・以下は撫順戦犯収容所に収容されていた戦犯「Y・M」の自筆供述書の一部である。主として「満洲国」における「治安庭」という名前の《法廷》による抗日運動の弾圧について記述されている。「Y・M」が書くところによれば「治安庭」とは「日本帝国主義偽満洲支配統治の機構の一つ」。
・「侵略の証言――中国における日本人戦犯自筆供述書」(1999年、岩波書店、新井利男ほか)収録分をもとにした。
・日本人名は原則「××××」と伏字にした(原文には明記されている)。
・読みやすくするため、原文とはすこしレイアウトを変えている。文章は変えていない。
・いま現在、以下サイトの自筆供述書を閲覧できないので、原文とてらしあわせて校正してるわけではない。また、記述の一部を[略]している。
・供述書原文を閲覧できるサイトがあればコメント欄で教えてください。よろしくおねがいします。
http://61.135.203.68/rbzf/index.htm
筆供自述
ハルビン高等法院次長 ××××
私が千九百四十年より千九百四十三年迄斉々哈爾高等法院次長在職中自ら犯した罪行に対する反省
私は今次総結の最初に当り、自分の採るべき態度として、記憶する限りは全部申し上げやう、記憶しない点、如何にしても憶ひ出し得ない点け証拠に因って認定して頂かう、証拠は自分の記憶よりも正確であるから、それを認め、斯くして、自己の罪行に付、中国人民に対して御詫びしやう、そうすれば認罪出来るものと思って居りました。又検挙逮捕は検察機関の仕事であって、法院には関係はない、又検挙は判決するに付何等関係も必要も無い事であるから、知らなくても記憶しなくても当然である。法院は唯検察庁から起訴された事件を記録に基いて処理すればそれで足りる。法院は独立した官庁であり、審判官の身分は他の官吏と異り組織法に依り保障されて居るのであるから、審判官の職務内容に付ては、如何なる機関、如何なる人によっても、上官によっても指揮干渉を受けることが無い代りに、自ら処理した事件の結果に付ては絶対の責任を負ふ、自分の責任は唯それ丈けに止るといふ風に考へて居りました。従って罪行供述に当って「検挙のことは法院には全然関係の無いことですから私は知りません」「審判官は唯記録に依り、又は偶々検察官の個人的な談話に依って僅かに検挙の一端を窺ひ知り得るのみであります」「記録に依れば検挙の機関、日時、場所位は判る筈でありますが、判決するに付ては必要のない事ですから無関心であり、殊に事件が輻輳する時に於てそうであります」「況や検挙の規模、方針等は知る筈がありません」といふやうな供述をしたのであります。そして私は、検挙、逮捕のことを問はれることに反感をさへ抱いたのであります。
従来私は、旧満洲国に於ける私等の活動が、日本帝国主義の侵略の基礎の上に立つものでありますから、其の事に付ては十分認識して居ましたので、私等が蘇同盟から中国に戦犯容疑者として送られた事実に対しては当然であると考へて居りました。しかし入蘇以来九年、来華後四年の間の謹慎せる生活と学習とに依って、私等の日本帝国主義の走狗としての活動に対する責任は既に解消したものであり、今更処罰を受ける理由は無いと考へて居りました。此の中国及蘇同盟に対する不平不満が私の肉親に対する顧慮と共に、今年一月二十一日、当時第一所第五号室に起居して居た十数名と共に、他の三室と同様、[改行は原文通り]
毛主席宛の帰国請願書を提出する形となって表はれ、又二月二十一日管理所長との懇談会の席上に於て、私が中国に送られて来た、九百七十余名の為に陳述した弁護論の形どなって表はれたのであります。従て今次の総結に入ってからの私の供述中に、此の不平不満、此の思想の表現されない筈は無いのであります。
果して五月下旬になって私は指導員の方々に認罪の態度が好くないとの御注意を受け、中国の政策を説明されて之を正しく理解認識すべきことを諭されました。其の日私は深く自己の思想を反省批判しました結果、旧満洲国が日本帝国主義侵略の基礎の上に成立したものであったといふ私の認識を演繹して、旧満洲国の法院は日本帝国主義侵略罪行の一部を担当して居ためであり、この大きな見地からすれば検挙機関たる軍隊、憲兵隊、特務、司法警察も、起訴機関たる検察庁も、審判機関たる法院も、被告を監置し又刑を執行する機関たる監獄も皆共同して、中国人民を弾圧したといふ大きな罪行を犯したのであり、従て法院は検挙逮捕に関係が無いからとて、其の罪行に対する責任を免れることは出来ませんし、又在監中の被告の死亡なり、判決後の刑の執行は監獄の仕事であるからとて、その罪行に対する責任を回避することを得ない、然も私は組織者たる集団の一員であったといふ至極当然なことをやっと理解自覚することが出来ましたし、又この理解自覚を妨げて居たものは私自身の帝国主義的な旧い法律思想であることが判りました。同時に今迄私がこの帝国主義的な旧い法律思想を捨て得なかったといふことは、其の源を中国の政策を正しく理解認識出来なかったといふことに発して居ることも判ったのであります。即認罪が出来て人民の道に進打ことが出来れば、社会に有益な人間として、釈放されるが、然らざる限り絶対に釈放されることはない、といふ政策を一応理解しても、自分の罪行は重大であるから、自分に対しては釈放されるといふことは、あり得ない、必ず厳罰に処せられるであらう、と考へて居たのであります。これは即ち中国の政策に対する私の疑ひを表明するものに外ならないのであります。従って其の当然の結果、私は何時の間にか、大きな自己弁護の枠の中に自己の供述を押込めて了って居たのであります。斯くて私は自分のそれ迄の供述の欠陥と、その欠陥の原因が中国の政策を疑ひ、これを正しく理解認識しなかったことに在ることを発見し得ましたので、私は指導員の方々に対し、私は中国の政策を絶対に信頼すると共に、私が従来抱いて居た帝国主義的な旧い法律思想を払拭することに努力すべきことを誓ひ、罪行の供述を進めたのであります。
