『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『賭博者』(ドストエフスキー作、米川正夫訳)P421-467(一回目の校正完了)

あるのだ、あることでおれたちをだましたのだ、お祖母さんのやり方は不正直だ、卑劣だ、と叫んだものである。かわいそうなポタープィチは、その晩すぐ大負けのあとで、涙ながらこれだけのことを、すっかりわたしに話して聞かせた。
「あのふたりの衆は、お金を自分たちのポケットへ詰め込んだもので、現にわたくしはこの目で見ましたが、あいつらは恥も外聞もなくお金を盗んでは、のべつポケットヘ突っ込んでいるのでございます」とポタープィチは訴えた。
 たとえば、お祖母さんにフリードリッヒ・ドルを五枚ねだると、さっそく、お祖母さんの賭けている隣りへ賭けた。お祖母さんが勝つと、これはわたしのほうが勝ったので、あなたのは負けですよ、とわめく。このふたりが追っ払われた時、ポタープィチは進み出て、あいつらのポケットは金貨で一杯です、と告訴した。お祖母さんはすぐ監督に、しるかべき処置をとってほしいと頼んだ。ふたりのポーランド人どもがどんなに叫んでも(ちょうど捕まえられた二羽の雄鶏のように)、たちまち警官が現われて、彼らのポケットは空にされ、金はお祖母さんに渡された。お祖母さんは負けてしまわない間は、監督たちやこの駅の当局に対して、明らかにオーソリティを持っていたのである。しだいしだいに彼女の噂は町じゅうへ広がっていった。この温泉場へ集まったものは、国籍と貴賤を問わず、もう数百万をすってしまった 〔“un evieille comtesse russe, tombe'e en enfance”〕 (子供に返ったロシヤの老伯爵夫人)を見に集まって来た。
 しかし、お祖母さんはふたりのポーランド人を追っ払ってもらっても、大したとくにはならなかった。すぐさま彼らの代りに第三のポーランド人が現われた。これはりっぱにロシヤ語を話し、身なりも紳士ぜんとしていたが、それでもやはり下男くさいところがあった。そのうえ、大きな口ひげを生やしていて、いかにも自負心が強そうだった。この男もやはり「ストップキ・パーニスキェ(貴婦人の足)」に接吻し、「シチェーリウ・シェン・ポト・ストップキ・パーニスキェ(貴婦・人の足もとに平伏した)」ものの、周囲のものにたいしては高慢な態度をとり、専制君主のように指図した、――ひと口にいえば、一挙にしてお祖母さんの下男でなく、ご主人のような立場を占めてしまったのである。彼は一度賭けるごとに、わたし自身も由緒ある貴族《パン》であるから、あなたの金は一コペイカも貰いませんと、のべつお祖母さんに向かって誓った。しかも、それが世にも恐ろしい誓いなので、お祖母さんはすっかりおじけづいてしまったほどである。しかし、この貴族も初めのうちは、なるほど、勝負を回復しかけたので、お祖母さんはもう自分のほうから離れられなくなってしまった。一時間もたったころには、停車場からつまみ出されたふたりのポーランド人が、またもやお祖母さんのいすのうしろに現われて、たとえ走り使いでもいいからご用をつとめます、と申し出た。ポタープィチの誓うところによると、由緒ある貴族《パン》は時々このふたりと目くばせしたのみか、何か手渡しさえしていたとのことである。お祖母さんは食事もせず、安楽いすから下りもしなかったところから、じっさい、ひとりのポーランド人が役に立った。すぐ隣りにある食堂へ走って行って、肉湯《ブイヨン》を一杯と、それから後で、お茶を持って来たのである。もっとも、ひとりだけでなく、ふたりともかけだしたのであったけれども。しかし、その日も終るころ、お祖母さんが最後の有価証券をはたき上げるのが、だれの目にも明瞭になった時分には、以前見たことも聞いたこともないポーランド人どもが、もう六人もお祖母さんのいすのうしろに立っていた。彼女がなけなしの金貨幾枚かをすっかりすってしまいそうになった時、彼らはもういうことをきかなくなったのみか、お祖母さんを無視して、その肩越しに台のほうへ手をのばし、由緒ある貴族《パン》とざっくばらんな口をきき合いながら、勝手に方針を決めては賭けるようになった。そして、争論したり、どなったりするのであった。由緒ある貴族《パン》に至っては、ほとんどお祖母さんの存在を忘れていた。すってんてんに負けたお祖母さんが、晩の八時にホテルへ帰る途中でさえ、三四人のポーランド人はまだお祖母さんを見放すのが惜しくて、その安楽いすの両側について走りながら、あなたはあることでわたしたちをだましたんだから、いくらいくら払わなくちゃならないと、声をかぎりにわめき、それがうそでないことを早口に力説した。こうしてホテルまで来たが、とうとうここで彼らは襟髪をとって追っ払われてしまった。
 ポタープィチの計算によると、お祖母さんは前日負けた分を別にして、この日は総額、九万ルーブリすってしまったのである。持って来た有価証券は、――五分利付内国公債も株券も、残らず一枚ずつ割引していった。わたしは、よくまあお祖母さんがこの七八時間を、安楽いすにすわったまま、ほとんど台から離れずに辛抱ができたものだとびっくりした。しかし、ポタープィチの話によると、お祖母さんは三度ばかりかなり大きく勝ったので、またぞろよもやに引かされて、もう離れることができなかったのである。もっとも、博奕打ちならだれでも知っていることだが、人はほとんど一昼夜もカルタを闘わしながら、右に左に目を配って、一つところにすわりとおしていられるものである。
 ところが、この日いちんち、ホテルでもすこぶる重大なできごとが持ちあがったのである。午前十一時前、まだお祖母さんがホテルにいたころ、われわれの仲間、というのは、将軍とド・グリエが、最後の手段を決行しようとした。お祖母さんが出発のことを考えてもいないどころか、またルレット場へ出かけようとしているのを聞いて、彼らは全員会議を開いて(ただし、ポリーナを除く)、いよいよ最後的な、むしろ歯に衣着せぬ[#「歯に衣着せぬ」に傍点]談判をしようと、お祖母さんの部屋へ押しかけて行った。自分にとって恐るべき結果を目前に控えて、戦戦恐々と胸をしびらせていた将軍は、少し薬をきかせすぎた。三十分ばかり祈ったり、哀願したりしたあげく、何もかも、というのは、ありったけの借金のことのみか、マドモアゼル・ブランシュに対する自分の恋慕のことさえ、ざっくばらんにうち明けた後(彼はすっかりまごついていたのである)、将軍はふいに威嚇的な調子になって、お祖母さんをどなりつけたり、じだんだを踏んだりし始めた。あなたは家門に泥を塗った、この町じゅうにスキャンダルをふりまいた、それどころか……それどころか「あなたはロシヤの名誉に泥を塗ったんですぞ! それを阻止するには警察というものがありますからね!」と将軍はどなった。お祖母さんはとうとう彼を杖で(ほんとうの杖で)追っ払ってしまった。
 将軍とド・グリエは午前中にもう一二度相談をしなおした。彼らにとって最も重大な関心事は、ほかでもない、ほんとうになんとかして警察を利用することはできないだろうか? ということであった。つまり、身分ある不幸な老婆がもうろくして、最後の金を博奕につぎ込んでいるから、云々というので、要するに、なんとか運動して、警察に監視なり禁止なりしてもらう法はあるまいか? ……将軍がこういうと、ド・グリエはひょいと肩をすくめた。そして、もう夢中になってしゃべり立てながら、部屋の中をあちこちかけまわっている将軍を、面とむかって嘲笑したものである。とうとう、ド・グリエは片手を一つ振って、どこかへ姿を隠してしまった。晩になってから、彼はあらかじめブランシュ嬢と秘密のうちに、きっぱり話合いをつけた後、ホテルを引き払ってしまったことがわかった。
 ブランシュ嬢はどうかというと、彼女は朝から思い切った方策を講じていた。もう完全に将軍に後足で砂をかけて、目通りへさえ寄せつけなかったのである。将軍があとを追って停車場へかけつけて見ると、小柄な公爵と腕を組んで歩いているブランシュ嬢に出くわしたが、彼女も老コマンジュ夫人も気がつかないふりをした。公爵も同様、彼に会釈しなかった。この日いちんち、ブランシュ嬢は公爵にいよいよ告白をさせようとして、いろいろあの手この手を使いながら、工作に余念なかった。しかし、悲しいかな! 彼女は公爵に対する目算では、手ひどい思惑ちがいをしていたのである! この小さなカタストロフは、もう晩になってから起ったのだ。思いがけなくも、この公爵は鷹のように裸一貫で、かえって自分のほうが女から手形と引替えに金を借りて、ルレットで勝負を争おうと当て込んでいたのだ、という真相が暴露された。ブランシュ嬢は憤然として彼を追い出し、自分の部屋に閉じこもってしまった。
 その朝、わたしはミスター・アストレイのところへ行った。というより、午前中ミスター・アストレイをさがしまわったが、どうしても見つけ出すことができなかった。宿にも、停車場にも、公園にも、姿が見えない。今日は自分のホテルで食事をしなかったのである。四時すぎに、ふとわたしは駅のプラットフォームから、まっすぐにホテル・ダングルテルをさして歩いて来るミスター・アストレイを認めた。彼は急いでいる様子で、ひどく心がかりらしいふうであった。とはいえ、その顔には別に心配の色も、困惑の表情も見分けられなかった。彼はいつもの『ああ』という叫びとともに、愛想よくわたしに手を差し伸べたが、路上に立ちどまりもせず、かなりせかせかした足どりで歩きつづけるのであった。わたしはその後からからんで行ったが、どうしたのか彼の応対の仕方がうまいので、わたしは何一つたずねる隙が見当らなかった。のみならず、わたしはなぜかポリーナのことを持ち出すのが、おそろしく気がさして仕様がなかった。また彼のほうでも、ポリーナのことはひと言も問いかけなかった。わたしは彼にお祖母さんのことをはなして聞かせた。すると、相手は注意ぶかくまじめに聞き終って、ひょいと肩をすくめた。
「お祖母さんは根こそぎ取られてしまいますよ」と、わたしはいった。
「おお、そうですとも」と、彼は答えた。「あのひとは、ぼくの立って行くとき出かけるとこだったから、すっかり負けてしまうのはよくわかっていましたよ。もし暇があったら、ちょっと停車場へ行って見ましょう、何しろ面白いですからね」
「どこへ行って来たんです?」今までこれをきかなかったのにわれながらびっくりして、わたしは思わず叫び声を上げた。
「わたしはフランクフルトへ行って来たのです」
「用事で?」
「ええ、用事で」
 さあ、それ以上なにをきくことがあろう? それでも、わたしはなおも彼と並んで歩きつづけたが、とつぜん、彼はその道筋に当るホテル『四季館《デ・カトル・セゾン》』のほうへくるりと向きを変え、わたしに一つうなずいてみせたと思うと、姿を消してしまった。それから、宿へ帰るみちみち、わたしもしだいに得心がいった、――たとえ二時間もあの男と話してみたところで、てんで何一つ探り出すことができなかったに相違ない、なぜなら……なぜなら、何もきくことがないからである! そうとも、もちろんのことだ! わたしはどうしたって、自分の問いにちゃんとした形式を与えることができそうもないのだ。
 この日いちんち、ポリーナは子供らや保母といっしょに公園を散歩したり、部屋にこもっていたりした。彼女は将軍をとうの昔から避けるようにして、彼を相手にはほとんど何ひとつ話をしなかった。少なくとも、話らしい話はしなかった。わたしは前からそれに気がついていた。しかし、将軍がどういうはめに落ちているかを承知しているので、わたしはこんなことを考えた。――将軍も、結局、ポリーナの助けをかりずには済まされまい。というのは、ふたりの間になにか重大な家庭的な話合いがなくては、納まりそうもないからである。にもかかわらず、わたしがミスター・アストレイと言葉を交えてホテルへ帰る途中、子供づれのポリーナに出くわしたが、彼女の顔にはこの上もないなごやかな落ちつきが浮かんでいた。まるでああした家庭内の狂乱怒濤も、彼女ひとりだけをよけて素通りしたかのよう。わたしが会釈すると、彼女はちょっと一つうなずいた。わたしはもうぷんぷんして宿へ帰った。
 いうまでもなく、わたしは彼女との会話を避けるようにして、ヴルメルヘルムの一件以来、一度もそばへ寄らなかった。それにはいくぶん、わたしのからいばりや、やせがまんも手伝っていた。けれども、時がたつに従って、わたしは憤懣の念に腹の中が煮え返るようであった。彼女はたとえわたしを愛していないにもせよ、しかしこれほどまでわたしの感情を踏みつけにし、わたしの告白に対してこれほどまで冷淡な態度をとる法はないはずである。わたしが真剣に彼女を愛して
いるということは彼女だって知っているのではないか。わたしにあんなふうにしむけて、あんなことをしゃべらせるようにしたのは、彼女自身ではないか! なるほど、そういうふうになったそもそものいきさつは、なんだか妙なものであった。いつごろからか、もうだいぶ以前、二三か月前から気がついていたのだが、彼女はわたしを自分の腹心の友にしようという思惑があったのみならず、むしろ、実地にそれを試験してさえいたほどである。ところが、なぜかふたりの間ではそれがうまくいかなくって、その代りに、現に今のような奇妙な関係ができあがってしまった。つまり、それがために、わたしは彼女にあんなことをいうようになったのだ。それにしたって、もしわたしの恋がいとわしく思われるのなら、そんな口のきき方をしてくれるなと、どうしてまっ正面から差し止めないのだろう?
 ところが、差し止めようとしないどころか、時によると、自分のほうからそういう話をするように誘いかける……が、もちろん、それは人を笑いぐさにするためなのだ。わたしはたしかに知っている、はっきりと見届けたのだ、――彼女はわたしの言葉を聞き終って、痛いほどわたしの心をいらだたせたあとで、だしぬけに思いがけないとっぴなことをいったりして、わたしをまごつかせるような極度の侮蔑と無関心を示すのが愉快なのだ。しかも、彼女なしにわたしが生きてゆけないのは、ご当人ちゃんと知り抜いているのだ。現に、あの男爵との一件から三日しかたたないのに、わたしはもうふたりの別離に堪えがたい思いなのである。今も停車場付近で彼女に出会った時、わたしは急に胸がどきどきして、顔の色が変ったくらいである。しかし、彼女のほうでも、わたしなしには生きてゆかれないはずだ! わたしは彼女に必要なのだから、――しかし、しかし、単に軽口たたきの道化としての用しかないのだろうか?
 彼女には秘密がある、――それはわかりきっている! 彼女とお祖母さんとの話は、手痛くわたしの胸をさした。何しろ、わたしは百千たびも彼女にむかって、どうか腹蔵なしにうち明けてほしいと迫ったものだし、また彼女のほうでも、わたしが真実彼女のためなら命も投げ出す覚悟でいるということは、知り抜いているのだ。それなのに、彼女はいつもほとんど軽侮といってもいいほどの態度で、いいかげんにあしらってしまうか、さもなければ、わたしの捧げる命がけの犠牲を受けないで、あの時の男爵一件のようなとっ拍子もないことを要求するのだ! これが憤慨せずにいられようか? いったい彼女にとっては、全世界があのフランスっぽひとりに凝集されているのだろうか? それに、ミスター・アストレイは何なのだろう? しかし、ここまで考えてくると、もう事情はなにがなにやらわからなくなってしまう、――がそれにしても、ああ、私はなんと苦しんだことだろう!
