『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「関釜裁判ニュース」より戦争被害当事者の活動年表

以下、元「慰安婦」および、元挺身隊隊員当人の活動を年表化した。これからどしどし更新する予定である。





1993年04月17日:河順女氏・朴頭理氏・朴SO氏の3人、福岡入り。追記:同年04月06日、被告の日本政府、東京地裁への移送を申し立てる。

1993年04月17日:朴SO氏、担当教師だった杉山トミ氏と福岡空港にて再会。

1993年07月20日:金ハルモニ(本名不明)、死去。
1993年09月06日:第1回口頭弁論、河順女氏・朴頭理氏・柳SO氏・朴SO氏、原告の意見陳述。このとき、朴頭理氏が突然「慰安婦」時代のことを話しはじめる。

1993年12月12日:第2回口頭弁論のため朴SU氏・李YO氏・姜YO氏・鄭水蓮氏・李順徳氏とその支援者、来日。
1993年12月13日:第2回口頭弁論、朴SU氏・李YO氏・姜YO氏・鄭水蓮氏・李順徳氏、原告の意見陳述。この5人は第二次訴訟原告。
1993年12月14日:朴SU氏・李YO氏・姜YO氏・鄭水蓮氏・李順徳氏、自治労福岡県本部女性部大会にてアピール
1993年12月14日:朴SU氏・李YO氏・姜YO氏・鄭水蓮氏・李順徳氏、離日。

1994年03月13日:原告(人数・本名不明)ら来日
1994年03月14日:第三回口頭弁論、朴SU氏・李YO氏・姜YO氏・李順徳氏にて意見陳述(鄭水蓮氏は足の病気のため来日できず)。「原告滞在記」によると、姜YO氏は「一生懸命意見陳述の練習をしていた」とある。

1994年05月25日:元「慰安婦」15人(挺対協に所属)、羽田総理に面談を申し込むも拒否される。警備員に押し返され、全治一ヶ月のケガをした人もいる。同年06月03日:日本政府に対し抗議声明を発表
1994年06月07日~06月08日:被害者多数(氏名不明)、国会前で座り込み
1994年06月25日:梁錦徳氏、第四回口頭弁論にて陳述

1994年08月17日~08月19日:李順徳氏、弁護士との打ち合わせのために来日。その時に「見舞金構想」のことを聞き、激怒する。
 以下、李順徳氏の発言を引用。

「おらは乞食ではないよ。あっちこっちから集めた同情の金は要らない。国がちゃんとおらの前に来てあやまって、金を出せばよろこんでもらうよ。早くして欲しい。死んでからでは遅いよ」

1994年08月19日:李順徳氏、支援団体とともに「見舞金構想」を批判
1994年09月04日:李順徳氏、支援団体とともに村山談話への福岡市内抗議デモ
1994年09月05日:第6回口頭弁論、李順徳氏、意見陳述。

1994年11月28日:第7回口頭弁論、河順女氏、陳述書(同年11月04日付)を提出。

1995年02月27日~03月01日:金順徳氏、代表として第3回日本軍慰安婦問題アジア連帯会議に出席。詩人の石川逸子氏、国民基金反対を主張。

1995年05月12日:朴SO氏・柳T氏・朴SU氏、来福。
1995年05月14日:朴SO氏・柳T氏・朴SU氏、大名カテドラルにて証言集会。
1995年05月15日:朴SO氏・柳T氏・朴SU氏、第9回口頭弁論終了後、下関市内を約1時間デモ更新。

1995年06月18日:「日本軍『慰安婦』へのごまかしの「民間基金」に反対する六・一八集会」、鈴木裕子氏らの講演など。
1995年07月22日:朴頭理氏、担当の山本弁護士と会って裁判の打ち合わせ。このとき、「民間基金」に反対意見を示す。

1995年08月13日:朴SO氏・柳T氏・朴SU氏、支援者とともに、富山不二越工場の敷地内に入り現地調査(お盆でガードが甘かったらしいとのこと)