然し多年培かはれた帝国主義的思想は一朝一夕に払拭出来るものではありません。六月六日部屋替のあることが判った時、私は同室者に相当虐められると思ひました。所が部屋替後、金指導の部屋替に関する理由説明があり又同室者となった××、××両氏の真摯且親切なる援助が始った時、私は初めて管理所の御処置が中国の政策と結び付いた、真剣な、真実味のある、又親切な人間味のあるものであることを知って、深く感動し、同時に罪行供述に対する、指導員の方の実事求是に基く御援助に依って、私のそれ迄の供述に管轄に関する大きな錯誤があり、其の為に大きな供述の拡大のあることが判ったのを転機として六月十四日、其の夜私は深く自己のそれ迄の供述を再検討し、自己批判し、同室者の援助をも受けた結果、自分の供述に何等真実性のないこと、実事求是の精神から遠く離れて居ること、帝国主義的な思想本質――帝国主義の走狗として、その侵略した外国領土に於て活躍した者に通有する思想の本質を遺憾なく暴露したものであることを究明することが出来たのであります。即、私のそれ迄の供述は管轄に関する部分的錯誤があった許りでなく、奉天高等法院に於て処理した思想事件の内容を推して、他の高等法院に於て処理した思想事件の内容を画一的に形式的に供述し、又数目に付ても、思想事件の人員を月平均二十五、六名の割合にて算出し、死刑は百名に付五名乃至七名の割合にて算出し、従て或る地区の思想事件に付ては物凄い拡大となり、又或る地区の思想事件に付ては縮小となったのでありますが、是等の供述は私が払拭せんとして尋常には払拭し切れない帝国主義的思想、即、一時を糊塗して過ごさう、指導員の方に良く見られやう、苦しい難関を潜り抜けやうとする帝国主義的思想の本質に災ひされて居た結果であることを突き留めたのであります。そして、私は自己の内に在る此の種の帝国主義的思想を暴露して同室者の批判を求めた末、自己の内に在る、あらゆる帝国主義的思想を暴露しては之を払拭しつつ、自己の罪行を供述し、他人の罪行を検挙し、帝国主義的思想の生れる一切の根源、一切の顧慮を断ち切らなくては到底真実の認罪は出来るものではないし、又中国の政策を正しく理解認識することも出来ないことを覚り、斯くて人民の道に進むことを決意することが出来たのであります。
私が斉々哈爾高等法院次長在職申、私が組織した治安庭に於て、自ら審判長として他の審判官二名と共に処理した思想事件に付申上げます。
一、三路軍関係の事件。
(1)、龍江省訥河地区第一回検挙に係る事件。
是は千九百三十九年十一月、三路軍が龍江省訥河を襲撃したる後、龍江省駐屯の日・満軍、憲兵隊、同省警務庁特務、司法警察隊が訥河及其の附近に於て開始した検挙に依って逮捕された愛国人民の事件であります。
右検挙機関は同年末頃検挙人員中八十余名を斉々哈爾高等検察庁に送り、同検察庁は千九百四十年春頃右人々を斉々哈爾高等法院に起訴し、同法院治安庭は同年春頃より十月迄の間に其の公判庭に於て審判しました(約二十件、内私が審判長として処理したるもの約六件)。
治安庭は千九百四十年五月私が着任する迄に処理したる部分に付ては前任者××××が構成し、私が着任後同年九月、十月の間に処理したる部分に付ては審判長私、審判官××××、××××を以て構成しました。
事件の内容は、私の審判に係るものは、龍江省訥河及其の附近居住の愛国人民約二十三名が、千九百三十九年十一月頃迄に、三路軍に協力し同軍を糧食、宿泊所、情報の提供等に依り援助したといふ事実であります。
○判決の結果、約二十三名全部、有期徒刑十年以下。
(2)、龍江省訥河地区第二回検挙に係る事件。
是は千九百四十年九月及十一月の二回に亘り、龍江省駐屯の日・満軍、日本憲兵隊、龍江省警務庁特務司法警察隊が、其の当時同省の訥河及其の附近に在りし三路車を攻撃した際検挙した事件であります。
右検挙機関は逮捕したる革命戦士幹部孫長林等約四十名を検挙の都度斉々哈爾高等検察庁に送り、同検察庁は千九百四十一年六、七、八月及十二月、共産党訥河県本部委員会破壊事件と共に順次斉々哈爾高等法院に起訴し、同法院治安庭は起訴の都度四、五回に亘り其の公判庭に於て審判しました(約十件)
治安庭は審判長私、審判官××××、××××を以て構成しました。
事件の内容は、三路軍幹部革命志士孫長林外三名は干九百四十年九月頃迄の間に、龍江省北部訥河、克山、北安、黒河省嫩江、興安東省東部の各地区に於て自己の部隊を指揮し、日・満軍、憲兵隊、特務司法警察隊との戦闘を指導したといふ事実、政治部員一名は同上期間同上地区に於て三路軍に随ひ行動し、其の間軍の内部に於ける政治教育、外部人民に対する宣伝工作、情報蒐集等を為したといふ事実、其の他の戦士は同上期間同上地区に於て、日・満軍、憲兵隊、特務司法警察隊との戦闘に従事したといふ事実であります。
○判決の結果 幹部孫長林外三名及政治部員一名合計五名、死刑、戦士約二十名、有期徒刑十年以上、其の他の戦士約十五名、有期徒刑十年未満。
(3)、駅売店経営者の事件。
此の事件は千九百四十一年夏頃龍江省警務庁特務警察が、満鉄平斉線沿線某駅の売店経営者一名が三路軍に通じたることを発見し検挙した事件であります。
右特務警察は其の頃右事件を斉々哈爾高等検察庁に送り、同検察庁は其の頃之を斉々哈爾高等法院に起訴し、同法院治安庭は其の頃其の公判庭に於て之を審判したのであります。(一件)
治安庭は審判長私、審判官××××、××××を以て構成しました。
事件の内容は、満鉄平斉線沿線某駅の売店を経営する愛国人民一名が千九百四十年夏頃より其の翌年夏頃迄の間屡々其の売店に於て三路軍戦士の依頼を受け、同軍の為時計、地図其の他の車用品を調達交付したといふ事実であります。
○判決の結果、有期徒刑四年。
(4)、興安東省東部地区の事件。
是は千九百四十一年秋頃、興安東省警務庁特務、司法警察が同省東部地区に於て三路軍の行動に協力援助する愛国人民のあることを発見して検挙した事件であります。
