『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『分身』(ドストエフスキー作、米川正夫訳)P133-184(1回目の校正完了)


分身
――ペテルブルグの叙事詩――
フョードル・ミハイロヴィッチドストエフスキー
米川正夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)住居《アパート》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|夏の園《レートニイ・サード》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)[#4字下げ]第1章[#「第1章」は中見出し]

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[#4字下げ]第1章[#「第1章」は中見出し]

 朝の八時ちょっと前であった。九等文官のヤーコフ・ペトローヴィチ・ゴリャードキンは長い眠りからさめて、一つ欠伸をし、のびをして、さてそれからようやくはっきり目を開けた。とはいうものの、まだ二分ばかりは、本当に目をさましたのか、それとも眠っているのか、いま自分の周囲にあるいっさいのものがうつつであり現実であるのか、それとも、まとまりのない夢のつづきなのか、まだ十分に確信のない人間といった様子で、じっと寝床の中に身を横たえていた。しかし間もなく、ゴリャードキン氏の感覚はだんだんはっきりと明瞭に、いつもお馴染みの印象を受け入れるようになった。小さな部屋の青い壁が煤と埃で薄汚れたのから、マホガニイの箪笥、マホガニイまがいの小いす、赤い色で塗り上げたテーブル、緑色の小花模様を散らした紅い模造皮張りのトルコ式長いす、それから最後に、ゆうべ大急ぎで脱いで、その長いすの上にくしゃくしゃに丸めてほうり出した服などが、なれなれしげに彼を眺めているのだった。いよいよそのしんがりとしては、どんよりと薄汚い灰色の秋の日がさも腹立たしげに、何ともいえぬしかめ面をして、曇ったガラス越しにのぞきこんでいるので、ゴリャードキン氏も今はもうなんとしても、自分が現在いるところはお伽噺国か何かではなく、首都ペテルブルグのシェスチラーヴォチナヤ(六軒店街)の、大きな堂々とした家の四階に借りている自分の住居《アパート》の中であることは、疑うべくもなかった。この重大な発見をすると、ゴリャードキン氏はつい先ほどまでの夢の名残りを惜しみ、せめてつかの間なりとも呼び戻そうとするかのように痙攣的に目をふさいだ。けれどもたちまち、一気に寝床の中から跳び起きた。察するところ、まだはっきりまとまりかねている散漫な彼の頭脳が、今まで堂々めぐりをしていた一つの観念に、またぞろはまりこんだがためらしい。寝床から跳び出すと、彼はすぐさま、箪笥の上に置いてある小さな円い鏡のほうへ駆け出した。鏡に映ったのは寝ぼけ眼《まなこ》をしょぼしょぼさした、いいかげん頭の薄くなった姿で、一見したところ、まったくだれの注意も惹かない安手なものであったが、その持主はどうやら、鏡の中に見えたものに徹頭徹尾、満足しているらしかった。
「もし、きょうおれが何かやり損ったら、それこそ大変だぞ」とゴリャードキン氏は小声にひとりごちた。「何か見当違いなことがもちあがったら、たとえば、なくもがなのにきびか何かが飛び出したり、またはほかに何か、いやなことがおっ始まったりしたら、それこそ大変だぞ。だが、今のところは悪くないて、今のところは万事とんとん拍子にいってるからな」
 万事うまくいっているというのに大満悦の体《てい》で、ゴリャードキン氏は鏡を元の場所へ置くと、当人まだはだしで、そのうえいつも寝床へもぐりこむ時の慣いになっている恰好のままでいるにもかかわらず、窓のほうへ飛んで行って、内庭の中をきょろきょろと目でさがし始めた(彼の住居はこの内庭のほうに面して、([#割り注]都会の大きな建物の中にあるアパートは、街路に面しているのが上等で、内庭、すなわち建物の中央に採光のため空けてある方形の庭に面したのは位が落ちるのである[#割り注終わり]))。見受けたところ、彼に内庭の中に発見したものにもすこぶる満足らしく、その顔は悦に入ったような微笑に輝き渡った。さて、それから――といっても、まず仕切りごしに下男のペトルーシカの小部屋をのぞいて、そこにペトルーシカのいないことを確かめると、爪先立ちでテーブルに近寄り、一つの抽斗を開けて、いちばん奥のほうを掻きまわしていたが、ついに古い黄ばんだ書類やがらくたの下から、手ずれのした青い紙入れを取り出し、そっと用心ぶかく開けて、さも大事そうな楽しげな面もちで、底の底になった秘密な物入れをさしのぞいた。おそらく、緑、ねずみ、青、赤その他さまざまな色をした目もあやな紙幣が、これも同じく愛想のいい好もしげな表情で、ゴリャードキン氏を眺めたことだろう。彼は晴れ晴れとした顔つきで、開いたままの紙入れを前のテーブルの上に置き、このうえもない満足のしるしに、手を強くこすり合わせた。とどのつまり、彼はその楽しい兌換券の束を抜き出して、昨日から数えてかれこれ百回近くになるのだが、一枚一枚を親指と人差指で念入りにこすりながら勘定を始めた。
「七百五十ルーブリ!」と彼は最後に、なかばささやくようにいった。「七百五十ルーブリと……相当な金高だぜ! これだけあれば悪くないて」札束を手に握りしめ、意味ありげにほくそ笑みながら、嬉しさのあまりいくらか弱々しげに響く震え声で、彼は言葉をつづけた。「これだけあれば悪くないぞ! だれの身にしても悪くはなかろうて! これをはした金とおっしゃる御仁《ごじん》の顔を、今すぐ拝見したいものだて。これだけの金があれば、人間一匹えらくすることだってできようというもんだ!」
『それはそうと、いったいこれはどうしたというのだ?』とゴリャードキン氏は考えた。『ペトルーシカのやつ、どこへ行きやがったんだろう?』相も変わらず同じいでたちのままで、彼はもう一ど仕切りの向こうをのぞいてみた。ペトルーシカはやはり仕切りの向こうに姿を見せず、そこの床の上に置かれたサモワールが、一人でかんかんに腹を立て、癇癪を起こしていた。今にも噴きこぼれてやるぞ、とおどかしてでもいるように、舌っ足らずみたいな、聞きとりにくい調子で、何やら熱くなって早口にしゃべり立てていたが、おそらくゴリャードキン氏に向かって、「だんな、早くわたしを持ってください、わたしはもうちゃんと沸いて、用意ができてるじゃありませんか」とでもいっているのであろう。
『いまいましい!』とゴリャードキン氏は考えた。『あのなまけ者の悪党め、これじゃいよいよ堪忍袋の緒を切らせやがるわい。どこをほっつき歩いてやがるんだ?』しごく無理からぬ憤慨にかられながら、彼は控え室へ入って行った(といっても、それはじつのところ、小さな廊下なのであったが)、そのはずれに玄関に通じる扉があった。ゴリャードキン氏がちょっとそれを開くと、そこに、下男、召使、その他の有象無象に取り囲まれているペトルーシカの姿が目に入った。ペトルーシカが何かしゃべっており、ほかの連中がその聴き手になっているのであった。見たところ、そのおしゃべりの題目も、またおしゃべりそのものも、ゴリャードキン氏のお気に召さなかったらしい。彼はさっそくペトルーシカを呼んで、すっかり不満足らしいというより、むしろ機嫌を損じた様子で部屋へ引っ返した。
『あの悪党め、びた銭一枚くらいで、人を売りかねまじいやつだ、主人だってなんだって、容赦はありゃしない』と彼ははらの中で考えた。『いや、もう売ってしまったんだ。きっと売ってしまったに相違ない、それがちがったら、首でもくれてやらあ。びた銭一枚で、売りやがったに相違ない……うん、何だ?』
「お仕着せが届きましたんで、だんな」
「じゃ、そいつを着てここへ来い」
 ペトルーシカは仕着せを着こんで、にたにた馬鹿笑いをしながら、だんなの部屋へ入って来た。その奇妙きてれつないでたちといったらなかった。彼は金モールの剥げた、ひどく着古された緑色の仕着せを一着に及んでいたが、それは見るからに、ペトルーシカより一尺も背の高い男に合わせて仕立てられたものだった。手には同じく金モールと緑の羽飾のついた帽子を持ち、腰には革製の鞘にはまった従僕用の剣を下げていた。
 最後にこの珍妙な恰好の画竜点睛として、ペトルーシカはいつも不断着で歩きまわる得意の癖をまたぞろ出して、今もはだしなのであった。ゴリャードキン氏は、ペトルーシカを仔細に点検したが、その結果どうやら満足したらしい。この仕着せは明らかに、何か晴れの場所へ出るために損料で借りたものと察しられた。なおそのうえ、ペトルーシカは点検を受けている間、一種妙な期待の表情で主人の顔を眺め、なみなみならぬ好奇の色を浮かべて、その一挙一動を追っていた。それがありありと見え透いているので、ゴリャードキン氏はすっかり照れてしまった。
「そう、ところで、馬車は?」
「馬車も来ております」
「まる一日の約束だな?」
「まる一日で。二十五ルーブリでごぜえます」
「長靴も持って来たな?」
「長靴も持って来ました」
「でくの坊め! 持ってまいりましたといえないのか。そいつをここへ持って来い」
 長靴もぴったり合ったので、満足の意を表しながら、ゴリャードキン氏は茶を命じ、洗面と髭剃りの用意を整えさせた。ごく念入りに髭を剃り、同様念入りに顔を洗って、大急ぎで茶をすすった後、いよいよかんじんかなめの大事な身支度に取りかかった。ほとんど真新しいズボンをはき、次に青銅のボタンのついた胸甲をつけ、すこぶる鮮やかな色をした気持ちのいい花模様のチョッキを着こみ、くびには派手な絹のネクタイを締め、最後にこれも新しい、丁寧にブラシをかけた制服を着た。着つけをしながらも、彼は幾度か自分の長靴をほれぼれと眺め、かわるがわる片足ずつ上げてはその型に見とれ、絶えず口の中で何かぶつぶついいながら、時おりわれとわがもの思いに合槌でも打つように、意味深長な表情で顔をしかめるのであった。もっとも、その朝ゴリャードキン氏はひどくそわそわしていたので、ペトルーシカが着つけを手伝いながら、主人にあてつけて薄笑いをしたり、しかめ面をしたりしているのに、ほとんど気がつかないのであった。やがて、ついになすべきことをすっかり終わって着替えをすますと、ゴリャードキン氏は紙入れをポケットにしまい、さて、とっくりとペトルーシカをうち眺めた。これも長靴をはき終わって、同様すっかり身支度がととのっていたのである。何もかもできあがって、もうこのうえぐずぐずしていることはないと見て、ゴリャードキン氏はやや胸のときめきを覚えながら、忙しげにあたふたと階段を駆け下りた。何かしら紋章の入った水色の貸馬車が、がらがらと音を立てて、入口の階段わきに着いた。ペトルーシカは、馭者と二、三人の弥次馬に目くばせして、主人を馬車に助け乗せた。そして、やっとのことで馬鹿笑いを押し殺しながら、不馴れな声で、「さあ、やった!」と叫ぶなり、うしろの馬丁台に飛び乗った。こうして、馬車は騒々しい音を立てながら、轟然とネーフスキイの大通りをさして走り出した。水色の馬車が門の外へ出るが早いか、ゴリャードキン氏は痙攣的に両手をこすり、静かに声もなく、くつくつと笑い出した。それは、うきうきした性分の人が何か素晴らしい芸当をやって、われながらその芸当に大満悦でいる、といったようなふうだった。が、陽気な発作がおさまり、笑いがやむと、今度はその代わりに、何か心配そうな表情がゴリャードキン氏の顔に浮かんだ。じめじめして曇った天気模様なのに、彼は馬車の窓を二つとも下ろして、仔細ありげに左右の通行人に目をくばり始めた。そして、だれかが自分を見ていると気がつくが早いか、すぐさまおつに澄ましたものものしい顔をとりつくろうのであった。リテイナヤ街からネーフスキイ通りへ出る曲り角で、彼はすこぶる不愉快なある感覚にうたれてぴくりとした。ふいにまめを踏まれた惨めな人間のように、顔をしかめて、あたふたと、恐怖の念さえいだきながら、馬車の一ばん薄暗い隅っこへ身を縮めた。ほかでもない、同じ役所に勤めている二人の若い同僚に出会ったのである。二人の役人も、自分の同僚がこんな有様でいるのを見て、同様にひどくあきれ返っていたらしい、ゴリャードキン氏の目にはそんなふうに感じられた。中の一人などは、ゴリャードキン氏のほうを指差しさえしたほどである。それどころか、もう一人のほうは、大きな声で彼の名を呼んだようにすら思われた。往来の真ん中でそんなことをするのは、もちろんぶしつけなことに決まっている。わが主人公は身をひそめて、返事もしなかった。『ちぇっ、小僧っ子めが!』と彼は心の中で考えた。『ふん、いったいなにが不思議なんだい? 人が馬車に乗ってるからって、――馬車に乗る必要があるからこそ、こうして馬車をやとってるんじゃないか。まったくやくざな連中だ! おれはちゃんと知っているが、――あいつらはただの小僧っ子で、まだ鞭で引っぱたいてやらなくちゃならない手合いなんだ! やつらなんか、俸給を貰ったら、「表か裹か?」の賭事をして遊ぶか、どこかをほっつき歩くか、まあ、それくらいのところが相当してらあ。ひとつあいつらにお説教をしてやるといいんだが、そしてもう……』ゴリャードキン氏は自分のもの思いを尻きれとんぼにしたまま、茫然自失した。ゴリャードキン氏にきわめて馴染みの深い、はやり切ったカザン馬の二頭立てをつけた粋なつくりの四輪馬車が、右側から彼の馬車を見る見る追い抜いたのである。四輪馬車に乗っていた紳士は、不覚千万にも窓から首を突き出したゴリャードキン氏の顔にふと気がついて、これも同じく、思いがけない邂逅にびっくり仰天したらしく、できるだけ首をかがめながら、わが主人公が急いで身をひそめた馬車の片隅を、好奇心と興味の溢れた目つきでのぞきこむのであった。四輪馬車の紳士は、アンドレイ・フィリッポヴィチといって、ゴリャードキン氏の勤め先の局長であった。ゴリャードキン氏は、ここでさる係の副主任をしているのであった。彼はアンドレイ・フィリッポヴィチがはっきり自分の顔を見わけ、目を皿のようにして見つめているので、もはや隠れるわけにはいかぬと見てとると、耳のつけ根まで真っ赤になってしまった。『お辞儀をしたものかどうか? 声をかけたものかどうか? 正直にいったものかどうか?』とわが主人公は、筆紙につくされぬ懊悩をいだきながら考えた。『それとも、これはおれではなくて、ただおれに瓜二つというほどよく似た別人という体《てい》にして、澄まし返っていてやろうか? そうです、まったくわたしじゃないんです、わたしじゃありません、それっきりのことなんですよ』と、ゴリャードキン氏は、アンドレイ・フィリッポヴィチに向いて帽子を取りながら、目をそらさないで、こういった。『わたしは、わたしはなんでもないんですよ』と彼はやっとの思いでつぶやいた。『わたしは、まったく何でもないのです、これはけっしてわたしじゃありません、わたしじゃありません、それっきりのことですよ』が、間もなく四輪馬車は貸馬車を追い抜いて、長官の視線の磁力は消え失せた。にもかかわらず、彼は依然、真っ赤な顔をして、にたにた笑いをし、口の中で何かつぶやくのであった。……『おれも馬鹿だったなあ、声をかけないなんて』と、最後に彼は考えついた。『男らしく正直に、しかも品位を落とさないようにしながら、実はアンドレイ・フィリッポヴィチ、これこれしかじかで、わたしも食事に呼ばれたのです、とざっくばらんにいうべきだった。それで事はすんだのじゃないか!』それから突然、しくじったなと気がつくと、わが主人公はかっと火のように赤くなり、眉をよせて、馬車の前のほうの片隅に、もの凄い挑むような視線を投げた。この視線は彼のいっさいの敵を焼きつくして、灰燼に帰せしめるべき使命をおびているのであった。
 ついに彼は突然、何かの霊感でも得たように、馭者の肘に縛りつけてある紐を引いて、馬車をとめ、リテイナヤ街へ引っ返すように命じた。というのは、ほかでもない、ゴリャードキン氏はおそらく自分の心をしずめるためでもあろうが、かかりつけの医師クレスチヤン・イヴァーノヴィチに、きわめて興味ある一事を、これからすぐに伝える必要を感じたのである。このクレスチヤン・イヴァーノヴィチと近づきになったのは、ついこの頃で、じつのところ、先週たった一度、さる必要があって訪ねたきりなのだが、しかし医者はいってみれば、懺悔の聴聞僧同様だから、隠し立てするのは愚かな沙汰であるし、患者を知るということは医者の義務ででもあるのだ。『だが、これはみんなこれでいいのだろうか?』とわが主人公は、リテイナヤ街のある五階建の家の前に馬をとめさせ、車寄せのところで馬車を降りながら、考えつづけた。『何もかも、これでいいのだろうか? 作法上おかしくはないだろうか? 折が悪いというようなことはないだろうか? いや、なに』と彼は息をつぎ、心臓の鼓動を抑えながら、階段を昇り昇り考えつづけた。彼の心臓はいつでも、よその階段を昇ると、動悸が烈しくなる癖があった。『なに、かまうものか? おれは自分で用事があって来たんじゃないか、何もとやかくいわれるようなことはありゃしない……隠し立てをしたりなどするのは馬鹿げた話さ。まあ、こんなふうにして、何でもない、ただちょっと、通りすがりに寄ったのだ、といったような振りをしてやろう……すると、先方も、なるほど、それがあたり前だ、と合点してくれるだろうよ』
 こんな具合に一人で押問答をしながら、ゴリャードキン氏は二階まであがって、五号の住居の前に立ちどまった。その扉には美しい銅の標札が打ちつけられ、次のように書いてあった。

[#ここから罫囲み]
内外科医クレスチヤン・イヴァーノヴィチ・ルーテンシュピッツ
[#ここで罫囲み終わり]

 その前に足をとめると、わが主人公は大急ぎで自分の顔に上品な、しかも砕けたところのある、おまけに愛嬌もほの見える表情を浮かべて、呼鈴の紐を引く身構えをした。さて、呼鈴の紐を引く身構えをしたものの、すぐそれと同時に、明日にしたほうがよくはないだろうか、今はさしあたり大した必要もないのだから、という分別が運よく湧いてきた。けれども、ふいに階段の方で誰かの足音が聞こえたので、さっそくこの新しい決心を放擲して、ええ、もうままよとばかり、勇猛果敢な顔つきで、クレスチヤン・イヴァーノヴィチの住居の呼鈴を鳴らした。

[#4字下げ]第2章[#「第2章」は中見出し]

