『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「個の確立」について

(都合上[書評]タグをつけました)

 きのうは憲法記念日であった。それにちなんで、すこし文章を書きたいと思う。このブログは基本的に資料紹介を目的としているため、書くのはあまり気が進まないのだが、今から書きたいと思うことは、ほかのたくさんのすぐれたブログ主が気がついていないことらしいので、ここに書くことにした。


[1]”日本人”

 日本国憲法以降の日本社会で、戦後民主主義のために必要不可欠とされてきた事の一つに、「個の確立」がある。これは筆者なりにまとめると、「なにものにもたよらず、自分で考え自分で判断しなさい。その責任は自分でとりなさい」というものである。こうやって見ると、文句のつけようがないように見える。もっとも政治文化の言葉というのは、そのようなものであることが多い。さてここで、「植民地主義の精算/未精算」というモノサシをあててみると、「”旧宗主国所属の日本人”としての”自分”」というものは何を意味するだろうか? 「いつなんとき”植民者の思考”にはまりこむかもしれない、あるいはもうはまりこんでいるかもしれない」という危険性は、まさしく”今現在”のものである。この”危険”を十分に理解しないで「自分で考え~」とは、きわめて危険なことである。特に、日本人が朝鮮半島との関係について考えるときに。もしかしたら、「植民地支配の精算」と「自立した個人の確立」が対立すると思考してしまうという大変な転倒の危険性すらある。
 筆者はここで朴裕河氏の「帝国の慰安婦」をめぐる一連のできごとが思い出される。ここで筆者は、あの問題だらけの本の賛同者が”植民者そのもの”だ、とまでは断言しない。言葉は過不足なく正確に使わなければならない。しかし、あの奇妙な一連のできごとが、”宗主国――被植民地”の関係が現在まで温存されていることとわかちがたい関係にあることは疑いない。
 さてこのあたりで、”日本人”側の問題は、おいておこう。これについていつの日か、今だ再評価を待つ朝鮮史家・梶村秀樹氏と関係づけてきちんと論じたい。ここで注目したいのは、”朝鮮人”側のことである。

[2]姜徳景《カン・ドッキョン

 3カ月ほど前、「“記憶”と生きる」(2015年、土井敏邦、大月書店)を読んだ。「責任者を処罰せよ」「奪われた純潔」などの絵を描いた元「慰安婦」の姜徳景氏の伝記である。この本を読んで、以前から筆者の考えていた推測をはっきり裏づけられたと思った。姜徳景氏は1992年に名乗り出て、戦後補償をめぐる活動に参加をして(注1)日本政府の反応を見た”後に”、絵画教室で絵の練習を受けて「責任者を処罰せよ」「奪われた純潔」などの一連の絵を描いたのである。決してあの一連の絵は1992年の名乗り出直後に描いたのでもなく、まして1992年以前に描いたわけでもない。
 姜徳景氏は、1996年09月04日に橋本龍太郎首相に対して「国民基金反対」の意思を示す手紙を送っている。「国民基金」の何が問題なのか、明快に指摘している。それにしても、「また、勝利することを信じて疑いません。」とは、実に驚くべき言葉ではないか。筆者は、この一文に驚かない人間は、根本的に鈍感だと思う。

「資料集 日本軍「慰安婦」問題と「国民基金」」(2013年、鈴木裕子編・解説、梨の木舎)P321


 日本政府が現在推進している「国民基金」は、元日本軍「慰安婦」の私たちをお金で惑わそうとするものです。歴史の真実をお金で売りとばそうとする行為です。
 過去、日本のあなたたちが犯した犯罪は、夢にも忘れることのできないひどいものです。けれども日本は日本軍「慰安婦」問題を初めとするあらゆる問題に謝罪と真相究明をしないまま、正当な賠償もせずに幕を引こうとしています。
 再度、日本政府の責任ある首相に要求いたします。かつての受難の歴史を回復することができるように、国際法に基づいた謝罪と賠償をし、私たちの名誉回復をはかることを求めます。すでに、韓国の私たちハルモニは日本に対して、民間募金を一円も受けないと拒絶しました。こうした状況にもかかわらず、なおかつ脅迫的に「国民基金」を強行するならば、日本は再び私たちの人権を蹂躙することになるのであり、国際社会で道徳的な責任を免れることはできないでしょう。
 私たちは死ぬまでこの問題に対して闘いつづけるつもりです。また、勝利することを信じて疑いません。日本がこれ以上、恥をさらさないうちに謝罪と賠償を行うことを要求します。

