっとしておいてください1なんでもないことなんです。わたしの、誕生のひみっはI」 「誕生のひみつだって! おめえのいいてえのは、自分がなにか高い身分のi」 「みなさん」と、わかい男は、おもおもしくいった。「わたしは、あなたがたになら、うちあ
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けましょう。あなたがたは、信頼できそうな人だから。わたしは、ぽんとうなら公爵になるはずの人間だったのです。」 ジムの目は、それをきいたとたんに、とびだした。わたしの目だって、とびだしたにちがいなかった。はげ頭がいった。 「まさか、おめえ、本気じゃあるめえな。」 「いいえ。わたしの曾祖父は、ブリッジウォーター公爵の長男だったのですが前世紀のすえに、この国ににげてきたのです。自由の、きよい空気をすうためです。彼は、この国で結婚し、ひとりのむすこをのこして死にましたが、ちょうどおなじころ、彼の父親もなくなったのです。ところが、その称号と財産を、二番めのむすこがよこどりしてしまったのですi赤ん坊の、ほんとうの公爵は、見むきもされなかったのです。わたしは、その赤ん坊の、正統の子孫なのですIわたしこそ、正統なブリッジウォーター公爵なのです。だが、わたしは、ごらんのとおり、よるべもなく、高い身分からひきずりおとされ、畜生のように人びとにおいたてられ、このつめたい世のなかからさげすまれ、ぼろをき、やつれはて、かなしみにくれ、しかも、いかだの上で、重罪人のなかまにまでなりさかっているのです!」 ジムは、ひどく同情した。もちろん、わたしも同情した。わたしたちは、彼をなぐさめてやろうとした。ところが、彼は、そんなことをされても、あまり役にたたないし、たいして
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なぐさめにはならないというのだ。そして公爵であるということをみとめてくれれば、それがなによりまんぞくだといった。そこでわたしたちは、みとめかたをおしえてくれれば、そのとおりするといった。すると、彼は、こういう注文をだした。自分に話じかけるときには、まず、おじぎをしてから、「閣下」とか、「わが君さま」とか、「御前さま」とかよびかけなければいけないIもっとも、ただ「ブリッジウォーター」とよんでくれてもさしっかえはない。なぜかといえば、それは名まえではなくて、称号だからである。それからおまえたちのうちどっちかひとりは、食事のときにおれに給仕をするのはもちろん、どんなつまらないことでも、おれのいいつけどおりに用をたさなければいけない。と、そういうのだ。 そんなことは、みんなぞうさもないことだったから、わたしたちは、そのとおりにしてやった。食事のあいだじゅう、ジムは、そばに立っていて、お給仕をしながらいった。「閣下、これを食べますだか、あれを食べますだか。」そうしてやっていると、彼は、いかにもうれしそうだった。 ところが、まもなく、老人が、すっかりだまりこんでしまったIろくろく口もきかないばかりか、わたしたちが、公爵をちやほやするのを見ると、ひどくうかない顔をするのだ。なにか考えているらしかった。そして、午後になると、いいだした。 「おい、ビルジウォーター、お気のどくさまだが、そんな苦労をしたのは、おめえひとりじ
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やねえぞ。」 「そうかなi?」 「そうだとも、おめえだけじゃねえよ。高い地位から、不当にひきずりおろされたのは、おめえひとりだけじゃねえぞ。」 「ほう!」 「そうだとも、誕生のひみつを持っているのは、おめえだけじゃねえんだ。」 そういいながら、老人は、ほんとうになきだした。 「なくなよ。どうしたっていうんだね?」 「ビルジウォーター、おめえを信頼してもいいかね。」と、老人は、なおなきじゃくりながらいった。 「死んでも囗をすべらしやしないよ。」彼は、老人の手をとり、つよくにぎりしめて、いった。 「あんたのひみつを、さあ、話してくれ。」 「ビルジウォーター、わしは、もとのフランス皇太子、ドーフィンなのだ。」 じっさいこのときばかりは、ジムもわたしも、びっくりぎょうてんした。やがて、公爵がききなおした。 「あんたは、なんだって?」
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 「そうなんだ、おめえ、まったく、ほんとうのことなんだIおめえの目は、いま、ゆくえ知れずになった、あの気のどくなドーフィン、つまり、ルイ十七世、あのルイ十六世とマリートアントワネットのあいだにうまれたむすこをながめているのだ。」 「あんたが! そんな年をしてかい! とんでもねえ!・ あんたは、ジャーレマン大帝だとでもいうつもりなんじゃねえのかい。どうすくなくみっもっても、あんたは、六、七百歳というところにちがいないぜ。」 「苦労のために、こんなにふけたのだ。ビルジウォーター、苦労のためにな。苦労のために、髪はこんなに白くなり、頭もこんなにはやくはげたのだ。そうだよ、おめえたち、おめえたちの目のまえに、紺もめんをき、みじめなかっこうをしているのは、国をおわれ、ふみにじられて、くるしみながらさまよい歩いている、血すじただしいフランス王なのだ。」 彼は、ないて、ひどくなげきくるうので、わたしも、ジムもどうしたらいいか、わがらなかった。彼が気のどくなのだIと同時に、わたしたちは、彼のようにえらい人をいかだにのせているということが、とてもうれしくて、とくいだった。そこで、わたしたちは、それまで公爵にしてやったようにして、彼をなぐさめようとした。だが、彼は、そんなことをしてもらっても、なんの役にもたたない、死んで目をつぶってしまうほかにはすくわれる道はないのだ、といった。それでも、人びとが彼の権利にふさわしいとりあつかいをしてくれ
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れば、しばらくはやすらかな気分になり、こころもちがおちつくことがある、といった。そして、それには、自分に話をするときは、片ひざをついて、いつでも「陛下」とよび、食事のときはまっさきにお給仕をして、自分のまえにいるかぎり、自分のゆるしがないうちはこしをおろさないようにしてもらいたい、といった。そこで、ジムとわたしは、彼を「陛下」とよぶことにして、彼のために、これだ、あれだ、なんだかんだとはたらいてやり、かけろといわれるまで立っていた。すると、彼は、すっかりまんぞくして、とてもきげんがよくなり、ゆかいそうになった。ところが、こんどは、公爵が老人にたいして、なんとなくふきげんになってきた。どうも、ことのなりゆきが気に入らないらしいのだ。それでも、王さまのほうは、公爵にいかにもしたしそうにふるまい、自分の父親は、公爵のひいおじいさんや、ビルジウォーターというほかの公爵たちがたいへん気に入っていて、よく宮殿にでいりさせていたものだ、などと話した。だが、公爵は、あいかわらず、むっとしているので、とうとうしまいに、王さまがいいだした。 「おれたちは、これからさき、ずいぶん長いあいだ、このいかだのごやっかいにならなきゃなるまいと思うんだがな、おい、ビルジウォーター、おめえのように、そう、ふくれっつらをしていたって、はじまらねえじゃねえか。そんなふうにしていたら、なにもかも、気まずくなるばっかりだ。おれが公爵にうまれなかったのは、おれのせいじゃねえし、おめえが王
さまにうまれなかったのも、おめえのせいじゃねえんだIだから、そんなに、くよくよしなくてもいいじゃねえか。世のなかのなりゆきにまかせて、・できるだけうまくやっていくのさIそれが、おれの座右の銘なんだ。このいかだにめぐりあったのも、まんざらわるかあねえぞi食いものはうんとあるし、のんきにしていられるしさ  さあ、握手しよう、公爵。そして、なかよくやっていこうじゃねえか。」 公爵が握手をしたので、ジムもわたしも、すっかりよろこんだ。それで、気まずいことがなくなって、気持ちがとてもさっぱりした。いかだの上で敵意を持ちあっているなどということは、それがどんな敵意にしろ、やりきれないことだからである。そして、いかだの上でなによりたいせつなことは、だれでも安心していられ、おたがいにただしくしんせつにしあうことなのだ。 このふたりが、王さまでもなければ、公爵でもなく、大うそつきで、しかも、いやしいづアン師で、いかさま師どもだということが、はっきりわたしにわかったのは、その後まもなくのことだった。だが、わたしは、そんなことはひとこともいわず、けっして色にもあらわさないで、そっと、こころのなかにしまっておいた。それが、いちばんいい方法なのだ。そうしておけば、けんかもはじまらないし、ごたごたもおこらないからである。彼らを王さまだとか公爵だとか、そうよんでやれば、このいかだの上の平和がたもたれるというなら、
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わたしは、彼らののぞみどおり、そうよんでやるのにいぞんがなかった。だが、そんなことは、ジムに話しても、なんの役にもたたないことだから、わたしは、ジムにはなにもおしえなかった。わたしは、おやじからほかになにひとつおしえられなかったとしても、ただひとつ、まなんだことがある。それは、こんなやつらといっしょにやっていくには、やつらのかってほうだいにさせておくよりしかたがないということだった。
20 いんちきしごと
 彼らは、ずいぶんいろいろなことを、わたしたちにきいた。どうして、そんなふうにいかだを木でかくしてしまうのかとが、ひるま川をくだらないでやすんでいるのは、どうしたわけだとかIジムはにげだしたどれいではないかとか、そんなことを知りたがった。わたしは、いった。 「おやおや、にげだしたどれいが、南へむかってにげますかね。」 なるほど、南へはにげないだろう、と彼らはいった。わたしは、なんとかいいぬけをしなければならなくなった。そこで、わたしはこういった。 「ぼくも、そこでうまれたんですがね、ぼくんちは、ミズーリ州のいなか、パイクにすんでいたんです。ところが、みんな死んじまって、おやじと弟のアイクとぼくだけになったんです。それで、おやじは、家をたたんで、川下のベンおじさんとこへいって、
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世話になろうといいだしたんです。そのおじさんてのは、オーリンズの川下、四十四マイルのところに、ちいさな、馬一頭あればたがやせるような土地を持っているんです。おやじは、とてもびんぼうで、借金もすこしあったんでね、清算してみたら、たった十六ドルと、この黒人のジムしか、のこらなかったんですよ。それだけの金じゃ、殼下等の甲板船客になっていこうがどうしようが、とても、千四百マイルの旅には、たりっこありません。ところが、川の水かさがふえたとき、おやじは、ある日、うまいもんにぶつかったんです。ほら、このいかだをひろったんですよ。そこで、ぼくたちは、このいかだにのってオーリッズまでくだることになったんです。でもね、いつまでも、おやじの思わくどおりにはいかなかったんです。ある晩、いかだのはなへ、蒸気船をのっかけられたんです。そいで、みんな川んなかにとびこんで、汽船の水かき車の下へもぐったんです。ジムとぼくは、なんなくうかびあがりましたが、おやじはよっぱらってたし、アイクはまだ四つだったもんで、ふたりとも、もぐりっぱなしになっちまったんです。そいで、それから一日二日というもの、ぼくたち、とてもひどいめにあったんです、なぜって、よくだれか小舟でやってきて、こいつはにげだしたどれいにちがいないといって、ジムをつれていこうとするんだもんね。だから、もういまじゃ、ひるま川をくだることはやめにしてるんです。夜なら、そんな人たちに、うるさくいわれる心配ありませんからね。」
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 公爵がいった。 「なんなら、おれにまかせてくれ、まっぴるま、いかだをやる方法をくふうするぜ。とっくり考えてIおれがひとつ、うまくいく方法を発明してやるよ。だが、きょうは、いままでどおりにしておこうや。いうまでもねえこったが、あの町のわきを、まっぴるま通りたくねえからなIそんなことをしたら、からだにもさわるというもんだ。」 夜が近づくと、空がまっ黒くくもり、雨がきそうになってきた。ひくく、はるか地平線のほうで、音のない電光が、ぴかつ、ぴかっと、ひかりはじめた。木の葉が、ざわざわとふるえだしたIだれの目にも、かなり天候がけんあくになってきたのがわかった。王さまと公爵は、寝床のぐあいを見るために、いかだの上の小屋をしらべにいった。わたしの寝床には、麦わらがしいてあったIジムのよりましだった  ジムの寝床はとうもろこしの皮でできている。とうもろこしの皮のふとんのなかには、ところどころにまるいかたまりがあって、こいつがからだをつつくのでいたいのだ。そのうえ、かわいているとうもろこしの皮のふとんの上をころがると、まるでかれ葉の山をころがるような音がする。とてもガサガサいうので、そのため目がさめてしまうのだ。ところで、公爵はわたしのふとんにねるといいだした。だが、王さまは、そうはさせないといった。 「身分の上下からいってもだ、王さまであるおれが、とうもろこしの皮のふとんにねるって
法がねえことは、おめえにだってわかりそうなものだ。閣下、おめえは、とうもろこしの皮のふとんにねるんだな。」 ジムとわたしは、またふたりのあいだに、なにかもめごとがおこってはたいへんだと思って、ちょっとのあいだ、はらはらした。だから、公爵がつぎのようにいったときは、ほんとうにうれしかった。 「圧制という鉄のかかとで、いつも、どろのなかにふみにじられるのが、おれの運命なんだ。高慢だったこころも、不幸のために、もううちくだかれてしまった。おれは、ゆずるよ。あまんじてしたがうよ。これが、おれの運命なんだ。おれは、この世で、たったひとりぼっちなんだIわれをしてくるしましめよ、われ、それにたえん、だ。」 わたしたちは、すっかり暗くなるとすぐにでかけた。王さまは、わたしたちに、いかだを川のまんなかにおしだして、町のずっと川下にくるまであかりをだすな、といった。まもなく、わずかばかりのあかりのかたまりが見えてきた1あの町だ1わたしたちは、こっそりと、そこから半マイルばかりぶじに通りぬけた。四分の三マイルばかりくだったとき、わたしたちは、めじるしのカンテラをかかげた。十時ごろになると、雨がふりだし、風がでて、かみなりが鳴り、いなずまがひかりだした。そのすごいことといったらなかった。王さまは、わたしたちに、あらしがやむまでふたりで見はりをしていろといいつけると、さっさと公爵
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とふたりで、小屋のなかにはいっていってねてしまった。十二時までは、わたしは見はり当番ではなかったが、たとえ寝床があったとしても、わたしはねなかったにちがいない。こんなすごいあらしは、めったにないからだ。風のさけび声のすさまじさ!・ そして、一、二秒ごとに、いなずまがひらめき、そのたびに、半マイル四方の白い波がしらを、ぱっとてらしだすのだ。そして、雨のむこうに、うすよごれたように島が見え、本という本が、風に打たれて、のだうちまわっているのが見えた。それから、ビリビリ。、ピシヤ。とかみなりがおちてきてIゴロー・ ゴロゴロン、コロン、ゴロ、ゴロ、ゴロとIそして、かみなりは、ゴロゴロ、ブッブツいいながら、とおくへいってしまう。やがてまた、ぴかりとひかって、また一つ、どえらいやつがおちてくるのだ。わたしは、ときどき波にさらわれそうになったが、なにひとつきていなかったので、平気だった。川底の立ち木の心配など、すこしもなかった。いなぴかりが、ひっきりなしに、あたりをあちらこちらてらしだすので、わたしたちは、すぐにそれを見つけて、ゆうゆうと、いかだのはなさきを、こちらへむけたり、あちらへむけたりして、うまく、さけることができたのだ。 わたしは、ま夜中の見はり番に立ったが、とてもねむくてたまらなかった。すると、ジムが、最初の半分だけかわって見はりをしてやるといってくれた。ジムは、いつもこんなふうにして、とてもわたしによくしてくれた。わたしは、小屋にはいりこんだ。だが、王さまと
公爵が、足をのばし、ふんぞりかえってねてぃるので、わたしのねる余地はなかった。だからわたしは、外にねたIあたたかいし、もう波もそう高くなくなっていたので、雨ぐらい平気だった。二時ごろ、また波がでだしたので、ジムはわたしをおこそうとしたが、考えなおした。あぶないほど波が高くならないと思ったからだ。ところが、それは、ジムの思いちがいだった。まもなく、どえらい波が、いきなりおしよせてきた。そして、わたしは、波にさらわれて、いかだからおちた。すると、ジムのやつ、おかしかって、死ぬほどわらった。ともかく、ジムは、とんでもないわらいじょうごの黒人だった。 わたしが見はりに立つと、ジムは、よこになって、いびきをかきはしめた。まもなく、あらしは、すっかりやんだ。わたしは、陸の小屋に最初のあかりがひかりだしたのを見つけると、すぐジムをおこした。その日のかくれ場所にそっとすべりこませた。 朝めしのあと、王さまは、うすぎたないトランプをだしてきて、ひと勝負五セットのかけて、しばらく巛。彫どセブントアップ(いいいづ皿)をしていた。やがて、それにあきると、徴らは、彼らのことばどおりにいえば「戦争の計画をたてる」といいだした。公爵は、旅行かばんのなかをしらべ、印刷したちいさなビラをたくさんだして、大声で、それをよんだ。一つのビラには、「パリの有名なアールマントドロモンタルバン博士」は、××の場所で、×月×囗にと、場所や日づけのところをあけて、入場料十セントで、「骨相学の講義」をおこな之
かつ、「骨相図は一まい二十五セントでおわけする」とかいてあった。公爵は、博士というのは自分のことだといった。もうIまいのビラでは、公爵は、有名な世界的シェークスピア劇の悲劇役者、ロンドンのドルーリー目レイン劇場づき、二代目ギャリックになりすましていた。またほかのビラによると、彼は、たくさんの名まえを持っており、「魔法のつえ」で井戸水や金鉱のありかを発見するとか、「魔女の呪文をとく」とか、そのほかにも、いろいろとふしぎなことをやることになっていた。まもなく、彼はいった。 「ところでね、演劇ときたひにゃ、おれはこたえられねえんだ。あんたは舞台をふんだことがあるかい、王さま。」 「ねえよ。」 「そいじゃ、三日とたたねえうちに、ふませてあげるぜ、なあ、おちぶれ王さま」と、公爵はいった。「ぐあいのよさそうな町にでっくわしたらすぐ、芝居小屋をかりて、『リチャード三世』のちゃんばらと『ロミオとジュリエット』の露台の場をやろうぜ。あんたの考えは、どうだい。」 「もうかるしごとなら、なんだって、とことんまでやるよ、ビルジウォーター。だがな、おめえ、おれは、たちまわりをまるっきり知らねえし、あんまり芝居を見たこともねえんだ。おやじが、宮殿でよく芝居をやらせていたころは、おれは、まだちいさすぎたってわけさ。
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おめえは、おれにおしえられるかい。」 「ぞうさもねえこった!」 「よしきた。おれは、なにかめあたらしいことがしたくって、たまらねえところだったんだ。すぐにはじめようじゃねえか。」 そこで、公爵は、ロミオとはどんな人物か、またジュリエ。卜とはどんな人かということを、すっかり王さまに話してきかせてから、おれはいつもロミオをやってたんだから、王さまはジュリエ。卜になれ、といった。 「だが、ジュリエットが、そんなわけえ娘っこなら、公爵、おれの、このはげ頭と白いほおひげが、おかしなものに見えやしねえかな。」 「そんな心配はいらねえよ。こんないなかのたごさくどもは、そんなことに気がつきやしねえんだ。そればかりか、あんたは衣装をつけるんだぜ。まるっきり見ちがえるようになるよ。ジュリエットは、ねるまえに、バルコニーにでて、うっとり月光をながめている。彼女は、ねまきをきて、ひだつき帽子をかぶっているってことになるんだ。これがいろんな役わりの衣装さ。」 彼は、窓かけ用のキャラコでつくった衣装を、二つ三つだして、これがリチャード三世がきる中世のよろいと、そのおいて役がきる衣装だといった。それから、長い白もめんのねま
