『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『戦争と平和』(トルストイ作、米川正夫訳) P041―P080(第一編一一のとちゅうから第一編二二のとちゅうまで)

約10分、OCR、051-070
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入力、■50-■10、20分、041-046
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入力、■56-■26、30分、P047-052
OCR、■31-■36、5分、071-080
ざっとせいり、■37-■42、5分、
入力、■18-■30、12分、053-054、
ざっと整理(主に段落下げ、)、■20―■40、20分、055-070
入力、■56―■、30分、055-060
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入力、■50-■10、20分、061-066
ざっとせいり、■41-■11、30分、071-080
ざっとせいり、■56-■26、30分、071-080、053-063

「ねえお嬢さん、」と彼女はナターシャに向かってこう言った。
「このミミイさんはあなたの何にあたりますの? きっと娘さんでしょう?」
 子供同士の会話へお義理に口を入れた客の調子が、ナターシャの気に入らなかったので、彼女はなんにも答えず、真面目に客の顔を見つめた。
 その間に若い連中――ドルベツカーヤ夫人の息子である青年士官のボリース、伯爵の長子ニコライ、伯爵の姪にあたる今年十五のソーニャ、末子のペトルーシャは、みんな客間の中に席を取った。そして、まだ顔面筋肉の一本一本に躍動している活気と悦びとを、礼譲という節度の中に押しこもうとつとめているらしかった。察するところ、ああしてまっしぐらにここへ走って来る前に、奥の間で彼等の交わしていた会話は、この客間における他人の陰口や、時候の挨拶や、伯爵夫人アプラクシンの話より、ずっと愉快なものであったに相違ない。ときどき彼等は互に顔を見合わせ、やっとの思いで笑いをこらえていた。
 二人の青年、即ち、大学生と将校は幼い頃からの友達で、年齢も同い年、そして二人とも美男子でありながら、互に似た所と言っては少しもなかった。ポリースは背の高い、髪の亜麻色をした、輪郭の繊細に整った、落着きのある美しい顔立の青年であった。ニコライは背のあまり高くない、髪の渦を巻いた、顔の表情の明け放しな若人であった。その上唇には早くも黒いひげが見え、顔ぜんたいに突進的な感激性があらわれていた。ニコライは客間に入るや否や真赤な顔をした。多分なにを言おうかと考えたけれども、適当な言葉が発見できなかったものら
しい。ボリースは反対にすぐ頓智の才を現わして、落着いた郛談まじりの口調で、自分はこの人形のミミイを若い娘時分から知っていて、その頃はまだ鼻もかけていなかったが、彼が記幃してから五年の間にすっかりお婆さんになって、頭蓋骨に一ぱいひびが入ってしまった、などと語って、語り終って彼はナターシャを見た。ナターシャはくるりと彼に背を向けて弟の方を見ると、ペトルーシヤは眼を細くしながら、声も立てずに体をゆすりゆすり笑っている。と、もうたまらなくなって飛び上り、すばしっこい足にありたけの力をこめて、大急ぎで部屋を駈け出してしまった。ボリースは笑わなかった。
「あなたもやはりお出かけなさる筈でしたね、お母さん? 馬車がいるでしょう?」微笑をおびて母の方へ向きながら、彼はこう話しかけた。
「ああ、早く行って、支度するようにいいつけておくれ。」ほほ笑みながら母は言った。
 ボリースは静かに戸口を出て、ナターシャの後を追った。ふとった男の子――ペトルーシヤは、自分の計画を掻き廻されたのを口惜しがるように、ぷりぷりしながら二人の後から駈け出した。
       一二
 伯爵夫人の長女と(これはもう妹より四つ年上で、万事大人のように振舞っていた)、客の令嬢をのけると、若い人達で部屋 第に残ったのは、ニコライと姪のソーニャであった。ソーニャはほっそりとした小造りの黒髪女で、柔らかい眼眸は長い睫で陰つけられ、濃い黒髪は編まれて二重に頭を巻いている。顔や手、殊にやせて優美な、筋の浮いて見える細い手と、頸の皮膚は黄みをおびている。ためらかな動作や柔らかくしなやかな小さい四肢や、いくぶん狡猾で控え目な挙動などは、まだ充分ととのわぬながらも、大きくなってからの立派さが思いやられるような、美しい猫の子を連想させるのであった。見たところ、微笑をもって一座の会話に対する興味を現わすのを礼儀だと考えているらしい。しかし、いつとはなしに彼女の眼は、濃く長い貶の下から、処女らしい情熱の溢れた尊敬の色をもって、近く軍隊に入ろうとしている従兄の方を眺めていた。で、彼女の微笑はただの一瞬間も、人目を欺くことは出来なかった。仔猫がここに坐ったのは、ただ前よりも一そう元気よく飛び上って、従兄と戯れたいがためであった。早く自分達もボリースとナターシャのように、二人でこの客間をぬけ出すことができればいい、そう言った気色がありありと見え透いていた。
「実はですね、マ・シエール、」伯爵は客・のカラーギナ夫人に向かい、ニコライを指さしながら、言い出した。「これの友達のボリースが将校に任官したので、こいつも友情として友達をすてるわけに行かぬと中しましてな、大学も老人の私も打っちやって、軍隊に入ろうとしておるんですよ、マーシェール。もう文書局では、任官の場所も決めてるんですよ。これがIたい友情というものでしょうかね?」と伯爵は問いかけるように言った。
「さようですね。でも宣戦の布告があったそうでございますから。」と客は言った。
「それはもう前から話があったのです。」と伯爵は言った。「そしてまたこの後も話があって、またその次にもあって、それでおしまいなんですよ、マ・シェール。これがぜんたい友情でしょうか?」とまた同じことをくり返した。「これは軽騎兵に入ろうとしているので。」
 客は何と言っていいかわからないので、ただ頭を振った。
「決して友情のためじゃありません。」
 ニコライはかっとなって、さながら自分にとって恥すべき誹謗でも払いのけるように、顔をそむけながら答えた。「決して友情じゃありません。ただ軍務に対する天職を感じたからです。」
 こう言って彼は従妹と客の令嬢の方を振り向いた。すると二人の娘は賛成するような微笑を浮かべてその眼眸を迎えた。
「今日わたし共ヘパヴログラード軽騎兵連隊長の、シューベルト大佐という方が晩餐に見えます。丁度いま賜暇で当地に滞在しておられるのですが、この人がこれを連れて行って下さる亊になりましてな。いやはや、何ともいたし方がありません。」と肩をすくめながら、多くの悲しみをもって購ったらしい事柄を、冗談のように伯爵は言った。
「だから僕はもう言ったじゃありませんか、お父さん。」と息子は言った。「もしどこまでも僕を手放したくないとお思いでしたら、僕うちに残ります。しかし、僕自身にもちゃんとわかってます。僕は軍隊以外どこにも適当しなし人間なのです。供は外交家でもなければ官吏でもありません。だって、自分の感じた事をかくせない性分なんですもの。」美しい青春の媚を浮かべながら、絶えずソーニャと客の令嬢を眺め眺め、彼はこう言った。
 小猫は吸い寄せられたように彼を見つめながら、いっでも猫の本性を現わしてはね廻りそうなけはいを示した。
「まあ、まあ、よろしい!」と老伯爵はいった。「すぐむきになるんだからなあ。これと言うのもあのボナパルトの奴が、みんなの頭を滅茶滅茶に掻き廻してしまったんだ。誰も彼も、ナポレオンが中尉から皇帝になった事ばかり考えている。あああ、仕様がない。」カラーギナ夫人の冷笑的な微笑には気もつかず、彼はこう付けたした。
 大人連はボナパルトのことを話し出した。カラーギナ夫人の令嬢ジューリイは若いロストフに向かって、
「この間の木曜日に、あなたがアルハーロフさんへいらっしゃらなかったので、本当に残念でございましたわ。あたしあなたがいらっしゃらないと、本当につまんないんですのよ。」と彼女は優しくほほ笑みながら言った。
 持ち上げられて嬉しくなった青年は、若々しい媚を含んだ微笑をたたえながら、彼女の近くへ席を変えて、絶えずにこにこしているジューリイと差し向かいで話を始めた。我ともなしに浮かんだこの微笑が嫉妬の刃《やいば》となって、赧い顔をしてわざとらしくほほ笑んでいるソーニャの胸をつらぬいた事には、彼は少しも気づかなかった。話の途中、ふとソーニャの方を振り向いた。彼女は一念こめた毒々しい眼付きで彼を眺めたが、湧き出る涙をやっとの思いでこらえながら、唇に空々しい微笑を浮かべて立ち上ると、部屋を出てしまった。ニコライの元気づいた色は忽ちにして消え失せた。彼は話の切れ目を待ちかねて、興ざめな顔をしながらソーニャをさがしに部屋を出た。
「あの若い人達の秘密か、白い糸で縫い合わされてる事はどうでしょう 隠し方の拙いのを言う !」ドルブツカレヤ公爵夫人は出て行くニコライを指さしながら言った「Cousinage dangereux voisinage. いとこ同士は危険な隣同士ですね。」と彼女につけ加えた。
「そう。」若い人達と共に客間へ射し込んだ太陽の光の消えた時、伯爵夫人はこう言った。それはちょうど誰にも問いかけられたわけではないけれど、常に彼女の心を占めている問題に対して、解答するような調子であった。「今はあの子らを見ても悦ぶことはなくて、何というまあ苦しみや心配の多いことでしょう! 全く今は楽しみよりも苦労の方が多いくらいですの、しょっちゅうびくびくしてばかりおります! 今がちょうど女の子に取っても、男の子に取っても一番危険の多い年頃でございますからねえ。」
「万事教育次第でございますよ。]と客の夫人は言った。 「ええ、全くおっしゃる通りでございますとも。」と伯爵夫人は語を続けた。「今までわたくしは有難い事に子供らの友達とて、みんなから信用を受けていますの。」子供は親に秘密などないものと考えている、多くの親達の迷いをくり返しつつ、夫人は言った。「わたくしはいつでも娘たちの一番のconfidente 相談相手 になれると存じます。ニコーレンカはあの烈しい気性ですから、多少いたずらをする事があるかも知れませんけれど(男の子はこれがなくては立ち行きませんからねえ)、それでも、いまおっしゃったペテルブルグの人たちのような事はございません。」
「そうだ、みんな、みんないい子供たちだ。」と伯爵は相槌を打った。彼はいつでも面倒なこんぐらかった問題を解決するのに、この『いい』を持ち出すのがお定まりであった。「今度だってほら、軽騎兵を志願したじゃないか! 何をその上に望む事があるかね、マーシェール!」
「お宅の小さいお嬢さんは何て可愛い方でしょう。」と客は言 った。「まるで火薬みたいでございますね。」
「そう、火薬です! 私にそっくりでね!」と伯爵は引き取った。「それに大した声でして。自分の娘の自變じゃありませんが、全く声楽家になれますよ。第二世サロモニイです。家ではイタリー人を一人やとって教えさせています。」
「早すぎはしませんでしょうか? あの年頃に習うのは声のために悪いとか申しますが。」
「いいえ、どういたしまして、なんの早すぎるものですか!」と伯爵は言った。「では、われわれの母親時代の人が十二三で嫁に行ったのは、あれはどうしたものでしょう?」
「あの子ったら、もう今からボリースに恋をしてるんでございますからね! 何という子でしょう!」伯爵夫人はボリースの母を見て、静かにほほ笑みながら、常にその心を占めている想念に答えるように言った。「ところでねえ、もしわたくしがあの于を厳重に監督して、いろんな事をとめてしまったら、それこそあの子達は内証で何を仕出かすかわかりません(夫人は接吻のことを言ったのである)。でも今のところ、わたくしはあの子の言うことなすこと、みんな存じています。あの子が晩になるとわたくしのところへ走って来て、すっかり話してくれますの。もしかしたら、甘やかし過ぎるかも知れませんね。けれど、全くのところ、この方がよさそうでございますの。わたくし姉の方は厳重に育てましたけれど。」
「ええ、あたしはまるで別な育て方をされましたわ。」美しい姉娘のヴェーラがほほ笑みながら言った。
 けれども、この微笑は普通の人に見られるように、ヴェーラの顔を彩らなかった。反対に彼女の顔は不自然になり、したがって不快に感じられた。長女のヴェーフは美人でもあるし、賢くもあるし、学問も立派に出来れば、教育も行き届き、声も快い響を持っていた。そして彼女の言った事は、理にかなって場所がらにも合っていた。しかし、不思議にも一同の者は、伯爵夫人も、カラーギナ夫人も、なぜヴェーラがこんな事を言ったのだろうと、驚いたように彼女の方へふり向いて、ある間の悪さを感じたのである。
「どこでも上のお子さんには苦心なさいますよ、なにか非凡なものに仕立てようと思いましてね。」と客の夫人は言った。
「じゃ、別に隠し立てもしませんが、全く家内はヴェーラにずいぶん力を入れたですよ。」と伯爵は言った。「それで結果はどうでり! 御覧の通りいい娘が出来上りました。」と、ほめそやすようにヴェーラに瞬きをして見せながら、彼は言い足した。
 客は立ち上って、晩餐に来ることを約しながら辞し去った。
「まあ、何という作法だろう! いつまでも、いつまでも坐りこんだもんだねえ!」伯爵夫人は客を見送ってからそう言った。
       一三
 ナターシャは、客間を駈け出しはしたものの、花部屋までしか来なかった。ここで彼女は立ち止まり、客間の話し声に耳を傾けながら、ボリースの出て来るのを待っていた。彼女はもうじれったくなって来、とんとひとつ足踏みをして泣き出しそうになった。それはただボリースが今すぐ来てくれないと言うだけの事である。と、あまりのろくもなければまたあまり早くもない、嗜みのよい青年の足音が聞えだ。ナターシャは急に花の植わった桶の間に駈けこみ、身を隠した。 ボリースは部屋の真中に立ち止まって辺りを見廻し、軍服の袖から埃を払い落すと、姿見に近寄って自分の美しい顔を眺めはじめた。ナターシャは息をひそめながら、今度は何をするだろうと隠れ処から竄っている。彼は暫く鐃の前に立っていたが、やがて微笑して出口の方へ歩き出した。ナターシャは呼び止めようかと思ったが、また考え直して、『少し探さしてやろう。』と独りごちた。ボリースが出て行くや否や、また一方の戸口からソーニャが真赤な顔をして、涙の隙に何やら腹立たしげにつぶやき入って来た。ナターシャは、その方へ駈け出したい発作的な欲望を抑え、やはり自分の隠れ処に残っていた、さながら隠れ覬の中から世間の出来事を眺めるような工合に。ソーニャは何やらつぶやきつぶやき頻りに客間の戸口をふり返って見る。扉の中からはニコライが出て来た。     「ソーニャ! 一たいどうしたの? そんな事があっていいものかね?」彼女のそばへ走り寄りながらニコライはこう言った。
「何でもないの、何でもないの、打っちゃっておいて頂戴!」とソーニャはしゃくり上げた。
「いいや、僕なぜだか知ってる。」
「そう、御存じなら結構だわ、さあ早くあの方へいらっしゃい。」
「ソーニャ! たったひと言聞いてくれ! そんな邪推のために僕を苦しめたうえ、自分まで若しめるって法があるものかね?」ニコライは彼女の手をとりながら言った。
 ソーニャは自分の手をふり放そうともしないで、泣きやんでしまった。ナターシャは身じろぎもせず息を凝らして、眼を輝かせながら隠れ処から窺っている。『今度は何をするだろう!』と彼女は考えた。
