『戦争と平和』(トルストイ作、米川正夫訳)上巻P081―P120(2回目の校正おわり)

20241026
■45-■39、54分、ざっと校正、P081-P092
■44-■14、30分、ざっと校正、P093-P100
■03-■33、30分、ざっと校正、英語?あとまわし、P101-110、(もう一回P101-110しないと)
20241027
■07-■06、59分、ざっと校正、P101-120
■46-■01、15分、P111-120、
■11-■26、25分、P111-120、
2025201
■40-■50、10分、P081-P084、校正
■04-■16、12分、P085からP090、校正、
20250201
■15-■00、45分、P091からP114
■02-■14、12分、P115からP120まで、校正

20250205、1908、「て下さいまし、ピエールさん。わたし」、、、20250205、1929「ちょうど教会へでも」
20250205、2006「ちょうど教会へでも」、、、20250205、2029「《したあご》」
202500205、2046「《したあご》」、、、202500205、2053「二人の徳性」
20250206、0548「二人の徳性」、、、20250206、0610「《ねえ》さま」
20250206、0702「《ねえ》さま」、、、20250206、0706「もっと貧しくなりたい」
20250206、1916「もっと貧しくなりたい」、、、20250206、1934「彼女は吐息《といき》をついた。」
20250206、2019「彼女は吐息《といき》をついた。」、、、20250206、2041「いつになったら会えるかわか」
20250207、1855「いつになったら会えるかわか」、、、20250207、1918「冷やかな嘲りの調子」
20250207、1946「冷やかな嘲りの調子」、、、20250207、2021「アンドレイ公爵は注意した。」




て下さいまし、ピエールさん。わたしは決してあなたの利害《ため》を忘れはいたしませんから。」
 ピエールはなんにもわからなかったが、何事も皆こうあるのが本当だろうという感じが、また前よりもつよくなってきた。で、彼は、早くも扉を開けている夫人の後に、おとなしくついていった。
 その扉は裏口からくる客の控室に通じていた。令嬢つきの老僕が片隅に坐って、靴下を編んでいた。ピエールは邸内のこの部分へ来たこともなければ、こんな部屋のあることすら知らなかった。ドルベツカーヤ夫人は小間使が水さしをのせた盆を持って、二人を追い越して行くのをつかまえて、いい子だの可愛い子だのと世辞をならべながら、令嬢たちの健康のことなどきいてから、また暗い廊下を先へ先へとピエールを引っぱって行く。廊下にそうて左側にある最初の扉は、令嬢たちの住まいにあてられた幾つかの部屋へ通じていた。水さしを持った小間使があわてて(この家ではこの時すべての事があわててとり行われた)扉を閉め忘れたので、ピエールとドルベツカーヤ夫人は通りすがりに、何心なく部屋の中をのぞいて見た。そこでは一番上の令嬢とヴァシーリイ公爵が、額をあつめて話しこんでいた。通り過ぎた二人の姿を見ると、公爵はいらだたしげな身ぶりをして、急につと背をのばした。令嬢は立ち上り、懸命な力で、やけに叩きつけるように扉を閉め切った。その身ぶりはいつもの落ちつきはらった令嬢の態度に比べて、あまりと言えば似ていなさ過ぎたし、それに、ヴァシーリイ公爵の顔に現われた恐怖の色は、彼のものものしい平素の様子に不似合であったので、ピエールは止ち止まって[#「止ち止まって」はママ]、眼鏡ごしに自分の指導者をいぶかしげに見つめた。ドルベツカーヤ夫人は驚きの色も現わさず、ただ微かにほほ笑んで歎息した。わたしもこれを予期していました、という意を見せたのである。
「Soyez homme, moe ami. [#割り注終わり]あなた、男らしくなさいまし。[#割り注終わり]わたしはきっとあなたの利益を守ってさし上げます。」ピエールの物問いたげな眼付きにこう答えて、彼女はなお足早に廊下を進んで行った。
 ピエールは何だかわからなかったが、『あなたの利益を守る』というのは何の事やら、なおさら合点《がてん》がいかなかった。そして、ただ何もかもこうあるのが本当だろう、とだけ合点したのである。廊下を通りぬけて二人は伯爵の応接室に隣っている、うっすら燈のついた広間に出た。これはピエールがいつも表玄関からはいりつけた、寒いけれども贅沢に飾られた部屋の一つである。しかし、この部屋にも、真中に空の湯槽《ゆぶね》が置かれてあり、絨毯《じゅうたん》には湯のあふれた跡があった。出あいがしらに召使と香炉を持った僧とが、二人の者には目もくれず、爪先だちで出て来た。二人はピエールに馴染の深い応接室にはいった。そこにはイタリー風の窓が二つついて、冬の園へ下りる出口があり、大きな胸像とエカチェリーナ女帝を描いた等身大の肖像画が飾ってある。すべての人々は殆ど前と同じ位置に腰かけて、ひそひそささやきかわしている。一同はぴったりと話をやめて、泣きだしそうな蒼白い顔をしてはいってくるドルベツカーヤ夫人と、頭を垂れておとなしくついてくる肥えた大きなピエールの方へふり向いた。
 ドルベツカーヤ夫人の顔には、いよいよのるかそるかの時が来たという自覚が現われた。彼女はピエールをそばから一寸もはなさず、事務的なペテルブルグ婦人の態度をもって、今朝ほどよりなお大胆に部屋へはいっていった。臨終の病人があいたいという人をつれているのであってみれば、自分の行動はちゃんと保証されている、そう思って彼女は部屋に居合わす一同を、ちらとひと目に見てとったが、伯爵の懺悔僧が目に入ると、彼女は急に背をかがめた――というわけでもないが、何となくふいに背丈を小さくしながら、小きざみな飛ぶような足つきで僧の方へ近寄った。そして、まず一人の次にもう一人の僧の祝福をうやうやしく受けるのであった。
「有難いことにやっと間に合いました。」と彼女は僧に言った。
「わたしどもは親族の者ですが、本当に心配いたしました。あの若い方は伯爵のご子息でございます。」と彼女は声を低めてつけたした。「恐ろしい時が参りましたね!」
 こう言って彼女は医師に近づいた。
「Cher docteur, ce jeune homme est le fils du comte …… [#割り注]ドクトル、このお若い方は伯爵の御子息でございます……[#割り注終わり] まだ望みがございましょうか?」と彼女は医師にたずねた。
 医師は無言のまま眼と肩をひょいと上へあげた。ドルベツカーヤ夫人もまったくそれと同じ動作で眼と肩を上げたが、その眼を閉じてしまっていた。そして、歎息しながら、医師を離れて、ピエールの方へ帰って来た。彼女はとくにうやうやしく、優しい憂愁をおびた調子でピエールに話しかけた。
「〔Ayez confiance en Sa mise'ricorde.〕 [#割り注]神様のお恵みにお頼りなさい。[#割り注終わり]」と彼女は言い、小形の長椅子をさして坐って待っていろという意味をさとらせ、自分は人々の注意の焦点となっている例の扉の方へそっと音のせぬよう歩きだした。そして、聞えるか聞えないかくらいの音とともに、そのかげに姿をかくした。
 ピエールは万事この指導者の言うがままになろうと決心して、彼女のさし示した長椅子に向かって歩きだした。ドルベツカーヤ夫人がかくれると同時に、部屋に居合わす一同の視線が、好奇心や同情以上のあるものをおびて、自分の方に注がれているのに彼は気づいた。一同が眼で自分の方をさしながら恐怖とも阿諛とも見える一種の表情を浮かべつつ、ささやき合っているのに気がついた。人々はこれまでかつてなかったような尊敬を彼に示すのであった。僧たちと話していた見知らぬ一人の婦人は、自分の席を立って彼に座をすすめた。副官はピエールの落した手袋を拾って、彼に差し出した。医師たちは彼がそばを通るたびにうやうやしく口をつぐみ、彼に道を与えるために片寄るのであった。ピエールは初めその婦人の邪魔にならぬようにほかの席に坐るつもりでいたし、手袋も自分で拾い、決して通り路の邪魔にならぬよう、医師たちをもよけて通るつもりであった。しかし、ふいに彼はそうするのが、作法にかなわぬことのように思われた。今夜、自分は一同から待ち設けられている、ある恐ろしい儀式を行わねばならぬ人なので、それゆえ自分は他人から与えられる親切を受けなければならぬのだ、といった気持がした。彼は黙って副官の手から手袋を受け取り、例の婦人の席に腰をかけ、エジプトの彫像のような無邪気な姿勢で、几帳面にならべた膝の上に大きな手をおいた。そして、こうなるのが本当だ、今夜はとりのぼせて馬鹿なことをしないために、万事自分の一人考えで行動せず、自分の体を指導してくれる人の手にすっかりゆだねてしまわなければならぬ、と決めた。
 それから二分とたたぬうちに、ヴァシーリイ公爵は勲章の三つついた長上衣《カフタン》を着て、首を高くそらしながら、威風堂々と部屋へはいって来た。今朝から見ると更にやせたように思われた。彼が部屋を見廻してピエールを見つけた時、その眼はいつもより大きかった。彼はピエールに近づいてその手をとり(以前かれは決してこんな事をしなかった)、しっかりしているかどうか試して見るように、その手を下の方へぐっと引くのであった。
Courage, courage, mon ami. [#割り注]しっかりしな、しっかりしな、ピエール。[#割り注終わり]伯爵が君に会いたいと言われる、まことに結構なことだ。」と言い、彼は立ち去ろうとした。
 ピエールは何かきかなければならぬと思ったので、
「ご容体はどんなですか、あの……」といいかけてまごついてしまった、伯爵と言っていいかどうかわからなかったし、それかと言って、お父さんと言うのも気がとがめられたので。
「三十分ばかり前に[#割り注]il a eu encore un coup. [#割り注終わり]また一ぺん打撃があったよ。また打撃があったよ。」とロシア語で言いなおした。「しっかりした、ピエール。」
 ピエールはすっかり思考力がにぶっていたので、打撃という言葉を聞いた時、何か人が体に受ける殴打のようなものを想像した。彼はけげんそうにヴァシーリイ公爵を眺めたが、やっと病気の発作《ほっさ》を打撃ということに気がついた。ヴァシーリイ公爵は通りすがりにロルランに二こと三こと言って、爪先だちで扉の方へ進んだ。しかし、彼は本当に爪先で歩くことができなかったので、不器用に体ぜんたいで飛び上るようにして歩いた。その後から一番上の令嬢がはいって行くと、続いて僧たちも進んだ。召使たちもやはり同じく扉の中へはいって行く。この扉の向うで何やら物を移すような気配がしたが、やがて、ドルベツカーヤ夫人が色は依然として蒼白いけれど、義務を遂行しようという決意のために、ひきしまった顔つきをしながら駈け出して来て、ピエールの手にさわりながらこう言った。
「〔La bonte' divine est ine'puisable.〕 [#割り注]神様のお恵みは無限でございます。[#割り注終わり]これから塗油式が始まります、さあ參りましょう。」
 ピエールは柔らかい毛氈《もうせん》を踏んで扉の向うへはいった。すると副官も、見知らぬ婦人も、それから召使の誰かれも、まるでこの部屋へはいるのにもはや許可を求める必要はない、といわぬばかりの様子で、一同彼の後から続いて来た。