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きと、そろいのひだつき帽子をとりだした。王さまは、なっとくした。そこで、公爵は、本をとりだして、ふたりの役わりのせりふを、ひどく大げさなよみかたで朗読した。よみながち、役やくのしぐさをしめすために、彼はおどりまわったり、あばれまわったりした。それから、彼は、その本を王さまにわたして、自分のせりふを暗記しろといった。 川のまがりかどをまかって、三マイルばかりくだると、馬が一頭しかいないようなちいさな町があった。ひるのめしのあと、公爵は、ひるまいかだをだしても、ジムの身にきけんのない方法を思いついたから、あの町へいって、その手配をしてこよう、といった。王さまも、自分もいってなにかうまいしごとがやれるかどうか、あたってみてこようといいだした。コーヒーがなくなっていたので、ジムは、あんたもあの人だちといっしょにカヌーにのっていって、コーヒーを賈ってきてくれ、とわたしにいった。 町にいくと、歩いているものなど、ひとりもいなかった。往来は、からっぽなのだ。まるで、日曜日のように、ひっそりかんとしずまっているのだ。わたしたちは、うら庭で日なたぼっこをしている、病気の黒人を見つけた。その黒人の話によると、ごくおさない子どもや、病人や、ひどい年よりのほかは、みんな、ニマイルばかり森のおくの、野外集会にいっているということだった。王さまはその方向や道順をきいてから、おれは、その野外集会にでかけていって、のるかそるか、ひとつあたってみてこよう、といった。そして、わたしにもつ
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いてこいといった。 公爵は、おれのさがしているのは印刷屋だ、といった。わたしたちは、やっとのことで印刷屋をさがしだした。それは、大工のしごと場の二階にある、ちっぽけな店でI大工も印刷屋も、みんな野外集会にでかけていってしまっていた。錠は、どの戸にもかかっていなかった。へやは、うすぎたなく、ちらかっていて、インクのしみあとだらけだった。かべには、馬だとか、にげだした黒人をすったビラが、いちめんにはってあった。公爵は、上着をぬぎすてて、さあ、これでよし、といった。そこで、わたしと王さまは、いそいで野外集会にむかった。 わたしたちは、三十分ばかりで、そこについたが、ひどくあつい日だったので、ぐっしょり汗をかいていた。集会場は、そのあたり二十マイルぐらいのところからあつまってきた、千人近くの人びとでうずまっていた。森には、どこにもかしこにも、二頭だてや四頭だての四輪馬車が、いっぱいつないであった。馬どもはかいばおけに首をつっこんで食いながら、足をふんで、あぶやはえをおっていた。木の枝で屋根をふいた、ほそい丸太でっくったかけ小屋が、いくっもたっていて、レモン水や、しょうがパンを売っていた。すいかとか青とうもろこしとか、そういうものが、うず高くつんであった。 説教がおこなわれている、いくつかの小屋もおなじようなかけ小屋であったが、このほう
はずっと大きくて、人びとがぎっしりつまっていた。こしかけは、丸太の背板でできていた。まるみのあるほうにあなをあけて、ぼうをつきさして、足にしてあった。よりかかりはなかった。説教師は、小屋のいっぽうのはずれにある高い壇の上に立っていた。女たちは、囗よけ帽子をかぶっていた。そして、あつぼったいもめんの上着をきているものもあれば、たてよこじまのもめんの上着をきているものもあった。わかい女たちのなん人かは、キャラコの上着をきていた。わかい男たちのうちには、はだしのままの人もいた。いく人かの子どもたちは、服をきないでくず糸織りのリンネルのシャツーまいだった。また、年よりたちのうちには、あみものをしているものがいるかと思うと、こそこそ娘たちをくどいているわかものたちもあった。           t 殼初にわたしたちがはいっていった小屋では、説教師が、賛美歌をひろいよみしていた。彼が二行よむと、人びとがそれをうたった。それをきくとなんとなくこころがふるいたってくる。おおぜいの人びとが、みんなで、咸ご情をかきたてるような声でうたうからだ。それからまた、彼が二行よみ、人びとがまたそれをうたったIそして、それがっづけられていった。人びとは、いよいよ熱をおびてきて、歌声もだんだん高くなっていった。おわりに近づくと、あるものは、うめきはしめた、さけびだすものもあった。それから、説教師は、説教をはじめたが、とても熱心にやりだした。しじゅう手とからだをうごかして身ぶりをし、演
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壇を右へいったり、左にきたり、のめるようにからだをまえへっきだしたりしながら、せいいっぱいの声をしぼりだして、さけぶようにして話しているのだ。そして、ときどき、聖書を高くさしあげて、それをひろげ、あちこちへつきつけるようにして、さけぶのだ。フ」れぞ、荒野における銅のへびなり。これをあおぎみて、生きよ!」するとそのたびに、人びとも、「神に栄光あれ、アーメン」とさけんだ。説教は、そんなふうにしてつづけられ、人びとは、うめき、さけび、そして、アーメンというのである。 「おお、くいあらためるものは、この席にきたれ!(アーメンー)きたれ、罪にけがれたるものよ!(アーメンー)きたれ、やめるもの、いためるものよ!(アーメンー)きたれ、足なえたるもの、めしいたるものよ!・(アーメンー)きたれ、まずしきもの、困窮せるもの、はじおおきものよ!(アーメンー)きたれ、つかれはてたるもの、けがれたるもの、くるしめるものはみな! ―うちひしがれたるたましいもてきたれ!・ くいなやめるこころもてきたれ! なんじら、ぼろと罪とけがれを、まといたるままにきたれ! きよめの水は、おしみなくあたえられん、天国のとびらは、ひらかれてあり1おお、なかにはいりて、いこえ!」(アーメンー 神に栄光あれ、エホバに栄光あれ!) 説教は、そのようにしてすすんでいった。だが、人びとのさけび声となき声のために、説教師がなにをいっているのか、もうききとれなかった。聴衆のあちらからもこちらからも、

人びとが立ちあかって、ただもう力ずくで、むりやり、くいあらためるものの席にすすんでいった。彼らの顔には、なみだがながれていた。そして、くいあらためるものたちが、みんないちばんまえの席にでると、彼らは、うたいさけび、それからわらの上にからだをなげだした。そのありさまといったら、まるで気がぐるったようだった。 ところで、わたしは、すぐ気がついたのだが、王さまが、まえへまえへとすすんでいきながら、だれよりも大きな声でどなっているのだ。そして、ぐんぐん演壇にあかっていくと、説教師が、なにかこの人たちに話をしてくれと、王さまにたのんだ。すると、王さまは、話しだした。王さまはまず、自分は海賊だった、と人びとに話したIインド洋で、三十年以上も海賊をしていたのだIだが、この春のだたかいで、なかまの数がかなりへってしまったので、いま、あらてをつくるために、国にかえっているのである。ところが、ありかたいことに、ゆうべどろぼうにおそわれて、一文なしになって蒸気船から陸にあげられた。だが、それでよかったのだ。自分は、こんなうれしいめに、これまであったことがないからである。自分は、もう、まったくべつな人間になりかわって、いま、うまれてはじめて幸福をあじわっているのだ。それで、自分はびんぼうではあるが、これからすぐたって、どんな苦労をしてでもインド洋にもどり、海賊たちをまともな道にたちかえらせるために、自分の余生を使いたい。というわけは、自分は、あの大洋にいる海賊どもをみんな知っているから、そのしご
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とに、自分よりうってつけの人間はないからだ。一文なしでインド洋までいくには、ずいぶん長いあいだかかるかもしれないが、なんとかして、インド洋までもどっていき、そして、海賊をひとりときふせるたびに自分は、こういうつもりだ。「おれにかんしゃするな。おれをほめないでくれ。なにもかもみんな、ポークビルの野外集会の、あのなつかしい人たちのおかげなのだ。あの人たちは、りっぱな兄弟で、人類の恩恵者なのだ。それから、あの親愛なる説教師、あの人は、またとない、海賊のまことの友だちなのだ。」 そういうと、王さまは、わっとなきだしたので、人びともないた。それから、だれかがさけんだ。「彼のために、喜捨をつのってやれ、喜捨をつのれ。」すると、六人ばかりとびだしていって、金をあつめはしめたが、だれかがどなった。「帽子を持って、彼に、自分でまわらせろ。」そうすると、みんな、そうさせろといった。説教師も、そうしろといった。そこで、王さまは、目をぬぐいながら、帽子を持って、会衆のなかを歩きまわった。そして、歩きながら、人びとを祝福したり、ほめたたえたり、あんなインド洋のようなとおくにいる海賊どものために、こんなによくしてくださってありかたいことだ、とお礼をいった。 かれんな娘たちは、なみだをながしながら、あなたを記念するために、キスをさせてくださいますか、と、あとからあとからとでていって、もうしこんだ。そのたびに、王さまは、キスをした。ぎゅっとだきしめて、五回も六回らキスされている娘もあったIおまけに、
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王さまは、一週間うちにとまってくれとたのまれた。しかも、だれもかれもが、王さまを自分の家にとめたかっており、彼らは、とまってもらえば名誉だと思うといった。だが、王さまは、きょうは野外集会のさいごの日だから、おことばにそうことができない、そのうえ自分は、大いそぎですぐインド洋にいって、海賊どもをときふせなければならないのだから、といった。 いかだにもどってから、王さまがかんじょうしてみると、かきあつめた金は、ぜんぶで八十七ドル七十五セントあった。このほかにも、かえり道に森のなかを通りかかったとき、荷馬車の下にある三ガロン入りのウイスキーのびんを見つけて、せしめてきていた。王さまは、これまで伝道もずいぶんやったが、きょうぐらいもうかった日はない、といった。それから、野外集会のやつらをうごかすには、海賊談にかざる、異教徒の話など、くらべものにならないといった。 公爵は、王さまがかえってきてじまん話をするまでは、自分では、とてもうまいしごとをやったつもりでいたのであったが、その話をきいてからは、それほど思わなくなった。彼は、あの印刷屋で、活字を組んで、百姓のために二つのちょっとしたしごとをしてきたのだIそれは馬のビラだったI料金は、四ドルとった。それから、新聞広告の料金もとってきた。広告料は十ドルかかるのだが、前金ではらうならば、四ドルでのせてやるといって
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iそして、彼らから前金で四ドルもらってきたのだ。また、この新聞のこうどく料は、一年ニドルであったが、前金で予約するなら年半ドルにしてやることにして、予約を三つ三部とってきた。彼らは、れいによって、その代金をまきやたまねぎではらいたかったが、彼は、店を買ったばかりなので、できるだけねだんをさげているのだから、現金でもらいたいといって、それも現金でもらってきた。彼はまた、自分で考えだした一編の詩を活字に組んでのこしてきた1三節からなる詩てIあまくかなしいI「しかり、うちくだけ、つめたき世よ、このきずっけるこころを」という題の詩で1彼は、それをすっかり組みあげて、新聞にすれるばかりにしておいてきた。しかも、彼はそれにたいしてIセントの報酬も要求しなかったのである。そんなわけで、彼は、九ドル半もうけてきたので、一日のしごととしては、かなりうまいしごとをしてきたといったのだ。 それから、彼は、自分で印刷してきたもうひとつのちいさなしごとを見せた。それは、わたしたちのためにすってきたものだから、代金を請求しなかった。にげだした黒人のビラで、その黒人は、つつみをぼうのさきにくくりつけて、かついでおり、その下に「賞金二百ドル」とすってあった。文面は、ぜんぶジムのことで、ことこまかにその人相がかきつけてあった。そして、この黒人は、去年の冬、ニューオーリンズの川下四十マイルのところにあるセントトジャックスの農場からにげだしたもので、北方にいったらしい、つかまえてお
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くりとどけてくれた人には、上記の賞金とその費用をさしあげる、とかいてある。 「これで」と、公爵はいった。「今夜がすぎりゃ、おれたちさえその気なら、ひるまだって川をくだれるんだぜ。だれかやってきたら、ジムの手足を綱でしばって、小屋のなかにころがしておきゃいいんだ。そして、このビラを見せて、いうんだよ、川上でこいつをつかまえたんだが、おれたちはびんぼうで蒸気船にのる金がなかったから、かけ売りで、友だちからこのちいさないかだを買って、これから賞金をもらいにいくところだ、とね。手錠やくさりをつけたら、なおいっそう、ジムににあうかもしれねえが、そいじゃおれたちがびんぼうだという話と、つりあいがとれなくなるよ。そんなものつけたら、よすぎて、宝石をつけたみたいなもんじゃねえか、綱がちょうどいいんだよiおれたちは、統一を持だなきゃならないんだ、よく舞台でいうようにさ。」 わたしたちは、みんな、公爵はなかなか頭がいいといった。そのようにすれば、ひるまくだっても、めんどうなことがおこる気づかいはないのだ。わたしたちはまた、公爵が印刷屋でやってきたしごとのために、あのちいさな町にひとさわぎおこるにちがいないと考えた。しかし、今夜のうちには、町の人たちの手のとどかないところまでにげのびられるだろうと思った。わたしたちさえその気になれば、夜ひるとわず、どんどんくだっていけるのだ。 わたしたちは、かくれたまま、じっとしずかにしていた。十時ごろまで、いかだをおしだ
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さなかったが、それからまもなく、町のずっと沖を、こっそり通りすぎた。そして町がすっかり見えなくなるまで、カンテラをかかげなかった。 朝の四時に、ジムが、見はりに立ってくれといって、わたしをよんだ。そのとき、ジムはいった。 「パックさん、あんたは、この旅で、おらあたちが、もっとたくさんの王さまとあうと思うだかね!」 「ううん」と、わたしはいった。「もうであわないと思うよ。」 「そうだかね。そいじや、いいだよ。おらあ、ひとりかふたりの王さまなら、かまわねえだが、でも、これでもうたくさんだよ。この王さまは、とんでもねえのんだくれだし、公爵だって、にたりよったりだだ。」 わたしは、このときわかったのだが、ジムは、フランス語とはどういうものかききたいから、フランス語を話してみせてくれと王さまにたのんだということだ。だが、王さまは、この国にきてからなん十年にもなるし、そのうえひどい苦労ばかりしてきたので、フランス語をわすれてしまったといったというのだ。
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21 よっぱらい、銃殺さる
1、.・S●に
 もう太陽はのぼっていたが、わたしたちは、どんどんくだりっづけて、いかだをつながなかった。そのうち王さまと公爵が、赤い顔をして、おきだしてきた。だが、川にとびこんで、ひとおよぎすると、ふたりとも、とてもげんきがよくなった。朝の食事がすむと、王さまは、いかだのすみにこしをおろして、長ぐつをぬぎ、ズボンをまくりあげて、両足を川にひたし、気持ちよさそうに、ぶらぶらさせながら、パイプに火をつけて、『ロミオとジュリエット』の暗記をはじめた。そして、かなりよくおぼえてから、王さまと公爵は、いっしょにけいこをはじめた。公爵は、ひとことずつ、せりふのいいかたを、くりかえしておしえなければならなかった。そのうえ、王さまに、ため息をつかせたり、むねに手をあてさせたりしなければならなかった。そして、しばらくたってから、なかなかうまくできたといった。
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 「ただ」と公爵がいった。「あんた、雄牛のような大声で、ロミオーというんじゃねえぜ1あまったるく、しかも、こいこがれ、思いなやんでいるように、ローオーオーミオーと、こういわなきゃだめだよ。ここが、かんじんなんだ。ジュリエットは、ほんとにかわいらしい、ねんねのような娘なんだから、けっして、雄ろばのような耳ざわりな声をだしゃしねえよ。」                  丶 丶  米                 けん         けん さて、つぎに、ふたりは、公爵がかしの木ずりでつくった二本の長い剣を持ちだして、剣劇のけいこをやりだした1公爵は、おれはリチャード三世だといった。ふたりが剣を打ちあいながら、いかだの上をとびまわるありさまは、じつにみごとだった。だが、まもなく、王さまは、けつまずいて、川のなかにおちこんだ。そこで、ふたりは、ひとやすみしながら、彼らが、これまでに川すじでやってきた、いろいろな冒険を話しはしめた。 ひるめしのあとで、公爵がいった。 「ね、王さま、おれたちは、とびっきりうまい芝居をやろうじゃないか。だから、おれは、もうすこし、つけたしをしたいんだ。とにかく、ちょっとしたものでいいから、なにか、アンコールにこたえるものがあったほうがいいからな。」 「オンコールつて、なんだい、ビルジウォーター?」 公爵は、その説明をしてやり、それからいった。 「おれは、(イランドトブリンクか水夫のホーンパイプをやって、アンコールにこたえるが、
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あんたはiそうさね、はてと  おお、そうだ  あんたなら、「ムレ。卜の独白がやれるよ。」 「「ムレ。卜のなにをだって?」 「あのそら、(ムレ。卜の独白をさ、シェークスピアのなかでも、いちばん有名なやつだよ。そりゃ、壮厳なものだぜ。壮厳な! いつだって、大むこうにうけるんだ。この本にはでていないし1本はこれ一さつしか持っていないがIだが、おれは、なんとか思いだせると思うんだがな、ちょっと歩きまわりながら、思いだせるかどうか、やってみるよ。」 そこで、公爵は、いかだの上をいったりきたりしながら、考えにしずみ、ときどきおそろしく顔をしかめた。それから、まゆ毛をつりあげた。つぎには、片手でぎゅっとひたいをおさえて、よろよろとうしろによろめきながら、うめくような声をだした。それから、ため息をつき、さらにまた、なみだをなかすような身ぶりをした。その身ぶりは、水ぎわだって、みごとだった。やがて、公爵は、思いだした。彼は、さあ、しっかりきいていろよ、といった。そして、いかにも身分の高い人のようなようすをした。片足をまえにつきだし、両うでを高くのばし、頭をぐっとそらせて空を見あげたのだ。それから、しゃにむにあれくるい、歯ぎしりをやりだした。そしてそのあと、せりふをいっているあいだじゅう、彼は、うなり、両手をひろげ、むねをはりながら、わたしがこれまでに見たどんな演技より、じょうずにやっ
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てのけた。つぎにかくのが、そのせりふであるI彼が王さまにおしえているあいだに、わたしは、ぞうさもなくおぼえてしまったのだ。
ながらえるか、ながらえぬか。それがぬき身の短剣じゃ。これあればこそ、長き浮き世にくるしみがたえぬのじゃ。たれか、この浮き世の重荷をしのびおろうぞ、バーナムの森がダンシネーンによせきたるまで。もし死後のあやぶみが、大自然の二の膳ともいうべきけがれなき安きねむりをころすことなく、かつはまた、知らぬ運命におもむかんよりはと残忍なる運命の矢玉を投げさすることなくば。われらがためろうは、ただそのためじゃ。なんじ、戸をたたいてダンカンを起こせ!われ、なんじがしかなすをねがうぞ。                         7                                           30たれかしのびおろうぞ、世のはずかしめやあなどりを。
虐主の非道や、おごるやつばらのおうへいや、長びく裁判のもどかしさや、また、あのおごそかな黒布につつまれた暗い墓穴が口をあけて待つま夜中のもだえ死にを。かつて、ひとりの旅人もかえってこぬ、まだ見ぬ国が、うつせみの世におじけをつたえ、かくして決心のほんらいの色は、ことわざの小ねこのごとく、うれいのためにやせほそり、また屋根の上ひくくたれこめたまよいの雲もことごとく、これがために道をそれ、はては、実行という名をうしなうにいたることなくば。死は、ねごうてもなき大終焉じゃ。だが待てよ、うつくしきオフェーリア。そのおもき大理石のおとがいをひらかず。尼寺へゆきや、尼寺へ!
