『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『戦争と平和』(トルストイ作、米川正夫訳)上巻P321―P360(校正前)

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妙な合点のいかぬ響きを聞いた。ナターシヤは、くしゃくしやになって渦巻いてら・彼の黒い髪の毛に接吻した。このとき伯霖夫人の忙しげな衣摺れの音が聞えだ。彼女は二人のそばへ近づいた。 「ジェニーソフさん、お志はまことに有難うございますけれど、」伯爵夫人はもじもじしたような声でこう言った。しかし、その声もジェニーソフには恐ろしく、いかつく聞えたのである。 「家の娘はなにぶんまだ年若でございますのでねえ。それにあなたは宅の倅のお友達でもございますから、まずわたくしに相談して下さることと存じていました。それですと、わたくしもこうして余儀なくお断りしなければならないような、苦しいはめに落ちないですんだでしょうにねえ。」 「奥様、」とジェニーソフは伏目になって、恥じ入った様子をしながら、まだなにか言おうとしたが、そのまま口ごもってしまった。 ナターシヤはジヱニーソフのこうしたみじめな姿を、平気で見ていることができなかった。彼女は声高にすすり泣きし始めた。 「奥様、僕はあなたにたいして中しわけがありません。」ジェ ニーソフは途切れがちの声で語をづいだ。 「しかしこれだけはご承知下さい、僕はお嬢様をはじめご家族 一同を、神様のように崇拝していますので、あなた方のためには命の一つや二つ惜しくないくらいに思って……」彼はふと夫人の方を見た、と、そのいかつい顔が目に入ったので、「いや、ご免下さい、奥様。」夫人の手に接吻しながらそう言うと、ナ
ターシヤの方は見向きもせずに、急ぎ足で決然と部屋を出てしまった。
 次の日ロストフはジェニーソフの見送りにいった。彼はもう一日もモスクワにとどまることをがえんじなかったのである。モスクワの友人一同はジプシイのもとで彼の送別会をした。で、彼はどうして橇へ乗せられたか、はじめ三つばかりの駅をどうしてひかれていったか、少しも覚えていなかった。 ジェニーソフの出発後、ロストフは、老伯爵が容易に集め得ない金を待ちながら、一歩もわが家を踏み出さず、おもに令嬢たちの部屋にこもりながら、モスクワに二週間を過ごした。 ソーニャは前よりさらに優しく、心身をささげて彼に仕えた。さながら彼の敗北が非常な手柄であって、そのためにいっそう好きになったということを、彼に知らせようとするかのようであった。しかし、二コライは、もはや自分は彼女の愛に価しない人間だと思った。 彼は令嬢たちのアルバムを、詩だの曲譜だのでIぱい書きつぶしてしまった。そして、ついに四万三千ルーブリ耳をそろえて送って、ドーロホフから受取りを貰うと、知人の誰にも別れを告げずに、十一月の下旬、すでにポーフソドにいる連隊を追うて出発した。
第 四錣
S幻
第 五 編
      一 妻とすっかり話をつけてしまったのち、ピエールは。ペテルブルグへ向けて出発した。トルジョークの駅で換馬がなかった、というより、駅長が出そうとしなかったらしい。で、ピエールはしばらく待だなければならなかった。彼は外套も脱がずに、円いテーブルの前にある革張の長椅子に横になると、このテーブルの上に暖い長靴をはいた大きな足をのせて、もの思いに沈んだ。 「カバソを入れておきましょうか? お床は? お茶はいかがでございます?」と侍僕がたずねた。 ピエールは答えなかった。彼はなにものをも聞かず、たにものをも見なかったのである。彼は一つ前の駅からふともの思いに沈み始めて、それ以来、ずっとただ一つのことばかり思いつづけていたIそれは彼が周囲に起るものに。いささかの注意も向けようとしなかったほど、非常に重大な問題なのであった。ペテルブルグへ着くのが早かろうと遅かろうと、この駅で休息の場所があろうとなかろうと、そんな事はなんの興味もないばかりか、この駅で幾時間まっていようと、乃至は一生涯すごそうと、そんな間題はいま彼の全幅を領している思想にくらべれば、どちらだって同じことなのであった。 稾長、その妻、侍僕頭、トルジ。Iク名産の刺繍を丈ずさ攴
た女房などが、部屋の中へはいってぎて、めいめい彼に何かと忠義だてをする。ピエールはテーブルヘのせた足の位置を変えないで、眼鏡ごしにこれらの人々を眺めていたが、彼らが自分から何を要求するのか伊貳がいかなかった。そして、いま自分を悩ましている疑問を解決もしないで、どうして彼らは安閑と暮らしていけるのだろう、と不思議に思った。それは決闘後、ソコーリュキイから帰って、悩ましい不眠の第一夜を明かして以来、たえず彼の心を領している疑問であった。が、こうして旅へ出て孤独の境にあるために、これらの疑問はなお数倍の力をもって彼に迫って来た。何を考え始めても、忽ち同じ疑問に帰って来た。しかし、それは解決することもできなければ、拿だ自分で自分に提出しないでもいられないのであった。いわば、彼の全生命を支えている、大切な頭のねじ釘がゆるんだような工合であった。奥へ入りもしなければ飛び出しもせず、少しも縁へ食いこもうとしないで、ただおなじ穴の中をくるくるから廻りしてにいる。そのくせ、それを廻さずにいられないのである。 駅長は入ってくると御前に向かって、どうぞほんの二時間ばかりお待ちください、さすれば御前のために早打の馬をさしあげます、その後の事は成行きにまかせましょう! と追従たらたらと頼み始めた。あきらかに駅長の言うことは真赤な鱸であって、ただ旅客からよけいな金がとりたいに相違ない。 『これはいいことか悪いことか?』とピエールは自問自答Lだ。『俺にとってはいいことだが、ほかの旅客にとっては悪しこ赱なんだ。ところが、駅長自身にとってはさくべからざるこ
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戰爭と帯鋼
瓦だ、こうしなければ食っていけないからだ。この男はかつてこういう事のために、ある将校から殴られた事があると、自分でそう言っている。ところが、その将校は早く先へ行きたいから殴ったのだ。また俺は自分が侮辱せられたと考えたために、ドーロホフを撃った。ルイ十六世は罪人であると見なされたために処刑された。ところが、一年たつと、ルイ王を殺した人たちがやはり何とかいう理由で殺されたではないか? 悪とはそもそも何だ? 善とは何だ? 一たい何を愛し何を憎むべきだろう? そして何のために生きるのだろう、また俺は全体なにものだろう? 生とは何だ、死とは何だ? どういう力が万物を支配しているのだろう?』と彼は自分に間いかけた。 これらの疑問にたいしてただ一つの答えさえ得られなかった。たった一つ答えらしいものはあったが、それとて論理的なものでもなければ、これらの疑問に応ずるものでもなかった。ほかではない、『死んだら何もかもけりがついてしまう、死んだらIさいのことが知れるか、でなければ、こんな疑問を発する事をやめるだろう。』 というのであった。しかし、死ぬのは恐ろしかった。 トルジョークの物売女は黄色い声で雑貨、ことに山羊皮の上靴をすすめるのであった。 『俺は自分、でおきどころのわからぬ何百ルーブリという金を持 っている。しかるに、この女はぼろぼろの外套を着て、おずおずと俺の顔色を読んでいる。』とピエールは考えた。『そして、なぜこの女にこの金が必要なのだろう? はたしてこれだけの金が、髪の毛ひとすじほどでも、この女の幸福なり心の平穏な
りを増すだろうか? いったいこの世の中に俺やこの女を悪と死の手から、少しでも遠ざけてくれるものがなにかあるだろうか? 死、いっさいのものに終りを宣告する死、きょう明日にもIどっちにしたって永遠にくらべれぼほんの一瞬間だI我々をつかむ死!』彼はなにものにも食いこもうとしないねじ釘をいたずらに締めつけた。けれども、釘は依然として同じ所をからまわりするのみであった。 侍僕は半分ページを切ってあるスザ夫人の書簡体の小説本を渡した。彼はアメリー・ドーマソスフェルドとかいう女の、貞操にかんする争闘と苦悶を読み進んだ。 『なぜこの女はじっさい愛しているくせに、誘惑者に反抗して闘ったのだろう?』とピエールは考えた。『神は自分の意にそむいた欲望をこの女の心に播くはずがないじゃないか。俺の元の妻は闘おうとしなかった。しかも、それが正当なのかもしれない。』『駄目だ、何一つ発見することができない。』再びピエールはこう独りごちた。『何一つ考えつくことができない。我我の知り得ることは、ただなんにも知らないということだけだ。これが人間の叡智の行き止まりなのだ。』 彼には自分の内部や周囲にあるものが、ごたごたした無意味ないまいましいものに思われた。しかし、周囲に対するこうした嫌悪の中に、ピエールは一種の苛立たしい快感を覚えたのである。 「申しかねますが、御前さま、どうかこの人たちのためにほんの少しばかり、おつめくださいませんでしょうか。」駅長が入って来てこう言った。彼はいま沿とり馬の不足のために足どめ
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’された旅客を、自分のうしろに案内してきた。 旅客は骨組の大きな、がっしりした顔の黄色い皺の多い老人で、半白の眉が何色ともっかない灰色がかった、ぎらぎらする眼の上におおいかぶさっていた。 ピエールはテーブルから足をおろして立ち上り、自分のために用意された寝台に横だわって、ときおり新来の客を見やった。客は疲れた気むずかしい顔つきをして、ピエールの方を見『向きもせず、下男の手を借りて苦しそうに外套を脱ぎにかかった。だいぶくたびれた毛皮うらの南京木綿の上衣を着け、フェルト織の長靴をやせた骨っぽい足にはいたまま、客は長椅子に腰をおろした。そして、蟀谷の辺のずぬけて大きく広い、五分’刈の頭を椅子の背にもたせながら、ベズーホフの方をちらと眺めた。いかつい賢そうな、刺し通すようなこの眼の表情は、ピエールをどきりとさした。彼はこの旅客と話が始めたくなっ『だ。しかし、彼が旅のことで問を持ちかけようとしたとき、旅‐客はもう眼を閉じて、皺だらけの老人らしい手を組み(その指 の一本にはアダラの首を彫った、大きな鉄の指環がはめてあっ た)、身じろぎもせずに坐っていた。その様子から見ると、疲 れを休めているのか、何か深い静かな瞑想に耽っているのか、 どちらかのように思われた。 旅客の下男はやはり皺深い黄いろな老人であった。鼻ひげも・頤ひげもなかったが、それは剃ったのでなくはじめから生えて いないらしい。この小まめな老僕は、旅行用の道具箱をまぜ返 して、茶の用意をしていたが、やがて、煮立った湯沸を運んで ヽきた。すっかり用意が整ったとき、旅客は眼を開いてテーブル
にすりより、自分で茶をIぱいつぐと、べつにIぱい、ひげのない下男にも注いですすめた。ピエールはこの老人と会話を始める必要、と言うよりも、そうせずにはすまされないような不安を覚えはじめた。 下男は自分の呎のコップを伏せたのと、噛り残した砂糖の塊りを下げてから、なにかいるものはないかと訊ねた。 「なんにもいらん。本を出してくれ。」と旅客は言った。 下男は書物を渡した。それは宗教に関するものらしくピエールの目に映った。旅客は一心に耽読し始めた。ピエールはその様子を見つめていた。突然、旅客は書物を片寄せ、ちょっと栞りを挿んで、ばたりと閉め、ふたたび眼を開いて、椅子の背に肘を凭せつつ、もと通りの姿勢をとった。じっとその様子を見ていたピエールが眼をそらす暇もなく、老人は眼を開いて、しっかりしたおごそかな視線を、ひたとピエールの顔にそそいだ。 ピエールはなにかきまりの悪いような感じがしたので、その視線をさけようとした。けれど、ぎらぎら光る老人の眼は、容赦なく彼をひき寄せるのであった。           し      二 「突然こんなことを申して失礼かもしれませんが、あなたはベズーホフ伯甞ではありませんか、もし私の思い違いでないとすれば……」と旅客はゆっくり大きな声で言った。 ピエールは不審げに無言のまま眼鏡ごしに相手をながめた。 「私はあなたのことをIあなたの身に降りかかった不幸を噂
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戰爭と平和
’に聞いています。」旅客は『不幸』という言葉をことさら強く発音したように思われた。それはちょうど、『そうです、あなた。がなんとおっしやろうと、たしかにあれは不幸です。モスクワ。であなたの身に起ったことは間違いなく不幸です、ちゃんとわしは知っております。』と言うかのようであった。「私はあの事祚を非常に残念に恵うております。」 ピエールは赧くなって寝台から足をおろし、不自然な臆病らしい微笑を浮かべながら、老人の方へかがみこんだ。 「私はたんなる好奇心からこんなことを言うのではない、いま少し重大な理由があるのです。」 彼は自分の視線からピエールをのがすまいとするように、し。ばらく無言でいた。やがて、少し片寄って長椅子の座をゆずりながら、これでもってピエールに自分のそばへ坐れという意を知らせた。ピエールはこの老人と会話をまじえるのが不快であ ったが、我ともなく相手の意に従って、席を立ってモのそばに‐坐った。 「あなたは不幸な方です、伯爵。」と彼は語りつづけた。「あなたはお若いし、私は老人じゃによって、私は自分の力の及ぶか。ぎり、あなたをお助けしたいと思うております。」 「ええ、そう、」ピエールは不自然な微笑を浮かべっつこう言った。「まったく感謝いたします……が、あなたはどちらから・おいでになりました?」旅客の顔は無愛想というよりは、むしろ冷やかで厳しかった。しかし、それにもかかわらず、この新知己の言葉にしろ、顔つぎにしろ、いや応なしにひきっけるような力をもって、ピ
エールに働きかけるのであった。 「しかし、なにかの原因で、私と話すのがご不快でしたら、どうか遠慮なく言っていただきたいものですな。」と老人は言った。 そして、ふいに彼はにっこり笑ったが、それは父親らしい優しさの溢れた微笑であった。 「いやいや、どういたしまして、それどころじゃありません、僕はあなたとお近づきになったのを、非常に悦んでいるのです。」とピエールは言った。そして、もう一度この新知己の手をのぞいて、ちかちかと指環を透かして見た。彼はその上にアダムの首、即ち共済組合のしるしを認めたのである。 「失礼ですが、」と彼は言った。「あなたはマソソでいらっしゃいますか?」 「さよう、私は『自由石工』の組合に属しているものです。」しだいしだいにピエールの眼に見入りつつ、旅客はこう言った。 「で、個人として、かつ、組合の代表者として、私はあなたに救いの手をさしのべておるのであります。」 「僕の恐れるのは、」とピエールは微笑しながら言った。彼は個人としてこの人に呼び醒された信頼の情と、共済組合の信仰にたいする冷笑の習慣と、二つの間に迷っていたのである。 「僕の恐れるのは、僕が非常にかけ離れた人間で……いやなんと言ったらいいか、その、僕の心配なのは、全宇宙に関する僕の考え方が、あなたのそれとすっかり反対していて、そのためお互いに理解し合うことができなかあないか、ということなんです。」            じ