[#6字下げ]二三

 円柱列や迫持《せりもち》で幾つにも区切られて、壁から床いちめんにペルシャ絨毯《じゅうたん》を張りつめ敷きつめたこの大きな部屋を、ピエールはよく知っていた。一方に絹の帷《とばり》でおおわれたマホガニー製の高い寝台が置かれ、いま一方に大きな聖像龕の立っている円柱列の向う側は、夜祈祷の行われる時の教会のようにあかあかとまぶしく照らし出されていた。聖像の袈裟が燈に輝いている龕の下には、ヴォルテール式の長い安楽椅子が据えてあった。たったいまとり替えたらしく、雪のように白くて、少しも皺のない枕を上の方にあてがったその椅子には、見なれた父ベズーホフ伯爵の荘重な姿が、腰の辺まで鮮かな緑色の夜具におおわれて横たわっていた。額の上にはいつも変らぬ獅子のような半白の鬣《たてがみ》が渦巻き、赤みがかった黄色な美しい顔には、上品な特色のあるふとい皺がきざまれている。彼は聖像のま下に寝ていた。ふとい大きな手は両方ともひき出されて、夜具の上にのせてあった。右の手は掌《てのひら》を下に向けて、親指と人差指の間に蝋燭をはさんでいたが、それは年とった侍僕が椅子のかげからかがみこんでささえているのであった。
 安楽椅子のかたわらには、壮麗な輝かしい法衣をまとった僧侶たちが、長い髪を法衣の上にたらし、火のともった蝋燭を手に持って、静かに読経するのであった。その少し後ろには若い方の令嬢が二人、一人は手に、一人は眼のふちにハンカチを押しあてて立っていた。妹達の前には姉のカチーシがつんとした毒々しい顔付きをして、しばしも聖像から目をはなさないで立っていたが、その様子は、『もしもわたしの目がちょっとでもふり返って見たら、わたしは自分でももう何かするかわかりませんよ。』と一同に申しわたしているような工合であった。ドルベツカーヤ夫人は、つつましやかな悲しみと、一切をゆるすような表情を顔に浮かべながら、見知らぬ婦人とならんで扉のそばに立っていた。ヴァシーリイ公爵は安楽椅子に近い、いま一方の戸口に立っていたが、ビロードを張って彫刻をほどこした椅子をとって、その寄っかかりを自分の方へ向け、蝋燭を持った左手をその上にもたせて、右手で十字を切り、指を額にあてるたびに、眼を空へ向けるのであった。彼の顔は神意に対する落ちついた敬虔の念と、服従の情とを現わしていた。『もしあなた方がこの気持を理解しないなら、あなた方にとっていい事はありませんぞ。』とこの顔が言っているように思われた。
 彼の後には副官や医師や侍僕などが立っていた。ちょうど教会へでも行ったように、すべて男と女とはきちんと別れ別れになっている。だれもかれも無言で十字を切っていた。聞えるものとてはただ読経の声と、つつましやかな沈んだ低音《バス》の歌と、その歌の切れめ切れめに足を踏みかえる音と、ため息の声のみであった。ドルベツカーヤ夫人は、自分のなすべき事はちゃんと心得ています、といったような容体ぶった顔付きをして、部屋を横切ってピエールに近寄り、彼の手に蝋燭を持たせた。彼はそれに火をともしたが、周囲の人を観察するのに気をとられ、蝋燭を持った手で十字を切った。
 血色のいい、おかしがりやの、顔にほくろのある一番下の令嬢ソフィは、じっと彼の様子を眺めていたが、にっと笑ってハンカチに顔をかくし、長いことじっとそのままでいた。それからまたちらとピエールの方を見ると、又ぞろ笑いだした。見受けたところ、彼女は笑わずにピエールを見ることが出来ないくせに、やはり彼を見ずには我慢していられなかったらしい。で、とうとうこの誘惑をさけるために、円柱列のかげへそっと居場所をかえた。突然、勤行《ごんぎょう》の半ばに読経の声がはたとやんで、僧たちは互に何やらささやきあった。伯爵の手を支えていた老僕は、立ち上って婦人連の方をふり返った。ドルベツカーヤ婦人は進み出て、椅子の寄っかかりのかげから病人の上にかがみこんだが、やがて指でロルランをさし招いた。フランスの医師は円柱列に寄りそいながら、蝋燭なしに立っていたが、外国人によくあるうやうやしげなその恰好は、『宗教の相違こそあるにせよ、いま行われている儀式の重大な事はよくわかっている。のみならずむしろ好意を持っているくらいだ。』といったような心持を現わしていた。彼は男盛りの人らしい、静かな音のせぬ足どりで病人に近寄り、白く細い指で病人の空いた方の手を緑色の夜具から取り上げ、わきの方へ向きながら脈をとって考えこんだ。病人には何かの水薬が与えられ、人々はその周囲をざわざわ動きだした。やがて、またそれぞれ席に復すると、勤行が続けられるのであった。
 この儀式の切れめにヴァシーリイ公爵は、今まで手をのせていた椅子のかげから出て、例の『私は自分が何をしてるかよく知っている。もしそれがわからない人は、決してろくな事はありませんぞ。』といった様子をして、病人の方へは行かずそのそばを通り抜け、一番上の令嬢と一しょになって、寝室の奥にある絹の帷《カーテン》を垂らした、高い寝台の方へ進んだ。やがて二人は寝台を離れて、後ろの戸口にかくれてしまったが、勤行の終る前に一人ずつ自席へ帰って来た。ピエールはこの様子を眺めていながら、それに対してもほかの事がら以上に特別な注意を向けることはしなかった。たとえ今夜どんな事が起ろうとも、それは皆そうあるのがあたりまえなのだと、一旦そうきめてしまってから、彼は今でもその心持をかえなかったのである。
 讃美歌の響がやむと、うやうやしく病人に神秘受納の祝辞を述べる僧侶の声が聞えた。病人は依然として生なきものの如くじっと横たわっている。と、病人のまわりで一同がざわざわ動きだし、足音やささやきの声が聞えはじめた。その中でも、ドルベツカーヤ夫人のささやきが殊に鋭く響くのであった。彼女が、
「ぜひ寝台へ移さなくてはなりません、ここでは何とも仕様がございません……」と言う声をピエールは耳にした。
 病人はすっかり医師や令嬢や侍僕らにとりかこまれたので、もはやあの半白の髪の渦巻いた赤黄ろい顔――いろいろとほかの人の顔を見たにもかかわらず、儀式の間じゅう暫しもピエールの心を去らなかった顔が、今は見えなくなってしまった。ピエールは、安楽椅子をとり巻いた人々の用心ぶかい動作によって、病人を抱き起して運びにかかったのだと察した。
「おれの手につかまってろよ、そうしたら落してしまうじゃないか。」侍僕の一人のおびえたようなささやきが聞えた。「下から……もう一人」などという声がした。重々しい息づかいや足踏みの音が、だんだん忙しくなってきた。それはまるで彼等の運んでいるものが、とても手に合わないほど重いものか何ぞのようであった。
 それ等の人々が(その中にはドルベツカーヤ夫人もまじっていた)ピエールのそばまで来た時、高々と腋《わき》の下を抱えて運ばれている病人の肥えた肩と、あらわな脂ぎった高い胸と、半白の髪の渦巻いた獅子のような頭が、人々の背中や頭のかげからちらちらとピエールの目にうつった。額と顴骨《かんこつ》の並はずれて広い、口元の肉感的に美しい、荘重な冷やかな眼付きをしたこの顔は、目前にせまる死によってもなお、そこなわれていなかった。三月前、ピエールをペテルブルグへ出発させた時のままである。けれども、この首は、窪んで行く人々の不揃いな歩調のために、力なくゆれて、冷たい無感覚な眼は落ちつく所を知らなかった。
 幾分かの間、病人を運んだ人々は高い寝台のそばでざわざわしていたが、やがて、別れ別れになった。ドルベツカーヤ夫人はピエールの手にちょっとさわって、「Venez. [#割り注]参りましょう。[#割り注終わり]」と言った。ピエールは彼女と一しょに寝台に近よった。その上にはたった今終ったばかりの、神秘授受の式に関係のあるらしい、妙にのんきな姿勢をした病人が横たわっていた。彼は頭を高い枕に支えて横たわり、両手は掌を下へ向けて、絹夜具の上に恰好よくならべられている。ピエールが近よった時、伯爵は彼の方を真っすぐに眺めた。が、その眼の意味は所詮人間にわかるようなものでなかった。或いはこの眼付きはただたんに『眼がある以上どこか見なければならぬ』とよりほか、何一つ現わしていなかったかもしれないし、或いはまた、あまりに多くのものを語っていたのかもしれぬ。ピエールはどうしていいかわからないで、相談するように指導者ドルベツカーヤ夫人をふり返った。夫人は忙しげに眼で病人の手を示し、その手へ向けて唇で接吻のまねをして見せた。ピエールは夜具にふれないようにおずおずと首をのばし、彼女の命に従って、骨のふとい肉つきの豊かな手に接吻した。伯爵は手はもとより、その顔面筋肉の一本さえも動かさなかった。ピエールは、さて今度はどうしますかときくように、ドルベツカーヤ夫人を眺めた。夫人は限でもって、寝台のそばに立っている安楽椅子を示した。
 ピエールは素直に椅子に腰をおろしながらも、自分のした事がまちがっていないかどうか、目顔でいつまでもたずねている。ドルベツカーヤ夫人は『結構結構』というようにうなずいて見せた。ピエールは自分のぶ恰好な大きな体が、あまり場所を取るのを気にして、どうかして小さく見せようと、またもやエジプトの彫像然と、無邪気な対偶的《シンメトリック》な姿勢をとった。彼は伯爵の方を眺めた。伯爵はピエールが立っていた時、その顔のあった方角を見ていた。ドルベツカーヤ夫人はこの親子の対面の、悲痛で重大な意義を自覚した様子を姿に現わした。これが二分間ばかり続いたが、ピエールには一時間もたったように思われた。ふいに伯爵の顔の太い筋や皺に痙攣《けいれん》が生じた。その痙攣は次第にはげしくなって、美しい口はゆがんだ(この時はじめてピエールは、どれ程まで父が死に近づいているかをさとったのである)。そして、ひん曲った口から不明瞭なかれた音《おん》が聞えた。ドルベツカーヤ夫人は一生懸命に病人の暇を見つめながら、どうして欲しいのか察しようとして、ピエールをさして見せたり、飲料をさして見せたり、小声でヴァシーリイ公爵ではないかときいてみたり、或いは夜具をさして見せたりした。しかし、病人の眼と顔は次第に焦躁の色を現わしてきた。彼は枕もとを離れずについている侍僕を見ようとして努力した。
「寝返りをしたいとおっしゃるのでございます。」と侍僕はささやいて立ち上り、伯爵の重い体を後ろの壁の方へ向かした。
 ピエールは侍僕に手を貸すため席を立った。
 病人を向け変えようとしている時、伯爵の片手がだらりと後ろへ垂れ、彼はそれを引き戻そうと努力した。この生気のない手を見た時、ピエールの顔に現われた恐怖の色に気がついたのか、それとも、瀕死の頭脳にこの瞬間なにか別種の想念がひらめいたのか、とにかく、伯爵はいうことを聞かぬ自分の手を眺め、それから、ピエールの顔に浮かんだ恐怖の色を一|瞥《べつ》し、またもや自分の手に瞳を転じた。すると、彼の顔にはその輪郭に不似合な、妙に弱々しい、自分の無力を嘲るような、受難者めかしい微笑が現われた。この微笑を見ると、ピエールは思いがけなく胸がぴりりとふるえて、鼻の中をちくりと刺されたような気がした。涙が彼の視覚を曇らした。病人を壁に面して寝返りさせてしまった時、彼は吐息をついた。
「Il est assoupi. [#割り注]お寝つきなすったようでございます。[#割り注終わり]」ドルベツカーヤ夫人は、交代に来た令嬢に気がついてこう言った。「参りましょう。」
 ピエールは部屋を出た。

[#6字下げ]二四

 応接室にはヴァシーリイ公爵と、一番上の令嬢のほか誰もいなかった。二人はエカチェリーナ女帝の肖像の下に腰かけて、何やら盛んに話していた。二人はピエールとその指導者をみとめるや否や、ぴったり口をつぐんでしまった。令嬢は何やらかくしながら(とピエールには思われた)、ささやいた。
「わたしこの女を見るのもいやです。」
「カチーシが小さい方の客間で、お茶を差し上げるようにいいつけましたから、」とヴァシーリイ公爵はドルベツカーヤ夫人にフランス語で言った。「あなたあっちへ行って、元気をおつけになったら、アンナ・ミハーイロヴナ。でないといとてもお体が続きませんよ。」
 ピエールに向かっては何も言わず、公爵はただ情《じょう》をこめて二の腕を握った。ピエールは夫人とともに小さい方の客間へ通った。
「徹夜した後で上等なロシア茶を飲むくらい、元気の回復することはありませんね。」小さな円形の客間では医師のロルランが、茶道具と冷肉ののせてあるテーブルの前に立って、手のない薄い支那焼の茶碗で茶をすすりながら、ひかえ目な快活な表情で言った。
 テーブルのまわりには、この夜ベズーホフ伯爵家に来ていた人達が、ひと口食べて元気をつけるために集まっていた。ピエールは鏡や小卓の沢山ある、この小さな円形の客間をよくおぼえていた。伯爵家で舞踏会の催された時など、踊りの出来ないピエールは、この小さな客間に坐ったまま、舞踏会らしいお化粧をして、あらわな肩にダイヤモンドや真珠を飾った婦人たちが、この部屋を通りぬけるたびに、幾重にも彼女らの姿を照り返して、煌々《こうこう》と輝くこれらの鏡をのぞいて行くのを、黙って観察するのがすきだった。しかし、今日は同じこの部屋が、淋しく二本の蝋燭におぼつかなく照らされているのみだった。そして、この真夜中に茶器と皿をだらしなくのせた小さなテーブルが、たった一つ立っていて、そのまわりでは種々雑多な人々が一言一行にも、いま寝室で進行し完成せんとしている事実を、だれひとり忘れていないということを見せながら、ひそひそ声で話して坐っている。ピエールは何か食べたくてたまらなかったが、手を出そうとしなかった。彼は相談するように自分の指導者の方をふり向くと、彼女はまたしても、ヴァシーリイ公爵と令嬢の居残っている応接室の方へ、爪先だちで出て行こうとしているところであった。ピエールは、これも又こうあるのが本当だろうと考えたが、ちょっとためらったのち、彼女の後を追って立った。ドルベツカーヤ夫人は令嬢のそばに立っていた。そして、二人とも興奮したような声で、両方から一時にささやき合うのであった。
「どうかかまわないで下さい、公爵夫人、わたしだってどんな事が必要で、どんな事が不必要だか、それくらいは存じていますよ。」令嬢はちょっと前に、自分の居間の扉を叩きつけるように閉めた時と同様、激しているらしい調子でそう言った。
「けれどもねえ、お嬢様、」寝室に通ずる道をふさいで、令嬢を通すまいとしながら、つつましやかにさとすようにドルベツカーヤ夫人は言った。「伯父様はいまご休息なさらねばならない時ですから、そんな事を申し上げたらお苦しくございますまいか? 伯父様の魂はもう天国へいらっしゃる準備が出来ていますのに、そうした娑婆のお話は……」
 ヴァシーリイ公爵は例のなれなれしい姿勢で、両足を高々と組み合わせながら安楽椅子に坐っていた。彼の頬は烈しくひっつって、下の方が少しぼってりと垂れているように見える。が、彼は二人の婦人の会話には、さして興味のなさそうな様子をしていた。
「Voyons, [#割り注]ねえ、[#割り注終わり] アンナ・ミハーイロヴナ、laissez faire Catiche. [#割り注]カチーシのしたいようにさしてお置きなさい。[#割り注終わり] ご承知の通り、伯爵はこの人を愛しているのですから。」
「わたくしはこの書類に何が書いてあるか存じません。」令嬢は手に持っているモザイクの折カバンをさしながら、ヴァシーリイ公爵の方へ向いて言った。「ただ正式の遺言状は伯父さまの机の中にあるので、これはただつまらない書類だということだけは存じています……」
 彼女はドルベツカーヤ公爵夫人のそばを廻って行こうとした。が、夫人はひょいと飛び寄ってまた路をふさいだ。
「わたしは承知しています、お嬢様。」ドルベツカーヤ夫人は、もう容易にはなしませぬというようにかたく折カバンをつかんでこう言った。「だけど、お嬢様、お願いです。後生ですから、少しは伯父様をお可哀そうだと思って下さい。Je vous en conjure…… [#割り注]後生です……[#割り注終わり]」
 令嬢は答えなかった。そして、暫くは折カバンをねらっての懸命な争いの音が聞えるのみであった。令嬢はもし何か口を切ったら、ドルベツカーヤ夫人にとって気持のいい事は言いだすまい、というような気配を示していた。夫人はしっかりと折カバンをつかんでいたが、それにもかかわらず、声は持ち前の甘ったるい、引き延ばしたような柔らかさを保っていた。
「ピエールさん、こっちへいらっして下さい。わたしは、ピエールさんだって、この親族会議の席にいなすっても、決して邪魔な方ではないと思います。そうではございませんか、公爵?」
「どうしてあなたは黙ってらっしゃるんです、我従兄《モン・クザン》?」ふいに令嬢は客間の人々が聞きつけてびっくりするほど、大きな声で叫んだ。「どこの馬の骨だかしれない者が口を出して、失礼にも、大病人の部屋のすぐそばで、乱暴なまねをしてるのに、あなたはなぜ黙っていらっしゃるんです。この悪党婆あ!」と憎々しげにつぶやいて、彼女は力いっぱい折カバンをひっぱった。
 しかし、ドルベツカーヤ夫人は折カバンから離れまいとして、二あし三あし前へ出ながら手を持ちかえた。
「おお!」ヴァシーリイ公爵はびっくりしたように言った(彼は立ち上ったのである)。「C’est ridicule. Voyons, [#割り注]それは全く滑稽ですよ、さあ、[#割り注終わり] お放しなさい。お放しなさいと言ってるじゃありませんか。」
 令嬢は手を放した。
「あなたも!」
 ドルベツカーヤ夫人は彼の言うことを聞かなかった。
「お放しなさいって言うに。私が一さいの責任を負います。私が一人で行って伯爵に聞いて見ます。ね!……あなた、そんなことは沢山ですよ。」
「Mais, mon prince, [#割り注]けれど、公爵、[#割り注終わり]」と夫人は言った。「ああいう偉大な神秘の式の後ですから、伯爵も暫くじっと静かにおさせ申さなくてはなりませんね。ピエールさん、あなたの御意見はいかがでございます?」と彼女は青年の方へふり向いた。こっちは彼らのそばへぴったりと寄りそい、一さいのたしなみを忘れて毒々しい表情をおびた令嬢の顔と、ぴくぴくひっつるヴァシーリイ公爵の頬とを、あっけにとられて見くらべていた。
「じゃ、覚えてらっしゃい。あなたは一さいの結果に対して、自分で貴任を負わなければなりませんぞ。」とヴァシーリイ公爵はおごそかに言った。「あなたは自分で自分のしてる事がおわかりにならないのだ。」
「この悪婆!」と叫びながら、令嬢は思いがけなくドルベツカーヤ夫人に飛びかかり、折カバンをひったくった。
 この瞬間に扉が――あのピエールが長い間眺め続けていた恐ろしい扉、そしていつも静かに開けたてされていた扉が、急に騒力しくばたんと壁に突きあたるほど烈しく開いて、そこから二番目の令嬢が走り出た。そして、両手をうちながら、
「皆さん何をしていらっしゃるんです!」と彼女は絶望したように言い出した。「Il s’en va et vous me laissez seule. [#割り注]伯父様が死にかかっていらっしゃるのに、わたしを一人ぼっちにしてしまって。[#割り注終わり]」
 一番上の令嬢は折カバンをとり落した。と、ドルベツカーヤ夫人はす早く身をかがめて、争いの的になっている一物を拾い上げ、寝室の中へ駈けこんだ。一番上の令嬢とヴァシーリイ公爵ははっと我に返って夫人の後を追って行った。幾分かの後、まっさきに上の令嬢が出て来た。かわききった蒼い顔をし、下唇を食いしげっていた。ピエールの姿が眼に入ると、彼女の顔はおさえきれぬ憤怒の色をあらわした。
「さあ、今こそおよろこびなさい。」と彼女は言った。「あなたはこれを待ちかねていらしったんですからね。」
 といきなり、慟哭《どうこく》の声を上げ、ハンカチで顔をかくしながら、部屋を走り出てしまった。
 令嬢の後からヴァシーリイ公爵が出て来た。彼は、よるよろしながら、ピエールの坐っている長椅子までたどりつくと、片手で眼をふさいでピエールに身を投げかけた。彼は真蒼にたり、下頤《したあご》は熱病にでもかかったように躍りふるえている。ピエールはそれに気がついた。
「ああ、君!」と彼はピエールの肘をつかまえて言った。その声の中には今までかつてピエールの気づかなかった真実さと弱弱しさとがあった。「われわれは随分たがいに欺きあったり何かして、罪を重ねているが、一たい何のためだろう? 私はもう五十すぎた身だよ、君……実際、私は……何もかも終りはただ死あるのみだ。みんなそうだ。死は恐ろしいものだなあ。」
(と彼は泣きだした。)
 最後に出て来たのはドルベツカーヤ夫人であった。彼女は静かなゆっくりした足どりで、ピエールのそばへ寄った。
「ピエールさん……」と彼女は言った。
 ピエールは何事かとたずねるように彼女を見上げた。彼女は青年の額を接吻したが、涙がその額をぬらすのであった。
「Il n’est plus ……伯爵はもうこの世の方ではございません。」
 ピエールは眼鏡ごしに彼女の顔を眺めた。
「Allons, je vous reconduirai. [#割り注]参りましょう、わたしがお供いたしますから。[#割り注終わり]精出してお泣きなさいまし、泣くほど心の軽くなる事はありません。」
 彼女はピエールを暗い客間へ導いた。ここでは誰も自分の顔か見る者がないのを、ピエールは悦んだ。ドルベツカーヤ夫人はすぐにその場を去ったが、やがてまた帰って来て見ると、彼は手枕をしてぐっすり寝こんでいた。
 翌朝ドルベツカーヤ夫人は、ピエールに向かってフランス語でこう言った。
「ねえ、あなた、今度の事はあなたは申すに及ばず、わたしたち一同にとって、大きな損失でございました。けれど、あなたはまだお若いんですから、神様がちから杖になって下さいます。で、多分、あなたは今度この大きな財産の持主におなんなさる事と思います。もっとも遺言状はまだ開けて見ませんけれどわたくしは、あなたという人をかなりよく存じていますから、この出来事もあなたを狼狽させはしますまいと信じています。けれど、自然あなたにも責任がかかってくるわけですから、しっかりなさらなければなりません。」
 ピエールは黙っていた。
「わたくしまた後程お話しいたしますが、もしわたくしがいませんでしたら、どんな事が起ったかもしれなかったんでございますよ。ご承知ですかしりませんが、おととい伯父様がボリースのことを忘れないと、わたくしにお約束下すったのですけれど、とうとう、そのお暇がなかったようでございます。大方あなたがお父様の遺志を果たして下さることと存じます。」
 ピエールは何が何やら少しもわからず、内気らしく赧い顔をしながら、黙って公爵夫人を見つめるのみであった。ピエールにこれだけの事を話すと、ドルベツカーヤ夫人はロストフ家へ帰って寝についた。翌朝、眼をさますと、彼女はロストフ家の人々やその他の知人に、ベズーホフ伯爵の死を事こまかに語って聞かせた。彼女の言葉によると、伯爵は我れ人共に望ましいくらいの死に方をした。彼の死は単に哀れなばかりでなく教訓的であった。父子最後の対面は、思い出すたびに涙を催さずにいられないほど、哀れにも悲しいものであった。そして、父と子のいずれがこの恐ろしい瞬間に、より見事にふるまったか定めかねるほどである。最後の瞬間まで何から何、誰から誰までおぼえていて、わが子にいたましい言葉をかけた父が優っていたか、それとも、見るも憐れな死人のような顔付きをしながら、それでも瀕死の父に嘆きをかけまいと、自分の悲しみをかくしていた子の方か?「C’est penible, mais cela fait du bien. [#割り注]これは悲しいことですけれど、しかし立派です。[#割り注終わり] 老伯爵や、またその名をはずかしめたい息子さんみたいな人達を見ていると、自分の心まで高尚になります。」とドルベツカーヤ夫人は語った。公爵令嬢とヴァシーリイ公爵のしたことも、非難するような口調で話したか、それは極の秘密として小さな声で言ったのである。

