『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『分身』(ドストエフスキー作、米川正夫訳)P235ー280(1回目の校正完了)

は、ある意味でいいことだぞ。オスターフィエフには十コペイカやったらいいんだ、そうすればやつは、その、なんだ……おれの味方だからな。だが、そこのところだぞ、本当にあいつはおれの味方だろうか? ひょっとしたら、やつもやっぱりあの男をなにしてるかもしれん……あの男とぐるになって、からくりをやっているかもしれんて。なにしろ、あの奴さん食えん顔をしていやがるからなあ、まったく食えん顔をしていやがる! 隠してやがるんだ、ちくしょうめ! 「なんにもございません」ときやがる、「これはどうも恐れ入りました」だとさ。なんという悪党だ!』
 ふと物音が聞こえた………ゴリャードキン氏は縮みあがって、煖炉のうしろに身をかくした。だれかが階段を降りて来て、通りへ出て行った。『だれが今ごろ出かけて行ったんだろう?』とわが主人公ははらの中で考えた。しばらくすると、またもやだれかの足音が聞こえた……その時ゴリャードキン氏は我慢しきれないで、自分の保塁の陰からそっと鼻の先を心もちのぞかした、――が、のぞかしたとたんに、だれかにぴんで鼻の先を突かれでもしたように、急いでうしろへひっこめた。いま通りかかったのは、あらためてだれというまでもない、例の悪党である、策士である、ならずものである、――彼は例によって、小刻みなちょこちょこした足取りで、まるでだれかを蹴飛ばしてやろうとでも身がまえているように、足をひょいひょいと跳ね上げながら、傍を通って行った。『こん畜生!』とわが主人公は、口の中でつぶやいた。とはいえ、ゴリャードキン氏は、この悪党が閣下の所有にかかる大きな緑色の折鞄をかかえているのに、気がつかないわけにいかなかった。『こいつ、また特別任務をちょうだいしたんだ』とゴリャードキン氏は真っ赤になってこう考えた。そして、いまいましさのあまり、前よりもっと身を縮めるのであった。新ゴリャードキン氏が、いっこう旧ゴリャードキン氏に心づかず、その傍をかすめ過ぎるやいなや、またもや第三番目の足音がした。ゴリャードキン氏は今度こそ書記の足音だと察した。はたせるかな、頭をてかてかに撫でつけた書記らしい風体の男が、煖炉の陰をのぞきこんだが、ただしそれはオスターフィエフではなく、綽名をピサレンコと呼ばれている別の書記であった。このことはゴリャードキン氏を驚かせた。『なんだってあいつ、ほかの人間を俺《ひと》の秘密に立ち入らせるんだ?』とわが主人公は考えた。『無教育な連中ってしようがありゃしない! やつらには神聖なものもへったくれもありゃしないんだ!』
「おい、どうしたんだね、きみ?」と彼はピサレンコに話しかけた。「きみはいったいだれの使いだね?………」
「いえ、なに、あなたのご用件でまいりましたので、ただ今のところ、どなたからもまだ情報は入っておりません。もし入りましたらお知らせいたします」
「ところで、オスターフィエフは?………」
「あの人はどうしても手が離せませんので、閣下がもう二度までわたしどもの部屋をお通りになりましたようなわけで。わたしもいま暇がございません」
「ありがとう、きみ、ありがとう……ただちょっと聞きたいのだが……」
「まったくのところ、ちょっとも暇がございませんので……なにしろ、のべつ呼び立てられている始末ですから……まあ、もう少しここに立っておいでなされませ、何かあなたのことで変わった知らせがありましたら、さっそくお耳に入れますから……」
「駄目だよ、きみ、ちょっと聞かせてもらわなけりゃ……」
「失礼ですが、暇がありません」とピサレンコはゴリャードキン氏につかまえられた服の裾を振り払いながらいった。「まったく、駄目なので。まあ、もう少しここに立っておいでなされませ、わたしどもがお知らせにまいりますから」
「今すぐ、今すぐだよ、きみ! 本当にすぐなんだから!じつはこれなんだ! この手紙なんだがね、きみ、お礼はするよ、きみ」
「はい、はい!」
「ご苦労だが、これをゴリャードキン君に渡してくれたまえ」
「ゴリャードキン様に?」
「そうだよ、きみ、ゴリャードキン君に渡すのだ」
「よろしゅうございます。体があきしだいお届けいたしましょう。ところで、あなたは今しばらく、ここに立っておいでなされませ。ここならだれの目にも入りませんから」
「いや、きみ、そんなふうに考えてもらっちゃ困る……ぼくがここに立っているのは、だれかに見られたくないからじゃないよ。それに、きみ、ぼくはもうここにはいない……ついそこの横町に行ってるから、あそこに一軒喫茶店があるだろう。ぼく、あの家で待っているから、もし何かあったら、何もかもすっかり知らせてくれたまえ、いいかね?」 「承知いたしました。ただ、どうかはなしてくださいまし、わたしがのみこんでおりますから……」
「お礼はちゃんとするよ、きみ!」やっと身をのがれて行くピサレンコの後から、ゴリャードキン氏は大声にどなった……
『悪党め、あいつも初めはともかく、後になるとなんだか無作法になりやがったようだぞ』わが主人公は、こっそり煖炉の陰から出ながらこんなことを考えた。『ここにもまた曰くがあるらしいて。いや、それは明々白々だ……初めの間はああだこうだといって……もっとも、あいつは本当に急いでいたらしい。向こうは仕事がつかえているのかもしれないな。閣下が二度もわれわれの部屋をお通りになったなんて……いったい、どういうわけなんだろう?………ちぇっ! だが、しかし、なんでもありゃしない! まったくなんでもないだろうよ。まあ、今にわかるさ……』
 こう考えながら、ゴリャードキン氏は入口の扉を開けて、外へ出ようとした、とふいにその瞬間、外の石段のあたりに閣下の馬車が轍を鳴らして乗りつけた。ゴリャードキン氏がわれに返る暇もなく、馬車の扉が開いて、乗りつけて来た紳士が跳び出した。乗りつけた紳士というのはほかでもない、十分ばかり前に出て行った新ゴリャードキン氏であった。旧ゴリャードキン氏は、局長の住居がつい一足のところにあるのを思い出した。『やっ、特別任務で行って来たんだな』とわが主人公は心に思った。その間に新ゴリャードキン氏は、馬車の中から大きくふくらんだ緑色の折り鞄と、それにまだ何かの書類を取り出すと、最後に何やら馭者にいいつけて、入口の扉を開け、その扉を旧ゴリャードキン氏に叩きつけないばかりにして、わざと気がつかないようなふりをしながら、――したがって、相手に向かって挑戦的な態度をとりながら、足早に役所の階段を駆けのぼって行った。『こいつぁいかんぞ!』とゴリャードキン氏は考えた。『今度は事件がとんでもない具合になって来たわい! ちぇっ、あの野郎め、なんてこった!』わが主人公はなお三十秒ばかり、身動きもせず立ちつくしていたが、――ついに彼ははらを決めた。あまり長くも考えないで、とはいえ、胸の烈しい動悸と全身のおののきを感じながら、彼は親友の後を追って階段を駆け昇った。『えい! どうともなれ、おれのかまったことじゃない。この一件ではおれは局外漢にすぎないんだからな』控室で外套や帽子やオーヴァシューズを脱ぎながら、彼はこう考えた。
 ゴリャードキン氏が自分の部屋へ入って行った時は、もう日はとっぷり暮れていた。アンドレイ・フィリッポヴィチも、アントン・アントーノヴィチも、部屋にいなかった。二人とも局長室へ報告を持って行ったのである。また局長は局長で、大臣のところへ急いで出かけるところだとの噂であった。そういう事情もあったし、そのうえあたりが薄暗くなったのと、退庁時間になったせいもあって、わが主人公が入って行った時には、役人たちは、といっても、主として若手の連中だが、おおむねつまらない暇つぶしをしていた。一つところに集まって雑談したり、議論したり、笑ったりして、中でも一ばん年の若い連中、いいかえればもっとも官等の低い連中は、あたりの騒ぎにまぎれて、こっそり片隅の窓のそばで投銭《オルリヤンカ》をして遊んでいた。ゴリャードキン氏は作法というものを心得ていたし、それに今の場合、人心を獲得しておく必要を感じたので、さっそく日頃から親しくしているだれかれの傍へ寄って、今日は、の挨拶くらいしようと思った。しかし、相手はゴリャードキン氏の挨拶に対して、なんだか妙な返事をした。一同の態度の冷やかさ、そっ気なさ、というよりむしろ厳しさに、彼は不愉快なショックを受けた。だれ一人として、握手に手を差し出すものもなかった。中にはただ『今日は』だけいって、さっさと向こうへ行ってしまった。ある者はちょっとうなずいて見せただけだし、またある者はそっぽを向いてしまって、何も気がつかなかったというふりをした。しかし、何よりもゴリャードキン氏に不快だったのは、もっとも官等の低い連中、ゴリャードキン氏の急所をついた評言によると、暇さえあれば|投銭遊び《オルリヤンカ》をしたり、怪しげなところをほっつき歩いたりするより芸のない連中が、しだいにじりじりとゴリャードキン氏を取り巻いて、そのまわりに環をつくり、ほとんど出口がないようにしてしまったことである。彼らはだれも彼も、一種の侮辱を含んだ好奇の表情で、わが主人公を眺めるのであった。
 これは面白くない兆候であった。ゴリャードキン氏もそれを感じたので、こちらも何一つ気がつかないふりをしているのが上分別とはらを決めた。突然、まったく思いがけない一つの出来事が、ゴリャードキン氏にいわゆるとどめを刺し、彼の面目玉を踏み潰してしまったのである。
 彼を取り巻いている若い同僚達の群衆の中に、わざと、ゴリャードキン氏にとって苦しい瞬間を狙ったかのように、突如、新ゴリャードキン氏が現われたのである。いつものようにうきうきとして、いつものように愛想笑いを浮かべ、いつものようにちょこちょこして、ひと口にいえば、いつものような、たとえば、旧ゴリャードキン氏が自分にとってきわめて不愉快なある瞬間に印象づけられたのと同じような、剽軽者であり、飛びあがり者であり、追従者であり、不断に変わらぬ口八丁手八丁という代物であった。白い歯を出してお世辞笑いをし、ちょこちょこ小刻みな足取りで飛びまわりながら、みんなに向かって『今晩は!』と挨拶しているような笑顔を見せ、役人たちの群へ割りこむが早いか、一人のものとは握手をし、もう一人のものの肩を叩き、第三のものとは軽く抱擁をかわし、第四のものには、どういう用事で閣下のお使いに抜擢され、どこへ行って何をし、何を持って帰ったか、という顛末をくわしく話して聞かせ、おそらく無二の親友らしい第五のものとは、互いの唇の真上にちゅっとばかり接吻をかわした。――要するに、何から何までそっくり、旧ゴリャードキン氏が夢に見たのと同じなのであった。思うぞんぶんその辺を飛びまわって、みんなにそれぞれの挨拶をすまし、そんな必要があるのかないのかしらないが、みんなを自分の味方に取り入れ、だれかれの差別なくふんだんに愛嬌を振り撒いた後、新ゴリャードキン氏は、それまで自分の一ばん古い友達に気がつかずにいたくせに、おそらく間違いだったのであろう、ふいに、旧ゴリャードキン氏に手をさしのべた。おそらく、これも同様に間違いだったのであろう、わが主人公はかくも唐突に差し出された手を取って(もっとも、こちらは破廉恥なる新ゴリャードキン氏に十分気がついていたのである)、固く固く握りしめた。それは深い友情のこもった握手であった、そこには一種奇妙な思いがけない、内心の動きをこめた握手であった。何かしら涙ぐましい感情を秘めた握手であった。わが主人公は、憎むべき敵の最初の動作に欺かれたのか、それともただとっさの間に、自分のとるべき行為を考え出せなかったのか、或いは心の深い奥底で自分の頼りない状態をつくづくと感じて意識したのか――その辺はなんともいいにくい。とにかく、表面の事実は、旧ゴリャードキン氏が健全な意識を保ちながら、自分の自由意志で、衆人環視の前で、おのれの不倶戴天の仇と呼んでいる人間の手をば、堂々と握ったということである。しかし、旧ゴリャードキン氏の驚きと狂乱と怒り、恐怖と羞恥はどんなであったか! このとき、彼にとって七生までの敵である破廉恥なる新ゴリャードキン氏がおのれの過ちに気付くと、罪なくして迫害され、背信行為によって欺かれている、人間に面と向かったまま、羞恥も、憐愍も、良心の悩みも、いっさい人間らしい感情をいだくふうもなく、とつぜん見るに堪えぬほど傍若無人な無作法きわまるやり方で、自分の手を旧ゴリャードキン氏の掌からもぎはなしたのである。のみならず、まるで握手のために大へんなけがれでもつけられたかのように、その手をふるうのであった。それでもまだ足りないで、脇のほうへぺっと唾を吐いた。それには一々、無礼きわまる身振りが伴うのであった。そのうえにかてて加えて、ハンカチをポケットから取り出して、すぐにその場で、遠慮も会釈もなく、ほんのいっとき旧ゴリャードキン氏の掌の中にあった自分の指を、一本一本丁寧に拭いたものである。こんな真似をしながら、新ゴリャードキン氏はいつもの下劣な癖で、わざわざあたりを見まわして、自分の所作がみんなの目に入るようにしむけた。そして、一同の目をのぞきこみながら、旧ゴリャードキン氏にとってありとあらゆる不利益なことを、みんなの心に吹きこもうと苦心している、それがありありと目に見えるのであった。新ゴリャードキン氏の陋劣な行為は、どうやら彼らを取り巻く役人たち一同に、義憤の念を呼び起こしたらしい。軽薄な若い連中ですら不満の色を表わしたほどである。あたりにぶつぶついう穏かならぬ話し声が起こった。一同のどよめきは、旧ゴリャードキン氏の耳に入らぬはずがなかった。けれども、新ゴリャードキン氏がうまいしおに口から洩らした冗談は、わが主人公の最後の望みを跡形もなく打ち砕いて、世論の衡《はかり》を逆に傾け、ついに形勢は彼にとって不倶戴天の仇であるやくざ者のために有利となったのである。
「諸君、これはわがロシヤのフォブラズであります。ひとつこの若きフォブラズを紹介さしていただきましょう」と新ゴリャードキン氏は持ちまえのずうずうしさで、役人たちの間を縫いながら、ちょこちょこ駆けまわり、茫然自失した本物のゴリャードキン氏を指さして甲高くさえずり始めた。「さあ、君、接吻しよう!」と彼は現在自分が欺瞞的なやり方で侮辱した相手のほうへ進みながら、鼻もちならないような馴れなれしさで言葉をつづけた。やくざな新ゴリャードキン氏のこの洒落は、ある人々の間に共鳴を呼びさましたらしい。ことにその中には、すべての人に知れ渡っているらしい、ある一つの事実を暗示する狡猾なたくらみが隠されていたからなおさらである。わが主人公は、自分の肩に敵の手がのせられているのを重苦しく感じた。もっとも、彼はすでに、はらを決めていたのである。あおざめた顔に両の眼をぎらぎらと輝かせ、じっと凍りついたような微笑を浮かべたまま、彼はどうやらこうやら群衆の囲みを脱して、不揃いな小刻みな足取りで、閣下の室をさして真っ直ぐに進んで行った。一つ手前の部屋で、彼はたった今、閣下のもとを退出したばかりのアンドレイ・フィリッポヴィチに出会った。その部屋には、ゴリャードキン氏にとってその場合まったく無関係な人が大勢いたけれども、わが主人公はそれしきのことには、一顧の注意も払おうともしなかった。彼は真っ直ぐに、決然と、大胆に、内心われとわが勇気に驚き、かつ感心しながら、一刻の猶予もなく、アンドレイ・フィリッポヴィチにぶっつかって行った。相手のほうでは、この思いがけない攻撃にひどく面くらった様子であった。
「ああ!………どうしたのだ……なんの用だね!」ゴリャードキン氏がなにやら吃りながらいうのを聞こうともしないで、課長はこう問い返した。
アンドレイ・フィリッポヴィチ、わたしは……わたしは、アンドレイ・フィリッポヴィチ、これから今すぐ閣下とさし向かいで面談さしていただけるでしょうか?」と、わが主人公はアンドレイ・フィリッポヴィチに決然たる視線を注ぎながら、弁舌さわやかにきっぱりいった。
「なんだって? もちろん駄目だよ」アンドレイ・フィリッポヴィチは、ゴリャードキン氏を頭の天辺から足の爪先までじろじろ見まわした。
アンドレイ・フィリッポヴィチ、わたしがこんなことを申しあげるのは、ここではだれひとり卑劣な僭称者《かたり》を摘発する者がないのに、一驚を吃したからです」
「なあんだと?」
「卑劣なかたりをです、アンドレイ・フィリッポヴィチ」
「いったいきみはだれのことをそんなふうにいってるんだね?」
「ある一人の人物のことですよ、アンドレイ・フィリッポヴィチ。わたしは、アンドレイ・フィリッポヴィチ、ある人物のことをほのめかしているのです。わたしには当然の権利があるのです……わたしの考えますには、アンドレイ・フィリッポヴィチ、かような行為は当局から奨励されてしかるべきなのです」明らかに前後を忘れているらしい様子で、ゴリャードキン氏はこうつけ加えた。「アンドレイ・フィリッポヴィチ……あなたもおそらくご自分でわかっておいでのことと思いますが、アンドレイ・フィリッポヴィチ、これは潔白な行動でありまして、わたしの善良な意図を証明するものです。つまりわたしは、アンドレイ・フィリッポヴィチ、上官を親身の父親同様に思っているのです。徳の高い閣下をわが父と頼んで、おのれの運命を無条件でおまかせしようと考えているのです。かくかくしかじかとうち明けて……その……」この時、ゴリャードキン氏の声は震え、顔はみるみる赤みをおびて、二滴の涙が左右の睫毛にやどった。
