『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『貧しき人々』(ドストエフスキー作、米川正夫訳)P107-P132(1回目の校正完了)

て、お辞儀をしました。まつ毛にはいつものごとく涙が腐りついたようににじんでいるのです。ごそごそと足ずりをするばかりで、ひとこともきりだせない。わたしはいすに坐らせました。もっとも、こわれかかったいすですが、それよりほかにはないのです。お茶をすすめると辞退しました。長いこと遠慮していたが、それでもとうとう、コップを手に取りました。砂糖なしで飲もうとするので、わたしが砂糖を入れなければならないというと、またぞろ辞退しはじめるのです。しばらくいい争ったり、ことわったりしたあげく、やっとのことでいちばん小さいかけらをコップに入れて、すばらしく甘いといい張るのです。いやはや、貧乏というものはどこまで人間を卑に屈にするものか!『それはそうと、いったいどういうご用ですか?』と尋ねると、『じつはこうこうしかじかで、マカール・アレクセエヴィチ、わたしの恩人になってください。神さまに代わってお慈悲を垂れて、不仕合わせな家族を助けてください。子供や女房をかかえていて、食べるものもないという始末ですから、一家の父であるわたしの気持ちがどんなものか、お察しを願います!』とこういうのです。わたしが口を開こうとすると、それをさえぎるようにして、『わたしはここのだれも彼もこわいのです、マカール・アレクセエヴィチ。なに、こわいというのとも違いますが、ただなんとなく気がさすのです。なにしろ、みんな気位の高い高慢な人たちばかりですから。わたしはあなたにご迷惑をかけたくはなかったのです。あなたご自身にもいろいろ不快なご事情があって、たくさんのことをしていただけないのは承知しておりますが、ほんのいくらかでも用立てていただけませんか。わたしがこうして推参しましたのも、あなたの優しいお心を承知しているからです、あなたがご自分でもお困りになった経験があり、現に今でも貧苦を経験していらっしゃるから、したがって、あなたには同情がおありになるだろう、と、かようにぞんじたからでございます』といって、最後に、どうかマカール・アレクセエヴィチ、このあつかましい不作法な申し出でをゆるしてください、と結びました。わたしはそれに答えて、お助けしたいのはやまやまながら、しかし自分も無一文で、それこそさかさに振っても鼻血も出ない始末だといいました。『ああ、マカール・アレクセエヴィチ』と彼はいうのです。『わたしはたくさんとは申しあげません、じつはかようかようの次第で(といいながら、顔を真っ赤にしました)。女房子をかかえて飢えに迫られているありさまですから、せめて、十コペイカかそこいらでも』さあ、これを聞くと、わたしも胸を締めつけられるような気がしました。これはなかなかどうして、おれなんかよりずっとひどいわい! と思いはしたものの、かんじんのわたしの手もとに二十コペイカしか残っていないし、それもちゃんと予算に入っている金で、あすにもさっそくせっぱつまって入用なものを買うつもりだったのです。『いや、お気の毒ですが、どうにもなりません、じつはこうこういうわけで』『あなた、マカール・アレクセエヴィチ、では、いくらでもおぼしめしでけっこうです、せめて十コペイカでも』そこでわたしは箱の中から例の二十コペイカを取り出して、身代ありったけやってしまいました? ああ、貧乏ほどつらいものはありません! それから、二人は話しこみました。『いったいどうしてあなたは、そんなにも困るようにおなりになったのです? しかも、それほど困っていながら、どうして銀貨五ルーブリもする部屋を借りておいでになるのです?』とたずねると、じつは半年前に借りて入ったので、間代も三か月分前払いしておいたのだが、その後いろんな事情がかさなって、にっちもさっちもいかなくなったのだ、と説明しました。この時分までに訴訟事件も片づくものと思っていたのです。彼の事件というのは不愉快なものなのです。ヴァーリンカ、この人はなにかの事件で裁判沙汰になっているのです。訴訟の相手というのは、お上の請負仕事をごまかしたある商人なのです。そのごまかしが発覚して、商人は裁判にまわされましたが、その横領事件にゴルシコフまで捲きこんでしまったのです。ゴルシコフもなにかで多少それにかかり合っていたのですが、じつのところ、彼はただ怠慢と不注意のために、国庫の利益をなおざりにしたという点に罪があっただけなのです。事件はすでに幾年も続いています、ゴルシコフにとって不利な障害が、あとからあとからと現われるのです。『わたしに擬せられている破廉恥罪については、罪はありません』とゴルシコフはわたしにいいました。『まったく罪はないのです。詐欺や横領なんか身に覚えがありません』この事件のために、彼は多少紳士としての名誉を傷つけられた形で、勤めのほうも追われることとなりました。彼にたいした罪がないということは、みんなも認めていましたが、しかし完全に無罪の宣告を受けたうえでなければ、かなりの額にのぼる金を商人から受け取ることができないのです。それは当然、彼の手に入るべきものですが、いまだに法廷で係争中なのです。わたしは彼の言葉を信じますが、単なる言葉だけでは法律は信じてくれません。なにしろこれは、いろんなからくりや引っかかりだらけの込みいった事件で、百年たったって解きほぐすことはできそうもない。やっと、すこしほぐれたと思うと、商人があとからあとへと新しい引っかかりをこしらえる、というふうなんです。わたしは心からゴルシコフの運命に同情し、彼を気の毒に思います。今は職を離れてしまっています。見こみがないので、どこへも雇ってもらえないのです。僅かな貯えは使いはたすし、事件はこんがらかって、なかなからちがあかない、が、それでも生きていかなければならないのです。間が悪いときには悪いもので、そこへもってきて、ひょっこりと赤ん坊が生まれた。――さあ、またものいりです。息子が病気したといってはものいり、死んだといってはものいりです。細君は病身だし、当人はなにか痼疾があって健康がすぐれない。ひと口にいえば、困りぬいているのです、ほんとうに困りぬいているのです。もっとも、当人の話によると、近いうちに事件が有利に解決するはずで、今度こそもう間違いなしという。気の毒です、気の毒です、じつに気の毒のいたりです! わたしはいろいろいたわってやりました。なにしろいじけきって、とほうに暮れているような人間で、保護を求めているのですから、そこでわたしがいたわってやった次第です。では、さようなら、どうぞご機嫌よく、達者でいてください。わたしの愛する人! わたしはあなたのことを思い出すと、まるで病める心に薬をつけてもらう思いがして、あなたのために苦しんでいながらも、あなたのために苦しむのはわたしにとってつらくないのです。
[#地から10字上げ]あなたの真実の友
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 九月九日
 ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ!
 わたしは前後も夢中でこの手紙の筆をとります。恐ろしい出来ごとに、気も顛倒しているのです。わたしはめまいがしそうです。まわりのものがみんなくるくるまわっているような気がします。ああ、わたしの親しい人、これからわたしが話そうとしているのは、どんなことだと思います! まったくこんなことはわたしたちも夢にも思いがけませんでした。いや、わたしは自分が予感していなかったなどとは信じられません、わたしはなにもかも予感していたのです。これはすっかりわたしの胸にあらかじめ響いていたのです。ついこのあいだも、なにか似たようなことを夢に見たくらいです。
 まずこういう次第です! わたしは文章などにはかまわず、心に浮かんでくるままを書いていきます。きょうわたしは役所へ行きました。向こうに着いて、席に坐って、書類を書いていました。ちょっとおことわりしておかなければなりませんが、わたしはきのうも同じように晝いていたのです。さてきのうは、チモフヱイ・イヴァーノヴィチがわたしのそ
ばへ来られて、これは大事な急ぎの書類だからと、ご自分でじきじきお頼みになりました。『マカール・アレクセエヴィチ、なるべくきれいに、大急ぎで、丁寧に書いてくれたまえ、きょう署名をしていただくのだから』とこうでした。おことわりしておきますが、きのうわたしは気もそぞろで、なにひとつ目をくれる気にもならなかったのです。やたらに気が沈んで、くさくさしてしようがなかったのです! 胸の中は冷たく、心は暗く、頭の中にはあなたのことばかりがこびりついていました。さて、そこでわたしは浄書にかかりました、きれいにうまく書きあげたのでしたが、悪魔がわたしをそそのかしたのか、秘密な運命でそういう約束ごとになっていたのか、それとも、ただそうならなければならないものだったのか、そのへんのところはわたしもよくわからないので、はっきりと申しあげることはできませんが、とにかく、わたしはまるまる一行ぬかしてしまったのです。どんな意味のものになったか知りませんが、おそらくなんのことやらわからないものになったに違いありません。きのうは書類の準備が遅れたので、やっときょうそれを閣下に提出して、署名していただくことになったのでした。わたしは知らぬがほとけで、きょうもいつもの時刻に出勤し、エメリヤン・イヴァーノヴィチの隣りに腰をおろしました。ここでまたことわっておきますが、わたしは近ごろ、以前に倍して気がねをし、やたらに恥ずかしがるようになりました。