 自分の部屋へ帰ると、わたしは狂憤の発作にまかせて、ペンを取り上げ、次のような手紙を走り書きした。
『ポリーナ・アレクサンドロヴナ、いよいよ大団円が迫ってきたのが、わたしの目には明瞭に見えます、それはもちろん、あなたにも触れずにはおかぬでしょう。最後に、もう一度くりかえして申しますが、いったいあなたはわたしの犠牲が必要なのですか、どうなんです? もしほんの何かでも[#「何かでも」に傍点]必要でしたら、どうか利用してください。わたしはしばらくのあいだ部屋にこもっています。少なくとも、なるべくどこへも行かないようにします。ご用があったら、手紙をくださるか、人をよこすかしてください』
 わたしはこの手紙を封筒に入れて、必ず当人に手渡しするようにと命じて、廊下番のボーイに持たしてやった。わたしは返事をあてにしてはいなかったが、二三分してボーイが引っ返し、『よろしくいってくれ』との由を復命した。
 晩の六時過ぎに、わたしは将軍のところへ呼ばれた。
 将軍は居間にいたが、これからどこかへ出かけるような服装であった。帽子とステッキが長いすの上に置いてある。わたしがはいって行った時、彼は両足を広げ、首をたれて、部屋のまん中に突っ立ち、何やらひとり言をいっていたらしい。わたしの姿を見るが早いか、ほとんど叫び声を上げないばかりの勢いで、いきなりわたしのほうへ飛んで来たので、わたしはわれともなしに一歩しさり、危く逃げ出さないばかりであった。けれども、彼はわたしの両手をつかまえて、長いすのほうへ引っぱって行き、自分がその長いすに腰を下ろし、わたしを真向かいの肘いすにすわらせて、わたしの手をじっと握ったまま、くちびるをふるわせ、ふいに睫毛に涙を光らせながら、祈るような声で切り出した。
「アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、助けてくれたまえ、たすけて、容赦してくれたまえ」
 わたしは長いあいだ何一ついうことができなかった。将軍はのべつしゃべって、しゃべって、しゃべりつづけながら、ひっきりなしに、『容赦してくれたまえ、容赦してくれたまえ!』とくりかえすのであった。とどのつまり、わたしは何か忠言みたいなものを求めているのだな、と察しがついた。というより、むしろみんなに見捨てられた彼は、不安と憂悶に堪えかねて、ふとわたしのことを想い起し、ただしゃべって、しゃべって、しゃべりまくるために、わたしを呼んだものらしい。
 彼はすっかりまごついていた。少なくとも、手のつけられぬほどとほうにくれていた。両手を合せて、あわやわたしの前にどうとひざまずかないばかりのありさまであった、――しかも、なんのためかと思えば、すぐこれからマドモアゼル・ブランシュのとこへ行って、もう一度帰って来て、将軍と結婚するように勧めてくれ、頼んでほしいというのであった。
「ご冗談じゃありませんよ、将軍」とわたしは叫んだ。「ブランシュ嬢はもしかしたら、今までわたしの存在などに気もつかないでいたかもしれませんよ。わたしに何ができるものですか?」
 しかし、なんといって見たところで役に立たなかった。将軍は人のいうことなど、てんで耳にはいらなかったのである。お祖母さんのこともしゃべり出したが、ひどく取りとめがなかった。彼は依然として、警察の助けをかりようという考えに固執しているのであった。
「ロシヤだったら、ロシヤだったら」と、彼はとつぜん、憤慨のあまりはらわたが煮え返るといったふうで、こんなことをいい出した。「要するに、ロシヤのようにれっきとした政府があって、秩序の整頓した国家だったら、ああいう婆さんはすぐさま禁治産にしてしまうところだ! そうだとも、きみ、そうだとも」と急におどりあがって、部屋の中を歩きまわりながら、くそみそにやっつけてやるぞといったような勢いで、しゃべりつづけるのであった。「きみはまだそれを知らなかったのですか、きみ」だれやら『きみ』なる人物を部屋の片隅に仮定している様子で、そのほうへ向かって呼びかけた。「それなら、今に思い知るから……さよう……わがロシヤではあんな婆さんなどは、ぺしゃんこにやっつけられるんだ、ぺしゃんこに、ぺしゃんこに、そうだとも……え、こんちくしょう!」
 それから、また長いすにどうと身を投げたと思うと、やがて、すすり泣かんばかりの声で、息をつまらせながら、わたしにこんな話をするのであった、――ブランシュ嬢が将軍と結婚しないのは、電報の代りにお祖母さんがやって来て、もう遺産のはいりっこないことが明瞭になったからだ、と。将軍は、わたしがそんな事情を少しも知らないと思っているのだ。わたしがド・グリエのことをいいかけると、彼は手を振って、「行っちゃった! わたしはあいつに全財産を抵当に取られてるんだ、わたしは鷹のようにすっ裸だ! きみが持って来てくれた金……あの金は、わたしはいくらか知らんが、どうやら七百フランくらい残っているらしい。もうそれでたくさんだ、それでおしまいなんだから。それからさきは、――わからん、わからん!………」
「どうしてあなたはホテルの払いをなさるんです?」とわたしはびっくりして叫んだ。「そして……さきはどうなるんです?」
 将軍は物思わしげにわたしをながめたが、なんにもわからなかったらしい、あるいは、よく聞こえなかったのかもしれない。わたしはポリーナのこと、子供たちのことを持ち出そうとした。すると、将軍は早口に「そう! そう!」と答えた。が、すぐに公爵のことをいい出して、「ブランシュ嬢はあいつといっしょに行ってしまうのだ、その時は……その時は、――わたしはいったいどうしたらいいのです、アレクセイ・イヴァーノヴィッチ?」と彼はふいにわたしのほうへふり向いた。「まったくのところ、わたしはいったいどうしたらいいのです、――ねえ、それは忘恩のふるまいじゃありませんか! ねえ、忘恩のふるまいでしょう?」
 あげくのはてに、彼はさめざめと泣き出した。
 こんな人間はどうにもしようがない。かといって、ひとりぼっちにしておくのも危険である。おそらく何か一騒動もち上げるだろう。もっとも、わたしはどうやらこうやら将軍のもとを逃げ出したが、保母にはなるべくしょっちゅうのぞいて見るようにいい含めたうえ、なお廊下番のボーイにも話しておいた。これは中々ものわかりのいい男であった。ボーイは、自分もよく注意しましょう、と約束してくれた。
 やっと将軍のとこから出たと思うと、早速ポタープィチがやって来て、お祖母さんのとこへ来てくれとのことであった。それは晩の八時で、お祖母さんは完全な敗北の後に、たったいま停車場から帰ったばかりのところだった。わたしは行って見た。老婆は、すっかりへとへとになって、安楽いすにすわっていたが、どう見ても明らかに病人であった。マルファがお茶を持って来て、ほとんど無理やりにそれを飲ました。お祖母さんの声も話しぶりも、目に見えて一変していた。
「今晩は、アレクセイ・イヴァーノヴィッチ」といいながら、彼女はゆっくりと物々しく頭を下げた。「堪忍してちょうだい、またお呼び立てして、年寄りのことだからご免ね。わたしはね、何もかもあすこへ置いて来てしまいました、かれこれ十万ルーブリ。昨日おまえさんがついて来なかったのはもっともだよ。いまわたしはお金がないの、一文なしなんだよ。もうこうなったら、一刻の猶予もしたくない、九時半に立ちます。わたしはあのイギリス人、アストレイとかいったね。あれのとこへ使いをやったんだよ。一週間ばかり三千フラン貸してもらおうと思ってさ。おまえさんあの男によく話をして、なにか変なことを考えないで貸してくれるように、納得させておくれ。わたしはね、これでもまだかなりお金持ちなんだからね。村が三つと建物が二軒あって、それに、現金もまだ見つかるだろう。みんな持って来たわけじゃないからね。わたしがこんなことをいうのは、ひょっとあの男が疑りゃしないかとおもってさ……ああ、そういう口の下からやって来た! いい人だってことがすぐわかる」
 ミスター・アストレイは、お祖母さんに呼ばれると、さっそくやって来たのである。なに一つ思案もせず、ひとことも物をいわないで、彼はすぐさま三千フラン数えて、お祖母さんの書いた約手と引換えに渡した。用事をすますと、彼は一礼してさっさと出て行った。
「じゃ、アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、おまえさんも行ってちょうだい。もう一時間と少しきゃないから、――わたしはちょっと横になりたい、節々が痛んでね。どうかこの年とったばか女を悪く思わないでね。もうこれからは、若い人を軽はずみだなどといって責めますまい。それに、あの不仕合せなおまえさんの将軍さ、今となっては、あれを責め立てるのもわたしとして罪な話だ。が、それにしても、あれが望んでいるようにお金はやりゃしない。あれはわたしの見たところでは、手のつけられないばかなんだもの。でも、このわたしだって、いい年をしてるくせに、あれより利口とはいえないねえ。まったく神様は、年とってから人間をおとがめになって、高慢の鼻をお折りなさるものだよ。じゃ、さようなら。マルフーシャ、わたしを起しておくれ!」
 しかし、わたしはお祖母さんの見送りがしたかった。のみならず、わたしは何かしら期待するような気分になっていた、今にもすぐ何か起るに相違ないと、絶えず待ち設けていたのである。わたしは自分の部屋にじっとしていられなかった。何度も廊下へ出てみたあげく、ついには、ちょっと並本道へ散歩に出て行った。ポリーナにあてたわたしの手紙は明々白々、かつ決定的なものであり、今度のカタストロフはもちろん最後的なものに決まっている。わたしはホテルへ帰って、ド・グリエの出発を聞いた。また、いよいよのところ、たとえ彼女がわたしを親友としてしりぞけるにもせよ、下男としてしりぞけないかもしれない。よしんば走り使いにもせよ、何か必要があろうから、わたしだって役に立つだろう、それはそうに決まってる! 発車前に、わたしはプラットフォームまでかけつけて、お祖母さんを汽車に乗せてやった。一行は特別室に納まった。
「おまえさん、欲得はなれてよく世話しておくれだったねえ、ありがとうよ」とお祖母さんは別れの挨拶をした。「それから、プラスコーヴィヤに、昨日わたしのいったことを伝えておくれ、――わたしはあの子を待っているからって」
 わたしは宿へ帰った。将軍の部屋の前を通りすがった時、ひょっこり保母に出会ったので、将軍のことをたずねた。「ええ、別に、あなた」と保母は張りのない声でこたえた。が、それでもわたしははいっていった。と、居間の戸口で、わたしは驚きあきれて思わず歩みをとめた。ブランシュ嬢と将軍が、何やら面白そうに、大声あげて競争で笑っているではないか。老コマンジュ夫人も、すぐそこの長いすに腰かけていた。将軍はどうやらうれしさに有頂天らしく、なんの意味もないことをありったけしゃべりながら、神経的な調子で長々と笑いつづけ、そのために顔じゅうしわだらけになって、目がどこかへ隠れてしまったほどである。後で当のブランシュ嬢から聞いたのだが、彼女は公爵を追っ払った後、将軍がおいおい泣いたことを知って、一つ慰めてやろうという気を起し、ちょっとはいったとのことであった。けれども、不幸な将軍は、この瞬間、すでに自分の運命が決せられていることを知らなかった。ブランシュ嬢はもう荷造りをはじめて、明日は一番列車でパリヘ飛んでゆくことにしていたのである。
 しばらく将軍の居間のしきいぎわに立っていた後、わたしははいって行くのをやめ、気づかれないように出てしまった。てっぺんまで昇りついて、自分の部屋の扉をあけた時、わたしは思いがけなく、薄暗がりの中にだれかの人影を認めた。片隅の窓近くいすに腰かけているのだ。わたしの姿を見ても、その人影は立とうとしなかった。わたしは早足に近づいて見ると、――思わず息がとまりそうだった、なんとポリーナではないか!
[#4字下げ]第14章[#「第14章」は中見出し]
 わたしはいきなり叫び声を上げた。
「どうしたの? どうしたの?」と彼女はたずねた。その顔は青ざめ、目つきは暗かった。
「どうしたのって! あなたが? ここに、ぼくの部屋にいるなんて!」
「あたしここへ来た以上、もうすっかり[#「すっかり」に傍点]来てしまったのよ。それがあたしのくせなのね。それは今にわかるから。まあ、ろうそくをおつけなさいよ」
 わたしはろうそくをともした。彼女は立ちあがって、テーブルに近より、わたしの前に封を切った手紙を置いた。
「読んでごらんなさい」と彼女は命じた。
「これは、――これはド・グリエの手じゃありませんか!」とわたしは手紙を取るなり叫んだ。手がわなわなとふるえて、目の前で行がおどるのであった。わたしは正確な文言はわすれたけれども、つぎに掲げるのがその手紙である。逐字的に伝えることはできないが、意味は完全にそっくりそのままである。
『Mademoiselle』とド・グリエは書いていた、『好ましからぬ事情のために、小生は猶予なく当地を立ち去らねばならぬことになりました。あなたご自身も、もちろんお気づきになったことと思いますが、小生はいっさいの事情が闡明されるまでは、あなたとの最後的な話合いを、わざと避けるようにしていたのです。あなたの親戚の老婦人の(de la vieille dame)到着と、そのばかげた行動は、小生の疑念をいっきょに解決してくれました。暫時のあいだは、小生も甘い空想に陶酔しておりましたが、小生自身の混乱せる財政状態は、もはやそうした空想にふけることを許さないのであります。今回のできごとには遺憾の意を表明いたしますが、しかし、小生の行動には 〔gentilhomme et honne^te homme〕(紳士および廉潔なる人間)としてあるまじき振舞いは、何一つ指摘されることはあるまいと思っているような次第です。あなたの義父に有金のほとんど全部をご融通したため、小生自身も極端な窮境に陥ったので、余儀なく抵当として入れられた財産を即刻競売に付すよう、ペテルブルグの知人に依頼状を差し出した次第です。とは申せ、あなたの義父が軽率にもあなたの金まで使い込んでしまったことを承知していますので、小生は五万フランだけ債務を免除することに決心しました。で、右の金額に相当する抵当証書を将軍にかえしますから、今あなたは訴訟を起してご自分のなくされた分について、将軍の領地から返済を要求することがおできになるわけです。Mademoiselle 目下の状態にあっては、小生のとった処置は、あなたにとってきわめて有利なものと確信している次第です。なお、この処置によって、小生は潔白公明なる人間としての義務を完全に果したものと自負しています。あなたに関する記憶は永久に小生の心に焼きつけられていることを信じてください』
「これがどうしたっていうんです。何もかもわかりきってるじゃありませんか」とわたしはポリーナにいった。「いったいあなたは何か別のことを期待してたんですか」とわたしは憤慨の語気でつけくわえた。
「あたし何も期待なんかしてやしないわ」と彼女は、一見落ちつき払って答えたが、しかし、その声には何かふるえがあるように思われた。「あたしずっと前から、何もかも決心していたの。ずっとあの男のはらんなかを読んでいて、あの男が何を考えてるかってことを突き止めたの。あの男が考えていたのはね、あたしがさがしている……あたしが主張するだろうと……(彼女は言葉を止め、しまいまでいわずくちびるをかんで、それきり黙ってしまった)あたしね、わざとあの男に対する軽蔑を強調してやったの」と彼女はまたはじめた。「あの男がどう出るかと思って待っていたの。もし遺産相続の電報が来たら、――あたしあのばか者(義父)の借金をあいつにたたきつけて、追っ払ってやったんだけど! あたし前から、ずっと前から、あの男が憎らしくってたまんなかったのよ。ああ、以前はあんな男じゃなかった、決して決してあんな男じゃなかったのに、今は、今は! ……ああ、あいつの俗っぽい顔に五万フランの金をたたきつけて、唾を吐きかけてやったら……その唾を顔に塗りたくってやったら、あたしどんなに幸福かしれないわ!」
「しかし、証書、――あいつの返した額面五万フランの抵当証書、あれは将軍のとこにあるんでしょう、そいつをもらって、ド・グリエに返しておしまいなさい」
「ああ、そんなことじゃないわ! そんなことじゃ!」
「そうだ、まったくそんなことじゃない! それに、将軍なんか今なんの役に立つというんだ? ところで、お祖母さんは!」わたしはふいに叫んだ。
 ポリーナは放心したような、同時にじれったそうな様子でわたしをながめた。
「お祖母さんがどうしたの?」とポリーナはいまいましそうに口を切った。「あたし、お祖母さんとこへ行くわけにいかない……それに、あたしはだれにもおわびなんかいいたくないの」と彼女はいらいらした声でつけくわえた。
「じゃ、仕方がない!」とわたしは叫んだ。「でも、どうして、ねえ、いったいどうしてあなたはド・グリエなんかが好きになれたんだろう! ちぇっ、あの悪党、悪党! ねえ、なんなら、ぼくあいつを決闘でやっつけてやりますよ! やつは今どこにいるんです?」
「フランクフルト、そこに三日ばかりいるはずよ」
「あなたがたったひと言命令なされば、ぼくは行きますよ、明日にもすぐ、一番の汽車で!」とわたしはなにかばかげた感激にかられてそういった。
 彼女は笑い出した。
「何いってるの、あの男はたぶんそういうでしょうよ、はじめにまず五万フランお返しなさいって。それに、あの男にしてみれば、何も決闘なんかする必要はないじゃないの? ……ばかばかしい話だわ!」
「じゃ、どこで、いったいどこでその五万フランを手に入れるんです」とわたしは歯がみしながらくり返した。「まるでそんな大金を、ひょっこり床の上にでも見つけ出すことができるみたいな顔をして。――ああ、そうだ、ミスター・アストレイは?」とわたしはある奇怪な想念をいだきながら、ポリーナに問いかけた。
 彼女の目は急にぎらぎら光り出した。
「どうしたの、いったいあんたは自分のほうから[#「あんたは自分のほうから」に傍点]、あたしがあのイギリス人のとこへ行ってしまえばいいと思ってるの!」刺しとおすような目つきでわたしを見つめ、悲痛なほほ笑みを浮かべながら、彼女はこういった。生れてはじめて、彼女はわたしにあんた[#「あんた」に傍点]といったのである。
 この瞬間、彼女は興奮のあまり目まいがしたらしく、まるで力抜けでもしたように、とつぜん長いすに腰をおろした。
 わたしはさながら雷にうたれたような気がした。ぼんやりそこに突っ立ったまま、われとわが目を、われとわが耳を信じかねていた! なんだ、して見ると、ポリーナはわたしを愛しているのではないか! 彼女はわたしのところへ[#「わたしのところへ」に傍点]やって来たので、ミスター・アストレイのところへ来たのではないのだ! 処女の身としてただひとり、ホテルの中でわたしの部屋へはいって来た、――して見ると、彼女は衆人環視の中でわれとわが身に汚点をつけたのだ、―それをわたしは、わたしは彼女の前に突っ立ったまま、まだ合点しないでいるとは!
 ある物狂おしい想念がわたしの脳裡にひらめいた。
「ポリーナ、ちょっと一時間だけ余裕をおくれ! ただ一時間だけここで待っていておくれ、そしたら……ぼくもどってくるから! それは……それはのっぴきならんことなんだから! まあ、見ててごらん! ここにいてね、ここにいてね!」
 相手のびっくりしたような、もの問いたげな眼ざしには答えないで、わたしはいきなり部屋を飛び出した。彼女はうしろから何やら叫んだが、わたしは引っ返さなかった。
 いや、まったくどうかすると、思い切ってきちがいじみた考えが、一見してまったくあり得ないような考えが、しっかりと頭の中にこびりついてしまって、ついには何か実現のできることのように思い込んでしまう……そういうことが、あるものである。のみならず、その想念が激しい情熱的な希望と結びついたら、時としてはついに宿命的なもの、必須なもの、あらかじめ予定されたもの、もはやおこらざるを得ない何物かのように思い込むことさえある! もしかしたら、そこにはまだ何かあるかもしれない。何かの予感の配合か、なにか異常な意力の緊張か、己れ自身の空想による自己まひか、それともまた、何かほかにあるかもしれない。とにかく、その晩(その晩のことは一生涯わすれることができない)、わたしの身の上に奇跡的な出来事が持ちあがったのである。それは算術できれいに説明することができるとはいうものの、それでもやはり、――わたしにとってはいまだに奇跡なのだ。それに、なぜ、いったいなぜあんなに久しい以前から、ああした確信が深く、しっかりとわたしの心に根をおろしたのだろう? きっとわたしは、このことを、――くりかえしていうが、――時としておこり得る(したがって、あるいは起り得ない)多くの偶然の中の一つとしてでなく、必ず起らざるを得ないような何物かとして考えに入れていたのであろう!