「ソーニャ! 僕は世界中そっくりやろうと言われても欲しかない! お前は僕のためにすべてたんだもの。」とニコライは言った。「僕それを証明して見せる。」
「あたし、あんたがそんな言い方をなさるといやなのよ。」
「じゃ言わないから、ね、堪忍しておくれよ、ソーニャ!」と彼はソーニャを引き寄せて接吻した。
『まあ、本当に素敵ねえ!』とナターシャは思った。ソーニャとニコライが部屋を出て行ったとき、彼女も続いてそこを出て、ボリースを呼んで来た。
「ボリース! こっちィいらっしゃい。」と彼女は意味ありげな、ずるい顔付きをして呼んだ。「あたしちょっと言いたい事があるの。こっちよ」と言って、彼女はボリースを花部屋の中の植木桶の間、さっき自分が隠れていた所へ連れて来た。
 ボリースはほほ笑みながらその後にしたがった。「そのちょっとってのは何?」と彼はたずねた。
 ナターシヤは少してれて辺りを見廻した。ふと植木桶の上へほうり出された人形が目につくと、それを両手にとり上げた。
「この人形に接吻して頂戴。」と彼女は言った。
 ボリースは注意ぶかく優しい眼付きで、彼女の生きいきした顔を眺めたが、なんにも答えなかった。
「おいや? じゃこっちイいらっしゃい。」と言い、ナターシヤは花の間をなおも奥深くはいった。そして人形をほうり出しながら、「もっとそばへ、もっと!」とささやいた。
 彼女は両手で若い将校の袖口をつかまえた。その赤くなった顔には得意と恐怖の色が見えた。
「あたしを接吻するのはおいや!」額ごしに相手を見上げながら、興奮のあまり泣き出さないばかりの様子で、聞えるか聞えないかくらいにささやいた。 ボリースは赤くなった。
「何てあんたはおかしな人でしょう!」こう言って、彼はだんだんと相手の方にかがみかかるようにしながら、いよいよ顔を赧くした。が、こちらからは何も仕かけないで待っている。
 ナターシャはふいに桶の上へ飛び上った。するとボリースより背が高いくらいになった。と、ふいに細いあらわな手を男の頸より少し上の辺に巻いて抱きしめ、頭をひと振りして髪を後ろに払いのけると、そのまま彼の唇の真上に接吻したのである。
 彼女は植木鉢の間をくぐって、いま一方の側へ出た。そして頭を垂れながら立ち止まった。
「ナターシャ、」とボリースは言った。「あなたも知ってるでしょう、僕はあなたを愛しています。けれど……」
「あなた、あたしに恋してて?」とナターシャがさえぎる。
「ええ、恋してます。けれどね、どうか今……のような事はしないで……もう四年……そのときは僕あなたに結婚を申込みますから。」
 ナターシャはちょっと考えて、
「十三、十四、十五、十六……」と細い指を折って勘定しながら、「いいわ、それでおしまいなんでしょう?」
 歓喜と安心のほほ笑みがそのいきいきした顔を照らした。
「おしまいです。」とボリースが言った。
「いつまでも?」とナターシヤが言った。「死ぬまでも?」
 こうして彼女は男の手をとり、幸福に顔を輝かしながら、ふたりならんで静かに長椅子部屋へ行った。
       一四
 伯爵夫人は訪問客のために疲れきったので、もう誰にも面会せぬ旨を言い渡し、ただお祝いに来た人は必ず晩餐に招待するようにと、玄関番に命じた。伯爵夫人は幼な友達のドルベツカーヤ公爵夫人と、二人きりさし向かいで話したかった。彼女は公爵夫人がペテルブルグから帰って以来、ろくろく顔も見なかったのである。アンナ・ミハイロヴナは例の涙っぽい、けれども気持のいい顔をして、伯爵夫人の安楽椅子に近々と寄りそった。
「わたし何もかもあんたに打ち明けてしまいます。」とドルベツカーヤ夫人は言った。「もうわたしたもの古いお友達は少くなってしまいましたねえ! それだから、伺更わたしはあんためご親切を有難く思うんですよ。」
 こう言ってドルベツカーヤ夫人は、ヴェーフの顔を見ると言業を切った。伯爵夫人は友の手を握りしめた。
「ヴェーラ、」見受けたところ、あまり気に入りでなさそうな長女の方を向いて、伯爵夫人はこう言った。「どうしてお前は何につけても考えがないのだろうね? お前がここにいたって邪魔になるばかりだのに、それに気がつかないんですか? 妹のとこへ行くか、それとも……」
 美しいヴェーラは一向侮辱を感じたらしい様子もなく、嘲るように微笑した。
「もっと早くお母さまがそう言って下すったら、あたしすぐ出で行きましだのに。」こう答えて、自分の部屋の方へひきとった。
 けれども、長椅子部屋のそばを通りかかったとき、その中で二つの窓のそばに対偶的に腰かけた二組の少年少女に気がついた。ヴェーラは立ち止まって蔑むように薄笑いした。ソーニャぱニコライのそば近く坐っていた。ニコライは自分が初めて作った詩を、彼女のために書いてやっているところであった。ボリースとナターシャは別の窓の下に坐っていたが、ヴェーラが入ると急に黙ってしまった。ソーニャとナターシャは悪いことでもした者のような、しかし、幸福らしい顔をしてヴェーラを見上げた。
 これらの恋する少女達を見ていると、楽しい感激を覚えるものである。けれども、ヴェーラの心には彼等の様子が、あまり快い感じを呼び起さなかったらしい。
「あたし何度そう言ったか知れませんよ、」と彼女が言った。
「あたしの物を使っちゃいけないって。あんた方には自分の部屋があるじゃありませんか。」
 こう言って彼女はニコライからインキ壺を奪った。
「今すぐ、今すぐ。」と彼はペンを突っこみながら言った。
「あんた方は何でも突拍子な事をするのが十八番ねえ。」とヴェーフは言った。「客間へどたばた走って来たりなんかするものだから、みんなあんた方のために間の悪い思いをしましたよ。」
 彼女の言った事が一々もっともであったにもかかわらず、いや、もっともであったためかも知れないが、誰も彼女に返辞しないで、四人ともただ互に目くばせするのみであった。ヴェーラは手にインキ壺を持つたまま、部屋の中にいつまでもぐずぐずしていた。
「それにあんた方の年頃で、一たいどんな秘密があるんでしょう――ボリースとナターシャだってそうだわ。みんなつまらない馬鹿馬鹿しい事よ!」
「それが姉さんにとってどうしたというの、ヴェーラ?」とナターシャは小さな声で弁護するように言った。この日、彼女は常にも増して、すべての人に親切で優しくなったように思われた。
「本当に馬鹿馬鹿しい。」とヴェーラは言った。「あたしあんた方のためにきまりが悪くなるわ。秘密って一たい何ですの?……」
「人は誰だってめいめい秘密があってよ。あたし達も姉さんとベルグさんの事なんかに、おせっかいをしませんからね。」とナターシャは熱くなって言った。
「あたしもそう思うわ、おせっかいなんか出来ないでしょう。」とヴェーフは答えた。「なぜって、あたしのする事には、何一つ悪い所なんかある筈がないんですもの。あたしはお母さまに言いつけてあげるわ。あんたがボリースとどんな付き合い方をしてるか……」
「ナターリヤ・イリーニチナ ナターシャの正式の呼方 のは僕に対して、立派な付き合い方をしていらっしゃいますよ。」とボリースが言った。「僕すこしも不平なんかありません。」
「およしなさいな、ボリース、あんたは本当に外交家ねえ(外交家という言葉は当時の子供達の間に、一種特別な意味をつけられて大流行であった)。いやんなるわ。」とナターシヤは侮辱されたようなふるえ声で言った。「何だって姉さんはうるさくあたしをつけ廻すんでしょう! 姉さん、これはどうしたってあんたにわかりっこないわ。」彼女はヴェーラに向かってこう言った。「なぜって、あんたは今まで一度も人を愛した事がないからよ、あんたには情ってものがないんだわ。あんたはマダム・ド・ジャンリよ(これはニコライがヴェーラに与えた綽名で、非常に侮辱的なものとされていた)。あんたは人にいやな思いをさせるのが一等だのしみなのよ。姉さんは勝手にいくらでもベルグさんの御機嫌をとったらいいわ。」と彼女は早口に言う。
「でもね、あたしはお客様の前で、若い男の人をおっかけ廻すような事はしませんからね……」
「とうとうお望み通りになったね。」とニコライが口を入れた。
「みんなにいやな事ばかり言って、すっかりお座をさましちゃ った。さあ子供部屋へ行こうじゃないか。」
 四人の者は物に驚いた小鳥のように、立ち上って部屋を出て行った。
「あたしがいやな事を言われただけで、あたしは誰にも何も言やしないわ。」とヴェーラは答えた。
「マダム・ド・ジャンリ! マダム・ド・ジャンリ!」と笑いながら囃し立てる声が戸の外から聞えた。
 一同をいら立たしい不快な心持にしてしまったヴェーラは、見受けたところ、今あんな事が言われたからとて格別気色を損じた様子もなく、姿見に近づいて襟巻と髪をなおした。自分の美しい顔を眺めている彼女は、一層ひややかに落着いて来たようである。
     ――――――――
 客間では会話が続いた。 「Ah, chere.」と伯爵夫人は言った。「わたしの生涯でもtout n’est pas rose. 何もかもがバラの花ではありません。 わたしもよくわかっていますヽ今のような暮らしのしかたでは、家の財産も長くは保ちません! それもこれもあのクラブと、良人の人のいいためです。田舎に引っこんでも、ちっとも骨休めにはなりゃしません! やれ芝居だ、やれ猟だのって、それはまあ大変なんですもの。
 だけど、わたしの事なんか言ったって仕方かない! 一たいあんたはどうして、すっかりあんなふうにこしらえ上げたんですの? わたしはよくあんたのやり口を見て感心するんですよ、アンネット。どうしてあんたはその年になって、やれモスクワ、やれペテルブルグと飛び歩きながら、大臣やそのほかの有名な人達のとこへ出かけて、いろんな人に応対することが出来るんでしょう、全く驚きますね! え、どうしてああ巧く行ったんですの? わたしなぞはとてもあんなことは出来やしない。」
「いいえね、あんた、」とドルベツカーヤ夫人は答えた。「あんたにだけはどうかしてそんな思いをさせたくないものですよ。全く眼に入れても痛くないほど愛している一人息子を連れて、何の頼りもない寡婦《やもめ》ぐらしをするのは、どんなに苦しいことでしょう。自然どんな事でも習い覚えてしまいます。」いくぶん誇りを感じながら公爵夫人は語を続けた。「経験がいろんな事を教えてくれたんですの。もし今の大頭株といわれるような人達に会わなければならない用事が出来たら、わたしは『princesse une telle 何々と申す一公爵夫人 某様《なんいがしさま》に御面談致し度く』といったような手紙を書いて、辻馬車を傭って自分で二度でも三度でも四度でも、望みを遂げるまでは何度でも押しかけて行きます。人が何と思おうとかまやしません。」
「だけどあんたはどうして、誰にボリースのことを頼んだんですの?」と伯爵夫人かたずねた。「あんたの息子さんはもう近衛将校だのに、ニコールシカは見習士官で出て行くんですよ。だって誰も運動する人がないんですもの。あんたは誰に頼んだんですの?」
「ヴァシーリイ公爵ですよ。あの方が大へん親切にして下すってねえ。すぐにすっかり二つ返事で、陛下に上奏して下すったんでしてね。」と公爵夫人は憂いを含ませながら声をひそめた。ければならなかったかを忘れてしまって、ドルベツカーヤ公爵夫人は歓喜にあまる声でそう言った。
「どんなですの、ヴァシーリイ公爵は、年を取りましたか?」と伯爵夫人はきいた。「わたしはもうルミャンツェフさんとこのお芝居以来、あの方にお目にかからないんですよ。多分わたしのことも忘れてらっしゃるでしょうね。Il me faisait la cour. あの方はひと頃わたしの後を追い廻したもんです。」と伯爵夫人に昔を想い出してほほ笑んだ。
「やっぱり昔のままですよ。」とドルベッカーヤ夫人は答えた。
「みんなに愛嬌をふりまいています。Les grandeurs ne lui ont pas tourney la tete du tout. 名誉な地位もあの人を逆上させなかったようですよ。『公爵夫人、あなたのために、まことに軽少なお務めしか出来ないのを、非常に残念に存じますが、しかし、何でもおっしゃって下さい。』とこんなに言われるんですの。いいえ、あの方はまったく立派な親切な方ですよ。けれどねえ、ナタリイ、わたしがどんなにボリースを愛してるか、あんたよく知ってて下さるでしょう。わたしはあの子の幸福のためには、どんな事だってしてやりたいんですけれどねえ、わたしの境涯はまったくひどいんでしてね。」と公爵夫人は憂を含ませながら声をひそめた。「まったくひどいんでしてね、わたしは本当に恐ろしい羽目に落ちてるんですの。こうした不仕合わせな身の上のおかげで、持っていた物をすっかりすりへらしてしまって、もう二進も三進もゆかないんです。こんな事を言っても、あんたは本当にしないでしょうけれど、わたしの手許には a la lettre 十コペイカのお銭《あし》もないんですよ。わたしはどうしてボリースの支度をしてやったらいいのか……(と彼女はハンカチを出して泣含はじめた。)わたしどうしても五百ルーブリのお金が入り用なのに、いま二十五ルーブリ札がたった一枚しかないんですめ、わたしの境遇はこんななのですよ……今のところ、たった一つの望みはキリール・ヴラジーミロヴィッチ・ベズーホフ伯爵だけです。もしあの方が自分の名づけ子を助けてやろう――。だってあの力がボーリヤの洗礼をして下すったんですものね――あの子の補助費として何ほどか残してやろう、というお気がなかったら、わたしの心配も無駄になってしまいます。わたし『はあの子の軍装をしてやるお銭もない事になります。』
 伯爵夫人は涙ぐみ、無言のまま何やら思いめぐらしていた。
「こんなこと罪かも知れませんけれど、わたししょっちゅう考、えますの、」と公爵夫人は言った。「あのベズーホフ伯爵はたった 一人身のお暮らしなのに……ああいう莫大な財産を持っていらっしゃる……まあ、一たいなんのために生きてらっしゃるんだろう? あの方にとって生きるという事は苦しみだが、ボーリヤはこれから生活を始めようという体だから……などとねえ。」
「あの方はきっとボリースに何かお残しなさるでしょう。」と伯爵夫人が言う。
「さあ、どうですかね、chere amie! 親愛なる友よ! 全体、金持だの貴族だのってものは、恐ろしい利己主義ですからねえ。だけど、わたしはこれからボリースを連れて行って、真直ぐにこうこうだと打ち明けます。わたしの事なんぞ勝手に何とでも考えさしておきましょう。これで息子の運がきまるんですもの。(と公爵夫人は立上った。)いま二時ですね、四時には御飯でしょうから、それまでに帰って来ます。」
 時間を利用するに巧みなペテルブルグの実際的な婦人の態度で、ドルベッカーヤ公爵夫人は息子を呼びにやり、二人づれで控え室へ出た。
「じゃ、行って来ますよ。」と彼女は、戸口まで見送りに出た伯爵夫人に言った。「わたしの成功を祈って下さいな。」と息子をはばかるように小声で言いたすのであった。
「あなたベズーホフ伯爵の所へいらっしゃるんですか?」同じく控え室へ出ようとして、伯爵は食堂から声をかけた。「もし伯爵の容体がいいようだったら、ピエールさんを晩萓に呼んで下さい。あの人も以前よく家へ遊びに来て、子供らと舞踏なんかしたもんですよ。ぜひ呼んで下さい。一つ見て見ましょう、今夜、タラス 料理人 がどんな立派な腕を振うかね。あれの言いぐさだと、オルロフ伯爵のとこでも今夜うちで出るような料理は、今まで一度もなかったそうですよ。」
       一五
