『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『戦争と平和』(トルストイ作、米川正夫訳)上巻P121―P160(校正とちゅうまで、合計90分)

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■25-■55、30分、ざっと、P121-P130
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■11-■10、59分、ざっと、P131-P150


「ああ!」とクトゥゾフは言った。「あの教訓がお前を匡正《きょうせい》してくれる事と、わしは信じておる。しっかり勤務に従うのだぞ。皇帝陛下は御仁恵に渡らせられるから、もしお前にそれだけの功績かあったら、わしもけっしてお前のことを忘れやせん。」
 水色の明るい眼は連隊長を眺めた時と同じく、大胆に総指揮官の顔を見つめた。それは自分の表情で、この一兵卒と総指揮官をはるかに隔てている階級の冪を、引き破ろうとしているようであった。
「たった一つお願いがございます、閣下。」彼はもち前のよく響くしっかりした声で、せきこまずに言った。「どうぞわたくしの罪をつぐなって、皇帝陛下およびロシア帝国。に対する信服の念を、証拠だてる機会を与えて下さいまし。」
 クトゥゾフは顔をそむけた。その顔には、さきほどチモーヒソ大尉から眼をそらしたときと、そっくり同じ微笑がちらとかすめた。彼は顔をそむけ眉根に皺を寄せた。それはいまドーロホフの言ったことも、また自分がドーロホフに言い得ることも、みんなずっと以前から承知している、そんな事にはもうあきあきしてしまった、それは自分の必要とするところとまるで進っている――と、クトゥゾフの挙動は言っているように見えた。彼は踵をめぐらして幌馬車の方へ赴いた。
 連隊は中隊ごとに分かれて、ブラウナウからほど遠からぬ指定の宿舎へ赴いた。そこへ行けば靴もはきかえるし、困難な行軍の疲れを休めることもできると、人々は楽しんでいた。
「君、僕に気を悪くしないでくれ給え、チモーヒソ君。」連隊長は宿営地へ向けて動いて行く第三中隊を迂回しながら。先頭に立って歩むチモーヒソ大尉に馬を近づけてそう言った(連隊長の顔は検閲が無事に済んだために、隠しきれぬ悦びの色を堪えていた)。「職務は公の事だから……あんな事じゃ困るよ……またこの次にあんな事があったら、列前でも何でも癇癪玉を破裂させるよ……がまあ、僕の方からさきに謝る。君は僕の気性を知ってるだろう……いや、非常に礼を言って行かれたよ!」と彼は中隊長に手をさしのばした。
「何をおっしゃるんです、将軍、私がそんな事を思うなどと!』と大尉は答えて、鼻を赤くしながらほほ笑んだ。が、その拍子に、かつてイズマイルの戦いに銃の床尾で打ち折られた前歯が、二本不足しているのをあらわした。
「それからドーロホフ君にも、わしはけっしてあの人を忘れないと、そう伝言してくれ給え。そして安心するようにってね。ああ、それから、どうか一つ聞かしてくれ給え、僕は始終たずねて見ようと思っていたのだが、あの男はどんなふうかね、品行はどうだね、そして……」
「勤務の方は非常に厳正でありますが、しかし、性質がどうも……」とチモーヒソが言った。
「どうしたね、性質がどうだと谷うんだね?」と連隊長はたずねた。 「閣下、その日その日で気分が変るんであります。」と大尉が答えた。「時には利口で、学問があって、親切ですが、時にはまるで獣です。ポーランドでは危く一人のユダヤ人を殺すところでありました、ご承知でしょうけれど……」
「なるほど、なるほど。」と連隊長は言った。「何といっても、不幸に落ちてる青年だから、あわれんでやらなくちゃならない。実際、なかなか立派な友達や親戚を持っているんだからな……君もその……」
「承知しました、閣下……」閣下のご希望はよくわかっております、ということを微笑で知らせながら、チモーヒソは答えた。
「いや、よろしい、よろしい。」
 連隊長は列中にドーロホフをさがし出して、馬を止めた。
「こんど手柄をあらわすまでだ、辛抱しろ。その時は肩章がつけられる。」と彼は言った。ドーロホフはふり返ったが、何ひとつ言わず、例の嘲るような薄笑いを浮かべた口の表情を、変えようともしなかった。
「いや、これでいい。」と連隊長は続けた。「兵隊どもにわしからウォートカを一ぱいずつふるまってくれ。」と兵士らに聞えるように言いたした。「みんな有難う! やれやれだ!」彼は第三中隊を追い越して、別の隊へ進んで行った。
「いや、あの方はまったくいい方だ。あの方となら一しょに勤めて行けるよ。」自分のそばを歩いて行く下級将校に向かって、チモーヒソはこう話しかけた。
「一口に言えば、『金無垢《きんむく》』でありますね!………」(連隊長は金無垢 この言葉は同時にダイヤのキング の王様だという綽名《あだな》をつけられていうのだ)と下級将校は笑いながら言った。
 検閲後の長官のうきうきした気分は、兵士らにも移って行った。中隊は楽しそうに進んだ。四方から言葉をかわす兵士らの声が聞えた。
「何だってクトゥゾフは眇《めっかち》だ、片眼だって言うんだろうなあ!」
「そうでねえか? 本当に眇でねえか。」
「なんの……お前よりよほど眼があるぜ……靴から脚絆からすっかり見ていったもの。」
「おい、閣下が俺の足をじろっと見た時によ……どうだ! おれは本当に……」
「それからもう一人のオーストリー人なあ、閣下と一しょにいた奴よ、まるで白墨を塗ったみてえじゃないか、粉のように白かったぜ、たぶん軍器を磨くように磨いて貰うんだろうよ!」
「おい、フェデショウ!………あの人が何と言ったって? いつ戦争が始まるって? お前すぐそばに立ってたじやないか? ブルノフ ブアウナウの訛り ブナパルトがいる、とかいうような噂がしきりにあったぜ!」
「ブナパルトがおる! 馬鹿なこと言うない、畜生! わかり切った事を知らねえ奴だなあ! このごろプロシヤの奴が一揆を起したので、オーストリー人がそいつをとっちめにいってるのさ。その方が片づいたら。ブナパルトの戦争も始まるのよ。それだのに、ブルノフにプナパルトがおるなんて言いやがる! だからすぐお里が知れっちまうのよ。貴様もっとよく聞いて来いよ。」
「くそっ、設営官のやつ、人を馬鹿にしやがって! 見ろ、第五中隊はもう村の方へ曲ってるぜ、彼奴らが粥をたき上げた時分に、俺達はまだ宿舎にも着いちゃいねえんだ。」
「堅パンを寄越せ、こん畜生。」
「なるほど、きのう煙草をくれたからな、ごもっともだ。ほら来た、もう知らんぞ。」
「せめて休止でもありゃいいのに、もう五露里も飲まず食わずに歩いてるんだ。」
「ドイツ人のやつらが馬車でもよこしてくれりゃ、有難いんだがなあ。そうして、こんな風に乗廻したら、大威張りよ!」
「この辺の人間はみんな変てこな野郎ばかりだ。少しあっちの方はロシアの領分で、ポーランド大ばかりだったが、ここはもう誰も彼もドイツ大ばかりよ。」
唱歌手は先頭に出ろ!」という大尉の叫び声が聞えた。
 方々の列から二十人ばかりの兵士が出て、中隊の先頭へ向けで駈け出した。唱歌長の鼓手は唱歌手の方へ顔を向けて、手を一ふりすると、間の延びた軍歌をゆっくり唄い始めた。それは「暁ならずや、太陽は赤み初めたり……」という文句にはじま。つて、「ああ、わが同胞《はらから》よ、光栄は、カメンスキイ将軍と、我らが上に来るべし……」の言葉で終っている。この歌はかつてトルコ戦争の際に作られたものであるが、今は、ただ「カメンスキイ将軍」の代りに、「クトゥゾフ将軍」という字をはめただけの相違で、このオーストリーで唄われているのであった。
 鼓手はこの最後の一句を兵隊式にひっちぎるように唄いすて て、何か地べたへほうりつけるように両手をふると、彼(四十ばかりの、かわき切った顔をした美しい兵隊)は、いかめしい顔付きで唱歌手の方を眺め、眼を細めた。それから、一同の視線が自分の方に集中されたのをたしかめて、なにか貴重なものを両手でそっと頭上に捧げるような身ぶりをした。これが約二三秒つづくと、彼は、ふいに、その目に見えぬ貴重な物をやけにほうり出した。

   『ああ、なれ、わが住み家、わが住まい!』

『わが新しき新序こそ……』と二十の声がこれに和した。四つ竹打ちの兵隊は軍器の重いにもかかわらず、足軽に前へ飛び出し、中隊の先頭に立って後ろ向きに歩きながら、肩をひょこひょこ動かしたり、四つ竹で友達をおびやかしたりした。兵士らは歌の拍子に合わせて両手をふり、我ともなしに足拍子を踏みつつ、大股に進んで行った。中隊の後ろから車輪の響、発条のきしみ、馬蹄の音などが聞え出した。それはクトゥゾフとその随行員が、町へ帰って行くのであった。総指揮官は兵士らに向かって、自由に歩いていいという合図を与えたか、唱歌の声を聞き、踊り狂う四つ竹打ちや、楽しげに元気よく進む中隊の兵士らを見ると、彼の顔にも随行員の顔にも、いかにも満足げな表情が浮かんだ。馬車は右翼の方から中隊に追いついて進んで来たか、それから二列目にいる、例の水色の眼をしたドーロホフは、自然と人の目につくのであった。彼は唄の拍子に合わせて。ことに元気よく気取った足どりで進みながら、馬車に乗って通り過ぎる人々を眺めた。その表情はまるで、こんなとき中隊と一しょに歩かない人は、みんな気の毒なものだといったふうに見えた。クトゥゾフの随行員で、例の連隊長のまねをした軽騎兵少尉補は、馬車からちょっと離れてドーロホフに近寄った。
 軽騎兵少尉補のジェルコフは一時ペテルブルグで、ドーロホフの牛耳《じゅうじ》をとっていたあばれもの仲間に入っていた。彼は外国へ来てから、一兵卒になり下っているドーロホフに、一度出会ったことがあるが、しいて気のついた様子をする必要もあるまいと考えた。けれども、今日は、クトゥゾフがこの奪官将校に声をかけた後なので、彼はいかにも旧友らしい悦びを現わしながら話しかけた。
「おい、君、どうだい?」自分の馬のあがきを中隊の足音に合わせながら、唱歌の響く中で彼はこうたずねた。
「俺がどうかって?」ドーロホフは冷やかに答えた。「ごらんの通りさ。」
 元気のいい歌の響は、ジェルコフのうち解けた愉快そうな調子と、ドーロホフのことさらに冷やかな答に、一種特別な意味を与えた。
「長官との折合はどうだい?」とジェルコフはきく。
「べつにどうも。皆いい人だよ。しかし、君はどうして参謀へもぐりこんだい?」
「派遣されたのさ、当直をやっている。」
 二人はちょっと黙った。

   『瑰を放ちぬ、右の袖より』

 自然と勇ましく楽しい感情を人の心に呼びさましつつ、歌の文句はこう語った。もし二人がこのような唱歌の響の聞えない時に話したら、その会話の調子はおそらくぜんぜん別様の趣を示したであろう。
「どうだ、本当かい、オーストリーがやられだってのは?」とドーロホフはたずねた。
「あいつらのことわかるもんかね。そんな話だ。」
「痛快だね。」ドーロホフは唱歌の要求する通り、簡単明瞭に答えた。
「どうだい、いつか晩に遊びに来たまえ、ひとつフアラオンでも賭けようよ。」とジェルコフが言った。
「君、金でもうんと溜めたかい?」
「来たまえ。」
「駄目だ。誓を立てたんだ、復官するまでは、酒もかるたもよすって。」
「じゃ、仕方がないね。勲功を待ってるよ……」
「その時になったらわかるさ。」 また彼らは沈黙に陥った。
「君やって来たまえ、何かいるものがあったら。参謀部では、君のために、なんでもお役に立つよ。」とジェルコフ。
 ドーロホフはにたりと笑った。
「そんな心配せんがいいよ。なにかいるものがあれば、人に無心しかいでも、自分で手に入れる。」
「なにもそんなに、僕はただその……」
「そうか、僕もただそのだ。」
「失敬。」
「たっしゃでいたまえ……」

 『遥けくもまた高く
故郷をさして……』

 ジェルコフは馬に拍車を一つあてだ。馬は激して、どちらから踏み出していいかわからないように、二三度足踏みしながら身がまえすると、やがて、これも同じく唱歌の拍子に合わせて、中隊を追い越し、馬車を追いかけながら、まっしぐらに駈け出した。

