『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『貧しき人々』(ドストエフスキー作、米川正夫訳)P057-P106(1回目の校正完了)

取らしてくれ、その天の甘露のような涙をわしに飲ませてくれ……この世のものとも思えぬジュレイカよ!
「――エルマーク、とジュレイカはいった。――この世は憎しみに満ち、人はよこしまです! 彼らはわたくしどもを責めるでしょう、わたくしどもをそしるでしょう、いとしいエルマーク! なつかしいシベリアの雪にかこまれて、父のテントに生い立ったこの哀れな娘が、氷のように冷たい自分勝手で薄情なあなたがたの世界に入って、いったいなにをすることができましょう? 人々はわたしをわかってくれないでしょう、いとしい大事なエルマーク
「――そのときはコサックの剣が風を切って、彼らの頭上に打ちおろされるであろう! とエルマークは怪しく目を光らせながら叫んだ」
 ヴァーリンカ、このジュレイカが殺されたと知ったときのエルマークの心は、どんなだったでしょう。目のくらんだ老いたるクチュームは、夜の闇に乗じてエルマークの留守にその幕営に忍び入り、わが娘を斬り殺したのです、自分から笏《しゃく》と王冠を奪ったエルマークに、致命的な打撃を与えようと思って。
「――あの鉄と石とが触れ合って、相摩する音がわしにはこころよい! とエルマークはシャーマンの石でおのが剣を磨きながら、ものすごい憤怒にまかせて叫んだ。――わしは彼らの血がいるのだ、血が! わしは彼らを斬って、斬って、斬りまくってやる!!」
 こういうことがいろいろあったのち、エルマークジュレイカを失って生きてゆく力がなく、イルティシュ河に身を投げて、それで物語が終わるのです。
 それから、たとえば、こんなのはどうでしょう。ちょっとした小さな断片、滑稽な作風のもので、要するに読者を笑わせるために書いたものです。
「諸君はイヴァン・プロコーフィチ・ジェルトプーズをごぞんじですか? そら、例のプロコーフィ・イヴァーノヴィチの足に噛みついた男。イヴァン・プロコーフィチは一刻《いっこく》な気性ですが、そのかわり珍しく正直な善人です。それに反してプロコーフィ・イヴァーノヴィチは、蕪に蜜をつけて食べるのが大好きです。そこで、ペラゲーヤ・アントーノヴナが彼と親しくしていた時分……ときに、ペラゲーヤ・アントーノヴナをご存じですか? そら、例のいつもスカートを裏返しにはいているあのひとです」
 ねえ、じっさいこれは滑稽でしょう、ヴァーリンカ、まったく滑稽じゃありませんか! 彼がこれを朗読したとき、わたしたちは腹をかかえて笑いましたよ。いやはや、なんという男でしょう! なるほど、すこしばかりこしらえものらしくて、どうもあまり悪ふざけすぎるけれども、そのかわり無邪気で、すこしも自由思想めいたものがありません。おことわりしておきますが、ラタジャーエフは品行方正な人間で、したがって立派な作家です、ほかの文士連中とは違います。
 ところで、どうでしょう、ときどきほんとうにこんな考えがわたしの頭に浮かんで来るのです。どうでしょう、もしわたしがなにか書いたとしたら、そのときはどうなるでしょう? まあ、早い話が、かりに突然ひょっこりと『マカール・ジェーヴシキン詩集』という題の本が世に出たとしましょう! そのときはいったいあなたはなんとおっしゃるでしょう? いったいどんな気がして、なんとお考えになるでしょう? わたしの気持ちを申しあげるなら、もし自分の本が出たら、わたしはそのときネーフスキイ通りに、顔出しもできなくなるでしょう。もし通る人が一人一人、ほら、あすこを行くのが、作家で詩人のジェーヴシキンだよ、ほら、あれがたしかにジェーヴシキンだよ、なんていうようになったら、いったいまあどんなものでしょう! そうなったら、たとえば、わたしの靴などはどうしたらいいでしょう? ついでながら申しあげますが、わたしの靴はほとんど年じゅうつぎが当たっていて、裏皮は正直なところ、ときどきぶしつけ千万にも、ぱくぱく口を開くのです。そこで、文士のジェーヴシキンの靴がつぎだらけだ、なんていうことをみんなに知られたら、そのときはいったいどんなものでしょう! かりに、どこかの子爵夫人とでもいう人がそれを知ったら、まあ、なんといわれるでしょう? ご当人はもしかしたら気がつかないかもしれません。なにしろ子爵夫人が靴、しかも役人の靴などにかまっていられるはずがないと思います(じっさい、靴にもピンからキリまでありますからね)。しかし、人がその子爵夫人に話して聞かせます。わたしの友達がすっぱぬいてしまうでしょう。さよう、ラタジャーエフなど真っ先に立ってやるでしょう。あの男は、V伯爵夫人の家へ出入りしているのですからね。なんでもうわさによると、いつもその邸に出入りして、招待がなくても自由に訪ねて行くのだそうです。夫人はなかなか文学通で、たいした貴婦人だとの話です。なかなかのしたたか者ですよ、このラタジャーエフは! しかし、こんな話はもうたくさんです。わたしがこんなことを長々と書いたのは、あなたに気晴らしをさせたさのいたずら半分なんですよ。さようなら、わたしの天使。ずいぶんいろんなことを書き散らしましたが、それというのは、きょう非常に愉快な気持ちになっているからです。わたしたちはきょう、みんなといっしょにラタジャーエフのところで食事をしましたが、そのとき(どうもみんないたずらっ子ばかりでしてね!)たいへんな洒落や冗談を連発するのです……が、こんなことをあなたに書き立てることはなかったのだ! ただおことわりしておきますが、わたしまでを、どうのこうのと疑らないでください、ヴァーリンカ。わたしはただなんの意味もなしに書いたのです。本はお送りいたします、きっとお送りいたします、ここでは、ポール・ド・コックの書いたある本が引っ張り凧になっていますが、しかしポール・ド・コックはあなたには読ませません、けっして、けっして――ポール・ド・コックは、あなたには不向きです。なんでもこの小説家は、ペテルブルグの批評家という批評家に、義憤を感じさせているという話です。お菓子を一斤お届けします、――わざわざあなたのために買ったのですから、どうか、よろしくめしあがれ。そして、一つ食べるたびに、わたしのことを思い出してください。ただ氷砂糖は噛まないでしゃぶるだけになさい。でないと、歯がみんな悪くなってしまいます。ときに、あなたは砂糖漬の果物はお嫌いですか?かご返事をください。では、さようなら、さようなら。ご機嫌よう。
[#地から4字上げ]永久にあなたのために最も忠実なる友
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 六月二十七日
 マカール・アレクセエヴィチさま!
 フェドーフが申しますには、もしわたしがその気になりさえすれば、あの人たちが喜んでわたしに肩を入れ、あるいいお邸の家庭教師の口を世話してくれるとのことです。あなた、どうお考えになります、行ったものでしょうか、それともよしたものでしょうか? もちろんそうすれば、わたしはあなたの荷厄介にもならずに済みますし、それにとてもいい口らしいのでございます。でも、一方から考えると、知らない家へ入って行くのは、なんだかそら恐ろしい気もいたします。それはどこかの地主だそうでございます。やがてわたしのことを知って、いろいろともの珍しさに根掘り葉掘りすることでしょう、――まあ、そのときはわたし、なんて返事ができるでしょう? おまけに、わたしは野育ちの、人づきの悪いたちですから、住み馴れた隅っこにいつまでも、じっと落ちついているのが好きなんですの。なんといっても、馴れたところのほうがよろしゅうございます。半面、つらいことがあるにもせよ、やっぱりそのほうが楽です。おまけに、その口は地方行きで、しかもどんな仕事をするのかもわからないんですの。もしかしたら、ただ子供のお守りをさせられるだけかもしれません。そのうえに、二年間にもう三度も、家庭教師を取り替えたという家なんですからね。マカール・アレクセエヴィチ、お願いですから、行ったものかどうかご意見を聞かせてくださいまし。だいいち、あなたはどうしてご自分でわたしどもへいらしてくださいませんの? たまにはお顔を見せてくださいまし、ただほんの日曜日の昼祈祷に顔を合わすだけですもの。あなたもよくよく、交際ぎらいなおかたですね! まるでわたしと同じですわ! だって、わたしはあなたにとってほとんど身内も同然じゃありませんか。あなたはわたしを愛していてはくださらないんですね、マカール・アレクセエヴィチ、わたしはときおり一人でいると、寂しくってたまらなくなって来るんですの。ときおり、わけても日暮れがたなど、フェドーラがどこかへ出て行って、ただ一人ぽつねんと坐ったまま、じっとしきりに考えていると、過ぎ去ったことが何から何まで思い出されてきます、――嬉しかったことも、悲しかったことも、残らず目の前をかすめていって、まるで霧の中から浮き出すように現われてくるのです。それからそれへと、知った人の顔が浮かんできて(わたしはほとんど、うつつに幻を見るようになりました)、母の顔などはだれよりもしょっちゅう現われてまいります……それから、わたしの見る夢といったら! わたしは健康がそこなわれてきたような気がいたします。すっかり弱ってしまって、けさなども床から起きあがると、急に気分が悪くなったくらいです。そのうえに、とてもいやな咳が出るようになりましたの! わたし、間もなく死にそうな感じがします、それはわかっています。そうしたら、いったいだれがわたしを葬ってくれるのでしょう? だれがわたしの棺のあとについて来てくれるのでしょう? だれがわたしのことをかわいそうに思ってくれるのでしょう!………もしかしたら、知らぬ他国で、見ず知らずの他人の家で、馴れない隅っこで死ぬようなめぐり合わせになるのかも知れません!………ああ、生きていくのはなんて味けないことでしょう、マカール・アレクセエヴィチ! ときに、あなたはなんだってのべつ、わたしにお菓子ばかり食べさせようとなさるんですの? どこからそんなお金を手にお入れになるのか、わたしほとほと合点がいきませんわ。ああ、後生ですから、お金を大事にしてください、ほんとうに大事にしてくださいね。フェドーラがわたしの縫い上げた敷物を売りにまいります。おさつで五十ルーブリ出す人があるそうでございます。たいへんけっこうなことで、わたしはそうはなるまいと思っておりました。わたしはフェドーラに三ルーブリやって、自分でも着物を一枚つくることにいたします。ほんのちょっとした、暖かそうなのにいたします。あなたにも、チョッキをこしらえてさしあげましょう、自分でこしらえます、生地もいいのを見立ててまいります。
 フェドーラが『ベールキン物語』という本を手に入れてくれましたから、もしお読みになりたければお送りいたします。でも、どうか汚さないで早くお返しくださいまし。人の本ですから。それはプーシキンの作でございます。二年前に、わたしはこの本を母といっしょに読んだことがありますので、今度それを読み返すのがとても悲しゅうございました。もしお手もとになにか本がありましたら、お送りくださいましな。ただし、ラタジャーエフからお借りになったものでないという条件つきです。あの人はなにか自分のものが本になっていたら、きっとそれをよこすに違いありませんもの。どうしてあなたはあの人の作ったものなんかがお気に入るのでしょうね、マカール・アレクセエヴィチ? あんなくだらないもの……では、さようなら! とんだおしゃべりをしてしまいました! わたし気が沈むときには、なにかおしゃべりしたくなるんですの。それが薬になって、すぐ気持ちが軽くなってまいります。ことに胸に溜まっていることをすっかりいってしまったときには、なおさらでございます。では、さようなら、さようなら!
[#地から1字上げ]あなたのV・D

 六月二十八日
 ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ!
 くよくよなさるのはたくさんです! よくまあ恥ずかしくないことですね! ほんとうにたくさん、どうしてそんな考えがあなたの頭に浮かぶんでしょう? あなたは病気じゃありません、けっして病気じゃありません。あなたは花が咲いたようにみずみずしています。まったく花が咲いたよう。すこし顔の色は悪いですが、それでもやはり花が咲いたようです。夢だの幻だのって、それはいったいなんのことです! 恥ずかしいじゃありませんか、もうたくさんです。そんな夢なんか、唾でもひっかけておやりなさい。いきなり唾をひっかけてやることです。いったいなぜわたしはよく眠れるのでしょう? どうしてわたしはなんともないのでしょう? まあ、わたしを見てごらんなさい。息災に暮らして、夜もおだやかに寝られるし、体は丈夫でぴんぴんしています。見ても好ましいくらいですよ。たくさん、たくさん、そんなことは恥ずかしい話です。早くよくなってください。なにしろ、わたしはあなたの頭の具合を知っていますが、なにかちょっとでも思い浮かべると、もうさっそく空想したり、なにやらくよくよしたりしはじめるのです。どうかお願いだからやめてください。あなたは人なかへ働きに出るんですって? いけません! だんじて、だんじていけません。それに、だいいち、なんだってそんな気をおこすんです、どうした加減なんです? しかも、そのうえ地方行きだなんて! いや、わたしが許しません、そういう考えには、全力をあげて反対します。わたしの古い燕尾服を売って、下着一枚で往来を歩くようになろうとも、あなたにはけっして不自由はさせません。だめです、ヴァーリンカ、だめです、わたしにはあなたという人がよくわかっている! それは世迷い言です、まったく世迷い言です! ただ一つ確かなことは、なにもかも、フェドーラ一人が悪いということです。どうやらあのばか女が、なにもかもあなたに入れ知恵したらしい。あれのいうことなどほんとうにしてはいけません。それに、あなたはたしか全部の事情はごぞんじないのでしょう?………あれはばかな、口うるさい、わけのわからない女で、亡くなった亭主なども、あれがいびり殺したようなものです。それでなければ、きっとあなたがなにかであの女に腹を立てたのでしょう? いけません、いけません、金輪際いけません! そんなことをなすったら、わたしはいったいどうなるのでしょう、何をしたらいいのでしょう? だめです、ヴァーリンカ、そんな考えは頭から棄てておしまいなさい。全体あなたは何が不足なのです? わたしたちはあなたを見て心から喜んでいるし、あなたもわたしたちを愛していてくださるのだから、それでおとなしく暮らしていったらいいじゃありませんか。縫い物をしたり本を読んだりして、いや、縫い物はしないでもかまいません。とにかくわたしたちといっしょに暮らしてください。もしあなたがそんなことをすればどんなことになるか、自分でとくと考えてごらんなさい……なに、わたしがあなたに本も手に入れて来てあげますし、それからもしなんなら、またどこかへ遊びに行ってもよろしい。ただそんなことをいいだすのだけはたくさん、ほんとうにたくさんです、もっと分別をつけて、つまらぬ世迷い言をいわないようにしてください! わたしはあなたのところへ訪ねて行きます。ごく近いうちにお訪ねしますが、そのかわり、わたしが率直に遠慮なく申しあげたことを聞き入れてください。いけません、ほんとうにいけませんよ! わたしはもちろん、無学な人間で、自分でも無学なことを知っています。わたしは乏しい金でどうにかこうにか勉強しただけの人間です。が、わたしはそんなことをいおうとしているのじゃありません、またわたしのことなんかどうでもかまわない。しかし、あなたがなんとおっしゃろうとも、わたしはラタジャーエフの味方をします! 彼はわたしの親友ですから、味方をします。彼は上手に書きます、非常に非常に、も一つ非常によく書きます。わたしはあなたに同意しません、なんといっても同意することができません。彼の作品は華やかに、奔放に、目に見えるように書いてあって、いろんな思想が含まれています。じつに立派なものです! おそらくあなたは冷淡に読みすごしたのでしょう、ヴァーリンカ、それともあれを読んだときに、なにかのことでフェドーラに腹を立てていらっしゃるとか、それともまたほかにおもしろくないことがあって、機嫌を悪くなすっていられたとか、おおかたそんなことでしょう。だめです、いつかあなたが満足して、うきうきと気持ちのいいとき、たとえば、お菓子でも口に入れていらっしゃるようなとき、心を入れて、よく読んでごらんなさい――そういうときにもう一度読んでごらんなさい。もちろん、ラタジャーエフ以上の文士はあります、ずっと優れたのもいます。それはわたしもあえて争いません(まただれがそれに反対するものですか)。しかし、彼らも立派なら、ラタジャーエフも立派です。彼らも上手に書けば、ラタジャーエフも上手に書きます。彼は彼なりに、自分の書きたいことを書いているので、そうして書いてくれるのはけっこうなことです。では、さようなら、もう書いてはいられません。仕事があるので、急がなければならないのです。では、いいですね、かわいいヴァーリンカ、気を落ちつけてください、そうすれば、神さまがあなたに付き添ってくださいます。そして、わたしも依然としてあなたの忠実なる友でいます。
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

[#ここから1字下げ]
二伸 本をありがとう、ではプーシキンも読むことにします。
きょう、夕方にかならずお訪ねします。
[#ここで字下げ終わり]

 七月一日
 敬愛するマカール・アレクセエヴィチさま!
 いいえ、いいえ、あなたがたのあいだで暮らしていくことは、できません。わたしはいろいろと考えたあげく、こんないい口をことわるのはたいへんいけないことだと悟りました。そちらへ行けば、すくなくとも日々のパンだけは間違いなく得られます。わたしはせいぜい気をつけて、知らない人たちにも優しくしてもらえるようにしますし、もし必要とあれば、自分の性質を改めるようにさえ努力いたします。それはもちろん、知らない他人の中で暮らし、他人のお情けを求め、自分の本心をかくして、われとわが身を強いるようなことをするのは、つらい苦しいことに相違ありません。でも、神さまが助けてくださるでしょう。一生人づきの悪い人間で通すわけにもまいりません。前にもこういう場合がございました。まだ小さい時分で寄宿学校へ通っていた頃のことをおぼえています。日曜日に自分の家で朝から晩まで飛んだり跳ねたりして、ときには母に小言をいわれることがあっても、そんなことなど平気で、はればれとしたいい心持ちなんです。ところが、だんだん夕方が近づいて来ると、死ぬほど悩ましい思いがしてまいります。九時には寄宿に帰らなければならない。そこはなにもかも、縁もゆかりもない、冷たい、厳格な感じのものばかりで、舎監たちも月曜日はひどく怒りっぽい顔をして出て来るのです。すると、胸をしめつけられそうになって、泣きたくなってくる。で、片隅へ行って、一人ぼっちでひと泣きしたのち、涙を隠して帰って来ると、なまけものといわれる。ところが、わたしはけっして勉強がいやで泣くのではありません。でも、どうでしょう? そのうちに馴れてしまって、その後、学校を出る時には、友達にお別れをいいながら、やっぱり泣いてしまったじゃありませんか。それに、わたしがこうしてあなたがた二人の厄介になって暮らしているのは、どうもいけないことですわ。そう考えると、わたしは苦しくてなりません。あなたには万事うち明ける癖がついてしまったので、このこともあけすけに申しあげます。わたしだって、フェドーラが毎日、朝早くから起きだして、洗濯の仕事にかかり、夜遅くまで働いているのが、見えないはずはございません。年寄りは骨が休めたいものですからね。またあなたがわたしのために、ご自分の財政をめちゃめちゃにしておしまいになり、身を削るようにして工面したなけなしのお金を、わたしのために使っていらっしゃるのが、この目に入らないとでもお思いですか? あなたのご身分では、それは無理でございます! お手紙によりますと、あなたは最後のものを売り払っても、わたしに不自由をさせないとのこと、わたしはそれを信じます。あなたの優しいお心を信じます。でも、今だからこそそうおっしゃるのです。今は賞与をお貰いになって、思いがけないお金がおありになりますけれど、そのあとはどうなりましょう? あなたもご承知のとおり、わたしは年じゅう病身で、よしんば働きたい気はやまやまあっても、あなたのように働くことはできませんし、それに仕事も始終はございません。こういうふうに考えてみると、わたしはいったいどうしたらよろしいのでしょう? あなたがた二人が苦労していらっしゃるのを見ながら、胸を掻きむしられるにまかすばかりです。ほんの毛筋ほども、あなたがたのお役に立つことができるわけではありません。それに、どうしてわたしという人間がそれほどあなたに必要なんでしょうか? わたしがどんないいことをあなたにしてさしあげたのでしょう? わたしはあなたを心からお慕いして、強く強くあなたを愛してはおりますが、でもなんという情けない生まれ合わせなのでしょう! わたしは愛するすべを知っており、また、愛することもできますけれど、ただそれだけの話で、なにかよいことをして、あなたのご恩にむくいることはできません。もうこのうえわたしを引きとめないで、よくお考えのうえ、最後のご意見をお聞かせくださいまし。では、ご返事をお待ち申しています。
[#地から1字上げ]あなたを愛する V・D