1995年10月22日:朴頭理氏、来日。
1995年10月23日:第11回口頭弁論において朴頭理氏に本人尋問。

1996年01月27日:朴SO氏・柳T氏・朴SU氏、来福。
1996年01月29日:第12回口頭弁論にて朴SO氏・柳T氏・朴SU氏が参加(傍聴のみらしい)。のちの裁判報告集会で朴SU氏は「朗々と軍歌を歌」って怒りを発散させたという(韓国では日本の軍歌は歌えないらしい)。

1996年03月20日上杉聡氏の講演のなかで、「1992年08月、国連人権小委員会にて黄錦周氏が証言した」ことに言及される。
1996年03月28日:第3回アジア女性連帯会議にて各国被害者の証言(氏名不明)

1996年05月08日、李貴粉氏、釜山の日本総領事に血判つきの抗議文「橋本日本国総理におくる抗議文」を手渡す。
1996年05月22日、第14回口頭弁論において、朴SO氏・柳T氏・朴SU氏の三人の本人尋問。

 1996年07月23日~07月25日:梁錦徳氏、日本滞在。このとき富山不二越裁判の敗訴の知らせを受け、「みるみる元気をなくす」とのこと。
1996年07月20日:ブルシラ・バルトニコ氏、被害事実を証言。

1996年08月14日:フィリピン人元「慰安婦」4人に「国民基金」一時金支給。マリア・ロサ・ヘンソン氏、「お金もさることながら首相の手紙に満足しています」「もう疲れた」と話す。
1996年08月12日:李貴粉氏、支援者らとともに「国民基金」事務所に抗議。和田春樹氏、ここで「クマラスワミ韓国は国連で採択されませんでした」「韓国の国会議員たちが『国連勧告に従え』と言っているのは間違った認識です」などと発言。支援者らはこの発言を日本政府の本音と認識。支援者の金文淑氏、抗議声明を読み上げる。このとき、多賀業務第一部長が「そんなことは言っていない、ウソですよ」などと抗議声明を頭から否定してかかる発言。李貴粉氏、「国民基金」関係者らが会見を打ち切ろうとしたとき、怒りを爆発させ、多賀業務第一部長を「胸ぐらをみ」抗議した。台湾の被害者の黄秋月氏とともに詰め寄った。
 以下、引用

 「ふてぶていしい態度だった多賀業務第一部長もついには顔が引きつり、蒼白となって、「すみませんでした。すみませんでした。と頭を下げるのみでした。一方の和田事務局長は、貴粉さんの糾弾が始まるや、そそくさと資料を片付けて同僚を見捨てて出ていってしまいました。」

1996年09月30日~10月04日:李貴粉氏・柳T氏・朴SU氏・李YO氏・河順女氏・李金珠氏・梁錦徳氏・朴H氏・李順徳氏・朴SO氏・、日本の支援者三人と会う。
1996年10月23日:第16回口頭弁論にて李YO氏・姜YO氏氏の本人尋問。
1996年10月26日:文玉珠氏、死去。文氏は1992年03月に証言集会にて証言。それが「関釜裁判を支援する会」につながる。

1996年12月08日~12月10日:姜徳景氏、「日本の侵略展・佐賀」にて唐津・佐賀・西有田で証言。
1996年12月11日:姜徳景氏、続いて戸畑にて証言。
1997年01月29日:河順女氏、第17回口頭弁論に出席する予定だったが健康上の都合から出廷不可能に。その後三者協議
1997年02月02日:姜徳景氏、死去。「国民基金拒否」「わたしのすべてを歴史に残しておくれ」と遺言。

1997年04月28日:杉山とみ氏(朴SO氏の恩師)の第18回口頭弁論にて証人尋問。

1997年06月08日:李貴粉氏、「教科書からははずせんバイ!」集会において健康上の都合から出席できずメッセージをおくる。

1997年09月29日:李順徳氏・朴SO氏、支援者とともに来福。交流会。
1997年09月29日:李順徳氏・朴SO氏、第20回口頭弁論にて最終陳述。

1997年11月16日:金学順氏、死去。「金学順氏の橋本首相への手紙」が「ニュース」23号に収録

1998年04月26日:朴頭理氏・梁順徳氏・李順徳氏・朴SO氏ら7人の原告、支援者と共に来福。
1998年04月27日:関釜裁判の下関地裁判決。原告も下関地裁前で待つ。

