『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」7-06~7-10(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]

「もしかしたら、会っていただけないかもしれないね?」とレーヴィンは、ボール伯爵家の玄関へ入りながらきいた。
「お会いになります、どうぞお入り下さいまし」と玄関番が、勢いよく彼の外套を脱がせながらいった。
『やれやれ、困ったことだな』ため息とともに両方の手袋をぬぎ、帽子をなおしながら、レーヴィンは考えた。『いったいおれは、なんのために入って行くんだ? あの人たちと何を話そうというんだ?』
 最初の階段を通りぬけようとしたとき、レーヴィンは戸口のところで、ものものしい怖い顔をして、従僕に何やらいいつけている、ボール伯爵夫人に出会った。レーヴィンを見ると、夫人はにっこり笑って、次の小さい客間へ通ってくれといった。そこからは人声が聞えていた。この客間には、この家の令嬢二人と、レーヴィンの知っているモスクワの大佐が、肘椅子に腰かけていた。レーヴィンはそのそばへよって、あいさつをすますと、長椅子のわきに腰をおろし、帽子を膝の上にのせた。
「奥さまのお体は、いかがでいらっしゃいます? あなた音楽会にいらっしゃいまして? あたくしたち、まいれませんでしたわ。ママがご法事にまいらなければならなかったものですから」
「ああ、僕も聞きました……じつに思いがけない急なことでしたね」とレーヴィンはいった。
 伯爵夫人が入ってきて、長椅子に腰をおろすと、同じように奥さまのお体のことと、音楽会のことをたずねた。
 レーヴィンはそれに答えた後、アプラクシナ夫人の思いがけない、急な不幸に関する文句をくりかえした。
「もっとも、あのかたはいつも健康がおすぐれになりませんでしたけどね」
「あなた昨夜オペラにいらっしゃいまして?」
「ええ、まいりました」
ルッカがたいへんよろしゅうございますね」
「ええ、とてもよかったです」と彼はいった。そして、人が自分のことをなんと思おうと、いっこうに痛痒《つうよう》を感じなかったので、この歌姫の特殊な才能について、人から何百ぺんとなく聞いたことを、もう一度くりかえしはじめた。ボール伯爵夫人は、それを聞いているようなふりをした。彼がいいかげんしゃべって、やがて口をつぐんだとき、今度は今まで黙っていた大佐がしゃべりだした。大佐もやはりオペラのことだの、照明のことなど話しだした。いちばん最後に、チューリン家で催されることになっている 〔folle journe'e〕(馬鹿騒ぎ)の話をすると、大佐はからからと笑って、騒々しく立ちあがり、帰って行った。レーヴィンも同様に席を立ったが、伯爵夫人の顔色で、まだ辞去すべき時でないと気がついた。もう一、二分間いなければならないのだ。で、彼は腰をおちつけた。
 しかし、こんなことがいかにばかばかしいか、そればかり始終かんがえていたので、彼は話の種を見つけることができず、おし黙っていた。
「あなた、今日の集会へいらっしゃいませんの? たいそうおもしろいそうじゃございませんか?」と伯爵夫人がいいだした。「いえ、私は 〔belle-soe&ur〕(義姉)を迎えに行くことになっておりますので」とレーヴィンは答えた。
 沈黙が訪れた。母と娘はもういちど顔を見合わせた。
『さあ、どうやらもういいらしいぞ』とレーヴィンは考えて、腰を上げた。婦人連も立ちあがって、奥さまに mille choses(よろしく)伝えてほしいと頼んだ。
 玄関番は彼に外套をさしだしながら、こうたずねた。
「失礼でございますが、お住居はどちらでいらっしゃいましょうか?」それから、すぐさまりっぱな表紙のついた帳面に、それを書きつけた。
『もちろん、おれはどうだって同じことなんだが、それでもなんだが気がさす、それにおそろしくばかげている』とレーヴィンは考えながらも、みんなこのとおりのことをしているのだとみずから慰めて、委員会の集りへ馬車を駆った。彼はそこで義姉を見つけて、彼女といっしょに、家まで帰らなければならないのであった。
 委員会の会場には、大勢人が集っていて、ほとんど社交界の全部といっていいくらいであった。
 レーヴィンが着いたときには、まだ報告が終っていなかった。それは、みんなのいうところによると、非常におもしろいものだったそうである。報告の朗読が終ったとき、レーヴィンはスヴィヤージュスキイにも会った。スヴィヤージュスキイは、今夜、農村経営協会で有名な報告演説があるから、ぜひくるようにと誘った。それから、たったいま競馬から駆けつけたばかりのオブロンスキイや、その他いろいろの知人に会った。で、レーヴィンはこの会のこと、新しい曲のこと、訴訟事件のことなどで、種々さまざまな意見を聞きもすれば、自分でもしゃべった。しかし、あまり注意しすぎて疲労を感じたせいだろうか、彼は訴訟事件の話をしながら、まちがったことをいってしまった。その誤りは、後になっていくども思い出され、いまいましかった。レーヴィンは、ロシヤで裁判を受けている一人の外国人が、近いうちに処罰されることを話し、この外人に国外追放の罰を下すのは本当だと論じたが、それは昨日ある知人から聞いた受け売りなのであった。
「僕の考えでは、彼を国外へ追放するのは、梭魚《かます》を罰するのに、水中へ放つのと同じことです」とレーヴィンはいった。もうあとになって、自分のものとして吹聴したこの思想が、じつは知人の口から聞いたものであるばかりか、それはクルイロフの寓話《ぐうわ》からとってきたものであり、その知人はまたある新聞の雑録欄から、その思想を拝借したのだ、ということを思い出した。
