『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」4-21~4-23(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]二一[#「二一」は中見出し]

 ベッチイが広間を出るか出ないかに、新しい牡蠣《かき》の入ったエリセエフの店へ行って、そこからやってきたばかりのオブロンスキイに、戸口でぱったり出会った。
「ああ! 公爵夫人! これはいいところでお目にかかりました!」と彼は声をかけた。「私はお宅へうかがったんですよ」
「お目にはかかりましたが、ほんのいっときですわ。だって、わたしもうお暇するところですから」とベッチイは微笑をうかべ、手袋をはめながら答えた。
「公爵夫人、手袋をおはめになるのを待って下さい。私はそのお手に接吻させていただきたいので。婦人の手に接吻するという古い流行の復活ほど、ありがたいことはないと、私は思っておりますよ」と彼はベッチイの手に接吻した。「いつまたお目にかかれるでしょう?」
「あなたにはそんな資格はありませんよ」とベッチイはほほえみながら答えた。
「いや、大いに資格があります。だって、私はこの上もなくまじめな人間になったのですから。私は自分の家庭ばかりでなく、他人《ひと》の家庭まで円くおさめてるんですからね」と意味ありげな面持ちで言った。
「ああ、それは本当にけっこうですこと!」すぐにアンナのことだと悟って、ベッチイはそう答えた。それから、広間へひっ返して、二人は片すみに立った。「あの人はアンナをいじめ殺してしまいますわ」とベッチイは意味ありげにささやいた。「あんなことはたまりません、とてもたまりません……」
「あなたがそうお思いになるとは、私も実にうれしいです」まじめな受難者めかしい表情で首をひねりながら、オブロンスキイはいった。「私もそれがために、ペテルブルグへ出てきたようなわけで」
「街じゅうその噂ばかりなんですからね」と彼女はいった。「あんな立場って、たまったもんじゃありませんわ。あのひとは、日に日に瘠せ細っていくばかりですもの。あのひとはね、自分の感情をおもちゃにすることのできないような女の一人だってことが、自分でもわかっていないんですわ。これにはあの人として、二つに一つのほか方法がありません。アンナさんを連れてどこかへ行ってしまうとかなんとか、男らしい態度をとるか、さもなければきれいに離婚してしまうか。あれではアンナさんを窒息させるようなもんですわ」
「そう、そう……そのとおり……」とオブロンスキイは、吐息をつきながらいった。「私もつまり、そのためにやってきたんですよ。もっとも、そのためってわけじゃありません……私は侍従の位を授けられたので、まあ、そのお礼のためなんですがね。しかし、かんじんなことは、これを円満におさめることでしてね」
「まあ、どうかうまくおやんなさいますように!」とベッチイはいった。
 公爵夫人ベッチイを玄関まで見送って、もう一度その手を手袋の上の辺、脈のうっているあたりに接吻し、おまけに、相手が怒ったものか、笑ったものかわからないような、いかがわしい冗談をいった後、オブロンスキイは妹の部屋へ入っていった。見ると、アンナは涙にくれていた。
 泉のようにほとばしり出そうな上きげんであったにもかかわらず、オブロンスキイはすぐさま、彼女の気分にふさわしい、詩的に昂揚《こうよう》した、同情のあふれるような調子に早変りした。彼は妹に体のぐあいをたずね、午前中どんなふうにすごしたかときいた。
「とても、とても悪いんですの。朝も昼も、過ぎた日も、これからくる日も、みんなみんな」と彼女は答えた。
「どうもおまえは、ふさぎの虫に負かされてるようだね。ひとつ気をしゃんともって、生活をまともに見なくちゃだめだよ。そりゃつらいのはわかってるが、しかし……」