 十時十五分であった。わたしはいまだかつて経験したことのないような確固たる希望をいだき、しかも同時に、激しい興奮を感じながら、停車場へはいって行った。賭博場には今朝の半分ほどでしかなかったけれども、まだかなり大勢の人がいた。
 十時過ぎともなると、賭博台のそばに残っているのは、正真正銘の向う見ずな博奕打ちばかりである。その連中にとっては、温泉場に存在しているのはただルレットあるのみ、彼らはただそれだけのためにやって来るので、周囲に何が起ろうとろくすっぽ気がつかず、シーズンの終るまでなんにも興味を持たず、朝から晩までただ博奕ばかりやって、もしできたら、一晩じゅう夜の明けるまででも勝負を闘わしかねないのだ。そして、いつも十二時にルレットが閉まると、いまいましそうな顔をして分かれて行く。十二時ちかくなって、一番監督がルレット場の閉鎖になる前に“Les trois derniers coups, messieurs! ”(皆さん、最後の三番です!)と告げると、彼らはこの最後の三番に、ポケットにありたけの金を賭けかねないことがある、――また事実、この時に一番ひどい負け方をするのだ。
 わたしは、先刻お祖母さんの陣取っていた台を目ざして進んで行った。大してこんではいなかったので、わたしはまもなくその台のそばに、立つたままではあったが、場所を占めた。わたしのまん前には、緑色の羅紗の上に、“Passe”と書いてあった。
 このパスというのは、十九から三十六までの数を一組にしたものである。初めのほう、すなわち一から十八までは“Manque”と称される。しかし、それがわたしにとってどうしたというのだ? わたしはいっさいプランを立てなかった。勝負をはじめる時、最後の当りがいくつといったかも聞かねば、それをたずねてみようともしなかった。――たずねるぐらいのことは、多少なりとも分別のある賭博者なら、だれだってすることなのである。わたしは持合せのフリードリッヒ・ドル二十枚を残らず引っぱり出して、目の前にあったパスに賭けた。
 “Vingt-deux!” (二十二!)と監督がどなった。
 わたしは勝った、――そして、またもありったけ賭けた、前の分も今度のもうけも。
 “Trcnte et un”(三十一!)と監督が叫んだ。
 また勝った。してみると、わたしにはすでに八十フリードリッヒ・ドルあるわけだ。わたしはその八十フリードリッヒ・ドルをぜんぶ出して、まん中の二十の数に賭けた。(もうけは三倍になるけれども、危険率は二倍である)――輪が回転をはじめて、二十四が出た。わたしの前へ、五十フリードリッヒ・ドルの包みを三つと、金貨三枚ならべてくれた。前の分と合せて、全部で二百フリードリッヒ・ドルがわたしの手にはいった。
 わたしはまるで熱病に浮かされているようであった。で、それだけのひと塊りを残らず赤に賭けた――と、ふいにわれに返った! その晩、勝負を闘わしている間じゅう、たった一度、恐怖のあまり総身に冷水を浴びたようになり、手足にふるえが走った。わたしはたちまち慄然として意識し、直感した。今この負けが自分にとって何を意味するか! この賭に全生命がかかっているのだ!
 “Rouge”(赤)と、監督が叫んだ、――で、わたしは息をついた。からだがかっと熱くなり、焼けた針でそこらじゅうちくちく刺されるような感じだった。今度は紙幣で払ってくれた。してみると、もはや全部で四千フロリンと八十フリードリッヒ・ドルあるわけだ! わたしはその時まだ計算を追ってゆくことができた)
 それから、漠然と覚えているが、またまん中の二十に二千フロリン賭けて負けた。つぎに金貨と八十フリードリッヒ・ドルを賭けた。また負けた。わたしはやっきとなって、最後に残った二千フロリンをつかみ、初めの十二に賭けた――、ただもう、よもやを頼みに、なんのプランもなく、でたらめに! もっとも、ほんのひととき、期待の瞬間があった。それは、マダム・ブランシャールがパリで気球から地上へ飛び下りた時に味わった気持ちに似ていたかもしれない。
 “Quatre”(四)と監督が叫んだ。
 前の睹を寄せて、またわたしの手には六千フロリンの金ができた。わたしはもう勝利者ぜんとしていた。わたしはもはや何ものをも、断じて何ものをも恐れなかった。わたしは四千フロリンを黒に投げ出した。すると、九人ばかりのものがわたしのまねをして、大急ぎで同じ黒に賭けた。監督たちは目を見合せ、何やら話し合った。まわりではみんなしゃべりながら待っていた。
 黒が出た。わたしはもう勘定も、自分の賭の順序も覚えていない。ただ夢のように覚えているのは、もうどうやら、一万六千フロリンばかり勝ったらしいことだけである。と、ふいに、いまいましい三度の賭で、そのうち一万二千ふいにしてしまった。それから、最後の四千をパスに賭けた(しかし、そのときほとんどなんの感じもなかった、わたしはただ機械的に、なんの考えもなく待っていた)。そして、また勝った。それからなおぶっつづけに四度勝った。覚えているのは、自分が何千という金を両手でかき込んだことばかりである。それからまだ覚えているのは、まん中の十二が一等よく出たことだ、わたしはこいつに粘りついていたので。この数は妙に規則ただしく出て来た、――必ず三度か四度つづけて出ては、二度ばかり影を消し、その後また三四回かえってきた。こうした驚くべき規則ただしさが、時とすると筋になって現われるので、――つまり、これが鉛筆を手にもって計算している折紙つきの賭博者どもをまごつかすのである。ここではどうかすると、なんと恐ろしい運命の嘲笑に出くわすことか!
 思うに、わたしが来てから、時間は三十分くらいしかたっていまい。ふいに監督が、あなたは三万フロリンお勝ちになったけれども、胴元は一度にそれ以上の責任は持てないから、やむなくルレットは明日まで閉鎖です、と通告した。わたしはありったけの金貨をつかんで、ポケットへほうり込み、ありったけの紙幣をつかんで、すぐさまよそのホールのよそのテーブルへ移った。そこでは別のルレットがあるのだ。居合せた群集が残らず、わたしの後からどっと押しかけて来た。そこではすぐさま、わたしのために場所をあけてくれた。で、わたしはまたもやなんのプランもなく、でたらめに賭けはじめた。いったい何がわたしを助けてくれたのか、われながら合点がいかない!
 もっとも、時とすると、わたしの頭に計画がひらめき始めることがあった。何かある数字なりチャンスなりに固執するのだが、しかし、まもなくそれも捨ててしまって、またぞろほとんど無意識に賭けはじめるのだ。きっとわたしはひどくぼんやりしていたに違いない。監督が幾度か勝負のし方を訂正してくれたのを、わたしは覚えている。平気でひどいまちがいをやらかしていたのである。こめかみは汗でじっとりとし、手はわなわなふるえていた。ポーランド人どもが、ご用をうかがいにそばへ寄って来たけれど、わたしはだれのいうことも聞かなかった。幸運は中断されなかった! とつぜんまわりで声高にしゃべったり、笑ったりする騒々しい響きがに起った。「ブラーヴォ、ブラーヴォ!」と一同は叫び、中には拍手するものさえあった。わたしはここでも三万フロリンふんだくって、銀行はまたぞろ明日まで閉鎖を宣言したのである。
「お帰りなさい、お帰りなさい」とだれかの声が右手から、とうささやいた。
 それはあるフランクフルトのジュウで、しじゅうわたしのそばに立って、時おり勝負に助言していたらしい。
「後生ですから、帰ってください」というべつの声が、わたしの左耳のほうで響いた。
 わたしはちらと振り返った。それはきわめてつつましやかな、しかし、上品な身なりをした年ごろ三十ばかりの婦人で、その顔は何か病的に青ざめてはいたけれども、今でもかつてのすばらしい美貌をしのばせるものがあった。ちょうどその時、わたしは紙幣をわしづかみにしてはポケットへねじ込み、台の上に残った金貨をかき集めているところだった。いちばん最後の五十フリードリッヒ・ドルの束をつかむと、わたしはだれにも目につかぬように、それを青ざめた顔の婦人にそっと握らせた。そのときわたしは是が非でもそうしたくてたまらなかったのである。今でも覚えているが、彼女のやせ細った指が、深い感謝のしるしに、わたしの手をかたく握りしめた。それはただ一瞬のできごとだったのである。
 ありったけの金をかきあつめると、わたしはさっそく trente et quarante(三十と四十)に移った。
 Trente et quarante をやっているのは、アリストクラチックなご連中だった。これはルレットではなく、カルタなのである。ここでは胴元が、一時に十万ターレルまで保証することになっている。賭の最大限は、やはり四千フロリンである。わたしはこのほうのやり方をてんでわきまえないし、賭の種類も一つとして知らなかった。知っているのは、ここにもやはり行なわれている赤と黒だけであった。つまり、そいつに取りついたのである。停車場じゅうのものがまわりに黒山を築いた。そのあいだに、わたしはただの一度でもポリーナのことを考えたかどうか、まるで覚えがない。そのときわたしはただ、自分の前にしだいにうず高く積まれる紙幣を引っつかみ、かきあつめるのに、おさえきれぬ一種の快感を覚えたばかりである。
 それはまったく、運命がわたしをうしろから突いてでもいるようであった。今度はまるでわざとあつらえたように、一つの偶然が起ったのである。もっとも、それは勝負事にはかなりひんぴんとしてくりかえされることなのだ。たとえば、赤のほうに幸運が固定して、十度、いや十五度もつづけて赤が出る、といったふうなのである。つい一昨日も聞いたことだが、先週は赤が二十二度ぶっつづけに出たとのことである。こういうことは、ルレットのほうでさえ先例のないことで、みんなあきれて話し合っていた。もちろん、たとえば、十ぺんもつづいた後では、みんなさっそく赤をやめてしまって、ほとんどだれひとり思い切ってこれに賭けようとするものはない、しかし、そうなると、赤の反対の黒のほうに睹けるということも、場なれた賭博者ならだれだってしないのである。場なれた博奕打ちは、この「偶然の気まぐれ」というやつがどんなものかということを、よく知っているのである。たとえば、十六ぺんも赤が出た後なら、十七へん目の当りは黒になるだろうという気がする。この見込に新参《しんまい》連はわっとばかり飛びかかって、賭を二倍にも三倍にもし、ものすごい負け方をするのだ。
 ところが、わたしは何か奇怪ないこじから、赤がつづけて七度出たのを認めて、わざとそいつにしがみついたのである。そこには、半分くらい自尊心が働いていたものと確信する。わたしはきちがいじみた冒険で見物をあっといわせたかったのだ。そして、――おお、なんという不思議な感覚! ――わたしははっきりと覚えているが、その時とつぜん自尊心の挑発も何もなく、恐ろしい冒険欲がわたしの全幅を領したのである。おそらくあれほど多くの激しい感覚を経験した魂が、それで飽満するどころか、かえっていやが上に刺激されて、完全にへとへとになるまで、さらにますます激しい感覚を要求したのでもあろう。まったくのところ、うそはつかない、もし賭場の憲法が一時に五万フロリン賭けることを許したならば、わたしはきっとそれをしたに相違ない。まわりでは、それは無謀だ。赤はもう十四回も出た、とわめき立てた。
「〔 “Mansieur a gagne' de'ja` cent mille florins”〕(この人はもう十万フロリンもうけたんだ)」というだれかの声がわたしのそばで聞こえた。
 わたしはふいにわれに返った。なんだと! おれは今晩十万フロリンも勝ったのか? それなら、なんのためにそれ以上の金が必要なんだ? わたしはいったん出した紙幣に飛びかかり、勘定もせずわしづかみにして、ポケットヘ押し込み、金貨や金の束を引っかきあつめ、そのまま停車場を飛び出した。わたしが広間広間を走り抜けていると、あたりでわたしの無様にふくれたポケットや、金貨の重みでよたよたする歩きぶりを見て、みんなの笑う声が聞こえた。おそらくそれは半プード([#割り注]約二貫目[#割り注終わり])よりずっと重かったろうと思う。幾たりかの手がにゅっと差し出された。わたしは捩れるだけ捩って右左に分けてやった。出口のところで、ふたりのユダヤ人がわたしを引きとめた。
「あなたは大胆だ! あなたはじつに大胆だ!」と彼らはいった。「しかし、明日の朝は必ずできるだけ早くお立ちなさい。さもないと、すっかり、すっかり負けてしまいますぞ……」
 わたしはそんなことに耳も傾けなかった。並木道はまっ暗で、自分の手さえ見分けられないほどであった。ホテルまでは半露里の道のりだった。わたしは今までついぞ一度も、子供の時でさえ、泥坊や強盗を恐れなかった。で、今もそんなもののことは考えもしなかった。もっとも、道々なにを考えたか、覚えていない。思想というものがなかったのだ。ただ何かしら強烈な快感を覚えたのみである。――成功の快感、勝利の快感、自己の威力の快感、――どうもなんといったらいいかわからない。ポリーナの面影も目の前にちらついた。わたしは自分が彼女のもとへおもむいていることも、すぐに彼女といっしょになることも、彼女に事の次第を物語り、金を見せる……ということも、ちゃんと記憶し意識していた。しかし、さきほど彼女がわたしにいったことも、なんのために自分が出かけて行ったかということも、わたしはもうほとんど思い出さなかった。そして、つい三十分まえにいだいていた自分の感覚も、今ではもはやとうに過ぎ去り、訂正され、古くさくなってしまって、もうそんなことなどふたりの問で口にのぼされることなどないように感ぜられた。今では何もかも新規まき直しだ。もうほとんど並木道がつきようとするところで、わたしはふいに恐怖の念に襲われた。『もし今おれが殺されて、金をさらわれてしまったらどうだろう!』わたしは半分走っていた。とつぜん、並木道のはずれに、無数の灯火に照らされたわたしのホテルの全容がかがやき出した。有難い、――もうわが家にいるのも同然だ!