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 『「あなたの考え方は私にもよくわかっております。」とマソソ汢言った。「あなたのおっしやる考え方はIあなた自身の智的努力によって生まれたものだと自信しておられるその考え方・は、衆愚の考え方にほかならんのです。傲慢と怠惰と無智から生まれた、似たりよったりな結果です。失礼ですが、伯爵、も’し私があなたの考え方を知らなかったら、こうしてあなたに話しかけたりなぞしなかったでしょう。あなたの考え方は悲しむべき迷妄ですぞ。」 。「僕もそれと同じように、あなたもやはり迷妄に陥つていらっ・しやる、とこう想像することができるわけですね。」と弱々しく微笑しながらピエールは言った。 「私はけっして自分が真理を知っておるなどと、大胆なことは‐申しません。」その言葉の明晰と堅実さをもっていよいよピエールを驚かしつつ、共済組合員はこう言った。「何人といえども独力で真理に到達し得るものではない。ただ万人協力して、 一つ一つと礎を築きながら、人祖アダムから現代にいたるまで幾百万世紀を重ねて、偉大なる神のお住居として恥ずかしからぬ神殿が建立されていくのですぞ。」こう言ってマソソは眼を閉じた。 「僕は忌憚なく申し上げねばなりません、僕は信じなにいのです、その……神を信じ……ないのです。」事実ありのままうち明ける必要を感じて、ピエールは気の毒そうに、やっとのことでこう言った。 マソソは注意ぶかくピエールをうち眺めて微笑した。それは・あたかも、幾百万の富を握っている長者が『私には五ルーブリ
の金もありません、それがあれば幸福になれるんですが。』と訴える貧民に、微笑して見せるようなあんばいであった。 「さよう、あなたは神をご存じないでしょう。」とマソソは言った。「あなたがご存じのはずはない。あなたは神を知りなさらん、それだから、あなたは不幸なのです。」 「そうです、そうです、僕は不幸です。」ピエールは相手の言葉をたしかめた。「しかし、いったいどうしたらいいんですか?」 「あなたは神をご存じない、それだからあなたは不幸なのです。あなたは神を知らぬと言われるが、神はここにおられる、神は私のうちにおられる、神は私の言葉のうちにおられる、神は、お前さんのうちにも、いまお前さんの言った冒潰的な言葉のうちにもおられるのだ!」と厳めしいふるえ声でマソソは言った。彼はちょっと言葉を休めた。そして、明らかに興奮を静めようとするものの如く、吐息をついた。 「もし神がないものなら、」と彼は低い声で言い出した。「私たちは神のことなど言い出しはしなかったはずだ。いったいわれわれは何のことを、淮のことを話したのか? お前さんの否定したのは淮のことか?」ふいに歓喜にみちた威厳と力を声に響かせつつ、彼はこう言った。「もし神がないものなら、誰がそれを考えついたのか? なにかわからぬ存在物があるという想像は、どうしてお前さんの心中に生じたのか? なぜお前さんはじめ全世界の者が、そんな得体のしれぬあるものの存在を想像するのか? あらゆる点において全智全能、永遠無窮なあるものの存在を冫………」
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 彼は語を休めて長いこと沈黙していた。ピエールはこの沈黙を破ることもできなかったし、また破りたくもなかった。 「このあるものは存在しておる、しかし、それを理解するのは扛ずかしい。」ピエールの顔でなしに自分の前方を見つめながら、再びマソソが言い出した。その老人らしい千は内部の興奮にじっとしていられないで、本のページをめくりめくりしていた。「お前さんが存在を疑っておるあるものが、もし人間であったら、わしはその男をひっぱってきて、その手をとってお前さんに突きつけて見せるのだが、しかし、わしははかない人間だ。めしいている者や、神を見、神を理解することを厭い、自分の醜悪乱倫を見、かつ理解しまいがために、わざと目を塞いでおる者に、神の全能と永遠と恩恵を示すなどということが、どうしてどうしてできるものかI・」と彼は暫く言葉を休めた。 「お前さんはいったい誰か? 何者か? お前さんはああした胃涜の言を吐き得るが故に、自分を賢人だと空想しておるのだろう。」彼は暗い嘲るような薄笑いを浮かべつつこう言った。 「よく子供は精巧に作られた時計の小さな部分部分をもてあそんで、『私はこの時計の目的を知らないから、これを作った職工をも信じない。』 などと平気で言うものだが、お前さんはその小さな子供よりもっと愚かでたわけている。神を認識するのはむずかしい……我々は人祖アダムから現代にいたるまで、この認識のために働いているが、しかもいつまでたってもこの目的の到達は遼遠だ。しかし、神を理解しないということは、単に我々の弱小と神の偉大を示すに過ぎぬ。」 ピエールは、心臓の凍るような思いをし、眼を輝かしてマソ
yの顔を見つめながら、相手をさえぎろうとも、質問をもちかけようともしないで、じっと聴き入るのであった。そして、この見も知らぬ他人の言5ことを心底から信じてしまった。彼が信じたのは、マソソの言葉のはしばしにあらわれる理のつんだ論法なのか、それとも、時々ほとんどマソソの言葉をとぎらしてしまうほど烈しい声のふるえや、言葉の抑揚や、自信にみちた真摯な調子や、終始一貫した信念のうちに老い果てたような烱々たる年寄りらしい眼つきや、その全存在から放射する沈青と、堅固と、自己の使命の自覚などにたいする子供らしい信頼なのか・Iなにかはしらぬが、ピエールは心の底から信じたいという希望を感じ、かつ、本当に信じたのである。そして、胄心と更新と、ふたたび生に帰ったような悦ばしい感情を覚えた。彼の沮喪した絶望的な状態に比べて、マソソの態度表情は殊に力づよく胸に響いたのである。 「神は理智によって理解できるものでない、生活によって初めて理解されるのだ。」とマソソは言った。 「僕はどうも合点がいきませんご心の底に頭をもたげる疑念に感づいて恐れを抱きつつ、ピIIルはこう言った。彼は相手の不明瞭で薄弱なのを恐れた。彼はもし相手を信ずることができなかったらと、それが恐ろしかったのである。「どういうわけで人間の智性は、今あなたのおっしやる大知識に到達できないのでしょう!」 マソソは例のつつましい父親のような微笑を浮かべた。 「最高の智慧と真理とは、我々が自分の心にとり入れようと望んでいる、清浄な液体のようなものだ。」と彼は言った。「とこ



ろで、この清浄な液体を穢れた器に容れて、その浄不浄を論ずることができようか? 人間はただただ自己の内的浄化によってのみ、内容たる液体をある程度まで浄化することができるのだ。」 「そうです、そうです、それはまったくです!」とピエールは嬉しそうに叫んだ。 「最高の智慧は単なる理智や、人間の知識を分裂させる科学-I物理とか歴史とか化学とかいう、世間的な科学に根拠をおいていない。最高の智慧は唯一無二だ。最高の智慧は唯一の科学を包蔵している。それは万物の科学、即ち、全宇宙、およびその中で人間に与えられている場所を闡明する科学なのだ。この科学を自分の心へ納め入れるには、自己の内部の『人』を浄化して更新しなくてはならん。だから、認識する前に信仰し、自己を完成するの必要がある。これらの目的を貫徹するために、われわれの霊魂の中へ良心と名づけられる神の光が播かれてあるのだ。」 「そうです、そうです。」とピエールは相手の言葉をひきとった。 「霊の目をもって自己の内部の『人』を見つめて、俺は自分で自分に満足しておるか、とこう問いかけて見なさい。ただ理性のみに幀って、お前さんはいったいなにを獲たか? お前さんはいったいなにものか? あなたは若い、金がある、利口だ、教育がある、なあ。ところで、あなたは自分に賦与されたこれ等の幸福をもって、なにをしでかしました? あなたは自分自身および自分の生活に満足しておりますかな?」
 「いや、僕。は自分の生活を憎んでるのです。」ピエールは顔をしかめながら言った。 「憎んでおる? では、その生活を変えて、自分を浄化しなさい。そして、その浄化の度にしたがって、お前さんは叡智を認識するようになる。自分の生活をよく見なさるがいい。あなたはこれまでどんな生活を送ってきましたか? 乱暴な酒宴と淫蕩の間です。社会から受けるのみで、なにひとつ社会に寄与することなしに、あなたは莫大な富を受けとりました。ところ‘で、あなたはそれをどんなふうに使いましたか? 自分の同胞のためになにをしましたか? 幾万という自分の奴隷のことを考えたことがありますか? また彼らに肉体的精神的の扶助な与えたことがありますか? ことごとく否です。あなたは彼らの労力を利用して、乱倫な生活を送った。これがあなたの仕事です。またあなたは同胞に利益を齎すため、勤めを選んだことがありますか? これもない。あなたは無為に時を過ごした。その後、あなたは結婚した、つまり若い婦人の指導上の責任を負ったのです。しかるに、あなたはいったい何をしでかしたか?妻が正しい道を発見するように助力を与えないで、かえって、虚偽と不幸の淵に陥れてしまった。人が自分を侮辱したといってその人を殺しながら、私は神を知らないの、私は自分の生活を憎むのと言っておられる。それはあたりまえで、なにも不思議なことはありませんぞ!」 これらの言葉ののち、マソソは長い対話に疲れたように、ふたたび長椅子の背に肘をついて眼を閉じた。ピエールはこの厳めしい老人らしい、ほとんど死んだように動かない顔を眺めて
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默爭ξ平和
いた。そして、声もなく辱を動かすのであった。彼は『そうです。厭うべき、無為な、淫蕩の生活です!』と言いたかったが、この沈黙を破る気力がなかったのである。 マソソはしゃがれた老人らしい咳をして下男を呼んだ。 「馬はどうしたかな?」とピエールの方を見ないで老人はこうきいた。 「補充の馬を連れてまいりました。」と下男は答えた。「もうお休みになりませんか?」 「もうよい、橇へ淺けるようにいいつけてくれ。」 『いったいこの人は言うべきことを残らず誓ってしまわないで、助力の約束もしないうちに、俺を一人うっちゃっていくつもりなんだろうか?』ピエールは立ち上って頭をたれ、ちょいちょいマソソの方を偸み見しつつ、部屋じゅうを歩き廻りながらこう考えた。『そうだ、そうだ、今まで考えても見なかったが、俺は卑しむべき淫蕩な生活を送ってきたのだ。しかし、俺にそれを好みもしなければ、望みもしなかった。ところが、この人は真理を知っているのだから、その気にさえなったら、俺に啓示を与えてくれることもできるのだ。』 ピエールはこのことをマソソに言いたかったが、切り出すだけの気力がなかった。旅客は老人らしいなれた手つきで手廻りの品を片づけると、上衣のボタンをかけはじめた。これらのことを終ってから、彼はピエールの方を向いて、なにげない齟懃な調子で言った。 「あなたはこれから、どちらへお出かけですな?」 「僕ですか冫・・・・・・・僕はペテルブルグへ。」ピエールは子供らし
い思い切りの悪い声で答えた。「僕は実際あなたに感謝いたします。僕はすべての点においてあなたと同意です。しかし、慄を手のつけられないほどのやくざと思わないで下さい。あなたの望まれるような人間になりたいとは、僕も心から希望しているのです。ただ僕は今まで誰からも助力を得なかったものですから……もっとも、万事につけて第一番に悪いのは僕です。助けて下さい、そしたら、僕も或いは……」 ピエールはそれからさきを言うことができなかった。彼は鼻を啜って顔をそむけた。 マソソはなにやら思いめぐらしているらしく、長いこと黙っていた。 「助力はただ神から授かるのみです。」と彼は言った。「しかし、組合の力にかなう程度の助力でしたら、あなたも受けることができましょう。ペテルブルグへおいでになったら、これをヴィルラルスキイ伯爵に渡して下さい(彼は紙入れをとり出し、四つに折った大判の紙になにやら認めた)。ただ一つ忠言を呈することを許して下さい。ペテルブルグへ着いたら、はじめの数日を孤独と自己省察とにささげて、けっして以前の道へ踏みこまないようになさい。では、あなたのご無事な旅を。」下男が部屋へはいったのを見て、彼はこう言った。「ご成功を祈ります……」 ピエールが駅長の帳簿で知ったところによると、旅客はオシップーアレクセーヴィッチーバズジェーエフであった。バズジ  *一七四四一一八一八年、文明批評家、中年にしてマソンの群に校じ、萪冖夊   化のたのに買献するところ多し。
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エーエフはまだノーヴイコフ時代から知れ渡っている人で、マソソでもあり、また同時にマルチュストでもあった。彼の出発後、ピエールは長いこと眠りに就こうとも、馬を催促しようともしないで、駅逓の一室を歩き廻りながら、放恣な過去を回想したり、幸福な、一点の曇りもない、徳行にみちた未来を想像したり、その未来もたやすく実現されうることを思いなどして、更新の歓喜を覚えた。自分があんなに悖徳無慚であったのも、ただ何かの拍子で、一時、徳行の美しさを忘れたからに過ぎないと、そんな心持さえするのであった。以前の懐疑は彼の心に影すらも残していなかった。彼は人間が徳行をもって互いに扶助し合うために結合するという、四海同胞主義の可能を固く信じた。そして、共済組合こそ最もその主義に適う団体のように感じられた。      三 ペテルブルグへ着いてから、ピエールは自分の到着を誰にも知らせず、また自分もどこへも出ないで、毎日毎日『フオマー・ケムピイスキイ』I誰から借りたとも、貰ったとも知れぬ書物の耽読に時を過した。この書物を読みながらも、ピエールは一つの事を、ただ一つの事のみを頭へ入れた。即ち自己完成への到達の可能と、かのバズジェーエフに啓示された人間相互の同胞的、実行的愛の可能を信ずるという、ピエールの未だかつて味わったことのない快感を識得したのである。彼の首都到着後一週間たったある夕方、ペテルブルグの社交界でピエール  *フランスのマルチンーパスカルの称・刄たる禰秘的宗教の一派に属する人。
と表面上知り合っている、若いポよブソドの伯欝ヴィルラルスキイが彼の部屋へ入ってきた。その橡子はちょうどドーロホフの介添人がやってきた時のように、まじめくさってしかつめらしかった。彼は後ろ手で戸をしめると、室内にはピエールのほか誰もいないことを確かめてから、彼に向かってこう言った。 「伯爵、私は今日あなたに勧告の任をおびて参りました。」彼は坐ろうともしないでピエールに言った。「私どもの仲間で非常な尊敬を受けている或る人が、所定の期日を待だないであなたを組合へ入れるように運動されて、私にあなたの保証人になれとすすめられたのです。で、私はこのかたの希望をみたすのを自分の義務と考えました。いかがです。あなたは私の保証のもとに、『自由なる石工』の組合へ入ることをご希望ですか?」 いつも方々の夜会で華やかな婦人たちにとり巻かれながら、愛想のいい微笑を浮かべているところを見なれたこの紳士の。冷たい厳かな調子はピエールを驚かした。 「ええ、希望しています。」とピエールは言った。 ヴィルラルスキイはちょっと頭を下げた。 「伯爵、いま一つあなたに質問があります。」と彼は言った。「この疑問にたいして、あなたが未米の組合員としてでなく、galant homme¥i?3として、誠心誠意お答えくださることを望みます。あなたはこれまでの信念を放棄なさいましたか?あなたは神をお信じですか?」 ピエールはちょっと考えこんだが、 「ええ……私は神を信じます。」と言った。 「それでは……」ヴィルラルスキイが言い出したとき、ピエー
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戰爭