このごろでは、だれの顔もまともには見ないくらいです。だれかがちょいと、いすをごとりといわせるやいなや、わたしはもう生きた空もないのです。そういうわけで、きょうもおとなしく小さくなって、針鼠よろしくの体で縮こまっていたものだから、エフィーム・アキーモヴィチが(これはちょっと類のないほど口の悪い男なんです)、さも聞こえよがしに、『マカール・アレクセエヴィチ、きみはなんという恰好をして坐っているのだ、やれやれ』といって、おまけに妙なしかめ面をするじゃありませんか。わたしたちのまわりにいた連中は、みんな一度にどっと笑いくずれましたが、もちろん、それはわたしに向けられたものなんです。それからなんのかのとやじりだしたものです! わたしは耳にふたをし、目をつぶって、身動きもせずにじっと坐っていました。これはもうわたしがいつもやる手なので、こうしていると、早くうっちゃってくれるのです。そのときふいに騒々しい物音がして、あたふたと駆けまわる足音が聞こえました。ふと聞こえたのは、耳の迷いではないだろうか? わたしの名を呼び、わたしをさがしている声なのです。まさしくジェーヴシキンと呼んでいるのです。わたしの胸は慄えはじめました。何をそんなにびっくりしたのか、自分ながらわけがわかりません。ただわかっているのは、これほどびっくりしたのは生まれてはじめてだということばかり。わたしはいすに根が生えたようなふうで、そ知らぬ顔をして坐っていました。まるで、ここにいるのはおれではないぞ、といったような形なのです。しかし、また呼び声が聞こえて、それがだんだん近づいて来る。やがてもうわたしのすぐ耳もとで、『ジェーヴシキン! ジェーヴシキン! ジェーヴシキンはどこにいる?』といっています。目を上げると、わたしの前にはエフスターフィ・イヴァーノヴィチが立っていて、『マカール・アレクセエヴィチ、閣下のところへ、大急ぎで! きみはあの書類を大変なことにしてしまったじゃないか!』ただこれだけいったきりですが、それでもう十分でした。まったくそれだけ聞けば十分でしょう、ヴァーリンカ? わたしは気が遠くなって、体は氷のようになり、感覚を失ってしまいました。歩き出しはしたものの、生きた心地はありません。それでも引っぱられて行きました、部屋を一つ通り抜け、また一つ抜け、それからさらにもう一つ抜けて、局長室へ入り、閣下の前に立ちました! そのとき、わたしが何を考えていたかは、はっきり申しあげられません。見ると、閣下がそこに立っておられて、そのまわりには大勢の人が控えているのです。わたしはお辞儀さえしなかったらしい、忘れてしまったのです。すっかりおじけづいて、唇もぶるぶる慄え、足もがくがくしているのです。それもそのはずです。第一、気恥ずかしいではありませんか、わたしは右手にかかっている鏡を見ましたが、そこに映っている自分の姿を見ただけでも、気が狂うほどのことはありそうな話です。第二に、わたしはいつも自分という人間がこの世にいないような具合にしていたのです。だから、わたしというものの存在が閣下に知られているなどとは、ほとんど考えられないくらいなんです。もしかしたら、閣下も自分の役所にジェーヴシキンなるものがいることを、ちらっと耳になすったことがあるかもしれないけれど、直接交渉を持つことなどは一度もなかったのです。
 閣下は憤然たる語気で、『これはきみ、いったいどうしたことだ! なにをぼんやりしていたのだ? 重要な書類で急を要するものなのに、きみはめちゃめちゃにしてしまったじゃないか。これはどうしたということだ』といって、今度はエフスターフィ・イヴァーノヴィチのほうを向かれました。わたしはただ、『怠慢だ! 不注意だ! 困ったことをしてくれた!』などという言葉が響いてくるのを、ぼんやり聞いているばかりでした。わたしはなんのためやら口を開こうとしました。謝罪をしようと思っても言葉が出ず、逃げ出そうにも、そういう大胆な真似もできない、と、そのとき……そのとき、とんでもないことがもちあがりました、わたしは今でさえ恥ずかしさのあまり、手にペンが持っていられないくらいです。わたしの服のボタンが、――いまいましい――糸一本でやっととまっていたボタンが、突然ちぎれて落ちたと思うと、ぽんと一つ跳ねあがって(どうやら、自分で不注意なさわりかたをしたらしい)、からからと音を立てながら、なさけないことに、まっすぐに閣下の足もとへころがって行ったのです。しかも、それが一同しんと静まり返っている最中なんですからね! これがわたしの釈明であり、謝罪であり、答えのすべてであったのです、わたしが閣下に申しあげようと思っていたいっさいであったのです! その結果は大変なものでした。閣下はたちまちわたしの風体と服装に注意を向けられました。わたしは鏡に映った自分の姿を思い出しました。わたしはボタンを拾いに飛んで行きました! ばかな気持ちになったものです! かがみこんでボタンをとろうとしましたが、ころがったり、くるくるまわったりして、どうしてもつかむことができない、要するに、不器用なほうでも際立ったことをやったわけです。もうそのとき、わたしは心の中で、いよいよ最後の力もつき果てた、なにもかもすっかりだめになってしまった、と感じました! 体面もつぶれてしまえば、人間としての値打ちも、すっかりふいになってしまったのです! すると、どうしたものか出しぬけに耳の中でテレーザやフィルドニの声が聞こえて、がんがんと耳鳴りがしだしました。やっとのことでボタンを拾い、立ちあがって身を伸ばすと、そのままばかはばかなりに、おとなしく不動の姿勢をして立っていればよいものを、それもしないで、ボタンをちぎれた糸にくっつけようとしはじめたのです、そんなことをすれば、ボタンがちゃんとくっつきでもするかのように。おまけに、にたにた笑っている始末なのです。閣下ははじめ顔をおそむけになりましたが、それからまたわたしをごらんになって、『どうしたことだ?………』とエフスターフィ・イヴァーノヴィチにおっしゃる声が聞こえました。『見たまえ、なんという恰好をしているのか!………あれはどうしたのだ!………あれは何ものだ!………』ああ、ヴァーリンカ、こんな場合に『あれはどうしたのだ?』だの、『あれは何ものだ?』だのって、ほんとうになんということでしょう。いい恥さらしをしたものです! すると、エフスターフィ・イヴァーノヴィチが、『べつに、べつになにも不始末などはございません、品行も方正で、俸給も定額どおり十分にちょうだいいたしておりまして……』というのが聞こえます。『ふむ、なんとかもっと楽にしてやりたまえ。俸給の前借でも許してやったら……』と閣下がおっしゃる。「いえ、もう前借しているのでございます。ずっとさきの分まで前借しているのでございます。きっと、なにかよくよくの事情があるのでしょうが、品行は方正で、ついぞ一度も不始末はありませんでした』わたしの天使、わたしは顔から火が出るようでした、体を地獄の火で焼かれる思いでした! 今にも死んでしまいそうな気がしました!『では』と閣下が大きな声でおっしゃるのです。『もう一度大急ぎで書き直すんだね。ジェーヴシキン、こっちへ来たまえ、もう一度、今度は間違えないように書き直してくれたまえ。さて、そこで……』こういって閣下は一同に向かって、いろいろな命令を出されたので、みんなはそれぞれに引き取って行きました。一同が引き取るが早いか、閣下はせかせかと紙入れを取り出して、その中から百ルーブリ紙幣《さつ》を抜き取り、『これはわたしとして応分のことなんだ、名目はきみのほうでどうともつけて、まあ取ってくれたまえ……』といい、わたしの手に握らしてくださいました。わたしはぎくっとしました。魂が底の底までゆすぶられたのです。わたしは自分がどうなったのかしりません、いきなり閣下のお手をとろうとしましたが、閣下はさっと顔をあからめて、――ヴァーリンカ、わたしは毛筋ほども事実からはずれたことをいってはいないのです、――わたし風情の手をおとりになって、いきなり強くお取りになりました。まるでご自分の同輩か、将軍にでもなさるように、無造作に握手をなすったのです。『さあ、行ってよろしい、あれは応分のことをしたまでで……もう書き違いをしないようにね、今度のことはしようがないとして』とおっしゃる。
 そこで、ヴァーリンカ、わたしはこう決心しました。あなたにもフェドーラにもお願いします、それどころか、もしわたしに子供があったら、その子供らにも申しつけますが、どうか神さまにお祈りしてください。といっても、ただお祈りするんじゃありません、たとえ生みの父親のためには祈らなくとも、閣下のためには毎日かかさず一生お祈りをあげてもらいたいのです! それから、あなたにいいたいことがあります。これは厳粛な気持ちでいうのですから、どうかよく聞いてください、――ちかって申しますが、わたしは不運にさいなまれていた恐ろしい日々に、あなたを見、あなたの不幸を見、わが身を見、自分の屈辱と無能ぶりを見ながら、悲しみのあまり滅亡に瀕したこともありますが、それにもかかわらず、わたしはこの百ルーブリの金をちょうだいしたということよりも、閣下が、藁くず同然の酔っ払いにすぎないこのしがないわたしの手を親しく握ってくだすったことのほうが、わたしにとってはずっとありがたいのです、わたしはそれを誓います! それによって、あのかたはわたしというものを自分自身に返してくだすったのです、あの行為によってわたしの心をよみがえらせ、永久に生活を楽しいものにしてくだすったのです。わたしはかたく信じておりますが、この身は天帝の前にいかほど罪があろうとも、閣下の幸福と安泰を願うわたしの祈りは、かならずや天の御座《みくら》に達することと思います!