 ところで、王さまは、このせりふが気に入ったものだから、またたくうちに、すばらしくじょうずにやれるようになった。王さまは、じつに、このせりふをやるためにうまれてきたかのようにさえ思われた。いざやりはじめ、あぶらがのってくると、王さまは、はねまわっ
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たり、わめきたてたり、おどりあがったりしたが、そのうまいことといったらなかった。 公爵は、最初にでっくわした、あの機会に、芝居のビラをすってきてぃた。で、それから二、三日、ながれてぃくあいだ、いかだの上は、すごく活気づいていた。と、いうわけはI公爵がいうようにIやすみなしに剣劇とせりふの練習ばかりしてぃたからだ。ある朝、アーカソンレ舳づ‰乱谷詐)のかなり耿訃をくだってぃると、川の大きなまがりかどに。   とう馬が一頭しかいないようなちいさな町が見えてきた。そこで、わたしたちは、その町の四分の三マイルばかり川上の、糸杉の木がおおいかぶさって、トンネルのようになっているクリークの入り口に、いかだをつないだ。そして、ジムだけそこにのこして、カヌーにのって川をくだり、その町で芝居をやれるかどうかしらべにいった。 わたしたちは、思いもかけず、運のいいところにぶっかった。この日の午後、その町にサーカスがかかることになっていたので、いろいろなかたちの古いがた馬車や馬にのって、いなかの人びとが、もうやってきていたのだ。サーカスは、夜にならないうちに町をさるらしいから、わたしたちの芝居は、うまくぃくにちがいなかった。公爵は、地主の大きな屋敷をかりた。わたしたちは、そちこち歩きまわって、ビラをはった。ビラには、こうかいてあった。  シェークスピア劇復興目一
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すばらしきだしもの!今夜かぎり!有名な世界的悲劇役者たちロンドンはドルーリー日レイン座、座っき俳優 二代目デイビッドトギャリックおよびロンドン市ピカデリー街、プディングトレイン小路所在の王立ヘイマーケット座および王立大陸諸座、座っき俳優 初代エドマンドトキーンの二大悲劇俳優出演だしものは、シェークスピア劇『ロミオとジュリエット』の露台の場口ロミオ…………………………………………………………………………ギャリック氏ジュリエット:::::……・:…:::………・:::…::…:::::…:…:…::牛Iン氏  そうで ねっえん一座総出の熱演!衣装 背景 諸道具、新調きばつまた、『リチャード三世』ちゅうの血わき肉おどるはなばなしい剣劇リチャード三世………………………………………………………………ギャリック氏リッチモンド………………………………………………………………………キーン氏          ふきゅう どくはくまた、(ムレットの不朽の独白川一名高き牛Iン氏 出演す!
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同優はパリにて連続三百日間続演せり!当地興行は今夜かぎりヨーロッパ巡業の期日せっぱくのため!入場料二十五セント。ただし召使およびお子さま衆は十セント。
 ビラをはりおわってから、わたしたちは、ぶらぶらと町のなかを歩きまわってみた。店も家も、たいていみな、いまにもこわれそうな、ひからびた、古い木造家屋で、ペンキをぬったことなど一度もないしろものばかりだった。そして、家には足をつけて、地面から三、四フィートあげてあった。川の水があふれたとき、水びたしにならないためだ。家いえのまわりには、ちいさな庭があった。しかし、それらの庭には、白い花のあさがおや、ひまわり、灰の山、古くなってちぢくれた長ぐつと短ぐつ、それから、いくっかのあきびん、ぼろくず、役にたたなくなった金もの類のほか、これというものがそだてられていなかった。板べいには、そのときそのときに打ちっけたらしい、いろいろちがった板が打ちつけてあった。しかも、そのへいはあっちにかたむいたり、こっちにまがったりしていた。門にはたいていちょうつがいが、片方しかなかったIそれも、皮のちょうつがいだった。いくつか、白いしっくいをぬったへいもあったが、公爵は、あれはコロンブスの時代にぬったんだぜ、きっと
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な、といった。庭のなかには、たいていぶたがいて、人がそれをおいだそうとしていた。 店という店は、みな、一つの通りにならんでいた。店のまえには、手製の白い囗よけがかけてあって、いなかからでてきた人びとは、その日よけのぼうに馬をつないでいた。囗よけの下には、織りもののあきばこがあった。のらくらものどもは、一日じゅう、そのあきばこの上にどっかりとかまえこんで、ジャックナイフではこをわっていた。そして、かみタバコをかみながら、大きな口をあけてあくびをしたり、のびをしたりしているIまったくいやしいやつらだ。彼らは、たいてい、こうもりぐらいの大きさの黄色い麦わら帽子をかぶっていたが、上着もチョッ牛もきていなかった。ビルだとか、バ。クだとか、パンクだとか、ショーだとか、アンディだとかよびあっては、たいぎそうに、のろのろと話しあっている。そして、ずいぶん囗ぎたないことばを使っていた。日よけのぼうというぼうには、のらくらものどもが、ひとりずつよりかかって、たいていズボンのポケットに両手をつっこんでいた。そして、ひとかみのタバコをかしたり、かゆいところをかいたりするときのほかは、ポケ。卜から手をだそうとしなかった。彼らのあいだから。 「タバコをひとかみくんねえよ、パンク。」と、いうことばが、しじゅうきこえてきた。 「やれねえ、あとひとかみしかねえんだ。ビルにたのんでみろよ。」
 ビルは、ひとかみのタバコを、彼にくれるかもしれないが、また、うそをついて、ひとかみもないというかもしれないのだ。こういうのらくらもののなかには、一セントはおろか、ひとかみのタバコも持っていないものがいるのである。彼らが、かんでいるのは、みんななかまからかりたやつだ。彼らは、なかまにいうのだ。「ひとかみかしてくんねえよ、ジャ。ク。おれ、ひとかみ持ってたんだけどな、さっき、ペン目トンプソンに、そのさいごのひとかみをやってしまったんだ。」-それは、たいていうそなのである。よその人間なら、ほんとうにするかもしれないが、ジャックは、よその人間ではない。だから、彼は、いう。 「おめえ、あいつにひとかみやったって? ちぇっ、うそつけ。それよりいままでかしたぶんをかえせよ、レーフ目バ。クナー、そうしたら、おれ、おめえにIトンもニトンもかしてやらあ。そして、かえせなどといやしねえぜ。」 「そうさな。おれ、いつだったか、すこしかえしたがな。」 「うん、かえしたよI六かみぽかりな。店で売っているじょうとうのタバコをかしてやったのに、ろくでもないかみタバコでよ。」 店で売っているタバコは、ひらべったい、黒い板タバコなのだが、こういうれんじゅうときたら、たいてい、なんの加工もしてない葉を、ひねってかんでいるのである。ひとかみかりるときには、ナイフなどできらないで、口のなかに入れて、力いっぱい手でひっぱって、
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二つに食いちぎるのだ。だから、ときによると、あらかた、かみちぎられるので、かしたほうが、加えされたタバコをうらめしげにながめて、あてこすりをいうのだ。 「おい、そのかんでるほうをかえしてくれよ、こっちののこりをやるからさ。」 往来も小道も、みんな、どろんこだった。どろ、そのものだIしかも、タールのようにまっ黒などろで、ところによっては、一フィートぐらいふかくなっており、どこへいったって、二、三インチぐらいぬかっていた。そして、ぶたどもがどこにもかしこにも、うろうろ歩きまわって、ブウブウうなっていた。どろんこになっためすぶたが、ひとはらの子ぶたと、のろのろ往来をやってきたと思うと、そのめすぶたが、いきなり往来にねることがあるので、大びとは、よけて通らなければならなかった。だが、めすぶたは、からだをながながとのばし、目をとして、耳たぶをゆっくりうごかしながら、子ぶたに乳をのませている。そのようすといったら、月給でくらしている人のようにしあわせそうだった。まもなく、のらくらもののさけび声がきこえてくる。「そらI ティージ、あいつをやっつけろ。うしっ、うしっI・」すると、めすぶたは、ぞっとするような鳴き声をたてながら、にげていく。その両耳には、ミニひきの犬がくいさかってぶらんぶらんゆれているのだ。と思うと、三、四ダースの犬どもがあつまってくる。のらくらものどもは、みんな立ちあかって、それが見えなくなるまで見おくって、おもしろそうにわらっている。そのさわぎがいかにもありかたい、というよ
うすである。それから、彼らは、もとのようにしずまりかえる。そして、犬のけんかがはじまるまでじっとしていた。この犬のけんかぐらい、のらくらものどもが、むちゅうになって、うれしがるものはなかったiもっとも、のら大のしっぽにテレビン油をかけて火をつけるか、ブリ牛のなべをむすびっけて、大がかけて、かけて、かけ死にするまで、かけまわらせるのは、ただの犬のけんかよりもっとすきだった。 川べりには、岸から川の土にでっぱっている家が、なんげんかあったが、それらの家いえは、もうおじぎをしていて、いまにも川のなかへのめりこみそうになっていた。こういう家には、人はすんでいなかった。片すみの土台下が、えぐりとられている家もあった。そして、その片すみは、川の上にぶらさかっている。こういう家には、まだ人がすんでいたが、あぶないことだ。土地がほそ長く、家ぐらいのはばで、いちじにくずれおちることがあるからだ。帯のようにほそ長く、川岸がゆるぎだしたかと思うと、くずれっづけて、ひと夏のうちに、四分のIマイルもおくまでくずれおちてしまうことさえあった。だから、このような町は、たえまなく、おくへおくへとうつっていかなければならない。 この囗、ひる近くになるにしたがって、往来は、馬車や馬でうずまり、しかも、ひっきりなしに、それがふえてくるいっぽうだった。家族づれで、べんとうを持っていなかからでてきた人びとは、馬車の上でべんとうを食べていた。ウイスキーをのんで、よっぱらっている
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人びとも、かなりいた。 けんかを三つも見た。まもなく、だれかがどなった。 「やあ、れいのボックスがやってきたぞl l今月も、いつもどおりに、いなかから、ちょっぴりのみにでてきたってわけだな。おい、みんな、あいつが、くるぞ!」 のらくらものどもは、だれもかれも、うれしそうにしている。彼らは、いつもボックスのおかげて、おもしろい思いをしているにちがいない、とわたしは思った。ひとりがいった。 「こんどは、あいつ、だれをやっつけようてんだ。この二十年のあいだに、あいつが、ころそうと思った人間を、みんなやっつけていたら、あいつ、ずいぶん有名になっていただろうにな。」 もうひとりの男がいった。 「おれも、ボッグズにおどかされてみてえもんだ。そうしたら、千年も死なねえかもしれねえぜ。」 ボックスは、インディアンのようにホーホーさけびながら、まっしぐらに馬をとはしてきた。そして、どなりたてた。「お1い、道をあけろ、これから、はたしあいにいくんだ。棺おけの相場が、はねあがるぞ。」 彼は、よっぱらっているので、くらの上で、ゆらゆらとゆれていた。もう五十すぎの男で、
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まっかな顔をしている。みんなは、わめきかえし、あざわらい、ぶえんりょなことをいった。すると、ボ。グズもいいかえした。おまえらをおぼえていて、順じゅんにばらしてやるぞ、だが、いまは、ぐずぐずしてるひまがないんだ。おれは、あの老いぼれのジャーバーン大佐をころしに町にでてきたんだから。「まず肉と、菓子は二の口」というのが、おれのすきな金言なんだ、と彼はいった。 ボックスは、わたしをみとめると、馬をよせてきて、いった。 「おいこら、おめえ、どっからきた? 死ぬかくごはできているか。」 それから、彼は、むこうにいってしまった。わたしがびくびくしていると、ひとりの男がいった。 「あいつのいうことなんか、なんでもありゃしないんだ。よっぱらうと、あんな、ばかさわぎをやるんだよ。あいつは、アーカンソーーのおひとよしのばかなんだ。よっていようが、いまいが、人をけがさせたためしなんかありゃしないよ。」 ボックスは、町いちばんの大きな店のまえに馬をのりつけると、日よけのカーテンの下からのぞきこんで、わめいた。 「でてこい、シャーバーンー・ ててきて、てめえがペテンにかけた男にあえ、てめえこそ、おれがおっかけている犬なんだ。往生させてやるぞ!」
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 それから、彼は、口からでまかせの悪口で、ジャーバーンをののしりっづけた。往来は、きき耳をたてたり、わらったり、がやがやさわいでいる人で、いっぱいになった。そのうちに、五十五歳ぐらいのいばった顔つきの男がiしかも、この町では、とびきりじょうとうの服をきた男がI店からでてきた、人びとは、両がわにあとずさって、道をあけてその男を通した。彼は、おちつきはらって、ゆっくりと、ボ。グズにいった。 「もう、ききあきた。だが、一時までは、がまんしてやろう。いいか、一時までだぞIそのあとは、ようしゃしないぞ。一時をすぎてから、たったひとことでもほざいてみろ。どこへにげたって、きっとつかまえてやるぞ。」 そういうと、彼は、くるりとうしろをむいて、なかにはいっていった。人びとは、まじめな顔つきになってしまった。身うごきひとつするものもなければ、わらい声ひとつたてる人もなくなった。ボックスは、ありったけの声をだして、ジャーバーンを口ぎたなくののしりながら、町のむこうのはずれまで馬を走らせていった。だが、すぐもどってくると、店のまえに馬をとめて、また、口ぎたなくののしりっづけた。なん人か、彼のまわりにあつまって、彼をだまらせようとしたが、彼は、わめくのをやめなかった。人びとは、あと十五分で一時になるから、家にかえらなければいけないiいますぐいかなければだめだ、といった。だが、なんの役にもたたなかった。彼は、あらんかぎりのいきおいでののしりっづけ、帽子を
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どろのなかにたたきつけて、その上を馬でふみにじった。そして、またすぐ、気ちがいのように、往来のむこうへ馬をとばしていった。白い髪が、風になびいていた。うまく彼に近づけた人びとは、なんとかして、彼をなだめすかして、馬からおろそうとした。彼をとじこめてよいをさまさせるためだ。だが、むだだったI彼は、また、まっしぐらに往来をとばしてきて、ジャーバーンをののしった。まもなく、だれかがいった。 「娘をよんでこい! -いそいで、よびにいけ。娘のいうことなら、きくことがあるんだ。あいつにいうことをきかせられるのは、なんてったって、あの娘だけなんだ。」 それで、だれか、走っていった。わたしは、すこし往来を歩いていってから、立ちどまった。五分か十分ぐらいたつと、またボックスがやってきたが、こんどは馬にのっていなかった。彼は、よろけながら、往来をよこぎって、わたしのほうにやってきた。帽子はかぶっていなかった。両がわから友だちがひとりずっうでをおさえて、彼をせきたてている。彼は、おとなしく、不安そうにしていた。もう、まえのようにじたばたしなかった。かえって自分でもいくらかいそいでいた。だれかが、大声でいっ‘だ。「ボッグズー」 だれがいったのか、わたしは、声のしたほうに目をむけた。ジャーバーン大佐だった。彼は、身うごきもせずに、じっと、往来につっ立っていた。右手でピストルを高くさしあげて
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いるIねらってはいない、銃身を空にむけているだけだった。ジャーバーンがボックスをよんだと同時に、わかい娘が、ふたりの男といっしょに走ってくるのが見えた。ボッグズとつれのふたりは、だれによびとめられたのか、うしろをふりむいたが、ピストルを見ると、ふたりの男は、わきにとびのいた。すると、銃身は、ゆっくり、ゆっくり、じりじりとおりてきて、水平になったi二れんの銃身は、両方とも撃鉄があかっていた。ボ。グズは両手をあげていった。「だんな、うたねえでくれ!・」パンー 一発めが犒った。ボ。グズは空をひっかきながら、うしろによろめいたIパンー ニ発めが犒った。ボックスは、両手をひろげて、あおむけに、ドスンとたおれた。わかい娘は、かなきり声をあげて、すっとんできて、父親にしがみつき、なきながらいった。「あの人が、おとっつぁんをころしたんだよ。あの人が、おとっつぁんをころしたんだよお!」人びとは、そのまわりをとりかこんで、かたでおしたり、たがいにおしあいへしおいしながら、首をのばしてなかをのぞきこもうとした。うちがわの人びとは、それをおしもどそうとして、さけんでいる。「さがれ、さがれ! 風をあててやれ、風を!・」 ジャーバーン大佐は、ピストルをぽいとなげすてると、くるりとうしろをむいて、たちさった。 彼らは、ボックスをちいさなくすり屋にはこんでいった。群衆が、そのまわりをとりかこ
"