右検挙機関は同年秋頃右人々を斉々哈爾高等検察庁に送り同検察庁は同年十二月頃、其の内愛国人民約十五名を斉々哈爾高等法院に起訴し、同法院治安庭は其の頃其の公判庭に於て審理しました(約四件)。
治安庭は審判長私、審判官××××、××××を以て構成しました。
事件の内容は、興安東省東部地区居住の愛国人民十五名が、千九百四十一年秋頃迄に、三路車に協力し、糧食、宿泊所、情報の提供等に依り援助したといふ事実であります。
○判決の結果、十五名何れも有期徒刑十年以下。
(5)、龍江省訥河地区第三回検挙に係る事件。
是は一九四一年秋頃、龍江省昂々渓駐屯の日本軍及満軍が日本憲兵隊、龍江省、黒河省、興安東省の各警務庁特務、司法警察と協力して、龍江省誚河及其の附近に在りし三路車を攻撃し、同軍参謀長郭鉄堅を射殺したる際検挙した事件であります。(約十七件)
右検挙機関は逮捕したる内、革命戦士約三十名及愛国人民約二十八名を其の頃、斉々哈爾高等検察庁に送り、同検察庁は千九百四十二年春頃右人々を斉々暗爾高等法院に起訴し、同法院治安庭は同年春頃より夏迄の間に数回に亘り、其の公判庭に於て審判しました。
治安庭は審判長私、審判官××××、××××を以て構成しました。
事件の内容は、三路軍幹部三名の革命志士は千九百四十一年秋頃までに龍江省北部訥河、克山、北安、黒河省嫩江、興安東省東部各地区に於て、自己の部隊を指揮し、日・満軍、憲兵隊、特務、司法警察隊との戦闘を指導したといふ事実、其の他の戦士は同上期間同上地区に於て、日・満軍、憲兵隊、特務、司法警察隊との戦闘に従事たといふ事実、愛国人民約二十八名は三路軍に協力し、糧食、宿泊所、情報提供等の援助を為したといふ事実であります。
○判決の結果、
幹部三名、死刑、
戦士約十五名、有期徒刑十年以上、
其の他の戦士約十二名及愛国人民約二十八名合計約四十名、有期徒刑十年未満。
以上三路軍関係の各刑は何れも上訴なくして確定し、其の後間もなく斉々哈爾高等検察庁指擇の下に、斉々哈爾監獄に於て執行致しました。
二、龍江省訥河県本部委員会破壊事件。
此の事件は千九百四十年九月及十一月龍江省駐屯の日・満軍、憲兵隊、龍江省警務庁特務科、司法警察隊が、其の当時同省訥河及其の附近に在りし三路軍を攻撃したる際、検挙した事件であります。
右日・満軍、憲兵隊、特務科、司法警察隊の検挙したる人員は革命志士尹子魁、王恩栄外愛国人民等合計百十七名でありまして、検挙機関は検挙の都度合計五十二名を斉々哈爾高等検察庁に送り、同検察庁は千九百四十一年六、七、八月及十二月順次右人々を斉々哈爾高等法院に起訴し、同法院治安庭は、起訴の都度数回に亘り、其の公判庭に於て審判しました(約十四件)。
治安庭は審判長私、審判官××××、××××を以て構成しました。
事件の内容は、中国共産党龍江省訥河県本部委員会委員革命志士尹子魁及其の下部組織たる区本部委員会委員革命志士王恩栄は千九百四十年九月頃迄の間、同地区に行動せる三路軍に協力し、人民を抗日救国会に組織して三路軍を援助せしめ、又自ら情報蒐集、宣伝、連絡等を為したる事実、其の他の愛国人民は共産党責任者指導の下に抗日救国会を組織し、之を通じて、三路軍に対し糧食、宿泊所、情報を提供する等の援助を為したる事実であります。
○判決の結果、
責任者尹子魁外一名合計二名、死刑、
責任者遅万均、宋文堂等六名、無期徒刑、一名、有期徒刑二十年、三十二名、有期徒刑十年乃至十五年、十一名、有期徒刑五年乃至十年未満。
以上の刑は何れも上訴なくして確定し、其の後間もなく、斉々哈爾高等検察庁の指揮の下に、斉々哈爾監獄に於て執行致しました。
三、満洲鉄路中国共産党北満省委員会第一執委部破壊事件(田白工作事件)。
此の事件は、千九百四十一年秋、龍江省昂々渓駐屯の日本軍××、××両部隊が、同省訥河附近に於ける、三路軍との戦闘に於て射殺したる参謀長郭鉄堅の衣服中より入手したる中国共産党地下組織名簿に拠り発見したる満洲鉄路中国共産党北満省委員会第一執委部を破壊した事件であります。
此の事件に於て検挙された人々は、斉々哈爾の日本憲兵隊が、龍江省警務庁特務科と協力して、此の名簿入手後約一ヶ月の偵諜期を経て、斉々哈爾、佻南、白城子に於て検挙した人々及逃亡した為済南に於て済南憲兵隊が検挙した人々を合計して革命志士王耀均外四十名でありました。斉々哈爾の日本憲兵隊は是等革命志士を同年十二月斉々哈爾高等検察庁に送り、同検察庁は千九百四十二年七月、其の内三十八名を斉々哈爾高等法院に起訴し、同法院治安庭は同年十二月其の公判庭に於て数回に亘り審判しました。(約十件)
治安庭は、審判長私、審判官××××、××××を以て構成しました。
事件の内容は、革命志士王耀均等三十八名が予九百四十一年秋頃迄に、満鉄斉々哈爾鉄道局列車区を中心として満洲鉄路中国共産党北満省委員会第一執委部の組織を確立し、其の組織により斉々哈爾、佻南、白城子等に於て反満抗日運動を為したといふ事実であります。
○判決の結果、
責任者王耀均、組織者史履陞、組長周善恩三名、死刑、
組織者兼書記件允文、毛殿武、閻瑞麟等四名、無期徒刑、候康文等十七名、有期徒刑十五年、十二名、有期徒刑五年乃至八年、二名、公判前斉々哈爾監獄に於ける死亡に因り公訴却下。
以上の刑は何れも上訴なくして確定し、其の後間もなく斉々哈爾高等検察庁指揮の下に、斉々哈爾監獄に於て執行致しました。
四、中国共産党の佻南其の他興安南省一帯に於ける地下組織破壊事件(白龍工作事件)。
此の事件は千九百四十二年、十一月頃、龍江省白城子の日本憲兵隊及興安南省警務庁特務科が、佻南、白城子、大貫等の地区に中国共産党地下組織のあることを発見し、其の頃及同年十二月二十八日、三十一日の三回に亘り約六十名の愛国人民を検挙した事件であります。 白城子の日本憲兵隊及興安南省警務庁特務科は検挙の都度是等の人々を斉々哈爾高等検察庁に送り、同検察庁は千九百四十三年二月、右愛国人民の内二十数名(約六件)を、同年三月同じく三十数名(約九件)を、合計約五十六名(約十五件)を斉々哈爾高等法院に起訴し、同高等法院治安庭は其の都度其の公判庭に於て数回に亘り審判しました。