 愛する人よ! わたしはいま、恐ろしい惑乱と興奮の中に投げこまれています! 心臓は激しく動悸を打って、今にも胸から飛び出しそうです。わたし自身もなんだか、こう、ぐったりしたようなあんばいです。紙幣で四十五ルーブリお送りします、二十ルーブリはおかみさんにやって、手もとには三十五ルーブリ残します。二十ルーブリで服を修繕し、十五ルーブリを暮らし向きのほうに当てます。しかし、今のところは、あの朝の出来ごとの印象が、わたしを底の底まで震撼させてしまいました。わたしはちょいと横になります。とはいうものの、気分は穏やかです、きわめて穏やかです。ただ心が大きな震蕩を受けて、胸の底のほうで震えおののき、うごめいているのが感じられます。いずれお訪ねしますが、今はまるでこうした感じのために銘酊でもしているよう……なにごともすべて神さまがご照覧です。では、限りなく尊いわたしの愛する人よ! さようなら!
[#地から10字上げ]あなたのふさわしき友
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 九月十日
 優しいマカール・アレクセエヴィチ!
 わたしは言葉につくせないほどあなたの幸福を嬉しく思い、あなたの長官の善行をありがたく感じています。これであなたも悲しみを忘れて、休息がおできになるというものです! でも、ただ、どうかお願いですから、お金をむだに費わないでくださいまし。できるだけつつましく、ひっそりと暮らすようにして、きょうからでもさっそく、いくらかずつ、しじゅう貯金をするようになさいまし、また不幸の不意打ちにあわないように。わたしたちのことはどうかご心配ご無用に願います。わたしはフェドーラと二人でなんとかしのいでまいります。マカール・アレクセエヴィチ、あなたはどうしてあんなにたくさんお金を送ってくださいましたの! わたしたちにはまるで入用がございません。わたしたちは自分の稼ぎだけで満足しているのですから。もっとも、近いうちにこの宿を引っ越して行くのにお金がいるわけですけれど、フェドーラはだれかに古い貸金を返してもらうあてがあると申しています。それにしても、せっぱつまった必要の場合を思って、二十ルーブリだけ手もとに残しておきます。残りはお返しいたします。どうかお金を大切にしてくださいまし、マカール・アレクセエヴィチ。さようなら、これから穏やかな生活をして、お体を丈夫に、心を楽しくお持ちなさいまし。もっと書きたいのですけど、たいへん疲れているような気持ちがいたします。きのうはいちんち床を離れることができませんでした。こちらへお出かけくださるとのこと、ご親切にありがとうございます。どうぞいらしてくださいまし、マカール・アレクセエヴィチ。
[#地から1字上げ]V・D

 九月十一日
 愛するヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ!
 どうぞお願いですから、わたしが完全に幸福な身の上となり、いっさいに満足しきっている今となって、わたしと別れるなどと、いわないでください。愛する人よ! フェドーラのいうことなど聞いてはいけません、わたしはあなたのお望みになることならなんでもします。品行も慎しみます、閣下に対する尊敬のためだけでも、方正謹厳にします。また二人でおたがい同士幸福な手紙をやり取りして、自分の考えや喜びをわかち合おうではありませんか。もし心配ごとがあったら、その心配ごともうち明けましょう。ふたり仲よく幸福に暮らしましょう。文学も研究しましょう……わたしの天使! わたしの運命は一変しました。しかも良いほうへ変わってくれたのです。かみさんも愛想がよくなるし、テレーザもずっと利口者になり、あのフェルドニでさえもなんだか気軽に動くようになりました。ラタジャーエフとも仲直りしました。嬉しまぎれにわたしが自分のほうから出かけて行ったのです。あの男はまったく愛すべき好漢で、いろいろよくないうわさもありましたが、それはみんなでたらめなのです。あれがすべて憎むべき中傷であったということを、わたしは今度はじめて発見しました。あの男はけっしてわたしたちのことを小説になど書くつもりはなかったので、当人が自分の口からちゃんとそういいました。新作を一つ読んで聞かせてくれました。あのとき、わたしのことをラヴレイスと呼びましたが、それはけっして悪口でもなければ、ぶしつけな仇名でもないそうです。あの男が自分で説明してくれました。それは外国語からとった言葉で、気のきいた若い衆[#「気のきいた若い衆」に傍点]という意味なんだそうです。これをもっときれいに、文学的にいうならば、油断のならぬ若い衆[#「油断のならぬ若い衆」に傍点]ということになるのですヽ――そうなんです! けっしてなにか変な意味ではありません。要するに、罪のない冗談だったのです! それをわたしが無学のために、つい見境もなく腹を立てたのです。だから、こんどわたしはとうとうあの男に詫びをいいました……ヴァーリンカ、きょうはじつにすばらしい好い天気です。もっとも、朝のうちはちょいと氷雨が降って、まるで篩《ふるい》で粉をおろすようでしたが、たいしたことはありません! かえって空気がいくらかさわやかになったくらいです。わたしは靴を買いに出かけました。そして、目の醒めるような靴を手に入れました。ネーフスキイ通りをふらついて『蜜蜂』([#割り注]一八二五―五七年んいでていた新聞『北の蜂蜜』のこと[#割り注終わり])を読みました。そう、そう! かんじんなことを話すのを忘れていました。
 それはこういう次第です。
 けさエメリヤン・イヴァーノヴィチとアクセンチイ・ミハイロヴィチと、閣下のことをいろいろ話しました。聞いてみると、ヴァーリンカ、あのかたはべつにわたし一人だけをああ優しくしてくだすったのではありません。わたし一人だけになさけをかけてくだすったのではなく、あのおかたの心の優しいのは世間に知れわたっているのだそうです。あのかたに対しては、いたるところで讃辞が捧げられ、感謝の涙が流されているのです。閣下は一人の孤児の娘を養育して、ちゃんと身の決まりまでつけておやりになりました。つまり、閣下のおそばでなにか特別な仕事をしているれっきとした一官吏のところへおかたづけになったのです。それから、ある寡婦の息子をどこかの役所へ就職させたり、そのほかなおいろいろの善根をほどこしておられます。わたしはそのときすぐに、自分も及ばずながら閣下の礼讃に馳せ参ずる義務があると考えたので、堂々とみんなに閣下のなされたことを話して聞かせました。わたしはなにひとつつつみかくさず、すっかり話してしまいました。自分の恥などは棚へ上げてしまったのです。こういう事情なのに、何を恥じることがありましょう、どこに体面などを考えている暇がありましょう! それこそ、真っ正面から堂々と、閣下のご所業が世にもてはやされるようにと、根こそぎ話したわけです! わたしは前後を忘れて、熱心に話しました。そして、顔などあからめなかったばかりか、かえってこういう話をする機会に恵まれたのを誇りとしたくらいです。わたしはなにもかも(といっても、あなたのことだけは持ち出さないほうがいいと思い、黙っていました)、かみさんのことも、ファルドニのことも、ラタジャーエフのことも、靴のことも、マルコフのことも、――すっかり話してしまいました、そのとき、二、三のものはくすくす笑いだした。いや、ほんとうのことをいえば、みんな笑いだしたのです。しかし、それはわたしの姿になにか滑稽なところを見つけたからに相違ありません。それとも、ことによったら、わたしの靴のことだったかもしれません、――たしかに靴のことだったのでしょう。あの連中も、べつに悪気があってそんなことをするはずはありません、それはただ年の若いせいです。みんな金に困らない人たちだからです。悪気があってわたしの話を笑いぐさにするなんて、けっしてそんなはずはありません。ことに、なにか閣下のことで笑い出すというようなことは、断じてできるわけのものではない。そうじゃありませんか、ヴァーリンカ?
 わたしはいまだになんだかわれに返ることができません。こういういろいろの出来ごとがわたしの頭をめちゃめちゃにしてしまったのです! 薪はまだありますか? どうか風邪を引かないようにしてください、ヴァーリンカ、風邪はまことに引きやすいものですからね。ああ、あなたが悲しいことばかり考えていらっしゃるので、わたしはつらくてたまりません。わたしはあなたのために、神さまにお祈りしています、一生懸命にお祈りをしているのです! あなたは、たとえば毛の靴下だとか、なにか暖い着物だとか、そんなものをお持ちですか。ほんとうに気をつけてくださいよ。もしなににもせよ入用なものがあったら、後生ですから、黙っていてこの老人の気を悪くさせるようなことをしないでください。こうこうと正直にわたしにうち明けてください。今は不運な時代は過ぎ去ってしまったのですから、あなたもわたしのことは心配しないでください。前途はなにもかも光明に満ちて、晴ればれとしています!
 今までは悲しい時代でした、ヴァーリンカ! まあ、でも、もうどうでもいいことです、過ぎ去ってしまったんですから! 年が経ったら、今のことも思い出して、嘆息するんでしょう。わたしは自分の若いときのことをおぼえていますが、なかなかなまやさしいものではありませんでした! どうかすると、一コペイカの金もないことがありました。寒さに慄えて空き腹をかかえているくせに、それでもただなんとなく楽しかったものです。朝ネーフスキイ通りを散歩して、だれか美しい人に出会うと、その日は一日仕合わせだったのです。じつにすばらしい時代でした! 生きているということはいいものですね、ヴァーリンカ! とくにペテルブルグは素敵ですね。わたしはきのう目に涙を浮かべて、神さまの前にひざまずき、あの悲しい時分にわたしの犯したいっさいの罪を――不平も、自由思想も、放埒も、憤激も、なにもかもゆるしてくださるようにと懺悔しました。あなたのことも。感激を胸にいだきながらお祈りしておきました。わたしの天使、わたしを力づけてくれたのはあなただけです。わたしを慰めて、親切な忠告や訓戒を授けてくだすったのも、あなただけです。わたしはそれを永久に忘れることができません。きょうはあなたのお手紙に一つ残らず接吻しました。わたしの愛する人、では、さようなら。人の話では、どこかこのへんに衣類の売り物が出ているそうですから、ちょっと行ってみようと思います。さようなら、わたしの天使、さようなら!