美徳景 一九九六年九月四日



[3]金学順《キム・ハクスン》

 上記資料集の次のページには、金学順氏の同日同宛先づの手紙がある。下にあるように、金学順氏は1991年08月14日に公開の場で証言をした元「慰安婦」である。

P322

 一九九六年九月四日日本国総理・橋本龍太郎貴下

 私は金学順と申します。一九九一年八月一四日に初めて証言し、日本政府が隠しとおしてきた「慰安婦」問題の歴史的な扉を開けてからもう五年も経ちました。誇らしいことなどひとつもない私自身の過去を明らかに名のりましたのは、いくらかのお金をもらうためではありません。
 私には死に水を取ってくれる身内も既におらず、死に装束も用意し入るべき墓も準備してあります。こんな私に何のお金が必要だというのでしょう。
 ところが、日本は「国民基金」を集めるほどの誠意を見せたのだからもう終わりにしてもいいだろう、何をさらに物欲しげに要求しているのか、といわんばかりの最近の日本側の態度には、私は憤りを押さえることができません。
 私か望むのは、日本政府の謝罪と国家的な賠償です。いくばくかのお金で解決することができると考えておられるのなら、それは間違いです。
 三六年の間植民地とされた苦痛に加えて、「慰安婦」生活の苦悩をいったいどのようにはらしたらいいとおっしゃるのでしょう。胸が痛くてたまりません。韓国人を無視しないで下さい。韓国のハルモニ、ハラボジに当時の行いの許しを乞うべきではないでしょうか

金学順 一九九六年九月四日



 
 筆者が調べた限り、金学順氏の伝記本はまだ日本語で存在しないようである。仕方ないので新聞の過去の記事などをあさってみると、金学順氏は注意すべき発言・行動をしている。

朝日新聞1995年10月18日 「募金ポスターに写真無断使用」 韓国の元従軍慰安婦自治労に回収要求 [金学順さん]
朝日新聞1997年12月16日 金学順さん死去、従軍慰安婦の体験、実名証言 「要旨:38度線上の川岸で、38度線北側にのこっている母親に呼びかけ」(注2)
・「平成11年07月08日 国旗及び国歌に関する法律案に関する公聴会 上杉聰公述人より」

(中略)
  それを見た瞬間、五〇年間の私の人生を目茶苦茶にした日本にたいする思いが一気にこみ上げてきて、胸をしめつけるような感じがしました。軍人たちがどこへ行っても日の丸を掲げて、「天皇陛下万歳」と言いました。日の丸という言葉を聞くだけでも、頭の中が腐ってしまうほど嫌な思いがする体験をしてきたのです。そのことがよみがえり、いまでも日の丸を見ると胸がドキドキするのです。



 金学順氏が名乗り出た理由の一つに、「業者が勝手に連れ歩いた」などと政府高官が国会答弁したことに激怒したことが挙げられる。このことの重要性が未だに日本社会ではきちんと認識されていない。筆者はそれを考えるだに鈍感な連中に対して怒りが収まらないでいる。
 さて、金学順氏らが東京地裁におこした訴訟の1991年12月06日という日付は、ある人物の49日だった。金学順氏は、この人物に弔慰金を送っている。

[4]裵奉奇《ペ・ポンギ》

 筆者が知る限り、裵奉奇氏は被害当事者として世界ではじめて自身の証言をした日本軍元「慰安婦」である。「証言をする必要にせまられた」といったほうが正しい。1975年、強制送還の危険が生じ、沖縄県入国管理事務所に自身が沖縄に来ることになった経緯を代筆してもらった嘆願書を提出し、特別永住資格を得た。朝鮮新報に1977年04月23日に報道され、この日付は「慰安婦」問題関係者にとって一種特別な日とされる。

「[ルポ]韓国社会が忘れた最初の慰安婦証言者…その名はペ・ポンギ」
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/21570.html