      三

 検閲から帰るとクトゥゾフは、オーストリーの将軍と共に、自分の書斎へ通った。そして、副官に声をかけて、目下ぞくぞく到着しているロシア軍の状況に関する若干の書類と、先発隊の指揮をしているフェルジナンド大公の手紙を持って来るように命じた。アンドレイ・ボルコンスキイ公爵は命ぜられた書類を持って、総指揮官の書斎へ入って来た。テーブルの上にひろげられた地図の前には、クトゥゾフとオーストリーの軍事会議局の議員とが対坐していた。
「ああ……」とクトゥゾフはボルコンスキイの方をふり返って言った。それは丁度この言葉で少し待ってくれという意を副官に伝えるかのようであった。そして、糸口を切った会話の続きをフランス語で始めた。
「ただ一つ申し上げたいのはですね、将軍。」クトゥゾフは自分のゆっくりくり出す一語一語を、あくまで相手に傾聴させなければやまぬような、気持のいい優美な表情と発音でこう言うのであった。(見受けたところ、クトゥゾフ自身も、我とわが言葉に耳を傾けているらしかった。)「ただ一つ申し上げたいのはですね、将軍、もし私一個人の希望で、事を左右し得るならば、フランツ皇帝陛下のご希望もとっくに実行されていたはずです。私はとっくに大公の軍に合していたに相違ありません。どうか私の偽りのない言葉を信じて下さい。い公私より覬かに老練な将軍に(こういう方はオーストリーに大勢いられますが)、そういうお方に統帥権を引き渡して、すべての苦しい責任から肩をぬくのは、私一個にとっても非常な悦びなのです。しかし、事情は、往々、人間より強いことがありますからね、閣下。」
 こう言ってクトゥゾフはにっこり笑ったが、その表情は『あなたは私の言う事を本当にしなくともよいのです。あなたはその権利を持っていらっしゃる。また私にしても、あなたが本当になさろうとなさるまいと、どっちにしたって同じ事なんです。けれど、あなたはその疑いを口に出すべき理由を持っていらっしゃらない。そこがつまり肝腎な点なんですよ。』と言うように思われた。
 オーストリーの将軍は不満らしい様子をしていたが、やはり同じような調子でクトゥゾフに答えざるを得なかった。
「それどころではありません。」と彼は気むずかしげな怒りっぽい声で言ったが、それは愛想のいい言葉の意味を完全に裏切っていた。「それどころではありません、閣下が大局に干与《かんよ》して下さるのは陛下の深く希望しておられる所であります。けれど、目下のように荏苒《じんぜん》日を移されるのは、光栄ある軍隊および
 その指揮官をして、今日まで諸所の戦いで常に獲得しておられた月桂冠を、空しく失わしめるようなものだと我々は考えますが。」と、いかさま前から用意して来たらしい言葉を結んだ。
 クトゥゾフは微笑を変えずに頭を下げた。
「私は以前からかたく信じていましたし、また、フェルジナソド大公殿下から頂戴した最近の手紙によりましても、マック将軍のような老巧な参謀官の指揮を受けているオーストリー軍が、今回、見事な勝利を占めたのはもはや疑いを容れません。ですから、ロシア軍の援助などすでに必要ないと思いますが。」とクトゥゾフは言った。
 オーストリーの将軍は眉をひそめた。オーストリー軍が敗れたという確かな報知はまだなかったが、全体として不利な風評をたしかめる事情は多過ぎるくらいであった。それ故、クトゥゾフのオーストリー軍戦捷の想像は、むしろ、嘲笑のように聞えたのである。しかし、クトゥゾフは依然として、例の『私はこういう想像をする権利をもっています。』といったような表情を浮かべ、つつましやかに微笑した。事実、彼が最近マック将軍から受け取った手紙は、その軍隊の勝利と戦術上もっとも有利な陣地を報じているのであった。
「その手紙をここへ持って来たまえ。」クトゥゾフはアンドレイ公爵の方へ向いて言った。「ちょっとこれを御覧になって下さい。」 と、クトゥゾフは辱の両端に冷笑的な笑を浮かべっつ、フェルジナソド大公から受け取ったドイツ語の手紙のうち、次の一節をオーストリーの将軍に読んで聞かせた。
『我らは約七万人より成る完全に集中されたる兵力を有す。しかるが故に、もし敵にしてレッヘ河 ドゥナイ河右岸の支流 を渡らんとせば、わが軍はこれを攻撃し粉砕するを得べし。また、わが軍はウルム市 ドゥナイの左岸に在る都会、要塞地 を占拠せるが故に、ドゥナイ両岸の制圧権掌握の利を有す。従って、もし敵軍レッヘを越えずしてドゥナイを渡らんと欲すれば、我は常にその交通線を襲い、下流よりドゥナイを越ゆるを得べし。しかして、敵軍もしその全力をわか信義深き同盟軍に集中せんと試みんか、わが軍は直ちに彼をしてその企図を遂げざらしむる事を得。かくの如くして、我らは意気軒昂、ロシア皇軍が完全に準備を終るの時を待ち、その後、相ともに敵を当然の運命に陥るるの可能を見出すこと、極めて易々たるを思う。』
 クトゥゾフはこの一節を読み終って、重々しく吐息をつきながら、注意ぶかく愛想のいい眼付きで軍事会議局の議員を眺めた。
「しかし、閣下、閣下はあの『常に最悪を予想せよ』と教える原則をご存じでしょう。」明らかに冗談はこれくらいにして、そろそろ本題に入りましょうと言いたげな調子で、ホーストリーの将軍はこう言った。
 彼は思わず副官の方をふり返った。
「ちょっとご免ください、将軍。」とクトゥゾフはさえぎって、これも同じくアンドレイ公爵の方へふり向いた。「ねえ、君、友軍の斥候の報告をすっかり、コズローフスキイのところから取って来てくれ。この二通の手紙はノスチッツ伯爵から、これはフェルジナソド大公から、それからこれは、」彼は幾通がの書類を取って公爵に渡しながら、「この書類の中から奇麗にフランス語で控書にして――つまり我々がオーストリー軍の行動に対して受け取った報告を、ぜんぶ一目瞭然とわかるように覚え書にして、閣下のごらんに入れるがいい。」
 アンドレイ公言はたんにクトゥゾフが言った事のみならず、言わんとして言い得なかった事まで、最初の数語で了解したという印に頭を下げた。そして、二人に対する会釈を一つして書類を集めると、静かに毛氈の上を歩きながら、控え室へ出て行った。
 アンドレイ公爵はロシアを出てからまだ幾程もたたないけれど、この間にいちじるしく変って来た。彼の顔の表情、動作、足どりなどに、以前のようなわざとらしさも、疲れただるそうな様子も殆どなくなっていた。自分が他人にいかかる印象を与えるか、というような事を考える暇さえなく、ただひた向きに愉快な面白い仕事に没頭している人のような様子をしていた。彼の顔は、むしろ、自分自身、ならびに自分をとりかこむ人々に対する満足の情をあらわし、その微笑と眼つきは前にもまして楽しげに、大をひきつけるようであった。
 彼はポーランドでクトゥゾフに追いついたが、総指揮官は優しく彼を迎え、けっして彼のことを忘れないと約束し、ほかの副官以上に抜擢して、自分と一しょにウィーンへもつれて行き、大よりも重大な任務を与えるのであった。ウィーンでクトゥゾフは、かつての同僚であるアンドレイ公爵の父に手紙を送った。
「貴下の御令息は」と彼は書いた。「事務の運転に長《た》けたる、意志の堅固なる、義務の遂行に忠実なる点において、儕輩《ともがら》に抽《ぬき》んでたる将校たるべき希望充分に御座侯。小官はかくの如き副官を左右に置き得る事を幸福とするものに候。」
 クトゥゾフの司令部における同僚の間でも、また一般軍隊においても、アンドレイ公爵はペテルペルグと同様に、ぜんぜん相反した二通りの評判をとっていた。少数の一部分は、アンドレイ公爵をなにか特別な、自分たちをはじめすべての人間と違ったもののように考えて、前途に偉大なる成功を期待し、彼の言葉に従い、彼に随喜の涙をこぼし、彼の言行を模倣した。これらの人々に対しては、彼も淡泊で気持のいい態度をとった。ところが、他の大多数はアンドレイ公爵を好まず、気取りやで冷淡な不快な男だと言った。しかし、この人達にたいしてもアンドレイ公爵は、たんに自分を尊敬させるのみならず、進んで恐れさせるようにさえふるまった。
 クトゥゾフの部屋から控え室へ出ると、アンドレイ公欝は書類をたずさえて、当直副官をしてる同僚のコズローフスキイに近づいた。こちらは本を持って窓のそばに腰かけていた。
「え、何だね、公爵?」とコズローフスキイはたずねた。
「なぜ我軍が前進しないかということで、覚え書を忤るように命じられたのさ。」
「それはなぜだい?」
 アンドレイ公爵は肩をちょいとすくめた。
「マックから報知はないかね?」コズローフスキイはきいた。
「ない。」
「もしマックが破れたというのが本当なら、報知がありそうなものじゃないか。」
「そうだろうね。」と答え、アンドレイ公爵は出口の扉の方へ進んだ。
 けれども、彼と出会い頭に、外からやって来たらしい背の高いすIストリーの将軍が、扉を手荒に開いて控え室へ入って来た。黒い布で頭を繃帯し、フロックの上からマリヤ・テレーゼの勲章を首にかけてした。
 アンドレイ公爵は立ち止まった。
「クトゥゾフ大将は?」外来のオーストリー将軍はあたりを見廻しながら、少しも立ち止まらずに書斎の戸口へ進み寄り、ごうごつしたドイツ式の発音で早口にこう言った。
「大将はいまご用談中です。」と、急ぎ足に見知らぬ将軍に近寄って、戸口に通ずる道をふさぎながら、コズローフスキイは言った。「何とお取次ぎしましょう?」
 見知らぬ将軍は、『どうして俺を知らずにいられるのだろう?』と驚いたように、背の低いコズローフスキイを軽蔑したらしい眼つきで上から見おろした。
「大将はご用談中です。」とコズローフスキイは落ちつきはらってくり返した。
 将軍の顔は苦々しそうになり、唇はぴくりとつってふるえ始めた。彼は手帳を取り出して手早く何やら鉛筆で認め、その一枚を引きちぎって渡すと、急ぎ足に窓へ近寄り、椅子の上にどかりと身を投げた。そして、なぜお前達は俺の顔を見るのだ? とたずねるような眼つきで部屋に居合わす人々を眺め廻した。それから、将軍は頭をもたげ、何やら言い出しそうに首をのばしたが。すぐ口の中で鼻歌でも歌うように、何やら異様な音を発した。が、それも忽ちとぎれてしまった。と、書斎の扉が開いて、しきいの上にクトゥゾフが姿を現わした。頭を巻いた将軍は、まるで危難を免れるような風情で、やせた足を大股にひろげ背中をかがめながら、忙かしげにクトゥゾフの方へ近寄った。 「Vous voyez le malheureux Mack.あなたの目の前に立っているのは不幸なるマックです。」と彼はひっちぎったような声で言った。
 書斎の戸口に立っていたクトウノフの顔は、暫く不動のままであった。やがて、不意に一脈の皺が波の如くその顔を走り、額はためらかになった。彼はうやうやしく頭を下げ、眼を閉じて、マックを中へ招じ入れ、自分で後手に扉を閉めた。
 オーストリー軍の敗北及びウルムにおける全軍の降伏に関しては、すでに前から風評がひろがっていたが、今やそれが事実として現われた。三十分後にはもうあらゆる方面へ副官が命令をもって駈け出した。それは今まで無為に過していたロシア軍も、程なく敵を迎えねばならぬことを証明するものであった。
 一般の戦局に自分のおもなる興味を向けている将校は、軍司令部にも極めて少いが、アンドレイ公爵はその一人であった。マックを見、またその敗滅の詳細を聞いたとき、彼はこの戦役がすでに半ば敗北に帰したこと、それに付随してロシア軍の立場の困難なことも了解した。そして、いかなる運命がわか軍を待ち設けているか、また自分はその中の一員として、いかなる役を勤めねばならぬかを、まざまざと想像したのである。かの自らたのむことあつきオーストリーが敗滅して、一週間後にはス
ヴォーロフ将軍以後はじめての、フランスとロシアの衝突に身みずから参加し、親しくその実況を見ることができる――彼はこう考えると、我ともなく波立つような歓喜の情を覚えた。しかし、彼はまたボナパルトの天才を恐れた。あるいはロシア全軍の勇気より、彼一人の方が更に強いかも知れぬと心配したが、それでも、おのれの崇拝する英雄の屈辱を想像することができなかった。
 こういう想念に激昂したり、いらいらしたりしながら、彼は毎日の日課としている父への手紙を書くために、自分の部屋へ赴いた。と、廊下で同宿のネスヴィーツキイと、例の冗談もののジェルコフに行き会った。二人はいつもの如く、何かおかしいのか笑い興じていた。
「君、何だってそんな澁い顔をしてるんだい?」蒼い顔をして眼を光らしているアンドレイ公爵に気がつくと、ネスヴィーツキイは声をかけた。
「浮かれる事なんか少しもないさ。」とボルコンスキイは答えた。 アンドレイ公爵がネスヴィーツキイとジェルコフに行き会ったとき、廊下の一方の端から、ロシア軍の糧食状況を視察のため、クトウソフの司令部に編入されていたシュトラウフというオーストリーの将軍と、前日到着した軍事会議局の議員が、彼等の方へ向けてやって来た。広い廊下は、二人の将軍が三人の将校をやり過すべく、充分の余地があった。しかし、シェルコフは肘でネスヴィーツキイをつきながら、息をはずませて言った。
「やってくるよ……やってくるよ……よけ給え、通り路だ!さあ通り路だ!」
 将軍たちは、自分らとして苦しい敬礼を受けたくないと言った様子で、わきを通り抜けようとした。冗談者のジェルコフの顔には、ふいにおろかしい悦びの微笑が現われ、それをおさえることができないと言ったふうである。 「閣下。」彼は前へ進み出て、オーストリー将軍の方へ向きながら、ドイツ語で言った。「謹んでお祝い申し上げます。」
 彼は小首を傾けて、つい近ごろ舞踏を習い始めた子供のように、不器用な恰好で片足ずつ代るがわる足ずりを始めた。
 軍事会議局評議員の将軍は、むずかしい顔をして彼を眺めた。しかしヽその糺ろかしい微笑のまじめさを見てとると、ただ一瞬の注意をこばむことができなかった。彼は眼を細めながら、聞いているよという心を示した。
「謹しんでお祝い申し上げます。マック将軍もまったく無事で到着なさいました。ただちょっとここんところを少しばかり怪我なすっただけで。」と満面を笑み輝かしながら、彼は自分の額を指さして言いたした。
 将軍は眉をしかめて顔をそむけ、さっさと歩き出した。
「Gott, wie naiv! おお、何という単純な男だろう。」二三歩離れたとき、彼は腹立たしげにこう言った。
 ネスヴィーツキイはからからと笑いながら、アンドレイ公爵に抱きついたが、ボルコンスキイはいっそう蒼くなって、毒々しい表情を浮かべながら、彼をつきのけ、ジェルコフの方へふり向いた。マックの姿、その敗報、ロシア軍を待ち設けている運命を思う心、これらのものに呼びさまされた神経的な忿激が、ジェルコフの場所がらをわきまえぬ洒落に対する怒りの中に、はけ口を見出したのである。
「君、もし君が、」と下頤を軽くふるわせながら、剌すような声で彼は言った。「もし君が道化師になりたいというなら、僕はその邪魔をするわけにゃ行かない。けれど、君に言っとくが、もし君が僕のいる所で、二度とあんなふざけたまねをあえてしたら、僕は君に紳士たる者の作法を教えて上げるから。」
 ネスヴィーツキイとジェルコフは、この言葉にひどく度胆をぬかれて、眼を円くしながら黙ってボルコンスキイを見つめていた。
「何も君そんなに、僕はただちょっとお祝いを言っただけなんですよ。」とジェルコフは言った。
「僕は君に冗談を言ってやしないんだよ、黙りたまえ!」とボルコンスキイは叫んだ。そして、ネスヴィーツキイの手をとって、何と答える言葉も知らず茫然と立っているジェルコフのそばを離れた。
「まあ、君、一たいどうしたんだね?」とネスヴィーツキイはなだめるように言った。
「どうしたとは何だね?」とボルコンスキイは興奮のあまり立ち止まって言った。「君はわかってるだろうね、我々は皇帝ならびに国家に仕え、友軍全体の成功を喜び、その失敗を悲しむ将校なのか、それとも主人の事には何の関係もないボーイなのか、一たいどっちなんだ?Quarante mille hommes massa_t;res el l‘arnlee (le nosallies(16truite「et vous trouvez la
1e mot pour rire. ?膕勁認埓練岫・″豐詫y」フランス語の文句で、自分の意見をたしかめようとするものの如く、彼は言った。「C‘est bien pour un gar90n de rien com―me cet m(livi(lu(10nt vous avez fait un amis mais pas pourvous.Das Dour v0  それも君が自分の友達にしているあの男みたいな、あんなっまらない小僧っ子なら我慢もできるが、君にはにて小僧っ子どもならあんな風にふざけるのもいいさ。」とアンドレイ公爵はこれだけロシア語で言ったが、まだジェルコフの耳に入りそうだったので、小僧っ子という言葉を、フランス風のアクセントで発音した。
 彼はこの少尉補がなにか返事をするだろうと思って待っていたが、少尉補はくるりと踵を返して廊下を出てしまった。