[#6字下げ]二五

 ニコライ・アンドレーヴィッチ・ボルコンスキイ公爵の領地|禿山《ルイシエ・ゴールイ》では、若公爵アンドレイ夫妻の到着を今日か今日かと待ちかねていた。けれども、この期待の情も公爵家の整然たる生活の秩序をばいささかも乱すようなことはなかった。le roi de prusse [#割り注]プロシャ王[#割り注終わり] の綽名《あだな》をもっている元師ニコライ公爵は、パーヴェル一世*の治世に田舎へうつされて以来、禿山から一歩も出ないで、娘のマリヤとその学友ブリエンヌとともに暮らしているのであった。治世が変って、両首都に入ることを許されたにもかかわらず、彼は誰でも自分に用事があるなら、モスクワから禿山まで、百五十露里の道を乗り着けるがよい、自分には何人もまた何物も用がないと言い、相変らず村から少しも外へ出ずに暮らした。
 彼に言わせると、人間に二つの悪行の源がある。それは怠惰
 *エカチェリーナ女帝の息、アレクサンドル一世の父、一七五四―一八〇一年。極端なる猜疑と惨虐のため近臣の恨を買いて弑逆さる。
と迷信である。また同じくただ二つの善行がある。すなわち活動と明智である。彼は自分で娘の教育に従ったが、この二つの徳性を発達させるために、二十歳の年まで彼女に代数と幾何の日課をさずけ、彼女の生活全部を不断の勉学に割りあててしまった。また彼自身もたえず何かかにか仕事をしていた。時には自分の回想録を書いたり、時には高等数学の問題を解いて見たり、時には轆轤《ろくろ》で煙草入をこしらえたり、時には庭いじりをしたり、また公爵家の領地で絶え間なしに起工される建築の監督をしたりするのであった。事務に要する第一の条件は秩序であるところから、彼の生活形態においては、秩序が極度の正確に達していた。彼は常に変る事なき一定の条件のもとに、時はおろか、分まできめて食堂へ出ることになっている。令嬢から下男に至るまで、すべて周囲の人に対して、彼は恐ろしく峻厳で、常に変らぬきびしい要求を固持するのであった。それゆえ、残忍な質ではないけれども、極めて残忍な人さえ容易に獲得することの出来ないような恐怖と尊敬の念を、人に呼びさます力を持っていた。
 彼はいま非職になっているので、公の事業に関して何らの権威をも有していないにかかわらず、同県に勤めるすべての長官は、時々、彼のもとに伺候するのを義務と心得ていた。そして、建築技師や、庭作りや、令嬢マリヤなどと同じように、天井の高い侍僕室で、定めの時に公爵が出て来るのを待っていた。そして、大きな高い書斎の扉が開いて、手の小さくかさかさした、半白の眉を長く垂らした(この眉は彼が顔をしかめるたびに、利口そうな、若々しく輝く眼の光をおおうのであった)、髪粉《プードル》をつけた鬘《かつら》をかぶった、あまり背の高くない老人の姿が現われると、侍僕室に待っている人は誰でも尊敬、というよりむしろ畏怖をおぼえるのであった。
 若夫婦到着の日の朝、令嬢マリヤは例によって朝の挨拶をするために、課業の時間に侍僕室へ赴いた。そして、おそれを抱きつつ十字を切って、心の中で祈りをした。毎日、彼女はこの部屋へはいってくるとき、この日の対面が無事で終るようにと祈るのであった。
 侍僕室に坐っている髪粉《プードル》をつけた老僕が静かに立ち上って、
「お入りなされませ。」と小声で言った。
 扉の向うからは規則ただしく廻る轆轤《ろくろ》の音が聞えた。令嬢はたやすくなめらかに開かれる扉に手をのばしながら、入口の所で立ち止まった。公爵は轆轤台に向かって仕事をしていたが、ちょっとふり返っただけで、また仕事を続けた。
 大きな書斎は、不断使用されているらしい道具類にみたされていた。書籍や設計図ののっている大きなテーブル、ガラス戸に鍵のついた高い図書戸棚、立って書く高いテーブル(その上には本が開かれたままのっていた)、轆轤台とそれに付属する諸道具、そして鉋屑《かんなくず》――これ等すべての物は、さまざまな秩序だった仕事が、やみ間なく行われていることを語っていた。銀糸で縫ったダッタン風の靴をうがった小さな足、筋だらけのざらざらした手、こういうもののしっかりした運動から見ると、まだまだ多くのものに堪え得る執拗な初老の力が、公爵の体内に残っているのが察しられた。
 四五へん輪を廻した後、彼はペダルから足をはずして、鑿《のみ》を拭い、それをば台に打ち付けてある皮の袋にほうりこんだ。彼は今まで一度も自分の子を祝福したことがない。で、今日はまだ剃刀をあてぬ、こわい毛のごそごそしている頬を差し出しただけで、いかめしいけれど同時に注意ぶかい、優しい眼付きで娘を眺めながら、「変りないかな?……では坐れ!」と言った。彼は自分の手で書いた幾何の手帳をとり、足で安楽椅子を引き寄せた。
「明日の分だ!」手早く必要なページをさがし出し、かたい爪で節《パラグラフ》から節まで印をつけながら、彼はこう言った。
 令嬢はテーブルの上なる手帳の方へ身をかがめた。
「ちょっと待て、お前に手紙が来てる。」と老公爵は言い、テーブルの上に作りつけてある状差の中から女の手で上がきをした封書をとり出して、テーブルの上へ投げ出した。
 令嬢の顔はこの手紙を見るとともに、赤い斑点《しみ》だらけになった。彼女は急いでそれをとり上げて、その方へかがみこんでしまった。
「エロイーザから来たのか?」冷い微笑とともに、まだ堅固な黄味がかった歯を見せながら、公爵はたずねた。
「はい、ジューリイから来たのでございます。」令嬢は臆病げに父を見上げて、臆病そうにほほ笑みながら言った。
「もう二通は許すが、三通目のは読んでしまうぞ。」と公爵はおごそかに申し渡した。「恐らく、くだらん事ばかり書いているんだろう。三通目のは読んでしまうぞ。」
「これもかまいませんから、お読み下さいまし、|お父さま《モン・ペール》。」令嬢は赧くなって、手紙を差し出しながら答えた。
「三通目のだ、三通日のだと言ってるではないか。」と公爵はぶっきら棒にどなって、手紙をつき戻し、テーブルに肘をつきながら、幾何図のついた手帳を引き寄せた。
「さてと、」老公爵はちかぢかと娘のそばへ寄って手帳の方にかがみ、令嬢の坐っている肘椅子の背に片手をのせて、説明を始めた。令嬢は久しい以前から嗅ぎなれた、父のつんと老人くさい匂いと煙草の匂いに、四方からとりかこまれた思いがした。「さてと、この三つの三角形は相等し、いいかよく見ろ、角ABCは……」
 令嬢は自分のすぐそばに輝く父の眼をおびえたように見上げた。例の赤い斑点《しみ》が顔じゅうにひろがった。見受けるところ、彼女は何もわからないらしい。ただおそろしさが一ぱいで、父の説明がどんなに明瞭であっても、恐怖の念に妨げられて、どうしてものみこめなかったのである。教える方が悪いのか、ただしは習う方が悪いのか、ともあれ、毎日毎日、同じことばかりくり返された。令嬢はいつも眼の中がぼうとしてしまって、なに一つ見も聞きもしなかった。ただ自分のすぐそばにある厳めしい父の顔、その息づかい、その匂いを感じながら、どうかして早くこの書斎を出て、自分の部屋でゆっくり問題を咀嚼し一たいものだと、そればかり考えていた。老公爵はよく癇癪を起し、自分の坐っている椅子をがたがたと前へ寄せたり後へどけたりしながら、激昂すまいと自分を抑制するのであったが、ほとんど毎度のように夢中になってどなりつけ、時には手帳をほうり出すことさえあった。
 令嬢は答を誤った。            
「ふん、だから馬鹿と言うのだ!」と手帳を飛ばして、そっぽを向きながら公爵は叫んだ。が、すぐ立ち上って部屋を一廻りし、ちょっと両手で令嬢の髪にさわって見てから、また腰をおろした。
 彼は椅子を引き寄せて説明にかかった。
「駄目だ、駄目だ、」令嬢が問題のついている手帳を取ってページを閉じながら、もう出て行く支度を始めた時、公爵はこう言った。「数学というものは偉大な仕事だぞ、マリヤ。わしはお前を世間なみの馬鹿な奥さん達の仲間にしたくないのだ。辛抱しているうちに面白くなってくるよ。(と彼は手で娘の頬を軽く叩いた。)そうすれば、馬鹿な考えも頭の中から飛び出すだろうて。」
 マリヤが立ち去ろうとすると、彼は仕方で娘を押し止め、高いテーブルからまだページを切ってない書物を取った。
「そら、お前のエロイーザが『神秘の鍵』とかいうものを送って来たよ。宗教の本だ。わしは他人の信仰には決して干渉しない……ただちょっと眼を通しで見た。さ、持って行け。もう行ってよろしい、行ってよろしい。」
 彼は娘の肩をぽんと叩いて、自分で娘の出た後のドアを閉めた。
 マリヤは沈み勝ちなおびえた表情をして、自分の居間へ帰って来た。この表情は常に彼女につきまとって、その美しくない病的な顔を更に醜く見せるのであった。彼女は小さな肖像画を飾り、手帳や書物をほうり出した勉強卓に向かって腰をおろした。令嬢は父が几帳面であるのと同じくらい乱雑であった。彼女は幾何の手帳を置いて、もどかしそうに手紙の封を切った。それは令嬢にとって誰よりも親しい幼馴染の手紙であった。この友達というのはロストフ家の命名日に来合わせていた、かのジューリイー・カラーギナである。
 ジューリイはフランス語で次のように書いていた。
「〔Che`re et excellente amie,〕[#割り注]懐かしく尊きわが友よ、[#割り注終わり] 別離とは何という恐ろしい残忍なものでしょう! わたしは幾度か心の中で、わたしの存在と幸福の大半はあなたの中にある、たとえ、いかばかりの距離が二人の間をへだてていようとも、二人の心は断つことの出来ぬ絆《きずな》でつながれている、とこう考えて見るのですけれど、それでもわたしの心は運命に反抗の声を上げます。数々の愉楽と慰安がわたしをとりかこんでいるにもかかわらず、あなたとお別れして以来、たえず心の底で経験している一種のかくれたる憂愁を、圧しつけることが出来ませんの。どうしてわたし達は去年の夏のように、あなたの大きな書斎にある水色の長椅子、『告白の長椅子』の上へ、一しょにかけることができないのでしょう? ちょうど三月前のように、あなたのつつましやかな、落ちついた、物を見透すような眼の中に、新しい精神的な力を汲み出すことか、なぜ今のわたしにできないのでしょう? わたしはあなたの眼が大すきなんですの。今こうして書いている時にも、眼の前に見るような気がいたしますわ。」
 ここまで読んで来て、マリヤは右手に立っている姿見を眺めた。鏡は美しくない弱々しい体とやせた顔とをうつし出した。いつも沈み勝ちな眼が、今はおけて頼りなげに鏡の中なる自分の顔を見つめた。『お世辞言ってるんだわ』と思って令嬢は向きなおり、続いて手紙を読み出した。けれども、ジューリイはお世辞を言ったのではない。実際、大きな、碧い、光を放つようなマリヤの眼は(ちょうど暖い光が何かの拍手でたばになって放散するような工合であった)、じつに見事で、顔ぜんたいは美しくないにもかかわらず、この眼だけが顔の美にも増して、人の心を引くことがしばしばであった。けれども、彼女が自分のことを考えない時に、その眼がどんなに見事な表情をおびるか、マリヤは少しもしらなかった。事実、どんな人でも鏡に向かうや否や、不自然なわざとらしい、いやな表情をおびるものである。マリヤは読み続けた。
「モスクワじゅうはただ戦争の話ばかりでもち切りですの。わたくしの兄弟二人のうち一人は外国におりますし、一人はこれから国境へ遠征に出かけようという、近衛師団に入っています。わが愛すべき皇帝陛下はペテルブルグを見すてて、恐ろしい戦場の偶然に玉体をおゆだね遊ばすことと予想されています。願わくは神の冥護をもちまして、慈悲ぶかき天帝が我らの支配者と定め給いし天使のみ手によって、かのヨーロッパの平和をみだすコルシカの怪物を高き位よりおとされますよう! 二人の兄弟のことは申すまでもありませんが、この度の戦いはわたしの胸に最も近しい友の一人を奪いました。わたしの申すのはニコライ・ロストフといって、生来感激性の烈しいまま、無為に堪えかねて、軍務に服するため大学を中途で退学した青年でございますの。マリヤさま、白状いたしますが、まだごく年若な方ですけれど、この人の出発はわたしにとって大きな悲しみでした。昨年の夏あなたにお話したこの青年は、滔々たる現代の二十歳くらいの若年寄の間に、めったに見ることの出来ない真の若々しさと、真面目さをもっております。この方は飾りけのない、正直な心を持っていらっしゃいます。純潔で詩趣にみちています。それ故、わたしとこの方との交わりは、いたってあわただしいあっけないものでしたけれど、もう多くの苦痛を経験したわたしの哀れな胸にとって、最も甘い歓びの一つでした。わたしそのうちに二人の別離のことだの、別離のとき話し合ったことだの、すっかりあなたにお話しいたしましょうね……今はまだそれらの記憶があまり新しすぎますもの! ああ、マリヤ様、こうした焼けつくような快楽と、焼けつくような悲哀をご存じないあなたは、全く幸福ですわねえ。なぜなら、普通、悲哀の方が快楽より強いものですからね。ニコライ伯爵はあまり若い方ですから、わたしのために親友以上の何ものかになる事がないのは、わたしも存じています。けれども、この甘い友情、この詩的で清浄な交わりはわたしの心の要求だったんですの。
「今のところモスクワじゅうの注意をひいている新しい出来事は、ベズーホフ伯爵の死去とその遺産のことでございます。まあ、どうでしょう、三人の公爵令嬢は幾らか少しばかりゆずられただけで、ヴァシーリイ公爵には何もなく、ピエールが一さいの相続者となり、おまけに伯爵の嫡子と認められたのですから、従って、ベズーホフ伯爵として、ロシアでも一等大きな財産の所有者と認められたわけなんですの。噂によると、ヴァシーリイ公爵は、この事件で卑劣な役廻りを演じたとかで、すっかり面目玉をつぶしてペテルブルグへ帰りました。実のところを申しますと、わたしはこの遺言事件をあまりよく知りませんの。けれども、ただ一つ知っているのは、今までわたしどもが単にピエールという名で呼んでいた一人の青年が、突然、ベズーホフ公爵となり、ロシアでも屈指の財産家となったことです。で、年頃の娘を持ったお母さん達や、また当のお嬢さん方のこの青年に対する調子が変って来たさまを観察して、わたしは一人で興がっていますの。わたしに言わせると、いつもあの方は(これは内証のお話ですけど)、つまらない人のように思われますわ。もう二年ごし皆がわたしの花婿を物色して面白かっていましたが、こんどモスクワの結婚新聞は、わたしをベズーホフ伯爵夫人にしようとしていますの。けれど、あなたも察して下さるでしょうが、わたしはそんなこと少しも望んでいませんわ。
「ついでにもう一つ結婚のことを書きましょう。ご存じか知りませんが、あの『社交界一般の伯母さん』と言われているドルベツカーヤ夫人が、あなたの結婚計画をごく内々でわたしに打ち明けてくれました。相手の方はほかでもありません、ヴァシーリイ公爵のご子息アナトーリですの。それはこの人を名誉ある金持の令嬢と結婚させて、身持をかためさせたいというご両親の希望でして、その白羽の箭《や》があなたに立ったわけなんですの。あなたこの事を何とごらんになるか知りませんが、わたしはとにかく、おしらせするのを義務と考えました。アナトーリさんは大へん美男子で、そして恐ろしい暴れ者だそうでございます。わたしがこの人について知り得たのはこれだけでございます。
「おしゃべりはもう沢山。もう二枚目もそろそろおしまいになりそうですわ。お母様がアプラクシン様へ晩餐に行こうと、わたしを呼びに参りました。
 わたしのお送りした神秘主義の本をお読み下さいまし。この本はわたし共の間で大層な評判なんですの。あの中には人間のはかない智力で理解できない所もありますが、何と言っても優れた本ですわ。あれを読むと精神が落ちついて向上します。では左様なら、お父上様はじめブリエンヌ様にもよろしく。心の底よりかたくあなたを抱きしめつつ。 ユリヤ」
「P・S・お兄様とそして美しいお義姉《ねえ》さまのことをおしらせ下さいまし。」
 マリヤはもの思わしげな微笑をもらしながら考えこんだが、(このとき彼女の顔は輝かしい眼の光に照されて、すっかり見ちがえるようになった)、ふいに立ち上って、重々しく足を運びながら、テーブルの方へ席を移した。彼女は紙を取り出して、その上にすらすらと手を走らせはじめた。彼女は同じくフランス語で次の様に返事を書いた。
「〔Che`re et excellente amie.〕 [#割り注]なつかしく尊き友よ。[#割り注終わり] 十三日付のお手紙はわたしに非常な悦びを与えました。あなたはやはりわたしを愛して下さいますのね、詩的なユリヤさま。しかし、あなたのいろいろ情けないことをおっしゃる別離も、世間ありがちな影響をあなたに与えなかったようでございますね。もしあなたが別離などということをお訴えなさるのでしたら、わたしのように大切な人を悉く奪われてしまった者は、何と言ったら宜しいのでしょう! (もし思い切って言わして戴いたらですよ。)ああ、もし宗教という慰藉がなかったら、わたしの生活はどんな悲しいものになったでしょう。ですけど、あなたはあの若い方に対する思慕の情を語る時に、なぜあんなしかつめらしい見方をわたしにおしつけようとなすったのでしょう? この事についてわたしが厳格なのは、ただ自分に対してのみです。ほかの人のことなら、わたしもこの感情を理解します。そして、自分に経験がありませんから、それを讃美しないまでも、決して非難しようとは思いません。けれども、若い男の美しい眼が、あなたのように詩的な、情の深い、若い娘の心に呼び起す感情よりも、キリスト教の愛、隣人に対する愛、敵に対する愛の方が立派で、甘くて、美しいようにわたしには思われますの。
「ベズーホフ伯爵死去の報はあなたのお手紙より以前に、わたし共の耳へ入りました。父はそれを聞いて大層感じたふうでございました。伯爵は偉大なる御代の最後から二番目の代表者であった。今度は自分の番だが、その番がなるべくおそく廻ってくるように、自分の力にかなうだけの事をする、などと父は申しています。どうかしてわたしどもはこの不幸をのがれたいものでございます。
「わたしはピエールさんについて、あなたと御意見をともにすることができません。あの方はまだほんの子供の時分から知っていましたが、いつも美しい心を持っていらっしたように思われます。わたしは人間のもっているものの中で、この資質を何よりも尊重します。またあの方の相続と、それに関してヴァシーリイ公爵の演じた役廻りにいたっては、わたしはただ両方ともお気の毒に存じます。ねえ、ジューリイ様、富める者の天国に入るよりも駱駝の針の耳をくぐらん方いとやすし、と申された救世主のお言葉は、恐ろしいほど真実でございます。わたしはヴァシーリイ公爵をあわれみますが、それにもましてピエールさんをお気の毒に思います。あのような若い方がああした大財産の重荷に苦しめられなすったら、どれくらい多くの誘惑をくぐりぬけて行かねばならぬことでしょう! わたしはもし人から、この世の中で何が一番のぞましいかと聞かれたら、わたしは乞食の中で一番まずしい者より、もっと貧しくなりたいと答えるでしょう。
「また都で大変評判のやかましいご本をお送り下さいまして、幾重にもお礼申し上げます。とはいえ、お言葉によると、この本の中には立派な思想の間々に、人間のはかない智恵の及ばぬ点もあるとの事ですから、そういうわからない本を読むのは無駄なことのように思われます。なぜと申して、その『わからない』ということ一つだけで、この本が何の益も与えてくれないのは、明らかでございますから。世間にはよく人の心に疑惑のみ増すような神秘主義の書物を耽読して、自分の思想を混乱させ、想像を刺戟させ、キリスト教の単純素朴にぜんぜん反対な誇大癖を養う人がありますが、わたしそういう人の心持がとんとわからないのでございます。それよりかいっそ使徒行伝や福音書を読みましょう。そして、たとえこういうものを読みましても、その中の神秘的方面には、あまり深く没頭したり、探求したりしないようにいたしましょう。なぜと申して、人間と永遠との間に見とおすことのできない帷《とばり》を垂れる肉の衣を身につけている以上、わたしら風情の哀れな罪人に、どうして神の恐ろしい神聖な秘密を知ることができましょう。今のところ、救世主がこの地上において、わたし達の道しるべとして残して下すった偉大なる教訓の研究に満足した方がよろしゅうございます。まあ精々その教訓を実践いたしましょう。できるだけ自分の心に放縦を許さぬようにすれば、神より発しないすべての知識をしりぞけられる主のみ旨にかなうものだということ、また神の思召でかくした方がよいとせられた事柄に深入りしなければ、神はその尊い叡智をもって、かえって早くそれを啓示して下さるものだということを、真底から体得したいものでございます。
「父は結婚のことなど何も申しませんが、ただヴァシーリイ公爵から手紙をいただいたので、ご来訪を待っているとだけ話がございました。また、わたしに関する結婚の計画につきましては、あなたにこう申しましょう。結婚はわたしの考えでは、どうしても従わねばならぬ神のおきてでございます。わたしは自分がどんなに苦しくとも、もし神様がわたしに妻としてまた母としての義務をおわせるのを嘉《よし》と見られるならば、わたしは神が良人として授けて下すった人に対する自分の感情など深く考えようとしないで、できるだけ正しくその義務を果たすように努力いたしましょう。
「わたしは兄から手紙を受け取りましたが、兄は義姉《あね》と同道でこちらへくるように申しています。しかし、この悦びは長く続きますまい。なぜと申して、兄はわたしたち一同がどうして、何のためとも知らずにまきこまれているあの戦争に参加するため、わたし達をすてて行くことになっているのですから。事件の中心たる都ばかりではなく、おおむね都の人たちが想像するように、畑仕事や静寂に包まれたこの田舎でも、戦争の余波《なごり》は見えて、わたし達は重苦しい心持でそれを感ぜずにはいられません。父はもう行軍とか進撃とか、そんな事ばかり申していますが、わたしには少しもわかりません。一昨日、わたしはいつものように、村の通りを散歩していますと、ふと腸《はらわた》をかきむしられるような光景が眼に入りました。それは召集されて軍隊へ送られる村の新兵の一隊でした。わたしは出発する人たちの母、妻、子供たちの悲惨な様子を見、送り送られる人たちの慟哭の声を聞かねばなりませんでした。屈辱の許容と博愛を教えて下すった神の子のおきてを忘れて、人は互に殺し合う技術の中に、おもなる自分の価値を発見しているのですから、考えてもそら恐ろしゅうございます。
「さらば、なつかしく優しき友よ。尊き神の子と聖母とが、清く力あるみ袖の下におん身を守り給わんことを。 マリヤ」
「〔Ah, vous expe'diez le courier, princesse.〕 [#割り注]ああ、あなたも手紙をお出しになるのですね。[#割り注終わり] わたしもう自分のを出してしまいましたわ。可哀そうなお母さまにあてて書きましたの。』いつも笑顔のブリエンヌがRを不明瞭に発音しながら、気持のいい沾《うるお》いのある声で早口に言った。彼女がはいって来るとともに、沈んだもの悲しげな凝集したマリヤの雰囲気の代りに、気軽で快活な自足したような、まるで正反対の空気が部屋を占領したのである。
「〔Princesse, il faut que je vous pre'vienne,〕 [#割り注]お嬢様、前もって知らせておきますが、[#割り注終わり]」と彼女は声を低めつつつけたした。「le prince a eu une altercation, [#割り注]公爵が大変お叱りになりましたの、[#割り注終わり]」この altercation という話をとくに気取って発音しながら、自分で自分の発音に聞きとれるのであった。「ミハイル・イヴァーヌイチをね。たいそうご機嫌がわるくて、こわい顔をしていらっしゃるのでごさいますよ。わたし前もっておしらせ申しておきますけれど、ご存じですか……」
「あら、あなた、お父様がどんなご機嫌でいらっしゃろうと、そんなことは決して言わないで下さいって、前からお願いしてあるじゃありませんか。わたし自分でもお父さまのことをかれこれ言いませんし、またほかの人がかれこれ言うのも望ましくないんですの。」とマリヤは答えた。
 マリヤは時計を眺めたが、洋琴《クラヴィコルド》の練習に使わねばならぬ時間を、五分ばかり過してしまったのに気づき、びっくりしたような顔をして長椅子部屋《ジワン・ルーム》へおもむいた。かねてきまった一日の時間割によると、十二時から二時まで公爵は休息し、マリヤは洋琴《クラヴィコルド》を弾くことになっていたのである。