 内外科医クレスチヤン・イヴァーノヴィチ・ルーテンシュピッツは、もうかなりな年配ではあったけれども、まだいたって壮健なたちで、半白の眉に半白の頬ひげをたくわえ、ひと睨みでどんな病気でも追っ払ってしまいそうな、表情に富んだ爛々たる眼光をしていたが、なおそのうえに、なかなか大した勲章までかけていた。その朝は診察室の肘掛けいすに腰を落ちつけて、細君が手ずから持って来たコーヒーを飲んでは、葉巻をふかし、時おり患者のために処方を書いていた。最後に、痔疾に悩んでいる一人の老人の処方を書いて、しきりに痛がるその老人を脇の扉口から送り出すと、クレスチヤン・イヴァーノヴィチは腰をおろして、次の患者を待っていた。そこヘゴリャードキン氏が入って来たのである。
 医師は見受けたところ、いま目の前にゴリャードキン氏を見ようとは思いもうけなかったのみならず、むしろそんなことを望まないようなふうであった。というのは、急にいっときまごついたらしい様子で、妙ちきりんな、いわば不満らしい渋面さえつくったからである。一方ゴリャードキン氏も、自分の思惑のためにだれかを口説き落とそうとするような場合、ほとんどいつも変に気落ちがして、どぎまぎする癖があったので、今も今とてこのような場合、彼にとってまぎれもない躓きの石である最初の一句を用意して来なかったために、しどろもどろにあがってしまい、何やら、――といっても詫び言らしかったが、――口の中でつぶやいて、それから先どうしていいかわからないままに、かけろともいわれないうちから、腰を下ろしてしまった。が、すぐさま自分の無作法に気がついて、上流社会の礼儀を知らぬやつといわれてはと、失策の取り返しをするために、すすめられもせぬのに坐った席から、またぞろ腰を持ち上げた。が、その後で、はっとわれに返り、一度に二つも馬鹿げたことをしたと気がついて、いささかの猶予もなく、思い切って三度目にもう一つ馬鹿なことをやってのけた。つまり、申しわけをするつもりで、にやにや笑いながら、何か口の中でもぐもぐいい、真っ赤になって照れてしまい、思い入れたっぷりに口をつぐんだのである。そして、とどのつまり、最後に尻を落ち着けて、もう立ちあがろうとしなかった。ただ、いざという場合のために、例の挑むような目つき、ゴリャードキン氏の敵という敵を残らず焼きつくし、粉砕する異常な力をもった例の目つきを用意して、自己防衛をしたばかりである。のみならず、この目つきはゴリャードキン氏の独立不羈な立場を完全に表明していた、すなわち、ゴリャードキン氏は別にこれということはなく、ほかのだれとも変わりのない独立不羈の人間であって、少なくとも、すべてを対岸の火災視する立場にあることを、明らかに語っているのであった。クレスチヤン・イヴァーノヴィチは、見たところ、何もかもけっこう、異存なしというしるしらしく、一つ咳払いをしのどを鳴らして、検査官めいた、もの問いたげな視線をじっとゴリャードキン氏にそそいだ。
「クレスチヤン・イヴァーノヴィチ」とゴリャードキン氏は微笑を浮かべながら口を切った。「わたしがまたかさねてお邪魔にあがりまして、あえて再度のご寛恕を願います次第は……」ゴリャードキン氏は明らかに、適当な言葉を発見するのに窮しているらしかった。
「ふむ……なるほど!」とクレスチヤン・イヴァーノヴィチは、口からひと筋の煙を吹き出して、葉巻をテーブルの上へ置きながらいった。「しかし、あなたはわたしの申しあげたことを、お守りにならなくちゃいけませんな。あなたの療法としては習慣を変えることが必要だと、はっきり申しあげたはずですがね……まあ、いろいろな気晴らしとか、それからまた、友達や知人を訪問することも必要だし、それといっしょに、酒も毛嫌いしないようにして、なるべくまんべんなしに、賑やかな仲間に入って遊ぶことですな」
 ゴリャードキン氏は相変わらず、にやにや笑いながらせきこんで、自分もべつだん人と違ったところのない一人前の人間だと思うし、自分の住居も持っているし、気晴らしも皆と同じようにやっている……それに、皆と同じように金も持っているから、芝居へだって、もちろん行くことができる、昼間は勤めに出て夜は家にいるのだから、これまたなんら異常はない、と述べた。それからすぐ、何かのついでといった形で、少なくとも自分ではだれにくらべてもひけを取らない人間のつもりだ、自分はちゃんと自分の住居に暮らしているし、おまけにペトルーシカも使っている、とまでいった。が、そこでゴリャードキン氏はぐっとつまった。「ふむ! いや、そういうことは見当違いですよ、わたしがおたずねしたかったのは、ぜんぜん別のことなんで。わたしは概して、あなたが賑やかな席がお好きかどうか、愉快に時を過ごしておいでになるかどうか、その点を知りたいのでしてね……まあ、そこですな、今あなたは陰気な暮らし振りをしていらっしゃるか、それとも陽気な生活をしておいでなんですか?」
「わたしは、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ……」
「ふむ!………わたしはあえていいますが」と医師はさえぎった。「あなたは全生活を根本的に改革して、ある意味においては、ご自分の性格を叩き直さなくちゃなりませんよ。(クレスチヤン・イヴァーノヴィチは『叩き直す』という言葉にうんと力を入れて、すこぶる意味ありげな様子で、ちょっと言葉を休めた。)賑やかな生活を避けちゃいけません。劇場やクラブにしょっちゅう出入りすること、そしていずれにしても、酒を毛嫌いしちゃ駄目ですよ。家に引っこんでちゃいけません……あなたはだんぜん家に引っこんでばかりいたら駄目ですぜ」
「クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、わたしは静かなのが好きなんです」とゴリャードキン氏は意味ありげな視線を、クレスチヤン・イヴァーノヴィチに投げながら、明らかに自分の考えを表現するのにもっとも適当な言葉をさがしているらしい様子で口を切った。「自分の家だと、わたし一人きり、それに、ペトルーシカがいるきりです。いや、召使の男と申しあげるつもりだったのです、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ。じつは、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ。わたしは自分自身の道を行きたいのです、特殊な道を行きたいのです、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ。わたしは独立独歩で、自分の感じている限りでは、だれにも頭をおさえられていないつもりです。わたしはね、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、散歩にも出かけますよ」
「なんですと?………ははあ! しかしこの頃じゃ散歩はなんの気晴らしにもなりませんよ。とてもいやな陽気ですからな」
「そりゃそうです、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ。わたしはですね、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、この前も確か申しあげたとおり、つつましやかな人間ではありますが、わたしの道は独特な道なんです、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ。人生の道は広いものでして……わたしが……わたしがこの言葉でいおうと欲する意味はですね、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ……どうかごめんなさい、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、わたしは雄弁家じゃないものですから」  
「ふむ! あなたのお話によると……」
「わたしが申しあげたいのは、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、わたしがみずから感ずる限りでは、雄弁家じゃありませんので、その点についておゆるしを願いたい、ということなんです」とゴリャードキン氏はなかばむっとした調子で、いくらか脱線したり、混乱したりしながらいった。「この点では、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、わたしはほかの連中とは違います」と何か特別な微笑を浮かべながらつけ加えた。「くだくだしくしゃべり立てることも下手ですし、言葉にあやをつけるすべも習いませんでした。その代わり、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、わたしは行動します、その代わりわたしは行動しますよ、グレスチヤン・イヴァーノヴィチ」
「ふむ!………いったいそれはどんなふうに……その、行動なさるんです?」とクレスチヤン・イヴァーノヴィチは応じた。それからいっとき沈黙がおそった。医師はなんとなく奇妙な、信じかねるような目つきでゴリャードキン氏を眺めた。ゴリャードキン氏も負けず劣らず、かなりうさん臭そうに医師を横目でにらんだ。
「わたしはですね、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ」とゴリャードキン氏は、クレスチヤン・イヴァーノヴィチのけたはずれな強情さにいらいらしながらも、いささか度胆を抜かれた形で、依然たる調子で言葉をつづけた。
「わたしは静寂を愛するのです。俗世間の騒々しさが嫌いなのです。ああいうところへ出て行くと、つまり、社交界なんて所へ出て行くと、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、靴で嵌木の床を磨くのが、上手にならなくちや駄目なんですからね……(そういって、ゴリャードキン氏は足でちょっと床を擦って見せた)ああいうところでは、それを要求されるんです、……地口や洒落も必要です、気のきいたお世辞もいわなければなりませんし……すべてそういったふうのことを要求されるんですからね。ところが、わたしはそいつを習っていないんです。クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、――そんなしちめんどうくさい芸当は、いっさい習っていません、そんな暇がなかったのです。わたしは単純な山気のない男でしてね、上っ面だけのつやなんてものは、持ち合わせていません。その点では、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、わたしはいさぎよく兜を脱ぎます、その意味では、わたしは初めっから兜を脱いで置きます」とゴリャードキン氏は、これだけのことを弁じたてたが、もちろん、その様子を見ていると、わが主人公がこの意味において兜を脱ぐのを、いささかも悔んでいないことも、彼がしちめんどうくさい芸当を習っていないどころか、むしろその正反対であることも、はっきりわかるのであった。クレスチヤン・イヴァーノヴィチはその言葉を聴きながら、いかにも不愉快げな渋面をつくって、下を向いていた。どうやら、彼はあらかじめ何事かを予感しているらしいふうであった。ゴリャードキン氏の長広舌が終わると、かなり長いこと意味深長な沈黙がつづいた。
「あなたのお話はいささか横道へ外れたような形ですな」とついにクレスチヤン・イヴァーノヴィチが低い声でいった。「わたしは正直なところ、お言葉の意味が十分にはのみこめませんでしたが」
「わたしは話にあやをつけてしゃべることができないほうでしてね、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、もう先ほども申しあげましたとおり、話にあやをつけてしゃべるのは下手なんですから、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ」と今度は烈しいきっぱりした調子で、ゴリャードキン氏はいった。
「ふむ!………」
「クレスチヤン・イヴァーノヴィチ!」とゴリャードキン氏はまたもや切り出した。その声は低かったけれども、意味深長で、いくらかものものしかった。彼は一句ごとに言葉を切った。「クレスチヤン・イヴァーノヴィチ! わたしはこちらへ入って来るなり、まずお詫びの言葉で話を始めましたが、今それをそのまま繰り返して、もう一度あなたのご容赦を願いたいと思います。クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、わたしはあなたに隠し立てすることなどありません。ご承知のとおり、わたしは小っぽけな人間です。しかし、幸いなことには、わたしは自分が小っぽけな人間であることを、遺憾には思っていません。むしろその反対ですよ、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ。いっそ何もかもいってしまいますが、わたしは自分が大人物でなく、小っぽけな人間であることを、かえって誇りとしているくらいです。わたしは策士じゃありません、これまたわたしの誇りとするところです。わたしは陰でこそこそしないで、公然と、しちめんどうくさい芸当ぬきで行動します。そりゃわたしだって、人をおとしいれることもできます、否、むしろ大いにできるくらいです。そして、その相手がだれであって、どんな方法をとったらいいかも承知しています。クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、しかし、わたしは自分で自分をけがすのがいやなので、その意味において、わたしは綺麗に手を引いています。その意味においては、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、あえて申しますが、わたしは綺麗に手を引いているのです!」ゴリャードキン氏はちょっとつかの間、意味ありげに口をつぐんだ。彼の話振りはつつましやかではあったけれど、活気がこもっていた。
「わたしはね、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ」と、わが主人公は始めた。「真っ直ぐに、堂々と、まわり路なんかしないで進んでいます、というのは、そんなやり方を軽蔑するからです、そんなものはほかの連中にまかせておきます。わたしやあなたなどよりも潔白な人々を……いや、わたしは『わたしや彼ら』といおうと思ったのです、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、『わたしやあなた』といったのはいい間違いでした……そういう人達を辱かしめようなんて努力をしておりません。曖昧な誤魔化しが嫌いで、卑しむべき二重人格者は容赦しませんし、中傷や讒謗は唾棄しています。わたしが仮面《めん》を被るのは、仮装舞踏会の時だけで、毎日そんなものをつけて人前を歩きまわったりなどしません。ただ一つあなたに伺いたいことがあるのです、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、あなたはご自分の敵に、不具戴天の敵に、どんな復讐の方法をおとりになりますか、もしあなたにそういうものがあるとしたら?」と、ゴリャードキン氏はクレスチヤン・イヴァーノヴィチに挑むような視線を投げて、こんなふうに言葉を結んだ。
 ゴリャードキン氏はこれだけのことをきわめて明瞭に、きっぱりと、確信にみちた調子で、一語一語を秤にかけ、正確無比な効果をねらいながら話したのであるが、そのくせ、今は不安げな様子で、――ひどく不安げな、このうえもなく不安げな様子で、クレスチヤン・イヴァーノヴィチを見つめていた。今や彼は全身視覚に化して、いまいましいような、やるせないような、堪え難い思いで、おずおずとクレスチヤン・イヴァーノヴィチの答えを待った。しかし、ゴリャードキン氏の驚きあきれたことには、クレスチヤン・イヴァーノヴィチは、ただ何やら口の中でぶつぶつつぶやいたばかりであった。それから、肘掛けいすをテーブルの傍へ引き寄せ、かなりそっけない調子ではあるが慇懃に、わたしにとっては時間が貴重なのだし、それにどうもお話がはっきりわかりかねる、ができるだけのことはしてさしあげて、お役にたちたいと思っています、けれどもそれ以外、わたしに関係のないことはおかまいしないから、といったふうのことを声明した。さて、そこで彼はペンを取り上げ、紙を引き寄せて、所定の大きさに切り、これからさっそく、必要な処方を書いてあげましょう、といった。
「いや、そんな必要はありません、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ! いけません、そんな必要は全然ありませんよ!」とゴリャードキン氏はちょっと腰を浮かして、クレスチヤン・イヴァーノヴィチの右手を抑えながらこういった。「それは、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、この場合ぜんぜん必要がないのです……」
 ゴリャードキン氏がこれだけのことをいっている間に、彼の様子には一種不思議な変化が生じた。灰色をした目はなんとなく怪しい光をおび、唇は慄え、顔の筋肉という筋肉、線という線が引っ吊り出し、動き始めた。当の彼も全身をわなわなとふるわしていた。最初の衝動に駆られて、クレスチヤン・イヴァーノヴィチの手を押し留めたゴリャードキン氏も、今はわれとわが身を信用しかねて、これから先の行動に対する霊感を待つかのように、身動きもせずにたたずんでいた。
 その時、かなり奇怪な情景がえんじられた。