       四

 パヴログラード軽騎兵隊はブラウナウから二哩の所に屯《たむろ》していた。ニコライ・ロストフが見習士官として勤務している中隊は、ザルツェネクというドイツの村に配置されていた。全騎兵師団にヴァシカージェニーソフの名で響きわたっている中隊長ジェニーソフ大尉には、村でもよい方の宿舎があてがわれてあった。見習士官ロストフはポーランドで連隊に迫いついて以来、中隊長と同宿していた。
 十月十一日、即ち、マック敗戦の報告によって、本営内が何もかも一時に騒ぎ立った当日の事、騎兵中隊の参謀部では行軍生活が旧によって穏やかに流れていた。一晩じゅうかるたで敗け続けたジェニーソフは、まだ宿舎へ帰ってこなかった。この時、ロストフは、朝早く馬糧徴発を終って、馬上で帰隊した。見習士官の制服をつけたロストフは入口に近づくと、馬をとんと一突きして、青年らしいしなやかな身ぶりで片足をぬき、片足で暫く鐙の上に立つたまま、馬と別れたくないような風情であったが、とうとうひらりと飛びおりて伝騎を呼んだ。
「おい、ボンダレソコ、やっこさん!」一散に彼の馬を目かけて走って来る軽騎兵に向かって、彼は叫ぶのであった。「少し引き廻してくれ、な。」幸福を感じている瞬間に人のいい青年が誰にでも示すようなだれなれしい、楽しげな優しい調子で、彼はこう言った。
「かしこまりました。」愉快そうに頭をふりながら、小ロシア生まれの兵士が答えた。
「よく気をつけて引き廻すんだぞ!」
 いま一人の兵隊がやはり彼の馬の方へ飛んで来たが、もうボソダレソコが小較の手綱を後ろへはね返してしまった。察するところ、見習士官がたっぷり酒手をくれるので、この人に忠勤をはげむのは得になるらしかった。ロストフは頭から胴へかけて馬を撫で、入口の階段に立ち止まった。
『素敵だ! なかなかいい馬になるだろう!』と彼は考えた。そして、微笑を含んで刀を握り、拍車姥侑らしながら、玄関の階段を胝けのぼった。ジャケツを着て頭巾をかぶったドイツ人の家主は、又木を持って肥料を掻き出していたが、このとき牛小屋から顔をのぞけた。ロストフの粢が目に入るや否や、ドイツ人の顔は急に晴ればれしくなった。彼扛愉快らしく微笑し、眼をぱちくりさせて、「Sch6ns gut Morgen ! Sch6n「 gutUq9.11y:t讐混い」彼はこの青年に声をかけるのが、いかにも愉快だといったような調子でくり返した。
 {sch6n。neissix ! JmXi}」生きいきした顔からしばしも消えぬ悦ばしげな微笑をもって、ロストフはそう言った。「HOChOestreicher ! Hoch Russen ! Kaiser Alexander hoch !酊訌パ昌舒‰七賢甼。」彼はこのドイツ人がよくいう言葉をくり返しつつ、家主の方へ向いた。
 ドイツ人は笑いながら、とうとう牛小屋からすっかり出て来て、頭巾を引ったくって頭の上でひとふりし、「un(1(11e ganzeVyelt hoch !侃侃世)と叫んだ・ ロストフ自身もドイツ人と同じように、帽子を頭の上でうち    ウントーデイーガンツェーヴェルトーホツホ振り、「そして全世界万歳!」と笑いながら叫んだ。もっとも、牛小屋を掃除しでいるドイツ人にとっても、小隊を連れて秣を取りに行ったロストフにとっても、とくにこれという歓喜の原因はなかったが、両方とも幸福らしい喜悦と、へだてのない愛情をもって互に顔を見合わせ、互に愛し合っている印に頭をふると、笑い笑い別れて入ったIドイツ人は牛小屋へ、ロストフはジェニーソフと一しょに間借りしている百姓家へ。
「大尉殿はどうなすった?」連隊じゅうでも有名な横着もので通っている、ジェニーソフの従卒ラヴルーシカに、ロストフはこう問いかけた。
「昨夜からお帰りになりません。きっとお負けなすったんでしょうよ。」と、ラヴルーシカは答えた。「わっしはよく知ってますよ。もし勝ったのなら、早く帰ってご自慢なさいまさあ。ところが、朝になるまでお見えにならなかったら、つまりやられなすったんですよ。今にぶりぶりして帰ってこられますから。コーヒーを差し上げましょうか?」
「うん、くれ、くれ。」
 十分ばかりして、ラヴルーシカはコーヒーを持って来た。「お見えになりましたよ! さあ、大変だ!」と彼は言った。ロストフが窓をのぞいて見ると、家へ帰ってくるジェニーソフが目に入った。ジェニーソフは小柄な男で、顔は赤く、眼は黒くぎらぎらと輝き、髪もひげもくしやくしやして黒かった。彼はボタンをはずした軽騎兵服に、襞ののびた広い軽騎兵ズボンをはき、皺くちゃになった軽騎兵帽を阿弥陀にかぶっていた。彼は苡を垂れて、暗い顔つきをしながら玄関へ近づいた。
「ラヴーシカ。」と彼は叫んだ (彼はRの発音が出来なかったのである)。「さあ、ぬがさんか、間抜野郎!」
「そうおっしゃらなくたってぬがしているじゃありませんか。」とラヴルーツカの声が答える。
 「ああ! 君はもう起きたのかね。」部屋へ入って来ながら、ジェニーソフは声をかけた。
「ええ、ずっと前ですよ。」ロストフは言った。「僕はもう乾草を取りに行って、マチルデ隨を見て来ました。」
「へえそうかい! 俺は昨夜すっかりやられちゃったよ。まるで様あないや。」とジェニーソフは晤んだ。「何ちゅう運の悪いこった! 何ちゅう運の悪いこった! 君が行っちまうとすぐ、そんなふうになってしまったんだよ。おい、茶だ!」
 ジェニーソフは微笑でもするように、短い堅固な歯を現わして頏をしかめ、指の短い両手で、森のように逆立った濃い黒髪を、めもやめちゃに引っ掻き廻し始めた。
「何でまた俺はあんな鼠(ある将校の綽名《あだな》)の所へ行ったんだろう、いまいましい。」両手で額や顔をなでながら彼は言った。
「考えても見たまえ、一枚も、たった一枚のかるたも俺に当らんのだからなあ。」
 ジェニーソフは、このとき火をつけて渡されたパイプを取って、雁首を拳の中に握りしめ、火をぱっぱっと散らしながら、そのパイプで床を叩いて叫び続けるのであった。
「下らん物を賭けて、二倍賭けの札を殺してしまやあがる。」
 彼は火をそこいらじゅうへまきちらして、パイプを叩き割るとそのままほうり出してしまった。 ジェニーソフは暫く黙っていたが、ふいにきらきら光る黒い眼で愉快そうにロストフを眺めた。
「せめて女でもいりゃいいんだけれど、あすこでは飲むよりほかに仕方がないじゃないか。ああ、戦争でも早く始めりゃいいんだがなあ……おい、そこにいるのは誰だい?」と彼は扉の方へ声をかけた、扉の外に立ち止まった重い靴の音と、拍車のがちゃがちゃという響きと、そしてうやうやしい咳払いの声が聞えたので。
曹長殿です。」ラヴルーシカが言った。
 ジェニーソフはいっそう顔をしかめた。
「いやだな。」と彼はいくらかの金貨を入れてある藉口をなげ出した。「ロストフ、いい子だから、幾ら残ってるか勘定して、そして藉口を枕の下へ押し込んどいてくれ。」と言いすてて、彼は曹長の方へ出て行った。
 ロストフは金をとって、古いのや新しいのや入りまじった金貨を機械的に分け、奇麗に揃えながら、勘定を始めた。
「ああ、チェリヤーニンか! ご機嫌よう! 俺はきのう裸にされちゃったよ。」というジェニーソフの声が次の間から聞えだ。 「誰のところで? ブイコフのとこですか、あの鼠の?……私も知っていましたよ。」いま一人の細い声が響くと、続いて部屋の中ヘチェリヤーニン中尉が入って来た。やはり同じ中隊の将校である。
 ロストフは枕の下へ蟇口をおしこんで、さし出された小さなじめじめした手を握りしめた。チェリヤーニンは出征前に何かのわけで、近衛師団からこちらへ移されたのである。連隊での彼は品行方正であったが、人々は彼を好まなかっ言行。中々もことにロストフは、この将校に対するいわれなき嫌悪の念をおさえることもかくすこともできなかった。
「どうです、君、僕のグラーチヅクはどんなふうに仕えていますか?」と彼はきいた。(ダラーチックは、チェリヤーニンがロストフに売った予備の乗馬である。)
 中尉は決して話している当の相手の眼を見た事がない。彼の眼はいつもたえず物から物へ転じていた。
「僕は今さっき君が乗って行くのを見ましたよ……」
「いや、べつに、なかなかいい馬です。」とロストフは答えたが、その実、七百ルーブリで買ったこの馬は、半分の値うちもなかったのである。「ただ左の前足が折れ出しましてね……」と彼は言いたした。、「それは啼が割れたんですよ! 何でもありません。私が君に教え宜しょう、どんな鎹を打つたらいいか。」
「ええ、どうぞ教えて下さい。」とロストフは言った。
「教えますとも、教えますとも、秘密でも何でもないです。まったくあの馬にたいしては君は僕に感謝しますよ。」
「じゃ、早速つれてくるようにいいつけましょう。」
 ロストフはただチェリヤーニンのそばを逃げたさにこう言って、馬か引いてくるよういいつけに行った。
 玄関ではジェニーソフがパイプをくわえて闘の上にしゃがんだまま、何やら報告する特務曹長の言葉を聞いていた。ロストフの姿を見ると、ジェニーソフは眉をしかめ、チェリヤーニンのいる部屋を肩ごしに親指で示しながら、ちょっと顔をしかめていやらしそうに身ぶるいした。
「いや、実に、あのやっこさん大嫌いだ。」と彼は特務曹長がいるのもかまわずに言った。
 ロストフは『僕もです。しかし仕方がありません!』といったふうに肩をすくめた。そして、指図をしておいて、チェリヤーニンの方へ帰った。
 チェリヤーニンはロストフが出て行った時と同じ物臭そうな恰好で、小さな手をこすりながら坐っていた。
『よくこんなふうないや味な顔があるものだ!』部屋へ入りしなにロストフは考えた。
「どうです、馬をつれてくるようにいいつけましたか?」とチェリヤーニンは立ち上って、さりげなくあたりを見廻しながら言った。
「いいつけました。」
「どうです、それより自分で行って見ようじゃありませんか。私はただ昨日の命令のことを、ジェニーソフ大尉にきいて見ようと思って、ちょっと寄って見ただけなんですよ。あなたは命令を受け耿られましたか、大尉殿?」
「いや、まだだ、君はどこへ?」
「いや、私はこの人に、装蹄の仕方を教えようと思って。」とチェリヤーニンは答えた。
 二人は玄関へ出て廐の方へ行った。中尉は留釘の作り方を教え、自分の宿舎へ帰ってしまった。
 ロストフが帰って見ると、テーブルの上にはウォートカの壜が置いてあり、腸詰などもころかっていた。ジェニーソフはテーブルの前に坐って、ペソをがりがり鳴らしながら何か書いていた。彼は沈んだ顔をしてロストフを見上げて、
「彼女にやるんだ。」と言った。 彼は。ヘソを持った手でテーブルに頬杖つきながら、自分かいま書こうとしている事を、すっかり口で手っ取り早く言ってしまう機会が来だのを悦ぶかの如く、自分の手紙の内容をロストフにしやべってしまった。
「ねえ、そうだろう、君。」と彼は言った。「我々は恋をしない間は、ぼんやり眠ってるようなものだ。我々は塵芥の子と言ってもいいくらいだ……ところが、いったん恋に陥ると我々は神だ、我々は創造の第一日の如く清浄無垢だ……いったい誰がやらて来たんだ? 追っぱらっちまえ。いま忙しい!」と彼はラヴルーシカに向かってどなりつけたが、こちらはいささかもひるまず彼のそばへ寄った。
「誰がほかにくるもんですか! ご自分でこいとおっしやったんですもの。曹長殿がお金を取りにこられたのです。」
 ジェニーソフは眉をひそめて、何かどなりつけようとしたが、黙りこんでしまった。
「困った事になったぞ。」と彼は独りごとのように言った。「あの金入の中に幾ら残ってたかね?」と彼はロストフにきいた。
「新しい金貨が七枚に、古いのが三枚。」
「ああ、くそ、困ったぞ! おい、何をぼんやり突っ立ってるんだ、かかし野郎! 曹長をここへよこせ!」とジェニーソフはラヴルーシカに叫んだ。
「どうぞ大尉殿、僕の金を使って下さい、僕んとこに少々あるんですから。」とロストフは餒くなって言った。
「部下の者から借りるのはいやだ、いやだよ。」とジェニーソフはぶっぶっぼやいた。
「もしあなたが友達として僕の金を使って下さらなければ、僕を侮辱することになりますよ。ほんとに少々もってるんですから。」ロストフはくり返した。
「いやだというのに。」
 ジェニーソフは枕の下から金入を出そうと、寝台に近寄った。
「君どこへ置いたんだい、ロストフ?」
「下の方の枕の底へ。」
「ところがないぜ。」
 ジェニーソフは枕を両方とも床の上へほうり出した。金入はなかった。
「こいつは奇態だ!」
「待って下さい。あなた落しゃしなかったですか?」と言い、ロストフは枕を一つずつ持ち上げて、それをふって見た。
 彼はまた掛蒲団をとってふるっても見た。が、金入はなかった。
「じゃ、僕が忘れたのかしらん? いや、僕は大尉殿がいつも宝物か何ぞのように、枕の下へ入れるのを思い出して、」とロストフが言った。「それで僕もあすこへ入れて置いたんです。いったいどこにあるのだ?」彼はラヴルーシカに問いかけた。
「私はここへ入らなかったのですから、あなたがお置きになったとこにあるはずです。」
「だって、ないじゃないか……」
「あなたはいつも出たら目なとこへ投げ出して、そして直ぐ忘れておしまいなさるんですよ。衣嚢をごらんなさいまし。」
「いや、もし僕が宝物のことを思い出さなかったら、とにかくだけれども、」とロストフは言った。「僕はここへ置いたのを覚えているんだ。」
 ラヴルーシカは寝床をすっかり引っくりかえして見たり、寝台やテーブルの下をのぞいて見たりして、部屋じゅうをかき廻したあげく、部屋の真ん中へ突っ立った。ジェニーソフは無言のままラヴルーシカの動作を見守っていたが、やがてラヴルーシカが「どこにもありません」と言って、びっくりしたように両手をひろげたとき、彼はロストフの方へふり向いた。
「ロストフ、子供のようなまねはもう……」
 ロストフは自分の上にジェニーソフの視線を感じ、ちょっと眼を上げたが、またすぐその瞬間に伏せてしまった。今までどこか咽喉の下の辺に閉じこめられていた血が、一時に彼の顔と眼へ押し寄せたのである。彼は息をつぐことができなかった。
「それに、部屋の中にも、中尉殿とあなたのほか、誰一人いなかったのですから。どこかその辺に……」とラヴルーシカが言う。
「さあ、貴様、こん畜生、よくその辺をきりきり舞して探して見ろ。」ジェニーソフは顔を紫色にしながら、今にも従僕に飛びかかりそうな、恐ろしい身ぶりをしてこう叫んだ。「金入を出せ、さもなくば打ちのめすぞ! どいつもこいつもみんな打ちのめしてくれる!」
 ロストフはジェニーソフを見廻しつつ、服のボタンをかけはじめた。そして、刀を吊り帽子をかぶった。
「さっきから言っているじやないか、金入が出なかったら承知しないぞ。」とジェニーソフは従卒の肩をつかんでふり廻しながら、壁へぐんぐん押しつけ押しつけどなるのであった。
「大尉殿、そいつを打っちゃっておきなさい。僕は誰が取ったか知っています。」
 ロストフは戸口へ近づきつつ、やはり伏せた眼を上げないでこう言った。
 ジェニーソフは立ち止まってちょっと考えたが、ロストフの暗示を了解したらしく、急いでその手をつかまえた。
「馬鹿な!」彼は繩のような血管が首筋や額に浮くほど、大きな声で叫んだ。「おい、君はいったい気でもちがったのか、俺はそんな事をさせやしない。金入はここにあるんだ! 俺が今この極道ものの生皮をひんむいてくれるから。今に出して見せるよ。」
「僕は誰がとったか知っています。」とロストフはふるえ声でくり返し、戸口へ向けて歩き出した。
「俺の言っている事がわからんのか、そんな馬鹿をさしゃせんぞ!」ジェニーソフは若い見習士官を止めようとして、飛びかかりながらわめいた。
 しかし、ロストフはその手をふりほどいた。そして、まるでジェニーソフが自分にとって不具戴天の敵ででもあるように、さも憎々しげに真正面にきっと彼を見つめた。
「大尉殿は自分で自分の言ってる事がわかりますか?」と彼はふるえ声で言った。「僕より他には、誰もこの部屋の中にいなかったじやありませんか。だから、もしそうでないとすれば、つまり……」
 彼はしまいまで言うことができず、その部屋を胝け出してしまった。
「ちょっ、こん畜生! 勝手にするがいい、どいつもこいつも。」というのが、ロストフの聞いた最後の言葉であった。
 ロストフはチェリヤーニンの宿舎へやって来た。
「中尉殿はおいでになりません。司令部へお出かけになりました。」とチェリヤーニンの従卒が言った。「それとも何か変った事でもできたのでありますか?」見習士官のただならぬ顔色に鶩いて、従卒はそうきいた。
「いいや、何も。」
「ついさきほどお出かけになったばかりです。」と従卒は言った。
 軍司令部はザルツェネクから三露里ばかりの距離にあった。ロストフは宿舎へも寄らずに、馬を借りて司令部の方へ出かけた。司令部の置いてある村に、将校連を常客にしている酒場があらだ。ロストフはその酒場へ行ってみた。と、入口の階段の傍にチェリヤーニンの馬がつないであった。
 酒場では奥の方の部屋に、ウインナーソーセージの皿の葡萄酒の壜を前にすえて、中尉が陣取っていた。
「あ、君もやって来ましたね!」と、高く眉をつり上げてほほ笑みながら、チェリヤーニンが言った。
「ええ。」とロストフは応えたが、このひと言をいうのに非常な努力を要したらしかった。彼は隣のテーブルに座を占めた。
 二人はしばらく無言でいた。部屋の中には二人のドイツ人と、一人のロシア将校が居合わせた。みんな一様に黙りこんで、刀《ナイフ》の皿に当る響と、中尉がむしゃむしゃ口を動かす賁が聞えるのみであった。チェリヤーニンは食事をおえると、衣嚢から二重づくりの箝口を取り出して、そり返った小さな白い指で、食い違いになった口金を押し開き、金貨を一つつまみ出し、眉龠つり上げながら、給仕に渡した。
「どうか早くしてくれ給えな。」と彼は言った。
 金貨は新しかった。ロストフは立ち上って、チェリヤーニンに近寄った。
「ちょっと僕にその箝口を見せて下さい」と彼は低い、聞えるか聞えないかの声で言った。
 チェリヤーニンは眼をきょろきょろさせながら、それでもやはり眉を高くつり上げたまま、藉口を渡した。
「そう、ちょっといい箝口ですよ……そう……」と彼は言ったが、ふいにさっと蒼くなって、「さあ、ごらんなさい。」とつけたした。 ロストフは箝口を手に取って、その箝口と、中に入っている金と、チェリヤーニンとを代るがわる見くらべた。中尉は例のくせであたりを見廻していたが、急に恐ろしく愉快そうな顔付きになった。
「ウイーンへ着いたら、何もかもそっくらまいて行くんだが、いまこんなやくざな町にばかりいる中は、まるで費い途がないですよ。」と彼は言った。「さあ、返してください、君、僕はもう出かけるから。」
 ロストフはおし黙っていた。
「君、どうしたんです? やはり食事をしようと言うんですか? なかなかうまいものを食べさせてくれますよ。」とチェリヤーニンは語り続けた。「さあ、よこしなさいと言うのに。」
 彼は千をのばして箝口をつかんだ。ロストフはそれを手から放した。チェリヤーニンは箝口を取って乗馬ズボンのポケットにしまいながら、眉を吊り上げ、かすかに口を聞いた。その様子は、『さよう、さよう、自分で自分の箝口をポケットにしまっているんですよ。まったくのところ、つまらんお話で、なにも人の知った事じゃないです。』と言うようであった。
「え、どうです、君?」彼は歎息して、吊り上げた眉の下から、ロストフの眼をちらと見て言った。
 なにか一種の光が電光のひらめきにも似た早さで、チェリヤーニンの眼からロストフの眼の中へ流れこんだ。と、今度はその反対に、またその反対に……しかも、それがほんの一転瞬の間に行われたのである。
「こっちへ来て下さい。」
 ロストフはチェリヤーニンの手をとってこう言った(彼はほとんど相手をしょっぴくようにして、窓のそばへっれて来た)。「これはジェニーソフ大尉の金です。あなたはこれを取って来たのです……」と彼は相手の耳の上でささやいた。
「何ですと?………何ですと?………どうして君はそんな失敬な事を? 何を言うんです冫………」とチェリヤーニンはつぶやいた。
 しかし、これらの言葉は哀れっぽい絶望の叫びか、赦しを求める歎願のように響いた。この声の響きを聞くや否や、ロストフの心から大きな疑惑の石がとれたような気がした。彼は歓喜の念を覚えたが、それと同時に、自分の前に立っているこの不幸な男が、可哀そうになって来た。しかし、一たん火蓋を切った事件は、結着まで持って行かねばならなかった。
「ここでは人が何を考えるかわからないから、」チェリヤーニンは帽子を取って、小さな空間へ足を運びながらつぶやいた。
「よくわかるように話をしなければ……」
「ぼく知っています。ぼく証明してお目にかけます。」とロストフが言った。
「ぼくは……」
 おびえたような蒼白いチェリヤーニンの顔の筋肉は、一本一本ふるえ始めた。眼は依然としてきょときょと動いていたが、それはどこかずっと下の方で、ロストフの顔まで上らなかった。と、急にすすり泣きの声が聞えた。
「伯爵!………未来のある若い男の一生を滅ぼさないで下さい……さあ、ここにあの因果な金があります。どうぞ取って下さい……」と彼はテーブルの上に金をほうり出した。「私には年とった父と母があるんです!」
 ロストフはチェリヤーニンの視線をさけなから、金を拾い上げ、二百も発しないで部屋を出て行った。が、戸口の所で立ち止まって、またつかつかとひっ返した。「ああ本当に、」と彼は両眼に涙を浮かべながら言った。「君はどうしてそんな事をする気になったんです。」
「伯爵……」チェリヤーニンは見習士官の方へ近寄りながら言った。
「僕にさわらないで下さい。」とロストフは身をさけながら口走った。「もしおいり用なら、この金を取っておおきなさい。」彼は蟇口を相手に投げっけて、酒場から駈け出した。