[#地から8字上げ]心からあなたに信服せる
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 九月十五日
 マカール・アレクセエヴィチさま?
 わたしはひどく興奮しております。まあ、なんてことがもちあがったのでしょう。わたしは、なにか宿命的なものを予感しております。どうでしょう、ブイコフ氏が、ベテルブルグヘ来ているのでございます。フェドーラがあの人に出会ったのです。馬車に乗ってどこかへ行く途中、馭者に馬をとめさせ、自分のほうからそばへ寄って来て、どこに住んでいるのかとききはじめました。フェドーラははじめ返事をしませんでした。すると、あの人はにやにや笑いながら、おまえのところにだれが同居しているかちゃんと知っている、といったそうでございます(どうやら、アンナ・フョードロヴナが、すっかりしゃべってしまったらしいのです)。そのときフェドーラは我慢しきれなくなって、いきなり往来の真ん中であの人を責めたりなじったりして、おまえさんは放埒な人間で、お嬢さんが不仕合わせになったのもみんなおまえさんのせいだと申しました。あの人はそれに答えて、一文無しの身の上になれば、人間不仕合わせに決まっている、と申しました。フェドーラはまたやり返して、お嬢さんは働いて暮らすこともできるし、お嫁にだって行くことができるし、さもなければ、なにか勤め口でも見つけることができるのだけれど、今では永久に仕合わせに見離されてしまい、おまけに病身勝ちだから、やがて死んでおしまいになるだろう、といったそうです。あの人はそれを聞いて、お嬢さんはまだあまりにも年が若いから、頭の中につまらない考えがもやもやしているのだ、そのためにあの人の美徳も光らなくなったのだ[#「あの人の美徳も光らなくなったのだ」に傍点]、といいました(これはあの人の言葉そのままなんですの)。わたしもフェドーラも、あの人はまだわたしたちの宿を知らないものと思っていました。ところが、きのう突然、わたしが勧工場《ゴスチーヌイ・ドヴォール》へ買物に出かけるが早いか、あの人がわたしたちの部屋へ入って来たのです。わたしのいるところへは来たくなかったらしい様子でございます。フェドーラをつかまえて、長いことわたしたちの暮らしぶりを根掘り菜掘りしながら、絶えずあたりの様子に目を配っていたそうです。わたしの仕事などもひと通り見て、あげくのはてに、おまえさんたちと懇意にしている役人はいったいなにものだ、とたずねました、そのときちょうどあなたが内庭をお通りになったので、フェドーラがあの人だと教えました。ブイコフ氏はそれをちらと見て、にやりと笑ったそうです。フェドーラはどうか帰ってくださいと頼んだうえ、お嬢さんはそれでなくても、いろいろな苦労で体を悪くしていらっしゃるのだから、いまここでお目にかかるのはさぞかしおいやでしょう、といいました。あの人はしばらく黙っていたあと、自分はただ所在なさにやって来たばかりだといい、フェドーラに二十五ルーブリやろうとしました。でも、フェドーラがそれを受け取らなかったのは申すまでもありません。――いったいこれはどうしたことでしょう? なんだってあの人が家へ訪ねて来たのでしょう? どうしてこんなに、わたしたちのことをなにもかも知っているのか、合点がまいりません! わたしはとんと想像がつきかねます。フェドーラが申しますには、ちょいちょい家へ来ている嫂のアクシーニャが、洗濯女のナスターシャと懇意にしているし、そのナスターシャの従弟が、アンナ・フョードロヴナの甥の知人の勤めている役所の小使をしているから、ひょっとそんなことでうわさが伝わったのではないか、とのことです。もっとも、それは大きにフェドーラの考え違いかもしれません。わたしたちはもう推察のしようがなくなりました。いったいあの人はやって来るのでしょうか! そう考えただけでも、わたしはぞっとしてしまいます! きのうフェドーラがこの話をしてくれたとき、わたしはもうびっくりしてしまって、恐ろしさにあやうく気絶せんばかりでした。あの人たちはこのうえ何が必要なのでしょう? わたしはもう顔を見るのもいやです! わたしみたいな貧しい娘に、いったいどんな用があるというのでしょう! ああ! わたしはいま恐ろしくってたまりません。今にもブイコフが入って来そうな気がしてならないのです。ほんとうにわたしはどうなることでしょう! このうえまだどんな運命がわたしを待ち伏せしていることでしょう? どうか後生ですから。今すぐいらしてくださいまし、マカール・アレクセエヴィチ。いらしてください、どうか、いらしてください。
[#地から1字上げ]V・D

 九月十八日
 ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ!
 きょう、わたしたちの下宿でこのうえもなく悲惨な、なんとも説明のしようのない、意外な事件がおこりました。例の気の毒なゴルシコフが(どうか注意して聞いてください)、完全に青天白日の身となったのです。大体の判決はもう前からできていたのですが、きょう彼はいろいろ公式の申し渡しを聞きに出かけました。事件は彼にとってすこぶる幸運な解決を告げたのです。職務上の怠慢と不注意の罪はあったのですが、それもこれもきれいに免除されました。そのうえ、莫大な金額を商人から受け取るように判決がくだったので、彼は財政状態もすっかりよくなるし、名誉も回復され、何から何まで結構なことになる、要するに、希望が完全にかなえられたわけです。彼はきょう三時に家へ帰ってまいりました。ところが、その顔色ったらありませんでした。布のように真っ青になって、唇はぶるぶる慄えているくせに、当人はにこにこ笑いながら、妻子を抱擁しました。わたしたちはどっとばかり群れをなして、彼の部屋へお祝いに行きました。ゴルシコフはわたしたちの行為に深く感動して、四方八方へお辞儀をし、一人一人の手を何度も握り締めました。わたしはなんだか彼が急に大きくなって、背も真っ直ぐにしゃんと伸び、目に涙さえなくなったような気がしました。気の毒にも、おそろしく興奮していました。二分間と一つところにじっとしていられないで、目につきしだいのものを手にとっては、すぐにまたほうり出し、絶えず、にこにこ笑ったり、会釈をしたり、坐ったり、立ったり、また坐ったりして、なんだかわけのわからないことを口走っているのです。『わたしの名誉、名誉、体面、わたしの子供たち』などというのですが、そのいいかたが一種とくべつなのです! さめざめと泣き出しさえしました。わたしたちもたいていもらい泣きしました。ラタジャーエフは元気をつけるつもりだったらしく、『食う物もないのにあなた、名誉もなにもあるものですか。金ですよ、肝腎なのは金ですよ、その金が入ったことを神さまに感謝したらいいでしょう!』といって、彼の肩をぽんと叩きました。わたしはゴルシコフがむっとしたように思われました。といって、はっきり不満の色を示したわけではありませんが、ただなんとなく妙な目つきでラタジャーエフを眺め、その手を自分の肩からどけたばかりです。以前ならそんなことはしなかったでしょう! もっとも、人の性質はさまざまなもので、たとえば、わたしなどはこういう嬉しいことがあったら、けっして高慢ちきな様子はしなかったでしょう、それどころか、ときとすると余分なお辞儀のひとつもして、自分を卑下するくらいのものですが、それというのも、ほかではない、善良な心のあふれるに任せるからであり、あまりに気が優しすぎるからなのです……。しかし、この場合、わたしにはなにも関係のないことです! 彼はいいました。『さよう、お金もけっこうですな。とにかく、ありがたいことだ、ありがたいことだ……それからわたしたちがそこにいたあいだじゅう、『ありがたいことだ、ありがたいことだ!………』を繰り返していました。細君はいつもより上等の食事をたっぷり目に注文しました。かみさんが自分で、この一家のために料理したのです。うちのかみさんはなかなかいいところのある女です。その料理ができるまで、ゴルシコフは、じっと落ちついていることができませんでした。呼ばれようが呼ばれまいが、みなの部屋へ顔をのぞけ、勝手にずっと入って行って、にやっと笑っていすに腰をおろし、なにかいって、……ときにはなんにもいわないこともあります、――それからすっと出て行くのです。海軍少尉のところではカルタを手にとったくらいです。そこで勝負の仲間に入れられたのですが、しばらくやって、勝負をめちゃめちゃに掻きまわしたあげく、三、四回でやめてしまいました。『いや、わたしはただほんのちょっと、ほんのちょっとやって見ただけなんで』といって、ぷいと出てしまいました。廊下でわたしに出会うと、わたしの両手をとってひたとわたしの顔を見つめましたが、その様子がどうも変なのです。わたしの手を握り締めて、絶えずにやにや笑いながらあっちへ行きました。その笑いかたが妙に重苦しくって、まるで死人みたいなんです。細君は嬉し泣きに泣いていました。みんなはうきうきして、お祭り気分になっていました。間もなく、この一家は食事をすましました。それから、食後に彼は細君に向かって、『わしはちょっと横になるよ』といって寝床に入りました。それから、女の子を枕もとへ呼んで、その頭に手をのせ、いつまでもいつまでもその頭を撫でていました。やがてまた細君のほうを振り向いて、『ときに、ペーチンカはどうした? うちのペーチャは、ペーチンカは?………』というのです。細君は十字を切って、あの子は死んだじゃありませんか、と答えました。『そうだ、そうだ、知っている、よく知っている、ペーチンカはいま天国にいるのだ』細君は、今度の出来ごとに気が顛倒して、うわの空になっているのだなと見てとって、『あなた、ちょっとひと寝入りなすったら』というと、『そうだ、よかろう、わしは今すぐ……わしはすこし……』といって、すぐにくるりと背を向けました。しばらく横になっていましたが、やがてふりむいてなにかいおうとしました。細君はよく聞き取れなかったので、『なんですの、あなた?』とききました。返事がないので、細君はしばらく待っていましたが、きっと寝入ったのだろうと思い、ちょっとかみさんのところへ、出かけて行きました。一時間ばかりして帰ってみると、夫はまだ目をさまさないで、じっと身動きもせず、横になっているのです。細君は眠っているのだろうと思って、腰をおろし、なにか仕事にかかりました。あとで話したことですが、半時間ばかり仕事をし、すっかりもの思いに沈んでしまって、何を考えたのか、それさえおぼえがないくらいだったそうです。ただ亭主のことさえ忘れてしまった、と当人がそういっています。突然、細君はなにかしら胸騒ぎがしてわれに返りました。すると、なによりもまず部屋の墓場のような静けさに、と胸をつかれました。寝台を見やると、夫はやはり前と同じ恰好で横になっているのです。細君はそばへ寄って、毛布をはねのけてみると、もう体じゅう冷たくなって、死んでいるじゃありませんか。ゴルシコフは死んでしまったのです、まるで雷にでも打たれたように頓死したのです。どうして死んだのか、それは神さまのみがごぞんじです。ヴァーリンカ、わたしはそのために非常な衝撃を受けて、いまだにわれに返ることができません。人間がああ無造作に死ねるなんて、なんだかほんとうにならないくらいです。あのゴルシコフはなんという気の毒な、不仕合わせな人でしょう! ああ、運命、なんという運命! 細君はあまり意外な打撃に泣きの涙でいます。女の子はどこかの隅っこに小さくなっています。なにしろ上を下ヘの混雑で、これから検視があるということですが……確かなことはわかりません。ただ気の毒です、ああ、ほんとうに気の毒です! こうして人間は、一日一時問のちのことも知れない身なのだと思うと、わびしい気がしてきます……あんなにあっけなく死んでいくとは……
[#地から10字上げ]あなたの
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 九月十九日
 ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナさま!