 わたしは自分の住んでいる最上階にかけ昇って、いきなりさっと扉を開けた。ポリーナはそこにいた。火をともしたろうそくを前にし、わたしの長いすの上に腕組してすわっていた。彼女はびっくりしたような目つきでわたしを見つめた。もちろんのこと、その時のわたしはかなり奇怪な様子をしていたに決まっている。わたしは彼女の前に立ちどまって、ありったけの金をテーブルの上へほうり出し始めた。
[#4字下げ]第15章[#「第15章」は中見出し]
 忘れもせぬ、彼女はひどく目をすえてわたしを見つめていた。しかし、その場を動こうともしなければ、姿勢を変えようともしないのだ。
「ぼくは、二十万フラン勝って来ました!」最後の金の束をほうり出しながら、わたしはこう叫んだ。
 紙幣と金貨のものすごい山が、テーブルのうえを一杯に占領した。わたしはもうそれから目を離すことができなかった。時おり瞬間的に、ポリーナのことをもすっかり忘れてしまうことがあった。そして、この紙幣の山を整理し始めるかと思うと、いっしょに積み重ねて見たり、金貨をひと塊りに分けて見たりする。かと思うと、何もかもうっちゃらかして、足早に部屋の中を歩きまわり、何やらじっと考え込む。それから、また急にテーブルのそばへ寄って、金の勘定をはじめる。とつぜん、やっと正気に返ったかのように、わたしは戸口へ飛んで行き、いそいで戸締まりをした。鍵を二度もまわした。さてそれから、物思いにふけりながら、自分の小さなトランクの前にたたずんだ。
「明日までこのトランクにしまっておくかな?」わたしはだしぬけにポリーナのほうへ振りむいて、こうたずねたが、その時ふいと彼女のことを想い出した。
 彼女は相変らず身動きもせずに、同じ場所にすわっていたが、じっとわたしのしぐさを目で追っていたのである。その顔の表情は何か奇怪なものだった。わたしはその表情が気にくわなかった! その中には憎悪があった、といってもあやまりではあるまい。
 わたしはつかつかとそのそばへ寄った。
「ポリーナ、さあ。これが二万五千フロリン、――これだけで五万フラン、いや、もっとたくさんあるくらいだ。これを持ってって、明日やつの顔へたたきつけておやんなさい」――彼女は返事をしなかった。
「もしなんなら、ぼくが自分で持ってってやりますよ、朝早く。そうする?」
 彼女はだしぬけに笑い出した。長いこと笑いつづけた。
 わたしは驚きと悲しみにうちひしがれんばかりになって、その様子をながめていた。その笑いは、つい近ごろまでよく聞かされた冷笑にそっくりそのままであった。わたしが熱情をこめて、思いのたけをうち明けている最中に浴びせかけた、あの冷笑なのだ。ついに彼女は笑いやめて、眉をしかめ、きびしい目つきで額ごしにわたしを見つめた。
「あたし、あなたのお金を貰いませんよ」と彼女はさげすむような語調で口を切った。
「えっ? そりゃなんのこってす」とわたしは叫んだ。「ポリーナどうして?」
「あたしただでお金は貰わないの」
「ぼくは親友としてあなたに提供しているんですよ。ぼくはあなたに命さえ提供しているんです」
 彼女は試すような眼ざしで、ながいあいだわたしを見つめていた。さながらその視線でわたしを突き刺そうとでもするように。
「あなたはずいぶん気前がいいのね」と、彼女は薄笑いしながらいった。「ド・グリエの情婦は、五万フランの値うちなんてないわ」
「ポリーナ、どうしてぼくにそんな口がきけるの?」とわたしは非難をこめて叫んだ。「いったいぼくがド・グリエとおなじような人間だと思うの?」
「あたしあなたが憎いの! そうよ……そうよ! あたしあなたもド・グリエ以上に愛しちゃいないんだから!」と彼女はふいに目をぎらぎら光らせながら叫んだ。
 そのとき彼女はとつぜん両手で顔をおおった。と、ヒステリイの発作がはじまった。わたしはそのそばへ飛んで行った。
 わたしは、自分のいないまに何か彼女の身に起ったに相違ないと悟った。彼女はまるで正気でないように見受けられた。
「あたしを買うがいい、買いたい? 買いたい? 五万フランで、ド・グリエのように?」という叫びが、痙攣的な慟哭とともに、彼女の口からもれた。
 わたしは彼女を抱きしめ、その手や足に接吻し、その前にひざまずいた。
 ヒステリイはしだいに静まっていった。彼女はわたしの肩に両手を載せて、じいっとくい入るようにわたしを見始めた。どうやら、わたしの顔から何ごとかを読み取ろうとしている様子だった。彼女はわたしの言葉に耳をかしてはいたものの、明らかに何一つ聴いてはいなかったらしい。なにかしらある心づかい、ある物思いが、その顔に描かれていた。わたしは彼女が心配でたまらなかった。どうしても彼女が発狂しているように思われて仕方がなかったのである。時には、不意にそうっとわたしを自分のほうへ引き寄せて、その顔に早くも信頼しきったような微笑をただよわせるかと思えば、時には、いきなりわたしを突き放して、またもや暗い目つきでじっとこっちを見つめはじめるのだ。
 とつぜん、彼女はいきなり飛びかかって、わたしを抱きしめた。
「ねえ、あんたはわたしを愛してるわね、愛してるわね?」と、彼女はいった。「だって、あんたは、だって、あんたは、あたしのために男爵と決闘しようとしたじゃないの!」
 と、ふいに彼女は大声でからからと笑い出した。――まるで、何かこっけいな、しかも、愛すべき記憶がとつじょ脳裡にひらめいたかのようである。彼女は同時に泣き、かつ笑っていた。いったいわたしはどうしたらいいのだろう? わたしは自分までが熱病にかかっているみたいであった。忘れもしない、彼女は何やらしゃべり出したが、わたしはほとんど何一つ理解することができなかった。それは何かうわ言か、子供の舌ったらずのおしゃべりみたいなものだった。――さながら、何ごとかを急いでわたしに話したいとあせってでもいるかのよう、――が、そのうわ言はどうかすると、思い切り陽気な笑い声にさえぎられるので、わたしは少々薄気味わるくなってきた。
「いえ、いえ、あんたはいとしい人よ、ほんとにいとしい人よ!」と、彼女はくりかえすのであった。「あんたは決してあたしに背かない人だわ!」それからまたわたしの肩に両手をのせ、またもや私の顔に見入りながら、くりかえしはじめる。「あんたはあたしを愛してるわ。……愛してるわね……これからさきも愛してくれるわね?」わたしは目を離さずに見まもっていた。彼女がこんな優しい愛情の発作に襲われたのを、今までついぞ見たことがなかった。もちろん、それはうわ言には相違ないけれども、しかし……ふとわたしの熱情に燃える眼ざしに気がつくと、彼女はとつぜんずるそうに、にやにや笑い出した。そして、やぶから棒に、ミスター・アストレイのことをいい出したものである。
 もっとも、ミスター・アストレイのことは絶えず口ばしっていた(特に、さきほど何ごとかをわたしに物語ろうとつとめた時などがそうである)。しかし、いったいなんのことやら、わたしにはよくつかめなかった。たしか彼女はこのイギリス人を冷笑さえしたくらいである。あの男は待っているのだとか、きっとあの男はいま窓の下に立っているに相違ないが、あんたはそれを知ってる? とか、そんなことをのべつくりかえしたものである。「ええ、ええ、窓の下にいるのよ、――さあ、開けて、見てごらんなさい、見てごらんなさい、あの男はここにいてよ、ここに!」彼女はわたしを窓のほうへ突きやったが、わたしが行こうとして身を動かすが早いか、彼女はからからと高笑いをした。で、わたしはそのそばに居残る、すると彼女は飛びかかって、わたしを抱きしめる、というふうであった。
「あたしたちは立ってしまうのね、ねえ、明日は立ってしまうんだわねえ?」ふいにこの不安な想念が、彼女の頭に浮かぶのであった。「でも……(と彼女は考え込んだ)。でも、あたしたち、お祖母さんに追っつくわねえ、どう思って? あたしベルリンで追っつけると思うんだけど。あんたどう思って、あたしたちが追っついて、お祖母さんの前へ出た時、お祖母さんはいったいなんていうでしょう? それに、ミスター・アストレイは?……ねえ、あの男はシュラングンベルクの崖から飛び下りたりなんかしないわね、どう思って?(彼女は高笑いした)ねえ、どうでしょう、あの男が来年の夏どこへ行こうとしてるか、あんた知ってて? 学術研究の目的で北極探検をしようと思ってるのよ。そして、あたしもいっしょに行かないかって誘ったわ、ははは! あの男にいわせるとね、あたしたちロシヤ人はヨーロッパがなかったらなんにも知らないし、なんの役にも立たないんだって……でも、あの男だってやっぱりいい人よ! どうでしょう、あの男は将軍を『ゆるしてやる』んですとさ。あの男にいわせれば、ブランシュは……あの熱情は……いや、わかんないわ、わかんないわ」と彼女はつい口をすべらせて、まごついたかのように、だしぬけにこうくりかえした。「かわいそうな人たち、あたしみんなが気の毒でしょうがないわ、それに、お祖母さんも……それはそうと、ねえ、あんたにはド・グリエなんか殺せっこないわよ? いったいほんとにあんたは殺せると思ってたの? ほんとにばかねえ! いったいあたしがあんたをド・グリエと撃ち合いにやったと思って? そうよ、あんたなんかに男爵だって殺せやしなくってよ」と、だしぬけに笑い出しながら、彼女はそうつけくわえた。「あああ、あたしあの時ベンチのところから見ていたけれど、あんたが男爵とやり合ってる様子のおかしかったことといったら、あたしが男爵のとこへいらっしゃいっていった時、あんたはいかにも行きたくなさそうだったわ。あの時あたしどんなに笑ったことやら、どんなに笑ったことやら」と、彼女はからからと笑いながらつけ足した。
 と、ふいに彼女はまたしてもわたしを接吻し、抱きしめ、熱情的に、しかもやさしく、わたしの顔に自分の顔をすりつけるのであった。わたしはもう何一つ考えもしなければ、何一つ耳に入らなかった。わたしは頭がくらくらしてきた……
 わたしがふとわれに返ったのは、朝の七時ごろだったと思う。太陽が部屋の中にさし込んでいた。ポリーナはわたしのそばにすわって、奇怪な表情であたりを見まわしていた。さながら何かの暗やみの中から出て来て、記憶を寄せ集めてでもいるかのごとく、不思議そうにあたりを見まわしていた。彼女もやはりたったいま目をさましたばかりで、穴のあくほどテーブルと金とを見つめているのであった。わたしは頭が重く、ずきずきと痛んだ。ポリーナの手を取ろうとすると、彼女はとつぜんわたしを突きのけて、長いすからおどりあがった。それはうっとおしい朝だった。夜明け前に雨が降ったのである。彼女は窓に近よって、戸を開けると、頭と胸を前へ突き出し、両手を突っぱり、ひじを窓の柱にもたせたまま、三分間ばかりというもの、わたしのほうへ振り向こうともせず、わたしのいうことに耳もかさないで、じっとしていた。いったいこれからどうなるのだろう、どんな結末を告げるのかしら、という考えが頭に浮かんだ時、わたしは思わずぞっとした。ふいに彼女は窓を離れて、テーブルに近寄り、かぎりない憎しみにみちた眼ざしでわたしをながめ、毒念にくちびるをふるわせながら、口を切った。
「さあ、あたしの五万フランを今すぐ渡してちょうだい」
「ポリーナ、また、また?」とわたしはいいかけた。
「それとも、考えが変ったの? ははは! もうあんた惜しくなったの?」
 もう昨夜ちゃんと勘定しておいた二万五千フロリンは、テーブルの上に載っていた。わたしはそれを取り上げて、彼女に渡した。
「もうこれはあたしのもんだわねえ? そうだわねえ? ねえ?」金を持ったまま、彼女は毒々しくたずねた。
「ああ、それはいつもきみのものだったさ」とわたしはいった。
「そう、それじゃこれがあんたの五万フランよ!」
 彼女は大きく手を振り上げて、ぱっとわたしに投げつけた、札束は痛いほどわたしのほおを打って、床に飛び散った。それだけのことをしおおせると、ポリーナは部屋からかけだした。
 わたしはこの時の彼女が、もちろん、完全な正気ではなかったことを承知している。もっとも、この一時的な発狂状態なるものは、よく合点がいかないのだけれども……何にしても、彼女がひと月もたった今日まで、まだいぜんとして病気なのは、事実である。しかし、こうした状態、というより、主としてあのとっぴな所作は、いったい何が原因だったのだろう? 侮辱されたプライドか? わたしのところへさえ来ようと決心したその絶望感か? それとも、わたしが自分の幸運をひけらかして、ほんとうにド・グリエと同じように、五万フランを彼女に贈ることによって、厄介払いをしたがっているようなそぶりを見せたのだろうか? しかし、そんなことは断じてなかった、わたしは自分の良心に賭けて誓ってもいい。おもうに、この件では彼女の虚栄心も多少は因をなしているに違いない。虚栄心が彼女をそそのかして、私を信じさせないように、わたしを侮辱させるようにしたのであろう。もっとも、そんなことはみんな彼女の妄想で、おそらく彼女自身にもはっきりわからなかったのだろう。そうとしたら、わたしはド・グリエの身代りになったわけで、あるいは罪なき罪びとになったのかもしれない。じっさい、これは何もかもうわ言なのだ。しかし、わたしは彼女が熱に浮かされていることを承知しながら、この事実になんらの注意をも払わなかった、ということもほんとうなのである。おそらく、今となったら、彼女はこの点をわたしに対してゆるすことができないであろう。そうだ、しかし、それは今日になってみての話で、あの時は、あの時は果してどうだったろう? なにしろ、彼女の譫妄状態にしても病気にしても、ド・グリエの手紙をもってわたしのところへ来る時、まったく前後を忘れてしまうほどひどくはなかったのではあるまいか? してみると、彼女は自分が何をしているか、よく承知していたわけである。
 わたしはどうやらこうやら、手早く紙幣や金貨を残らず寝床の下に突っ込んで、上からおおいをかけ、ポリーナより十分ばかり遅れて部屋を出た。彼女はまっすぐに自分の部屋へ走って帰ったにちがいないと確信していたので、わたしはそっと将軍一家の陣取っているところへ行って、控室で保母にお嬢様のご機嫌をたずねてみようと考えた。ところが、わたしの驚きはどんなだったろう! 階段で出会った保母にきいてみると、ポリーナがまだ帰って来ないので、保母は彼女を迎えにわたしのところへ来るところだというではないか。
「たった今」とわたしはいった。「たったいまぼくのところから出て行ったばかりなんだ、十分ばかり前のことさ。いったいどこへ行ったんだろう!」
 保母は目に非難をこめてわたしを見つめた。
 ところが、その間に一騒動もちあがって、もうホテルじゅうの評判になっていたのである。玄関番の部屋でもボーイ頭のところでも、ロシヤの令嬢が朝の六時に雨を冒してホテルをかけだし 〔h o^ tel d’ Angleterre〕《オデル・ダングルテル》のほうへ走って行った、云々とささやき合っているのであった。彼らの言葉の端々や匂わせぶりによって、彼女が昨夜ひと晩、わたしの部屋で過ごしたことを、彼らはもうちゃんと知っているにちがいない、とわたしは気がついた。もっとも、将軍家ぜんたいのことがすでにホテルじゅうの噂にのぼっていた。将軍が昨夜発狂して、ホテルじゅうに聞こえるような声で泣いた、ということも知れわたっていた。それについて、こんなこともひそひそ話し合っていた、――ふいにやって来たお祖母さんは将軍の母親で、息子とマドモアゼル・コマンジュとの結婚をさし止めるために、わざわざロシヤから出ばって来たのであって、もしいうことをきかなかったら、遺産の相続権を奪うつもりだった。ところが、果していうことをきかなかったので、伯爵夫人はわざと彼の目の前で有金を全部ルレットではたき上げて、将軍の手には何一つはいらないようにしたのだ。――「Diese Russen!」(あのロシヤ人連ときたら)とボーイ頭は首をふりながら、憤慨の語気でくりかえしいった。ほかの連中はげらげら笑っていた。ボーイ頭は勘定書をこしらえていた。わたしのもうけも有名になって、私の部屋の受持ちになっているボーイのカルルは、まっさきにわたしにお祝いをいった。しかし、わたしはそれどころではなかった。わたしは〔h o^ tel d’ Angleterre〕 へ飛んで行った。
 まだ早かった。ミスター・アストレイは面会謝絶中だったが、わたしだと聞くと廊下へ出て、わたしの前に立ちどまり、無言のまま、例のどんよりとした錫のような目をひたとわたしにそそいで、わたしが何をいい出すかと待ち受けていた。わたしはポリーナのことをたずねた。
「あのひとは病気です!」相変らずじっとわたしにそそいだ目を離そうとせず、ミスター・アストレイは答えた。
「じゃ、あのひとはほんとうにあなたのところにいるんですね!」
「そうですとも、わたしのところにいますよ」
「で、いったいどうなんです、あなたは……あなたはあのひとを自分のところへおいとくつもりですか?」
「そうですとも、わたしはそのつもりです」
「ミスター・アストレイ、そいつはスキャンダルのもとになりますよ。それはだめです。それに、あのひとはすっかり病気なんですもの。あなたは気がつかなかったかもしれないけれど」
「どういたしまして、ちゃんと気がつきましたよ。だから、そういったじゃありませんか、あのひとは病気だって。もし病気でなかったら、あなたの部屋で一晩過ごしたりなんかしなかったでしょうよ」
「じゃ、あなたはそれまで知ってるんですか?」
「知っていますよ。あのひとは昨日ここへ来たんですよ。わたしは親戚の女のところへ連れて行くつもりだったんですが、あのひとが病気だもんだから、まちがってあなたのとこへ行ったんです」