      五

 その晩、ジェニーソフの宿舎へ中隊の将校たちが集まって、熱したはげしい調子でなにやら論じ合っている。
「わからんな、ロストフ君、君は連隊長に謝罪しなけりやならんと言っているんだよ。」背の高い二等大尉が、興奮して真赤になっているロストフに向かって、こう言った。毛の胡麻塩にな夕かかった、鼻ひげの大きな人で、皺がよっているけれど、輪郭の大まかな顔だちである。
 この二等大尉キルステンは決闘のために、二度まで奪官され
て列兵になり下り、二度とも勤め上げて復官した人である。
「僕はたとえ相手がどんな人であろうと、嘘をつくなどと言われて、黙っているわけにゆきません!」とロストフは叫んだ。
「連隊長が僕を嘘つきだと言われたから、僕も連隊長を嘘つきだと言ったんです。ええ、その事実は依然として変りません。当番なら毎日でも僕にいいつけるがいい、禁錮にされたってかまやしない。だが、僕は淮がなんと言おうと謝罪なんかしやしません。もしあの人が連隊長だからって、僕に満足を与える価値がないと考えるなら……」
「まあ、君、待ちたまえ、まあ、君、僕のいう事を聞きたまえ。」と二等大尉は長いひげをなでながら、持ち前の低声でまたさえぎる。「君はほかの将校のいる前で、ある一人の将校が泥棒を働いたなんて、連隊長に言ったじゃないか……」
「ほかの将校のいる前で、ふいと話がそちらヘモれたんだから、なにも僕の罪じゃありません。いや、或いは、他の将校の前で話すのは、いけなかったかも知れません。しかし、僕は外交家じゃありませんからね。それがために僕は軽騎兵になったんですよ。僕はここへくれば、そんな微妙なかけひきは不必要だと思っていました。それだのに、連隊長は僕が嘘をつくなんて言うんですもの………いや、僕は連隊長に満足のできる方法を講じて貰います……」
「それはみんなその通りだよ、けっして誰も君のことを、臆病者だともなんとも言やしない。それに、問題はそんな所にあるのじゃない。まあ、君、ジェニーソフ大尉にもきいて見給え。そもそも見習士官が連隊長に満足を要求するなんて、一たいなんということだろう……」
 ジェニーソフはこの話に干渉したくないらしい様子で、沈みがちな顔付きをし、口ひげを噛みながら傍聴していたが、二等大尉の問に対しては頭をふって見せた。 『「君は他の将校のいる前で、あんな醜聞を連隊長の耳に入れたから、ボグダーヌイチも(みんな連隊長の事をボグダーヌイチと呼んでいた)、君をやりこめたんだよ。」と二等大尉は続けた。
「やりこめたんじゃありません。僕が嘘をつくと言ったんです。」
「しかし、まあ、君も連隊長にずいぶんばかな事を言い散らしたんだから、やっぱり謝罪する必要があるよ。」
「決して、決して!」とロストフは叫んだ。
「どうも君がそんな事を言おうとは思いがけなかったよ。」と二等大尉はまじめな鐓かな調子で言った。「君は謝罪しないと一言うけれどね、君は隊長一人に対してのみならず、連隊全部、僕ら一同に対して責任があるんだよ。それはこういうわけだ。もし君がよく思案して、この事件についていかなる態度を取るべきか、みんなに相談してくれたらとにかくだが、君はいきなり、しかも将校たちの前でぶちまけてしまったじゃないか。この際、連隊長はどうしたらいいか? その将校を軍法会議に渡して、連隊全部に泥を塗るべきだろうか? たった一人のやくざ者のために、連隊全部の恥をさらすべきだろうか? ぜんたい君の考えではそうなのかね? ところが。僕らの考えはそうじゃない・そこでボグダーヌイチはさすがに感心だ、君が贐を
つくと言ったんだ。それは、もちろん、不快に相違なしさ。けれど、君、仕方がないよ、君がそそっかしいんだものね。で、今こうして皆が事件をもみ消そうとしているのに、君は何かしらくだらん依怙地のために謝罪をこばんで、何もかもしゃべってしまおうとしている。君は当直を命ぜられたのが口惜しいだろうけれど、ああした年長の潔白な上長官に謝罪するのか一たいなんだね? ボグダーヌイチはなんと言っても、とにかく、高潔で勇敢な世故に長けた連隊長だ。それでも、君は謝罪するのが口惜しいというのかい? 連隊に泥を塗るのは何ともないのかい?」二等大尉の声はふるえ始めた。「ねえ、君は連隊の中では昨日今日の人間だ。今はここにいるけれど、明日にもどこかの副官に転任されていっちまう。だから君は、ツ『ヴログラードの将校連の中には泥棒がいる!』と言われたってかまやしないだろう。ところが、僕らにとっては、どうだっていいじゃすまん、え、え、そうじゃないか、ジェニーソフ君? どうでもよくはないだろう?」
 ジェニーソフは時々そのぎらぎら輝く黒い眼で、ロストフの方を見やりながら、始めからしまいまで黙ったまま身動きもしなかった。
「君は自分の依怙地が大切だから、謝罪するのがいやだろうが、」と二等大尉は語をついだ。「われわれ老人連はこの連隊で成人して、事によったら、この連隊で死ぬかもしれないんだから、隊の名誉の方が大切だ。連隊長もこの事をよく知っていられる。ああ、本当に大切たんだよ、君! ね、君の考えはよくない! 君が腹を立てようと立てまいと、僕はいつも本当の事を言うよ、実際よくない!」
 二等大尉は席を立って、ロストフに背を向けた。
「実際だ、違いない!」とジェニーソフは飛び上りながらわめいた。「どうだ、ロストフ! さあ、どうだ。」
 ロストフは耐くなったり蒼くなったりして、将校たちの顔を代るがわる見くらべていた。
「違います、違います……皆さんそんなふうに取らないでください……僕はよくわかっているんです。僕のことをそんなふうに考えて貰っては困ります……僕は、僕にとって……僕は連隊の名誉のために………ええ、くぞ、僕はそれを事実において証明します。僕に取っては連隊旗の名誉が……いや、なんのかの言うことはない、まったく僕が悪かったです!」彼の両眼には涙が浮かんだ。「僕が悪かったんです、何もかも俟がみんな悪いんです!……さあ、この上どうしろとおっしゃるんですか?……」
「いや、そうなくちゃならんよ、伯爵。」二等大尉はくるりと向きを変えて、大きな手で彼の肩を叩きとがら叫んだ。
「だから俺が君に言ったのさ。」ジェニーソフはわめいた。「この男は、じつに可愛い男なんだよ。」
「それでこそ、さすがに君だよ、伯爵。」今の告白に対して尊称を用いると言ったように、二等大尉はこうくり返した。「じゃ、これから行って謝罪して来たまえ、ね、伯爵。」
「皆さん、僕は何でもします、誰にも口答えなぞしやしません。」とロストフは哀願するような調子で言い出した。「しかし、謝るわけにはゆきません、どうしてもできません、何と思われようと仕方がありません! どうして僕に謝罪ができますか、子供みたいにお詫びが言えますか?」
 ジェニーソフは笑い出した。
「かえって君のためにならんよ。ボグダーヌイチ氏は意地わるく物事をよく覚えているから、そんな強情をはると仇を討たれるぞ。」とキルステンは言った。
「誓って強情じゃありません! これがどんな心持か、僕には言えないんです、とても言えない……」
「じゃ、君の勝手にしたまえ。」と二等大尉は言った。「ときに、あの極道野郎はどこへいったね?」と彼はジェニーソフにきいた。
「仮病を使いやがった。あす命令で除名になるはずだ。」とジェニーソフが答えた。
「あれは病気だね、ほかに解釈の仕様がない。」と二等大尉は言った。
「病気だろうと病気でなかろうと、もし今後おれの目にはいって見ろ、ぶち殺してくれるんだ。」ジェニーソフは獰猛《どうもう》な声でどなった。
 部屋の中ヘジェルコフが入って来た。
「君どうして?」とふいに将校連はその方へふり向いた。
「進軍だ! 進軍だ! マックが降伏してしまった。しかも、全軍をひっさげてすっかりたんだ。」
「嘘をつけ!」
「この目で見て来たんだよ。」 「なんだ? 生きたマックを見だのかい? 手も足もついてる?」
「進軍だ! 進軍だ! こんな報告を持ってきたんだから、すべからく一壜抜くべしだ。貴様どうしてここへやってきたんだ?」 「じつはマックの野郎のおかげでまた連隊へ戻されたんだよ。オーストリーの将軍が苦情を言やがったのさ。僕はマッダの到着を祝っただけなんだがね……君どうしたんだい、ロストフ、まるで風呂から上ったような顔をしてさ?」
「うちでは君、もう昨日からえらいごった騒ぎよ。」
 やがて、連隊副官が入ってきて、ジェルコフのもたらした報道を確かめた。あす進出との命令である。
「諸君、進軍だぞ!」
「やれやれ有難い、まったく坐りくたびれちゃった。」