 取り急ぎお報らせいたします、ラタジャーエフが、ある作家のところでわたしの仕事を見つけてくれました。だれかしら、彼のところへ馬車を乗りつけて、分厚な原稿を持ちこんだのです。――おかげで仕事がうんとできました。ただひどくわかりにくい書体なので、どうして仕事にかかったらいいかわからないくらいです。早くしてくれとの注文です。なんだか妙なことばかり書いてあって、読んでもわからないような気がします。一枚四十コペイカということで折り合いました。こんなことをくわしく書き立てるのも、これであてにしなかった金が入ることとなったからです。では、きょうはこれで失礼します。わたしはさっそく仕事にかかります。
[#地から8字上げ]あなたの忠実な友
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 九月二十三日
 敬愛する友マカール・アレクセエヴィチさま!
 もうこれで三日間お手紙をさしあげませんでしたが、じつはその間、いろいろな心配ごとが山ほどあったのでございます。
 おとといブイコフ氏が訪ねてまいりました。ちょうどわたし一人きりで、フェドーラはどこかへ出かけたあとでした。扉をあけてあの人の姿を見たとき、わたしはもうびっくりしてしまって、その場に立ちすくんだほどです。わたしはわれながらさっと青くなったのを感じました。あの人はいつもの癖で、大声に笑いながら、入って来るなりいすを引き寄せて、腰をおろしました。わたしは長いあいだわれに返ることができませんでしたが、そのうちにとうとう片隅に坐って仕事をはじめました。あの人は間もなく笑いやみました。わたしの様子にはっとしたらしいのです。わたしは近ごろひどく痩せてしまって、頬も目も落ちくぼみ、ハンカチのように青い顔をしているのですもの……まったく一年前のわたしを知っていた人だったら、おそらく人違いかと思われるに相違ありません。あの人は長いこと、じっとわたしを見つめていましたが、そのうちにやっとまたうきうきしてまいりました。なんだのかだのいいましたが、わたしはそれになんと答えたかおぼえがありません。あの人はまた笑いだしました。まる一時間すわりこんで、長いことわたしと話をいたしました。いろいろと問いかけもしました。最後に、いよいよ別れの挨拶をしようというとき、あの人はわたしの手をとっていいました(わたしはあの人の言葉をそっくりそのままお伝えいたします)。『ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ! これはここきりの話ですが、あなたの親戚でわたしの親しい知人であり友人でもあるアンナ・フョードロヴナは、じつに卑劣な女ですねい(そのときもうひとつぶしつけな言葉で、あのひとをののしりました)『あの女はあなたの従姉をも邪道に引き入れたうえ、あなたまで破滅させてしまいました。それについて、わたしも卑劣漢にさせられてしまったわけですが、いや、なに、世間にはありふれたことですよ』といって、ありたけの声を張りあげて、からからと笑いました。それから、自分は口先の上手な人間ではないし、それに、説明を要する重要なことも、高潔な紳士の義務として黙っていられないこともいいつくしたから、あとは簡単に要領を得ることにするといって、自分はあなたに結婚の承諾をしていただきたいのだ、あなたの名誉を回復するのを自分の義務と心得ている、自分は金を持っているから、結婚後は曠野地方の持ち村へいっしょに引っこんで、そこで兎狩でもして暮らそうと思っている。ペテルブルグはいやなところだからもう二度と出て来ない。このペテルブルグには、あの人の言葉をかりると、やくざ者の甥が住んでいるが、この甥の相続権を剥奪することにしたので、そのために、つまり、法律上ちゃんとした相統人をこしらえたいためにあなたに求婚するので、これがこの縁談のおもな原因なのだ、ということでした。そのあとで、あなたはひどく貧しい暮らしをしていられるから、こんな豚小屋に住んで病気にならなければ不思議なくらいだといい、もうひと月もこのままに過ごしたら、あなたはかならず死んでしまうと申すのです。それから、ペテルブルグの住居はじつにひどいといって、最後に、何かお入用のものはありませんか、とたずねました。
 わたしはあの人の申込みに仰天してしまったものですから、自分でもなぜとも知らず泣きだしました。あの人はわたしの涙を感謝のしるしだと思って、あなたは優しい、情の深い、しかも教養のある娘さんだ、自分はいつもそれを確信していた、しかし自分が今度のことを決心したのは、あなたの現在の行状をくわしく調べたあげくなのだと申しました。そのとき、マカール・アレクセエヴィチ、あなたのことをも根掘り葉掘りして、あなたが潔白な人間だってこともすっかり聞いているというのです。自分としても、ジェーヴシキン氏に借りっぱなしにしておきたくないが、あなたのためにつくしてもらったいっさいの返礼に、五百ルーブリも氏にさしあげたら十分だろうか、とたずねました。わたしがそれに対して、マカール・アレクセエヴィチがしてくだすったことは、銭金でお礼のできるものではないと申しますと、あの人はそんなことはみんなくだらない、小説の中の話だ、あなたはあまり年が若いものだから、詩や小説ばかり読んでいるが、そんなものは若い娘にとって毒になる、書物は道徳を破壊するものであって、自分など書物はいっさい大きらいだ、といいました。それから、自分の年ぐらいまで生きてたら、そのときは人のことをかれこれいうのもよかろう、とさとしました。『そのときは人間ってものがわかるでしょう』とあの人はつけ加えました。さて、そのあとであの人は、自分の申込みをとくと思案してもらいたい、こういう重大な一歩をろくろく考えもしないで決行されたら不愉快だからといい、不用意と浮気は無経験な若いものを破滅させるものであるが、自分としてはこの際いろよい返事を心から待っているとつけ加え、最後に、もしこれがだめなら、自分はやむを得ず、モスクワで商人の後家さんと結婚するつもりである、なぜなら、やくざ者の甥から相続権を剥奪することにしたのだから、と申しました。あの人は無理やりにわたしの刺繍台の上に五百ルーブリ置いて行きました。あの人のいいぐさによると、お菓子代だとのことです。それから、いろいろのことをいいました。わたしが田舎へ行ったら、パン菓子のように肥るだろうの、万事円満に幸福に暮らせるだろうだの、自分はいま非常に忙しくって、いちんち用事で駆けまわっているのだが、きょうちょっと暇をみてここへ寄ったのだ、こんなことをいって、あの人は帰って行きました。わたしは長いこと考えました。とつおいつ考え直し、考えながら苦しみましたが、とうとう決心がつきました。わたしはあの人と結婚します、どうしても、あの人の申込みを承知しなければなりません。もしわたしの汚辱をそそぎ、わたしの名誉を取り戻し、将来わたしを貧困と欠乏と不幸から救ってくれるものがあるとすれば、それはほかでもない、あの人です。わたしとして、将来なにを期待できるでしょう、このうえまだ何を運命から求められるでしょう? フェドーラは、幸運を見のがしてはいけない、そんなことをしたら、仕合わせなんていったいどこにありますか、というのです。わたしはすくなくとも、自分のためにこれよりほかの道を見いだすことができません。いったいわたしはどうしたらいいのでしょう? わたしは働こうと思いましたが、そのためにすっかり体を悪くしてしまいました。絶えず働くなんてことは、わたしにはできません。それでは勤めにでも出たものでしょうか? そんなことをすれば、わびしさに痩せ細ってしまうでしょう。それに、わたしは人さまの気に入るようにはできないのです。生まれつき病身なために、いつも他人の荷厄介になってばかりいるでしょう。もちろん、いまだって、わたしは天国へ行っているわけではありませんけど、ほかになんとしようがありましょう、ほかにしようがないではありませんか? わたしとしては選択の余地はありません。
 わたしはあなたにご相談しませんでした。わたしは一人で考えたかったのです。ただ今ここに書いた決心はもう変わりません。わたしはさっそくそれをブイコフ氏に伝えるつもりでございます、あの人はそれでなくても最後の決心を聞きたいと、しきりにわたしをせき立てているのです。あの人はのっぴきならぬ仕事があって、さっそく出発しなければならないので、くだらないことのために延期するわけにはいかない、と申しています。わたしが仕合わせになるかどうかは、神さまだけがごぞんじでございます。わたしの運命はその神聖な、はかりしれないお力の中に握られています、がそれでも、わたしは決心いたしました。ブイコフ氏はいい人だということですから、わたしを尊敬してくれることでしょうし、わたしもあの人を尊敬するようになるかもしれません。それ以上わたしたちの結婚から、何を期待することがありましょう? わたしはあなたにすっかりお知らせいたしました、マカール・アレクセエヴィチ。わたしの悩ましい気持ちはよくわかってくださることと信じます。わたしを思い返させようなどとはなさいますな。そのお骨折りは無駄でございましょう。わたしにこういう決心をさせた事情を、ご自分の胸の中でよく量ってみてくださいまし。わたしもはじめはたいへん不安でしたけれども、今ではだいぶ落ちつきました。さきはどうなることやら、わたしにもわかりません。どうせなるようにしかならないので、何ごとも神さまのみこころのままでございます!………
 ブイコフ氏が見えました、この手紙は書きさしのままでおしまいにいたします、いろいろたくさん申しあげたかったのですが、もうブイコフ氏が入ってまいりました。
[#地から1字上げ]V・D

 九月二十三日
 ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ!