「ねえ、ボリース、」二人を乗せたロストフ伯爵夫人の馬車が、轍の響を消すために藁を敷きつめた町を通り抜け、ベズーホフ伯爵家の広い邸内に入った時、ドルペツカーヤ夫人は息子に言った。「ねえ、ボリース、」と母は古い外套の下から手をのばして、息子の手の上に置きながら、「どうかなるべく愛想よく、そして、万事に気をつけておくれな。キリール・ヴラジーミロヴィッチ伯爵は、何と言ってもお前の名付親なんだから、お前の将来の運はあの方ひとつでどうともきまるんですよ。よくそれを覚えててね、mon chere, できるだけ愛想よくしておくれ。」
「こんなことをして……屈辱以外に何か得るものがあるとしたらね……」と息子は冷やかに答えた。「しかし、僕は約束をしたんだから、お母さんのためにまげてその通りにします。」
 誰かの馬車が車寄せに止まったのはわかっているくせに、玄関番は親子の様子を見て(二人は取次も頼まず、両側の壁龕《へきがん》にすえてある彫像の列の間を通って、真直ぐにガラスばりの玄関へ入ったのである)、意味ありげに夫人の古ぼけた外套を眺めながら、令嬢か、伯爵か、どちらに会いたいのかとたずねた。伯爵に会いたいと聞くと、閣下はいま容体が悪くて誰にも面会なさらぬよしを告げた。
「じゃ僕等は帰ってもいいでしょう。」と息子はフランス語で言った。
「Mon ami! これ、お前!」と母は祈るように言って息子の手にさわった、まるでこれ一つが彼をなだめなり興奮さしたりする力を持っているかのように。 ボリースは口をつぐんだ。そして、外套を脱ごうともせず、いぶかしげに母の顔を眺めた。
「ねえ、お前さん、」とドルペツカーヤ夫人は、玄関番に向かって優しい声で言った。「伯爵が御重態だという事はわたしも知っています、わたしが来たのもそのためなんだから……わたしは親族のものですよ……決して御迷惑なんかかけやしません……わたしはただクラーギソ公爵にお目にかかりたいんでね、公爵はここに御逗留なんだろう。どうかちょっと取りついで頂戴。」
 玄関番は仏頂面をして、二階に通ずる紐を引きながら、くるりと背中を向けた。
「ドルベツカーヤ公爵夫人がヴァシーリイ公爵にご面会。」二階から駈けおりて、階段の突き出た所から顔を覗けた取りつぎに向かって、彼はこう叫んだ。取りつぎは長い靴下に短靴をはき、燕尾服を着込んでいた。
 母は染めなおした着物の襞をなおし、壁にはめこんである一枚ガラスのヴェネチア式姿見をちょっと眺めて、踵のへった靴で階段の毛氈を踏みながら、おめず臆せず二階へ上って行った。
「Mon cher, vous m’avez promis. ね、ボリース、お前はわたしに約束したんですよ。」また興奮さすようにちょっと息子の手にさわりながら、彼女はそう言った。
 息子は伏目がちにおとなしく母にしたがった。
 二人はとある広間に入った。そこからは一つの扉を通じて、ヴァシーリイ公爵にあてがわれた室へ行かれるようになっていた。
 親子が部屋の真ん中へ進んで、折ふし二人が入ると同時に駈け出して来た老僕に、道をきこうと思っているとたん、とある扉の青銅のハンドルがくるりと廻って、ビロードの外套に勲章を一つだけつけた不断着のヴァシーリイ公爵が、髪の黒い美男子を見送って出て來だ。この人はペテルブルグで有名なフラン
スの医師ロルランである。 「C‘est donc positif ? そんなら、それはもう確かですね?」と公爵が言った。
「Moxl prince/!errare humanum est”s ma19……公爵、『間違いは人間につきもの』ですからね、しかし……」と医師はerrare云々のラテン語を自国のフランス風に発音しながら答えた。
「C’est bien, C’est bien……いや、よろしい、よろしい……」
 ドルベッカーヤ夫人親子が目に入ると、ヴァシーリイ公爵は医師に別れの会釈をして、無言のままいぶかしげに二人の方へ近寄った。息子はふいに母の限の中に、深い悲しみの色が現われたのに気づき、ちょっと微笑した。
「本当にとんだ悲しい時に、お目にかかるような廻り合わせになりましたねえ、公爵……それで、あのご病人のご容体は如何でございますか?」公爵が冷たい馬鹿にした眼付きで自分を見すえているのには気づかぬ顔をしながら、夫人はこう言った。
 ヴァシーリイ公爵は不審そうな、合点が行かぬと言った様子をして夫人を見つめた後、さてボリースに視線を転じた。ボリースはうやうやしく会釈したが、ヴァシーリイ公爵はその会釈に答えないで、ドルペツカーヤ公爵夫人の方へふり向いた。そして、彼女の問いに対して、ちょっと頭と屏を動かし、病人の方はほとんど希望のないことを示した。
「おやまあ、そうでございますか?」とドルベツカーヤ夫人は叫んだ。「まあ何という悲しいことでございましょう! 考えるのも恐ろしいほどでございます……時に、これはわたくしの怦でございますか、」と彼女はボリースを指さしながらつけたした。「あなたにじきじきお礼を申し上げたいと言いますので。」
 ボリースはいま一度うやうやしく会釈した。
「全くでございますよ。あなたがわたくし共のためにつくして下さいました事は、わたくし母として決して忘れはいたしません。」
「私もあなたをお悦ばせすることができて、大変うれしいです、アンナ・ミハイロヴナ。」とヴァシーリイ公認は胸に堆《うず》高く盛り上っているネクタイをなおしながら言った。ペテルブルグのアンナ・シェーレルの夜会の時から見ると、このモスクワで自分の保護しているドルベツカーヤ夫人を一人だけ前においた今の彼は、身ぶりにも声にもはるかにものものしい勿体ぶった様子を示していた。
「まあ、努力して勤務をはげみ、鴻恩にそむかないようになさい。」と彼はボリースに向かって厳かにつけ加えた。「私も大変うれしい……君は今ここで休暇を貰っているんですか?」と持ち前の気の無い調子で言った。
「命令を待って新しい任地へ出発するつもりでいます、閣下。」公認のとげとげしい調子に対する憤懣も、しいて『閣下』と言葉を交えたいという希望の色も見せず、ただ落着き払ってうやうやしくボリースが答えたので、公爵はじっと彼を見つめた。
「君はお母さんと二人暮らしですか?」
「私はロストフ伯爵夫人のところにいます、」と言って、彼はまた「閣下。」とつけたした。
「あのナタリヤ・シンシナと結婚したイリヤー・ロストフでございます。」とドルペツカーヤ夫人は言った。
「知ってます、知ってます。」とヴァシーリイ公爵は例の一本調子な声で言った。「私はどうしてもわかりませんよ、どうしてナタリヤさんはあんなours mal-leche 汚らしい熊のような男 と結婚したんでしょう! Un personage completement stupide et ridicule. 本当に間のぬけた滑稽な男ですよ。 それに、博奕打だという話ですな。」
「Mais tres brave homme, mon prince. けれど、大変いい人ですよ。公爵。」悲しげにほほ笑みながらドルベツカーヤ夫人は言った。それは丁度『ロストフ伯爵はそういう批評をされても仕方がありませんが、まあ気の毒な老人ですよ、ゆるして上げて下さい。』と願うような工合であった。「お医者さまは何とおっしゃいますか?」暫く無言の後、公爵夫人はこうたずねた。すると、またしてもその泣き出しそうな顔に、深い悲しみの色が現われた。
「ほとんど望みはありませんね。」と公爵。
「わたくしはいま一度伯父さまにお礼が申したいのでございます。わたくしもボーリャも色々お世話にたりましたから。C‘est son filleuil. あの方はこの子の名付親でございます。」と彼女は言いたした。まるでこめ事実がとてつもなくヴァシーリイ公爵を悦ばすに相違ない、と信じ切っているような調子で。
 ヴァシーリイ公爵は顔をしかめて考えこんだ。彼が自分をベズーホフ伯爵の遺言に関する競争者として恐れているのを見てとったので、ドルベツカーヤ夫人は急いで相手を安心させにかかった。
「もしわたくしが真底から伯父さまを愛しもし尊敬もしていませんでしたら、こんな事を申しはいたしません。」と彼女は特殊な自信があるらしく、無造作にこの『伯父さま』という言葉を発音した。「わたくしはあの方のご気性をのみこんでいます。あの方は立派な、しっかりした方でございますが、でも、いま伯父さまにおつきしていらっしゃるのは、姪御さん達ばかりでございましょう……あの方たちは何分まだお年が若うございますからね……」と彼女は首をかたむけて小声につけたした。
「ねえ公爵、伯父さまはあの最後の義務をお果たしになりましたでしょうか? この最後の時はまことに大事なものでございましてねえ! もしそんなにご容体がお悪いのでしたら、それより悪い事はございますまいけれど、ぜひ万一の用意だけはおさせ申さなければなりません。わたくしたち女と申すものは(と彼女はいとも優しい微笑を浮かべた)、そんなふうのお話のしかたをいつでもよく存じているのでございますよ、公爵。わたくし伯父さまにぜひお目にかからなければなりません。それはわたくしにとって随分くるしいことではございますが、もうわたくしは苦しみになれてしまいましたから……」
 公言はアンナ・シェーレルの夜会で感じたと同様に、ここでもこのドルベツカーヤ夫人をふり離すのはむずかしいと感じたらしかった。
「アンナ・ミハイロヴナ、いま面会なさるのは伯父にとって苦しくはありますまいか。」と彼は言った。「いっそ晩まで待とうじゃありませんか。医者達もその頃が危いと言いましたから。」
「ですけれど、公言、今こういう時にぺんぺんと待つわけに参りません。まあ考えても御覧なさいまし、il y va du salut de son ame……Ah! c’est terrible. いま伯父さまの霊魂が救われるか救われないかという場合でございますよ。ああ、本当に恐ろしい。 これはキリスト教徒の義務ですものね。」
 と、内側の方から扉が開いて、伯爵の姪に当る令嬢の一人が入って来た。気むずかしげな冷たい頬、足にくらべてつり合いの取れぬほど恐ろしく長い胴。
 ヴァシーリイ公爵はその方をふり向いた。
「どうですか、伯爵は?」
「やはり同じでございますよ。ですが、まあ一たいあなた方はどういうおつもりでございますの、あんなに騒々しく……」令嬢は見なれぬ女だという様子をして、ドルベツカーヤ夫人を尻目に掛けながら言った。
「ああ、ついお見それしました。」とドルベツカーヤ夫人はさも幸福らしい微笑を浮かべつつ、軽々と伯爵の姪の方へ駈け寄った。「わたくしは伯父さまのご看病をお手伝いに上りました。さぞご心配でございましょうね。お察し申します。」同情に堪えぬと言ったふうに眼をつりあげながら、彼女はつけたした。
 令嬢はなんにも答えず、にこりともしないで出て行った。ドルベツカーヤ夫人は手袋をとると、占領した陣地を動かないで安楽椅子に席を取り、ヴァシーリイ公爵に自分のそばへ腰をかけるようにすすめた。
「ボリース!」と彼女は息子を呼びかけてほほ笑んだ。「わたしは伯爵、伯父さまのところへ行くから、お前は暫くピエールさんのお部屋へいっておいで。そしてロストフ家の招待を言い忘れてはいけませんよ。ロストフ家からあの方を晩餐に招待しているのでございますが、多分あの方はお見えにたりますまいねえ。」と彼女は公爵にきいた。
「いや、それどころではありません。」だいぶん不機嫌になったらしい公爵はこう言った。「Je serais tres content si vous me debarrassez de ce jeune homme. あなたがあの男を連れてって下されば、わたしも方が抜けて大助かりですよ。 あちらにいます。伯爵は一度もあれの事をたずねたことがありません。」
 と、彼は肩をすくめた。従僕はボリースを下へ連れておりると、今度はまた別な階段を昇って、ピョートル・キリーロヴィッチ ピエールの本名 の部屋へ案内した。
       一六
 ピエールは、ペテルブルグで立身の方法を講ずるいとまもなく、まこと、暴行のかどをもってモスクワへ退去を命ぜられたのである。ロストフ伯爵の客間で出た話は事実であった。ピエールは全く警官を熊にしばりつけた事件に連累していた。彼は二三日前この地へ到着して、いつもの如く父の家にはいった。彼はこの事件がモスクワ全市に知れわたり、つねづね彼を好まぬ周囲の婦人たちがこの機会を利用して父の心をいら立たせるに相違ないと予想していたものの、とにかく着いた日に父の居間へ出かけて見た。いつも従妹の公爵令嬢たちに占領されている客間へ入ると、早速そこに居合わした令嬢に挨拶した。令嬢は三人であった。そのうち二人は刺繍台に向かい、一人は本を読んでいた。一番の姉は奇麗な色艶をした、顔のいかつい、胴の長い、―例のドルベツカーヤ夫人の前へ出てきた令嬢であった。声を出して書物を読んでいたのはこの人である。二人の妹はどちらも血色のいい美しい令嬢であったが、互に恐ろしくよく似ているので、妹の唇の上にほくろがなかったら、ちょっと見わけがつかないくらいである。この二人は刺繍をしていた。ピエールはこれらの令嬢達に、まるで死人かペスト患者のように迎えられた。一番上の姉は読書の声をとぎらし、びっくりしたような眼付きで無言に彼を眺めた。ほくろのない妹も姉と同じ表情を浮かべた。ほくろのために一層うつくしく見える末の妹は、気性の賑かなおかしがりやなので、もう早速、滑稽な舞台面を予想したのであろう、思わず浮かんだ微笑をかくすために刺繍台の方へかがみこんでしまった。彼女は毛糸を下の方へ引っぱって、模様でも調べるような恰好をしてかがみながら、やっとの事で笑いを押しこらえた。
Bonjour, ma cousine. Vous ne me reconnaissez pas? 御機嫌よろしゅう、あなた僕がおわかりになりませんか?」とピエールが言った。
「あんまりよくわかり過ぎる位でございます、全くわかり過ぎますの。」
「伯爵のご病気はどうです? 僕お目にかかっていいでしょうか?」とたずねた。ピエールの調子は、いつもの通り無器用であったが、しかし、おどおどしたような所はなかった。
「伯爵は肉体的にも精神的にも苦しんでいらっしゃいます。そして、あなたは伯爵の精神的な苦しみを増すために、いろいろご心配くださいましたようですね。」
「僕、伯爵にお目にかかっていいでしょうか?」とピエールは重ねてきいた。
「そうですね! もしあなたが伯爵を殺すおつもりなら、すっかり殺してしまうおつもりでしたら、お逢いになっても宜しゅうございましょう。オリガ、伯父様に差上げるスープが出来ているかどうか、行って見てご覧なさい。もうじき時間ですよ。」と彼女は言いたした。それは自分たちが伯父を慰めるためにこれほど忙しくしているのに、ピエールはただ父を心配させる事にのみ忙しそうだということを、彼に思い知らせるためであった。
 オリガは出て行った。ピエールは二人の顔を見ながら、ちょっとの間立っていたが、やがて、会釈をして言った。
「僕それでは自分の部屋へ帰っています。逢えるようになったら、どうぞ知らせて下さい。」
 彼が外へ出ると、ほくろのある妹のよく響く、けれども余り高くない笑い声が後ろに聞えた。
 次の日にヴァシーリイ公爵がやって来て、伯爵邸に落着いた。彼はピエールを呼び寄せて言った。
「Mon cher, もし君がまたここでペテルブルグでやったような事をすれば、君の最後は非常によくないよ。私が言いたい事はこれきりだ。伯爵の病気は非常に重い。が、君は決して逢う訳には行かないよ。」
 それ以後、誰もピエールに構う人がなかった。彼は終日二階の居間でただぼんやり時を過した。
 ボリースが入ったとき、折柄ピエールは部屋の中を歩き廻っていた。ときどき隅の所へ来ると立ち止まって、まるで目に見えぬ敵を剣で刺すような、恐ろしい身振りを壁に向かって試みながら、眼鏡ごしに鋭く睨《ね》めつけた。それからまた訳のわからぬ事を言ったり、肩をすくめたり、両手をひろげたりしながらことこと歩きはじめるのであった。