 アンドレイ・フィリッポヴィチは、ゴリャードキン氏の言葉を聞いているうちに、思わず知らず二足ばかりたじたじと後ずさりするほど驚いた。それから、何か不安げにきょろきょろあたりを見まわした……この結末がどんなふうにつくかということは、予測を許さないほどであった……けれども、ふいに局長室の扉が開いて、閣下自身が、幾人かの役人を従えて姿を現わした。部屋の中に居合わしたすべての者は、その後につづいた。閣下はアンドレイ・フィリッポヴィチを呼んで、いっしょに並んで歩きながら、何か事務上の話を始めた。一同がぞろぞろと動き出して、やがて部屋を出てしまった時、ゴリャードキン氏も初めてわれに返った。いくらか気持ちを落ちつけて、彼はアントン・アントーノヴィチ・セートチキンの翼の下に隠れ家を求めた。この人はみなの後からよちよち歩いていたが、ゴリャードキン氏の見たところでは、ひどく厳格そうな仔細らしい顔つきをしていた。『今度もまたやり損った、今度もへまをやっちまった』と彼は心の中で考えた。『だが、なあに、かまうもんか』
「ねえ、アントン・アントーノヴィチ、少なくともあなただけは、わたしのいうことをひととおり聞いてくだすったうえで、わたしの立場を察してくださるでしょうね」と彼はまだいくらか興奮に震える声で、静かにこう切り出した。
「すべての人にしりぞけられたわたしが、あなたにおすがりする次第です。わたしはいまだにわからないんですが、あのアンドレイ・フィリッポヴィチのいわれたことは、どういう意味なんでしょうね、アンドレイ・フィリッポヴィチ。ひとつ説明していただけませんか、できることなら……」
「今にすっかりわかるさ」とアンドレイ・フィリッポヴィチは、ゆっくり間をおきながら、いかつい調子でいったが、ゴリャードキン氏の見たところでは、このうえ会話をつづけたくない、といったような調子であった。「近いうちに何もかもわかるよ。今日にもさっそく公式に発表があるだろうからね」
「公式にとはなんのことです、アンドレイ・フィリッポヴィチ? なぜ公式になんておっしゃるんです?」とわが主人公はおずおずとたずねた。
「そんなことは、お互いにわれわれのとやかくいうべき筋ではないよ。ヤーコフ・ペトローヴィチ、上のほうでお決めになるとおりに従ってればいいんだ」
「上のほうですって、アントン・アントーノヴィチ」とゴリャードキン氏はますます怯気づきながら、いった。「どうして上のほうなんでしょう? なぜ上のほうを煩わせなければならないのか、わたしにはその理由がわかりませんね、アントン・アントーノヴィチ……あなたはもしかしたら、昨日のことで何かおっしゃりたいのではありませんか、アントン・アントーノヴィチ?」
「いや昨日のことじゃありません、きみにはそのほかにまだちょっと変なところがあるのでね」
「何か変なのです、アントン・アントーノヴィチ? わたしはなにも変なところなんかないように思いますが、アントン・アントーノヴィチ」
「では、だれに対して策略を用いようとしたのかね?」とアントン・アントーノヴィチは言葉鋭くさえぎった。ゴリャードキン氏はすっかり度胆を抜かれてしまった。彼はぶるっと身震いして、その顔は布のように真っ青になった。
「そりゃもちろん、アントン・アントーノヴィチ」と彼はやっと聞こえるか聞こえないかの声でいった。「もし中傷|讒誣《ざんぶ》に耳を傾け、敵方のいうことばかり聞いて、反対側の弁明を受けつけなかったら、その時はもちろん……もちろんアントン・アントーノヴィチ、その時は苦しまなければならないわけです、アントン・アントーノヴィチ、罪なくしていたずらに苦しまなければならないわけです」
「そりゃそうかもしれん。ところで、きみがかつて恩を受けたことのある、徳望の高い、さる家庭の令嬢、高潔な令嬢の名声を傷つけるような、けしからぬ振舞いをしたのはどういうことだね?」
「それはいったいどういう振舞いなのでしょう、アントン・アントーノヴィチ?」
「あんなことをいってる。それからもう一人の処女、これは貧しい身の上だけれど、れっきとした外国の家庭に生まれた処女に対しても、きみははなはだ感心な行為に及んだということだが、これもやっぱり心あたりがないのかね?」
「失礼ですが、アントン・アントーノヴィチ……どうぞお願いですから、わたしのいうことを聞いてください、アントン・アントーノヴィチ……」
「それから、もう一人の人物に対するきみの背信的行為、中傷讒誣、自分の犯した罪を他人に塗りつけようとする行為、え? これはなんということだろう?」
「わたしは、アントン・アントーノヴィチ、けっしてあいつを追い出したのじゃありません」とわが主人公はぶるぶる慄えながらいった。「ペトルーシカ、というのはわたしの従僕ですが、あれにもいっこうそんなことをしろなんて、教えはしなかったのです……あの男はわたしの家で食事をしたのです。アントン・アントーノヴィチ、あの男はわたしの歓待を受けたのです」とわが主人公は深い感情をこめて、表情たっぷりにつけ加えた。その下顎がやや躍り始めて、涙がまたしても目頭ににじみそうになった。
「それは、きみ、ヤーコフ・ペトローヴィチ、ただきみがそういうだけだよ、あの男がきみのところで食事をしたなんて」とアントン・アントーノヴィチはせせら笑いながら答えた。その声には、ゴリャードキン氏の心臓を掻きむしるような狡猾な調子が響いていた。
「失礼ですが、アントン・アントーノヴィチ、折り入ってもう一つだけおたずねいたしますが、このことは何もかも閣下のお耳に入っているのでしょうか?」
「あたりまえだよ! だが、もうはなしてくれたまえ、わたしはきみとこんな話をしている暇はないんだ……きみの知らなければならないことは、今日にもさっそく残らず知れるだろうよ」
「失礼ですが、後生ですから、ちょっとだけ、アントン・アントーノヴィチ……」
「後で聞かしてもらおう……」
「いえ、アントン・アントーノヴィチ、わたしは、じつのところ、ほんのちょっとだけ耳をかしてください、アントン・アントーノヴィチ……わたしはけっして自由主義者じゃないんです、アントン・アントーノヴィチ。わたしは自由主義を排斥する者です、わたしはそれどころか完全に……むしろわたしのいだいていた思想というのは……」
「よろしい、よろしい。もう前に聞いたよ……」
「いえ、まだお聞きになってはいらっしゃいません、アントン・アントーノヴィチ。これは、まったく別なことなのです、アントン・アントーノヴィチ。これは、お聞きになってもよろしい話です、まったく気持ちのいい立派な話なのです……わたしがいだいている思想というのは、アントン・アントーノヴィチ、ただ今も申しあげたとおり、神の摂理が、何から何までまったく同じ二人の人間をつくり出し、徳行の高い長官がその摂理をごらんになって、二人の双生児を引き取られたということです。これは、じつにけっこうな話だと思います、アントン・アントーノヴィチ。あなたもこれを非常に立派なことだとお考えになるでしょう、アントン・アントーノヴィチ、そしてわたしが自由主義なんかに縁のない人間であることも認めてくださるでしょう。わたしは慈悲ぶかい上官を父とも思っています。これこれしかじかで、慈悲ぶかい長官よ、と申しあげると、あなたがたのほうでも、その……つまり……青年たる者は、すべからく国家に勤務しなければならない、といってくださるわけです……アントン・アントーノヴィチ、あなたもお口添えを願います、アントン・アントーノヴィチ、わたしの味方になってください……わたしはなんでもないんですから……アントン・アントーノヴィチ、お願いですからもう一ことだけ……アントン・アントーノヴィチ……」
 しかし、アントン・アントーノヴィチは、もうこの時ゴリャードキン氏から遠く離れていた……わが主人公は自分がどこに立っているのか、何を耳にしているのか何をしているのか、また自分がどうなっているのか、この先どんなふうにされるのか、かいもくわからなかった。いま彼の耳にしたこと、彼の身に起こったすべてのことが、それほどまでに彼の頭を混乱させ震撼したのである。
 彼は哀願するような目つきで、役人たちの群の中にアントン・アントーノヴィチを物色した。もう一ど彼の面前で釈明を試み、自分自身について何かきわめて殊勝な、きわめて高潔な、気持ちのいいことを述べたかったのである……とはいえ、しだいしだいに新しい光が、ゴリャードキン氏の混乱した頭脳に射しこんで来た。その新しい恐るべき光は、彼が今まで夢にも想像しなかったような、ぜんぜん未知の将来を一度に忽然と照らし出したのである……そのとき何者かが、すっかりとほうにくれきっているわが主人公の横腹を突いた。振り返って見ると、目の前にピサレンコが立っていた。
「お手紙でございます」
「ああ!………もう行って来てくれたんかね、きみ」
「いいえ、これはもう今朝の十時にここへ届いていたのでございます。小使のセルゲイ・ミヘーエフが、書記のヴァフラメーエフの下宿から持ってまいりましたので」
「よろしい、きみ、よろしい。お礼はいずれするからね、きみ」
 そういってから、ゴリャードキン氏は手紙を制服の内ポケットに隠し、ボタンを残らずきちんとかけた。それから、あたりを見まわしたところ、驚いたことには、もういつの間にか役所の玄関で、出口にひしめいている役人たちの群衆に混っているのであった。もう勤務時間は終わったのである。ゴリャードキン氏は今まで、これに気がつかなかったのみならず、いつどうして自分が外套を着こみ、オーヴァシューズをはいて、手に帽子を持ったのか、それさえ、いっこうにおぼえがなかったほどである。役人たちはみんなうやうやしい姿勢で、身動きもせず待っていた。というのは、閣下が階段の下の所で、なぜか回送の遅れた自分の馬車を待ちながら、二人の参事官とアンドレイ・フィリッポヴィチを相手に、何かすこぶる面白そうに話していたからである。二人の参事官と、アンドレイ・フィリッポヴィチからちょっと離れたところに、アントン・アントーノヴィチ・セートチキンと、そのほか二、三の役人がたたずんで、閣下が冗談をいって笑っていられるのを見て、しきりににこにこしていた。階段の上に群がっている役人たちも、やはりにこにこしながら、閣下がまたもや笑い出されるのを待っていた。ただ一人だけ笑わないでいたのは、大きな腹を突き出した門衛のフェドセーイチであった。扉のとっ手に手をかけたまま直立不動の姿勢をして、自分が毎日きまって味わう得意の瞬間が来るのを、今か今かと待っていた。というのは、片手をさっとひと振りふって片方の扉を一杯に開き、弓のように背を曲げて、自分のそば近く閣下をうやうやしくお通しすることであった。しかし、だれよりも一ばん嬉しそうにして満足感を味わっていたのは、どうやら例の、破廉恥でやくざなゴリャードキン氏の敵らしかった。彼はこの瞬間、すべての役人たちを忘れてしまっていた。例のいやらしい癖で、同僚たちの間をちょこちょこ縫って歩こうともせず、この機会を利用してだれかにとりいることさえ忘れていたほどである。彼は全身聴覚と視覚に化したかのごとく、何やら妙に体を縮めていた。おそらく、閣下から目を離さないでその声を聞くのに、こうしているほうが具合がいいと思ったのだろう。ただ時おり手、足、首などが、ようやくそれと気づくほどの痙攣に震えている様子は、彼の魂の深い秘密な動きを物語るものであった。
『どうだ、あの体じゅうを震わしている様子は!』とわが主人公は考えた。『いかにもお気に入りでござい、といったような顔つきをしていやがる、悪魔め! いったいどうして、あいつは上のほうにうまく取り入りやがるのか、ひとつ知りたいものだな。知恵もなければ、しっかりした性根もなく、教育もなければ、繊細な感情もないのに、あん畜生の運のいいこと! ああ、なんてことだ! どうしてああも早くとんとん拍子にいくんだろう、みんなの気に入られるんだろう、考えても不思議なくらいだ! あいつ、きっと出世するに違いない、おれは誓っていうが、大した出世をするに違いない、えらい所まで昇りつくに決まっている――運のいい野郎だ! それに、やつはいったい何をみんなに耳打ちしていやがるのか、こいつもどうか知りたいものだて、皆といっしょにどんな秘密を計画してやがるのだろう、どんな内緒話をしてやがるのだろう? ああ、なんてことだ! おれもどうかしてうまく、その……あの連中とちっとばかり……ひとつあいつにこれこれしかじかと、理由を話して頼みこんでみるかな……かようかようで、自分はもうこの先あんなことはしない、自分が悪かった、今の時代では、若い者が勤務につくのは当たり前だ、自分は現在のうしろ暗い立場を決して気にかけないことにする、――こんなふうにいったらどうだろう! 自分はなんらかの方法をこうじて、抗議を試みるようなこともしない、何もかも辛抱強く、おとなしく我慢するから、――こういったらどんなものだろう! 本当にこんなふうにやってみるかな?……だが、あの悪党め、なんてったって、折れて出るようなことはありゃしない、どんなに口をすっぱくしたって、やつの気を折れさすことはできやしない、あの無法な頭に理屈を叩きこむことは、できっこないのだ……が、とにかくやってみよう。ひょっとしたら、うまい潮どきにぶっつかるかもしれない、だからまあ、やってみるんだ……』
 不安と、憂悶と、混乱の中でわが主人公は、このままでいるわけにはいかない、のるかそるかの時がやって来たのだから、だれかととっくり話し合ってみなければならないと感じながら、例のやくざな謎のごとき友人の立っているほうへじりじりと近寄って行った。けれど、その刹那、待ちかねていた閣下の馬車が轟然と車寄せに近づいた。フェドセーイチはさっと扉を開き、背を弓のように曲げて、閣下を身近くお通しした。待ちくたびれた一同は、どっとばかり出口に殺到して、たちまち旧ゴリャードキン氏を新ゴリャードキン氏から押し隔ててしまった。『逃すものか!』とわが主人公は群衆を押し分けながら、目指す相手から目を離さないで、こうひとりごちた。ついに群衆はややまばらになった。わが主人公は自分の体が自由になったのを感じて、敵の跡を追いながら駆け出した。

[#4字下げ]第11章[#「第11章」は中見出し]

 ゴリャードキン氏は息が切れそうになった。さながら翼にでも乗っているかのように、足早に遠ざかる敵を追って飛んで行った。彼は身内に恐ろしい精力がみなぎっているのを感じた。とはいえ、その恐ろしい精力にもかかわらず、つまらない一匹の蚊でさえも(もしこんな時候のペテルブルグに蚊がいるものとしたら)、きわめて無造作にその翅のひとふりで、彼を倒すことができたに相違ない、ゴリャードキン氏もそれは十分覚悟していなければならないはずであった。彼はまた、自分がぐったりして弱り切っているのを感じた。自分はいま何かまったく特別な外部の力で運ばれているのであって、けっして自分で歩いているのではない、それどころか膝頭ががくがくして、今にもいうことをきかなくなりそうなのを感じた。が、それもこれも、今にすっかりよくなってくれるだろう、『よくなるにしても、ならないにしても』あまり駆け過ぎてはあはあ息を切らしながら、ゴリャードキン氏は考えた。『しかし、この勝負がおれの負けだということは、今やいささかも疑いをいれない、おれは完全に駄目になってしまった。これはわかりきったことだ、すでに決定されて、その決定書に署名されたようなものだ』が、それにもかかわらず、どこへ行くのか、もう話のついた辻馬車の踏段に片足を乗せた仇敵の外套にようやく手をかけた時、わが主人公はあたかも死から蘇ったようであった、まるで戦争を堪えぬいて勝利をつかんだかのようであった。
「きみ! きみ!」ついに追いつかれた破廉恥な新ゴリャードキン氏に向かって彼はこう叫んだ。「きみはおそらく……」
「いや、もうどうか、おそらく何もかも、いっさいあてになさらんほうがいいです」とゴリャードキン氏の酷薄無情な友は、片足を辻馬車の踏段にのせ、片足を馬車の中へ入れようと懸命の努力をしながら、体の平均を取ろうとする一方、外套をゴリャードキン氏の手からもぎ離そうとあせって、むなしく片足を空中にふりまわしながら、逃げをうつような調子で返事をした。こちらはまたこちらで、自然から与えられたありとあらゆる手段をつくして、その外套にしがみつくのであった。「ヤーコフ・ペトローヴィチ! ほんの十分だけ……」
「失礼ですが、ぼく、暇がないんです」
「察してもくださるでしょうが、ヤーコフ・ペトローヴィチ……どうか、ヤーコフ・ペトローヴィチ……後生です、ヤーコフ・ペトローヴィチ……いろいろと話し合いたいのです……お互いにざっくばらんな態度で……ほんのちょっとだけ、ヤーコフ・ペトローヴィチ!………」
「すまないけれど、まったく暇がないのでね」と潔白をよそおうゴリャードキン氏の敵は、善良の仮面を被った不作法な、なれなれしい調子で答えた。「また別の時にしましょう、その時こそ本当に誠心誠意……が、今はまったく駄目なんです」
『この悪党!』とわが主人公は考えた。「ヤーコフ・ペトローヴィチ!」と彼は悩ましげに叫んだ。
「ぼくはかつて一度もきみの敵たったことはありません。あれは腹の黒い連中が、ぼくに不当ないいがかりをつけたんです……ぼくとしてはいつでも喜んで……ヤーコフ・ペトローヴィチ、もしなんなら、これからいっしょにちょっとその辺へ寄ろうじゃありませんか?……そこで、いまきみがいわれたように誠心誠意、歯に衣きせぬ高潔な態度で……ああ、この喫茶店にしましょう――その時は何もかも自然と明白になりますよ。そうしましょう、ヤーコフ・ペトローヴィチ! その時こそはきっと万事明白になりますから……」
「喫茶店へ? よろしい。ぼくは反対しません、喫茶店に寄りましょう、ただし、ひとつ条件がつきますよ、きみ、たったひとつだけですがね、ここで何もかも自然と明白になるように、ということです。つまり、かようかようしかじかとうち明けてですな」と新ゴリャードキン氏は馬車から下りながら、厚かましくもわが主人公の肩を叩きながらいった。「ヤーコフ・ペトローヴィチ、わが懐しき友、きみのためならぼくは横町だっていといはしませんよ(ほら、いつかきみは横町のことでうまいことをいったじゃありませんか、ヤーコフ・ペトローヴィチ)。いやあ、きみはまったくすごい腕だよ、どうしても人を自分の思うとおりにするんだからなあ!」とゴリャードキン氏の偽りの友は、軽笑を浮かべて相手の顔をのぞきこんだり、もつれかかって来たりしながら、言葉をつづけるのであった。