 義姉といっしょにいったんうちへ帰り、キチイが無事できげんがいいのを見届けて、レーヴィンはクラブへ出かけた。

[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]

 レーヴィンがクラブへ着いたのは、ちょうどいい時刻であった。彼といっしょに、来賓や会員がぞくぞくと乗りつけた。レーヴィンは、もうずいぶん長いこと、クラブへ足踏みしなかった。まだ大学を出た当時、モスクワに住んでいて、社交界へ出入りしていたとき以来なのである。彼はクラブそのものや、その組織の外面的なデテールは覚えていたけれども、以前、自分がクラブで経験した印象は、すっかり忘れてしまっていた。けれども、半円形をした広い庭へ乗りこんで、辻馬車から降り、玄関へひと足ふみこみ、肩帯をつけた玄関番が音もなくドアを開いて、彼を迎えながら会釈をした瞬間――階上《うえ》までもちこむよりも、階下《した》でぬいだほうがやっかいがなくていいと分別した会員たちの、オーヴァシューズや外套を玄関番部屋に見た瞬間――自分の来着を先ぶれする神秘めかしいベルの音を聞き、坂になった絨毯《じゅうたん》の階段をあがりながら、踊り場に飾った彫刻を見、二階の戸口で三人目にあたる、ひどく年とったなじみの玄関番が、クラブのしきせを着て、急がず遅れずドアを開けてくれて、入ってくる客をじろじろ見まわした瞬間―――久しい昔のクラブの印象――休息と、逸楽《いつらく》と礼儀の印象が、レーヴィンの心を捕えた。
「お帽子をいただきます」下の玄関番部屋に帽子を置くという、クラブの規則を忘れたレーヴィンに、この玄関番はそういった。「ずいぶんお久しゅうございますな。公爵さまがもう昨日、あなたさまのことをお申しこみになりました。オブロンスキイ公爵さまは、まだお見えになりません」
 この玄関番は、レーヴィンを覚えていたばかりでなく、その縁戚も交友関係も、のこらず承知していたので、さっそく彼に親しい人々の名をいった。
 衝立《ついたて》のおいてある、通路になった最初の広間と、果物の売店のある、仕切りをした右手の部屋を通りぬけると、レーヴィンはのろのろと歩く老人を追い越して、大ぜい人のざわついている食堂へ入った。
 もうほとんど占領されているテーブルの列に沿って進みながら、彼は客を見まわした。ここかしこと飛びとびに、思い切って色わけのちがう――あるいは年とった、あるいは若い、ごく浅い知り合いや、きわめて近しい友人などが、彼の目に入ってきた。怒ったような顔や心配そうな顔は、一つとして見えなかった。どうやらすべての人が、帽子といっしょに、自分の不安や心配ごとを、玄関番部屋に残してきて、この世の物質的幸福を、悠々急かず、享楽する心がまえでいるらしかった。そこにはスヴィヤージュスキイも、シチェルバーツキイも、ネヴェードフスキイも、老公爵も、ヴロンスキイも、コズヌイシェフもいた。
「やあ、どうしてこんなに遅かったんだ?」と肩越しに手をさしのべながら、老公爵はいった。
「どうだね、キチイは?」チョッキのボタンのあいだにつっこんだナプキンをなおしながら、彼はこうつけ足した。
「べつに、達者でいます。いま姉妹三人、うちで食事をしているところですよ」
「ああ、アリーナ・ナージナか! さあ、ここには席がないんだよ。まあ、あのテーブルにでも行って、早く場所をとりなさい」と言って、老公はくるりとむこうへむき、ひげ魚のスープを盛った皿を、用心ぶかく受けとった。
「レーヴィン、こっちへ来たまヘ!」ちょっと先の方から、こういう人のよさそうな声が聞えた。それはトゥロフツインであった。彼は若い軍人と並んで腰かけてい、そのわきの椅子が二つさかさに立ててあった。レーヴィンは喜んでそのそばへよった。彼はふだんからずっと、人のいい遊び手のトゥロフツインが好きであった。――この男とは、キチイに心を打ち明けたときの思い出が結びついているのであった。――しかし今日は、気の張る議論めいた話をたくさんしたあとなので、トゥロフツインの人のよさそうな様子が、彼にはとりわけ快かったのである。
「これは君と、オブロンスキイのために取っておいた場所なんですよ。あの人もすぐ来ますよ」
 ひどくそっくりかえっているか、いつも楽しそうな笑みを目に浮べた軍人は、ペテルブルグから来たガーギンであった。トゥロフツインは二人を紹介した。
「オブロンスキイは年じゅう、遅刻ばかりしている」
「おや、ちょうどやって来た」
「君、たったいま来たばかりなんだろう?」とオブロンスキイは、つかつかとそばへよって来て、こういった。「ごきげんよう。ウォートカを飲んだかい? じゃ、行こう」
 レーヴィンは立ちあがって、彼のうしろから、ウォートカの類をはじめとして、変化をきわめた前菜《ザクースカ》の並べてある、大きなテーブルのそばへ行った。二十種類からある前菜の中からは、どんなものでも、好みの品が選び出せそうであったが、オブロンスキイは何か、特別のものを注文した。すると、そこに立っていたしきせのボーイの一人が、すぐさま注文の品を持って来た。二人は杯に一杯ずつ飲んで、食卓へひっ返した。
 魚スープがすむと、もうさっそく、ガーギンはシャンペン酒を注文し、それを四つのコップに注ぎ分けさした。レーヴィンは、すすめられる酒を辞退しないで、もう一本自分で注文した。彼はすっかり腹をへらしてしまったので、さもうまそうに食い、かつ飲んだばかりか、それよりさらに楽しげに、人々のにぎやかな罪のない話に仲間入りした。ガーギンは声を落して、新しいペテルブルグ仕込みの逸話を話した。それはいかがわしいばかげた話ではあったけれども、なんともいえないほどこっけいなものだったので、レーヴィンは近所の人たちがふりかえって見るほど、大きな声でからからと笑った。