 いささか度胆を抜かれたクレスチヤン・イヴァーノヴィチは、いっとき肘掛けいすに根を生やしたような恰好で、とほうにくれたように目を皿にして、ゴリャードキン氏を見つめていた。相手も同様に彼を見つめているのであった。ついにクレスチヤン・イヴァーノヴィチは、ゴリャードキン氏の制服の胸の折返しに軽く捕まるようにしながら、立ちあがった。幾秒かの間、彼らはこうして互いにじっとにらみ合ったまま立っていた。とその時、ゴリャードキン氏の第二の行動も、すこぶる奇怪な形をとって解決された。彼の唇は慄え、下顎がおどって、わが主人公はまったく唐突に泣き出したのである。しゃくり上げては、頭を振り、右手でわれとわが胸を叩き、左手で同じようにクレスチヤン・イヴァーノヴィチの不断着の折返しをつかんだまま、彼は何やらいおうとした、即座に何かの弁明をしようとあせるふうであったが、一言も口から出ないのである。とうとう、クレスチヤン・イヴァーノヴィチは驚きからさめて、われに返った。「もうたくさん、気を落ち着けてお坐んなさい!」ゴリャードキン氏を肘掛けいすに坐らせようと苦心しながら、彼はやっとのことでこういった。「わたしには敵があるのです、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、わたしには敵があるのです、わたしを破滅させようと心に誓った、よこしまな敵があるのです……」とゴリャードキン氏はおずおずと小声に答えた。
「もういい、もういい、敵があったところでなんです! 敵なんか気にすることはありゃしない! それはまったく必要のないことですよ。お坐んなさい、お坐んなさい」とクレスチヤン・イヴァーノヴィチは、とうとうゴリャードキン氏を肘掛けいすに坐らせながら言葉をつづけた。
 ゴリャードキン氏は、クレスチヤン・イヴァーノヴィチから目をはなさないで、ようやく席に落ち着いた。クレスチヤン・イヴァーノヴィチは、このうえもなく不機嫌な面もちで、部屋の中を隅から隅へと歩き出した。長い沈黙がつづいた。
「ありがとうございます、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、本当にありがとうございます、あなたが今、わたしのためにしてくだすったことは、真実きもにめいじました。ご親切は死んでも忘れません、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ」とついにゴリャードキン氏は、侮辱された様子でいすから立ちあがりながら、いい出した。
「たくさんですよ、たくさんですよ、本当にたくさんですったら!」とクレスチヤン・イヴァーノヴィチはもう一度ゴリャードキン氏を席につかせながら、相手の無作法をたしなめるように、かなり厳しい調子で答えた。
「まあ、いったいどうしたんです? ひとつ聞かせていただこうじゃありませんか、あなたには今どんないやなことがあるんです」とクレスチヤン・イヴァーノヴィチはつづけた。「あなたのいわれる敵とはだれのことです? いったいぜんたいどういういきさつなんですか?」
「いや、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、今その話はやめにしたほうがいいですよ」……とゴリャードキン氏は伏目になって答えた。「これはいっさい、当分の間そっとしといたほうがいいですよ、……ある時機が来るまでね、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、もっと適当な時期が来て、何もかも暴露されるまで、――二、三の連中の仮面《めん》が引っ剥がされて、何かの事情が明るみに曝されるまでね。しかし、今はさしあたり、わたし達の間にああいうことがあった後では、もちろん……あなたもわかってくださるでしょうね、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ……それでは、これで失礼させていただきます、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ」とゴリャードキン氏はい今度こそ真面目に決然と席を立ち、帽子に手をかけながらこういった。
「では、まあ……ご随意に……ふむ……(つかの間の沈黙がおそった)わたしとしては、おわかりでもありましょうが、できるだけのことは……そして、心からあなたのためを思っているので」
「わかります、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、わかります。今こそあなたのお気持ちがすっかりわかりました……いずれにしても、とんだお邪魔をしまして申しわけありません、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ」
「ふむ……いや、どういたしまして、わたしがいいたかったのは、そんなことじゃないのですが、しかしどうともご随意に。ただし、薬は前どおりにつづけてくださいよ……」
「ええ、薬はおっしゃるとおりにつづけますよ、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、つづけますとも、やはり今までどおりの薬局でとることにします……当節では、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、薬屋になったってなかなか大したものですね」
「え? それはどんな意味でおっしゃるのです?」
「ごくありふれた意味で申しているのですよ、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ。わたしがいおうと思ったのは、当節では世の中がひどく進んでしまって……」
「ふむ……」
「薬屋ばかりでなく、だれも彼もが若造のくせに、人様の前で鼻高々と威張りくさってるんですからね」
「ふむ。それはいったいどういう意味なんでしょう?」
「わたしはですね、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、ある一人の人物……われわれ二人に共通の知人についていってるのです、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、たとえば、まあヴラジーミル・セミョーノヴィチのこととしてもよろしい……」
「ははあ!」
「そうなんですよ、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ。わたしも知っていますが、世の中には時々真理を口にするために、あまり世論を重んじないような人達もあるもんですよ」
「ああ!………いったいそれはどういうことなんで?」
「なに、どうもこうもありませんよ。しかし、これは余談です。どうかすると、じつにお土砂をかけることの上手な連中がありましてね」
「なにを? なにをかけるんですって?」
「お土砂をかけるんですよ、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、これはロシヤのことわざでしてね。どうかすると、じつにうまいきっかけをつかんで、たとえば、お祝いなんかいうのが上手なんですよ。そういった人間がよくあるのです、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ」
「お祝いをいう?」
「そうです、お祝いをいうのです、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、現に二、三日前にも、わたしの昵懇にしている知人の一人がそれをやりましたよ!………」
「あなたの昵懇にしている知人の一人が……へえ! それはどうしたということでしょう?」とクレスチヤン・イヴァーノヴィチは、注意深くゴリャードキン氏を一瞥してそういった。
「そうです。わたしの昵懇にしている知人の一人が、同じくきわめて昵懇な知人であり、おまけに友人である男、いわば莫逆の友である男に向かって、昇進のお祝いを、八等官昇進のお祝いをいったのです。うまくきっかけをつかんだのですな。『ご昇進、心からお祝い申しあげます、ヴラジーミル・セミョーノヴィチ、誠心誠意、ご祝辞を申しあげる機会を得て、よろこびに堪えません。まして、現在では周知のごとく、閥やひき[#「ひき」に傍点]が跡を絶ってしまったので、なおさら欣快しごくにぞんじます』」こういいながら、ゴリャードキン氏はずるそうにひとつうなずいて、目を細めながら、クレスチヤン・イヴァーノヴィチを眺めた……
「ふむ。ではそういったんですな……」
「そういったんです、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、そう言ったんです。そして、そのとたんに、われわれ仲間の人気者、ヴラジーミル・セミョーノヴィチの伯父さんにあたるアンドレイ・フィリッポヴィチのほうを見たものです。ねえ、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、あの男が八等官になったからって、それがわたしにどうだというのでしょう? わたしになんのかかわりがあります? しかも、ぶしつけながら、唇にまだおっぱいが残っているくせにして、結婚しようなんていうのですからね。まったくわたしはそういってやりましたよ。その後でさらに、『ヴラジーミル・セミョーノヴィチ! これでぼくも、いうだけのことをいってしまいましたから、お暇といたそう』ってね」
「ふむ……」
「そうなんですよ、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、これでぼくもお暇といたそう、といってやりましたよ。そのうえに、一石二鳥の効果をあげるために、閥とひき[#「ひき」に傍点]のことで奴さんをぴしゃんこに叩きつけておいて、クララ・オルスーフィエヴナのほうへ振り向きました(それは一昨日オルスーフィ・イヴァーノヴィチのところであったことなんです)。――あのひとはちょうどしんみりしたロマンスを、歌い終わったばかりのとこでしたが、――『あなたのお歌いになったロマンスはじつに情がこもっていましたね、でも、みんな心から真剣にきいちゃいませんよ』とやったものです。つまり、はっきりとあてこすったのです、おわかりですか、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、今みんなが狙っているのは、あのひとそれ自身ではなくて、もっとほかのところにある、ということをあてこすったわけですよ……」
「ははあ! それでどうしました、その男は?………」
「まるで、俗にいうレモンでも食ったような渋い顔をしましたよ」
「ふむ……」
「そうなんですよ、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ。それから当の老人にもいってやりました、『オルスーフィ・イヴァーノヴィチ、わたしはあなたにどれくらいお世話になったかよく承知しています、子供の時分から言葉につくせぬほどご恩になったことは、身に沁みて感じております。けれども、目を開けてごらんなさい。オルスーフィ・イヴァーノヴィチ。よっくごらんなさい。わたし自身は公明正大に、堂々と事を進めているのですからね、オルスーフィ・イヴァーノヴィチ』」
「ははあ、なるほどね!」
「そうなんです、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、こういうわけでして……」
「で、その人はどうしました?」
「その人がどうしたかですって、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ! 口の中でもぐもぐと、何だのかだのというのです。わしはきみという人間をちゃんと知り抜いている、閣下も潔白なお方だから、といった調子で、うやむやにごまかしてしまいましたよ……いや、どうも仕方がありません。なにぶんにも年ですから、いわゆる箍がゆるんでしまったんですよ」
「ははあ! なるほどそうですかねえ!」
「そうなんですよ、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ。われわれだってみんなそうなるんですよ、いたし方がありません! 哀れな老人だ! いわゆる片足棺桶に突っこんで、お香の匂いがぷんとくるようになっていながら、だれかが女の腐ったような陰口でもでっちあげると、もうさっそく耳を傾けるといった始末で、そうせずにゃいられないんですからね……」
「陰口、とおっしゃるんですね?」
「そうです、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、やつらが陰口をでっちあげたのです。わたし達のほうで熊と称する人物と、人気者のその甥とが、ここへまで手を伸ばしてきたのです。やつらは婆さん連とぐるになって、一狂言書いたんです。いったいあなたはどうお思いになります? 人間ひとり殺すために、やつらがどんなことを考え出したとお思いになります?………」
「人間ひとり殺すために?」
「そうです、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、人間ひとり殺すためです、精神的に殺すためです。彼らは流言をはなって……これはみんなわたしの近しい知人のことをいってるんですよ……」
 クレスチヤン・イヴァーノヴィチはひとつうなずいた。「やつらはその男のことで流言をはなちました……まったくのところ、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、わたしは話をするのさえ気恥ずかしいくらいですよ」
「ふむ……」
「やつらはこんな流言をはなったんですよ、彼はすでに婚約の署名をしたので、一方から見れば、彼はもう花婿同然だなんて……いったいどうお思いになります、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、相手はだれだと思います」
「いやはや!」
「料理屋のおかみなんですよ、当人がいつも食事を取り寄せている料理屋の、身持ちの悪いドイツ女ですよ。食事の代を払うかわりに、結婚を申しこんだなんて」
「そんなことをいいふらしてるんですか?」
「まあ、どうです、本当になさいますか、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ? 下品な、けがらわしいドイツ女です、恥知らずのドイツ女です、カロリーナ・イヴァーノヴナといいましてね、もしや、ごぞんじでしょうか……」
「わたしは、正直なところ、自分としては……」
「わかります、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、お気持ちはわかりますよ。で、わたしも自分としてお察しします……」
「ちょっとうかがいますが、あなたは今どこにお住まいです?」
「わたしが今どこに住んでいるかですって、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ?」
「そう……わたしがおたずねしたかったのは……あなたは以前住んでおいででしたね、たしかあの……」
「住んでいました、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、住んでいましたよ、以前も住んでいましたよ。住んでいなくてどうするものですか!」と、ゴリャードキン氏は答えたが、その言葉と共に、小刻みな笑い声をひひひと立てた。こうした答え振りで、クレスチヤン・イヴァーノヴィチはまごついてしまった。
「いや、あなたはとり違いをなさったのです。わたしがいいたかったのは、自分として……」
「わたしもやっぱり自分としていいたかったのですよ、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、やっぱり自分としてね」とゴリャードキン氏はつづけた。「が、それにしても、すっかり長居をしてしまいました、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ。それでは、もうそろそろ……おいとまさしていただきましょうか……」
「ふむ……」
「そうですよ、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、わたしはあなたのお気持ちがわかります、今こそすっかりわかります」と、わが主人公は、クレスチヤン・イヴァーノヴィチの前で、いささか様子を作りながら、こういった。
「それでは、これでおいとまさせていただきます……」
 そこで、わが主人公は片足をちょいと擦って、クレスチヤン・イヴァーノヴィチを極度の驚愕のうちに取り残したまま、部屋から出てしまった。医師の住居の階段を降りながら、彼はにやにや笑っては、さも嬉しそうに手を擦り合わせていた。表の玄関にまで出て、新鮮な空気を吸いこみ、自分を自由の体と感ずると、彼はしんにわが身がこのうえもない幸福者のような気持ちになり、これからまっすぐに役所へ出かけようと考えたが、そのとき突然、玄関先で彼の馬車が轟然たる響きを立てたので、ゴリャードキン氏はひと目見て、いっさいのことを思い出した。ペトルーシカはもう馬車の扉を開けていた。ゴリャードキン氏は一種奇怪な、きわめて不快な感情のとりこになった。彼はちょっといっとき顔さえあからめたようなふうであった。何かにちくりと胸を刺されたような気がした。もう片足馬車の踏段へ上げようとして、ふと急に振り返って、クレスチヤン・イヴァーノヴィチの住居の窓を見やった。と、はたせるかな! クレスチヤン・イヴァーノヴィチは窓ぎわに立って、右手で頬ひげを撫でながら、かなり好奇の色を浮かべて、わが主人公を眺めているのであった。
『あの医者は馬鹿だ』とゴリャードキン氏は、車の隅っこに身を縮めながら考えた。『方図《ほうず》のしれぬ阿呆だ。患者の治療は上手かもしれないが、それでも……丸太ん棒同然の阿呆だ』ゴリャードキン氏はついに腰を落ちつけた。ペトルーシカが、『さあ。やった!』と叫ぶと、馬車は再びネーフスキイ通りをさして走り出した。