んで、もみあった。町じゅうがついていった。わたしは、とんでいって、窓ぎわのうまい場所に陣どったので、ボ。グズのすぐ近くにいて、なかをのぞきこむことができた。彼らは、ボックスを床にねかせると、大きな聖書を頭の下に入れてやった。それから、もう一さつの聖書をひらいて、ひらいたままボッグズのむねの上にのせた。だが、人びとは、まずなによりさきにボックスのシャツをひきさいたので、弾にうちぬかれたところがIか所見えた。彼は、十二、三べん、大きくあえいだ。むねにのせられた聖書は、息をすうたびにもちあがり、また息をはくたびに、さがった  そして、そのあと、彼は、じっとうごかなくなった。彼は、死んだのであった。すると、人びとは、なきさけんでいる娘を、彼からひきはなしてっれていった。彼女は、十六歳ぐらいで、かわいらしい、やさしい顔つきをした娘だったが、ひどく青ざめて、おどおどしていた。 さて、まもなく、町じゅうの人びとがあつまってきて、ひとめ見ようと、おしあいへしおいしながら、むりやりに窓ぎわによりつこうとした。だが、まえから窓ぎわにいた人びとは、よけようとしなかったので、うしろの人たちは、たえずさけんでいる。「ね、おい、あんたがたは、もう見なすったんだ。あんたがただけ、そこにへばりついていて、だれにも見せようとしないなんて、そりゃこまるよ。だれだって見たいんだ。」 なんのかんのと、ずいぶんどなりかえしているものがあったので、わたしは、そっとぬけ
だした。ひとそうどうもちあがるかもしれないと思ったのだ。往来は、人びとでうずまり、だれもかれも、気がたっていた。ピストルをうったのを見ていた人びとは、みんな、どういうふうにしてうちころしたかを話していた。そういう人たちのまわりには、おおぜいの人びとが、黒山のようによりあつまって、首をのばして、きき耳をたてている。髪を長くのばし、白い毛皮の大きな山高帽をあみだにかぶり、にぎりのまがったつえを持った、ひょろ長い男が、ボックスの立っていたところと、ジャーバーンの立っていたところにしるしをつけた。人びとは、そのうしろからあっちこっちとついてまわり、彼のすることを一つも見のがすまいと目を皿にして、なるほど、なるほどとうなずいてみせた。そうかと思うと、ちょっとかがみこんで、両手をももにのせ、彼がつえで地面にしるしをつけるのを見ている。それから、その男は、ジャーバーンの立っていた場所に、まっすぐぬっと立って、顔をしかめ、帽子のっぽをまぶかくひきおろしてさけんだ。「ボッグズー」そして、つえを、ゆっくりと水平におろして、それからいった。「パンー」それから、うしろによろめいて、また、「パンー・」といった。そして、ばったりとうしろにたおれた。ボッグズがうたれるのを見ていた人びとは、そっくりそのままだ、まちがいなく、そのとおりだったんだ、といった。一ダースばかりの人びとが、ウイスキーのびんをだして、彼にごちそうした。 ところが、そのうちにだれか、ジャーバーンを私刑にしろといいだした。一分ばかりのう
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ちに、だれもかれもが、それを口にしていた。それから、みんなは、気ちがいのようになって、わめきちらしながら、首をしめるために手あたりしだいにものほし綱をかっぱらって、とんでいった。                                  〈上巻・おわり〉
《訳注》(かっこ内の数字は本文ページ)
      丶丶       き4うやくせいしよ崋モーゼとあしの話(一U旧約聖書にある、ヘブ ル人の指導者モーゼが、赤子のとき、かごのな かに入れられ、あしのなかにかくされていのち がたすかった話。崋ランサム(二六) 身代金をとって解放すること。崋ヶ-プ・ホロウ(豐)ふかいくぼ地。崋キャラコ(一石) うすくてつやのある、めのつ んだ白もめん。崋バー囗-じるしのナイフ(一一七) バーローとい う大が作りはしめた、一まいの大型ナイフ。崋天国(三一) アメリカ大陸のことをさしている。崋デリック(三一) 荷あげをするときに使う自由 にうごく柱。崋繋柱(一六五)もやい綱をまきつける、ふとくて みじかい柱。崋自由州(一(四)どれい制度をみとめていない州。崋ラファイエット(二言) 独立軍にしたがって、 アメリカをたすけたフランスの熱血漢。崋ハイランド・メアリー(二言) スコットランド
 の詩人バーンズの愛人。米自由の旗ざお(一回) アメリカの独立戦争のと   きゅうしんとぅしゅうごう もくひょう き、急進党集合の目標に立てた旗ざお。崋苦味チンキ(二四一) りんどう、だいだいの皮な どでつくった健胃薬。崋ビルジウォーター(二七九)「船あか」という意味。崋ギャリック(二九一) イギリスの名優。崋「これぞ、荒野における銅のへびなり。これをあ おぎみて、生きよ!」(元六) 旧約聖書民数記 略に「さおのさきにかけたる銅製のへびをあお ぎみることにより、すべてへびにかまれたる人 びとはすくわる」とある。崋喜捨(元() 寺社やびんぼうな人に、よろこん で施し物をすること。崋木ずり(三屁) ほそ長いぼう状の板。崋ハイランドHブリンク(=晨) 活発な一種のス ゴッドランド舞踏。米ホーンパイプ(言五) 水夫のあいだでおこなわ れる活発な舞踏。
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訳者 吉田甲子太郎(よしだ きねたろう)1894年群馬県に生まれる。早稲田大学英文科卒業。英米児童文学の紹介,少年小説の質的向上につくし,児童雑誌「銀河」の編集や,明治大学文学部長を勤めた。 1957年没。著訳書に『負けない少年』『サランガの冒険』『トム=ソーヤーの冒険』など多数。
崋バーナムの森がダンシネーンによせきたるまで (言七)イギリスの詩人、劇作家シェークスピア ニ五六四~一六二(年)の四大悲劇の一つ『マ クペス』の第二幕第二場のせりふ。米ダンカン(言七) マクベスにころされる王。崋尼寺へゆきや、尼寺ヘー(言() 原作では独白 のなかにはなく、オフェーリアとの対話のせり ふとしてある。
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ハックルベリー=フィンの冒険(マーク=トウェイン作、吉田甲子太郎訳)、第16章とちゅうから第17章とちゅうまで

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がないのだということを、自分になっとくさせようとしたが、そんなことは、なんの役にもたたなかった。良心が頭をもちあげるたびに、いうのだ。「だが、おまえは、ジムが自由をもとめてにげだしたことを知ってるじゃないか、おまえは、岸にこぎつけていって、だれかに知らせることができるはずだ。」そのとおりなのだ――そういわれてみると、とてものがれようがないのだ。そこが、いたいところなのである。良心がいうのだ。「あの気のどくなワトソン嬢が、おまえになにをしたというのだ。あの女のどれいが、おまえのすぐ目のまえをにげていくのに、たったひとこと、あの女におしえてやるだけのこともせずに平気でいられるっていうのは、いったい、あの女にどんなうらみが、あるんだ。あの気のどくな年とった女が、おまえになにをしたというんで、おまえは、そんなにあの人にいじわるくするんだ。なあ、あの人は、おまえに本をおしえてくれたじゃないか。礼儀作法をおしえてくれたじゃないか。おまえに、できるだけよくしてくれようとしたじゃないか、それが、彼女がおまえにしてくれたことなんだ。」
 わたしは、すっかりはずかしくなり、なさけなくなって、死んでしまいたいくらいだった。わたしは、自分で自分をののしりながら、いかだの上をおちつきなくいったりきたりした。ジムも、そわそわして、あっちへいったり、こっちへきたりしながら、ときどき、わたしとすれちがった。わたしたちは、ふたりとも、じっとしていられなかったのだ。ジムは、おどりあがるたびにさけんだ。「ほうら、カイロだ!」そのたびに、わたしは、弾丸にからだをうちぬかれるような気がした。そして、もし、それがほんとうにカイロだったら、わたしは、自分のこのやりきれない気持ちのために死んでしまうだろうと思った。
 わたしがひそかに自問自答をやっているあいだじゅう、ジムは、大きな声でしゃべりたてていた。ジムは、こういうのだ。おれ、自由州についたら、まっさきに金をためるだ。一セントも使わねえだよ。そして、まにあうくらいたまったら、自分のかかあを買うだ、かかあは、ワトソン嬢がすんでいる、すぐ近くの農場の持ちものになってるだよ。それから、ふたりではたらいて、ふたりの子どもたちを買いもどすだ。もし、子どもたちの主人が売らねえといったら、どれい廃止論者にたのんで、ぬすんでもらうだ、と、そんなことをいっているのだった。
 その話をきいて、わたしは、ぞっとした。ジムがこんなに思いきったもののいいかたをしたことは、これまでに一度もなかった。自由になれそうだ、と考えたとたんに、なんという変化が、ジムのこころのなかにおこったことだろう。「黒人に一インチやれば、五イッチのぞむ」という、むかしからのことわざどおりなのだ。だが、それはみんな、わたしの無ふんべつからおこったことなのである。ここにいるこの黒人は、わたしが、にげる手だすけをしてやったのもおなじなのだ。それが大っぴらににげだしてきて、子どもをぬすもうなどといっているのだ――しかも、その子どもは、わたしの知らない人の持ちものなのだ。わたしは、その人にひどいめにあわせられたことなど一度もないのだ。
 わたしは、ジムのいうことをきいて、彼がかわいそうになった。あんなことをいえば品格がさがるばかりではないか。わたしの良心は、これまでにないほどはげしく、わたしをゆりうごかした。とうとう、わたしは、自分の良心にむかっていった。「あんまりいじめないでくれ――いまからだって、おそくはないじゃないか――こんどあかりが見えたら、岸にこいでいって、知らせるからさ。」そうするとすぐに、わたしは、気がらくになり、気持ちもさっぱりとして、こころが羽のようにかるくなった。くしゃくしゃした気苦労など、あとかたもなくきえてしまった。わたしは、いっしんに、あかりを見はりつづけた。歌でもうたいたいような気分になった。まもなく、あかりが一つ見えた。ジムは、大声でさけびたてた。
「もう、でえじょうぶだだ。ハックさん、もう、でえじょうぶだよ。よろこんでくんなされ。とうとう、お待ちかねのカイロさままできたのだよ。おらあ、ちゃんとわかるだよ。」
 わたしは、いった。
「おれ、カヌーにのっていって見てくるよ、ジム。ちがうといけねえからな。」
 ジムは、とんでいって、カヌーの用意をし、古い上着をぬいでそのそこにしいて、わたしのすわり場をつくってくれ、それから、かいもわたしてくれた。こぎだすと、ジムがいった。
 「もうすぐ、おらあ、うれしくてどなりちらすにちげえねえだ。そしてこういうだよ、なにもかも、みんな、ハックさんのおかげだって。おらあ、自由な人間になるだ。だが、ハックさんがいなかったら、とても自由になれなかっただ。ハックさんが、自由にしてくれただよ。ジムは、あんたをけっしてわすれねえだよ、ハックさん。あんたは、ジムがこれまでに持った友だちのうちで、いちばんええ友だちだだ。そのうえ、ジムがいま持っている、たったひとりの友だちだよ。」
 わたしは、ジムを密告しようと、大いそぎでこぎだしたのだが、ジムにそういわれると、せっかくはりつめていた勇気がくじけそうになった。わたしは、それからのろのろとこいだ。こぎだしてきて、よかったのか、わるかったのか、自分でも、はっきりわからなくなった。五十ヤードもはなれたとき、ジムがいった。
「えれえもんだ。やっぱり、うそをついたことのねえ、むかしながらのハックさんだだ。あんたは、このジムめに約束をまもった、たったひとりの白人の紳士だだよ。」
 ところでわたしは、すっかりよわってしまった。だが、おれは、どうしてもやらなければならないのだ――のがれることはできないのだ、と自分にいってきかせた。ちょうどこのとき、小舟が一そう近づいてきた。その小舟には、鉄砲を持った男が、ふたりのっていた。彼らが小舟をとめたので、わたしもカヌーをとめた。ひとりがいった。
「むこうにあるのは、なんだ?」
「ちっちゃないかだです。」
「おまえは、いかだのもんか。」
「そうです。」
「ほかに、なん人のっているんだ。」
「たったひとりです。」
「そうか。ずっと川上の、ほら、あの、でばなの川上でな、今夜、どれいが五人にげたんだ。おまえのいかだにのっているのは、白人か黒人か、どっちだ?」
 わたしは、すぐにはこたえられなかった。なんとかへんじをしようとしたのだが、ことばがでてこないのだ。一、二秒のあいだ、げんきをだしていってのけようかとがんばってみたが、それだけの勇気がでてこなかった――おくびょううさぎほどの勇気もでてこないのだ。わたしは、しだいに気力がなくなってきた。だから、うまいでたらめをいおうなどというもくろみはあきらめて、こたえた。
「白人です。」
「いってみたほうがよかあないかな。」
「どうかいってみてやってください」と、わたしはたのんだ。「のこっているのは、おやじなんですが、いってみてくれさえすりゃ、あんたがたは、きっとあのあかりのあるとこまで、いかだをひっぱっていくのをてつだってくれるにちがいありません。おやじは、病気なんです――それから、おっかあも、メアリー=アンもそうなんです。」
「ちぇっ、なんだってんだ。おれたちは、いそいでるんだぜ、おい。だが、ひっぱっていってやらなきゃなるまいな。さあ、どんどんかいをこいだ、いっしょにいってやるから。」
 わたしは、力を入れて、かいをこいだ。彼らも、けんめいにこいだ。一こぎ、二こぎしてからわたしはいった。
「おやじは、どんなにありがたがるかしれませんよ、ほんとです。いかだを岸にひっぱっていきたいから、おてつだいしてくれってたのむと、だれもかれも、さっさといってしまうんです。だって、ぼくひとりじゃ、ひっぱっていけないんですもの。」
「そうかい、そりゃ、ひでえやつらだな。だが、なんだかへんな話だぞ。おい、おとっつぁんは、どんな病気なんだい?」
「それは――そ――その――そうです、たいしたことはないんです。」
 彼らは、かいをこぐのをとめた。もう、すぐいかだの近くまできていた。ひとりがいった。
「おい、おまえ、うそをついているんだろう。おとっつぁんは、どんな病気なんだ? さあ、正直にいえ、そのほうがおまえのためなんだぞ。」
「いいますよ、あんた、いいますよ――でも、おねがいです。おきっぱなしにしていかないでください。そうしてくださるのが――その――その――紳士です。ぼく、綱をなげますから、それをひっぱって、さきになってこいでさえくれりゃ、そんなにいかだのそばまで近よらなくともすむんです――どうぞ、そうしてください。」
「おい、舟をもどせ、ジョン、舟をもどすんだ」と、ひとりがいった。彼らは、水をぎゃくにかきはしめた。
「そばへよるな、おい、子ども――きさまは風下へまわれ。ちぇっ! 風がこっちへふきつけるらしいぞ。おまえのおやじは、天然痘にかかっているんだな。おまえは、ちゃんとそれを知ってるんだ。なんだって、うちあけて、そういわなかったんだ、おまえは、天然痘をはやらせたいのか?」
「いいえね」と、わたしは、べそをかきながらいった。「まえには、だれにでもいったんですが、でもそういうと、みんなぼくたちをおいてきぼりにしていってしまうんです。」
「かわいそうに、おまえのいうことも、もっともなこった。おれたちは、しんからおまえに同情するぜ。だが、おれたちはな――そうよ、ちくしょう、天然痘にかかりたくないんだ。な、おい、こうすりゃいいんだ。自分で陸にあがろうなどとは、するんじゃねえぞ。そんなことされちゃ、なにもかも、めちゃくちゃだ。二十マイルばかりくだっていくと、川の左がわに町かおる。そこにつくころには、もうすっかり、日があがっているからな、たすけをたのむときにや、みんな寒気がして、熱がでてねているからといってたのむんだぞ。また、へたなことをして、さとられるんじゃないぞ。いいか、おれたちは、おまえにしんせつにしてやろうってんだから、二十マイルくだらないうちは、あがるんじゃねえぞ。いい子だからなあ。そこのあのあかりな、あんなところにあがったって、いいことなんぞ、ちっともありゃしないんだ――あれは、ただの製材工場なんだからな。おい、おまえのおとっつぁんは、びんぼうだろう。きっと、ひどくこまっているにちがいねえんだ。いいか、二十ドル金貨をこの板の上にのせてやるからな、そばをながれていくとき、とるんだぞ。おまえをほっぽってくのは、とても気がひけるんだが。だが、まったくのところ、ほうそう神さまなどにかかわりあっていちゃ、たまんねえからな。」
「待て、パーカー」と、もうひとりがいった。「おれも二十ドルのせてやるよ。さようなら。パーカーさんのいうとおりにするんだよ、そうすりや、まちがいがないからなご 「そうだともおまえ――さようなら、さようなら。もし、にげだしたどれいを見つけたらな、てつだってもらって、つかまえるんだぜ。すこしは金になるからな。」
「さようなら、みなさん」と、わたしもいった。「できさえしたら、ぼく、にげだしたどれいなど、ひとりだってにがしゃしませんよ。」