「これは例の『わしはそんなことなど、がまんがならんほど大嫌いだ!』というあの式だね。君、知ってる?」とオブロンスキイはきいた。「全く、すてきな話なんだよ! もう一本もってこい」と彼はボーイに命じて、話をはじめた。
「ピョートル・イリッチ・ヴィノーフスキイが、これをさしあげてくれとのことでございます」と年とったボーイが、オブロンスキイをさえぎった。まだシャンペン酒が泡立っている華奢《きゃしゃ》なコップを、オブロンスキイとレーヴィンにむけて捧げている。オブロンスキイはコップをとって、テーブルのむこうの端に坐っている頭の禿げた、赤い口髭を立てている男と目礼をかわし、微笑を浮べながら、首をふって見せた。
「あれはだれだね?」とレーヴィンはたずねた。
「君は一度、僕のとこで会ったことがあるじゃないか、覚えてるだろう? 愛すべき好漢だよ」
 レーヴィンも、オブロンスキイと同じことをして、杯をとった。
 オブロンスキイの座興談も、同様になかなかおもしろいものであった。レーヴィンも自分の知っている話をもちだしたが、これまたみんなの気に入った。それから、話が馬のことに移って、今日の競馬のこと、ヴロンスキイのアトラス号が、はなばなしく一等賞をとったことなどが、噂にのぼった。レーヴィンは、いつの間に食事が終ったのか、気のつかぬほどであった。
「ああ! とうとうやってきた!」もう食事の終りころに、オブロンスキイはこういった。そして、椅子の背越しに身をそらせ、背の高い近衛《このえ》の大佐といっしょに近づいてくるヴロンスキイに、手をさしのべた。ヴロンスキイの顔にも、クラブぜんたいにみなぎっている、浮きうきした人のよい気分が現われていた。彼は楽しげに、オブロンスキイの肩に肘をのせて、何やらささやきながら、おなじ浮きうきした微笑とともに、レーヴィンに手をさしのべた。
「お目にかかれてじつに愉快です」と彼はいった。「あのとき選挙場で、あなたをさがしたんですが、もうお帰りになったということで」と彼はいった。
「ええ、あの日すぐ帰ってしまったのです。僕らはたった今、あなたの馬の話をしていたとこなんですよ。おめでとう」とレーヴィンはいった。「ものすごい速力だったそうですね」
「しかし、あなたも馬をおもちなんでしょう」
「いや、親父がもっていただけです。しかし、僕は覚えています。知っています」
「君はどこで食事したんだね?」とオブロンスキイはたずねた。
「僕らは円柱のむこうの第二テーブルだよ」
「この男の祝賀会をやってたんですよ」と、背の高い大佐はいった。「皇帝賞の二等なんですからね。僕もこの男の馬くらいな幸運が、カルタのほうへめぐってきたらなあ」
「いや、何も貴重な時間を、むだにつぶすことは要《い》りゃしない。おれは地獄部屋へいくよ」大佐はいって、食卓を離れた。
「あれはヤーシュヴィンです」とヴロンスキイはトゥロフツインに答え、このグループのそばのあいた席に腰をおろした。すすめられたシャンペン酒の杯を乾して、彼は新しいびんを注文した。クラブの印象に支配されたのか、それとも飲んだ酒のせいか、レーヴィンは優良種の家畜のことでヴロンスキイと話しこみ、この男にたいしてなんの敵意も感じないのをうれしく思った。彼は何かの話のうちに、公爵夫人マリヤ・ボリーソヴナのところで、家内があなたにお会いしたとかいうことを、家内の口から聞きましたと、こんなことさえいった。
「ああ、公爵夫人マリヤ・ボリーソヴナですか、あれはじつにいいひとだなあ!」とオブロンスキイはいい、この夫人のことでちょっとした小話を一席弁じ、一同を笑わした。なかんずく、ヴロンスキイはなんともいえぬ人の好い顔つきで、大笑いに笑いこけたので、レーヴィンは心の中で、すっかりこの男と和解した気持になった。
「どうだね、もうおしまいだろう?」とオブロンスキイは立ちあがり、にこにこ笑いながらいった。「行こうじゃないか!」

[#5字下げ]八[#「八」は中見出し]

 テーブルを離れると、レーヴィンは歩くたびに、両手がかくべつ規則ただしく、軽々とふれているのを感じながら、ガーギンといっしょに、天井の高い部屋部屋を越して、玉突き部屋のほうへ行った。大広間を通りぬけているとき、彼は舅《しゅうと》にぶつかった。
「どうだい? われらが遊楽の殿堂は、気に入ったかね!」と老公は、彼の腕をとりながらいった。「さあ、行こう、少し歩こうじゃないか」
「僕も少し歩いて、見物したいと思ったとこなんですよ。これは興味がありますからね」
「そうだ、おまえには興味があるよ。しかし、わしの興味はもうおまえのとは別だよ。まあ、あの老人たちを見てごらん」柔らかい靴をはいた足を、運びながら、むこうからくる背の曲った、下唇のたれているクラブ員を、すれ違いざま指さして、彼はこういった。「おまえは、あれが生れながらのシュリューピックだと思うかい?」
「シュリューピックってなんのことです?」
「ほら、おまえはこの綽名《あだな》を知らないだろう? これはクラブのテクニカル・タームなんだよ。おまえは卵ころがしを知ってるだろう。あんまり長く転かしていると、シュリューピック(ぶよぶよ)になってしまう。われわれ仲間もそれと同じさ。あんまり長くクラブへ通ってると、シュリューピックになってしまう。いや、今おまえは笑っとるが、われわれはもう自分が、いつシュリューピックの仲間入りするかと思って、心配してるんだよ。おまえは、チェチェンスキイ公爵を知っているかね?」と公爵はたずねた。レーヴィンはその顔つきで、これは何かおかしい話をしようとしているのだな、と悟った。
「いや、知りません」