治安庭は、審判長私、審判官××××、××××を以て構成しました。
事件の内容は、中国共産党興安南省地区責任者革命志士叢世和は千九百四十一年中浜南、白城子、大賚等の各地区に於て、愛国人民を抗日救国会に組織して反満抗日運動を為さしめ、又自ら情報蒐集、宣伝、連絡等を為したといふ事実、其の他の愛国人民は党責任者指導の下に抗日救国会を組織し、その組織を通じて情報の蒐集其の他の反満抗日運動を為したといふ事実であります。
○判決の結果、
叢世和等三名、死刑、
一名、無期徒刑、
其の他の大部分の人民(約三十五、六名)有期徒刑十年以上、
小部分の人民(約十六、七名)有期徒刑十年未満。
以上の刑は何れも上訴なくしてして確定し、其の後間もなく斉々哈爾高等検察庁の指揮の下に、斉々哈爾監獄に於て執行致しました。
五、国民党地下組織破壊事件(偵星工作事件、一二・三〇事件)。
此の事件は千九百四十二年末、斉々哈爾の日本憲兵隊が、満鉄斉々哈爾鉄道局職員中に車掌・信号所助役、列車手、改札係等の国民党反満抗日組織あることを発見し、同年十二月三十日七名を検挙したる外、其の後数回に亘り、合計五十余名の愛国人民を検挙した事件であります。
斉々哈爾の日本憲兵隊は千九百四十三年一月右五十余名を斉々哈爾高等検察庁に送り、同検察庁は同月其の内愛国人民伊作衡等五十一名を斉々哈爾高等法院に起訴し、同法院治安庭は其の公判庭に於て内四十七名に付数回に亘り審理を遂げ、同年二月十三日判決しました。(約十二件)。
治安庭は審判長私、審判官××××、××××を以て構成しました。
事件の内容は、愛国人民伊作衡等四十七名が千九百四十二年夏頃より斉々哈爾市内満鉄社宅数ヶ所に於て、屡々協議会を開催して反満抗日の方法を協議し、或は軍用列車の状況を偵諜し、或は斉々哈爾市附近の地形を調査し、或は同市内居住日本人の生活状況を調査して何れも之を国民党指導部に報告する等の反満抗日運動を為したといふ事実であります。
○判決の結果、
伊作衡、王文宣二名、死刑、
四名、無期徒刑、
三十八名、有期徒刑十年以上。一名宣告猶予、二名公訴却下。
以上の刑は何れも上訴なくして確定し、其の後間もなく斉々哈爾高等検察庁指揮の下に、斉々哈爾監獄に於て執行致しました。
六、軍機保護法違反の事件。
此の事件は千九百四十一年春頃、興安東省警務庁特務科分室(××警佐)が札蘭屯居住白系露人セルゲイを日本軍動静偵諜の嫌疑を以て検挙した事件であります。
右分室は千九百四十二年夏頃この事件を斉々哈爾高等検察庁に送り、同検察庁は其の頃之を斉々哈爾高等法院に起訴し、同法院治安庭は其の頃数回に亘り其の公判庭に於て審理したる後判決しました。
治安庭は審判長私、審判官××××、××××を以て構成しました。
事件の内容は、白系露人セルゲイが千九百四十年夏頃より手九百四十一年春頃迄の間興安東省札蘭屯に於て、ノモンハン事件の為出動せる日本軍の軍用列車及同所飛行場に離着陸する軍用機の情況を偵諜し、之を数回に亘り哈爾浜に於て蘇同盟諜者に伝へたといふ事実であります。
○判決の結果
私は此の事件に付三回に亘り公判庭に於て審理しましたが審理未了の借手九百四十三年五月錦州に転任しましたので後任者××次長が引続き審理したる結果、無罪の判決を為しその判決は確定したことを後に聞きました。
私が斉々哈爾高等法院次長在職中処理した思想事件の結果を綜合して一覧表にしますと次の通りになります。
以上私が斉々哈爾高等法院次長在職中、自ら組織し、自ら審判長として処理しました思想事件は、合計約八十九件、三百三十一名、其の内には死刑十八名、無期徒刑十名もあります。其の罪行たる真に重且大であります。真に中国人民の立場に立って見る時、革命志士及愛国人民が、斯くも多数生命を奪はれ、又は長年月自由を拘束された事に対して、極めて大なる憤激を有せられることを良く理解することが出来るのであります。生命を奪はれ、自由を拘束された本人、其の家族、其の社会環境を考へ、其の精神上、肉体上、財産上の苦痛、損害の如何に莫大なものであるかを思ふ時、又一人を処理した裏に如何に多くの血が流され、弾圧書わた人があるかを考察する時、日本帝国主義の罪行の一部を担当した私は衷心より深く、中国人民に対し御詫び申上げる次第であります。そしてそれと同時に中国の私等戦犯に対する御取扱 が如何に寛大であり、人道的であるかといふことに付感激する外ないのであります。
××××
私が千九百四十三年五月より千九百四十四年五月まで、錦州高等法院次長在職中、自己の犯した罪行に対する反省書。一、次長兼庭長のこと。
偽満洲国司法部法院の次長は其の法院組織法の条項に依って当然庭長となるのであります。元来次長制度は、一般的に何れの官庁に於ても然る如く、法院に於ても日本軍国主義偽満洲支配の為め、事実上の長官として日本人を配置する目的を以て設けられたものでありますから、中国人の法院長は傀儡に過ぎないのであります。従て次長が長官たる院長を補佐するといふ規定も、個人的な慇懃敬愛といふことも其の本質は皆帝国主義的欺瞞にしか過ぎません。又法院次長は法律上当然庭長を兼務したのでありますが、是は民刑事々務分配上自らも庭長として随時主要な事件を処理することを得しめたるに外なりません。従て次長が法律上当然庭長を兼務したといふことは、司法行政上に於ても又司法事務其のもの即審判事務を処理する上に於ても、日本帝国主義偽満洲支配、其の植民地的統治を確実に維持せんとするものであります。故に私が斉々哈爾、錦州、哈爾浜の各高等法院次長を歴任しましたのは、実に各高等法院の事実上の長官として司法行政事務上及民刑事々件処理上、日本帝国主義の支配統治を確保維持する為に配置されたものであります。殊に思想事件を高等法院の治安庭又は特別治安庭に於て処理するに付ては、私は次長兼庭長として特に関心を払ひ、自ら治安庭又は特別治安庭を組織したる上、自ら審判長として之を審判するに付ても又他の審判官をして審判せしむるに付ても、結局私が次長といふ資格を以て当然参加すべき日本帝国主義組織集団の一員として、其偽満洲支配統治を確保維持する目的に副ふ様自らも審判し、他の審判官をも之に傚ひ審判せしめたのでありまして、審判官の職務独立、身分保障も、日本帝国主義偽満洲支配統治といふことに条件付けられたものであることは云ふまでもないのであります。結局高等法院の次長兼治安庭又は特別治安庭々長といふことは日本帝国主義偽満洲支配統治の機構の一つであったのであります。