「へえ、どうでしょう! いや、おめでとう、ミスター・アストレイ。ついでながら、あなたはヒントを与えてくれましたよ。あなたはゆうべ夜っぴて、ぼくの部屋の窓の下に立っていはしなかったですか? ミス・ポリーナは夜っぴてぼくに窓を開けさせて、あなたが窓の下に立っていはしないか見てみろというんです。そして、無性に笑ってましたっけ」
「おやおや! いや、わたしは窓の下に立ってはいませんでした。廊下で待ったり、そのへんを歩きまわったりしていましたよ」
「それにしても、あのひとは治療しなくちゃいけませんよ、ミスター・アストレイ
「そうですとも、わたしはもう医者を呼びましたよ。が、もしあのひとが死んだら、あなたはそれに対して、わたしに責任を負わなくちゃなりませんぞ」
 わたしは面くらった。
「冗談じゃない、ミスター・アストレイ、あなたはそれで何をいおうとしてるんです?」
「ときに、あなたが昨夜二十万ターレルもうけたっていうのは、ほんとうですか?」
「合計十万フロリンですよ」
「ね、ほらごらんなさい! それじゃ、今朝にもさっそくパリヘお立ちなさい!」
「なんのために?」
「だって、ロシヤ人はみんな金ができると、パリヘ出かけるじゃありませんか」とミスター・アストレイは、まるで書物でも読むような語調で説明した。
「今、夏だというのに、いったいパリで何をするんです? ぼくはあのひとが好きなんです、ミスター・アストレイ! あなたは自分でもごぞんじでしょう」
「へえ、わたしはその反対だと確信していますがね。それに、あなたはここに残っていると、まちがいなくありったけの金を負けてしまって、パリ行きの旅費がなくなりますよ。じゃ、さようなら、わたしはあなたが今日パリヘ向けて出発されるものと、心底から確信して疑いませんよ」
「よろしい、さよなら。ただし、ぼくはパリヘなんか行きませんよ。ねえ、ミスター・アストレイ、これから将軍一家はどうなると思います? てっとり早くいうと、将軍は……おまけに今度はミス・ポリーナのこの突発事件でしょう、――これは町じゅうの評判になっちまいますよ」
「そう、町じゅうのね。しかし、将軍は、わたしの考えでは、この事件のことなんか考えておりません、あの人はそれどころじゃないんですからね。のみならず、ミス・ポリーナは、自分の好きなところに住む完全な権利を持っています。ところで、あの家庭に関しては、わたしは正確に断言しておきますが、あの家庭はもはや存在しておりませんよ」
 わたしは歩きながらも、わたしがパリヘ立つに相違ないと考えている、あのイギリス人の変な確信をあざ笑った。
『それにしてもあの男は』とわたしは考えた。『もし、マドモアゼル・ポリーナが死んだら、おれを決闘で射ち殺そうとしている、――これまた一つ厄介なことだぞ!』誓っていうが、わたしはポリーナがかわいそうではあったけれども、しかし、奇妙なことには、きのうわたしが賭博台に触れて、金の束を両手でかき寄せ始めた瞬間から、わたしの恋はなにか第二義的な位置に押しやられたようなあんばいであった。これは今のわたしがいっていることで、その時は、はっきりと気がついてはいなかったのである。いったい私はほんとうの賭博者なのだろうか、いったいわたしはほんとうに……ポリーナに対してそういう奇妙な恋の仕方をしていたのだろうか? いやいや、神も照覧あれ、わたしは今でも彼女を愛している! が、あの時は、ミスター・アストレイのもとを辞して帰途についたときには、わたしは真剣に煩悶して、われとわが身を責めたものである。けれども……けれどもその時、わたしの身の上になんともかともいわれぬ奇妙な、ばかげきった事件が持ちあがったのである。
 わたしが将軍のところへ急いでいると、ふいにその部屋から遠くないあたりの扉があいて、だれかわたしの名を呼ぶものがあった。それは老コマンジュ夫人で、マドモアゼル・ブランシュのいいつけで私を呼んだのであった。わたしはブランシュ嬢の部屋へはいった。 彼らが占領しているのは、ふた部屋きりの大きからぬひと構えであった。寝台のほうからブランシュ嬢の笑い声や叫びが聞こえてきた。いまベッドから起きるところだった。
「〔A, c’est lui! Viens donc, be^ta! Tu as gagne' une montagne d’or et d’argent?〕(ああ、あの人だ! さあ、おはいんなさい、おばかさん! あんた金貨やおさつを山ほどもうけたんだってね?)本当? J’aimerais mieux l’or.(わたし金貨のほうがいいなあ!)」
「博奕に勝ったんですよ」とわたしは笑いながら答えた。
「どれくらい?」
「十万フロリン」
「〔Bibi, comme tu es b e^te〕(まあ、この坊や、なんてすごいんだろうね)さあこっちイおはいんなさいってばさあ、あたしなんにも聞こえないじゃないの。Nous ferons bombane n’est ce pas?(いっしょにご馳走を食べましょうよ、ね、そうじゃなくって)」
 わたしは寝室へはいって行った。彼女は、ばら色の繻子の掛蒲団をかぶって、横になっていたが、その下からやや浅黒い、健康そうな、すばらしい肩がのぞいていた。――それは夢にしか見られないような肩で、雪白のレースで縁取りした精麻の肌着で、わずかにおおわれていた。その肌着が彼女の浅黒い皮膚に、驚くばかり似合うのであった。
「〔Mon fils, as-tu du coe&ur?〕(ねえ坊や、あんたはいったいこころってものを持ってるの?)」わたしの姿を見るが早いか、彼女はこう叫んだ。彼女の笑い方はいつもにぎやかで、時とすると真心から出ることさえあった。 「Tout autre ……(ほかのことはいっさい……)」とわたしはコルネーユをもじってこういいかけた。
「ねえ、あんた、vois-tu」と彼女は急にぺらぺらとまくし立てはじめた。「第一に、その靴下を取ってね、はくのを手伝ってちょうだい。それから、第二には、〔Si tu n’est pas trop b e^te, je te prends a` Paris?〕(あんたがあまりひどいばかでなかったら、あたしあんたをパリヘ連れてってあげるわ)あんた知ってる、あたしこれからすぐ立つのよ」
「これからすぐ?」
「三十分したら」
 いかにも、何もかも片づけてあった。トランクも手回りのものも、すっかり用意ができて、そのへんに置いてあった。コーヒーはとっくに持って来てある。
「Eh bien(ねえ)あんたがその気になれば、〔tu verras Paris Dis donc qu‘est ce que c’est qu’un outchitcl? Tu e'tais bien be^te, quand tu e'tais outchitel.〕(あんたはパリを見られてよ。いったいウチーテルってなんだかいってごらんなさい。あんたがウチーテルでいる間は、あんたはいつまでたってもばかよ。(〈[#割り注]ウチーテルはロシヤ語で教師[#割り注終わり]〉)わたしの靴下はどこにあるの? はかしてちょうだいってば、さあ!」
 彼女はじつにみごとな足を突きつけた。浅黒い可愛い足、それは靴をはいたときにはかわいく見えるけれど、そのじつ、ほとんど例外なく片輪にされている、ああいったふうの足とは違うのだ。私は笑いながら、それに絹靴下をはかせにかかった。ブランシュ嬢はその間ベッドに腰かけて、まくし立てるのであった。
「Eh bien, que feras-tu, si je te prends avec?(ねえ、もしあたしがあんたをいっしょに連れて行ってあげたら、あんたいったいどうする?)第一に、je veux cinquante mille francs.(わたし五万フランほしいのよ)フランクフルトへ行ったら、あんたそれだけあたしに寄越すのよ。〔Nous allons a` Paris〕(あたしたちはパリヘ行く)そこでふたりいっしょに暮らして、〔et je te ferai voir des e'toiles en plein jour.〕(あたし日中にお星様を見せてあげるわよ)そして、あんたは今まで見たこともないような女が見られることよ。ねえ……」
「ちょっと待って、そんなふうにして五万フランの金をあげたら、ぼくはその後どうなるの?」
「Et cent cinquante mille francs.(それから十五万フランよ)あんた忘れたのね。そのうえ、あたし一、二か月の間あんたと同棲してあげてもいいわ、que sais-je!(それは大丈夫よ!)もちろん、その二か月の間に十五万フランの金をすっかり使ってしまうのよ。どう、je suis bonne enfant(あたしいい子じゃなくって?)前からいっておくけど 〔mais tu verras des e'toiles〕(その代り、あんたは日中星が見られるのよ)」
「え、二か月にすっかりだって?」
「まあ! あんたはそんなことにびっくりするの? Ah, vil esclave!(ほんとに情けない下司根性ね!)いったいわからないめ、そういうふうにして暮らすひと月は、あんたの一生涯よりも値うちがあるわよ。ひと月、―― 〔et apre`s le d e'luge! Mais tu ne peux comprendre, va!〕(あとは野となれ山となれ、だわ! でも、あんたにゃわかりゃしない、行ってしまいなさい!)さあ、出た、出た、あんたなんか、それだけの値うちがありゃしないんだから! やれやれ、que fais-tu?(あんた、なんてことをしてるんだろうねえ)」
 そのときわたしはいま一方の足に靴下をはかせていたが、ついがまんしきれなくなって接吻してしまった。彼女はそれをもぎ放して、足の爪先でわたしの顔をけりだした。とどのうまり、わたしは追っ払われてしまった。
「Eh bien, mon outchitel, je t’attends, si tu veux.(もしもしウチーテルさん、お望みなら、待ってあげてよ)もう十五分たったら、あたし出発なんだから!」と彼女は後ろから追っかけるように叫んだ。
 自分の部屋へ帰ったとき、もうわたしは頭がくらくらしてしまっていた。ええ、どうなるものか、ポリーナ嬢がわたしに札束を投げつけて、もう昨日のうちからわたしをミスター・アストレイに見替えてしまっていたからって、それはわたしのせいじゃないのだ。きのう飛び散った紙幣の幾枚かが、まだ床の上にころがっていた。わたしはそれを拾い集めた。その時、扉があいて、ボーイ頭が(以前、わたしなどにははなも引っかけなかったものだが)、自身出頭に及んで、ついさきほどまでB伯爵の滞在していた下のりっぱな部屋へ移ったらどうか、と勧めに来た。
 わたしはしばらくたたずんで考えていたが、
「勘定だ!」と叫んだ。「すぐ出発するから、十分後だ」『パリならパリでもいいや!』とわたしははらの中で考えた。『つまり、そういう前世の約束なんだろうよ!』
 事実、十五分後には、わたしたち三人、――わたしと、ブランシュ嬢、そして、老コマンジュ夫人は、同じ家族専用車に乗っていた。ブランシュ嬢は、わたしの顔を見ながらげらげら笑っているし、老コマンジュ夫人もそれに調子を合せていた。わたしとしては、あえて楽しかったとは申しかねる。生活がまっ二つに割れようとしているのであったが、わたしはもはや昨日からというもの、いっさいをカルタに賭けることになれてしまった。あるいは、わたしがあの大金のかがやく光に堪え切れないで、頭がふらふらになったというのが本当かもしれない。が、peut-etres je ne demandais pas mieux.(ことによったら、わたしはもうこれ以上何もいらないのかもしれない)わたしは一時、――ただしほんの一時だけ、舞台の背景が変ったのだというような気がした。『ひと月たったら、おれはここへ帰って来る、そしたら……そしたら、ミスター・アストレイ、きみともう一度やり合うんだぜ!』とにかく、今から思い返して見れば、わたしはあのばか女のブランシュと競争で、げらげら笑ってはいたものの、その時からひどく憂鬱だったのだ。
「いったいどうしてほしいの! あんたはなんておばかさんなんでしょう! ああ、ああ、なんておばかさんでしょう!」時おり自分の笑いを断ち切って、まじめにわたしを叱りながら、ブランシュはこう叫ぶのであった。「ええ、そうよ、あたしたちはあんたの二十万フランをつかってしまうには違いないけれど、その代り mais tu seras heureux comme un petit roi.(その代り、あんたは小さな王様みたいな仕合せ者になるわ)あたしが自分であんたのネクタイを結んであげるわ。そして、オルタンスに紹介したげる。お金がすっかりなくなってしまったら、あんたまたここへやって来て、胴元からふんだくっておやんなさい。あのユダヤ人どもがあんたになんといって? かんじんなのは度胸だけど、あんたにはそれがあるわ。そうして、あんたはちょいちょいパリのわたしにお金を運んで来てくれるのよ。〔Quant a` moi je veux cinquante mille francs de rente et alors〕 ……(あたしはどうかってばね、あたし毎年きまって五万フランいるの、そうすると……)」
「ところで、将軍は?」とわたしはきいた。
「将軍はね、あんたも自分でご承知のとおり、毎日この時刻には、あたしにおくる花束を買いに出かけるのよ。今日はあたし、わざわざ一番めずらしい花を注文してやったの。かわいそうに、帰って来て見ると、鳥は逃げ出してしまってるって寸法よ。あの人はきっとあたしたちの後を追って飛んで来るわ。見ててごらんなさい。ははは! あたしのほうは大変ありがたいわ。パリでは、あの人も役に立つことがあってよ。あの人のここの滞在費は、ミスター・アストレイが払ってくれてよ……」
 まずこういったような事情で、わたしはその時パリヘ立ったのである。
[#4字下げ]第16章[#「第16章」は中見出し]
 パリについては、いったいわたしは何をはなしたらいいのだろう? それはもちろん、なにもかもたわごとであり、痴愚の限りであった。わたしがパリで暮らしたのは、わずか三週間あまりにすぎなかったが、その間にわたしの十万フランはきれいに片づいてしまった。わたしはただ十万フランのことだけをいっているので、残りの十万フランは現金でマドモアゼル・ブランシュにやった、――五万フランはフランクフルトで渡したし、あとの五万フランは三日たってから、パリで約束手形にして渡したが、一週間後には、ブランシュがちゃんとわたしから金を取り立ててしまった。“et les cent mille francs, qui nous restent, tu les mangeras avec moi, mon outchitel.”(わたしたちの分として残る十万フランは、あんたとわたしの食べ料になるのよ、ウチーテル)彼女はいつもわたしのことをウチーテルと呼んでいた。およそこの世に、ブランシュ嬢の属している一系列の人間ほど、勘定高くて、けちで、口うるさい連中はまたとあるまい。しかし、それは自分の金にかかわる場合の話である。わたしの十万フランのこととなると、彼女自身あとでわたしに堂々と声明したことだが、その金はパリでまず第一の足場を築くために必要だったのである。「おかげであたしも、今はもう押しも押されもせぬ地盤ができたから、これからはもうさきざきまでも、他人に蹴落とされるようなことはないわ。少なくも、あたしはそんなふうに手を打っておいたの」と彼女はつけくわえた。そのくせ、わたしはその十万フランをほとんど自分の目で見たことがないのだ。金はしじゅう彼女が握っていて、わたしの財布には、――彼女はこれを毎日しらべて見るのだが、かつて一度も百フラン以上あったためしがない、たいていはいつもそれより少ないことが多かった。
「だってさあ、あんたなんのためにお金なんかいるの?」と彼女は時おり、単純そのものみたいな顔つきをして、いったものである。で、わたしもあえて争わなかった。その代り、彼女はその金でなかなかうまく自分の住まいの造作をして、その後、わたしをその新居へ案内して来たとき、部屋部屋を見せながら、こういった。「どんなもの、あたしの腕は、あ
れっぽっちのけちくさいお金で、経済を考えながら、これだけ趣味のいい飾りつけをしたんだからね」ところで、このけちくさい金なるものが、かっきり五万フランという数字になったのである。残りの五万フランで、彼女は馬車と馬をもとめた。のみならず、わたしたちは二度も舞踏会を催した。舞踏会といっても、ほんのちょっとした夜の集まりで、オルタンスだの、リセットだの、クレオパトルなどという、多くの、きわめて多くの点で注目に値する女、むしろ、りっぱな女性たちがやって来た。この二度の夜会で、わたしはばかばかしさこの上もない亭主役を勤めさせられた。神経のにぶい成金の商人どもや、やりきれないほど無学で無恥厚顔な、いろいろ種類の違った中尉連や、流行の燕尾服を着てクリーム色の手袋をはめたへぼ文士や、ジャーナリズムの虫けらどもを出迎えたり、その相手を勤めさせられたりするのだ。ことに文士連やジャーナリストたちときたら、自尊心とうぬぼれの強いこと強いこと、わがペテルブルグでさえ想像もできないほどで。――まあ、これだけでもなみたいていなことではないのだ。やつらはわたしを笑いぐさにしようなどという太い了見を起したが、わたしはシャンパンをじゃんじゃんあおって、奥の間にぶっ倒れてしまった。そういったようなことが、わたしには何もかもへどが出そうなほどいやでたまらなかった。