「へえ、どうしてだい! だって、チェチェンスキイ公爵は有名な人じゃないか。まあ、そんなことはどうでもいい。ところで、この人はいつも玉突きをやるんだが、三年ばかり前は、まだシュリューピックじゃなかったから、から元気をつけて、自分からほかのやつを、シュリューピック呼ばわりしたもんだ。ところが、あるとき、クラブへくると、おれたちなじみの玄関番……おまえ知っているかい、ヴァシーリイを? そら、あのふとった男だ。こいつがたいした警句家《ポンモチスト》でな。さて、チェチェンスキイ公爵がこの男に『おい、どうだ、ヴァシーリイ、だれとだれが来てる? シュリューピックがいるかい?』ときいたところ、ヴァシーリイはその返事に、『あなたさまが三人目でいらっしゃいます』といったものだ。いや、コスチャ、そういったわけさ!」
 行き合った知人にあいさつしたり、しゃべったりしながら、レーヴィンと老公は、ありったけの部屋を歩きまわった。大きな部屋では、もうカルタ机が並べてあって、慣れた同士が組になって、小さな勝負をやっていた。長椅子部屋では、将棋の勝負を戦わしていて、コズヌイシェフがだれかと話をしていた。玉突き部屋のちょっと曲ったところに、長椅子が置いてあって、ガーギンをまじえた陽気なシャンペンのグループが、そのそばに集っていた。地獄部屋ものぞいてみた。早くもヤーシュヴィンの陣取っているテーブルのそばに、ばくち仲間がおおぜいたかっていた。二人は音のしないように、読書室へ入った。そこでは笠のついたランプの下に、怒ったような顔をした一人の青年が、あとからあとからと雑誌を手にとってい、頭の禿げた将軍は、読書に没頭していた。老公のいわゆる『明智』の部屋へも入ってみた。この部屋では三人の紳士が、最近の政治上の出来事を熱くなって論じていた。
「公爵、どうぞおいでを、もう用意ができました」と勝負仲間の一人が見つけて、こういった。で、老公は出て行った。レーヴィンはしばらく坐って聞いていたが、今朝からの話を残らず思い出すと、急におそろしく退屈になってきた。彼はあたふたと立ちあがり、オブロンスキイとトゥロフツインをさがしに行った。この二人といっしょにいれば、気が浮き立つからであった。
 トゥロフツインは、玉突き部屋の背の高い長椅子に、飲み物のジョッキを持って腰かけていたし、オブロンスキイは部屋の遠い片すみの戸口に立って、何やらヴロンスキイと話していた。
「あれはくよくよしている、というわけでもないが、あれの境遇のはっきりしないこと、ちゃんと決まらないことが……」という声が聞えたので、レーヴィンは急いでそばを離れようとしたが、オブロンスキイが呼びとめた。
「レーヴィン」とオブロンスキイはいった。その目には涙とまではいかないが、一杯やったときか、さもなければ、ひどく感動したときにいつも現われる、一種のしめり気が溢れているのに、レーヴィンは気がついた。今夜は、その両方がいっしょになったのである。「レーヴィン、行っちゃいけない」と彼はいって、金輪際《こんりんざい》はなしはせぬといったように、相手の肘を固くつかんだ。
「これは僕の誠実な親友、いや、ほとんど最上の友なんだよ」と彼はヴロンスキイにいった。
「それから、君も僕にとって同じように、それ以上に親しい大事な友だちだ。だから、君たち二人は仲よく、親しくしてほしい。僕にはわかってる、それが必要なんだ。だって、君たちは二人ながらいい男なんだもの」
「そうだね、もうこの上は、われわれは接吻し合うだけのことだよ」人のいい冗談口調で、ヴロンスキイは手をさしだしながら、こういった。
 彼はさしのべられた手をすばやくとって、それを固く握りしめた。
「僕はじつに、じつに愉快です」とレーヴィンは、彼の手を握りながらいった。
「ボーイ、シャンペンを一本」とオブロンスキイは叫んだ。
「僕も非常に愉快です」とヴロンスキイはいった。
 しかし、オブロンスキイが気をもみ、当人同士も互にそれを望んだにもかかわらず、二人は何も話すことがなかった。彼ら両人もそれを感じた。
「君、知ってるだろう、この先生はアンナとまだ近づきでないんだよ」とオブロンスキイは、ヴロンスキイにいった。「だから、僕はぜひともアンナのとこへ、ひっぱって行こうと思うんだ。行こうよ、レーヴィン!」
「本当に?」とヴロンスキイはいった。「そりゃあれも喜ぶだろうよ。僕も今すぐ家へ帰りたいんだが」と彼はつけ足した。「ヤーシュヴィンが気がかりでね、あの男が勝負を終るまで、僕はそばについてやりたいんだ」
「どう、だめかね?」
「ずっと負けてばかりいるんだ。ところで、あの男をおさえることができるのは、僕一人だけなんだからね」
「ところで、どうだね、一つピラミッドをやったら? レーヴィン、君、やらないかね? そう、うまいぞ」とオブロンスキイはいった。「ピラミッドの用意をしてくれ」と彼はゲーム取りのほうへ向いていった。
「とっくに用意ができております」もう赤玉を三角形に積み上げて、退屈ざましに赤玉を転がしていたゲーム取りが、こう答えた。
「さあ、やろう」
 一ゲームやったあと、ヴロンスキイとレーヴィンは、ガーギンのテーブルのそばに腰をおろした。レーヴィンは、オブロンスキイの勧めに任せて、ポイント遊びをはじめた。ヴロンスキイは、のべつ近よってくる知人にとり囲まれて、テーブルのそばに腰かけているかと思うと、地獄部屋ヘヤーシュヴィンの状況偵察に行く。レーヴィンは、昼間の頭脳の疲れが安まっていく快さを感じた。ヴロンスキイとの敵対関係が消えたのがうれしく、平安と、礼儀と、満足の印象がたえず彼の心にあった。
 勝負が終ったとき、オブロンスキイは、レーヴィンの腕をとった。
「さあ、それじゃ、アンナのとこへ行こう。すぐね? いいだろう? あれは家にいるよ。僕はもう前から、君をひっぱって行く約束をしてるんだよ。君は今晩どこへ行くつもりだったんだね?」
「別にどこっていうことはない。スヴィヤージュスキイと農村経営協会へ行く約束をしたんだけれど……じゃ、出かけるとしようかね」とレーヴィンはいった。