[#4字下げ]第3章[#「第3章」は中見出し]

 その朝、ゴリャードキン氏はひどく忙しい思いをしどおしであった。ネーフスキイ通りへ出ると、わが主人公は勧工場の傍で馬車を停めさせた。彼は車から飛びおりると、ペトルーシカを従えてアーケードの中へ駆けこみ、金銀細工の店へ入って行った。ゴリャードキン氏の顔つきを見ただけで、いかにも用事を山のようにかかえた、目のまわるほど忙しい人らしく思われた。彼は千五百ルーブリからの食器と茶器のセットを、かけ合って値段を決め、風変わりな形をした煙草入れと、銀製の顔剃り道具一式も、やはりそれくらいの値段で折合いをつけ、最後に何かの意味で有益な趣味の深い品を、いろいろとあたってみたあげく、ゴリャードキン氏はとどのつまり、明日にもさっそく間違いなしに取りに来るか、それともきょう使いをよこして、約束の品々を引き取るからといって、店の番号をひかえた。しきりと手付け金のことで気をもんでいる商人の言葉を仔細顔にきき終わって、手付け金も今に渡すと約束した。それから、けげんな顔をしている商人に大急ぎで別れを告げ、番頭手代の群につきまとわれながら、彼は絶えずペトルーシカのほうを振りかえり何やら新しい店を入念に探して、店筋を歩いて行った。途中、彼は両替店へ寄って、大きい紙幣《さつ》をこまかいものに替えてもらった。両替料を取られはしたものの、それでも細かくすることができたわけで、彼の紙入れはたんまりとふくらんだ。それが彼にひと方ならぬ満足を与えたらしい。最後に、彼は婦人服地の店に足をとめた。またもや相当な金額の買物を約束して、ゴリャードキン氏はここでも必ず改めて出直すからといい、店の番号をひかえた。手付け金は、という問いに対して、またぞろ手付け金も今に渡すと答えた。それから、なお二、三の店を訪ねて、到るところ値段の押問答をしたり、さまざまな品を当たってみたり、時には長いこと商人と議論までして、二度も三度も店から出ては、またひっ返すのであった。――ひと口にいえば、並みはずれた活動振りを示したのである。勧工場を出たわが主人公は、そこからある有名な家具商の店へ行って、六室分の家具を買う話を決め、最新流行の凝りに凝った婦人用の化粧台をほれぼれと眺めて、必ずこれらの品々を残らず引き取りに使いをよこすからと商人に約束し、例によって、手付け金は今に渡すといい置いて店を出た。それから、まだ二、三軒の店へ寄って、何やかやの品で値段の交渉をした。要するに、彼の用事ははてしがないかのようであった。とうとう、ゴリャードキン氏自身も、こんなことにはすっかり飽きあきしてしまったらしい。のみならず、何がきっかけになったかわからないが、急にひょっこり良心の呵責に悩まされだしたのである。たとえば、今アンドレイ・フィリッポヴィチとか、あるいはクレスチヤン・イヴァーノヴィチなどに出会うのは、それこそまっぴらごめんであった。やがて、街の時計が午後の三時を報じた。いよいよゴリャードキン氏が馬車の中に腰を落ち着けた時、彼がきょうした買物全部の中で、本当に手もとに残ったのは、ただ一対の手袋と、一ルーブリ半の香水の瓶だけであった。ところで、ゴリャードキン氏にしてみれば、まだ時間が早かったので、彼は馭者に声をかけて、今までまだ噂だけしか聞いたことのない、ネーフスキイ通りのさる有名な料理屋の前に馬車をとめさせた。彼は馬車から降りると、ちょっと軽い食事をして息を入れ、しばらく時間を潰すつもりで駆けこんだ。
 豪華な晩餐会に招ばれている人がよくやるように、いわばちょっと腹の虫をおさめるために軽くひと口食事をし、ウォートカを一杯ひっかけて、ゴリャードキン氏は肘掛けいすにゆったりと身を落ち着け、つつましやかにあたりを見まわした後、ある貧弱なロシヤの新聞を読み始めた。二行ばかり読むと、彼は立ちあがって、鏡をのぞき、身づくろいして頭を撫でた。さてそれから窓に近寄って、自分の馬車がちゃんといるかどうか調べてみた………やがて、もとの席に戻って新聞を取り上げた。わが主人公が極度の興奮におちいっているのは、ありありと認められた。時計を眺めて、まだやっと三時十五分にしかならず、したがって、まだだいぶ待たねばならぬと思ったが、同時に、こうして坐りこんでいるのはぶしつけだと考え直して、ゴリャードキン氏はチョコレートを一杯注文した。が、そのじつ、いまのところ大してほしくもなかったのである。チョコレートを飲みほすと、いくらか時間がたったらしいので、彼は勘定を払いに出て行った。とだしぬけにだれか彼の肩を叩くものがあった。
 振り返ってみると、彼の前に二人の同僚が立っていた。例の今朝リテイナヤ街で出会った連中である、――まだ年からいっても、官等からいっても、ごくの若造であった。わが主人公と彼らとの関係は、別にどうということもない。親しくしているのでもなければ、公然と反目嫉視しているわけでもない。もちろん、双方とも作法はちゃんと守り合っていたが、それ以上の親しみはなかったし、またあり得なかった。今こうしてぱったり顔を合わせたのは、ゴリャードキン氏にとって、はなはだ面白からぬ次第であった。彼はちょっと顔をしかめて、しばらくどぎまぎしていた。
「ヤーコフ・ペトローヴィチ、ヤーコフ・ペトローヴィチ!」と、二人の十四等官はいっせいにさえずり始めた。「あなたはこんな所にいらっしゃるんですか? どうしたわけで……」
「やあ! これは、これは!」
 二人の官吏が仰山な驚きようをしたのと、あまりなれなれしい態度を示したのとで、ゴリャードキン氏は少々当惑すると同時に、むっとしたが、われともなく砕けた磊落《らいらく》な調子で、せかせかと相手をさえぎった。「エスケープですか、諸君、へへへ!………」そういいながら、彼は自分の品格を堕《おと》して、若い書記連と同一列に立たないように(彼はいつもこの連中に対する時、一定の間隔を保っていたのである)、一人の若造の肩をぽんと叩いた。が、この時はこうした人気取り政策もうまくいかなかった。節度のあるつつましい調子が出ないで、何かしらまるで違ったものになってしまった。
「ときに、どうです、うちの熊先生は役所にいますかね?」
「それはだれのことです、ヤーコフ・ペトローヴィチ?」
「そら、熊先生ですよ、熊というのがだれのことかわからないみたいに白っぱくれてさ……」とゴリャードキン氏は笑って、釣銭を受け取るためにボーイのほうへ振り向いた。「ぼくがいってるのは、アンドレイ・フィリッポヴィチのことですよ、諸君」と彼は勘定をすますと、今度はすこぶる大真面目な顔をして若い官吏達のほうへ向き直って、言葉をつづけた。書記連は意味ありげに目くばせした。
「まだ役所におられますよ、そしてあなたを呼んでいらっしゃいましたよ、ヤーコフ・ペトローヴィチ」と一人が答えた。
「まだいるんですって、え? それなら勝手にいるがいい。で、ぼくを呼んでいたんですって、え?」
「そう、呼んでおられましたよ、ヤーコフ・ペトローヴィチ。ですが、あなたはいったいどうなすったんです、香水をぷんぷん匂わせて、ポマードなんか塗って、ひどくしゃれこんでいらっしゃるじゃありませんか?」
「これは、なに、なんでもないですよ! そんなことはたくさん……」とゴリャードキン氏はそっぽを向いて、緊張した微笑を浮かべながら答えた。ゴリャードキン氏がにやにやしているのを見て、二人の書記はからからと高笑いした。ゴリャードキン氏はいささかむっとした。
「諸君、ぼくは親友としていいますがね」ややしばらく無言でいた後、わが主人公は何かうち明けよう(こうなったらやむを得ぬ)とはらを決めた様子でいい出した。「諸君、きみ方はみんなぼくという人間をごぞんじです。が、今までのところは、ただ一面をしっていられるにすぎない。それかといって、だれを責めることもできません、ある程度、ぼく自身が悪いんですよ、それは自分でも認めています」
 ゴリャードキン氏は唇をかみしめて、意味ありげに二人の官吏を見やった。こちらはまたちらと目交ぜをした。
「諸君、今まで諸君は、ぼくという人間をごぞんじなかったのです。今こんな所でくだくだしく説明するのは、あまり場所柄を得ないと思うから、ついでにほんのちょっと簡単にいいますが、世の中にはね、諸君、もってまわったやり口が嫌いで、仮面はただ仮装舞踏会の時にしかつけない人がいるものです。人間の真の使命は、靴で社交界の嵌木床を磨くことの上手下手に存するのではない、とこういう信念を持った人もいるんですからね。またたとえば、ズボンがきちんと体に合った時に初めて、おれは満足だ、これで完全な生活をしているのだ、などといわない人間もこの世にはいるんですよ。最後に、諸君、無意味に駆けずりまわったり、きりきり舞いをしたり、人のご機嫌を取ったり、おべっかを使ったり、ことに頼まれもしないのに出しゃばったりすることの嫌いな人もありましてね……諸君、ぼくのいいたいことはこれで全部です。じゃ、これで失敬しましょう……」
 ゴリャードキン氏は言葉を止めた。二人の十四等官は、これですっかり好奇心を満足させられたので、出しぬけにぶしつけ千万にも、げらげらと腹をかかえて笑い出した。ゴリャードキン氏はかっとなった。
「笑いたまえ、諸君、今のうちに十分笑っておきたまえ! もう少し年を取ったら、わかるだろうよ」と彼はさも自尊心を傷つけられたもののようにそういって、帽子を取り上げ、戸口のほうへ退却しはじめた。
「しかし、諸君、さらに一歩すすめておこう」と彼は最後にもう一度、書記連のほうへ振り向いて、つけ加えた。「さらに一歩すすめていっておこう、――今われわれは水入らずのさし向かいなんだからね。そこで、諸君、ぼくの処世上の原則はこういうのです。失敗したらじっと我慢をし、成功しても有頂天にならないこと、そしていかなる場合にも、人の陥穽など掘らないこと、これです。ぼくは陰謀家ではない、それを誇りとしています。ぼくは外交家には不向きの人間ですよ。それから、諸君、鳥は自分から猟師のふところへ飛びこむものだといわれています。いかにもそのとおりで、同意するにやぶさかではありません。がしかし、この場合、だれが猟師でありだれが鳥であるか、その点はまだ問題ですて!」
 ゴリャードキン氏は口をつぐんだが、それは雄弁の沈黙であった。そして、すこぶる意味深長な面構えをして、というのは、眉をつり上げ、唇をいやというほどくいしばって、書記連に会釈をし、二人をはげしい驚きの中に取り残したまま出て行った。
「どこへまいりますんで?」とペトルーシカが、かなり難しい顔をしてたずねた。おそらく、この寒中をあちこち引っ張りまわされるのに、もううんざりしたのであろう。「どこへまいりますんで?」いっさいを粉砕せずんばやまぬようなもの凄いゴリャードキン氏の視線を迎えて、彼はこう問いかけた。この視線は、わが主人公がこの朝すでに二度までも、おのれをまもる武器としたのであるが、今や階段を降りながら三たび応用したわけである。
イズマイロフスキイ橋だ」
イズマイロフスキイ橋! さあ、やった!」『あそこで食事が始まるのは、四時過ぎか、ひょっとしたら、五時になるかも知れない』とゴリャードキン氏は考えた。『今からだと早すぎはしないかな? もっとも、少しくらい早く行ったっていいわけだ。それに、内輪の集まりだからな。よく身分のある人達がいうように、何気なく儀式張らずに行ったってかまうまいじゃないか。どうしておれがサン・ファソンに行っちゃいけないのだ? うちの熊先生も、いっさいサン・ファソンにやるんだっていってたから、おれだって同じように……』こんなふうにゴリャードキン氏は考えた。が、それにもかかわらず、胸騒ぎはだんだんひどくなっていった。彼が何かきわめて厄介千万なこと(これ以上深入りして説明しまい)を計画しているのは、ありありと様子に見えていた。何か口の中でぶつぶついったり、右手でしきりに身振りをしたり、のべつ馬車の窓の外をのぞいたりしているので、いまだれかゴリャードキン氏を見たら、この人がこれからごく内輪の集まりの中で、気軽に、身分のある人々の言葉を借りていえばサン・ファソンに、愉快な食事をしようとしているのだとは、しょせん思えなかったに相違ない。ついにイズマイロフスキイ橋のたもとまで来た時、ゴリャードキン氏は一軒の家を指さした。馬車は轟然と轍の音を立てて門内に入り、右正面の車寄せにとまった。二階の窓に一人の女の姿をみとめると、ゴリャードキン氏は投げキスを送った。そのくせ、自分でも何をしているのかよくわからなかった。なぜなら、その瞬間、彼は生きた心地もなかったからである。彼はとほうにくれたような気持ちで、真っ青な顔をして馬車を出た。入口階段へあがると、帽子を脱いで、機械的に身づくろいをし、膝頭に軽いふるえを覚えながら、大階段を昇り始めた。
「オルスーフィ・イヴァーノヴィチは?」と彼は玄関の扉を開けた男にたずねた。
「おいでになります、つまり、違いました、お留守でございます」
「え? きみ、何をいってるんだ? ぼくは、ぼくは食事に呼ばれて来たんだよ、きみ。きみはぼくのことを知ってるはずじゃないか?」
「そりゃぞんじておりますとも! あなたをお通ししちゃいけない、と申しつかっておりますので」
「きみ……きみ……そりゃきっと思い違いだよ、きみ。ぼくなんだよ。ぼくは、きみ、招待されてるんだからね。ぼくは食事に呼ばれてるんだ」とゴリャードキシ氏はいって、外套を脱ぎ棄て、今にも部屋の中へ入って行かんばかりの勢いを見せた。
「失礼ですが、いけません。お通ししちゃいけない、と申しつけられていますんで、はい!」
 ゴリャードキン氏はさっとあおざめた。ちょうどその時、奥の間に通ずる扉が開いて、オルスーフィ・イヴァーノヴィチの年とった侍僕頭ゲラーシモヴィチが入って来た。
「エメリヤン・ゲラーシモヴィチ、この方が中へ入ろうとなさるので、わたしは……」
「お前もとんまだな、アレクセーイチ。早く中へ入って、セミョーヌイチの悪党をここへよこしな。あなた、いけません」と彼は慇懃な、しかし断固たる態度で、ゴリャードキン氏に向かっていった。「どうしてもいけません。お会いするわけにいかないから、よくお詫びしてくれとのお申しつけなので」
「だんな様がそのとおりにいわれたのか、お会いするわけにいかないって?」とゴリャードキン氏は思い切りの悪い調子で問い返した。「失礼だが、ゲラーシモヴィチ、どうしていけないんだろう?」
「どうしてもいけませんので。わたしがお取次ぎしましたところ、よろしくお詫びしてくれ、お会いするわけにまいりませんからと、こうおっしゃいました」
「そりゃなぜだい? いったいぜんたいどうしたわけなんだ? なんだって……」
「まあ、まあ、ごめんなさいまし!………」
「それにしたって、いったいどういうわけなんだろう? そんな法ってありゃしない! 取次いでくれたまえ……なんてこったろう? ぼくは食事に呼ばれて……」
「まあ、まあ、ごめんなさいまし!………」
「そりゃまあ、よろしく詫びてくれといわれるのなら、話は別だけれど、しかし失敬だが、ゲラーシモヴィチ、それはいったいどういうことなんだね、ゲラーシモヴィチ?」
「まあ、まあ、ごめんなさいまし!」とゲラーシモヴィチはあくまでいい張りながら、片手で思い切り無遠慮にゴリャードキン氏を押しつけて、折しも控え室へ入って来た二人の紳士にゆっくり道をあけた。入って来た紳士は、アンドレイ・フィリッポヴィチと、その甥のヴラジーミル・セミョーノヴィチであった。二人ともけげんそうな顔をして、ゴリャードキン氏を眺めた。アンドレイ・フィリッポヴィチは何かいい出そうとしたが、ゴリャードキン氏はもうはらを決めた。彼は目を伏せ顔をあからめ、うすら笑いを浮かべ、すっかりとほうにくれたような表情をして、オルスーフィ・イヴヴァーノヴィチの控え室を出て行こうとした。
「また後で来るからね、ゲラーシモヴィチ。ぼくがよく話をするよ、こんなことはすぐに、はっきりわかる話なんだから」と彼は閾ぎわでいったが、しまいのほうは階段を下りながらつぶやいた……
「ヤーコフ・ペトローヴィチ、ヤーコフ・ペトローヴィチ……」という声が聞こえた。ゴリャードキン氏の跡を追って来たアンドレイ・フィリッポヴィチである。
 ゴリャードキン氏は、その時もう最初の踊場まで下りていた。彼はくるりアンドレイ・フィリッポヴィチのほうへ振り返った。
「なにご用ですか、アンドレイ・フィリッポヴィチ?」と彼はかなりきっぱりした声でいった。
「これはいったいどうしたことです、ヤーコフ・ペトローヴィチ? どういうわけで?………」
「なんでもありません、アンドレイ・フィリッポヴィチ。ぼくは勝手にここでこうしているんですから。これはぼくの私生活ですよ、アンドレイ・フィリッポヴィチ」
「なんだって?」
「これはぼくの私生活だといってるんですよ、アンドレイ・フィリッポヴィチ。ぼくの考える限りでは、この際、公けの関係でとやかくいわれることは何もないと思いますが」
「えっ! 公けの関係で……きみはいったいどうしたんだね?」
「なんでもありません、アンドレイ・フィリッポヴィチ、まったくなんでもありません。生意気な娘っ子だ、それっきりのことですよ……」
「なに?……なんだって?」アンドレイ・フィリッポヴィチは驚愕のあまり度を失った。ゴリャードキン氏は、それまで階段の下から受け答えをしていたが、その目つきは今にも相手にくってかかりそうな勢いであった。――上官がいささかまごつき気味なのを見ると、自分でも無意識に一歩まえへ踏み出した。アンドレイ・フィリポヴィチはうしろへ身を引いた。ゴリャードキン氏はまた一段それからさらに一段、じりじりと昇って行った。アンドレイ・フィリッポヴィチは不安げにあたりを見まわした。ゴリャードキン氏は突如、階段を上まで駆け昇った。アンドレイ・フィリッポヴィチは、それよりさらに素早く部屋の中へ跳びこんで、扉をぴしゃりと閉めてしまった。ゴリャードキン氏はただ一人とり残された。彼は目の前が暗くなる思いだった。すっかり頭が混乱して、今は何かしら、とりとめのない物思いに沈みながら、たたずんでいた。それはつい先ほど起こった、同様にすこぶるとりとめのない出来事を思い起こしているようなふうであった。『ちぇっ、ちぇっ!』と無理に微笑を浮かべながら、彼はこうつぶやいた。とかくしているうちに、階段の下のほうで人声と足音が聞こえてきた、おそらくオルスーフィ・イヴァーノヴィチに招待された新しい客達であろう。ゴリャードキン氏はいくらかわれに返って、あたふたと浣熊《あらいぐま》の毛皮の襟を高く立て、できるだけそれで顔を隠すようにしながら、ちょこちょこと小刻みな足取りで、あわてつまずきながら、階段を降り始めた。身内がぐったりとして、感覚がなくなったような気持ちであった。ひどく頭が惑乱していたので、入口階段へ出ると、馬車を寄せるのを待たないで、泥だらけの庭を横切って、自分のほうからすたすたと、車のとこまで歩いて行った。自分の馬車までたどりついて、その中に乗りこもうとしながらも、ゴリャードキン氏は心中ひそかに、馬車といっしょに大地の割れ目に落ちこんでしまうか、鼠の穴へでももぐりこみたい気持ちがした。なんだかオルスーフィ・イヴァーノヴィチの家じゅうのものが、いま窓という窓から、彼の様子を眺めているように思われてならなかった。もしうしろを振り返って見たら、たちまち立ちどころに死んでしまうに相違ない、彼はそれがわかっていた。
「きさま、何を笑ってるんだ、このでくの坊め?」主人を車に助け乗せようと身構えたペトルーシカに向かって、彼は早口にそういった。
「何をわたしに笑うことがありますもんで? わたしはなにも別に。これからどこへまいりますんで?」
「家へ帰るんだ、さあ、やれ……」
「家へお帰りだ!」とペトルーシカは馬丁台に上って、こうどなった。
『まるで鴉みたいな声をしやがる!』とゴリャードキン氏ははらの中で思った。そのうちに、馬車はイズマイロフスキイ橋から、かなり遠く離れてしまった。と不意にわが主人公は力まかせに紐を引っ張って、すぐさま引っ返せと馭者に命じた。馭者は馬首を転じた。そして、二分ばかりすると、車は再びオルスーフィ・イヴァーノヴィチの家の門内へ乗りこんだ。「もういい、馬鹿め、もういいったら、引っ返すんだ!」とゴリャードキン氏はどなった。すると、馭者はその命令を待ちかまえていたように、ひと口も言葉を返さず、車寄せに馬をとめようともしないで、庭をぐるりとひとまわりして、また往来へ出てしまった。
 ゴリャードキン氏は家へ帰らなかった。セミョーノフスキイ橋を通り過ぎると、ある横町へ折れて、かなり見かけのお粗末な料理屋の前に車をとめさせた。馬車から出ると、わが主人公は馭者に勘定をすまし、それでようやく馬車から解放されたのである。ペトルーシカには、家へ帰って待っているようにいいつけて、自分一人だけ料理屋へ入り、別室を占領して食事を注文した。彼の気分ははなはだかんばしくなかった。頭の中は支離滅裂になり、混乱をきわめていた。彼は興奮の体で、長いこと部屋の中を歩きまわっていた。やがて、ついにいすに腰をおろし、両手で額をおさえたまま、現在自分が置かれている真の立場というものについて考察をめぐらし、何らかの解決を得ようと、懸命の努力をし始めた……

[#4字下げ]第4章[#「第4章」は中見出し]