「L‘Angleterre a vecu. イギリスはもう運の尽きだ。」彼は眉をひそめ何物かを指しながら言う。「ピットは国民および民権に対する裏切者として……その……宣告を受ける……」
 彼はこの時、自分がナポレオンとなって、危険なカレー海峡の横断に成功し、最早ロンドンをも占領したように空想しながら、これからピットに対する宣告を読み上げようとした刹那、入って来る一人の美しい、すらりとした若い将校が目に入った。彼は歩みをとめた。ピエールがモスクワを去ったのは、ボリースが十四歳の少年のときだったので、すっかり彼を見忘れていた。がそれにもかかわらず、彼は持ちまえのせっかちな嬉しそうな様子で、ボリースの手をとり親しげに微笑した。
「あなた僕を覚えていらっしゃいますか?」気持のいい微笑を浮かべつつ、ボリースは落着きはらってきいた。「僕は母と一しょに伯爵をお訪ねしましたが、伯爵はあまりおすぐれでないようですね。」
「そうです、すぐれないようです。みんなが心配ばかりさせるものですから。」引続きこの青年が誰であるか想い出そうと苦心しながら、ピエールはそう答えた。
 ボリースはピエールが自分を覚えていないのを感づいたが、名乗りを上げる必要もないと思って、いささかも当惑を感じる様子もなく、真直ぐに相手の眼を見つめていた。
「ロストフ伯爵が今晩あなたにおいでを願いたいとの事です。」ピエールにとってばつの悪い、かなり長い沈黙の後に彼はこう言った。
  *一七五九―一八〇六年、有名なイギリスの宰相。
「ああ! ロストフ伯爵!」とピエールは嬉しそうに叫んだ。
「じゃ、あなたはロストフ伯爵の息子さんですね、イリヤーさんですね。まあどうでしょう、僕は最初あなたに気がつかなかったのですよ。覚えてますか、よく僕たちはジャッコー夫人と一しょに、雀が丘へ遊びに行ったものじゃありませんか……ずっと以前に。」
「あなたは思い違いをしていらっしゃる。」大胆な、しかもいくぶん冷答的な微笑をふくみながら、ボリースは悠々として言った。「僕はボリースといって、ドルベツカーヤ公爵夫人の息子です。またロストフ家のお父さんはイリヤーで、息子さんの方はニコライと言います。そして僕、ジャッコー夫人というのは一向知りませんでした。」
 ピエールは、蚊か蜂でも襲いかかったみたいに、手や首をふり出した。
「ああ、これは何たる事だ! 僕は何もかもみんな一しょくたにしていたっけ、モスクワには沢山知人があるもんだから!で、君はボリースさんですね……やっと話がわかった。そこで、君はブロン遠征のことをどうお考えですか? もしナポレオンが海峡を渡ったら、英国は苦しい羽目になるでしょう? それに僕の考えでは、この遠征は極めてあり得べき事ですよ。ただヴィリネフがやりそこねさえしなければ!」
 ボリースはブロン遠征のことを知らなかった。彼は新聞を読んでいなかったのである。ヴィリネフという名前も今はじめて聞いた。
  *佛国カレー付逝の海辺の一州。
「われわれモスクワの人間は政治よりも、晩餐や世間話で忙しいのです。」彼は持ちまえの落着いた冷笑的な調子で言った。「僕はそんな事など知りもしなければ、考えてもおりません。モスクワは、何よりも一番陰口で忙しい所です。」と彼は話を続けた。「いま世間の人はあなたと伯爵のことを盛んに話しています。」
 ピエールは相手が後になって、我とわが言葉を後悔するようなことを言い出しはせぬかと、はらはらするような眼付きをしながら、例の人のよさそうな微笑を浮かべた。けれど、ボリースはひと言ひと言押し出すような、はっきりした、ぶっきらぼうな調子で、臆面なくピエールの眼を見つめて言葉を続けた。
「モスクワの人には陰口のほか仕事がないのです。一たい伯爵は誰に財産を譲るだろうと、みんなそればかり気にかけていましてね。そのくせ、もしかしたら伯爵は僕らの誰よりも、一ばん長生きされるかもしれないんですけれど。僕もまたそれを衷心から望んでいます。」
「そうですね、全くいやなこってす。」とピエールは受けた。
「全くいやなこってす。」
 ピエールは、この若い将校が自分自身にとって間の悪い話に落ちて行きはせぬかと、しきりにそれが心配になって来た。
「あなたはきっとそうお思いになるでしょう。」ボリースはちょっと赧くなったが、しかし、声も姿勢も変えずに言った。「あなたはきっとそうお思いになるでしょう、誰も彼もみんな金持から何か貰う事ばかり考えてるようにね。」
『案の定だ』とピエールは考えた。
「僕は誤解をさけるため、あなたに言っておきたい事があるんです。もしあなたが僕や僕の母を、そんな人間と同じようにお考えになったら、それは大変な間違いです。僕らは非常に貧乏です。しかし少くとも、自分の立場を明らかにするために言っておきますが、ほかでもありません、僕はただただあなたのお父さんが金持でいらっしゃるがために、自分を伯爵の親戚と考えたくないのです。僕にしても、また僕の母にしても、今後、無心なんかしませんし、たとえ何かやるとおっしゃっても、頂戴しないつもりです。」
 ピエールは長いこと合点が行かなかったが、やがて合点すると、いきなり長椅子から飛び上り、持ちまえのせっかちな無細工な恰好で、下からボリースの手を取った。そして、ボリースよりはるかに顔を赧くしながら、羞恥といまいましさとの一しょになった心持で言い出した。
「それはどうも奇妙ですな! 僕はただ……それに一たい誰がそんな事を考えるもんですか……僕はよく知っています……」
 が、ボリースはまたもや彼をさえぎった。
「僕すっかり言ってしまったので、非常に気持がいいです。多分あなたはご不快でしたろう? どうぞお許し下さい。」相手から慰められるべき立場にありながら、かえって相手を慰めるように彼は言い返した。「しかし何もあなたに失礼なこと言やしなかったでしょうね。僕なにもかもすっかり正直に打ちあける主義なんですから……ところで、帰ってから何とおことづけしましょう? あなたはロストフ家の晩餐にいらっしゃいますか?」
 ボリースは見受けるところ、苦しい義務を肩からおろして、間の悪い位置からぬけ出した上、かえって相手をその間の悪い位置に立たせたのを悦ぶらしく、またもや極めて気持のよい青年になった。
「いや、まあお聞きなさい。」とピエールは安心して言い出した。「あなたは全く驚歎すべき人だ。今あなたがおっしゃったのは大へん立派な事です、実に立派な事です。勿論、あなたは僕という人間をご存じないが……それも随分ながい間、子供の時分から会わなかったんですからね……あなたが僕の人物を想像して……いや、僕にはあなたの心持がわかります、よくわかりますよ。全く僕にはあんなこと出来ませんね。気力がないです。が、本当に立派な事でした。僕はあなたと知り合いになって非常に嬉しい。だが奇態ですね。」ちょっと無言でいた後、彼はほほ笑みながら言いたした。「あなたは僕の人物について、妙な想像をなさいましたね! (と彼は笑い出した。)いや、何でもありません。お互にもっとよく知り合いましょう。ねえ。」彼はボリースの手を握りしめた。「あなたは御承知ないでしょうが、僕はまだ一度も伯爵のところへ行った事がないんですよ。父は僕を呼ばないんです……僕は父を人間として気の毒に思います……だが、仕様もありません!」
「で、あなたはナポレオンが、巧く軍隊を渡峡させることが出来るとお考えですか?」ボリースはほほ笑みながらきいた。
 ボリースが話題を転じようとしているのをさとり、ピエールはそれに同意して、ブロン海峡渡航の利害を論じ始めた。
 従僕が来てボリースを母夫人の方へ呼び出した。公爵夫人はもはや帰り支度をしていたのである。ピエールはボリースとの交誼を温めるために、晩餐会へ出ることを約し、眼鏡ごしに優しく相手を眺めながら、かたくその手を握った。彼の去った後、ピエールはまた暫く部屋の中を歩き廻ったが、もはや剣をもって目に見えぬ敵を刺すのはやめ、あの美しく賢く、しかも堅実な青年のことを憶い出しては、ほほ笑んでいた。初期の青年時代には、殊に孤独な状態におかれた者にはよくある事だが、ピエールはこの若い将校にわけもないなつかしさを感じ、ぜひ彼と親しくしようと誓ったのである。
 ヴァシーリー公爵はドルベツカーヤ夫人を見送りに出た。夫人は眼の縁にハンカチを押しあてていた。彼女の顔は涙でぬれていた。
「恐ろしいことでございます、全く恐ろしいことでございます!」と彼女は言った。「けれど、わたくしどんな犠牲をはらっても、自分の義務を果たすつもりでございます。今夜わたくし泊りに参ります。あの方を今のままで打っちゃっておくわけに参りません。一分の時も大切でございますもの。なぜお嬢様がたがぐずぐずしていらっしゃるのか合点が参りません。もしかしたら、あの方にそれとなく覚悟をおさせ申す方法を、神様がわたくしに教えて下さるかも知れません!………Adieu, mon prince, que le bon Dieu vous soutienne. 左様なら、公爵、神様があなたを支えて下さるでしょう。」
「Adieu, ma bonne. 左様なら奥さん。」夫人に背中を向けながら、ヴァシーリイ公爵は答えた。
「本当にあの方は恐ろしい容体ですよ。」再び親子が馬車に乗った時、公爵夫人は息子に話しかけた。「もう大方だれの顔も見わけかつかないんだからね。」
「僕ちっともわからないんですよ、お母さん、伯爵とピエールさんの関係はどういうんです?」と息子がたずねた。
「みんな遺言状が知らしてくれます。その遺言状でわたし達の運も決まるんですよ。」
「だけど、なぜお母さんはそんな事を考えるんです、伯爵が僕らに何か残してくれるだろうなんて?」
「まあ、お前なにを言うの! あの方はあんなお金持だのに、わたし達はこういう貧乏人じゃありませんか!」
「だが、それでは理由が不充分ですよ、お母さん……」
「ああ、本当にどうしよう! どうしよう! あの方の病気の重いこと!」と母は叫んだ。
       一七
 ドルベツカーヤ夫人が息子と一しょに、ベズーホフ伯爵のもとへ出かけた後、ロストフ伯爵夫人はハンカチを瞼に押しあてたまま、長い間一人で坐っていた。ついに彼女は呼びリンをならした。
「あなた、どうしたんですか、」と暫く待たされた伯爵夫人は、入り来る小間使を腹立たしげにきめつけた。「一たい奉公するのがいやなんですか、え? それなら、わたしがあなたに他の口を見つけて上げますよ。」
 伯爵夫人は友の悲しみと零落に心をかきみだされて、恐ろしく機嫌が悪かった。それはいつも、小間使を『あなた』と呼ぶので、すぐわかるのであった。
「まことに悪うございました。」と小間使は言った。
「ちょっと伯爵においでを願っておくれ。」
 伯爵は体をゆするようにしながら、妻のそばへやって来た、いつものくせで何か悪い事でもしたような顔付きをしている。
「ねえ、奥さん! 蝦夷山鳥《えぞやまどり》のソーテー・オー・マデールが実によく出来たよ、マ・シェール! 私はちょっと味ききをして見たが、タラスに千ルーブリの年俸を決めてやったのも、決して無駄ではなかったよ。たしかに値打ちがある!」
 彼は妻のそばに坐って、若い者のするように両肘を膝につき、胡麻塩の髪を指でかき廻すのであった。
「何の用だね、奥さん!」
「実はねえ、あなた――おや、あなた何でここんとこをおよごしなすったの?」と夫人は良人のチョッキを指さしながら言った。「これはきっと軟肉料理《ソーテー》でしょう。」と彼女はほほ笑みながらつけたした。「実はね、あなた、わたしお金がいるんですの。」
 彼女の顔は悲しそうになった。
「ああ、そうか!………」と伯爵は急にあわてながら紙入れをとり出した。
「沢山いるんですよ、あなた、五百ルーブリいるんですの。」
 そう言いながら、彼女は麻のハンカチをとり出して、良人のチョッキを拭いてやった。
「すぐ上げる、すぐ上げる。おうい、誰かそこにおらんか?」
  *マデール産の葡萄酒につけた軟肉。
と彼は叫んだ。それはまるで自分が一口呼んだら、呼ばれた者は必ずまっしぐらに駈けつけるに相違ない、と固く信じている人の叫び声であった。「おれのところヘミーチェンカをよこしてくれ!」
 かの貴族の生まれで幼少から伯爵家に育てられ、今はこの家の事務を支配しているミーチェンカが静かな足どりで部屋へはいって来た。
「実はね、君、」うやうやしく入って来る青年に向かって、伯爵はこう言った。「君に少し金を持って来て貰いたいんだ…… (と伯爵は考えこんだ。)そう、七百ルーブリ、そうだ。それからよく気をつけてな、いつかのような破けたのや汚れたのでなしに、奇麗なのを持って来い、奥さんに上げるんだから。」
「そうです、ねえ、ミーチェンカ、どうか奇麗なのをね。」物思わしげに吐息をつきながら伯爵夫人は言う。
「御前、いつお届け申したら宜しゅうございましょうか?」と ミーチェンカが言った。「ご承知の通りその……いや、しかし、 ご心配にはおよびません。」伯爵が重々しくせかせかと息をつ きはじめたのに気がついて(それはいつも腹を立てる時の前兆 である)、彼は急いでこう言いたした。「わたくし、ついうっか り失念いたしまして……ただ今お届け申しましょうか?」
「そうだとも、そうだとも、すぐ持って来い、そして奥さんにお渡ししろ。」
「あのミーチェンカは家のたからものだよ。」青年が立ち去った時、伯爵は微笑しながら言った。「あの男にまかせたらできないという事はない。私は出来ないなんて事が大きらいでね、何でも出来なくちゃいかんよ。」
「ああ、ほんとにお金ですね、あなた、お金ですね、このお金のために、どれだけ世の中に悲しい事が起ることでしょう!」と伯爵夫人が言った。「でも、そのお金はどうしてもいりますのよ。」
「お前は有名な消費者《つかいて》だからな。」と言って伯爵は妻の手に接吻し、また書斎へ帰っていった。
 ドルベツカーヤ公爵夫人がベズーホフ伯爵の許から帰って来た時、もう伯爵夫人は、そばの小卓の上にのせた、新しい紙幣で五百ルーブリの金を、ハンカチの下に隠して、待っていた。ドルベツカーヤ夫人は、伯爵夫人が何やらそわそわしているのに気づいた。
「で、あんた、どうした?」と伯爵夫人がたずねた。
「まあね、大へん容体か重いんですよ! すっかり見違えてしまいました。そりゃお悪いんですの、全くお悪い事といったら。わたしほんのちょっと伺っただけで、ひと口も話し掛けるわけに行きませんでした。」
「アンネット、後生だから辞退しないで頂戴。」と伯爵夫人はふいに赧くなって言った。その様子がもうあまり若くないやせたものものしい顔に比べて、奇妙な対照をしていた。彼女はハンカチの下から金をとり出した。
 ドルベツカーヤ夫人は何事であるかを察し、早くも背をかがめて、必要な瞬間に相手を抱きしめる用意をした。
「これはわたしからボリースに……軍服を縫わせる足しまえにね。」
 ドルベツカーヤ夫人はもう彼女を抱いて泣いていた。伯爵夫人も同様に泣き出した。二人は自分達が互に仲よしで親切なことを思って泣いた。また二人は自分たち幼馴染みの友達が、このような金などといういやしいものに心を悩ましている事や、また自分たち二人の青春が過ぎ去った事などを思って泣いたのである。しかし、彼等の涙は快い涙であった。
       一八