「大出来、出かけよう! おまえ行って、おれの馬車が来たかどうか、きいてみてくれ」とオブロンスキイは、ボーイのほうへ向いていった。
 レーヴィンはテーブルへ近よって、ポイント遊びで負けた四十ルーブリを払い、なにかしら摩訶《まか》ふしぎな方法で、戸口のところに立っている、年取ったボーイにだけわかっているクラブ関係の費用を支払い、とくべつ両手をふりながら、ありたけの部屋を通りぬけて、出口へ向った。

[#5字下げ]九[#「九」は中見出し]

「オブロンスキイさまのお馬車!」と玄関番が怒ったような声で叫んだ。馬車が入口階段のそばへくると、二人は乗りこんだ。ただはじめのうち、馬車がクラブの門を出て行くあいだだけ、レーヴィンは依然としてクラブの平安と、満足と、周囲のものの疑いもない礼儀ただしさの印象を感じていたが、馬車が表へ出て、道の凹凸《おうとつ》のために車の動揺が感じられ、すれちがう辻馬車屋の叫びが耳に入り、ぼんやりした灯《あか》りの中で、居酒屋や小店の赤い看板が目に映るが早いか、この印象はたちまちくずれてしまって、彼は自分の行動を反省しはじめた。そして、今アンナのところへ行くのは、はたしていいことだろうか? キチイはなんというだろうか? と自問した。しかしオブロンスキイは、長く考えこませておかなかった。あたかも相手の疑惑を察したかのように、それを追い散らしてしまった。
「僕はじつにうれしいよ」と彼はいった。「今に君は、あれがどういう女かってことを、知るんだからな。君、知ってるかね、ドリイは前からこれを望んでいたんだよ。それに、リヴォフもあれのところを訪ねて行って、ときどき出入りしてるんだからね。あれは僕にとって妹ではあるけれども」とオブロンスキイはつづけた。「僕はあえていうが、あれはたいした女だよ。まあ、今にわかるがね。あれの境遇は苦しいものだ、ことに今は格別」
「どうして今は格別なんだね?」
「いま法律上の良人と、離婚の交渉中なんだ。先方もそれは同意なんだが、ここに一つめんどうなのは、息子の問題なんだ。この話は、もうとくに片づいていなけりゃならんはずなのに、もうこれで三月も長びいているのだ。離婚が成立したら、あれはさっそくヴロンスキイと結婚するんだ。じっさいあの堂々めぐり、イサヤ悦べ([#割り注]教会結婚の形式[#割り注終わり])の旧い習慣ほど、ばかばかしいものはありゃしないよ。そんなものだれ一人、信じてもいないんだけれど、そいつが人の幸福をじゃまするんだからな!」とオブロンスキイは言葉をはさんだ。「まあ、そうなったら、あれの境遇も、君や僕と同じように、はっきりするというものだ」
「めんどうって、いったいどういうことなんだね?」とレーヴィンはいった。
「いや、それは長い退屈な話なんだよ! ロシヤでは、そういうことがみんな、じつにあいまいなんだね。しかし、問題はほかでもない、あれはその離婚を待ち受けながら、知人のいっぱいいるモスクワで、三月も暮しているということなんだ。どこへも行かず、女にはドリイのほかだれにも会わないって状況だ。なぜといって、君もわかるだろうが、あれはお情で人から訪問してもらったりするのがいやなんでね。あの馬鹿女のヴァルヴァーラ公爵令嬢ね、あれさえ世間体が悪いなどといって、出てしまったんだからね。こういうわけで、もしほかの女がああいう境遇におかれたら、手も足も出なかったに相違ないんだが、あれは、今に君も自分の目で見るわけだが、じつにうまく自分の生活をととのえてさ、ちゃんとおちついて、品位をたもっているんだからね。左、教会の前を横町へ入るんだ!」とオブロンスキイは、馬車の窓から身を乗り出しながら叫んだ。「ふう! なんて暑いんだろう!」零下十二度という寒さにもかかわらず、彼はさらでだに前のはだかっている毛皮外套を、さらにひろげながらこういった。
「それに、あのひとには女の子があるんじゃないか、きっとそのせわで気がまぎれているだろう?」とレーヴィンはいった。
「君はどうやら、女ってものをだれでもかれでも、ただの une couveuse(巣についた牝鶏)のように考えてるらしいね」とオブロンスキイはいった。「仕事があれば、それは必ず子供のことにきめてるんだもの。いや、あれはその女の子をりっぱに育ててるに相違ないが、その話はちっともしないんだ。あれの仕事は、第一に、書くことなんだよ。おや、見受けたところ、君は皮肉なにやにや笑いをしてるらしいが、そりゃいかんよ。あれは子供のための本を書いてるんだぜ。自分ではだれにもしゃべらないけれど、僕にだけは読んで聞かせた。で、僕がヴォルクーエフに原稿を渡したところ……君、知ってるかい、あの出版者さ……同時に自分でも作家らしいので、一|隻眼《せきがん》を備えているのだが、これはすばらしいものだっていったよ。しかし、それなら女流作家だな、なんて思わないでくれ。どうして、どうして。あれは何よりもまず、心情をもった女なんだから、今にわかるよ。今あれはイギリス人の女の子と、その家族をまるまる引き受けていてね、それで忙しいんだよ」
「それは何かね、慈善事業とでもいったようなものかね?」
「どうも君はなんでも、すぐ悪いほうからばかり見たがる癖があるね。慈善事業じゃなくって、まごころの仕事だよ。あすこには、といって、つまりヴロンスキイのところには、イギリス人の調馬師がいるんだ、その道にかけては名人なんだけれど、のんべでね。すっかりのみくらって、delirum tremens(震戦性譫妄症《しんせんせいせんもうしょう》)になって、家族なんかふりむこうともしないんだ。それをあれが見つけてね、助けてやったところ、だんだんひきこまれていって、今じゃ家族ぜんたいが、あれの手にかかっているわけだ。しかし、金の力で、恩にかけるようなやりかたじゃなくって、男の子たちは中学へ入れてやるために、自分でロシヤ語の準備をしてやってるし、女の子は自分の手もとへひき取った次第さ。まあ、今に君、自分の目で見るがね」