 その日はめでたい日であった。かつてゴリャードキン氏の恩人であった五等官ベレンジェエフ氏のひとり娘、クララ・オルスーフィエヴナの誕生日であった、――その日は、イズマイロフスキイ橋畔からそのあたりにかけて住んでいる官吏の家々で、もはや長いあいだ見られなかったような、華々しい贅をつくした晩餐会の催される記念すべき日であった。それは晩餐会といおうより、バルタザール王の饗宴とでもいうべきもので、グリコのシャンパン、エリセーエフやミリューチンの店から取り寄せた牡蠣や果物、肥えた柔かい犢肉その他の料理、厳かに守られる位階官等の順序といったように、その豪奢で華々しく、しかも、礼節にかなっている点では、何かしらバビロンの栄《はえ》をしのばせるようなものがあった。――こうした晴れがましい晩餐会によって記念されるこの栄えある日は、輝かしい舞踏会で有終の美を発揮することになった。それは家庭的な、内輪ばかりの、ささやかな舞踏会ではあったけれども、趣味、教養、節度などの点から見て、なんといっても輝かしいものに相違なかった。もちろん、そういう舞踏会もままあるものだということには、筆者も異存がないけれども、しかしやはりめったにはないのである。舞踏会というより、むしろ家庭団欒のよろこびといったほうが適切なこの舞踏会は、たとえば、五等官ベレンジェエフ邸のごとき家庭においてのみ催され得るのだ。筆者はさらに一歩すすめていうが、すべての五等文官の家庭においてかような舞踏会が催され得るかどうか、疑わしいとさえ考えるものである。ああ、もし筆者が詩人であったら! もちろん、少なくとも、ホメロスプーシキンくらいの詩人でなくてはならないので、それ以下の才能をもって推参するわけにはいかない、――おお、読者諸君よ! それこそ筆者は絢爛無比の色彩とのびのびした筆触をもって、この真に晴れがましき一日を心ゆくまで描き出したであろう。そうだ、筆者は自分の叙事詩を、まず晩餐から始めたに相違ない。この祝宴の女主人の健康を祝う最初の乾杯があげられる、その目ざましくも荘重な刹那に、かくべつ力をそそいだであろう。筆者はまず第一に賓客一同が、沈黙というよりは、むしろデモステネスの雄弁といったほうがふさわしい敬虔な沈黙と、期待の中に包まれているさまを描き出したであろう。それからまた、賓客中の最年長者であり、かつ一座の牛耳を取る権利さえ多少もっているアンドレイ・フィリッポヴィチが、かしらに白髪をいただき、その白髪にふさわしい幾つかの勲章を胸に飾って、やおら席を立ち、火花のごときかがやきを発する酒をなみなみとたたえた祝杯を、頭上咼くさし上げる光景をも描写したであろう。――酒、それはかかる瞬間に用いるために、わざわざ遠い異国から取り寄せられるもので、酒といおうより、むしろ天の美酒《うまき》とも名づくべきものである。なおまた、アンドレイ・フィリッポヴィチに続いて杯をさし上げ、期待にみちた視線を彼に注いでいるその他の賓客や、祝宴の女主人公の両親の、幸福に溢れたさまをも描いて見せたであろう。そして、かくもしばしば名をあげられるこのアンドレイ・フィリッポヴィチが、初めまず一滴の涙を杯の中に落として、祝福と希望との言葉を述べ、健康のために乾杯を提唱して、ぐっとひと息に飲む、その光景をも描いたに相違ない……しかし、正直なところ、まったく正直なところ、祝宴の女王であるクララ・オルスーフィエヴナが、幸福と羞恥のために、春の薔薇《そうび》のごとく顔をあからめながら、胸が一杯になって、優しい母親の抱擁に身を投じる瞬間や、優しい母親が覚えず涙ぐむところや、長年の勤務のために足の自由がきかなくなり、その精励の報いとして財産と、家と、幾つかの村と、美しい娘を運命に授けられた五等官のオルスーフィ・イヴァーノヴィチが、いい年をした大の男でありながら、それを見て子供のようにすすりあげて泣きながら、涙のひまから、閣下はわしの恩人だ、といった時の物々しい厳粛な感じは、しょせん残りなくお伝えすることができないだろう。またこれにつづいて、たちまち人々の胸中に生じた感激も、筆者は読者諸君にお伝えすることができなかったろう、まったくなんともお伝えできなかったに相違ない。――この感激は、同じくアンドレイ・フィリッポヴィチの言葉に耳をかたむけながら、思わず涙ぐんだ一人の若い十四等官(しかし、彼はその瞬間、十四等官というより、むしろ五等官然としていた)の振舞いに、はっきりと現われたのである。また当のアンドレイ・フィリッポヴィチも、この荘重な瞬間には、さるお役所の課長を勤めている六等官とは、どうしても見えなかった、――事実、何かしら別なもののように思われたのであるが……はたしてなんであるかは、筆者にはわからない、ただ六等官らしくなかったことだけは確かである。そんなものより、もっとえらく見えたのだ!
 さて最後に……ああ! なぜ筆者は高邁な、力強い筆力の奥秘を授けられていないのだろう――徳行は時として悪心や自由思想や、背徳や、羨望などにうちかつものであることを証明するために、ことさら設けられているかのように思われる、このような美しい、教訓的な人生の瞬間を描破するために必要な荘重なる筆力を、なぜ筆者は恵まれていないのだろう? 筆者は何もいうまい、ただ沈黙のうちに、――これこそいかなる雄弁にも優るものであるが、――一人の幸福な青年を指さしておこう。これはようやく二十六の春を迎えんとしているヴラジーミル・セミョーノヴィチ、すなわちアンドレイ・フィリッポヴィチの甥である。彼もやがて順がまわって、席をたち、同じく乾杯の辞を述べた。すると、祝宴の女王の両親の涙にうるおった目も、アンドレイ・フィリッポヴィチの誇らしげな目も、当の祝宴の女王のはじらいを含んだ目も、賓客達の歓喜に溢れた目も、二、三の若い同僚達の節度を越えない羨望の目も、ひとしく、この華々しい青年のうえにそそがれるのであった。筆者は何もいうまい。ただここで一言ふれておかざるをえないのは、良い意味において、若人というよりもむしろ老人の感じのするこの青年にあっては、いっさいのものが、――つやつやしい頬から、身についている八等官の位階に至るまで、何もかもがこの荘重なる瞬間において、品行方正はいかなる程度にまで人間を高め得るか! をあらわに語らないばかりであった、ということである。それから、最後にアンドレイ・フィリッポヴィチの同僚であり、かつてはオルスーフィ・イヴァーノヴィチの同僚でもあり、同時に、この家ぜんたいの古い馴染みとしてクララ・オルスーフィエヴナの名付け親となっている、役所の課長アントン・アントーノヴィチ・セートチキンが、同じく乾杯を提唱しながら、真っ白な頭をふり立てて、雄鶏の鳴くような声で愉快な詩を朗吟したことや、このような作法にかなった無作法ぶりで(もしこんないい方ができるとすれば)、彼が一座の人人を涙の出るほど笑わせたことや、クララ・オルスーフィエヴナまでが、両親の指図で彼に接吻し、その陽気な愛想のいいお座興に感謝の意を表したことなどは、今さらくだくだしく書き立てないことにする。筆者はただこれだけのことをいっておこう、――こうした晩餐の後に自然の道理として、互いに親しい同胞《きょうだい》のような感じをいだき合うようになった賓客たちは、ついに食卓を離れた。老人連や名士達はしばらくうち解けた世間話をしたり、きわめて愛想のいい中にも当然節度を踏みはずさぬうち明け話をした後、行儀よく次の間へ行って、貴重な時を浪費することなく、すぐさま幾つかの組に分れ、品位にみちた態度で、青羅紗を張ったカルタ机に向かった。客間に腰をおろした婦人たちは、だれも彼も、急に驚くばかり愛想がよくなって、さまざまな話題を持ち出しておしゃべりを始めた。最後に、忠誠と真実をもって邦家に尽瘁したため両足の自由を失ない、その功によって上記のごとき数数の恩賞にあずかった尊敬すべきこの家の主人は、ヴラジーミル・セミョーノヴィチとクララ・オルスーフィエヴナにささえられ、松葉杖に寄りながら、家人達の間を歩きまわっていたが、これも同様、突然ひどく上機嫌になって、無駄な費えとなるのもかまわず、ちょっとしたささやかな舞踊会を即席で開くことに決めた。そのために一人のはしっこい青年(例の食事の席で、青年といおうよりむしろ五等官に髣髴としていた男)が、音楽隊を呼びにやらされた。やがて、総勢十一人の音楽隊がやって来て、ついにかっきり八時半に、フランス風のカドリールや、その他さまざまな舞踊曲の、心をそそるような響きが流れ出した……白髪の主人の並みはずれたご機嫌で即席に催されたこの舞踊会を、相当に書きこなすためには、わたしの筆があまりにも無力で、鈍重で、生気がないのは言を待たずである。あえて反問するが、独特な意味においてきわめて興味あるものとはいえ、つつましいゴリャードキン氏の冒険を物語ろうとするこのわたしに、美と、輝きと、礼節と、楽しさと、愛想のよい品位と、品位ある愛想と、奔放と、歓喜との、世の常ならぬ上品な混淆を、どうして描き現わすことができようぞ。これらすべての名流婦人たち、――彼らのために有利な意味でいって、婦人と呼ぶよりはむしろ妖精といったほうがふさわしいような人々の、百合のごとく薔薇のごとき肩や顔、ふうわりと軽やかな姿態、高尚な言葉を用いていえば繊細可憐、かつ奔放活発な足などを、どうして描写することができようぞ? また最後に、高い官等を有するこれらの輝かしい紳士たち、愉快でしかも重味があり、ものものしくしかもよろこびに溢れ、礼儀をみださぬ程度に陶然としている青年たち、踊りの間々にやや離れた小さな緑色の部屋でパイプをくゆらせているのや、パイプをくゆらせていない紳士たち、だれも彼も一人洩らさず相当の官位と、家名とを持っている紳士たち、――婦人たちと話す時には主としてフランス語をつかい、もしロシヤ語で話すような場合にはきわめて高尚ないいまわしを用いて、洗煉されたお世辞や深遠な語句を選ぶ紳士たち、――こんな人達を筆者にどうして描くことができようぞ? もっとも、この紳士たちも喫煙室へ入った時には、高尚な調子をいくらかゆるめて、へだてのない、うちとけた言葉使いをする。たとえば、「おい、ペーチカ、貴様はなかなか相当なもんだな、今のポルカの踊りっぷりときたら、素晴らしいものだったぜ」とか、「よう、ヴァーシャ、貴様はなかなか相当なもんだな、相手の奥さんを思う存分に引きまわしてたじゃないか」といったようなたぐいである。しかし、おお読者よ、すでに前にも述べたとおり、これらのことどもを描破するには、筆力が不十分であるから、したがって、沈黙を守ることにする。それよりいっそ、正直一方なこの物語の唯一にして真の主人公であるゴリャードキン氏に移るとしよう。
 というのはほかでもない、彼はいまきわめて奇怪な(多言を費さないために、ただこれだけいっておこう)状態に置かれていたのである。諸君よ、彼もまたここにいたのである。つまり、舞踊会にいたのではないが、ほとんど舞踊会の席にいたのも同様である。諸君よ、彼は別にどうもしたのではない。彼はいつもの彼に違いないけれども、今この瞬間まっとうな道を踏んでいたとはいわれないのである。彼は今、一口にするさえ奇怪なことだが、――オルスーフィ・イヴァーノヴィチの裏階段に通ずる廊下に立っていたのである。しかし、彼がそこに立っているからといってなんでもない。自分勝手に立っているだけの話である。諸君よ、彼は大して暖くはないが、その代わり薄暗いところを選って身を潜め、片隅にたたずんでいるのであった。大きな戸棚と古い衝立でなかば姿を隠し、ありとあらゆるがらくたや、古道具の間に立って、時が来るまで身をかくし、今のところさしあたり、局外の傍観者という資格で、事の成行きを見ていたのである。諸君よ、彼は今ただ観察しているだけなのであるが、諸君よ、彼とても同様、中へ入って行くことができるのだ……なぜ入ってならぬという理由があろう? ただ一歩、踏み越えさえすれば入れるではないか、立派に入ることができるではないか。ただ今のところ、――戸棚と衝立の間にはさまれ、ありとあらゆるがらくたや古道具に取り巻かれながら、もうかれこれ二時間あまりも寒い中に立ちつづけているのだが、――心の中では自己弁護のために、今は世になきフランスの国務大臣ヴィレールの箴言、「時機を待つだけの分別があれば、すべてはやがてそのうちに到来するであろう」という一句を引用するのであった。ゴリャードキン氏がいつかこの一句を発見したのは、突拍子もなくかけ離れたある本の中だったが、今やまことに折よく記憶に浮かんできたのである。この箴言は第一、今の彼の境遇にうってつけだし、第二には、ほとんどまる三時間も薄暗がりの寒い廊下で、幸福な解決を待ちあぐねている人間であってみれば、どんな考えが頭に浮かぶか知れたものではないのである。さて、前にも述べたごとく、まことに折よくフランスの前国務大臣ヴィレールの箴言を想い起こしたゴリャードキン氏は、たちまちそれにつづいて、どういうわけか知らないけれども、トルコの前大臣マルチミリスと、同じく美しき辺疆《マルククラフ》伯夫人ルイザのことを思い出した。彼はその物語をいつかものの本で読んだのである。ついで、ジェスイットは目的さえ達することができれば、いかなる方法をもいとわないのがむしろ原則となっている、ということも彼の頭に浮かんできた。こうした歴史的考証によって、いささか自信を強めながら、ゴリャードキン氏はひとりごつのであった。――ジェスイットそもそも何するものぞ? ジェスイットは皆一人のこらず大馬鹿者だったから(おれ自身あんなやつらみんなの鼻を明かしてやる)、ほんの一分間でも食器室がからになったら(この部屋の戸が直ちに廊下から裏階段、すなわち今ゴリャードキン氏の立っている所へ通じているのだ)、おれはジェスイットなどがなんといおうと、いきなりさっさと入って行ってやる。初めまず食器室から茶の間へ行き、それから今カルタをたたかわしている部屋へ侵入し、最後に、みながポルカを踊っている広間へ入りこむのだ。入って行くとも、何がどうなろうとかまわず入って行く、もぐりこんで見せる、ただそれだけのことだ、だれにも見つかりっこありゃしない。それから先どうしたらいいか、それはもう自分で承知している。諸君よ、この徹頭徹尾真実な物語の主人公は、今やかくのごとき状態に置かれているのであった。もっとも、彼の身に現在はたしていかなることが生じたのであるかは、容易に説明ができない。というのは、ほかでもない、彼も裏階段から廊下まではまんまとたどり着くことができた。その理由は簡単である、どうしてたどり着けないという法があろう、だれも彼もたどり着くではないか、といった次第であるが、それから先へ入りこむのは遠慮した。それは明らかに遠慮したのである……それも、何かで怯気がついたからではなく、自分で望まなかったからである。彼自身そっと目立たぬようにやりたかったからである。そこで、諸君よ、彼は今そっと目立たぬように入りこむ機会を待っている、しかも、かっきり二時間半待っているのである。どうして待っていてはいけないのだ? 例のヴィレールでさえ待ったではないか。『ふん、ヴィレールなんか、この場合なんの関係があるのだ?』とゴリャードキン氏は考えた。『ヴィレール何するものぞやだ。それより、いまおれがなんとかして、その……うまくつるりと滑りこむ方法はないかしらん?……ええっ、このでくの坊め!』とゴリャードキン氏は、かじかんだ手で凍えた頬をつねりながら、ひとりごちた。『ちぇっ、このとんまめ、このゴリャードカ野郎め、へん、なんてけっこうなお名前だ!………』もっとも、こうして自分で自分に悪態を吐き散らしたのは、目下のところ、別にこれというあてはなかったらしい。と、彼はふいに身を乗り出して、前へ進もうという気勢を示した。いよいよ潮時が来たのだ。食器室はがらんとして、だれ一人いなくなった。ゴリャードキン氏は、それを小窓ごしに見てとったのである。彼は二あしで扉に近寄り、今やそれを開けようとした。『進んだものか、どうだろう? さあ、進んだものか、よしたものか? 入ってやろう……何も入って悪いという法はあるまい! 勇者には到るところ道が開けるのだ!』こんなふうに自分で自分を納得させておきながら、わが主人公は突然、まったく思いもよらず、衝立の陰に退却してしまった。『駄目だ』と彼は考えるのであった。『もしひょっと、だれか入って来たらどうする? 案のじょう入って来やがった。なんだっておれは、だれも人のいない時にぼんやりしていたんだ? なんのことはない、腹を決めて、いきなり入りこみさえすればよかったものを!………ところが、駄目だ、こんな性根を持っていたのじゃ、入りこむもくそもあったものじゃない! いやはや、どうも困った傾向だ! まるで雌鶏みたいに怯気づいてしまったぞ! だが、怯気づくのはこっちの勝手だ、そうだとも、いつもどじばかり踏んでいる、これもこっちだけの話で、人にかれこれいわれる筋はありゃしない。現に、こうして丸太ん棒よろしく突っ立ってりゃいいので、それっきりの話だ! 家にいたら、今頃はお茶でも一杯飲んでいることだろうな……それもなかなか悪くないなあ、お茶を一杯飲むというやつも、あまり遅く帰って来ると、さぞペトルーシカがぶつぶついうことだろうて。いっそ、家へ帰ったものかな? ええ、畜生、何もかもいっさいがっさいどうだってかまやしない! 入って行く、それでおしまいだ!』こんな具合に、自分の窮境を一挙に解決したゴリャードキン氏は、さながらだれかが彼の内部のばねを押えでもしたように、さっと前へ身を乗り出した。ただの二あしで食器室へ入ると、毛皮外套をそこへはおり出して、帽子を脱ぎすて、忙しげにそれをひとまとめにして片隅へ突っこみ、さて、身づくろいして、頭をなでつけた。それから……それから茶の間をさして足を向けた。茶の間から、さらに次の間へちょろりともぐりこみ、カルタで夢中になっている人々の間をけどられぬようにすべって行った。それから……それから……その時ゴリャードキン氏は突如、自分の周囲に行なわれているすべてのことを忘れつくして、みんなのダンスしている広間へ、いきなり思いがけなく闖入したのである。