 とり急ぎお答えします。なによりもまず申しあげますが、にわたしはびっくり仰天しました。なにもかも見当ちがいのようで……きのうわたしたちはゴルシコフを埋葬しました。なるほど、そのとおりです、ヴァーリンカ、まったくそのとおりです。ブイコフ氏は紳士らしい行動をとったのです。ただ、その、なんです、それだから、あなたも承知されたのです。もちろん、何ごとも神さまのみこころのままです。それはそのとおりです。かならずそのとおりでなければなりません。つまり、これには神さまのみこころが働いているに相違ありません。天帝の摂理はいうまでもなくありがたいものであり、同時にはかりしることのできぬものです。またわれわれの運命、それもやはり同じことです。フェドーラもやはりあなたのことを、親身になって心配していることでしょう。もちろん、あなたはこれからさき幸福になって、なに不自由なくお暮らしでしょう。わたしの小鳩、わたしの愛する人、わたしの美しき人、わたしの天使、――ただそれにしても、ヴァーリンカ、なぜそんなに急なんでしょう?……なるほど、仕事がある……ブイコフ氏に仕事がある、――もちろん、だれだって仕事のないものはないのだから、あの人にもあるはずですが……わたしはあの人があなたの家から出て行くところを見ました。堂々として立派な男です、むしろあまり堂々としすぎているくらいです。しかし、どうもたんだか見当ちがいのことに思われます。あの人が立派な男であろうとなかろうと、そんなことが問題なのじゃありません。それに今は、わたしもなんだか上の空の気持ちでいます。ただこれからさきわたしたちは、どうしておたがいに手紙をやり取りするのでしょう? わたしは、わたしは一人で取り残されて、いったいどうなるのでしょう。わたしの天使、わたしはすべてを量ってみています、あなたの手紙に書いてあるとおり、心の中ですっかり量ってみました。そのわけを量ってみました。わたしはもう二十枚目の浄書を終わろうとしていたところへ、この事件が降って湧いたのです! ヴァーリンカ、これからあなたは出発しようとしていらっしゃるのですから、なにかと買物もなさらなければならないでしょう。いろいろの靴だとか、着物だとかがご入用でしょう。それならちょうどゴローホヴァヤ街にわたしの懇意にしている店があります。前にくわしくお話したことがありますが、おぼえておいでですか。――いや、いけません! とんでもない、そんなことができるものですか! あなたは今すぐ出発することなんかできません、どうしたってできません、断然できません。だって、あなたはいろいろまとまった買物をしなければならないし、馬車の注文もしなければなりません。おまけに、今ひどい天気で、篠《しの》つくような雨が降っています。ごらんなさい、たいへんな土砂降りで、それに……それにあなたは寒い目をなさらなければなりません、わたしの天使、あなたの心が寒々とすることでしょう! あなたはなじみの薄い人を恐れていらっしゃるくせに、やはり出発しようとしていらっしゃる。いったいわたしは一人ここに残って、だれを頼りにしたらいいのでしょう? そうそう! フェドーラが、あなたの行く手には大きな仕合わせが待ち受けているといいましたが……しかし、あれは気の荒い女で、わたしを破滅させようとかかっているのです。あなたはきょう、夜祈祷にいらっしゃいますか? わたしはそこであなたにお目にかかりたいと思います。あなたが教養のある、情の優しい淑女だということはほんとうです、正真正銘の事実です。しかし、それにしても、いっそあの人が商人の後家さんと結婚したら、と思います! あなたはどうお思いになりますか? まったく商人の後家さんと結婚したほうがいいのです! ヴァーリンカ、わたしは暗くなり次第、ちょっと一時間ばかりお邪魔にあがります。このごろは早く暗くなりますから。日が暮れ次第とんで行きます。きょうはぜひとも一時問ばかりお邪魔にあがります。今あなたはブイコフ氏を待っておいでなんでしょう、あの人が帰ったら、そのときは……とにかく待っていてください、わたしはすぐとんで行きますから……
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 九月二十七日
 わたしの親友マカール・アレクセエヴィチ!
 ブイコフ氏はわたしに、オランダ麻の下着を三ダースどうしてもこしらえなければならないと申します。ですから、二ダース分縫わせるために、一刻も早く下着専門の裁縫女を見つけなければなりません。それに、時日が、ほんとうにいくらもないのです。ブイコフ氏は腹を立てて、こんなくだらないことのために世話がやけてたまらない、と申しています。わたしたちの結婚式は五日さきで、式の翌日はもう出発です。ブイコフ氏はしきりにあくせくして、つまらないことにそう暇をつぶすことはいらない、というのです。わたしは気ばかり揉むので疲れてしまって、立っているのもやっとの思いです。仕事が山ほどあって、まったくのところ、こんなことなんかまるでなかったらいいのに、と思われるくらいです。それから、もう一つ、わたしのところには絹レースと普通のレースが足りませんので、これも買い足さなければなりません。なにぶんブイコフ氏が、家内に女中のようなふうをさせて歩かせるわけにはいかない、おまえはぜひとも『近所の地主の細君たちに鼻を明かさせ』てやらなければならないのだと申すのでございます。自分でそんなふうに申しております。そこで、マカール・アレクセエヴィチ、お願いですから、ゴローホヴァヤ街のシフォン夫人のところへ手紙なりお出しになって、まず第一にわたしのところへ下着専門の女をよこすことと、第二には、ご苦労ながら自分でもちょっと来てもらいたい、とかけあってくださいまし。わたしはきょう、気分がすぐれませんの。今度の新しい家はとても寒くって、ひどくごたごたしています。ブイコフ氏の伯母さんというのは年のせいで、生きているというのも名ばかりなのです。わたしは、出発までにこのひとが亡くなりはしないかと、心配なのですが、ブイコフ氏は、なに、大丈夫、いまに正気づくだろうと申しています。家の中はてんやわんやの騒ぎです。ブイコフ氏は、わたしどもといっしょには暮らしていないものですから、召使どもはみんなどこかへちりぢりばらばらになってしまうのです。どうかすると、フェドーラだけがわたしたちの用をすることもございます。ブイコフ氏の執事などは、万事の取り仕切りをしなければならない身でありながら、もうこれで三日というもの、どこへやら姿を消してしまいました。ブイコフ氏は毎朝ちょっと寄って行きますが、いつも腹ばかり立てていて、きのうも一番頭をなぐったりしたものですから、そのために警察とごたごたがおこったような始末……そういうわけで、あなたに手紙を持たせてやる人もございません。この手紙も市内郵便でさし出します。そうそう! あやうくいちばん大事なことを忘れるところでした。シフォン夫人にそういってくださいませんか、絹レースはきのうの見本どおりにぜひ型を替えるように、それから新しい品を持って、自分でわたしのところへ来るようにとお伝え願います。それからもう一つ、刺繍のことは考え直してみたら、毛糸でぬいとったほうがいいと思いますから、そうおっしゃってくださいまし。それから、まだあります、ハンカチの頭文字はタンブール式([#割り注]円枠ぬい[#割り注終わり])で縫いとることにします。おわかりになりまして? タンブール式で、平の刺繍ではございません。ようございますか、タンブール式ということをお忘れにならないで! ああ、もう一つ、すんでのことで忘れるところでした! 後生ですから、肩掛の木の葉模様は浮きあがりにして、蔓ととげはコルドネ([#割り注]ひもぬい[#割り注終わり])にするように、それから、襟のところはレースをつけるか、それとも幅広のファルバラ([#割り注]ふちかざり[#割り注終わり])にするように、おっしゃってくださいまし。どうぞお取次ぎを願います、マカール・アレクセエヴィチ。
[#地から4字上げ]あなたの
[#地から1字上げ]V・D

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二伸 あなたにはいろんなご用でお骨折りをかけて、わたしほんとうに気がさしてまいります。現におとといもあなたは午前中、方々駆けまわってくだすったのですからね。でも、いたしかたがございません! わたしどもの家の中はめちゃめちゃの乱脈ですし、肝腎のわたしが気分がすぐれないのでございます。そういうわけですから、どうかわたしに腹をお立てにならないでくださいまし、マカール・アレクセエヴィチ。なんだか気がふさいでしようがありません! ああ、このさきいったいどうなることでしょう。わたしの優しい親切なお友達、マカール・アレクセエヴィチ! 未来をのぞいてみるのも恐ろしいようでございます。なんだかしじゅう妙な予感がして、まるでなにか毒気の中で暮らしているような思いがします。
[#ここで字下げ終わり]

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三伸 お願いですから、ただ今わたしの中しましたことを、お忘れにならないでくださいまし。ひょっとお間違いになりはしないかと心配でたまりません。よろしゅうございますか、タンブール式で、平の刺繍ではございません。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]V・D

 九月二十七日
 ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナさま!