 両ゴリャードキン氏の入って行った喫茶店は、大通りから引っこんだところにあったが、この時ちょうど店がすいていた。呼鈴の音がするやいなや、かなりふとったドイツ女が売台の向こうに姿を現わした。ゴリャードキン氏とその浅ましき友は、二番目の部屋へ通った。そこでは、頭を丸刈りにしたあおっぷくれの子供が、消えかかった火をおこし直そうとして、木っぱの束をもって煖炉のそばをうろうろしていた。新ゴリャードキン氏の注文でチョコレートが持って来られた。
「なかなか色気たっぷりの女ですな」と新ゴリャードキン氏は、こすそうに旧ゴリャードキン氏に目くばせしてこういった。
 わが主人公は顔をあからめて黙っていた。
「ああ、そう、忘れていた、しつれい。きみの好みは知っていたんだっけ。きみはほっそりしたドイツ女がお口に合うんでしたな。え、きみ、ヤーコフ・ペトローヴィチ、われわれはお互いにほっそりした、といっても、どこか気持ちのよさそうなドイツ女がお口に合うんでしたな。そういう女のところに下宿して色仕掛けをやり、ご馳走政策でこっちの思いのたけをうち明けたり、いろんな贈物を約束したり、――こんなことをする人でしたね。いやはや、きみはフォブラズだよ、抜駆けの功名の名人だよ!」と、新ゴリャードキン氏はそらぞらしいお愛想笑いをし、再会のよろこびを面に現わして、ゴリャードキン氏にからみつくようにしながら、読者もすでにご承知の、ある女性に対する役にも立たぬ意地悪い当てこすりをいうのであった。しかし、旧ゴリャードキン氏がやすやすとそれを本当にするほど、馬鹿でもなければ無教育でもなく、上品な嗜みに欠けているわけでもないのに心づくと、破廉恥な相手は戦法を変えて、正面から明けすけにやろうとはらを決めた。こういう胸の悪くなるようなことをしゃべっておいて、贋のゴリャードキン氏はとどのつまり、憤慨に値するほど無恥なずうずうしい態度で、品位あるゴリャードキン氏の肩を叩いた。が、それでもまだ得心がいかないで、上品な社会にあるまじき悪ふざけを始めた。というのは、前にもやったことのあるいやらしい真似を繰り返したのである。ほかでもない、憤然とした旧ゴリャードキン氏が、軽い叫びを上げて抵抗したにもかかわらず、彼の頬っぺたをつまんだのである。こういう自堕落千万な振舞いに、わが主人公はかっとなったが、しかし口をとざしていた……もっとも、それはある時機の来るまでであった。
「それはぼくの敵の言葉です」と彼は賢くもおのれを制しながら、ついに震える声で口を切った。この時わが主人公は、不安げに戸口を振り返った。というのは、新ゴリャードキン氏がどうやら相変わらずのご機嫌で、公けの席でははばかられるような、一般に社交上の法則で許されていないような、とくに上流の社会ではあるまじきさまざまな洒落を、連発しそうな様子だったからである。
「いや、そういうわけなら、どうともご随意に」と新ゴリャードキン氏は、無作法にがぶがぶ飲み干した空のコップをテーブルの上へ置いて、真面目な調子で旧ゴリャードキン氏の言葉に応じた。
「だがまあ、ぼく達はお互いに何も長いこと……ときに、この頃どんなふうですか、ヤーコフ・ペトローヴィチ?」
「ぼくがきみにいい得るのはただ一つだけです、ヤーコフ・ペトローヴィチ」とわが主人公は冷静に、威厳を保ちながら答えた。「ぼくはいまだかつてきみの敵になったことはありません」
「ふむ……なるほど、ときに、ペトルーシカは? ええと、なんていったっけ! たしか、ペトルーシカでしたね? うん、そうだ、どうです、どんなふうです? 達者ですか? 変わりはないんでしょうね」
「あれもべつに変わりありませんよ。ヤーコフ・ペトローヴィチ」と旧ゴリャードキン氏は、いささか呆気にとられて答えた。「ぼくはどうもわからないんです、ヤーコフ・ペトローヴィチ……自分としては……潔白な、つつみ隠しのない態度に出るならばですな、ヤーコフ・ペトローヴィチ、おわかりでもありましょうが、ヤーコフ・ペトローヴィチ……」
「さよう。しかし、きみもご自身わかっておいででしょうがね、ヤーコフ・ペトローヴィチ」と新ゴリャードキン氏はそらぞらしくも憂わしげな様子で、いかにも後悔の念にみちた、同情に値する人物といったふうに見せかけながら、静かな表情たっぷりの声で答えた。「ご承知のとおり、現代は苦しい時代でして……ぼくはきみのお言葉によっているのですよ、ヤーコフ・ペトローヴィチ、きみは賢明な方ですから、正しい判断をなされることと思いますので」新ゴリャードキン氏は、卑劣な追従をちょっと挟みながらこういった。「生活は玩具じゃありませんからね、――ご承知でもありましょうが、ヤーコフ・ペトローヴィチ」と新ゴリャードキン氏は、高尚な問題をも論じることのできる聡明な、学識ある人間を気取りながら、意味ありげに言葉を結んだ。
「ぼくとしてはですね、ヤーコフ・ペトローヴィチ」とわが主人公は勢いこんで応じた。「ぼくとしては、遠まわしなやり口が嫌いなものだから、大胆率直に、端的な高潔な言葉を用いて、問題を紳士的な見地においていいますが、ヤーコフ・ペトローヴィチ、ぼくは完全に潔白であることを、男らしくざっくばらんに断言することができます。いっさいは双方お互いの誤解からきたのです、世間の取沙汰です、卑屈な衆愚の世論です……ぼくはうち明けていいますがね、ヤーコフ・ペトローヴィチ、どんなことだってすべてあり得るわけですよ。さらに進んでいうとですな、ヤーコフ・ペトローヴィチ、もしこんなふうに判断すれば、――潔白な高尚な見地から観察するならば、ぼくは自分が誤解しておったと、偽りの羞恥をかなぐり棄てて、大胆にいうことができます、それをうち明けるのが、むしろ愉快なくらいです。きみは賢明な、そのうえ高潔な人だから、ちゃんとわかってくれるでしょう。ぼくは羞恥心を、偽りの羞恥心をかなぐり棄てて、これを自白する用意があります」とわが主人公は、品位のある紳士らしい態度で結んだ。
「運命ですよ、約束事ですよ! ヤーコフ・ペトローヴィチ……しかし、そんな話はもういっさいよしましょう」新ゴリャードキン氏は溜息とともにそういった。「それより、こうしてさし向かいで坐っていられる僅かな時間を、もっと有益な気持ちのいい会話に使おうじゃありませんか、二人の同僚がかわすのにふさわしい会話にね……まったくのところ、ぼく達はこの間じゅうから、どうしたものか、二ことと言葉をかわす暇がありませんでしたなあ……もっとも、それはぼくのせいじゃありませんがね、ヤーコフ・ペトローヴィチ……」
「ぼくのせいでもありません」とわが主人公は熱くなってさえぎった。「ぼくのせいでもありません! この事件ぜんたいについて、ぼくは少しも悪くないということを、この胸がちゃんとぼくにそういっています、ヤーコフ・ペトローヴィチ。これはすべて運命をうらむよりほかありません、ヤーコフ・ペトローヴィチ」と旧ゴリャードキン氏はすっかり折れた調子でいった。その声はしだいに衰えて、震えをおびてきた。「おや、どうしたのです? 全体にきみのご健康はどうなんです?」と邪路に踏み迷った男は、甘ったるい声でたずねた。「少々ばかり咳か出ましてね」とわが主人公は、さらに甘ったるい声で答えた。
「用心おしなさい。この頃は悪い風邪がはやっていますからね、すぐ扁桃腺をやられますよ。ぼくなんかも、じつのところ、もうフランネルにくるまっているような始末でして」
「まったくですね、ヤーコフ・ペトローヴィチ、すぐ扁桃腺をやられますよ……ヤーコフ・ペトローヴィチ!」とわが主人公はしばらく無言の後こういい出した。
「ヤーコフ・ペトローヴィチ! ぼくは自分が思い違いをしていたのがわかりました……ぼくは貧しいながらも、あえていいますが、誠意のこもった自分の住居で、きみといっしょに過ごすことのできたあの幸福な数時間を、感激の念をもって想い起こしているのです……」
「しかし、きみの手紙の中には、そんなふうには書いてありませんでしたよ」と正当な筋道の立った(といっても、正当なのはこの点だけである)新ゴリャードキン氏は、やや非難をおびた調子でいった。
「ヤーコフ・ペトローヴィチ! ぼくは思い違いをしていたのです……あの不運な手紙の中でも、やっぱり思い違いをしていたのです、今それがはっきりわかりました。ヤーコフ・ペトローヴィチ、ぼくはきみの顔を見るのも面はゆい、といってもきみは信じてくれないでしょうね、ヤーコフ・ペトローヴィチ……あの手紙をぼくにくれたまえ、ぼくはきみの見ている前で引っさぶいてしまうから。ヤーコフ・ペトローヴィチ、でなければ、それがどうしてもできなければ、お願いだからあれを逆に読んでくれたまえ、すっかりあべこべに、というのは、友情をもってわざとぼくの手紙の文言に反対の意味をつけながら読んでもらいたいのです。ぼくは思い違いをしていました。ゆるしてください、ヤーコフ・ペトローヴィチ、ぼくはまったく……ぼくは悲しむべき誤解をしていたのです、ヤーコフ・ペトローヴィチ」
「きみは誤解だったというのですか?」旧ゴリャードキン氏の不信なる友は、かなり散漫な気のない調子でたずねた。
「ぼくはまったく誤解していたといってるんです、ヤーコフ・ペトローヴィチ、ぼくとして偽りの羞恥心をかなぐり棄てて……」
「いや、まあ、よろしい! きみが誤解していたのはけっこうだ」と新ゴリャードキン氏はぞんざいに答えた。
「ぼくはね、ヤーコフ・ペトローヴィチ、こういう考えさえ持っていたんですよ」と率直なるわが主人公は、偽りの友の恐るべき背信にまるで気もつかず、高潔な態度でつけ加えた。「ぼくはこういう考えさえ持っていたんです、つまり、完全な相似を有する二人の人間がつくり出されて……」
「ははあ! それがきみの考えなんですか!………」
 そういったかと思うと、そのやくざ加減で性《しょう》の知れない新ゴリャードキン氏は、席をたって帽子を取った。依然として相手の虚偽に気もつかず、旧ゴリャードキン氏は同様に立ちあがり、見せかけの友に紳士らしくほほ笑みかけながら、こうして相手を手なずけ、元気づけ、新しく友情を結ぼうと努めた。
「では、失礼いたします、閣下」と、新ゴリャードキン氏はだしぬけに叫んだ。わが主人公は、敵の顔に何か馬鹿陽気なところさえあるのに心づいて、思わずぎょっとした。で、ただいい加減にあしらっておくために、不徳義漢のさし伸べた手に自分の二本指を与えた。が、ここでも……ここでも新ゴリャードキン氏の厚顔無恥は、いっさいの想像をこえていた。旧ゴリャードキン氏の二本指を取って、まずそれを握りしめた後、このやくざ者はさっそくその場で、ゴリャードキン氏の見ている目の前で、ずうずうしくも今朝と同じ厚顔な悪ふざけを繰り返したのである。人間としてあたう限りの忍耐もついにつきはてた……
 相手が自分の指を拭いたハンカチを、早くもポケットへしまった時、旧ゴリャードキン氏はわれに返り、彼の後を追って次の間へ飛び出した。不倶戴天の仇はいつもの卑怯なやり方で、たちまち姿をくらまそうとしたのである。彼はけろりとした顔つきで、売台の前に立って肉饅頭を食べながら、品行方正な君子然として、悠々とおかみのドイツ女にお愛想をいっているのであった。『婦人の前でやるわけにはいかんて』と考えたわが主人公は、興奮のあまり前後も覚えず売台に近づいた。
「どうです、まったくのところ相当ふめる女じゃありませんか! どうお思いですな?」と新ゴリャードキン氏は、おそらくゴリャードキン氏の方図の知れぬ忍耐力をあてこんだものだろう、またしても無作法な悪洒落を始めた。ふとっちょのドイツ女は、明らかにロシヤ語がわからないと見え、愛想わらいをしながら、錫のような光沢《つや》をした意味のない目で二人の客を眺めた。わが主人公は、恥を知らぬ新ゴリャードキン氏の言葉を聞いて、火のように真っ赤になった。で、もはや自己を抑制する力もなく、ついに相手におどりかかっていった。明らかに彼を八つ裂きにし、いっさいのかたをつけてしまおう、というつもりらしかった。けれど、新ゴリャードキン氏は、いつもの卑怯な癖で、もう遠く離れていた。彼はいち早く逃げのびて、ちゃんと入口階段に立っていた。当然のことながら、旧ゴリャードキン氏は、最初しばらく棒立ちになっていたが、やがてわれに返ると、韋駄天走りに無礼者の跡を追った。もうそのとき敵は、明らかに自分を待っていて万事承知らしい辻馬車に乗ろうとしているところであった。しかし、その瞬間、ふとっちょのドイツ女は二人の客が食い逃げするのを見て、きゃっとばかり叫び声をあげ、ありったけの力で呼鈴を鳴らした。わが主人公はほとんど足をもとめず振り返って、自分の分はもちろん、払いもせずに行った破廉恥漢の分まで金を投げつけ、釣銭を受け取ろうともしなかった。そして、だいぶ手間どったにもかかわらず、どうやらやっと敵に追いついて、すでに動き出した馬車の中でつかまえることができた。わが主人公は、自然から授けられたあらゆる方法を利用して、馬車の泥除けに食いさがり、新ゴリャードキン氏が必死になって防戦するのもかまわず、馬車によじ昇ろうとしながら、しばらくのあいだ往来を走って行った。その間に馭者は鞭、手綱、足、言葉と、あらゆる手段をつくして、使い倒されたやくざ馬を追い立てていた。馬はふいに轡をかんで、持ちまえのいやな癖で、三歩ごとに後脚をぽんぽん蹴上げながら、まっしぐらに駆け出した。とうとうわが主人公は馬車によじ昇って、無恥厚顔な敵に顔を突き合わせ、膝と膝を組み、馭者に背中を凭せかけた。そして、あらゆる手段に訴えながら、不徳きわまる乱暴この上ない敵の粗末な外套の毛皮襟を右手でつかんだ。
 二人の敵は馬車に揺られながら、しばらくは黙っていた。わが主人公は、息をつぐのもやっとであった。道がひどく悪いので、彼は一歩ごとに跳ね上げられて、あやうく頸の骨を折りそうになった。のみならず、獰猛な敵は依然として自分のほうが負けたものと認めず、相手をぬかるみの中へ突き落とそうとねらっている。こうした不快事のうえにかてて加えて、天気が恐ろしく悪かった。雪が卍巴と降って、本物のゴリャードキン氏の胸を開いた外套の中へ、折もあらばなんとかして入りこもうと、苦心しているのであった。あたりは朦朧として、一寸先も見えなかった。いったいどういう道筋を通って、どこへ行ってるのか、それさえ見わけがつきにくかった………ゴリャードキン氏は、何かしらかつて経験した覚えのあることが、また繰り返されているような気がした。彼はちょっといっとき、たとえば……昨日あたり……夢の中で、何かこんなふうのことを予感しはしなかったかと記憶をたどっていた。ついに彼の憂愁は悩ましいほど堪え難くなった。彼は遠慮会釈もない敵にのしかかって、喚き声を立てようとした。けれども、その泣き声は口のあたりまで出かかっては、消えてしまうのであった……ふと一瞬、ゴリャードキン氏はいっさいを忘れつくし、何もかもまるでくだらないことだ、これはただ、何か説明のしようもない偶然の出来事で、この偶然に逆らうのはなんの役にも立たない無駄な話だ、とあきらめてしまったほどである……しかし、突然、わが主人公がこういう結論を下した刹那、馬車が不用意にも何かにぶっつかったので、事件の意味は一時にがらりと変わってしまった。ゴリャードキン氏は、粉袋のように馬車から転がり落ちて、どこかへ消し飛んだ。その転落の瞬間、あんなに前後を忘れるくらい夢中になったのは間違いだったと、つくづく後悔したものである。ようやく起きあがった時、自分たちがどこかへ乗りつけているのに気がついた。馬車はどこかの内庭にとまっていた。わが主人公は一目見るなり、これこそオルスーフィ・イヴァーノヴィチの屋敷の庭であるとさとった。それと同時に、自分の友人が早くも入口階段をさして進んで行くのに気がついた。おそらく、オルスーフィ・イヴァーノヴィチを訪問しようというのだろう。彼は名状し難い悩みをいだきながら、敵の後を追おうとしかけたが、幸いにもそれと同時にまた思い直した。馭者に払いをすることを忘れないで、ゴリャードキン氏は往来へ飛び出すなり、足にまかせて一目散に駆け出した。雪は相変わらず卍巴と降りしきっていた。あたりはどんよりと薄暗く、じめじめしていた。わが主人公は走るというよりも、むしろ飛んで行くのであった。行手にあたるものは、男といわず、女といわず大人も子供も突き飛ばしたり、自分も男や女、大人や子供を避けて飛び退いたりした。彼の周囲にも、うしろのほうにも、びっくりしたような話し声や、金切り声や、喚き声が聞こえていた……が、ゴリャードキン氏は夢中になっている様子で、何一つ注意を向けようとはしなかった……それでも、セミョーノフスキイ橋の辺で、ようやくわれに返ったが、それも二人の行商女に突き当たって引っころがし、それといっしょに自分まで倒れたからである。『こんなことはなんでもありゃしない』とゴリャードキン氏は考えた。『何もかもまるくおさまるだろうよ』そう思いながらポケットへ手を突っこんで、一面にばら撒かれた生姜餅や、林檎や、豆や、そのほか種々雑多な売物を弁償するために、一ルーブリ銀貨を取り出そうとした。と、ふいに新しい光がゴリャードキン氏の心を照らした。ポケットの中で、今朝書記の渡した手紙が指に触れたのである。この近所に馴染みの小料理屋があることを思い出して、彼は一刻の猶予もなしにそこへ駆けこみ、脂ろうそくに照らされているテーブルの傍へ陣取り、注文を聞きに来た給仕の言葉に耳をもかさず、傍目もふらずに封を切り、次の文言を読み始めた。そして、すっかり度胆を抜かれてしまった。


[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
わがために悩みたもう、永久にわが胸に懐かしき高潔なるきみよ!