 その時は、まるでわざとのように、ダンスの切れ目であった。貴婦人たちは三々五々うちつれて、絵のように広間の中をそぞろ歩きしていた。殿方連は幾つかのグループに分れて、話しているものもあれば、婦人のお相手をして、広間をあちこちしている者もあった。が、ゴリャードキン氏は、そんなものなど一つも目に入らなかった。彼はクララ・オルスーフィエヴナと、その傍にいるアンドレイ・フィリッポヴィチを見たばかりである。それからヴラジーミル・セミョーノヴィチと、二、三の将校と、さらにまた、二、三の青年紳士をみとめた。これらは皆それぞれ面白みのある人達で、将来有望な連中か、それとも、現にその有望さを証明してしまった連中であることは、一目でそれと察しられるのであった。それから、彼はなおだれかれの人を目に留めた、というよりむしろ、もうだれひとり見なかった、だれにもいっさい目をくれなかったのだ……招かれもせぬよその舞踊会へ闖入した彼は、やはりそれと同じ内部のばねに操られながら、先へ先へと進んで行った。そして、なおもどんどんと進んで行くうちに、途中どこかの役人に突き当たって、その足をいやというほどふんづけた。そのついでに、一人の上品な老婦人のスカートを足につっかけて、少々ばかり引き裂いてしまった。それから、盆を持った給仕を突き飛ばすし、まただれかれの者にも突き当たった。しかし、当人はそれにいっこう気がつかないで、というより気はつきながらも、ええままよ、毒食わば皿までといった気持ちで、だれの顔も見ずに、どんどん先へ進んで行くうち、思いがけなく当のクララ・オルスーフィエヴナの面前に、姿をあらわしたのである。一点うたがいをはさむ余地もない、彼はこの瞬間、大地の裂け目にでも身を隠すことができたら、心の底からよろこびの念を抱いて、眉一つ動かさずにそれを実行したことであろう。しかし、いったんしてしまったことは、もはや二度と再び取り返しがつかない……実際、なんの取り返しがつくものか。いったいどうしたらよかろう?『失敗したら、じっと我慢をし、成功しても、有頂天にならないことだ。ゴリャードキン様はもちろん、陰謀家でもなければ、靴で嵌木床を磨く名人でもないのだからな……』もうこういうことになってしまったのだ。おまけに、ジェスイット派よろしくの連中が、この場へ絡んで来た形である……が、ゴリャードキン氏はそんな手合いにかまっている暇はない! 今までがやがや動きまわり、ざわめき、しゃべり、笑っていたいっさいのものが、さながら何かの合図でもあったように、ぴったりと鳴りをしずめてしまって、じりじりとゴリャードキン氏のまわりに集まって来た。とはいえ、ゴリャードキン氏は何一つ耳にも入らなければ、目にも映らなかった。彼は見ることができなかった……それこそまったく、見ることができなかったのである。彼は目を足もとに落として、そのままじっと立っていた。もっとも、どこか意識の端のほうで、明日ともいわず今夜すぐ、何とか方法をこうじて自殺しようと、立派にみずから誓ったのである。こう立派にみずから誓いながら、ゴリャードキン氏は心の中で、『ええ、どうともなるようになれ!』といって、自分ながら驚きいったことには、突然、まったく思いがけなくしゃべりだしたのである。
 ゴリャードキン氏はまず、祝辞と礼儀正しい挨拶できりだしたのであった。祝辞のほうはうまくいったが、挨拶のほうでわが主人公はつかえてしまった。いったんつかえたが最後、たちまち何もかもふいになってしまうということは、彼も直感していたのである。はたせるかな、ひと口つかえると、しどろもどろになってしまった……しどろもどろになって、顔を真っ赤にして、とほうにくれた。とほうにくれて目を上げた。月を上げて、ぐるりと一同を見まわした。ぐるりと一同を見まわして、――気が遠くなってしまった……一同はじっと立って、押し黙ったまま待ち受けていた。少し離れたところでは、ひそひそささやき合っていた。少し近いところでは、からからと高笑いの声が起こった。ゴリャードキン氏は、とほうにくれたような従順な視線を、アンドレイ・フィリッポヴィチに投げた。アンドレイ・フィリッポヴィチのそれにこたえた視線は、もしわが主人公がまだ完全にとどめを刺されていなかったら、この次には必ず往生さしてやるぞ、もしそれができることなら、――とでもいいたそうであった。長い沈黙がつづいた。
アンドレイ・フィリッポヴィチ、これはむしろ家庭的な事情でありまして、わたくしの私生活に関したことなのです」と生きた心地もないゴリャードキン氏は、聞こえるか聞こえないかの声でいった。「これは公けの意味をもった出来事ではありません、アンドレイ・フィリッポヴィチ……」
「恥を知りたまえ、きみ、恥を知りたまえ!」とアンドレイ・フィリッポヴィチは、いいしれぬ憤懣の面もちで、なかばささやくような声でいった。――こういったかと思うと、クララ・オルスーフィエヴナの手を取って、くるりとゴリャードキン氏に背を向けた。
「わたしはなにも、恥じなければならないようなことはありません。アンドレイ・フィリッポヴィチ」とゴリャードキン氏はすっかりとほうにくれて、この際、けげんそうな様子で立っている群衆のなかに中庸の節度とおのれの社会的位置を見出そうと、情けない目つきで一同を見まわしながら、これも同様、ささやくような声でこう答えた。
「いや、なんでもありませんよ。皆さん、なんでもありませんよ! いったい、これがどうしたというのです? だれにだってあることじゃありませんか」とゴリャードキン氏は、少しずつその場をじりじりと動いて、自分を取り巻いている群衆からのがれようとあせりながら、こんなことをささやくのであった。人々は彼のために道をあけた。わが主人公は、好奇にみちた目でうさんくさそうに眺めている人々の列の間を、どうやらこうやら通り抜けた。宿命が彼をぐんぐん引きずっているのであった。ゴリャードキン氏自身も、宿命に引きずられていることを感じた。もちろん、今もし礼儀作法を破ることなしに、裹階段の廊下にたたずんでいた先ほどの状態に帰ることができたら、いかなる高価な犠牲をも惜しみはしなかっただろう。が、それは金輪際、不可能な話であるから、彼はなんとかして、目立たぬようにどこかの片隅へもぐり込み、あまり大して人目に触れぬよう、だれともかかり合いにならぬよう、しかし同時に、客人たちや主人側の好感を得るように、つつましく、礼儀正しく、弧立してひかえていようと苦心し始めた。けれども、ゴリャードキン氏は、自分の足場にしている地面がしだいに波に洗われて、体がよろよろとよろめき、今にも倒れそうな気がした。ついに、彼はとある一隅にたどりついて、さながら局外の傍観者のような、かなり無関心の態度で、二脚のいすの背に両手をのせて立ち、その姿勢でもって、このいすは二つながらわたしが占領したのですぞ、と知らせながら、できるだけ油断しないように、オルスーフィ・イヴァーノヴィチのまわりに集まっている客人たちを、ちらちらと眺め始めた。彼にもっとも近く立っていたのは、背の高い好男子の青年将校で、これにくらべるとゴリャードキン氏は、自分がとるにも足らぬ虫けら同然に思われた。
「この二脚のいすはね、中尉殿、ちゃんと主が決まってるんですよ。一つはクララ・オルスーフィエヴナので、もう一つはやはりここで踊っている、チェフチェハーノヴァ公爵令嬢のです。ぼくはこれを、お二人のために守っているんですよ、中尉殿」とゴリャードキン氏は、哀願するような目つきを中尉殿のほうへ向けながら、息をはずませはずませいった。中尉は無言のまま、刺し殺さんばかりの冷笑を浮かべて、顔をそむけた。これでしくじったので、わが主人公は、またどこか別のほうで運だめしをやってみようと、ものものしい勲章をくびにぶら下げた一人の高官のほうへ振り向いた。けれど、高官は名状し難い冷ややかな視線で、じろりと彼を一瞥したので、ゴリャードキン氏は突然、頭から手桶の冷水をぶっかけられたような気がした。ゴリャードキン氏は鳴りをしずめた。彼はもうなんにもいわず黙りこんで、自分は別になんでもないのだ、自分もほかの人たちと少しも変わりはない、自分の立場は、少なくとも白分の感じている限りでは、みなと同様いたって作法にかなったものだ、ということを見せつけようとはらを決めた。この目的をもって、彼は自分の制服の袖口にじっと視線を凝らしていたが、やがて視線を上げて、きわめて上品な様子をした一人の紳士に目をとめた。『この紳士は鬘をかぶってるのだ』ゴリャードキン氏は考えた。『もしあの鬘を取ったら、おれの掌と同じようにつるつるの禿頭が出てくるんだな』こういう重大な発見をしたゴリャードキン氏は、アラビヤの族長たちのことを思い出した。彼らが予言者モハメットとの血族関係を示すためにかぶっている緑色のターバンを取りのけたら、これもご同様に毛の一本もない禿頭が現われてくるのである。それから、おそらくトルコ人に関する連想からであろうが、ゴリャードキン氏の想念は、トルコのスリッパにまでたどり着いた。すると、たちまちアンドレイ・フィリッポヴィチのはいている靴が、靴というより、むしろスリッパに似ていることを思い出した。明らかにゴリャードキン氏は、いくらか自分の現在の位置に馴れてきたものらしい。『そうだ、もしあのシャンテリヤが』という考えがゴリャードキン氏の頭をかすめた。『もしあのシャンデリヤが、今すぐ天井からちぎれて、みんなの頭へ落ちかかってきたら、おれはすぐさまとんで行って、クララ・オルスーフィエヴナを助けてやろう。助けてやったうえで、こういうんだ。「お嬢さん、ご心配なさいますな、こんなことはなんでもありません、ところで、あなたの救い主はわたしばんですよ」さてそれから……』その時ゴリャードキン氏は、クララ・オルスーフィエヴナをさがしだそうと思って、別の方角へ視線を転じた。と、オルスーフィ・イヴァーノヴィチの侍僕頭ゲラーシムイチの姿が目に入った。ゲラーシムイチはひどく仔細らしい、そしていやに改まったものものしい様子をして、群衆を分けながら、真っ直ぐに彼のほうへ進んで来るのであった。ゴリャードキン氏はぴくりっとした。なんともえたいの知れぬ、しかも同時に、不愉快きわまる感じにおそわれて、顔をしかめた。彼は機械的にあたりを見まわした。ふと彼の頭には、なんとか、こう、人の目につかぬように、内証でするりと抜け出す方法はなかろうか、君子は危きに近寄らずで、なんとかしていっときに姿を消してしまう術はあるまいか、という考えが浮かんできた。つまり、自分は何も関係がないといった様子をして、けろりとすましていたいのである。けれども、わが主人公がなんとかはらを決める暇もないうちに、早くもゲラーシムイチが彼の前に立っていた。「やあ、ゲラーシムイチ」とわが主人公は、にこにこ顔で、ゲラー・シムイチのほうへ振り向きながら、きりだした。「きみ、ひとつだれかにいいつけて、ちゃんとさせなくちゃいけないよ。――ほら、見たまえ、あの飾り燭台のろうそくさ、――あれは今にもすぐ倒れるよ、ゲラーシムイチ。だからさ、きみ、あれを直すようにいいつけたまえ。まったく、今にもすぐ倒れるよ、ゲラーシムイチ……」
「ろうそくですって? いいえ、ろうそくはちゃんと立っておりますよ。それより、だれかあちらであなた様にご用があるそうでございます」
「いったいそれはだれだね、ゲラーシムイチ、ぼくに用があるっていうのは?」
「どなたか、しかとしたことはわかりかねます。どちら様かのお使いの人でございます。こちらにヤーコフ・ペトローヴィチーゴリャードキン様がお見えになっていらっしゃいませんか? もしお見えでしたら、ちょっとお呼び申していただきたい、たいへん急な大切のご用があるのだから……と、こう申すのでございます」
「いや、ゲラーシムイチ、それはきみの思い違いだよ。まったくきみの思い違いだよ、ゲラーシムイチ」
「とんでもないことで……」
「いや、ゲラーシムイチ、とんでもないことじゃありゃしない。本当にとんでもないもくそもあるもんかね、ゲラーシムイチ。だれもぼくを訪ねて来るものはありゃしないよ。ゲラーシムイチ、そんなはずがないんだからね。ぼくはここでちゃんと落ち着いてるんだよ、まるで自分の家にいるのと同じようにさ、ねえ、ゲラーシムイチ」
 ゴリャードキン氏はほっと息を継いで、あたりを見まわした。案のじょうである! 広間の中に居合わせた人はだれも彼も、何やらものものしい期待の表情で、視覚と聴覚の全部を彼のほうに集注しているのだった。男連中はやや近くに固まって聞き耳を立てているし、婦人連は少し離れたところで、心配そうにささやき交わしていた。当のあるじは、ゴリャードキン氏からごく近いところに姿を見せた。その様子を見ただけでは、ゴリャードキン氏追い立て事件に、直接の関係を持っているとは断言できなかったが(なにしろ、それは穏便に行なわれたのであるから)、しかし、何から何までいっさいの具合から察して、わが主人公は、いよいよ危機一髪の瞬間が到来したなと感じた。ゴリャードキン氏は、今こそ勇猛果敢な一撃を与えて、敵を粉砕すべき時が到ったのを、明らかに見てとった。ゴリャードキン氏は興奮していた。ゴリャードキン氏は一種の霊感を覚え、様子いかにと待っているゲラーシムイチのほうへ振り向きながら、震えをおびた荘重な声で再び口をきった。
「ちがうよ、きみ、だれもぼくを訪ねてなんか来やしないよ。きみの考え違いだ。それどころか、さらに一歩すすんでいうが、きみは今朝も考え違いをしたんだ。あのとききみは、こういったね……いやさ、生意気にもこんな失礼なことを抜け抜けといったじゃないか(ゴリャードキン氏はここで声を張り上げた)、――オルスーフィ・イヴァーノヴィチが、――古い古い昔からぼくの恩人であり、ある意味においては父親代わりにさえなっていただいているご主人が、父親としてもっともよろこばしいこの荘重な家庭的祝日にあたって、ぼくのために門戸を閉じよと命令されたなんて(ゴリャードキン氏は得々として、しかし深い感情をこめながら、あたり
を見まわした。彼の睫毛には涙の露が宿った)。きみ、繰り返していうが」とわが主人公は言葉を結んだ。「きみはとんでもない思い違いをしたんだよ、許すことのできない間違いをしでかしたんだよ……」
 それは厳粛な一瞬であった。ゴリャードキン氏は、自分の言葉が的確無比な効果を奏したものと思った。ゴリャードキン氏はつつましやかに目を伏せ、オルスーフィ・イヴァーノヴィチの抱擁を期待しながら立っていた。客人たちの間には目に見えて、動揺と困惑の色が現われた。ものに動ぜぬ恐るべきゲラーシムイチでさえも、『とんでもないことで』の一言を発するのに、いささか躊躇を感じたほどである……と、ふいにその時、これというきっかけもないのに、見計らいのないオーケストラが、ポルカを奏しはじめた。何もかも霧散し、消失してしまった。ゴリャードキン氏はぴくりっとした、ゲラーシムイチは一歩うしろへよろけた。広間に居合わせた一同は、ざわざわと海のようにざわめき始めた。ヴラジーミル・セミョーノヴィチは、クララ・オルスーフィエヴナと組んで、真っ先に踊り出した。美男子の中尉は、チェフチェハーノヴァ公爵令嬢と組になった。人々は好奇の念と歓喜を面に浮かべながら、ポルカを踊る男女を見物しようとひしめき合った。――なにぶんこれは最新流行の面百い舞踏で、当時、世間の人を夢中にさせたものである。ゴリャードキン氏は、一時みんなから忘れられた。が、突如あたりのいっさいが波立ち、入り交り、あたふたし始めた。楽隊はやんだ……そして、奇怪なことが起こったのである。踊りくたびれたクララ・オルスーフィエヴナは、さも疲れたように、やっとのことで息をつぎ、燃えるような頬をして、胸を大きく波打たせながら、とうとうぐったりと肘掛けいすに倒れかかった……すべての人の心は、このまよわしの美女のほうへそそがれた、だれも彼もが、その妙なる踊りに賛辞と感謝を捧げようと先を争った、――と、その時、思いがけなく、ゴリャードキン氏が、彼女の前に姿を現わしたのである。
 ゴリャードキン氏は色あおざめて、いともとり乱した様子をしていた。どうやら、彼も何か力抜けがしているらしく、身を動かすのもやっとであった。なんのためやら、にやにや笑って、哀願するような恰好に手を差し伸べている。クララ・オルスーフィエヴナは、驚きのあまり、手を払いのける暇もなく、ゴリャードキン氏の勧誘に応じて、機械的に立ちあがった。ゴリャードキン氏はよろよろと前へよろめき出た。一歩、また一歩、それから片足をあげたかと思うと、今度は何かしら摺り足のようなことをし、次にはとんと一つ床を踏み鳴らして、その後でつまずいてしまった……彼も同様、クララ・オルスーフィエヴナといっしょに踊りたかったのである。クララ・オルスーフィエヴナは、きゃっと叫び声をあげた。一同は飛んで行って、彼女の手をゴリャードキン氏の手からもぎはなした。すると、わが主人公はたちまち群衆のために、かれこれ十歩くらいも引き離されてしまった。彼の周囲にもかなりな人だかりがした。二人の老婦人のけたたましい叫び声が聞こえた、ゴリャードキン氏退却の際に、あやうくひっくり返されそうになったのである。一座の混乱は名状すべからざるものがあった。だれも彼もが質問を発していた、だれも彼もが大声をあげ、議論していた。オーケストラはぴったり鳴りやんだ。わが主人公は、自分を囲む人々の間を飛びまわって、幾分、笑みを含みながら機械的に何やら口の中でぼそぼそいっていた。「だって、踊っちゃならんという法はないでしょう。ポルカは、少なくとも、ぼくの見るところでは、ご婦人がたをたのしませるためにつくられた、新しい、すこぶる面白い舞踏ですからね……しかし、こんなふうなことになってしまった以上、ぼくもおそらく同意せざるを得ないでしょう、つまり……』けれども、ゴリャードキン氏の同意などは、だれひとり求めていなかったらしい。わが主人公は突然、だれかの手が自分の腕をつかみ、また別の手が軽く彼の背中に当てられたのを感じた。彼は何かとくべつ心をくばるような態度で、どこかへ導いて行かれるのを覚えた。ついに戸口へ向けて、真っ直ぐに連れて行かれているのに気がついた。ゴリャードキン氏は何かいいたかった、何かしたかった……しかし、それは違っていた、彼は何をする気もなかったのだ、ただ機械的にせせら笑いをしたばかりである。とうとう、彼は外套を着せられ、帽子を口の上まですっぽりかぶせられたのを感じた。やがて、暗く寒い廊下へ連れ出され、とどのつまり、階段へ出たのがわかった。最後に何かにつまずいた、彼は奈落へおちて行くような気がした。思わずあっと叫ぼうとしたが、――そのとたん、いつの間にか外へ出ているのであった。冷たい空気がさっと顔にあたると、彼は瞬間、歩みをとめた。ちょうどその時、再び演奏を始めたオーケストラの響きが彼の耳朶を打った。突然ゴリャードキン氏はすべてを想い起こした。一時しおれ切っていた力が、またもや帰って来たように思われた。彼は今まで釘づけにされていた場所をさっと離れて、一目散に飛び出した、どこという当てもなく、盲滅法に自由の世界をさして……