 七月一日
 世迷い言、世迷い言、ヴァーリンカ、まったくの世迷い言です! そうしてあなたをうっちゃっておいたら、そのかわいい頭の中で何を考えだすか、知れたものではありません。ああでもない、こうでもない、といった始末です! 今こそはっきりわかります、それはみんな世迷い言です。いったいあなたはわたしたちのあいだにいて、何が不足なのですか、まずそれを聞かせてもらいましょう! わたしたちはあなたを愛しているし、あなたもわたしたちを好いていてくださる。わたしたちはみんな満足して幸福でいるのに、そのうえ何が必要なんでしょう? まあ、他人のあいだにまじって、あなたはいったいなにをしようというのです? きっとあなたは、他人とはどんなものか、まだごぞんじないのでしょう?………だめです、よくわたしに聞いてごらんなさい、他人とはどんなものか話してあげますから。わたしはそれを知っています、よく承知しています。他人のパンも食ったことがあるんですからね。他人は腹黒です、ヴァーリンカ、腹黒も腹黒、ちょっとでも気にくわないことがあると、小言をいったり責め立てたりするばかりか、意地悪い目で追いまわして、いじめ抜くのです。ところが、わたしたちのあいだにいれば、温かで気持ちがよく、まるで自分の巣の中に落ちついているようなものです。それに、あなたがいなくなったら、わたしたちは頭がなくなったも同然です。いいえ、あなたがいなくなったら、わたしたちはどうしようというのです、この年取ったわたしは、そのとき何をしたらいいのでしょう? あなたがわたしたちにとって用がないんですって? ためにならないんですって? どうしてためにならないことがありましょう? いけません、あなたがためになるかならないか、自分でよく考えてごらんなさい。あなたはわたしにとって、大いに役に立ちますよ、ヴァーリンカ。あなたはそれこそ、いい影響を与えてくださるのです……現に、今あなたのことを考えただけで、わたしは心がうきうきしてきます……ときどきあなたに手紙を書いて、自分の感じたことを残らずその中にこめて送ると、あなたからくわしい返事をいただく、それからときにはあなたに着物を買ってあげたり、帽子をこしらえたり、ときどきあなたからなにか用事を頼まれてそれをたしたり……いや、どうしてあなたがためにならないものですか! だいいち、わたしは年取ってから何をしたらいいのでしょう、このさき、なんの役に立つでしょう? ヴァーリンカ、あなたはこのことを考えてごらんにならなかったのかもしれませんが、だめです。ほかならぬこのことを考えてみてください。つまり、「わたしがいなくなったら、あの人はこのさきなんの役に立つだろう」ということです。わたしはあなたという人に馴れてしまったので、あなたに行かれると、いったいどういうことになるでしょう? ネヴァ河へ行って身でも投げる、それで話はおしまいです。いや、まったくそんなことになりますよ、ヴァーリンカ、だって、あなたがいなくなったら、わたしはなにもすることがなくなるじゃありませんか! ああ、わたしのかわいい人、ヴァーリンカ! どうやらあなたは、わたしが荷馬車に乗せられて、ヴォルコーヴォの墓地へ運ばれて行くのがお望みとみえますね。どこかの乞食ばあさんがたった一人、わたしの棺のうしろにとぼとぼついて来て、やがてわたしは砂をかぶせられると、ばあさんもわたしを一人残して行ってしまう。それがあなたのお望みなんでしょう。罪です、それは罪です、ヴァーリンカ! まったく罪です、ほんとうに罪です!
 あなたのご本をお返しします、ヴァーリンカ、そこで、もしこの本について、わたしの意見をお求めになるなら、わたしはこう申しましょう。わたしは今までこんなすばらしい本を読んだことがありません。いまわたしはわれとわが身に、どうしてこれまでこんなにのほほんと暮らしたのだろう、と自問している始末です。いったい自分は何をしていたのか? どんな森から迷い出たのか? そういうことがいっこうにわからない、それこそまるっきりわからないのです! ヴァーリンカ、わたしはざっくばらんにいいますが、学問のある人間じゃない、これまでに読んだ本というのは僅かなもので、ほとんどなんにも読んでいないといえるほど少ないのです。『人間図絵』という、賢いことを書いた本を読んだことがあります。『大小の鈴でさまざまな曲を演奏する少年』だの、それから『イヴィクの鶴』も読みましたが、それがいっさいがっさいで、ほかにはなにひとつ読んだことがありません。ところが、今度あなたのご本で『駅長』を読みました。わたしははっきりいいますが、長年生きていながら、自分の生涯を何から何まで手に取るように書いた本が、つい鼻の先にあるのを知らずにいる、そういうこともままあるものですね。それに、自分でも気がつかないでいることが、この本を読んでいるうちに、すこしずつ思い出したり、さがし当てたり、推察ができたりするようになってきます。それからもう一つ、わたしがあなたの本を好きになったわけは、ほかでもありません。ある著作などは、たとえどんなに立派なものにせよ、一生懸命に読んでも読んでも、ときには頭が痛くなるほど考えても、いやにしち面倒に書いてあって、わかったのかわからないのか、しれないようなことがあります。わたしなどは早い話が愚鈍なたちで、生まれたときから鈍にできているから、あまり高尚な本は読むわけにいきません。ところが、この本を読むと、まるで自分で書いたような気がする。たとえていえば、自分の心を取って来て、――しがない心ではあるけれども、それをとって来て、みんなに裏返しにして見せ、何から何までくわしく書いた、といったふうなんです! それに事柄もありふれた事柄で、いやはや、べつに何も取り立てたことはない! まったくわたしでもあのとおりに書けそうなくらいです。どうして書けないことがあるものか、という気がします。なにしろ、わたしも本に書いてあるようなことを、あれとそっくりそのとおりに感じるし、ときによると、たとえば、あの気の毒なサムソン・ヴイリンと同じ立場に置かれたこともあります。そればかりでなく、わたしたちのあいだにはサムソン・ヴイリンが、あれと同じように気の毒な不幸者が、どれだけうろうろしているかしれやしません! じつになんとよく書いたものでしょう! ヴイリンが、罪の深い話ながら、やけ酒に身を持ちくずして、はては性根をなくしてしまい、手のつけられぬ酔っ払いになって、羊の毛皮の外套を引っかぶったまま一日寝てすごし、悲しくなると、ポンス酒をひっかける。そして、群れをはぐれた羊のような娘のドゥニャーシャを思い出すと、汚い外套の裾で目を拭きながら、おいおいと泣いているという、あそこのところを読んだとき、わたしはあやうく涙をこぼさんばかりでした! いや、これは自然だ! あなた、まあ、読んでごらんなさい、あれは自然です! あれは生きています! わたしも自分で見たことがある、あれは現にわたしの周囲に生きている。まあ、テレーザにしてもかまわない、――なにも遠くのほうまで例をさがしに行くことはない! それから、この家に住む貧しい官吏でもいい。あれもやはりサムソン・ヴイリンと同じような人間かもしれない、ただゴルシコフという別の苗字を持っているばかりです。ああいう事件は、普通にあるもので、あなたやわたしの身の上にも、いつおこらないとも限りません。あのネーフスキイ通りだったか、それとも河岸通りだったかに住んでいる伯爵だって、やはり同じことです。あの連中は、万事われわれと違って上品にやっているから、ちょいと別なように思われているけれど、なに、同じことです、やはり同じようなことが、いつおこらないとも限りません。わたしだっていつそうなるかしれやしない。それなのに、あなたはわたしたちを棄てて行こうとなさる、そんなことをすると、わたしの身に不幸が落ちて来るかもしれませんよ、ヴァーリンカ。自分の身をも、わたしをも破滅させることになるかもしれませんよ。ああ、どうかお願いですから、そういう自由思想をご自分の頭から叩きだしてしまって、わたしを無駄に苦しめないでください。いったいあなたのようなまだ羽根も生え揃わぬいたいけな小鳥が、どうして自分の口を養うことができますか、滅亡の道からわが身を守り、悪人どもを防ぐことができますか! そんなことはたくさんですよ、ヴァーリンカ、早く体をよくして、くだらない助言や中傷に、耳をかさないようにしてください。あの本はもう一度読んでごらんなさい、注意して読んでごらんなさい、きっとためになりますから。
 わたしはラタジャーエフに『駅長』の話をしました。すると彼は、そんなのはみんな古くさくなってしまって、今ではいろいろな情景を描写した本がはやっているのだ、といいました。正直なところ、そのとき彼のいったことは、なんだかよく頭に入りませんでした。しかし、結局のところ、プーシキンは立派なものだ、聖なるロシヤの名を世に輝かしたのだからといい、そのほかいろんなことをしゃべりましたよ。とにかく、とても素敵です、ヴァーリンカ、じつに素敵ですよ。わたしのすすめに従って、もう一度あの本を丁寧に読んでごらんなさい、いうことを聞いて、この老人を喜ばしてください。そうすれば、ほかならぬ神さまがあなたに報いを授けてくださるでしょう、かならず授けてくださいます。
[#地から9字上げ]あなたの真実なる友
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 七月六日
 マカール・アレクセエヴィチさま!きょうフェドーラが、銀貨で十五ルーブリ持って来てくれました。わたしが三ルーブリやったとき、あのかわいそうな女はどんなに喜んだことでしょう! 急ぎますから簡単にいたします。わたしは今あなたのチヨッキを裁《た》っているところでございます、とてもすばらしい生地で、黄色い地に小さな花が散らしてあるのです。本を一冊お届けいたします、その中にはいろいろな小説が入っておりますが、わたしもいくつか読んでみました。その中の一つで『外套』という題のを読んでごらんなさいまし。――あなたは芝居へいっしょに行こうとすすめてくださいますが、それはかなり高くつきはしないでしょうか? まあ、大向こうか何かでしたらよろしいでしょうね。わたしはもうずいぶん久しく芝居へまいりません。まったくいつ行ったかおぼえがないくらいです。それにしてもやはり、その楽しみが高いものにつきはしないかと、心配で仕方がありません。フェドーラはしきりに頭をひねって、あなたがこのごろすっかり収入に相応しない暮らしをするようにおなりになった、と申しています。わたしにもそれがちゃんと見えています。わたし一人だけにでもどれだけお金を使っていらっしゃるやら! どうか変なことがないように、気をつけてくださいな。それでなくても、フェドーラはいろんなうわさを聞いて来て、わたしに話して聞かすのですもの。あなたは部屋代のとどこおりで、おかみさんと口論をなすったとかいうことですね。わたし、あなたのことが心配でなりません。では、さようなら、わたし、急ぎますの。ほんのちょいとした仕事ですけど、帽子のリボンを取り替えようと思いまして。

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二伸 じつはね、もし芝居へ行くのでしたら、わたし新しい帽子をかぶって、黒の小外套を肩にかけようと思いますの。よろしいでしょうか?
[#ここで字下げ終わり]

 七月七日
 ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ!
 ……では、きのうの話の続きをいいましょう。――そうです、そのころわたしたちはばかげた気持ちになったものですよ。その女優にのぼせて、すっかり首ったけになってしまったのです。それはまあ、まだしもとして、なによりおかしな話というのは、自分でほとんどその女を見なかったことなんです。芝居にはあとにもさきにもたった一度行ったきり、それでいて、ぞっこん惚れこんでしまったのです。そのころ、わたしと壁一重となり合わせて、五人の若い連中が住んでいました。ひどい乱暴者ばかりですが、わたしはその連中とつきあうようになったのです。もっとも、しじゅう相当の隔てをおくようにはしていたものの、つい自然とつきあうようになったのです。さあ、そこで仲間はずれにならないために、万事につけて合槌を打ったものです。この連中がさんざんその女優のことを、わたしに話して聞かせたわけです。毎晩、小屋が開く時分になると、みんな総勢で、――入用な物を買うお金はついぞ持っていたためしがないのに、――うち揃って劇場へ繰りこんで、大向こうに陣取る。そして、無闇にぱちぱち手を叩いて、何度でもその女優を呼び出す、――いやはや、気ちがい沙汰です! それから家へ帰っても、寝さしてなんかくれやしない、夜っぴてその女優の品さだめです。一人一人がその女のことをおれのグラーシャと呼んで、みんなでその女優に首ったけ。娘一人に婿八人という騒ぎです。この連中が、頼りのないわたしを焚きつけてしまいました。わたしもその時分はまだ若かったものですな、どんなふうにしてみんなといっしょに劇場にいって四階の大向こうに入りこんだか、自分でもおぼえがありません。目に入るのはただ幕の端っこばかり、が、そのかわり、せりふはすっかり聞こえました。なるほど、その女優はいい声をしていました。――よく透る鶯のような甘い響きなんです! わたしたちはみんな手のしびれるほど拍手して、わめき立てました。ひと口にいえば、あやうく警察のご厄介にならんばかりで、一人のやつはほんとうにつまみ出されましたよ。わたしは家へ帰っても、まるで毒気に当てられたようなありさまでした! ポケットの中には一ルーブリ銀貨一枚しか残っていないのに、月給日までにはまだたっぷり十日はあるのです。そこで、どうしたと思います。あくる日、勤めに出る前にフランス人の香料店に寄って、なんとかいう香水と、いい匂いのする石鹸を、有金ぜんぶはたいて買ってしまいました。そのときなんだってそんなものを買いこんだのか、われながらとんと合点がいきません。それに、食事にも帰らないで、のべつその女優の窓の下をあちこちしたものです。女はネーフスキイ通りの四階に住んでいましたっけ。家へ帰って、小一時間も休息すると、またぞろネーフスキイ通りに出かけて行きました、ただ、女の窓の下を通りたさがいっぱいなのです。ひと月半ばかりそんなにして、女の尻を追いまわしたものです。のべつ上等の辻馬車を雇っては、その窓の前を行ったり来たりする。それで、とうとうすっからかんになって、借金の山ができてしまったものだから、そのうちに色も恋もさめてしまいました。飽きてきたんですな! 女優というものはちゃんとした人間をこんなにまでする力を持っているんですよ! もっとも、わたしも若かった、そのころはまだ若かったんですな!……
[#地から1字上げ]M・D