ルはそれをさえぎった。 「ええ、私は神を信じます。」ともう一度言った。 「それでは、私どもはもう出かけてもよろしいです。」とヴィルラルスキイが言った。「私の馬車にご同乗ください。」 途中、ヴィルラルスキイは黙りどおしであった。どうしたらいいか、なんと答えたらいいかというピエールの問に対して、彼はただ自分よりいちだん修養を積んだ組合員が試験するから、ピエールは正直にありのままを言ったらいい、それ以上なんにも必要がないと答えるばかりである。 集会所のおかれてある大きな家の門をくぐり、暗い階段を上って、二人は燈のついたささやかな玄関へはいった。ここで彼らは下男の手を借りずに外套を脱いだ。玄関からまた別な部屋へはいった。誰かしら奇妙な着物をきた人が戸口に現われた。ヴィルラルスキイはその方へ進んで、なにやらフランス語で低声に話をし、ピエールの見たこともない着物のはいっている、あまり大きくない戸棚に近よった。 この戸棚の中からヴィルラルスキイは一枚の(ンカチをとり出し、それをピエールの目にあててぐっと後ろで結んだ。結び目に髪が食いこんで瘠かった。それから、彼汢ピエールをほ分の方へひきよせて接吻すると、千をとってどこかへ連れて行くのであった。ピエールは、締めつけられた髪の痛みに顔をしかめ、なにかしらあるものにたいする羞恥のために薄笑いをしていた。両手をだらりと下げ、顔をしかめながら、にこにこと笑っているピエールの巨大な姿は、不規則な隋病らしい足どりで、ヴィルラルスキイのあとから動いていった。
 十歩ばかり彼を導いたとき、ヴィルラルスキイは立ちどまった。 「どんなことがあなたの身に起りましても、私どもの組合へ加入しようと固く決心なすった以上、男らしくすべてを忍んでください(ピエールはうなずいて承知の返事をした)。戸を叩く音がしたら、その目かくしをおとりになってよろしゅうございます。」とヴィルラルスキイはつけたした。「くれぐれもあなたの勇気と成功を祈ります。」こう言ってピエールの手を握りしめると、ヴィルラルスキイは出ていった。 一人きりになっても、ピエールは依然として微笑をつづけていた。二度ばかり肩をすくめて、ちょうど邪魔ものをとり胯いけてしまいたいというようなふうつきで、手を(ンカチの方へ持っていって、またおろした。彼が眼を縛られたまま過した五分は、一時間くらいの長さに思われた。手は萎え足はふらつきはじめた。彼は疲れたような気がしだした。そして、非常に箱緬な、非常に多様な感情を経験した。いま自分の身の上に起ろうとしていることも恐ろしかったが、万一この恐怖の色を気瑕られはせぬかということも、それ以上、恐ろしかったのである。いったいどんなことが生ずるか、どんなことが啓示されるか、それを知るのが待ち遠しかった。しかし、バズジェーエフとの邂逅いらい夢みていた自己の更新と、実際的徳行生活の道に入るぺきときがついに到来したと思うと、なによりも嬉しかった。烈しく戸を打つ音が聞えだ。ピエールは目隠しをはずしてあたりを見まわした。部屋の中は漆のように暗かった。ただひと所で燈明の火がなにか白いものの中に燃えている。ピエール



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は近よって見た。燈明は本のひろげてある黒いテーブルの上にのせられてあった。その本は福音書である。燈明の入れてある白いものは歯のついた、穴だらけの髑髏である。『初めに言葉あり、言葉は神とともにあり。』という福音書の最初の数語を読んで、ピエールはテーブルをIまわりした。すると、なにかIぱい填めた藍のないい箱が目に入った。それは骨のはいった棺であった。ピエールは少しも驚かなかった。以前とまったく遑った、新しい生活に入ろうという希望を抱いた彼は、すべて異常なものIいま見たものよりもっともっと異常なものを期待していた。髑髏、棺、福音書1彼はただこういうふうなもめ、否、これより以上のものを期待していたような気がした。随喜の情を心中に呼び起そうと努めながら、彼はあたりを見まわした。『神、死、愛、人類の結合。』彼はこれらの言葉を、混沌としてはいるけれど悦ばしいある想像に結びつけながら、こう言ってみた。そのとたん、戸が開いて誰か入ってきた。 漸く視線をならすことのできた弱々しい光の中で、あまり背の高くない人がはいってきたのを、ピエールは見分けた。明るい所から暗い所へはいったためであろう。この人はちょっとの間たち止まった。やがて、用心深い足どりでテー・ブルヘ進みより、革手袋で包まれた小さな手をその上にのせた。 この背の低い人は白い革の前掛をつけて、胸と足の一部をおおうていた。首には頚飾のようなものをかけていたが、下から光線を受けた長みがかった顔を、ぐるりと縁どる白い大きな立襟が、この頚飾のかげから突き出していた。 「なんのためにあなたはここへ来たのですか?」ピエールの立
てた衣摺れの音によって、その方へ向きながら新来の人はたずねた。「光明の真理を信ぜず、また光明を見ようともしないあなたが、何用あってここへおいでになりました? 何をあなたは我々から求めているめです? 叡智ですか、徳行ですか、光明ですか?」 戸が開いて見知らぬ人がはいってきたとき、ピエールは、子供の時分、教会の懺悔式で経験したような、恐怖と敬虔の念を覚えた。そして、生活の条件から言えばまるで縁のない、しかし、人類の結合という点から見れば極めて近しい人に、面と面を突き合わせていることを感じた。ピエールは息も止まりそうなほど烈しい心臓の觀動を覚えながら、リートル(求むる人、即ち、新たに加入を希望する人を試す組合員を組合でこう呼ぶのである)の方へ近よった。ずっとそばへ寄ったとき、ピエールはこのりIトルが知合のスモリヤニーノフであることに気がついた。しかし、この人が自分の知合だなどと考えるのは、むしろ無礼なくらいに思われた。この人はたんに自分の同胞であり、徳の高い教訓者に過ぎない。ピエールは長いこと一語をも発することができなかった。で、リートルはふたたび質問をくり返さぬばならなかった。 「ええ、私は……私は更新を望んでいるのです。」やっとピエールはこう言った。 「よろしい、」とスモリヤニーノフは言い、すぐさま語をついだ。「あなたはわが神聖なる組合が、あなたの目的貫徹を助力するため用いる方法に関して、なにか理解を持っておいでですか?」とりIトルは落ちついて早口に言った。
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平和
戰爭と
 「僕の……望むものは……更新についての……指導と……助力です……」とピエールは声をふるわせながら、言いにくそうにこう言った。それは興奮しているからでもあるが、またロシア語でこうした抽象的な事柄を談ずる習慣がなかったためでもある。 「あなたは共済組合について、どんな観念を持っておいでです?」 『私の解するところでは、共済組合は徳行を目的とする人々の&aternit6 ?とヽ 平等を意味するものと思いますごピエールは語り進むにしたがって、自分の言葉がこの瞬間の荘重な趣に相当しないのを恥じながら、「私の解する所では……」 「よろしい。」見うけるところ、この答えですっかり満足したらしいりIトルは、急いでこう言った。「あなたは自分の目的を達する方法を、宗教の中に求めたことがありますか?」 「いいえ、私は宗教を不正なものと思いますから、それに追従したことがありません。」とこう言ったピで・I・ルの声が非常に小さかったので、リートルはよく聞きとれないくらいであった。彼はピエールになんと言ったのか問い返した。「私は無神論者だったのです。」ピエールは答えた。 「あなたが真理を求めるのは、つまり、生活においてその法則を遵守したいからでしょう、してみると、あなたは叡智と徳行を求めているのです。そうじゃありませんか?」つかのまの沈黙ののち、リートルはこう言った。 「そうです。」とピエールはたしかめるように答えた。 リートルは一つ咳ばらいして、手袋をはめた手を胸の上に重
ね、さておもむろに言いだした。 「では、私もあなたに、わが組合の主たる目的を明示せねばなりません。もしこの目的があなたの目的と一致したら、あなたは自由にわが組合へはいってよろしいのです。この組合のもっとも重要なる目的であり、同時に存在の基礎であるものは、一種の重大なる神秘を保存し、かつ、それを子孫に伝えることであります。それはいかなる人間の力も顛覆させることはできません。この神秘は極めて古い時代から、否、咸は人祖アダムから今日まで伝おったものであって、人類全体の運命も、これ一つにかかっているかもしれないのであります。しかるに、この神秘の特質たるや、長年たゆまず倦まず自己の浄化をはかって、準備に力をつくさなくては、何人といえどもそれを知り、かつ利用することができない底のものですから、誰でもかれでも、すぐその獲得を望むことはできません。そこで、我々は第二の目的を抱いております。ほかでもない、できうるかぎりわが組合員の人となりを鍛錬し、その心情を匡正し、智性を浄化し、かっ向上せしめることであります。これには、かの大神秘の発見に努力した勇士たちの言い伝えによって啓示された、もろもろの方法を適用して、大神秘の獲得に堪えうるような人物を、組合員から作り上げるのであります。わが組合員を浄化し匡正すると同時に、我々は第三の目的として、わが組合員によって敬虔と徳行の模範を世に示し、全人類をも匡正することに努めねばなりません。それによって世界を支配しつつある悪と戦うべく、全力をつくして努力しているのであります。このことをよく考えておいてください。私はまた後刻まいります。」
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 こう言って部屋を出た。 「世界を支配しつつある悪と戦う……」とピエールはくり返した。と、この方面にむかって奮闘する自分自身の未来が彼の心に浮かんだ。そして、二週間まえの彼と同じよ气’な人々のことも思い起された。彼は、これらの人々に向かって教誨師めいた演説をする自分の姿を、心に描いてみた。彼が自分の言行をもって救うべき不仕合わせな淫蕩の人々、自分の救助によって餌食を奪われる暴虐者、こういったようなものも彼の頭脳に浮かんできた。リートルの数え上げた三つの目的の中で最後のもの1即ち、全人類の匡正ということが、彼にとってもっとも親しみがあった。リートルーのほのめかしたなにかしら重大な神秘とかいうのは、ピエールの好奇心を唆りはしたものの、真の中核のようには思われなかった。また第二の目的トト自己の浄化と匡正も、あまり彼の興味をひかなかった。なぜというに、このとき彼は自分が完全に今までの悪行を匡正されて、ただもう善を行うばかりに準備ができているように、悦びを抱きながら、感じたからである。 三十分を経て、リートルは、ソロモソの神殿の七つの階段に相当する七つの徳。各組合員が自己の心内に養成すべき七つの徳を、『求める人』に伝えるために帰ってきた。それは次の如くである。(一)謙譲、組合秘密の遵守。(二)組合の上長に対する服従。(三回温厚。(四)人類に対する愛情。(五)剛気。 (六)寛大。(七)死に対する愛慕。 「第七に関しては、」とりIトルは言った。「死というものについてたびたび思索をめぐらし、ついに死はけっして恐ろしい敵
でなく、親しむべき友であると感じられるまで、自己の訓練に努力してください……つまり、死は徳行の努力に疲れた霊魂を、この悲しみ多い現世から救い出して、報酬と慰安の場所へ導いてくれる友人であるというように……」 『そうだ、それはそうあるべきだ。』 リートルが以上のことを述べたのち、ふたたびピエールを孤独な瞑想裏にとり残して去ったとき、ピエールはこう考えた。『それはそうに違いない。しかし、おれはまだ弱い人間だから、自分の生活が愛しい。だって、いまやっと生活の意義が少しずっわかりかけたばかりなんだもの。』 しかし、彼が指折り数えて思い出した残りの五つの徳は、ことごとく自分の心の中にあるように思われた1剛気も、寛大   丶丶  丶丶丶丶丶丶丶  丶丶も、温厚も、人類に対する愛も、服従もIとくに服従は彼にとって徳とは思われないで、むしろ幸福だとさえ感じられた(それはいまこうして自分の我意を逃れて、確固不動の真理を知っている人々にすっかり心をまかしてしまうのが、彼には嬉しくってたまらなかったからである)。ただ最後のI徳はすっかり忘れてしまって、どうしても思い出すことかできなかった。 まもなく、三度目にりIトルがひき返してきて、ピエールの意向が依然として強固であるか、そして、一さいの要求に従う決心であるかどうかとたずねた。 「私は何事をも決行する覚悟です。」とピエールは言った。 「まだ一つあなたに申しておくことがあります。」とりIトルは言った。、「わが組合はその教義をたんに言葉のみでなく、またある種の方法をもって伝えています。その方法は真の叡智と
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と平和
戰爭
徳操の探求者にたいして、たんなる言語上の説明よりも、強い効果を及ぼすものであります。現にごらんのこの部屋の飾りも、言語以上に、なにものかをあなたの心に説明したはずだと思います(ただし、あなたの心が誠実であるならばです)。おそらく、これからさきも、あなたの入会式の進行につれて、こうした形態的の説明をごらんになることでありましょう。つまり、組合は、己れの教義を象形文字で示した古代の会合を模したのであります。象形文字とは五官を絶し、かつ絵画のような性質を有する事物の蹶であります・」 ピエールは象形文字の何たるやをよく承知していたが、それを言いだす勇気がなかった。彼はすべてのことから推して、いまにもすぐ試煉が始まるのだなと感じつつ、無言にりIトルの言うことを聞いていた。 「もしあなたの決心が堅固でありますなら、私はこれからあなたの・試悚にとりかからなければなりません。」なおいっそうピエールに近づきながら、リートルはこう言った。「寛大のしるしとして、すべての貴単品を私にお渡しくださるように願います。」 「しかし、私はいまなにも持っていませんが。」自分の持っているものを、ぜんぶひき渡すように請求されたのだと思って、ピエールはこう言った。 「あなたの体についているものだけです。時計とか、金とか、指環とか……」 ピエールは急いで金入と時計をとり出した。そして、ふとった指から婚約指環を抜きとるのに、長いこと手間どった。こ
れらのことが終ったとき、リートルは言った。 「服従のしるしとして脱衣をお願いします。」 ピIIルはりIトルの指図によって燕尾服、チョッキ、左の靴などを脱いだ。リートルは彼のシャツの左胸を開け、かがみこんで左のズボン下を膝の上までたくし上げた。ピエールは馴染もないこの人に、こんな労をかけまいと、急いで右の靴を・ぎ、ズボン下もたくし上げようとした。しかし、リートルはそうすることはいらぬと言って、彼の左足に上靴をはかした。自分自身にたいする嘲りと、疑いと、羞恥の入りまじった子供らしい微笑を浮かべっつ(それは彼の意志に反して、ひとりでに顔に浮かんでくるのであった)、ピエールは両手を垂れ、足をひろげたまま、新しい命令を待って同胞たるりIトルの前に立っていた。 「最後に、誠実の兆として、あなたの主なる欲望を告白していただきたいです。」 「わたしの欲望ですか! それは沢山ありました。」ピエールは答えた。 「徳行の路においてもっとも多くあなたを迷わした欲望であります。」とりIトルは言った。 ピエールはあれかこれかと考えながら、しばらく黙っていた。 『酒? 飽食? 懶惰? 無為? 癇癖? 憎悪・’・ 女?』と彼は自分の悪行を数え上げ、心の衡にかけて見たが、その中のいずれをもっとも重しとすべきかわからなかった。 「女です。」とピエールは低い、聞えるか聞えないかの声で言った。