 わたしは苦しんでいます、破滅に瀕しています、――わたしを救ってください。中傷と陰謀をこととし、有害無益な傾向をもって世間に知られた例の人物が、わたしを十重二十重に網でからみつくしました。わたしは駄目になってしまいました! わたしは操を汚されました。でも、わたしはあの男がいやでたまりません。ところが、あなたは!……わたしたち二人は仲を割かれたのです。あなたに宛てたわたしの手紙は横取りされていたのです――それもこれも、みんなあの不徳漢の仕業でございます。あの男は自分の持っているたった一つの長所、あなたとの相似を利用したのでございます。いずれにもせよ、たとえ美貌は有せずとも、頭脳と、激しき情熱と、優雅なる挙措によって、人を魅惑することはできるものでございます……わたしはもう破滅してしまいます! わたしは無理やりに結婚を強いられております。それについて、だれよりも陰謀を逞しくしているのは、わたしの父親であり恩人である五等官、オルスーフィ・イヴァーノヴィチでございます。それはおそらく、上流社会でわたしによき地位を占めさせようという気持ちなのでございましょう……けれども、わたしは堅くはらを決めて、自然から与えられたあらゆる方法をつくして、これに手向かうつもりでいます。今夜正九時に、オルスーフィ・イヴァーノヴィチの窓の下で、馬車を用意して待っていてくださいまし。わたしどもの家ではまた舞踏会の催しがあって、美しい中尉がまいるはずになっております。わたしは抜け出してまいりますから、手に手をとって逃げましょう。お国のためにつくそうと思えば、ほかにもお役所はあるわけでございます。いずれにしても、無垢というものは無垢なるがゆえに力強いものであることを、思い出してくださいまし。ではさようなら、馬車をもって車寄せのところでお待ちください。わたしは夜中の正二時に、あなたの抱擁と保護の中に身を投じます。
[#ここで字下げ終わり]
[#6字下げ]死ぬまであなたの
[#地から1字上げ]クララ・オルスーフィエヴナ

 この手紙を読み終わると、わが主人公はしばらくの間、雷に打たれたようにじっと身動きもしなかった。恐ろしい悩みと、激しい興奮にとらわれ、ハンカチのように真っ青な顔をして、手に手紙を持つたまま、彼は幾度も部屋の中を歩きまわった。この場合、泣面に蜂ともいうべきことは、わが主人公が部屋に居合わすすべての人にとってもっぱら注意の的となっているにもかかわらず、それにいっこう気がつかなかったということである。だらしのない身なり、押え切れない興奮、歩きまわるというより、むしろ駆けまわるような足取り、両手を振りまわしての身振り手真似、前後を忘れて相手もないのに口から洩らした若干の謎めいた言葉、これらはその場に居合わせたすべての客に、おそらくゴリャードキンという人をはなはだ怪しく感じさせたに相違ない。給仕でさえもうさんくさそうに彼をじろじろ眺め始めた。ふと気がついた時、わが主人公は自分が部屋のまん中に突っ立って、不作法千万な目つきで、きわめて上品そうな様子をした一人の老人を見つめているのに気がついた。老人は食事をすますと、聖像の前でお祈りをして、またもとの席に腰をおろし、同様にゴリャードキン氏から目を離さずにいたのである。わが主人公はどんよりした目つきであたりを見まわすと、みんなだれも彼もひどく無気味な、うさんくさい目つきで自分を眺めているのに気がついた。突然、赤い襟をつけた一人の退職軍人が大きな声で、『警察新聞』夊見せてくれとどなった。ゴリャードキン氏はぶるっと身震いして顔をあからめた。ふと何心なく目を伏せると、自分が人前へ出るのはおろか、わが家にいるのさえ不都合なほど、ぶしつけな身なりをしているのに心づいた。靴も、ズボンも、左の脇腹も、すっかり泥だらけになって、右足の靴紐がちぎれ、上衣などは方々裂けてさえいるのであった。筆紙につくし難い悩ましさを感じながら、彼は先ほど手紙を読んだテーブルの傍へ帰った。すると、料理屋の番頭が一種異様な、きっとした表情を顔に浮かべて、近づいて来る姿が目に入った。わが主人公は度を失って、とほうにくれて立ったまま、傍のテーブルをまじまじと眺めていた。テーブルの上には、だれかの食べ荒らした皿が、片づけられないままに取り残され、汚れたナプキンや、たったいま使ったばかりのナイフや、フォークや、スプンが取り散らされていた。『いったいだれが食べたんだろう?』とわが主人公は考えた。『まさかおれじゃなかろう? しかし、なんともいわれないぞ! 食事をしながら、自分で気がつかないなんて、いったいおれはどうしたものだろう?』ゴリャードキン氏が目をあげて見ると、傍にはまだ給仕が立っていて何やらいいたそう……
「勘定はいくらになるね、きみ?」とわが主人公は震え声でたずねた。
 高らかな笑い声がゴリャードキン氏のまわりで、どっとばかりに起こった。給仕までがにたりと笑った。ゴリャードキン氏はここでもしくじりをやって、何か恐ろしく馬鹿なことを仕出かしたのだな、と気がついた。そう気がつくと、彼はすっかりへどもどして、しょうことなしにポケットへ手を突っこんで、ハンカチを擽った。それはおそらく、ただぼんやり立っていないで、何かするためだったらしい。ところが、彼自身はもちろんのこと、居合わす人々の驚き入ったことには、ハンカチの代わりに何かの薬瓶を取り出したのである。例の四日前にクレスチヤン・イヴァーノヴィチが処方してくれたものである。『薬は例の薬屋へ行って』という言葉がゴリャードキン氏の頭にひらめいた……ふいに、彼はぶるっと身慄いして、思わず恐怖の叫びをあげんばかりであった。また新しい一道の光明が流れた……どす赤い、いやな色をした水薬が、不吉な光をはなって、ゴリャードキン氏の目を射た……瓶は彼の手を滑り落ちて、その場でこなごなに砕けた。わが主人公はあっと叫んで、流れ拡がる液体から、二歩ばかり跳びのいた……彼は全身をわなわなと慄わしていた。汗がこめかみと額からにじみ出た。『してみると、命が危いのだ!』その間に、部屋の中が騒然とざわめいて来た。一同はゴリャードキン氏を取り囲んだ、だれも彼もがゴリャードキン氏に話しかけた。中には、ゴリャードキン氏をつかまえようとする者さえあった。けれど、わが主人公は唖のように口をつぐみ、何一つ見ず、何一つ聞かず、何一つ感じずに、じっと身動きしないでいた……ついにその場から身をもぎはなすようにして、料理屋を飛び出した。引き止めようとする者を、だれかれの容赦なく突きのけはねのけして、手あたり次第の辻馬車に、ほとんど正気を失った身を投じ、そのままわが家へ飛ばして行った。
 自分の住居の入口で、彼は役所の小使ミヘーエフに出会った。手に公用の封書を持っている。「わかってるよ、お前、何もかもわかっているよ」と、へとへとに疲れ切ったわが主人公は、弱々しい悩ましげな声で答えた。「それ、公用なんだろう……」封筒の中には、事実アンドレイ・フィリッポヴィチの署名したゴリャードキン氏宛ての辞令が入っていて、彼の預っているいっさいの事務をイヴァン・セミョーノヴィチに引き渡せ、とのことであった。封書を受け取って、小使に十コペイカ握らせると、ゴリャードキン氏は自分の部屋へ入った、ペトルーシカは自分のがらくたを一纏めにして、せっせと荷造りをしているところであった。明らかにゴリャードキン氏を見棄てて、エフスターフィの代わりに使ってあげるとそそのかしたカロリーナ・イヴァーノヴナのところへくらがえするつもりらしい。

[#4字下げ]第12章[#「第12章」は中見出し]

 ペトルーシカは体をゆらゆらさせながら、妙にくだけた態度で、顔には下司張った得意らしい表情を浮かべて、入って来た。彼が何やら考えついて、われこそ完全に正当な権利を持っているぞと感じているのは、見るからに明らかであった。そして、すっかりよその人間、つまりよその召使でございといったような顔つきをして、今までゴリャードキン氏に使われていたことなどは、けろりと忘れている様子であった。
「ときに、どうだね、お前」とわが主人公は、息をはずませながらいった。「いま何時だね、お前?」
 ペトルーシカは黙って仕切りの向こうへ引っこんだが、すぐにまた取って返して、もうやがて七時半です、とかなり超然とした調子でいった。
「ああ、そうかい。お前、そうかい。ときに、お前……遠慮なくいわしてもらうが、おれたちの間はこれでもうおしまいになったらしいね」
 ペトルーシカは黙っていた。
「さあ、今ではもう何もかもおしまいになったんだから、ひとつざっくばらんにいってくれないか、友達同士のつもりでいってくれないか、お前はいったいどこへ行ってたんだね?」
「どこにって? いい人んとこに行ってたんでさ」
「わかってる、お前、わかってるよ。おれはいつもお前にはなんの不足もなかったので、ちゃんとした証明書をつけてやるよ……ところで、いま向こうのほうはどんな様子だね?」
「どんな様子かって、だんな! ご自分でちゃんとご承知じゃありませんか。わかりきった話で、いい人間が悪いことなんか教えるもんですかね」
「わかってるよ、お前、わかってるよ。いまどきいい人って少ないからね、お前、大事にしなくちゃいけないよ。ところで、その人達はどうしてるね」
「どうしてるって、わかりきった話でさあね……ただわっしは、もうこれきりだんなのとこでご奉公するわけにゃまいりません、お察しでもごぜえましょうが」
「わかってるよ、お前、わかってるよ。お前が影日向なく一生懸命にやってくれたのは、ちゃんと知ってるよ。おれは何もかもすっかり見ていたんだ、気がついていたんだよ。おれはお前に感心しているんだ。正直ないい人間なら、よしんば下男にもせよ、ちゃんと尊敬をはらうんだ」
「なあに、そりゃわかりきった話でさ! なにしろ、わっしらみてえな者は、あなたも察してくださるでしょうが、どこにしろいいほうへ行きたがるもんですからね。そりゃどうもしようがありませんや。わっしなんか、あなた! なにしろいい人がなくちゃ、世の中が立ちゆかねえってこたあ、わかりきった話でさあね、だんな」
「まあ、いいよ、お前、いいよ。それはおれにもわかっている……さあ、これがお前の給金だ、そしてこれが証明書と。さあ、これからお別れの接吻をしよう……」
「さて、そこでお前にひとつ頼みたいことがあるのだが、最後の奉公だと思ってやってくれんか」とゴリャードキン氏は、ものものしい調子で切り出した。「ほかでもないが、世の中はさまざまなもので、金銀で飾った御殿の内にも悲しいことが隠れていて、どこにも逃げ場がないようなこともあるものさ。ところで、おれはいつもお前に優しくしてやってたはずだが、……」
 ペトルーシカはおし黙っていた。
「おれはいつもお前に優しくしていたはずだが、そうだろう……ときに、おれの肌着類は今どれだけあるんだね、お前?」
「へえ、すっかり揃っておりますよ。縞木綿のシャツが六枚に、靴下が三足に、胸当が四枚、それにフランネルのシャツが一枚と、ズボン下が二つ、これでご承知のとおり、みんなでごぜえます。わっしはね、だんな、あなたのものを何一つ……わっしはね、だんな、ご主人のものは大切にしておりますよ。わっしはね、だんな、あなたになにされたことこそあれ、この身にやましいことはけっしてありゃしませんよ、だんな、それはもうあなたもご承知のとおりで、だんな……」
「お前のいうことは本当にするよ、すっかり本当にするよ。おれは何も、そんなことをいってるんじゃない、そんなことは見当違いだ。じつはね、お前、おれがいおうと思うのは……」
「わかっていますよ、だんな、そんなことはもうちゃんと知れきっていまさあね。わっしなんか、現にストルブニャコフ将軍のところで勤めていましたっけが、サラートラのほうへ引っ越して行かれるんで、お暇が出ましたんで……あちらのほうに先祖代々の領地がおありになって……」
「いや、違うよ、お前、おれは何も……お前なにか変なことを考えてくれちゃ困るよ」
「わかりきった話でさあ、われわれ風情の人間なんか高の知れたもんで、ご承知のとおり、わっしなんかになんくせつけるなあ、なんの造作もありゃしませんよ、わっしはどこへ行っても気に入られたもんでさ。大臣様や、将軍様や、元老院の議員様や、伯爵様なんかもお邸へ出入りなさったし、自分でもいろんな方のお邸に行ったことがでごぜえますよ。スヴィンチャートキン公爵だの、ペレボールキン大佐だの、ネドバーロフ将軍などのお邸にもまいったことがごぜえます。先方からもよくお見えになって、田舎の領地のほうへもいらっしゃったことがありますよ。わかりきった話でさあ……」
「ああ、ああ、いいよ、お前。そこでおれもこれから旅に出ようと思ってるんだ……人間、だれしもそれぞれの道が決まっているもんで、だれがどういう道に入って行くやら、わかったものじゃない。そこで、お前、これから着替えをさしてくれんか。そして、この制服もちゃんとしまって……もう一つのズボンだの、敷布だの、毛布だの、枕だの……」
「みんなひとまとめに包んでしまうんですかね?」
「そうだ、そうだ、包みにするのもよかろう……われわれはみんな、どんなことになるか、知れやしないんだからな。さてと、これからお前、出かけて行って、馬車をさがして来ておくれ……」
「馬車を?………」
「そうだよ、お前、馬車だ、なるべくゆったりしたような奴を、時間決めで引っ張って来るんだ。だが、何か、変なことを考えちゃいかんよ」
「遠いとこへいらっしゃるんですかね?」
「わからないよ、お前、それもやっぱりわからないんだよ。羽根蒲団も荷造りしてもらおうかな。お前はどう思う? おれはお前を頼りにしているんでね……」
「いったいこれからすぐお立ちになりますんで?」
「ああ、そうなんだよ! お前! 急に事情ができてね……そういう始末になったのさ、お前、そういう始末に……」
「わかり切ったことでさあね、だんな。現に連隊にいた時なんかも、ある中尉さんが、それと同じことをやらかしましたよ。ある地主の家から……女を引っ張り出しましてね……」
「引っ張り出した?……なにをいうんだ! とんでもない、お前……」
「そうなんで、引っ張り出して、よその地主のとこで婚礼の式をあげたんでございますよ。前からちゃんと手はずがつけてあったもんでね。そこへ追っ手がかかって、騒ぎになりやしたが、しかし、亡くなった公爵様が間にお人んなすって、まあ、無事におさめてしまわれましたが……」
「婚礼の式をあげた? だが、どうしてお前は? お前はどうしてそれを知ってるんだい?」
「そりゃもうわかりきってまさあね、なにをおっしゃるんで、壁に耳ありのならいですからね。わっし達はなんでも知ってますよ、だんな……もちろん、だれだって罪のねえ者なんかありゃしません。ただ、だんな、今あなたに申しあげたいことがありますんで、こういう下男風情のことだから、飾りっ気もなんにもなしでいわしてもれえますが、――もうこうなった上からにゃ、思いきっていわしてもれえますが、だんな、あなたにや張合い手がありますよ、一筋縄でいかねえ張合い手がありますよ、へえ、……」
「わかってるよ、わかってるよ、お前もちゃんと知っていたんだね……だから、おれはお前を頼りにしているわけさ。ところで、これからどうしたものだろうね? お前なにかうまい考えはないかね?」
「なるほど、いまだんながそんなふうに、いわばそんなあんばい式におなんなすったとすりゃ、まず何やかや買物をしなきゃなりますめえ、――まあ、敷布とか、枕とか、二人寝の羽根蒲団とか、上等の毛布とか、そういったようなもんだね。ちょうど幸い、この下を借りている町人出の女が、いい狐の女外套を持っておりますぜ。あれをごらんなすって、お買いになったらどうでがす。これからすぐ行ってみてもよろしゅうがすよ。これからお入り用になりますぜ、上等の女外套で、表は狐の毛皮、裏は繻子ってえやつで……」