      六

 総指揮官クトゥゾフはインナ河緊い贊市や、トラウソ河バ昌幄の橋梁を、味方が渡り終ると共に破壊しながら、ウィーンに向かって退却した。十月二十三日、ロシア軍はエソス河を波っていた。軍の輜重や砲兵や歩兵の縦列が、その日の昼頃には、エソスの町を貫いて、川の両岸に続いた。 それはなま暖い秋らしい雨もよいの日であった。橋梁掩護のために砲兵中隊を置いた高地から、限りもなく展開されている広々とした遠望は、突然ななめに降りっける雨のために、レース織りのカーテンを引いたようになるかと思うと、また、急にからっとひらけてくる。そして、太陽の光に事々物々は、こと
ごとく漆でも塗ったようになって、遠く鮮かに見わけら内切であった。足もとには白い家、赤い屋根、寺院、橋などを点綴した小さな市街が手に取るように見える。橋の両側にはロシア軍の大集団がうようよぞろぞろと流れ動いている。ドゥナイ河のI曲りしている所には、船や島や城などが見渡され、城の庭はエソスからドゥナイ河へ落ちる水にかこまれていた。ドゥナイの左岸は岩の多い切り岸になっていて、松の林がその上をおおうている。緑の梢が重なり合っている遠い頂は神秘めかしい趣をおび、蜒になって入りこんだ所は蒼みがかって見える・斧を入れたことのないらしい野生の松林の陰からは、僧院の塔がぬきんでて見える。’エソス対岸の遠い山の上には、敵の斥候騎兵が指点された。 高地にすえた大砲の間には、後衛の指揮をしている将軍が、幕僚の将校を一名つれて、望遠鏡で地形を観望している。それから少し後ろの方には、総指揮官から後衛へ派遣されたネスヴィーツキイが砲身に腰をかけている。ネスヴィーツキイについてきたコサックが袋と水筒を渡すと、ネスヴィーツキイは将校たちに、菓子や本物のドッペリーキュムメル酒をふるまった。将校たちは膝をついたり、濕った草の上にあぐらを組んだりして、嬉しそうに彼を取巻いた。 「あすこへ城を建てたオーストリーの王は、まんざら馬鹿でもなかったと見える。なかなかいい場所だ! どうして皆さん食べないのです?」とネスヴィーツキイは言った。
「どうも有難う、公欝。」と一人の将校が答えた。察するところ、こういう立派な司令部の役員と話すのが、愉快でたまらぬらしかった。「じつに見事な場所ですね。僕らもあの庭のそばを通りましたが、鹿を二匹みつけましたよ。それに、家もまったく壮麗なものです!」
「ごらんなさい、公認。」といま一人の将校が言った。この男はもう一つ菓子をつまみたいのだけれど、たんだか気がとがめるので、地形を観察しているようなふりをしていた。「ごらんなさい、もう味方の歩兵があすこまでいってしまいました。ほら、あの村の向うの草場で、三人の男がなにやら引っぱっていますよ。あいつらこの宮殿をめもやめちゃにしてしまうでしょうよ。』いかにもわが意を得たりというように、彼はそう言った。
「それもそうですね。」とネスヴィーツキイは言った。「いや、しかし、私の希望を打ち明けてお話するとですね。」美しい沾いのある口で菓子を噛みなから彼はつけたした。「ほら、あすこん処へ入りこみたいんですよ。」
 彼は山の上に見える塔のついた僧院を指さすのであった。彼はこう言ってほほ笑んだが、その眼は細くなって輝き出した。
「どうです、面白いでしょうな、皆さん!」
 将校たちは笑った。
「あすこの尼さんたちを、せめて、ちょっとおどかしてやりたいですね。なんでも若いイタリー娘が大分いるような話ですよ。全くのところ、五年くらいは棒に振ってもかまいませんねえ!」
「実際、尼さんたちだって退屈でしょうからなあ。」ほかの仲間より少し大胆なのが、笑いながら、こう言った。
 その間に、前に立っていた幕僚将校は、将軍にむかって何やら指さして見せた。将軍は望遠鏡をのぞいて見て、
「ふん、はたしてそうだ、はたしてそうだ。」望遠鏡を限から離して肩をすくめながら、将軍は腹だたしげに言った。「はたしてそうだ、渡河点を砲撃しようとしてる。あすこでまた、何故あんなにぐずぐずしてるんだろう?」
 対岸に敵がいて、その砲兵隊が牛乳のような白い煙を立てているのは、肉眼でもよく見えた。煙に続いて遠い発射の音が響き渡った。そして、味方の軍隊が渡河を急いでいる様も目に入った。
 ネスヴィーツキイはふうと息をついて立ち上り、ほほ笑みながら将軍の方へ近づいた。
「閣下、一口めし上りませんか?」と彼は言った。
「どうも工合が悪いな。」将軍は彼の言葉に返辞しないでこう言った。「味方がぐずぐずしているもんだから。」
「ひとつ出かけて来ましょうか、閣下?」とネスヴィーツキイは言った。
「そうだね、出かけて見てくれ給え、ご苦労だが。」もう前に一度くわしく命令した事を、またくり返しながら将軍は言った。「それから、これはもう命令した事なんだが、軽騎兵にそう言ってくれ、最後に渡ってしまってから橋を焼くようにな。ああ、それから橋の上にある可燃物を、もうてへんよく見るように。」
「承知いたしました。」ネスヴィーツキイは答えた。
 彼は馬をもったコサックを呼び、袋や水筒をかたづけるように命じたのち、その重い体を軽々と鞍の上にすえた。
「さあ、いよいよ尼さんたちの所へ行きますよ。」自分の方を微笑を浮かべながら眺めている将校たちにそう言って、彼はうねうねした径づたいに山を下り始めた。
「どうだね、どの辺まで届くかひとつやって見るかね、大尉!」将軍は砲兵将校に向かって声をかけた。「退屈しのぎになってよかろう。」
「集まれ!」と将校は号令を下した。
 一瞬にして、砲卒らは、愉快げに焚火のかげから駈け出し、装填を始めた。
「第一火砲うて!」という号令が聞えだ。
 と、第一号車が勢よく後ろの方へ跳ね返った。金属性の余韻を引いて砲ががんと鳴ったと思うと、榴弾は山の下にいる友軍の頭上をひゅうとかすめて飛び去った。が、遠く敵まではとどかず、煙で落下の場所を示すと同時に、爆発した。
 兵士の顔も将校の顔も、この音とともに急に愉快そうになった。一同たち上って、掌を指すように見える友軍の行動と、近づき来たる敵軍の行動を観察にかかった。太陽はこの瞬間すっかり雲の間から出てしまった。そして、この美しいただ一発の大砲の響と、まぶしい太陽の輝きは互に融け合って、一つの勇ましい諄々した印象を生むのであった。

      七

 すでに敵弾が二箇所かすめていったので、橋の上は恐ろしい混雑であった。橋の中ほどではネスヴィーツキイが馬からおりて肥満した体を欄干におしつけられたまま立ち往生している。彼は、苦笑しながら、後ろに立っているコサックをふり返って見た。コサックは二頭の馬の手綱を控えて三、四歩うしろの方にたたずんでいる。ネスヴィーツキイ公認がちょっと動き出そうとすると、すぐまた兵隊や輜重が突っかかってきて、またもや彼を欄干におしつけるのであった。彼はもう苦笑しているより仕方がなかった。
「おいおい、どうしようってんだ、君!」車輪や馬のすぐそばでおし合いへし合いしている歩兵の方へ、車輪をもって突っかかってくる砲兵輜重卒に向かって、コサックはこう言った。
「なんてひでえ奴だ! おい、待ってくれんか。見ろ、閣下の通り路がないじやないか。」
 しかし、砲兵輜重卒は閣下という呼び声にびくともしないで、自分の道を邪魔する兵士らにどなった。「おい! 兄弟、左の方へ寄ってくれんか、おい、待て!」けれども、兄弟らは肩と肩をすり合わし、銃剣と銃剣をからませながら、艤の這い出る隙もない一つの塊りとなって、ぞろぞろ橋の上を動いて行く。ネスヴイーツキイ公爵が欄干から下を覗くと、あまり高くないけれど、騒々しい音を立てて矢のように流れて行くエンスの河波が、相寄って一しょになったり、皺を作ったり、。橋桁の所で曲線を描いたりしながら、互に追っかけっこをしているのが目に入った。眸を橋の上へ転じると、ここにも同じ単調な兵士の生きた波が動いている。房のついた紐、日蔽のかぶさった軍帽、背嚢、銃剣、長い銃、軍帽の下から見える顴骨の高い、頬の肉の落ちこんだ、疲れ切。つて無心の表情を浮かべた顔、橋板の上に持ちこまれた、ねばこい泥を踏んで動く足、Iこうした単調な兵士の波の間に、さながらエンスの河上に浮かぶ白い泡の如く、兵隊とはどこか違った容貌を備えたマントの将校が、兵士らの間をすりぬけて行く。また時とすると、河面をくるくる舞って行く木片のように、徒歩の軽騎兵や従卒や町の住民などが、歩兵の波に取巻かれて橋上を流れて行く。またどうかすると、河を流れ下る丸太のように、ふちまで荷物を積み上げて皮の蔽いをかけた中隊行李、もしくは将校用行李が、四方から人波に耿巻かれながら泳いで行った。
「まるで堤防が切れたようだなあ。」コサックは駄目だと言ったように、立ちどまってこう言った。「まだ大勢あっちにおるかね?」
「百万に一人足りねえ!」折ふしそばちかく通りかかった、ぼろぼろ外套の剽軽な兵士が、瞬きしながら、そう言って姿をかくした。その後からまたべつな年とった兵士がやって来た。
「今に見ろ、きゃつが(きゃつとは敵のことである)この橋を目かけて火玉を浴びせるから。」老兵士は仲間の者に向かって、沈んだ調子で言った。「身うちのかゆいのも忘れてしまわあ。」
 やがて、この兵士も通り過ぎた。それに続いて、いま一人の兵士が貨車に乗ってさしかかった。
「どこへ脚絆を突っこみやがったんだろう、こん畜生!」一人の従卒が、貶足で車の後からついて走りながら、荷物の中をかき廻しかき廻しこう言った。
 と、この男も貨車とともに過ぎてしまった。その後から、一ぱいひっかけたらしい陽気な兵士がふたり歩いて来た。
「どうだったい、お前、あいつが床尾でもって小っぴどくなぐりつけた事はどうだ、歯の真上をよ……」高く外套の裾をまくし上げて、大きく手を振りながら、一人の兵士が嬉しそうに言う。
「おお、それよ、まったく結構なハムだったよ。」いま一人がからからと笑いながら答える。
 この連中もまた行ってしまった。で、ネスヴイーツキイは、だれが歯の真上をなぐられたのか、ハムがいったい何に関係しているのか、知ることができなかった。
「何だってこうあわてやがるんだろう! 敵に熱いやつを一つお見舞されたので、みな殺しにされるとでも思ってるんだろう。」とある下士が腹立たしげな、非難するような調子で言った。
「なあ、伯父貴、あの俺のそばをひゅうと飛んで行った時はどうだったろう、その、弾丸がよ。」大きな口をした若い兵隊が、やっとの事で笑をこらえながら言う。「おりや気が遠くなっちまったぜ。まったく本当におったまげちゃったよ、くわばら、くわばら!」まるでこの兵隊は自分がおったまげたのを、自慢でもするような調子であった。
 これもたちまち通り過ぎた。その後から、今までのとすっかりふうの違った貨車が続いて来た。それは家一軒つみこんだかと思われるほど、かさばったドイツ式のフオルシこ(ソが、二頭の馬にひかれてくるのであった。ドイツ人の追って行くこのフォルツこ(ソの後ろには、乳房の大きな美しい斑の牝牛がつながれていた。羽根蒲団の上には乳呑児を抱えた老女と、頬の紫色に見えるほど赤い、丈夫らしい若いドイツ娘が坐っていたが、これは見受けたところ土地の住民で、立ちのきのため、特別に通行を許されたものらしい。兵士らの目はいっせいに二人の女へ向けられた。そして、車がのろのろと通り過ぎるあいだじゅう、兵士らの言葉はことごとくこの女達に関係していた。人々の顔にはほとんど一様にこの娘にかんする淫らな想念を現わす微笑が浮かんでいた。
「やい、腸詰野郎、やはり立ちのいてやがるな!」
「別嬪さんを売らねえか。」言葉尻に力を入れて、いま一人の兵隊がドイツ人にむかってそう言った。こちらは伏目がちに腹立たしげな、しかし、おびえたようなふうつきで、大股に歩いて行った。
「ちぇッ、めかしてる事はどうだ! ようよう、こん畜生!」
「フェドートフ、貴様あいつらんとこの宿舎にいったらいいだろう。」
「素敵でねえか、おい!」
「お前さんどこへ行くんだね?」林檎を食べていた歩兵の将校が、やはりなかばほほ笑んで、美しい娘を眺めながらたずねた。
 ドイツ人は眼を閉じて、わからんという様子をして見せた。
「ほしかったらやろうか。」と、娘に林檎を出しながら将校は言った。
 娘はにっこり笑って受け取った。ネスヴィーツキイは車が行ってしまうまで、多分にもれず橋の上にいたすべての人と同様に、女だちから目を離さなかった。女たちが通り過ぎてしまうと、またもや同じような兵士らが、同じような話をしながら、ぞろぞろ歩いていたが、ついに一同ぴったり歩みをとめてしまった。よくある事だが、橋の出口のところで中隊行李の馬が澁り始めたので、群衆はことごとくそれを待っていなければならなかったのである。
「なんだってぼんやり突っ立ってるんだい? 規律もなにもあったもんじゃねえ!」と兵士らは罵った。「なにをそんなに押すんだい? こん畜生! ちっとも待つってことができねえんだ。敞が橋を焼いたらいい面の皮だぞ。見ろ、将校をおしつけちまったあ。」立ち止まった群衆は互に顔を見合わせつつ、四方八方からがやがや騒ぎ立て、しだいしだいに出口の方へおして行く。
 橋の下のエソスの河水を見おろしたとたん、ふいにネスヴィーツキイは、自分にとって、新しい一種の音響を耳にした。それはなにかしら急激に近づいてくる……なにかしら大きな……なにかしらばちゃりと水の中に落ちた物の音であった。
「やい、どこへ飛ばすんだ!」そば近く立っていた一人の兵士が、音のした方をふり返って見ながら、いかつい調子で言った。 「早く通ってしまえって元気をつけてくれるんだよ。」といま一人が不安らしい声で言った。
 群衆はまた動き始めた。ネスヴイーツキイは、いまのは砲弾だったな、と気がついた。
「おい、コザック、馬をよこせ!」彼は叫んだ。「おいこら!どかんか! 少しどいてくれんか! 通してくれ!」
 彼は一方ならぬ苦心をして、馬のそばまでたどりつき、たえず叫び続けながら進み始めた。兵士らは彼に道をゆずろうとして片寄るが、またしても足がしめっけられて痛いほど彼の方へつめ寄せてくる。それも近くにいる者が悪いのではなかった。彼ら自身、まだまだひどくおしつけられていたのである。
「ネスヴィーツキイ! ネスヴィーツキイ! おい、やっこさん!』この時うしろからこう呼びかける、しゃがれ声が聞えた。 ネスヴイーツキイはふり返った。すると。ぞろぞろ動いて行く歩兵の生きた肉塊にへだてられたヴァシカージェニーソフの鮒ら顔が、十五歩ばかり後ろに見えた。黒い髪は蓬々として、軍帽を阿弥陀にかぶり、軽騎兵服は気どって肩の上にちょっと羽織ったばかりである。
「君、こいつらに、この畜生らに、道をゆずるように命令しないか。」ジェニーソフは発作的の興奮状態にあるらしく、白眼が血走り、陞が炭のように黒い眼を輝かして四方に配りながら、顔と同じように赤い、手袋なしの小さな手で、鞘を払わない刀を握ってふり廻しつつ叫んだ。
「おい! ヴァーシャー」とネスヴイーツキイは嬉しそうに答えた。「一たい君はどうしたんだい?」
「自分の中隊を通過させることかできないんだ。」僧々しげに白い歯をむいて、おりに逸った美しい黒毛のベドゥインに拍車をあてながら。ヴァシカージェニーソフは叫んだ。ベドゥインはのべつ銃剣がぶっ突かるので、耳をぴくぴくと動かし、鼻を鳴らし、聨から泡を四方にはねながら、蹄で橋板をこつこつ蹴っていた。もし乗り手が許してくれるなら、欄干を越えて橋の外へ躍り出しもしかねない勢であった。「これはまあ、なんというこった? まるで羊だ! 寸分たがわず羊だ!・ どけろ…・・・通さんか!………止まれ、こら貨車、畜生! 刀で叩っ斬るぞ!」まったく刀を抜き払ってふり廻しながら、彼はこうどなった。
 兵士らはびっくりした顔つきで一かたまりに寄り合った。で、ジェニーソフはネスヴイーツキイといっしょになれた。
「君は今日どうしてきこしめさなかったんだい?」ジェニーツフが近寄ったとき、ネスヴイーツキイはそう言った。
「一ぱいやる暇も戴けやしないんだ!」とヴァシカージェニーソフは答えた。「一日じゅう、そらあっちだ、そらこっちだと、連隊を引き廻されてばかりいるんだよ。戦争なら戦争らしくやったらいいんだ。本当にこれは何というこった!」
「君は今日ばかにハイカラじやないか!」彼の新しい上衣や鞍褥を見廻しながら、ネスヴイーツキイは言った。
 ジェニーソフは微笑し、背嚢から香水の匂いのぷんぷんする(ンカチをとり出して、ネスヴイーツキイの鼻先へつきつけた。
「だって、君、これから晴れの戦争に出かけて行くんだものな! ひげも剃ったし、歯もみがいたし、香水もつけだしよ。」
 コサックをしたがえたネスヴイーツキイの堂々たる風貌と、刀をふり廻して乱暴にわめきちらすジェニーソフの権幕はだいぶきき目が見えて、彼らはついに橋の向う側へすりぬけ、歩兵の進行を止めることが出来た。ネスヴイーツキイは、命令を伝えるべき連隊長を橋の袂で見つけた。任務を果たすと、彼はそのまま後へひっ返した。
 ジェニーソフは通路を切り開いて、橋の入口に立ち止まった。友の方へ行こうとあせって足踏している牡馬を鷹揚におさえながら、彼はこっちへ向けて動いてくる騎兵中隊を眺めやった。ほんの二三頭の馬が疾駆するような、澄み渡った蹄の音が橋板の上に響きはじめた。将校を先頭にして、一列四人ずつならんだ騎兵中隊が橋の上に続いて、対岸へ出はじめた。
 行進を止められた歩兵連中は、橋の袂に踏みにじられた泥の中でうようよしながら、兵科の違った軍隊がいっしょになったとき、ふつう感じ合うような一種特別な反感と冷笑を抱きつつ、整然と自分たちのそばを通り過ぎる、清楚なしゃれた扮装をした軽騎兵を見やるのであった。
「いよう、おめかしやの小僧さん! ついでに見世物小屋へでもいったらなおよかろう!」
「あいつらがなんの役に立つんだ! ただ看板にひっ張り出されるだけじゃねえか!」ともう一人が言った。
「歩兵さわぐな、ほこりが立たあ!」とある軽騎兵がからかったか、その馬がちょっと躍ったので泥が一人の歩兵にかかった。
「ふた行軍ばかり貴様に背嚢つけて歩かしたら、その飾り紐がちぎれっちまうんだぞ。」と、袖で顔の泥をふきながら、歩兵が応じた。「なんだ、そのざまは。まるで人間じゃなくて鳥が止まったみたいだ!」
「そこだそこだ、ちょっと貴様を馬に乗せて見たいよ。さぞいい恰好だろうなあ、ジーキン。」と一人の上等兵が、背嚢の重みで背中を曲げているやせた小柄な兵隊をからかった。
「棒っちぎれを足の間にはさんだら、それで貴様の馬ができらあ。」と軽騎兵はやり返した。