「C‘est un outchitel(これはあるウチーテルでしてね)」とブランシュはわたしのことをそういった。「〔il a gagne' deux cent mille francs〕(二十万フランもうけたんですの)ところが、もしあたしというものがいなかったら、そのお金の使い道がわからなかったでしょうよ。後でまた教師をやるんだけど、どなたかいい口をご存じないでしょうか? 何かこの人のためにしてやらなくちゃなりませんものね」
 わたしはしょっちゅうシャンパンの助けをかりるようになった。というのは、のべつ気がふさいで、やりきれないほど退屈だったからである。わたしが住んでいたのは、きわめてブルジョア式な、きわめて商人的な環境で、一スウのはした銭でもきちんと勘定され、秤にかけられるような社会だった。ブランシュは初めの二週間というもの、私がいやで仕様がなかったらしい、それにはわたしも気がついていた。なるほど、彼女はわたしにしゃれた身なりをさせて、毎日自分でネクタイをむすんでくれはしたものの、はらの底ではしんからわたしを軽蔑していた。が、わたしはそれにいささかの注意も払わなかった。ものうく淋しい心をいだいて、わたしはたいていいつも花屋敷《シャトウ・ド・フルール》へ出かけて行き、毎晩きまって酒を浴びるように飲んで、カンカン踊りを習った(ここでは格別いやらしい踊り方をするのだ)。こうしてついには、その方面で有名になったくらいである。しかし、とどのつまり、ブランシュもわたしという人間の正体を突きとめた。彼女はどうしたものか、前もってこんな観念をつくり上げていたのである。それによると、わたしはふたりの同棲生活の間じゅう、鉛筆と紙を手に持って彼女のあとを付け回し、いくらつかったか、いくら盗んだか、いくらつかうだろうか、これからまたいくら盗むだろうかと、のべつ勘定ばかりしている人間なのである。そして、もういうまでもないことだろうが、わたしたちふたりのあいだには、十フラン百フランごとにもめごとがあるものと、彼女は思い込んでいた。で、あらかじめわたしの攻撃を予想して、それに対していちいち手回しよく抗弁を用意していたものである。しかし、わたしがいっこうになんの攻撃もしないのを見て、初めのうちは自分のほうから抗弁したものである。時おり、躍起となってしゃべり出すが、わたしが黙りこくっているのを見て(たいていの場合はソファの上にねそべって、じっと天井をながめているのだ)、しまいにあきれ返るのだった。はじめ彼女は、わたしがただのまぬけで“un outchitel”にすぎないと早合点して、あっさりと、弁明を打ち切ってしまった。おそらく心の中で、『何しろこの男はばかなんだから、ご当人がわからないでいるものを、こっちから知恵をつけることはいりゃしない』とでも考えたのであろう。で、いったんひき上げるが、また十分ばかりすると引っ返して来るのだ(それは彼女の無分別きわまる浪費、まるでわたしたちの懐ろに合わない浪費の後でよく起ることだった。たとえば、馬車をひかせる馬を取り換えるといって、一万六千フランの二頭立を買った時などである)。
「ねえ、|坊ちゃん《ビビ》、それじゃあ、あんたは怒っちゃいないのね?」と彼女はそばへ寄って来る。
「怒っちゃいなーいよう! うーるーさーい!」とわたしは手で女を押しのけながら答える。ところが、彼女にして見れば、これが不思議でたまらないので、すぐにわたしと並んで腰をおろす。
「ねえ、あたしあれだけの金を思い切って出す気になったのは、偶然あの馬が売りものに出たからなのよ、後でまた売れるわ、二万フランぐらいで」
「そうだろう、そうだろうとも、りっぱな馬だ。これでおまえの外出も堂々たるものになったわけだ。何かといろいろ役に立つだろうよ。それで結構じゃないか」
「じゃ、あんた腹を立てちゃいないのね?」
「なんのためにさ? おまえが自分のために必要なものをととのえるのは、分別のあるやり方というものだ。そういうものはなんでも、後日おまえの役に立つからな。おまえがほんとうにそうした位置を築き上げなくちゃならんのは、おれにもちゃんとわかってるよ。さもなけりゃ、百万長者になれっこないさ。そのためには、われわれの十万フランなどはほんの手始めで、大海の一滴にすぎないよ」
 わたしからこんな理解のある判断を(罵詈や非難の代りに!)聞こうとは思いもよらなかったブランシュは、まるで天からおっこちたような顔をした。
「じゃ、あんたは……まあ、あんたはそういう人なのねえ! 〔Mais tu as l’esprit pour comprendre. Sais-tu, mon garc,on.〕(あんたは理解のある人だわ。ねえ、あんた)あんたは教師《ウチーテル》ではあるけれども、ほんとうは王子として生まれて来るべきだったんだわ! じゃ、あんたは、お金がどんどん出て行くのを、惜しがっちゃいないのね?」
「ちょっ、あんなもの、いっそひと思いに使ってしまったほうがいいくらいだ!」
「Mais …… sais-tu …… mais dis donc(でも……ねえ、あんた……考えてもごらんなさい)いったいあんたはお金持ちなの? ねえ、あんた、だって、あんたはあまりお金をばかにしすぎるわよ。〔Qu‘est ce que tu feras apre`s, dis donc?〕(いったいあんたはこれから、何をするつもり、え?)」
「|これから《アブレー》、ホンブルグへ行って、また十万フランもうけるよ」
「〔Oui, oui, c’est c, a, c’est magnifique!〕(そうよ、そうよ、それがいいわ、それはりっぱなことよ!)あんたがまちがいなく勝って、お金をここへ持って来てくれるのは、あたしちゃんとわかってるわ。Dis donc あんたはほんとうに、あたしがあんたにほれるようにしてくれるわね。Eh bien あんたがそんな気っぷだから、あたしあんたが末しじゅう好きになって、一度だって、浮気なんかしないようにするわ。だってさ、あたしは今までずっとあんたが嫌いだったけど、parce que je croyais, que tu n‘est qu’un outchitel. quelque chose comme un laquais, n‘est ce pas?(だって、あんたはただのウチーテルだけのもので、いわば下男と同じようなものだと思い込んでたんですもの、そうじゃなくって?)だけど、それでもあたしは浮気なんかしなかったわよ、parce que je suis bonne fille(なぜって、あたしはいい人間なんだもの)」
「ふん、うそつけ! じゃ、あのアルベールは、あの浅黒い顔をした将校はなんだい、この前おれが見ていなかったとでも思ってるのかい?」
「Oh, oh, mais tu es ……(あら、あら、だってあんたは……)」
「ふん、うそ、うそ! ところで、おまえはおれが腹を立ててるとでも思うのかい? ぺっ、そんなことがたんだい、il faut que jeunesse se passe.(なあに、若い時にはありがちのことだよ)あの男のほうがおれよりも先口で、しかも、おまえがあいつにほれてる以上、おまえとしてもあいつを追っ払うわけにもいくまいて。だが、あいつに金をやったら承知しないぞ。
「じゃ、あんたはあの人のことも怒らないの? Mais tu es un vrai philosophe, sais-tu? Un vrai philosophe!(まあ、あんたはほんとうの哲学者だわ。わかって、ほんとうの哲学者よ!)」と女は有頂天になってさけんだ。「Eh biens je t’aimerai, je t’aimerai ―― tu verras, tu seras content!(ああ、あたしきっとあんたが好きになるわ、好きになるわ、――見ててごらん、今にあんた満足してよ!)」
 いかにも、それ以来、彼女はどうやらほんとうにわたしに親しみを感じた様子で、親友づき合いといったようなところまで出てきた。こうして、わたしたちの最後の十日間が過ぎたのである。前触れのやかましかった「日中の星」は見なかったものの、ある点では彼女はたしかに約束を守った。その上、オルタンスをも紹介してくれた。それは独自の意味であまりにも注目にあたいする女性であって、仲間では 〔The're`se philosophe〕(女哲学者テレーズ)と呼ばれていた……
 もっとも、そんなことをくだくだしく書き立てる必要はない。それは独得の色彩をもった別個の物語であるから、この小説の中へ挿入したくない。要するに、こんな状態が一刻も早く大団円となるようにと、わたしは心底から祈ったものである。例の十万フランは、もう前にいったとおり、ほとんど一か月もった、――それにはわたしも正直おどろいたほどである。すくなくとも、そのうち八万フランで、ブランシュがいろんなものをしこたま買い込んだので、わたしたちの生活費に当てたのは、断じて二万フランを越さなかったが、――それでもとにかく足りたのである。しまいころには、わたしに対してだいたいはらを割って話すようになったブランシュは(少なくとも、何かのことについてはうそをつかなかった)、自分が余儀なく作った借金だけは、わたしの肩にかからないようにするといった。
「あたし、あんたに手形や、証文の署名をさせなかったからね」と彼女はわたしにそういった。「あんたが気の毒だったもんでね。ほかの女だったら必ず署名させて、あんたを監獄へぶち込んだに相違ないわ。ね、ね、あたしが、どんなにあなたを愛していたか、あたしがどんなに心根のいい女かってことが、わかったでしょう! あのいまいましい結婚式だけでも、あたしにはどれくらいの思いやら知れやしないものね!」
 じっさい、結婚式が準備されていたのである。それはこの一か月もいよいよ終ろうとするころに持ちあがった話で、察するところ、わたしの十万フランのいちばん底のかすともいうべきものが、これできれいにさらい出されたらしい。それで事件は、いや、ふたりの一か月は終りを告げ、その後、わたしは正式に辞職ということになったわけである。
 それはこういう事情である。わたしたちがパリに落ちついて一週間たった時、将軍がやって来た。ブランシュを目当てにやって来たので、ほとんど初めて訪ねて来るやいなや、私たちのところへ居すわってしまった。もっとも、将軍にも自分の住居というものがあることはあったのだ。ブランシュはさも嬉しそうに、甲高い叫びを上げたり、からからと笑ったりしながら彼を迎え、飛びかかって抱きついたほどである。そのうちに、彼女のほうが将軍を帰さないようになり、彼はブルヴァールだろうと、ドライヴだろうと、芝居だろうと、訪問だろうと、いたるところ、彼女のお伴をしなければならたかった。そういうご用には将軍もまだ役に立った。彼はかなり押出しが堂々として、どこといって非のうちどころはなかった。――背は、まあ、高いほうだし、ほおひげや口ひげはちゃんと染めているし(彼はかつて胸甲騎兵隊に勤務していたので)、顔もいくらか、ぶよついてはいたが、見てくれのいいほうであった。態度動作は申し分なく、燕尾服の着こなしもなかなか上手だった。パリヘ来てから、勲章をつけ始めた。こういう男といっしょにブルヴァールを歩くのは、おかしくないどころか、もしこんな言葉使いができるとすれば、むしろ自己紹介的効果[#「自己紹介的効果」に傍点]さえあった。お人よしでわからずやの将軍は、そういういっさいのことに大満悦であった。彼は、パリヘ着いて、わたしたちのところへ押しかけて来た時には、まるっきりそんなことを当てにしていなかったのである。その時はびくびくもので、ほとんどふるえながらやって来たのだ。彼はブランシュがどなりちらして、玄関払いをくわすものとおもっていたのだが、意外な事の成行きを見て、有頂天になってしまった。そして、まるひと月の間、なにかこう無意味な上の空の状態で過ごしてしまった。またわたしが立つ時も、やはりそんなふうであった。もうここへ来てから、わたしはくわしい話を聞いたのだが、あの時ブランシュがとつぜんルレッテンブルグを去った後で、彼はさっそくその朝なにかの発作を起した。失神状態で倒れたのだ。それ以来ずっと一週間、ほとんどきちがい同然で、あらぬことばかり口走っていた。ところが、療養の最中に、彼はだしぬけに何もかもおっぽり出して、汽車に乗り込み、パリヘかけつけたのである。もちろん、彼を迎えたブランシュの態度が、何よりも有効な薬となったに相違ないが、しかし、病気の兆候は、当人はうれしくて夢中になっていたとはいいながら、後々までも長く消えなかった。ものごとを判断するどころか、ほんのちょっとでもまじめな話をすることさえ、もはやまったく不可能になっていた。そんな時には、ひと言ひと言に「ふむ!」といってうなずく、それでお茶をにごしてしまうのであった。彼はよく笑ったけれども、何か妙に神経的な、病的な笑い方で、まるで揺すぶり出すような具合であった。が、どうかすると、何時間も何時間も、濃い眉をひそめて、さながら夜そのもののように、陰鬱な顔つきですわり込んでいる。まるきり思い出せないことも多くなって、醜態といっていいほど放心家になり、ひとり言をいうくせがついてしまった。彼を活気づかせることができるのは、ただブランシュばかりであった。それに、この陰気くさい気むずかしい状態が発作的にやってきて、彼が隅っこへ引っ込んでしまうのも、要するに、長いことブランシュの顔を見ないとか、ブランシュがどこかへ出かけて、彼をいっしょにつれて行かなかったとか、出しなに優しい愛撫を示さなかったとか、そういうことを意味するのであった。こんな場合、どうしてもらいたいのか、自分からも決していわないし、また自分が陰気に沈み込んでいることを、ご当人からしてご存じないのである。一、二時間じっとすわっていたのち(わたしはそんなのを二度ばかり見た。それはブランシュが、おそらくアルベールのところへ出かけて、まるいちんち留守だった時のことである)、彼はとつぜんきょろきょろとあたりを見まわし、そわそわし始める。振り返ってみたり、何か思い出そうとしたり、だれかをさがしてでもいるようなそぶりを見せる。しかし、だれも見当らず、何をきこうとしているのかも思いおこせないので、またもや自己忘却に落ちてしまう。と、ふいにはなやかに着飾ったブランシュが、持前のよくとおる笑い声を立てながら、浮き浮きと蓮っぱにかけ込んで、彼をゆすぶりにかかる、時には、接吻してやることさえある。――もっとも、この恩寵はめったに授けられないのであった。一度なんか、将軍は彼女の帰りのうれしさのあまり、おいおい泣き出したことさえある、――わたしも一驚を喫したくらいである。
 ブランシュは、将軍がパリに姿を現わしたそもそもから、さっそくわたしの前で彼に対する弁護の態度をとり出した。とうとうと雄弁をふるい出すことさえあった。彼女は、自分がわたしのために将軍に背いたこと、自分はほとんど将軍の許嫁同然であったこと、彼に誓いを立てたこと、自分がもとで彼は家庭を抛擲してしまったこと、などにたいしてわたしの記憶を促し、最後に、わたしは彼の家で勤めていたのだから、その点をきもに銘ずべきはずであるにもかかわらず、――よくまあ恥かしくないことだ……といった調子で終るのであった。わたしはその問ずっと沈黙を守っていた。すると、彼女のほうはものすごくまくし立てるのだ。とどのつまり、わたしが呵々大笑する。それでけりになるのであった。つまり、初め彼女はわたしのことをばか扱いにしていたが、しまいころになって、なかなか話のわかるいい人間だ、という考えに落ちついたのである。てっとり早くいえば、わたしはこのりっぱな女性のまごうかたなき好感をかち得るの幸福をになったのである(ブランシュはほんとうのところ、この上もない善良な女性であった、――ただし、それが独自な善良さであるのはいうまでもあるまい。わたしも初めはそれほど彼女の真価がわからなかった)。
「あんたは頭のいい、よくできた人だわ」と彼女はしまいころに、よくこう言い言いした。「でも……でも……あんなが、そんなおばかさんなのが残念だわ! あんたにはとても、お金もうけなんかできないわよ!」
