『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手とせよ」(2018年、家近良樹、ミネルヴァ書房)

目次

はしがき
序章 西郷とはいかなる人物か(001)
 1 日本史上でも有数の人気者(001)
     圧倒的な人気  敬天愛人
 2 西郷隆盛という個性(002)
     落差の大きい人生  立派な風貌  謹言・実直・生真面目  激しい好悪の情  西郷固有の特性  死の壁を乗り越える
 3 本書の執筆で留意すること(007)

第一章 誕生から青年時に至るまで(011)
 1 誕生(011)
     下加治屋町に誕生  貧窮を極めた生活
 2 鹿児島(薩摩藩)の置かれた特殊性(013)
     英雄誕生の三条件  琉球を通じて海外と繋がる
 3 少年時(015)
     傷害事件とその影響  郷中教育
 4 青年時(017)
     農村の実情を知る  陽明学  佐藤一斎  禅との関わり  お由羅騒動  赤山靭負の死

第二章 将軍継嗣運動に関わる(027)
 1 肉親の相次ぐ死と島津斉彬との出会い(027)
     肉親の相次ぐ死  隆盛最初の妻  庭方役を拝命  初めての江戸行  藤田東湖に心酔  東湖と西郷の共通点
 2 斉彬の信頼獲得(032)
     暗殺計画を立案  斬奸の対象  西郷の涙  斉彬との濃厚な面談  ネットワークの形成  斉彬の教え
 3 将軍継嗣問題(037)
     ペリー来航後の政治状況  斉彬の立場  内訌の調停  西郷本来の業務  ミイラ取りがミイラになる  篤姫が将軍の正室となった背景  嫁入り道具の選定にあたる
 4 橋本左内との運命的な出会い(043)
     再度江戸へ  敵と味方を峻別  燕趙悲歌の士  西郷の美質  大奥工作  中川宮の村岡矩子評  孝明天皇の不承諾  朝幕関係の悪化  帰国の途へ

第三章 二度の流島生活(053)
 1 大獄発生直前の政治状況(053)
     形勢一変  斉彬の急死  斉彬と久光の関係  斉彬の「御遺志」
 2 殉死の決意と挙兵計画(056)
     一橋派諸侯の蟄居・謹慎  戊午の密勅  密勅の返納  殉死を決意  西郷のプラン  荒唐包稽な挙兵計画  斉彬の継嗣問題  かなりの有名人となっていた西郷
 3 錦江湾での投身と第一次流島時代(062)
     月照  西郷の月照への思い  慈愛と知恵  藩論の転換  入水と蘇生  後悔の念に苛まれる  脱藩突出策の中止を求める  上から目線  大島での生活が始まる  苛政への怒り  孤独と体調不良  弱音と愚痴  相撲と狩猟  愛加那との結婚  生活臭  強い復権願望  脱藩突出策の中止と「諭告書」  ストレス太りと自暴自棄気味な精神  井伊暗殺を喜ぶ  西郷の見通した今後の日本  菊次郎の誕生
 4 一時的帰藩(077)
   帰藩を許された理由  久光の率兵上洛問題  延期を提言  西郷の問責  久光を痛烈に批判  地ゴロ発言  下関ついで大坂へ  大久保利通の直話
 5 再度の流島へ(087)
     尋常ではなかった久光の怒り  徳之島へ  沖永良部への再度の流島  生への執着  心境の変化をきたした背景  座敷牢への生活  人材から人物レベルへ  西郷の反省の弁  川口雪篷との出会い  「西郷先生」の感化力  人生哲学の確立  西郷の農民観  西郷崇拝熱  子供への想い  生麦事件  薩英戦争と西郷  文久政変と薩摩藩