1998年04月15日~04月17日:ソウルにてアジア連帯会議、「国民基金」の実質的失敗と「女性国際戦犯法廷」の開催を確認
1998年05月01日:元挺身隊の原告7人、控訴。

1998年07月20日:候巧蓮氏、福岡市あいれふにて被害証言。
1998年09月20日:朴SO氏・柳T氏・朴SU氏・李YO氏・姜YO氏、釜山にて日本からきた支援者と交流。国民学校時代に覚えた日本語で話すことと朝鮮語で話すことはちがう。朝鮮語で話すほうが本音に近いと支援者は感じたようだ。
1998年09月21日:李貴粉氏、来韓した日本の支援者と会う。国民基金反対の意思を示す。また、鄭水蓮氏・河順女氏と会う。

1999年01月08日:朴SO氏、裁判前に日本政府と裁判官あてに「声明」

1999年02月22日:朴頭理氏・朴SO氏・柳T氏、来福。交流会。
1999年02月23日:朴頭理氏・朴SO氏・柳T氏、「関釜裁判」の控訴審第一回口頭弁論にて意見陳述。

1999年05月20日:朴SU氏・李YO氏、来福。交流会。
1999年05月21日:朴SU氏・李YO氏、第二回口頭弁論にて意見陳述。
1999年05月11日:候巧蓮氏、死去。
[李容洙氏と朴SU氏の話]

1999年07月23日:梁錦徳氏、李容洙氏(支援者として)と支援者と共に来福。交流会。
1999年07月24日:梁錦徳氏、第3回口頭弁論にて意見陳述。

1999年11月11日:金景錫氏、来福、交流。
1999年11月25日:柳T氏、朴SO氏、来福。交流会。
1999年11月26日:柳T氏、第4回口頭弁論で意見陳述。
1999年11月28日:柳T氏、会員にキムチづくりの指導をする。
1999年12月10日~12月12日:レスター・テニー氏、「戦争犯罪と戦後補償を考える国際市民フォーラム」にて証言。
[レスター・テニー氏が証言しているときに、右翼の街宣車が会場前で騒いだ。実行委員によると「右翼が会場につっこんできたとしても警察としては責任が取れないというので、もしそうなった場合は自主退去してください」とのこと。]
1999年12月11日~12月12日:金子安次氏(中国帰還者連絡会会員の元戦犯)、「戦時・性暴力 過去――現在どう立ち向かうか~一九九九年国際シンポジウム」にて自身の性暴力加害証言。

2000年01月17日~01月21日:朴頭理氏・李順徳氏・朴SO氏・朴SU氏・梁錦徳氏、精神科医の桑山紀彦医師のPTSD診断をうける。

2000年02月24日:李YO氏・姜YO氏、来福。交流会。
2000年02月25日:李YO氏・姜YO氏、第5回口頭弁論にて意見陳述。
2000年02月26日:李YO氏・姜YO氏、交流会。

2000年05月05日:河順女氏、死去。
2000年05月19日:李順徳氏、来福。交流会。
2000年05月19日:李順徳氏、第6回口頭弁論にて意見陳述。

2000年08月20日:朴頭理氏・李順徳氏・朴SO氏・姜YO氏、尹貞玉氏と共に来福。交流会。
2000年08月21日~08月22日:朴頭理氏・李順徳氏・朴SO氏・姜YO氏、第7回口頭弁論にて本人尋問。尹貞玉氏、本人尋問。[(裁判長驚いた様子)、他の被害者の様子などを証言]

2000年11月09日:梁錦徳氏、来福。交流会。
2000年11月10日:梁錦徳氏、第9回口頭弁論で意見陳述。

2000年12月12日:女性国際戦犯法廷、「天皇有罪」をふくむ判決。あくまで「性暴力を知りうる立場でありながら放置した責任」であり「性暴力を行わせた責任」として有罪。それすら番組改編事件で圧力がかかった。
2001年02月10日~02月13日:姜YO氏・柳T氏・鄭水蓮氏・朴SU氏・朴頭理氏・朴SO氏・李順徳氏・梁錦徳氏、来韓した日本側支援者と交流。金J氏(河順女氏の甥)らと河順女氏の墓参り。高裁判決へのメッセージ。

[36号]