「わたし、女って悪徳のためにさえ、男を愛するものだって聞いてたけれど」とふいにアンナはいいだした。「あの人ったら、善行のために憎くなるんですの。わたし、あの人といっしょに暮していけない。兄さん、わかって下さる? あの人を見ただけで、わたし肉体的にやりきれない気がして、前後を忘れてしまいますの。あの人といっしょに暮すことはできない、できない。いったいどうしたらいいんでしょう? わたしは不幸な女で、これ以上不幸にはなれないと思ってたけれど、いま経験してるような恐ろしい境遇は、わたし想像することもできなかった。兄さんは、想像もおできにならないでしょうけれど、わたしあの人が親切な、りっぱな人で、わたしなんかあの人の足の爪ほどの値うちもないってことは承知していながら、それでいて、あの人が憎らしいんですの。あの人が寛大なために憎らしいんですの。だから、わたしどうにもほかにしようがない、ただ……」
 彼女は「死」といいかけたのであるが、オブロンスキイはしまいまでいわせなかった。
「おまえは病気で、気がいらいらしてるんだよ」と彼はいった。「まったく、おまえはやたらに誇張してるんだよ。そこには、何もそれほど恐ろしいことはないじゃないか」
 そういって、オブロンスキイはにっこり笑った。だれでもオブロンスキイの立場にあったら、こういう絶望のようすを見て、あえて微笑を浮べうるものはなかったに相違ない(微笑は無作法に思われたであろう)しかし、彼の微笑には、溢れるような善良さと、ほとんど女性的な優しみがこもっていたので、それは相手を侮辱[#「侮辱」は底本では「悔辱」]しないのみか、かえって心を柔らげ、おちつかすのであった。彼の静かな、おちつかせるような話しぶりと微笑は、扁桃油《アメンドウ》のように、相手をなだめ柔らげる力をもっていた。アンナもほどなくそれを感じた。
「いいえ、スチーヴァ」と彼女はいった。「わたしもう破滅だわ、破滅だわ! 破滅というより、もっといけないのよ。わたしはまだ滅びちゃいない。なにもかもすんでしまったとはいえませんもの。かえってその反対に、まだすんでしまっていないのが、はっきり感じられますわ。わたしは張りつめた絃《いと》みたいなもので、早晩きれなくちゃならないんだわ。まだすんじゃいないけど……すむときは、きっと恐ろしい最期に相違ない」
「大丈夫、その絃をそろそろとゆるめることができるさ。救いのない境遇なんてものはありゃしないよ」
「わたしもさんざんかんがえたんですけど、救いはたった一つだけ……」
 この唯一の救いが、彼女の考えによると、死であるということを、妹のおびえたような目つきで、彼は今度も悟ったのであるが、しかし妹にしまいまでいわせなかった。
「なんの」と彼はいった。「まあ、お聞き、おまえは僕ほどには、自分の境遇を見ることはできない。遠慮なく僕の意見をいわしてもらうとだね」と彼はまた例の扁桃油《アメンドウ》のような微笑を浮べた。「まあそもそものはじめからいうとだね、おまえは二十も年上の男のとこへ嫁入りした。愛情をもたないで、というより愛というものを知らないで嫁入りした。それがまちがいだった、と仮定しよう」
「恐ろしいまちがいだったんですわ!」とアンナはいった。
「しかし、くりかえしていうが、それはすでにすんでしまった事実だ。その次に、おまえは、まあいってみれば、不幸にも良人以外の男に愛情を感じた。それは確かに不幸だが、これもやはりできてしまった事実で、おまえの良人もそれを認めて、赦したんじゃないか」彼は一句ごとに妹の反駁を待って言葉を休めたが、アンナはなんとも答えなかった。「それはそのとおりだ。今のところ問題はただ、おまえが良人といっしょに暮すことができるかどうか、ということだけだ。おまえがそれを望むか、あの人がそれを望むか、ということなんだ」
「わたしなんにも、わかりません」
「だっておまえは、あの人をがまんできないって、自分でそういったじゃないか」