第四章 流島生活の終焉と中央政局への再登場(103)
 1 再度の召還(103)
     西郷の赦免を求める動き  妻子との対面
 2 京都へ(105)
     軍賦役に就任  スピード出世  久光に対する慎重な姿勢  「演技派」として再登場  参預会議の成立  参預会議の解体  西郷の暗い見通し  長崎丸事件  西郷の奇策  久光の帰国  薩摩藩に対する嫌疑  朝廷上層部への接近  対長州問題  池田屋事件  長州藩会津藩孤立策  西郷らの対応  方針転換  負傷・落馬  初めての戦闘体験
 3 第一次長州戦争と西郷隆盛(121)
     長州藩が「朝敵」となる  大久保に対し再度先行することになった西郷  側役に昇進  開国へのチャンス到来  将軍の進発を強く求める  なぜ家茂の進発を求めたか  対長州強硬論  勝海舟と会う  褒賞問題の発生  越権問題  帰国が先送りされる  自らの判断を優先  長州藩処分問題  征長総督が徳川慶勝に決定  西郷が征長を急いだ理由  征長軍の事実上の参謀に就任  西郷が起用された理由  岩国行と特有の対応  三家老の首実検  素早い対応  独特の問題解決法  下関行  高杉晋忤らの挙兵  第一次長州戦争終結  感(謝)状の授与  一会桑三者と幕府首脳の不同意  不同意の理由  深刻な対立状況の発生
 4 再度の上洛と薩摩藩の出兵拒否(141)
     帰郷  再度京都へ  再婚  幕命停止工作  幕命拒絶  大番頭に昇進  将軍上洛問題  上洛から進発へ  一会桑三者の斡旋  西郷の猛反発  諸藩が長州再征に反対した理由
 5 藩政改革と西郷(150)
     留学生のイギリスへの派遣  藩際交易  兵制改革
 6 西郷の再上洛と長州再征をめぐる動き(152)
     再上洛とすっぽかし事件  西郷の言い分  西郷がすっぽかした理由  西郷不在中の京坂地域の政治状況  天皇・朝廷上層部の一会桑への依存  江戸幕閣と会津藩との関係修復  長州再征を阻止する活動に取り組む  処分に至る手順が決定  長州側の拒絶  再征への流れが固まる  江戸藩邸の減員問題
 7 条約勅許(162)
     四力国艦隊の兵庫渡来  二老中の官位剥奪  将軍の辞表提出  辞表撤回と勅許奏請  条約勅許  勅許の歴史的意義  大久保の勇猛な阻止活動  正論  叡断で長州再征が決定  西郷の伝言  慶喜に対する底知れぬ恐れの念

第五章 新たな段階へ――打倒一会桑をめざす(171)
 1 状況打開策を模索(171)
     新方針  妥協に終始した訊問  冷静な現状分析  西郷の計算  討幕(一会桑)願望  挙兵論と距離を置く形勢観望論  久光と西郷の将来構想が同じか否か  福井藩士の久光擁護  挙兵論に不同意だった久光
 2 薩長盟約と西郷(180)
     特別視される盟約  木戸上洛に至る経緯  木戸の後年の回想  有名なエピソード  在京薩藩指導部の考え  長州処分令の内容  なぜ木戸に処分令の受け入れを勧めたのか  深い絶望  不可思議な点  異様さに満ちた書簡  手柄を必要とした木戸  言質をとる必要があった  木戸書簡の巨大な影響  六ヵ条の内容  一会桑三者との戦い  長州再征の可能性は低いと判断  久光の指令とそれへの服従  リップサービス
 3 離京(鹿児島への帰国)(197)
     長州藩士を手厚く処遇  長州への出兵を拒否  西郷が呼び戻された理由  パークス一行の鹿児島訪問  「英国策論」  西郷とパークスの応答  大目付役を辞退  深刻となった体調不良  西郷不在中の中央政局  想定外の政治状況が突如出現  久光らへの上洛要請
 4 再び京都へ(209)
     小松・西郷・大久保三者の京都集合  形勢を観望  原市之進と小松帯刀  三条実美らの帰洛問題  幽閉公卿の赦免と解兵令  小松尽力の成果  新たな方策を採用  西郷の印象が薄い理由  慶喜への将軍宣下と天皇の急死
 5 国元に帰る(218
     在京薩藩指導部の新たな選択  西郷が帰国するに至った背景  帰鹿後の西郷の動向  久光の上洛が決定