二、熱河西南地区防衛委員会委員のこと。
私は錦州高等法院次長在職中、千九百四十三年八月熱河西南地区防衛委員会の委員に指名され、熱河地区に於ける中国の革命志土愛国人民を惨殺弾圧する日本帝国主義現地組織の一員となりました。此の委員会は防衛司令官日本軍安東少将領導の下に、熱河省駐屯の日満軍憲兵隊の各隊長同省次長警務庁長、錦州高等検察庁次長、錦州高等法院次長、錦州鉄道警護軍旅長等を以て組織し、熱河殊に其の西南地区に於ける日本帝国主義の支配統治を確保維持する目的を以て、如何なる方法に依り中国の革命志士、愛国人民を惨殺し、其の抗日愛国運動を弾圧するかを研究討論し、其の決定に基き各機関をして協力実施せしむる所の組織であります。
一九四三年一月以来熱河省西南地区一帯に於ける中国の革命志士、愛国人民の抗日愛国運動が次第に熾烈を加へ来ったことに鑑み、同年八月承徳の熱河省公署に於て熱河西南地区治安粛正委員会名義を以て防衛委員会が開催されました。これに参加した者は、熱河省次長司会の下に新京憲兵司令部派遣の憲兵中佐某、承徳の日満憲兵隊長、警務庁長、錦州高等検察庁次長、錦州高等法院次長、司法部派遣××参事官、錦州鉄道警護軍旅長等であります。私は錦州高等法院次長として錦州高等検察庁××次長と共に出席し、治安粛正情況に関する報告を聞いた後一同と共に、同年九月に行けるべき熱河地区の大検挙に付一般的事項の外に錦州高等法院特別治安庭が如何にしてこの検挙に協力し得るかを研究討論し、其の結果同年九月及其の後十月に行はれたる二回の大検挙の際、青龍、興隆、平泉、古北口に特別治安庭を組織派遣し、又検挙後承徳に於て特別治安庭を組織して、自ら開庭し又は他の審判官をして開庭せしめ、以て錦州高等法院として此の大検挙に於ける中国革命志士、愛国人民に対する惨殺、弾圧に協力したのであります。
三、私が偽満洲国錦州高等法院次長に在職した千九百四十三年五月より千九百四十四年五月までの間に、私が治安庭又は特別治安庭を組織して、自ら審判長となって審判し、又は他の審判官を審判長として審判せしめた思想事件は次の通りであります。
1[ローマ数字] カラチン右旗中旗興隆、承徳、囲場、龍華、豊寧、青龍、翁右、敖漢地区の事件。
是は平泉の錦満洲国憲兵隊及熱河省警務庁特務、司法警察が一九四三年一月以後七月迄の間にカラチン右旗、中旗、興隆、承徳、囲場、龍華、豊寧、青龍、翁右、及敖漢地区に中国共産党地下組織の抗日愛国運動あることを発見し検挙した事件であります。
(1)右検挙機関は千九百四十三年一月より六月までの間、興隆、承徳、囲場、龍華、豊寧、青龍、カラチン中旗、翁右、敖漢地区に於て中国共産党員たる革命志士及愛国人民約千名を逮捕し、其内約百六十名を逮捕の都度承徳駐在の錦州高等検察庁検察官××に送り、右××検察官は其都度承徳に於て錦州高等法院特別治安庭に起訴し、右特別治安庭は起訴の都度承徳地方法院公判庭に於て審判しました(約四十五件)。
私が組織した特別治安庭は審判長承徳地方法院次長兼錦州高等法院審判官××某、審判官承徳地方法院審判官兼錦州高等法院審判官××某、錦州地方法院審判官兼錦州高等法院審判官××某又は××某を以て構成しました。
事件の内容、中国共産党員たる革命志士に付ては、一九四三年一月より六月までの間逮捕さるる迄に熱河省興隆、承徳、囲場、龍華、豊寧、青龍、カラチン中旗、翁右、敖漢地区に於て、八路軍に協力し、愛国人民を抗日救国会に組織し、宣伝、情報蒐集、連絡等を為したといふ事実、愛国人民に付ては抗日救国会を組織し之を通じて八路軍の革命戦士に糧食、宿泊所、情報の提供、道案内等抗日愛国運動を為したといふ事実であります。
判決の結果、革命志土愛国人民五名死刑、同約百名、無期徒刑又は有期徒刑十年以上、同約五十五名、有期徒刑十年未満。
(2)前記検挙機関は千九百四十三年七月十四日熱河省力ラチン右旗七家、五家、旺業田地区に於て中国共産党員たる革命志士及愛国人民約百五十名を逮捕し、其内約四十名を其頃錦州高等検察庁に送り、同検察庁は同年八月頃右人々を錦州高等法院に起訴し、同法院治安庭は其頃其公判庭に於て審判しました(約十五件)。
私は治安庭を組織し、審判長私、審判官、錦州地方法院次長兼錦州高等法院審判官××××、前記××某を以て構成しました。
事件の内容、中国共産党員たる革命志士に付ては、千九百四十五年七月十四日逮捕さるるまでの間に、熱河省力ラチン右旗七家、五家、旺業田地区に於て、八路軍に協力し、愛国人民を抗日救国会に組織し、宣伝、情報蒐集、連絡等を為したといふ事実、愛国人民に付ては、抗日救国会を組織し、之を通じて八路軍の革命戦士に糧食、宿泊所、情報の提供、道案内等抗日愛国運動を為したといふ事実であります。
判決の結果、革命志士二名死刑、愛国人民約二十名、無期徒刑又は有期徒刑十年以上、同約十八名、有期徒刑十年未満。
以上判決の結果を合計しますと左の通りになります。
革命志士、愛国人民七名、死刑。
愛国人民約百二十名、無期徒刑又は有期徒刑十年以上、同約七十三名、有期徒刑十年未満。
2[ローマ数字] 光頭山地区の事件。
是は平泉の偽満洲国憲兵隊及熱河省警務庁特務、司法警察が千九百四十三年一月頃平泉南方光頭山地区に於て、中国共産党地下組織の抗日愛国運動あるを発見し検挙した事件であります。