「まあ、いいよ、お前、いいよ、おれも異存なしだ。おれはお前を頼りにしているんだから、女外套もよかろう……ただ早く、一刻も早く! 後生だから、早く行って来てくれ! おれはその婦人外套も買うけれど、お願いだから早くひとっ走り行って来てくれ! やがてもう八時になるじゃないか、さあ、早く、後生だよ、お前、早く、急いでくれ、お前! ペトルーシカは肌着、枕、毛布、敷布、その他のごたごた物を掻き集めて、大きな包みにしかけたのをうっちゃらかしにして、一目散に部屋を飛び出した。ゴリャードキン氏はその間に、もう一ど手紙を取り出したが、読むことはできなかった。彼は両手で自分の熱した頭をかかえながら、いまだに驚きからさめきれず、壁にぐったりよりかかった。何一つ考えることもできなければ、何をすることもできなかった。それどころか、自分がどうなっているかさえもわからなかった。やがて時が移っていくのに、ペトルーシカも女外套もまだ姿を見せないのに気がついて、ゴリャードキン氏は自分で出かけようと決心した。控え室へ通じる扉を開けた時、下のほうから騒がしい物音や、話し声や、争ったり押し問答したりする人声が聞こえた……幾人かの女達が、何やらしゃべったり、叫んだり、理屈をこねたり、評定したりしているのであった。それがなんの話かということは、ゴリャードキン氏もすぐにわかった。やがてペトルーシカの声が聞こえ、つづいてだれかの足音が響き始めた。『や、大変だ、あいつらはここへ世界中の人間を呼び集めるに相違ない!』とゴリャードキン氏は、絶望したように両手を捻じ合わせ、あわてて自分の部屋へ飛びこみながら、こう呻いた。部屋へ駆けこむと、ほとんど感覚を失ったもののように、長いすに倒れ、クッションに顔を押しあてた。ややしばらくそのままに身を横たえていたが、やがてぱっと跳び起きたかと思うと、ペトルーシカの帰るのも待たないで、オーヴヴァシューズをはき、帽子をかぶり、外套を着て、紙入れを引っつかむなり、まっしぐらに階段を駆け下りた。「なんにもいらないよ、お前、何もいらないよ! おれが自分で、自分でおれがすっかりするから。お前にはさし当たり用事はない、そのうちに何もかもうまくおさまるだろうよ」ゴリャードキン氏は、階段で出会ったペトルーシカに、しどろもどろの調子でそういいすてると、内庭へ飛び出し、つづいて通りへ駆け出した。心臓は今にもとまりそうであった。彼は依然としてはらが決まらなかった。いったいどうしたらいいのか、この危急存亡の時にいかに身を処したものか……
『そこなんだ、いかに身を処したものか、ああ、なんということだ? なんの必要があって、こんなことが持ちあがったんだろう!』足にまかせてでたらめに通りをとぼとぼと歩き出しながら、ついに彼は絶望に駆られて叫んだ。『なんの必要があって、こんなことがもちあがったんだろう! もしこんなことが起こらなかったら、本当にこんなことさえ起こらなかったら、何もかもうまくいったのになあ。何もかも一挙に、しっかりした力強い巧妙な一撃のもとに、いっさいを解決して見せたんだがな。うまくいったに相違ないとも、それはくびでも賭けて見せる! どういうふうに解決がつくか、それさえちゃんとわかっているんだ。おれは、まずこんなふうにいってやるのだ、-閣下、じつはしかじかかようでありまして、あえて申しあげますが、にっちもさっちも行かない始末になりました、仕事というものはあんなふうにやるものではありません、閣下、あんな仕事のやり方というものはまるでありませんし、人の名前をかたったりして、うまくいく道理はありません、閣下、彼奴は人の名前をかたっている男で、国家になんの貢献するところもない無益な人間でございます。おわかりでございますか、閣下? これがおわかりでございますか!? まあ、こういうふうにその……だが、待てよ、どうも……これはあんまり感心しないぞ、いっこうに感心できない……おれはなんて馬鹿なことをいってるんだろう、この大馬鹿め! おれはまるで自殺しようとしているようなもんだ! それはまるで自殺行為で、すっかり見当ちがいだ……どうもおれは堕落した人間らしいぞ、だから、今こんなことになるんだ!………さあ、これからいったいどこへ行ったらいいのだ? いま自分をどうしたらいいんだろう?ああ、おれはこのさきなんの役に立つというんだろう? おい、ゴリャードキン、このやくざ者、これから全体なんの役に立つつもりなんだい! だが、これからどうしたものだろう? 馬車をやとわなくちゃならない。おい、馬車を呼んで来てここへまわしてくれ、馬車がなくっちゃ、おみ足が濡れちまうじゃないか、といいたいところだ……それにしても、こんなことをだれか夢にでも考えた者があるだろうか? やれやれ、お嬢さん、いやさご令嬢! とんだ品行方正の淑女があったものだ! とんだ令嬢の亀鑑《かがみ》もあったものだ。えらいことをしでかしましたね、お嬢さん、何もいうことはない、えらいことをなすったものだ!………これというのも、みんな道徳を無視した教育からきているんだ。今こそおれはよく見わけて、底の底まで突きとめたが、なるほど、これはほかに何の原因もありゃしない、道徳の頽廃から起こったんだ。小さい時から、その、なんだ……鞭ででも時々しつけをすればいいものを、お菓子だのなんだのと、いろんなうまいものばかりあてがって、親父さんまでが猫撫で声をしながら、嬢や、お前はなんてかわいい子だろう、今に伯爵様のところへお嫁にゆくんだよ!………などと、いってるもんだから、あんなふうになっちまったんだ。それで、あのひとは自分の持札を出して見せて、わたし達の勝負はこういうことになったの! とやったわけさ。小さい時から家庭でしつけをすればよかったのに、両親がマダム・ヴァルバラとかなんとかいう、亡命して来たフランス女の寄宿学校なんかへ入れたものだから、あのひとはその亡命女のファルバラなんかのいろんな結構なことを習いおぼえて、とどのつまりは、こういうことになってしまったんだ。さあ、これを見て喜んでちょうだい! てなわけだ。今夜、これこれの時刻に、馬車でわたしの窓の下へ来て、情緒纏綿たるスペインの小唄を歌ってください、わたしはあなたを待っています、あなたが愛してくださることはわかっていますから、いっしょに駆落ちして、茅の屋根の下で暮らしましょう、ときた。だが、そりゃ駄目ですぜ、お嬢さん、こうなったら、あけすけにいってしまいますが、そういうわけにはいきませんぜ。両親の許可なくして、無垢な良家の子女を家庭から誘拐することは、法律で禁じられていますからね! それに第一、なんのために、どういうわけで、なんの必要があって、そんなことをするんです。まあ、運命の定めてくれたしかるべき男と結婚すれば、それでことはおしまいじゃありませんか。わたしは官吏の身分ですから、そんなことをすれば、馘になるかもしれません、それどころか、お嬢さん、裁判にまわされるかもしれませんぜ! そういうわけたんですよ、ごぞんじなかったんですか! それはあのドイツ女の仕業だ、あの魔法女のせいなのだ。あいつの手にかかったら、どんな大事だって起こりかねないんだからな。アンドレイ・フィリッポヴィチの指し金で人にいいがかりをつけて、女らしいあくどい陰口を触れまわし、根も葉もない狂言をうちやがった、それがつまりもとなんだ。さもなけりゃ、どうしてペトルーシカまでが、これに一枚加わろうはずがないじゃないか? あいつになんの関係があるんだ?あの悪党に何の用があるというんだ? 駄目ですよ、お嬢さん、わたしにはできません、どうしてもできません、なんとあってもできません……お嬢さん、今回だけは何はともあれ、お許しを願います。これはね、お嬢さん、何もかもあなたから起こったことですよ。ドイツ女のせいでもなければ、魔法女のせいでもさらさらなく、まぎれもなくあなたのせいなんです、だって、魔法女はいい人間ですからね、魔法女は何一つ罪はありません。あなたですよ、お嬢さん、あなた一人が悪いんですよ、――そうですとも! お嬢さん、あなたはわたしを無実の罪に陥そうと思っていらっしゃる……いま人間ひとり破滅しようとしているんです、自分というものがなくなって、消えかかっているんです、自分というものをとりとめることができない始末なんです、――それなのに、なんの結婚どころですか! これはいったいどういうふうに始末がつくんだろう? これからどんなふうに納まるんだろう? もしそれがわかったら、もうなんだって惜しかないんだがなあ!………』
 わが主人公は絶望にかられて、こんなふうにとつおいつ考えた。ふと気がついてみると、彼はリテイナヤ街のどこかに立っていた。恐ろしい天気模様で、雪解けの生暖い陽気でありながら、霙《みぞれ》がびしゃびしゃ降っていた。――それはあの忘れることのできない恐ろしい晩の夜中すぎ、ゴリャードキン氏の身にいっさいの不幸が始まったあの時と、そっくりそのままであった。『こんな晩に旅行どころのだんかい!』とゴリャードキン氏は空を見ながら考えた。『こりゃまるで世界中が死に絶えたようなもんだ……ああ、やれやれ! だが、いったいここで馬車をどうして見つけ出したものかな? おや、あそこの角に何かしら黒いものが見える。行って調べてみよう……いやはや、なんというこった!』馬車らしいものの見えた方角へ、よろめき勝ちの弱々しい足を向けて、わが主人公は考えつづけた。『いや、おれはこんなふうにしよう。 これから閣下のところへ出かけて行って、できることなら、足もとへ身を投げ出し、平身低頭してお願いするんだ。かようかようの次第で、自分の運命を閣下のお手に、上司のお手にゆだねますから、どうぞ閣下、保護の手を差し伸べて、恩恵を垂れてくださいまし。かようかようしかじかで、法に反 した行為でございます。わたしを破滅させないでくださいまし、あなた様を父とも頼んでいるのでございますから、お見棄てになりませんように……わたしの自尊心と、名誉と、名を救ってくださいまし……そして、堕落した悪人の手から救い出してくださいまし……あれは別の人間でございます、閣下、しかしわたしもやはり別の人間でございます。あれも独立した別個の人間なら、わたしもやっぱり独立した別個の人間でございます。まったくのところ、閣下、まったくのところ、独立した別個の人間に相違ございません、本当にそのとおりでございます。わたしはあの男に似るわけにはまいりません。お慈悲にあの男を交替させてください、交替をお冷北になってください、――神を神とも思わぬ気まま勝手な贋者《いかもの》をなくしてくださいまし……あんなことは聞いたためしがありません、閣下。わたしは閣下を父とも崇めております。上司は、――もちろん、慈悲ぶかい、思いやりの深い上司は、こういう運動を奨励してくださるはずでございます……そこにはいくらか騎士的なところさえあるくらいです。あなた様を初め、情け深い上司の方々を父とも思って、自分の運命をすっかりおまかせし、けっして否とは申しません。何もかもおまかせしたうえ、自分はこの事件から身を退くことにいたします……と、こんなふうにやるんだ!』
「おい、お前は馬車屋だね?」
「へえ、馬車屋で……」
「その馬車を今夜一晩じゅう借切りにしたいんだが……」
「遠方へいらっしゃるんですかね?」
「一晩じゅうだよ、一晩じゅう借切りなんだ、どこへ行くにしたって同じだよ、どこへ行くにしたって」
「いったい市外のほうへでもいらっしゃるんで?」
「そうだよ、市外へ行くことになるかもしれないさ。ぼくもまだ自分で確かなところがわからないんだから、はっきりしたことはいえないよ。じつはね、万事うまくおさまるかもしれないんだから。そりゃいうまでもなく……」
「へえ、そりゃもう申すまでもなく、わかりきったことで、だれしもそうありたいものでございますよ」
「そうだよ、お前、そうだよ、ありがとう。そこで、値段はいくらだね?………」
「すぐお出かけになりますんで?」
「そうだ、今すぐだよ、いや、ちがう、ある所でちょっと待ってもらいたいんだ……なに、ほんのちょっとで、いくらも待たせやあしないよ……」
「さようですな、一晩じゅう貸切りでしたら、こんな天気のことですから、六ルーブリより安くはまいりませんや……」
「いや、いいよ、お前、いいよ。後でまた祝儀を奮発するからね。さあ、それではこれからやってくれるね」
「お乗んなさいまし。ちょっと失礼、ここんとこをちょっとばかり具合を直しますから、――さあ、これでお乗りを願います。どちらへお出かけなんで?」
イズマイロフスキイ橋だ」
 馭者は馭者台へあがって、乾草の桶にへばりついている二頭のやくざ馬を無理に引き立て、イズマイロフスキイ橋へ向けて走らせた。けれども突然、ゴリャードキン氏は紐を引っ張って馬車を止めさせ、イズマイロフスキイ橋でなく、別の通りへ行きたいから、後へ引っ返してくれと、哀願するような声でいった。馭者はまた別の街をさして馬首を転じた。十分ばかりすると、ゴリャードキン氏の傭った馬車は、閣下の住まっておられる家の前にぴったりとまった。ゴリャードキン氏は車を出て、しばらく待っているように、くれぐれも馭者に頼んだ後、胸をおどらせながら二階へ駆け昇り、呼鈴の紐を引いた。すると、戸が開いて、わが主人公は閣下の控え室に入って行った。
「閣下はご在宅かね?」とゴリャードキン氏は、戸を開けてくれた男に向かって問いかけた。
「どんなご用向きでいらっしゃいます?」と従僕はゴリャードキン氏を頭から足の爪先まで見まわしながらたずねた。
「ぼくはね、きみ、その………ゴリャードキンといって官吏なんだ、九等官のゴリャードキンだ。少々わけがありまして、お願いにまいりました、といってくれたまえ……」
「お待ちくださいまし。すぐというわけには……」
「ねえ、きみ、待っているわけにはいかないんだよ。重大な用件で、一刻も猶予ができないんだから……」
「あなたはどなたのお使いでいらっしゃいます? 書類をお持ちなんですか?」
「いや、ぼくはね、きみ、自分の用事で……ちょっとわけがあって、お願いにあがりました、と申しあげてくれたまえ。きっとお礼をするから……」
「いけません。どなたも通してはならない、というおいいつけなんでございます。ただ今ご来客中で。明朝十時にいらしてください……」
「とりついでくれたまえったら、きみ、ぼくは待つわけにはいかないんだ、そんなことをしていられないんだ……後できみの責任になるよ……」
「さあ、行って申しあげろ。いったい、靴をへらすのが惜しいとでもいうのかい?」と床几にふんぞり返って、今までひと言も口をきかずにいたもう一人の従僕がこういった。
「靴なんか惜しいもんか! だれも通すなっていいつけなんだよ、お前さんだって知ってるじゃないか。面会は午前中と決まってらあね」
「申しあげて来いよ。舌でも落っこちるというのかい?」
「なに、申しあげてくるよ。舌なんか落っこちやしねえよ。通しちゃいけないっておいいつけなんじゃないか、本当によ。どうぞ中へお通りくださいまし」
 ゴリャードキン氏は、とっつきの部屋へ入った。テーブルの上には時計がのっていた。見ると八時半であった。彼は胸がしくしく痛んできた。もうすんでのことで帰ってしまおうかと思った。けれど、その時のっぽの従僕が、次の間の閾ぎわに立って、大きな声でゴリャードキン氏の来訪を披露した。『ちぇっ、なんてのどだ!』とわが主人公は、いい知れぬ悩みをいだきながら考えた……『いや、本当のところは、その……かくかくしかじかで、誠に恐縮ながら事情を申しあげにまいりました。で、その……どうかご接兄をお願いいたします、と、こんなふうに申しいれなければならなかったのだが……今ではもう台なしにぶち壊されてしまった。もう望みはありゃしない。だが……しかし、なに、かまうもんか……』とはいえ、あまり思案している暇はなかった。従僕が引っ返して来て、「さあどうぞ」といいながら、ゴリャードキン氏を閣下の居間へ案内した。
 わが主人公は一歩足を踏み入れた時、なんだか目が潰れたような気がした。まったく何一つ目に入らなかったからである。が、それでも二、三人の姿が、目の前でちらちらした。『ははあ、これがお客様なんだな』という考えが、ゴリャードキン氏の頭をちらとかすめた。ついにわが主人公は、閣下の黒い燕尾服についている勲章を、はっきりと見わけるようになった。それから、だんだんと黒い燕尾服に移っていき、こうして最後に完全な視力を回復した……
「なんだね?」という聞き覚えのある声が、ゴリャードキン氏の頭上で響いた。
「九等官ゴリャードキンでございます、閣下」
「それで?」
「釈明に参上いたしました……」
「え?……なんだって?」
「はい、さようでございます。じつは仔細がありまして、釈明に参上したのでございます、閣下……」
「だが、きみは……きみはいったいだれだね?」
「ゴ、ゴ、ゴリャードキンでございます、閣下、九等官の……」
「ふむ、それでなんの用事なんだね?」
「じつはいろいろ仔細がございまして、閣下を父とも仰いでおる人間でございます。自分ではこの事件から身をしりぞいておりますから、どうか敵の手から守ってくださいまし。これがお願いの筋でございます!」
「そりゃいったいなんのことだね?………」
「申すまでもなく……」
「なにが申すまでもなく、だ?」
 ゴリャードキン氏は口をつぐんだ。その下顎はがたがたと軽く慄え始めた……
「さあ?」