「Un vrai russe, un calmouk([#割り注]ロシヤ欧亜の境に住む蒙古族[#割り注終わり])!(まったくのロシヤ人ね、カルムイク人だわ!)」彼女はまるで下男をつけて愛犬を散歩に出すように、何度も将軍を通りから通りへ散歩させるためにわたしを送り出したものである。わたしは彼を芝居にも、Bal-Mabille にも、レストランへも連れて行った。その費用として、ブランシュは金を渡してくれた。もっとも、将軍には自分の金があって、人中で紙入を出すのが大好きなのであった。ある時、わたしは七百フランのブローチを買わせないために、ほとんど腕力に訴えなければならぬはめになった。それは将軍がパレ・ロヤルでふと目にとめて、是が非でもブランシュに贈物にするといって聞かないのであった。いったい七百フランのブローチなどがブランシュにどれだけ有難がられると思っているのか? 将軍の所持金というのは、一切合財で千フランくらいなものだった。全体どこからそんな金が出て来たのか、わたしはついに突きとめることができなかった。おもうに、ミスター・アストレイから貰ったのであろう。何分にも、彼は将軍にホテルの払いまでしてやった男なのだから。ところで、その間じゅう将軍がわたしをどう見ていたかという問題だが、彼はわたしとブランシュとの関係を疑って見ようとさえしなかったらしい。彼はわたしが博奕で大金をもうけたという噂を、ぼんやり小耳に挟んではいたけれども、きっとわたしのことをブランシュの私設秘書か、それとも、あるいは従僕くらいに想像していたにちがいない。少なくとも、わたしに対する。口のきき方は、いつも依然として、上官ふうに高飛車で、どうかすると、剣つくをくわすことさえあった。一度なぞは、朝コーヒーを飲んでいる時、私をもブランシュをも、腹の皮のよじれるほど笑わしたことがある。彼はさして怒りっぽい人間ではないのだが、その時とつぜんわたしに腹を立てたのである、――しかも、なんのためやら、今もってふに落ちないのだ。が、彼自身も、もちろんわからないにきまっている。要するに、何やら頭もなければしっぽもないような話を 〔a` ba^ tons-rompus〕(とぎれとぎれに)持ち出して、わたしのことを「おまえは小僧っ子だ、今に思い知らせてやる……骨身にしむようにしてやる……」云々とわめき出したのである。しかし、だれも何一つとして合点がいかなかった。ブランシュは大きな声できゃっきゃっと笑った。あげくのはて、やっとのことで将軍をなだめて、散歩につれ出した。とはいえ、わたしは何度もこんなことに気がついた――彼はどうしたものか急に沈み込んでしまう、だれかがかわいそうになり、何かの名残りが惜しまれるのだ。ブランシュがいるにもかかわらず、だれかがまだ足りないような気がするのだ。そういう時、彼は二度までも自分のほうからわたしに話を持ちかけたことがあるが、ついぞ一度も、満足に要領を得たことがなく、昔の勤務のことや、なき妻のことや、領地のことや、その経営のことなどを、とりとめもなく思いおこすだけであった。何かある言葉にぶっ突かると、無性にうれしくなって、それを百ぺんくらいもくりかえす。といって、その言葉が彼の感情や、思想を表現してくれるわけでもないのだ。わたしは彼の子供のことを持ち出して見た。が、彼は前と同じような早口で、「そう、そう! 子供たち、きみのいうとおりだ、子供たち!」といったふうの言葉で、いいかげんにごまかしてしまい、すぐさま、話題をほかへ転じてしまった。ただ一度だけ、ふたりで芝居へ行っている途中、将軍はすっかり感傷的になってしまって、「あれは不仕合せな子供たちだ!」と、やぶから棒にいい出した。「そうなんだよ、きみ、そうなんだよ、あれはふーしーあわせな子供たちだよ!」その晩はそれから後も、彼は幾度となく「ふしあわせな子供たち!」という言葉をくりかえした。あるとき、私かふとポリーナのことをいい出したら、彼はかんかんになって怒り出したほどである。「あれは意地わるの恩知らずだ! あれは家名に泥を塗った! もしここに法律というものがあったら、わしはあいつをぎゅうぎゅういう目にあわせてやるんだがなあ! そうとも、そうとも!」ド・グリエのことに至っては、彼の名を聞くのさえ潔しとしなかった。「あいつはわしを破滅させたんだ」と彼はいうのであった。「わしの身の皮をはいだんだ、わしを斬り殺したも同様だ! あれはまる二年間というもの、わしの悪夢だった! 何か月も何か月もぶっつづけに、わしの夢枕にあらわれおったよ! あいつは、あいつは、あいつは……おお、どうかあいつの名を二度とふたたび口にしてもらうまい!」
 わたしは、将軍とその恋人の間が何か調子よく行っているらしいなとにらんでいたが、例によって黙っていた。さきに口を切ったのはブランシュで、わたしたちの別れるちょうど一週間まえのことであった。
「Il a du chance(あの人も運が向いて来てね)」と彼女はぺらぺらとまくし立てはじめた。「babouchka(お祖母さん――([#割り注]ロシヤ語[#割り注終わり]))が今度こそほんとうに病気になって、まちがいなく死ぬんですよ。ミスター・アストレイが電報を寄越したの。ね、そうでしょう、あの人はなんてったって、お祖母さんの相続人でしょう。よしんばそうでないにもせよ、あの人ならべつにじゃまにもならないもの。第一、あの人には自分の年金というものがあるし、第二に、あの人は脇のほうの部屋に住むことになるんだから、それでほんとうに仕合せにやっていけるわ。あたし、〔madame la ge'ne'ral〕(将軍夫人)になって、上流社会にはいって行くの(ブランシュは始終そればかり空想していたのだ)、それから後でロシヤの女地主になるわ。〔J’aurai un cha^teau, des moujiks, et puis j’aurai toujours mon million.〕(あたしに自分の館があって、ムジックがあって、そのうえ、いつも自分のお金が百万くらいあるのよ)」
「でもさ、もし将軍がやきもちを焼いて、その……とんでもないことを要求し出したら、――ね、わかるだろう?」
「まあ違うわよ、non, non, non! どうしてそんなことができるもんですか? あたし、ちゃんと方法を講じておいたから、余計な心配をしないでよ。あたしもう将軍にアルベール名あての手形を何枚か書かせたの。ちょっとでも変なことがあったら、すぐに罰を受けなくちゃならないんだから、それに、そんな生意気なことできやしないわよ!」
「じゃ、結婚するがいいさ……」
 式はあまりぎょうぎょうしくなく、内輪にひっそりと取りおこなわれた。アルベールその他二三の近しい人々が招待された。オルタンス、クレオパトル、等々の連中は断然オミットされた。花婿は自分の境遇に一方ならず興味を感じた。ブランシュは手ずから彼のネクタイを結んでやったり、頭にポマードを塗ってやったりした。こうして燕尾服に白チョッキを着けた将軍は、〔tre`s comme il faut〕(あっぱれみごとな紳士ぶり)であった。
「〔Il est pourtant tre`s comme il faut〕(なんてっても、この人はみごとな紳士ぶりね)」と当のブランシュも将軍の部屋から出て来ながら、自分でもわたしにそういった。まるで将軍が 〔tre`s comme il faut〕 であるという想念が、彼女自身をさえ驚かせたような具合である。わたしは、はなはだもって無精な観察者として、この事件に参与したばかりであるから、あまりこまごましたことには立ち入らなかったし、それにたいていのことはどういうふうだったか忘れてしまった。ただ覚えているのは、ブランシュがてんでド・コマンジュなどとはいわず、またその母親にしてからが、やはり、老コマンジュ夫人ではなくて、ドュ・プラセーだったという事実である。なぜこのふたりがいままでド・コマンジュだったのか、――わたしは知らない。しかし、将軍はこれにも結局満足して、ドュ・プラセーの方がド・コマンジュよりむしろお気に召したくらいである。結婚式の朝、もうすっかり、支度を終えた将軍は、広間をあちこち歩きながら、並はずれてまじめな物々しい顔つきで、のべつひとりでくりかえしていたものである。「M-lle Blanche du-Placet! Blanche-du Placet, du-Placet! ブランカ・ドュ・プラセー嬢か!………」そして、一種の自己満足の色がその顔に輝いていた。教会でも、市役所でも、家へ帰って前菜《オードウブル》に向かってからでも、彼はただうれしそう、満足そうというばかりでなく、むしろ、誇らしげでさえあった。彼ら両人の身に何事か起ったに相違ない。ブランシュ自身もやはり何かしら、特別威厳のある態度をとるようになった。
「あたし、これからはすっかり態度を変えなくちゃならないわ」と、彼女はおそろしくまじめくさって、わたしにいったものである。「Mais vois-tu(でもねえあんた)あたし一つとてもいやなことがあるのよ。今まで夢にも考えてなかったことなんだけど、まあどうでしょう、あたしいまだに自分の新しい苗字を覚え込むことができないの。ザゴリヤンスキイ、ザゴジヤンスキイ、〔m-m la ge'ne'ral de Sago ― Sago …… ces diables des noms russes, enfin madame la ge'ne'ral a quatorze consonnes! Comme c‘est age`able, n’est ce pas?〕(将軍夫人ザゴ――ザゴ……あのロシヤ名前っていやんなっちまうわ。結局、十四も子音のある将軍夫人というわけよ、やり切れないわね、そうじゃなくって?)」
 いよいよわたしたちは訣別した。ブランシュは、あの愚かなブランシュでさえ、わたしに別れを告げながら涙ぐんだ。
「〔Tu e'tais bon enfant〕(あんたはいい子だったわ)」と彼女はしくしく泣きながらいった。「〔Je te croyais be^te et tu en avais l‘air〕(あたしあんたをばかだと思い込んでたわ、それにあんたがまたそんな顔つきをしてるんだもの)でも、そのほうがあんたに似合うわ」それから、わたしと最後の握手をしてから、彼女はだしぬけに Attends!(待ってちょうだい)」とさけんで、居間へかけこみ、しばらくして千フラン紙幣を二枚もって来た。わたしもこれには狐につままれたような思いで、目をこすった! 「これだってあんた、何かの役に立ってよ。あんたは、もしかしたら、大した学問のあるoutchitel かもしれないものね。でも、あんたったら、仕様のないおばかさんね。二千フラン以上はわたしこんりんざいあげやしない。だって、どうせ博奕で負けてしまうんだもの。じゃ、さよなら! Nous serons toujours bons amis(いつも仲のいいお友達でいましょうね)また博奕でもうけたらぜひいらっしゃいよ、et tu seras heureux!(そしたら、あんた仕合せものになれてよ!)」
 わたし自身の手もとにも、まだ五百フランばかりのこっていたし、なおそのほか千フランくらいのすばらしい時計と、ダイヤのカフスボタンやら何やら持っていたから。まだかなり長い間、なんの心配もなしに当座しのぎができたわけである。わたしはなにかと支度を整えるために、わざとこの小さな田舎町にいかりを下ろしたのだが、おもな目的はミスター・アストレイを待つことだった。彼がここを通過して、しかも、用件のため一昼夜だけ足を止めることを、わたしはしかと突きとめたのである。何もかも聞き出してやろう……それから、――それからまっすぐにホンブルグへ行くのだ。ルレッテンブルグヘは行かない、行くとしても、まあ来年の話だ。同じ賭博台で、つづけざまに二度運だめしするのは縁起がわるい、というのはほんとうらしい。しかも、ホンブルグではまったく本格的な勝負が闘わされているのだ。
[#4字下げ]第17章[#「第17章」は中見出し]
 わたしがこの手記をのぞいてもみなくなってから、もう一年と八か月になる。今はじめて、あまり気が沈んでくさくさするものだから、一つ気をまぎらしてやろうと思って、偶然読みかえしてみた。すると、ホンブルグへ行こうというところで投げ出してあった。ああ! これは比較的にいっての話だが、なんという気安さでわたしはあの時、この最後の数行を書いたことだろう! いや、気安さどころの沙汰ではない。なんという自信、なんという確固不動の期待をもって、書いてのけたことか! わたしはほんのいくらかでも疑っていただろうか? これでもう一年半以上たってしまったが、わたしの今の境遇は、自分の目から見ても、乞食よりはるかに劣っている! いや、乞食がなんだ! 乞食なんて比較は犬にでも食われてしまえ! わたしは、てもなく自分で自分を滅ぼしたのだ! もっとも、何も比較なんかすることはいらないし、自分にお説教をして聞かせることもない! こういう時には、お説教以上にばかげたものはあり得ないのだ! おお、自己に満足せる人々よ、これらの饒舌漢はなんという誇らしげな独善感をもって、お手製の金言を読み上げたがっていることか! わたしが今の自分の境涯のいまわしさを、どれほどはっきり自党しているかということを、もし彼らが合点してくれたなら、それこそいくらわたしにお説教をしようたって、舌が動かないに相違あるまい。いったい彼らは何を、――わたしの知らないどんな新しいことをいえるのだろう、――また問題は果してそんなところにあるのだろうか? このさい、問題のありどころはほかでもない、運命の輪のたったひと回りで、何もかもが一変するということだ。そうすると、ほかならぬ同じ道徳家先生たちがまっさきになって(わたしはそれを確信している)、さも親友らしく冗談たらたらお祝いをいいに来るにちがいない。その時は、みんな今のようにわたしから顔をそむけなどしないだろう。なに、あんなやつらはだれも彼も唾をひっかけてやればいいのだ! だが、今のわたしはなんだろう? ゼロだ。そして、明日はいったいなにになれるのか? 明日は死からよみがえって、再び生活をはじめるのだ! 自分の内部の人間を見いだすのだ、まだすっかり滅びつくさないうちに。
 そのとき、わたしはほんとうにホンブルグへ出かけたが……その後またルレッテンブルグヘ行き、スパーヘも行き、バーデンへすら行った。これはわたしが以前この地で勤めたことのあるさる顧問官で、ヒンツェという悪党の侍僕頭としてお伴したのである。さよう、わたしは下男までしたのだ、しかも、まる五か月間も! それは監獄を出てからすぐのことだった。(じつのところ、わたしはある負債のために、ルレッテンブルグで牢屋へぶち込まれたのだ。そのとき、だれか無名の人がわたしを身請けしてくれたが、――それが何者やら、ミスター・アストレイやら、ポリーナやら、わたしにはわからない。が、とにかく、いっさいで二百ターレルの負債を払ってもらって、わたしは娑婆へ出たのである)どこにも身の寄せどころがないので、そのヒンツェの家へ奉公にはいったわけである。これはまだ若い軽はずみな男で、なまけ好き、ところが、わたしの方は三か国語でしゃべったり、書いたりすることができたのである。初めはなにか秘書といったような格ではいったので、月給も三十グルデンだったが、とどのつまり、下男奉公に転落した。彼は、秘書をかかえておくだけの力がなくなって、わたしの俸給を減額した。それでも、わたしはどこも行き場がなく、そのまま居残った、――といった次第で、ずるずるべったり下男になりさがったのである。わたしは、彼のもとで奉公している間、ろくろく満足に腹もふくらすことができなかったけれども、その代り五か月間に七十グルデンの蓄えができた。バーデンでのある晩のこと、わたしはとつぜん彼に向かって、これでお別れにしたいと申し出た。その晩さっそく、わたしはルレットヘ出かけた。おお、わたしの胸はなんとはげしく鼓動したことだろう! いや、わたしにとって貴いのは金ではなかった! そのときわたしがひたすら念じたのは、あのヒンツェ輩を初めとして、ホテルのボーイ頭や、バーデンに集まった上流の貴婦人たちが、明日にもさっそく異口同音にわたしのことを話題にし、わたしの身の上を物語り、驚嘆し賛美しながら、わたしの新しい勝利に跪拝するということであった。これらは、まったく子供じみた空想であり願望にすぎない。けれども……万が一あのポリーナにひょっこり出くわしたら、わたしは彼女に一部始終を物語るに相違ない。すると彼女は、わたしがこうした無意味な運命の衝撃をはるかに超越しているということを、見抜いてくれたかもしれないのだ……、おお、わたしにとって貴重なのは金ではない! わたしは自分でも確信しているが、もしまた金をもうけたら、もう一度ブランシュみたいな女にばらまいてやったにちがいない。もう一度パリでたった三週間だけ、一万六千フランの自家用二頭立てを乗りまわしたに決まっている。わたしは自分がけちんぼでないのを、しかと承知している。それどころか、わたしは浪費家だとさえ思う、――それにもかかわらず、賭場の監督が、trente et un, rouge, impair et passe(三十一、赤、半、バス)とか、quatre, noir, pair et manque(四、黒、丁、マンク)などと叫ぶ声を、あやしい心の戦慄と、胸のしびれるような思いなしには、聞くことができないのである。ルイ・ドル、フリードリッヒ・ドル、ターレル等の一面に散乱している賭博台、監督の持つシャベル様のものに突き崩されて、火のごとく燃え立つ小山に流れ込む金貨の柱、円盤のまわりに横たわっている二尺もありそうな銀貨の列、こういうものをながめるわたしの目が、なんと貪婪に輝くことか。賭博台を指していそぐ時、まだふた間も隔てているあたりで、かきまわされる金のじゃらじゃらいう音を耳にすると、わたしはほとんど全身に痙攣が起りそうなのだ。
 ああ、わたしがとっときの七十グルデンを賭博台に持って行ったその晩も、同様に記憶すべきものであった。わたしは手初めに十グルデンを賭け、またパスから始めた。わたしはこのパスに先入見をいだいているのだ。その勝負は負けだった。わたしの手には銀貨で六十グルデン残っていた。わたしはちょっと考えて――こんどはゼロをえらんだ。わたしは一回五グルデンずつの割にして、ゼロに賭け始めた。すると、三回目にとつぜんゼロが出た。百七十五グルデンの金を受け取ったとき、わたしはうれしさにほとんど息もとまらんばかりのありさまであった。十万グルデンもうけた時でさえ、これほどの喜びは感じなかった。すぐさまわたしは百グルデンを赤《ルージュ》に賭けて、――勝った。二百グルデン全部を赤《ルージュ》に賭けて、――また勝った。四百グルデン全部を黒《ノアール》に張って、――勝った。八百グルデン全部をマンクに張って、――勝った。以前の分と合せて、千七百グルデンになったが、それは五分とはかからない間のことである! しかり、こういう瞬間には、以前の失敗などは根こそぎ忘れてしまうものだ! 何しろ、わたしは生命の危険以上のものを賭けて、これを獲得したのだ。敢然としてこの危険を冒した、――それだからこそ、わたしはふたたび人間の仲間に入れたのだ!