 ご依頼の件はぜんぶ落ちなく果たしました。シフォン夫人の申しますには、自分も前からタンブール式に縫いとりをしようと思っていた、とのことです。このほうが上品なのだ、とかなんとか申しましたが、わたしにはよくわかりません。はっきりのみこめなかったのです。それから、またあなたのお手紙にはファルバラと害いてありましたが、あのひともやはりファルバラのことを申しておりました。ただ、ファルバラがどうだといったのか、忘れてしまいました。わたしがおぼえているのは、やたら無性にしゃべり散らしたということだけです。なんといういやな女でしょう! ええと、なんでしたっけ? まあ、いずれあの女が自分ですっかりあなたに話すでしょう。わたしはへとへとに疲れてしまいました。きょうは役所へも出勤しなかったくらいです。しかし、あなたはそんなにやきもきなさることはありません。あなたを安心させるためなら、わたしは街じゅうの店を駆けまわるのさえいといません。お手紙には、未来をのぞいて見るのが恐ろしいと書いてありましたね、しかし、今晩の六時過ぎにはなにもかもおわかりになるでしょう。シフォン夫人が自分で、お伺いするといっています。ですから、あまりやきもきしないでください。希望を持たなければなりません。おそらくなにもかも良いほうに向かっていくでしょう。――そうですとも。ただわたしはなんですか、あのいまいましいファルバラが頭にこびりついて、――ええ、あのファルバラ、ファルバラ! わたしはちょっとお邪魔にあがりたいのです、わたしの天使、ほんとうにぜひともお邪魔にあがりたいので、これまでもう二度もお宅の門ぎわまで行ったのですが、どうもあのブイコフが、いや、これはしつれい、ブイコフ氏が怒りっぽい人だものですから、どうも、その……いや、今さら何をいったところではじまりません!
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 九月二十八日
 マカール・アレクセエヴィチさま! 後生ですから、宝石屋までひと走りしてくださいまし。そして、真珠とエメラルドの耳環はこしらえないでもいいとおっしゃっていただきとうございます。ブイコフ氏はあまり贅沢すぎる、これではやりきれない、と申しています。あの人はぷりぷり腹を立てて、それでなくても財布の口をあけることが多いのに、これではまるで追剥ぎに出あったようなものだと申します。きのうなんかも、こんなに費用がかさむことを前から知っていたら、かかり合うんじゃなかったのに、といいました。で、式がすんだらさっそくたつことにする、お客などは招ばないから、おまえも踊ったり跳ねたりするつもりでいてはたらない、そんなお祭騒ぎはいつのことかわからないぞ、とこんなふうに申しています! いったいそんなものがわたしに必要なんでしょうか、神さまもご照覧あれ、といいたくなります! なにもかもブイコフ氏が自分で注文したんですのに。でも、わたしは言葉を返す勇気もありません、あの人とても癇が強いんですから。いったいわたしはどうなるのでしょう?
[#地から1字上げ]V・D

 九月二十八日
 愛するヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ!
 わたしは、――いや、宝石屋はよろしいと申しました。わたしははじめ自分のことをいいたかったのですが、とうとう病気になってしまって、床を離れることができません。ちょうどいま、忙しい大切なときになって、いまいましい、風邪を引いてしまったのです! それから、なおお知らせしますが、悪いときには悪いもので、閣下までがたいへん気むずかしくおなりになって、エメリヤン・イヴァーノヴィチをさんざんどなりつけて、叱りとばしたあげく、しまいにはお気の毒な、すっかりご自分でもへとへとになっておしまいになりました。わたしはなにもかもあなたにお知らせします。それから、まだなにか書きたいと思いますが、ただあなたにご迷惑になりはしないかと心配です。わたしはご承知のとおり、ばかなつまらない人間ですから、なんでも思い浮かべたことをそのまま書いてしまいます。で、万一あなたがなにかその……いや、今さら何をいったってはじまりません!
[#地から10字上げ]あなたの
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 九月二十九日
 わたしの親しいヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ!
 きょう、わたしはフェドーラに会いました。あれの話によると、あすはもうあなたがたの結婚式、あさっては出発ということになっているので、ブイコフ氏はもう馬を雇われたそうですね。閣下のことについては、もはやお知らせしました。それから、――ゴローホヴァヤ街の店の勘定はわたしが調べてみました。ぜんぶ間違いありませんが、しかしおそろしく高いですね、それにしても、ブイコフ氏はなぜあなたに当たり散らすのでしょう? まあ、どうか仕合わせでいてください! わたしは嬉しいです、さよう、もしあなたが仕合わせでいてくだされば、わたしも嬉しいのです。わたしは教会へ行きたいのですが、それができかねます、腰が痛むものですから。そこで、また手紙のことですが、いったいこれからだれがわたしたちの手紙を取り次いでくれるのでしょう? そう、そう! あなたはフェドーラにけっこうな贈り物をなすったそうですね! わたしの親しい人、それはいいことをなさいました、じつにいいことをなさいました。それは善行です! あなたが善行をなされば、神さまはその一つ一つに対して、あなたを祝福してくださいます。善い行ないというものは、報いられずして終わることはありません。善行は遅かれ早かれ、かならず神の正義という冠によって飾られるものです。ヴァーリンカ! わたしはあなたにいろいろたくさん書いてお送りしたい。一時間ごと、一分ごとに絶えず書いて書いて、書き続けていたいのです! わたしの手もとにあなたの本が一冊残っています、『ベールキン物語』ですが、どうでしょう、あれはどうか取り返さないで、わたしへの贈り物にしてください、お願いです。それはべつに読みたくてたまらないからではありませんが、ご存じのとおり、やがて冬が近づいて、夜長のころになると、ものわびしくなって来ますから、そのときちょいちょい読んでみたいのです。わたしは今の下宿を引き払って、もとのあなたの部屋に移ります、フェドーラから又借りするつもりです。わたしは今後、あの正直な女と一生はなれません。それに、あれはなかなかの働き者です。きのう、わたしはあなたの越したあとのあき間をよく見ました。そこにはあなたの刺繍台が残っていて、しさしの刺繍がそのまま、手つかずに置いてありました。隅のほうに片づけてあるのです。わたしはあなたの刺繍もじっと眺めました。まだそのほかいろいろの小切れなども残っていました。わたしの手紙の一つに糸を捲きさしにしていらっしゃいますね。テーブルの上に紙切れがあったので、見ると、それには『マカール・アレクセエヴィチさま、とり急ぎ』とだけ書いてありました。察するところ、だれかがいちばんかんじんなところで腰を折ったものと見えます。片隅の衝立のそばにはあなたの寝台があって……ああ、わたしの愛する人よ! では、さようなら、さようなら。どうかすこしも早くなんなりとご返事をください。
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 九月三十日
 限りなく尊い友マカール・アレクセエヴィチ!
 いっさいは終わってしまいました! わたしの運命は定まったのでございます。どうなることか知りませんが、わたしは神のみこころに従うばかりでございます。あすは出発します。これがあなたとの最後のお別れでございます、限りなく尊いわたしの友、わたしの恩人、わたしのだれより親しい人! わたしのことをくよくよお思いにならないで。仕合わせにお暮らしなさいまし、わたしのことをお忘れにならないよう、そして神さまの祝福があなたの上にありますよう! わたしは心の中でも、お祈りのときにも、しょっちゅうあなたのことを思い出すでしょう。これでいよいよこの時代も終わりを告げました! わたしは過去の思い出の中から新しい生活の中へ、あまり喜ばしいものを持って行くことはできません。それだけに、なおあなたについての思い出は、わたしにとって尊いものとなります。それだけになお、あなたというかたはわたしの胸にとって尊いものとなります。あなたはわたしにとってたった一人の親友です。ここでわたしを愛してくだすったのは、あなた一人だけでございます。あなたがどんなにわたしを愛してくだすったかは、わたしすっかり見ておりました。すっかり知っておりました! あなたはわたしのほほ笑み一つだけで、わたしの手紙の一行だけで、幸福を感じてくださいました。あなたはこれから、わたしのいない生活に馴れていらっしゃらなければなりません! ここにただ一人とり残されて、あなたはどんなにお暮らしになるでしょう? だれを頼りにしてここにお残りになるのでしょう、親切な、限りなく尊い、かけがえのないわたしのお友達! お申し越しの本と、刺繍台と、書きさしの手紙は、あなたにさしあげます。あの書きかけの手紙をごらんになるとき、心の中でそのさきを続けて読んでくださいまし、あなたがわたしから聞きたいとお思いになること、わたしがあなたに書いてさしあげそうなこと、なんでもご自由にお読み取りくださいまし、今なら、わたしはどんなことだって書けそうな気がしますのに! あなたを心から愛していたかわいそうなヴァーリンカのことを、思い出してくださいまし。あなたのお手紙はみんなフェドーラの箪笥の中に残してあります、いちばん上のひきだしでございます。お手紙によりますとご病気とのことですが、ブイコフ氏がきょうはわたしをどこへも出してくれません。でも、さきざきお手紙をさしあげます、それはお約束いたしますが、どういうことがおこるか、神さまでなければわかりません。そういうわけですから、一応これで永久のお別れをいたしましょう、なつかしく親しいわたしの友、永久にさようなら!……ああ、わたしは今どんなにあなたと最後の抱擁をかわしたく思っているでしょう! さようなら、わたしのお友達、さようなら、さようなら。幸福にお暮らしください。どうぞお達者で。わたしは永久にあなたのことを祈っております。ああ、この寂しさ、胸を押し潰されそうでございます。ブイコフ氏がわたしを呼んでおります。
[#地から4字上げ]永久にあなたを愛する
[#地から1字上げ]V

[#ここから1字下げ]
二伸 わたしの胸はいま涙でいっぱい、それこそいっぱいなのです……涙がわたしの胸を締めつけ、引き裂きそうでございます。さようなら。ああ、なんというわびしさでしょう!