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 リートルはこの答えののち、ながいこと身動きもしなければ、口もきかなかった。ついに、彼はピエールの方へ進みより、テーブルの上にのっている(ンカチをとって、ふたたび彼の眼を縟った。 「最後に、いまI度いっておきますが、あなたの注意力をぜんぶ自分自身に集中して、自分の感情に鎖をかけ、欲望の中でなく、自分の心中に幸福をお求めなさい、幸福の泉は外でなく内にあるのです……」 ピエールは心を爽やかにするようなこの幸福の泉を、すでに自己の内部に感じていた。この泉はいま彼の魂を喜悦と感激とでみたしたのである。      四 それから間もなく、ピエールを迎えに暗い部屋へきたのは、もはや以前のりIトルでなく、保証人のヴィルラルスキイであった。彼は声でそれと悟った。彼の志向の堅固いかんに関する新しい問いにたいして、ピエールは「ええ。ええ、承知です。」とのみ答えた。そして、幸福に輝く子供らしい微笑を浮かべ、肥えた胸をさらし、片々の足に靴をつけ、片々は素足のまま、おずおずと不規則な足どりで歩んだ。彼のあらわな胸さきにはヴィルラルスキイが剣を突きつけていた。部屋を出ると。彼は前後左右にくるくると廻りながら、廊下づたいにひかれて行き、ついに集会所の戸口へたどりついた。ヴィルラルスキイが一つ咳ばらいすると、マソン独特の槌の音がこれに答えて、戸は二人の前に開かれた。誰かの太い声が(ピエールの眼はやは
り縛られたままであった)、ピエールが何者であるか、どこでいつ生まれたか、などという質問を発した。それから、また目かくしをとらないで、どこかへ導いていった。そうして、歩いている間じゅう、さまざまな譬喩が語られた。それは行路の艱難や、神聖なる友情や、世界の永遠なる創造主や、すべての艱難危険を忍ぶに必要な剛気などということであった。この『旅』の間じゅうそばの人が自分のことを、ある時は求神者、ある時は苦悶者、ある時は探求者と呼んだことや、それから、その際、槌や剣でいろいろな音をさせたことに、ピエールは気がついた。彼がなにかしらあるもののそばへ導かれたとき、ピエールは指導者の間に躊躇と動揺の生じたことを悟った。彼は白‥分をかこむ人々が、小声で互に争い始めるのを耳にした。一人の者は、なにか毛氈の上を連れて通らねばならぬと主張していた。それがおさまってから、誰かピエールの右手をとってなにかの上にのせ、左手で両脚器を左の胸へ当てるように命じた。そして、もう一人の読み上げる言葉をくり返して、組合の清規に忠実なるべしという誓いを立てさせた。終って人々は蝋燭を消して酒精に点火した(ピエールは匂いでそれと知った)、彼に向かって、いま小さな光を見ることができるであろうと言った。やがて、彼の目隠しはとり去られた。ピエー・ルは弱々しい酒精の火の中に、リートルと同じ前掛をつけた幾たりかの人が面前に立って、自分の方へ剣を突きっけているのを、夢のように見分けることができた。彼らの中には血に染まったシャツを着た男が立っていた。これを見るとピで・I。ルは胸をつき出して、ぐさとばかりわが身を貫けよと望みつつ、剣の方へ進み寄
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と平和
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つた。が、剣はさっとをかれて、彼はすぐに目隠しをさせられた。 「いまお前は小さな光を見たのだ。」と淮かの声が言った。それから、ふたたび蝋燭がともされた。人々は今度はまったき光を見る必要があると言って、またもや目隠しをとっだ。と、ふいに十人以上の声が一時M“&c trgiasit gloria mundi ” Sii賢にJ銛ぺ雙と称えた。 ピエールはだんだんとわれに返って、自分の立っている部屋と、その中にいる人々を見廻し始めた。里{い布でおおわれた長いテーブルのまわりには、前に見たのと同じ服装をした人が、十二人ばかりならんでいた。その中のだれかれは、ペテルブルグの社交界におけるピエールの知己であった。総裁席には一種特別な十字架を首にかけた、見覚えのない若い人が腰かけていた。その右手には、かつて二年前ピエールが女官アソナのもとで見たことのある、イタリーの僧正が坐っている。なおそこには以前クラーギンババ斟家にいたことのあるスイスうまれの家庭教師や、非常に勢力のある政治家もI人まじっていた。一同は手に槌を持った総裁の言葉に耳を傾けながら、ものものしげに沈黙を守っていた。壁の中には燃え輝く星の形がはめてあった。テーブルの一方の側にはさまざまな模様のついた毛氈、また一方O側には福音書と髑髏とをのせた、祭壇のようなものが置いてあった。テーブルのまわりには大きな教会風の燭台が七本立て並べてあった。二人の組合員が。ピエールを祭壇のそばへ連れていって、彼の足を直角に開かせ、いまお前は神殿の門前に倒れるのだと言って、そこへ臥るように命じた。
 「その前に鋤を授けるのが順序じゃありませんか。」と一人の組合員が小声で言った。 「ええ? もう沢山ですよ、黙っててください1・」といま一人が言った。 ピエールは命令に従おうともせず、力ぬけのしたような近視の眼であたりを見廻した。と、突然、彼の心に疑惑の雲が垂れかかった。『俺はどこにいるんだろう? そして、何をしてるんだろう? この人たちは俺を愚弄してるのじゃないかしらん? 後でこんなことを思い出したら、恥ずかしくなりはしないだろうか?』しかし、この疑問がっづいたのはほんの一瞬であった。ピエールは自分をとり巻く人々のまじめな顔を見、さっきからしてきたIさいのことを思い出して、中途で止めることは不可能だと悟った。彼は自分で自分の疑惑に慄然とし、以前の感激の情を呼び起そうと努めながら、神殿の門前に身を投げた。すると、実際、以前にまして強烈な感情の情が、彼の心をおそったのである。暫くの間じっと倒れたままでいると、やがて、起き上るように命じられた。彼は皆と同じ白い革の前掛をきせられ、一梃の鯒と三組の手袋を授けられた。このとき、総裁がピエールに向かって、この前掛は堅固と貞操とを表わすものであるから、けっしてこの純白を汚さぬように努力せねばならぬと言った。それから、意味のわからぬ鯒に関しては、これをもって己れの心から悪業をのぞき、かつ、これをもって 迴った態度で、同胞の心を和らげるように苦心せよと述べた。次に、第一の男物の手袋については、この手袋の意味を知らせるわけにいかないが、大切に保存しなければならぬ。また第二
の男物の手袋は、集会へ出席するときつけるようにと教えた。最後に、婦人用の手袋に関して総裁はこう言った。 「この婦人用の手袋もあなたのものときめておきます。これをあなたの最も尊敬する婦人にお与えなさい。その贈物によって、将来、自分の伴侶として選まれる婦人、即ち、自由の石工たる資格のある婦人に、あなたの純潔を証明なさい。」しばらく言葉をとぎらしたのち、彼はまたこうつけたした。「しかし、この手袋が汚れたる手を飾らぬように、気をつけなくてはなりませんぞ。」 この最後の言葉を発したとき、総裁は妙にへどもどしたように、ピエールは感じた。で、彼はなおいっそうへどもどしながら、子供のように涙の参み出るほど顔を赤くして、不安げにあたりを見廻すのであった。ばつの悪い沈黙が生じた。 この沈黙は一人の組合員によって破られた。彼はピエールを毛氈の方へ伴って、その上に描かれてある物象の説明を、手帳をとり出して読んで聞かせた。それは太陽、月、槌、垂直線、鋤、正方形の野の石、柱、三つの窓などであった。その後で、人々はピエールに定めの席を指定し、組合の徽章を示し、合言葉を教えて、やっと腰かけることを許した。総裁は会規を読みはじめた。その会規がおそろしく長いので、ピエールは喜悦と興奮と羞恥のため、少しも腹に入らなかった。ただ終いの方だけは、じっと耳をすまして聞いていたから、後まで彼の心にとどまった。 「この神殿の中において、われらは、」と総裁は読み上けるのであった。「徳行と悪行との間に存する階段のほか、いかなる
階段をも認めず。われらの平等を破るが如き、なんらかの差異を設くることを慎むべし。何人にもあれ同胞の救助のためには、ためらうことなく突進し、・迷える者を誡め、倒るるものを抱き起せ。しかして、いかなる時といえども、同胞に対して憎悪敵意の念を抱くべからず。すべて優しく愛想よかるべし。万人の胸に徳行の火を掻き起せ。また幸福はすべからく汝の隣人に頒て。しかして、羨望の念によりてこの清き愉楽を濁すべからず。汝の敵を許し。酬ゆるにただ善行をもってせよ。かくの如くして最高の法則を遒守せば、汝は嘗て自ら失いたる過去の壮大の跡を見出すべきなり。」 朗読が終ったとき、総裁はピエールを抱きよせて接吻した。ピエールは歓喜の涙を浮かべてまわりを見廻した。人々が四一刀から投げかける祝辞や、旧交更新の挨拶などにたいしてぃ何と答えていいかわからなかった。彼の眼中には旧交もなにもなかった。彼はこれらの人々の中に、ただ組合の同胞を見るのみ・毟あった。そしてこれらの人々とともに早く仕事にとりかかりたいという、たえがたい欲求に燃え立つのであった。 総裁が槌をとんと鳴らしたので、一同はそれぞれ席に着いた。すると、その中の一人が恭順の必要にかんする教訓を朗、・。`した。 総裁はやがて最後の義務を果たすように提言した。で、喜齟金を集める役目をおびた有名な政治家が、組合員の閧を廻り始めた。ピエールは自分の持っている金額を、すっかり書きこんでしまいたかったが、高慢なように思われるのもいやだったので、他の人と同じだけの金高を書きこんでおいた。
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 集会は終りを告げた。帰宅後、ピIIルは、まるで何十年ぶりに遠い旅から帰って来たような思いがし、以前の生活状態や習慣などから離れてしまって、まったくべつな人間になったように感ぜられた。      五 共済組合へ入会した翌日、ピエールは自宅にこもって書物を読みながら、一生懸命に四辺形の意味を体得しようと努めていた。それは第一の辺によって神を、第二の辺によって精神を、第三の辺によって肉体を、第四の辺によってその混合を示したものである。ときどき彼は本や方形から目を離して、心の中で新生活の計画を組み立ててみた。ゆうべ集会所で聞いたところによると、例の決闘の風説が皇帝の耳に達したので、いまピエールとしては、しばらくペテルブルグを遠ざかった方が得策だろうとのことであった。ピエールは南方の領地を旅行して、そこで百姓たちの面倒でも見てやろうと考えた。彼が悦ばしい心持で新しい生活のことを、さまざまに思いめぐらしているところへ、思いがけなくヴァシーリイ公爵が部屋へはいってきた。 「え、ピエール、お前はいったいモスクワで、何ということをしでかしてくれたんだね? 何のためにエレソと諍いなんかしたのだ? お前はとんでもない思い違いをしているよ。」ヴァシーリイ公爵は部屋へ入りながらこう言った。「私はなにもかも承知している。私が請けあっておくが、エレソはちょうどユダヤ人に対するキリスト様みたいに、お前に対して清浄潔白なものだよ。」
 ピエールがなにか答えようとすると、彼は急いでさえぎっだ。 「それに、どうしてお前は真実なる友達として、私に直接ざっくばらんに相談してくれなかったのだ? 私はすっかり承知している、私はすっかり呑みこんでいる。お前は自分の名誉を重んずる紳士として、中分のない立派なふるまいだったのだ。もっともいくぶんはやまり過ぎた嫌いはあるがね。しかし、そんな事はお互に穿鑿しないことにしよう。だが、ただ一つ覚えていて貰いたいのは、社交界のみならず宮中の目から見ても、お前は私たち親子の者を、面目ない位置に立だしてしまったんだよ。」と彼は声を低めて言いたした。「エレソはモスクワにいるし、お前はここに暮らしているのだからね。わかったかね。」と彼はピエールの手をとって、ちょっと下の方へひっぱった。 「これはただの誤解に過ぎないんだよ。それはお前も自分で悟っていることと思う。だから、いますぐ私と一しょに手紙を書いてくれないか。すると、あれがここへやってきて、いっさいがっさいきれいに話がつこうというものだ。でないと、お前、恐ろしい苦しみを峇めるにきまっているよ、私が請けあっておく、ピエール。」 ヴァシーリイ公鬟はさと了ような眼つきでピエールを見つめた。 「私はあるたしかな筋から聞いたが、皇太后陛下がこの事件について、たいへん気をもんでおいでなさるということだ。お前も知っての通り、皇太后様は非常にエレンをご寵愛なのだからね。」
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 ピエールは幾度か口をきこうとした。しかし、一方からは、ヴァシーリイ公爵がそうさせなかったし、いま一方から見ると、彼自身も髯に向かって、かねて固く決心した断乎たる拒絶と、異存の返答をするのが恐ろしかったのである。それに『優しく愛想よかるべし』というマソソの言葉も思い起された。相手が淮であるにせよ、他人に面と向かって、その人の思いもよらぬ不快なことを口にするのは、ピエールにとって難中の難事であった。彼は自分自身を鞭撻しながら、顔に皺をよせたり、赤くなったり、椅子を立ったり、また坐ったりしていた。彼はいままで、このヴァシーリイ公爵のそらとぼけたような自信にみちた調子に巻きこまれるのが、すっかり癖になってしまっだので、いまもそれに抵抗する気力がないように感じられた。けれども、彼は直覚したIいま自分の発する二言で、自分の将来の運命が左右されるのだ、即ち、以前の古い道をたどるか、或はマソソによって啓示された、魅力ある新しい道程に上るかが決しられるのだ。この新しい道について、初めて新生に向かう復活を発見することができる、と彼は信じているのであった。 「ねえ、ピエールさん、」ヴァシーリイ公爵はふざけた調子でこう言った。[私に一口『はい』と言っておくれ。そしたら、私からエレソに手紙をやる。それで、我々はあのぶくぶくふとった牛づ匹の畜生を殺してしまえるのだ。」 けれども、ヴァシーリイ公爵がこの洒落を言い終らぬうちに、ピエールは亡父の俤をしのぼせる狂的な表情を顔に浮かべつつ、相手の眼を見ないでささやいた。 「公爵、私はあなたをお呼びしなかったはずです、お帰り下さ
い、どうぞお帰り下さい!」彼は眺り上って公爵のために戸を開いた。「出て行って下さい。」自分で自分の言葉を信じかねつつ、彼はこう言った、ヴァシーリイ公爵の顔に浮かんだ当惑と恐怖の表情に、内心、痛快を感じながら。 「お前どうしたのだ? 病気ででもあるのかね?」 「出ていって下さい。」ピエールはいま一度ふるえ声でくり返した。で、ヴァシーリイ公爵はなんの話もつけずに、立ち去らなければならなかった。 一週間の後、ピエールは新しい親友のマソソたちに別れを告げ、莫大な金を組合に寄付して、南方の領地へ向けて出発した。彼の新しい友達は、キーエフやオデッサのマソソに宛てた紹介状を書き、今後も通信を怠らぬことや、新しい事業に関して指導を与えることなど、ピエールに約束したのである。      六 ピエールとドーロホフの事件はうやむやにもみ消されてしまった。そして、決闘にたいしては、当時、皇帝が非常に厳格であったにもかかわらず、双方の当事者も介添人も事なくさしおかれたのである。しかし、ピエール夫妻の別居によって裏書された決闘のいきさつは、交際社会にくまなく知れ渡ってしまった。ピエールがまだたんなる私生児であったときには、人々は寛大な庇うような態度をとっていたし、また彼がロシア帝国における有数な花婿の候補者であったときには、ちやほやして舁ぎまわったものであるが、彼が結婚してしまって、娘や母親μちにとって期待することが少しもなくなってしまうと、彼はI
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鞦爭と平和