[#4字下げ]第5章[#「第5章」は中見出し]

 ゴリャードキン氏が、イズマイロフスキイ橋のたもとのフォンタンカ河岸通りへ駆け出したとき、時を知らせ、時を打つペテルブルグの時計台という時計台は、かっきり夜中の十二時を報じた。彼は敞の追跡をのがれ、雨霰と降りかかる非難嘲笑をのがれ、びっくり仰天した老婦人連の叫び、貴婦人連の溜息、アンドレイ・フィリッポヴィチの殺人的な視線をのがれて、飛び出したのである。ゴリャードキン氏は殺された、――この言葉の完全な意味において、本当に殺されたのである。よしんば、いま走る能力を保存しているにもせよ、それはひとえに、何かの奇蹟によるのであった。しかも、その奇蹟すら、彼自身ついに信ずることができなくなった。それは恐るべき夜であった――-十一月特有の、湿った、霧の深い、雨まじり雪まじりの夜、――炎症、鼻カタル、おこり、扁桃腺炎、ありとあらゆる種類の熱病、ひと口にいえば、ペテルブルグの十一月の贈物を、ことごとくもれなくはらんでいる夜だった。風はがらんとした人気《ひとけ》のない街々を咆哮して、フォンタンカの水を、もやい用の鉄環よりも高く持ち上げ、河岸通りの痩せひょろけた街燈を意地悪くゆすぶっていた。すると、街燈はまた街燈で、か細い刺すようなきしみ声を立ててこれに応じる。こうしてすべてが、ペテルブルグの住人にいたって馴染みの深い、はてしのない悲鳴に似た、ひびの入ったような交響楽となるのであった。雨と雪が同時に降っていた。風に吹きまくられる雨あしは、まるで消防ポンプの蛇口からでもほとばしり出るように。横なぐりに降りしきり、さながら数千の針やピンかとばかりに、不幸なゴリャードキン氏の顔を刺したり、引っ掻いたりした。遠く遙かな馬車の轍の音と、風の咆哮と、街燈のきしみよりほかには、聞こえるものとてもない真夜中の静寂の中に、家々の屋根や、入口階段や、樋や、軒蛇腹などから、歩道の花崗岩《みかげいし》の上へ流れ落ちる雨水の音が、ぴしゃぴしゃとものわびしい響きを立てていた。近くにも遠くにも、人っ子一人いなかった。また、こんな時刻に、しかもこんな天候の時に、生きた人間などいるべきはずがなさそうに思われた。かくして、ただゴリャードキン氏一人のみが、絶望を胸にいだきながら、少しも早くシェスチラーヴォチナヤ街の四階の住居へたどり着こうと、いつもの小刻みなちょこちょこした足取りで、こんな時刻にフォンタンカ河岸の歩道を急いでいるのであった。
 雪、雨、それから、ペテルブルグの十一月の寒空に吹雪と濃霧が荒れはじめたが最後、四方八方から現われて来る名もつけられないような種々様々なものが、それでなくてさえ不幸にうちひしがれているゴリャードキン氏の上へ、一度にどっと襲いかかって、息をつぐひますらも与えず、目つぶしをくわせ、骨の髄にまでしみ通り、前後左右から吹き抜け、道を踏み迷わせ、僅かに残った意識を朦朧とさせるのであった。これらすべてのものは、あたかもゴリャードキン氏の敵どもとぐるになって、彼の一日ひと晩を台なしにしてやろうと、しめし合わせたかのように、一時に彼の頭上に崩れかかって来たのである。――が、それにもかかわらず、ゴリャードキン氏はかかる運命の迫害の最後の証明に対して、ほとんど無感覚であった。つい四、五分ほど前に、五等官ベレンジェエフ氏の宅で起こったいっさいの出来事が、あまりにも強く彼を震撼し、衝撃したのである! もしいまだれか何の利害関係もない局外の傍観者が、ふとわきのほうから何気なく、ゴリャードキン氏のわびしげなちょこちょこ走りを見たら、たちまちにして彼の不幸の恐るべき意義を底の底まで直覚して、ゴリャードキン氏の今の目つきは、自分で自分からのがれて、どこかへ隠れようとしている人のようだ、といったに相違ない! そうだ! それはまったくそのとおりなのだ。われわれはそれにつけ加えて、さらにこういおう。ゴリャードキン氏は、自分で自分からのがれようとしたばかりでなく、ぜんぜん消滅してしまいたい、無に帰し、ちりに化してしまいたいと望んでいるのだ。今や彼は、周囲の何ものにも注意を払わず、あたりに起こっているいっさいのことを理解せず、不快な嵐の夜も、長い道のりも、雨も、雪も、風も、周囲を包んでいる全体の悪天候も、彼にとっては何一つ実際に存在しないかのようであった。ゴリャードキン氏の右足の靴から脱げたオーヴァシューズが、そのままフォンタンカ河岸の歩道のぬかるみと雪の中に取り残されたけれども、ゴリャードキン氏はそれを取りに引っ返そうとも思わなかった、そのなくなったことにさえ、気がつかなかったのである。彼はもう完全に叩きつけられていたので、周囲の状況には何ひとつ目もくれず、ただ先ほど自分が恐ろしい恥さらしをしたということにのみ心を奪われて、時々棒のように歩道の真ん中に立ちどまった。その瞬間、彼は死と消滅の境を彷徨しているのであった。と、ふいに、気ちがいのようにその場を飛び立って、後をも見ずに駆けだした、さながらだれかの追跡をのがれようとでもするかのように、何かしらさらに恐ろしい不幸を避けようとでもするかのように、ひた走りに走った……真にそれは恐るべき状態であった!………ついにゴリャードキン氏は力つきて立ちどまり、とつぜん鼻血でも出はじめた人のような恰好で、河岸の欄干にぐったりともたれかかって、フォンタンカのどんよりした黒い水をじっと見つめた。どのくらいそうやっていたか分明でない。ただわかっているのは、この時ゴリャードキン氏が絶望のどん底におちいり、苦悩困憊の極に達し、それでなくとも残り少なになった気力を失いつくしたので、イズマイロフスキイ橋も、シェスチラーヴォチナヤ街も、自分の現在も、何もかも忘れ果てたということばかりである……が、事実それがどうしたというのだ? 彼にしてみれば、どうだって同じことではないか。もはやできてしまったことで、取り返しはつかない、決心のほぞは固められ、今さら変改はないのだ。もうこうなったら、どうだってかまうものか!………
 突然……突然、彼は全身をぴりっとおののかせ、思わず二歩ばかりかたわらへ跳びのいた。いいようもない不安を覚えながら、彼はあたりを見まわし始めた。が、そこにもだれもいず、何も変わったことは起こらなかったのである。にもかかわらず……それにもかかわらず、だれかしら今、ついたった今しがた、ここにいたように思われた、彼のかたわらに、彼と並んで、同じく河岸の欄干にもたれていたのみか、――不思議にも!――何か彼にものをいったような気持さえしたのである。何やら早口にちぎれちぎれで、はっきりのみこめなかったけれど、何か親しく彼の身に関した話なのである。『いったいなんだろう、ただそんな気がしただけなのだろうか?』とゴリャードキン氏は、もう一度、あたりを見まわしながらつぶやいた。『それに、第一、おれはどこに立っているんだろう?………やれ、やれ!』と彼は頭を一振りしてこういったが、それでもやはり不安な悩ましい感じをいだき、恐怖さえも覚えながら、ありたけの視力を緊張させて、自分の前に拡がっている濡れしょぼけた空間を、近視の目で克服しようとあせりながら、どんよりした湿っぽい遠方を見透かし始めた。とはいえ、何一つ珍しいこともなければ、かくべつ変わったものも、ゴリャードキン氏の目には映らなかった。何もかもが、当然あるべき状態を保っているらしかった。つまり、雪はいよいよしげく霏々《ひひ》と降りしきって、二十歩かなたは何一つ見えなかったし、街燈は前よりもいっそう甲高い音を立ててきしみ、風はしつこい乞食が一コペイカ二コペイカの小銭でもねだるように、さらに悲しい哀れっぽい声を引いて、わびしい唄を歌っているのであった。『やれ、やれ! いったいおれはどうしたってんだろう?』とゴリャードキン氏は再び歩みをつづけ、絶えずあたりをちょっと見まわしては、こう繰り返した。けれども、何かしら新しい感触がゴリャードキン氏の全存在を領したのである。憂愁ともつかなければ、恐怖ともつかぬ感じ……熱病性の戦慄が彼の血管を伝って流れた。それは堪え難いまでに不愉快なひと時であった!『なあに、なんでもありゃしない』と、彼はわれとわが心を励ますためにこういった。『なあに、なんでもありゃしない、まったくあれはなんでもないことなんだ、だれの顔に泥を塗ったというわけでもなしさ。あれは結句、ああなるべきだったのかもしれない』自分でも何をいっているのかわからないままに、彼は言葉をつづけた。『もしかしたら、そのうちに何もかもがうまくまとまって、みんなの顔が立つように納まるかもしれない、何も苦情をいう必要なんかありゃしない』こんなことをいって、言葉で胸を軽くしようと努めながら、ゴリャードキン氏はぶるっとひとつ身ぶるいして、帽子、襟、外套、ネクタイ、靴、と全身に厚くつもっている雪をふるい落とした、――が、不思議な感情、奇妙な暗い憂愁は、依然として迫いのけることも、払い落とすこともできなかった。どこか遠く砲声が響き渡った。
『なんという天気だ』と、わが主人公は考えた。『悪くしたら、こいつは洪水になるんじゃなかろうか? 見たところ、だいぶ水嵩が増したらしいからな』ゴリャードキン氏がこういった(あるいは考えた)。その刹那、前のほうから出会い頭に、こちらへ歩いて来る人影が目に入った。おそらく彼と同様、何か事があって遅くなったのであろう。これは取るに足らぬつまらぬ偶然にすぎないはずなのだが、どうしたものか、ゴリャードキン氏はどぎまぎして怯気さえつき、いくらかとほうにくれた様子であった。別段、悪漢に出会ったのではないか、などという恐怖心をいだいたのではない、ただひょっとしたら……『だって、なんともいえないからな』という考えが、ゴリャードキン氏の頭にひらめいた。『あの夜更けの通行人こそは、もしかしたら、このさいもっとも重要な役割を働くものかもしれないぞ。無意味に歩いているのじゃなく、目的があってやって来るのかもしれない、おれの行手を横切って、おれにつっかかって来ようというのかもしれないぞ』あるいは、ゴリャードキン氏もはっきりこう考えたのではなく、何かこれに類したきわめて不快なことを、瞬間的に感じただけかもしれぬ。もっとも、考えたり感じたりする余裕はなかった。通行人は早くも二歩の距離にあった。ゴリャードキン氏はたちまちいつもの癖で、一種特別な様子を取りつくろった。ほかでもない、このおれは、ゴリャードキンは、独立不羈の人間で、何のかかりあいもありはしない、それに往来は万人のもので、かなり広々としているのだから、こっちから人に触ったりなどしやしない、といった気持ちを明らかに表明して見せたのである。と、彼は突然、釘づけにされたもののように、雷に打たれたもののように、ぴったりと足をとめた。そして、かの通行人とすれ違いさま、くるりと素早く後を振り返った。その振り返りようといったら、まるでだれかがうしろから引っ張ったか、それとも風が風見を一回転さしたかと思われるほどであった。通行人は、見る見るうちに、雪嵐の中に消えていった。彼もゴリャードキン氏と同じくせかせかと歩いた、そして同様に頭から足の先まで毛皮外套にくるまっていた、なお、ゴリャードキン氏と同様に小刻みな、やや揺れるような足取りで、フォンタンカの歩道を、ちょこちょこと急いでいた。『こ、これはいったいなにごとだ?』とゴリャードキン氏は、けげんそうな微笑を浮かべながらつぶやいた、――が、同時に全身をぴくりと慄わせた。彼は背筋にぞっと寒けを覚えた。とかくするうち、通行人の姿はまったく見えなくなって、足音もはや聞こえなかった。しかし、ゴリャードキン氏はいつまでも、じっとたたずんで、その後を見送っていた。とはいえ、ついにだんだんとわれに返った。『いったいこれはなんとしたことだ』と彼はいまいましい気持ちでこう考えた。『おれはまあ、どうしたというのだろう、本当に気でも狂ったんだろうか?』彼はくるりと踵を転じ、もういっそなにも考えまいとはらをきめて、さらに足取りを早め、小刻みにちょこちょことわが家をさして歩き出した。そのために目さえつぶったほどである。
 突如、風の咆哮と吹雪のさらさらという音の中から、またもやごく近いところを歩くだれかの足音がした。彼は慄然として口を開いた。またしても、彼から二十歩ほど離れた前方に、せかせかと近寄って来る人影が黒く見えるのであった。男はせかせかと小刻みに足を動かして、道を急いでいた。距離は見る見る縮まった。ゴリャードキン氏は、もうはっきりとこの新しい仲間、夜ふけて帰る通行人の顔を見わけることさえできた。――見分けるやいなや、愕きと恐怖のために、あっと叫び声を立てた。彼は足がすくんで、動けなくなった。これは、つい十分前にすれ違ったばかりの、見覚えのある例の通行人で、今しも突如として思いがけなく、再び彼の前に立ち現われたのである。しかし、ゴリャードキン氏を仰天さしたのは、ただこの奇蹟めいた現象ばかりではない。しかも、ゴリャードキン氏の驚きは並みひととおりではなかった。――彼は立ち止まり、叫び声をあげ、何かいおうとしかけた。そして彼は見知らぬ人の後を追って駆け出した。おそらく、一刻も早く彼を呼びとめようと思ったのであろう。何か大声に叫びさえし始めた。はたせるかな、見知らぬ男は、ゴリャードキン氏から十歩ほど離れたところに足をとめた。間近く立っている街燈の光が、まともに落ちて来て、彼の全身を照らした。――立ちどまって、くるりとゴリャードキン氏のほうへ振り向き、じれったそうな仔細らしい顔つきをして、相手が何をいい出すかと待ちかまえた。
「しつれい、どうやらわたしは人違いをしたらしいです」とわが主人公は慄え声でいった。見知らぬ男は無言のまま、さもいまいましげに踵を転じて、ゴリャードキン氏のために潰した二杪間を取り返そうとでもするように、すたすたと歩き出した。ゴリャードキン氏はというと、体じゅうの筋という筋が震え出し、膝頭ががっくり力抜けがして、彼は呻き声と共に歩道の杭に坐りこんでしまった。とはいえ、彼がこれほどの惑乱におちいったのには、なるほど仔細があった。ほかでもない、この見知らぬ男が、今ではなんだか知人のように思われてきたのである。しかし、それだけならまだなんでもない。彼は今この男がだれかわかったのである。ほとんど確実にわかったのである。彼はよくこの男に会った、いつか会ったことがある、否、つい近頃会ったことすらあるのだ。いったいそれはどこだったろう、ひょっと昨日のことではあるまいか? もっとも、ゴリャードキン氏がしょっちゅう彼に会ったことがあるにせよ、それもやはり大した問題ではない。それに、この男は格別どうというところなどほとんど一つもないのだ、――最初、一目見た時も、とくに注意をひくようなところは全然なかった。まあ、別に変わりのない人並みの男で、一般に相当身分のある人間と同じように、もちろん、れっきとした人間であり、何やかや、ちょっとした特色、いや、ひょっとしたら、大した特色さえ持っているかもしれない――要するに、立派に一人前の人間なのである。ゴリャードキン氏はこの男に対して、憎悪も敵意もいだいていないのはもちろん、ごく軽い不快感さえも蔵していない、それどころか。むしろ反対のようにさえ思われる、――にもかかわらず(これこそもっともかんじんな点なのだが)、にもかかわらず、この世のいかなる宝に換えてもこの男には会いたくない、ことにたとえば、今夜のような状況では、なおさら会いたくないのであった。さらに一歩すすめていえば、ゴリャードキン氏はこの男を完全に知っているのであって、姓名までも承知しているのだが、しかも、どんなことがあろうと、繰り返していうが、この世のいかなる宝に換えても、彼の名を呼ぶことを肯んじなかったに相違ない、彼の名前がかくかくであり、父称がかくかくであり、姓がかくかくである、などということを、金輪際みとめなかったに相違ない。
 ゴリャードキン氏の疑惑がどれくらいつづいたか、どれくらい歩道の上の杭に腰をかけていたか、――それは正確にいえないけれども、ついに彼はいくらかわれに返ると、いきなり後をも見ず、一目散に駆け出した。彼は息がつまって来た。二度ばかりつまずいて、あやうく倒れそうになったが、その拍子に、もう片一方のオーヴァシューズもけし飛んで、ゴリャードキン氏の靴は両方ともおおいなしになった。とうとうゴリャードキン氏は息をつぐために歩みをゆるめて、忙しげにあたりを見まわした。見ると、もう自分でもそれと気がつかないうちに、フォンタンカの河岸を走り抜けて、アニーチコフ橋を渡り、ネーフスキイ通りの一部を過ぎて、今しもリテイナヤ街へ曲る角に立っているのであった。ゴリャードキン氏はリテイナヤ街へ折れた。この瞬間、彼の境遇は恐ろしい絶壁の上に立っている人に髣髴としていた。大地は彼の足下で真二つに裂け、ぐらりと揺れて動き出し、最後にもう一度ゆらぎ崩れて、彼を深淵の中へ引きずりこもうとしている。ところが、この不幸な男は、うしろへ跳びのくだけの力もなければ、大きな口を開いて待っている深淵から目をそらす気力もなく、深淵の魅力にじりじりと引きずられて、われとわが滅亡の時期を早めながら、ついには自分でその中へ飛びこんでしまうのである。ゴリャードキン氏は、道中また何かいやなことがもちあがるに違いない。また何か不愉快な事件が勃発するに相違ない、たとえば、またぞろあの見知らぬ男に出会うに相違ない、ということを承知していた、直感していた、しかと確信していた。しかし、不思議にも、彼はかえってその邂逅を望んだ、もはややむを得ざることと観念した。この上はただ少しも早くこれが片づいて、自分の境遇が何とか解決を得るように、どうか一刻も早くそうなるように、と祈るばかりであった。
 その間にも、彼はひた走りに走った。が、それは何か外部の力に動かされているような具合であった。なにぶん、彼は全身に妙な衰弱と麻痺を感じていたのである。彼の想念はまるで荊のように、手あたり次第のものに引っかかりはしたけれど、何一つ考えることはできなかった。体じゅうびしょぬれになり、震えている、どこかの迷い人がゴリャードキン氏の後からまつわりついて、尻尾を股の間に挟み耳を垂れ、時おり何もかものみこんだような目つきで、おずおずと彼を見上げながら、妙に体をはすかいにして、同じようにせかせかと彼の傍を走っていた。もうとっくに忘れていたような、何かしら遠く遙かな想念、――何かずっと昔に起こったことの思い出みたいなものが、今ふと彼の頭に浮かんで来て、小さな槌で打つように彼の脳壁を叩き、うるさくこびりついて離れようとしないのであった。『ええっ、このけがらわしい野良犬め!』とゴリャードキン氏は自分でもなんのことやらわからないでこうつぶやいた。ついに彼は例の見知らぬ人をイリタヤ街の曲り角で発見した。ただ、今度は彼のほうへ向かって来るのではなく、彼と同じほうへむけて進んでいた。そして、幾歩か前のほうを同じように走っているのであった。とうとうシェスチラーヴォチナヤ街へかかった。ゴリャードキン氏は息がつまりそうになった。見知らぬ人は、ゴリャードキン氏が部屋を借りている建物の前で、ぴったり足をとめたのである。呼鈴の音が響き渡って、同時に鉄の掛け金のきしむ音が聞こえた。くぐりが開いて、見知らぬ人は身をひるがえして、その出しに消えてしまった。ほとんどそれと同時に、ゴリャードキン氏も駆けつけて、矢のように門内へ飛びこんだ。何かぶつぶついっている門番には耳もかさず、彼は息せき切って内庭へ走りこむと、そのとたんに、一時姿を見失った興味津々たる道づれが目に入った。見知らぬ人は、ゴリャードキン氏の住居へ通じている階段の昇り口に、ちらりと姿を見せた。ゴリャードキン氏はその後を追って駆け出した。階段は薄暗く、じめじめして汚なかった。曲り角という曲り角には、借家人たちの種々雑多ながらくたが、山のように積んであったので、一度も来たことのないよその人が、こんな暗い時刻にこの階段を昇ったら、足を挫くくらいの危険を覚悟して、階段を罵り、こんな不便なところに住んでいる借家人を呪いながら、ものの三十分もまごつかなければならぬに相違ない。しかしゴリャードキン氏の道づれは、まるで馴れ切った人、というより、内輪の人みたいであった。勝手はすっかり心得ているといわんばかりに、何の苦もなくらくらくと駆け昇って行った。ゴリャードキン氏はほとんど追いつきそうになった。二、三度、見知らぬ人の外套の裾が、彼の鼻に触ったほどである。彼は心臓がとまりそうな気がした。神秘な人は、ゴリャードキン氏の住居の戸口に立ちどまり、ノックをした(これがもしほかの時なら、ゴリャードキン氏は一驚を吃したに相違ないのだ)、すると、ぺトルーシカは寝ないで待っていたかのように、さっそく扉を開けて、手にろうそくを持ったまま、見知らぬ人の後から入って行った。わが物語の主人公は、前後を忘れて自分の件居へ駆けこんだ。外套も脱がなければ帽子も取らず、彼は廊下を駆け抜けたが、さながら雷にでも打たれたように、自分の部屋の閾に立ちどまった。ゴリャードキン氏の予感はことごとく的中したのである。彼がおそれていたいっさいのこと、彼が予想したすべてのことが、今やうつつに実現されたのである。彼は息がとまって、目がくらくらしてきた。見知らぬ男は、同じく外套に帽子という姿で、現在かれの目の前に、彼の寝台の上に坐っている、そしてかすかに笑いを浮かべ、心もち目を細めながら、さも親しげに彼にうなずいて見せるではないか。ゴリャードキン氏は叫ぼうとしたが、それができなかった、何かの方法で抗議しようと思ったが、それだけの力もないのであった。彼は髪の毛が逆立つ思いであった。そして、恐怖のあまり感覚を失って、その場にへたへたと崩れ折れてしまった。が、それも無理からぬことであった。ゴリャードキン氏はこの深夜の客をはっきりと見わけた。深夜の客はほかならぬ彼自身であった、――ゴリャードキン氏であった、第二のゴリャードキン氏であった、があらゆる点において、彼自身とまったく寸分たがわぬ男で、ひと口にいえば、いわゆる彼の分身なのであった。…………………

[#4字下げ]第6章[#「第6章」は中見出し]