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 あなたのかわいそうなヴァーリンカをお忘れにならない で、いつまでも。
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 わたしの愛する、限りなく尊いヴァーリンカ! あなたは連れて行かれるのです、たっていらっしゃるのです。そうだ、あなたを奪い去られるくらいなら、いまわたしの胸から心臓をつかみ出されたほうがましです! あなたはいったいどうなすったのです? 現にあなたは泣いていらっしゃるではありませんか、それなのに、たっておしまいになる? たった今あなたの手紙を受け取りましたが、一面に涙のしみだらけ。してみると、あなたは行きたくないのです。してみると、あなたは無理に連れて行かれるのです。してみると、あなたはわたしがかわいそうなのです。してみると、あなたはわたしを愛してくださるのです! いったいあなたはこれからどんなふうに、だれと暮らしていらっしゃるのでしょう? 向こうへ行けばあなたは心寂しく、やるせなく、寒々とした気持ちでしょう。あなたの心は悲しみに血の気を吸い尽され、やるせなさに引き裂かれるでしょう。あなたがそちらで死んでしまって、冷たい土に埋められても、だれもあなたのために泣く者はないでしょう! ブイコフ氏はいつも兎狩ばかりしているのですから……ああ、ヴァーリンカ、ヴァーリンカ! なんだってあなたはそんな決心をしたのです? どうしてそんな思いきったことを断行できたのでしょう? あなたはなんということをしたのです、ほんとうになんということをしたのです、われとわが身に対して、なんということをしたものでしょう? 向こうへ行ったら、あなたは棺の中へ叩きこまれてしまいます、みんなであなたをいびり殺してしまいます。わたしの天使、あなたは羽のように弱い体をしているのじゃありませんか! それに、わたしもいったいどこにいたのでしょう? 現在ここにいながら、何をばかみたいにぼんやり見ていたのでしょう! いわば子供が気まぐれをして、頭が痛いといってるようなものだから、なにかちょっと手当てでもしてやればよいものを、――その気もつかずばかのようにぼんやりして、自分はこれでいいのだといわんばかりに、自分になんの関係もないことのように、なにひとつ考えもしなければ日にもとめず、おまけに、ファルバラなどのことで駆けずりまわっていたのだ!………いや、ヴァーリンカ、わたしは寝てなぞいられない。あすまでには病気も直るだろうから、床を離れます!………わたしの轍の下へ身を投げて、あなたをたたせないようにします! だめです、ほんとうにこんなことってあるものですか? なんの権利があって、そんなことができるのでしょう? わたしはあなたといっしょに行きます。乗せてくれなければ、あなたの馬車のあとから駆けて行きます。力のあるかぎり、息の続くかぎり駆けて行きます。しかし、あなたはそこがどういう所か知っていますか、どこへいらっしゃるのかご承知ですか。あなたはおそらく、ごぞんじないでしょう、それならわたしにおたずねなさい! そこは曠野です、それこそ曠野も曠野、真っ裸の曠野です、わたしのこの掌と同じように一木一草もないのです! そこを歩いているのは、人情もない百姓女です、無教育な百姓です、それに酔っ払いがうろついています。そこでは今ごろ、樹々の葉も落ちつくして、雨がしとしと降って、寒々としている、――そこへあなたは出かけて行くのです! なるほど、ブイコフ氏はそこに用事があるでしょう、あの人は兎といっしょに暮らすことでしょう。が、あなたはいったいなにをするのです? あなたは女地主になりたいのですか、わたしの天使? しかし、あなたに女地主らしいところがあるかどうか、よく自分で見てごらんなさい、……どうして、そんなことがあってよいものですか、ヴァーリンカ! それに、わたしはこれからだれに宛てて手紙を書いたらいいのでしょう? そうです! あの男はこれからだれに宛てて手紙を書くのだろうと、あなたもそれを考えてみてください。またわたしはこれからだれを『わたしの天使』といって呼んだものでしょう、このなつかしい言葉で、いったいだれを呼んだものでしょう? こののち、どこであなたを見いだすことができるでしょう? わたしは死にます、ヴァーリンカ、かならず死にます。わたしのこの胸はこのような不幸に堪えきれません! わたしはあなたをこの世の光のように愛していました、生みの娘のように愛していました、あなたという人を何から何まで愛していました! わたしはただあなただけのために生きてきたのです! わたしが働いたのも、書類を書いたのも、歩いたのも、散歩したのも、隔てのない手紙という形式で自分の観察を紙に伝えたのも、なにもかもあなたがここにいたからです、すぐ真向かいに、目と鼻のあいだにいたからです。あなたはそれをごぞんじなかったかもしれませんが、それはまったくそのとおりだったのです! まあ、考えてもみてください、あなたがわたしたちを離れて行ってしまうなどということが、どうしてありうるでしょう? わたしの親しい人、あなたはたって行くわけにはいきません、不可能です、ただなんとしても絶対に不可能なのです! 現にこのとおり雨が降っているのに、あなたは弱い体をしていらっしゃるから、風邪を引いてしまいます。あなたの馬車はぐしょ濡れになります。きっとぐしょ濡れになってしまいます。そして、街の外へ出るが早いか、こわれてしまうでしょう、わざとでもこわれるに相違ありません。なにしろ、このペテルブルグでこしらえる馬車は、じつにひどいものですからね! わたしはここの馬車屋をみんな知っていますが、あの連中はただしゃれた、お体裁のいい、玩具みたいなものをこしらえさえすればいいので、もちの悪いことおびただしい! 誓っていいますが、もちが悪いのです! わたしはブイコフ氏の前にひざまずいて、なにもかもいってしまいます、すっかりいってしまいます! だから、あなたもいってください!………ことをわけていって聞かせてください! 自分はいっしょに行くわけにはいかない、ここに残るといってください!……ああ、どうしてあの人はモスクワで商人の後家さんと結婚しなかったのでしょう! ほんとうにそうすればよかったものを! あの人には商人の後家さんのほうがよかったのだ、そのほうがずっと似合ったのだ。なぜかというわけは、わたしがちゃんと知っている! わたしはここであなたをそばに引きとめて置きたかった。いったいあの人が、あのブイコフが、あなたにとってなんだというのです? どうしてあの男が急にあなたの気に入ったのでしょう。もしかしたら、あの男がファルバラとかなんとかを買ってくれるからですか、そのせいなんですか? しかし、ファルバラがいったいなんですか? ファルバラなんか何にするのです? そんなものはくだらないものです! 人間一人生きるか死ぬかというときに、そんなファルバラなんてぼろきれが何になります、そんなものはただの屑じゃありませんか! なに、わたしだってやがて俸給を受け取ったら、そんなファルバラなんかいくらでも買ってあげます、買ってあげますとも。現に懇意な店が一軒ありますから、ただ俸給日まで待ってくださればいいのです、わたしの天使、ヴァーリンカ! ああ、なんということだ! それでは、あなたはどうあっても、ブイコフ氏といっしょに曠野へ立ってしまうのですか、永久に行ってしまうのですか! ああ、あなた! それはいけません、もう一度手紙をください、もう一度なにもかもくわしく書いた手紙をください。出発したら、そこからも手紙を書いてください。さもないと、これが最後の手紙になるじゃありませんか、わたしの天使、これが最後の手紙になるなんて、そんなことがあってたまるものですか! 急にこれが否応なしに最後の手紙だなんて、いったいどうしたことでしょう。いや、わたしは書きます、だから、あなたも書いてください。だって、わたしの文章もこのごろ調子が整って来たのに……ああ、文章なんかどうだってかまわない! いまわたしは何を書いているのかわからない、何がなんだかいっさいわからない。読み返しもしません、文章も直しません、ただ書くために、ただすこしでも余計にあなたに書くために書いているのです……わたしの愛する人、なつかしい人、わたしのヴァーリンカ!



底本:「ドストエーフスキー全集 1」河出書房新社
   1969(昭和44)年10月30日初版
入力:いとうおちゃ
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