      八
 やがて、残りの歩兵隊も入口で漏斗状によどみながら、おし合いへし合い忙しげに渡りはじめた。ついに貨車も渡り終って混雑も少くなり、最後の大隊も橋に足を踏み入れた。ただジェニーソフの中隊の軽騎兵だけ敵と対峙して、橋の向う側に踏み止まっていた。離れた対岸の山上から見える敵も、下の橋からはまだ見えなかった。なぜといって、河の流れている凹地から見ると、地平線は半露里とない前面の高地で終っていたからである。前方には荒れ野があって、その上を味方のコサックの斥候隊が動いていた。突如、前面にあたって、路か上り坂にな・-ている辺に、青い軍服を着た一隊と砲車とが現われた。これはフランス軍である。コサックの斥候隊は駈足で山麓へ退却した。ジェニーソフの中隊では、将校も兵卒もみなよそごとを言ったり、わき見をしたりしようとつとめていたが、やはり、この高地に現われたもののことをたえず考え続けていた。そして、地平線上に現われた敵軍と認められる斑点を、たえずふり返って見るのであった。空は午後になってふたたび晴れ渡り、太陽はドゥナイ河と、それをとりかこむ暗い遠山の方へまぶしく落ちて行った。あたりは寂としていた。ただかの山の方からときおりラと(の響と、敵の叫喚が伝わってくるのみである。中隊と敵軍との閧には、僅かな斥候の他もはや何物もなかった。ただ二千呎ばかりの空漠たる空間が、この両者をへだてているのみである。敵は射撃を中止したが、かえってそのために両軍を分っている厳粛な、恐ろしい、近寄ることも補捉することもできない一線が、ひとしお、明らかに感じられるのであった。
『この生者と死者を分つ線、なにかあるものを思い起させるような線を一歩ふみ出すと――不可測の苦痛と死が待ち受けている。あすこには――この原や、木や、太陽の輝く屋根の向うには、いったい何があるのだろう? 誰がいるのだろう? それは何人も知らない、が何となく知りたい。この一線を越えるのは恐ろしい、が何となく越えて見たい。つまるところ、遅かれ早かれ一度はこの線を越えて、そこに、この線の向う側に何があるか知らねばならぬのだ。それはちょうど死の向う側に何があるかを、知らないわけに行かぬのと同じことだ。ところで、おれ自身は強壮で、健康で、快活で、いらいらしている。そして、同じように健康で、いらだたしい、活気にみちた人たちに取り巻かれているではないか。』いま敵の面前にいるおのおのの人はこんなふうの事を、よし考えぬまでも、直覚していた。しかも、この感情は、いまこの瞬間に生じたすべての事柄に、耀かしい光彩と、悦ばしくあざやかな印象を与えるのであった。
 高地にいる敵軍の中に発射の煙が現われた。と、砲弾はうなりを生じつつ軽騎兵中隊の頭上をかすめた。一かたまりに立っていた将校連は、各自、部署についた。丘(士らは一生懸命に乱れる馬を整列しはじめた。中隊は一時に鳴りを静めてしまった。一同は前方の敵を眺めると、号令を待ち設けるもののように中隊長を眺めている。と、つづいて第二第三の砲弾が飛び過ぎた。敵が軽騎兵隊を目かけて射撃しているのは、間違いなかった。しかし、砲弾は高低のない調子で。規則ただしく、しかも迅速にうなりながら、軽騎兵隊の頭上を飛びすぎて、どこか後ろの方で爆発した。兵士らはふりかえろうともしなかったが、砲弾の飛びすぎる音のする度に、単調でしかも複雑な顔を含んだ中隊全部が、まるで号令でもかけられたように、弾丸の飛び過ぎる間、じっと息をのんで鐙の上に棒立になり、それからまた腰を落す。兵士らは首をまげないで横目を使いながら、好奇の色を浮かべて、友の受けた印象を探りあてようとした。各人の顔はジェニーソフからラッパ手にいたるまで、唇と腮との辺に同じような焦躁と、動揺と、相剋の夾情が現われていた。特務曹長は処罰してくれるぞとおどしつけるように、眉をひそめながら兵隊どもを睨め廻した。見習士官のミローノフは弾丸の飛んで来る度に首をかがめた。ロストフは、れいの足を痛めてはいるけれど見てくれのいいダラーチックに跨りながら、左真に立っていたが、その顔つきは、大勢の前へ試験に呼び出されたが、優秀の成績で通過する自信をもっだ、小学生のようであった。彼は、砲弾に面して泰然と立っているわたしに注意して下さい、とでもいったふうに、晴ればれと明るい顔をしてあたりを見廻した。けれど、彼の顔にはやはり同じような、何かしら今までになかったきびしい表情が、彼の意にさからって口もとに浮かんでいた。
「そこでお辞儀をしているのは誰だ? ミフーノフ見習士官か? いかんなあ! 俺の方を見ておれ!」とジェニーソフは叫んだ。彼はひとところにじっと立っていることができず、中隊の前をぐるぐる乗り廻した。
 ヴァシカージェニーソフの鼻の平たいひげの黒い顔や、小造りなおしひしゃがれたような全体の姿勢は(彼は毛のもじゃもじゃ生えた、指の短い、筋だらけの手首で、抜き放した軍刀の柄を握っていた)、いつもたいていおきまりの晩酌で、二本の酒を飲み干した時にそっくりそのままであったが、ただいつもよりよけいに赤かった。彼は鳥が水を飲む時のように、蓬々《ぼうぼう》した頭を高くそらしながら、おとなしいベドゥインの横腹に、小さな足で容赦《ようしゃ》なく拍車をおしつけ、後ろへ倒れそうなほどそり返って、中隊の反対側面へ駈けつけると、しゃがれた声で拳銃を検めるように叫んだ。やがて、彼はキルステンに近寄った。二等大尉は幅のあるどっしりした牝馬に乗って並足《なみあし》でジェニーソフの方へやって来た。長い鼻ひげを生やした二等大尉は、いつものようにまじめな顔をしていたが、ただ眼だけ平生よりよけいに光っていた。
「どうだね?」と彼はジェニーソフに言った。「これではとても戦闘という所までいかないぜ。いまに見たまえ、退却するようになるから。」
「あん畜生、いったい何をしてやがるんだ!」とジェニーソフはぶりぶりして言った。「ああ、ロストフ!」見習士官の楽しそうな顔に気がついて、彼はこうわめいた。「どうだ、宿願が叶ったろう。」
 彼は、この見習士官を見るのか嬉しいように微笑した。ロストフは自分をとくべつ幸福なものに感じた。このとき長官の姿が橋の上に現われた。ジェニーソフはその方へ疾駆して行った。
「閣下! どうか攻撃を許してください! わたしが彼奴らを木っぱ微塵《みじん》にしてやります。」
「攻撃などする必要がどこにある!」長官はうるさい蠅でもさけるように顔をしかめて、大儀そうな声で言った。「それになぜ君らはそこにじっとしているのだ? 見給え、騎捜兵《きそうへい》は退却しているじやないか。中隊を後方へ移したまえ。」
 騎兵中隊は一兵をも失わずして、橋を渡り砲撃の圏外へ出た。続いて散兵線にあった第二中隊が渡り、最後に踏みとどまったコサックが対岸を撤去した。
 パヴログラード連隊の二箇中隊は橋を渡って、続々と山の方へ退却した。連隊長のカルル・ボグダーノヴィッチ・シューベルトは、ジェニーソフの中隊に乗り近づき、ロストフからほど遠からぬあたりを並足で進んでいたが、かのチェリヤーニン事件で衝突して以来、今はじめて顔を合わせたに・もかかわらず、彼はロストフになんの注意もはらわなかった。ロストフはいま戦場へ出て見ると、自分がかねがね悪いことをしたと感じているこの人に、生殺与奪の権利を握られているような思いがして、連隊長の闘士にも紛う背中や、亜麻色の後ろ頭や、赤い首筋などを瞬きもせず見つめていた。ロストフにはこうも思われた。ボグダーヌイチはたんに不注意を装っているだけで、いま彼の目的は自分の勇気を試す事のみに存するのであるまいか――そう考えて彼は身をそらしながら、楽しげにあたりを見廻した。すると今度はまた、ボグダーヌイチは自分の沈勇をロストフに示すために、わざとこんなにそば近く歩いて行くのではないか、とも思われたし、またさらに、自分にとっては敵にあたるこの男が。自分すなわちロストフを罰するために、中隊全部を無謀な突撃に赴かせようとしているのではないか、とも考えられるのであった。そして、突撃の後に、この『敵』が負傷している自分のそばへやって来て、寛大にも和睦のしるしに、手をさしのばす姿など描いて見た。
 パヴログラード連隊の人々に見覚えのある、両肩を高くそびやかしたシェルコフの姿が(彼はつい先ごろ連隊を出たばかりである)、連隊長の方へ近寄って来た。彼は参謀本部を追われて後も、参謀部にいれば何もしないでいてよけい報酬が貰えるのに、前方勤務をして碌々としてるような馬鹿ではない、などと言い、連隊にじっとしていなかった。そして、巧妙な手段を弄して、パグラチオソ公欝の伝令に入りこんだ。彼は後衛指揮官の命令を持って、元の長官の所へやって来たのである。
「連隊長殿。」と彼は以前の同僚を見廻しつつ、ロストフの『敵』に向かって、持前の沈欝なまじめな調子で言った。「ふみとどまって橋を焼けとの命令であります。」
「誰命令だ?」とドイツ生まれの連隊長は不正確なロシア語で、むずかしい顔をしてこうきいた。
「それは、連隊長殿、だれ命令だかわたくしは知りません。」と騎兵少尉補は大まじめで答えた。「ただ公爵がわたくしに、『あすこへ出かけていって連隊長に、早速ひっ返して橋を焼くように言ってこい』と言われただけであります。」
 ジェルコフの後から幕僚将校が、同じ命令を持って連隊長の所へ来た。幕僚将校に続いて、大兵《だいひょう》のネスヴイーツキイが、コザックの馬に乗ってやって来た。馬はやっとの事で彼を駈足で
運んで来たのだ。
「どうしたんですか。大佐。」彼はまだ馬が走っている中からこう叫んだ。「私はさっき、橋を焼いてください、と言ったじゃありませんか。それだのに、今度はもう誰かが出たら目なこと言っている。ここではみんな気が狂ってしまったのだ、何が何だかわけがわかりやしない。」
 大佐は悠々と連隊を止めて、さて、ネスヴィーツキイの方へふり向いた。
「あなたはわしに可燃物のことを言われたけれど、」と彼は言った。「焼くという事については、なにもお話なかったです。」
「どうして、君、」ネスヴィーツキイは、帽子をとって、汗に濡れた髪をなおしながら、馬を止めて言った。「どうして、君、可燃物を置くように言っておきながら、橋を焼くことを言わないなんて理屈があるもんですか?」
「少佐殿、私はあなたに『君』言われるわけありません。それに、あなたは私に、橋を焼きなさい、言われなかったです! 私は自分の職務しっています! 私は命令を厳重に履行する習慣あります。あなた橋焼く言われますが、だれが焼くんですか、私どうも了解できんです……」
「ちょっ、いつでもこうなんだ。」手をひとふりしてネスヴィーツキイは言った。「君、どうしてここにいるんだね?」と彼はジェルコフの方へ向かった。
「いや、ご同様だ。君はしかしぶくぶくしてきたねえ、ひとつ僕がしぼってやろうか。」
「あなたの言われる所では……」大佐はまだ腹立たしい声で続ける。
「大佐殿。」と幕僚将校はさえぎった、「もう急がなくちゃなりません。でないと、敵が砲を接近させて、霰弾射撃に移りますよ。」                         ’ 大佐は、無言で、幕僚将校からふとった佐官、それからまたジェルコフと順々に眼を転じたが、やがて眉をひそめて。 「では、わたし橋を焼きましょう。」と荘重な調子で言った。それはちょうど『自分は皆からいろいろ不快な思いをさせられたけれど、やはりなすべき事はします。』と言ったような表情であった。 まるで馬にIさいの罪があるかのように、長い筋肉の発達した足で馬を蹴りながら、大佐は前方へ進み出て、第二中隊―例のロストフがジェニーソフの指揮下で勤務している中隊に、橋へひっ返せと命令した。 『ああ、やはりそうだった。』とロストフは考えた。『あいつおれを試験しようとしてるんだ!』彼の心臓は縮こまって、血は一時に顔へのぼってきた。『まあ見るがいい、おれが臆病者かどうか!』と彼は考えた。 またもや中隊全部の人の快活らしい顔に、つい先ほど敵弾のもとに立っていた時と同じような、きまじめなかげが現われた。ロストフは連隊長の顔の上に、自分の想像を確かめるようなものを発見しようと、目も離さずに自分の敵である連隊長を見つめていた。しかし、大佐は一度もロストフの方へ向かないで、いつも列前に立っている時と同じく、厳格で荘重な顔つきをしていた。やがて、号令の声が聞えだ。
 「敏活に! 敏活に!」彼のまわりで幾人かの声がこう言っていた。 刀を手綱に絡ましたり、拍車をがちゃがちや鳴らしたりしながら、兵士らは自分かちがこれから何をするかも知らず、忙しそうに馬からおりて十字を切った。ロストフはもう連隊長の方を見ようともしなかった。そんな余裕がなかったのである。ひょっと兵士らにおくれはしまいかという事が、彼にとっては一番おそろしかった。心臓の擽るほど恐ろしかった。馬を馬丁に渡した時、彼の手は顫えていた。血がずきんずきんと心臓へ迸ってくるのが感じられた。ジェニーソフは後ろの方へそり返り、何やら大声にどなりながら、彼のかたわらを通りぬけた。ロストフは、拍車を絡みあわしたり、刀を鳴らしたりしてまわりを馳せちがう兵士のほか、何も目に入らない。 「担架だ!」とだれかの声が後の方で叫んだ。 ロストフは担架の要求が何を意味するかも佰らなかった。彼はただだれよりもまっ先に立とうとのみつとめながら走った。しかし、足もとを見ていなかったので、橋のすぐそばで、多くの足にふみにじられたべとべとの泥の中に踏みこんで、足と足とをからまし、両手を地べたについてしまった。ほかの者は彼をよけて駈け抜けた。 「大尉、両側面に。」という訛の著しい連隊長の声が聞えだ。彼は前の方へ駈け出して、勝誇ったような愉快げな顔つきで、橋からほど遠からぬ辺に立ち止まっていた。 ロストフは乗馬、ズボンで汚れた手をふきながら、自分の『敵』をふり返ると、また先の方へ胝け出した。遠く出て行きさえす