第六章 旧体制の打倒を実現(223)
 1 島津久光の再上洛(223)
     久光上洛  「薩の奸計」  幕府単独での兵庫開港勅許要請  薩摩サイドの猛反発
 2 徳川慶喜島津久光(薩摩側)の対立(226
     小松発言と原の「当惑」  四侯の京都集合  パークスの敦賀行問題  議奏武家伝奏の解職  徳川慶喜の激怒  大久保への批判  西郷と小松・大久保との違い  大久保の強引な手法  対立点  慶喜の内幕話  堂上への「説得」要請  四侯問の意見の相違    同時奏聞案
 3 兵庫開港勅許と在京薩摩藩邸内での決議(237)
     二件同時勅許  慶喜との関係の極度の悪化  長州藩とともに「挙事」  久光と長州藩士との会見  疑問点  「三都一時(に)事を挙げ候策略」  策略の内実と注目点  薩土盟約の締結  「渡りに船」と飛びつく  久光は承認したのか否か  薩土盟約の破棄  虚偽発言の可能性  久光の深刻な体調不良  計画を告げた相手  近藤勇の発言
 4 薩摩藩内における挙兵反対論の高まり(253)
     西郷を弾劾  道島某の得た情報  奈良原の西郷刺殺発言  挙兵反対論が高まった背景
 5 島津久光の帰国とその後の政治状況(256)
     土佐藩兵の上洛を待ち望む  久光に帰国を勧める    挙兵を考えていなかった久光  挙兵に向けての動き  挙兵を急いだ理由  久光の帰国  薩長芸三藩の出兵協定  出兵反対論が渦巻く  武力倒幕を明確に否定した久光  京都藩邸内での深刻な対立  建白書提出に同意  八方塞がりの状況  討幕の密勅  密勅を携えて帰国
 6 政権返上(大政奉還)とその影響(272)
     政権返上  先見性に富む決断  常識人と無常識人   慶喜に対する極度の恐怖心  小松との関係に変化が生じる  小松の興味深い発言  三人揃えて帰国  政権返上を歓迎した久光  忠義の上洛が決定をみた諸々の理由  西郷の従軍を拒んだ久光  小松の上洛断念
 7 王政復古クーデター(282)
     藩主一行の鹿児島出発  予期しえぬ事態  クーデター計画の作成  慶喜への根深い不信感  新政権からの慶喜排除  摂関家の朝廷支配を否定  会・桑両藩の排除  対会桑戦を想定  戦闘を望んだか否か  武力発動に伴う効果を重視  西郷の計算  クーデター計画を事前に知らされた慶喜
 8 クーデター後の政治状況(294)
     クーデター決行  参与となる  予想が外れる  慶喜一行の下坂  慶喜に有利な状況の到来  新政府の財源問題  納地問題  王政復古政府内で孤立  西郷らの敗北  苛立つ  大久保・西郷への痛烈な批判  江戸薩摩藩邸焼き打ち事件  西郷にとって計算外の出来事
 9 鳥羽伏見戦争の勃発(304)
     討薩の動き  対徳川戦の決意が固まる  戦闘開始  西郷の大悦び  陣頭指揮をとる  歴史的大勝利  公議政体派の凋落  喜びの爆発