 彼らがいってしまったので、わたしは、いかだにあがったが、気分がわるく、気持ちがしずんできた。自分がわるいことをしたということが、よくわかっているからだ。そのうえ、ただしいことをしようとしても、わたしには、とてもできないということもわかったからだ。ちいさいときからただしくそだてられなかったものには、よくなるあてがないのだ――いざという場合に、彼をささえて、ただしいことをさせる力がないので、彼は、まいってしまうのだ。それから、わたしはしばらく考えて、こころのなかでつぶやいた。かりにただしいことをしてジムをひきわたしたとしたら、おれはいまより気持ちがよくなるだろうか、いや、おれはいやな気持ちになるだろう――いまとおなじくらいいやな気持ちになるにちがいない。してみれば、ただしいことをするのはやっかいで、わるいことをするのがらくで、その報酬がおなじことだというのに、ただしいことをするのをおぼえたところで、なんの役にたつのだろう。わたしは、いきづまった。わたしはそれにこたえることができなかった。だから、わたしは、もうこのうえ、そんなことでくよくよするのは、よそうと思った。そのときそのときで、つごうのいいことをすることにきめた。
 わたしは、小屋のなかにはいっていったが、ジムはいなかった。わたしは、あたりを見まわした。ジムは、どこにもいない。
「ジム!」
「ここだよ、ハックさん。やつら、まだいっちまわねえだかね? 大きな声、だすでねえだよ。」
 ジムは、川のなかにはいって、とものかいの下で、はなだけだしているのだ。彼らがもう見えなくなってしまったというと、ジムは、いかだの上にはいあがってきた。
「おらあ、話をすっかりきいていただよ。だから、おらあ、川んなかにはいって、やつらがいかだにあかってきたら、岸へおよいでいくつもりだっただよ。そして、やつらがいってしまったら、またおよいで、いかだにもどってこようと思ってただ。だが、なんとあんたは、やつらをうまくだまかしてくれただ、ハックさん。あのいいぬけぶりときたら、まったく、すうっとしただよ。ほんとに、あのおかげで、ジムはたすかっただ――このおかげを、ジムは、けっしてわすれねえだだ、ぼっちゃん。」
 それから、わたしたちは、もらった金の話をした。それは、たいへんなもうけだった――ひとり二十ドルずつになる。これなら、もう蒸気船の甲板乗客にもなれるし、これだけの金があれば、どこの自由州のおくまででも、いきたいところまでいける、とジムがいった。これからいかだで二十マイルかかるとしても、たいしてとおいとは思わないが、いまいるここがカイロだったらありかたいのだが、とジムはいった。
 夜明け近くに、わたしたちは、いかだをつないだ。ジムは、いかだをうまくかくそうとして、とてもやかましかった。それから、一日じゅうかかって、荷物をいくつかにわけてしばって、いかだをのりすてる準備をととのえた。
 その晩の十時ごろ、わたしたちは、ずっと川下の左手のまがりめあたりに、どこかの町のあかりを見ながら、すすんでいた。
 わたしは、なんという町かきくために、カヌーにのってでかけた。じきにわたしは、ひとりの男が小舟《こぶね》を川におしだして、ながしづりのはえなわをおろしているところを見つけた。わたしは、こぎよせていってきいた。
「もしもし、あの町はカイロですか。」
「カイロかって? なにいってんだ。この、大ばかやろうめ!」
「なんていう町なんですか、ええ?」
「知りたきゃ、自分でいって見てこい。このやろう、もう半分間もここにいて、じゃまをしてみろ、こっぴどいめにあわせてやるから。」
 わたしは、いかだにこぎもどった。ジムは、ひどくがっかりしたが、わたしは、力をおとすんじゃない、このつぎこそカイロかもしれないからといった。
 夜明けまえに、また一つの町を通りかかったので、わたしは、またいってみようとした。だが、その町は高台になっていたから、やめにした。カイロのあたりには高台がないとジムがいっていたからである。わたしは、それをわすれていたのだ。わたしたちは、その日は、もうやすむことにして、かなり左手の岸に近い砂州にかくれた。わたしは、なんとなく、自信がなくなってきた。ジムもそのとおりだった。わたしは、いった。
「あのきりの晩に、おれたちは、カイロを通りこしてしまったのかもしれないな。」
「カイロのことなど、もういわねえようにしてくだされ、ハックさん。この、かわいそうな黒人にゃどうも運がねえようだ。おらあ、しょっちゅう、あのへびのぬけがらのたたりが、まだすんでねえんだと思ってるだよ。」
「おれは、あのへびのぬけがらを見つけなければよかったと思うよ、ジム――あんなものが、おれの目にはいらなきゃよかったんだ。」
「そいつあ、なにもあんたのおちどでねえだよ、ハックさん。あんたは、なにも知らなかっただもん。そんなこって、あんた、自分をせめねえがいいだ。」
 夜が明けてから見ると、岸べをながれているのは、はたして、きれいなオハイオ川の水だった。そして、そのむこうを、あいかわらず、ミシシッピのどろ水がながれていた。これで、カイロ上陸ののぞみは、まったくなくなったわけだ。
 わたしたちは、そうだんした。岸にあがったんじゃ、どうにもならないし、いかだで川をさかのぼるなんていうことは、もちろん、できないことだ。暗くなるまで待って、カヌーであとへひきかえし、なんとか、うまい機会をとらえるよりしかたがない。そこで、わたしたちは、これからのしごとにそなえて、げんきをやしなうために、はこやなぎのしげみのなかにもぐりこんでねむった。ところが、うす暗くなってから、いかだのところにもどっていってみると、カヌーがながされてしまっていた。
 わたしたちは、しばらくのあいだ、口もきけなかった。なにもいうひつようがないのだ。これもへびのぬけがらのたたりだということが、ふたりともよくわかっているからだ。話しあってみたところで、なんの役にもたたないのだ。なにかいえば、かえって、おたがいにとがめだてをしているようなことになるばかりだ。そんなことをしたら、きっと、このうえにも、不幸がふりかかってくるにちがいないのだ――つまり、わたしたちが、だまっているほうがいいのだということが、すっかり、のみこめるまで、不幸が、あとから、あとがら、ふりかかってくるにちがいないのである。
 まもなく、わたしたちは、どうしたらいいかということを話しあったが、このままいかだでくだっていって、おりをみてカヌーを買いこみ、それにのってひきかえすよりしかたがないということになった。うちのおやじがよくやっていたように、あたりに人がいないとき、カヌーをそっとはいしゃくしようなどとは思わなかった。そんなことをしたら、あとをおいかけられるにきまっているからだ。
 そこで、わたしたちは、暗くなってから、いかだをおしだした。
 あのへびのぬけがらが、これだけわたしたちにたたったいまとなっても、まだ、へびのぬけがらをいじるのはおろかなことだと信じない人は、これからあと、へびのぬけがらが、どんなにわたしたちにたたったかを見るがいい。そうしたら、いやでも信じるようになるだろう。
 カヌーの買えそうな場所は、岸にいかだがつないである、そのむこうがわにあるものだ。だが、いかだは、どこにも見あたらなかった。だから、わたしたちは、三時間以上もながれをくだっていった。ところが、その晩は灰色にくもって、もやがかかってきた。もやは、きりについでいやなものだ。川のかたちがわからなくなるし、とおくが見えなくなるからだ。もうま夜中近くで、あたりはしずまりかえっていた。すると、そのとき、蒸気船が川をさかのぼってきた。わたしたちは、カンテラに火をつけた。蒸気船から見えるだろうと思ったのだ。のぼりの蒸気船なら、たいていわたしたちの近くを通らないで、むこうの砂州づたいに、かくれ岩にそったゆるやかなながれをもとめてのぼっていくのである。だが、このような晩には、まっこうから川にさからって、ま一文字に、しゃにむに水路をさかのぼってくるのだ。わたしたちには、船が、バタリバタリと、水をたたきながらすすんでくる音だけはきこえていた。だが、すぐま近にくるまで、よく船が見えなかった。船は、まっすぐにわたしたちをめがけてすすんでくる。それは、彼らのよくやるてで、さわらないで、どんなに近くいかだのそばを通りぬけられるか、ためしてみるのだ。汽船《きせん》の車輪《しゃりん》で、大《おお》がいをさらわれるようなことでもあると、水さき案内人が、頭をつきだして、げらげらとわらうのだ。そんなとき、彼らは、とてもうまくやったと、とくいになっているのだ。さて、蒸気船は、ぐんぐん近づいてきたが、わたしたちは、その船も、そんなことをやって、わたしたちのそばをすれすれに通っていこうとしているのだろう、と話しあった。ところが、その船は、ちっとも、よけようとするようすが見えなかった。大きな船だ。ぐんぐん近づいてくる。まるで、まわりにほたるの行列をとまらせた、ひとかたまりの黒雲のように見える。と思ううちに、とつぜん、ぬっと大きくなり、おびやかすようにせまってきた。一列に長くならんだ機関の戸が、どれもおいていて、それが、まっかにやけた歯のようにひかった。そして、ものすごく大きな船首と防舷材が、たちまちわたしたちの頭のま上に、ぐうっと、のしかかってきた。わたしたちにむかって、どなる声がきこえた。機関をとめさせるために鐘ががんがん鳴っていた。わめき声、けたたましい汽笛の音-そして、ジムがいっぽうのがわからとびこみ、わたしが、その反対がわからとびこんだとき、蒸気船は、まっこうからいかだをつきやぶった。
 わたしは、もぐった――そして、川のそこまでもぐりこもうとした。三十フィートの水かき車輪が、わたしの頭の上を通っていくのだから、車輪とのあいだに、じゅうぶんなゆとりがなければ、あぶなかったからだ。わたしは、いつでも、一分ぐらいは水のなかにもぐっていられるのだが、このときは、一分半ぐらいもぐっていたにちがいない。わたしは、むねが破裂しそうになったので、うかびあがろうと、大いそぎで、水をかいた。そして、わきの下のへんまでぽっこりうかびあがり、はなから水をふきだし、すこしばかり、ふうふうと息をついた。もちろん、川はすごいいきおいでながれているのだ。蒸気船は機関をとめてから十秒もすると、また機関をうごかしはしめたことは、いうまでもない。彼らは、いかだのりのことなど、たいして気にもとめていないからだ。だから、もう船のすがたは、ふかいもやのなかに見えなくなっていたが、水をかいて、川をのぼっていく音だけは、まだきこえていた。
 わたしは、大声で、十二、三べんジムをよんだ。だが、ぜんぜんへんじがなかった。そこで、わたしは、立ちおよぎをしているあいだにさわったあつい板につかまって、それをまえにおしながら、岸にむかっておよぎだした。だが、永のながれが左手の岸にむかっているということが、だんだんにわかってきた。してみると、自分はいま、川のおちあいのなかにいるということになる。だから、わたしは、むきをかえて、その方向におよぎだした。
 それは、よくある長いおちおいで、その斜流は二マイルもつづいていた。そのため、わたしは、それをのりきるのにずいぶん長いあいだかかった。そして、どうやらぶじにたどりついて、やっと岸によじのぼった。見とおしがいくらもきかないので、手さぐりで、でこぼこの土地を四分の一マイルあまりすすんでいくと、わたしは、いつのまにか、大きくて古風な丸太づくりの二むねつづきの家にいきあたった。走って通りぬけようとすると、犬がたくさんとびだしてきて、うなったり、ほえたりしながら、わたしにむかってきた。わたしは、こういうときには、ひと足もうごかないほうがいいのだということを、ちゃんと知っていた。
          17 グレンジャーフォード家の人びと
 一分間ぐらいたつと、だれか、窓から顔をださずに、大声でいった。
「こらっ、ほえるな。そこにいるのは、だれだ?」
「ぼくです。」と、わたしはいった。
「ぼくとは、だれだ?」
「はい、ジョージ=ジャクスンです。」
「なにか、用事があるのか。」
「用事じゃありません。ここを通りぬけたいだけなんですが、犬が通してくれないんです。」
「なんだって、こんな夜ふけに、こんなところをうろつきまわっているのだ、おい?」
「うろつきまわっているんじゃありません。ぼく、蒸気船からおっこちたんです。」
「やあ、そうか、おっこちたのか? だれか、あかりをつけろ。おまえの名は、なんといったかな?」
「ジョージ=ジャクスンです。ぼく、まだ子どもなんです。」
「な、おい、おまえがほんとうのことをいっているのなら、こわがらなくてもいいぞ――だれも、ひどいめにあわせはしないからな。だが、うごくんじゃないぞ。そこに、そのまま立っているのだ。だれか、ボブとトムをおこして、鉄砲を持ってこい。ジョージ=ジャクスン、そこにだれかいっしょにいるか。」
「いいえ、だれもいません。」
 家のなかで人びとのうごきまわる音がきこえてきた。あかりがもれてきた。さっきの男が、大きな声でどなった。
「あかりをひっこめろ、ペトシ、この大ばかものめ――なんという、考えなしだ。あかりは、入り口の戸のかげの床におけ。ボブ、おまえもトムもしたくができたら、ふたりとも、自分の位置につくんだ。」
「したくはできました。」
「ところで、ジョージ=ジャクスン、おまえは、シェパドスンのやつらを知っているか。」
「知りません。きいたこともありません。」
「そうか、たぶんそうだろうが、そうでないかもしれないぞ。さあ、もういい。まえへすすめ、ジョージ=ジャクスン。気をつけて、いそぐんじゃないぞ――うんと、ゆっくり、やってこいよ。だれかいっしょだったら、そいつは、あとにおいてこい――でてきたら、そいつは、うちころすぞ。さあ、こい。ゆっくりこい。戸は、自分でおしてあけろ――やっとはいれるだけあけるんだぞ、わかったか。」
 わたしは、いそがなかった。いそぎたくても、いそげなかった。わたしは、一歩また一歩と足をはこんだ。あたりはしんとしていて、もの音ひとつしないので、自分の心臓の音がきこえるような気がするだけだった。犬どもも、人間のようにしずかにしていた。だが、わたしのすこしうしろについてくるのだ。三段になっている丸本づくりの入り口階段のところまでいくと、錠をあけ、横木をはずし、かんぬきをぬく音がきこえた。戸に手をかけて、すこしずつ、しだいにおしていくと、だれかがいった。「ほら、それでたくさんだ――頭をつっこめ。」わたしは、いわれたとおりにした。しかし、わたしは、頭をちょんぎられるのではあるまいかと思った。
 ろうそくが、床の上においてあった。彼らは、みんなそこにあつまって、わたしを見つめているので、わたしも彼らを見かえした。それは二十五秒ぐらいのあいだであった。三人の大きな男が、わたしに鉄砲をむけていた。わたしは、ちぢみあがった。いちばん年かさの男は、髪が白くなっていて、六十歳ぐらいだった。あとふたりは、三十歳かそこらで――みな上品でりっぱな人たちだった――それから、頭の白い、とてもやさしそうな老婦人がいた。そのかげに、ふたりのわかい女がいたが、よく見えなかった。老紳士がいった。
「よし、あやしくはなさそうだ。はいれ。」
 わたしがはいるとすぐに、老紳士は、戸に錠をおろし、横木をかけ、かんぬきをさし、それからわかものたちに鉄砲を持ったままついてこいといった。そこで、みんなで大きな客間にはいった。床に、布でつくった、あたらしい敷物がしいてある。彼らは、おもて窓のほうから見えない片すみにかたまった――おもて窓のほうには、ひとりもいかなかった。彼らは、ろうそくを持って、わたしをよくながめてから、いった。「もちろん、こいつは、シェパドスンのうちのやつじゃないよ――まったく、ちっともシェパドスンのうちのやつらしいところはないよ。」それから、老人が、凶器を持っているかどうかしらべるが、いぞんはないだろうな、おまえをどうしようというのではない――ちょっとたしかめるだけだから、といった。そして、わたしのポケットをさぐったが、手をつっこまず、外からさわってみただけで、よろしいといった。それから、ゆっくりとくつろいで、すっかり身のうえを話してみろ、とわたしにいった。だが、老婦人がいった。
「なんですね、ソール、この子は、ずぶぬれになっているんですよ。おなかだって、すいていると思いませんの?」
「そのとおりだよ、レイケル――わしは、うっかりしていたのだよ。」
 そこで、老婦人がいった。
「ベツィ(これは黒人の女だ)、おまえ、大いそぎで、この子に、なにか食べるものを持ってきておやり、かわいそうじゃないか。それから、そこにいる娘たちのうちだれかいって、バックをおこして、あれに――なんだ、おまえさん、そこにいたのか。そいじゃね、バック、この子をつれていって、ぬれた服をぬがして、どれかおまえの加わいている服をきせてあげなさい。」
 バックは、わたしとおなじくらいの年かっこうで――十三か四か、からだは、わたしよりいくらか大きかった。彼は、うすぎたない頭をし、シャツをたった一まいきているだけだった。あくびをし、げんこつをおしこむようにして目をこすりながらやってきたのだが、それでも、片手で鉄砲をひきずっていた。彼は、いった。
「シェパドスンのやつらがおしかけてきたんじゃないのかい。」
 みんなは、そうじゃない、まちがえたのだといった。
「そうかい」と、バックがいった。「やつらがきたんだったら、おれが、ひとりはしとめてやったんだがな。」
 みんながわらった。すると、ボブがいった。「なんだって、バック。やつらは、おれたちの頭の皮をひんむいてしまったかもしれないぜ、おまえが、こんなにおそくくるんじゃ。」
「うん、おれが、いちばんおしまいか、そいつぁよくないや。おれ、いつだって、だしてもらえないんだもん、だから、うでまえを見せる機会がないんだよ。」
「そんなことは、なんでもないぞ、ハック」と、老人がいった。「いい機会はいくらでもくるからな、そうやきもきするな。さあ、むこうへいって、おかあさんにいわれたとおりにするんだね。」
 二階の彼のへやにあかっていくと、バックは、織りめのあらいシャツと、みじかいジャケットとズボンをだしてくれたので、わたしは、それにきがえた。わたしが、それをきているあいだに、バックは、わたしの名をきいたが、わたしがへんじもしないうちに、彼がおととい森のなかでつかまえた、青かけすと子うさぎの話をはしめた。そして、ろうそくがきえたとき、モーゼはどこにいたか、とわたしにきいた。わたしは、知らないといった。そんなことを、すこしもきいたことがないからだ。