[#6字下げ]二六

 胡麻塩の侍僕は、大きな書斎から聞える老公のいびきに耳を傾けつつ、うとうとしていた。遠い部屋からは閉めきった扉をもれて、ジュセックのソナタのむつかしい数節が二十度ずつもくり返されて響いて来た。
 このとき表玄関の階段へ二台の馬車が近づいた。箱馬車の方からアンドレイ公爵が現われて、小柄な妻をたすけ出し、自分よりさきに立って進ませた。鬘《かつら》をかぶった胡麻塩のチーホンは、侍僕部屋の戸口からのぞきながら、公爵の休んでいられることを小声に告げると、忙しげに扉を閉めた。子息の到着も、また総じていかなる異常な出来事も、日常坐臥の規則を犯すことができないのを、チーホンはよく承知していた。アンドレイ公爵もまたチーホンと同様に、それを心得ているらしい。彼は暫く会わずにいた間に、父の習慣が変りはしなかったかと調べるように、ちょっと時計を眺めた。が、変りのないことを確信すると、妻に向かって、
「二十分たったらお父さんがお起きになるから、まずマリヤのところへ行こう。」と言った。
 小柄な公爵夫人はこの間に少し肥えてきた。が、彼女がものを言いだすや否や、れいの薄いひげのある上唇が微笑をおびて、相変らず楽しげに可愛らしくもち上がった。
「Mais c’est un palais.[#割り注]本当にこれはまるでお城ですわ。[#割り注終わり]」彼女は舞踏会の客が主人にお愛想をいうような表情をして、あたりを見廻しながら良人に言った。「参りましょう、早く、早く!」と彼女は辺りを見廻しながら、チーホンにも、良人にも、それから二人を出迎えた侍僕頭にもほほ笑んで見せた。
「あれはマリヤさんが練習していらっしゃるんですね、そっと行ってびっくりさせて上げましょう。」
 アンドレイ公爵は慇懃な沈んだ表情をして妻の後にしたがった。
「お前だいぶ年をとったね、チーホン。」と彼は歩きながら、自分の手に接吻する老人に向かって言った。
 ピアノの聞えている部屋の脇戸から、白っぽい頭をした可愛いフランス女が飛び出した。ブリエンヌは悦ばしさに気が狂ったかのようであった。
「〔Ah! quell bonheur pour la princesse. Enfin! Il faut quele la pre'vienne. 〕 [#割り注]おやまあ、お嬢さまがどんなにお悦びなさるでございましょう。本当にやっとの事で! お嬢さまにおしらせしなければなりません。[#割り注終わり]」と彼女はしゃべり出した。
「いいえ、いいえ、どうぞ……あなたブリエンヌさんですか、わたしマリヤさんが親しく願っていますので、あなたを存じておりました。」公爵夫人はフランス娘を接吻しながらこう言った。「マリヤさんはわたし達がくるのを待ってらっしゃいました?」
 彼等は長椅子部屋の扉に近寄った。中からはまたしてもくり返されるソナタの一節が聞えた。アンドレイ公爵は何か不快なものを待ち設けるように、顔をしかめて立ち止まった。
 公爵夫人ははいっていった。ソナタは中途でとぎれて、叫び声と、マリヤの重々しい足音と、接吻の響が聞えた。アンドレイ公爵がはいった時、たった一度、公爵の結婚の時ちょっとの間しか会った事のないマリヤとリーザは、互に手を握り合いながら、最初ふれ合った場所にかたく唇をおしつけていた。ブリエンヌは胸に両手を押しつけて、神に感謝するようなほほ笑みを浮かべていたが、いつでも泣きだしなりと、笑いだしなりとできそうなふうであった。アンドレイ公爵は、音楽の愛好者が調子はずれの音を聞きつけた時のような、苦い顔をしながら肩をすくめた。二人の女は互に手を離したが、またすぐに両方ともおくれるのを恐れる如く、互に手をとって顔を接吻し合った。そして、アンドレイ公爵にとって全く思いがけないことには、二人とも泣きながら再び接吻し始めたのである。ブリエンヌも同様に泣きだした。アンドレイ公爵は何だかばつが悪くなってきた。しかし、二人の女にとって、泣くということは極めて自然に思われたのである。二人はこの再会をこうよりほかに、想像することができなかったらしい。
「ああ、義姉《ねえ》さん!………ああ、マリヤさん!」とふいに二人が同時に語りだした。「わたし夢にまで見ましたわ。――では、あなた全く思いがけなかったんですの?……あら、マリヤさん、あなた大層やせましたわねえ。――そしてあなたはお肥えになりましたこと。」
「J’ai tout de suite reconnu madame la princesse. [#割り注]わたしはすぐに奥様だと気がつきました。[#割り注終わり]」とブリエンヌが口を入れる。
「わたし思いも寄らなかったのですよ! あら、兄さん! わたしちっとも気がつきませんでしたわ。」とマリヤが叫んだ。
 アンドレイ公爵は妹と手を接吻し合った後、マリヤはいつもに変らぬ pleurnicheuse [#割り注]泣虫[#割り注終わり] だと言った。マリヤは兄の方をふり向いた。この瞬間うつくしくなった彼女の大きな、光り輝く、優しい愛にみちた眼ざしは、涙のひまからアンドレイ公爵の顔の上に止まった。
 公爵夫人はひっきりなしに語り続けた。薄いひげのある上唇はたえず下って、必要に応じて紅い下唇にふれた。そして、歯と眼の中に輝くばかりの微笑をたたえながら、更にまた開くのであった。公爵夫人は身もちの体にとって極めて危険な、スパッスカヤの山で起った出来事を語ると、すぐその後から今度は、着物はすっかりペテルブルグヘおいて来たから、ここでは大変な恰好をして歩きますよだの、アンドレイが全く変ってしまったの、キッチイ・オデインツォーヴァがお爺さんに嫁入しただの、今度マリヤに花婿の候補が出来た pour tout de bonn [#割り注]真面目な[#割り注終わり] 話があるけれども、それは後で話そう、などと語りつづけるのであった。マリヤはやはり黙って兄を見つめていたが、その美しい眼の中には愛と悲しみがあった。見受けるところ、彼女の心中には義姉の話とは少しも関係のない自分一人の思想の流れがあったらしい。夫人がペテルブルグにおける最近の祭のことを話している最中に、彼女は兄の方へ向いて言いだした。
「じゃ、兄さん、どうしても戦争にいらっしゃるんですの?」と彼女は吐息《といき》をついた。
 リーザもやはり身ぶるいした。
「ああ、明日にでも。」と兄は答えた。
アンドレイはここにわたしをすてて行くつもりなんですの、そして何のためだかそれも分からないんですの。じっとしていれば昇給もできるんですのにねえ。」
 マリヤは自分の思想の糸をたぐっていたので、相手の言葉をしまいまで聞かなかった。そして、義姉に向かって優しい眼付きでその腹をさしながら、
「たしかにそうときまりまして?」ときいた。
 公爵夫人の顔は変った。彼女は歎息した。
「ええ、たしかにきまりました。」と彼女は言った。「ああ! 本当に恐ろしい……」
 リーザの唇は下った。彼女は自分の顔を義妹《いもうと》の顔に近よせて、またもや、突然、泣きだした。
「これには休息させなくちゃならないんだ。」とアンドレイ公爵は眉をひそめつつ言った。「そうじゃないか、リーザ? マリヤ、これをお前の部屋へつれていってくれ、私はお父さんのとこへいってくるから。どうだね、お父さんはやっぱり相変らずかい?」
「相変らずですわ、全く相変らずですの。もっとも、兄さんの目には何と見えるかしれませんけど。」マリヤは嬉しそうに答えた。
「やはり同じ時間を守って、庭の並木を散歩したり、轆轤《ろくろ》を廻したりかね?」アンドレイ公爵は、父を愛しかつ尊敬しているにかかわらず、その弱点をも了解している、といったような微笑を浮かべながらこうたずねた。
「やはり同じ時間を守って、轆轤を廻したり、数学の研究をなすったり、わたしに幾何を教えたりしていらっしゃいます。」まるで幾何を教えて貰うのが、彼女の生涯で最も喜ばしい印象の一つであるかの如く、マリヤは嬉しげに答えるのであった。
 老公爵の起床に必要な二十分が過ぎた時、チーホンは若公爵を父のもとへ呼びに来た。老公爵は息子の来着を祝うため、自分の生活様式に一つの除外例を作った。彼は昼食前の着換え時間に息子を自分の部屋へ通すように命じたのである。公爵は昔風に長衣《カフタン》を着、頭には髪粉《プードル》をつけて歩いていた。アンドレイ公爵が父の居間へはいった時(彼は社交界の客間で見せるような、気むずかしげな表情や動作とちがって、ピエールと話す時のように快活な顔をしていた)、老公爵は髪粉外套《プードルマント》を着て、化粧室に備えつけてあるキッド張りの広い肘椅子に腰をかけ、頭をチーホンの手にまかせていた。
「ああ! 勇士! ボナパルトを征伐しようというのか?」老公爵はチーホンに手で編まれている下げ髪の許すだけ、髪粉《プードル》をつけた頭をふった。「せめてお前でもうまく彼奴をとっちめてくれい、さもないと、この調子で行けば今に彼奴、われわれを自分の配下にしてしまうぞ。や、ご機嫌よう!」と彼は自分の頬をさし出した。
 食前の睡眠後には彼はいつも機嫌がよかった(彼はよく食後の眠は銀で、食前の眠は金だと言っていた)。彼は厚い垂れ下った眉の下から、嬉しげにわが子を流し目に見やった。アンドレイ公爵は父に近づき、示定された箇所に接吻した。父のすきな話題である現代の軍人――ことにナポレオンに対する愚弄には、何とも返事しなかった。
「お父さん、とうとう参りました、しかも身重の妻《かない》をつれて。」アンドレイ公爵は活気づいたうやうやしい眼付きで、父の顔の一線一画の運動をものがさず注視しながら口を切った。「ご健康は如何ですか?」
「健康でないのはただ馬鹿と放蕩者だけだよ。お前はよくわしを知っておるはずだ。朝から晩まで仕事をして摂生に気をつけているから、したがって健康だよ。」
「神よ光栄あれ。 [#割り注]結構です。[#割り注終わり]」と息子はほほ笑みながら言った。
「神なんかに何の関係もないさ。うん、どうだ少し話して聞かさんか。」彼はまた自分のすきな十八番の方へ話題を戻しながら語をついだ。「どうだね、ボナパルトと戦争するについて、ドイツ人どもは用兵学《ストラテーギャ》とかいう新しい科学をどんなふうに教えたかね。」
 アンドレイ公爵は微笑した。
「お父さん、まあちょっと待って下さい。」父の欠点もなおこれを敬愛する邪魔にはならぬ、といったような微笑を浮かべながら、彼はそう言った。「わたしはまだ腰もかけてないんですからね。」
「くだらん事を言うな、くだらん事を。」老公爵は下げ髪がしっかりと結えたかどうかためすために二、三度頭を振ってみながら、どなった。そして、息子の手をとって、「お前の家内の住まいはちゃんと用意してある。マリヤが連れて行って見せてやるだろう。そして、腹さんざんしゃべり散らすことだろう。それが女共の仕事だ。いや、わしはあれが来てくれて嬉しい。まあ、坐って話して聞かせろ。ミヘリソンの隊もわしにはわかっている、トルストイのもやはりわかっている……一時に上陸するんだろう……南方の隊はどんな事をするだろうな? プロシヤの中立……それはわしも知っている。オーストリーはどうだ?」老公爵は椅子を立って、部屋の中を歩き廻りながらこう言った。チーホンはその後を追っかけながら着物を一枚ずつ渡すのであった。「スエーデンはどうする? どうしてポメラニヤ*を越えるだろうなあ?」
 アンドレイ公爵は父の要求の執拗なのを見て、予想された会戦の作戦計画をのべはじめた。初めは何となく気の進まぬさまであったが、そのうちにだんだんと調子づいてき、話の半ば頃にはいつものくせで、いつの間にやらロシア語からフランス語に飛び移っていた。彼はプロシヤを中立から引き出して戦争に参加させるため、九万の軍隊が示威運動を行うべきこと、また
  *バルチック沿岸なるプロシャの一部。
この軍隊の一部はスエーデン軍と合するために、シェトラリズンド*に赴くべきこと、二十二万のオーストリー軍が十万のロシア軍と連合してイタリーとライン地方に活動すべきこと、五万のロシア軍と五万のイギリス軍がナポリに上陸すべきこと、かくして総計五十万の軍勢が四方からフランス軍を襲うべきことなどを物語った。老公爵はてんで耳をかしていないかのように、その物語にいささかの興味をも示さなかった。そして、いつまでも歩きながら着換えをしているうちに、三度までも思いがけなくわが子の話をさえぎった。一度はちょっと話を押し止めて、「白いんだ! 白いんだ!」と叫んだ。
 それはチーホンが老公爵の着ようと思ったのと、ちがったチョッキを渡したからである。二度目に彼は立ち止まってこうきいた。
「あれは間もなく産をするのかな?」そして、非難するように頭をふって、「いかんなあ!――さ、話を続けた、続けた。」と言った。
 三度目には、アンドレイ公爵がほぼ説明を終った時、老公爵が調子っぱずれの老人らしい声で、急に唄いだしたのである。
「Malbroug s’en va-ten guerre. Dieu sait quand reviendra. [#割り注]マルブルーグの大将は戦争をしに行かしゃった、いつ帰らしゃんす事じゃやら、神様のほか誰もわからぬ――子守唄[#割り注終わり]」