 七月八日
 ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ!
 今月の六日に拝借したご本を急いでお返しいたします。それと同時に、この手紙でとり急ぎあなたに申しあげたいことがございます。よくないことです、あなた、わたしをこんな極端な気持ちにさせるなんて、ほんとうによくないことです、まあ、お聞きください、人間の境遇というものは、すべて天帝によって定められているのです。あるものは将軍の肩章をつけ、またあるものは九等官として勤務するように定められている。一人は命令をくだし、一人は唯々諾々として服従するような運命を背負っている。それはもう人の才能によって定められていることで、あるものは一つのことに才能を持っており、またあるものは別のことに長じている。そして、その才能は神さま自身によって与えられているのです。わたしはもうかれこれ三十年も勤務を続けています。勤めぶりにも非難を受けたことがなく、品行も方正で、規律にそむいたこともかつてありません。一個の市民として、自分は自分なりの欠点も持っているけれど、同時に、長所をも備えた人間であることをみずから意識し、自覚しています。上役の人々から尊敬され、当の閣下もわたしに満足していてくださる。*[#「*」は行右小書き]もっとも、きょうまでまだ特別な好意のしるしをお見せにはならないけれど、閣下がわたしに満足していてくださることはわかっています。わたしの筆跡はきれいできちんとしています。しかも、あまり大きすぎもしなければ小さすぎもせず、いくらか斜体の傾きを持ってはいるが、いかなる場合でもお役に立つものです。わたしたちの役所でこれだけに書けるものは、せいぜいイヴァン・プロコーフィチ一人ぐらいのものでしょう。*[#「*」は行右小書き]頭に霜をいただくまで勤続して、たいした罪も身におぼえがありません。もちろん、少々な罪はだれだって覚えがないものはないでしょう。だれだって罪はあります、あなただって罪がありますよ、ヴァーリンカ! しかし、大きな罪や大それた所行、つまりなにか規則に反したことをするとか、公けの治安を破るとか、そういうことで摘発されたことは一度もありません。そういうことは断じてありません。そんなことがないどころか、一度は勲章さえ授与になりかけたくらいです、――いや、こんなことは今さらいうまでもない! これはみんなあなたがちゃんと知っていてくださるはずです。またあの作者(([#割り注]『外套』の作者ゴーゴリ[#割り注終わり])だって知っているのが当然です――叙述にとりかかった時に、当然何もかも知っているはずです。いや、まったくわたしは、あなたがこんなことをされようとは思いもかけませんでした。ヴァーリンカ! ほかならぬあなたなので、なおさら意外千万でした。
[#ここから32字詰め]
 註 *~*一八四七年の作品集に収録のさい作者自身が削除した部分。
[#ここで字詰め終わり]
 ああ! こうなってみると、たとえどんな住まいにもせよ、自分の小さな片隅でつつましく暮らすこともできやしません――ことわざにいう虫も殺さぬようにして、人のことには手を出さず、神さまを恐れ、身のほどを知って暮らし、また人からも自分にさわられず、自分の巣に踏みこまれないようにして、また、あいつがわが家にくつろいでいるときにはどんなふうにしているか、いいチョッキを持っているか、下着はきちんと揃っているか、靴はあるか、靴底には何か打ってあるか、何を食い、何を飲んでいるか、何を浄書しているか?……などとわきから覗き見されないように暮らすことはできはしません。いったいわたしにしてからが、舗道がでこぼこしているときには、よく爪先で歩くようにはしますが、靴を大事にするからとて、それがどうしたというのでしょう! 他人がときどき金に困って、茶も飲まないでいるなんてことを、なんのために書く必要があるのでしょう? まるでだれも彼もが、ぜひともお茶を飲まなければならないかのように! それとも、わたしは人がものを食べているときに、あいつ何を食べているかと、口をのぞいてみたことがあるでしょうか? だれかにそんな失礼な真似をしたことがありますか? そうですとも、こっちで他人にかまわないでいるのに、どうして私《ひと》を侮辱する必要があります! まあ、ひとつたとえをいいましょう、ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ、こういうわけです。あの男が熱心に、忠実にこつこつと勤めている、――何もいうことはない!――上役の人たちも、敬意を表している(なんとかかとかいっても、とにかく敬意を表わしているのです)。ところが、ついその鼻っ先で、どこのどいつか知らないが、べつにこれというわけもないのに、藪から棒にその男を種にして、落首を作るとしましょう。それはもちろん、ときどきなにか新しいものをこしらえさせると、嬉しくって夜も眠られず、たとえば新しい靴などを有頂天になってはいて喜ぶ、そういうことはなるほどあります。それはほんとうのことで、わたしも実験しました。自分の足がほっそりした意気な靴に包まれているのを見るのは、気持ちのいいものですからね、――それはたしかに、よく書いてある! しかし、それにしても、どうしてフョードル・フョードロヴィチは、こんな本が出たのを見すごしてしまって、自己弁明のために抗議をしなかったのか、わたしはつくづく不思議でたまりません。なるほど、あの人はまだ若い官吏で、ときおりどなりつけるのが好きだ。そりゃなにもどなりつけてはならんという法はない。われわれ下っぱの役人は、叱るべきときには叱りとばすのが当たり前です。まあ、かりにただ見栄だけのために叱りつけるとしても、なに、見栄のためだってかまわない。みんなをよく仕込まねばなりません。おどしつけることが必要です。というのは、――ここだけの話ですが、ヴァーリンカ、――わたしたち下級官吏というものは、おどかされなければ、何もしないからです。みんなただどこかに籍を置いて、自分はどこそこにいるということばかり吹聴して、仕事のほうはなるべくそっとよけるようにと、そんな算段ばかりしているのです。ところで、官等はいろいろあって、それぞれの官等がその分に応じた叱りかたを要求するから、したがって、叱りかたもいろいろになってくるのは自然の話で、これはわかりきったことです! なにしろ、われわれはみんなおたがいに威張り合って、めいめいがそれぞれに人を叱っている、それで、世の中がもっていくのです。この予防法がなかったら、この世も立っていかなければ、秩序というものもなくなるでしょう。フョードル・フョードロヴィチが、こんなぶしつけな本を見すごされたのは、じつに驚くほかはありません!
 それに、なんのためにこんなことを書くのでしょう? こんなことが何に必要なのでしょう? いったい読者のだれかが、そのかわりにわたしの外套でもこしらえてくれるというのですか? 新しい靴でも買ってくれるというのですか?なんの、ヴァーリンカ、ただ読みとばして、おまけに、続きを見せてくれというでしょうよ。世間の取り沙汰が恐ろしくって、なんでもかでも落首に作られはせぬかと、小さくなって身を潜め、自分でひけ目に感じていることを隠すようにして、ときにはどこであろうと、人前へ顔を出すのさえ、恐れているのに、もういつの間にか自分の市民生活も家庭生活も、すっかり文学に書かれて、ちゃんと立派に印刷され、みんなに読まれて笑いぐさにされ、取り沙汰されているという始末です! もうこれじゃ表へ出ることもできやしない。何から何まで残らず書き立てられているので、今ではただ歩きかたを見ただけでも、われわれ小役人仲間だということがすぐわかってしまいます。それもまあ、作者がせめて結末のところで心を入れ替え、なにか調子をやわらげたとでもいうなら、まだしもだったでしょう。たとえば、あの主人公が頭へ紙きれを振りかけられるくだりのあとへ、まあ、いってみれば、とにもかくにも、彼は美徳を持った善良な市民で、同僚からそんな待遇をされるようなことはなにひとつしたおぼえがなく、上役の命に服従して(そこになにか実例を入れてもいいでしょう)、だれにも悪を望まず、神さまを信じ、そして死ぬにも(もし作者がどうしても死なしたいのなら)人人に惜しまれながら死んでいった、とでもしたらよかったでしょう。しかし、いちばんいいのは、この気の毒な男を死なさずにおいて、彼の外套も見つかり、フョードル・フョードロヴィチが、――いや、わたしは何をいっているのだ!――つまりその将官が、彼の美徳をくわしく知って自分の局へ移し、官等を上げてやり、俸給もたんまり上げてやる、というふうにしたらどうでしょう。そうすれば、悪が罰せられ、善が栄えることになり、同僚の役人どもも鼻をあかされたことでしょう。わたしならたしかにそうしたはずです。ところがあのままではどこに特別なところがあります、どこにいいところがあります? あれでは日常の俗な生活の中から、つまらぬ例をとってきたというだけです。それにしても、どうしてあなたはあんな本をわたしに届ける気になったのです。あれは悪意を含んだ本です。ヴァーリンカ、あれはてんでうそっぱちです、なぜなら、あんな役人なんかいるはずがないからです。いや、まったく、こうなったからにはわたしは抗議します、ヴァーリンカ、正式に抗議しなければなりません。
[#地から9字上げ]あなたの忠実なるしもベ
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 七月二十七日
 マカール・アレクセエヴィチさま!
 このあいだからの出来ごととあなたのお手紙で、わたしはびっくり仰天して、どうしたことかと思いまどっていましたが、フェドーラの話を聞いて、なにもかもはっきりいたしました。でも、どうしてそんな自棄《じき》になっておしまいになり、ああいう堕落の淵へ突然おちこまなければならなかったのでしょう、マカール・アレクセエヴィチ? あなたのご説明は、ちっともわたしを納得させてくれませんでした。ごらんなさいまし、わたしがあの有利な口をすすめられたとき、ぜひ承知の返事をするといい張ったのは、やはり間違ってはいなかったじゃありませんか? それに、このあいだわたしの身におこったことも、心からわたしを慄えあがらせてしまいました。あなたは、わたしを愛すればこそ、隠しだてをしたのだとおっしゃいます。わたしはもうあのときから、――あなたがわたしに費ってくださるお金は、ただ予備のお金で、それは万一のために銀行に預けてあるのだ、とおっしゃったときでさえ、ずいぶんありがたいことだと思っていました。ところが、今度あなたはまるで貯金なんかないくせに、偶然わたしの困っていることをお聞きになり、それに心を動かされて、ご自分の俸給を前借りしてまで、わたしを助けようとご決心になり、わたしが病気したときには、ご自分の服まで売り払いなすったことがわかったので、そういうことが明るみに出てしまった今となっては、わたしはとても苦しい立場に置かれてしまって、これをどんなふうにとったらいいのか、なんと考えたらいいのか、それさえいまだにわからない始末でございます。ああ、マカール・アレクセエヴィチ! あなたは同情心と親戚としての愛情の命ずるままに、最初いろいろの恩恵をふりまいてくださいましたとき、あれだけで打ちきりにしてしまって、その後なすったように、要もないことにお金をまいたりしてはいけなかったのです。あなたはわたしたちの友情を裏切りなすったのです。マカール・アレクセエヴィチ。だって、あなたはわたしに隠しだてなすったんですもの。あなたのなけなしのお金が、わたしの着物や、お菓子や、散歩や、芝居や、本などになってしまったのだとわかってみると、わたしはいま自分のゆるしがたい軽はずみを後悔することによって(なぜって、わたしはあなたご自身のことを考えないで、あなたのくださるものをすっかりいただいたのですから)、これらすべてのことにたかい代価を払わされているわけでございます。あなたがわたしを喜ばせようと思ってなすったいっさいのことが、今ではわたしのために悲しみと変じ、ただ無益な悔いを残したばかりでございます。わたしも近ごろ、あなたがふさぎこんでいらっしゃるのに気がついて、自分でも悩ましい気持ちでなにかしら期待していましたけれど、こんどおこったようなことは、夢にも心に浮かびませんでした。まあ、なんてことでしょう、マカール・アレクセエヴィチ! そんなにまで力を落としておしまいになるなんて! これからは他人があなたのことをなんと思うでしょう、あなたを知っているほどの人がいったいなんというでしょう? わたしをはじめ、すべての人が尊敬していた、心の優しい、謙遜な、分別のあるあなた、そのあなたが突然、今までついぞなかったような忌わしい悪行に、身をまかせるようにおなりになったのですもの。あなたが酔いつぶれて道に倒れているところを見つかって、警察の人に宿まで連れられて帰ったということを、フェドーラが話して聞かせたとき、わたしの気持ちはまあどんなだったでしょう! あなたは四日のあいだ、ゆくえ知れずになっていらっしゃいましたから、なにかただごとではなかろうと思ってはいましたけど、わたしは驚きのあまり、棒立ちになってしまいました。マカール・アレクセエヴィチ、あなたの欠勤のほんとうの原因がわかったとき、上役の人たちがんなとおっしゃるか、あなたは考えてごらんになりましたか? あなたのお話によると、みんながわたしたちの関係を知って、あなたをからかい、隣り近所の人たちがわたしのことまで笑いぐさにしているとのことですが、そんなことを気になさいますな、マカール・アレクセエヴィチ、そして後生ですから、お気を静めてください。それから、もうひとつ心配なのは、あなたがかかり合いなすった将校たちのいきさつです。わたしは漠然とその話を小耳に挟みましたが、それはいったいどういうことなのか、すっかり聞かしてくださいまし。お手紙によりますと、あなたはうち明けるのがこわかった、自白してわたしの友情を失うのが恐ろしかった、それから、わたしの病中どうして力になったらいいのかわからないで、思い悩んだあげく、わたしの生活を支えわたしを病院へやらずに済ますために、なにもかも売ってしまった、そのうえ、借金のできるだけ借金をしてしまって、毎日かみさんと不快ないい合いをしているとのお話です。けれども、そんなことをわたしにお隠しになったのは、結句なによりもいっとうわるい道をお選びになったのです。でも、今度こそわたしなにもかも知ってしまいました。あなたは、わたしがあなたの不幸の原因になったことを、わたし自身に意識させまいと気をお使いになりましたが、今ではご自分の行状のために、わたしに二倍からの苦しみをお与えになったわけです。わたしはこうしたいっさいのいきさつに胸を衝かれてしまいました。ああ、マカール・アレクセエヴィチ! 不幸は伝染病みたいなものでございます。不幸なものや貧しい人たちは、それ以上病気を伝染させないために、おたがい同士さけ合わなければいけません。わたしという人間は、あなたが以前のつつましい孤独な生活ではついぞ経験なさらなかったような不幸を、あなたに持って来たのでございます。それやこれやを思うと、わたし苦しくって死にそうです。
 いったいあなたはどうなすったのか、どうしてあんなことを思いきってする気におなりになったのか、今こそすっかり包まずお知らせくださいまし。そして、できることなら、わたしを安心させてくださいまし。わたしがいま自分の安心などと書いているのは、けっして自尊心のさせるわざではありません。それは、何ものをもってしてもこの胸から消すことのできないあなたに対する友情と、愛なのでございます。さよなら、ご返事を待ちこがれています。あなたはわたしのことを悪く考えておいでになったのでございます、マカール・アレクセエヴィチ。
[#地から10字上げ]心からあなたを愛する
[#地から1字上げ]ヴァルヴァーラ・ドブロショーロヴァ

 七月二十八日
 何ものにも代えがたいヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ!
 さて、今ではもはやなにもかも片がついて、しだいに以前の状態に立ち返ってまいりましたから、わたしも腹臓なく申します。あなたは、人がわたしのことをなんと思うだろうかと案じておいでですから、取り急ぎ申しますが、ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ、わたしにとっては自分の名誉が何よりも大切なのです。右の次第で、わたしの不幸や不始末をご報告かたがた、上役の人はまだだれもなにひとつ知らないということを申しておきます。また今後といえども知れるはずはないので、したがって、依然としてみなわたしに尊敬を払ってくれるに相違ありません。ただ一つ、恐ろしいことがあります、世間のうわさが恐ろしいのです。家ではかみさんがどなりとおしていましたが、今度あなたの十ルーブリのおかげで、借金を一部返済したために、ただぶつぶつぼやくだけで、それ以上どうってことはありません。ほかの連中はどうかというと、これまた仔細ありません。ただ彼らには金を無心してはいけないので、それさえしなければなんでもありません。弁明を終わるにあたって、はっきり申しますが、わたしはあなたの尊敬をこの世の何ものよりも尊いものに思い、いま一時混乱した状態になっていても、それを慰めとしている次第です。おかげで、最初の打撃と最初の紛擾も過去のこととなり、あなたもそれを気軽に見すごしてくださいました。つまり、わたしがあなたを天使のように愛して、あなたと別れる力がないばっかりに、あなたをだまして、自分のそばへ引きつけておいたからとて、わたしを利己主義な不信の友とは考えていらっしゃらないわけです。このごろ、勤務にも精励し、自分の仕事を立派に果たしていくようになりました。エフスターフィ・イヴァーノヴィチなども、わたしがきのうそばを通り過ぎたとき、ただのひとことも小言を申されませんでした。つつまず申しますが、わたしの苦になるのは借金と、ひどいぼろぼろの服ですが、これまたたいしたことではありません。これについても、あまり心を砕かないようにお願いします。今度もまた五十コペイカ届けてくださいましたが、この五十コペイカはわたしの胸をえぐりましたよ、ヴァーリンカ。ああ、今ではこんなになってしまったのか、こういうことになってしまったのか! わたしはなんという老ぼれのばかだろう、こちらがあなたを助けるのじゃなくて、貧しい身なし児のあなたが、わたしを助けてくださるとは! フェドーラが金を手に入れて来たのは感心です。わたしのほうでは、さしあたり金の入るあてが全然ありません、もしなにか僅かでも希望の影がさしたら、詳細をあなたにおしらせします。しかし、陰口、世間の陰口が、なによりもわたしの心を騒がすのです。さよなら、わたしの天使。あなたのお手に接吻して、ご全快を祈ります。これから役所へ急ぐので、くわしく書いていられません、なにしろ精励努力して、勤務をおろそかにしたいっさいの罪を償いたいのです。あれやこれやの出来ごと、それから将校たちとのいきさつなど、話の続きは晩に譲ります。
[#地から6字上げ]あなたを尊敬し心から愛する
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 七月二十八日
 愛するヴァーリンカ!
 ああ、ヴァーリンカ、ヴァーリンカ! 今度こそ罪はあなたのほうにあります、あなたは良心の呵責を受けなければなりません。あなたのお手紙でわたしはすっかりまごつかされ、惑わされてしまいました。しかし、いまようやく落ちついて、自分の心に耳を澄ましてみたところ、自分のほうが正しかった、徹頭徹尾ただしかったということがわかりました。わたしは自分のやった放埒をいっているのではありません。(そんなことはくわばら、くわばらです!)わたしがいいたいのは、自分があなたを愛しているということ、またその愛しているのが、けっして無分別ではない、さらさら無分別ではないということです。あなたはなにもご存じないのです、どうしてこういうことになったのか、なぜわたしがあなたを愛さなければならないかというわけを、もしあなたがご承知になったら、あんなふうにおっしゃらなかったでしょう。あなたはただ理窟だけを逐一おってああいわれたので、あなたの心にあるのは、まるで別なことに相違ない。わたしはそう信じています。
 ヴァーリンカ、将校たちとのあいだにどういうことがあったか、わたしは自分でも知りません、全部よく覚えてはいないのです。ことわっておかなければなりませんが、それまでわたしは、じつに恐ろしい混乱の中に投げこまれていたのです。よろしくご想像を願いますが、わたしの身はもう、まるひと月のあいだ、いわば髪の毛一筋で、保っていたのです。それは悲惨きわまる状態でした。わたしはあなたにも隠していましたし、家でもつつむようにしていたのですが、かみさんががあがあどなり出して、騒ぎをおっぱじめてしまいました。それもまあ、わたしとしては何でもなかったのです。つまらない下司女に勝手にどならしておいたらいいのですが、しかし、第一には恥さらしでもあるし、第二にはいったいどこから嗅ぎだしたのか、かみさんがわたしたちの関係を知って、それはそれはひどいことを家じゅうにわめき散らすので、わたしはあぜんとして耳に蓋をしたような始末です。ところが、困ったことには、ほかの連中は耳をふさぐどころか、かえって聞き耳を立てたのです。わたしは今でも身の置場を知らないくらいです……
 こういう次第で、いろいろさまざまな災難が、なにもかもいっしょになったので、わたしもすっかりまいってしまったわけです。そこへもって来て、突然フェドーラの口から、妙なことを聞きこんだ。あなたの家にけしからん男がやって来て、けしからん申し出をしてあなたを侮辱した、しかもひどい侮辱を与えた、というのです。わたしは自分から推して侮辱したといいます、なぜなら、わたし自身も激しい侮辱を感じたからです。つまり、そのときわたしは正道を踏みはずしたのです、つまり、そのとき前後を忘れて、すっかり顛落してしまったのです。ヴァーリンカ、わたしはこれまでに覚えのないほどめちゃめちゃに腹を立てて、外へ飛び出しました。そのけしからん男のとこへ押しかけて行こうと思ったのです。どうするつもりだったのか、自分でも知らなかったけれど、とにかく天使のようなあなたが侮辱されるのが、たまらなかったのです。いや、そのやるせない気持ち! ちょうどそのとき雨が降って、ひどいぬかるみで、やりきれないほど気がくさくさするのです………わたしは、いっそ引っ返そうとしましたが……そのとき、魔がさしたのです。というのは、エメーリャ・エメリヤン・イリッチに出会ったのです。この男は役人、といっても、もと役人だった男で、今ではもう役人ではありません、くびになったのです。現在なにをやっているのかわたしも知りませんが、きっと苦労しているに違いない。そこでわたしはこの男といっしょに出かけました。それから、――いや、ヴァーリンカ、なにを今さら書き立てることがありましょう、自分の親友の不幸や、その受けて来た試煉の物語を読むのが、いったいあなたにとって愉快なことでしょうか? 三日目の夕方、あまりエメーリャがけしかけるものですから、わたしは例の将校のところへ出かけたのです。所番地は家の庭番から聞いておきました。もうこうなったら、ついでだから申しますが、わたしはもう前からこの先生に気をつけていたのです。まだわれわれと同じ家に住んでいるころから、目をつけていたのです。ところが、今になって見ると、われながら不作法を働いたことがわかりました。なにぶん、先方の玄関に立ったときには、ぐでんぐでんになっていたのですから。ヴァーリンカ、正直なところ、わたしは何もおぼえていません、ただおそろしく大勢の将校がいたのが、頭に残っているばかり、がそれもわたしの目がちらついて、そう見えただけかもしれません。また何をしゃべったのかもおぼえがありません、ただ高潔な憤激にかられて、やたらにまくしたてたことだけは確かです。つまりそのとき、わたしはつまみ出されたのです、つまりそのとき、階段から突き落とされたのです。といって、ほんとうに突き落とされたわけじゃありませんが、とにかく押し出されたのです。わたしが、どんなふうにして家へ帰って来たかは、あなたはもはやご承知です、ヴァーリンカ。これで全部です。もちろん、わたしは自分の品位を落としました、わたしの名誉は傷つけられたわけです。しかし、このことはだれも知ってはいません、あなたをのけて、局外者はほかにだれも知る人がないのだから、してみれば、まあ、そんなことは、はじめからなかったのも同じわけです。これは多分そのとおりだと思いますが、ヴァーリンカ、あなたのお考えはいかがです? ただわたしは次の事実をたしかに知っています。去年、わたしたちの役所でアクセンチイ・オシッポヴィチが、やはり同様にピョートル・ペトローヴィチの人格を毀損するような行為をしたのです。が、それは秘密でした、秘かにそれをやったのです。その男は相手を門番部屋へ呼びこんだのです。わたしは戸の隙間からすっかり覗き見しました。そこで、先生はしかるべく制裁したのですが、しかし、やりかたは潔白でした。それはわたしよりほかだれも見たものがないのです。いやなに、わたしは大丈夫でした、つまり、わたしはだれにも告げ口しなかったという意味です。さて、そのあとでピョートル・ペトローヴィチとアクセンチイ・オシッポヴィチはどうかというと、平気なのです。ピョートル・ペトローヴィチは、ご承知のとおりの気取屋ですから、結局、だれにもいわなかった。だから、いま二人はたがいに会釈をして、手を握り合っています。わたしはあえて争いません、ヴァーリンカ、あなたと争おうなどという気はありません、わたしはひどく堕落したのです、なによりも恐ろしいのは、自分で自分を今までのように尊敬できないということです。しかし、それはきっと前世の約束で、そういう運命に相違ありません、運命を避けるわけにいかないのは、あなたもご承知のとおりです。さあ、これがわたしの不幸と災厄の詳細な報告です、ヴァーリンカ、すべてつまらない話で、読んでも読まなくても同じようなことです。わたしは、少々気分がすぐれません、そしてうきうきした心持ちをすっかり失くしてしまいました。右の次第ですから、きょうはあなたに対する友情と愛と尊敬とを証明して、これで失礼いたします。
[#地から9字上げ]あなたの従順なるしもベ
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 七月二十九日
 マカール・アレクセエヴィチさま!
 お手紙二通とも拝見いたしました。そして、ただ嘆息するよりほかありませんでした! ねえ、あなたはなにかわたしに隠して、いろいろな不快な事柄の一部だけを書いておよこしになったのか、それともまたは……マカール・アレクセエヴィチ、まったくのところ、あなたのお手紙はまだどことなく、調子の乱れているふしがあります……どうか、わたしのところへいらしてください、後生ですから、きょういらしてくださいまし。よろしゅうございますか、きょうはわたしどもで食事をするように、はじめからそのつもりでおいでを願います。あなたがそちらでどんなふうに暮らしていらっしゃるか、おかみさんとどんなふうに折合いをおつけになったか、わたしさっぱりわかりません。あなたはそういったふうのことを、なんにもお書きにならないで、わざと口をつぐんでいらっしゃるようなあんばいなんですもの。では、さようなら、ぜひともきょうおいでくださいまし。でも、いっそのこと、これからはいつもわたしどもへ食事に来てくだされば、そのほうがなおよろしゅうございます。フェドーラはとてもお料理が上手なんですの。さようなら。      
[#7字下げ]あなたの
[#地から1字上げ]ヴァルヴァーラ・ドブロショーロヴァ