「あてるんだよ」と、バックはいった。
「あてられっこないよ、そんなこと、まるできいたことがないんだもん。」
「でも、あてられるじゃないか。とてもやさしいんだぜ。」
「でも、どのろうそくだい?」と、わたしはきいた。
「なあに、どのろうそくだって、いいじゃないか」と、バックはいった。「おれ、モーゼがどこにいたんだか、知らないんだよ。どこにいたんだい。」
「もちろん、やみのなかにいたんじゃないか。やみのなかにだよ。」
「ところで、モーゼがどこにいるか知ってんのに、きみはなにをおれにきいてるんだい。」
「なにをつて、ちぇっ、なぞじゃないか。きみは、いつまでここにいるんだい。いつまでもいなきゃだめだぜ、ちょうど、景気がいいときなんだよ――いま学校なんかないんだ。きみは、自分で犬を持ってるかい。おれは、一ぴき持ってるんだぜ――こっぱを川んなかになげてやるとさ、とびこんでいって持ってくるんだ。きみは、日曜日に、頭を手入れをするのすきかい。そのほかにも、なんのかんのとばからしいことをやるのがさ。おれ、だいっきらいなんだけどなあ、おかあさんが、そうさせるんだ。このズボンぐらいいやなものって、ありゃしないよ。はいてたほうがいいのかもしれないけどさ、おれ、はかないほうがいいや。とても、むしむしするんだもん。服もう、きたかい。もういいんだね。さあ、いこう。きみ。」
 つめたいとうもろこしパンとつめたいコンビーフ、それからバターとバターミルク――下で、そういうものを、わたしのために用意しておいてくれた。わたしは、これまでに、こんなにうまいものにでっくわしたことがなかった。バックもおかあさんもほかの男たちも、みんなとうもろこしのくきでつくったパイプをだして、タバコをすいはしめた。すわないのけてていった黒人の女と、ふたりの娘たちだけだった。彼らはみな、タバコをすいながら話をしたので、わたしも食いながらしゃべった。娘たちは、さしこをきて、髪をうしろにたらしていた。彼らは、わたしにいろいろなことをきくので、わたしは、こう話した。おやじとわたしと家族ぜんぶで、わたしたちは、アーカンソー州のずっと南はずれのちいさな農園でくらしていたのだ。ところが、姉のメアリートアンがにげていって、結婚したが、消息がわからなくなったので、ビルがさがしにでかけていったが、ビルもゆくえ不明になってしまった。そのうちトムとモードが死んだので、あとにのこったのは、わたしとおやじだけになってしまったのだ。そのうえ、おやじは、いろいろな難儀にあったので、まるはだかだった。だから、おやじが死ぬと、農園も人手にわたっていたから、わたしは、のこりものをまとめて、甲板乗客になって川をのぼってきたのだが、船からおっこちてしまったのだ。そんなわけで、わたしは、ここにやってきたのだ。そうわたしが話すと、彼らは、いたいなら、いつまでもここにいてもいいといった。もう夜明け近くになっていたので、それからみんなで寝床にはいった。わたしは、バックといっしょにねたが、朝になって目をさましたら、なんとしたことだ。わたしは、自分の名まえをわすれてしまっていたのである。だから、わたしは。一時間ばかり、ねたまま考えていた。そして、バックが目をさましたとき、いった。
「きみ、字がっづれるかい、バック。」
「つづれるさ。」
「おれの名なら、きっとつづれないぜ。」
「つづれないことがあるもんか。できるかできないか、かけをしろ。」
「よしきた。そいじや、つづってみろよ。」
 「〔り-QlO-一-匈IQ卜〕-μ-MlO-コ《ジー イー オーアールジー イージェー エー エクス オー エヌ》――ほら、どうだい。」
「なるほど」と、わたしはいった。「つづれたよ。だが、おれ、きみにはつづれないと思ってたんだよ。なまやさしくっづれる名まえじゃないんだもん――ならわないでもすぐっづれるなんて。」
 わたしは、こっそりと、それをかきとめておいた。だれかに名まえをつづらせられることがあるかもしれないのだから、それをよくおぼえておいて、いつでも口をついてでるようにしておきたかったからだ。 家族の人びとは、とてもしんせつだったし、家は、なかなかりっぱだった。わたしは、片いなかで、これほどりっぱな、しかも当世風な家を見たことがなかった。玄関の戸についているかけがねは、鉄やしか皮のひものついた木ではなかった。町の家とおなじように、まわす、しんちゅうのノブがついていた。客間には、寝台など一つもおいてなかったし、おいてあるようなようすもなかった。町でさえ、客間に寝台をおいてあるところが、ずいぶんたくさんあるのだ。そこをれんがでたたんだ大きな暖炉もあった。そのれんがは、水をかけて、ほかのれんがでみがいてあるので、赤くきれいになっていた。ところどころ、スペインかっ色という赤い水ペンキを、ぬってあるところもあったが、それは、町でやっているのとおなじだった。大きな丸太をのせることができるような、しんちゅうのまきわり台もあった。炉だなのまんなかには時計がおいてあった。その時計のまえがわのガラスの下半分には町の絵がかいであり、そのまんなかのまるいところが太陽になっていて、そのむこうで、ふりこがゆれているのが見えていた。チクタクというその音は、それはきれいだった。が、旅まわりの商人がやってきて、きれいにそうじをし、すっかり修繕したあとでも、その時計は、ボンボンと百五十も打つまで打ちやめないことがよくあった。こんな時計だが、彼らは、売って金にしようとはしないのだ。
 さて、この時計の両《りょう》がわに、ふうがわりなおうむがおいてあった。白墨《はくぼく》のようなものでつくったらしいのだが、なかなか、はてな色どりがしてあった。その一つのおうむのそばには、瀬戸物のねこがおいてあった。もう一つのおうむのそばには、瀬戸物の犬がおいてあった。そして、そのねこと犬は、おすと、キュウ、キュウと鳴いたが、口もあかなければ、顔つきもかえないし、おもしろかっているようでもなかった。はらの下のほうから、キュウ、キュウ、音がしてくるだけなのだ。そういうもののうしろには、野生七面鳥の羽でつくった大きなおうむが二つひろげてあった。へやのまんなかにあるテーブルの上には、瀬戸物のうつくしいかごがおいてあった。そのなかに、りんご、みかん、もも、ぶどうなどがいっぱいもってあった。それらのくだものはほんとうのくだものよりずっと赤くて、ずっと黄色くて、ずっときれいだった。だが、ほんものでないことは、かけたところから白い白墨みたいなものが、のぞいているのでわかった。
 そのテーブルには、うつくしい油布でつくったテーブルかけがかけてあって、その上に、両翼と両足とをひろげたわしが、青と赤でかいてあり、そのへりにも色がぬってあった。彼らの話によると、それは、はるばるフィラデルフィアからとりよせたものだということだった。テーブルの両はしには、また、本がなんさつも、きちんとかさねられていた。その一さつは、たくさん絵がはいっている、家庭用の大きな聖書であった。また一つは、『天路歴程』で、家族をほうりだしていった男の物語だが、なんのために家出したかはかいてなかった。わたしは、ときどきかなり熱心によんだ。かいてあることはおもしろいが、しかし、かたくるしいものだった。もう一さつは、『友情のおくりもの』という宗教詩歌集で、うつくしい絵と詩でいっぱいになっていたが、わたしは、詩はよまなかった。ヘンリー=クレーの演説集もあった。それからガン博士の『家庭医学全書』もあった。それには、人が病気になったり死んだりしたとき、どうしたらいいかが、ぜんぶかいてあった。また、賛美歌の本も一さつあった。そのほかにも、ほかの本がたくさんあった。やなぎの枝でつくった、きゃしゃないすもおいてあった。そのいすは、まだすこしもいたんでいなかった――まんなかがふくろのようにへこんで、やぶれている、古バスケットのようないすではなかった。
 かべには、絵がかかっていた――おもに、ワシントンやラファイエットの絵や、戦争の絵、ハイランド=メアリーの絵や、それから「独立宣言書署名の図」といわれている絵などである。家のものたちが、クレヨン画といっている絵もなんまいかかかっていたが、それはここの死んだ娘が十五のとき、自分でかいたものだった。それは、わたしがこれまで見たどんな絵ともちかっていた――どれもたいてい、ふつうの絵より黒ずんでいた。一まいは、黒い衣装をつけたすらりとした婦人の絵であった。きものの胴がわきの下でほそくくくられ、両そでのなかほどにキャベツのようなふくらみがあった。そして、黒いベールのついた、黒い大きなシャベルのようなかたちの帽子をかぶっている。ほっそりとした白いくるぶしは、黒いテープで十文字にしばってあって、のみのようなかたちをした、ごくちいさな黒いスリッパをはいていた。そして、彼女は、しだれやなぎのかげの墓石に、右ひじでもの思わしげによりかかっている。左手はだらりとたれて、白い(ンカチと手さげぶくろとをささえていた。絵の下には、つぎのようにかいてある。「もうわたしはあなたにおめにかかれないでしょう、ああ」もう一まいはわかい婦人の絵であった。彼女は髪の毛をまっすぐに頭のてっぺんへかきあげ、そこにまげをつけていた。まげのうしろにくしが、いすのよりかかりのようにそびえている。女は顔に(ンカチをあててないているのだ。そして、片手に、死んだ小鳥をのせているが、その小鳥は、あおむいて、足を上にむけている。この絵の下には、「二度とあなたのやさしい声はきかれないでしょう、ああ」とかいてあった。またわかい女が、窓から月を見あげている絵もあった。彼女のほおには、なみだがながれていた。片手に封をきった手紙を持っている。その片はしに黒い封ろうがついていた。そして、くさりのついたロケットを、口につよくおしあてているのだ。この絵の下には、「あなたはいってしまったの、そうだ、いってしまった。ああ」とかいてあった。これらの絵は、みなよくかけていたが、どういうわけかわたしはすきになれなかった。というわけは、すこしでも気分のおもいときこの絵を見ると、わたしは、いつもいらいらしてくるからだ。この家の人たちは、ひとりのこらず、彼女の死をかなしんでいた。生きていれば、彼女は、このような絵をもっともっとたくさんかいだろうし、また人びとは、これらの絵を見るたびに、自分たちのうしなったものを考えるからである。だが、わたしは、このような彼女の気だてでは、墓場にいたほうがしあわせだろうと思った。彼女は病気になったとき、みんなが彼女の最大の大作といっている絵に、とりかかっていた。そのため、その絵ができあがるまで生かしておいてくださいというのが、彼女のまい日まい晩の祈りであったが、しかし、彼女は絵をかきあげずに死んだ。それは、白い長いガウンをきたわかい女が、橋のらんかんの上に立っている絵であった。その女は、髪をぜんぶうしろにたらして、いまにも川にとびこみそうにして、月を見あげている。なみだがほおをながれていた。そして、二本のうでをむねに組みあわせている。それからべつの二本のうでをまえにのばしている。それからもう二本のうでが、月にむかってさしのべられている。どの二本のうでがいちばんてきとうかと考えたのだ。だが、まえにもいったように、彼女は、どの二本のうでにしたらいいか、その決心がつかないうちに死んだのだ。だから、この絵は、彼女のへやの寝台の頭の上に、いまでもかけてあって、彼女の誕生日がめぐってくるたびに、人びとは、そこに花をかけるのだった。ほかのときには、この絵はちいさなカーテンでかくされていた。その絵のわかい女は、うつくしく、やさしい顔をしていたが、うでがあまりたくさんあるので、わたしには、ざんねんながら、なんとなくくものように見えるのだった。
 このわかい少女は、生きていたころ、きりぬき帳を持っていて、プレスビテリアン=オブザーバー紙から、死亡記事《しぼうきじ》や、不慮《ふりょ》の事故《じこ》や、病気《びょうき》でくるしんでいる人びとの記事などをきりぬいては、いつもそれにはっていた。そして、そのあいだに、自分でつくった詩をかいておいた。それは、とてもりっぱな詩だった。つぎの詩は、井戸におちて、おぼれ死んだ、スティーブントダウリングトボッツという少年のためにつくった詩である。
[#3字下げ]死せるスティーブン・ダウリング=ボッツによせる詩
[#ここから2字下げ]
しかして、わかきスティーブンは病みたりしや
 しかして、わかきスティーブンは死したりしや
しかして、かなしむ人びとは、あいつどいしや
 しかして、会葬者らは、なきたりしや
いな、かくのごときは
 わかきスティーブン=ダウリング=ボッツの運命にあらざりき
かなしむ人びと、おおく彼のまわりにつどいたりしも
 そは、やまいにたおれしにはあらざりき
百日ぜきは、かの人のからだをくるしめず
 おそろしきふきでものするはしかも、彼をいためざりき
かくのごときものは、スティーブン=ダウリング=ボッツの
 聖なる名をそこなうこと、あたわざりき
さげすまれし愛も
 かなしみをもて、彼のまき毛の頭を打たず
胃病もまた
 わかきスティーブン=ダウリング=ボッツを打ちひしがざりき
おお、しかり。されば、なみだにくもる目もてきけ
 わがかたる彼のさだめを彼がみたまは、つめたき世よりとびさりぬ
 その身はふかき井戸におちて
人びと、そをひきあげて水をはかせたれど
 ああ おそかりき
彼のみたまは、はるかなる空高くのぼりゆきたり
 善と偉大との国にあそばんと
 エメリン=グレンジャーフォードは、十四歳にもならないうちに、このような詩をつくることができたのだから、のちのち、どんなにりっぱな詩をつくれるようになったか、けんとうもつかないほどだ。バックの話によると、詩は彼女の口をついて、すらすらとでたということだ。むねに手をおいて考えなければならないようなことは、一度もなかった。いきおいよく一行かいて、それとうまくあうことばが見つからないと、さっさとそれをけして、またべつな一行をかき、そしてどんどんかきつづけていくのだ、とバックはいった。彼女は、詩をつくるのに、気むずかしくなかった。あわれっぽいことであるかぎり、題さえあたえてやれば、どんなことでも詩につくることができた。男でも、女でも、子どもでも、だれかが死ぬとすぐ、彼女は、死体がまだつめたくならないうちに、死人へのたむけの詩を持ってでかけた。となり近所の人びとは、一にお医者、二にエメリン、三に葬儀屋といっていた――葬儀屋が彼女よりさきになったことは、たった一度だった。それは、死人の名まえに韻をあわせることにてまどったからである。その名はホイッスラーというのであった。こののち、彼女の健康は、すぐれなくなった。彼女は、けっして病気をうったえなかったが、しかし、なんとなくやつれて、長くは生きていなかった。わたしは、彼女のかいた絵にあてられて、彼女のことをやりきれない女だと思うようになると、彼女が使っていたちいさなへやへ、よくあがっていって、古いきりぬき帳をだしてよんだ。かわいそうな子だった。わたしは、この家の家族が、死んだものもひっくるめて、ぜんぶすきになった。だからわたしは、いつまでもこの家の大びととなかよくしていたいと思った。かわいそうにも、エメリンは、自分が生きているあいだは、だれが死んでも、その人のために詩をつくってやったのだが、彼女が死んだあと、彼女のために詩をつくる大がひとりもいないのが、わたしには、ふつごうなような気がした。そこで、わたしは、いっしょうけんめいになって、一、二節、詩をつくろうとした。だが、どうしてもかきつづけられそうもなかった。エメリンのへやは、きちんときれいにかたづけられて、へやのなかにあるものはひとつのこらず、彼女が生きていたころのこのみどおりにおいてあった。そして、だれもこのへやではねなかった。老婦人は、黒人の召使がたくさんいるのにもかかわらず、自分でそのへやのそうじをしていた。そして、彼女はそのへやでずいぶんよくぬいものをしたが、聖書をよむときはたいていそのへやでよんだ。
 さて、わたしは、客間のことを話していたのであったが、そこの窓には、うつくしいカーテンがかかっていた。それは、白地に、城壁いっぱいにつる草のからんだ城と、水をのみにくる牛のむれの絵がかいてあるカーテンだった。このへやには、ちいさな古いピアノがおいてあったが、それは、がらくたピアノだった。けれども、娘たちが『さいごのくさりはたたれたり』をうだったり、『プラーハのたたかい』をひいたりしているのをきくのは、とてもたのしかった。かべはどのへやのかべも、しっくいでぬってあった。そして、たいていのへやには、敷物がしいてあった。また家の外がわはぜんぶ、白くぬられていた。
 この家は、二むねからなっていて、そのあいだの広いあき地には、屋根がかけられ、床がはってあった。だから日中には、よくそこにテーブルを持ちだすことがあった。そこにいると、すずしくて気持ちがよかった。これいじょういい場所など、あるものではない。そのうえ、料理はうまく、おまけに、たくさんでるのである。
                 18 活劇《かつげき》