『わたしは騎士的な気持ちで考えたのでございます、閣下……ここには騎士的精神が保存されているものと存じまして、上官を父とも仰ぎ……かようかようしかじかで、どうかわたしを守ってくださいまし。な…なみだながらに、お…お願いいたします。こういう、う…運動は、しょしょ…奨励する、ひ…必要がありまして……」
 閣下は、つと顔をそむけた。わが主人公はしばらくの間、自分の目で何一つ見わけることができなかった。彼は胸がつまって来て、息が切れそうになった。自分がどこに立っているのか、それさえもわからなかった……なんだか恥ずかしいような、悲しいような気持ちがした。それから、どうしたのか、神様よりほかに知るものはない……ふと気がついた時わが主人公は、閣下が客達と話をしているのに気がついた。何か激しい調子で、盛んに議論をしているらしい。ゴリャードキン氏は客の一人に、すぐそれと気がついた。これはアンドレイ・フィリッポヴィチである。もう一人のほうはだれかわからなかったけれども、顔はやはり見覚えがあるように思われた。背の高い肉づきのいい年輩の人で、恐ろしく濃い眉と頬髯をたくわえ、表情に富んだ鋭い目つきをしていた。この見知らぬ人は胸に勲章を下げ、口には葉巻をくわえていた。見知らぬ人は口から葉巻を離さないで、煙草をふかしていたが、時々ゴリャードキン氏のほうを見ながら、意味ありげにうなずいていた。ゴリャードキン氏はなんとなくばつが悪くなった。彼は目を横にそらしたが、そこでももう一人、すこぶる奇妙な客が目に入った。わが主人公が今まで鏡だとばかり思っていた扉のところに、――この間と同じような具合に、――彼[#「彼」に傍点]が現われたのである。だれであるかはいうまでもない、ゴリャードキン氏のきわめて近しい知人であり、親友であった。新ゴリャードキン氏は実際のところ、今まで次の小部屋にいて、何か急ぎの書類をしたためていたのだが、いま何か用事ができたと見えて、書類を小腋に抱えたまま姿を現わし、閣下の傍へ近寄った。そして、自分に特別の注意を払われるのを予期しているふうで、ちょっとアンドレイ・フィリッポヴィチのうしろに当たるところに座を占め、葉巻を疚っている未知の人を小楯に、なかば身を隠すようにしながら、きわめて要領よく、一座の会話や相談ごとにわりこんでいった。見たところ、新ゴリャードキン氏はその会話に極度の関心をいだいているらしく、さも仔細らしい顔つきで耳を傾け、なるほど、なるほどというようにうなずいたり、足をちょこちょこ動かしたり、にこにこ笑ったり、のべつ閣下の顔をふり仰いだりする様子は、どうか自分にも一こと口をはさましてくださいと、目つきで哀願するようなあんばいであった。『この卑劣漢め!』とゴリャードキン氏は考えて、思わず一歩前へ踏み出した。この時、閣下はこちらを振り向いてひどく思い切りの悪そうな恰好で、ゴリャードキン氏の傍へ近づいた。
「いや、よろしい、よろしい。安心して帰りたまえ。きみの事件はわしがよく調べるから。そこまで送るようにいいつけよう……」こういって閣下は、濃い頬髯を生やした未知の人を、ちらと見やった。こちらは、のみこんだというしるしに、一つうなずいた。
 ゴリャードキン氏は、自分がなにやら感違いをされて、当然受けるべき待遇を受けていない気がした、というより、はっきりそれを理解したのである。『いずれにせよ、とにかく釈明だけはしなくちゃならない』と彼は考えた。『かようかようしかじかでございます、閣下、といった具合にさ』その時、彼は思案にくれながら、目を足もとへ落とした。すると、驚き入ったことには、閣下の靴に、かなり大きな白いしみがついているのに気がついた。『おや、破けたんだろうか?』とゴリャードキン氏は考えた。しかし、間もなくゴリャードキン氏は、閣下の靴は決して破れてなどいるのではなく、ただ強く光を反射しているのであることを発見した。――それは靴にエナメルが塗ってあって、ぴかぴか光るということだけで、立派に説明のつく現象であった。『これは明所《プリーク》というんだったっけ』とわが主人公は考えた。『とくにこの明所《プリーク》は画家のアトリエで用いられている言葉で、その他の所では光線とよばれているのだ』そこでゴリャードキン氏は目を上げて、いよいよ口を開くべき時が来たな、と見てとった。さもないと、事件はますます悪化するおそれがあった……わが主人公は一歩まえへ踏み出した。
「閣下、かようかようしかじかで」と彼はいい出した。「今の世の中では、人の名をかたったりなどして、成功するものではありません」
 閣下はなんとも答えないで、強く呼鈴の紐を引っ張った。わが主人公はさらに一歩踏み出した。
「あいつは卑劣な、堕落した人間であります、閣下」とわが主人公は恐怖のあまり絶え入りそうになって、前後を忘れながら、それでもこの瞬間、閣下のまわりをちょこちょこ動きまわっている浅ましい自分の双生児を、大胆に決然たる態度で指さしながらいった。「かようかようしかじか、で、わたしは暗にある人物をさしているのです」
 ゴリャードキン氏がこういうが早いか、一座はいっせいにざわめいて来た。アンドレイ・フィリッポヴィチと未知の人ほ、互いにうなずき合った。閣下はじれったそうに、呼鈴の紐を力まかせに引っ張って、召使を呼び立てた。そのとき新ゴリャードキン氏が、今度は自分の番とばかりのり出して来た。
「閣下」と彼はいった。「まことに僭越でございますが、わたしにも一言させてくださいますよう、お願いたします」新ゴリャードキン氏の声には、何かしら、きわめて断固たるものがあった。彼の様子は何から何まで、自分がぜんぜん正義の人間であると感じているらしいのを証明していた。
「あえておたずねしますが」自分の熱誠は閣下のお許しを待つまでもないとでもいうように、今度はゴリャードキン氏に向かって、彼は再び口を切った。「あえておたずねしますが、きみはいったいどなたの前でそういう口をきいてるのです? どなたの前に立ち、どなたのお居間にいるのだと思ってるんです?………」新ゴリャードキン氏はなみなみならぬ興奮のていで、顔を真っ赤にし、憤懣と怒りのためにいきり立っていた、その目には涙さえ浮かんでいるのであった。
「バッサヴリューコフ様のおいで!」と、居間の扉に現われた従僕が、のども破れんばかりに叫んだ。
『貴族らしい、いい苗字だ、たしか小ロシヤの出身だな』とゴリャードキン氏は考えたが、そのとたん、だれかさも親しげに、片手を自分の肩に当てるのを感じた。やがて、もう一つの手がさらに彼の肩に加えられた。陋劣なるゴリャードキン氏の双生児は、前に立ってちょこちょこしながら、道案内をしていた。わが主人公は、自分が居間の大きな戸口へ連れていかれるのを、はっきりと見てとった。『ちょうどオルスーフィ・イヴァーノヴィチのとこであったのと、寸分たがわずだ』と考えるいとまもなく、彼は早くも控え室に出ていた。あたりを見まわすと、傍には閣下の従僕が二人と、例の双生児がついていた。
「外套だ、外套だ、外套だ、ぼくの友人の外套だ! ぼくの無二の親友の外套だ!」堕落しはてた男はこうはやしたてながら、一人の従僕の手から外套を引ったくり、いきなりゴリャードキン氏の頭からすっぽり着せかけて、陋劣な卑しい嘲弄をたくましゅうするのであった。旧ゴリャードキン氏は、その外套の下から遁れ出た拍子に、二人の従僕の笑い声をまざまざと耳にした。けれども、それ以上なに一つ聞かないように、いっさい注意を払わないようにしながら、彼はさっそ
く控え室を出て、明るく照らされた階段の上に立った。新ゴリャードキン氏もその後に従って、「さようなら、閣下!」と旧ゴリャードキン氏のうしろから浴びせた。
「卑怯者め!」とわが主人公はわれを忘れて叫んだ。
「ふむ、卑怯者か……」
「無頼漢!」
「ふむ、無頼漢か……」とやくざな敵は同じような調子で、潔白なゴリャードキン氏に答えた。そして、どうかつづけてもらいたいといいたげに、持ちまえの陋劣な癖で、またたきもせずゴリャードキン氏の顔をまともに見つめながら、階段の高見に立っていた。わが主人公は憤慨のあまりぺっと唾を吐いて、そのまま外へ駆け出した。彼はすっかりうちのめされたようになっていたので、だれにどうして馬車へ乗せられたのか、まるっきりおぼえがないくらいであった。ふとわれに返った時、フォンタンカの河岸通りを走っているのに気がついた。『してみると、イズマイロフスキイ橋に向けているのだな?』とゴリャードキン氏は考えた……その時ゴリャードキン氏は、もっと何か考えたかったのだけれども、それができなかった。何かしら説明もできないような恐ろしいものが胸につかえていた……『なに、かまうものか?』とわが主人公は結論を下して、イズマイロフスキイ橋へと馬車を飛ばした。

[#4字下げ]第13章[#「第13章」は中見出し]

 ……天気はどうやら、よくなりかかっているらしい。事実、今まで霏々として降りしきっていたべた雪は、しだいしだいにまばらになって、ついにはほとんどすっかりやんでしまった。空がのぞいて、あちらこちらに星がかがやき始めた。ただ湿っぽい上にぬかるみがひどく、空気は息苦しかった。わけても、かろうじて息をついていたゴリャードキン氏にとっては、ことさら堪え難かった。ぐっしょり濡れて重くなった外套は、体じゅうに不愉快な生暖い湿気を伝え、その重味のために、それでなくてさえ弱りはてた足は、がくがくするのであった。何か熱病でも病んでいるような震えが、鋭くくい入るようなむずむずした感じとなって、体じゅうを這いまわった。疲労困憊の極、冷たい病的な汗がにじみ出た。で、ゴリャードキン氏はこの絶好の機会にもかかわらず、いつもの毅然とした断固たる態度をもって、『なあに、もしかしたら、いや、きっと必ず、うまくいくに相違ない、何もかもまるくおさまるに決まっている』という十八番の文句を、繰り返すのさえ忘れてしまった。『もっとも、今のところ、これくらいのことはなんでもありゃしない』と、意気沮喪することのない志操堅固なわが主人公は、こうつけ加えながら、すっかり濡れしょぼけてしまって、もう水を支える力のなくなった帽子の鍔を溢れて、あらゆる方向へ流れ落ちる冷たい水の雫を、顔からおし拭うのであった。こんなことはなんでもないとつけ加えた後、わが主人公は、オルスーフィ・イヴァーノヴィチの屋敷の内庭に積み上げた薪の山のあたりに転がっている、かなり太い丸太の切れっ端に腰をおろそうとした。もちろん、スペインふうのセレナーデや、絹の縄梯子のことなどは、今さら考えることもなかった。しかし、あまり暖くはないにしても、そのかわり、小ぢんまりとした目に立たない隠れ家のことは、考えてみる必要があった。ついでにいっておくが、この真実の物語の初め頃に、わが主人公が二時間も立ちつくした、オルスーフィ・イヴァーノヴィチ家の裏玄関の一隅、例のさまざまな古道具やがらくた類の押しこんである、戸棚と古い衝立の間に当たる一隅が、激しく彼を誘惑したのであった。じつは今もゴリャードキン氏は、オルスーフィ・イヴァーヴィチ家の庭で、すでに一時間も立ちつくして待っていたのである。しかし、以前の小ぢんまりした人目に立たぬ片隅は、今やその当時存在しなかった多少の不便を伴っているのであった。第一の不便というのは、ほかでもない、おそらくあの場所はあれ以来、人々の注意をひいて、かのオルスーフィ・イヴァーノヴィチ家における舞踏会の一件からこの方、相当の防衛手段が講ぜられたに相違ないのである。第二には、クララ・オルスーフィエヴナが合図をするのを待っていなければならなかった。なぜといって、必ず何かの合図が当然なければならないからである。こんな場合、いつもそういうふうにするもので、いわば『自分たちが始めたものでもなければ、自分たちでおしまいになるものでもない』のである。ゴリャードキン氏はふとその時、ずっと前に読んだことのある小説を思い出した。その小説の女主人公は、これとまったく同じような状況になった時、窓に薔薇いろのリボンを結びつけて、アルフレッドに合図をしたのであった。しかし、薔薇いろのリボンは今この真夜中に、しかも天候の変わりやすい湿っぽい聖ペテルブルグの気候では、応用がきかなかった。ひと口にいえば、ぜんぜん不可能なのであった。『いや、こいつは絹の縄梯子どころの騒ぎじゃないぞ』とわが主人公は考えた。『まあ、おれはここでそっとおとなしく、静かに待っていることにしよう……たとえば、ここの所に立っていればいいんだ』彼は窓をまともに見渡す庭の一隅を選んだ。うず高く積み上げた薪の山の傍である。もちろん、庭の中は馭者だとか馬丁だとか、そのほかさまざまの人が大勢行ったり来たりする上に、馬車の轍の音が騒々しく響いたり、馬の鼻を鳴らす音などが耳についた。しかし、とにかくこの場所は具合がよかった。人に気づかれようと、気づかれまいと、今は少なくとも、ある程度まで物陰になっているので、ゴリャードキン氏のほうはだれの目にも入らないが、自分のほうからはいっさいを見通すことができるので、その点有利であった。窓々は煌々と輝いて、オルスーフィ・イヴァーノヴィチの家では、何か晴れの集まりでもあるらしかった。ただし、まだ音楽は聞こえなかった。『してみると、舞踏会ではなくって、何かほかのことで集まりがあるんだな』とわが主人公は、いくらか胸のしびれるような思いで、こう考えた。『だが、今日だったのかしら?』という疑念が頭をかすめた。『日を間違えたのじゃないのだろうか? そうかもしれん、どんなことだってあり得る道理だからな……そうだ、本当にそんなことかもしれない……あの手紙はきのう書いたのだが、おれの手に渡らなかったのかもしれんぞ。おれの手に渡らなかったというのも、ペトルーシカがこれに一役買って出たからだ、あのいまいましい悪党め! それとも、あす書いたものかしら、ちょっ、おれは何をいってるんだ……つまり、明日、万端の用意をすべきはずだったかもしれない。つまり、馬車の用意をして待ってるんだ……』こう考えた時、わが主人公は思わずぎょっとして、実否を確かめるためにポケットに手を入れ、手紙をさがした。けれども、驚いたことには、手紙はポケットの中になかった。『これはどうしたことだ?』とゴリャードキン氏はなかば生きた心地もなくつぶやいた。『どこへおいて来たんだろう? してみると、なくしたのかな? こりゃ本当に弱り目にたたり目だ!』と彼はついに呻き声を立てた。『もしあの手紙が悪いやつの手に入ったら?(いや、もうちゃんと入っているかもしれないぞ!)ああ! これはいったいどうなるんだろう! ひょっとしたら、それこそ……ああ、なんといういまいましい運命だろう!』もしかしたら、あの不埒千万な双生児が彼の頭から外套をかぶせたのは、なんとかして敵の口からあの手紙のことをかぎ出し、それを盗み取ろうという目算だったかもしれない、こう考えると、ゴリャードキン氏は木の葉のように慄え始めた。『おまけに、あいつは横取りしやがるかもしれない』とわが主人公は考えた。『その証拠には……ちぇっ、何が証拠なんだ!』恐怖の発作におそわれた瞬間、ゴリャードキン氏は茫然自失していたが、やがて血がどっと頭へ昇ってきた。呻き声を立て、歯ぎしりしながら、彼は両手で熱した頭をひっかかえて、倒の丸太の切れ端に腰をおろし、何事かを考え始めた……しかし、何を考えようとしても、頭の中で考えがまとまらなかった。だれやらいろいろな顔が目先にちらついたり、忘れてしまっていた古い出来事が、あるいは漠然と、あるいははっきりと思い出されたり、何かの馬鹿げた唄の節が頭にこびりついたりする……その悩ましさ、不自然なほどの悩ましさ!『神さま! 神さま!』とわが主人公はやや正気に返って、声に出さぬ慟哭を胸のうちに押しつけながら考えた。『限りなき不幸の底に突き落されたわたしに、強い精神を授けてくださいまし! おれは破滅したのだ、すっかり抹殺されてしまったんだ、――それはもうなんの疑いもありゃしない、それは当然な成行きだ。だって、ほかにどうともなりようがないじゃないか。第一、おれはくびになったんじゃないか。たしかにくびになったのだ、くびにならないなんてはずがない……まあ、かりにそれはなんとかなるとしよう。おれの持っている小金で、当分の間は過ごしていけるとしよう。それにしても、どこかに別の宿を借りなくちゃならないし、家具もなんなりと揃えなくちゃならない……第一、ペトルーシカがいないことになる、が、あんな悪党なんかいなくても、やっていける……なんとかして家主の女中でも使わしてもらうとすれば、まあ、それでよし、と! そうすれば、自分の勝手な時に出入りができるというもので、遅く帰って来ても、ペトルーシカがぶつぶついう心配がない。確かにそうだ。だから、部屋の又借りというやつは便利がいいのさ……まあ、かりに、それは万事よしとしても、しかしなんだっておれは、こんな見当違いなことばかりいってるんだろう、まるで見当違いな話じゃないか?』その時、現在の状態を思う心が、再びゴリャードキン氏の記憶を照らした。彼はあたりを見まわした。『や、大へんだ! 大へんだ! いったいおれはいま何をいってるんだろう?』と彼はすっかりとほうにくれて、熱した頭をかかえながら考えた。