 息子はただほほ笑んだ。
「しかし私は、これが自分の意にかなった計画だと言うのじゃありません。」と息子は言った。「私はただありのままをお話したんです。ナポレオンはもうこれにおとらぬ作戦を立てたそう
  *ポメラニヤ州沿岸の一都会
です。」
「いや、お前の話した事はちっとも耳新しいこっちゃない。」と言い、老公爵は物思わしげな調子で、今の唄を口の中で早口にくり返すのであった。「Dieu sait quand reviendra. さあ、食堂へ行け。」

[#6字下げ]二七

 定めの時刻に老公爵は髪粉《プードル》をつけ、ひげを剃って食堂へ出て来た。そこではもう嫁のリーザと娘のマリヤと、ブリエンヌと、老公爵の妙な気まぐれで陪食を許された建築技師が待ち設けていた。技師は身分から言えばごくつまらぬ男なので、こうした光栄は彼にとって実に意外千万なことであった。日常の生活に固く階級の差別を守って、県庁の高官さえめったに食堂へ通すことのない老公爵が、この隅へ向いて格子縞のハンカチで鼻をかむ技師によって、突然おもいがけなく万人平等の実を示した。そして、娘に向かって一度ならず、ミハイル・イヴァーノヴィッチ [#割り注]技師[#割り注終わり] は、決してわしやお前より劣ってはいない、などと言い聞かせるのであった。食事中も、老公爵はこの無口なミハイル・イヴァーノヴィッチに向かって誰よりも一ばん頻繁に話しかけた。
 この家におけるすべての部屋と同じく、無性に大きくて天井の高い食堂では、家内の人々や侍僕どもがおのおの椅子の後ろに立って、老公爵の出てくるのを待っていた。手にナプキンを持った家扶はテーブルの飾りを見廻して、給仕人共に目くばせしながら、老公爵の出てくべき扉口と掛時計とを、絶え間なしに見くらべていた。アンドレイ公爵は、彼にとって目新しい、ボルコンスキイ公爵家系図を描いた大きな金縁の額を眺めていた。その真向いには同じくらい大きな額がかかっていて、その中にお抱え絵師の手になったらしい、恐ろしくできの悪い、冠をかぶった大公の肖像がはまっていた。この大公はリューリック*の後裔《こうえい》で、ボルコンスキイ家の遠祖ということになっていた。アンドレイ公爵は頭をふりながら系図を眺め、滑稽なほどよく似た肖像画を見る人のような顔付きで薄笑いしていた。
「この中にお父さんという人がすっかり出てるじゃないか!」彼は近寄ってくるマリヤに話しかけた。
 マリヤはびっくりして兄を眺めた。彼女は兄が何を笑っているのかわからなかった。父のする事は何でもあれ彼女に敬虔の情をよび起すのみで、そこに何らの批判をも許さなかったのである。
「どんな人でも、それぞれ自分のアキレス腱《けん》を持ってるもんだね。」とアンドレイ公爵は語を継いだ。「あれほど偉大な智力を持っていらっしゃるのに、donner dans ce ridicule. [#割り注]こんな滑稽な事に没頭するなんて。[#割り注終わり]」
 兄にこういう大胆な批評が出来るのを、マリヤは不思議に思った。で。兄に抗議を唱えようとしていると、丁度その時、待ち設けている足音が書斎の中から聞えた。老公爵はいつもの如く足早に、愉快らしく入って来た。その忙しげな身ぶりを見ると、わざとこの家の厳格な規律に対して奇妙なコントラストを
  *伝説上のロシア最初の王、ヴァリアーク族より出づ、九世紀ごろ。
現出しようと、企てているのではないかと思われた。この瞬間に、大きな時計が二時を打った。そして、客間でも別の時計が小さな音を立てた。老公爵は立ち止まった。垂れさがった厚い眉の下から覗いている生きいきと輝く鋭い眼は、一同を見廻して、若公爵夫人の上に落着いた。そのとき若い公爵夫人は、廷臣が皇帝の出御の際に感ずるような、恐怖と尊崇の心持を覚えた。それは老公爵が、そばに近づくすべての人によび起す心持なのである。彼はリーザの頭を撫でてから、不器用な手つきでその頸すじを軽く叩いた。
「よく来た、よく来た。」と言ったが、今一度じっと彼女の眼を見つめた後、急にそのそばを離れ席についた。「さあ、坐りなさい、坐りなさい! ミハイル・イヴァーノヴィッチ、坐りなさい。」
 彼は嫁に向かって自分のかたわらの席をさした。侍僕が彼女のために椅子を後へ引いた。
「ほう、ほう!」嫁の丸くなった腰を見廻しつつ、老公爵は言った。「ちっと急ぎ過ぎたな、いかんぞ、いかんぞ!」
 彼はいつものくせとして、眼を動かさずに口だけで、そっけない冷たい不愉快な笑いをもらした。
「歩かなくちゃいかん、歩かなくちゃ。出来るだけよけいにな、出来るだけよけいに。」と彼は言うのであった。
 小柄な公爵夫人は彼の言葉を聞かなかった。或いは聞きたくなかったのかもしれぬ。彼女は言葉もなく間《ま》の悪そうな様子をしていた。老公爵が夫人の父親のことをきいた時、彼女は初めて口を切ってほほ笑んだ。老公爵がなお両方から知り合ってる人達のことをきくと、公爵夫人はさらに元気づいて老公爵に人人のことづけを伝えたり、市井の陰口を話したりし始めた。
「〔La eomtesse Apraksines la pauvres a perdu son mari, et elle a pleure' les larmes de ses yeux.〕 [#割り注]アプラクシン伯爵夫人は本当にお気の毒な。旦那様になくなられて、毎日泣き暮らしていられます。[#割り注終わり]」と彼女は次第次第に活気づきながら言う。
 彼女が活気づくにしたがって、老公爵はだんだんむずかしい顔付きになり、じっと相手を見詰めていたが、ちょうど、自分の嫁を充分に研究して、それについて明瞭な概念を得たかの如く、いきなり向きをかえで、ミハイル・イヴァーノヴィッチに話しかけた。
「なあ、時に、ミハイルさん、ボナパルト先生もだいぶん形勢が悪くなって来ましたな。アンドレイ公爵が話して聞かせたが(彼はいつも息子のことを第三人称でこう呼んだ)、あいつと戦うために恐ろしい大軍が準備されてるそうだ! わしやあんたはいつも彼奴のことを、取るに足らん奴だと言っておったてなあ。」
 ミハイル・イヴァーノヴイッチは、いつ『わしゃあんた』がそんな話をしたか、とんとわからなかったけれど、老公爵の好きな話題へ入って行くのに、自分という人間が必要なのだとさとって、自分でもどうなる事やらとびくびくしながら、若公爵の方をびっくりしたように眺めた。
「この人は家じゅうでのえらい戦術家なんだよ!」老公爵は技師をさしつつ息子に言った。
 こうして会話はまたもや戦争、ボナパルト、現代の将軍や政治家などに移った。老公爵の確信によると、現代の政治家は誰も彼もただの小僧っ子で、軍事や国事のいろはさえ知らないのであった。またボナパルトはつまらないフランス人に過ぎないけれども、たまたま彼に対抗すべきポチョームキン*や、スヴォーロフのような人物がいなかったばかりに、功をなしたのだ。そればかりか更に進んで、欧州には今なんら政治上の難問題もなければ戦争もなく、ただ何か人形芝居の喜劇めいたものがあるばかりだ。それを今の人間が、何か一ぱしの仕事でもしてるような気で、一生懸命に演じてるのだ、とこういうのであった。アンドレイ公爵は新しい人物に対する嘲笑を愉快そうに聞きながら、いかにも面白そうに父をつり出して、その話に耳を傾けていた。
「昔あった事は何でもいいように思われるんですね。」と彼は言った。「ですが、一たいスヴォーロフ将軍はモロー**の罠にかからなかったでしょうか? そして巧くその罠《わな》から抜け出さなかったでしょうか?」
「そんな事を誰がお前に言ったのだ? 誰が言った?」と老公爵はどなった。「スヴォーロフ!(と言って彼は皿をほうり出したが、チーホンが早く受けとめた。) スヴォーロフ!………なあ、アンドレイ公爵、考えてものを言え。話すに足るのは二人だけだ、フリードリッヒにスヴォーロフ……なんのモロー輩が! モローなんかは、もしスヴォーロフの手が自由だった
  *一七三九―九一年、露土戦争の際大功ありし首将。エカチェリーナ女帝の寵臣。
 **一七六三―一八一三年、ナポレオン麾下の将軍、のちアレクサンドル一世に聘せられて露軍に入る。
ら、すぐ擒になってしまったはずだ。ところがスヴォーロフにはホフス、クリーグス、ヴールスト、シュナップス、ラット [#割り注]ドイツ語[#割り注終わり] などという会議が、両手にぶら下ってたのだからな。あの男も運が悪かったのだ。まあ、今にお前も行って見るがいい、このホフス、クリーグス、ヴールスト、などという会議が、どんなものかわかるから! スヴォーロフでさえもてあましたんだもの。なんの、どうしてミハイル・クトゥゾフなんかの手に合うものか? 駄目だよ、お前。」と彼は語り続けた。「お前らがあんな将軍輩と束になってかかったって、ボナパルトに歯は立ちやしない。だから味方と味方が暗闇で同士うちするように、フランス人をひっぱってこなくちゃならんのだ。ドイツ人のパーレン*をわざわざアメリカのニューヨークへやって、一フランス人モローを迎えるなんて。」彼はこの年モローがロシア軍隊の勤務に招聘《しょうへい》せられたのを、当てこすりながらこう言った。「珍しいこった!………いったいポチョームキンや、スヴォーロフや、オルロフ**はドイツ人やフランス人だったかね? いいや、駄目だ、お前達はみんな気がふれておるのだ、でなければ、わしが耄碌《もうろく》してしまったのだ。まあ、お前たちは思うようにするがいい、わしはそばで見物と出かけよう。世間では、ボナパルトずれがたらい指揮官という事になってしまったのか? ふん!………」
「私は彼の指揮がことごとく立派だったとは申しません。」とアンドレイ公爵は言った。「しかし、どうしてお父さんがそん
  *一七七七―一八六四年、ドイツ出のロシア国貴族。
 **伯爵、一七三四―八三年、エカチェリーナ女帝の寵臣。
なふうにボナパルトを批評なさるのか、私は合点《がてん》がいきません。まあ、なんとなりお冷かしになるがいいです。とにかく、なんと言っても、ボナパルトは偉大な将軍です!」
「ミハイル・イヴァーノヴィッチ!」と老公爵は技師に向かって叫んだ。こちらは烙肉《やきにく》の方ヘ一生懸命になって、もう自分のことは忘れてくれたものと悦んでいたところである。「わしはあんたにボナパルトのことをえらい戦術家だといった事がありましょうがな! ところが、この人もそう言っておりますぞ。」
「どういたしまして、御前。」と技師は答えた。
 老公爵はまた例の冷たい笑い方をした。
ボナパルトは仕合わせものだ。部下の兵隊が立派だったもんだからな。それに彼奴がまっさきに攻撃したのはドイツだ。ところが、ドイツをやっつけないのは、ただなまけ者ばかりだよ、世界はじまって以来、ドイツはみんなからやっつけられてばかりいるが、自分は誰もやっつけた事がない。ただ内輪喧嘩をしているきりじゃないか。ボナパルトはまず第一に、こいつを槍玉に挙げて名を成したんだ。」
 こう言って彼は、ボナパルトがすべての戦役のみならず、政治上においても誤謬をなしたと思われる事を、一つ一つ指摘しはじめた。子は少しも反駁しなかったが、たとえどんな例証を示されても、父親と同様、自分の意見を変えそうになかった。アンドレイ公爵は反駁を控えながら聞いていたが、もう幾十年かこの田舎にひっこんだまま、世間へ出ずにいる老人が、最近数年間にわたる軍事政治上の出来事を、どうしてこれほど詳細に知り、かつ批判することが出来るのかと、心ならずも一驚を喫しないわけにゆかなかった。
「お前はわしのような老耄《おいぼ》れに事の真相はわかるまいと思っておるのだろう!」と彼は語を結んだ。「ところが、わしはちゃんと胸にしまっておるんだ! わしは夜だって寝やせんから。さあ、お前のいう偉大な将軍はどこにいる? どこで自分の偉大を証明した?」
「それを話したら長くなりますから。」と息子は答えた。
「じゃ、勝手にボナパルトのとこへ行くがいい。ブリエンヌさん、ここにも一人あんたの下劣な皇帝の崇拝者が出来ましたよ。」と彼は見事なフランス語でどなった。
「Vous savez que je ne suis pas bonapartiste, mon prince. [#割り注]わたくしがボナパルト党でないことはあなたもご存じではありませんか、公爵[#割り注終わり]」
「Dieu sait quand reviendra.」と老公爵は調子っぱずれな声で唄い出したが、それよりもなお調子っぱずれな声で笑いながら、テーブルを離れた。
 小柄な公爵夫人は争論の時も、その余の食事の間も、始終、口をつぐんで、時にマリヤを、時に舅《しゅうと》を、おびえたような眼つきで見つめていた。一同がテーブルを離れた時、彼女は義妹の手をとって、次の間へ呼びこんだ。
「あなたのお父さまは何て賢いお方なんでしょう。」と彼女は言った。「多分そのためなんでしょうね、わたしはあの方がこわいんですの。」
「いいえ、お父さまは本当にいい人なんですよ!」とマリヤは言った。