 グレンジャーフォード大佐は、紳士だった。どこから見ても紳士だった。家族も、みんなりっぱな人たちであった。彼は、世間でよくいう、生まれのいい人だった。生まれがいいということは、馬にはもちろん、人にだってたいせつなことだということを、ダグラス後家さんがいっていた。そして、後家さんがわたしたちの町では第一流の貴族だということをみとめないものは、ひとりもいなかった。わたしのおやじでさえ、自分自身はどろなまず同様でありながら、そういっていたものだった。グレンジャーフォード大佐は、ひじょうにせいが高くて、やせていた。そして、あお黒いような顔色をし、あかみというものが、顔じゅうどこにもなかった。彼は、まい朝、そのほっそりした顔を、きれいにそったが、そのくちびるのうすいことといったらなかった。はなは高かったが、はなのあなは、とてもちいさかった。しかも、まゆ毛がふとくて、まっ黒な目が、ふかくおちこんでいたので、ほらあなのなかからのぞいているように見えた。ひたいは高く、くせのない白い髪が、長くのびて、かたまでたれさがっていた。手はほそくて長かった。そして、まい日かならずあらいたてのシャツをつけ、頭から足のさきまで、白いリンネルでつくった服をきちんときていたが、それがとてもまっ白なので、見ていると目がいたくなった。日曜日になると、彼はしんちゅうのボタンのついた青い燕尾服をきた。そして、銀のにぎりのついた、マホガユーのつえをたずさえて歩いた。彼には、うわついたところなどすこしもなく、大声をだしたことがなかった。彼は、このうえなしにしんせつだった――そして、だれにでも、それが感じられるので、みんなが彼を信頼するようになるのだった。彼はときおり、ほほえむことがあったが、その笑顔は、見ていても気持ちがよかった。だが、彼が自由の旗ざおのようにすっくと立ちあがり、彼のまゆ毛の下から、いなずまのような光がぴかり、ぴかりとひらめきだしたとなると、だれだって、まずまっさきに、木によじのぼって、それから、なにごとがおこったのか、ゆっくり観察したくなるのだった。彼は、だれにむかっても、行儀をよくしろといってきかせるひつようはなかったi彼のまえにでると、だれもかれも、みんな行儀がよかったからである。おまけに、彼といっしょにいるのをよろこばないものは、ひとりもなかった。ほとんど、いつでも、彼は日光だった――つまり、彼がいるところはいつでも、日があたっているよう
に思われたのである。だが、彼が雲の峰のなかにかくれると、三十秒聞ぐらいまっになった。しかし、それだけで、ききめはじゅうぶんだった。それから一週間ぐらいは、二度とまちがいはおこらなかった。
 朝、彼と老夫人が二階からおりてくると、家族のものはぜんぶいすから立ちあがって、朝のあいさつをし、ふたりが席につくまでは、だれもこしをおろさなかった。それから、トムとボブが、卓上用の酒びんが入れてある食器だなのところにいって、コップに苦味チッキを酒にかきまぜて、それを彼にわたした。すると、彼は、そのコップを持ったまま、トムとボブが自分たちのぶんをつくるまで待っていた。それから、トムとボブがおじぎをして、「おとうさんとおかあさんとに、わたしたちのつとめをつくします」という。ふたりは、ごく、わずかに頭をさげて、ありかとうとこたえ、そこで親子三人が、コップをかたむける。つぎに、ボブとトムは、自分たちの水のみコ。プのそこにのこっているさとうとごくすこしばかりのウイスキーかりんご酒にさじいっぱいの水をついで、わたしとバックにわたしてくれる。そこで、わたしたちも老人夫婦のためにかんぱいをした。
 ボブがいちばん年上で、トムは二番めだった――ふたりとも、せいの高い、りっぱな男だかたはばか広く、顔は日にやけ、黒い髪の毛は長くのび、目はまっ黒だった。そして老紳士のように、白いリンネルの服をきちんとき、つばの広いパナマ帽をかぶっていた。
 それから、シャロット嬢がいる。彼女は、二十五歳だった。せいが高かった。誇りと気品にみちていた。そしていばった女であったが、おこっていないときは、とてもしんせつだった。だが、おこったとなると、父親とおなじで、その場で人をめいらせるような顔つきになった。が、彼女はうつくしかった。
 妹のソフィア嬢もきれいだったが、性質はシャロット嬢とはちがっていた。彼女は、はとのようにおとなしく、かわいらしく、まだ二十歳になったばかりだった。 彼らは、めいめい、身のまわりの世話をさせる、つきそいの黒人を持っていた――バックでさえ持っていた。わたしは、人に自分のことをしてもらうことになれていなかったから、わたしのつきそいになった黒人は、ばかにらくだった。だが、バックの黒人ときたら、いつも、目のまわるほどいそがしかった。
 いまの家族は、それだけだったが、まえは、もっといたのだ――もう三人むすこがいたのだが、彼らはころされた。それから、死んだエメリンもいたのだ。
 老紳士は、たくさんの農場と百人以上もの黒人どれいを持っていた。ときどき、そのまわり十マイルから十五マイルぐらいのところから、おおぜいの人たちが馬にのってやってきて五日か六日とまっていった。そして、そのあたりや川で、大名あそびをするのである。ひるまは森のなかで、ダンスをしたり、ピクニックをしたりし、夜は夜で、家のなかで舞踏会をひらいた。それらの人びとは、たいてい、ここの家族の親類だった。男たちは、鉄砲をたずさえてきていた。みんな、りっぱな家柄の人びとであることはいうまでもなかった。
 その近くに、もう一つ家柄のりっぱな一族があった――五、六家族で――たいていはシェパドスンという名まえだった。その一族は、グレンジャーフォード一族におとらず、上品で、家柄がよく、金持ちで、えらそうだった。シェパドスン家とグレンジャーフォード家とは、この家からニマイルばかり川上にある、おなじ船着場を使っていた。だから、ときどき、みんなといっしょに船着場にでかけていくと、シェパドスン家の人びとがおおぜい、すばらしい馬にのってそこにいるのを、よく見かけた。 ある日、バックとわたしが狩りをしながら森のなかへふかくはいりこんでいくと、馬のくる音がきこえてきた。ちょうどわたしたちは、道路をよこぎろうとしていたところだった。バックがいった。
「はやく! 森にとびこめ!」
 わたしたちは、森のなかにとびこむとすぐに、木の葉をすかしてのぞいてみた。まもなく、りっぱなわかものが、馬をとはして近づいてきた。そののりかたは、ゆったりとしていて、まるで軍人のようだった。くらのまえがわに、鉄砲をよこたえていた。わたしは、その男を、まえに見たことがあった。ハーネー=シェパドスンというわかものだ。わたしの耳のそばで、バックの鉄砲が鳴った。ハーネーの帽子が頭からころがりおちた。彼は、鉄砲をつかんで、わたしたちがかくれているところに、まっすぐ馬をのりいれてきた。だがわたしたちは待っていなかった。わたしたちは森をぬって走っていた。森は、そうしげっていなかったので、わたしは、弾をかわすために、かたごしにふりかえってみた。ハーネーがバックに鉄砲をむけているのが、二度見えた。だが、じきに、彼はひきかえしていった――帽子をひろうためだろうと思ったが、たしかめることはできなかった。わたしたちは、家につくまで、かけどおしだった。老紳士の目は、一瞬ぎらぎらとひかった――よろこんでいるのかもしれないとわたしは思った――それから、その顔がすこしおだやかになると、彼は、いくらかやさしい声でいった。
「わしは、やぶのかげからうつようなやりかたは、きらいだぞ。どうして、おまえは、道路にでていってやらなかったのだ。」
「シェパドスンのやつらは、そんなことをしやしませんよ、おとうさん。やつらは、いつだって、こすいことをするんです。」
 シャロット嬢は、バックがその話をしているあいだじゅう、女王のように頭をあげていた。はなのあなが大きくなり、目がひかっていた。トムとボブはふたりとも、顔をくもらせていたが、なにもいわなかった。ソフィア嬢は、さっとあお白くなったが、あいてがけがもなにもしなかったということがわかると、また顔色をとりもどした。 わたしは、穀物倉の下手の木の下で、バックとふたりきりになると、すぐにきいた。 「きみは、あの男をころそうと思ったのかい、バック。」
「うん、そうだとも。」
「あの男は、きみになにかしたのかい。」
「あの男? あいつは、おれになにもしやしないよ。」
「そいじゃ、なんのために、ころそうとしたんだい。」
「なあに、なんのためもありゃしないさ――ただ、宿敵のためだよ。」
「しゅくてきって、なんだい。」
「おやおや、おまえは、どこでそだったんだい。宿敵って、なんだか知らないのかい。」 「おれ、そんなこときいたこともないんだ――なんのこったい。」
「うん」と、バックは、いった。「宿敵ってな、こういうもんなんだよ――ひとりの男がほかの男とけんかして、そいつをころすのさ。すると、ころされたやつの兄弟が、ころしたやつをころす。するとまた、こんどころされたやつの兄弟が、あいてをころすというぐあいに、両方の兄弟たちが、おたがいにころしあうのさ。それから、いとこたちが、よこからこのけんかにわりこんでくる――そして、そのうちみんなころされてしまう、そうなると、宿敵はなくなるんだよ。だが、そいつは、よういにゃかたづかないんだ、長い年月かかるんだ。」
「この宿敵も長くかかってんのかい、バック。」
「うん、そうだ! こいつがはじまってから、三十年かそこらになるんだぜ。なんかもめごとがあったんでさ。そのらちをあけるために、裁判《さいばん》ざたになったんだ。ところがいっぽうが負けたんで、そいつが、かったほうを鉄砲でうちころしたんだ――もちろん、そいつは、ごくあたりまえのことをしただけなんだ。だれだって、そうするよ。」
「どんなもめごとだったんだい、バック――土地のことでかい。」
「そうかもしれないがおれ、知らないよ。」
「ところで、だれがうったんだい。グレンジャーフォード家の人かい、それとも、シェパドスン家の人なのかい。」 「ちぇっ、おれそんなこと知るもんかい。ずっとむかしのことじゃないか。」 「知ってる人はいないのかい。」 「ああ、そうだ。おとうさんなら、知ってるかもしれないよ。それから、だれか年よりならね。でも、はじめなんでけんかしたのか、もうだれも知りゃしないさ。」 フ」ろされた人が、たくさんあるかい、バック。」
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Tつん、ずいぶん葬式がでたぜ。だが、いつでもころすとはきまってないんだ。おとうさんは、しかうち弾を、なん発か、くっているんだぜ。だが、そんなこと、どっちみち、たいしたことだと思ってないから、気にしちゃいないんだ。ボブだって狩猟ナイフですこしきられてるしさ、トムもI、二度けがさせられているんだ。」 「今年、だれかころされたかい、バック。」 「うん。こっちでもひとりころしたし、むこうでもひとりころしたよ。三月ばかりまえのことなんだ。いとこのバ。ドという、十四になる子が、川むこうの森を、馬で通ってたのさ。バッドめ、まぬけなことには武器を持ってなかったんだ。そして、さびしいところにくると、うしろから馬の足音がきこえてきたのさ。ふりかえってみると、年よりのホルティ日シェパドスンが、鉄砲を手に持って、白髪を風になびかせながら、おいかけてくるじゃないか。ところがバッドときたら、馬からとびおりて、やぶににげこまないでも、じゅうぶんにげきれると思ったもんさ。だから、ふたりは、負けずおとらず、五マイル以上もかけつづけたんだけどさ。老人のほうが、すこしずつおいつめてくるんだ。バッドは、もうかけてもだめだとわかったから、さいごに馬をとめて、ぐるりとむきなおったんだ。弾をせなかにうけて、ひきょうもんだと思われたくなかったからさ。そこへ、老人がかけつけてきて、バ。ドをうちころしたんだ。だが、その老人がとくいになっていられたのは、ほんのわずかのあいだだけ
だったんだよ。一週間もたたないうちに、うちの人たちが、その老人をころしたからさ。」 「その老人は、ひきょうもんなんだろう、バック。」 「ひきょうもんじゃないよ。ひきょうもんだなんて、とんでもないこった。シェパドスンのやつらには、ひきょうもんなどいないよ1ひとりだって、いやしないぜ。もちろん、グレンジャーフォード家にだって、いやしないけどさ。だって、その老人は、ある日、グレンジャーフォード家のもん、三人もあいてにして、一時間半もたたかってかったことがあるんだぜ。みんな馬にのってたんだけど、老人は、馬からとびおりると、まきがすこしばかりっんであるのをたてにしてさ、馬をまえに立たせて、弾よけにしたんだってさ。グレンジャーフォードの三人は、馬にのったまま、老人のまわりをとびまわって、老人めがけてめちゃくちゃにうったんだ。老人も、さかんにうちかえしてよこした。そいで老人と馬は、ずいぶん弾をうけ、ふかでをおってかえってったけど、でも、グレンジャーフォードの三人は、家にはこんでこられるしまつだったんだぜIしかもさ、ひとりは死んでたし、もうひとりも、つぎの日死んじまったんだよ。こしぬけものをさがすなら、シェパドスンのI族のなかにいって時間をつぶすのは、むだなこった。あの一族には、ひきょうもんは、ひとりだっていやしないんだから。」 つぎの日曜日、わたしたちは、みんな小馬にのって、教会にいった。三マイルばかりあっ
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た。男たちは鉄砲を持っていった。バックも持っていった。彼らは、その鉄砲を、ひざのあいだにはさんでいるか、すぐ手のとどくかべに立てかけておいた。シェパドスッの人たちもおなじようにしていた。説教は、なんのへんてつもなかった1兄弟愛だとか、なんだとかそういうたいくつなものばかりだった。だが、みんなは、いい説教だといって、家にかえる道みちもその話をし、信仰だとか、善行だとか、自由のめぐみだとか、宿命だとか、そういうことを山ほど話しあっていた。わたしは、なんのことか、さっぱりわからなかったから、こんなつまらない日曜囗にでっくわしたことが、いままでにほとんどなかったような気がした。 ひるの食事ののち一時間ばかり、みんなひるねをした。いすによりかかったままうとうとしているものもあれば、へやにひっこんでねている人もあった。それで、ひどくたいくつになった。バックも犬と、日なたにながながとねそべって、ぐっすりねこんでいた。わたしは、自分たちのへやにあがっていった。わたしもひとねいりしようと思ったのだ。すると、わたしはうつくしいソフィア嬢が自分のへやの入り囗に立っているのに気がついた。彼女のへやは、わたしたちのへやのとなりだった。彼女は、わたしを自分のへやに入れて、そっと戸をしめると、あんたあたしがすき? ときいた。わたしは、すきだとこたえた。彼女は、すこしたのみたいことがあるんだけど、だれにもいってもらいたくないの、というので、わたしは、だれにもいわないといった。すると、彼女は教会に聖書をわすれてきたのだが、ほかの
二さつの本のあいだにはさんで座席においてあるから、そっとぬけだしていって、とってきてもらいたいの。けれども、このことは、だれにもひとこともいうんじゃない、といった。わたしは、彼女ののぞみどおりにしてやるとこたえた。そこで、こっそり家をぬけだして、人目につかないようにして教会にいったが、教会には、だれひとりいなかった。戸に錠がかかっていないので、ぶたがI、二ひきはいりこんでいただけだった。わり材をしいた床は、夏はすずしいものだから、ぶたがすきなのだ。人なら、たいていお義理でしか教会にいかないのだが、ぶたはそうではなかった。 わたしはなにかことがおこりそうな気がした。娘が聖書一さつぐらいで、あんなにやきもきするなんて、ただごとではない。そこで、わたしは、聖書をひとふりふってみた。と、ちいさな紙きれがおちてきた。〈二時半〉とかいてあった。わたしは、聖書のなかをくまなくしらべた。だが、そのほかにはなにひとつ見つからなかった。〈二時半〉だけでは、なんのことだがまるでけんとうもつかない。だから、わたしは、またその紙きれを聖書にはさんで、家にもどって二階にあがっていった。ソフィア嬢は、自分のへやの入り口に立って待っていた。彼女は、わたしをひっぱってへやに入れると、戸をしめた。そして、聖書のなかをそちこちのぞいていたが、とうとうその紙きれを見つけて、それをよむと、とてもうれしそうにした。そして、いきなりわたしをつかまえて、ぐいぐいだきしめ、あんたはほんとにいい子だから、
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だれにもだまっているのよ、といった。彼女は一分間ほど、顔をまっかにして、目をかがやかせていたので、すばらしくうつくしく見えた。わたしは、すっかりどぎもをぬかれてしまったが、ひと息ついてから、その紙にはなにがかいてあるのかときいた。すると、彼女は、おまえはこれをよんだのかとたずねた。よまないとこたえると、彼女は、さらに、おまえは字がよめるかときくから、わたしは、「いいえ、つづけた字はよめません」とこたえた。する                 ばしよ                                丶 丶 丶と、彼女は、この紙きれは、ただ、場所がわからなくならないようにはさんでおくしおりのかわりなんだから、さあ、もうむこうへいってあそんでいい、といった。 わたしは、その紙きれのことを、あれこれと考えながら、川のほうに歩きだした。すると、すぐわたしの黒人が、あとがらついてくるのに気がついた。家から見えなくなると、黒人は、ちょっとうしろをふりかえって、あたりを見まわしてから、走ってきていった。 「ジョージさん、あんた、沼地までいくなら、おれ、川にすんでいるどくへびがうんといるとこ、見せてあげるだよ。」 わたしは、おかしいと思った。きのうも、そういったのだ。ものずきにも、川にすんでいるどくへびを、さがしまわってつかまえようとする人などいないということは、彼だって知っているはずなのだ。いったい、どうしようというのだろう。そこで、わたしはいった。「いいとも、つれていってくれ。」