右検挙機関は千九百四十三年一月以後同年五月迄の間数回に亘り光頭山地区に於て、中国共産党員たる革命志士及愛国人民合計約五百名を逮捕し、其内約二百名を逮捕の都度、承徳駐在の錦州高等検察庁思想検察官××に送り、右××検察官は其内二十名を錦州高等法院治安庭に起訴したる外は、送致を受くる都度、承徳に於て、錦州高等法院特別治安庭に起訴し、同特別治安庭は其の都度承徳地方法院公判庭に於て審判しました。以上の内私が錦州着任後に承徳の特別治安庭をして審判せしめた分は約四十名で、同年八月迄の間に二、三回に亘り審判したのであり、又錦州の治安庭に起訴された、二十名は同年八月錦州高等法院公判庭に於て一、二回に亘り審判したのであります。(約十五件、内私の審判したるもの約五件)。私は治安庭及特別治安庭を組織し、錦州に於ける治安庭は審判長私、審判官は錦州地方法院次長兼錦州高等法院審判官××××及前記審判官××某又は××某を以て構成し、承徳に於ける特別治安庭は、審判長として承徳地方法院次長兼錦州高等法院審判官××××、審判官は前記××某、××某又は××某を以て構成せしめました。
事件の内容 中国共産党員たる革命志士に付ては一九四三年一月頃より逮捕までの間光頭山地区一帯に於て八路革命軍に協力し、愛国人民を抗日救国会に組織し、宣伝、情報蒐集、連絡等を為したといふ事実、愛国人民に付ては抗日救国会を通じて八路軍革命戦士に糧食、宿泊所、情報の提供、道案内等抗日愛国運動を為したといふ事実であります。
判決の結果 革命志士愛国人民中五名、死刑(この内私が審判長として審判したのは二名であります)。
愛国人民約三十五名、無期又は有期徒刑十年以上(同上十二名)、其他の愛国人民約二十名、有期徒刑十年未満(同上六名)。
3[ローマ数字] 熱河西南地区防衛委員会決定に基く大検挙事件。
(1) 第一回検挙に係る事件。
是は熱河西南地区防衛委員会が千九百四十三年八月承徳の熱河省公署に於て熱河西南地区治安粛正委員会名義を以て開催せられたる防衛委員会に於て研究検討したる結果に基き行った大検挙であります。
同年九月十一日より同月二十六日までの間、青龍県西部及西南部地区に於ては偽満洲国喜峯口憲兵隊及青龍駐屯軍が三百二十四名の、興隆県東部一帯の地区に於ては同じく古北口憲兵隊が九十八名の、承徳県南部地区に於ては同じく承徳憲兵隊及熱河省警務庁特務、司法警察隊が五百三十六名の、合計九百五十八名の中国革命志士及愛国人民を検挙し、其の内青龍県地区に於ては、百八十五名を青龍に於て錦州高等検察庁思想検察官を経て錦州高等法院特別治安庭に起訴し、外に四十九名を承徳に送り、承徳県南部地区に於て検挙したる分に併せ、興隆県地区に於ては、約四十一名を興隆に於て錦州高等検察庁思想検察官を経て錦州高等法院特別治安庭に起訴し、承徳県地区に於ては、百八十一名を青龍県地区より送った四十九名と共に承徳に於て錦州高等検察庁思想検察官を経て錦州高等法院特別治安庭に起訴しました。結局此の三地区に於ける起訴人員は合計四百五十六名になります。私は青龍に派遣した特別治安庭をして、青龍に於て起訴の都度公判を開き審判せしめたる後(約六十件)之を興隆に移動せしめ、興隆に於ても起訴の都度公判を開き審判せしめたのであります。(約十二件)承徳に於て起訴せられたる分に付ては第二回検挙後起訴せられたる分と併せ二百六十名中一名を錦州高等法院治安庭に於て審判したる外は、全部同年十月末頃より同年十一月の間に承徳地方法院公判庭に於て特別治安庭が審判しました。この承徳に於て起訴せられたる分に付ては第二回検挙に係る事件(2)及(3)に於て申上げます。
私が組織して青龍及興隆に派遣した特別治安庭は、審判長として承徳地方法院次長兼錦州高等法院審判官××某、審判官は前記××、××又は××を以て構成せしめました。
事件の内容、八路軍幹部革命志士に付ては千九百四十三年九月までの間熱河省西南地区各所に於て、其部隊を指揮し、日満軍、憲兵隊、熱河省警務庁特務、司法警察隊との戦闘を指導したといふ事実、八路軍革命戦士に付ては同上期間同上地区に於て、日満軍、憲兵隊、熱河省警務庁特務、司法警察隊との戦闘に従事したといふ事実、中国共産党責任者、党員に付ては同上期間同上地区に於て八路軍に協力し愛国人民を抗日救国会に組織し、又宣伝、情報蒐集、連絡等を為したといふ事実、愛国人民に付ては同上期間同上地区に於て抗日救国会を通じて八路軍革命戦士に糧食、宿泊所、情報の提供、道案内等の抗日愛国運動を為したといふ事実であります。
判決の結果 青龍に於て審判せしめた革命志士及愛国人民百八十五名中、四名、死刑、約百二十名、無期徒刑又は有期徒刑十年以上、約六十一名、有期徒刑十年未満。
興隆に於て審判せしめた革命志士及愛国人民四十一名中、一名、死刑、約三十名、無期徒刑又は有期徒刑十年以上、約十名、有期徒刑十年未満。
(2) 第二回検挙に係る事件。
是は第一回検挙機関が千九百四L寸三年寸月、第一回大検挙の結果を研究検討したる上検挙した事件であります。
同年十月六日より同月十九日までの間、承徳県東南部地区に於ては偽満洲国憲兵隊及熱河省警務庁特務、司法警察隊が、古北口地区に於ては同じく古北口憲兵隊が、喜峯口一帯地区に於ては即青龍県一部と河北省一部の地区に於ては同じく喜峯口憲兵分隊が何れも多数の中国革命志士及愛国人民を検挙し、検挙人員合計二百九十三名の内承徳県地区に於ては三十名を承徳に於て錦州高等検察庁思想検察官を経て錦州高等法院特別治安庭に起訴し、古北口地区に於ては約十二名を古北口に於て錦州高等検察庁思想検察官を経て錦州高等法院特別治安庭に起訴し、喜峯口一帯の地区に於ては約二十六名を平泉に於て錦州高等検察庁思想検察官を経て錦州高等法院特別治安庭に起訴しました。結局此の三地区に於て起訴したのは中国革命志士及愛国人民合計六十八名になります。私は平泉に派遣した特別治安庭をして、平泉に於て起訴の都度公判を開き審判せしめた後之を古北口に移動せしめ、同所に於ても起訴の都度公判を開き審判せしめました(合計約十二件)。