[#6字下げ]二八

 アンドレイ公爵は、着いた翌日の晩、出発することになっていた。老公爵はどこまでも規律を破らないで、晩餐後、居間へ閉じこもってしまった。小柄な公爵夫人は義妹の部屋にいた。アンドレイ公爵は肩章のない旅行用の服を着て、自分の侍僕と一しょに、あてがわれた部屋で荷造りにかかっていた。自分でカバンの荷づくりあんばいや馬車の検分をして、積みこみ方をいいつけた。部屋の中には、ただアンドレイ公爵がいつも自分で持って歩く物しか、残っていなかった――手箱、大きな銀の食器箱、トルコ製の拳銃二挺、そして剣一ふり――これは父がわざわざオチャコフ*から持って帰った贈物であった。こうした旅行用の付属品を、アンドレイ公爵は非常に几帳面にしておいた。みな新しく清潔で、すっかりラシャの袋にしまわれ、念入りに紐でしばってあった。
 出立の際とか、生活形態に変化の起る時など、自分の行為を思索する能力のある人は、一種まじめな瞑想的気分に襲われるものである。このような場合たいてい過去の検討、未来の計画などが行われる。アンドレイ公爵の顔は恐ろしく瞑想的で、しかも、優しく見えた。彼は両手を背中に組み合わせて、じっと前の方を見つめながら、隅から隅へと部屋の中を歩き廻り、物思わしげに頭をふるのであった。戦争に出るのが恐ろしいのか、それとも、妻をすてるのが悲しいのか――恐らくその両方であろう。しかし、彼は自分がこんな状態にいるところを見ら
  *オデッサに近き一都市。要塞地、露土戦争の激戦地。
れたくないらしく、廊下を歩く重々しい足音が耳に入ると、忙しそうに手を離し、ちょうど手箱の袋を縛っているように見せかけて、テーブルのそばへ立ちどまった。そして、いつもの落ちつきはらった、見透かすことを許さないような表情を浮かべた。この重々しい足音はマリヤであった。
「兄さんがもう荷物を積みこむようにいいつけなすったと聞いたもんですから。」と彼女は息を切らせながら言った(彼女は走って来たらしい)。「わたしぜひ兄さんと二人きりで、も少し話したい事がありますの……これからまた、いつになったら会えるかわからないんですものね。兄さんわたしが来たのでおこっていらっしゃるんじゃない? 兄さんはずいぶん変りましたねえ、アンドリューシャ。」と彼女は自分のああした質問に対する弁解のように言いたした。
 彼女は「アンドリューシャ」という言葉を発しながらほほ笑んだ。察するところ、このいかめしい美丈夫を、あのやせた悪戯な幼友達と考えるのが、彼女自身にも奇妙に感じられたのであろう。
「リーザはどこにいるの?」彼はただ微笑でもって妹の問に答えながらこうきいた。
「姉さんはすっかり疲れてしまって、わたしの部屋の長椅子で寝んでいらっしゃいます。ねえ、アンドレイ! Quel tresor de femme vous avez. [#割り注]兄さんは本当にいい奥さんをもっていらっしゃいますね。[#割り注終わり]」兄のま向いにある長椅子に腰をかけなから、彼女は言った。「義姉さんは全くの子供ですよ、本当に可愛い快活な子供でいらっしゃいますわ、わたしすっかり好きになってしまいました。」
 アンドレイ公爵は答えなかった。マリヤは彼の顔に現われた皮肉な、人を馬鹿にしたような表情に気がついた。
「でもね、些細な欠点は大目に見て上げなくちゃなりません。誰だって欠点のない人はないんですもの、アンドレイ! あの方が社交界に生まれて育てられた事を忘れないで下さい。それからまた、今の義姉さんの境遇はあまり楽しいものじゃありませんからね。どんな人でも、その人の心持になって見なくちゃなりません。Tout comprendre, c’est tout padonne. [#割り注]すべてを理解するひとはすべてを許す。[#割り注終わり] ですわ。兄さん考えてもごらんなさい、今までなれて来た生活をすてて、良人にも別れ、ああいう体でたった一人、田舎に残る義姉さんの心持はどんなでしょう。ほんとうにどんなにかおつらいでしょう。」
 アンドレイ公爵は妹を見つめながら微笑した。それは我々が腹の底まで見透した人の言葉を聞く時に、おぼえずもらすような微笑であった。
「お前は田舎に暮らしているが、別段その生活が恐ろしいとも思わないだろう。」と彼は言った。
「わたしは別ですわ。わたしのことなぞ話すがものはありません! わたしはこれ以外の生活を望みませんし、また望むこともできません。なぜって、これよりほかの生活を知らないんですもの。ねえ、アンドレイ、思ってもごらんなさい。交際場裡に育った若い女の人にとって、盛りの年頃を田舎に埋れてしまうのがどんなものかってことを……おまけにたった一人ですもの。だってお父様はいつも仕事をしていらっしゃるし、またわたしは……兄さんはわたしという人間をご存じでしょうが……立派な社会に馴れた女の方に対するわたしの ressources [#割り注]話材[#割り注終わり] と言ったら、実に哀れなものなんですからね。まあ、ブリエンヌさんだけが……」
「あの女は大嫌いだよ、お前のブリエンヌは。」アンドレイ公爵が言った。
「まあ大違いですわ! あの人は可愛い親切な――そして何よりもまず気の毒な娘さんですの。あの人には誰ひとり身寄りがないんですよ、誰ひとり。本当の事を言いますと、あの人はわたしに必要がないばかりか、わたし気がねでならないんですの。兄さんも知ってらっしゃる通り、わたしはいつも野育ち女でしたが、今はもっとひどいんですもの。わたし一人きりでいるのが好きなんです……あの人は大変お父様のお気に入りでしてね、あの人とミハイルさんと二人きりですの、お父さまがいつも親切に優しくなさるのは。そのわけはね、二人ともお父様のご恩になってるからです。スターン*も言ってるように、『我我は自分が人から受けた善行のためよりも、むしろ自分が人に施した善行のために他人を愛する』ものですわ。お父様はあの人がみなし児の時に、〔sur le pave'〕 [#割り注]舗石の上から[#割り注終わり] 拾い上げなすったのです。それに、あの人も全くいい娘ですからね。|お父様《モン・ペール》はあの人の読み方が好きだとおっしゃって、毎晩なにか読んでお貰いになります。あの人は本当に上手に読むんですのよ。」
「ふん、だが正直、お前は、その、お父様のああした気質のために、時々つらい事があるだろうな?」ととつぜんアンドレ
  *一七一三―六八年。イギリスの諷刺作家、ヨーロッパに於けるセンチメンタリズムの祖。
公爵はたずねた。
 マリヤはこの問を聞いて初めびっくりしたが、やがて仰天してしまった。
「わたし?……わたし?……わたしにつらい事があるって?」と彼女は言った。
「お父さんはいつも狷介《けんかい》な人だったが、近頃だんだん重苦しくなって来られたようだ。」アンドレイ公爵はわざとこう軽々しく父を批評して、妹の度胆《どぎも》を抜くか、試験するかして見たいと考えたらしい。
アンドレイ、あなたは誰に対してもお優しいけれど、何かしら考え方に傲慢なところがあってよ。」マリヤは会話の道筋よりも、寧ろ自分の想念の跡をたどるような調子で言った。「それは大変な不徳ですわ。一たいそんなふうにお父さんを批評していいものでしょうか? よしんばいいとしても、お父様のような方は 〔ve'ne'ration〕 [#割り注]崇拝[#割り注終わり] より他の感情を、呼びさますことは出来ないと思いますわ。わたしはお父様と一しょにくらすのを、満足とも幸福とも思っています。ただわたしね、あなた方みんなわたしと同じように、幸福であればよいと祈りますわ。」
 兄は信ぜられぬらしく頭をふった。
「ただ一つわたしにとってっらいのは――本当の事を言いますとね、アンドレイ――それは宗教に関するお父様の考え方ですの。あんな偉大な智力を持っていらっしゃりながら、どうして太陽みたいに明白な事をごらんにならないで、邪路にお迷いなさるのか、わたしどうしても合点《がてん》がゆきませんわ。これ一つがわたしの不幸になっていますの。けれど、それでも、近頃だんだんとよくなっていらっしゃるようなところが見えてきました。この頃では、お父様の皮肉もさして毒々しくなくなりましたし、ある一人の坊様と面会なすって、長いあいだ話しこんでいらっしゃる事がありますから。」
「だがね、お前、私が心配なのは、お前が坊さんなぞと話しこんでいる中に、すっかり生きいきした所をなくしやしないかって事さ。」嘲るような調子ではあるが、優しくアンドレイ公爵は言った。
「まあ、|兄さん《モナミ》。わたしはただ神様にお祈りしています。そして、いつかはわたしの声も神様のお耳に入るだろうと楽しんでいますの。」束《つか》の間の沈黙の後、彼女は臆病げに言い出した。
「あの、わたし兄さんに折り入ってお願いがあるんですよ。」
「何だねマリヤ?」
「いいえ、まずいやだと言わない約束をして下さい。それは兄さんにしたってちっとも骨の折れる事でなし、また兄さんの人格にかかわるような事でもないんですから。ただわたしを慰めると思ってね。約束して下さい、アンドリューシャ。」手を婦人袋《リジキュール》の中へつっこんで何か握ったが、それでもまだ出して見せないで、彼女はそう言った。その様子はまるで彼女の握っている物が願いの対象であり、この願いを叶えてやるという約束の言葉を聞かぬ先は、婦人袋《リジキュール》の中からその何か[#「何か」に傍点]を出すわけにゆかぬというふうであった。
 彼女は臆病な哀願するような眼付きで兄を眺めた。
「そんな事もあるまいが、もしひどく面倒なことだったらねえ……」事の何たるやを察したかの如くアンドレイ公爵は答えた。
「兄さん、何とでも勝手なことを考えなさい! わたしよく知っていますわ、兄さんはお父様と同じような人なんです。何でも勝手にお考えなすってかまいませんけれど、ただわたしのために承知して下さいな。ぜひどうぞね! これはお父さまのお父さま、わたし達のお祖父さまが、どの戦争にもかけてお出でになったんですから……(彼女はまだ婦人袋の中で握っているものを出さなかった。)え、兄さん、約束して下すって?」
「無論するさ、一たいなんだね?」
アンドレイ、わたしこの聖像でもってあなたを祝福します。決してこれをはずさないと約束して下さい。して下さる?」
「もしそれが七八貫もあって、首がちぎれるような物でなかったら……お前を満足させるために……」とアンドレイは言いかけたが、この洒落《しゃれ》とともに妹の顔に情なさそうな表情が浮かんだのに気づき、彼はすぐ後悔した。「有難う、マリヤ、全く有難う。」と彼は言いたした。
「兄さんの心持はどうあろうとも、神様があなたを救って許して下さいます。そしてあなたの心を神様の方へ向けさせて下さいましょう。なぜって、神様の中にだけ真理と安心があるのですから。」と興奮のあまりふるえる声で言い、彼女は楕円形の古い救世主の像を、荘重な手つきで両手に捧げつつ、兄の前へさし出した。黒い顔をした救世主は銀の袈裟を着て、こまかい細工をほどこした銀の鎖につるされてあった。
 彼女は十字を切って聖像に接吻し、それをアンドレイに渡した。
「どうぞ、アンドレイ、わたしのために……」
 彼女の大きな眼の中から善良で臆病な光がほとばしり出た。この眼付きが彼女の病的な、やせた顔ぜんたいを照らして美しく見せた。兄が聖像を取ろうとすると、妹はそれをおし止めた。アンドレイ公爵はその意味を悟ったので、十字を切って聖像に接吻した。彼の顔は優しくもあり(彼は感動したのである)、と同時に、冷笑的でもあった。
「Merci, mon ami. [#割り注]有難う、わが友よ。[#割り注終わり]」
 彼女は兄の額を接吻して、ふたたび長椅子に腰をかけた。彼らは暫く無言でいた。
「もうわたし言った事ですけれど、兄さん、どうか昔どおり宏い心を持って下さい。リーザさんの事をやかまし咎めだてしないでね。」と彼女は言い出した。「あの方は本当に可愛い親切な人ですわ。それに今の境遇は全くおつらいでしょうからねえ。」
「マーシャ、私は今まで自分の妻を咎めだてしたとも、或いは妻に対しては不満足だったとも、そんな事をお前に言ったおぼえはないはずなんだが、何だってお前そんな事を言うんだね?」
 マリヤは顔に真赤な斑点《しみ》をこしらえて、まるで自分が悪かった、とでも感じたように黙ってしまった。
「私はまだなんにもお前に言わないのに、もうそんな事をお前に言った者[#「言った者」に傍点]があるんだね。私はそれが何だか情ないよ。」