 ロストフ伯爵夫人は娘達をつれて、大勢の客と一しょに客間に坐っていた。伯爵は男客を自分の書斎へ誘って、つれづれ好んであつめているトルコ・パイプをならべて見せた。ときおり彼は客間へ出て、「まだお見えにならんか?」ときいた。彼は社交界で le terrible dragon 恐ろしい竜 と綽名《あだな》を唱われている、マリヤ・ドミートリエヴナ・アフロシーモヴァを待っているのであった。この人は財産や名誉などでなく、一徹な気象と無遠慮なかざりのない態度で聞えていた。マリヤ・ドミートリエヴナの名は皇族の間にもしれているし、モスクワ、ペテルブルグじゅうにも知れわたっていた。両首都では内々彼女の粗暴を嘲わらい、その言行を驚きをもって語り伝えていたものの、それでもやはり世間では一人の例外もなく、彼女を尊敬し恐れた。
 煙草の烟のみちみちた書斎では、詔勅をもって宣せられた戦争と召集の話が栄えていた。詔勅はまだ誰も読んだ者がないけれど、発表になった事はみんな知っていた。伯爵は煙草をくゆらせかつ談じている二人の客にはさまれて、円榻《オットマン》に坐っていた。伯爵自身は煙草ものまねば話もしなかったが、首を左右にかわるがわる傾けながら、如何にも満足そうに、煙草をのんでいる客の様子を眺め、自分でけしかけてはじめさせた二人の話を聞いていた。
 話し合っている客のうち一人は文官であった。皺の多い胆汁性のやせた顔は奇麗にそり上げられ、服装はさなからはいからな青年そこのけであったが、もはや老境に近い年恰好である。内輪の人のように両足を円榻にのせたまま、横ぐわえにした琥珀のパイプを口中へ深く入れて、ぐいぐいと煙草を吸いこんでは眼を細めていた。これは伯爵夫人の従兄にあたる老寡夫のシンシンで、モスクワの社交界で毒舌家の噂が高かった。彼はいま対坐している男と口をきくのを、特別のお慈悲だと考えているらしかった。いま一人は生きいきした血色のいい近衛将校で、顔の手入れも申分なく、髪も美しくかき上げ、上衣のボタンをきちんと掛けていたか、口の真中に琥珀のパイプをくわえて、ばら色の唇で軽く煙を吸いこみながら、今度はそれを小さなわにして美しい口から吹かしている。これはセミョーノフスキイ連隊の中尉ベルグといって、ボリースをつれて一しょに同じ連隊に出かけようという男であった。ナターシャが姉のヴェーラをつかまえて、お婿さんと言ってからかったのはこの男である。伯爵はこの二人の間に坐って注意ぶかく耳を傾けていた。大好きなボストン カルタ遊びの一種 の勝負をのけて、伯爵の何よりも愉快な仕事は、聴き手の位置に立つ事であった。殊にうまく話好きを二人|拉《らつ》して来た時などは、なおさらであった。
「時に、君どうです、mon tres honorable わが最も尊敬する アリフォンス・カールリッチ、」シンシンはロシア独特のくだけた言い廻しと、優雅なフランスの語句をないまぜながら(それが彼の話術の特色であった)、やや笑いをおびた調子でこう言った。「Vous comptez vous faire des rentes sur l’etat―君は隊の月給から定まった金でも積もうというお考えなんですか?」と同じ事を更にロシア語になおしながらたずねた。
「いいえ、ピョートル・ニコライッチ、僕はただ騎兵は歩兵にくらべて非常に歩が悪にい、という事をお話したかったのです。まあ、今の僕の状態を考えて見て下さい……」
 ペルグの話しぶりは頗る正確で、落着いて、慇懃であった。彼の話題はいつも自分一身のことに限られていた。自分に直接関係のないことが話題に上っている時は、彼は常に落着きはらって沈黙を守っている。しかもその場合、間の悪い心を自分にも感じなければ、他人にも感じさせず、幾時間でも続けて沈黙を守っていることができた。しかるに、一たん会話が彼一個の上に及ぶや、彼はすぐに長々と、いかにも満足そうに話しはじめるのであった。
「僕の状態を考えて見て下さい、ピョートル・ニコライッチ。もし僕が騎兵隊にいたら、四ヵ月に二百ルーブリより以上は貰えません、よしんば中尉になったとしてもですよ。ところで、しま僕は二百三十ルーブリもらっています。」と彼はシンシンと伯爵をかわるがわる眺めながら嬉しそうな愉快らしい微笑を浮かべて言った。それはまるで彼の成功は他人にとっても、常に主なる希望目的でなければならぬと信じて疑わないかのようである。
「それにですね、近衛へ移ってから、僕は多少目に立つ場所へ出たわけなのです。そして近衛歩兵の方では休暇もずっと多いのです。それからまた考えて見て下さい。僕が二百三十ルーブリの金でどうして暮らしを立ててるかおわかりになりますか?しかも、僕は多少貯金もしていれば、親父にも仕送りをしてるんですよ。」
「バランスがきまったのですね、Comme dit le proverbe, 諺にも云い通り、 ドイツ人は燧石《ひうちいし》から油を取るそうだからね。」口の隅から隅ヘパイプをくわえなおしながら、シンシンはこう言って、ちょっと伯爵に瞬きをして見せた。
 伯爵は大声にからからと笑った。ほかの人達もシンシンが何やら話しているのを見て、そばへ聞きにやってきた。ベルグは相手の冷笑的な、気のない調子にも気がつかず、自分が近衛へ移されたお陰で幼年学校時代の儕輩よりも一歩先に出たことや、戦争のとき中隊長が戦死したら、自分が中隊での古参将校としてたやすく中隊長になり得ることや、中隊でも人に好かれていることや、父が自分に満足していることなどを、長々と語りつづけた。ベルグはこういう話をしながら、すっかりいい気持になって、ほかの人にもそれぞれ自分自身の興味があるという事など、考えても見ないようなふうつきであった。しかし、彼の言うことはことごとく愛嬌があって、真面目で、罪がなく、その子供らしい利己主義の無邪気さは誰の目にも明瞭だったので、彼はとうとう聴き手の毒気をぬいてしまった。
「いや、君は騎兵でも、歩兵でも、どこへ行っても、もてますよ。これは私が予言しておきます。」とシンシンは軽く相手の肩をたたいて、円榻から足をおろしながらそう言った。
 ベルグは嬉しそうに微笑した。伯爵は立ち上って客間へ出た。客人たちもそれにつづいた。
      ――――――
 それは丁度あつまって来た客が、食事の招待を心待ちにして、長い会話も始めないけれど、決して食卓につくのを待ち遠がっていない事を見せるために、あっちこっち動き廻って黙りこまないのを義務と心得ている、晩餐会の前によくある一時であった。主人側の人達は戸口の方を眺めては、互に時々目くばせをする。この眼付きによって客人たちは、主人側が待っているのは何だろう、定刻におくれた大切な親族か、または用意の出来ない食物かと、そんな事を想像して見るのであった。
 ピエールは食事のすぐ前にやって来て、ゆきあたりばったりの安楽椅子に無器用そうな恰好で腰をかけたが、それは部屋の真中で一同の通り路の邪魔になった。伯爵夫人は彼に何か話させようと試みたが、彼は誰かさがし出そうとするように、無邪気な顔付きで、眼鏡ごしにあたりを見廻すのであった。そして、伯爵夫人の問に対してはごく簡単に返事した。彼ははたの者にとってはなはだ気づまりであったが、自分ではそれに気がつかなかった。例の熊に関する一件を知っている多くの客は、この大きなよくふとった、おとなしそうな男を珍しげにうち眺め、こんなものぐさそうなおとなしい男に、どうしてあんな乱暴なことができたかと不思議に思った。
「あなた近頃こちらへおいでになりましたか?」と伯爵夫人がたずねた。
「Oui, madame. そうです、奥さん。」と彼はあたりを見廻しながら答える。「あなた、良人にお会いになりました?」
「Non, madame. いいえ、奥さん。」彼は全く用のない時にほほ笑んだ。「あなたはつい近頃までパリーにいらしったそうですが、さぞ面白うございましょうね。」
「実に面白いです。」
 伯爵夫人はドルベツカーヤ夫人に目くばせした。こちらは、この青年の相手をしてくれと頼まれたのだとさとって、彼のそば近く坐りながら、父伯爵の話をはじめた。しかし、彼は伯爵夫人に向かった時と同じように、彼女に対しても極めて簡単な言葉で返事をした。客人達はめいめいお互に相手をしあっていた。
「ラズーモフスキイさん……あすこは愉快でございました……あなたは大変お奇麗でいらっしゃいます……アプラクシン伯爵夫人……」などという声々があっちでもこっちでも聞えた。伯爵夫人は立って広間の方へ行った。
「マリヤ・ドミートリエヴナでいらしゃいますか?」という夫人の声が広間から聞えた。
「その通り。」というがさがさした女の声が答えたが、それに続いてマリヤ・ドミートリエヴナが客間にはいって来た。
 令嬢たちばかりか夫人たちも、ずっと年配の人をのぞいて悉く立ち上った。マリヤ・ドミートリエヴナは五十ばかりの老婦人であったが、半白の頭を肥えた体の上に高くそらしながら客人達を見廻し、たくし上げるような手つきで、悠々とその広い袖をなおした。彼女はいつもロシア語で話をした。
「奥さんと子供さんに命名日のお祝いを申します。」と彼女は大きなふとい、あらゆる音響を圧倒するような声で言った。
「どうです、罪作りのお爺さん、」今度は自分の手を接吻する伯爵に向かって、「たぶんモスクワは退屈でしょうね? 犬を追う処がないから? しかしどうもいたし方がありませんやね、ああして子供達が大きくなって行くんだから……」と彼女は令嬢たちを指さした。「いやでもおうでも、お婿さんをさがさなくっちゃなりませんものねえ。」
「え、どうしました、うちのコサックさん(彼女はナターシャをこう呼んでいた)?」何の恐れげもなく嬉しそうに近寄って自分の手を接吻するナターシャを、優しくなでながら彼女は言った。「おてんばだってことは承知しているけれど、それでもわたしはこの子が好きさ。」
 彼女は大きな婦人袋《リジキュール》から梨形《なしがた》をした琥珀《こはく》の耳環を取り出して、命名日の悦びに真赤な顔を輝かしているナターシャに手わたしすると、すぐ彼女に背を向けてピエールに話しかけた。
「おお、おお! お前さん! こっちへおいでなさい。」彼女はわざと小さな細い声をして言った。「おいでなさいと言うのに、お前さん……」
 と彼女は恐ろしい顔付きをして、袖をまた高くたくし上げた。ピエールは無邪気な眼付きで、相手の顔を眼鏡ごしにうかがいながら近づいた。
「もっとお寄り、もっとお寄りなさい。わたし一人だけは、お前さんのお父さんに何かの機《おり》にあったときには、いつも思った通り向きつけに言って上げたものだが、お前さんに言って上げ
るのは神様のおいいつけです。」
 彼女はちょっと言葉を切った。人々は今のはただの前おきだと感じたので、これからどんな事を言い出すかと、待ちもうけながら黙っていた。
「結構ですよ……なんにも言うがものはありません! 結構な坊っちゃんです……お父さんは死ぬか生きるかと言う病気だのに、この人は熊に巡査を縛りつけてふざけ廻っている。恥ずかしいことですよ、お前さん、恥ずかしいことです! いっそ戦争にでも行った方がましだ。」
 彼女はまたくるりと向きをかえて、やっとの事で笑いを押しこらえている伯爵に手を差し出した。
「時に、どうです、もう食事をしては、そろそろ頃合らしいじゃありませんか?」とマリヤ・ドミートリエヴナはたずねた。
 伯爵とマリヤが先頭に立って進んだ。次に伯爵夫人が軽騎兵連隊長に伴われて行った。この人はニコライと一しょに、隊の後を迫って出掛けるはずになっている大切なお客様であった。ドルベツカーヤ公爵夫人はシンシンと一しょに、またベルグはヴェーラに手をさし出した。始終にこにこしているジューリイ・カラーギナは、ニコライと共に食卓へ進んだ。続いてその他の組が長くなって広間を練っていった。子供たちや家庭教師などは相手なしに、一人ずつ一同の後にしたがった。侍僕らが動きはじめ、椅子ががたがた鳴り、楽隊席で音楽の響が起り、来客はそれぞれ席についた。やがて伯爵家のお抱え楽隊の演奏はナイフとフォークの響、客人たちの話し声、侍僕らの静かな足音に代った。食卓の一方のはじには主人公の伯爵夫人、その右にはマリヤ・ドミートリエヴナ、左にはドルベツカーヤ公爵夫人その他の女客がいならんだ。いま一方のはじには伯爵、その左には軽騎兵大佐、右にシンシンその他の男客が席をとっていた。それから長い食卓の一方の側には、やや年長の青年男女――ヴェーラとベルグ、ピエールとボリースなどがならんで腰かけた。その反対の側には子供たちと家庭教師らがならんだ。
 伯爵は酒の瓶やガラス器や果物を盛った鉢のかげから、妻の顔とその水色リボンのついた室内帽子を眺めながら、せっせっと隣席の客たちに酒をついでいたが、その際、自分のさかずきのことも忘れはしなかった。伯爵夫人も同じく主婦としての義務を忘れず、パイナップルのかげから意味ありげな視線を良人に投げると、そのはげた頭と色の赤さが、胡麻塩の毛に対してくっきりと目立って見えた。女客の席では会話がなだらかに進んだが、男客の側では話し声が次第次第に高くなっていった。特に軽騎兵大佐は盛んに飲みかつ食ってだんだんと顔を赤くしながら大きな声でしゃべるので、とうとう伯爵が彼を他の客の模範と称したくらいである。ベルグはやさしい微笑を浮かべながら、愛は地上のものでなく天上の感情である、などとヴェーラと語りあった。ボリースは新しい友達のピエールに席上の客の名を教えながら、向きあって坐っているナターシャと時々顔を見合わせた。
 ピエールは自分にとって新しい顔を見廻しながら、あまり多く語らず、ただしきりに食べた。初め[#「初め」は底本では「切め」]。二色のスープを持って来た時 s la tortue 亀の料理 をえらんだのを手はじめに、魚饅頭や蝦夷山鳥にいたるまで、彼は一皿の料理も一種類の酒ものがさなかった。酒はナプキンに包んだ瓶に入れたのを、侍僕が大秘密でももらすように、そっと隣席の客の肩のかげからつき出して、「ドレイ・マデーラ」とか、「ヴェンゲル酒」とか「ラインワイン」とかそれぞれの名を言うのであった。彼はめいめいの食器の前に置いてある四つのガラスの盃(それには伯爵の頭文字を組合わせたのが入れてあった)の中、まず手にあたったのを一つとり上げて受けた。そして次第に快さそうな顔付きになって客を見廻しながら、満足げにそれを飲み干すのであった。ナターシャは彼の真向かいに坐っていたが、時々ボリースの方を眺めた。それは通常十三くらいの女の子が、初めて接吻し合った、恋しい少年を眺めるような眼付きであった。この眼付きはどうかすると、そのままピエールの方へ向けられた。すると彼はこの笑い上戸の、元気のいい娘の眼付きを見ているうちに、自分までが何故ともなく笑いたくなってくるのであった。
 ニコライはソーニャから遠くはなれて、ジューリイ・カラーギナのそばに坐っていた。が、またしても自然に出てくる例の微笑を浮かべながら、何やら話しあった。ソーニャは晴々しくほほ笑んでいたものの内心嫉妬に苦しめられているのはあきらかであった。彼女は赤くなったり蒼くなったりして、ニコライとジューリイの話に一心に耳を傾けていた。女の家庭教師は心配そうにあたりを見廻して、もし誰か子供たちに無礼なことでもしそうだったら、大いに抗議を申し出よう、と意気ごんでいるように見えた。ドイツ人の家庭教師は、後でくわしく故国の家人に書き送るために、食物や尾品《デセルト》や酒などの種類を、残らず覚えこもうとつとめた。で、侍僕らがナプキンに包んだ酒瓶を携えたまま、時々彼をぬきにして行き過ぎると、恐ろしく憤慨して眉をひそめたが、しかし、そんな酒なんぞ決して貰おうとは思わない、といった様子を見せようとつとめた。自分に酒が必要なのは、別に渇を癒したいためでも、またさもしい根性のためでもなく、ただ上品な好奇心のためだということを、誰ひとり了解してくれないのが、彼は口惜しかった。
       一九
 男客に占められたテーブルの一端では、おいおいと話がはずんで来た。大佐はすでに宣戦の詔勅がペテルブルグで発表された、そして一部は今日急使をもって、モスクワ総督の許へ送られたので、自分も親しくそれを読んでみた、ということなどを語っだ。