 八月一日
 ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ!
 あなたはこんど自分の順番が来て、善をもって善に酬い、わたしに返礼する機会を神さまから授けられたので、喜んでおいでのようですね。わたしはそれを信じます、ヴァーリンカ、が、あなたの心の天使のような善良さをも信じているので、非難の意味でこんなことをいうのではありません。ただあのときのように、わたしがこの年になって道楽をはじめた、などといって責めないでください。なにぶんああいうばかなことをしてしまったので、今さら仕方がありません! もしあなたがどうしても、あれをけしからんとおっしゃりたいのでしたら、それも致し方ありませんが、ただあなたの口からそれを聞かされるのは、わたしにとってなかなかつらいことです! わたしがこんなことをいうからとて、腹を立てないでください。わたしの胸はいつも掻きむしられるようなのです。貧しい人たちは気まぐれです、それはもう自然そういう具合につくられている。わたしは前にもそのことを感じていましたが、今は一層つよくそれを感じます。彼らは、つまり貧乏人は、気むずかしいのです、世間を見る目もちがうし、往来を通る人をも横目で睨み、いじけた目つきで周囲を見まわして、なにか自分のことをいっているのではあるまいかと、ひとことひとことに耳を澄ますのです。あれはなんだ、なんだってあの男はあんなに見てくれが悪いのだろう? いったいやつは何を心に感じているのだろう? あの男をこっち側から見たらどんなものだろう、あっち側へまわったらどんなに見えるだろう? とまあ、いったような次第です。ヴァーリンカ、いわずともしれたことで、貧乏人はぼろ屑よりも劣っていて、たとえどんなに書き立てようとも、だれからも尊敬してもらわれないのは周知の事実です! あのへぼ文士どもが何を書き立てたところで、貧乏人は依然貧乏人です。どうしてそんなに依然として変わりがないのでしょう? ほかでもありません、やつらにいわせれば、貧乏人は何から何まで、人と裏はらでなければならないからです。貧乏人には、それこそなにひとつ真情のこもったものもないし、名誉心なんてものはこれっからさきもあるはずがない、と思っているのです! 現にこのあいだも、エメーリャが話していましたが、どこかでこの男のためにみんなが醵金してくれたそうです、めいめいが十コペイカずつ出して、いわば公式に彼を見物したわけです。みんなはただでエメーリャに十コペイカずつやったつもりでいるけれども、どっこい大違い、やつらは貧乏人というものを見せてもらったかわりに、金を払っただけなんです。今時は慈善でさえもなんだか変なやりかたになってきましたよ……いや、ことによったら、いつもこんなやりかただったかもしれませんて! 慈善家連中はやりかたが下手なのか、それとも非常な名人なのか、二つに一つなのです。あなたはたぶんそんなことをごぞんじなかったでしょう、まあおぼえておおきなさい。ほかのことでは、われわれなんか黙って引っこんでいますが、こういうことにかけては、心得がありますからね! いったい、どうして貧乏人はすべてこういうことを心得ており、こんなふうな考えかたばかりするのでしょう? なぜでしょう? ほかでもない、経験から来るのです! たとえば、貧乏人はこういうことを承知しています、――わきのほうを一人の紳士が通って行く、これがやがてどこかのレストランへ入って行って、ひとりごとをいいだす。この腰弁はきょう何を食べるだろい? おれはソテ・パピリヨを食べるのだが、あいつはバタの入らない粥でも食べることだろう、とこうです。わたしがバタの入らない粥を食べるからって、それが紳士にとってどうだというのです? ヴァーリンカ、そういう人間がえてあるものですよ、そういうことだけを考えるやつがままあるものですよ。そういうろくでもない落首専門のへぼ文士が、ほうぼう歩きまわって、人が靴底ぜんたいをあの石の上にのせるか、それとも、爪先だけで踏みつけるかどうかと、そんなことを観察しているのです。これこれの役所に勤めている、これこれという九等官の靴の先からむき出しの指がのぞいていて、制服のひじが抜けている、などということを見てまわって、あとでそれを残らず書き立て、そのやくざな代物を印刷にする……わたしのひじが抜けているからって、それがやつらにとってどうだというのだ。ヴァーリンカ、乱暴な言葉を使うのを許してくださるなら、わたしはあえていいますが、貧乏人にもこの点に関しては、やはり羞恥心というものがあります。たとえば、あなたに処女の羞恥心があるのと同じわけです。現にあなただって、衆人環視の前で、――どうかわたしの粗暴な言葉を許してください、――裸になどはおなりにならないでしょう。さあ、それと同じ理窟で、貧乏人も自分の裏店をのぞかれて、あいつの家庭生活はどんなだろう、などとせんさくされるのを好まない、――そうなんです。それなのに、ヴァーリンカ、正直な人間の名誉と自尊心を傷つけようとする敵どもといっしょになって、あのときわたしを侮辱する必要がどこにあったのでしょう! それに、役所へ行っても、わたしはきょうまるで熊の仔か、毛をむしられた雀よろしくの恰好で、われながら恥ずかしくなって、消えも入りたい思いです。どうもきまりが悪いのです、ヴァーリンカ! おまけに服の袖からむきだしのひじが透けて見えたり、ボタンが糸のさきでぶらぶらしたりしていては、しぜん、気が引けて来る道理です。ちょうどおりあしくわざとのように、わたしの服装はこういうだらしないありさまになっているのです。いきおい気落ちせざるを得ません。それどころか!………きょうはスチェパン・カルロヴィチが、仕事のことで親しくわたしに話しかけなさいましたが、いろいろ話しているうちに、ふと何げなしといった様子で、『いやはや、きみは、マカール・アレクセエヴィチ!』とつけ足されましたが、何を考えておられたのやら、あとはいいさしにしてしまわれました。しかし、わたしはもう自分で万事を察し、はげ頭があかくなるほど赤面してしまいました。それは実際のところ、たいしたことではないけれど、なんといっても気になって、重苦しい考えが湧いて来ます。ひょっとなにか嗅ぎつけたのではあるまいか! 万が一にもなにか嗅ぎだされたら、それこそ大変だ! わたしは白状すると、ある男を疑っています、ひどく疑っているのです。なにしろ、ああいう悪人にとっては、そんなことくらい平気なんですからね! 密告するに相違ない! 他人の私生活を二束三文で売ってしまうに相違ない。やつらには神聖なものなんか、てんでないのですから。
 今こそわたしはこれがだれの仕業か知っています。これはラタジャーエフの細工なんです。彼はわたしの役所のだれかと知合いなので、きっと世間話のあいだに、尾ひれをつけてなにもかもしゃべってしまったに相違ありません。それともあるいは、あの男が自分の役所で話しだのが外部に洩れて、わたしの役所にまで伝わって来たのかもしれません。わたしたちの下宿ではみんなが何もかもすっかり知っていて、あなたの部屋の窓を指さしする始末です。それはわたしもたしかに知っていますが、ほんとうに指さしているのです。きのう、わたしがあなたのところへ食事に行ったとき、みんなが窓から首を突き出していました。おかみなどは、あんちくしょう、赤ん坊みたいな小娘とくっつきやがった、などといって、あなたのこともその後で失礼千万な呼びかたをしました。しかし、それなどもラタジャーエフのけがらわしい計画にくらべれば、ものの数でもありません。やつはわたしとあなたのことを文学の種にして、皮肉な諷刺の調子で書き立てようとしているのです。それは当人が自分でもいっていたし、下宿の親切な人たちが話してもいました。わたしはもうなにひとつ考えることもできなければ、どんなふうに決心したらいいかもわかりません。隠しても仕方のないことですが、わたしたちは神さまの怒りに触れたのです! あなたは退屈しのぎになにか本を送ってくださるそうですが、本なんかもうたくさんです! 本とは全体なんでしょう! それはまことしやかに書いたつくりごとにすぎません。小説もくだらないもので、ただ、ひま人に読ませるために書かれた他愛のないものです。どうかわたしを信じてください、わたしの長年の経験を信じてください。みんながシェークスピアとかなんとかいって、あなたを煙に巻いたにせよ、そんなことはなんでもありません。文学にはシェークスピアがある、などといってるけれど、シェークスピアだってくだらないしろものです。なにもかもまったくくだらない、ただ落首のために作られたものです!
[#地から10字上げ]あなたの
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 八月二日
 マカール・アレクセエヴィチさま!
 なにごともご心配なさらないように、神さまが万事うまくおさめてくださるでしょう。フェドーラが仕事を、自分の分もわたしの分も山のように取って来ましたので、わたしたち二人はとても楽しく働きにかかりました。たぶん、なにもかも取り返しがつくでしょう。フェドーラは、近ごろわたしの身におこったいろいろの不快なことに、アンナ・フョードロヴナが関係しているのではないかと疑っておりますが、今となっては、わたしどうでもかまいません。でも、今はどうだって同じ事です。わたしは今日どうしたものか、やたらに愉快なんですの。あなたは借金をするつもりだとおっしゃいますが、とんでもないことです! あとで返さなければならないときがくると、ひどい難儀をなさるにきまっています。それより、わたしたちともうすこし親しくなすって、もっとしげしげと遊びにいらっしゃいまし。そして、おかみさんのことなどは気にしないようになさいまし。ところで、それ以外の敵だとか、あなたに悪意を持っている人たちだとかの話ですが、それはあなたがつまらないひがみで、自分を苦しめていらっしゃるのだと、わたしははっきり信じております、マカール・アレクセエヴィチ! ご注意申しあげますが、この前も申したように、あなたの文章はたいへん調子が不揃いでございますわ。では、さようなら、いずれお目にかかってから。ぜひともおいでを待っています。
[#地から4字上げ]あなたの
[#地から1字上げ]V・D