 馬車は邸のなかへ乗りこんだ。オブロンスキイは、橇《そり》の待っている車寄せで、音高くベルを鳴らした。
 戸を開けた雇男《やとい》の従僕に、主人は在宅かどうかもきかないで、オブロンスキイは玄関へ入った。レーヴィンは、自分のしていることは、いったいいいことか悪いことかと、しだいしだいに疑惑を増しながら、そのあとについて入った。
 鏡をちらと見て、レーヴィンは自分の顔が赤いのを見たけれど、酔っぱらってはいないという自信があったので、オブロンスキイのあとから、カーペットを敷いた階段を昇って行った。上へあがると、親しい訪問客という扱いで会釈した従僕をつかまえて、オブロンスキイは、アンナ・アルカージエヴナのとこへ来ているのはだれだれか、とたずねた。すると、ヴォルクーエフさまです、という返事であった。
「どこにいらっしゃる?」
「お書斎でございます」
 暗い色の羽目板を張った小さな食堂を通りぬけて、オブロンスキイとレーヴィンは柔らかいカーペットづたいに、大きなうっとうしい笠をかぶせたランプ一つだけに照らされているほの暗い書斎へ入った。もう一つ、反射鏡のついたランプが壁についていて、大きな全身大の婦人像を照らしていた。レーヴィンは思わず、それに注意をひきつけられた。それは、イタリーでミハイロフの描いた、アンナの肖像画であった。オブロンスキイが、何かの蔓《つる》を這わした四つ目垣([#割り注]室内に設けたあずまや風のもの[#割り注終わり])の中へ入って行って、今まで聞えていた男の声が途絶えたとき、レーヴィンは明るい照明の中に、額縁から浮き出した肖像画をながめていたが、そこから目をはなすことができなかった。彼は自分がどこにいるかさえ忘れて、人の話していることも耳にさえ入らず、驚嘆すべき肖像画を一心に見まもっていた。それは画ではなく、生ける美女であった。黒い髪はふさふさと渦巻いて、肩も腕もあらわに、優しい生毛におおわれた唇には、物思わしげな、なかばほほえむような翳《かげ》を浮べて、勝ち誇ったように、しかも優しく彼をながめている、その目つきが彼を困惑させた。彼女が生きた女でないのは、ただ生きた女には不可能なくらい美しかったからである。
「まあ、うれしゅうございますこと」とつぜんすぐそばで、明らかに彼に向けられたらしい声が聞えた、彼が肖像画の中で見とれていた女の声である。アンナは彼を迎えに、蔓垣《つるがき》の中から出て来た。レーヴィンは書斎の薄明りの中で、肖像と同じ女を見た。青のかった[#「青のかった」はママ]じみな友禅の服をつけており、姿勢も表情も肖像画とは違っていたが、肖像の画家がとらえたのと同じ、美の頂上に立っていた。現実の彼女は、輝かしさこそ少なかったけれども、そのかわり生ける彼女には、肖像画のもたぬ一種の新しい魅力を蔵していた。

[#5字下げ]一〇[#「一〇」は中見出し]

 彼女は、レーヴィンに会えるうれしさを隠そうともせず、いそいそと出迎えに立ったのである。小さいけれど、エネルギッシュな手を彼にさしのべたとき、それからヴォルクーエフを紹介し、すぐそこに坐って編物をしていたかわいい女の子をさして、これはわたしの養い子ですといったとき、そういう場合のおちついた態度には、レーヴィンがよく知っていて、快い感じを受ける上流婦人の態度、いつもおちついていて自然な上流婦人の態度が、ありありと見えるのであった。
「ほんとになんてうれしいことでしょう」と彼女はくりかえしたが、彼女の口から出ると、この平凡な言葉も、なぜか特殊な意義をおびてくるように、レーヴィンは感じたのである。「わたしはあなたのことは、前まえから存じ上げておりまして、スチーヴァと親しくして下さるので、なつかしく存じていたのでございますよ。それから、あなたの奥さまの関係でも……わたし奥さまを存じ上げていたのは、ほんのちょっとのあいだのことでしたけれども、奥さまからは、美しい花のような印象を受けましたわ、まったく花ですわ。それがもう間もなく、お母さまにおなんなさるなんてねえ!」
 彼女はときおり、レーヴィンから兄に視線を移しながら、自由な調子でゆっくりと話した。レーヴィンは、その目つきから受ける印象がよかったので、たちまちまるで子供時代からの知り合いのように、楽な、肩の張らない、楽しい気分になった。
「わたし、イヴァン・ペトローヴィッチとごいっしょに、アレクセイの書斎に陣取ったのよ」タバコを吸ってもいいかという、オブロンスキイの問いに答えて、彼女はそういった。「つまり、タバコを吸うためなんですの」それから、レーヴィンの方をちらと見て、タバコをおあがりになりますか? ときくかわりに、鼈甲《べっこう》のシガレットケースをひきよせて、一本ぬき出した。
「この頃、体のぐあいはどうなの?」と兄は彼女に問いかけた。
「べつに。ただいつものとおり神経がね」
「ねえ、とてもいいだろう?」レーヴィンがちらちらと肖像を見上げているのに気づいて、オブロンスキイはいった。
「これ以上の肖像画は見たことがないよ」
「それに、とてもよく似ている、そうじゃありませんか?」とヴォルクーエフがいった。
 レーヴィンは肖像から実物に目を移した。アンナがその視線を身に感じた時、なにか特殊な輝きが彼女の顔を照らした。レーヴィンは赤くなった。その当惑感を隠すために、ドリイに会ったのは大分まえのことか、と問いかけた。が、それと同時に、アンナのほうから話しかけた。
「わたし、今イヴァン・ペトローヴィッチと、ヴァシチェンコフの近作のお話をしておりましたのよ。あなたごらんになりまして?」
「ええ、見ました」とレーヴィンは答えた。「でも、失礼いたしました、お話の腰を折ったようでございますね。あなた何かいおうとなすったのでございましょう……」