第七章 明治初年の西郷隆盛(311)
 1 戊辰戦争と西郷(311)
     西郷の存在と名前が一気に全国区に  東征大総督府参謀に就任  独特の死生観  慶喜の追討問題  厳酷な処分にこだわる  武人としての希望  薩摩藩に反発する声  反薩摩の動き  孤立を深めつつあった薩摩藩  対応に苦慮した西郷  脱走ついで江戸総攻撃へ  戦い(維新)の精神  江戸総攻撃の中止  勝海舟との面談  柔らかな対応  駿府、京都、駿府へ  江戸城に乗り込む  ある種の「いやらしさ」  有名なエピソード  再び京都へ  江戸へ戻る  上野戦争  勝利の立役者  詳細な指示  神経のこまやかさ  忠義の出征を止める  藩主に随行しての帰藩  鮮明となった体調不良  柏崎ついで新潟へ  米沢を経由して庄内へ  すこぶる寛大な措置  西郷に対する敬愛の念  美談の影響  次弟吉二郎の戦死
 2 帰郷(337)
     帰鹿と参政職への就任  凱旋兵士の改革要求  蝦夷(北海道)へ  中央政府入りしなかった理由  島津久光との関係  下級士族優遇策  西郷に対する猛反発  道の前には誰もが平等  体調のさらなる悪化  下血  強列なストレス源  加齢による免疫力の低下  菊次郎を引き取る  参政辞任  大久保の鹿児島への派遣  西郷の上京が求められた背景  山口に赴く  西郷の神経を傷つける  位階を辞退  大参事職に就任  苦衷を洩らす  西郷の緊張感
 3 中央政府入り(356)
     贋札問題  福岡に赴く  激列な政府批判  久光・西郷への強い期待  大久保の目論見  岩倉勅使の鹿児島派遣  西郷が要望した改革案の骨子  注目点  政府入りを承諾  急進的集権化を決定  木戸とともに参議に就任  断然廃藩に同意  なぜ同意したのか  廃藩の立役者  激しい憎悪を浴びる  久光の激怒  西郷に対する「詰問」状  天皇の臨幸を希望  西郷の苦しみと本音  西郷の憂慮  久光党の動向に神経を尖らせる  久光の県令志願と西郷の批判  ストレスに満ちた年末年始  怒りを鎮められなかった西郷
 4 留守政府時(376)
     岩倉使節団の派遣  不可解な点  割りを食った西郷  西郷が舵取り役を引き受けた理由  留守政府時の改革  リーダーシップが認められるか否か  福沢諭吉の高い評価  国会解説を支持  天皇教育と宮中改革  独自の人材活用論  当初は平穏であった政治状況  雲行きが怪しくなる  大蔵省問題  近衛兵をめぐるトラブル  悪夢の再現  弱音を吐く  反西郷グループ  鹿児島への気の重い帰国  相変わらず独立国  謝罪状の提出  鹿児島に長く留まった理由  激しい胸の痛み  ようやく帰京  深い絶望感  辞意を表明  陸軍大将兼参議

第八章 明治六年の政変(403)
 1 征韓論が登場するに至る背景(403)
     謎の最たるもの  明治五年段階説と新説  対馬藩士の征韓論  王政復古を通告  再度征韓論を提唱した木戸  樺太問題の浮上  朝鮮問題をめぐる政府内の動き  台湾問題の発生  いまだ征韓論とは縁遠かった西郷  副島外務喞の渡清  渡清中の副島外務喞の活動
 2 西郷の朝鮮使節志願(414)
     突然の朝鮮使節志願  使節を志願した動機  なぜ突然なされたか  主要な論点  ロシアの存在  大隈重信の証言  戦死願望
 3 朝鮮使節を志願した理由(背景)(421)
     板垣にまず協力を求めた理由  三条に使節就任の希望を伝える  閣議で初めて自分の考えを主張  切羽詰まった依頼  死に急ぐかのような姿  注目すべき点
 4 西郷の派遣を「内決」(429)
     早急な決定  異常なほどのはしゃぎぶり  数十度の下痢  木戸孝允の異論  準備を全くしなかった西郷
 5 事態の停滞と西郷の異常な精神状態(434)
     黒田清隆の建議  建議に賛同  進展しなくなった事態  尋常ではない精神状態  至急解決を要したのは樺太問題  内なる敵  「諸君」の正体  独走
 6 事態の急展開と政変の発生(441)
     急展開  大久保の参議就任  自殺をほのめかす  三条・西郷両者の認識の相違  三条の姑息な提案  十月十四日の閣議  大久保の反対意見  副島外務卿に対する批判  西郷本来の戦略論  十月十五日の閣議  西郷の即時派遣を決定  大久保の辞意表明  三条実美の錯乱  「一の秘策」  勝敗が決す  西郷らの辞表提出と受理  西郷の不可思議な対応
 7 政変の影響(456)
     新しい政治状況の到来  より独立国の様相を呈するようになった鹿児島