 赤い斑点《しみ》はなおはげしく、マリヤの額から頸や頬にかけて現われた。彼女は何か言おうとしたが、言葉が口から出なかった。兄はほぼ察した。ほかでもない、小柄な公爵夫人は、昼食後、マリヤに向かって、自分の産は非常に重いような気がしてこわいと語り、自分の運命を訴え、舅《しゅうと》や良人のことを泣きながら訴えたのである。泣いた後で彼女は寝入った。アンドレイ公爵は妹が可哀そうになって来た。
「マーシャ、私はただ一つお前に知ってもらいたいことがある。私はけっして自分の妻[#「自分の妻」に傍点]を咎めだてすることは出来ない。現にしたこともないし、また今後もそんなことはない。それに、妻にたいする態度について自分を咎めることも出来ないのだ。それは私がどんな境遇に入ろうとも、つねにそうあるべきはずだと思う。だが、もしお前が本当のことを知りたいというなら……つまり、私が幸福かどうか知りたいというならば……否と答えるより仕方がない。またリーザは幸福かどうかといえば、やはり否だ。それはいったいどういうわけだときかれても、私にはわからない……」
 こう言いながら彼は妹に近づき、かがみこんでその額に接吻した。彼の美しい眼はいつにない利口そうな、親切らしい光に輝いたが、しかし、彼が眺めていたのは妹ではなく、その頭ごしに目に映る、開け放した扉の外の暗やみであった。
「あれの所へ行こう、別れをしなくちゃならない。いや、それよりか一人でさきに行って、あれを起してくれ、私はすぐ後から行くから。ペトルーシャ!」と彼は侍僕に向かって叫んだ。
「ここへ来て片づけてくれ。これは腰かけの下へ、これは右側へな。」
 マリヤは立ち上って、扉の方へ向けて歩き出したが、急に立ち止まって
「〔Andre',〕 もし兄さんが信仰を持ってらしたら、兄さんはきっと神様に向いて、どうか愛を与えて下さい、自分に欠けた愛を与えて下さい、とお祈りなすったでしょう、そしてそのお祈りは神様のお耳に入ったでしょうにねえ。」
「しかし、そんなことが!」とアンドレイ公爵は言った。「まあ、マーシャ、さきに行ってくれ、私もすぐ行くから。」
 妹の部屋へ行く途中、二つの棟を結んでいる廊下にさしかかった時、アンドレイ公爵は可愛い微笑みを浮かべたブリエンヌに出会った。彼女は今日これでもう三度も、もの淋しい廊下で公爵に行き会ったが、いつも嬉しくてたまらぬような、無邪気な微笑を浮かべているのであった。
「Ah, je vous croyais chez vous. [#割り注]あら、わたし、あなたがお部屋にいらっしゃる事と存じていました。[#割り注終わり]」なぜか赧《あか》い顔をして伏目になりながら、彼女はこう言った。
 アンドレイ公爵はきびしく彼女を見つめたが、突然、その顔には忿懣《ふんまん》の色が現われた。彼はなんにも言わないで、相手の眼を見ずに額と髪とを眺めた。それがいかにも軽蔑《けいべつ》しきったように見えたので、フランス娘は顔を赧くして何も言わず行ってしまった。彼が妹の部屋へ近づいた時、小柄な公爵夫人はもう目をさましていた。そして、後から後からと忙しそうに言葉をくり出す快活な声が、開け放した扉口から聞えた。その話しぶりは長いあいだ辛抱した後で一時に失った時を取り戻そうとするもののよう。
「いいえ、まあ、思ってもごらんなさい、ズボフ伯爵の老夫人と言ったら、頭には入れ毛、口には入れ歯でしょう、まるで自分で自分の年を冷かしてるようじゃありませんか、ははは、 |Marie《マリー》!」
 このズボフ伯爵夫人に関するこれと同じ文句、これと同じ笑い方を、アンドレイ公爵はすでに四、五へんも妻の口から、他人の前で聞かされていた。彼はそっと部屋へ入って行った。ぽっちゃりふとった血色のいい公爵夫人は、手に編物を持って安楽椅子に腰をかけ、ペテルブルグの思い出や他人の言った文句まで拾い出して、小やみなしに語り続けていた。アンドレイ公爵は近寄って頭をなで、ゆっくり休んで旅の疲れをなおしたかとたずねた。彼女はそれに答えて、前の続きを話すのであった。
 六頭だての幌馬車は車寄せのそばに立っていた。外は暗い秋の夜である。馭者《ぎょしゃ》は車の轅《ながえ》すら見わけることができなかった。入口の階段には角燈を持った人々が騒いでいた。巨大な館は夥しい大窓をもれる燈《あかり》で、燃えるように見えた。控え室には若公爵に別れを告げようと望む召使どもが群をなしてい、広間には家族一同が集まっていた。それはミハイル・イヴァーノヴィッチ、ブリエンヌ、マリヤ、公爵夫人などであった。アンドレイ公爵は、二人きりさし向かいで告別したいという老公爵の希望で、その書斎へ呼ばれて行った。一同は二人が出て来るのを待ちかねていた。
 アンドレイ公爵が入ったとき、老公爵は老眼鏡に白い部屋着のまま(彼は息子のほかこんなふうで人に接することはたえてなかった)、テーブルに向かって何か書き物をしていた。老公爵はふり返った。
「出かけるか?」と彼はまた書き物にかかった。
「お別れに来ました。」
「ここに接吻しろ。」彼は頬を示した。「有難う、有難う!」
「何だってお父さん、私に礼をおっしゃるんですか?」
「それはお前が出発を延ばさないからだ、女の腰巻にへばりつかないからだ。なんでも勤務が第一だよ。有難う、有難う!」と一言い、彼はペンをがりがりいわせながら、はねを飛ばすほどの勢で書き続けた。「もし何か言う事があったら言え。わしは二つの仕事を一時にすることか出来るから。」と言いたした。
「家内のことですが……あれをお父さんのお手に残して行くのが、私はどうもお気の毒で……」
「何をつまらん事を! 必要な事だけ言ってしまえ。」
「出産の時が来たら、モスクワから産科医を呼んで下さい……産の間に合うように。」
 老公爵は手を止めて、合点《がてん》が行かぬと言ったように、いかつい眼付きで息子を見すえた。
「もし自然が助けてくれなかったら、誰だって助けることはできない。それはよく承知しています。」とアンドレイ公爵はきまり悪そうなふうで言った。「不幸な場合が起るのは、百万人に一人くらいの割合に過ぎない、という事実も認めていますが、あれも私も一種の妄想に襲われているのです。殊にあれは人からいろんな事を聞かされて、夢にまで見たものですから、非常に恐れているんです。」
「ふむ……ふむ……」老公爵は終りまで書き続けながら、口の中で言った。「承知した。」
 彼は署名をしるし終ると、急にくるりと息子の方へふり向いて笑い出した。
「うまく行かないだろう、あ?」
「何かです、お父さん?」
「女房だ!」簡単に意味ありげに老公爵はこう言った。
「わかりませんね。」とアンドレイ公爵は答えた。
「いや、何とも仕様がないよ、お前、女って皆あんなものだ、今さら離縁するわけにもゆかんで。恐れる事はいらん、わしは誰にも言やせん。うん、お前自身でわかってるだろう。」
 彼は骨ばった小さな手首でわが子の腕をつかみ、それをひと振りした。そして、相手の腹の底まで見すかすような敏活な眼で、ひたとわが子の顔に見入って、またれいの冷たい笑い声を上げた。
 息子は溜息をついた。この溜息で、父の察し通りだという事を白状したのである。老公爵は依然として手紙を折ったり封じたりしながら、馴れきったすばやい手つきで、封蝋や、封印や、紙を、取ったりほうり出したりした。
「どうも仕方がないさ! なかなか奇麗だからな! わしが皆すっかりしてやるから、お前は安心するがいい。」と彼は封をしながらきれぎれに言った。
 アンドレイ公爵は黙っていた。彼は父が自分の心中を了解したのが、快くもあり、また不快でもあった。老公爵は立って息子に手紙を渡しながら、
「よいか。」と言った。「家内のことは心配するな。できるだけの事は何でもしてやる。ところでな、この手紙をミハイル・イラリオーノヴィッチ [#割り注]クトゥゾフ将軍[#割り注終わり] に渡せ。なるべくお前をいい場所へ使って、長く副官でひっぱりつけてくれるなと書いておいた。実際いやな仕事だからなあ! お前もあの男にそう言ってくれ、わしはあの男をよくおぼえて愛しておるとな。それから、あの男がお前をどんな工合に扱うか、手紙で知らせてよこせ。もしいいようだったら続けて勤めろ。ニコライ・アンドレーヴイッチ・ボルコンスキイの伜は、たとえ誰のところであろうと、人のお情けで勤めるような事を、断じてしてはならんぞ。じゃ、今度はこっちへこい。」
 彼はすべての言葉を、半分しか発音しないほどの早口であったが、息子は馴れてしるのでよくわかった。彼は息子を事務テーブルの方へ連れて行き、テーブルの蓋を上げて抽斗《ひきだし》をぬき、その中から縦に長く横に押し詰めたような肉太の手で、一ぱい書きつめられた手帳を取り出した。
「わしは、当然、お前より先に死ぬはずだ。よいか、これはわしの覚え書だから、わしの死後、陛下へ差し出すようにな。それから、今度はこの銀行紙幣と手紙だ。これはスヴォーロフ戦史を書いたものにやる賞金だから、大学院《アカデミヤ》へ渡してくれ。ここにわしの批評や感想が集めてある。わしの死んだ後、自分一人で読んで見ろ。何かためになることを発見するよ。」
 アンドレイは、『お父さんは確かにまだまだ長生きなさる』と言いかけたが、口に出しては言わなかった。そんな事を言う必要がないと悟ったのである。
「すっかりその通りにいたします、お父さん。」
「じゃ、もうおさらばだ!」と彼は息子に自分の手を接吻させ、じっと抱きしめた。「ただな、一つ覚えていて貰いたい事がある、アンドレイ公爵、もしお前が殺されたら、この年寄はつらいぞ……」彼は思いがけなく口をつぐんだが、ふいにわめくように語をついだ。「またもしお前がニコライ・ボルコンスキイの子として、あるまじきふるまいをした事が知れたら、わしは恥ずかしく思うぞ!」と甲走《かんばし》った声で叫んだ。
「そんな事はおっしゃるまでもなかったんですよ、お父さん。」とほほ笑みながら息子は言った。
 老公爵は口をつぐんだ。
「私はいま一つお願いがあるんです。」とアンドレイ公爵は言葉を続けた。「もし私が死んで、そして私に男の子が出来たら、どうぞお父さんの手もとから離さないで下さい。そして、昨日お話したように、お父さんの傍で大きくして下さい……どうぞ。」
「家内に渡さないのか?」と言って老公爵は笑い出した。
 二人は無言のまま相対していた。老公爵の敏捷な視線はまっすぐに息子の眼に注がれた。老人の顔の下の方がどこやらぴりりとふるえた。
「さあ、別れはすんだ……行け!」とふいに彼は言った。「行け!」と書斎の扉を開きながら、腹立たしげに大きな声で叫んだ。
「どうしたんですの、何ですの?」白い寛衣《ガウン》を着て老眼鏡をかけ、鬘《かつら》をぬいだ老公爵が、腹立たしげに叫びながら、扉のかげから小さな姿をのぞけた時、出て来るアンドレイ公爵の顔とその顔を見くらべながら、マリヤとリーザは、こうたずねた。
 アンドレイ公爵は嘆息して、何も答えなかった。
「さあ。」やがて彼は妻の方へふり向いた。
 この『さあ』は、まるで『これからお前の十八番を始めるがいい』といったような、冷やかな嘲りの調子をおびて響いた。
アンドレイ、もう!」蒼い顔をして恐ろしげに良人を見つめながら、小柄な公爵夫人はそう言った。彼は妻を抱きしめた。彼女はあっと一声さけぶと、そのまま感覚を失って良人の肩に倒れた。
 彼は妻のもたれかかっている肩をそっとはずして、ちらとその顔を眺め、用心ぶかく安楽椅子に寝かした。
「アディウ、マリヤ。」と彼は小さい声で妹に言い、互に手を接吻し合うと、急ぎ足で部屋を出てしまった。
 公爵夫人はやはり安楽椅子に横たわっている。ブリエンヌは彼女のこめかみを擦ってやった。マリヤは義姉《あね》を支えつつ、泣き腫らした美しい眼で、アンドレイ公爵の出て行った戸口をいつまでも見つめながら、兄のために十字を切るのであった。書斎の中からは、ちょうど鉄砲でも撃つような、怒りっぽい年寄じみた涕《はな》をかむ音が、いくども続けさまに聞えた。アンドレイ公爵が出て行くや否や、書斎の戸がいきなりぱっと開いて、白い寛衣《ガウン》を着た老人のいかめしい姿がのぞいた。
「行ってしまったか? いや、それでいいのだ!」感覚を失っている小柄な公爵夫人を腹立たしげにちらと見やって、彼はこう言うと、非難するようなふうに首をふって、ぱたんと扉をしめ切った。
[#改ページ]

[#2字下げ]第二編[#「第二編」は大見出し]