2001年03月28日:原告7人(朴頭理氏・梁錦徳氏・柳T氏、朴SO氏、朴SU氏ら)が福岡入り
2001年03月29日:広島高裁判決、「一審被告(国側)の本件控訴に基づき、原判決主文第一項を取り消す」、原告7名、激しい怒りをもって抗議。「裁判官、出てきなさい」と発言。
2001年03月31日:原告7人

[37号]
(2000年07月:「不二越強制連行未払賃金訴訟」にて和解成立、挺身隊員6人徴用工1人の計7人がひとりあたり未払金約300万円を受け取る)

2001年06月11日、李容洙氏、支援者とともに福岡教育委員会にて抗議の申し入れ
2001年07月16日~07月19日:支援者、朴SO氏・金景錫氏・朴SU氏・柳T氏・姜YO氏・李YO氏
2001年09月06日:趙潤梅氏、楊秀蓮氏(南二僕氏の養女)、第三回尋問

[38号]
2001年10月10日:金景錫氏、来福
2001年10月28日:朴SO氏ら、東京都にある不二越東京本社にて交渉を申し込むが門前払いを受ける。
2001年10月30日:張T氏・金J氏・羅T氏・朴SO氏・朴J氏ら、富山県不二越本社にて交渉を申し込むが、警備主任が「当社の従業員であったかどうか確認できないから入れることができない」などといってこれも門前払いをする。原告ら、激しく抗議する。これに対し不二越側は高齢の申込者を実力行使で排除しようとした。

[39号]
2001年08月18日:鄭水蓮氏、死去
2001年12月27日:朴SO氏・柳T氏ら、釜山不二越工場に交渉を申し込む。

[40号]
2002年07月29日~08月02日:朴SU氏・成S氏・梁錦徳氏・李順徳氏・朴SO氏・羅H氏・金J氏支援者と交流
2002年09月06日:朴小得氏ら9人、ソウルの不二越営業所に抗議行動

[41号]

2003年02月:李J氏・朴SO氏、不二越株主総会に出席。不二越側は原告らの発言を猛烈に阻

止しようとした。
2003年03月25日:最高裁判決、実質的に門前払であった。原告らはこの判決を知らされて激

怒した。
2003年03月28日:金J氏・羅H氏・成S氏、来日。
2003年03月31日:李B氏・李J氏・全O氏・安H氏・崔F氏、来日
2003年04月01日:第二次不二越訴訟がはじまる。

[42号]
2003年06月14日:支援者らが来韓、朴SO氏・梁錦徳氏・姜YO氏・朴SU氏・李順徳氏・柳T氏・

李YO氏ら原告と合う。
2003年07月19日:第二次不二越訴訟第1回口頭弁論。金K氏が意見陳述。

[43号]

2003年10月01日:朴SO氏・金J氏・羅F氏・成S氏ら、不二越ソウル支社に申し入れ。
2003年11月07日:第二次不二越訴訟第2回口頭弁論にて、柳T氏・朴SU氏が意見陳述。意見陳

述の前にビラまき。

[44号]
2004年01月19日:朴SO氏ら、不二越三星電子が提携することに抗議する。
2004年02月20日:李B氏、不二越株主総会にて発言。
2004年03月17日:第二次不二越訴訟第3回口頭弁論にて、李J氏、意見陳述。

[45号]
2004年05月01日~05月05日:柳T氏・朴SU氏・姜YO氏・李YO氏・李金珠氏・梁錦徳氏・成るS

氏・朴頭理氏・金景錫氏・朴SO氏・金J氏・羅H氏・李順徳氏、支援者と会う
2004年05月20日~05月22日:郭貴勲氏・李相玉氏・姜根福氏・アモニタ・バラヤディア氏、

国際連帯協議会ソウル大会にて証言





2017年04月15日:使用「ニュース」No.01、06、16、17、
2017年04月16日:使用「ニュース」No.02、03、04、05、07、08、09、10、11、12、13、14、15、18
2017年04月22日:使用「ニュース」No.19、20、21、22、23、24、25、26、27、28、29、30、31、32、33、34、35
2017年07月31日:使用「ニュース」No.36、37、38、39、40
2017年08月01日:使用「ニュース」No.41、42、43、44、45


※本記事は「s3731127306の資料室」2017年06月11日作成記事を転載したものです。