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ればいい、と言う気がしたのである。しかし、ボダダーヌイチは、よく見定められなかったのでロストフであるとは気づかなかっだけれど、彼に向かってわめいた。 「橋のまん中を走っているのは淮だ!右寄って!見習士官、返ってこい!」と彼は腹立たしげに叫んだ。そして自分の胆力をひけらかすように、橋板へ踏みこんだジェニーソフに向かって、「何のためにそんな冒険するのだ、大尉? 君、馬からおりるいいだろう。」と大佐は言った。「なあに! やられる奴が因果なんでさあ。」ヴァシカージェニーソフは鞍の上でふり返りながら、こう答えた。
 その間に、ネスヴイーツキイとジェルコフと幕僚将校は、一しょになって、射程外に立ちながら、黄色い軍帽をかぶり、飾紐を縫いつけた暗緑色の上衣を着、青い乗馬ズボンをはいて、橋のあたりにうごめいている人間の一団と、遙かかなたから次第に近づいてくる青いジャケツと、たやすく砲と見分けのつく、馬につけたものの一群とを、代るがわる眺めていた。 『橋を焼くだろうか、焼かないだろうか? 敵か、味方か、どっちがさきだろう? 味方が早く走りついて橋を焼くか、それともフランス兵が霰弾射撃の距離まで近づいて、軽騎兵を鏖にするか?』高地に立って橋を見おろしている大勢の軍隊じゅうの一人一人が、心臓を凍らせながら我ともなしに、この疑問を胸の中でくり返した。そして、明るい夕日の光を浴びながら、橋の傍らなる軽騎兵と、銃剣や大砲を輝かせつつしだいに
ほど近く押し寄せてくる青いジャヶツとを、代るがわる見くらべていた。 「おお! 軽騎兵の方がやられるぞ!」とネスヴイーツキイは言った。「もう霰弾射撃の距離になった、それより遠くはない!」 「連隊長があんなにおおぜい人をつれて行くのは間違っている。」と幕僚将校は言った。 「全くだよ!」ネスヴィーツキイは受けた。「あすこへは二人ぐらい元気のいい兵隊をやったら、それで同じことだったんだ。」 「とんでもない、御前。」ジェルコフは軽騎兵から目を離さずに口を入れたが、例の依然として子供らしい身ぶりを見ていると、彼の言っていることがまじめなのかどうか、てんで見当がつかなかった。 「とんでもない、御前、なんという考え方を遊ばすんです!二人ぐらい兵隊をやればいいなんて! それでどうして佩綬つきのヴラジーミル勲章が貰えますか? そこなんですよ、よしんばめちゃめちゃにやられたってかまわない、中隊全部を上奏して、自分ひとり勲章を貰った方がい・いんですよ。わがボグダーヌイチ君はこの辺の消息をよく心得てます。」 「や、」と幕僚将校は言った。「あれは霰弾だ!」 と、前車をはずして忙しげに後へ退いたフランス側の砲を拑した。 大砲を備えたフランス側の集団に煙が現われた。と、ほとんど同時にまた一つ、また一つIそして、第一発の響がこちらへ達した瞬間に、また第四の煙が現われた。二つの響が続いて
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駅爭と平和

聞える間もなく、また次の響か起った。 「おお、おお!」幕僚将校の千をつかみながら、焼けつくような痛みでも感じたように、ネスヴィーツキイは陦んだ。「見たまえ、一人たおれた、たおれた、たおれた!」 「二人らしいね?」 「もし僕が皇帝なら、けっして戦争なんかしやしない。」とネスヴィーツキイは顔をそむけて言った。 フランスの砲兵隊はふたたび忙しげに装填をはじめた。そして、青いジャヶツの歩兵は駈け足で橋の方へ押し寄せた。またもや、しかし、まちまちな間隔を置いて幾つかの煙が現われ、霰弾は橋の上でぱちぱち鳴りはじめた。けれども、今度はネスヴィーツキイも、橋上で何ごとが行われているか、見おけることが出来なかった。橋から濃い煙が上り出したのである。軽騎兵はついに焼き払うことが出来た。フランスの砲兵隊は最早その邪魔をするためでなく、たんに砲の照準ができて、目標もあるからというだけの理由で、射撃をつづけるのであった。 フランス軍軽騎兵らが馬丁のそばへ帰りつくまでに、首尾よく三回の射撃を行うことができた。初め二回の一斉射撃は不正確で、霰弾が遠く飛び越えてしまったが、その代り三度目のは軽騎兵の群のまんなかに落ちて、三人の兵をたおした。 自分とボダダーヌイチの関係ばかりに気をとられていたロストフは、何をしていいかわからず、橋のまんなかに立ち止まった。ぶった斬ろうにも(彼は戦争という事をいつもそんなふうに想像していた)誰も相手がないし、橋を焼く手伝いをしようにも、他の兵士みたいに藁束を持って来なかったから、それも
できない。彼が突っ立つたままあたりを見廻していたとたん、ふいに胡桃をまき散らすような音が橋の上に響いた。そして、一番そばにいた一人の兵士が、呻き声とともに欄干に倒れかかった。ロストフはほかの者とIしょに駈け寄った。また誰か 「担架だ!」と陦んだ。四人の者が負傷者に手をかけて、もちあげにかかった。 「おお、おお1………うっちゃってくれ、後生だあ。」と負傷者は叫んだが、とにかく抱き起して担架に乗せた。 二コライーロストフは顔をそむけて、なにか探し求めるように、遠い景色や、ドゥナイの水や、空や、太陽を眺めた。空はなんとも言えぬほど美しく見えた。なんという莟さ、静けさ、深さ! また沈み行く太陽は、なんという輝かしい神々しさ1遙かなドウナイの水はなんという柔らかな光沢をおびて、ひらめいていることか! また遠くドゥナイ河のかなたに蒼んで見える山々、僧院、神秘めかしい峡、頂きまで霧のかかった松林、これらのものは更に見事であった……あすこは静かで、幸福にみちている……『もし俺があすこにさえいたら、なんにも、なんにも望まなかったろう、本当に何ひとつ望まなかったろうになあ。』とロストフは心に考えた。『おれ一人と、そしてあの太陽の中には、無量の幸福がある。それだのにここは……呻吟と苦痛と恐怖と、そしてこのぼうとしたような、せかせかした気分……ほら、また何やらどなっている。あっ、またみんな後ろの方へ駈け出した、そして俺もIしょになって走っている。ああ、これがそうだ、いま俺の頭の上や、俺のまわりに立ちふさがっているのがそうだ、死だ……ちょっと眼をぱちっとさせ

るひまに、俺はもうこの太陽も、この水も、この峡も見ることができなくなるのだ……』 おりしも、太陽は雲のかげに隠れ始めた。ロストフの前にまた別な担架が現われた。すると、死とこの担架に対する恐怖、太陽と生命にたいする愛Iすべての物が一つの病的な、不安な感じの中に溶け合うのであった。 『ああ、主なる神よ!この空の上にいます父よ、われを助け、ゆるし、守りたまえ!』とロストフは心の中にっぶやいた。 軽騎兵らは馬丁のいる所へ駈けつけた。人声はしだいに高く穏かになり、担架は目の前からかくれた。 「どうだね、君、火薬の匂いを嗅いだかね?………」耳の上でヴアシカージェニーソフの声がこうわめいた。 『なにもかもすんでしまった。しかし、・病者だ、俺は朧病者だ。』とロストフは考え、重々しく吐息をつきながら、前足の膝を折るダラーチックを、馬丁の手から受取って乗りにかかった。 「あれは何だったんです、霰弾ですか?」彼はジェニーソフにたずねた。 「そうだ、おまけに凄い奴だったよ!」とジェニーソフは叫んだ。「みんな勇敢に働いてくれた! しかし、いやな仕事だ!突撃ってやつはIずばりずばりとやっつけるのは愉快なもんだが、今のはなんというこったろう、ひとをまるで標的みたいに撃ちやがる。」 こう言ってジェニーソフは、ロストフのそばから遠からぬ所に立っている連隊長、ネスヴィーツキイ、シェル=フ、幕僚将
校などの一団をさして馬を進めた。 『けれど、だれも気がつかなかったらしいな。』とロストフは心の中で考えた。実際、だれもなんにも気がつかなかった。なぜなら、一度も砲撃に遭ったことのない見習士官が初めて経験する感情は、だれもがよく心得ていたからである。 「いまに大佐殿のことが上中されますよ。」とジェルコフは言った。「見ていらっしゃい、私もいまに少尉に任官されますから。」 「わたし橋を焼いたと公言に報告ください。」連隊長は意気揚揚と愉快げに言った。 「で、もし損失のことをきかれましたら?」 「些々たるものです!」と連隊長はふとい声で答えた。「二人              丶丶丶丶丶丶  丶丶丶丶丶丶の兵士が負傷して、一人は落命しました。」落命しましたという美しい言葉を、響よく断ち切るように発音しながら、幸福の微笑を制し得ず、彼はさも嬉しそうに言った。       九 ボナパルト麾下の十万のフランス軍に追撃され、到るところ住民から快からぬ感情をもって迎えられ、もはや同盟軍に信頼することもできず、糧食の不足におびやかされ、予期しなかった条件のもとに行動を余儀なくせられながら、三万五千のロシア軍はクトウゾフの指揮のもとに、ドゥナイ河の流れに沿うてどんどん退却を続けた。そして敵に追いつかれるとふみとどまり、重砲類を失わずして退却するに必要なだけ、後衛戦をもってその場その場を切り抜けて行くのであった。ラソバツ(、ア
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ムシュテーテソ、及びメルク付近で小戦闘が行われた。そして敵にも認められるほど、勇猛頑強に戦ったにもかかわらず、これら小戦闘の結果として、退却がいよいよ急になって行くのみであった。ウルムの会戦で捕虜となることを免れたオーストリー軍は、ブラウナウで一時クトゥゾフの軍に合流したが、吟跛またロシア軍から分離した。で、クトウソフはただ味方の疲憊しつくした微弱な兵力より他に頼るものがなかった。もはやウィーンを守ろうなどとは、考えることすらできなかった。クトウソフがウィーンにいた時、オーストリーの軍事会議局によって授けられた最新戦術の法則に基づき深く考究された攻撃戦はさておいて、ただウルムにおけるマックの如く軍隊を破滅に陥れず、ロシアから急行しつつある軍隊に合するという事が、いまクトウソフの眼前に横だわっている唯一の、しかも殆ど到着する見こみのない目的であった。 十月二十八日、クトゥゾフは軍をひきいてドクナイの左岸に渡り、フランス軍の主力と味方との間にドゥナイの流れをはさみながら、初めて停止したのである。三十日、彼はドゥナイの左岸に陣しているモルチエの師団を攻撃して大敗させた。この戦闘で初めて戦利品が手に入った。即气軍旗一旒、砲数門、および敵の将官二名であった。二週間にわたる退却後、ロシア軍は初めてふみとどまって、たんに戦闘後その戦場を控制し得たのみならず、そこからフランス軍を一掃したのである。軍は満足な被服もなく、疲憊しつくし、三分の一は落伍し、負傷し、戦死し、罹病して、戦闘力をそがれているのみか、ドゥナイの対岸には味方の傷病者が、敵の任侠心に訴えたクトゥゾフの書
面をつけて壹棄してあるし、クンームスの大きな病院や人家は、ことごとく野戦病院に変えられて、しかもそれさえ、すべての傷病兵を収容することができなくなっていたのが、そうしたいっさいの状態にもかかわらず、クレームスにおける退却中止と、モルチIに対する勝利は、いちじるしく全軍の士気を鼓舞したのである。軍隊内でも参謀部でも、ロシアから応援軍が近づいたの、オーストリー軍がどこかで勝利を博したの、ボナパルトがびっくりして退却したのと、じつに痛快ではあるが、不確かな怪しい風説が盛に行われた。 アンドレイ公爵はこの戦闘の間じゅう、この役で戦死したオーストリーの将軍シュミツトのそばについていた。彼は乗馬を傷つけられ、彼自身も手に軽く擦過傷を負った。が、彼はこの戦捷の報知を携えて、オーストリーの宮廷へ派遣されることになった。それは総指揮官の特別な愛顧の兆である。当時、オーストリーの宮廷はフランス軍の脅威下にあるウィーンから、早くもブリエンヌに移されていた。アンドレイ公爵は戦闘の夜、興奮していたにもかかわらず、疲労を感ずることもなく(一見したところ、あまり丈夫そうな体格ではなかったけれど、アンドレイ公爵は強壮な人よりはるかに、肉体の疲労を忍ぶことができた)、ドフトウロフ将軍の報告を携えて、騎馬でクレームスなるクトゥゾフの許へ駈けつけると、すぐその夜、ブリエンヌへ急使として派遣された。急使に立つということは、所定の褒賞以外、昇任に向かう重大な一歩を意味していた。 暗い星月夜であった。昨日、戦闘当日に降った白雪の中を、道がIすじ黒々と見えた。昨日の戦闘の印象をくり返して見た