承徳に起訴せられた三十名は前記の如く第一回大検挙に於て起訴せられたる百八十一名及青龍より送られ起訴せられたる四十九名とを併せ合計二百六十名中一名を錦州高等法院治安庭に於て審判したる外は、何れも同年十月末頃より同年十一月の間承徳地方法院公判庭に於て特別治安庭が審判しました。この承徳に於て審判した内六十名は私が審判長として三、四回に亘り審判し、其の余の百九十九名は承徳地方法院次長兼錦州高等法院審判官××某を審判長として十数回に亘り審判せしめたのであります。(合計約八十件、内私の審判したるもの約二十件)。私が組織した特別治安庭、平泉及古北口に於ける特別治安庭は審判長錦州地方法院次長兼錦州高等法院審判官××某、及審判官前記××某、××某を以て構成せしめ、承徳に於ける特別治安庭は(イ)、審判長私、審判官右××某、前記××某を以て構成し又は(ロ)、審判長右××某、審判官前記××某、××某又は××某を以て構成せしめました。
事件の内容、八路軍幹部革命志士に付ては、千九百四十三年十月迄の間熱河省西南地区各所に於て、其の部隊を指揮し、日満軍、憲兵隊、熱河省警務庁特務、司法警察隊との戦闘を指導したといふ事実、八路車革命戦士に付ては同上期間同上地区に於て日満軍憲兵隊、熱河省警務庁特務、司法警察隊との戦闘に従事したといふ事実、中国共産党責任者、党員たる革命志士に付ては同上期間同上地区に於て、八路軍に協力し、愛国人民を抗日救国会に組織し、又宣伝、情報蒐集、連絡を為したといふ事実、愛国人民に付ては同上期間同上地区に於て、抗日救国会を通じて、八路軍革命戦士に糧食、宿泊所、情報の提供、道案内等の抗日愛国運動を為したといふ事実であります。
判決の結果 平泉及古北口に於て江上を特別治安庭の審判長として審判せしめた革命志士及愛国人民合計三十八名(平泉二十六名、古北口十二名)中、二名、死刑、二十五名、無期徒刑又は有期徒刑十年以上、十一名、有期徒刑十年未満。
承徳に於て私自ら特別治安庭の審判長として審判した革命志士及愛国人民六十名中、十五名、死刑、十五名、無期徒刑、三十名、有期徒刑十年以上。
承徳に於て××を特別治安庭の審判長として審判せしめた革命志士及愛国人民百九十九名中、十五名、死刑、十五名、無期徒刑、約百名、有期徒刑十年以上、約六十九名、有期徒刑十年未満。
(3) 革命志士白玉林の事件。
是は承徳の偽満洲国憲兵隊及熱河省警務庁特務、司法警察が千九百四十三年九月及十月の承徳県南部地区に於ける大検挙の際検挙した事件であります。
右検挙機関は千九百四十三年九月及十月の間熱河省承徳県南部地区に於て革命志士白玉林を逮捕して承徳駐在の錦州高等検察庁思想検察に送り、同検察官は同年十二月頃錦州高等法院に起訴して錦州に送り、錦州高等法院治安庭は同月その公判庭に於て審判しました。私は治安庭を組織し、審判長私、審判官前記××某、××某を以て構成しました。
事件の内容、延安に於ける中国共産党々学校の党員たる革命志士白玉林は千九百四十三年九月頃迄の間偽満洲国熱河省承徳県地区に於て愛国人民を抗日救国会に組織し、宣伝、情報蒐集、連絡等を為したといふ事実であります。
判決の結果 革命志士白玉林 死刑
以上第一、二回の偽満洲国熱河省西南地区に於ける大検挙に係る事件に於て審判した中国革命志士及愛国人民は合計五百二十四名、其内死刑は三十八名、無期徒刑は三十名、無期徒刑又は十年以上の有期徒刑は三百五名、十年未満の有期徒刑是等の惨殺され又弾圧された革命志士、愛国人民の内には前記の如く八路軍幹部、戦士、中国共産党責任者、党員、一般愛国人民の外尚河北省の遷尊興、遷青平、青総凌、承平寧各県の県、区、村各政府責任幹部採糧員、助理員、農会主席、同会員、遊撃隊幹部、同隊員等の愛国人民も多数含まれて居るのでありますし又右各県の県政府は侵略した検挙機関により破壊されたのであります。而も宣告したる各刑は上訴なくして確定後錦州高等検察庁指揮の下に一部は承徳、錦州の各監獄に於て、一部は安東外北満各地の監獄に於て執行致したのであります。
4[ローマ数字] 若き無電技術者の事件。
是は偽満洲国憲兵、熱河省警務庁特務警察が千九百四十三年に行はれた大検挙後に熱河奥地に於て検挙した事件であります。
右検挙機関は千九百四十三年十一月頃熱河奥地に於て延安より派遣されたる若き無電技術者を逮捕して錦州高等検察庁に送り、同検察庁は其頃錦州高等法院に起訴し、同法院治安庭は同年十二月頃其公判庭に於て審判しました。
私は治安庭を組織し、審判長私、審判官××某、××某を以て構成しました。
事件の内容、十五、六歳の頃故郷河北省の家は焼かれ父母は行方不明となった後、抗日意識に燃えた愛国人民が、延安に到り中国共産党配慮の下に無電技術を修得し訓練を経たる上、他の工作員と二名にて一組となり熱河に来り、抗日愛国運動を為す傍ら各種情報を党指導部に無電機を以て報告連絡したといふ事実であります。
判決の結果 有期徒刑五年。
5[ローマ数字] 八路軍関係の事件。
是は山海関地区の偽満洲国憲兵隊錦州省警務庁特務、司法警察隊が千九百四十三年十一月頃山海関及錦州省興城県附近に於て行動した八路軍の革命幹部戦士を検挙した事件であります。
右検挙機関は千九百四十三年十一月頃山海関及錦州省興城県附近に於て、八路軍の革命幹部、戦士約十名及愛国人民約十五名を逮捕して其頃錦州高等検察庁に送り、同検察庁は其頃錦州高等法院に起訴し、同法院治安庭は同年十二月其公判庭に於て数回に亘り審判しました(約七件)。私は治安庭を組織し、審判長私、審判官××某、××某又は××某を以て構成しました。
事件の内容、八路軍・革命志士幹部は千九百四十三年十一月頃迄に偽満洲国熱河省西南地区及山海関、錦州省興城県一帯の地区に於て其部隊を指揮し、侵略日満軍憲兵隊、熱河、錦州両省警務庁特務、司法警察隊との戦闘を指導したといふ事実、八路軍革命戦士は同上期間同上地区に於て同上戦闘に従事したといふ事実、愛国人民は同上期間同上地区に於て八路軍に協力し、糧食、宿泊所、情報の提供、道案内等を以て同軍を援助したといふ事実であります。