「いいえ、わたしそんなことはいいません。取り消します。わたしなんにも知りません、なんにもわかりません」
「そう、しかし、ちょっと待ってくれ……」
「兄さんにはこの心持わかんないのよ。わたしまっさかさまに、深淵へ落ちていくような気がしますの。でも、それをのがれようとしてはならないのです。またのがれることもできないんですの」
「大丈夫、われわれが下に網を張って、おまえを受けとめてやるよ。僕にはおまえの気持がわかってる、おまえが自分の望んだり感じたりしていることを、思い切っていえないのは、ちゃんとわかってる」
「わたしなんにも、なんにも望んじゃいません……ただなにもかも早くすんでしまえばいい、と思うだけだわ」
「しかし、あの人もそれを見て、知っているんだよ。いったいおまえにはわからないのかい、あの人がおまえに劣らないほど苦しんでいるのが? おまえも苦しんでいれば、あの人も苦しんでいる。とすれば、その結果はどうなると思う? 離婚というやつが、なにもかも解決してくれるんじゃないかね」とオブロンスキイは、多少みずから励ますような気持で、このいちばんかんじんな考えをきりだすと、意味ありげに妹を見つめた。
 彼女はなんにも答えないで、否定するように、短くきった頭を横にふった。しかしとつぜん、前と同じような美しさに輝きわたった妹の顔の表情で、彼は悟った――彼女がそれを望んでいないのは、それが実現できない幸福のように思われたからにすぎないのだ。
「僕はおまえたちが気の毒でたまらないんだ! もしこれを円満におさめることができたら、僕はどんなに幸福かわからないよ!」とオブロンスキイは、前よりも思い切ってほほえみながらこういった。「もういわなくってもいい、いわなくってもいい! ただ一つなんとかして、僕の感じていることをうまくいいたいものだなあ。これからあの人のとこへいってくるよ」
 アンナは物思わしげな輝かしい目つきで兄を見たが、なんともいわなかった。

[#5字下げ]二二[#「二二」は中見出し]

 オブロンスキイは、いつも役所の所長席におさまるときのような、いくぶんものものしい顔つきをしながら、カレーニンの書斎へ入った。カレーニンは両手をうしろに組んで、部屋の中をあちこち歩きまわりながら、たった今オブロンスキイが妹と話したのと、同じことを考えていた。
「おじゃまじゃないかしら?」義弟の顔を見ると同時に、彼としては珍しい当惑を感じながら、オブロンスキイはそういった。彼はその当惑をかくすために、いま買ってきたばかりの、開け方に新しい工夫をこらしたシガレットケースをとりだし、ちょっと革の臭いをかいで、煙草を一本つまんだ。
「いや。君なにか用なのかね?」とカレーニンはいやいや答えた。
「じつは僕……僕はその……ひとつ話があってきたんだが」自分として不慣れな心のおくれを感じながら、オブロンスキイはこういった。
 その感じは、あまりにも思いがけなく奇妙なものだったので、これこそまさしく自分のしようとしているのが良くないことだ、とささやいている良心の声であるとは、オブロンスキイも信ずることができなかったのである。オブロンスキイはわれとわが心を励まして、急に襲いかかった臆病風を払いのけた。
「君は僕が妹を愛しているとともに、君を心から慕い、かつ尊敬していることを、信じてくれると思うが」と彼は顔を赤らめながらいった。
 カレーニンは足をとめたが、なんとも答えなかった。けれども、その顔にうかんでいる、従順なる犠牲といったような表情は、オブロンスキイを思わずはっとさした。
「僕がいいたいと思ったのは、話したいと思ったのは、妹と、それから君たちふたりの立場のことなんだ」相変らず不慣れな気おくれと闘いながら、オブロンスキイはそういった。
 カレーニンはにっと沈んだ微笑を浮べて、義兄の顔をながめ、テーブルに近よって、その上から書きかけの手紙をとりあげ、それを義兄にわたした。