時に社交界の評判を失墜した。その上、彼は交際社会の好感を求めることがへたで、しかも、それを望もうともしなかった。 それ故、この事件に関しても、人々は彼ひとりのみを責めた。彼はわけのわからないやきもちやきで、亡父と同じ残忍狂暴な発作の擒となったのだ、などと噂しあった。ピで・I・ルの出発後、エレソがペテルブルグへ帰ってきたとき、たんに好意というくらいでなく、不幸に関連する尊敬の気味あいをもって、すべての知人に迎えられたのである。会話が夫の上へ移るごとに、エレソは自分でもその意味をはっきり知らないのだが、生来の社交術によっ七修得した、気品の高い表情を浮かべるのが常であった。この表情はちょうど、『わたしは愚痴をこぼさないで、この不幸を忍ぼうと決心しました。夫は神様から送られたわたしの十字架です。』と言うようであった。 ヴァシーリイ公爵はいっそう露骨に自分の意見を口にした。彼は、話題がピエールのことに転ずるたびに、肩をすくめて額を指さしながら言った。 「un cerveau f611 tyryl平生から言わないこっちゃありませんよ。」 「わたし初めからそう申していました。」とアソナーシェーレルはピエールのことをこう言った。「わたし、あの時すぐ、誰よりもまっ先に (と彼女は自分の優先権を主張した)、そう申したのです、あの人は時代の放縦な思想に毒された向う見ずな青年ですって、皆があの人に夢中になってる時分から、わたしもうこんなふうなことを提言しました。ちょうどあの人が外国から帰ってきた当座のことでした、ねえ、そら、いつか宅の夜
会で、まるで、フフーかなんぞのような役廻りをしたではありませんか。はたしてこのとおりの結果ですわ。わたし、あの当時からこの結婚を望みませんでしたから、これこれの事が起るだろうって、すっかり予言いたしました。」 アソナは例によって暇なときに、以前のような夜会を自宅で催していた。その夜会は彼女の才能をもって初めてなしうる踝のものであった。それはこの夜会にいつも女主人のいわゆる、la cr&me de la v6ritable bonne soc16t6 1a fine neur de{。Qlgg”’邑‘ggQiま})`’Qaびo口a一一一yJ飛(茫弓冫靭剛XJ鴛が集まるからであった・こうして巧緻に精選された一座の顔ぶれのほか、もう一つアソナの夜会の特色というべきは、いつも夜会のたびごとに女主人が誰かしら目新しい、興味ある人物を一座に提供することと、正統王家派的な、宮廷に近い社会気分を指示する政治的寒暖計の度合が、よそで見られないほど明瞭正確に現われることであった。 千八百六年の末、プロシヤ軍がナポレオンのために、イェーナおよびアウェルシュテートのニカ所で微塵に粉砕され、プaシヤの要塞の大部分が白旗をかかげたという詳報が達し、ロシア軍がすでにプロシャヘ進出して、ロシア対ナポレオンの第二次戦が開かれたころである。アソナーシェー・レルは自宅で例の夜会を催した。当夜の『真に優れたる社会のクリーム』は、夫にすてられた不幸なる美しきエレソ、モルテマール子爵、ついちかごろウィーンから帰ってきたばかりの愛すべきイッポリート公爵、二人の外交官、伯母様、社交界でたんにun hommede beaucoup de m6rite tSjtという通り名を頂戴している



芻J
一人の青年、新たに任命された女官母子、その他に、少し品の下った人たちが幾たりかであった。 女主人が新顔として当夜の来客をもてなす材料に使ったのは、’ちかごろプロシヤの軍隊から急使としてこの地へ到着した、ボリースードルベッコーイであった。彼はある高官の副官を匐めていた。 この夜会にあらわれた政治寒暖計の度は次のようなものであった。即ち、ヨーロッパの帝王や元帥たちがことごとく心を合わせて、われわれロシア人に不快や悲しみを感じさせるため、ボナパルトの勝手気随を見て見ぬふりをしても、ボナパルトに関する我々の意見は、けっして変更するわけにいかない。我々はこの点について、偽らざる思想をたえず発表するにはばからない。そして、プロシヤ王その他の人々に向かっては、そんな事をすればかえってお前さんがたの不利益だよ、と言ってやるだけのことだo Tu Pas voulu。 George Dandin j4昌一一一心飴冶沸に囂愕謚黔とよりほかに言いようがないIこういうふうな気持が、アソナの夜会の政治寒暖計に示されていた。この夜、客の膳にすすめらるべきボリースが客間へ入ってきたときは、来客はもはや一同そろっていて、アソナに指導されている会話はロシアとオーストリーとの外交関係、および両者の同盟にたいする希望などについて交換されていた。 ボリースは(イカラな副官の軍服をつけ、いきいきした紅顔の美丈夫になっていた。余裕綽々たる態度で客間へはいると、まず規則として伯母様のところへ挨拶に連れていかれたのち、ふたたび人々のグループをなしている方へ導かれた。
 アyナは自分の乾からびた手を接吻させ、彼にとって未知の人々を紹介し、小声でそり一人一人に定義を下すのであった。 「公爵イッポリートークラーギソ・I愛すべき青年です。クルークさんIコペソ(Iゲソの代理公使で、じつに聰明なお方です。シートフさん‐un homme de beaucoup de m4rite.贊昌誘」この通り名を頂戴している青年をつかまえて、彼女はこう言った。 ボリースはその後ずっと動務をつづけているあいだ、母アソナードルベッカーヤ夫人の心づかいと、自分自身の趣味と控えめな性質のおかげで、勤務上もっとも有利な地位に立つことができた。彼は非常な権勢家の副官となり、はなはだ重大な任務をおびてプロシャヘおもむき、最近、同地から急使として帰京したばかりである。オルミューツにおいて眇たる一少尉補も、堂々たる将官より比較にならぬほど高い位置に立てるという不文律を悟って、それが非常に気に入ったので、彼はそれ以来すっかりそのこつを呑みこんでしまった。この不文律によると、成功の必要条件は勤務の勉励でもなければ、努力でも勇敢でも’持久力でもない。ただ行賞抜擢の権を有している人々に巧く応対すればよいのである。・彼はよく自分の急速な成功に驚き、かつ、他の人がこの理を悟らないのにあきれるほどであった。 この発見の結果、彼の生活状態も、以前の知己にたいする態度も、未来の計画も、ことごとく一変してしまった。彼は金持ではなかったけれども、他の人より立派な服装をするために、なけなしの金をはたく事を惜しまなかった。みすぼらしい馬車を乗りまわしたり、古い軍服を着てペテルブルグの街を歩いた
S芻
取爭4干和
りするよりも、その他の満足を儀牲にした方がましだと思っていた。彼は自分より上位の人、つまり。自分にとって有利な人にのみ接近し知遇を求めた。そして、。ペテルブルグを愛しモスクワを侮蔑した。ロストフ家の記憶や、ナターシヤにたいする子供らしい恋の記憶は、彼にとって不愉快なくらいであった。で、彼は軍隊に投じてよりこのかた、一度もりストフ家へ足踏みしなかった。彼はアソナーシェーレルの夜会に出席することを、異常な勤務上の昇進と心得ていたので、この席における自分の役廻りをすぐさま丁解して、自分というものの中に含まれているすべての興味を、アソナーシェーレルの利用にゆだねた。そして、注意ぶかく各個の人々を観察し、それらの人々に・接近する利益と可能を心の齷・かけていた。彼は美しい`レンのそばへ指定された場所に坐って、人々の会話に耳をすましていた。 「オーストリーはロシアの提供した条約の根柢を、ぜんぜん不『可能なことだと信じているのです。たとえロシアが実戦上はなぼなしい成果を収めたとしても、そんなことは実現するわけににいかないと思っています。またロシアをして、そういう華々しい成果を収めしめるような方法が、はたしてあるかどうかを疑っている。これはウィーン内閣の言葉そのままなのですよ。」’とデンマークの代理公使が言った。 「c'est le doute ciui est flatteur. ata?#P有」と『聰明な紳士』が皮肉な微笑を浮かべつつこう言った。 「しかし、ウィーン内閣とオーストリー皇帝とを区別する必要かありますよ。オーストリー皇帝はけっしてそんな事を考えや
しないです。それはたんに内閣の言に過ぎません。」とモルテマール子爵が言った。 「Eh「mon cher vicomte「 4y;!&F」とアソナーシェーレルが割って入った。「L'Urope「Xyご彼女はフランス人を相手に             /4              911uIプ話すとき、フラソス語のしゃれた特異例として、なぜか」'Uropeと発音するのであった。「」'Urope ne sera Xamais notre a1114e’ix&e‐ G8n飃E怒慥」 こう言っておいてすぐその後から、アソナはプQシャ王の雄雄しさ剛気さに話頭を転じた。それはボリースをそろそろ役立だせようという心算なのだ。 ポリースは自分の番を待ち受けながら、回心に人の話を聴いていたが、また、それと同時に、隣席の婦人、美しいエレソを幾度かふり返って見るだけの余裕もあった。エレソは微笑か酋みっつ、幾度も若く美しい副官の視線を迎えた。 ブロシャの状態を物語うているうちに、アソナはきわめて自然な調子でボリースに向かって、そのグロガウ旅行のことや、プロシャ軍の状況などを、ありのまま物語るように頼んだ。ボリースは純粋正確なフランス語で、急がずあわてず、軍隊や宮廷に関する多くの興味ある事実を、こまごまと物語った。その物語のあいだなにごとに関しても。自分の意見をもらすのをさけるようにした。暫くの間、ボリースは一同の注意をひき寄せることができた。アソナはこの新顔のご馳走が、すべての客人に快く受けとられたことを感じた。誰よりもボリースの話に注意をはらったのはエレソで、幾度となく彼に旅行の詳細を訊ねた。彼女はブロシャ軍の状況に異常な興味を抱いているらしか



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うた。ボリースが語り終るや否や、彼女は持ちまえの微笑を浮かべつつ彼に向かって、 F11 faut absolument que vous veniez me voir. n2jttt砧片親臂」と言ったエレソの調子は、ちょうどなにかボリースには知ることのできないわけでもあって、ぜひともそうしなくてはならないかのようであった。 「火曜日の八時と九時の間にね。もしおいでを願えれば、たいへん嬉しゅうございますわ。」 ボリースは彼女の希望を容れることを約し、なにか話を向けようとしているところへ、アソナーシェーレルは、伯母様がなにか聞きたがっているからという口実のもとに、彼を呼び出した。 「あなたは、たぶん、あのかたのご主人をご存じでしょう。」とアソナは眼を閉じて、憖わしげな手ぶりでエレソを指しながら言った。「ああ、あのかたは本当に薄命な美人ですねえ!どうぞあのかたの前でご主人のことを言わないでください、後生ですからおっしゃらないでね。あのかたをこの上に苦しめるようなものですから。」      七 ボリースとアソナが一同の席へ帰ってきたとき、イッポリート公言が会話の中心になっていた。 彼は肘椅子に身を乗り出して、「」e roi de Prusse ! ¥;1」と言って急に笑い出した。人々は彼の方をふり向いた。 「」e roi de Prusseごとイッポリートは問いかけるように言
い、またもや仰山に笑いだした。そして、再び落ちつきはらって、ものものしいふうっきで肘椅子に深く腰を揃えた。アソナは暫くイッポリートの次の言葉を待っていたが、いっこう口を開きそうな様子もないので、彼女は暴虐無道のボナパルトがポーツダムで、フリードリツヒ大王の佩剣を盗んだ顛末を語りはじめた。 「[;'est 1'6p6e de Fr6deric le Grand que je……具一]]]J作づJら一昔昆ごわ」と彼女がきり出そうとしたとき、イッポリートは急にそれをさえぎった。 「」e roi de Prusse……」と言ったが、人々が自分の方へ向きなおるや否や、彼はまたしても詑びを言って口をつぐんだ。 アソナはちょっと顔をしかめた。イッポリートの親友であるモルテマール子爵は、開きなおって彼に向かいながら、 「え。君、いったいそのプロシヤの王様がどうしたと言うのだね?」 イッポリートは笑いだした。それは丁度、自分で自分の笑いがきまり悪いような工合であった。 「いや、なんでもないのさ、僕が言いたかったのは、ただその (彼はかつてのウィーンで聞いた地口をくり返したくて、この晩たえず、折もあらばそれを持ち出そうとかまえていたのである)、僕が言いたかったのは、我々はいたずらにPour le roide Prusse kl鸚昆皆皆回齡髫冶に戦争をしtいる冫ことたんだ。」 ボリースは用心ぶかい微笑をもらした。それは一座の人々の態度の如何によって、この洒落にたいする冷笑とも、また同意
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と平和
戰爭
ともとれるような笑い方であった。一同は笑いだした。 「あなたの地口は質が悪うございますが、たいへん気がきいていますこと。けれど、あたっているとは申されませんね。ロシアはけっしてpour le roi de Prusseに戦争しているのじゃありません、りっぱな主義のためですわ。まあ、本当にこの人』はなんて意地わるでしょう、このイッポリート公爵は!」アンーナはしなびた指を立てて、脅かすまねをしながらこう言った。 会話はおもに政治上の新しいできごとに集中されて、一晩じ’ゆう静まるおりがなかった。夜会の終りに、話題が皇帝の下賜晶にふれたとき、一座はことに活気づいた。 「だって、去年Nはご肖像入りの煙草いれを拝領したじゃありませんか。」と『聰明な』紳士が言った。「それになぜSは同じ賞与を戴くことができないのでしょう?」 「失礼ですが、ご肖像入りの煙草いれはたんなる下賜品で、べつに論功の意味じゃな卜と思います。」と外交官が言った。「むしろ、贈物とでも言うべきでしょう。」 「先例もありましたIIシュヴァルツェソベルダはどうです。」 「そんなことはありません。」とまた一人が弁駁する。 「賭けをしましょう。」e grand cordon「 c'est diff6rent. &iら別問題ですがo」 人々が辞し去るべく立ち上ったとき、一晩中あまり口数をきかなかったエレソは、ふたたびボリースに向かって、火曜日に自分のところへくるようにと、優しい意味ありげな、命令のよりな願いを持ち出した。 「わたしぜひそうして戴かなくちゃなりませんの。」アンナの
方をふり返りながら、エレソは微笑を含んでこ5言った。アソナは自分の高貴な保護者、皇太后陛下のことを口にするたびに浮かべる、かのもの思わしげなほほ笑みをもって、エレンの希望を是認した。 それはちょうど、プロシヤ軍隊に関して今夜ボリースの述べたる言葉によって、突然、エレソが彼と面会の必要を発見したような工合であった。そして、ボリースが火曜日にやってきたとき、この必要のなんであるかを証明すると、約束したようなあんばいであった。 火曜日の晩、エレソの華美な客間へはいったとき、ポリースは自分の来訪の必要がどこにあるか、はっきりした説明を得ることができなかった。ほかに客もあったので、エレソはあまり彼と話をしなかった。しかし、彼が暇を告げて女主人の手に接吻したとき、彼女は微笑のかげもない不思議な顔つきをしながら、思いがけなくささやいた。 「べQoaぽヨ叺口RoQM……le soir. 11 faut que vous veniez……ja……ぽI’宍一XJ一一一尺作心い一かルいf一一一u一心にい心一一ふにJ。」 今度のペテルブルグ滞在中、ボリースはベズーホフ伯爵夫人の家において、もっとも近しい人となったのである。       八 戦争は酣になって、舞台はだんだんロシアの国境へ近づいてきた。いたるところ人類の敵ボナパルトにたいする呪詛の声が聞えた。地方地方で国民兵や新兵が召集された。戦場からは種々雑多な報告がもたらされた。が、みな例によって偽りが多