 八月三日
 わたしの天使ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ!
 取り急ぎおしらせしますが、わたしにも多少の希望が生まれました。わたしの天使、あなたは借金をするなと書いてよこされましたが、失礼ながら、それをしないわけにはいかないのです。わたしもひどく困っていますし、あなただって、急になにか具合の悪いことがおこらないともかぎりません! なにしろ、あなたは華奢にできているのですからね。そういうわけで、わたしはぜひとも借金をしなければならぬと申し上げる次第です。さて、そこで筆を進めます。
 おことわりしておきますが、ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ、わたしは役所でエメリヤン・イヴァーノヴィチと隣り合って坐っております。ただし、あなたがごぞんじのあのエメリヤンではありません。これはわたしとご同様に九等官で、おたがいに役所ではほとんど一番の古顔、生え抜きの官吏なんです。好人物で欲のない男ですが、おそろしく無口なたちで、年じゅう熊のように無愛想な顔つきをしているのです。そのかわり、仕事にかけてはしっかりしたもので、字を書かせると、すっきりしたイギリスふうの書体で、うち明けたお話が、わたしにも負けないくらい上手に書く、――たいした人物です! わたしはこの男と一度も親しくしたことはなく、ただ、一般の習慣で、おはようとさようならの挨拶をかわすだけです。ときどき、ナイフでもいることがあると、エメリヤン・イヴァーノヴィチ、どうかナイフを、と頼むくらいなもので、要するに、いっしょに仕事をしていくうえに必要な範囲を出ないわけです。ところが、きょうその男がわたしに向かって、マカール・アレクセエヴィチ、何をそう考えこんでいなさる、ときくじゃありませんか。いかにも好意を寄せているのがありありと見えるので、わたしもうち明け話をしました。――じつは、エメリヤン・イヴァーノヴィチ、こうこういう次第でと話したのです。といっても、ぜんぶしゃべってしまったわけじゃありません、とんでもない、金輪際そんなことはしやしません、そんな気力はありません。ただ多少なにやかやうち明け話をして、じつは少々手もとが苦しい、といったようなことを洩らしただけなのです。すると、エメリヤン・イヴァーノヴィチがいうのは、それじゃ借金したら、たとえば、あのピョートル・ペトローヴィチにでも借りたらいいじゃありませんか、あの人は利息で金をまわしているんですよ、わたしも借りたことがあります。利子だって恰好なところで、因業なことはしやしませんよ。そこで、ヴァーリンカ、わたしは胸がおどる思いでした。ひょっとしたら神さまのお助けで、ピョートル・ペトローヴィチがその気持ちになってくれ、わたしに金を貸してくれるかもしれないと、そのことばかりを、ひたすら考えつづけました。わたしはもう胸算用をはじめて、おかみさんにも間代を払おうし、あなたにも融通してあげたうえ、自分の身のまわりもきちんとしよう、なにぶんいまのままでは、役所で口の悪い連中がうしろ指さすのは別としても(あんなやつらはうっちゃっておけばいい!)席に坐っているのさえ気がひけるくらいですからね。そのうえ、閣下ご自身もときおり、わたしたちのテーブルのそばをお通りになることがあるから、ひょいとわたしのほうへ目を向けられ、わたしがみっともない服装をしているのに気がおつきになったら、それこそたいへんです! 役所では、清潔で小ざっぱりしているということが、なにより第一なんですからね。閣下はおそらくなにもおっしゃらないでしょうが、わたしのほうが恥ずかしさのあまり死んでしまうだろう、――きっとそうなるに決まっている。こういうふうに考えたものですから、わたしは気を強く持ち直し、自分の恥を穴だらけのポケットに隠して、ピョートル・ペトローヴィチのところへ足を向けました。希望で胸はいっぱいながら、しかもどうなることかと、生きた心地もない、――なにもかもいっしょくたなんです。ところで、どうでしょう、ヴァーリンカ、それがすっかり他愛もないことでけりになってしまいました! ピョートル・ペトローヴィチはなにか用のあるふうで、フェドセイ・イヴァーノヴィチと話をしていました。わたしは横合いからそっとそばへ寄って袖を引きながら、ピョートル・ペトローヴィチ、もし、ピョートル・ペトローヴィチ、と声をかけました。先方がこちらを振り向いたので、わたしは言葉をつづけ、じつはしかじかかような次第で、三十ルーブリばかり、うんぬん、うんぬんとやったものです。相手ははじめ、わたしのいうことがわからないふうでしたが、わたしがなにもかもくわしく説明すると、急にからからと笑いだしたのです。ただそれっきりで、あとはそのまま黙ってしまいました。わたしがもう一度、同じことを繰り返すと、『抵当はありますかね?』といいながら、書類に顔を突っこむようにして、わたしのほうを見向きもせずに、なにか書いているのです。わたしは少々もじもじしてきました。『いや、ピョートル・ペトローヴィチ、抵当なんかありません』といって、こんど俸給を受け取り次第お返しする、なによりも真っ先に間違いなくお返しする、と釈明をはじめました。そのとき、だれかが相手を呼びに来たので、わたしはそこでじっと待っていました。やがて帰って来はしたものの、さっそくペンを削りにかかって、わたしの姿には気もつかない様子なのです。わたしは相変わらず、ピョートル・ペトローヴィチ、何とかしていただけないものでしょうか、の一点張り。相手は黙りこくったまま、わたしの言葉が耳に入らないようなふうなのです。わたしはしばらくその場に立っていましたが、えい、最後にもう一度やってみようと思って、また袖を引っぱりました。ところが、相手はただのひとことでも洩らすどころか、ペンを削り終わると、なにか書きはじめたので、そこでわたしも引きさがった次第です。こういうわけで、この連中はみんな立派な人たちかもしれないが、ただ高慢なのです。おそろしく高慢ちきなのです。――わたしなんかどうしようもありません! われわれなどは及びもつくことではありませんよ、ヴァーリンカ! それがいいたさに、わたしはこんなことを長々と書いたのです。エメリヤン・イヴァーノヴィチもやっぱり笑って、頭をひねっていましたが、そのかわりに、また希望を持たしてくれました。エメリヤン・イヴァーノヴィチは実意のある感心な男です。ある一人の男を紹介すると約束してくれました。この男はヴィボルグ区に住んでいて、やはり金貸しをしている十四等官とかだそうです。エメリヤン・イヴァーノヴィチの話によると、これならきっと間違いなしに貸してくれるとのことですから、わたしはあすいってみようと思います。え、ヴァーリンカ、あなたはどう思います? まったく借りなかったら、あがきがつかないじゃありませんか! おかみさんはほとんど追い出さんばかりの勢いで、食事もさしてくれないのですからね。それに、靴もまったくひどいありさまになっているし、服にボタンもない。いや、まだまだそれどころの段ではない! こんな不体裁がもし上官のだれかに見つかったらどうでしょう? 大変なのです、ヴァーリンカ、じつにじつに大変なのです!
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 八月四日
 優しいマカール・アレクセエヴィチさま! 後生ですから、マカール・アレクセエヴィチ、いくらでもけっこうですから、大至急お金を借りてくださいまし。今のような事情になっていらっしゃるあなたに、ご助力を願うようなことは、金輪際したくないんですけど、でも、わたしがどんな羽目におちているかをご承知くださいましたら……わたしこの下宿にはなんとしてもこのまま住んでいかれません。それはそれは恐ろしい、いやなことがおこりましたので、今わたしがどんなに取り乱して興奮しているか、想像もおつきにならないくらいです! まあ、どうでしょう、けさわたしどもの部屋へ、見知らぬ人が入って来るじゃありませんか、もうかなり年配で、ほとんど老人といっていいくらいな、勲章をいくつもつけた人なのです。わたしこんな人になんの用があるのか合点がいかないで、びっくりしてしまいました。フェドーラはちょうどそのとき、店へ買物に行っておりました。その人はわたしをつかまえて、どんなに暮らしているかだの、何をしているかだの、いろいろとたずねたうえ、返事も待たないで、自分はあの将校の伯父なのだが、甥の不行跡にひどく腹を立てている、そしてわたしたちのことを下宿じゅうへいいふらして、わたしたちの顔に泥を塗ったことに憤慨している、とことわっておいて、甥は軽はずみな若造だから、これからは自分があなたをちゃんと保護してあげるつもりだ、あなたも若い者のいうことなど、うかうか聞かないようになさいと忠告して、自分は父親のような気持ちであなたに同情し、概してあなたに父親のような感情をいだいているのだから、万事につけてあなたに力をかしてあげたい、とこんなふうにつけ足しました。わたしは思わず真っ赤になって、どんなふうに考えていいかもわからず、お礼の言葉も口から出渋りました。すると、その人は無理にわたしの手をとって、頬を突っつきながら、あなたはじつにきれいな娘さんだ、あなたのほっぺたに、えくぼがあるのがひどく気に入った(まあ、なんてことをいうのでしょう!)などといって、しまいには、自分はもう老人だからかまわないのだといいながら、わたしを接吻しようとするのです(ほんとうにいやなやつったらありませんでしたわ!)。そこヘフェドーラが入って来ました。その人はすこしどぎまぎしましたが、またあらためて、自分はあなたがつつしみ深くて行ないが正しいのを心から尊敬しています、どうか他人行儀にしないでいただきたい、なんていいだすのです。それからフェドーラをわきのほうへ呼んで、なにか奇妙な口実をつけて、いくらかお金を握らせようとしましたが、フェドーラはもちろん、受け取りませんでした。それから、やっと帰り支度をはじめましたが、今までいったことをもう一度すっかりおさらえして、また今度お訪ねするが、この次には耳環を持って来てあげます、というじゃありませんか(そのときは自分でもどうやら、ひどくてれたらしいのです)。それから、わたしに下宿を替えるようにとすすめ、自分の心当たりに一ついい部屋があるからお世話する、あなたは間代のことなど心配しなくてもよろしい、といったあげく、自分はあなたが正直で分別のある娘さんだからすっかり気に入ってしまった、ただ堕落した青年たちを警戒しなければならない、といって忠告するのです。それから、いよいよ最後に、自分はアンナ・フョードロヴナを識っているが、アンナ・フョードロヴナも近いうちに訪ねるということづけがあった、とこんなふうに申しました。そこで、わたしはなにもかも合点がまいりました。わたしは自分がどうなったのやらわれながらわかりません、こんなふうになったのは生まれてはじめてでした。わたしは思わず前後を忘れて、さんざんその男に恥をかかしてやりました。フェドーラもわたしに応援して、その男を部屋から、突き出さんばかりに追い出してしまいました。わたしたちは、これはアンナ・フョードロヴナの仕業に相違ない、と決めてしまいました。さもなければ、どこからこの男がわたしたちのことを知るわけがありましょう? さて、そこであなたにお願いいたします、マカール・アレクセエヴィチ、あなたのお助けを哀願いたします。後生ですから、こういう羽目になったわたしを見棄てないでくださいまし! どうかお金を借りてくださいまし、たといいくらかでも乎に入れてくださいまし。わたしたちは引っ越しをする費用がありませんし、かといって、このままでいることはどうしてもできないのでございます。フェドーラも同様に申してすすめております。どんなに内輪に見つもっても、二十五ルーブリばかりいるのでございます。そのお金はかならずお返しいたします。わたしが働いてご返済いたします。二、三日の中に、フェドーラがまた仕事を見つけてくれるはずですから、あまり利子が高くて二の足を踏むような場合でも、そのようなことにおかまいなく、どんな条件でも承知なすってくださいまし。あとですっかりお返しいたします。ただ後生ですから、わたしを見棄てないで助けてくださいまし。あなたが今のような状態でいらっしゃるのに、ご心配をおかけするのは、とても心苦しいのですけど、でも、あなた一人だけが頼りなのですから! さようなら、マカール・アレクセエヴィチ、わたしのことを考えてくださいまし。神さまのお助けでうまくいきますように!
[#地から1字上げ]V・D

 八月四日
 愛するヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ!
 なんという思いがけない打撃、それがわたしの心を震撼するのです! こういった恐ろしい災難が、わたしをうちのめしてしまうのです! そういう口先ばかりうまい連中や、いやらしい年寄りなどの有象無象が、天使のようなあなたを、やまいの床へ追いこもうとしているのみか、わたしまでも殺してしまおうとしているのです! いや、殺すに違いありません。誓って殺すに決まっています! こういうときにこそあなたを助けなかったら、わたしはむしろ死んでしまったほうがましです! あなたを助けることができなければ、それこそわたしは最後です。それこそほんとうに間違いなしの最後です、ヴァーリンカ。しかし、それかといって、あなたを助ければ、そのときはあなたはわたしのそばから飛んで行ってしまうのです。ちょうどふくろうやその他いろんな猛禽どもにいじめられた小鳥が、巣をのがれて行くように、飛び立ってしまうでしょう。そこがわたしの苦しいところなのです。それに、ヴァーリンカ、あなたもなんという残酷な人でしょう! ほんとうになんということをおっしゃるんです? あなたはみんなにいじめられ、侮辱されて、苦しい目をしていらっしゃるのに、わたしに迷惑をかけるのが気の毒だといって、働いて借金を返すなどと約束していらっしゃる。そんなことをすれば、まったくのところ、約束した期限までにわたしの肩を抜かせるために、体の弱いあなたが苦しい目をしなければならないじゃありませんか。ヴァーリンカ、あなたは何をいってるのか、まあ、ひとつ考えてごらんなさい! いったいなんのために縫い物をしなくちゃならないのです、働かなくちゃならないのです、そのかわいい頭を悩まし、その美しい目を悪くし、健康をそこなわなくてはならないのです? ああ、ヴァーリンカ、ヴァーリンカ! ごらんのとおり、わたしはなんの役にも立たぬ人間です、そして自分でもなんの役にも立たぬ人間だということを承知していますが、しかしちゃんと役に立つようにしてお目にかけます! わたしはあらゆる障害を克服します、自分で内職をさがして、いろんな文学者の原稿を浄書します。あの連中のところへ出かけて行きます、こちらから押しかけて行って、仕事を無理にも取って来ます。彼らはいい筆耕をさがしているのです。さがしているのはわたしもちゃんと知っています。だから、あなたにつらい目なんかさせはしません、そんなわれとわが身を削るような仕事をさせるものですか。わたしの天使、わたしは是が非でも借金します、それができなければいっそ死んでしまいます。あなたは高利にも二の足ふまないようにと書いておられますが、けっして二の足なんか踏みはしません、なんの二の足を踏むものですか、こうなったら、なにひとつ怖いものはありません。わたしは紙幣で四十ルーブリ借金を申し込みましょう、これはたいした金ではないでしょう、ヴァーリンカ、あなたはどう思いますか? 四十ルーブリという金を、一度頼んだだけで貸してもらえるでしょうか? つまり、わたしがいおうとするのは、はたしてひと目見ただけで、それだけの信用を獲得できるかどうかということです。わたしの風采を一瞥しただけで、好結果が得られるだろうとお思いになれますか? わたしにそういう印象を与える力があるでしょうか、よく考えてみてください。あなた自身のご意見はいかがでしょう、どうも恐ろしい気がします、それは病的なくらいです、まったく、病的なくらい! 四十ルーブリの中、二十五ルーブリはあなたに廻しますよ、ヴァーリンカ。銀貨で二ルーブリはかみさんにやって、残りは自分の費用にあてます。じつのところ、かみさんにはもっとやるべきはずです、というより、むしろやらなければならないのですが、事情を察して、わたしに必要な品々を数えあげてみてください。そうすれば、なんとしてもそれ以上やれないことがおわかりになります。つまり、そんなことは今さらいったってはじまらないし、また問題にする必要もありません。銀貨一ルーブリでわたしは靴を買います、今までの古い靴では、あすにも役所へ出勤できるかどうかわからないのです。ネクタイもやはり買わなければなりません、今までの分は、使いはじめてやがて一年になるのです。しかし、あなたがご自分の古い前掛でネクタイばかりか、ワイシャツの胸あてまで作ってやると約束してくださいましたから、わたしもネクタイのことはもう考えないことにします。そこで、靴とネクタイのことはもう考えないことにします。そこで、靴とネクタイはできたとして、さて、今度はボタンです! ご承知のとおり、ボタンなしでいることはできませんが、わたしの服は半分以上ボタンが取れているのです。閣下がこの不体裁をごらんになったらと思うと、体が慄えるほどです。閣下はなんとおっしゃるでしょう、――いや、たんとおっしゃるどころか!わたしはそんなお言葉など耳にも入らないでしょう、死にます、死にます、その場で死んでしまいます、そのことを考えたばかりで、恥ずかしさのためにいきなり死んでしまいます! おお、ヴァーリンカ! こうしていろいろ必要なものを買ったあとに、三ルーブリというものが残りますが、これはわたしの命をつなぐものになる、つまり半斤のたばこになるのです。わたしの天使、たばこなしにはわたしは生きていくことができません。しかも、これでもう九日というもの、わたしはパイプを口にしないでいる始末です。正直なところ、わたしもそれを買って、あなたには黙っていることもできたのですが、しかしそれでは良心がとがめます。現在あなたは不幸な目にあって、このうえもない不自由を忍んでいらっしゃるのに、わたしが勝手にいろんな楽しみをしていられますか。こんなことをすっかり申しあげるのも、良心の呵責を受けたくないからです。ヴァーリンカ、あけすけに白状してしまいますが、いまわたしはこれまでについぞなかったほどひどく困っています。かみさんはわたしをばかにしてしまって、だれひとりわたしを尊敬してくれるものはありません。言葉につくせぬほどの窮乏、借金、それに役所へ出ても、これまででさえ同僚にあまりちやほやされていなかったのが、今ではもうお話にも何にもなりません。わたしは隠れるようにしています、いっさいのことをすべての者の目から入念に隠すようにし、わが身を潜めるようにしているのです。役所へ入って行くときなども、そっと脇のほうから、みんなを避けるように入って行く始末です。こういうことも、ただ相手があなただからこそうち明ける気力があるのです……しかし、もし万一、貸してくれなかったら! いや、よしましょう、ヴァーリンカ、そんなことは考えないほうがいい、そんなことを考えて取り越し苦労をしたってつまりません。わたしがこんなことを書くのも、あなたがそんなふうのことを考えて、取り越し苦労に頭を悩まされるといけないと思って、ご注意したかったからなのです。ああ、もしそんなことにでもなったら、あなたはどういうことになるでしょう! もっとも、そのときはあなたが今の宿をお引っ越しにならないで、わたしもあなたといっしょにいることができるわけです、――もしあなたが行ってしまったら、わたしは二度と帰って来ません、もういきなりどこかへ姿を消してしまいます。長々と書き立てましたが、これから顔を剃らなければなりません、そうすれば、いくらか体裁がよく見えるでしょう、体裁がいいというものは、いつでもなにかの足しになるものです。まあ、どうかうまくいきますように! ひとつ神さまにお祈りして出かけることにしましょう!
[#地から1字上げ]M・ジェーヴシキン

 八月五日
 優しいマカール・アレクセエヴィチ!
 せめてあなただけでも絶望などしないでくださいまし! それでなくてさえ悲しいことばかりなのですから。――銀貨で三十コペイカお送りいたします、これ以上はどうしても都合がつきません。これで、いちばんお入用のものをお購めくださいまして、せめて、あすまでもなんとかおしのぎになりますように。わたしどものほうでもほとんどなにひとつ残っておりません、ですから、あすはどうなるやらわからない始末でございます。なんてわびしいことでしょう、マカール・アレクセエヴィチ! でも、くよくよなさらないでくださいまし! うまくいかなかったものは、なんともいたしかたがございません! フェドーラはまだそんなに困ることはない、まだしばらくはこの宿にこうしていることができる、と申しております。それに、よしんば引っ越したにしても、たいしていいことはないだろうし、向こうでその気にさえなれば、どこへ行ったって、嗅ぎ出されてしまうだろう、とこうも申すのでございます。でも、やはりここにこうしているのは、なんだか気持ちが悪うございます。もしこんなに気が沈まなければ、なにやかや書いてさしあげるのですけれども。
 あなたはなんて不思議なご性分なのでしょう、マカール・アレクセエヴィチ! あなたはなんでもあまり気になさりすぎます、それでは年じゅうこのうえもない不幸な人間になっておしまいになるでしょう。わたしはあなたのお手紙を一つ一つ注意して拝見しておりますが、どのお手紙でも、わたしのことで気を揉んだり苦しんだりして、ご自分のことはちっともおかまいにならないのが目につきます。それはもちろん、どなたでもあなたのことを、いい心のかただとおっしゃるでしょうが、わたしはあまりお心がよすぎると申しあげたいのでございます。わたし親友としてご忠告申します。マカール・アレクセエヴィチ。あなたがわたしのためにつくしてくだすったすべてのことに対しては、わたし感謝しております。しみじみと身にしみて感じております。そこでお考えを願いたいのですが、あなたがああいう不幸を経験なすったあとで(その不幸もわたしが知らず識らずのうちに原因となったのですが)、今でさえわたしの生活を生活とし、わたしのよろこびをよろこびとし、わたしの悲しみを悲しみとし、わたしの心を心としていらっしゃるのを見て、わたしの気持ちがどん
なか、お察し願います! もし人のことをそんなにまで気にして、なにもかも真剣に同情していたら、まったくのところ、このうえなしの不幸な人間になってしまうじゃありませんか。きょうあなたがお勤めの退けたあとでお寄りくださいましたとき、わたしはお顔を拝見して、びっくりしてしまいました。真っ青な顔をして、おびえきって、さも絶望したようなご様子をしていらっしゃるんですもの、そのお顔色ったらありませんでしたわ。それというのもみんな、話がうまくいかなかったことを、わたしにうち明けるのが恐ろしかったからでございます、わたしを驚かせわたしを悲しませるのが恐ろしかったからでございます。ところが、わたしがほとんど笑いださんばかりなのをごらんになると、あなたもどうやら胸の重荷がおりたらしいご様子でした。マカール・アレクセエヴィチ! あなたもくよくよしたり絶望したりなさらないで、もっと分別をお持ちになってくださいまし、お願いです、手を合わせてお祈りします。まあ、今に見ていらっしゃいまし、なにもかもうまくまいりますから、すっかり良いほうへ向かいますから。そんなに年じゅうひとの不幸でくよくよしたり、胸を痛めたりしていたら、生きていくのが苦しくおなりになりますわ。では、さようなら。お願いですから、あまりわたしのことをご心配になりませんように。
[#地から1字上げ]V・D