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 あとについて、半マイルほど歩いていくと、こんどは、くるぶしぐらいまでのふかさの沼地にはいって、さらに半マイルばかりすすんだ。すると、ちいさな、たいらな地面にでた。そこは、かわいていて、木ややぶやつる草がふかくしげっていた。彼はいった。 「ふだ足、み足、まっすぐはいりこんでいきなされ、ジョージさん。へびは、そこにいるだ。おれ、まえに見たことがあるで、見たくねえだ。」 それから、彼は、水をバシャバシャとはねとばしながら、ぐんぐんもどっていったので、じきに木ぎのあいだにかくれてしまった。わたしはすこしすすんだ。まわりに、つる草がおいしげっている、寝室ぐらいの大きさのあき地にでた。すると、そこに、ひとりの男が、よこになってねむっていた1おどろいたことに、それは、ジムだった。 わたしは、ジムをおこした。ジムがわたしを見たら、こしをぬかすほどおどろくだろうと思った。ところが、そうではなかった。ジムは、よろこんでなきだしそうになったが、おどろかなかった。ジムの話によると、あの夜、ジムは、わたしのあとについておよいできていたので、わたしのよび声を一度ももらさずきいていたのだが、へんじをすることができなかったのである。だれかに見つかって、またどれいにされたくなかったからだ。ジムはいった。 「おらあ、すこしばかりけがしたんで、はやくおよげなかったんだよ。だから、しまいごろになると、ずいぶんおくれただ。あんたは、陸にあがったが、そのとき、おらあどなってよ
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ばねえでも、陸にあがったら、おっつけると思っていただよ。だが、あの家が見えたとき、おらあ、ゆっくり歩きだしただ。あまりとおいので、あの家の人たちが、あんたにいってること、きこえなかっただIおらあ、犬がおっかなかっただよ。だが、またすっかりしずかになったで、おらあ、あんたが家のなかにはいったことがわかっただ。だから、おらあ、森のなかにもぐりこんで、夜が明けるのを、待っていただ。朝はやく、黒人がなん人かやってきただ。のらしごとにいくためだだ。そして、おらあを見つけると、ここをおしえてくれただよ。ここなら、水かおるから、犬がつけてこられねえだ。そして、まい晩食うものをはこんできてくれて、あんたがどうしてるか、おしえてくれただよ。」 「どうして、ジャ。クにいって、おれをはやくっれてこさせなかったんだい、ジム。」 「でもな、ハックさん、なんとかやれるようになるまでは、あんたをさわがせても役にたたねえだよ  だが、もう、なにもかもでえじょうぶだだ。おらあ、おりさえあれば、なべだの、平なべだの、食べものを賈っていただし、夜は、あのいかだをなおしてI」「どのいかだだい、ジム。」「おらあたちのいかだだよ。」「あのいかだが、めちゃくちゃにならなかったってわけかい。」「そうだだ、そうならなかっただよ。ずいぶんこわれはしただがI片っぽうのはしがね。
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だがたいしていためられなかっただよ。荷物は、あらましなくなってしまっただがね。おらあたち、あんなにふかくもぐっていかなかっただら、あんなに暗くなかっただら、あんなにきもをつぶさなかっただら、それによくいうように、かぼちや頭でなかっただら、いかだがどうなってたかわかったはずだだよ。だが、わがらなかったほうがよかっただ。だって、いかだは、もうあたらしいのみたいに、すっかりできあがったからだだ。そして品物も、なくしたもののかわりに、あたらしいのをどっさり手に入れただからな。」 「ところで、おまえは、どうしてまた、あのいかだを手に入れたんだい、ジムーおまえがつかまえたのかい。」 「森のなかにいるおらあに、どうしていかだがひろえるだ。とんでもねえこっただ。そのへんの大まがりで、いかだが、川のそこのかれた立ち木にひっかかっているところを、黒人が見つけて、クリークのやなぎのなかにかくしておいただよ。そして、わけまえをだれがいちばんよけいとるかって、いいあっているのが、すぐ、おらあにきこえてきただ。そこでおらあ、そんなかにはいって、もんちゃくをかたづけてやっただよ。そのいかだ、おめえたちのもんでねえ、なあハックさん、あんたとおらあのだって。おめえたち、白人の紳士の財産をがっつぁらって、むちでぶんなぐられてえのかって、そういってきかしただよ。それから、おらあ、ひとりに十セントずっくれてやっただが、そしたらやつら、とてもよろこんで、もっ
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といかだがながれてきて、また金持ちにしてくれねえかっていっていただよ。あの黒人どもは、おらあに、とてもよくしてくれただ。なんでも、なにかしてくれってI度たのむと、二度とたのまなくてよかっただよ。ぼっちゃん。あのジャ。クは、とてもいい黒人だだよ。そのうえ、ぬけめがねえだよ。」 「うん、あいつは、そうなんだ。おまえが、ここにいるなんてこと、おくびにもださなかったもんな。いくなら、どくへびがうんといるとこを見せてやるなんていうんだ。なにがおこったところで、まきこまれないですむからさ。だから、おれたちがいっしょにいるとこを見たなんて、けっしていいやしないぜ。それにはちがいないけど。」 つぎの日のことは、あんまりくわしく話したくない。かんたんにきりつめて話そうと思う。明けがた近くに目がさめたので、わたしはねがえりをうって、またねいろうとしたのだが、そのときふと、いやにひっそりしているのに気がついたIだれひとりおきているようなけはいがない。いつもとちかっている。わたしは、それから、バックが寝床からいなくなっているのに気がついた。そこで、どうしたのかと思いながら、おきて、下におりていったI家のなかには、だれひとりいなかった。みょうにしんとしている。外もそのとおりだった。どうしたというんだろう。まきがつんであるところを通りかかると、ばったり、ジャックにでくわした。
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「いったい、これは、どうしたっていうんだい。」 ジャックがいった。「知らねえだかね、ジョージさん。」「うん」と、わたしはいった。「知らないよ。」「そうだかね、ソフィア嬢がにげただよ、ほんとににげただよIいつのまにか夜のうちににげてしまっただよIいつごろにげただかは、だれも知らねえだがね。あのわかい(Iネートシェパドスンといっしょになるために、にげただよiともかく、みんなは、そう思ってるだよ。うちの人たちが気がついたのは、半時開ぽかりまえかIもうすこしまえだったかもしれねえだIみんなは、またたくまにでていっただ。それ鉄砲だ、それ馬だって、こんなにさわいだこと、これまでになかっただ。女の人たちは親類の人たちをおこしにいっただし、ソールだんなと子どもたちは、あのわかものがソフィア嬢をつれて川をわたらねえうちにとっつかまえてころすために、鉄砲を持って、川岸の道をかけのぼっていっただよ。おれ、いまにむごいことがはじまると思っているだ。」 「バックは、おれをおこさないでいってしまったんだぜ。」 「ああ、そうかもしれねえだだ。みんなは、あんたをまきこむめえと思ってるだよ。バックさんは、鉄砲に弾をこめて、シェパドスンのやつらをだれかひとり、かならずとりこにして
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くるといっていただ。そうだすとも、あそこには、シェパドスンのやつら、たくさんいるにちげえねえだから、うまくさえいけば、きっとひとりとりこにしてくるだだ。」 わたしは、いそげるだけいそいで、川ぞいの道をのぼっていった。まもなく、とおくのほうから、鉄砲の音がきこえだした。わたしは、材木置場や蒸気船の船着場になっている木材                      丶 丶                         ばしょの山が見えるところまでいってから、本ややぶの下をおしわけてすすみ、うまい場所を見つ               丶 丶                                たまけだして、はこやなぎの木のまたにのぼって、ながめた。そこなら、鉄砲の弾がこないからだ。その本のすこし前方に、材木が四フィートばかりの高さに、きちんとかさねられてあった。わたしは、最初そのかげにかくれようと思ったのだが、しかし、そこにかくれなかったのは、運がよかったのかもしれない。 材本置場のまえのあき地で、男が四、五人、いきおいよく馬をのりまわしながら、ののしったり、どなったりしていた。船着場にそってつんである材木のかげにいる、ふたりの少年を攻撃しようとしているのだ。だが、彼らは、よりつきかねているのである。彼らのうちのひとりが、材木の山の川岸がわにからだをだすと、そのたびにかならず射撃をうけた。ふたりの少年は、材木のかげに、せなかあわせにうずくまっていたので、両がわを見はることができた。 そのうちに、男たちは、とびまわったり、どなったりするのをやめた。彼らは、材木置場
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のほうに、馬をすすめていった。すると、ひとりの少年が立ちあかって、材本のかげからしっかりとねらいをさだめて、ひとりをくらからうちおとした。ほかのものたちは、馬からとびおりて、きずついた男をひっつかんで、材木置場のほうへはこびだした。その瞬間、ふたりの少年がかけだした。だが、ふたりが、わたしののぼっている木のほうに、半分ばかりかけつけてきたとき、男たちがそれに気がついた。彼らは、見つけるとすぐ、馬にとびのっておいかけてきた。そして、ぐんぐんおいせまってきたが、おいつけなかった。少年たちは、ずっとさきにかけぬけていたからである。ふたりは、わたしの木のまえにある材木の山にとりつくと、さっとそのかげにかくれた。そしてまた、有利な立場にたった。ふたりのうちひとりは、バックだった。もうひとりは、十九歳ぐらいの、やせこけた少年であった。 男たちは、そのまわりをかけまわっていたが、しばらくすると、どこかへいってしまった。わたしは、男たちのすがたが見えなくなるとすぐ、大声でさけんで、そのことをバックにおしえた。バックは、はじめ、わたしの声が木の上からきこえてくるのだということが、わがらなかった。彼は、ひどくびっくりしていた。よく見はっていて、あいつらがまた見えたら、知らせてくれ、とバックはいった。なにかわるだくみをして、じきにもどってくるにちがいないというのだ。わたしは、本からおりたかったのだが、おりないことにした。バックは、なきながら、これからいとこのショー(もうひとりの少年)とふたりで、きょうのうらみをは
らすのだとさけびはじめた。おとうさんとふたりのにいさんをころされたが、敵も二、三人だおした。シェパドスンのやつらは、待ちぶせしていたのだ。おとうさんとにいさんたちは、親類の人たちがくるのを待っておればよかったのだ  シェパドスンのやつらは、とてもおおぜいだったのだ、と、そうバックはかたった。わたしは、(Iネーとソフィア嬢がどうなったかときいた。彼らは、もう川をわたっていたので、ぶじだった、とバックはこたえた。わたしは、そうきいてほっとした。だが、バックは、彼が、(Iネーをうった、あの日に彼をころしてしまわなかったことをひどくくやんだIわたしは、人がこんなにくやしがるのを見たことがない。 とつぜん、パンー パンー パンー と鉄砲が三、四発樢ったIさっきの男たちが、馬をすて、森のなかをまわって、うしろからしのびよってきたのだ。少年たちは、川のなかにとびこんだIふたりともきずついたIふたりがながれにのっておよいでいくと、男たちは岸にそっておいかけ、鉄砲をぶっぱなしてさけんだ、「ころせ、ころせ。」そのため、わたしは、ひどく気持ちがわるくなり、あやうく木からおっこちるところだった。わたしには、このときのことをぜんぶ話すげんきがないIそんなことをしたらまた、むねがむかついてくるにちがいないからだ。わたしはこんなことを見るくらいなら、いかだをこわされたあの晩、ここにおよぎっかなければよかった、と思った。このときのことは、わすれようとしてもわ
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すれられないのだ  わたしは、なんどもなんども、そのゆめを見るのである。 わたしは、暗くなりだすまで、木の上にいた。こわくて、おりられなかったのだ。ときどき、ずうっととおくの森から、鉄砲の音がきこえてきた。鉄砲を持った男たちが、なん人かひとかたまりになって、馬をとばして、丸太置場のそばをかけぬけていくのが、二度も見えた。だから、まださわぎがおさまらないのだと思った。わたしは、ひどく気がめいってしまっていた。もう二度と、あの家に近よるまいと思った。こんなことになったのも、いくぶん、わたしにも責任があると思ったからだ。あの紙きれにかいてあることは、ソフィア嬢が、二時半にどこかで(Iネーとおちあって、にげるという意味だったにちがいないのだ。わたしは、あの紙きれのことや、彼女のおかしなふるまいのことを、彼女の父親に話しておけばよかったのである。そうすれば、彼女をとじこめて、かぎをかけておいたにちがいないのだから、こんなおそろしいどさくさはおこらなかっただろう。 本からおりると、わたしは、川岸ぞいにそっと、すこしくだっていった。すると、水ぎわに死体が二つころかっていた。わたしは、それを岸にひっぱりあげた。そして顔にきれをかけてやってから、大いそぎで、そこをはなれた。バックの顔にきれをかけてやるとき、わたしは、すこしないた。バックは、わたしにとてもよくしてくれたのだ。 もうすっかり暗くなっていた。わたしは、家には近づかないで、森のなかを通りぬけて、
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沼地にむかった。ジムは、いつものあの丘にいなかった。そこで、わたしは、大いそぎでクリークにむかい、やっきになって、やなぎをおしわけおしわけすすんだ。いっこくもはやく、いかだにとびのって、このおそろしい土地からのがれたいからだ。ところが、いかだがなくなっていた。わたしはこしがぬけた。一分間ぐらい、息もつけなかった。それから、大声でさけびたてた。二十五フィートとはなれていないところから、声がきこえてきた。 「おやまあ、あんただか、ぼっちゃん。さわぐでねえだ。」 それは、ジムの声だったIわたしは、こんなにこころづよくきこえる声を、それまできいたことがなかった。わたしは、岸にそって走っていって、いかだにのりこんだ。ジムは、わたしをつかむと、ぐいぐいだきしめた。ジムも、わたしにあえて、こころからよろこんでいるのだ。 「ほんとにまあ、ぼっちゃん、おらあ、てっきり、あんたがまた死んだと思っていただよ。ジャックがここにきただがね、あんたが家へかえってこねえから、うたれたにちげえねえっていっただよ。だから、おらあ、たったいま、いかだをクリークの囗までだそうとしていたところだだ。ジャックは、もう一度くるだが、きて、あんたがほんとに死んだといったら、おらあ、すぐいかだをおしだしで、てていかれるように、すっかり用意しておこうと思ってただ。なんとまあ、あんたがもどってきてくれたで、おらあ、とても、とてもうれしいだよ。
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ぼっちゃん。」 わたしはいった。 「そうか1それは、よかった。みんなは、おれが見つからないから、ころされて、川をながれていったと思うにちがいないんだ1あそこんとこに、みんながそう思いちがえるようなものがあるんだよ1さあ、ぐずぐずしないで、いかだをおしだせ、ジム。ともかく、大川にでるまで、できるだけいそぐんだ。」 わたしは、ニマイルもこぎくだり、ミシシ。ピ川のまんなかに、いかだをこぎだすまでは、気が気でなかった。それから、めじるしのカンテラをあげた。わたしたちは、これでもう一度、自由になり、心配がなくなったと思った。わたしは、きのうからなんにも食べていなかった。そこで、ジムは、とうもろこしのかたやきパンとバターミルクと、それから、ぶた肉、キャベツ、やさいをだしてくれたIじょうずに料理したら、これほどうまいものはないIわたしは、それを食べながらジムと話をし、たのしくすごした。わたしは、宿敵からのがれることができたので、。とてもうれしかったのだが、ジムもまた、沼地からのがれることができたので、ひどくよろこんでいた。けっきょく、いかだよりいい家はない、とわたしたちは話しあった。ほかのところは、きゅうくつで、息がつまりそうなのだが、いかだの上にいると、そんなことはなかった。いかだの上は、とてものんびりして、気がらくで、気持ち

わたしの、本気の反万博論 その58 そもそも、爆発するガスや有毒物が埋まっている土地(夢洲)で、よりによって「(今より安全な)近未来」を見せるイベントをする。それに形ばかりでも世界中の国々が参加する。イベントの歴史で、こんな愚行は一回だってやってはいけない。

イベント自体の存在意義を破壊する。これが現在そのものかもしれないが、それにしてもなさけない。
すばらしいことができるかどうかより、きちんと命の安全を守っているかをさきに考えなければならない。これはイベントの原則だ。

……荒廃している。いま、はっきりいえることは、これだけだ。

わたしの、本気の反万博論 その57 「あの決意」に負けたくないかどうかすら言うことができないって、どう考えてもおかしいだろ。雑誌でもインターネットでも、だれも「あの決意」と対決できていない。ほぼはっきりしている。

もちろん、わたしは「太陽の塔」と「明日の神話」について言っている。精神論ではなく、決意の存在理由の問題。正直、こんなことを言うことはつかれる。