第五編
昴J
いので。それがため、多種多様の解釈が生じるのであった。 ボルコソスキイ老公爵、アンドレイ公爵、マリヤ令嬢の生活は、千八百五年以来、おおくの点において変化を示した。 千八百六年、老公爵は、当時ロシア全国におかれた八名の民兵募集委員長の一人に任ぜられた。わが子が殺されたものと信じきっていた時分から、ことに老衰の様子が目だちはじめたにもかかわらず、老公欝は皇帝みずから任命された職務を、辞退する権利がないと考えた。新たに始まったこの事務生活は彼の元気を引立てた。彼はたえまなく自分の受持になっている三つの県を巡回していた。しかも、衒学臭に陥るほど職務に忠実で、残酷なほど部下にたいして厳格で、事務のこまごましい所まで自ら立ち入るのであった。マリヤは父から数学の教授をうけることをやめた。ただ父が在宅の際は、毎朝、乳母をしたが史、二ごブイ小公爵(祖父は常にこう呼んでいた)を連れて父の居間へはいることになっていた。乳飲み児の二コライ公爵は、乳母と老婢サーヴィシュナとともに亡き母夫人に宛てられた邸の一部に暮らした。マリヤは毎日ほとんど子供部屋に入り浸って、幼い甥のためにできるだけ母の役目を勤めようとした。ブリエンヌもやはり幼いものを愛しているらしかったので、マリヤはしばしば苦痛を忍んで、小さな天使(彼女は甥をこう呼んでいた)をあやしたり、おもちゃにしたりする楽しみを、ブリェソヌにゆずっ七やった。 。禿  山 の教会の祭壇に近い、小柄な公爵夫人の土饅頭の上の方に、一つの礼拝堂が建っていた。この礼拝堂の中へ、イタリーから持ってきた大理石の記念孵が安置された。それに
は、両の翼をひろげて今にも天へ昇ろうと身がまえている、天使の姿が刻まれてあった。天使の上唇はいまにも笑み綻びそうに、少しばかり持ち上っていた。ある時、アンドレイ公爵とマリヤとが礼拝堂から出たとき、この天使の顔が不思議にも亡き人の顔を思い出させるということを、互に白状し合ったのである。しかし、それよりもさらに不思議で、アンドレイ公爵か妹にもうち明けなかったことがある。それは彫刻家が偶然この天使の顔に刻みつけた表情のうちに、アンドレイ公爵はかつて妻の死顔に認めた、優しい譟責の言葉を読んだのである。 「ああ、なぜあなたがたはわたしをこんな目にあわしたのです?………」 アンドレイ公爵の生還後まもなく、老公爵はわが子にボグチャーロヴォとい5、禿山から四十露里へだてた大きな領地を分けてやった。一つは禿山と結びつけられた苦しい記憶を忘れるためと、二つにはときどき父の性質を我慢しきれないことがあるためと、また最後に孤独の必要を感じたために、アンドレイ公爵はボグチャーロヴォを利用してその地に居をさだめ、大部分そこに引きこもって、時を過した。 アンドレイ公爵はアウステルリッツの会戦いらい、けっして軍務に服すまいと固く決心したので、こんど戦争が始まって、国民一同かならず軍務に服さなければならなくなったとき、彼は現役の任務をさけるため、父の部下について民兵募集の職にあたった。千八百五年の戦役後、ボルコソスキイ父子は、まるで互の役廻りを交換したような工合になった。老公爵は自分の活動に刺戟されて、今度の戦争からあらゆる好結果を予想して
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と苧和
戰爭
いたが、アンドレイ公爵はそれと反対に実戦に参加しないで、しかも、心の奥ではそれを残念に思いながら、ただ忌わしいことのみ見出すのであった。 千八百七年二月二十六日、老公爵は軍管区内の巡回に出かけた。アンドレイ公爵は父の不在中、おおむね禿 山で留守をするのが習慣になっていた。小公爵の二コールシカは、もう四日ばかり前から加減がわるかった。老公爵を乗せていった馭者が町から帰ってきて、アンドレイ公爵にあてだ書類と手紙をもたらした。 侍僕は手紙を持って、アンドレイ公爵をさがしにいったが、害斎にいないので、マリヤの部屋へおもむいた。が、そこにもやはり若主人はいなかった。侍僕は公爵が子供部屋へいったことを教えられた。 「御前様、ちょっとおいでを願います。ペトルーシャがお手紙を持って参りました。」と乳母の手伝いをしている小間使の一人が、アンドレイ公爵に向かってこう言った。公爵は小さな子供椅子に坐って、眉をひそめながら。半分くらい水の入った杯へ、慄える手で罎から薬をたらしていた。 ‐1なんだ?」と彼は言ったが、うっかり手をふるわせたので、罎から杯の中へ幾滴かよけいに薬をたらしこんでしまった。彼は薬をぱっと床へうつして、ふたたび水を呼んだ。小間使がすぐ持ってきた。 部屋の中には子供の寝台と、二つの箱と、二脚の安楽椅子と、大テーブルと、子供用のテーブルと椅子、例のアンドレイ公爵や坐っている椅子とがあった。窓はみんな力・‐‐・テンを引かれて
いた。テーブルの上にはI本の蝋燭が燃えていたが、寝台へ光が射さないように、製本した楽譜で屏風をしてあった。 「兄さん、」寝台のそばに立っていたマリヤが、そこから兄隘声をかけた。「少し待った方がいいわ……後でまた……」 「ちょっ、後生だからよしておくれ、お前は馬鹿ばかり言ってる、お前があんまり待て待てと言うものだから、とうとうこんなことになってしまったんだよ。」明らかに妹にいやみをいうつもりらしく、憎々しい声でアンドレイ公爵はささやいた。 「だって兄さん、本当にいま起さない方がいいわ。せっかく糂入ったんですもの。」とマリヤは哀訴するような声で言った。 アンドレイ公爵は立ち上り、杯を持って爪さきだちで寝台K近よった。 「それとも、本当に起さない方がいいかな?」と彼は決しかねた体で言った。 「どうともお考えどおりに……まったく:::わたしそう思いますけど……でも、まあお考えどおりに……」マリヤは自分の意・見がとおったのをきまり悪がるように、おずおずとこう言っ’だ。そして、小声で若主人を呼んでいる小間使を、兄に指さして見せた。 二人が熱に悩む幼児をを隷りながら目も合わさずにいるゐは、もうこれで二晩目である。この二昼夜というもの、抱え医師を信頼することができないで、わざわざ迎えにやった町医者の到着を待ち焦れながら、彼らはあれかこれかとさ拿ざまな薬を使ってみた。心配と不眠とに悩まされた兄妹は、自分の悲しみを相手に浴びせかけようとして、互に責・め龠っては言い争う

Ei

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のであった。 「ベトルーシヤが大殿様のお手紙を持って参りました。」と小間使がささやいた。 アンドレイ公欝は部屋を出た。 「畜生、くだらないものを持ってきやがって!」と彼はつぶやき、父の伝言を聞き終ると、郵書と父の手紙を受取って子供部屋へ帰った。 「どうだね?」と彼はきいた。 「やはり同じですわ、お待ちなさいな、お願いですから、カルルーイヴァーヌイチも睡眠がなにより大切だって、いつも言ってますもの。」と溜息まじりにマリヤがささやいた。 アンドレイ公営は幼児に近づいて、ちょっとさわってみた。幼児は熱に燃えていた。 「お前はカルルーイヴアーヌイチとIしょに、どこへでも勝手にいくがいい!」彼は薬をたらしこんだ杯を持って、再び寝台に近よった。 「兄さん、およしなさい!」とマリヤは言った。 しかし、彼は憎々しげな、同時に苦悶にみちた眼つきで、妹忙眉をひそめて見せ、杯を持って幼児の上にかがみこんだ。 「いや、僕はこうしたいんだ。さあ、お願いだから、これを飲ましてくれ。」 マリヤはひょいと肩をすくめたが、おとなしく杯をとって乳母を呼び、薬を与えはじめた。幼児は咽喉をぜいぜい鳴らしながら泣きだした。アンドレイ公欝は顔をしかめ、両手で頭を抱えて部屋を出ると、隣室の長椅子に腰をおろした。
 手紙は依然として彼の手にあった。彼は機械的に封を切って読みにかかった。老公爵は青い書簡箋に持前の大きな竪長の筆蹟で、ところどころ尊称を使いながら、次のように書いていた。 「たったいま飛脚の千から(もしでたらめでないとすれば)、非常に喜ぶべき報知を受取った。ペニグセソがアイラウで、ブオナパルトに対して非常な大捷を博したらしい。。ペテルブルグで『はみな有頂天になってしまい、軍隊へ送られる賞与は後から後からと果しがない。ペニグセソはドイツ人だが、何しろ結構だ。コルチェヴア町長のバンドリコフとかいう男は、何をしているのか合点がいかぬ。今日まで補充兵も糧食も送ってこない。すぐに同市へ胝けつけて、一週間内に供給できなければ、首を引っこぬいてやると言ってこい。プライシッシューアイラウ役のことについては、なおペーチェソカからも手紙が着いた。あいつはこの役に参加したゆえ間違いない。出しゃばるべきでない奴が、出しゃばって邪魔をしなければ、ドイツ人ですらブオナパルトを敗ることができるのだ。話によると、めちゃめちゃに潰走したそうだ。一刻も猶予なくコルチェヴァヘ駈けっけて、用をすますのだぞ!・」 アンドレイ公爵は溜息をついて、いま一つの封書を開いた。。それは用箋二枚に細かく書き詰めたビリービソの手紙であっだ。彼はそれを読まずにたたんで、「コルチェヴァヘ駈けっけて、用をすますのだぞ!」という言葉で終っている父の手紙を、もう一度、読み返してみた。 『いやまっぴらです、子供がよくなるまで出かけやしません
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歇爭と平和
よ。』と考えて、彼は戸に近より、子供部屋をのぞいてみた。 マリヤは依然として寝台のそばに立つたまま、静かに幼児を揺すっていた。 『ああそうだ、まだなにか一ついやなことが書いてあったっけ。』 アンドレイ公爵は父の手紙の内容を思い出した。『そうだ、わか軍がボナパルトに対して勝利を博したのは、ちょうどおれが勤務していないときなのだ。そうだ。なにもかもおれを愚一弄してるんだ……まあま、どうなとご勝手にだ……』こう考えて、彼はフランス語で書いたビリーピソの手紙を読みにかかった。が、半分ばかりは意味もわからずに読んでいた。あまりに長く、一生懸命に苦しいほど考えつづけていたある一つのことを、ほんのしばらくでも忘れたいがために過ぎなかった。      九 ビリービソは、目下、大本営づきの外交官を勤めていた。この手紙はフランス語で書かれ、フランス式のしゃれた言廻しにみたされてはいたけれど、彼は純ロシア的な忌憚なき自己譴責と自己嘲笑をもって、全戦局を描写している。彼は自分の外交家としてのdiscr6tion lのために苦しめられていることや、軍中のでき事を見るにつけて、自分の心内に欝積している憤懣の情を吐露すべき、誠実なる通信者をアンドレイ公爵に発見するのを、幸福に思っていることなどを書きしるしていた。この手紙はプライシッシューアイラウ役以前の古いものであった。 「アウステルリッツにおけるわが軍の華々しい戦勝いらい、君もご承知の通り、」とビリーピソは書いていた。「僕はひきっづ
き本営を離れないでいる。僕はすっかり戦争趣味の中に入りこんでしまって、しかも、非常に満足しているし。だいさ。ところが、この三ヵ月の間に僕の見聞したことは、皆あり得べからざることばかりだ。 「僕は呂・ぺ・討贊ゆ書くことにする。ご承知のん黔ふ舮がプロシャを攻撃にかかった。三年間にわずか三度しかロシアなだましたことのないわが忠実なる同盟国だ。ロシアはこいつりためにしょっちゅう酷い目にあってばかりいる。しかし、とにかくとどのつまり、人類の敵はわが国の立派な提言にいささかも注意をはらわず、持ちまえの無遠慮な蛮的なやり口で、プ卩シャを襲撃することになった。そして、せっかくはじめた観兵式を終結する暇も与えないで、プロシャ軍を粉微塵にうち破り、ポーツダムの宮殿に入りこんでしまった。 「しかるに、プロシャ王がボナパルトへ呈した親書に曰く、余は陛下が余の宮殿において、最も陛下のみ心に適う款待を受けられん事を冀望す。しかして、余は特に意を用いて、事情の許す限りこれがために必要なる処置を講ぜんとす。希くは余の希望を容れられんことをIだとさ。プロシャの将軍連はフラyス兵に対して慇懃を競い、最初の要求とともに降服している有様だ。 「十万の兵を率いたグロガウの守備隊長は、もし降参しなければならなくなったら、いかがいたしたらよろしいでしょうかと、プロシャ王に奏聞している。これはみんな徼頭徼尾本当の事なのだ。 二言にしておおえば、ロシアは自国の兵力の現状をもって、



∂卵
敵に恐怖の念を吹きこもうと思ったのだが、あにはからんや、かえって、わが国境において戦争の渦に捲きこまれたのだ。しかも、それ4 pour le roi de Prus8e 13n;なのだからたまらない、ところで、わが軍には何もかも有り余ってるが、たった一つち″つとしたものが不足している1それは総指揮官な0だ。アウステルリッツ役の成功も、総指揮官があんなに年若でなかったら、もういっそう確実だったろうにと気づいたので、八十代のよぼよぼ将軍連を物色した結果、プロソーロフスキイとカーメソスキイを比較して、ついに後者が挙げられた。将軍がスヴィーロフ式に一頭曳馬車に乗って軍に到着すると、一同は勝ち誇ったような歓呼をもって迎えたと思い給え。「四日の日に。ペテルブルグから最初の飛脚が来た。やがて何事も自分ですることの好きな元帥の書斎ヘカバソが持ちこまれた。元帥は僕を呼んで、手紙の整理をした上、我々の宛名になった書類を持って行くように手伝いを命じた。元帥は我々にこの仕事を任せながら、自分に宛てた封書を待ちかねている。我我はI生愬命にさがしたが、元帥あてのは出てこない。元帥は卜らいらして、自分でさがしにかかった。すると皇帝陛下からT伯欝にあてたのや、V公爵に宛てたのや、いろいろの書面が日にはいった。元帥は怒気心頭に発し、われを忘れて手紙を開封した。そして、陛下が他の人に宛てられた手紙を読んでしまった。『ははあ、俺にはこういう仕打をなさるんだな1・ 俺には全然ご信任がないんだ! 掩を監視しろというご命令だ、よろしい。さあ、君達はあちらへ行き給え!』そこで、元帥はべこダセソ将渾にあてだ有名な特別命令を書いた。曰く、
 『小官は負傷のため騎乗不能、従って全軍の指揮も致し難く候。貴官は撃破されたる麾下の軍団をプルトウスクヘ誘導なされ候が、軍は掩護隊もなく、燃料も糧秣も欠乏いたし居り侯えば、救助の方法を講ずること必要に御座候。これにつき貴官御自身、昨日ブクスゲヴデソ伯甞に御相談これ有り候に付き、本国国境へ向け退却の儀、御考慮なさる叮く候。此の儀は本日直ちに実行の必要これ有り候。』 『臣は過般来頻繁なる騎乗のためIと彼はさらに皇帝に上奏文を認めたI。鞍摺れに罹り申し候。過般の旅行後、間もなき事とて騎乗の自由を奪われ、かくの如き大軍の指揮は到底不可能と相成り申し候。かかる次第に付き、臣に次ぐ年長将軍ブクスゲヴデソ伯爵に指揮万端一さいを相譲り、一さいの事務及びそれに付属するすべての物件を同将軍に移管し、もし糧食欠乏の場合は、プ″シヤ内地に近く退却方を勧告致し置き申し候。糧瓮の残部は僅か一日を支うるのみにして、甚しきに至りては全然皆無の隊もこれ有り候。此の儀はオステルマン及びセドモレーツキイ両師団長の言明に徴しても明らかに御座侯。また農村にてはIさいの食糧を消耗し尽し居り侯。 『臣自身に至りでは、全快の節までオストロレソコの病院に残留致す可く侯。掏謹しんで奏上致し度き儀は、もし軍が現在り野営を今後十五日間持続いたし侯はば、立春までには一人の鶇康者をも残すまじくと愚考仕り侯。 『冀くは此の老爺を田園に御放ち下されんことを。臣は此の度御抜擢に相成りたる、偉大にして光栄ある任務を果たし能わざるほど侮辱を蒙り申し候。此の儀に対する御勅令は、当地の病