 レーヴィンは、ドリイに会ったのは前のことか、とたずねた。
「あのひとは、昨日うちへ来て下さいました。グリーシャのことで、ひどく中学校に腹をたてていらっしゃいましたわ。ラテン語の先生が、何かあの子に不公平なことをしたとかで」
「ええ、僕はヴァシチェンコフの絵を見ましたが、そうたいして気に入りませんでしたね」とレーヴィンは、彼女のはじめた話題に帰った。
 今ではもうレーヴィンの話ぶりは、昼間のような、事務的なところが、すっかりなくなってしまった。アンナと話していると、一つ一つの言葉が、特殊の意義をおびてくるのであった。彼女と話すのも気持がよかったが、彼女の話を聞いていると、もっと気持がいいのであった。
 アンナの話しぶりは自然だったばかりでなく、聡明なものであった。が、聡明であると同時にむぞうさで、自分の思想にはなんの価値も認めず、相手の思想に大きな価値を賦与《ふよ》するのであった。
 話題は芸術の新しい方向や、フランスの一画家が試みた聖書の新しい挿絵に転じた。ヴォルクーエフは、粗野に堕したこの画家のレアリスムを難じた。レーヴィンはそれにたいして、フランス人はどの国民よりも以上に、芸術上の約束をぎりぎりのところまで持って行ってしまったので、したがって、レアリスムへの復帰を特別な功績のように思っているのだ、彼らはもはやうそをつかぬという点に、詩美を見いだしたのだ、と述べた。
 レーヴィンは、今まで自分のいった聡明な言葉の中で、これほど彼に満足感を与えたものはなかった。アンナがこの思想を正しく評価すると同時に、その顔は忽然として輝きをおびた。彼女は笑いだした。
「わたし笑っていますけど」と、彼女はいった。「それはね、とてもよく似た肖像画を見るときに笑いだす、あれなんですの。あなたのおっしゃったことは、今のフランス芸術の特質を、そっくり定義していますわ、絵ばかりでなく、文学にまであてはまりますものね、ゾラとか、ドーデエとか。でも、それはいつでもそうなのかも知れませんわね。頭で考え出した約束的な人物で、自分の comceptions(構想)を組み立てているうちに、やがてありたけの組合せも使いはたして、頭で考え出した人物にも飽きてしまうと、今度はもっと自然な、本当らしい人物を考え出すようになるんですわ」
「いや、それこそ全くそのとおりですよ!」とヴォルクーエフはいった。
「じゃ、あなたがたはクラブヘいらしたの?」と彼女は兄に話しかけた。
『そうだ、そうだ、これこそ本当の女だ!』レーヴィンはわれを忘れてしまって、いま突如として一変した、美しい動的な感じのする顔を、穴のあくほどながめながら、こう考えるのであった。彼女が兄のほうへかがみこんで、何を話しているのか聞えなかったけれども、レーヴィンはその顔の変化に一驚を喫した。今までは、そのおちつきのために美しかった顔が、とつぜん妙な好奇心と、憤怒と、誇りを現わしているのであった。しかし、これはほんのつかのまであった。彼女は何か思い起しでもしたように、目を細めた。
「まあ、でも、こんな話、だれにもおもしろかありませんわね」といって、彼女はイギリス娘のほうへふりむいた。「Please order the tea in the drawing room.(どうか応接間でお茶の用意をするように、いいつけてちょうだい)」
 女の子は立ちあがって、出て行った。
「ときに、どうだね、あの子は試験が受かったかね?」とオブロンスキイはたずねた。
「りっぱに受かりましたわ。とてもできのいい子で、かわいい性質なんですの」
「あげくのはては、自分の娘よりかわいくなるんだろう」
「それは、男の人のいうことですわ。愛情に大きいも小さいもありませんわ。自分の娘を愛するのと、あの子を愛すのとは、愛し方が違いますもの」
「それについて、私はアンナ・アルカージエヴナにいってるんですがね」とヴォルクーエフが口を入れた。「もしあのイギリス娘にそそがれている精力の百分の一でも、一般ロシヤの少年少女の教育に向けられたら、アンナ・アルカージエヴナは大きな、益のある仕事をなしとげられたでしょうにね」
「ところが、そのおっしゃることが、わたしにはできませんの、アレクセイ・キリーロヴィッチ伯爵が(このアレクセイ・キリーロヴィッチ[#「アレクセイ・キリーロヴィッチ」に傍点]伯爵という言葉を出すとき、彼女は許しを乞うような、臆病らしいまなざしでレーヴィンを見やった。すると、彼は思わず知らず、うやうやしい肯定するような視線で、それにこたえたのである)田舎で学校事業をするようにと、水を向けたものですから、わたしも何度か通ってみましたの。みんなとてもかわいい子でしたけど、わたしこの仕事に愛着をもつことができませんでしたの。あなたは精力とおっしゃいますが、精力には愛が基になっています。ところで、その愛はどこから取ってくることもできなければ、命令するわけにもまいりませんもの。あの娘《こ》はふと好きになったんですけど、なぜだか自分でもわかりませんの」
 こういって、彼女はまたもやレーヴィンをちらと見た。と、その微笑も、まなざしも、なにもかもが、こんなことを語っていた――わたしは、あなたのご意見を尊重してもいますし、同時に、わたしたちふたりがおたがい同士、理解し合っているということを、前もって承知しているものですから、あなた一人だけに向けて、このお話をしているのでございますよ。
「それは僕によくわかります」とレーヴィンは答えた。「学校ばかりでなく、一般にそういったような施設には、本当に心を傾けることができないものです。だから、そうした慈善事業が、いつも大した成績をあげないんだと、そう僕は思いますね」
 彼女はちょっと黙っていたが、やがてにっこり笑った。
「そうですわ、そうですわ」と彼女は確かめた。