「私もそれと同じことをたえず考えている。じつはこういう手紙を書きかけているのだ。手紙のほうがいいよいし、それに、私がそばにいると、あれがいらいらするからと思ってね」と彼は手紙を渡しながらいった。
 オブロンスキイは手紙を受け取り、じっと自分のほうにそそがれているどんよりした目を、けげんそうにながめかえして、読みにかかった。
『私の見うけたところでは、私がそばにいることは、あなたにとって重荷らしい。これを確信するのは、私にとってずいぶんつらいことではあるけれども、私の見たところでは、それはまさしくそのとおりであって、ほかにどうもしようがないらしい。私はあなたを咎めはしない。神も照覧あれ、私はあなたを病床に発見したとき、われわれ二人のあいだにあったことをしんそこから忘れてしまい、新生活をはじめようと決心したのです。私は自分のしたことを後悔などしていないし、また今後も決して後悔しないつもりです。私が望んでいたのはただ一つ――それはあなたの幸福です、あなたの魂の幸福です。が、今にしてみれば、私はその目的を達しなかったようです。いったいあなたに真の幸福と魂の平安を与えるのはなんであるか、自分でいって下さい。私はあなたの意志と正義感にゆだねます』
 オブロンスキイは手紙を返して、なんといっていいやらわからないままに、依然として、けげんそうな表情を浮べながら、義弟をながめた。この沈黙は二人にとって、はなはだばつが悪かったので、オブロンスキイは、カレーニンの顔から目をはなさず黙りこくっている間に、その唇に病的な痙攣《けいれん》が起ったくらいである。
「まあ、こういうふうに、あれにいおうと思ったんだ」とカレーニンは顔をそむけていった。
「そう、そう……」涙が喉もとへこみ上げてきたので、オブロンスキイは返事ができず、わずかにこういったばかりである。「そう、そう。君の気持はわかる」やっとのことで、こうつけ足した。
「私はあれが何を望んでいるか知りたいのだ」とカレーニンはいった。
「あれは自分でも、自分の立場がわからないんじゃないかと、僕はそれが心配なんだ。あれは裁判官じゃないんだからね」とオブロンスキイは、気をとりなおしながらいった。「あれは君の寛大心に圧倒されてるんだ、まったく圧倒されてるんだよ。もしあれがこの手紙を読んだら、それこそなんにもいう力はあるまい、ただますます低く頭を下げるばかりだろうよ」
「そう、しかしその場合、いったいどうしたもんだろうね?……なんと説明したら……どうしてあれの希望を聞くことができるだろう?」
「もし君が、僕の意見を述べることを許してくれたらだね、この状態を一刀両断するのに必要と認めた手段を、断乎としてとるかとらないかは、君の考え一つだと思うが」
「してみると、君は一刀両断する必要があると思うんだね?」とカレーニンはさえぎった。「しかし、どんなふうにやるのだね?」いつになく目の前で両手をふりながら、彼はこうつけ加えた。「実際的に可能な解決は、まるでないように思うが」
「どんな状態にだって、解決法はあるものさ」とオブロンスキイは腰をもちあげ、しだいに元気づきながらいった。「一時、君も離婚しようと思ったこともあったじゃないか……いま君が、お互に幸福になれないと確信したとすれば……」
「幸福というものは、いろいろに解釈することができるからね。まあ、かりに私が何ごとにも同意する、なんにも要求がないとしたら、われわれの状態をどういうふうに切り抜けるかね?」
「もし君が僕の意見を聞きたいというのなら」アンナと話したときのような、相手の心を柔らげる、扁桃油《アメンドウ》のように優しい微笑を浮べながら、オブロンスキイはいった。その微笑はなんともいえぬ説伏力を持っていたので、カレーニンは思わず心の弱りを感じ、それに屈伏しながら、オブロンスキイのいうことはなんでも信じよう、という気になった。「あれは決して自分の口からはいやしないが、ただ一つ可能なことがあって、あれもおそらく、それ一つのみを望んでいると思う」とオブロンスキイはつづけた。「それは関係を絶ってしまって、それに関連するいっさいの記憶を棄ててしまうことだ。僕にいわせれば、君たちの状態にあっては、新しい相互関係を闡明《せんめい》することだよ。その関係は、ただ双方の自由によってのみ確定されうると思う」