 八月五日
 愛するヴァーリンガ!
 いや、ありがとう、ありがとう! わたしが金を調達できなかったからといって、それはさほどたいした不幸じゃないとおっしゃってくださる。いや、ありがとう、わたしは安心しました。あなたのために幸福を感じています。むしろあなたがこの老人を棄てないで、今の下宿にそのままいてくださるのが嬉しいくらいです。なにもかもうち明けて申しあげると、あの手紙にわたしのことをたいへんよく書いてくだすって、わたしの感情を正しく評価し、賞讃してくだすったのを見て、わたしの心は喜びでいっぱいになってしまいました。わたしがこんなことをいうのは、慢心からではなく、あなたがわたしの気持ちをそれほどまでに案じてくださる以上、わたしを愛していてくださるのだということがまざまざとわかるからです。いや、よろしい、今さらわたしの気持ちなんかなにもいうこともありません! 気持ちはまあ気持ちとして、あなたはわたしにあまり小心にならないようにといってくださる。わたしの天使、それはなるほどそのとおりでしょう、そんな小心なんてものがいけないのは、自分でも承知しています。しかし、それにしても、あすわたしがどんな靴をはいて勤めに出なくてはならないか、それを考えてみてください! そこなんですよ、なにしろこうした考えが、人間を破滅させることもあるんですからね、それこそ完全に破滅させることがあるんです。しかも、肝腎なのは、わたしがくよくよしたり、苦しんだりしているのは、自分のためではないということです。わたしなんか厳寒の日に外套も着ず、靴もはかないで外を歩いたって平気です、わたしは我慢します、すべてを堪え忍びます。わたしなんかなんでもありません、わたしは平凡なつまらない人間です。――けれども、世間の人がなんというでしょう? もしわたしが外套なしに出かけて行ったら、あの口の悪いわたしの敵どもは、みんなでどんなことをいいだすかしれやしません。じっさい、外套を着て歩くのも世間のためなら、靴をはくのもどうやら世間のためらしい。こうなると、靴はわたしの名誉と品位とを保つために必要なので、穴だらけの靴をはいていれば、それが両方ともふいになってしまう、というわけです。――ほんとうです、あなた、わたしの長年の経験を信じてください、世間も知り、人間をも知っているこの老人のいうことを信じて、へぼ文士や駄作家の言葉に耳をかさないことです。
 ところで、きょうの顛末がじっさいどんなふうであったかを、まだくわしくお話ししませんでしたが、わたしはずいぶんひどい目にあいました。わずかこの半日のあいだに、普通の人なら一年かかっても経験することがないだろうと思われる、ひどい精神的苦痛を堪え忍んだのです。それはこういう次第でした。まずわたしは例の男にも会い、役所のほうも遅刻しないように、朝うんと早く出かけました。きょうはひどい雨で、じつにいやな天気でした! わたしは外套にくるまって、てくてくと歩きながら、『神さま! どうかわたしの罪をゆるして、望みをかなえてくださいますように』とのべつ考え続けたものです。**教会の前を通りかかったときには、十字を切って、ありとあらゆる罪を懴悔しましたが、ふと自分などは神さまにおすがりするだけの資格がないのだと思いだしました。わたしは自分のもの思いに没頭してしまって、あたりのものになにひとつ目をくれる気にもなりませんでした。そういうわけで、もう道の見境もなく、ずんずん歩いて行きました。往来は淋しくがらんとして、ときたま出会う人といったら、みんないやに忙しそうな心配らしい顔をしている。それも不思議のない話で、だれがこんな朝っぱらから、こんな天気の悪い日に散歩になど出かけるものですか! 出会うのは、汚いなりをした労働者たちで、すれ違いざまに私にぶっつかるじゃありませんか。不作法な百姓! わたしはおじけがついて、不気味になって来ました。もうまったくの話が、金のことなんか考えたくないくらいで、運否天賦でやって見ろ、というくらいの気持ちでした! ヴォスクレセンスキイ橋のたもとで片方の靴のかかとが離れてしまって、もうそれからさきは、どんな恰好で歩いて行ったか、われながら見当もつかないほどでした。そのとき、役所の書記のエルモラーエフにぱったり行き会いました。ぴんとそっくり返って立ったまま、さも酒手でも貰いたそうな目つきをして、ひとを見送っているじゃありませんか。わたしは腹の中で、ちえっ、酒手なんて、なんの酒手どころの話がい! と、考えたものです。わたしはひどく疲れてきたものですから、立ちどまってひと息入れ、それからまた、とぼとぼ歩き出しました。なにか考えを移してまぎらせ、心にはずみをつけるようなものが何かないかと、わざわざあたりを見まわしたけれど、いっこうそんなものがない。なにひとつ考えを移すようなものがない。おまけに、すっかり泥だらけになってしまって、われとわが身が恥ずかしいようなありさまです。そのうちにとうとう望楼ふうの中二階のある、黄いろい木造の家がはるか目に入りました。ははあ、あれがそうなんだな、エメリヤン・イヴァーノヴィチがいったマルコフの家だな、と考えました(その金貸しをしている男は、マルコフという苗字なんです)。わたしはもうそのとき前後も覚えないようなありさまになって、マルコフの家だと承知しながら、交番の巡査にあれはだれの家かとたずねたものです。その巡査はひどい不作法もので、まるでだれかに怒ってでもいるような、さも面倒くさそうな調子で、歯のあいだから言葉を押し出すようにしながら、あれはマルコフの家だ、といいました。巡査なんてものは、みんな温い気持ちの欠けた連中ですが、しかし、わたしはなにも、巡査などにかまったことはありません。ただ何から何まで妙に不愉快な、いやな印象を与えるものばかりで、それがあとからあとへと重なっていくのです。人間は何を見ても、自分の境遇に似通った感じを引き出して来るもので、それは、いつもそんなふうに決まっています。わたしはその家の前の通りを三度行ったり来たりしましたが、そうして歩いていればいるほど、いよいよいやな感じがして来るのです。いや、これは貸してくれそうもない、金輪際、貸してくれやしない、と思いました。わたしは見ず知らずの人間だし、用件もいいだしにくい性質のものだし、風采からいっても押出しがきかず、――そう思いながらも、なに、当たって砕けろ、あとで後悔しないように運を天に任せよう、当たって見たからって、べつに食い殺されもしまいと決心して、そっと木戸をあけました。すると、そこにもう一つ災難が待ちかまえているじゃありませんか、やくざなばかげた番犬がからんできて、やっきとなってここを先途と吠え立てるのです。こういったちょっとしたくだらないことが、いつも人に前後を忘れさせたり、おじけづかせたりして、前から用意しておいた決断を台なしにしてしまうものです。こういうわけで、わたしは生きた心地もなく内へ入って行きました。入るとまたいきなり、もう一つの災難にぶっつかったのです。薄っ暗いものだから、しきいぎわに何があるやら見わけがつかず、ひと足またいだと思うと、だれかしら一人の女房にぶっつかったのです。その女房は牛乳をしぼり、桶から瓶へ注ぎ分けていたところなので、牛乳をすっかりこぼしてしまいました。ばか女房は金切り声を立てて、おまえさんはいったいどこへ行くんだね、なんの用なのとわめき立て、ひとを畜生呼ばわりまでするじゃありませんか。わたしがこんなことを書くのも、こういった場合にいつも同じようなことがおこるからなので、つまり、そういう生まれ合わせにできていると見えます。年じゅうわたしはなにかやくたいもないことにひっかかってしまうのです。この騒ぎを聞きつけて、鬼婆よろしくのフィンランド生まれのかみさんが、首を突き出しました。わたしはいきなり、ここはマルコフさんのお住まいですか、とたずねました。おかみは、いませんよといって、そこに突っ立ったまま、わたしをじろじろ見まわしながら、『いったいあなたはどういうご用なんです?』わたしは、エメリヤン・イヴァーノヴィチの紹介でこれこれだと説明し、それからまあ、いろいろくわしい話をしたあとで、ちょっと用件があるものですから、といいました。婆さんは大きな声で娘を呼びました。娘が出て来るのを見ると、もう年ごろなのに、はだしでいる。『おとうさんを呼びなさい、二階の下宿人のところにいるから、――さあ、どうぞ』わたしは入って行きました。ちょっとした部屋で、壁に絵がかかっているが、それはたいてい、将軍の肖像かなにかなのです。長いすに円テーブルが置いてあって、木犀草や鳳仙花の鉢が並んでいる。わたしは腹の中で、こりゃ足もとの明るいうちに引きさがったほうがよくはないか、いっそ帰ろうか、どうしよう? と、とつおいつ考えたものです。まったくのところ、わたしは逃げだそうかと思いましたよ! これはどうもあす出直したほうがよさそうだ、あすなら、天気もよくなるだろうから、きょうのところは見合わすことにしよう、きょうはあんなに牛乳をこぼしたし、将軍たちもひどく怒りっぽい顔をしてにらんでいるから……こう考えて、わたしはもう戸口のほうへ歩き出そうとしていると、そこヘマルコフが入って来ました。押出しの悪くない、胡麻塩頭の泥棒まなこをした男で、油じみた部屋着の上から、ひもを帯がわりに結んでいるのです。どうして、何用で来たのかときくから、わたしもかくかくの次第で、エメリヤン・イヴァーノヴィチから紹介されて来た、四十ルーブリばかり拝借したい、困ることがあるから、といいだしたが、しまいまではいいきれませんでした。相手の目を見ただけで、これはものにならんな、と悟ったのです。『いや、事情はいずれにもせよ、わしは金なんか持っちゃおらん、それともなにか抵当に入れるものでもありますかね?』わたしはべつに抵当などはないけれど、そのエメリヤン・イヴァーノヴィチの紹介で……と弁明をはじめました。――要するに、金がいるということを説明したわけです。相手はすっかり聞いてしまってから、いや、エメリヤン・イヴァーノヴィチがどうしたというのだ! わしは金なんか持っておらん、とこうなんです。ははあ、そうか、なにもかもそのとおりだ、前からちゃんとわかっていた、虫が知らせていた、とわたしは心の中で考えました。いやはや、ヴァーリンカ、まったくのところ、わたしは足下の大地が真っ二つに割れてくれたら、そのほうがまだましだという気がしましたよ。ぞっと寒けがして、足はかたくなり、背筋を蟻でも這うような気持ちなんです。わたしは相手の顔を見つめているし、先方もこちらの顔をにらみつけている。そして、どうだ、もう帰ったらいいだろう、おまえなんか、こんなとこにいたって仕方がないじゃないか、といわんばかりの態度なのです。これがほかの場合だったら、気がさしていられなかったに相違ありません。『いったいどうしたというのです、なんのために金がいるのです?』(まあ、こんなことをきくじゃありませんか!)わたしはぽかんと立っているのが気まずさに、口を開こうとしましたが、相手はそれを聞こうともせず、『いや、金なんかありません、ご用立てしたいのはやまやまだが』というのです。わたしはもう一生懸命に、ほんのちょっとのあいだ用立ててもらえばいいので、かならずご返済します、期限までにご返済します、それどころか、期限前にお返しするし、利息もどれだけ取ってくだすってもかまわない、大丈夫、間違いなしにお返しするからと、いろいろさまざまに口説き立てた。わたしはその瞬間、あなたのことを思い出しました、あなたの不幸と貧苦を残らず思い出しました。あなたからちょうだいした五十コペイカを思い出しました。『いや、だめです、利息はどうでも、抵当がなくちゃ! それに、だいいち、わしは金を持っておらん、誓って持っておらんのだ、ご用立てしたいのはやまやまだが』といって、誓いまで立てやがるんです、強盗め! さて、こういうわけで、わたしはどうしてそこを出たか、どんなふうにヴィボルグ区を通って、ヴォスクレセンスキイ橋に出たか、さらにおぼえがないくらいです。くたくたに疲れて、凍えきって、慄えあがるよう。こうして役所に顔を出したのは、もう十時でした。すこし服の泥を落とそうと思うと、門衛のスネギリョフが、いけません、ブラッシを台なしにしてしまいますよ、ブラッシは、だんな、おかみのものですからね、というじゃありませんか。今ではこの連中さえそんな具合なのです。わたしはこの連中の目から見ると、靴の泥を拭くぼろきれにも劣っているのですからね。ヴァーリンカ、わたしを苦しめているのは何だと思います? わたしを苦しめているのは金じゃなくて、こういった浮世の苦労です、みんなのひそひそ話、にたにた笑い、それから意地の悪い冗談。閣下までがいつ、なにかの拍子にわたしのことを注意なさるかもしれません。おお、わたしの黄金時代は過ぎ去りました! きょうはあなたの手紙をぜんぶ読み返してみました。わびしい気持ちです! さようなら、わたしの親しい人、神さまがあなたを守ってくださいますように!
[#地から1字上げ]M・ジェーヴシキン

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二伸 ヴァーリンカ、わたしは自分の悲しみを冗談まじりにお伝えしたいと思ったのですが、どうやらその冗談はうまくいかなかったらしい。わたしはあなたを慰めてあげるつもりだったのです。お住まいにお寄りします、きっとお寄りします。
[#ここで字下げ終わり]

 八月十一日
 ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ!
 わたしの愛する人! わたしは破滅です、わたしたちは二人とも破滅です、二人ともども完全な破滅です。わたしの名誉も体面も、なにもかもだめになってしまいました。わたしも破滅なら、あなたも破滅です。あなたはわたしといっしょにすっかり破滅してしまったのです! それというのも、わたしのせいです、わたしがあなたを破滅に導いたのです! わたしは迫害され、軽蔑され、笑いぐさにされています。かみさんは頭からわたしに悪態をつくようになりました。きょうもさんざんどなり散らして、糞味噌にこきおろし、木っぱほどの値打ちもないようにしてしまいました。ゆうベラタジャーエフのところで、誰かがわたしの手紙の下書を声高々と読み上げたのです、それはわたしがあなたに宛てて書いたのを、うっかりポケットから取り落としたのでした。みんなで、どんなに笑い倒したことやら! わたしたちのことをさんざんに囃したてて、ころげまわって笑うのです、まるで裏切者の集まりだ! わたしはそこへ入って行って、ラタジャーエフの背信を暴露したうえ、きみは裏切者だといってやりました! すると、ラタジャーエフは、きみこそかえって裏切者で、女をひっかけるようなことばかりやっているのだ、きみはわれわれに隠れて、なにかこそこそやっているじゃないか、きみはラヴレイス(イギリスの小説『クラリッサ・ハーロウの生涯』(チャードソン作)の主人公、女性征服者の代名詞)だ、と答えました。で、今ではみんながわたしのことをラヴレイスと呼んで、ほかの名前はなくなったようなありさまです! どうでしょう、わたしの天使、まあ、どうでしょう、――彼らは今みんな知っています、なにもかも知り抜いています。あなたのことも知っていれば、あなたに関係したことも何から何まで、すっかり知っているのです! それどころか! ファルドニまでやつらとぐるになって、同じように生意気な真似をするじゃありませんか。きょうもわたしが彼を腸詰屋へ使いにやって、なにやかや買って来させようとすると、やつは行こうとしないで、用事がありますという! だって、それがおまえの務めじゃないか、とわたしがやりこめると、『いいえ、務めなんかありゃしません。だって、あなたはおかみさんに金をお払いにならないんだから、わたしもあなたの用をしてあげる義務なんかありません』と、こうです。わたしはこんな無教育な百姓に侮辱されて、我慢がならなかったものですから、ばかといってやりました。するとあいつは『どっちがばかやら』とやり返すじゃありませんか。酔っ払ってそういう無礼なことを口にするのだと思ったものですから、わたしは、『きさま、酔っているな、この土百姓め!』といってやりました。すると、『いったい、あなたがわたしに飲ましてくだすったことでもありますかね? そういうご自分が迎え酒を買う金でも持っておいでかね。自分こそ、だれかさんに二十コペイカ無心しているくせに』といって、またつけ加えるのです。『やれやれ、あれでもやっぱりだんななのかい!』どうです、こんなことにまでなり果てたのです! ヴァーリンカ、生きていくのが気恥ずかしいくらい! まるで追放者か、旅行免状を持たない浮浪人にも劣るありさまです。なんて不幸でしょう! わたしは破滅です、ただもう破滅です! 完全に破滅してしまいました。
[#地から1字上げ]M・D

 八月十三日
 優しいマカール・アレクセエヴィチ! わたしたちの頭上にはあとからあとからと不幸がふりかかってまいります。わたしはもう自分でもどうしたらいいのかわかりません! これからあなたはどうなっていくのでしょう。それに、わたしもあまりあてにしていただくことができなくなりました。きょう鏝《てこ》で左の手をやけどしてしまいました。うっかり取り落としたものですから、打身ができるやら、やけどをするやら、なにもかもいっしょでございます。とても働くことはできません、それに、フェドーラももうこれで三日病気しております。わたしは心配で心配でたまりません。銀貨で三十コペイカお送りいたします、これがわたしたちのほとんど最後のものでございます。今あなたが困っていらっしゃるのを、なんとかお助けしたい気持ちでいっぱいなのは、神さまもご照覧ですけれど、ほんとうに涙がこぼれるほどくやしゅうございます! では、さようなら! もし今夜おいでくだされば、たいへんわたしにとって慰めになるのでございますが。
[#地から1字上げ]V・D

 八月十四日
 マカール・アレクセエヴィチ! あなたはいったいどうなすったのでございます! きっと神さまをお恐れにならないのでしょう! それではただわたしを気ちがいにしておしまいになるばかりです。それであなたは恥ずかしくないんですの! あなたは、われとわが身を滅ぼしていらっしゃいますが、すこしは体面ということもお考えなさいまし! あなたは正直で潔白な、名誉というものをわきまえていらっしゃるかたではありませんか。もしみんながあなたのことを知ったら、まあ、どうなさるおつもりでございます! それこそ恥ずかしさのあまり、死んでおしまいにならなければなりません! それとも、あなたはご自分の白髪に対して気がおとがめにはなりませんの? ほんとうに神さまをお恐れにならないんでしょうか! フェドーラが、もうこれからあなたをお助けしないといっておりましたが、わたしもあなたにお金をさしあげないことにいたします。マカール・アレクセエヴィチ、あなたはわたしをどんな目にお遭わせになったのでしょう! ご自分がそんなに身を持ち崩していらしても、わたしは平気でいるだろうなんて、きっとそんなふうにお思いなんでしょう。わたしがあなたのおかげで、どんなつらい思いをしているか、あなたはまだごぞんじないのでございます! わたしは、下宿の階段を通ることさえできません。みんながわたしをじろじろ見て無遠慮に指さしをし、それはそれは恐ろしいことをいうのでございます。そうですの、もういきなり、あれは酔っ払いとくっついているのだ[#「酔っ払いとくっついているのだ」に傍点]と申しています。それを聞くわたしの気持ちはどんなでしょう! あなたが家へ担ぎこまれて来ると、下宿人たちはみんなさもばかにしたようにあなたを指さして、ほら、あの役人が担がれて来たよ、というのでございます。わたしはあなたのために、たまらないほど気恥ずかしい思いをさせられています。誓って申しますが、わたしはここを引き払ってしまいます。どこかへ、女中か洗濯女に住みこんでもかまいません、とにかく、ここにはいないつもりです。こちらからは、訪ねて来てくださるようにと手紙をさしあげたのに、あなたはいらしてくださいませんでした。つまり、わたしの涙や哀願は、あなたにとってはなんでもないのでございましょう、マカール・アレクセエヴィチ! だいいち、どこからお金を手にお入れになったのでしょう? どうか、後生ですから大切になすってくださいまし! あなたは破滅しておしまいになります、ほんとうにつまらなく破滅しておしまいになります! それは恥ずかしいではありませんか、それこそ、ひどい恥さらしではありませんか! ゆうべなどは、おかみさんが、内へ入れるのを承知しなかったものですから、あなたは入口の廊下で夜をお明かしになりました。わたしはなにもかもぞんじております。それを知ったときのわたしが、どんなにつらい思いをしたか、それはあなたにわかっていただけたら! どうかわたしどもへいらしてくださいまし、家へいらっしゃれば、あなたも気が晴々となさいましょう。いっしょにご本を読んだり、昔の思い出話をしようじゃありませんか。フェドーラは自分が巡礼をして廻ったときのことを話してお聞かせするでしょう。わたしのためだと思って、ご自分の身を滅ぼすようなことをしないでください。そして、わたしをも破滅させないでくださいまし。だって、わたしはあなただけのために生きているのですし、あなたのためにおそばを離れないで、こうしているのじゃありませんか。それなのにこのごろのあなたはどうしたのでしょう! どうか立派な人間になってください。不幸の中にも毅然と立ってください。貧困は悪にあらず、ということをお忘れになってはいけません。それに、なにも絶望することはないではありませんか、こんなことはみんな一時のことですもの! そのうちにはなにもかもよくなってまいりますから、ただ、今のところだけ、しっかりしていてくださいまし。二十コペイカお届けしますから、たばこなりなんなりお好きなものを買ってください。ただよくないことにだけは、後生ですから、お費いにならないように。わたしどもへいらしてください、ぜひともいらしてくださいまし。あなたは相変わらずきまり悪がっていらっしゃるかもしれませんが、恥ずかしがりなさることはいりません、それは間違った羞恥心です。ただあなたが心から後悔してくださればけっこうなのです。神さまをお頼りなさいまし。神さまがなにもかもよくしてくださいます。
[#地から1字上げ]V・D