「何だっていまいましい、われわれはボナパルトなんかと戦争するんでしょう?」とシンシンが言った。「Il a deja rabattu le caquet a l’Autriche. 彼はもうオーストリーの高慢の鼻を折ってしましましたよ。こんどロシアの番が来なければいいですがねえ。」
 大佐はでっぷりした、背の高い、癇の強そうなドイツ人であったが、永く軍隊に務めて来た愛国主義者だということは、ありありと見えていた。彼はシンシンの言葉にむっとした。
「なぜちゅうて、それはあなた、」と彼はなまりだくさんの発音で言い出した。「それは皇帝がよくご存じです。陛下は詔勅にもそう言うておられるのです。朕は目下ロシアにせまれる危難を拱手《こうしゅ》して見るにしのびず。皇国の安全とその威厳、同盟軍の神聖……」と彼はなぜか『同盟軍』という言葉にとくべつ力を入れて言った、あたかもこのなかに事の要点がふくまれてでもいるかのように。
 で、彼は軍人式に精厳おかすべからざる記憶をたどって、詔勅の冒頭の数句をくり返した。『しかして堅実なる基礎の上にヨーロッパの平和を築かんとする、朕《ちん》の唯一にして必然なる目的希望は、ここに険をして皇軍の一部を辺境の外に動かし、この希望の貫徹に必要なる、新しき条件を制定するに決せしめたり。』
「まあ、こういったわけですよ、あなた。」彼はしかつめらしい恰好をして、洋盃の葡萄酒を飲み干し、同意を求めるように、伯爵の方をふり向きながら言葉を結んだ。
「connaissez vous le proverbe? あなた、こういう諺を御承知ですか? エレーマよ、お前は家にじっとして、紡錘《つむ》でもみがいたらよかろうに。」顔に皺をよせてほほ笑みながら、シンシンは言った。「これは今のロシアにお誂えむきです。こんな時にスヴォーロフでもいるといいのですが、それさえめちゃめちゃにやられてしまったんですからね、a plate couture. 全くですよ。 ところで、いまロシアのどこにスヴォーロフがいますか? Je vousdemande un peu. ちょっと伺いたいものですね。」ひっきりなしにロシア語からフランス語にとび移りながら彼はこう言った。
「われわれは血の最後の一滴まで戦わんけりゃなりません。」と大佐はテーブルを打って叫んだ。「皇帝陛下のために死ぬる、それで万事結構なんです。そして理屈はでえッきるだけ(と彼は『できる』という言葉をうんと引きのばした)、でえッき
  *有名なるロシアの元帥、一七三○―一八〇〇年。
るだけへらすんです。」またしても伯爵の方へ向きながら、彼はちょっと言葉を切った。「まあ、こんなふうに老いぼれの軽騎兵は考えていますよ。ところで君、若い人は、若い軽騎兵はどんなふうに考えておられますか?」と彼はニコライの方へ向いて言いたした。こちらはもう戦争の話が始まっているのに気がつくが早いか、ジューリイとの話はそっちのけにして、眼をみはりながら大佐を眺め、耳をそばだててその話を聞いていた。
「僕は全然あなたと同意です。」
 ニコライは一時にぱっと顔を赤くして、まるでこの一せつな恐ろしい危険が身に迫ったかの如く、やけな一生懸命な様子をして、皿をひねったりコップをおきかえたりしながら答えた。「ロシア人は死ぬか勝つかどっちかでなくてはならない、と僕は思います。」こう言ってしまった後で、彼はほかの人と同様に、今の言葉がこの場合あまり仰々しくきざなように思われて、何だかきまりが悪くなった。
「C’est bien beau de que vousvenez le dire. あなたのおっしゃったこと、大変立派でございます。」とそばにいたジューリイが言った。
 ソーニャはニコライの話している間、たえず全身をふるわしながら、耳から――耳の後ろから首まで、首から肩まで真っ赤になった。
 ピエールは大佐の説に傾聴しながら、賛成するようにうなずいた。
「いや、なかなか立派だ。」と彼は言った。
「正真正銘の軽騎兵だ、えらい!」と大佐はまたテーブルを叩きながら叫んだ。
「何をそこであんた方は騒いでいるんです?」とふいにマリヤ・ドミートリエヴナのふとい声がテーブルごしに聞えた。
「何だってあんた、そんなにテーブルを叩くんです?」と彼女は大佐に向かって言った。「誰を相手にあんたはそう熱くなるんです? 大方すぐ目の前にフランス兵でもいるような気がするんでしょう?」
「わたし本当のことを言っているのです。」と軽騎兵は微笑しながら言った。
「いや、いつもいつも戦争の話ばかり。」と伯爵はテーブルのこちらのはじから叫んだ。「ご承知ですか、うちの息子も出かけると言っています。マリヤ・ドミートリエヴナ、伴が出征するんですよ。」
「ところが、わたしの息子は四人とも隊にいますよ、けれどわたしはくよくよしません。何事も神様の御意ですからね。どうせ煖爐《ペーチカ》の上で寝てても死ぬんですよ。戦争で死ねば、神様がお恵みをたれて下さにいます。」
 マリヤ・ドミートリエヴナのふとい声はテーブルのあっちのはじから、何の苦もなしにこっちへとどいた。
「それはそうですな。」
 それから婦人側は婦人側、男子側は男子側と、会話は再びわかれわかれになった。
「ほら、きけないだろう、」と小さな弟のペーチャがナターシャに言った。「ほら、きけないだろう!」
「きくわよ。」ナターシャは答えた。
 彼女の顔はやけ半分の楽しげな決心の色を現わして燃え立った。彼女は向う側に坐っているピエールに、聞いていろという心を目顔で知らせながら、立ち上って母の方へ向いた。
「お母さま!」という彼女の子供らしい、胸から出るような声が、食卓ぜんたいに響きわたった。
「何です?」と伯爵夫人はぎょっとして問い返したが、娘の顔付きでまたいたずらだなと見てとると、おびやかすような打ち消すようなそぶりを頭でして見せ、いかつい顔付きで片手をふった。
 会話ははたとやんだ。
「お母さま! お菓子は何が出るの?」ナターシャの声が今度は前より大胆になって、とぎれることなしに響いた。
 伯爵夫人は眉をひそめようとしたが、できなかった。マリヤ・ドミートリエヴナはふとい拑をつき出しておびやかした。マザックー」と彼女は声に威嚇の調子を持だして諱った。
 客の多数は、この突然な出来事をどういうふうにとったらいいのかと、年長者の方を眺めていた。
「お前、本当にひどいですよ!」と伯爵夫人が言った。
「お母さま! お菓子は何が出るの?」もう自分の行為は好意に解されるに相違ないと確信したナターシャは、すっかり大胆になり、気まぐれな愉快らしい声で叫んだ。
 ソーニャと肥えたペーチャとは、人のかげに隠れて笑いこけた。
「ほら、きいたじゃないの。」とナターシャは弟とピエールにささやいて、も一度ピエールをちらりと眺めた。「アイスクリーム、ただしお前さんにや上げない。」とマリヤ・ドミートリエヴナが言った。
 ナターシャは何もびくびくする事はたいと見てとったので、マリヤ・ドミートリエヴナさえ少しも恐れなかった。
「マリヤ・ドミートリエヴナー・ 何のアイスクリーム’? あたし杏のだったらいやよ。」
「人参の。」
「いやよ、どんなの? マリヤ・ドミートリエヴナ、どんなのよう?」と彼女は殆どわめくように言いはった。「あたし知っておきたいの!」
 マリヤと伯爵夫人は笑い出した、客一同もそれに紜いた。皆が笑ったのは、マリヤ・ドミートリエヴナの答がおかしかったからではなく、大胆にもマリヤ・ドミートリエヴナに向かって。ああいう態度をとり得た一少女の勇気と、やり方の巧者なのを興がったのである。
 ナターシャは、パイナップルのだと教えて貰うまで、後へひかなかった。アイスクリームの前にシャンパンが出た。やがて再び音楽隊の演奏が響き初める頃、伯爵夫妻は接吻した。客遑は立ち上って伯爵夫人に祝辞を述べ、テーブルごしに伯爵、その子供達、次におたがい同士乾盃をした。再び侍僕らが馳せちがい始め、椅子ががたがた鳴って、客人たちは以前と同じ順序で、ただし以前よりずっと赤い顔をして、客間と伯爵の書斎へ帰った。
      二○
 やがてボストン用のテーブルが持ち出されて、組も分けられた。そして、伯爵の客は長椅子部屋と図書室の二ところに分かれて陣どった。
 伯爵はカルタを扇形にひろげたまま、いつものくせとして食後におそうて来る睡魔をかろうじておさえつけながら、事毎に笑い興ずるのであった。青年たちは伯爵夫人にそそのかされて、洋琴と堅琴のそばへ集まった。まず一番にジューリイが人々の乞いにまかせて、堅琴で小さな曲にヴァリエーションをつけて弾いた。それがすむと、彼女はほかの娘達と一しょになって、楽才をもって知られているナターシャとニコライに、何か唱ってくれと言いだした。ナターシャは人々から大人のように扱われるのが、得意らしい様子であったが、それと同時にまたおじけづいた。
「何を唱いましょうねえ?」と彼女がたずねた。
「『泉』がいい。」とニコライが答えた。
「じゃ、早くしましょう。ボリース、こっちイいらっしゃいな。」とナターシャは言った。「おや、ソーニャはどこ?」彼女はふりかえって、友達が部屋にいないのを見ると、急いでさがしに駈け出した。
 ソーニャの部屋に駈けこんだが、そこにもいなかったので、ナターシャは子供部屋へ走って行った――が、そこにもやはりソーニャはいなかった。『あの人は廊下のトランクの上にいるのだ。』とこうナターシャは感づいた。廊下のトランクの上は、ロストフ家の娘達の嘆きの場所であった。果してソーニャはふわふわしたバラ色の着物をきたまま、皺だらけになるのもかまわず、トランクの上に敷いてある乳母の汚ない縞の羽蒲団にうつ伏しに身をなげて、指で顔をかくしながらしゃくり上げて泣いていた。あらわな小さい肩がびりびりとふるえている。いかにも命名日らしく一日いきいきとしていたナターシャの顔はふいに変った。眼がじっとすわって、それから広い頸がぴくりとふるえ、唇の両隅が下った。
「ソーニャ! あんたどうしたの?………一たい、一たにいどうしたの? うーう!………」 とナターシャは大きく口をひろげて、すっかり醜い顔付きになったまま、わけもわからず、ただソーニャが泣くからというだけの理由で、赤ん坊のようにわっと泣き出した。ソーニャは頭をもたげて返事をしようとしたが声が出ず、よけいに顔を埋めてしまった。ナターシャは青い羽蒲団に腰をかけて、友を抱きながら泣くのであった。ソーニャはやっと元気を出して起き上り、涙をふきながら話しはじめた。
「ニコーレンカはもう一週間たったら出征なさるんでしょう。もう……命令が……下ったのよ……ニコーレンカが自分であたしにそうおっしゃったわ……あたし決して泣く筈じゃなかったんだけど……(と彼女は手に握っていた紙きれを出して見せた。それはニコライに書いて貰った詩であった。)あたし決して泣く筈じゃなかったんだけど、あんたにも……誰にもわかりはしたいでしょう。……あの人の心がどんなかってことは……」
 彼女はニコライの心が立派だと言って、またもや泣き出した。
「あんたはいにいわねえ……だけど、あたし羨みはしなくてよ……あたしはあんたが好きなの。そしてボリースもやっぱり好きなの。」いくぶん元気を出して彼女は語った。「あの人は優しい入れ……あんた方には別に邪魔がないからいいわねえ。ところが、ニコライはわたしの従兄でしょう……それにはどうしても……大僧正のお許しがいるでしょう……だけど、それはとても駄目なんですもの。それにもしお母様が(ソーニャは伯爵夫人を母のように思ってそう呼んでいた)……お母様はあたしがニコライの出世の邪魔をする、あたしには情というものがない、あたしは恩知らずだとおっしやるの。あたしはもう本当に……(と言って十字を切った。)あたしはお母様を初め、あんた方をみんな愛してるのよ。ただヴェーラさんだけ……ああ、なぜでしょう? あたしあの方に何をしたってんでしょう? あたしはあんたがた皆様を有難いと思って、何でも悦んで犠牲にしたいと思ってるんだけど、あたしには何にもないんですもの……」
 ソーニャはそれ以上いうことか出来ず、またもや顔を両手と羽蒲団の中にかくしてしまった。ナターシャは慰めにかかったが、友達の悲しみがどれほど重大な意味を持っているかを、充分に悟ったのはその顔付きに見えていた。
「ソーニャ!」あたかも従姉の悲しみの真の原因を見ぬいたように、不意に彼女は言いだした。「きっとヴェーラが何かあんたに言ったんでしょう、御飯の後で? そう?」
「ええ、この詩はね、ニコライが自分で書いて下すったのよ、そして、あたしもう一枚べつに写しだの。そして、わたしがテーブルの上に載せといたのを、ヴェーラさんが見つけて、それをお母様に見せるとおっしゃるんですもの。それからまだこうおっしゃったわ――お前は恩しらずだ、お母様はけっしてニコライとお前を一しょにさしてはくださらない、ニコライはジューリイと結婚するんだって……ねえ、あんたも知つてるでしょう、あの人は一日ジューリイさんと……ね、ナターシャ! どういうわけなの?」
 と言って、彼女は前よりもなお烈しく泣きだした。ナターシャは彼女を起して抱きしめ、涙のひまにほほ笑みつつ慰めはじめた。
「ソーニャ、あんたヴェーラのいう事なんか本当にしないがいいわよ。ねえ、本当にしないがいいわ。え、おぽえてて? いつだったか長椅子部屋で、ニコーレンカと三人で話したじゃないの。ほら、晩御飯の後でね? 三人でさきのことをすっかりきめたでしょう。あたしどんなふうだったかもうおぼえていないけれど、ねえ、本当に何もかもすっかりよくて、何もかもすっかり思う通りになったじやないの。ほらシンシン伯父さんの兄さんも、従妹と結婚なすったじやないの。それにあんたとあたし達は又従姉妹ですもの。そしてボリースも、それは大して難かしくないって言ったわ。あのねえ、あたしあの人にみんな話してしまったのよ。あの人は全く賢い、いい人なんですもの。」とナターシャは言った。「あんたソーニャ、泣かないで頂戴、いい子だから、よう、ソーニャ。(と彼女は笑いながら接吻した。)ヴェーラは意地悪よ、あんな人うっちゃっといたらいいのよ。何もかもみんな巧く納まってしまうわ。姉さんもお母さんにいいつけやしなくってよ。そして、ニコライはジューリイさんの事なんか考えたこともないわ。」
 こう言いながら彼女は友達の頭に接吻した。ソーニャは立ち上った。美しい小猫は元気づいて来、その眼は輝きだした。そうして今にもすぐ尻尾をひと振りして柔らかい蹠《あなうら》で飛び上り、小猫にふさわしく毬を相手にじゃれだしそうな気配を示した。
「あんたそう思って? 本当? 神様にちかって?」
 彼女は手早く着物や髪をなおしながらそう言った。
「本当だわ、神様にちかってよ!」友の編髪の下からあふれ出た、かたい一たばの毛をなでつけてやりながら、ナターシャは言った。そうして二人は更に笑いだした。
「さあ、いって『泉』を唱いましょう。」
「唱いましょう。」
「おぼえてるでしょう、あのふとったピエールさん、ほら、あたしの向う側に坐った人――本当におかしな人よ!」ふいにナターツヤは立ち止まりながら言った。「あたしとても面白いわ。」
 とナターシャは廊下を駈け出した。
 ソーユヤは羽蒲団の毛をはらってから、れいの詩を胸の骨のとび出して見える首のところの内ぶところの奥へ押しつけるようにしてかくしこむと、軽い楽しげな足どりで顔を赤くしながら、ナターシャの後から長椅子部屋をさして廊下をかけだした。客の所望によって、若い人達は『泉』の四部合唱を試み、皆を心から満足させた。ついで、ニコライは新しく練習した歌を唱った。
ここちよき月明の夜
胸に描くぞ幸ふかけれ――
世界になおもわが上をば
思いつづくる人のありと!