 その翌朝かっきり八時に、ゴリャードキン氏は自分の寝台の上で目をさました。と、たちまち昨日一日の異様な体験や、ほとんどあり得べがらざる出来事にみちた奇怪なもの凄い一夜が、突然、恐ろしいほどまざまざと彼の脳裡に浮かび、記憶によみがえったのである。彼の敵どものいだいているかくまでに凄まじい、おそるべき悪意と、わけても、この悪意を証明する最近の出来事が、ゴリャードキン氏の胸を凍らせてしまった。しかし、それと同時に、これらいっさいのことがあまりにも奇怪で、不可思議で、けたはずれで、どだいあり得べからざることのように感じられるので、あれがすべて本当のこととは信じられないほどであった。当のゴリャードキン氏でさえ、ああしたことはいっさいとりとめもない譫言である、瞬間的な想像の惑乱であり、頭脳のくもりであると認めたかもしれないのだが、しかし不幸にして、悪意が人間をしていかなる行為にまで走らせるものであるか、また名誉心と野心のために復讐を企てる敵の残虐性が、時としていかなる程度にまで及ぶものであるかを、彼は苦い浮世の経験で承知しているのであった。のみならず、ゴリャードキン氏の打ちのめされたような四肢や、ぼうっとなってしまった頭や、めきめきと痛む腰や、悪性の鼻風邪などは、昨夜の夜間の彷徨と、その間に起こったいっさいの出来事が、単なる幻覚ではないということを、かたくなに証明するのであった。また最後に、ゴリャードキン氏はすでにとっくの昔から、彼らが何か企らんでいること、彼らの仲間にだれかしら換え玉がいることを知り抜いていたのであるが、なんともいたし方がない! とくと思案した上でゴリャードキン氏は、この件については、ある時期が来るまで沈黙を守り、屈服し、反抗を試みないことにはらを決めた。『もしかしたら、やつらはただおれをおどかそうと思っただけかもしれない。だから、おれがおとなしくして反抗もせず、完全に屈服して、謙抑な態度でいっさいを忍んでいるのを見たら、そのまま手をひくだろう、自分のほうから先に手をひくだろうよ』
 ゴリャードキン氏が寝床の中で伸びをし、くたくたになった手足をもみほぐしながら、いつもこの時刻に入って来るペトルーシカの出現を待っていた時、彼の頭にはこういったような考えが宿っていたのである。彼はもう十五分ばかりも待ち設けているのだった。なまけ者のペトルーシカが、仕切りの向こうでサモワールの支度をしている物音を聞きながら、思いきって呼ぼうという気にもなれなかった。さらに一歩すすめていうならば、ゴリャードキン氏は、今ペトルーシカと顔を合わすのを多少恐れていたのである。『あの悪党め』と彼は考えるのであった、『今、あいつが昨日の一件をどんなふうに考えてやがるか、知れたもんじゃありゃしない。やつめ、じっと黙りこくっていやがるけれど、腹に一物のあるやつだからな』やがていよいよ、ドアがぎいときしんで、両手に盆を持ったぺトルーシカが姿を現わした。ゴリャードキン氏は様子いかにと、じりじりするような思いで待ち設けながら、おずおずと従僕に横目を使った。こいつもいい加減の時分に、例の一件について何かいい出しそうなものだが、といった気持ちなのである。けれども、ペトルーシカはなんにもいわなかったばかりか、かえっていつもより黙り勝ちで、厳しい怒りっぽい顔つきをし、何を見るにも上目づかいなのであった。概して、彼は何かにひどく不満らしい様子であった。のみならず、自分の主人のほうを一度も見ようとさえしなかった。それが、ついでにいい添えておくと、ゴリャードキン氏の胸にぐっと来たのである。運んで来たものをすっかりテーブルの上に並べると、くるりと踵《くびす》を返して、無言のまま仕切りの向こうへ行ってしまった。『知っていやがる、知っていやがる、何もかも知っていやがる、あのろくでなしめが!』とゴリャードキン氏は、茶にとりかかりながら口の中でつぶやいた。しかし、わが主人公は、その後でペトルーシカがいろんな用で幾度も部屋へ入って来たにもかかわらず、一言も従僕に問いかけなかった。ゴリャードキン氏は、このうえもなく不安な気持ちになっていた。それに、役所へ出かけるのが妙に薄気味わるかった。役所でこそ何か変わったことが起こるに相違ない、という予感がしきりにするのであった。『今に出かけて行ったら』と彼は考えた、『さっそく何かにぶっ突かるに違いないんだ! 今すこし我慢したほうがよくないだろうか? 今すこし待ったほうがよくないだろうか? やつらには勝手にしたいことをやらせておいて、おれは今日ここで待機しているのだ。気力を養って、頭の調子を整え、この事件を全体によく考えた上で、それから折を狙って彼ら一同の不意をおそってやるんだ、しかもこっちは平然とかまえこんでさ』こんなふうに思案をめぐらしながら、ゴリャードキン氏はたてつづけにパイプを何服もくゆらした。時間はずんずん経っていった。もうかれこれ九時半になった。『いや、もう九時半だ』とゴリャードキン氏は考えた。『出勤するにはもうおそいし、おまけにおれは病気なんだ、もちろん病気だとも、間違いなく病気たんだ。だれがそうでないなんていうものか? おれは平気なものさ! 実否を調査によこすかもしれないが、事務官でもなんでも勝手によこすがいい。それがおれにとって本当にどうだというんだ? おれは現に背中が痛むし、咳が出る。鼻風邪も引いているんじゃないか。それに第一、こんな天気なのに出て行かれやしない、どうしたって行かれやしない。病気にかかるどころか、悪くしたら死ぬかもしれないからな。この頃、とくに死亡率が高くなって……』このように理屈をつけて、ゴリャードキン氏はとうとう自分の良心をしずめ、勤務怠惰の廉でアンドレイ・フィリッポヴィチから受けねばならぬ譴責に対して、あらかじめ自分自身を弁明しておくのであった。一般に、わが主人公はすべてこのような場合に、さまざまな否応のない理屈を考え出して自己弁護をしたうえに、すっかり良心を安めるのが好きなのであった。こういったふうに、今も自分の良心を完全に落ち着かせたので、彼はパイプを取り上げて煙草をつめ、さてゆうゆうとふかし始めたと思うと、――いきなりぱっと長いすから跳びあがって、パイプをわきのほうへほおり出し、手早く顔を洗ってひげを剃り、髪を撫でつけ、制服をひっかけ、付属品を身につけて、二、三の書類を引っつかむと、そのまま役所へ飛んで行った。
 ゴリャードキン氏は、何かしらきわめて良からぬ期待に胸をおどらしながら、おずおずと自分の課へ入って行った。その期待は無意味な漠然としたものではあったけれども、同時に不快なものであった。彼は主任アントン・アントーノヴィチ・セートチキンの傍の、いつもの自分の席に、おずおずと腰をおろした。何ものにも目をくれず、何ものにも気をまぎらさないようにしながら、前に置いてある書類の内容を点検しはじめた。彼は自分に挑戦して来るいっさいのものを避けるようにしよう、ひどく自分の沽券《こけん》を下げるおそれのあるいっさいのもの、――たとえば、ぶしつけな質問とか、昨夜の出来事に関する冗談とか、無作法な当てこすりとか、そういうものをできる限り避けるようにしようと決心し、自分に誓った。のみならず、いつも同僚たちとかわす挨拶、つまり、互いの健康をたずね合ったりなどすることも、さしひかえることにしようとはらを決めたのである。しかし、いつまでもそれですますことはできない、断じて不可能であるということも明瞭だった。何か自分の身に触れるようなことが間近かに迫っていると思う不安、またそれがなんであるかしれないもどかしさ、それが身に触れる事柄そのものよりも、かえって余計に彼を苦しめるのが常であった。こういうわけで、どんなことがあろうと、いっさいたち入らぬことにしよう、なんでもかでも避けるようにしようと、自分で誓ったにもかかわらず、ゴリャードキン氏は時々そろっと内証で頭を上げて
は、こっそり前後左右を見まわして、自分の同僚たちの顔をのぞきこみ、その表情から判断して、何か自分に関係したことで、良からぬ目的のために皆が隠しているような新しい出来事、特別な出来事はないか推察しようと努めた。彼は、昨夜の事件と、いま現在自分を取り囲んでいるいっさいの間に、必ず何かの連繋があるに相違ないと想像した。ついに彼は悩ましさにたえかねて、もうどうだってかまわない、ただ何もかも一挙に解決してほしい、それがとんでもない災難であろうと同じことだ! と、こんな望みさえいだくほどになった。それはさながら、運命がこの時ゴリャードキン氏をとりこにしたような具合であった。彼がこの願望を心にいだくかいだかないかに、彼の疑惑は忽然として解決を与えられた。しかもそれがきわめて不思議な、きわめて意想外な解決だったのである。
 次の部屋へ通ずる扉が不意にそっと臆病そうにきしんだ、まるで入って来る人物がごく下っ端のものであることを予告でもしているような開き方であった。そして、だれかしら、といっても、ゴリャードキン氏にとってはなかなかに馴染みの深い男が、わが主人公の陣取っている机の真前に、内気らしく立ったのである。わが主人公は顔を上げなかった、――いや、じつは僅かにちらとその姿を盗み見したのであるが、それだけで彼はいっさいを細かい末までも悟ってしまった、何から何まで合点してしまった。彼は羞恥の念に顔が燃えそうになった。そして、いつも勝ち誇ったように傲然としている頭を、書類の中に突っこんでしまった、ちょうど、猟師に追われる駝鳥が熱い砂の中へ首を突っこむように。新参の男はアンドレイ・フィリッポヴィチに会釈した。すると、それにつづいて、すべての役所で長官が新参の部下に話しかけるような、形式的な愛想のいい声が響き出した。『さあ、そこへかけたまえ』とアンドレイ・フィリッポヴィチはアントン・アントーノヴィチの机をさしながらいった。『そら、このゴリャードキン氏の真向かいに。仕事はすぐにあてがってあげるから』アンドレイ・フィリッポヴィチは新参の男に上品な、何かさとすような身振りを素早くして見せて、それで接見をうち切りにし、目の前に山と積まれた書類に没頭し始めた。
 ゴリャードキン氏はついに目を上げた。よくも気を失わなかったのは、ただただ彼が初めから、すでに事のいっさいを予感していたからにすぎない。彼はこの新参者を心ひそかに直覚して、あらかじめ万事を知り抜いていたのである。ゴリャードキン氏の最初の動作は素早くあたりを見まわすことであった。――何かひそひそ話でもやっていはしないか、このことについてお役所式の洒落でも飛んではいないか、だれかの顔があきれてひん曲ってはいないだろうか、それともだれかがびっくり仰天して机の下に倒れてはいないだろうか? しかし、ゴリャードキン氏の驚いたことには、だれを見てもいっこうそんな様子はなかった。同僚諸君の態度はゴリャードキン氏を一驚させた。それはまるで常識はずれのように思われた。ゴリャードキン氏はこうした異常な沈黙ぶりにあきれ返ったほどである。ことの本質は明白に見え透いている、これは正しく不思議な、醜怪きわまる、もっての外の出来事であって、一座がざわめくくらいなことはあってもよかりそうなはずである。が、もちろん、これらのことはただちらとゴリャードキン氏の頭をかすめただけであった。彼自身はまるでとろ火にあぶられているようだった。もっとも、それには仔細があったのである。今ゴリャードキン氏の向かいに坐っているのは、ゴリャードキン氏の恐怖であった、ゴリャードキン氏の羞恥であった、ゴリャードキン氏の昨夜の悪夢であった、これを要するに、ゴリャードキン氏自身であった、――といっても、今や口をぽかんと開け、手にじっとペンを持ったままいすに腰掛けているゴリャードキン氏ではない。係主任の助手という資格で勤務しているゴリャードキン氏ではない。好んでわれとわが身を隠し群衆の中にまぎれこむあのゴリャードキン氏ではない。また最後に『わたしにかまわないでくれ、わたしも諸君にはかまわないから』とか、あるいは『わたしにかまわないでくれ、現にわたしも諸君にかまったりなどしないではないか』といわんばかりの歩き振りをするゴリャードキン氏ではない。否、それは別のゴリャードキン氏、まったく別のゴリャードキン氏であったが、同時にまた恐ろしくよく似ているのであった。――背恰好も同じなら、体格も同じ、服装も同様であり、頭の薄いところまでそっくり、――ひと口にいえば、相似を完全にするために何ひとつ忘れたところがない。かような次第で、もし二人を並べていっしょに立たせたら、はたしてどちらが本当のゴリャードキン氏で、どちらが贋物であるか、どちらが古いほうでどちらが新しいほうか、どちらが原型でどちらが複製であるか、まったくだれ一人として見わけることができないだろう、と思われるほどであった。
 今や、わが主人公は、もしこういう比喩が許されるとしたら、ちょうど悪戯小僧のため冗談半分にこっそり天日《てんび》とりの拡大鏡を差し向けられている人のような立場に置かれたのである。『これはなんとしたことだ、夢なのだろうか、違うかしら?』と彼は考えた。『現実の出来事だろうか、それとも昨夜の続きだろうか? それにしても、どうしてこんなことができるのだろう? いったいどんな権利があってこういうことをするのだ? だれがこんな官吏を許可したのだ、だれがこんな事をする権利を与えたのだ? おれは眠っているのだろうか、幻を見ているのだろうか?』ゴリャードキン氏は白分の体をつねってみたばかりか、だれかほかの人までもつねってみようと思ったほどである。が、ちがう、確かに夢ではない。ゴリャードキン氏は汗が滝のように流れるのを覚えた。自分の身の上には今まで見たことも聞いたこともないような、おまけに、ぶしつけきわまる出来事が起こって、自分を不幸のどん底へ突き落とそうとしているのを感じた。なにぶんにもゴリャードキン氏は、こんなにわか芝居めいた事件で真っ先に見本にされるのが、いかに不利であるかを理解もし、かつ感じもしたのである。彼はついに自分自身の存在さえも疑い始めた。もっとも、あらかじめあらゆることに対して心構えはしているので、そのうちに何とかして疑惑の解決する時もあろうかと思ってはいたものの、しかし事件の本質そのものはもちろん、一驚に値する意想外なものであった。憂愁の念が彼を悩まし、胸を圧しつけるのであった。時おり彼は思索の力も記憶の能力も失ってしまうような気がした。そうした状態からふとわれに返った時、彼は機械的に無意識にペンを紙の上に動かしている自分自身に心づくのであった。彼は自分というものに信用ができなくなって、今まで書いたものを点検しにかかったが、何が何やらわからなかった。やがてそのうちに、今まで行儀よくおとなしく坐っていた第二のゴリャードキン氏はとうとう席を立って、何か用事があるらしく、別の課へ通ずる戸口に姿を消した。ゴリャードキン氏はあたりを見まわした、――別に何のこともない、いたって静かである。ただペンのきしみと、帳簿のページをめくる音と、アンドレイ・フィリッポヴィチの席から少し離れた隅々でひそひそ話をする声が聞こえるだけであった。ゴリャードキン氏はアントン・アントーノヴィチをちらと見やった。おそらくわが主人公の相貌は完全に現在の状態を反映し、事件の意味とぴったり一致しており、したがって、ある点において注目に値する表情をおびていたらしく、善良なアントン・アントーノヴィチはペンを脇に置き、何かしらなみなみならぬ同情の色を浮かべて、ゴリャードキン氏に健康はどうかとたずねた。
「わたしは、アントン・アントーノヴィチ、おかげさまで」とゴリャードキン氏は吃りどもりいった。――わたしはアントン・アントーノヴィチ、いたって丈夫です。わたしは、アントン・アントーノヴィチ、今はなんともありません」と彼は思い切りの悪い調子でつけ加えたが、こうしてひっきりなしに呼びかけているアントン・アントーノヴィチに、まだすっかりうち明ける気にはならないのであった。
「ははあ! わたしはきみの健康がすぐれないのかと思って。しかし、何も不思議はない。どういうことがあるかもわからないからな? この頃は特別どうも悪い病気がはやっておるので。じつは……」
「そうです、アントン・アントーノヴィチ、悪い病気がはやっているのは、わたしも承知しております……わたしは、アントン・アントーノヴィチ、そういうわけじゃなくって」とゴリャードキン氏は、じっと穴のあくほどアントン・アントーノヴィチを見つめながら、言葉をつづけた。「じつは、アントン・アントーノヴィチ、わたしはとほうにくれているのです、いや、その、わたしが申しあげたいと思ったのは、いかなる側面からこの問題に手をつけたらいいかわからないということなので、アントン・アントーノヴィチ……」
「なんだって? わたしはどうも……その……わたしは正直なところ、はっきり合点がいかないんだが……きみひとつもう少しくわしく話してくれたまえ、いったいどういう意味で当惑しているんです」ゴリャードキン氏の目に涙さえ浮かんできたのを見てアントン・アントーノヴィチは自分でもいささか困惑しながら、こういった。
「わたしは、まったくのところ……ここに、アントン・アントーノヴィチ……ここに一人の官吏がいますが、アントン・アントーノヴィチ」
「で! やっぱりまだわかりませんな」
「アントン・アントーノヴィチ、わたしが申したいのは、ここに新しく入った官吏がありまして……」
「そう、ありますな、きみと同姓の男で」
「えっ!」とゴリャードキン氏は叫んだ。
「そう、きみと同姓の男で、やはりゴリャードキンというのだ。きみの兄弟じゃないかね?」
「いいえ、アントン・アントーノヴィチ、わたしは……」
「ふむ! それは不思議だ、わたしはきっときみの近い親戚か何かだろうと思ったんだが。まったくのところ、何かこう、一家一族とでもいったような似通ったところがあるじゃないかね」
 ゴリャードキン氏は驚きのあまり棒立ちになった。彼はいっときものがいえなかった。ああいう前後未曾有の醜悪な事柄を、かくも軽々しく片づけてしまうとは! これはある意味において、真に稀有の事柄であり、いかなる冷淡な傍観者をも愕然たらしめるような事柄ではないか。真相は鏡にかけて見るがごとくであるのに、一家一族らしい類似などといってすましているとは!
「ねえ、ヤーコフ・ペトローヴィチ、わたしはきみに忠告するが」とアントン・アントーノヴィチはつづけた。「ひとつ医者のところへ行って、よく診てもらったら? どうもその、きみの様子はいかにも病人らしいよ。ことに目がね……どうもその、なんだか特別な表情をしているよ」
「いいえ、アントン・アントーノヴィチ、わたしはもちろん、気分が……いや、その、わたしがおたずねしたいのは、やっぱりあの官吏のことでして、どうして……」
「というと?」
「つまりですね、アントン・アントーノヴィチ、あなたは、あの男に何か特別なところがあるのにお気がつきませんでしたか……何かあまりに意味ありげなところがあるのに?」
「というのは?」
「つまり、わたしが申したいのは、アントン・アントーノヴィチ、ある人物、たとえば、わたしとしてもよろしいのですが、その人物と驚くばかり類似している点なのです。アントン・アントーノヴィチ、あなたはただいま一家一族の類似ということをおっしゃいました。何気なくちらと感想をおもらしなさいましたが……まったくのところ、ああいうふうのことは、つまり、瓜二つというほどよく似通っていて、見分けがつかないというようなことは、双生児などの場合にございますが、わたしが申すのは、要するにこのことなので」
「そう」とアントン・アントーノヴィチはちょっと考えて、初めでこの事態に愕然とした様子でこういった。「そう! なるほど、そのとおりだ、まったくびっくりするほどよく似ている。きみのいうことは無理もない、あれではお互いに取り違えられるくらいだて」と彼はしだいに目が開いてきたふうで、言葉をつづけた。
「どうも、ヤーコフ・ペトローヴィチ、これは奇蹟といっていいくらい、いわゆるファンタスチッタな類似だ、いや、まったくきみのいうとおりだ……きみも気がついていたのだね、ヤーコフ・ペトローヴィチ? わたしもこっちからきみに説明を求めようと思っていたほどなんだが、はじめの間は、正直なところ、本当には注意していなかったよ。奇蹟だ、真に奇蹟だ! ときに、ヤーコフ・ペトローヴィチ、きみはここの生まれじゃなかったね、え?」
「そうじゃありません」
「あの男もやっぱりここの人間じゃないのだ。もしかしたら、きみと同じ土地の出身かも知れないな。不躾けなおたずねだが、きみのお母さんはおもにどこで暮らしておられたね?」
「あなたは……あなた……アントン・アントーノヴィチ、あの男はここの人間じゃないとおっしゃいましたね?」
「そうだ、ここの人間じゃない。だが、本当になんという不思議なことだろう」と口まめなアントン・アントーノヴィチは言葉をつづけた。何事につけても一席弁じるということは、この人にとって何よりの楽しみなのであった。
「まったく好奇心を唆られるに十分だね。傍を通り過ぎるはずみに、触ったり突き当たったりしても、それと気がつかないという始末だからね、もっとも、気にしないがいいよ。よくあることなんだから。ああそうそう、――きみに聞かせてあげるが、わたしの母方の叔母にもそれと同じようなことがあったよ。やっぱり死ぬ前に自分が二人いるように思われてね……」
「いえ、わたしは、――お話の腰を折って失礼ですが、アントン・アントーノヴィチ、ちょっとおたずねしたいことがありますので。いったいあの官吏はどういうのでしょう、つまり、どういう資格でここへ来たのでしょう?」
「死んだセミョーン・イヴァーノヴィチの後へ入ったんだよ。欠員ができたので、代わりに入れたというわけさ。しかし、どうもあの死んだセミョーン・イヴァーノヴィチは気の毒なものだなあ。子供を三人も残していったのだが、みんな小さいのばかりだそうでね。細君が閣下の足もとへ身を投げて、歎願したそうだよ。もっとも、細君は隠しているんだってね。へそくりを持っているくせに、そいつを隠しているんだってね……」
「いえ、アントン・アントーノヴィチ、わたしはやっぱり例の件について……」
「というと? ああ、そうか! しかしなんだってきみはそんなに気にするんだね? 何も気に病むことはないっていってるじゃないか。これはある程度、一時的なことだからね。そうじゃないかね? きみはあずかり知らんことだよ、たにしろ、神様がご自分でこんなふうにつくりてくだすったので、それが天帝の意志なんだから、とやかくいうのは罪だよ、そこに神の叡知がうかがわれるわけさ。わたしの考える範囲では、ヤーコフ・ペトローヴィチ、それに対して少しもきみの悪いところはないじゃないかね。この世の中に不思議なことというものは少なくないからね! 母なる自然は限りないものさ、だれもきみに責任を問うものはありゃしないし、きみもまたそんな義務なんかないんだものね。現に早い話が、きみもおそらく聞いたことと思うが、そら、ええなんといったっけ、ああ、あのシャムの双生児《ふたご》さ、あれは背中と背中がくっついたままで生きていて、食うのも寝るのもいっしょだそうじゃないか、大した金を儲けているってね」
「失礼ですが、アントン・アントーノヴィチ……」
「察しるよ、きみの気持ちはお察しするよ! まったく! だが、それがいったいどうしたというのだね? なんでもありゃしないじゃないか! さっきからいっているとおり、少なくともわたしの考えるところでは、何も気に病むことはありゃしないよ。なに、あれはありふれた官吏で、見たところ仕事もできそうな男だ。苗字はゴリャードキンといって、この土地の人間じゃないそうだ、九等官だっていう話だね。閣下に会ってじきじき話をしたそうだ」
「で、閣下はなんとおっしゃいました?」
「悪くないね。話しっ振りもはきはきしているし、条理もたっているそうだ。閣下、自分はこれこれしかじかの者で、別に財産もない身の上ですから、勤務のほうに精励したいと存じております、ことに閣下のご指導のもとにありましてはなおさら……といったようなわけで、まあ、万事ひととおり述べたそうだが、なかなか言いまわしなども上手だったそうだ。きっと頭のいい男に相違ない。そりゃもう、推薦状を持って来たのはもちろんだよ。こいつがなくっちゃお話にならないからね……」
「でも、だれの推薦状だったのでしょう……つまり、わたしが申したいのは、いったいだれがこの醜悪な事件にかかわりあったのか、ということなので」
「そうさね。立派な推薦状だったそうだよ。閣下もアンドレ