 筆者は、元「慰安婦」自身の生活と認識の変化を追跡する必要があると考えている。その視点からみて、上の記事にはいくつか注目すべき点がある。

 当時(筆者注:1975年)、ペさんは韓国語をすでに忘れていた。そのようなペさんが日本語でキム氏夫妻にたびたびした話は「友軍が負けたのが悔しいさ」という話だった。キム・ヒョンオクさんは「おばあさんの立場では、日本軍が勝ってこそ(慰安婦である)自身も暮らせたのでそのように考えたようだ」と話した。ペさんは日本軍が負けて世の中が変わったということは知っていたが、それが“祖国の解放”を意味したということは理解できなかったし、朝鮮戦争で祖国が南北に分断されたという事実も知らずにいた。さらに「私が貧しかったから」、「それが私の運命だ」として、自分に起きた不幸を全て自分のせいにしていた。


  当時(筆者注:1970年代後半とそれ以降)キム氏は、チームスピリット訓練に反対する嘉手納基地前反対集会にしばしば連帯演説に行った。 キム・ヒョンオクさんは「おばあさんが『旦那さんはどこへ行ったか』と訊けば『反対集会に行った』、『それは何をするのか』と言えば『それはそんなこんなだ』と説明をしたりした」と話した。


 1989年1月のことだった。テレビでヒロヒト天皇が亡くなったというニュースを見たペさんが突然、「なぜ謝罪もせずに死んだのか」と言った。 ペさんがそのような話をするとは夢にも思わなかったキム・ヒョンオクさんは、ペさんに「天皇が具体的に何をしてくれたら良いと思うか」と尋ねた。 すると、ペさんは「謝罪をして欲しかった」と話した。


 (筆者注:1988年)ペさんに「私たちが旅費を出すから故郷に一度行ってみないか」と提案した。 ペさんは「そうだな、行きたいけど、一度行かなくては」と言いながらも確答はできなかった。そのうちにペさんはわあわあと泣き出してしまった。


 最後の引用文に関して一点指摘しておきたい。裵奉奇氏が帰国しなかった理由について、上記ハンギョレ記事が書いていないことがある。筆者は裵奉奇氏が故郷に一度も帰らなかったことを川田文子氏の著作で読んだことがあり、その理由は性暴力被害者が内面化しているスティグマが原因で故郷に帰れなかったのだと考えていた。そのような理由で中国などに残留した、もしくは家族のもとに帰らなかった元「慰安婦」が何人もいるということを知っているからなのだが、今年に入って別のことを調べていて、実はもう一つ、理由があったということを筆者は知った。

「【2017年4.23アクション】公開シンポジウム「日本軍「慰安婦」問題と朝鮮半島の分断~不可視化される被害者を見つめて~」」
http://dareiki.org/2017/02/13/wk20170423action/

 ここで掲示されているチラシの中に、裵奉奇氏の写真と共に次の解説文がある。おそらく、裵奉奇氏の生活支援をしていたキム・スソプ氏かキム・ヒョンオク氏、もしくは川田文子氏の証言にもとづくものだろう。ひょっとしたら録音記録があるのかもしれない。

「(故郷に)行きたいけど、行けないさぁ。だって向こうにも米軍基地があるじゃない」と涙する裵奉奇さん。1988年」


 筆者はこの一文を読んだとき、背筋にざぁっと冷たいものが走ったことを思い出す。筆者は、韓国の米軍基地事情についてざっとしか知識がない。しかしこの発言は、「米軍が韓国を支配している」という、韓国の米軍基地の本質を突いていないだろうか?

[5]「個の確立」
 長々と3人の元朝鮮人「慰安婦」の証言を記録に基づいて紹介してきた。結論として、筆者がいだいている、”ある考え”を書こう。

 この人たちこそ、もろもろの”せめぎあい”の中で「個の確立」をなしとげようとしているのではないか? 言いかえると、”この世の真の姿”が見えるようになってきているのではないだろうか? (注3)
 念のためにつけくわえておくが、この「個の確立」はなにも「朝鮮人被害者」に限らない。むしろ「被害者と加害者の関係」においてこの”現象”が観察されると、筆者は考える。原典はたしか「「慰安婦」問題の本質」(2015年、藤目ゆき、白澤社)だったと思うが、フィリピンにおいて最初に名乗り出たマリア・ロサ・ヘンソン氏は名乗り出当時「日本がPKO自衛隊を出すというので名乗り出た」「沖縄で米軍に性暴力を受けた少女は”私たち”だ(名乗りで直後に沖縄県でそういう事件があったことに対して)」という意味の発言をしている。