第九章 西南戦争(459)
 1 帰郷と鹿児島での平穏な日々(459)
     大久保との別れの言葉  湯治と狩猟  私学校等の設置  私学校の教育方針  吉野開墾社  体調の回復  農業に全力で取り組む
 2 西郷の動静への注目(467)
     探索書  面会希望者の鹿児島入り
 3 西郷の再出仕を求める動き(470)
     各方面からの復職の要望  木戸・板垣両人の政界復帰  大山県令からの協力要請
 4 西郷と中央政局の動向(474)
     佐賀の乱  台湾への問罪使派遣を決定  方針転換と長州派の猛反発  相矛盾する情報  出兵を強行した西郷従道の将来構想  大久保の渡清と西郷の予想  大久保に対して連敗  江華島事件を批判
 5 戦争前の西郷の動向(482)
     安逸でかつ幸せな気分  島津久光の東京での言動  久光サイドからの接近の動き  熊本神風連の乱秋月の乱萩の乱  士族反乱の発生を面白がる  「天下驚くべきの事」とは何か
 6 戦争の発生と自滅(490)
     西郷の暗殺計画  暗殺計画が実在したのか否か  弾薬庫襲撃事件  挙兵に決定  暗殺計画を事実だと受け止めたらしい西郷  西郷軍の鹿児島出発  甘かった見通し  大義名分を欠いた挙兵  戦略ミス  政府がとった対応策  大久保の非情なまでの冷徹さ  西郷の陸軍大将職と官位を剥奪  熊本城をめぐる攻防  田原坂での激闘  軍略家としての西郷の能力  西郷軍にとって不利となった戦局  西郷の処罰をめぐる噂話  脱出  西郷の微笑  鹿児島への帰還  死に急ぐ様子を見せなかった西郷  西郷の死  西郷軍が敗北した理由  戦争の及ぼした影響  西郷家の人々のその後

終章 死後の神格化、そして「西郷さん」誕生(523)
     死後も抜群の影響力を保持  復権  海舟談話の影響  『南洲翁遺訓』         西郷の神格化  愛され親しまれる西郷へ

主要参考文献(533)
あとがき(547)
西郷隆盛年譜(553)
事項索引
人名索引
        


図版写真一覧

肥後直熊筆「西郷隆盛像」(鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵)………カバー写真
佐藤均筆「西郷隆盛像」(尚古集成館蔵)………口絵1頁
鳥羽伏見の戦い戦災図」(京都市歴史資料館蔵)………口絵2頁
結城素明筆「江戸開城談判」(明治神宮聖徳記念絵画館蔵)………口絵2頁
楊洲周延筆「鹿児島戦争記 熊本城攻城計画」(花岡山群議図)(鹿児島県立図書館蔵)………口絵3頁
西郷札」(鹿児島県歴史資料センター黎明館藏)………口絵3頁
西郷隆盛筆「敬天愛人」(西郷南洲顕彰館蔵)………口絵4頁
高村光雲作「西郷隆盛像」(東京都台東区上野公園)(時事通信フォト)………口絵4頁

関係略系図………xx
関係地図………xxi
勝海舟国立国会図書館蔵)………003
島津久光国立国会図書館蔵)………005
大久保利通国立国会図書館蔵)………009
西郷隆盛生家跡(鹿児島市加治屋町)(時事通信フォト提供)………012
鶴丸城(鹿児島城)跡(鹿児島市城山町)(鹿児島市提供)………021
島津斉彬(尚古集成館蔵)………022
天埠院(篤姫)(尚古集成館蔵)………042
島津忠義(尚古集成館蔵)……061
大山綱良(『鹿児島県史 第三巻』より)……061
小松帯刀国立国会図書館蔵)……078
西郷隆盛謫居地(鹿児島県大島郡和泊町)(和泊町教育委員会提供)………091
一橋(徳川)慶喜茨城県立歴史館蔵)………109
松平容保国立国会図書館蔵)……117
蛤御門(京都市上京区烏丸通下長者町下ル)………120
坂本龍馬国立国会図書館蔵)………125
薩摩藩邸跡(京都市上京区烏丸通今出川上ル)………144
木戸孝允桂小五郎)(国立国会図書館蔵)………153
ハリー・パークス………199
伊地知正治国立国会図書館蔵)………283
岩倉具視国立国会図書館蔵)………286
西郷南洲勝海舟会見之地(東京都港区芝)………321
江戸城(東京都千代田区千代田)………323
大隈重信国立国会図書館蔵)………350
西郷従道国立国会図書館蔵)………359
三条実美国立国会図書館蔵)………375
福沢諭吉国立国会図書館蔵)………381
後藤象二郎国立国会図書館蔵)………398
江藤新平国立国会図書館蔵)………398
板垣退助(個人蔵、高知市立自由民権記念館提供)………398
副島種臣国立国会図書館蔵)………412
私学校跡(鹿児島市城山町)(鹿児島市提供)………462
大山巌国立国会図書館蔵)………471
熊本城(能本市中央区本丸)(能本市提供)………503
田原坂(能本市北区植木町豊岡)(時事通信フォト提供)………504
西郷隆盛洞窟(鹿児島市城山町)(鹿児島市提供)………510
西郷隆盛終焉の地(鹿児島市城山町)(時事通信フォト提供)………513
南洲墓地(鹿児島市上竜尾町)(鹿児島市提供)………530