「離婚かね」とカレーニンは嫌悪のさまでさえぎった。
「そう、僕の考えでは、離婚だ、どこまでも離婚だ」とオブロンスキイは赤くなりながら、くりかえした。「これは君たちみたいな状態にいる夫婦にとっては、最も合理的な解決法だよ。夫婦が、同棲生活は自分たちにとって不可能だと認めたら、どうもしようがないじゃないか? それは常に起りうることなんだからね」
 カレーニンは重々しく吐息をついて目を閉じた。
「そこに、ただ一つ考えなくちゃならんことがある。というのは、夫婦のうちだれか一人が、新しい結婚を望んでいるかどうかだ。もしそうでなければ、これはしごく簡単なことなんだよ」しだいしだいに遠慮がなくなって、オブロンスキイはこういった。
 カレーニンは興奮のため顔をしかめ、何か口の中でひとり言をいったが、なんとも返事はしなかった。オブロンスキイにとっては、なんの造作《ぞうさ》もないように思われたそのことを、カレーニンは幾千度思案したか知れないのである。彼の目から見れば、それは決して造作のないことどころか、全く不可能なのであった。もはや詳細の点まで知り尽している離婚の手続きが、今の彼にとって不可能に思われたのは、ほかでもない、自己の尊厳の感情と宗教にたいする尊敬が、仮構《かこう》の姦通罪を身に負うことを許さなかったし、なおそれにも増して、自分の赦してやった愛する妻が、罪をあばかれ、赤恥をさらす、というようなことは堪え難い。そのほかまた別な、より以上重大な理由によって、離婚は不可能であった。
 もし離婚ということになったら、息子はどうなるだろう? 母親といっしょにつけてやることはできない。離婚された母親は、内縁関係の新しい家庭をつくるだろうが、その中における継子《ままこ》の位置とその教育は、どこから推察してみても、よくないにきまっている。では、自分の手もとへ残しておいたら? それは自分の側からいえば報復手段になるのは、彼も承知していたけれど、それは望ましくなかった。しかし、なおそのほかに、離婚がカレーニンにとって不可能に思われた最も重大なわけがある。つまり、離婚を承諾すれば、その行為によって、アンナを滅ぼすことになるからであった。モスクワでドリイが彼にむかって、もしあなたが離婚を決心なすったとすれば、あなたはただご自分のことばかり考えていらっしゃるので、アンナを永久に破滅さすということを考えていらっしゃらない、といったあのひと言が、深くカレーニンの胸にしみこんでいたのである。で、彼はこの一言を自分の赦罪と、子供たちに対する愛着に結びつけて、今では自己流に解釈していた。離婚を承諾し、彼女に自由を与えれば、それは彼の解釈によると、人生にたいする最後の紐帯《じゅうたい》――愛する子供たちをみずから失うことになり、また彼女のためには、善の道における最後の支柱を奪って、破滅に陥《おとしい》れることを意味する。もし彼女が離婚された妻となれば、彼女はヴロンスキイといっしょになる、それは彼にわかりきっていた。しかも、その関係は法にはずれた、罪ふかいものである。なぜなら、教会の掟によると、良人の生きている限り、妻は結婚することができないからであった。
『あれはあの男といっしょになるだろう。そして、一、二年たつと、男に棄てられるか、さもなくば、自分で新しい関係を結ぶかだ』とカレーニン[#「カレーニン」は底本では「カレニン」]は考えた。『するとおれは、法に背いた離婚を承諾したために、あれを破滅させる責任者になるわけだ』