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り、戦勝の報告が到着地に与える印象を心うれしく想像したり、総指揮官や同僚の送別宴を思い起したりしながら、アソドレイ公認は駅逓馬車に乗って疾駆した。そして、長いあいだ待ちこがれていた幸福の糸口を、ついに、つかみ得た人のような感情を経験した。目を閉じると同時に、耳の中で小銃や大砲の射撃の音が響きはじめ、それが車輪のきしみや、戦勝の印象と一しょに溶け合うのであった。どうかすると、ロツア軍が敗走して、彼自身も戦死したような心持がしはじめる。けれど、その途端に急いで目をさまして、けっしてそんなことはないばかりか、反対にフランス軍が敗走したのだということを新たに確かめて、幸福を覚えるのであった。彼はさらに味方の勝利と、戦場における自分の沈勇を詳細に思い出し、やっと安心して、またうとうとした……暗い星月夜ののちに、輝かしく楽しげな朝が来た。雪は太陽の光に溶け、馬は疾風の如く走る。右にも左にも同じように新しい、いろいろ趣を異にした森や、野や、村が目をかすめて過ぎる。 ある一つの駅逓で、彼はロシアの負傷兵を乗せた車の列に追いついた。輸送隊を監視しているロシア将校は、先頭の馬車にふんぞり返りながら、乱暴な言葉で大声に一人の兵卒をののしっていた。長いドイツ式のフォルシこ(ソの中には、六人か、それよりもっと大勢の、泥に汚れた負傷兵が、繃帯を巻いて蒼白い顔をしながら、石ころのでこぼこ道を揺られていた。彼らのあるものは話をしているし(ロシア語の話し声がアンドレイの耳に大った)、あるものはパソを食べているし、もっとも傷の重い者は、無言のまま、つつましやかな、病的な、子供らし
い興味をもって、自分のそばを駈けぬける急使を眺めている。 アンドレイ公爵は車をとめさして、一人の兵隊にどこの戦闘で負傷したのかきいて見た。「一昨日、ドゥナイの河っぷちで。」と兵隊は答えた。アンドレイ公爵は金入れをとり出して、金貨を三つその兵隊にやった。 「みんなにね。」と。彼は近寄ってくる将校に向かってつけ加えた。「諸君、早くよくなってくれたまえ、」と彼は兵士らに声をかけた。「まだまだ仕事はうんとあるんだから。」 「なんですか、副官殿、どんな報告ですか?」見受けたところ、なにか話でもしたそうな様子で、将校はこうたずねた。 「いいことですよI・ さあ、やれ!」と彼は馭者に叫んで、またさきへ急がせた。 アンドレイ公欝かブリエンヌへ入ったときは、もうとっぷり暮れていた。彼はいつしか高い家屋や、商店、人家、街燈などの灯や、鋪石道に騒々しい音を立てる美しい馬重や、その他すべて久しく陣中にあった軍人にとって常になつかしい、賑やかな大都会の雰囲気にとりかこまれている自分を発見した。アンドレイ公欝はあわただしい馬車の旅で一晩中おちおち眠らなかったにもかかわらず、宮廷へ近づくにつれて、前夜よりIそう元気づいたような思いがした。ただ眼が熱病的な輝きをおび、思想がおそろしく迅速明瞭に転換する。またもや戦況の詳細が生きいきと心に浮かんだが、それは彼が自分の想像の中で、フランツ皇帝に説明を試みたものとして、緊縮した形をとっていた。そして、万一、偶然に提出されるかも知れないと思われる質問と、それにたいする公の答弁が、同じく生きいきと心に浮
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とき、この感情はいやが上に強まった。陸軍大臣は両鬢の白くなった禿頭を、二つの蝋燭の間にうつむけて、鉛筆で標をつけながら書類を読んでいた。扉があいて人の足音が聞えだ時も、彼は首をその方へ向けないで読み続けていた。 「これを持っていって渡してくれたまえ。」陸軍大臣は侍従武官に書類を渡しながら、なおも急使の方へ注意を払わずにこう言った。 アンドレイ公爵は心に感じたIいま陸軍大臣の頭を占めているいっさいの事件の中で、クトゥゾフの軍隊の動静はもっとも興味の少いものであって、大臣はそれをロシアの急使に感得させる必要がある、と思っているに相違ない。『しかし、それは俺にとってぜんぜん風馬牛だ。』と彼は考えた。陸軍大臣は残りの書類をかき寄せ、端と端をきちんと揃えると、やっと顔を上げた。彼の顔は賢そうでそして特色があった。しかし、彼がアンドレイ公言の方へ向いた時、その顔の賢そうなしっかりした表情が、習慣的に意識しているらしい変化を示した。後から後へと請願者に接見している大によくある、間のぬけた、わざとらしい、しかもそのわざとらしさをかくそうともしないような徴笑が、彼の顔に浮かんだ。 「元師クトゥゾフ将軍のお使者ですか?」と彼はたずねた。 「おそらく、目出たいおしらせなんでしょうな? モルチIと衝突があったんですって? 大勝利? もうそろそろそうあって然るべき時分ですよ!」 彼は自分の名あてになっている急書をとり、沈んだ表情で読み始めた。
かぶのであった。彼はすぐにも皇帝に・瀧を仰せつかるように思っていた。けれども、彼が宮殿0大きな車寄せに着いたとき、一人の廷吏が走り出て、急使だと聞くと、べつの車寄せに案内した。 「廊下から左の方へおいでなさい、そこにEuer Hochgeboren爾、当直の侍従武官がおられますから。」と廷吏は言った。「その人が陸軍大臣のところへご案内いたします。」 アンドレイ公認を迎えた当直の侍従武官は、少し待ってくれと言い置き、陸軍大臣のもとへ赴いた。五分の後、侍従武官は帰って来た。そしてことさら慇懃に腰をかがめて、アンドレイ公爵をさきへ通しながら、陸軍大ほの執務している書斎の方へ、廊下を案内して行った。侍従武官はその優雅な慇懃な態度でもって、ロシアの副官からなれなれしく持ちかけられるのを防いでいるように思われた。アンドレイ公爵が陸軍大臣の書斎の扉に近づいたとき。彼のよろこばしい感情はいちじるしく薄らいだ。彼は侮辱されたような気がし、この侮辱感はその瞬間、彼自身でも気づかぬうちに、何の根柢もない軽蔑の念に移っていた。機にのぞんで適応しうる彼の知性は、その刹那、自分はこの侍従武官や陸軍大臣を軽蔑する権利を持っているぞ、という観点を発見したのである。『大方この連中は火薬の匂いを嗅いだことがないから、勝利を占めるのは、何の造作もないように思われるんだろう!』と彼は考えた。彼の眼は軽蔑するように細められた。こうして、彼は特にゆっくりと陸軍大臣の書斎へ入った。大きなテーブルに向かって腰をかけたまま、初めの二分間ばかり、彼に注意を向けないでいる陸軍大臣を見た

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 「あっ、しまった! しまったI シュミットが!」と彼はドイツ語で言った。「なんという災難だ! なんという災難だ!」 急書を走り読みして、彼はそれをテーブルの上に置き、なにやら思案するらしいふうつきで、アンドレイ公爵を眺めた。 「ああ、なんという災難でしょう! あなたはこの戦闘を決定的のものだとおっしやるんですな? しかし、モルチエは捕虜にならなかったですな。(彼はちょっと黙っていた。)が、目出たい報知をもたらしてくだすって大いに愉快です。もっとも、シュミットの死は、この勝利にたいする高価な代償でしたがね。陛下はおそらくあなたに拝謁を仰せつけられるでしょうが、しかし、今夜ではありません。いや、じつに有難う、ゆっくりお休みください。明日は閲兵後の参内式に参列してください。もっとも、あらためてご通知はしますが。」 会話のあいだに消えていた間のぬけた微笑が、またしても、陸軍大臣の顔に現われた。 「さようなら。厚くお礼を中します。おそらく皇帝は謁見を仰せっけられることと思います。」と彼はまたくり返し、頭を下げた。 アンドレイ公欝が宮殿を出たとき、彼は戦勝によって与えられたいっさいの興味と幸福が、陸軍大臣と慇懃な侍従武官の無関心な手に渡ってしまったような思いであった。彼の考え方もまたがらりと変って、なんだかあの戦闘がずっと以前の、遠い記憶のような気がし出した。       一〇
 アソドレイ公認は在ブリュソヌのロシア外交官である、ビリービソという知人のもとに足を止めた。 「ああ、公爵、これより愉快な客はないよ。」とピリーピソはアンドレイ公認を迎えながら言った。「フランツ、おれの寝室へ公言のお荷物を運んどけ!」ボルコンスキイを案内して来た召使にむかって彼はこう命じた。「なに、戦勝報知の使者?それは結構。僕はご覧のとおり病気で引きこもりちゅうさ。」 アンドレイ公欝は手水を使い、着換えをすますと、外交官の贅沢な書斎へ入って、準備してある食事の席に着いた。ビリーピンは悠然と壁臚のそばに座を占めた。 アンドレイ公認は今度の旅行ばかりでなく、総じて生活の便宜と清潔と趣味とをことごとく奪われ通していた長い行軍ののち、ふたたび子供の時からなれて来た贅沢な生活条件にとり巻かれて、はじめて心地よい休息感を味わった。そのほかに、ああしたオーストリー政府の態度を見せつけられた後で、たとえロシア語を使わぬまでも(二人はフランス語で話した)、今やことにはげしく感じられるロシア人共通の反オーストリー的感情を、ともに頒ってくれるはずのロシア人と談話を交えるのが、彼には快く感じられたのである。 ビリービソはアンドレイ公爵と同じ社会に属する、三十五歳の独身者であった。彼らはまだペテルブルグにいるころから相識であったが、最近アンドレイ公爵がクトウゾフといっしょにウィーンへ来たとき、いっそう接近したのである。アンドレイ公爵が、陸軍の方で多望な前途を有する青年とすれば、それと同様、いな、それ以上に、ビリービソは外交界に多望な前途を
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期待されていた。彼はまだ若い男であったが、もう若い外交官ではなかった。というわけは、十六の年から勤務を始めて、パリにもコペン(Iゲンにもいたことがあり、今ではウィーンでかなり目ざましい地位を占めていたからである。総理大臣もまたウィーンにおけるロシア国公使も、彼を知り尊敬していた。彼は外交官の大多数を占めている連中のように、ただ消極的な資格―即ち、ある種の行為をなすべからずという規則を守り、フランス語で話でもして、善良な外交家になろうと心がけているような、十把ひとからげの連中とはちがって、仕事を好み、かつ、それに堪能な外交家の一人であった。だから、性来もの臭い質であるにもかかわらず、彼は時としてI晩じゅう書 卓 子で過すこともあった。彼は仕事の内容がどんなものであろうと、いつでも同じようによく働いた。彼の興味をひくのは『なぜ』という問題でなく、『如何にして』の問題であった。外交事件の目的が那辺に存するかということは、彼にとって没交渉であった。巧妙に正確に優美に廻状や覚書や報告を作成することのうちに、彼は大きな満足を見いだしたのであるが、こうした文書作成のほか、上流の社会に出て交際したり、談話をしたりする技倆にかけても、ビリービンの功績は尊重されていた。 ビリービソは仕事とどうよう談話をも好んだが、それは談話が都雅で機智に富んでいるときに限った。社交界でも、彼はつねになにか素晴らしいことを言うおりをねらっていた。これらの条件を備えていないかぎり、彼はけっして話に口を入れなかった。彼の談話は常に警抜で機智に富み、しかも、一般的興味
のある完成された句にみたされていた。これらの句は社交界の有象無象がたやすく覚えこんで、客間から客間へ持ち運ぶのに          あっら    ポルタチーブ都合のいいように、お誂えむきの携帯に便利な性質をおびていた。これはビリービソの内部のアトリエで製作されるのであった。そして、事実においても、les mots de Bilibine se col‐p()rtaient dans les salons de Vienne乱則緊昌読谷こいわゆる重大な事件に影響を及ぼすこともしばしばであった。 やせてげっそりした黄色い彼の顔は、一面ふとい皺におおわれていた。この皺は湯から上りたての指先のように、念を入れて奇麗に洗い上げたように見えた。そして、この皴の運動が、彼の容貌の重要なる変化を構成しているのだ。あるときは頬に広い皴が寄って、眉が上の方へあがるかと思うと、今度はその眉のあたりへふとい皺が寄る。深く落ちこんだ小さな眼は、まっすぐに愉快そうに正面を眺めている。 「さあ、君、君の功名譚を話してくれ給え。」と彼は言った。 ボルJソスキイは自分のことは曖にも出さず、きわめて謙遜な調子で、昨日の戦争と、陸軍大臣との接見を話した。 「11s moont requavec lna nouvelle comrne un chien dansun jeu de quUles.臂謚簾鷁髞器皿討晨慥」と彼弖昌葉を結んだ。 ビリーピソはにっと笑って顔の襲をのばした。 「Cependants mon cher. j4J」彼は自分の指の爪を遠くから眺めながら、左の眼の上に皴を寄せて言った。「僕は正教のロシア軍隊に対して、非常に尊敬をはらってはいるけれど、それでも、僕の考えでは、君がたの勝利は華々しいものじゃない

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ようだよ。」 彼は軽蔑的に力を入れて言おうと思った言葉だけロシア語で発音しながら、始めからしまいまでフランス語で話し続けた。 「そうじゃないか? 君らはI箇師団しかっれていないモルチェに全軍をもって当ったんだろう? おまけにそのモルチェも網から抜け出したじゃないか?どこがIたい勝利なんだい?」 「しかし、まじめな話が、」とアンドレイ公欝は答えた。「いずれにしても、ウルムの戦闘より少々気が利いてると言ったところで、あながち自慢でもないだろう……」 「どうして君らは一人でも、せめて一人だけでも、元帥を捕虜にしなかったんだね?」 「どうしてったって、万事予想どおりにいかなにいからさ、観兵式のように正確にいかないからだよ。いまも話したように、われわれは朝の七時までに敵の背面に出ようと計画した、ところが、実際は晩の五時にさえ駄目だったものね。」 「どうして朝の七時までに間に合わせなかったんだい? 朝の七時までに出なくちゃたらなかったとすれば、」と微笑しながらビリービソは言った。「朝の七時までに背面へ出なくっちゃいかんじゃないか。」 [じゃ、どうして君らは外交術でボナパルトに、ジュノアを放棄した方がよい、ということを悟らせなかったんだね?」アンドレイ公爵は相手と同じ調子でそう言った。 「そりゃあ僕もわかってる。」とビリービソはさえぎった。「こうして壁臚の前で長椅子に腰かけながら、元帥連を擒にするのはなによりやさしい事だ、とこう君は考えてるんだろう。それ
は事実だ。が、それにしても、君らはどうしてモルチエを捕虜にしなかったのだ? たんに陸軍大臣のみならず、聖上陛下フランツ王さえ、この勝利にあまり幸福を感じなさらんからと言って、びっくりするにゃあたらないんだよ。また僕にしても、ロシア公使館のしがない一秘書官にしても、歓喜のしるしに家のJニフソツにIターラアXE紗やって、恋人とIしょにプラーテルヘやろうという要求をいささかも感じてないからね……もっとも、このブリュソヌにプラーテルはないが。」 彼は真直にアンドレイ公爵を見つめて、ふいに額の皴を消した。 「今度は僕が君に『なぜ』といってきく番だ。」とボルコンスキイは言った。「僕は白状するが、ふつふつ合点がいかないよ。或いは、そこに僕の浅薄な智力を超越した、外交上の機微があるかもしれない。しかし、僕にはわからない。マックは全軍を失うし、フェルジナソド大公もカルル大公も、生存のしるしをすこしも見せないで、過失に過失を重ねている。しかるに、クトゥゾフひとりが、初めて疑う余地のない勝利を博して”char。’%フラソス人どもを敗走させたところが、陸軍大臣は事の詳細を知ろうというだけの興味さえ示さないんだからね。」 「つまりそれがためさ、君。ねえ、よく考えて見たまえ。万歳、皇帝万歳、ロシア万歳! 正教万歳! いや、たにもかも美しく立派なこった。けれど、我々にとって1つまり僕はオーストリーの宮廷に代って言うのだが1君等の勝利がどうしたと言うんだい? かりに君かだね、カルル大公か、フェルジナン  *ウィーンの大公園、種力なる蜈樂の設備あり。
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