[#6字下げ]一

 千八百五年の十月、ロシアの軍隊はオーストリー大公国の村や町をみたしていた上に、なお新しい隊が続々ロシアから到着するのであった。そして、自分たちの駐屯によって住民を苦しめつつ、ブラウナウ要塞の付近に散在していた。ブラウナウにはクトゥゾフ元帥の本営があった。
 千八百五年十月十一日、ちょうどブラウナウヘ着いたばかりの歩兵連隊の一つは、町から半哩へだてた地点で総指揮官の検閲を待っていた。土地の環境(果樹園、石垣、瓦葺《かわらぶき》の屋根、遠くに見える山なみ)、ものめずらしげに兵士を眺める住民など、すべての風物がロシアと異なっているにもかかわらず、この連隊はまるで中部ロシアのどこかで検閲の準備をしている、普通のロシア軍隊と同じ外観を呈していた。
 昨夜、最後の進出のあいだに、行軍中連隊を検閲するという総指揮官の命令が達した。この命令の語句が連隊長には不明瞭に思われた。どんなふうに命令の言葉を解釈したものか、行軍隊形をとるべきか否か、という問題が生じたけれど、「お辞儀はし足りないよりも、し過ぎた方がまだましだ」という説によって、正式の閲兵隊形をとることに大隊長会議で決められた。
 で、兵士らは三十露里の行軍の後に、一晩中まんじりともしないで、修繕したり手入れをしたりするし、副官や中隊長たちは点検に点検を重ねるのであった。朝明けの頃には、もう、連隊は前日の行軍の時のような、だらけた不秩序な群衆ではなく、二千の人間の整然たる一団となっていた。しかも、その中の一人一人が、おのれの位置と仕事をのみこんでおり、一人一人の体についたボタンや革紐にいたるまで、ことごとく位置を誤らず清潔に輝いていた。それも単に外側ばかり整頓しているのみならず、もし総指揮官が服の下をのぞいて見ようとも、一人一人の体には一様に清潔なシャツが見出されるばかりだし、一人一人の背嚢には、兵隊どもの所謂「お針道具に洗濯道具」などという物品が、規定の員数だけ発見されるであろう。ただ一つ安心のできないことがあった。それは靴である。兵の過半は踏みくずした靴をはいていた。しかし、この不備もあえて連隊長の過失から生じたわけではない。というのは、再三再四の請求にかかわらず、オーストリーの当事者が下付してくれない上に、連隊は既に千露里の道程を歩いて来たのである。
 連隊長は眉と頬ひげの灰色をした、大分年を取っているけれど、多血性らしい、肉つきのいい将軍で、肩と肩との間よりむしろ胸と背中の間が広いくらいである。彼は仕立おろしの、襞《ひだ》のきちんと落ちついた軍服をつけ、どっしりと厚みのある肩章の金を光らしていたが、その肩章は彼の肥えた肩を下へおしつけるというよりも、むしろ上へ引き上げているような工合であった。連隊長は、生涯のもっとも荘重な事業を、愉快に行っている人のような顔付きをしていた。彼は正面前列を歩き廻っていたが、歩きながらちょっと背中を曲げて、一歩毎にぴくりぴくりと身ぶるいする。見受けたところ、この連隊長は自分の連隊に見とれてそれを幸福に感じ、総ての精神力をただ連隊のみに打ちこんでいるらしい。が、それにもかかわらず、その身ぶるいするような歩きぶりは、彼の心中で、軍隊の興味以外に社会生活の興味や女性なども、少からぬ場所を占めていることを物語るようであった。
「なあ、君、ミハイラ・ミートリッチ、」と彼は一人の大隊長に話しかけた(大隊長は微笑を含みながら前へ進み出た。見たところ、彼らは二人とも自分を幸福者と感じているらしい)。
「昨夜は随分ひどい目にあったじゃあないか。だが、別に欠点はあるまいぬ、大して悪い連隊の方でもなさそうだね……うむ?」
 大隊長にはこの陽気なイロニーがすぐのみこめたので、笑いだした。
「はあ、ツァリーツイン・ルーグ*に出ても、追い出されるような事はありますまい。」
「何だって?」と連隊長は言った。
 この時、ところどころ信号兵を配置した町へ通ずる道路に、二人の騎馬兵が現われた。これは副官とその伴をするコサックであった。
 この副官は、昨日の命令ちゅう表現の明瞭でない箇所を、正確に連隊長に伝えるため参謀本部から使者に立ったのである。つまり、総指揮官の望むところは、行軍中と全然同一隊形、すなわち、外套を着て武器におおい布をかぶせたまま、何の準備もしていない連隊を見ることであった。
  *露都ネヴァ河辺にある観兵式場の名。
 そのわけは、前日クトゥゾフ総指揮官の所へ、軍事会議局《ホーフクリーグスラート》の議員がウィーンからやって来て、できるだけ早くフェルジナンド大公やマック将軍*の軍勢と合するよう提議し、かつ要求したのである。クトゥゾフはこの連合を有利とは思わなかったので、自分の意図を貫徹するに都合の好い実証の一つとして、ロシアの軍隊が如何に哀れな状態で行軍して来たかを、オーストリーの将軍に示そうと企てたのである。こうした目的をもって連隊を迎える考えなのであるから、連隊が悲惨な状態にあればあるほど、総指揮官のご機嫌がいいわけである。副官もこういう巨細《こさい》の事情は知らないが、とにかく、兵士らが必ず外套をつけ、武器におおい布をかぶせているようにという、総指揮官の要求を連隊長に伝え、もしそれが実行されなかったら、総指揮官は不満足に思われるだろうと述べた。この言葉を聞いて連隊長は首を垂れ、黙って肩をつき上げながら、元気のいい身ぶりで両手をぱっと左右に開いた。
「とんだ事をしてしまったぞ!」と彼は言い出した。「ミハイラ・ミートリッチ、だから俺が言ったじゃないか、行軍隊形、つまり、外套をつけたままだって。」彼は咎めるように大隊長の方へ向かって言った。「ああ、困ったな!」とつけたして、彼は決然と前へ進み出た。「中隊長集まれっ!」と号令になれた声で叫ぶ。「特務曹長を集めろ! 間もなくお見えになりましょうかね?」と彼はうやうやしく慇懃《いんぎん》な表情を浮かべて、副官の方へふり向いた。その表情は明らかに、いま口にしている上長官に対するものらしい。
  *オーストリーの将軍、男爵、一七五二―一八二五年。
「約一時間後だと思います。」
「服の着換えが間に合いましょうかな?」
「わかりませんです、閣下……」
 連隊長は自ら列に近寄って、また外套に着換えさせるよう命じた。中隊長はばらばらと自分の中隊をさして駈け出すし、曹長らは忙しそうに騒ぎ始めた(外套はあまりきちんとなっていなかったので)。同時に、以前規律ただしく、闃《げき》として声のなかった四辺形が急に動揺し、拡がり、がやがやと騒々しく話し始めた。四方八方から兵士が駈け出したり駈け寄ったりした。そして後ろから肩を外して頭から背嚢をぬき、外套を取り出し、高く両手を上げて袖を通すのであった。
 三十分の後、再びすべては元の秩序を回復した。ただしかし、前には黒かった四辺形が一様に鼠色に変った。連隊長はまた身ぶるいするような足どりで隊の前へ進み出て、遠くからそれを見廻した。
「あれはまたどうした事だ? あれは何だ?」彼は俄かに足を止めて叫んだ。「第三中隊長を呼べ!」
「第三中隊長殿、連隊長殿がご用です! 中隊長殿、閣下のお呼びであります! 第三中隊長殿、連隊長殿がご用であります!」という声々が列伍の間に聞えた。副官はこのぐずぐずして出てこない将校をさがしに駈け出した。
 一生懸命な声の響きが、もう「将軍を第三中隊へ」などと間違えながら、やっと当人まで届いた時、呼ばれた将校が第三中隊の後から出て来た。もういい加減な年配で、あまり走りつけない男だったので、危なっかしく爪先をからませながら、駈足で将軍の方へやって来た。この大尉の顔は練習して来なかった問題を言わされる小学生のような、不安の表情をおびていた。赤い鼻(明らかに不摂生のためらしい)の上には斑点《しみ》が現われ、口は一定の位置を知らない様子でもぐもぐしていた。大尉が次第に歩度をゆるめながら、喘《あえ》ぎ喘ぎ近寄った時、連隊長は頭のてっぺんから足の爪さきまで、じろじろと彼を眺め廻して、
「君は今に兵隊にサラファン*でも着せるつもりなんだろう! これは一たい何事だね?」下|頤《あご》をつき出しながら、ほかと違った色の上質ラシャで作った外套を着ている、第三中隊の列中の一兵士を指さしながら、連隊長はこう叫んだ。「それに、君自身どこにいたのかね? 総指揮官が今にもお見えになろうという場合、自分の部署を離れるなんて? うむ?………一つわしが教えてやろうかな、検閲の際兵士にコサック外套なんか着させると、どんなものかという事を!………うむ?」
 中隊長は長官から目を離さないで、自分の二本指をますます強く帽子の庇《ひさし》におし当てた、あたかもこの場合、ただこれ一つに救助の道を認めたかのように。
「うむ、なぜ君は黙っているのかね? 一たいあの君の部隊で、ハンガリー人のような服装をしているのは誰だね?」と連隊長はきびしい調子で洒落《しゃれ》るのであった。
「閣下……」
「うむ、『閣下』とは何かね? 閣下! 閣下! 一たい閣下がどうしたんだか、ちっともわかりゃせん。」
「閣下、あれは奪官されたドーロホフであります。」と大尉は
 *ロシア固有の袖無婦人服、上衣と袴と連結したもの。
小声で言った。
「ぜんたいあれは奪官されて元帥になったのか、それとも兵隊になったのか? 無論、兵隊だ。それなら皆と同じ制服をつけているべきはずじゃないか。」
「閣下、閣下ご自身、行軍中だけ許可されたのであります。」
「許可した? 許可した? それだ、君たち若い連中はすぐもうそれだ。」いくぶん鼻じろみながら連隊長は言った。「許可した? 本当にちょっと何か言えば、すぐ君たちは……」連隊長は暫く言葉を切った。「君たちにちょっと何か言えば、もう……どうだね?」またもやいらいらしながら彼は続けた。「さあ、部下の兵士に規定通りの服装をさせてくれ給え……」
 連隊長はこう言って、副官の方を振り向きながら、例の身ぶるいをするような足取りで連隊の方へ赴いた。見受けたところ、彼は自分で自分の癇癪が大いに気に入ったらしく、連隊じゅうを歩き廻りながら、何か口実を設けては、自分の忿怒に出口を与えようとした。ある一人の将校を徽章が磨いてないと言って叱り、またもう一人を列の正し方が悪いと言って譴責《けんせき》して、彼は第三中隊に近寄った。
「なァんという立ち方だ? 足をどこに置いてるのだ? どこに足を?」まだ五人も間を隔てた手前から、青みがかった外套を着たドーロホフに向かって、連隊長は声に苦痛の表情を響かせながらこう叫んだ。
 ドーロホフは曲げていた足を悠然とのばしてから、例の薄色の傲慢な眼付きで将軍の顔を眺めた。
「何のために青い外套を着とるのか? すててしまえ! 曹長! この男に着換えさせろ……この……やくざ……」と彼がしまいまで言い終らぬ中に、
「閣下、わたくしは命令を実行する義務を有していますが、けっして……」とドーロホフは早口に言った。
「列中で話をするんでない! 話をするんでない! 話をするんでない!」
「侮辱を黙って聞いている義務はありません。」と大きな響の高い声でドーロホフは言い切った。
 将軍の眼と兵卒の眼はぴたりと出会った。将軍は窮屈な飾帯を腹立たしげに下の方へひっぱりながら暫く無言でいた。
「どうかお着換えください。お願いします。」そこを離れながら彼は言った。

[#6字下げ]二

「おいでであります!」このとき信号兵が叫んだ。
 連隊長は急に赤くなって馬の方へ駈け寄り、ふるえる手で鐙《あぶみ》につかまり、ひらりと身を返して馬に跨がった。居住まいをなおしてから刀を抜き、幸福らしい断乎たる顔付きで、口を少し曲げて開きながら、号令をかける用意をした。連隊は梢に居住まいをなおす鳥のように、ばたばたとはためいたが、すぐに静まり返った。
「気を付けえーえーえ!」と連隊長は魂をゆり動かすような声で叫んだ。その声は自分にとっては悦ばしく、隊に対してはいかめしく、近づく上官に対しては歓迎の意を表するものであった。両側に並木を植えた、石を甃《し》いてない、広い大道路に沿うて、六頭だての水色をした高いウィーン式の幌馬車が、かすかに螺旋《バネ》を鳴らしつつ、威勢のいい駈足で進んで来た。馬車の朕からに隨行員の一群と、クロアート [#割り注]ハンガリの一地方[#割り注終わり] 騎兵の護衛隊が駛《はし》って来る。クトゥゾフの傍らにはオーストリーの将軍が坐っていたが、白い軍服がロシアの黒い服の中にまじって異様に見える。馬車は連隊のそばで止まった。クトゥゾフとオーストリーの将軍は小さな声で何やら話していた。クトゥゾフは馬車の踏段から重々しく足をおろした時、微かにほほ笑んだ。その様子は、息を殺して自分と連隊長を見つめている二千人の兵士が、さながら眼中にないかのようであった。
 号令の声が響き渡ると、再び連隊はがちゃがちゃと音を立てて震動し、捧げ銃《つつ》をした。死んだような静寂の中に総指揮官の弱い声が聞えた。連隊は轟くような声で、「閣下の健康を祈る!」(『祈る』という言葉は丁度『オール』というように響いた)と叫ぶと、またもとの静けさに返った。連隊が動揺している間、クトゥゾフは一つ所にじっと立っていたが、やがて随行員を引き連れて、白服の将軍と共に、徒歩で列の間を廻り始めた。
 連隊長がひたと吸いつくように相手を見つめ、そり返ってそばへ近寄りながら、総指揮官に敬礼をした様子から言っても、体を前の方へのめらせるようにして持前の身ぶるいするような歩きぶりを辛《から》くも圧えつけながら、将軍たちの後ろから隊伍の間を歩き廻る恰好から見ても、総指揮官の一言一行ごとにちょこちょこと走り寄るふうつきから察しても、彼は上官としてよりむしろ部下としての義務を果たす方に、より多くの快感をおぼえるらしかった。連隊は連隊長の厳格と努力のおかげで、同時にブラウナウヘ着いた他の連隊にくらべると、立派に整っていた。落伍者や病人はたった二百十七人しかなかった。そして、靴を除いては何もかもきちんとしていた。
 クトゥゾフは列の間を歩き廻りながら時々立ち止まって、トルコ戦争で顔を知っている将校や、まれには兵卒にまで、二こと三こと優しい言葉をかけた。靴を眺めて、彼は幾度か沈んだ顔付きで首をふり、この事はべつに誰を咎めるわけにも行かぬけれど、どうもその不体裁を見ないではいられぬ、といったような表情を浮かべて、オーストリーの将軍にさして見せた。連隊長はそのたびに、自分に関する総指揮官の言葉を、一言でも聞きもらすのを恐れるかの如く、急いで前の方へ走り出た。
 クトゥゾフの後からは、どんな低い声で発せられた言葉でも聞き分けることができるほどの距離をおいて、随行員が二十人ばかり歩いていた。随行の人々はめいめい仲間同士で話し合い、時には笑い声すら立てた。総指揮官に最も近く寄りそうて、一人の美しい副官が歩いていた。これはボルコンスキイ公爵であった。彼とならんで行くのは同僚のネスヴィーツキイという、恐ろしくふとって背の高い、人の好さそうな、始終にこにこ顔をした、眼に沾《うるお》いのある佐官であった。ネスヴィーツキイは、自分のそばにいる色の黒い軽騎兵将校に刺戟されて、おかしくてたまらないのをやっとの思いでこらえていた。軽騎兵将校は眼をじっと据えたまま少しも表情を変えず、まじめくさった顔をして連隊長の背中を眺めながら、その一挙一動をまねるのであった。連隊長が身ぶるいして前の方へ首をのばす度に、彼はそのまま一分一厘の相違なく、身ぶるいして前の方へ首をのばす。ネスヴィーツキイはくすくす笑いたから、この面白い冗談ものを見ろというように、ほかの者を突っつくのであった。
 眼窩《がんか》から飛び出すくらい一心に上官を見まもっている幾千の眼のそばを、クトゥゾフは静かに大儀そうに歩いて行った。第三中隊へ来かかった時、彼は不意に立ち止まった。これに気づかないで進んでいた随行員たちは、あやうく総指揮官にぶつかりそうになった。
「あ、チモーヒン!」例の青い外套の一件でいじめられた赤鼻の大尉にふと目を止めて、クトゥゾフはこう言った。
 連隊長に注意されたときチモーヒンは、もうこれ以上そり返ることは出来まいと思われるほどそり返ったが、いま総指揮官が彼に言葉をかけたとき、もし総指揮官がもうしばらく彼を眺め続けてにいたら、とてももちこたえられまいと思われるくらい、激しくそり返った。で、クトゥゾフは彼の立場を了解し、できるだけ大尉を楽にさせようと望むらしく、急いで顔をそむけた。負傷のために醜くなり腫《むく》んだクトゥゾフの顔を見えるか見えないかの微笑がかすめた。
「イズマイル*攻撃時分の友達だ。」と彼は言った。「勇敢な将校だよ! 君、この男に満足しているかな?」とクトゥゾフは連隊長にきいた。
 連隊長はまるで鏡にうつる影のように、軽騎兵将校に自分の動作を一々くり返されるのも知らないで、ぴくりと身ぶるいし、前へ進み出て答えた。
  *ドゥナイ河口の港、露土戦争の際大いに露軍を悩ましたトルコの要塞所在地。
「非帯に満足しております、閣下。」
「われわれは誰でも弱点のない者はないが、」クトゥゾフは微笑して、その場を離れながら言った。「あの男は酒神《バッカス》に忠義すぎてなあ。」
 連隊長は、これについて自分に責任があるのではないかとびっくりして、返辞をしなかった。軽騎兵将校はこのとき鼻の赤い、腹のへこんだ大尉の顔に気がついて、またすぐにその顔と姿勢とをまねたが、それが実に巧みに彷彿《ほうふつ》としているので、ネスヴィーツキイはたまらずふき出してしまった。クトゥゾフは後ろをふり返って見た。察するところ、この将校は自分の顔付きを、思い通りにあやつることの出来る人と見え、クトゥゾフがふり向いた途端に、早くもその変にしかめた顔をなおして、まじめな、うやうやしい、罪のない表情を浮かべたのである。
 第三中隊は、最後の中隊であった。クトゥゾフは何やら思い出そうとするらしく考えこんだ。アンドレイ公爵は随行員の中から進み出して、フランス語で低声にささやいた。
「閣下はこの連隊にいる、あの奪官されたドーロホフのことを、注意してくれとご命令でございましたが。」
「ドーロホフはどこにおるかな?」とクトゥゾフはきいた。
 早くも灰色の兵隊外套に着換えたドーロホフは、呼び出されるのを待っていなかった。亜麻色の毛に、明るい水色の眼をした兵士のすらりとした姿が、列から前へ進み出た。彼は総指揮官のそばへ近寄って、捧げ銃《つつ》をした。
「請願かな?」ちょっと顔をしかめてクトゥゾフはたずねた。
「これがドーロホフです。」とアンドレイ公爵は注意した。