 こういうことを、彼は幾百度となく思案したあげく、離婚ということは、義兄のいうほど簡単でないばかりか、ぜんぜん不可能と確信した次第である。彼はオブロンスキイの言葉を、一つとして信じなかった、そのひと言ひと言に、数千の反駁を加えることができた。けれど、義兄の言葉によって、自分の生活を指向している力、しかも自分として服従しなければならぬ、かの強力にして粗野な力が表白されているのを感じ、彼は黙って聞いていた。
「ただ問題は、どんなにして、どういう条件で、君が離婚を承諾するかだ。あれはなんにも望んでいない、あえて君に願う気力がないわけだから、万事、君の寛大心に任しているんだ」
『なんということだ! なんということだ』良人が自分の罪を引き受けなければならぬ離婚手続の詳細を思い起して、カレーニンは肚《はら》の中で考えた。そして、ヴロンスキイと同じような身ぶりで、羞恥のあまり両手で顔をかくした。
「君は興奮している、その気持はよくわかる。しかし、君、よく考えてみたら……」
『右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出せ、上衣を奪われたら下衣をも渡せ、か』とカレーニンは考えた。
「ああ、いいよ」と彼はきいきい声で叫んだ。「私は自分に恥辱を引き受けよう、息子さえ渡してしまおう。が、しかし……しかし、このままにしておいたほうがよくないだろうか? もっとも、君の思うようにしてくれたまえ……」
 そういって、顔を見られないように、義兄にくるりと背を向けると、窓際の椅子に腰をおろした。彼はつらく、恥ずかしかった。けれど、このつらさと羞恥と同時に、彼は自分の謙抑の崇高さに対する喜悦と、感激を覚えたのである。
 オブロンスキイはそれに動かされて、ちょっと口をつぐんだ。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、信じてくれたまえ、あれは君の寛大心を、きっとありがたく思うよ」と彼はいった。「しかし、これはどうやら、神さまのおぼしめしらしい」とつけ加えたが、そういってしまうと、われながらばかげていると感じて、自分で自分の愚かさをわらう微笑を、やっとのことでおしこらえた。
 カレーニンは何かいおうとしたが、涙にさえぎられた。
「これは宿命的な不幸なんだから、それを認めなくちゃならないよ。僕はこの不幸を、できてしまった事実と認めて、妹にも君にも、力をかそうと思って骨折ってるんだが」とオブロンスキイはいった。
 義弟の部屋を出たとき、オブロンスキイは感動してはいたけれども、もうカレーニンが自分のいったことを取り消す心配はないと確信したので、うまくこの仕事をやってのけたという満足感をいだくのに、なんの妨げにもならなかった。その満足感にかてて加えて、もう一つこういう考えが浮んだ。もしこれがうまくいったら、ひとつ女房や親しい知人になぞをかけて、きいてやろう。『おれと元帥にはどういう違いがあるか? 答えていわく、元帥は軍隊展開《ラスヴォード》をするけれど、そのためにだれ一人よくならない。ところが、おれが離婚《ラベウォード》をやったら、三人のものがよくなった……それとも、おれと元帥とは、どういうところが似ているか、とするかな? いつ……もっとも、これはよく考えよう』と彼はにやにやしながら、ひとりごちだ[#「ひとりごちだ」はママ]。

[#5字下げ]二三[#「二三」は中見出し]

 ヴロンスキイの負傷は、心臓こそ外《そ》れたけれども、重態であった。幾日かの間、彼は生死の境を彷徨していた。はじめて口がきけるようになったとき、病室にいあわせたものは、兄嫁のヴァーリャ一人きりであった。
「ヴァーリャ」と彼はきびしい目つきで、兄嫁を見つめながらいった。「僕は粗匇《そそう》で負傷したんだから、どうか決してこの話をしないようにして、みんなにもそういって下さい。さもないと、あんまりばかげてくるから」