「ねえ、だんな、まだお出かけじゃありませんか?」という声が、ゴリャードキン氏の頭の上で響いた。ゴリャードキン氏はぶるっと身慄いした。が、彼の前に立っているのは辻馬車の馭者で、これも同様全身濡れねずみになり、がたがた震えあがっていた。じれったいのと所在なさに、薪のうしろにいるゴリャードキン氏の様子を見に来たのである。
「なに、なんでもないよ……もうすぐ出かける、本当にすぐだよ。もうほんの少しだから、待っててくれ……」
 馭者はぶつくさいいながら立ち去った。『あいつ何をぶつぶついってやがるんだろう?』とゴリャードキン氏は涙ながらに考えた。『だって、一晩の約束で傭ったんじゃないか、だからおれは、なんだ……当然の権利を持っているわけだ……そうだとも! 一晩じゅう貸切り、それで話はおしまいじゃないか。こうして、夜っぴてじっとしていたって同じことさ。どうしようとおれの勝手だ。乗ろうと乗るまいと、こっちの自由じゃないか。こうして、この薪のうしろに立っていたって、それもいっこうなんでもありゃしない……何もとやかくいわれる筋合いはありゃしない。つまり、だんなが薪のうしろに立っていたいと思し召すから、それで立っていらっしゃるのだ……別にどなたの顔よごしになるわけでもあるまい――そうじゃないか! そういうわけなんですよ、お嬢さん、もし、ご承知になりたかったらお話しいたしますがね。茅の屋根になんて、お嬢さん、今の世の中に、だれ一人そんなところに住む人なんかありゃしませんよ。そうですとも! 現代のごとき産業の世紀においては、不品行で成功しようなんて、そんなわけにゃいきませんよ、お嬢さん。ところが、あなたは今その恐るべき前例を作ろうとしていらっしゃる……ご注文によると、書記長の口でも手に入れて、どこかの海岸のあばら屋に住もうとおっしゃるのですか。第一、海岸に書記長の口なんかありゃしませんよ、お嬢さん。第二に、わたし達の手でその書記長の口を見つけることができるものですか。なぜなら、たとえばわたしが願書を提出して、自分でも役所へ出頭し、これこれしかじかで、書記長に採用していただきたい、そして、その……敵の迫害から守ってください……と申し出たところで、その返事は、なんですよ……書記長なんか現にいくらでもいるし、それに、ここは亡命フランス女の塾でもないから、といわれるに決まっていますよ、お嬢さん。あなたはファルバラのところで品行ということを習って、しかも、ご自分で恐るべき先例をつくっていらっしゃるじゃありませんか。品行方正ということはね、お嬢さん、家におとなしく坐っていて、父親を尊敬し、時期もこないうちから、お婿さんのことなど考えないこってすよ。お婿さんなんか、時期がくれば、自然に見つかるものです、そうですとも、お嬢さん! もちろん、いろいろな稽古ごとをしなくちゃならないのは、いうまでもありません。つまり、時にはピアノをひいたり、フランス語を話したり、歴史、地理、神学初歩、算術、――こんなものも知っていなけりゃならない!が、それより以上のことは必要ありません。ああ、それからお料理、品行方正な淑女のたしなみとしてのお料理は、ぜひとも心得ていなくちゃなりません! ところが、今はそれどころか! 第一に、お嬢さん、あなたは家を抜け出ることなんかできませんよ。よしんば抜け出ることができたにもせよ、すぐさま追っ手がかかって、あげくのはてに尼僧院へ押しこめられてしまいます。その時はいったいどうするつもりです、お嬢さん? わたしにどうしろとおっしゃるのです? 馬鹿げた小説の真似をして、近くの丘の上に昇って、あなたを閉じこめている冷たい壁を眺めながら、さめざめと泣き濡れたうえ、とどのつまり、ドイツあたりのけがらわしい詩人や小説家の例にならって、死んでしまえとでもおっしゃるんですか? いや、第一、遠慮のないところをいわしてもらうと、物事はそんなふうにやるものじゃありません。第二には、あなたばかりかあなたのご両親まで、あなたにフランスの本を読ましたというかどで、こっぴどく鞭でぶんなぐられますよ。なにしろ、フランスの本はろくなことを教えてくれやしません。その中には毒があります……人間を腐らす毒がありますよ、お嬢さん! それともあえておたずねしますが、あなたはこんなことを考えていらっしゃるのじゃありませんか、――これこれしかじかで、まんまと首尾よく二人で逃げおおせ、その……いわばどこかの海岸に茅の屋根を見つけて、鳩のように睦じいささやきを交しながら、さまざまな美しい感じを語り合い、幸福と満足の中に暮らしていく、とでも考えていらっしゃるんですか、やがてそのうちに、かわいい雛鳥が生まれて、わたし達はそこで……あなたのお父さんに向かって、五等官オルスーフィ・イヴァーノヴィチ、かようかようの次第で子供が生まれましたから、このおめでたい折に免じて勘当をゆるしていただきたい、二人を祝福していただきたい、と申しでる……いや、お嬢さん、もう一どいいますが、物事はそんなふうにいくものじゃありません。まず、第一に、鳩のような睦じいささやきなんてものはありゃしません、そんなことをあてにしないでくださいよ。今時の夫は主人であって、しつけのいい善良な妻なるものは、何事につけても、夫の気に入るように努めなければなりません。今の世の中では、現代のごとき産業の世紀においては、甘ったるい真似なんかありがたがらないのですよ、お嬢さん。いわば、ジャン・ジャック・ルソーの時代は過ぎ去ったのですからね。たとえば、夫がお腹をすかして役所から帰って来て、おい、お前、何かひと口やるものはないかね、ウォートカを一杯やって、あと口に鰊をつまむ、つていうわけにいかないかね、とこうくるんです。すると、お嬢さん、あなたはいつでもウォートカと鰊が出せるように、用意していなければなりませんぜ。夫は一人でうまそうに一杯やって、あなたのほうは見向きもしない。そして今度は、おい、お猫さん、台所へ行って食事の用意をしておくれ、といったようなわけで、接吻なんかもせいぜい週に一度ぐらい、それもあっさりしたやり方なんです……まあ、これが現代式なんですよ、お嬢さん! それもあっさりしたやり方、まったくですよ!………こういう話になったから、まともにちゃんと批判すれば、まずこういったあんばい式です、こういうふうに物事を見なくちゃならないのです……それに、わたしはいったいなんの関係があるのでしょう? なぜわたしをあなたの気まぐれのまき添えにしたのです、お嬢さん?「わがために苦しみ悩みたもう高潔なるきみ、わが心にいとしききみよ、云々」とおいでなすった。しかし、第一、わたしはあなたなんかには不向きの人間ですよ、お嬢さん。ご承知のとおり、お世辞を使うのは得手でないし、ご婦人向きの香水臭い話なんか嫌いだし、にやけ男なんか爪はじきするほうだし、それに、正直なところ、風采も大してあがらない、といったような始末です。わたしはうわべばかりのから自慢もしなければ、へんにはにかみもいたしません、今はすっかり正直にうち明けて申しあげるのです。こういうわけで、わたしは生一本な開けっぱなしの性分で、健全な判断を備えていますから、陰謀や策略をこととする人間ではありません。策士でないということ、これをわたしは誇りとしています、――そうなんですよ! わたしは仮面《めん》を被らないで、人中を濶歩しています。あえていっさいを申しあげるならば……』
 ふいにゴリャードキン氏はぎくっとした。すっかりずぶ濡れになった馭者の赤ひげが、またもや薪の向こうから彼をのぞきこんだのである……
「いますぐだよ、お前、もうすぐだ。ほんとにすぐなんだから」とゴリャードキン氏は、しょんぼりした震え声で答えた。
 馭者はうしろ頭をかいたと思うと、今度は顎ひげを撫で、それから一歩まえへ進み出た……と、立ちどまって、疑わしげにゴリャードキン氏を眺めた。
「いますぐだよ。おれはこのとおり……おれはちょっと……お前も見るとおり、ほんのちょっとの間ここで……その、なんだ……」
「もうお出かけにゃならないんですかね?」と馭者はついに決然と、断固たる態度でゴリャードキン氏に詰め寄りながらたずねた。
「いや、すぐ行くよ、お前。おれはね、ちょっと待ってるものだから……」
「へえ……」
「おれはね、その……ときに、お前はどこの村から出て来たんだい?」
「わっしらは主人持ちなんで……」
「どうだい、いい主人かね?………」
「まあ……」
「ねえ、お前ここでちょっと待っててくれないか。お前はその、なにかい、ペテルブルグにはもうながくいるのかい?」
「へえ、もう一年ばかりこの商売をやっとります……」
「うまくいくかね、お前?」
「へえ」
「そうか、そうなのか。お前、神様にお礼をいわなくちゃいけないぜ。そして、親切な人間をさがすんだ。当節は親切な人が少なくなったからな。親切な人は飲みくいをさせてくれたうえ、洗濯までしてくれるんだがなあ……ときによると、お前、金を唸るほど持っていながら、泣きの涙で暮らしてる人もある……そういう悲しいためしもよくあるもんだよ。そうなんだよ……」
 馭者はゴリャードキン氏が気の毒になってきたらしい。「それじゃ、よろしゅうがす、お待ちしましょう。でも、まだよっぽど待たなくちゃならないんで?」
「いや、お前、そんなことはないよ。おれはもう、その、なんだ……もう待たないことにするよ。お前はどう思う? おれはお前を頼りにしているんだが、もうここで待たないことにしようかな……」
「じゃ、もうお出かけにゃなりませんかね?」
「行かないよ、行かないことにするよ。お前にはちゃんとお礼をしてやるからね……本当だよ。いくらやったらいいんだね?」
「お約束しただけのものは奮発していただきたいもんで、だんな。ずいぶん長くお待ちしましたからね。人泣かせはなさらないでくださいましよ、だんな」
「さあ、これを取っておくれ、お前、これを取って」そういいながら、ゴリャードキン氏は、銀貨で六ルーブリ耳を揃えて馭者に渡した。そして、これ以上時間を無駄にすまい、事はもうきっぱり決まったのだし、馬車も返してしまったのだから、このうえ何も待っていることはない、さっさとひきあげようと真面目にはらを決め、庭を出て行った。門を出ると左へ曲って、それからはわき目もふらず、息を切らせながら、喜び勇んで駆け出した。『これで何もかも無事におさまるかもしれない』と彼は考えた。
『おれもおかげで、災難のがれをしたというもんだ』まったくのところ、ゴリャードキン氏は何か急に心の中がひどく軽軽として来た。『ああ、本当に万事がうまくおさまってくれたらなあ!』とわが主人公は自分で自分の考えを信じかねるように、こうひとりごちた。『それこそおれは、なんだ』と彼は考えた。『いや、いっそこんなふうにやろう、別のほうからやってみよう……それとも、こんなふうにやったほうがいいかな?………』こんなふうに迷ったり、自分の疑いを解く鍵をさがしたりしながら、わが主人公はセミョーノフスキイ橋まで走りついた。が、セミョーノフスキイ橋まで走りつくと、また分別をし直して、いよいよ引っ返すことに決めた。『そのほうがいい』と彼は考えた。『いっそ別のほうからやってみよう、つまり、こういうふうにやるんだ。ただ局外の傍観者になりすます、それで話はおしまいだ。わたしは傍観者でございます、第三者でございます。といってしまえば、それだけのものさ。それから先は何が起ころうと、おれの知ったことじゃない。そうだ、それにかぎる! これからこういうふうにやるんだ』
 後へ取って返そうとはらを決めると、わが主人公は本当に引っ返して行った。まして、ふとしたうまい思いつきで、これから自分は局外の人間になるんだと決心したために、なおさらそこに躊躇はなかった。『そのほうがいいんだ、なんの責任もないし、それに、必要なことを見ていられるし……これはうまい話だぞ!』実際この目算は安全このうえなしで、しかも万事かたがついてしまうのである。そこで、すっかり安心した彼は、またもや例の安全に身を守ってくれる薪の山のもの静かな陰にもぐりこみ、注意ぶかく窓を眺めにかかった。しかし、今度はあまり長く眺めることも待つこともなかった。突然、窓という窓に何か奇怪なざわめきが感じられ、人影がちらついて、カーテンがさっと引かれた。そして、オルスーフィ・イヴァーノヴィチ家の窓々に、大勢の人がひしめき始めた。一同は庭を見透して、何やらさがしているさまであった。わが主人公も、薪の山で身の安全を保証されているので、やはり同じように好奇の念をいだきながら、一同の騒ぎをじっと見守り、自分を隠してくれる薪の山の僅かな陰が許してくれる限り、熱心に首を左右へさし伸べ始めた。ふいに彼はぎょっとして身慄いし、恐ろしさにべったり尻餅をつかんばかりであった。一同がさがしているのはだれでもない、まさしくゴリャードキン自身にほかならぬのだ、と彼には感じられた、――いや、ひと口にいえば、彼はそれをはっきりと察してしまったのである。みんなが彼のほうを眺めているのだ、みんなが彼のほうを指さしているのだ。もう逃げ出すわけにはいかない、すぐに見つかってしまう……度胆を抜かれたゴリャードキン氏は、できるだけぴったり薪に身を寄せたが、その時はじめて気がついた――この陰というやつが不埒な裏切者で、彼の姿を完全には隠していなかったのである。もしできることなら、わが主人公は、薪の間にあいている鼠の通う隙間にでも潜りこみ、そこで喜んでじっとしていたに相違ない。けれど、それは頭からできない相談であった。彼は苦しさのあまりにとうとう思いきって、窓という窓を一時に堂々と見渡した。そのほうがいっそ気が楽だった……突然、彼は恥ずかしさのあまり、顔から火が出そうになった。いよいよすっかり見つかったのである。だれも彼もが一時に彼に気がついて、手招きしたり、うなずいて見せたり、名をよんだりし始めた。やがて、幾つかの通風窓ががたがたと開いて、幾人かの声がいっせいに何か叫び始めた……「どうしてああいう娘っ子どもを、子供の時分から折檻しないのだろう、あきれたものだ」とわが主人公はすっかりとほうにくれて、口の中でこんなことをつぶやいた。ふいに入口階段から彼が駆け下りた(だれであるかは、いわずとも知れている)。制服だけで、帽子もかぶらず、やっとのことでゴリャードキン氏を見つけた憎々しい喜びを、不埒千万にもつゆいささか隠す様子もなく、息を切らせながら、ちょこちょことした小刻みな、躍りあがるような足取りでやって来る。
「ヤーコフ・ペトローヴィチ」と、例のやくざ加減で知れ渡った男は、ぺちゃくちゃとさえずり始めた。「ヤーコフ・ペトローヴィチ、こんな所にいたんですか? 風邪をひきますよ。ここは寒いんだから、ヤーコフ・ペトローヴィチ、さあ、内へお入りなさい」
「ヤーコフ・ペトローヴィチ! なに、ぼくはいいんです、ヤーコフ・ペトローヴィチ」とわが主人公は、従順な声でつぶやいた。
「いや、いけません、ヤーコフ・ペトローヴィチ、皆さんが頼んでいらっしゃるのです、折り入って頼んでいらっしゃるのです、お待ちかねなんですからね。『どうか、お願いだから、ヤーコフ・ペトローヴィチをこちらへご案内して来てください』とこういうわけでしてね」
「いや、ヤーコフ・ペトローヴィチ、ぼくは、その、ぼくはいっそこうしますよ……いっそ家へ帰りますよ、ヤーコフ・ペトローヴィチ……」と、わが主人公は恥ずかしさと恐ろしさに、同時にとろ火で焼かれ氷で凍えさせられるような思いをしながらつぶやいた。
「と、とんでもない!」といまわしい男はさえずり出した。「と、と、とんでもない、金輪際だめですよ! さあ、行きましょう!」と彼はきっぱりいい切って、旧ゴリャードキン氏を入口階段のほうへ引っぱって行った。旧ゴリャードキン氏は、行こうという気はまったくなかったけれども、皆が見ている前で手向かいしたり、強情はったりするのは馬鹿馬鹿しく思われたので、わが主人公は歩き出した、――もっとも、歩き出したとはいわれなかった。なぜなら、彼は自分ながら自分がどうなっているのやら、とんと見当がつかなかったからである。ええ、どうともなれ、かまうものか、どうせ同じことだ!