 わたしはホテルの一室を占領して、その内に閉じこもり、三時ごろまで起きて金の勘定をした。翌朝、目をさました時には、わたしはもはや下男ではなかった。わたしはその日にすぐホンブルグへ出発しようと腹を決めた。そこでは、わたしは下男奉公もしなければ、監獄へぶち込まれたこともない。汽車の出るまでの三十分間を利用して、わたしは二回だけ、ほんとうに二回だけ勝負をしに行ったが、千五百フロリンすってしまった。が、とにかくホンブルグヘうつって、もうこれでひと月もここに暮らしている……
 わたしはいうまでもなく、絶えざる不安の中に生活しているのだ。ごく小さな賭で勝負をしながら、何かを待ちもうけ、胸算用し、毎日、朝から晩まで賭博台のそばに立って、勝負を観察し[#「観察し」に傍点]、夢にさえルレットばかり見ている始末である。――しかし、それでいて、わたしはなんだか心が硬化したような、まるで泥沼にでも吸い込まれたような気がしている。わたしがこんな結論を下すのは、ミスター・アストレイに遭遇した時の印象によるものである。わたしたちはあれ以来、一度も顔を合せたことがなく、これはまったくの奇遇であった。事情はまず次のとおりである。わたしは庭の中をさまよいながら、今こそおれはほとんど文なしだが、しかしそれでも、五十グルデンだけはあるし、そのほかホテルでは一昨日、あわれな小部屋の代その他をきれいに払ってしまった、などと胸算用していた。こういうわけで、現在のわたしには、たった一度だけルレットに行く可能性が残されているので、たとえわずかなものでも勝ちさえすれば、勝負をつづけることができるけれど、もし負けてしまったら、また下男奉公をしなければならない。ただし、それは家庭教師のいるロシヤ人がすぐ見つからなかった時の話である。こういう想念に没頭しながら、わたしは庭を横ぎり、林を越えて、隣りの公園へ行く毎日の散歩の道筋をたどっていた。どうかすると、わたしはこんなふうに四時間も歩き通して、へとへとに疲れ、空腹をかかえてホンブルグへ帰ることがあった。わたしが庭から公園へ足を踏み込んだとたん、思いがけなくとあるベンチに、ミスター・アストレイの姿を見つけた。もっとも、彼のほうがさきにわたしに気がついて、声をかけたのである。わたしはそのそばに腰をおろした。相手が一種ものものしい様子をしているのを見て、わたしはたちまち自分のよろこびに手かげんをくわえた。じらさい、わたしは彼に会ったのがうれしくてたまらなかったのである。
「なるほど、あなたもここにいたんですか! どうもあなたに行き会いそうな気がしていましたよ」と彼はいった。「身の上話などのご心配はいりません。わたしは知っています、みんな知っています、この一年と八か月の間のあなたの生活は、すっかりわかっているんですから」
「へえ! あなたはそんなふうにして、旧友の行動を監視しているんですか!」と、わたしは答えた。「昔をお忘れにならんということは、ご殊勝なことで……が、ちょっと待ってください、あなたはぼくにヒントを与えてくだすった。ぼくがルレッテンブルグで二百グルデンの負債のために、監獄にほうり込まれていた時に、身請けをしてくだすったのはあなたではありませんか? ある無名の人がわたしの代りに賠償してくれたんですが」
「違います、おお、違います。あなたが二百グルデンの負債のためにほうり込まれたルレッテンブルグの監獄から、わたしはべつにあなたを貰い受けはしなかった。しかし、あなたが二百グルデンの負債のためにほうり込まれたことは、知っていました」
「それなら、とにかく、だれがわたしを身請けしたか、知っているでしょう?」
「おお、違います。だれがあなたを身請けしたか知っている、などといえるわけがないでしょう、わたしに」
「変だな、ロシヤ人仲間では、ぼくはだれにも知られていないし、それに、おそらくここのロシヤ人は身請けなんかしてくれないでしょう。それはね、あっちでは、ロシヤでは、正教徒が正教徒の身請けをするだけですよ。そこでぼくは、どこかの変屈者のイギリス人が、変な性分からそんなことをしたんだろうと思っていましたよ」
 ミスター・アストレイは、何か不思議そうにわたしのいうことを聞いていた。どうやら彼は、わたしのしょげかえっているところに行き会うものと思っていたらしい。
「それにしても、あなたが独立不羈の精神のみならず、快活な気分さえも完全に保持していられるのを見て、わたしはじつにうれしいです」と彼はかなり不快そうな顔をしていった。
「というのは、頭の中で、なぜこいつたたきつぶされてもいなければ、落ちぶれてもいないのだろうと思って、いまいましさに歯ぎしりしているんでしょう」とわたしは笑いながらいった。
 ミスター・アストレイは、とみには合点がいかなかったが、合点がいくと、にっこり笑った。
「そのいい方は気に入りましたよ。その言葉でわたしは、以前の利口な、感激しやすい、と同時に、皮肉な旧友を発見しましたよ。ただロシヤ人ばかりが、一時にそれだけの矛盾を包含し得るんですな。いや、たしかに人間というものは、自分の最上の親友が落ちぶれているのを眼前に見ることを好むものです。友情というものは落魄の上に築かれるものですな。しかも、それはすべての賢人に知られている古い真理でしてね。しかし、この場合は誓っていいますが、あなたがしょげていないので、わたしはしんからうれしい。どうです、あなたは博奕をやめる気はないですか?」
「おお、くそくらえだ! すぐにもやめてしまいますよ、ただ……」
「ただすぐに負けを取り返したら、ですか? そうだろうと思っていた。しまいまでいわなくったっていいですよ、――わかっています、――あなたは何気なしにそれをいったんでしょう、したがって、ほんとうのことをいったわけです。ねえ、博奕のほかには、なんにもしていないんですか?」
「そう、なんにも……」
 彼はわたしを試験し始めた。わたしはなんにも知らなかった。わたしはほとんど新聞をのぞかないし、あの永い間、一冊の本もひもとなかった[#「ひもとなかった」はママ]。
「あなたは硬化してしまいましたな」と彼は注意した。「あなたは生活も、自分自身の利益も社会的利害も、市民および人間としての義務も、自分の親友も(なんといっても、あなたには親友があったんですよ)、放擲してしまったばかりでなく、――つまり、博奕の勝ち以外のいかなる目的をも放擲したばかりでなく、――自分の追憶さえも捨ててしまったんですね。わたしはあなたの生涯でも、燃えるような激しい瞬間のあなたを、記憶しております。しかし、わたしの確信しているところによれば、あなたの空想も、目下あなたがいだいている最も熱烈な希望も、丁《ペール》、半《アンペール》、赤《ルージュ》、黒《ノアール》、まん中の十二、などより以上には進んでいないでしょう。わたしはそれを確信していますよ」
「もうたくさん、ミスター・アストレイ、どうかお願いだから、そんなことを思い出させないでください」とわたしはいまいましさに、ほとんど毒っぽい調子でこう叫んだ。「ことわっておきますがね、ぼくは何一つ忘れちゃいない。しかし、ただ一時そんなことをいっさい頭のなかから追い出しているんですよ。追憶さえもね、――根本的に自分の財政状態を回復するまでは。その時は……その時こそは、死からよみがえったところをお目にかけますよ!」
「あなたはまだ十年たっても、やはりここにいるでしょうよ」と彼はいった。「ひとつ賭をしましょう。もしわたしが生きていたら、そら、このベンチの上で、あなたにわたしの言葉を思い出させてあげますよ」
「ええ、もうたくさん」と、わたしはがまんしきれなくなって、さえぎった。「そこで、ぼくは過去に関してそれほど忘れっぽくないということを証明するために、一つうかがいますが、ミス・ポリーナはいまどこにいます? もしぼくを身請けしたのがあなたでないとすれば、もうきっとあのひとです。あのとき以来、ぼくはまるきりあのひとの消息を聞かないのでね」
「違います、おお、違います! わたしはあのひとが身請けしたのだとは思いませんよ。あのひとは、いまスイスにいます。そこで、折り入ってのお願いは、ミス・ポリーナについて質問することをやめていただきたいものですな」と彼は断固としたというよりも、むしろ、腹立たしげな口調でいった。
「それはつまり、あのひとがあなたにまでこっぴどく手傷を負わせたということですな!」とわたしは思わず笑い出した。
「ミス・ポリーナは、尊敬に値するすべての人間の中で、最も優れた人です。しかし、くりかえしていいますが、もしミス・ポリーナに関する質問をやめてくだすったら、ほんとうにありがたく思いますよ。あなたはかつて、あのひとの人となりを知ったことがないのです。あなたの口からあのひとの名を聞かされるのは、わたしの道徳的感情に対する侮辱と見なします」
「ヘーえ! もっとも、あなたのいうことはちがっていますよ。いったいそのことをのけたら、何をあなたと話すことがあるんです。考えてもごらんなさい! だって、われわれの追憶はいっさいを挙げて、これにかかっているのじゃありませんか。だが、ご心配なく、あなたの内面的な秘密な事柄なんか、いっさいぼくに必要がないんだから……ぼくが興味を持つのは、いってみれば、ただミス・ポリーナの外部的状況、現在の表面的な環境だけですよ。そんなことは、たったひと口にいえるじゃありませんか」
「よろしい、ただしそのひと口でいっさいを片づけるという条件ですよ。ミス・ポリーナは永いこと病気でした、あのひとは現在でも病気です。しばらくの間、私の母と妹といっしょに北部イギリスに住んでいました。半年まえに、あのひとのお祖母さんが、――ほら、覚えているでしょう、あの例のきちがい女が死んで、あのひとひとりにといって、七千ポンドの財産を残したんです。いまミス・ポリーナは、嫁に行ったわたしの妹の家族といっしょに旅行しています。あのひとの小さい妹と弟も、お祖母さんの遺言で生活を保証されて、いまロンドンで勉強しています。――あのひとの義父、将軍は、ひと月前にパリで卒中で死にました。マドモアゼル・ブランシュはあの男をよくしてはやったものの、あの男がお祖母さんから貰った分は、すっかり自分の名義に書き換えてしまいました……これでどうやらすっかりのようですな」
「ところで、ド・グリエは? やっぱりスイスを旅行してはいませんかね?」
「いや、ド・グリエはスイスを旅行してはおりません。それに、わたしはド・グリエがどこにいるかも知らないのです。のみならず、ここできっぱり断わっておきますが、そういったほのめかしや下品なつき合わせは避けてもらいましょう。きもないと、あなたは必ずわたしと悶着を引き起しますよ」
「えっ! ふたりの旧い友誼的な関係にもかかわらずですか?」
「さよう、ふたりの旧い友誼的な関係にもかかわらずです」
「それはいく重にもおわびいたします、ミスター・アストレイ。しかし、あえて申し上げますが、今の言葉には侮辱とか下品とかいったようなものはなにもありゃしませんよ。だって、ぼくはミス・ポリーナのことを何一つ非難してはいないんですからね。のみならず、――フランス人の男にロシヤのお嬢さんとくると、一般的にいって、われわれには解決することも、徹底的に理解することもできないようなつき合わせですね、ミスター・アストレイ
「もしあなたが、ド・グリエの名と、もう一つの名を口にしつづけるなら、わたしは『フランス人の男にロシヤの令嬢』という表現のもとに何をいおうとしているのか、あなたに説明を求めますぞ。それはいったいどういう『つき合わせ』です? なぜこの場合、ほかならぬフランス人の男にロシヤの令嬢がぜひとも必要なんです?」
「ほら、ごらんなさい。あなたも興味を持ち出したでしょう。しかし、それは永い話ですよ、ミスター・アストレイ。これについては、あらかじめたくさんのことを知っていなければなりません。もっとも、これは重大問題ですよ、――一見したところ、どんなにこっけいにみえたところでもね。フランス人というものは、ミスター・アストレイ、それは完成した美しい形式です。あなたはブリテン人として、それには同意しかねるでしょう。ぼくもロシヤ人としてやはり不同意です。それはまあ、羨望の念からとしてもよろしい。しかし、ロシヤの令嬢たちには、おのずから別の意見があり得るはずです。あなたはラシーヌを砕けてひんまがった、香水壜のような作家と思うかもしれません。きっと読もうとさえもしないでしょう。ぼくも彼を砕けてひんまがった、香水壜のような作家と見なしているのみならず、ある観点からすれば、こっけいだとさえ思っています。しかし、彼はりっぱなものですよ、ミスター・アストレイ。それに第一、――われわれの欲するといなとにかかわらず、彼は偉大な詩人です。フランス人の、といってもつまるところ、パリジャンの国民的形式は、われわれがまだ熊だった時代に、優美な形式に形成されはじめたのです。革命は貴族の遺産を相続しました。いまでは俗悪きわまるフランスっぽでさえ、完全に優美な形式を備えた所作、態度、表現ばかりか、思想さえも持つことができるのです。しかも、その形式にたいして、創意も、魂も、心も参与してはいないんですからね。それはみんな遺産として手にはいったのです。それ自身としては、彼らもからっぽな人間の中でも最もからっぽな人間、俗悪な人間の中でも最も俗悪な人間である場合もあるでしょうがね。さて、ミスター・アストレイ、ここであなたに申し上げますが、善良な、賢い、あまりそこなわれていないロシヤの令嬢ほど信じ易く、秘密のない女は、世界にまたとありませんよ。ド・グリエは、仮面《めん》をかぶって何かの役割を演じながら現われさえすればいい、いともたやすくロシヤ令嬢のこころを征服することができるんです。彼には、優美な形式があります、ミスター・アストレイ。そこで、ロシヤ令嬢はこの形式を彼自身の魂、彼の魂と心の自然の形式だと信じて、相続で手にはいった衣装だとは思わない。あなたにとってはきわめて不愉快なことながら、ぼくは白状せざるを得ません。イギリス人は大部分ごつごつして優美ではない。ところが、ロシヤ人はかなり敏感に美を見分けて、それにほれやすいのです。しかし、魂の美と、個性の独創を見わけるためには、わが国の女性、ましてや令嬢たちが持っているよりも、比較にならぬほど多くの独立性と自由――いや、いずれにしても、より多くの経験を持ち合せていなければなりません。ミス・ポリーナは、――ごめんなさい、口からすべったものは取返しがつかないから、――陋劣漢のド・グリエをあなたに見代えるまでには、非常に、非常に永いあいだかかって決意する必要があったのです。あのひとはあなたを尊重もすれば、あなたの親友にもなり、自分の胸のうちを残らずあなたにうち明けもするでしょう。しかし、この心の中には、やっぱりあの憎むべき陋劣漢、けがらわしい小金貸しのド・グリエが君臨するでしょうよ。それはむしろ永久に残るでしょう、いわばただの強情と自尊心のためだけにもね。なぜなら、ほかならぬこのド・グリエが、かつて彼女の目のまえに優美な侯爵、幻滅をあじわった自由主義者として出現したんですからね。しかも、あのひとの家族と軽はずみな将軍の財政を補助したために破産した、と自称するにおいておやです。そういった手品は後に暴露されたのですが、しかし、暴露したってなんでもありゃしない、とにかく以前のド・グリエがいますぐほしい、――これが彼女の念願なのです! いまのド・グリエを憎めば憎むほど、彼女は以前のド・グリエに憧れるんです。そのくせ以前のド・グリエは、ただ彼女の空想裡に存在しただけなんですがね。あなたは砂糖工場をやっているんですか、ミスター・アストレイ?」
「さよう、わたしは有名な砂糖工場ローヴェル会社のパートナアですよ」
「さあ、そこでですな、ミスター・アストレイ。あなたは一方からは砂糖工場主、いま一方からはベルヴェデルのアポロ、こいつはどうも似合いが悪いですな。ところが、ぼくは、砂糖工場主でさえもなく、ただルレットのちっぽけな博奕うちで、おまけに、下男まで勤めた身の上なんですからね。そのことはきっともうミス・ポリーナに知れているでしょうよ。だって、あのひとはいい警察をかかえているらしいから」
「あなたはすねているものだから、そんなばかげたことをいうんですよ」とミスター・アストレイは、ちょっと考えてから、冷静にいった。「そればかりでなく、あなたの言葉には独創性がない」
「異存なし! しかし、高潔なるわが友よ、こうしたぼくの非難がいかに古臭く、いかに俗悪で、いかにボードビルじみていようとも、――やはり、ことごとくほんとうなんです。そこにおそるべき点が含まれているんですよ! とにもかくにも、ぼくらはなんら得るところがなかった!」
「それこそ、いまわしいノンセンスだ……なぜって……なぜって……じゃ、お聞きなさい」とミスター・アストレイは声をふるわせ、目を輝かせながらいった。「お聞きなさい、お聞きなさい、この忘恩の徒、取るに足らぬちっぽけな不幸な男め、これはきみのことですよ、いいですか、わたしがわざわざホンブルグへ来たのは、あのひとの指令によるものなのですぞ。きみを見て、じっくりとこころを割って話をしてみたうえで、何もかも、――きみの感情も、思想も、期待も、そして……追憶も残らず報告してくれという!」
「まさか! まさか?」とわたしは叫んだ。すると、涙が滝のようにわたしの目からほとばしり出た。
 わたしはそれを押えることができなかった。こんなことはほぞの緒を切って始めてのことらしい。
「そうなんだよ、きみは不幸な男だ、あのひとは、きみを愛していたのさ。このことをわたしはうち明けたっていいと思う、なぜなら、きみは滅びた人間なんだから! その上、あのひとがいまだにきみを愛している、とまでいってみたところで、――どうせきみはここに居残るんだろうな! そう、きみは自分で自分をほろぼしたんだ。きみはある種の才能と、生き生きした性格を持っていて、まんざらわるくはない人間だった。きみは自分の祖国のために、有用の材でさえあり得たのだ。きみの祖国はあれほど人材を要望しているのに、――きみはここに居残るに相違ない、きみの生活は終ったのだ。わたしはあえてきみを責めているのではありませんよ。わたしの見るところでは、ロシヤ人というものはみんなそうしたものか、さもなければ、そうした傾向を持っているのだから。もし、ルレットでなければ、何かそれに類したほかのものに走るんです。例外はあまりにもまれです。労働のなんたるやを解しないのは、何もきみが始めてではない。(わたしはロシヤ民族についていっているのではありませんよ)。ルレットというやつ、――これはだいたいからしてロシヤ的な博奕ですよ。きみはいまに到るまで、潔白で、泥坊するよりもむしろ下男になろうと、いう気になった……しかし、わたしはこのさきどういう事が起るかと思うと、恐ろしくなってくる。だが、もうたくさんだ。さようなら! きみはもちろん、金に困っているでしょう? さあ、ここに十ルイ・ドルあります。これ以上はあげませんよ、どうせ負けてしまうんだから。さあ、取りたまえ、それでお別れ! 取りたまえっていうのに!」
「いや、ミスター・アストレイ。いまああいうことをいわれた後では……」
「とーりーたーまーえ!」と、彼はどなった。「わたしはきみをまだ高潔な人間と確信しているから、親友がほんとうの親友に贈る気持ちできみに進呈するんですよ。もし、きみがいますぐ博奕とホンブルグを見捨てて、自分の祖国へ帰られるものと確信することができたら、わたしは猶予なくきみに千ポンドを贈って、新しい活動の門出を祝うこころづもりを持っています。しかし、千ポンドを贈らないで、十ルイ・ドルしか贈呈しないのは、ほかでもない、目下のところきみにとってはぜんぜん同じことで、どうせ負けるに決まっているからです。さあ、取りたまえ、それでさようならにしよう」
「いただきましょう、もしきみがお別れに抱擁を許してくれるなら」
「おお、それなら喜んで!」
 わたしたちは心の底から抱擁を交わし、ミスター・アストレイは立ち去った。
 いや、彼の言は正しくない! もしわたしがポリーナとド・グリエのことについて、あまりに言葉がすぎ、愚かであったとすれば、彼はロシヤ人に関して言葉がすぎ、早計にすぎた。自分のことについては、なんにもいうまい。もっとも……もっとも、これらはみんな現在のところ見当ちがいだ。それらはすべて言葉、言葉、言葉であって、必要なのは行為だ! いまこのさい、重要なのはスイスだ! 明日にもさっそく、――ああ、もし明日にも出発することができたら! ふたたび更生し、蘇生するのだ。彼らに証明して見せなければならぬ。……わたしがまだ人間であり得ることを、ポリーナに知らさなければならぬ。ただ決行さえすれば……しかし、いまはもう遅い、――が、明日は……ああ、わたしには予感がある、それよりほかにはあり得ない! わたしはいま十五ルイ・ドル持っているが、前には十五グルデンで始めたものだ? もし、慎重にことを始めたら……だが、いったい、いったいわたしはほんとうにこんな赤ん坊なのだろうか? 自分が滅びた人間だということを、いったいわたしは理解しないのだろうか。しかし、――なぜわたしに蘇生することができないのだろう! そうだ! せめて一生に一度だけでも、打算的に、辛抱づよくやりさえすれば、――それがもう全部なのだ! たった一度だけでも性根を押し通しさえすれば、一時間のうちに運命を根本から引っくりかえすことができるのだ! かんじんなのはこの性根なのだ。七ヵ月以前、ルレッテンブルグで決定的敗北を喫する前に、この種のことがあったのを思い起しさえすればよい。おお、それは決意がなにかということを示す注目すべき一つの場合であった。わたしはその時、何もかもすっかり負けてしまった……停車場を出てふと気がつくと、チョッキのポケットにまだ一グルデンの貨幣がころがっていた。『ああ、してみると、飯を食うだけの金はあるわい!』と考えた。が、百歩ほど行きすぎてから、わたしは考え直し引っ返した。わたしはこの一グルデンをマンクに賭けた(その時はマンクがよく出たのだ)。まったく、そこには何か特別な感じがあった、――たったひとり、故郷からも、親友からも遠く離れて、異郷の空をさまよいながら、今夜なにを食べるかも知らないで、最後の一グルデン、まったく最後の一グルデンを賭ける気持ち! そのときわたしは勝った。二十分たって、停車場を出た時、わたしのポケットには、百七十グルデンあった。これは正真正銘の事実であります! 最後のグルデンというものは時として、こういうことを意味するものである! もし、あのときわたしが意気沮喪して、敢然決心することができなかったら、どうだろう?………
 明日だ、明日こそは何もかも片がつくのだ!



底本:「ドストエーフスキー全集8」河出書房新社
   1969(昭和44)年7月20日初版第1刷発行
   1977(昭和52)年6月25日第13刷発行
入力:いとうおちゃ
校正:
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