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戰爭と平和
院にて柤待ち申し上ぐ可く候。何となれば、軍に在りて指揮官ならぬ書記の職務を執らんより、遙かに勝れるがために御座候。臣が軍を離るる事は、盲者が軍を去りたる程の動揺をも惹起する事これ無かるべく、臣の如き輩はロシア国に千を以て数え申す可く候。』 「元帥は(とビリービソがっづけた)、陛下に向っ腹を立てて、われわれ一同にあたり散らすのだ。実際、論理的じやないか、ねえ! [これが第一幕だ。幕が進むに従って興趣は益々加わって行く。それは申すまでもないことだ。元帥が去った後、意外にもわが軍はいつの間にやら敵と面接していて、どうしても砲火をまじえなければならなくなった。年長順によって、総指揮官はブグスゲヴデソであるべきだが、ベニグセソ将軍はぜんぜんそれに同意というわけにいかぬ。況んや将軍の一箇軍団が敵と直面しているので、その機会を利用して独力戦闘を開始しようと望んでいるに於てをやだ。で、彼はついにそれを開始した。これが例のわが軍の大捷をもって目されている、プルトウスクの戦役だ。が、僕の意見では、ぜんぜん捷利などと言うべきものでない。御承知の通り我々文官は、戦捷の勝敗を批判するに際して悪い習慣を持っている。即ち、戦捷の後に退いたものは敗北者にほかならない、とこんなふうに我々は言うのだ。この論法で行くと、我軍はプルトウスクの役で敗れたことになる。手短かに言うと、わが軍は戦後退却しつつあるのに、ペテルブルグへは飛脚をもって大捷の報をもたらしたのだ。ベニグセソ将軍はこの大捷に対する感謝として、総指揮官の栄職を拝命する
かもしれないと期待しているので、全軍の指揮をブクスゲヴデソにゆずろうとしない。 「こうした内訌の中に我々は奇抜な面白い演習を始めた。わが軍の目的計画は当然なすべきように敵をさけ、もしくは攻撃する’事に存せずして、年長順によれば当然わが軍の総長官たるべき、ブクスゲヴデソ将軍をさける事にのみ存するようになっ。だ。わが軍は恐ろしい勢でこの目的を追究している。徒渉点のない河を渡ったり、敵を分離せんがために橋を焼いたりする有様だ。しかも、その敵は今のところボナパルトでなく、ブク’スーゲヴデソなのである。わが軍を度々『敵』から救ってくれたこういう演習の結果、ある時、ブクスゲヴデソ将軍は、精鋭なるフランス軍のために攻撃され、危く捕虜となりかけた事がある。ブクスゲヴデンは我々を追跡するI我々は逃走する。彼。が我々の立っている岸へ着くや否や、我々は早速河を渡って向う岸へ行ってしまう。ところが、とうとうブクスゲヴデソは我我をつかまえて、大いに攻撃した。両将軍は互に立腹して、ついにはブクスゲヴデンが決闘を中しこむやら、ベニグセンが刪癇の発作を起すやら、大騒ぎが持ち上った。この危機一髪という瞬間に、ベテルブルグヘプルトウスクの大捷をもたらした飛脚が帰ってきて、ペニダセン将軍に総指揮官の栄職を授けた。そこで第一の敵ブクスゲヴデンは敗られた。今こそ第二の敵ボナパルトのことを考え得るわけだ。 「しかるに、この時、われわれの前に第三の敵が出現した。それは正教国の民である。彼らは遠慮のない高声を挙げてパソ、牛肉、ビスケット、乾草、燕麦、その他さまざまなものを要求



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している! しかも、店舗は空しく、道路はとても通行のできない状態だ。正教国の民はやがて掠奪をはじめた。その掠奪たるや、最近の戦役ちゅうぜんぜん類似の概念を得難いような程度に達している。各連隊の大多数は自由結社めいたものを組織して地方を巡回し、一さいを挙げてことごとく剣と烙とにゆだねている。住民はすべて荒しつくされ、病院は患者にみたされ、饑餓はいたる処に暴威を逞しゅうしている。二度ばかり本営へ掠奪者の群がおしかけてきたことさえある。で、元帥は彼らを追いはらうために、やむなく一大隊の兵を召集した。こうした襲撃の際、僕は一度空气(ソとガウンを持って行かれた。陛下は各師団長に、これらの掠奪者を射殺する権利を与えようとしていられる。しかし、僕は、この命令がわか軍の一半をして、他の一半を射ち殺させることになりはせぬかと、ないない心配している。」 アンドレイ公営は始めのうち、ただ目だけで読んでいたが、やがて、いつとはな七に手紙の内容が、だんだん彼の心を占めて行った。(彼はどの程度までビリービンに信を拑き得るか、十分承知してはいたけれど……)ここまで読んできたとき、彼は手紙を丸めてほうり出した。それは何も手紙の文句が彼を憤らしだのではない。ただなんの縁もない遠隔な土地の生活が、自分を動揺さしたのがいまいましかったのである。いま読んだ事件に対するIさいの同情を追いのけるかのように、眼を閉じて片手で額を拭い、子供部屋の様子に耳を澄ました。ふいに戸の向うで妙なもの音がしたように思われた。恐怖が彼を襲った。自分が手紙を読んでいるうちに、何か子供に釘ダあったの
ではないか、こう思って彼は爪さきだちで子供部屋に近より、そっと戸を開けて見た。 はいって見ると、乳母はおびえたような顔をして、つとなにやらかくした。そして、マリヤは寝台のそばにいなかった。 「兄さん。」とにいうマリヤのびっくりしたような (と彼には思われた)ささやきが後から聞えだ。 長い不眠と興奮の後によくある事だが、彼はいわれなき恐怖の擒となった。子供か死んだのではないか、という考えがふと彼の心に浮かんだ。彼の見たこと聞いたことのすべてが、この恐怖を裏書するように思われた。 『もう何もかもおしまいだ。』と彼は考えた。すると冷い汗が額に滲み出た。、彼は途方にくれたように寝台の方へ近よった。おそらく寝台は空になってるだろう、さつき乳母の隠しだのは赤ん坊の死骸に相違ない、こう信じながら、彼は垂れ布をおし開いた。しかし、慴えてうろうろした眼は、暫らく幼児を発兄することができなかった。ついにようやく見つかった。幼児は血色のいい顔つきをして手足を踏みのばし、枕より低いあたりに頭を落し、寝台の上で横向きになって寝ていた。そして夢の中で辱をもぐもぐさせながら舌打して、なだらかに呼吸しているのであった。 アンドレイ公甞は幼児を見つけると、まるで本当に失ったものを取り戻したように嬉しかった。彼はかがみこんで、妹から習ったように、幼児に熱があるかないか唇で試してみた。柔らかい額は沾みをおびている。手で頭にさわってみるとI‘髪の毛までじめじめしていた。幼児は烈しく発汗したのである。幼
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戰爭と平和
児は死ななかったばかりか、明らかに危機が過ぎて回復したのだ。彼はこの小さな頼りない生きものを抱きとって、揉みくたにして自分の胸へしめっけたい気がした。けれど、そうする勇気はなかった。彼は夜具の上からもそれと知られる手、足、頭を見まわしつつ、そのそばに立っていた。と、すぐそばに衣摺れの音が聞えて、寝台の帷の下からなにか影のようなものが現われた。彼はその方を見返らずに、じっと幼児の顔を見つめていた。影のようなものはマリヤであった。彼女は音のせぬように寝台に近づき、帷を持ち上げてはいると、またそれをおろした。アンドレイ公爵は、ふり返りはしなかったがそれと悟って、彼女の方へ手をさしのばした。彼女はそれを握りしめた。 「発汗したよ。」とアンドレイ公欝は言った。 「わたしもそれを言哂に行きましたのよ。」 幼児は夢の中でかすかに身じろぎして微笑を浮かべ、額を枕にこすって拭いた。 アンドレイ公爵は妹を見やった。マリヤの光にみちた眼は幸福の涙を湛えて、帷の中のぼうっとした柔らかい光の中で、いつもよりよけいきらきら輝いていた。マリヤは兄の方へ身をのばして、寝台の帷に触れながら接吻した。二人は互に脅すようなまねをして、ぼっとした柔らかい光の中に長いこと立ちつづけていた。それはさながら、こうして三人きりで全社会から分たれているこの小さい世界と離れたくない、と言ったようなふうであった。アンドレイ公欝は帷のレースで毛を乱しながら、殼初に寝台から離れた。 「そう、これがいま僕のために残されたたった一つのものだ。」
彼は溜息とともにそう言った。       一〇 共済組合へ入会してからまもなく、ピエールは自分の領地でなすべき仕事に関し、詳しい指導の書きっけを貰って、自家所属の百姓の大部分が集まっている、キーエフ県へ出かけたのである。 キーエフ市へ到着すると、ピII・ルは支配人を残らず本部の事務所へ呼び集めて、自分の意向や希望を陳述した。即ち、農夫を奴隷制度からまったく解放するように、さっそく相当の方法を講すべきこと、それまで、当分、農夫に過重の労働を強いぬこと、子持の婦人に労働を課さぬこと、農夫にはかならず扶助を与うべきこと、刑罰はたんに訓諭にとどめて体刑を廃すること、各領地に病院、宿泊所、学校を建設することなどであった。 支配人のある者は(その中にはなかば文盲の家扶もいた)、新伯欝が自分だもの管理の悪いことや、金をくすねだりすることについて、不満を抱いているに相違ない、というふうにピエールの言葉を解釈して、びくびくもので聞いていた。あるものは、初めちょっと恐怖の念を感じたが、やがて、ピIIルの吃りがちな話しぶりや、聞いたこともない新しい言葉の響きを面白がるようになった。あるものは主人の話を聞くのを、たんに愉快に感じた。またある者は(これはいちばん分別のある連中で、その中には総支配人もはいっていた)、自分の目的を達するには、どんなふうに主人に応待すべきかを、その言葉の中か
らさとったのである。 総支配人はまずピエールの意向に深甚なる同情を表した。しかし、これらの改革のほか、目下紊乱している一般事務の整理に従事する必要を陳べた。 ペズーホフ伯爵家の莫大な財産にもかかわらず、ピエールがそれを譲り受けて、五十万と言われている年収を受け取るようになって以来、彼は亡父から一万ルーブリずつ貰っていた頃よりも、ずっと不自由になったように感じた。彼は次のような概略的予算をぼんやりと知っていた。即ち、各領地から政府へ納める税が約八千ルーブリ、モスクワ郊外の別荘とモスクワ市の邸宅維持費、それに親類の令嬢たちへの支給が三万ルーブリ、年金として一万五千ルーブリ、慈善院にそれと同額、エレン夫人の生活費に十五万Xy-プリ、負債の利子として約七万ルーブリ、それから建築にとりかかった教会堂にこの二年一万ルーブリずつ出て行く。残りの約十万ルーブリはどうして失くなるのか、彼自身も知らなかった。かような有様で、ほとんど毎年、借込みをしなければならなかった。そのほか総支配人が或は火事、或は不作、或は工場改築の必要を書いてよこすのであった。で、まず第一にピエールが着手しなければならぬ仕事は、彼のもっとも不得意かつ嫌いな事務整理であった。 ピエールは、毎日、総支配人と仕事に従事した。しかし、彼は自分・の努力が一歩も先へ事務を進捗させないのを感じた。自分の努力が事務そのものとはなんらの関係なしに行われて、ちょうど歯車の空廻りのように感じられた。また一方、総支配人は、領地の現状をきわめて不利な光に照らし出して、ピエール
に負嚢と返刊農奴0‐力による新企業の必要を証明して見せた。ピエールはそんな事に同意できなかった。また一方、ピエールはピエールで農奴解放り実行を迫ったが、総支配人はそれにたいして、まず第一番に貴族保護院へ未納税納付の必要なこと、従って、早急な理想実現の不可能を論証した。 支配人は頭から不可能だとは言わなかった。彼はこの目的貫徹のために、コストロマ県の森林と、河添いの低地と、クリミャの領地売却を提言した。けれども、こうした支配人の計画は‘禁止の解除とか、請願とか、許可とか、さまざまな錯綜した手続を伴うので、ピエールはすっかり煙に巻かれてしまった。 「そう、そう、そんなふうにして貰おう。」というほか仕方がなかった。 ピエールは、直接事務鞅掌の可能を人に与える実際的な固執性を持っていなかった。そのため、彼は実務というものを好京なかったので、ただ支配人の前でいかにも事務に熱中しているようなふりを見せるだけであった。ところが、支配人は伯爵の前で、こうした仕事は主人にとってこそきわめて有利であるが、自分にとってはただ面倒くさくでたまらないばかりだ、というような顔をして見せた。 この大市街には多くの知人があった。それに知らない人もさきを争って、県一番の領主である新来の富豪の知遇を求め、棘切らしく歓迎するのであった。ピエールが共済組合へ入会の際に自白した、彼の最大弱点にかんする誘惑もなかなか烈しくて、ピエールはどうしても抑制することができなかった。またもや幾日も、幾週も、幾月も、ピエールの生活は煩わしく倉皇
弱4
と平和
默爭
と、夜会や晩餐会や舞踏会の間に流れ去って、ペテルブルグにいたときと同様、自省の暇もないくらいであった。ピエールの望んでいた新生涯の代りに、彼はまたもや以前と同じ生活を送りはじめた。ただ違っているのは周囲の状況だけであった。 共済組合の三つの使命のうち、ピエールはかの精神生活の亀鑑たるべしという使命を、まだ遂行していないことを自覚した。それに七つの徳のうち二つだけは、ぜんぜんかれの身に備もっていなかった。即ち、温厚と死にたいする愛とである。そのかおり、他の使命1人類の匡正を実行しているし、他の諸徳―隣人にたいする愛と、就中、寛大の徳を具備していることを思って、自ら慰めるのであった。 千八百七年の春、ピエールはペテルブルダヘひき返そうと決心した。その途すがら、自分の領地を巡回して、自分の命じたことがどれくらい実施されたか、また神から自分に託された人民、自分が慈愛の手をさし延べようとしている人民か、今どんな状態にあるかを、親しく視察しようと思い立った。 総支配人は若い伯甞の計画をことごとく無謀の挙、即ち、自分にとっても、主人にとっても、百姓らにとっても、ひとしく不利な企てと考えていたが、それでも、若干の譲歩をした。依然として解放の事業を不可能なものと論証しながらも、彼は学校、病院、宿泊所の大きな建物を、主人の巡視のときまでに各領地に建築するように指図した。彼は華美な仰々しい歓迎が、ジ彑Iルの気に入らないことを呑みこんでいるので、いたるところに聖像やパソや塩一匹心のを持ち出すような、宗教的な、しかも感謝の意y含ました歓迎会の準備を整えた。それは彼の解
釈に従えば、かならず主人によい感じを与え、その目を眩まし得るに相違ない、と倡じたからである。 南方の春、ウィーン式の幌馬車を駆る平穏なしかも快速な旅行、旅中の孤独、これらのものがことごとくピエールに快く働きかけた。彼がまだ訪れたことのない領地は、進むにつれて、いよいよ美しくなって行く。いたる所の人民は舵かにその日を過し、彼の施した善行に心から感銘しているように見えた。いたるところに挙げられた歓迎の式は、いささかピエールにきまりの悪い思いをさせたが、心の底では歓喜の情を呼び醒ましたのである。ある所では、百姓がパソと塩、それにヘテロパウロの像を彼にささげた。そして、彼の天使。ヘテロパウロ雛れn齡を祭るために、また彼の施した善根にたいする感謝と愛のしるしとして、自費で教会内に礼拝堂を建て添えさせて貰いたい、と許しを乞うた。またある所では、乳呑児を抱えた女たちが出迎えて、過激な労働を免じられた礼を述べた。またある領地では、一人の僧侶が十字架を手にし、伯爵の情けによって読み書きと宗教を習うことになった大勢の子供らにとり巻かれて、彼を迎えた。すべての領地に同じ設計で建てられ、また建てられっつある病院、学校、養育院などの石造家屋が、いまにも開かれるばかりになっているのを、ピエールは自分の目で認めた。いたる所で、ピエールは農夫らの苦役が、以前と違って減縮されたという支配人たちの報告を読み、青い上衣を着た百姓総代の心から溢れ出るような感謝の辞を聞いた。 しかし、ピエールは次の事情を知らなかった。彼にパンと塩をささげ、ヘテロパウロの礼拝堂を建てた村は商業の盛んな土