しかして君は艶なる手を
黄金の琴に動かしつつ
いとも切なる音色もて
おのがかたえにわれを呼ぶと!
さて日|二日《ふたひ》へば天国くべきに……
さわれ、いな! わが友は生きてあらなく!
 彼がまだ最後の数句を唱い終らないうちに、早くも広間では若い人たちが舞踏の支度にかかり、楽隊席では足ぶみの音がして、楽手たちは咳ばらいを始めた。
 ――――――
 ピエールは客間に坐っていたが、シンシンが外国帰りの人と見かけて、彼には面白くもない政治談を持ちかけ、やがてほかの人もその仲間に加わった。楽隊が演奏を始めた時、ナターシャは客間へ入って、まっすぐにピエールに近寄りながら、赧《あか》い顔をして笑いわらい申し出た。
「お母さまが、あなたに踊って頂けって申しました。」
「僕はどうも、まごつきそうで心配ですが、」とピエールは言った。「しかし、あなたが僕の先生になって下さるなら……」
 彼はそう言って、自分のふとい手を低く下げながら、やせた少女にさし出した。
 各々の組が位置を定め、楽手が調子を合わしている間、ピエールは小さな貴女とならんで腰をかけた。ナターシャは外国帰りの大人と一しょに踊るのだと思うと、嬉しくてたまらなかった。彼女は一人の令嬢から預った扇を手にしていたので、思いきり気取った恰好をして(まあ、いつどこで習って来たものか)、煽《あお》いでいる扇ごしに微笑しながら、自分の騎士と話していた。
「まあ、どうでしょう、どうでしょう! ごらんなさにいまし、ごらんなさいまし。」伯爵夫人は広間を通りすがりに、ナターシャを指さしつつそう言った。ナターシャは赧くなって笑いだした。
「あら、お母さまどうしたの? 大きにお世話さま! 何もびっくりなさる事はなくってよ!」
 三度目の蘇格蘭曲《エコセーズ》の中頃に、今まで伯爵や、マリヤ・ドミートリエヴナや、その他おもだった客や老人連の勝負を闘わしていた客間で、椅子ががたがたと鳴って、疲れた人々が伸びをしたり、紙入や蟇口をポケットへしまったりしながら、広間の戸口に現われた。真先きに出だのはマリヤと伯爵で、二人とも愉快そうな顔をしていた。伯爵は舞踊で見るような、妙にふざけたていねいな恰好をして、手をくるりとのばしながらマリヤにさし出した。彼はっと身をのばしたか、その顔は一種特別な若若しいずるそうな微笑に輝いた。彼は楽手たちに向かって手を鳴らし、合唱席の第一ヴァイオリンに大きく呼びかけた。
セミョーン! ダニーロ・クーポルを知っているか?」
 それは伯爵がまだ若い頃に、好んで踊った舞踏であった(ダニーロ・クーポルというのは、実はイギリス舞踏の一節である)。
 「ちょつとお父さまを見て頂戴!」ナターツヤは大人と踊っていることをすっかり忘れて、長い髪の渦を巻いた頭を膝につくほどかがめながら、持ち前の響の高い笑い声を広間一ぱいにみなぎらしつつ、こう叫ぶのであった。 実際、広間の中にありとあらゆるものは、喜びの微笑を浮かべてこの老人を眺めた。彼は自分より背の高いいかめしい貴婦人、マリヤ・ドミートリエヴナとならんで、両手を拍子に合わせて丸くふったり、肩をひくひく動かしたり、両足を軽く踏んで捻り廻したりしながら、丸い顔にだんだんと微笑をひろげてこれから踊って見せようというものに、少しずつ見物を慣らして行くのであった。陽気な馬鹿囃子に似たダユーロークーポルの挑発的な音が響きはじめると、広間の扉は両方ともI一方は男、いま一方は女の召使のにこにこ顔で、忽ち一ぱいになってしまった。彼らは大はしゃぎにはしやいでいる旦那さまの様子を見に来たのである。
「まあ、うちの旦那様は! まるで荒鷲でござりまするよI!」と一方の戸口から乳母が大きな声で言った。
 伯爵はなかなか上手に踊ったし、また自分でもそれを承知していたが、相手の方はまるきり上手に踊ろうとも思わなければ、また出来もしなかった。彼女は頑固な手をだらりとたらし、大きな体を銖のようにして突っ立っているだけであった(彼女は婦人袋を伯爵夫人に預けたのだ)。けれども、そのいかつい、とはいえ美しい顔だけは巧みな舞踏をしていた。伯爵が丸々した体ぜんたいで現わすものを、マリヤ・ドミートリエヴナは段々はっきりしてくる笑顔とぴくぴく動く鼻だけで遺憾なく表現するのであった。伯爵は次第に夢中になって、巧みに足を廻転させたり飛び上ったり、思いがけない形で見物を俘にすれば、マリヤ・ドミートリエヴナはちょっと肩を動かしたり。手で円を描いたり、足をとんと踏んだり、ごくわずかな努力で伯爵にもおとらぬ効果を奏した。人々は彼女の肥えた体と、平生の荒々しい態度に引きくらべて、それくらいの労をも上なく珍重したのである。踊は次第に活気を呈して来た。対舞者達はちっとも見物の注意を引くことが出来なかったし、また引こうとも思わなかった。一同はただ伯爵とマリヤに気をとられてしまっていた。
 ナターシャは居合わす人々の袖を引っぱって、お父さまを見せようとしたけれど、そんな事をしなくとも、一同は二人の踊手から目も離さずにいたのである。伯爵は踊の合い間合い間に重々しい息をついて、手をふりながら楽手たちに向かって。もっと早く演奏するようにと叫んだ。伯爵は時に爪さきで、時に踵で、マリヤのまわりをかけ廻りながら、いよいよ急にいよいよ猛に踊り狂ったが、ついに自分の相手を元の位置に向けておいて、柔らかい足を後ろ向きにひょいと上げ、汗ばんだ笑顔を傾けながら、一同の――殊にナターシャの拍手と哄笑のとどろく中に、右手を円く一廻転さして最後の歩をした。二人の踊手は重々しく息をつきながら、麻のハンカチで顏を拭きふき立ち止まった。
「まあ、こんなぐあいに私達の若い時分には踊ったものですよ、マークェール。」と伯爵は言う。
「やれやれ、ダニーロ・クーポルか!」重い息を長々とつきながら、袖口をたくし上げてマリヤはこう言った。
      二一
 ロストフ家では、疲れて調子はずれの音を出す楽手の演奏につれ、第六の英国舞踏を踊り。疲れた侍僕や料理人が夜食の支度をしている最中、ベズーホフ伯爵には第六回の鄒・が起りだ。医師たちはとうてい恢復の望みがないと宣言した。病人には無言の懺悔と聖餐がとり行われ、人々は臨終塗汕式の準備にかかって、家の中はかような場合にありがちな混雑と、不安に満たされていた。家の外の門のかげには伯爵の葬式の贅沢な註文を待ち受ける葬儀社どもが傍らを通り過ぎる馬車から身をかくすようにしながら群集している。伯爵の容体を聞き合わせにたえず使をよこしていたモスクワ総督は、有名なエカチェリーナ朝の貴族ベズーホフ伯営と親しく告別するために、この晩わざわざやって来た。
 壮麗な応接室は人で一ぱいになってにいた。総督が病人と二人きりで三十分ばかり過したのち病室から出て来た時、一同はうやうやしく席を立った。総督は人々の礼に対して軽く答えつつ、自分の方にそそがれている医師、僧侶、親戚の人々の視線の中を、一時も早くくぐりぬけたいというふうであった。この二三日の中に、やせて顔色の悪くなったヴァシーリイ公爵は、総督を見送りに出て、何やら二こと三こと低い声で彼に言った。
 総督を送り出してから、ヴァシーリイ公営はただ一人広間の椅子に腰かけて、足と足を高々と組み合わせ、膝の上に肘をつき、掌で眼をふさいだ。こうして暫く坐っていた後、彼は立ち上った。そして、いつにないせかせかした足どりで、おどおどとあたりを見廻しながら、長い廊下を通って、一ばん年上の公麝令嬢、伯爵の姪のいる奥の方へ赴いた。
 薄い燈に照らされた部屋の中の人々は、高低一様ならぬささやきをもって、てんでに何やら話し合っていたが、瀕死の病人の寝室へ通ずる扉がぎいと開いて、淮かそこへはいるか出るかする度ごとに、ぴったり口をつぐんで、疑問と期待にみちた眼で、その方へふり向くのであった。
「人間におかれた境目ですじゃ。」
 一人の年とった小柄な僧侶が、そのそばに坐って無心に耳を傾けている婦人に言って聞かせた。「境がちゃんとおかれてあるのでな、それを越して行くわけには参りませんて。」
「塗油式ももう手おくれではありますまいか?」相手の位階を名前の後へつけたしながら、婦人はこの事に関して何の定見もないようにたずねた。
「いや、それは偉大な神秘ですじゃ。」幾つまみかの半白の毛が張り付けられている禿頭を、つるりとIなでして僧は答えた。
「あれは誰です! 総督だったんですか?」部屋の一方の隅ではこんなことをきいている。「じつに若く見えますね!」
「もう六十以上ですよ! で、何ですか、伯爵はもう人の見わけがつかないんですか? 塗油式をする事になったんですってね。」
「わたしは七へんも塗油式をせられた人を一人知ってます。」
 二番目の令嬢は泣きはらした眼をして病室から出ると、医師ロルラソのそばに腰をかけた。″ルラソはテーブルに頬杖つきながら、優美な姿勢でカチェリーナ女帝の肖像の下に坐っていた。
「Tr&beau.ppy」と医師は令嬢の間に答えてこう言った。「上天気ですよ、お嬢さん。時にモスクワにおると、まるで田舎のような気がしますね。」
「そうでございましょうか?」と令嬢は吐息をつきながら言った。「で、伯父様はおれを召し上ってよろしゅうございますかしら?」
 ロルラソはちょっと考えて、
「お薬を召し上りましたか?」
「はあ。」
 ロルラソは精密時計を眺めた。
「煮沸した湯をコップについで、その中へune pinc6e 12 (と彼は細い指9 11ne pinc6eの仕草をして見せて)酒石英をお入れなさい……」
「三回も発作におそわれて、命を取りとめたためしはありません。」と、一人のドイツ医師が、まずいロシア語で、ある副官に言った。
「実に生きいきした美しい方でしたがね!」と副官は言った。
「そして、一体あの財産は誰にわたるんでしょう?」と彼は小声で言いたした。
「望み手が発見されるでありましょう。」とドイツ人は微笑しながら答えた。
 一同はまたしても戸口の方をふり向いた。扉はぎいときしみ、二番目の令嬢がロルラソに教えられた飲料を調えて、病人のもとへ運んで行った。ドイツ人の医師はロルラソに近寄って、「もしかしたら、明日の朝までもつかも知れませんね。」あや‘しい発音をしながらフランス語でこうきいた。  ロルラソは訝をかみしめ、打ち消すように自分の鼻のさきで’指をいかめしくふって見せた。
「今夜です、決してそれより遅かありません。」自分が病人の容体を明確に理解し、かつ表明することが出来るという、たしなみのいい、自足の笑いをもらしながら、小さな声で答えて、ゝそこを去った。
 その間にヴァシーリイ公爵は令嬢の部屋の扉を開けた。 部屋の中は薄暗かった。ただ燈明が二つ、聖像の前に燃えているばかり、香や花の匂いが心地よくかおっている。部屋一ぱいに小箪笥や、小戸棚や、テーブルなどがならべてあり、衝立の陰からふっくりした高い寝台の白い蔽いが見えている。狆が・吠えはじめた。
「おや、あなたでございましたか、我従兄。」
 令嬢は立ち上って髪をなおした。その髪はいつでも、今のような場合でも、恐ろしくなめらかで、まるで髪も頭も一つのか巡まりでつくられ、その上から漆でもかけたようであった。
「何でございます、何か起ったのでしょうか?」と彼女はたずねた。「わたしはもうすっかりおびえてしまいましてね。」 「何でもない、やはり元の通りだ。私はお前にちょっと話があ入って来たのだよ、カチーシ」令嬢の立ち上った安楽椅子へぐつ
  *カチェリーナの愛称カーチャをフランス風に呼んだもの。
たりと腰をおろしながら、公爵は、こう言った。「だけどお前、むやみと暖めたものだね。」と彼は言った。「さあ、ここへお坐り。 causons. 一しゃべりしよう。」
「わたしはまた何か起ったのではないかと思いまして。」令嬢は持ち前の、いつにかわらぬ石のようにかたい表情をして、相手の言うことを聞こうと身構えながら、公爵の向かいに腰をおろした。
「ひと寝入しようと思ったんですけれど、駄目でしたわ。」 「ときに、どうたね、お前。」と、ヴイシーリイ公爵は令嬢の手をとって、例のくせでそれを下の方へひっぱりながら言った。
 察するところ、この『ときにどうだね』は、それと名ざさないでも二人の者にちゃんとわかっているある事柄に関連しているらしかった。
 足にくらべてつり合の取れないほど長く、乾き叨って棒のように真直ぐな胴を持った令嬢は、少し飛び出した灰色の限で、冷静にじっと公爵を見つめた。彼女の身ぶりは悲哀と信服の表情ともとれれば、或いはもう今にゆっくり休めるという希望と、疲労の表情ともとれるのであった。ヴァシーリイ公爵はその身ぶりを疲労の表情ととった。
「じゃ、私はどうなんだ、」彼は言った。「楽だとでも言うのかね? Je suis ereinte comme un cheval de poste. わたしは駅逓馬のようにへとへとだよ。 が、それでも、お前とぜひ相談しなくちゃたらない事がある、カチーシ、しかも大へん重大な事なんだよ。」
 ヴァシーリイ公爵は口をつぐんだ。彼の両頬は神経的に代るかわる引っつりはじめた。それが彼の顔に不愉快な表情―社交界の客間ではヴァシーリイ公爵の顔に決して見ることのできない表情を与えるのであった。その眼付きもまた平生のようではなかった。時には高慢な冗談らしい色を浮かべるかと思うと、時にはおびえたようにあたりを見廻すのであった。
 令嬢はかさかさしたやせた手で咐を膝の上に抱き寄せながら、じっとヴァシーリイ公爵の眼を見つめた。しかし、彼女はよしんば朝まで黙りこんでいるような事があっても、何か問を』発して沈黙を破りそうな気配は見えなかった。
「ところでだね、わが愛すべき公爵令嬢、カチェリーナ・セミョーノヴナ。」とヴァシーリイ公爵は幾分か心中の暗闘に苦しんでいるらしい声で、話の続きにとりかかった。「今の場合、万事とっくりと考えなくちゃならないよ。将来のことだの、お前達のことだのを考えなくちゃ。私はお前達をみんな我子のように愛している。それはお前も知っているだろう。」
 令嬢はにぶい動きのない眼付きで彼を眺めた。