 その言葉には返事しないで、ヴァーリャは彼の方へかがみこみ、さもうれしそうな微笑を浮べて、その顔をながめた。ヴロンスキイの目は明るくて、熱があるらしくはなかったけれども、その表情はきびしかった。
「まあ、いいあんばいだったこと!」彼女はいった。「もう痛かなくって?」
「ちょっとここんとこが」と彼は胸をさした。
「じゃ、一つ繃帯《ほうたい》をとりかえてあげましょう」
 彼女が繃帯をとりかえているあいだ、彼は広い頬骨をひきしめて、無言のまま兄嫁の顔を見つめていた。それがすんだとき、彼はいった。
「僕は今、うわ言《ごと》をいってるんじゃありません。お願いですから、僕がわざと引金をひいたなんて噂が、ひろがらないようにして下さい」
「だれもそんなことをいってやしませんよ。でも、二度とうっかり引金をひいたりなんかしないでしょうね」問いかけるような微笑を浮べて、ヴァーリャはこう言った。
「きっともうしないでしょう。しかし、いっそのこと……」
 彼はにっと暗い微笑を洩らした。
 これらの言葉や微笑は、ひどくヴァーリャをおびやかしたが、にもかかわらず、炎症が癒って、しだいに健康が回復しはじめたとき、彼は自分の悲しみの一部から、完全に解放されたような気がした。ちょうどあの行為によって、前に感じていた羞恥と屈辱を、洗い落したようなぐらいであった。今では彼もおちついた気持で、カレーニンのことを考えられた。彼の寛大さを十分に認めながら、もう自分を卑下されたものとは感じなくなった。のみならず、彼はもとの生活軌道に帰っていったので、羞恥の念なしに人々の顔をながめ、以前の習慣に従って、生活することができるようになった。ただ一つ、たえずその愛情とたたかっているにもかかわらず、どうしても自分の心からもぎとることができなかったのは――自分は永久に女を失ってしまったという、ほとんど絶望に達するほどの哀惜感であった。良人にたいする罪をつぐなった以上、アンナのことは思い切って、今後くい改めた彼女と良人のあいだに、決して立たぬということは、固く心に誓った決意である。けれど、愛を失ったという哀惜の念を、自分の胸からもぎとることもできなければ、彼女とともにすごした幸福のおりおりを、記憶の中から拭い去ることもできなかった。その幸福は、当時あまりありがたいとも思わなかったのに、今ではその魅力を残りなくくりひろげて、いたるところ彼につきまとうのであった。
 セルプホフスコイが彼のために、タシケントへの赴任を工夫してくれたとき、ヴロンスキイは一刻の躊躇もなく、この申し出を受けた。しかし、出発の時が近づくにつれて、自分の義務と信じたものにたいして捧げた犠牲が、いよいよ苦しく感じられてきた。
 負傷はすっかり癒えて、彼は最早タシケント行きの準備に外出しはじめた。
『たった一度だけあれに会いたい。そうしたら、もうすっかり埋れ尽して、死んでしまってもかまわない』と考えた彼は、暇乞いのあいさつにいったついでに、この考えをベッチイに打ち明けた。この使でベッチイは、アンナのもとへおもむいたところ、拒絶の返事をもらったのである。
『かえってそのほうがいい』この知らせを受けとって、ヴロンスキイは心に思った。『あれは心の弱りだったんだ。あんなものに身をまかせたら、おれの最後の力も台なしになるところだった』
 その翌朝、ベッチイはわざわざ自分でヴロンスキイを訪れ、じつはオブロンスキイを通じて承諾の返事をもらうと同時に、カレーニンが離婚に同意したということだから、ヴロンスキイはアンナに会うことができる、と報告した。
 ベッチイを見送ることさえ考えもせず、今までの決心はすっかり忘れつくして、いつあえるのやら、良人はどこにいるのやら、そんなこともきこうとしないで、ヴロンスキイはいきなりカレーニン家へ車を飛ばした。彼は階段へ駆け昇り、何一つ、だれひとり目に入らぬまま、やっと駆け出すのをがまんしながら、足早にアンナの部屋へ入った。だれか部屋の中にいるかどうか、考えもしなければ気もつかずに、ヴロンスキイは彼女を抱きしめると、顔、両手、頸に接吻の雨を降らしはじめた。