地で、いつもヘテロの祭日には市が立つのであった。そして、礼拝堂はずっと以前に村の持丸百姓、即ち、彼の前へ出てきた百姓たちの手で建てられたので、村の十分の九までは非常な貧困状態にあるのであった。彼はまたこういう事も知らなかった1彼の命によって、乳呑児を抱えた女どもの主田労役四大心卵一一]を免じたがために、彼らはかえってより以上に苦しい仕事を、ほかの方でしなければならなくなった。また十字架をもって彼を迎えた僧侶は、さまざまな布施を集めて百姓を苦しめているし、その手もとへ集められた子供らは、両親が泣く泣く手渡したのも、莫大な金を払って身受けしたのである。彼はこんな事も知らないでいた。同じ設計によって建てられた各所の石造建築は、やはり、彼の百姓の手を煩わしたのであって、紙の上では減少されたはずの労役も、事実かえって増大されたのである。また支配人が彼の意志に従って、人頭税を三分の一だけ減じたと帳簿に現わした村では、その代り労役が以前の半分だけ増えたわけである。こういった事情を知らないピエールは、幀地の巡回ですっかり有頂天になり、ペテルブルグを出たときと同じ博愛的な気持に立ち帰って、自分の訓誡者へ(彼は総裁のことをこう呼んでいた)歓喜に溢れた手紙を書き送った。 『こんなに多くの善根を施すのに、いくらも努力はいりやしない、じつにやさしいことだ。』とピエールは考えた。『それだのに、我々はどうしてこのことを深く考えないのだろう?』 彼は自分にささげられた感謝の言葉に、非常な幸福を感じた。が、それを受けるときには恥ずかしいような気もした。この感謝の言葉によって、これらの単純で善良な人々にまだまだ
多くの善根を施すことができる、と彼は考えたのである。 総支配人は極めて愚かな、しかも狡猾な男であったが、賢いけれど子供らしい伯爵の気質をすっかり呑みこむと、まるで玩具のように彼を弄んだ。そして、かねがね準備しておいた歓迎がピエールにおよぼした効果を見て、前よりさらに断乎たる態度で、農奴解放の不可能、というよりむしろ不必要を彼に論証した。つまり、百姓らはそんなことをしなくとも、もはやまったく幸福でいると言うのであった。 ピエールは心の奥では支配人に同意した。あの百姓だちより以上に幸福な人間は想像することもできない、むしろ、自由にしてしまったら、どんな運命が彼らを待ち伏せているかもしれない、と思った。しかし、ピエールはあまり気乗りのせぬ様子ではあったが、とにかく、自分の正しいと信じるところを主張した。支配人は伯爵の志望を充たすためにあらゆる努力をつくすと約束した。けれど、内心では、伯爵が森林や領地の売却、貴族保護院の債務返却のために、できるだけの事をしたかどうか、けっして調査する事はないと明瞭に見ぬいていた。のみならず、新たにできた建物が、いつまでも空のままでうち棄てられ、農夫は、依然として、賦役も租税も他の領地内と同様、精一ぱいのことをさせられるのを、知りもしなければたずねもしないだろう、とこう支配人は多寡をくくっていた。       一一 極めて幸福な心の状態で南方旅行から帰る途中、ピエールはずっと以前からの計画を実行したIそれはもうかれこれ二年
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戦子
も会わずにいる、親友ボルコソスキイのもとへ立寄ることであうた。 ボグチャーロヴォの村は縱だの白樺だのの林や(もはや伐りはらわれたものもあるし、まだ斧の入らないのもあった)、広い野原などでおおわれた、あまり美しくない平板な土地であった。地主邱は街道にそうだ真直ぐな村の家並の一番はじにあった。なみなみと水の溢れた新しい掘り立ての池のそばで、幾本かの松をところどころにまじえた若木林にとりかこまれていた。池の岸にはまだ草も生えていなかった。 邸は穀打場と、二三の附属建物と、厩と、湯殿と、離れと、半円形の正面をもった、まだ普請中の大きな石造家屋からなりたっていた。家のまわりにはなまなましい庭がこしらえてあった。胼や門はまだ新しく丈夫そうだし、庇の下には消防用ポンプと、緑色に塗った樽がすえてあるし、道路は真直ぐで、橋は欄干つきのしっかりしたものである。いたるところに規則ただしい、行きとどいた家政ぶりが跡を印していた。通りかかった召使の者が、主人はどこにいるかというピエールの問にたいして、池のすぐそばに建っているささやかな新しい離れを指さした。老僕アントンはピエールを馬車から扶け出して、アンドレイ公欝が在宅のよしを告げ、清潔な小さい控え室に案内した。 ピエールはペテルブルグで最後にこの友を見たときの華々しかった生活状態と思いくらべて、この清潔ではあるが小さい家のつましさかげんに驚いた。彼はまだ松林の香り高い、壁も塗られてない小さな客間へ急ぎ足に入って。まだ先の方へ進もうとした。が、アントンは爪だちで先へ駈けぬけ、ほとほとと戸
を叩いた。 「うむ、なんだね?」と鋭い不愉快な声が聞えだ。 「ご来客でございます。」とアントンは答えた。 「お待たせしてくれ。」と言って椅子をおしやる音が聞えだ。 ピエールは急ぎ足に戸の方へ近づいた。と、少し老けたアンドレイ公爵が、眉をひそめて出てくるのと、出会いがしらに顏をつき合わせた。ピエールは抱きついた。そして、眼鏡をずり上げて相手の頬を接吻し、ちかちかと見据えるのであった。 「これは思いがけない、よく来てくれたね。」とアンドレイ公爵は言った。 ピエールはなんにも言わなかった。彼はびっくりしたようにじっと目を放さないで、友の顔を見つめていた。アンドレイ公爵の変化が彼を何かしたのである。言葉は優しく、微笑は辱にも顔にも浮かんでいたが、その眼つきは火が消えたように死んでいた。アンドレイ公欝は内心ひたすらに望みながら、どうしてもその眼に嬉しそうな、愉快らしい光を点じることができないらしい。べつにやせたというのでも、顔色が悪いというのでも、老人くさくなったというのでもない。ただこの眼っきと額の上にI筋みえる小さい皺が、長いあいだなにか一つのことばかり思いつづけているのを示していた。ピエールはしばらく相手になれるまでは、妙にそれが目について、よそよそしい心持がしてならなかった。 長い別離ののち、はじめて会ったときよくあることだが、会話は長いこと一定の話題に落ちつかなかった。もっと長く話さなくちゃならないと、自分でよく承知しているような事柄につ



いても、ただ簡単にたずねつ答えつしていた。ついに会話は、卜ちど断片的に話しあった事柄-適去の生活、未来の計画、ピエールの旅行、その事業、戦争などの上に少しずつ落ちつき始めた。最初、ピエールがアンドレイ公爵の限の中に認めた、なにごとか一心に思いつめているような元気のない表情は、いまピエールの言葉を聞きながら浮かべた微笑の中に、ますます色こく現われるのであった。ピエールが過去や未来にかんする歛びを感激に溢れた声で語ったとき、ことにそれがはっきり皃わけられた。それはちょうどピエールの話に同情したいと思いながら、どうしてもそんな気持になれないと言5ふうであった。 ピエールは、自分の幸福や善行にたいする感激も空想も希望も、アンドレイ公爵の前へ出るとなんだか無作法なように思われた。自分の新しい共済組合的思想、今度の旅行でことに更新・され鼓舞された思想を、公爵の前に吐露するのがきまり悪くなうた。彼は子供らしく見られるのがいやさに、努めて控えるようにしていたが、それと同時に、自分がペテルブルグ時代とはすっかり違って、優れた人間になっていることを、いっときも早く友に知らせたくてたまらなかった。 「あれ以来、僕がどんなにさまざまなことを経験したか、とうてい話しつくすことはできませんよ。僕は自分で自分の変化に螫くくらいです。」 「そう、お互にあれ以来ずいぶん変ったねえ。」とアンドレイ公爵は言った。 ・「ところで、あなたは?」とピエールはたずねた。「あなたの
計画は?」 「計画?」とアンドレイ公認は反語的にくり返した。「僕の計画かね?」こうした言葉の意味に驚かされたもののように、彼はふたたびくり返した。「そうさね、ごらんのとおりここに普請しているよ。来年ごろにはすっかり引っ越したいと思ってるんだ……」 ピエールはアンドレイ公爵の老けてきた顔を、無言のままじっと見つめた。 「いや、僕のたずねるのは……」とピエールは言いかけたが、アンドレイ公爵はそれをさえぎった。 「いや、僕のことなんか話すがものはないさ……それより聞かせてくれたまえな、今度の旅行のことや君が領地でしたことなどすっかり。」 ピエールは今度の改革に自分の関係したことを、できるだけかくすようにしながら、領地で行ったことを話し始めた。アンドレイ公認は彼の話そうとすることを、なんべんも自分からさきに言ってしまうのであった。その様子はまるでピIIルのしたことなど、とうからわかりきった話だとでも言うようであった。そして、ただ興味をもって聞かないのみか、ピエールの話のために、恥ずかしい思いをするようなそぶりが見えた。 ピエールはこの友とさしむかいでいるのが、なんとなくばつが悪いIというより、むしろ、苦しくなってきた。彼は口をつぐんだ。 「じつはね、君、」とアンドレイ公爵が言った。彼もあきらかに、この客を窮屈に苦しく感じているらしい。「僕はここでは
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戰爭
とんど露営どうぜんにしているのだよ、ただちょつと検分にきたばかりなんだからね。もうすぐ妹のところへ帰るつもりだが、ひとつ君を家の人に紹介しようかね。いや、君はもう知合いだったっけ。」と言ったが、その調子はいまなんの共通点ももっていない、ただの客人にお愛想を言ってるようであった。「食事をすましたら出かけることにして、いまはちょっと僕の邸でも見たまえな。」 二人は外へ出た。そして、あまり近しくない人たちがするように、政治界の新しいでき事だの、互に共通な知人のことなど話し合いながら、食卓の整うまでその辺を歩きまわった。アンドレイ公甞がいくらか活気と興味をおびて話すのは、ただ目下設計中の邸と普請のことばかりであった。しかし、それでも、普請の足場の上で、ピエールにむかって未来の邸内の工合を説明している最中、彼はふいにぽつりと話を切った。 「だが、こんなことなにも面白があないさ。食事に行って、それから、出かけようじゃないか。」食事のあいだに、会話はピエールの結婚に触れた。 「僕はそのことを聞いてまったく驚いもやった。」アンドレイ公甞は言った。 ピエールはいつもこの話が出るときのきまりで、またもや顔を赤くした。そして、早口に、 「どうしてあんなふうになったかってことは、僕またおりを見てお話しましょう。しかし、あなたご存じですか、あれはすっかりかたづいてしまったのです、しかも、永久に……」 「永久にって?」とアンドレイ公爵は言った。「永久なんてこ
とは、けっしてありゃしない。」 「しかし、あなたは知っていますか、あの事件はすっかりかたづいたんですよ。決闘の話を聞きましたか?」 「そうだね、君も決闘というものの中を游ってきたね。」 「ただひとつ、僕が神に感謝するのは、あの男を殺さないですんだことです。」ピエールはこう言った。 「どうして?」とアンドレイ公言は反問した。「極道犬を殺すのは結構なくらいじゃないか。」 「いや、人間を殺すのは悪いことです。不正なことです……」 「なぜ不正だね?」とアンドレイ公爵はたずねた。「正不正の判断は人間に許されてないよ。人間は永久に迷ってきた、そして、今後もまた迷うだろう。しかも、その迷いは正不正の判断におけるより甚しきはないのだ。」 「不正とは、即ち、他人にとって悪いことです。」自分の到着後、アンドレイ公爵が初めて活気づいて話を始め、彼をいまのような人間にした原因を残らずうち明けそうな様子を示したので、ピエールはすこぶる満足らしかった。 「じゃ、他人にとって悪いこととはなんだね、淮がそんなことを君に教えたい?」 「惡いこと? 悪いことですって?」とピエールは言った。 「われわれは自分にたいする悪がどんなものだか、誰でも承知しています。」 「そう、みんな承知しているさ。しかし、僕は自分で承知している悪を、他人に施すことはできないよ。」自分の新しい人生観を、ことごとくピエールに披瀝しようとするかの如く、アソ



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ドレイ公欝はしだいに活気づきながらこう言った。彼はフラソス語で話した。「Je ne connais dans le vie que deux mauxblen r6els。13g優作赳雛韶%それに良心の呼rと病気だ。この二つの悪をのぞくことが唯一の幸福なんだ。ただこの二つの悪をさけながら自己のために生活するのが、僕の悟りの全部だ。」 「じゃ、同胞にたいする愛は、自己犠牲は?」とピエールが言った。「いいえ、僕はあなたに同意するわけにいきません!ただ後悔しないために悪をしないというだけの生き方では、まだまだ足りないのです。僕もそういう生き方をしました、自己一人のために生きました。そのために自分の生涯を滅ぼしてしまいました。やっと今になって、僕は他人のために生活し始めました。少くともそう努力しています(と彼は謙遜して言いなおした)。やっと今になって、僕は人生の幸福をすっかり味得しました。いいえ、僕はあなたに同意できません。それにあなだだって、いま言われたような事を、本当に考えてはいらっしゃらないのです。」 アンドレイ公爵は黙ってピエールを見つめながら、嘲るように薄笑いした。 「おっつけ君は僕の妹に、マリヤに会うが、あれならきっと君と話が合うよ。」と彼は言った。「或いは、君の言も君にとっては真理だろう。」ちょっと言葉を切ってから彼はまたつづけた。 「しかし、人はめいめい自分自分の暮らし方をしているからね。君は自己のために生きた結果、一生を滅ぼし、他人のために生活するようになってから、はじめて幸福を悟ったと言った
ね。ところが、僕はまるで正反対の経験をしたよ。僕は名誉のために生活した(実際のところ、名誉とはなんだろう? やはり他人にたいする愛じゃないか、他人のためになにごとかしようという願い、他人の賞讃の希望じゃないかね)。で、僕は他人のために生きた。しかるに、僕はほとんど、じゃない、まったく自分の生涯を滅ぼしてしまった。ところが、その後、自己 一人のために生活するようになってから、ずっと平穏になったよ。」 「しかし、どうして自己のためのみに生活できますか?」とピ エールは熱くなってたずねた。「子供さんは、妹さんは、お父 さんは?」≒いや、それはみんな同じ自己だ、それは他人じゃない。」とアンドレイ公君は言った。「君やマリヤの言うような1e pro‐chain 7、隣人、同胞なんてものが、迷いと悪のおもなる源泉なのだ。同 胞は、つまり、その、君が善根を施そうとしていたキーエフの百姓どもさ。」 こう言って、彼は嘲るような批むような眼つきで、ピエールを眺めた。彼はあきらかにピエールに挑んでいるのであった。 「それは冗談です。」次第次第に興奮しながらピエールは言った。「僕が善をしようと望んで(実行はいたって尠少で粗末ですけれど)、とにかく望んで、かつ幾分たりとも実施したということに、どんな迷いがあるのですか? また不仕合わせな人たちIわれわれと同じ人間でありながら、神や真理に関しては無意味な祈蔭と儀式のほか、なんの観念もなく成長しかつ死んで行く百姓たちが、来世とか報いとか褒美とか慰安とか、そ
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