 八月十九日
 ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ!
 わたしは恥ずかしい、ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ、まことに恥じ入りました。とはいうものの、そこにはなにか特別たいしたことがあるのでしょうか? どうして、気晴らしをしてはならないのでしょう? 酒を飲むと、わたしは自分の靴のかかとのことなど考えなくなります。なぜなら、靴のかかとなんてくだらないもので、いつまでたったところで、ただの下品なけがらわしいかかとに変わりはないからです。それに、靴だってやはりばかげたことです! ギリシャの賢人だって、靴をはかずに歩いていたのですから、われわれ風情がどうしてこんなくだらないものに気をつかうことがありましょう? してみると、この場合、なんのためにわたしを侮辱するのです、なんのために軽蔑するのです。ああ、ヴァーリンカ、あなたも書くのにことを欠いて、よくもあんなことが書けましたね! フェドーラにもそういってください、あれはわからずやの、小うるさくって、やかましい、おまけにばかな女だ、お話にならないばかな女だ、といってください! ところで、わたしの白髪の問題ですが、その点でもあなたは思いちがいしておられます。というのは、わたしはけっしてあなたの考えていられるような年寄りではないからです。エメーリャがあなたによろしくと申しました。お手紙によると、あなたはさんざん嘆き悲しんだとのことですが、わたしもご同様、嘆き悲しんだことを申し上げます。末筆ながら、あなたのご健康とご無事を祈ります。くだってわたしも同じく健全無事で、依然として変わらぬあなたの親友です。
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 八月二十一日
 親愛なる友ヴァルヴァーラ・アレクセエヴナ!
 わたしは自分が悪かったということを感じ、あなたに対して申しわけないことをしたと痛感しております。しかし、わたしの愚考するところでは、あなたがなんとおっしやろうとも、こんなことを感じたところで、なんの役にも立ちはしません。わたしはあの失策を演ずる前から、そんなことはすっかり感じていたのですが、それにもかかわらず、意気沮喪してしまいました、われとわが罪を意識しながら堕落したのです。わたしは意地悪でもなければ、残酷な人間でもありません。あなたの心をずたずたに引き裂くためには、まさしく血に飢えた虎にならなければなりません。ところが、わたしは羊のような心を持っていて、あなたもご承知のとおり、残忍な傾向などは持ち合わせておりません。したがって、あの失態はかならずしもわたしの罪でもなく、またわたしの心や頭の罪でもありません。もうこうなると、何が悪いのやらわたしも見当がつきません。じつに混沌たる事情なのです! あなたは銀貨で三十コペイカ、その次にまた二十コペイカ送ってくださいました。わたしは頼りないあなたの金を見ると、胸がしくしくうずき出しました。お手をやけどなすったとのこと、やがて飢えに迫られることになる身でありながら、わたしにたばこを買えとおっしゃる。こういう場合、わたしはいったいどうするのが、ほんとうなのでしょう? もういっそ良心の呵責などにはおかまいなしに、強盗同様、頼りないあなたの身の皮を剥ぎ始めるべきでしょうか? そのときわたしは意気沮喪してしまったのです。つまり、まず最初に、自分はなんの役にも立たない人間だ、靴のかかとよりほんのすこしばかりましな人間だと感じるようになり、自分がなにか意義のある人間だと思うのが、ぶしつけに感じられてきました。それどころか、自分自身がなにかぶしつけな、ある意味において不作法な存在のようにさえ考えはじめた次第です。こうして、自分自身に対する尊敬を失い、自分のよき資質と品位を否定することに専念しはじめるが早いか、さあ、もうなにもかもがらがらに崩れて、いよいよ堕落がはじまったのです。否応なしの堕落がはじまったのです! これはもう運命に定められたことで、わたしが悪いのではありません。わたしははじめすこし風に当たろうと思って外へ出ました。すると、何から何まで申し合わせたようなのです。あたりの自然が今にも泣きだしそうな様子で、陽気は寒いし、雨まで降っている。そこへもって来て、エメーリャにぱったり出くわしたじゃありませんか。ヴァーリンカ、彼は持ち物をありったけ曲げこんで、なにもかもしかるべきところへいってしまったので、わたしが会ったときには、もうまる二日というもの、けし粒一つ口に入れなかったような始末、すんでのことで、どうにも曲げることのできないものさえ曲げてしまおう、というところでした。なにしろ、そんな質種なんかないのですからね。そこでどうでしょう、ヴァーリンカ、わたしは自分のしようと思ったことに従うよりも、人類に対する同情の念に負けてしまいました。こういういきさつであの不始末が持ちあがったのです! わたしたちは二人でいっしょにずいぶん泣いたものですよ! あなたのこともうわさしました、彼はじつに善良な、このうえもなく気のいい男で、おまけにすこぶる感じやすい人間なんです。わたしは自分でもそれがよく感じられます。そういったふうのことを感じやすいがために、万事ああしたことがもちあがるのです。わたしの天使、わたしは自分がどれだけあなたのお世話になったか、ということは承知しています! だいいち、あなたという人を知ったために、わたしは自分自身をもいっそう認識するようになり、あなたをも愛しはじめたのです。わたしの天使、あなたという人を知るまでは、わたしはほんの一人ぼっちで、まるで眠っているようなものでした、まったくこの世に生きていたものとはいわれません。彼らわたしの敵どもは、わたしの風采さえもぶしつけだといって、わたしを毛嫌いしたものですから、そこで、わたしも自分を毛嫌いするようになったのです。みんながわたしのことを愚鈍だというものですから、わたしもほんとうに自分を愚鈍だと思っていました。ところが、あなたが目の前に現われると同時に、わたしの暗澹たる生活を照らしだしてくだすったので、わたしの心も魂も光をはなって、わたしは心の平安を得、自分もべつに他人より劣ってはいないのだ、と悟りました。見たところはべつに光ったところもなく、輝かしいところも、上品なところもないけれど、とにかく、自分は人間である、感情からいっても思想からいっても人間に相違ないと悟ったのです。ところが、今度、自分は運命に迫害され虐げられていると感じたために、わたしはもっぱら自分の価値を否定するようになり、自分の不幸に頭を掻き乱されて、意気沮喪してしまったのです。今ではあなたはなにもかも承知していらっしゃるのですから、もうこれ以上この問題をおたずねにならないように懇願します。なにぶん、わたしの胸は引き裂けんばかり悲しく、苦しいのです。
[#地から4字上げ]あなたを尊敬してつねに変わることなき友
[#地から1字上げ]マカール・ジェーヴシキン

 九月三日
 マカール・アレクセエヴィチ、この前の手紙はしまいまで書き終わらなかったのでございます。書いていくのが苦しくなったからでございます。わたしはどうかすると、一人ぼっちになって、一人で話相手もなく悲しんだり、くよくよしたりするのが心楽しい、そういうときがちょいちょいあるのですが、それがだんだんと繁く訪れてくるようになりました。わたしの思い出の中には、なにかしら自分にも説明できないようなものがあって、それがなぜとも知らず、ぐんぐんと力強くわたしを引きつけていくので、わたしは幾時間も、幾時間も、周囲のいっさいのものに対して無感覚になり、現在のいっさいを忘れつくすのでございます。今のわたしの生活では、楽しいものにもせよ、苦しいものにもせよ、悲しいものにもせよ、過去にあった似寄りのことを思い出させてくれる印象、わけてもわたしの黄金時代ともいうべき少女時代を思い出させないものは、なにひとつないのでございます! けれど、そういう瞬間を経験したあとでは、いつも苦しくなってまいります。わたしは妙に衰弱を覚えます、空想好きの傾向がわたしの根《こん》を疲らせます、健康はそれでなくてさえ悪くなるいっぼうなのですけれど。
 でも、きょうはすがすがしい、晴れわたった輝かしい朝で、この土地の秋にも珍しいくらいでございます。わたしは生き生きとした気持ちになり、喜ばしくこの朝を迎えました。こうして、早くも秋がわたしたちを訪れたのです! わたしは田舎にいたころ、どんなに秋が好きだったでしょう! わたしはまだ子供でしたけれど、その時分からもう、いろいろのことを感じていました。秋の夕暮れは明けがたよりも好きでした。今でもおぼえていますが、わたしの家からほんのひと足しかない坂の下に湖がありました。その湖は、――今でも目の前に見るような思いがしますが、――この湖は広々として、まるで水晶のように清らかに澄んでいました! よく静かな夕方などは、湖水も穏やかで、岸に生えている樹々もそよとも音を立てず、水は鏡のようにじっと動かずにいます。その涼しいこと! 寒いくらいです! 露が草におりて、岸の家々に灯影がちらつきはじめ、家畜の群れが牧場から追われて帰って来る、――そういうときにわたしは自分の好きな湖を眺めるために、そっと家を抜けだして、よくいつまでも一心に眺め入ったものです。すぐ水際のところで、漁師たちがなにかの枯枝を燃やしていると、その光が水面に遠く伸びていく。空は寒々と青み渡って、その端々には火のように真っ赤な縞が点綴せられ、その縞がしだいしだいに薄れていきます。やがて月が昇ると、大気は冴えきって、ものに驚いた小鳥が飛び立つのも、葦がそよ風にさらさらと鳴るのも、小魚が水面を跳ねるのも、なにもかも残らず聞こえるのです。青い水面には白い、うっすらした、透明な水蒸気が立ちのぼる。遠景は黒ずんでいって、もの皆が霧の中に沈んでゆくけれども、近くのほうのものはまるで鑿《のみ》で刻んだもののように、くっきりと輪郭を見せています、――小舟、岸、島、岸辺に置き忘れられているなにかの櫞がかすかに水に揺られ、黄ばみかかった葉をつけた柳の枝がひと筋、蘆の中に絡まり、帰り遅れたかもめがさっと舞いあがったかと思うと、冷たい水に胸を浸し、それから、またもや空高く舞いあがって、霧の中に消えてしまう、――わたしはいつまでも見とれて、じっと耳を澄ましています、――なんというすばらしさ、なんという気持ちの好さ! それでいて、わたしはまだ子供だったのです、ほんのねんねだったのです……
 わたしは秋が大好きでした、――もう穀物をとり入れて、野良の仕事をすましてしまい、百姓家の中では夜のつどいがはじまって、みんなが冬の訪れを待っている、そういった晩秋のころが好きでした。そのころおいになると、あたりが一帯に憂欝になって来て、空は雲におおわれて光を失い、あらわになった森のへりに黄色い落葉が小径のように敷きつめられ、森はしだいに青黒くなっていく。――夕方、湿っぽい霧がおりて来て、樹々が巨人のように、醜く恐ろしい幻めいて、霧のあいだからちらちらとほの見えるときなどは、なおさらもの淋しい感じがするのでした。よく散歩のときなど連れにはぐれて、夕方おそく一人で家路に急ぐときのその不気味さ! 体が自然に木の葉のように慄えてきて、今にもあのうつろの中からなにか恐ろしいものがのぞきそう。とかくするうちに、風が林をわたって、ごうごうと騒ぎはじめ、さも哀れげな呻き声を立て、痩せ細った枝から木の葉を雨と降らせて、空中に巻き上げる。すると、そのあとから小鳥が、長い、幅の広い、騒がしい群れをなして、けたたましい刺しとおすような鳴き声を立てながら飛んで行く。空はために黒くなって、一面におおいかくされてしまう。恐ろしい気持ちになっていると、ちょうどそのときだれかの声が聞こえるように思われてくる。だれかが小さな声で、『駆けだせ、駆けだせ、子供、遅れるな、いますぐここで恐ろしいことがおこるぞ、駆けだせ、子供!』と、ささやくような気がする。恐怖が心をかすめる。で、わたしはいきなり駆けだす、息もとまりそうなほど駆けだす。はあはあいいながら家へ駆けもどると、家の中は賑やかで、楽しげに思われる。やがて子供たち一同に仕事が当てがわれる、豌豆かけしの殼をとるのです。煖炉の中ではなまの薪がぱちぱちとはぜ、母は楽しげにわたしたちの賑やかな仕事ぶりを見まもっている。年取った乳母のウリヤーナが、過ぎ去った昔の話をしたり、魔法使や死人などの怖いお伽噺をして聞かせる。わたしたち子供らは、たがいにひしと身を寄せ合っているが、それでも一同の唇には微笑が浮かんでいる。そのうちに、ふと一時に黙りこんでしまう……しっ! なにか音がする! だれかが戸をたたいているようだ! ところが、それはなんでもなく、フローロヴナばあさんの糸車が唸っているのでした。そこで、どっとばかり笑いくずれる! それから、夜になると、恐ろしくて寝られない、恐ろしい夢の数々を見たあげく、ふと目がさめると、身動きするのもはばかられて、夜が明けるまで蒲団の下で慄えている。朝になると、また花のようにすがすがしい気持ちで床を離れる。窓を覗いて見ると、野は一面に霧がおりて、薄い秋の霜の花があらわな枝に垂れ、紙のような薄氷が湖に張りつめ、その水面からは白い水蒸気が立ち昇って、楽しげな鳥の鳴き声が聞こえる。太陽はあたり一面に明るい光をみなぎらせ、その光線がガラスのように薄い氷をみしみしと割っていく。明るくて、晴ればれとして楽しい気持ち! 煖炉の中では、またもや火がぱちぱちと音を立てている。一同がサモワールを囲んで食卓につくと、窓の外では夜っぴて寒さに震えていた黒犬のポルカンが内を覗きこんで、朝の挨拶でもするように尻尾を振っている。一人の百姓が元気のよい馬に跨がって、窓のそばを通り過ぎる、森へ薪を取りに行くのです。みんながすっかり満足しきって、いかにも楽しそう!………*[#「*」は行右小書き]こなし場には穀物がしこたま積んである、藁で屋根をした大きな大きな禾堆《にお》が、太陽の光に金色に輝いて、見るからにこころよい! だれもかも落ちついた気持ちで、だれもかもが喜ばしそうです。神さまがすべての人を祝福して、豊作を贈ってくだすったのです。一同はこの冬じゅう穀物にこと欠かないのを承知しています。百姓は自分の家族や子供たちがひもじい思いをしないということを、ちゃんと心得ています。それゆえ、夜ごとに娘たちの甲高い歌声が絶えることなく、円舞の遊びが繰り返される。またそれゆえに、一同は祭日のたびに神の宮殿《みやい》で、感謝の涙を浮かべながら、祈りを捧げるのです!………*[#「*」は行右小書き]ああ、わたしの少女時代は、なんという黄金時代だったでしょう!………
[#ここから32字詰め]
 註 *~*一八四七年の作品集に収録のさい作者自身が削除した部分。
[#ここで字詰め終わり]
 いまもわたしは自分の追憶に引きこまれて、子供のように泣いてしまいました。わたしはなにもかもを生き生きと思いおこしました。過去が目の前にいろ鮮やかに浮かびあがりましたが、それに引き替えて、現在はなんという味けない暗澹たる色をしていることでしょう!………これは結局どうなることでしょう、ほんとうにどうなることでしょう? じつはわたし、なにか妙な予感がいたしますの、この秋はきっと死ぬに違いないという、一種の確信でございます。わたしはとてもとても体が悪いのです。よく死ということを考えますが、それでも、こんなふうで死にたくありません、――ここの土地に埋められるのはいやなのです。もしかしたら、わたしはまたこの春みたいに、床についてしまうかもしれません。なにぶん、あれからまだ十分もとの体になっていないのですもの。ですから、今でもわたしはとても苦しいのです。フェドーラはきょうどこかへ出かけて、いちんち留守なので、わたしは一人でぽつねんとしています。いつごろからか、わたしは一人ぼっちでいるのがこわくなりました。だれだかもう一人、わたしといっしょに部屋の中にいて、なにやらわたしに話しているような気がしてなりません。ことにわたしがなにか深く考えこんでいて、ふいにはっとわれに返ったようなときなど、わたしは恐ろしくなるくらいでございます。それだものですから、ついこんな長いお手紙を書いてしまいましたの。書いていると気がまぎれるものですから。さようなら、もう紙も時間もありませんから、これでおしまいにいたします。わたしが着物や帽子を売ったお金も、残り一ルーブリしかありません。あなたはおかみさんに二ルーブリお払いになったそうですね。ほんとうにけっこうでした。あのひともいましばらくのあいだはおとなしくしているでしょう。
 あなたの服、なんとかして修繕なさいまし。さようなら、わたしすっかり疲れてしまいました。どうしてこんなに弱くなったのか合点がいきません、ほんのちょっと仕事をしても、すぐ疲れてしまうのですもの。仕事が見つかっても、これではどうして働けましょう。そう思うと悲しくてなりません。
[#地から1字上げ]V・D