 わが主人公がようやくわれに返って気を取り直す暇もなく、彼はもう広間に入っていた。その顔はあおざめて、髪はぼうぼうに乱れ、服も方々裂けていた。どんよりした目で、彼は人々を見やった、――すると、なんという恐ろしいことだ! 広間もその両脇の部屋も、どこもかしこも、人がぎっしりつまっているではないか。その数は読みきれないくらいで、婦人たちは温室に咲き乱れた花のよう。だれも彼もが、ゴリャードキン氏のまわりにひしめいていた。だれも彼もが、ゴリャードキン氏のほうへ近寄ろうと先を争っていた。だれも彼もが、ゴリャードキン氏をかつぎあげないばかりであった。彼は、自分がどこかへ押しつめられていくのを、まざまざと見て取った。『まさか出口のほうへ突き出すのではあるまい』という考えがゴリャードキン氏の頭をかすめた。いかにも彼は出口のほうと違って、オルスーフィ・イヴァーノヴィチの坐っている肘掛けいすのほうへ押されて行くのであった。その肘掛けいすの片側には、クララ・オルスーフィエヴナが、あおざめた悲しそうな顔をしてものうげに立っていたが、しかしその装いはけばけばしかった。とりわけ、ゴリャードキン氏の目に映ったのは、その黒髪に挿した小さな白い花で、これが素晴らしい効果をあげている。肘掛けいすの反対側には、黒い燕尾服のボタン穴に新しい勲章の略綬をつけた、ヴラジーミル・セミョーノヴィチがひかえていた。ゴリャードキン氏は左右の手をとられて、前にも述べたとおり、真っ直ぐにオルスーフィ・イヴァーノヴィチのほうへ連れて行かれた。片方の手をとっているのは新ゴリャードキン氏であったが、いかにも品位のある殊勝らしい様子をしているので、わが主人公は、言葉につくされないほど嬉しく思った。いま一方の手をとっているのは、ひどくものものしい顔つきをしたアンドレイ・フィリッポヴィチであった。
『これはいったいどうしたのだろう?』とゴリャードキン氏は考えた。やがて、オルスーフィ・イヴァーノヴィチの傍へ引かれて行くのだと悟った時、彼は突如、稲妻にでも照らされたような思いがした。例の横取りされた手紙のことが彼の頭にひらめいた。底知れぬ苦しみの中にわが主人公は、オルスーフィ・イヴァーノヴィチの肘掛けいすの前に立った。『これからどうなるんだろう?』と彼は腹の中で考えた。『もちろん、思いきって大胆にやるんだ、つまり、ざっくばらんに、しかも品位を失わないようにやるんだ。かようかようしかじかとうち明けてしまうんだ』
 しかし、わが主人公が恐れていたらしいことはいっこうに起こらなかった。オルスーフィ・イヴァーノヴィチは、一見したところ、非常に優しくゴリャードキン氏を迎えた。手こそ差し伸べなかったけれども、彼を見つめながら、相手に尊敬の念をいだかせるような白髪の頭を振った。――ものものしげな悲しみを帯びた、同時に好意のこもった様子で頭を振ったのである。少なくとも、ゴリャードキン氏にはそう思われた。それどころか、オルスーフィ・イヴァーノヴィチのどんよりとした目に、涙さえ一滴、光ったような気がした。彼は目をあげた。すると、そこに立っていたクララ・オルスーフィエヴナのまつ毛にも、涙がきらりと光ったようだし、ヴラジーミル・セミョーノヴィチの目にも、何かしら似たようなものが感じられた。最後に、アンドレイ・フィリッポヴィチの、何ものにも犯されない落ちつき払った威厳でさえも。一同の涙ぐましい同情に参与している形であり、またえらい顧問官にほうふつとしていたいつかの青年などは、もうこの機を利用してしゃくり上げながら泣いていた……あるいは、それはすべて、ゴリャードキン氏にそう思われただけかもしれない。なぜなら、彼自身もすっかり涙ぐんでしまい、熱い涙が冷たい頬を伝って流れるのを、まざまざと感じたからである……今やわが主人公は、人間と運命に対して和解した気持ちになり、オルスーフィ・イヴァーノヴィチを初めとして、そこに居合わすすべての客達に深い愛情を感じたばかりでなく、有害邪悪な双生児すらも愛することができたほどである。この男も今では、ゴリャードキン氏にとって有害邪悪な人間でもなければ、双生児でさえもなく、なんの関係もない局外漢で、きわめて愛想のいい人間でさえあるように思われた。わが主人公は、慟哭にとぎれ勝ちな声で、オルスーフィ・イヴァーノヴィチに向かって、感動の溢れる心の中を吐露しようとしたが、いろいろな思いが積もり積もったために、一ことも口をきくことができず、ただきわめて雄弁な身振りをもって、無言のまま自分の心臓を指さしたばかりである……とうとう、アンドレイ・フィリッポヴィチは、白髪の老人の感受性をいたわろうと思ったらしく、ゴリャードキン氏を少し脇のほうへ引っ張って行った。が、それでもぜんぜん自由な態度をとるにまかせておく、というようなふうであった。わが主人公はにやにや笑い、何やら口の中でつぶやきながら、いささか合点のゆかないふうではあったが、いずれにしても人間と運命に和解しきった様子で、人垣を押し分けながら、どこへやら進んで行った。一同は彼のために道を開けた。しかし、だれも彼もがなんとなく奇妙な好奇心を浮かべ、なんとも説明の仕様のない謎めいた同情を示しながら、彼を眺めていた。わが主人公は次の間に入った。どこへ行っても、同様に注意の的であった。一群の人が自分の後からひしめき合いながらついて来るのを、彼はおぼろげながら感じた。人々は、彼の一歩一歩に目を注ぎ、お互い同士に小さな声で、何か面白そうな問題を論じ合い、首を振り、噂をし、評定をし、ひそひそささやいていた。ゴリャードキン氏は、何をみんながそんなに評定したり、ひそひそいったりしているのか、知りたくってたまらなかった。あたりを見まわすと、すぐ傍に新ゴリャードキン氏がいるのに心づいた。彼の手をとって、脇のほうへ連れて行かなければならない内部の要求を感じて、ゴリャードキン氏は、第二のヤーコフ・ペトローヴィチに、これからさきことを始める場合には、ぜひ力を貸してほしい、そして危急の場合には自分を見すてないようにと、しきりに折り入って頼み始めた。新ゴリャードキン氏は鹿爪らしくうなずいて、旧ゴリャードキン氏の手をしっかりと握りしめた。わが主人公は感情の溢るるままに、心臓が激しく鼓動した。とはいえ、彼は息がつまりそうであった。なんだかむやみにぎゅうぎゅう締めつけられるような気がした。こちらへ向けられている一同の視線が、なんだか自分を圧迫するような感じである………ゴリャードキン氏は、ふと通りすがりに、例の鬘をかぶった顧問官をみとめた。顧問官は厳しい、試験するような目つきで彼を眺めた、ゴリャードキン氏に対する一同の同情に、いささかも心をやわらげられない様子であった……わが主人公は真っ直ぐにそのほうに近づいて笑いかけ、さっそく胸襟を開いて語り合おうと決心したが、それはどうしたものか、うまくゆかなかった。ゴリャードキン氏はちょっと一瞬間、ほとんど前後を忘れて気を失ったのである……ふとわれに返った時、大きな輪を作って自分を取り巻いている客達の間でうろうろしている自分に気がついた。突然、次の間からゴリャードキン氏を呼ぶ声がした。その叫びはたちまち人々の口から口へ伝わった。あたりは騒然と波立って来た。一同は第一の広間の戸口を目がけて、どっと押し寄せた。わが主人公は、ほとんど人々の手にのせて運ばれないばかりであった。その時、例の石のような心を持った鬘の顧問官は、ゴリャードキン氏のすぐ傍についていた。ついに彼はゴリャードキン氏の手をとって自分の傍へ坐らせた。そこはオルスーフィ・イヴァーノヴィチの肘掛けいすの真向かいであったが、しかしかなり間を隔てていた。そこに居合わせたすべての人は、ゴリャードキン氏とオルスーフィ・イヴァーノヴィチを囲んで、幾つかの列を作って腰を下ろした。あたりはひっそりと静かになった。一同は荘重な沈黙を守っていた。だれも彼もが明らかに、異常なことを待ち設けている様子で、オルスーフィ・イヴァーノヴィチを見つめていた。オルスーフィ・イヴァーノヴィチの肘掛けいすの傍に、やはり例の顧問官と向き合って、第二のゴリャードキン氏と、アンドレイ・フィリッポヴィチが席を占めたのに、わが主人公は気がついた。沈黙はいつまでもつづいた。まさしく一同はなにやら待っているのだ。『まるでどこかの家庭で、誰かが遠い旅に出る時みたいだ。もうこれから後は立ちあがってお祈りをするばかりだ』とわが主人公は考えた。
 突然、異常なざわめきが起こって、ゴリャードキン氏の瞑想を破った。何か久しく待ちもうけられていたことが現われたのである。『見えましたよ、見えましたよ!』という声が、群衆を伝わって走った。『だれが来たんだろう?』という考えがゴリャードキン氏の頭をかすめた。と、何か異様な感覚に、彼は思わず身慄いした。「もういいでしょう!」と顧問官は注意ぶかく、アンドレイ・フィリッポヴィチを眺めて、そういった。すると、アンドレイ・フィリッポヴィチは、オルスーフィ・イヴァーノヴィチを見やった。オルスーフィ・イヴァーノヴィチはものものしく荘重に一つうなずいた。「さあ、立ちましょう」と顧問官はゴリャードキン氏を引き立てながら口を切った。一同は立ちあがった。その時、顧問官は旧ゴリャードキン氏の手をとり、アンドレイ・フィリッポヴィチは新ゴリャードキン氏の手をとった。こうして、両人は何から何まですっかり同じ二人の人間を導いて、周囲を取り囲み期待の視線を注いでいる群衆の中を進んで行った。わが主人公はけげんそうにあたりを見まわしたが、付添いの人はすぐにそれをおしとどめて、新ゴリャードキン氏を指さした。新ゴリャードキン氏は、彼に手を差し伸べた。『これはわれわれ二人を仲直りさせようというんだな』とわが主人公は考えて、感激の念をいだきながら、新ゴリャードキン氏に手を差し伸べた。それから、首を突き出した。第二のゴリャードキン氏も同じようにした……その時、旧ゴリャードキン氏は、背信の友がにやにや笑いながら、二人を囲んでいる群衆にちらと悪ごすそうな目配せをしたように思われた。不届き千万な新ゴリャードキン氏の顔には、何か不吉な影が浮かんでいた、それどころか、ユダの接吻をする瞬間に、妙なしかめ面さえしたらしかった………ゴリャードキン氏は、頭ががんがん鳴って、目の中が暗くなった。数限りない、ぜんぜん同じゴリャードキン氏が長い列を作って、騒々しく、部屋中の戸から乱入して来るような思いがしたが、もう遅かった……ユダの接吻が高らかに鳴り渡った、そして……
 その時、まったく思いがけないことが起こった……広間の扉が騒々しく開かれて、一人の男が閾の上に姿を現わした。ゴリャードキン氏は一目見るなり、全身氷のようになった。足はまるでその場に生えついたように動かなかった。声を立てようとしても、胸がつまって外へ出なかった。とはいえ、ゴリャードキン氏はあらかじめ何もかも知っていた。もはやずっと前から、何かこんなことがあるだろうと予感していたのだ。新来の人はものものしく荘重な態度で、ゴリャードキン氏に近づいてきた………ゴリャードキン氏はこの人物をよく知っていた。彼はこの男を見たことがある。むしろしばしば見るくらいで、つい今日も見たばかりである……新来の人は背の高い、肉づきのいい体格をして、黒の燕尾服を着こみ、頸にはものものしく勲章を下げ、真っ黒な濃い頬ひげを生やしていた。この上はただ口に葉巻さえくわえていれば、もう寸分のまぎれもないのだ……ただ前にもいったとおり、新来の人の視線はゴリャードキン氏をぞっとさせ、全身を氷のようにしてしまったのである。この恐ろしい人物は、ものものしい荘重な顔つきをして、この物語の哀れな主人公に近づいた……わが主人公は彼に手を差し伸べた。新来の人はその手をとって、ぐんぐん引っ張り出した……とほうにくれた打ちのめされたような顔つきで、わが主人公はあたりを見まわした……
「これはね、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ・ルーテンシュピッツですよ。きみの古馴染の内外科両刀のお医者さんですよ、ヤーコフ・ペトローヴィチ!」とだれかのいやらしい声が、ゴリャードキン氏の耳のすぐ傍でしゃべり出した。振り返って見ると、それは下劣な性質をもって聞こえた、見るもいまわしいゴリャードキン氏の双生児であった。その顔にはあさましい、毒々しい喜びが輝いていた。彼は有頂天になってもみ手をし、有頂天になってくびをあちらこちらに向け、有頂天になってみんなの周囲をちょこちょこ飛びまわっていた。その様子は、歓喜のあまり今にも躍り出しかねないふうであった。とどのつまり、彼は前へ飛び出して、一人の従僕からろうそくを引ったくると、先頭に立って、ゴリャードキン氏とクレスチヤン・イヴァーノヴィチのために道を照らすのであった。ゴリャードキン氏は、広間に居合わしたすべての人が彼の後から飛び出したのを、はっきりと自分の耳で聞いた。一同は互いに押し合いへし合いしてひしめきながら、声を合わしてゴリャードキン氏のうしろから、『こんなことはなんでもありませんよ、心配することはありませんよ、ヤーコフ・ペトローヴィチ、だって、これはあなたの古い友人であり、知人であるクレスチヤン・イヴァーノヴィチ・ルーテンシュピッツじゃありませんか……』と、繰り返すのであった。やがて、煌々と灯火に照らし出された正面階段に出た。階段の上もやはり黒山の人であった。外の出入口が騒々しく開いたと思うと、ゴリャードキン氏は、クレスチヤン・イヴァーノヴィチといっしょに、入口階段に立っていた。車寄せには四頭の黒馬をつけた箱馬車が待っていた。馬はもどかしげに鼻息を立てている。新ゴリャードキン氏は、意地悪げな悦びを浮かべながら、三足ばかりで階段を駆け下り、自分で馬車の扉を開けた。クレスチヤン・イヴァーノヴィチはさとすような身振りで、ゴリャードキン氏に乗れという意を示した。もっとも、さとすような身振りは、まるで必要がなかったのである。彼をかつぎ乗せるには人手にことを欠かなかった……恐ろしさになかば失神しながら、ゴリャードキン氏はうしろを振り返った。煌々と照らし出された階段は、一面に人が鈴なりになっていた。好奇心に輝く目が、四方八方から彼を眺めていた。オルスーフィ・イヴァーノヴィチは、階段の一番上の踊場に、例の肘掛けいすを据えて納まっていた。そして、心からの同情を浮かべながら、注意ぶかくその場の様子を眺めていた。一同は待ちかねていた。ゴリャードキン氏がうしろを振り返った時、じれったそうな不満のつぶやきが群衆の間を走った。
「わたしはここではなにも……なにも人から非難されるようなこともしなければ……役所のほうの仕事についても厳重な処分を受けたり……わたしの公けの面に関して皆さんの注意を喚起したりするようなことは……なにもなかったように思いますが?」とわが主人公はとほうにくれてこう口走った。周囲にがやがやと話し声が起こった。一同は打ち消すように頭を振った。ゴリャードキン氏の目からは涙がさっとほとばしった。
「そういうことならわたしは……すっかりおまかせします……自分の運命をクレスチヤン・イヴァーノヴィチにゆだねます……」
 ゴリャードキン氏が、自分の運命をすっかりクレスチヤン・イヴァーノヴィチにゆだねるといい切るやいなや、耳を聾するばかりの歓呼の叫びが、彼を囲む人々の口から発せられ、不吉な反響となって、そこに待ち受けている群衆を伝って走った。その時、一方からはクレスチヤン・イヴァーノヴィチ、一方からはアンドレイ・フィリッポヴィチが、ゴリャードキン氏の腕をとって馬車に乗せ始めた、彼の分身は、いつもの下劣な癖で、うしろから手を貸した。不幸な旧ゴリャードキン氏は、最後の一瞥を人々といっさいのものに投げると、――もしこんな比喩が許されるなら、――冷たい水を浴びせられた小猫のように震えながら、馬車に乗った。それにつづいて、クレスチヤン・イヴァーノヴィチもさっそく乗りこんだ。馬車の扉がぱたんと閉った。馬の背に鞭の当たる音がしたと思うと、馬はぐんと車を曳き出した……一同はゴリャードキン氏の後から駆け出した。敵どもの甲高い獰猛な叫び声が、さながらはなむけの言葉のように彼の後を追って来た。それからなおしばらくの間、ゴリャードキン氏を運び去る馬車のまわりに、幾人かの顔がちらちら見えていた。けれども、だんだんと一人減り二人減りして、やがてすっかり見えなくなった。一番あとまでついて来たのは、かの不埒千万な双生児であった。緑色の制服のズボンのポケットに両手を突っこんで、さも満足げな顔つきをしながら、馬車の両側に交る交る姿を現わしては、跳ねあがるような足取りで走っていた。時おり、窓の縁に手をかけてぶらさがりながら、ぬっと首を突っこんで、別れの合図にゴリャードキン氏に投げキスを送った。しかし、だんだん疲れたと見えて、顔を見せることがしだいに少なくなり、ついにはまったく姿を消してしまった。ゴリャードキン氏の心臓は、しくしくとうずいて来た。血が熱い流れとなって頭へ昇って来た。彼は息苦しかった。ボタンを外して胸をむき出し、雪をかけるか冷たい水を浴せるかしたかった。とどのつまり、彼は前後不覚におちいった……ふとわれに返った時、馬車はどこか見馴れぬ道筋を走っていた。右にも左にも森が黒々とつづいている。あたりはひっそりとして、空虚な感じであった。ふいに彼は気が遠くなって来た。火のような二つの目が暗闇の中から彼を見つめていた。その二つの目は不吉な、地獄めいた喜びに輝いているのであった。
『これはクレスチヤン・イヴァーノヴィチじゃない! いったいだれだろう! それともあいつかしらん? そうだ、あいつだ! これはクレスチヤン・イヴァーノヴィチだ、ただ以前のと違った別のクレスチヤン・イヴァーノヴィチだ!これは恐ろしいクレスチヤン・イヴァーノヴィチだ!………』
「クレスチヤン・イヴァーノヴィチ、わたしは……わたしはなんでもないはずなんですが、クレスチヤン・イヴァーノヴィチ」とわが主人公は従順と謙抑の態度で、この恐ろしいクレスチヤン・イヴァーノヴィチの心をいくらかでもやわらげたいと思って、おずおずと震えながらいいかけた。
「きみはこれから薪も、灯も、召使も、ちゃんとついている官舎をもらうんだ、そんな値打はないんだがね」クレスチヤン・イヴァーノヴィチの答えはあたかも宣告のごとく、厳かに恐ろしく響いた。
 わが主人公はあっと叫んで、両手で頭をかかえた。ああ! 彼はすでに前からこれを予感していたのである!


底本:「ドストエーフスキー全集 1」河出書房新社
   1969(昭和44)年10月30日初版
入力:いとうおちゃ
校正:
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