 アンナはこの対面の用意をして、いうことなどちゃんと考えていたが、何一つそれを口に出す暇がなかった。男の情熱が、彼女をつかんでしまったのである。彼女は、自分で自分をおししずめようとした。男をおししずめようとした。が、もう遅かった。男の感情が彼女にうつってしまったのである。唇が烈しくふるえて、彼女は長いあいだ、ものをいうことができなかった。
「ああ、あんたはわたしをとりこにしておしまいになったんだわ。もうわたしあんたのものよ」自分の胸へ男の両手をひしとあてながら、ついに彼女はこういった。
「こうならなければならなかったんだ!」と彼はいった。「二人が生きているあいだは、これが当然なんだ。僕は今これがわかった」
「それは本当よ」しだいにはげしく蒼ざめながらも、男の顔を両手にかかえて、彼女はいうのであった。「ああいうことがあったあとだから、これには何か恐ろしいことがあるような気がするわ」
「なにもかもすんでしまう、なにもかもすんでしまう。僕らは幸福になるよ! 二人の恋がもっと強くなるとしたら、そのなかに何か恐ろしいことがあるからこそ、強くなるんだ」と彼は頭を上げ、にっこり笑って、丈夫そうな歯を見せながらいった。
 彼女も、微笑で答えないわけにはいかなかった――が、それは男の言葉でなくて、そのほれぼれした目つきに答えたのである。彼女は男の手をとって、そのうえで自分の冷たくなった頬や、短く刈った髪を撫でるのであった。
「そうして髪を短くしたところは、すっかり見違えるようだね。とてもよくなった。まるで男の子みたい。でも、なんて蒼い顔をしてるんだろう!」
「ええ、わたしとても衰弱してるのよ」と彼女はほほえみながらいった。と、その唇は再びふるえた。
「二人でイタリーヘ行こうね。そしたら、おまえの体もよくなるよ」
「いったいそんなことができるかしら、わたしたちが夫婦みたいに二人だけで、自分の世帯をもつなんて?」ちかぢかと男の目に見入りながら、彼女はこういった。
「それよりほかに、どうかなりようがあると考えるなんて、そのほうが僕にはかえってふしぎだよ」
「スチーヴァは、あの人[#「あの人」に傍点]がなにもかも承知したっていうけれど、わたしあの人[#「あの人」に傍点]のお情をちょうだいしたくないの」物思わしげにヴロンスキイの顔から視線をそらしながら、彼女はいった。
「わたし離婚なんかしてもらいたくない、今となったらどうでも同じことだわ。ただね、あの人がセリョージャのことをどう決めるか、それがわからないから」
 このあいびきのときに、どうして彼女が子供のことや、離婚のことなどを考えたり、思い出したりできるのか、ヴロンスキイはまるで合点がいかなかった。そんなことは、どうでもいいはずではないか?
「そんな話をしてないで、そんなことを考えないで」女の注意を自分のほうへひきつけようとして、その手を自分の手の中でひねくりまわしながら、彼はそういった。が、彼女は依然として、男の方を見なかった。
「ああ、どうしてわたしは死ななかったのだろう、そのほうがよかったのに」と彼女は口走った。と、声のない涙がその双頬をつたって流れ出した。けれど、彼女は男にがっかりさせまいと思って、一生懸命に笑おうとした。
 名誉であると同時に危険なタシケント行きを断るのは、前々からのヴロンスキイの観念によると、恥さらしな不可能のわざであったが、しかしただの一分も思案せずに、辞退してしまった。上官がこの行為をにがにがしそうに見ているのに気がつくと、すぐさま退官してしまった。
 一ヵ月の後、カレーニンは自分の住居に男の子と二人でとり残され、アンナは離婚も受けず、またそれをきっぱり拒絶して、ヴロンスキイとともに外国の旅へ出た。
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