「そして最後に、私の家族の事も考えなくちゃならない。」腹立たしげにテーブルを向うへつきやりながら、相手の顔を見寸にヴァシーリイ公爵は言った。「カチーシ、お前も知っての通り、お前たちマーモソトフ公爵の三人姉妹と、それから私の家内、この四人は伯爵の直系相続人なんだよ。いやわかってる、こんな事を言ったり考えたりするのが、お前にとってどんなに苦しいかはよくわかりている。また私だって決して苦しくないわけじゃない。しかし、お前、私はもう五十過ぎた体だから。何事に対しても覚悟がいる。お前知ってるかね、私はピエールを呼びにやったんだよ。伯爵は明瞭にピエールの写真を指して、どうしてもそばへ呼んでこいと言われたんだ。」
 ヴァシーリイ公爵はうかがうように令嬢を見やった。しかし、彼女は相手の言葉を考えているのか、それともただ彼の顔を眺めているだけたのか、一向見当がつかなかった。
「わたし、たった一つだけ、たえず神様にお祈しておりますの、我従兄。」と彼女は答えた。「どうぞ神様が伯父様を憐んで、安らかにこの……うき世をすてさせて下さるようにと……」
「そう、それはそうだが、」とヴァシーリイ公爵は禿げた額をこすりながら、一度おしのけたテーブルをいまいましげにまた引き寄せて、じれったそうにさえぎった。「しかし、結局、とどのつまりはこういう事なのだ。お前も自分で承知だろうが、去年の冬、伯爵は遺言状を書かれた、それで見ると、直接の相続人たる我々をさしおいて、ピエールに全財産をゆずる事になってるんだよ。」
「伯父さまが遺言状を書かれたのが珍しい事ですか!」と令嬢は平気で言った。「けれども、ピエールにゆずるというわけには参りませんわ。ピエールは庶子ですもの。」
「マ・シェール、」ふいにテーブルをぴったり引き寄せて、妙に元気づきながら公爵は早口にしゃべり出した。「が、もし伯霹が皇帝に上奏文を書いて、ピエールを嫡子になおすように請願されたらどうする? わかってもいるだろうが、伯爵ほどの勲功があれば、その請願も容れて戴けるに相違ない……」
 令嬢はほほ笑んだ。それは人が普通の場合、現に話している相手よりも自分の方がよく事情を知っている、と思う時に見せるような微笑であった。
「じゃ、私はもっとよくお前に聞かして上げよう。」ヴァシーリイ公爵は彼女の手をとりながら言った。「上奏文はまだ呈出されないけれど、もうちゃんと書いてある。そして、皇帝もそのことをご存じなんだよ。問題はただその上奏文が消滅したかどうか、というだけの事なんだ。もし消滅してなかったら、やがて何もかも片づく。」何もかも片づくという言葉の中に、いかなる意味をふくましたか知らせるために、ヴァシーリイ公爵は嘆息した。「伯爵の死後、書類の調査となって、遺言状と上奏文が発見され、それが皇帝に送られる。すると、伯爵の請願は必ず裁可されるに相違ない。そうするとピエールは嫡子として、一さいのものをゆずり受けるのだ。」
「でも、わたし達の分は?」と令嬢は皮肉にほほ笑みながら言った。それは丁度、いかなる事も起りかねないけれど、そればかりは……といったようなぐあいであった。
「Mais, ma pauvre Catiche, c’est clair comme le jour. だがね、カチーシ、それは白日のように明らかな事だよ。 そうなればあの男ひとりが一さいのものの相続者で、お前達はこれっからさきも貰えやしないさ。ねえ、お前は知っていなくちゃならんはずだ、遺言と手紙はもう書いてあるかどうか、そしてまたそれが消滅しているかどうか。もし何かの拍子で皆がそれを忘れているとすれば、お前はそれがどこにあるか知って、さがし出さればならぬ、なぜって……」
「まあ! 随分ひどい事をおっしゃいますこと!」令嬢は嘲るようにほほ笑みつつ、眼の表情を変えないでさえぎった。「わたしはどうせ女です。あなたのお考えでは、わたし達はみんな馬鹿なんでしょう。だけど、わたし庶子が相続人になることは出来ない、という事だけは存じていますの……Un batard. 私生児」と彼女はつけたした。この翻訳で公爵の説の無根なことを、充分に証明し得たつもりである。
「本当に、どうしてお前にそれがわからなにいんだろう、カチーシ! お前のような利口な人に……もし伯爵が皇帝に上奏文を書いて、ピエールを嫡子と承認して戴きたいと請願したら、つまり、ピエールはもうピエールでなくなって、ベズーホフ伯爵なんだよ。そしたらあの男は遺言によって、一さいのものをゆずり受けるという事が、どうしてお前にわからないのだろうねえ。もし遺言と上奏文が消滅されなかったら、お前はただ徳のある令嬢だという評判と、et tout ce qui s’en suit そしてそれから出て来るいっさいのもの よりほかに、何の慰籍も受けることはできないんだよ。それはまちがいのないところだ。」
「わたし遺言状ができてることは知っていますが、この遺言状が効力のないものだってことも、やはり承知していますの。あなたは大方わたしを、よくよくの馬鹿者と考えていらっしゃるんでしょう、我従兄。」女が何か一っぱし皮肉な、えぐるようなことでも言ったつもりでいる時に、よく見せる表情を浮かべながら、令嬢はこう言った。
「まあ、これお前、カチェリーナ・セミョーノヴナ。」ヴァシーリイ公爵はもどかしげに言い出した。「私は何も喧嘩を売りにここへ来たんじゃないよ。お前を親身のように――立派な、親切な、本当に親身の娘のように思えばこそ、お前自身の利益めために、わざわざ相談に来たんだよ。私は口をすっぱくして言ってるんじゃないか。ピエールの利益を計った上奏文と遺言状が伯爵の書類の中にまじっている以上、お前もお前の妹達も相続人ではないんだよ。もし、私の言うことが信用できなければ、専門家の言うことを信用しなさい。私は今ドミートリイ・オヌーフリチ(抱えの弁護士)と話して来たけれど、あの男もやはりそう言っていたよ。」
 俄然令嬢の考えに何か変化が生じたらしい。薄い唇は紫色になり(眼はやはり元のままであったが)、声は彼女が口を切った時、自分でも思いがけないくらい甲ばしってつつぬけた。
「それはさぞ結構でしょうね。」と彼女は言った。「わたしは何も望みはしませんでしたし、今とても望んではいませんから。」
 彼女は膝から狆《ちん》をほうり出して、服の襞をなおした。
「ああそれが、何もかもあの方のために犠牲にした人間に与えられる酬いなのです、感謝なのです。」と彼女は言った。「立派ですわ! 実に結構ですこと! わたしなんにもほしかありませんわ、公爵。」
「そうだろう。しかし、お前一人ではないよ、お前には妹があるんだからね。」ヴァシーリイ公爵は答えた。
 けれど、令嬢は彼の言うことを聞かなかった。
「ええ、卑劣と羨望と欺瞞と奸計と忘恩のほか――実に実に無恥な忘恩のほか、わたしはこの家でなんにも期待していませんでした。わたしそれをずっと前から知ってたけれど、ちょっと忘れていたんですわ……」
「お前は知ってるのか知らないのか、その遺言状がどこにあるかってことを?」前よりもいよいよ頬をひっつらせながら、ヴァシーリイ公爵はきいた。
「ええ、わたし馬鹿だったんですわ。わたしはまだ人間というものを信じて、愛して、自分を犠牲にしてまでいました。ところが、世間で成功するのは、卑劣なけがらわしい人間ばかりです。これが誰の企らみだか、わたしよく知っています。」
 令嬢は立ち上ろうとしたが、公爵はその手をおさえた。令嬢は、とつぜん全人類に失望した人のような顔付きをして、毒々しく相手を眺めた。
「まだ余裕があるよ、カチーシ、これはみんな病気にうかされて、腹立ちまぎれにふいときめたまま、その後わすれてうっちゃらかしにしていたのだ。それを覚えてなくちゃならない。我我の義務はね、お前、伯爵の過失を匡正して、最後の苦痛を軽くして上げることだ。そしてあの方がこの不公平をしおおせないように、気をつけて上げなくちゃならない。この過失によって、二三の人達を不幸に陥れたという考えを抱いたまま二あの方を死なせないようにして上げなければならない。」
「その二三の人達は、あの方のためにすべてを犠牲に供しました。」と令嬢はひきとって、またぞろいきなり立ち上ろうともがいた。が、公爵は手をはなさなかった。「それをあの方は一度だって有難いと考えては下さらなかったのです。駄目です。」と彼女は溜息と共につけたした。「わたしよく覚えておきますわ――この世で報いを待つことは出来ない、この世には徳義も正義もないってことをね。この世では狡猾で意地わるにならなくっちゃ駄目なんです。」
「まあ、それは今にわかる。落ちついておくれ、私はお前の美しい心を知っているから。」
「いいえ、わたしの心は意地わるですの。」
「私はお前の心を知っている。」と公爵はくり返した。「そして、お前とこう親しくしているのを、嬉しく思っている。だからお前も私に対して、同じ考えを持ってくれるように望むのだ。どうぞ落ちついて、時間のある間に、parlons raison. 筋道の立った話をしようじゃないか。 その時間に、或いはまだ一昼夜あるかもしれないし、或いは一時問しかないかもしれない。どうか遺言状についてお前の知ってるだけのことを聞かしてくれないか。が、何より肝腎なのはそのありかだ。お前はきっと知ってるはずだから、私達は今こそそれをさがし出して、伯爵に見せなくちゃならん。あの方はたしかにその事をすっかり忘れていられるのだから、お目にかけたら破いてしまいたくなるに相違ないよ。が、私のたった一つの念願は、あの方の意志を立派に果たして上けたいばかりなのだ。お前にもわかってるだろう、私かモスクワへ来たのも、ただそれがためのみたんだ。私が今ここにいるのは、ただあの方やお前達に一臂の力を添えたいばかりなのだよ。」
「これが誰の悪だくみだか、わたし今こそわかりました。わたしちゃんと知っています。」
「それは当面の問題じゃないよ、お前。」
「これはあなたの被保護人のしわざです。あの小間使にするのもいやな、あなたの好きなドルベツカーヤ夫人です、あの卑劣な、むしずの走るような女です。」
「Ne perdons point de temps. 時間を浪費するのは止めよう。」
「いいえ、言わないで下さい! この前の冬、あの女がここへもぐりこんで、わたし達――殊にソフィのことを、伯父様にさんざ悪口いったものですから(わたし今それを口にすることもできません)、それで伯父様が大変わるくおなんなすって、二週間ばかりわたし達に会おうとなさらなかったほどです。そのとき伯父様は、ものけがらわしい遺言状をお書きなすったんです、わたし知ってます。だけど、それは何の意味もないものだと思っていました。」
「そこが大切たんだよ。どうしてお前もっと早く言ってくれなかったんだ?」
「伯父様が枕の下に敷いてらっしやる、モザイクの折カバンの中にあるんです。今こそわかりました。」と令嬢は返事もせずに言った。「もしわたしに何か大きな罪があるとすれば、それはあの卑劣な女に対する憎しみです。」と全く相好をかえて、彼女は殆どわめくように言った。「なんのためにあの女がここへもぐりこんできたのか、それが分からないでどうします! わたしあの女にすっかり言ってやる、すっかり! 今にその時が来るから!」
       二二
 こうしたさまざまな会話が、客間と令嬢の部屋でかわされている時、ピエールと(迎いの使者がロストフ家へ来たのである)ドルベツカーヤ夫人(これはぜひピエールと一しょに出かける必要があると思案したので)を乗せた馬車が、ベズーホフ伯爵家の邸にひきこまれた。馬車の轍が窓下に敷かれた藁の上を柔らかく響きはじめた時、ドルベツカーヤ夫人はピエールに向かって、慰めの言葉を発したが、彼が馬車の隅で寝こんでいるのをたしかめてゆり起した。ピエールは目をさまして、ドルベツカーヤ夫人の後から馬車を出たが。その時はじめて、瀕死の父との対面が目前に控えていることを思い出した。彼は自分らが正面玄関から入らずに、裏手の車寄せへ乗りつけたのに心づいた。彼が馬車の踏段から足をおろした時、町人らしい服装の男が二人、車寄せから壁のかげへこそこそと駈けこんだ。ピエールが立ち止まってすかして見ると、家の両側の物陰にまだ幾たりも同じような男がいた。けれど、ドルベツカーヤ夫人も、侍僕も、馭者も、この男達が目に入らぬはずはないのに、少しも注意をはらおうとしない。『して見るとこれがあたり前なんだな。』と。ピエールは独りできめて、ドルベツカーヤ夫人の後に従った。
 夫人はせかせかした足どりで、薄い燈に照らされた狭い石の階段を上っていったが、時々立ち止まって、おくれ勝ちなピエールを呼んだ。ピエールは一たいなんのために、伯爵のところへ行かなければならないのかわからなかったが、なぜ自分が裏梯子から上って行かなければならないかにいたっては、なおさらもって合点がいかなかった。けれどドルベツカーヤ夫人の忙しそうな、信ずるところありげな様子から推して、何故か、必ずこうしなくてはならないのだろう、ときめてしまった。階段の中ほどで、長靴をかたかた鳴らしながら、バケツをさげた人達が駈けおりて、危く二人を突き飛ばさないばかりであった。
彼らは壁にぴたりと身を寄せて、ピエールとドルベツカーヤ夫人を通したが、二人の姿を見ても、毛頭びっくりしたようなふうを示さなかった。
「ここはお嬢様がたのお部屋へ行く道かえ?」とドルベツカーヤ夫人が彼らの一人にきいた。
「そうですよ。」と下僕は今こそ何をしたってかまわないと言ったように、ずうずうしい大声で答えた。「左側の扉がそうですよ、奥さん。」
「伯爵は僕を呼ばなかったのかもしれませんね。」階段の踊場へ出たとき、ピエールは言い出した。
「僕自分の部屋へ帰った方がよかあないでしょうか。」
 ドルベツカーヤ夫人はピエールと肩をならべるために立ち止まった。
「Ah, mon ami! まあ、あなた!」と彼女は今朝わが子に試みたと同じ手つきで、ピエールの手にちょっとさわった。「わたしだってあなたに劣らず苦しんでいますよ。だけど、どうぞ男らしくして下さい。」
「でも、ほんとうに僕ゆくんでしょうか?」眼鏡ごしに優しくドルベツカーヤ夫人を眺めつつ、ピエールはこうたずねた。
「Ah, mon ami! 世間の人達があなたに対して、不公平だったことを忘れておしまいなさい。そして、あの方は、何と言っても、あなたのお父さまだってことをおぼえていらっしゃい……もしかしたら、いま臨終の苦しみをしていらっしゃるかもしれません。」と彼女は歎息した。「わたしはね、すぐにあなたがわが子のように好きになってしまいましたの。わたしを信用し