 九月五日
 愛するヴァーリンカ!
 わたしの天使、わたしはきょういろいろの印象を味わいました。第一にわたしはいちんち頭痛がしました。なんとかして気晴らしをしようと思って、フォンタンカヘ散歩に出かけました。それは薄暗い湿っぽい夕方でした。五時過ぎにはもう暗くなる、――これが近ごろの陽気なのです! 雨は降っていませんでしたが、そのかわり、いい加減な雨には負けないくらい霧がひどいのです。空には黒雲が幅の広い、長い帯になって流れていました。人がうようよ河岸通りを歩いていましたが、それがみんな申し合わせたように恐ろしい、見ただけでも気のめいるような顔をした連中で、酔っ払った百姓、長靴をはいて帽子もかぶっていない獅子っ鼻のフィンランド女、労働者、馭者、なにかの用事で歩いているお仲間の小役人、腕白ども、見るからに痩せ衰え、煤と油で真っ黒な顔をして、縞の部屋着を引っかけ、手に錠前を持っている鍛冶屋の下職、六尺豊かの退役兵士、――これがその群集の顔ぶれなんです。察するところ、ちょうどそういった時刻にぶっつかったために、これより以外の人たちは、見当たるはずがなかったというわけらしい。フォンタンカは、あれでも船の通る掘割なんですね! 数えきれないほどの艀《はしけ》の数で、どこにこれだけのものが隠してあったのかと、あきれ返るほどでした。橋の上には湿った生姜餅《しょうがもち》や、腐りかけたりんごを売る女たちが坐りこんでいるが、みんな薄汚い恰好をして、濡れしょぼけているのです。フォンタンカを散歩するのはわびしい感じです! 足の下は濡れた花崗岩《みかげいし》で、両側には煤けて黒くなった高い家が並んでいる。足もとも霧、頭の上も霧です。きょうはじつに憂欝な、じつに陰気な夕方でした。
 わたしがゴローホヴァヤ街に曲がったときには、もうとっぷりと日が暮れて、ガス燈に灯がつきはじめたころでした。わたしはずいぶんまえからゴローホヴァヤ街には来たことがありませんでした。――そういうおりがなかったのです。賑やかな町! 豊かに商品を並べた大小の店、ガラスの中に納まっている織物や花、リボンのついたさまざまな帽子、なにもかもが、燃え輝いているのです。ちょっと見ると、これはみな飾りに並べてあるのだという気がするけれど、ところがそうではなくて、これらの品々を買って行って、細君にやる人たちがほんとうにいるのです。豪奢な町! このゴローホヴァヤ街には、ドイツ人のパン屋がなかなか大勢住んでいるが、これもみな裕福な連中に相違ありません。絶えず行きかう馬車の数はたいしたもので、よくこれで舗道がこわれないことだと思われるくらいです! じつに見事な馬車、窓ガラスは鏡のようだし、なかはビロードと絹で張ってあり、馭者までが貴族然として、肩章をつけ剣を吊っているのです。わたしは一つ一つの馬車を覗いて見ましたが、どれにも美しく着飾った貴婦人が坐っていました。おそらく、公爵令嬢とか伯爵夫人とかいうのでしょう。きっと時刻がそういう時で、みんな舞踏会や夜会に急いでいたものと見えます。公爵夫人とか、そのほか概して、上流の貴婦人を間近に見るのは興味のあることで、すこぶる気持ちのいいことに違いないけれども、わたしはかつて一度も見たことがありません。せいぜい今のような具合に、馬車の中を覗いて見るくらいのものです。そのとき、わたしはあなたのことを思い出しました。ああ、愛するヴァーリンカ! あなたのことを思い出すと同時に、胸がしくしく痛んできました! ヴァーリンカ、どうしてあなたはそんなに不幸なんでしょう? わたしの天使! いったいどこがみんなに比べて劣っているのでしょう? あなたは気立てが優しくって、美しくて、学問もおありなのですが、どうしてそんな不仕合わせな運命を背負わなければならないのでしょう? こうして、立派な人が落魄《らくはく》しているのに、一方では幸福が自分のほうから押しかけて来るというような人がいるのは、いったいこれはどうしたことなのでしょう? わかっています、わかっています、こんなことを考えるのはいけないことで、これは自由思想というものです。しかし、ほんとうのところ、実際の話が、あるものはまだ母親の胎内にいるときから運命の烏に幸運を告げ知らされ、またある者は養育院でこの世の光を見る、などというのはいったいなぜでしょう? なにぶん、幸運がイヴァンのばかに授けられるというのも、ままあるならいです。これ、イヴァンのばかよ、おまえは先祖代々の金袋を掻きまわして、飲んで食って楽しむがいい。ところが、きさま、だれそれはただ指をくわえて見ているがいい、きさまなんかはそれだけの値打ちしかないのだ、とこういうわけです! これは罪です、こんなことを考えるのは罪です、が、この場合、こういう罪な考えが自然と心に浮かんでこずにはいられないのです。もし、あなたがああいう馬車に乗って往来してごらんなさい、そうすれば、われわれ風情の連中でなく、立派な将軍がたがあなたの優しい視線を捉えようとして一生懸命になるでしょう。もし、あなたが着古した縞木綿の着物やなにかでなく、おかいこぐるみに金銀を飾って歩いてごらんなさい。そのときは今のように痩せてしょぼしょぼしていず、まるでお砂糖人形のように生き生きとして、頬にもほんのり赤味がさし、肉づきもよくなるに違いありません。もうそうなると、わたしなどは、往来から光まばゆい窓ごしにちらとあなたを見ただけで、ほんのあなたの影を見ただけで、幸福を感じるでしょう。ああ、かわいい小鳥、あなたが幸福で楽しく暮らしていらっしゃると思っただけで、わたしも気がうきうきとして来るでしょう。ところが、現在はどうでしょう! 腹の黒い連中があなたを破滅させたばかりでなく、どこの馬の骨ともしれないやくざな放蕩者が、あなたに侮辱を加えるじゃありませんか。そいつが身に合った燕尾服を伊達に着こなして、金の柄つき眼鏡であなたをじろじろ見れば、その恥知らずはもう万事おかまいなし、あなたはそのけがらわしい言葉を、黙って謹聴していなければならないのです! いや、たくさんだ、ほんとうにそれでいいものだろうか! いったいこれはどうしたわけでしょう? ほかでもない、あなたが身なし児だからです、たよりのない身の上だからです、しっかりした柱になってくれる有力な友達がないからです。そもそもその男は何ものでしょう、身なし児を辱しめて平然としているのはどういう連中でしょう? それはどこかのやくざものです、人間じゃなくて、ただの屑です。一応は人間の仲間に入っているけれど、そのじつ、人間でもなんでもありゃしない、わたしはそう確信しています。まったくやつらはそういう連中なのですよ! わたしにいわせれば、きょうゴローホヴァヤ街で出会った手まわし風琴屋のほうが、あんな連中よりかえって尊敬に価するくらいです。その風琴屋はいちんち歩きまわって、ふらふらに疲れながら、他人が僅かばかりのはした金を投げてくれるのを待って、それで口をすごそうとしているのです。しかし、そのかわり自分が自分のご主人さまで、自分で自分を養っています。他人のお恵みを貰うのはいさぎよしとしないが、そのかわり、多くの人を楽しませるために、ぜんまい仕掛けの機械同様に働いて、わたしはできるだけのことをしてみなさんを楽しませてあげるのです、と心の中でいっている。それは乞食です、たしかに乞食です、なんといっても乞食には相違ない。そのかわり、上品な乞食です。疲れて凍えきっていながら、やっぱり働いている。自己流ながらもとにかく骨を折っている。世の中にはこういう正直な人たちがたくさんおります。自分のちから相応、人に益をもたらして、たとえ僅かながらも金を稼ぎ、だれにも頭を下げず、日々のパンを人に無心などしません。わたしなどもちょうどこの風琴屋と同じことです。いや、まったく同じだというわけじゃありません、わたしはけっして風琴屋ではありませんが、特別な高潔な意味で、貴族的な意味で、彼と同じように自分の力だけの働きをしている、できるかぎりの勤めをしているわけです。わたしにはたいした働きはできませんが、ない袖は振られない道理ですからね。
 わたしがこの風琴屋のことなどいいだしたのは、きょうたまたま貧乏の苦しさを、いつもに倍して痛感させられたからです。わたしは立ちどまって風琴屋を見ていました。どうもいやな考えばかり頭に浮かぶので、気をまぎらすために、ちょっと足をとめたのです。そこに立っていたのは、わたしのほかに、辻馬車の馭者が四、五人と、どこかの女中らしいのが一人と、それから、ひどく汚いなりをした小さな女の子でした。風琴屋はどこかの窓の下に陣取っていました。見ると、そこに男の子が一人いました。見たところ十ぐらいの年恰好で、顔立ちは好いのですが、見るからに病身らしく痩せこけて、何か着てはいたものの、シャツ一枚も同然で、足はほとんどはだしに近く、ぽかんと口をあけて音楽を聞いている、――やっぱり子供ですね! ドイツ人が人形を踊らすのを、一心に見入っているのですが、手も足も凍えてこちこちなのです。ぶるぶる慄えながら、袖口を噛んでいました、見ると、その手にはなにかの紙きれを持っている。そこヘ一人の紳士が通りかかって、風琴屋にいくらか小銭を投げてやりました。銭は、フランス人が貴婦人たちといっしょに踊っている花園をかたどった箱の中にちょうど落ちました。銭の音がちゃりんとするが早いか、その少年はぴくっと身慄いして、おずおずとまわりを見まわしたが、どうやら、わたしが金を投げたものと思ったらしい。いきなりわたしのそばへ駆け寄りましたが、いたいけな両手はぶるぶる慄え、声も慄えているのです。彼はわたしに紙切れをさし伸べて、『書きつけ!』といいました。その書きつけをあけて見ると、なに、たいていわかりきった紋切型で、『お慈悲ぶかい皆さまがた。一人の母親が死にかかって、三人の子供が飢えに迫られております、どうかわたくしどもをお助けくださいまし。やがてわたくしが死んでいきましたら、ただ今この幼いものどもにおなさけをかけてくださいましたそのお礼に、あの世でも皆さまのことは忘れはいたしません』といったようなことです。なに、取り立てていうまでもなくわかりきった話で、世間によくある出来ごとの一つです。しかし、わたしとして何をやることができましょう? で、結局なにもやりませんでした。それにしてもじつにかわいそうでしたよ! 寒さで土気いろになった貧しい少年、もしかしたら飢えきっているのかもしれない、これはうそじゃない、たしかにうそじゃない。こういうことはわたしにもよくわかっているのです。ただいけないことというのは、なぜこうしたあさましい母親たちは子供をいたわらないで、この寒空に半分はだか同然の姿で、書きつけなど持たして外へ出すのでしょう? おそらく、母親は愚かな女で、甲斐性がなく、おまけに、だれも面倒を見てくれる者がないために、安閑として家に坐っているのでしょう、もしかしたら、ほんとうに病気なのかもしれません。それにしても、しかるべきところへ相談に行ったらよさそうなものじゃありませんか。けれど、ひょっとしたらただのかたりで、人をだますために、わざと飢えて痩せさらばえた子供を物乞いに出し、本物の病人にしてしまおうとしているのかもしれない。それに、こんな書きつけを持ち歩かされる哀れな子供は、いったいどんなことを習い覚えるだろう? ただ心がすさんでいくばかりです。彼らは駆け歩き飛びまわって、ほどこしを乞うているが、みんなはさっさと通り過ぎてしまう。それに、ひまもないのです。人々の心は木石で、その言葉は残酷なものばかり、『どけ! うせやがれ! ふざけるな!』こういう言葉をみんなから聞かされているうちに、子供の心はしだいにすさんでいきます。まるで、こわされた巣から落ちた雛鳥のように、おどしつけられてしまった哀れな少年は、むなしく寒さに慄えているのです。手足はかじかんで息もつまってくる。そのうちに、やがてごほんごほんと咳をするようになる。こうなると本物の病気も遠いことではない。病いはいまわしい毒虫のように少年の胸へ這いこむ。あげくのはてには、どこかのむさ苦しい片隅で、みとりの人もなく、救いの手もないありさまで、死の手につかまれてしまう、――それが彼の一生なんです! こういう一生も世の中にはあるものです! ああ、ヴァーリンカ、ほどこしを乞う言葉を聞き流して素通りし、『神さまが助けてくださるよ』というだけでなにもやらないのは、じつにせつないものです。ほどこしを乞う言葉も、ときによると、なんでもないこともあります(ほどこしを乞う調子もいろいろありますからね)。たとえば、長々とひっぱったような、馴れっこになった、練習の功を積んだ、いかにも乞食然としたのがあります。こんなのにほどこしをしないでも、それほどつらくはありません。それは、古くから長いこと物乞いをしている商売の乞食で、そんなのはすっかり馴れっこになっているから、なんとか切りぬけていくだろう、また切りぬけるすべを知っているだろう、とこちらも考える次第です。ところが、また中には不馴れな、ぶっきらぼうな、恐ろしい物乞いの調子が聞かれます。現にきょうなども、わたしが男の子から書きつけを受け取ろうとしたとき、すぐそばの塀のきわに、だれやら一人立っていました。これは、通る人ごとには無心をしないのですが、そのときわたしに向かって、『おくんなよ、だんな、一文でもいいから、後生だよ!』といったが、それがじつに乱暴な、ちぎってぶっつけるような声なので、わたしは一種おそろしい感じにぶるっと身慄いしました。が、金は恵んでやりませんでした。なかったのです。ところがまた、金のある人たちは、貧乏人がはかない運命を訴える声を聞くのが嫌いなのです。うるさい、しつこい! というわけです。またじっさい、貧乏人というものはいつもうるさがられます。いったい貧乏人のひもじそうな呻き声が、安眠を妨害するとでもいうのでしょうか!
 うち明けたことを申しますと、わたしがこんなことをこまかく書き出したのは、ひとつには気をまぎらすためでもありますが、むしろそれよりもわたしの文章のいいところを一つ、実例としてお目にかけたかったからです。というのは、あなたも間違いなく認めてくださることと思いますが、近ごろ、わたしの文章はおのずから体をなしてきたからであります。しかし、今、深い憂愁が襲って来て、わたしはわれながら心底から自分の考えに同感せずにはいられないのです。もっとも、こんな同感などはなんのたしにもならないことは、自分でも承知していますが、それにしても、多少自分の正しさを認めたい気持ちになるのです。じっさい、われわれはよくなんの原因もないのに自分で自分を卑下して、一文の値打ちもないように考えこみ、こっぱにも劣るもののように、自分で自分を片づけてしまうものです。もし、比喩をかりていうならば、それも畢竟《ひっきょう》、わたしがあのほどこしを乞うた貧しい少年のように、迫害され、いじめ抜かれた人間だからでしょう。もう一つ例をあげて、たとえ話のようにいってみましょう。朝早く役所へ急ぎながら様子を眺めていると、町がしだいに目をさまし、床を離れ、煙を立て、ざわめき、どよもしはじめるのがわかります。どうかすると、そういう光景に対しているうちに、自分という人間がひどく小さな者に感じられ、もの好きらしく突き出している鼻を、指先でだれかにはじかれたような気がします。そこでおとなしく、しおしおとして道をたどりながら、あきらめて手を振るのです! ところで、この真っ黒にすすけた大きな建物の中ではどんなことをしているか、見てごらんなさい。すっかり内の様子を見すかしてごらんなさい、そうすれば、やたらに自分を卑下して恐縮してしまうのが、はたして正しいことかどうかがわかって来ます。ヴァーリンカ、注意しておきますが、わたしは比喩的にいっているので、直接文字どおりの意味ではありません。そこで、これらの家々でどんなことをやっているか観察してみましょう。その中では煙だらけの片隅で、必要上やむをえず部屋と呼ばれている、じめじめした犬小屋みたいな穴の中で、一人の職工が目をさまします。この男はゆうべよっぴて、まあ、たとえていえば、きのううっかり裁ち違えた靴の夢ばかり見ていたのです。まるで、こんなやくざなしろものが人間の夢に現われるのが当たり前みたいなふうなんです! しかし、まあ、この男は職工であり靴屋であってみれば、自分の商売もののことばかり考えるのは、無理からぬ次第です。子供らはぎゃあぎゃあ泣いているし、女房はすき腹をかかえている。ときによると、こんなふうに朝、目をさますのは、あながち靴屋ばかりとは限りません。これはつまらないことで、ことさら書き立てるほどではないのですが、しかし、ここにこういう事情が存在するのです。ほかでもない、同じくこの家の一階上か下に、金碧|燦爛《さんらん》たる住まいがあって、そこに住んでいる大金持ちが、やはりひと晩じゅう靴の夢を見た、ということもありうる話です。といっても、まるで違った型のしゃれた靴なんですが、とにかく靴には違いない。なにじろ、わたしがここで暗示している意味合いでは、われわれはすべて多少は靴屋なのですからね。しかし、これも同様、たいしたことではないとしても、いけないことが一つあります。つまり、この大金持ちのそばにしかるべき人間がいないことです、彼の耳に口を寄せ、『そんなことばかり考えるのはたくさんだ、自分一人だけのことを考え、自分一人だけのことに生きるのはたくさんだ。おまえは靴屋ではないから、子供たちは達者だし、細君だって飢えを訴えるようなことはない、よくあたりを見まわして、自分の靴なんかよりもっと高尚なもので、自分の心をわずらわす価値のあるものが見当たりはしないか!』とささやいてやるものがいないことです。わたしがもののたとえにいいたいと思ったのはこれなんですよ、ヴァーリンカ。これはもしかしたら、あまりに自由すぎる考えかたかもしれませんが、しかし、こういう考えが隠れていて、ときどき頭に浮かんでくるのです。すると、それが知らず識らず熱烈な言葉となって、胸からほとばしり出るのです。こういうわけですから、ただぎょうさんなかけ声やお祭騒ぎに胆をつぶして、自分をびた銭一枚くらいに値ぶみするのは、つまらない話です! 最後に申しあげておきますが、あなたはひょっとしたら、それは中傷|讒誣《ざんぶ》だとか、ふさぎの虫にとっつかれたからだとか、それともなにかの本から抜き書きしたのだとか、そんなことをおっしゃるかもしれませんが、それは違います、どうかそんな疑いは晴らしてください、断じて違います。わたしは中傷讒誣を忌《い》み嫌っていますし、ふさぎの虫にとっつかれたこともなく、どんな本からも抜き書きなんかしたことはありません、まったくです!
 わたしはわびしい気持ちで家へ帰ると、テーブルに向かって腰をおろし、急須を暖めて、お茶でも一、二杯飲もうと支度しているところへ、ふと見れば、貧しい同宿のゴルシコフが入って来るじゃありませんか。わたしはもうけさから気がついていたのですが、彼はなんだか、のべつほかの下宿人のところをうろつきまわって、わたしのそばへも寄りたそうな様子をしていたのです。ついでにいっておきますが、この一家の暮らしはわたしなどと比べても、お話にならないほどひどいものです。どうして、どうして! なにしろ女房子があるのですからね! もしわたしがゴルシコフで、かりに彼の立場に置かれたとしたら、それこそ、何をしでかしたかわからないほどです! さて、そこでこのゴルシコフが入って来