   はしがき

 ここ十数年の間に、幕末維新史上にその名を大きく留めた二人の人物についての本を出した。徳川慶喜西郷隆盛である。しかも、一冊にとどまらず数冊におよんだ。自ら手を挙げて、どうしても書きたいと希望したわけでは必ずしもない。しかし、こういう結果となった。縁としか言い様がない。 両人を図らずも取り上げて分かったことがある。国民の間での人気度の激しい差である。断然人気があるのは西郷の方だ。というか、有り体に書けば、日本史上、西郷ほど広範な層の日本人に深く愛された歴史上の人物はいないのではないかとすら思わされるレベルの人気である。
 「広範な層」と「深く」というのがキーワードとなる。ところが反面、これが西郷隆盛という人物を理解するうえで落とし穴となる。西郷には、一見しただけでは広範な層の人々、つまり誰にでも理解できるような気持ちにさせられるところがある。世間に浸透しているイメージでは、英雄でかつ親しまれるキャラクターの持ち主だろう。
 だが、これほど一定の枠組みを設け、その中に押し込めようとしても、収まりきらない人物もいない。必ず、どこかの部分かはみ出るようなところがある。それが西郷という人物の大きな特色である。もっとも、それだからこそ、西郷のことをより深く知りたいという気持ちにさせられるのかもしれない。
 また、西郷が残したとされる数々の言葉には、魅力が詰まっている。これは彼が繊細な感性の持ち主だったとともに、たくさんの苦難を経験し、それを乗り越えてきた人物だったからこそ発せられたものであった。そして、そこに多くの人々が西郷に心を奪われる最も大きな要因がある。
 さらに、いま一つあえて付け加えると、西郷ファンの特徴は大真面目だということである。およそ、西郷の信奉者ほど、この国の行く末や日本人の在り方について憂慮し、なんとかしなければと思っている人たちはいないのではなかろうか。そして、西郷独特の生き方や彼の発したとされる平易で味わい淺い言葉には、そうした生真面目な人たちを強く惹き付け、のめり込ませるものがある。
 ただし、それは変幻自在なものを多分に含んでおり、そのぶん謎が多いということになる。本書は、こうした実は容易に捉えがたい(理解しがたい)西郷の人物像とその行動の意図を、彼の全生涯を振り返ることで少しでも明らかにしようと試みるものである。