[6]ふたたび”日本人”
 では”日本人”はどうすればいいのか。ここで自販機でジュースを買うような答えはだせないが、補足として簡単に書くことにする。
 筆者個人は、上の3人の発言を信頼できる記録に基づいて追跡した。そして考えた末にその”真実性”を肯定した。この人たちの発言のほとんどは明快かつ理が通っているからである。その延長線上で日本社会を見渡すと、日本社会のありようが奇怪に思われて仕方がなくなったのである。筆者には、これこそ筆者自身の「個の確立」過程の初期段階なのではないかと思われてしかたがない。
 もう一点、日本軍「慰安婦」制度研究をリードした日本人研究者の林博史氏に関して。林氏は「沖縄戦と民衆」(2001年、林博史、大月書店)の中で「米軍捕虜になろうとした沖縄県民を見逃したりした”親切な日本兵”とは、”日本政府の意思に逆らった日本兵”である」という意味のことを書いている。それを戦後社会に延長してみれば、「憲法9条を”本当に”守っているのは、日本政府の意志(注4)に逆らい続けた日本人である」ということになるのではないか? さらにつけくわえるなら、林氏は「日本軍「慰安婦」問題の核心」(2015年、林博史、花伝社)のなかで「補論 「和解」をめぐって」という章をわざわざもうけ9ページにわたって、「帝国の慰安婦」とその賛同者を批判しているという事実がある。林氏は現在、「科学研究費助成事業 日本軍「慰安婦」制度と米軍の性売買政策・性暴力の比較研究」の研究代表者をつとめている。元「慰安婦」の聞き取り証言(注5)をあたっている人間にとって、もっと正確に言えば具体的な証言に基づいて日本軍「慰安所」の実態解明を進めている人間にとって(注6)、あのような本など本来は論ずるに値しないものだったはずである。
 要するに、”具体的にかつ原則に忠実に”というのを最後まで手放してはいけないということである。

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 あるいは、こう結論していいのかもしれない。
「戦後、日本政府と日本人の大部分は日本国憲法を徹底的に守ろうとしなかった、だから、「従軍慰安婦」たちをはじめとするアジアの戦争被害者が長いあいだ放置された。つまり、大勢の被害者当人は日本国憲法から放置されてきた。それは、”日本人”が個の確立ができなかったこととわかちがたい関係にある。そして、2017年現在、日本政府に日本国憲法を文字通り守らせようと一番たたかっているのは、元「従軍慰安婦」たち・そしてそれに連なる人たちである(注7)。この人たちこそ、「個の確立」をなしとげようとしている人たちである。”それに連なる人”たちには、”戦争を知らない子どもたち”も参加することが現実に可能である、それどころか必要ですらある」

 上で筆者は「結論していいかもしれない」と書いている。しかし、近いうちに「結論していい」と筆者が書けるようになるかもしれない。


注1:ほとんど指摘されていないが、姜徳景氏らは1994年02月07日に東京地検に「告発状」を提出したが結局、不受理になっている。筆者の推測では、「責任者を処罰せよ」が描かれたのは1994年02月07日以降のはずである。
注2:金学順氏自身は吉林省生まれ平壌育ち。生まれの父親は早死し、金学順氏14歳の時に母親が再婚、このときの「父親」がいろいろ言われている当の「養父」である。17歳のとき「慰安婦」にされ、最初の被害から約4カ月後に、日本軍の御用商人らしき朝鮮人男性にたのみこんで「慰安所」から脱走、その後母親などの親族とは会えないままだと証言している。
注3:特に、日本政府・日本社会の”真の姿”が、である。
注4:「本音」といったほうが正しいだろう。法律の実務を少し学んだ人ならば、法の実際上の運用と法のもともとの目的にそった運営はかけはなれていることが多いことを知っているはずである。
注5:おそらく全部合わせて100時間以上はあると推定される。
注6:というより、それ以外にどのようなやりかたがあるというのか?
注7:日本人以外が、日本政府に日本国憲法を守らせようとして何が悪い? そんなことをしてはいけないと、当の憲法のどこに書いてある? 内政干渉? 「戦争をする/しない」が外交問題にならないなどという思考こそ鈍感きわまるものである。


※本記事は「s3731127306の資料室」2017年07月01日作成記事を転載したものです。