判決の結果 八路軍革命志士幹部一名、死刑、
其他の革命戦士及愛国人民二十四名、無期徒刑又は有期徒刑十年以上。
6[ローマ数字] 国民党事件。
是は偽満洲国憲兵隊及錦州省警務庁特務、司法警察が錦州省の錦州市、興城県及山海関地区に於て、国民党の抗日運動を発見、検挙した事件であります。
右検挙期間は千九百四十三年九月より十一月までの間数回に亘り錦州省の錦州市、興城県及山海関地区に於て、国民党関係愛国人民約四十五名を逮捕し、その都度錦州高等検察庁に送り、同検察庁は同年十一月一括して錦州高等法院に起訴し、同法院治安庭は同年十二月其公判庭に於て数回に亘り審判しました(約十二件)。
私は治安庭を組織し、審判長私、審判官××某、××某又は××某を以て構成しました。
事件の内容、国民党関係愛国人民は千九百四十三年九月乃至十一月逮捕に至るまでの間偽満洲国錦州省の錦州市、興城県及山海関地区の何れかに於て、国民党に加入し、党員を獲得し、情報蒐集、宣伝、連絡等を為したといふ事実であります。
判決の結果 愛国人民三名、死刑、同約二十名、無期徒刑又は有期徒刑十年以上、同約二十二名、有期徒刑十年未満。
以上私が偽満洲国錦州高等法院次長在職中、私が治安庭又は特別治安庭を組織して、自ら審判長となって審判し、又は他の審判官を審判長として審判せしめた思想事件を綜合して表にしますと次の通りになります。
[略]
四、以上は私が日本帝国主義組織集団の一員として、偽満洲国錦州高等法院次長兼治安庭又は特別治安庭々長在職中犯した罪行であります。日本帝国主義が中国東北地方を植民地化して其の支配を確保維持し、統治を継続する為に如何に蛮力を揮ったかは、熱河対策に於て最も其惨虐性を見出し得るのであります。即革命八路軍の進撃を喰止め、愛国人民の起義を防がんが為に、青龍県、興隆県に広大なる無住地帯を造成して数千名の愛国人民を逮捕したるのみならず、熱河地区に屡々大検挙を行ひ、日本帝国主義軍隊、憲兵隊、特務、司法警察、検察庁、法院の全能力を挙げて数千数万に上る革命志士及愛国人民を逮捕し、数子名を高等検察庁を経て高等法院に起訴し、其治安庭又は特別治安庭に於て、判決を以て惨殺、弾圧を宣告したのでありますが、高等法院に特別治安庭即公判庭外に於て機動的に公判を開き得る制度を設けられたることも、熱河対策が其主要原因を成して居ることは謂ふまでもありません。しかし是は単なる皮相的な、合法名義を被らせたものに過ぎないのでありまして、其判決宣告に依って、高等検察庁の指揮し執行する惨殺、弾圧は日本帝国主義の本質的なものでありますが故に、単に判決を以てするに止らず、検挙機関が自ら手を下して、直接惨殺、拷問、破壊等弾圧を行った事例は枚挙に暇無く、一つの合法的名義の判決を以てする惨殺、弾圧の裏には、多くの流血、拷問、放火、破壊、掠奪が潜んで居ることは容易に発見し得るのであります。
前記「次長兼庭長のこと」の項に於ても述べました如く、私が錦州高等法院次長兼庭長として、司法行政上に於て、又司法事務其のもの即審判事務に於て犯した罪行、更に具体的に謂へば、私が組織した治安庭又は特別治安庭に於て、自ら審判長として熱河に於ける思想事件を審判し、又承徳地方法院次長××某、同法院審判官××某、錦州地方法院次長××××、同後任者××某及同法院審判官××某、××某に何れも錦州高等法院審判官を兼務せしめて、同じく思想事件を審判せしめた私の罪行の総ては、結局私が日本帝国主義組織集団の一員として中国東北地方を植民地化し、其支配統治を確保維持せんが為に行ったに相違なかったのであります。而して其審判に当っては一般的方針に基いて自ら審判し、又は他の、審判官をして審判せしめたのみならず、特に前記の如く私が熱河西南地区防衛委員会の委員として千九百四十三年八月承徳に於て開催されたる熱河西南地区治安粛正委員会名義を以てする防衛委員会に於て、自らも出席し、同年九月に行はるべき大検挙に錦州高等法院特別治安庭が如何に協力し得るかを研究討論したる結果決定した弾圧方針に重点を置いて、自ら思想事件を審判し、又他の審判官をして審判せしめたのであります。
而して右一九四三年九月及十月の大検挙に於ては、河北省の遷尊興、遷青平、青緑凌、承平寧の各県政府を破壊し、検挙後の審判に於ては右各県の県、区、村政府責任幹部、採糧員、助理員、農会主席、同会員、八路軍幹部、戦士、八路軍援助の愛国人民、遊撃隊幹部、同隊員等多数の革命志士、愛国人民を惨殺、弾圧したのでありまして、右二回の大検挙のみにて検挙人員約子二百余名、其内錦州高等検察庁を経て錦州高等法院に起訴審判せられたる、革命志士及愛国人民は五百二十四名、私が錦州高等法院次長在職全期間に於ては検挙人員約千七百名以上、起訴審判せられたる革命志士及愛国人民は八百五十五名、件数約二百五十九件に上り、其の内私が自ら審判長として審判した数は百五十二名、約四十五件、其余は前記内藤又は江上を審判長として審判せしめたのであります。そして判決の結果を死刑に付てのみ見ましても五十四名に達し、其内私の宣告したもの二十二名であります。真に是等の革命志士及愛国人民の本人、其家族、社会環境に与へた苦痛、損害、罪科が精神上、肉体上、物質上如何に大なるものであるかを思ふ時、我ながら其罪行の重大なることを痛感し、中国人民に対し衷心より深く謝罪せざるを得ません。それと共に今飜って中国人民の立場に立って考へる時、日本帝国主義に対する限り無き憎恨憤激が沸き上り、思はず興奮を覚ゆるのであります。そして私は日本帝国主義に対する断乎たる闘争を晢ふと共に、自己の絹天の罪行に対しては徹底的に重き責任をも負ふものであります。
一九五四年六月二十八日 ×××× 指印
処理人員件数一覧表
[略]
※本記事は「s3731127306の資料室」2017年03月26日作成記事を転載したものです。