「わたし、どうしてもできませんでしたの。〔Je n'ai pas le coe&ur assez large〕(わたしには、それだけの大きな心がございませんもの)きたならしい女の子のいっぱいいる養育院を愛するなんて。〔Cela ne m'a jamais re'ussi〕(そんなことはわたし、ついぞ一度もうまくいったことがございませんの)そのために position sociale(社会的位置)をこしらえた女の人は、ずいぶんあるんですけどね。そのうえ、今となってはなおさらですわ」と彼女は打ち沈んだ、信頼にみちた表情でいった。ちょっと見たところでは、兄に話しかけるようなふうであったが、レーヴィン一人を目標にしているのは、明らかであった。「今はわたし、何か仕事をもってるってことが、とても必要なんですけど、わたしにはできませんの」そういってから、ふいに眉をひそめて(彼女は自分のことなどいいだした自分にたいして、眉をひそめたのである。レーヴィンはそれを悟った)彼女は話題を変えた。「わたし、あなたのこと存じていますのよ」とレーヴィンに話しかけた。「あなたが公民として、感心できないかただってことを。でも、わたしはわたしなりに、あなたの弁護をいたしましたけど」
「どんなふうに弁護してくださいました?」
「そりゃ攻撃のしぶりによって、いろいろですわ。もっとも、お茶をひとついかがでございます?」と彼女は立ちあがり、モロッコ革で装幀した本をとりあげた。
「それを私にくださいませんか、アンナ・アルカージエヴナ」とヴォルクーエフは、本をさしながらいった。「それはじゅうぶん値うちがありますよ」
「いえ、いえ、これはまだ仕上げが本当にできていないんですもの」
「僕はあの男にその話をしたんだよ」とオブロンスキイは、レーヴィンをさしながら、妹にいった。
「まあ、いやねえ。わたしの書くものなんて、いわばリーザ・メルカーロヴァがときどきわたしに売りつける、囚人たちのつくった籠や、木彫細工みたいなものですわ。あのひとは慈善会で、監獄のほうの主任をしてらっしゃるんですの」と彼女はレーヴィンの方へ向いていった。「あのふしあわせな人たちの作ったものといったら、それこそ忍耐の奇蹟ですわ」
 レーヴィンはそこでまた、このなみなみならず気に入った女性の中に、一つの新しい特性を発見した。聡明さと、優雅さと、美しい容姿のほかに、彼女は真実みをもっていたのである。彼女は自分の境遇の苦しさを、レーヴィンに隠そうとしなかった。彼女はそういうと、ほっと一つ吐息をついたが、その顔はまるで化石でもしたように、とつぜんきびしい表情になった。この表情を浮べた彼女の顔は、前よりもさらに美しかった。しかし、この表情は新しいものであった。それは、画家があの肖像の中で捕えた、幸福にかがやき、幸福を生み出す、あの環境の外に属するものであった。レーヴィンはもういちど肖像をながめ、それからさらに、兄の腕をとって高いドア口から出て行く彼女の姿を見やったとき、われながら驚かれるほど、彼女にたいする優しい愛情と、憐愍を感じたのである。
 彼女はレーヴィンとヴォルクーエフに、客間へ先に行ってくれと頼んで、自分は兄と何かの話をするために残った。『離婚のことか、ヴロンスキイのことか、ヴロンスキイがクラブで何をしているかということか、それともおれのことか』とレーヴィンは考えた。彼は、アンナがオブロンスキイと何を話しているか、ということにばかり気をもんでいたので、アンナの書いた少年小説のよさを説くヴォルクーエフの言葉が、ほとんど耳に入らないほどであった。
 茶のあいだにも相変らず気持のいい、内容の充実した話がつづいた。話題をさがさなければならないようなことは、ただの一分間もなかった。それどころか、自分のいいたいことを述べるのが、まにあわないくらいであったが、同時に人の話を聞くために、自分のいいたい気持をおさえるのも、快いのであった。そのとき話したことは何もかも、アンナ自身ばかりでなく、ヴォルクーエフやオブロンスキイのいったことまで、すべてがアンナの心づかいや、彼女のはさむ言葉のおかげで、特殊な意味をおびてくるのであった。
 興味ふかい会話の流れを追いながらも、レーヴィンはたえず彼女に見とれていた。――その美貌、聡明さ、教養ばかりでなく、その単純さと、情味深さに見とれていた。彼は聞いたり話したりしながらも、彼女の感情を察しようと努め、彼女のことを考え、その内生活を考えていた。以前あれほどきびしい態度で、彼女を非難していた彼が、今はふしぎな思想の流れによって、彼女の弁護をするようになり、同時に、ヴロンスキイが十分に彼女のよさを理解していないのではないか、というようなことまで気にしはじめた。十時をまわってから、オブロンスキイが立ちあがって帰りじたくをした時(ヴォルクーエフはもうその前に辞し去った)レーヴィンはつい今しがた来たばかりのような気がした。彼はなごり惜しい気持で、同様に席を立った。
「さようなら」彼の手をひきとめるようにして、なにか引力のあるまなざしで彼の目を見つめながら、彼女はそういった。「わたし本当にうれしゅうございますわ、que le glace est rompue(わだかまりが溶けて)」
 そういって、彼の手をはなし、目を細めた。
「どうか奥さまにそういって下さいましな、わたしはもともとどおり、あのかたを愛していますって。もしあのかたが、わたしの境遇を赦《ゆる》すことがおできにならなかったら、どうか永久に赦さないでいただきたいんですの、それがわたしの望みでございますの。わたしを赦すためには、わたしと同じことを体験しなくちゃなりませんが、そんなことがあったら大変ですものね」
「ええ、必ず、僕そのとおりに伝えます……」とレーヴィンは、顔を赤らめながら答えた。