   あとがき

 西郷隆盛の評伝を書くようになるとは、ほんの十年余ほど前までは、まったく想像すらしなかった。それが思いもかけない切っ掛けで、六年前に西郷の動向を軸に幕末維新期の中央政局を俯瞰した専門書を出版することになった。そして、つづいて今回の評伝の刊行となった。そのため、この評伝は、前作の成果を大いに取り入れて、それをさらに発展させた内実のものとなった。ただ、今回、改めて、西郷の誕生から、その死に至るまでの間を記述して、前作での西郷に関する自分の理解が不十分であったと思わされるところが少なくなかった。やはり個人の歴史過程を検討する場合、たとえ一時期をのみ主たる対象とするにしても、全生涯を視野に入れてから分析する必要があるかと考える。
 さらに、今回初めて西郷の評伝に挑戦してみて、いつまでも完成しえないことに困惑させられた。反面、不思議なことに、今回の著作では、私のこれまでの著作に比べ、執筆期間もその分量も、ともに格段に増えたにもかかわらず、苛立ちを覚えることがまったく無かった。しかも、今回は、親族の介護に関わる時間等も含め、執筆をやむなく中断せざるをえないことが多かったにもかかわらず、である。
 これは、一つには、洒落でなく、西郷(サイゴー)の評伝をもって自分の執筆活動の最後(サイゴ)としてもよいかと率直に思えたことに因るのかもしれない。また西郷は、私にとっても、研究者生活の最終段階で対象として格闘するには、充分すぎる相手だと思えたことも、要因としては大きかったかもしれない。だが、あまりにも巨大な存在だったので、稿を終え校正作業に入った今でも、完成したという気持ちには到底なれないでいる。現に加筆したい箇所が何カ所もある。
 したがって、私にとっては、本書は未だ完成ならざる著作ということになる。正直に記せば、一生懸命に闘った(私のこれまでの勉学の成果と、情熱のすべてを注ぎ込んで取り組んだ)ものの、十二ラウンド、試合終了を告げるゴングが鳴り、やむなくリングを降りねばならなかったというのが実際のところである。
 さて、それはおき、いまの私にとって西郷はごく身近な存在となった。その理由の一つに、祖父の存在が挙げられる。私の祖父は、明治十年二月に豊後国(現・大分県)に生を享けた。ということは、西郷がこの年の九月に城山で亡くなっているので、七カ月間ほど同じ九州の地で、同じ空気を吸ったことになる。そして私は、この祖父の七十三歳時の孫で、祖父は私の十歳の時に他界したので、祖父の風貌は辛うじてわが記憶の中にある。
 今回の仕事を始めるにあたって、ふと気になって祖父の生誕日を確かめ、右の時日を知った。その時西郷の存在がひどく身近なものに思えた。祖父を介して、ほんのわずかだが西郷と繋がった気がしたからである。すなわち西郷は、私にとって遠い過去の人間ではなくなった。
 それといま一つ、西郷が身近な存在だと思えたのには、本書中でもしばしば取り上げたように、不器用で、そのぶん、失敗もけっして少なくはなかった人生を歩むなど、わが人生とも重なり合うものがあったからであろう。さらにそのうえ西郷には、どうにもこうにも、理解しがたい行動が随所に見られた本書中にも記したように、なかでも最たるものは、西南戦争勃発後、西郷(薩)軍の敗北が明らかになった時点で、なぜ彼が死ななかったのだろうという疑問である。西郷が早い段階で亡くなっていれば、犠牲者の数が大きく減ったことは間違いない。
 もっとも、長井付(現:宮呂崎県束臼杵郡北川町長坪)に籠居していた時点で一度は自分か死ぬことで爲兵の生命を助けようとしたとの記述も勝田孫弥『西郷隆盛伝』には見られる。しかし、これは城山での西郷の行動とはあい容れない。いずれにせよ、あれほど死に対して恬淡《てんたん》としていた(はずの)西郷が、城山まで部下を引きずり込み、結果として西郷軍兵士のみならず、政府軍兵士をも含め、多数の死傷者を出すことになった。その意図(気持ち)が、私にはよくわからなかった。しかし、それはそれとして、西郷の魅力は、案外こうした不可解さに因るのかもしれない。
 なお、いささかしつこくなるが、本書の執筆中、私の心中で折に触れ、自問自答を繰り返した問題があった。それは、「人が生きるとか、死ぬるとかというのは、どういうことなのだろう」との問答であった。ここ十年ほどの間に、入院や手術を経験した私にとって、老・病・死の問題が、避けて通れない緊急に回答を求められる課題となっていたからである。
 そして、この点に関しては、西郷が歩んだ人生を後追いする中で、ごく自然と納得できるものが見つかった。それは、西郷が、死後、ずっと多くの日本人の心の中で生き続けてきたという事実に、改めて気付かされた結果でもあった。もちろん、西郷の肉体的な死は城山で訪れたが、これほど死後も多くの日本人の胸奥に、しかも活き活きと生き続けた歴史上の人物は他にはいないであろう。人物評価に関しては、なかなか断言しえない私でも、この点は断言できる。
 西郷ほど、生前はおろか、死後も、その独特の人間ぶりに魅せられ、ずっと深く彼のことを愛し、思い続ける多くの日本人を生み出した例は他にはない。つまり彼は、近年ぐっと減ったとはいえ、いまでも多くの日本人の心の中で生き続け、死んではいない。
 そして、人が生きるとか死ぬるとかというのは、究極のところ、これに尽きるのではないかと考えさせられた。反対に、他人の心になんら愛を届けることもなく、ただ自分の利益(エゴ)のためだけに生きた人間は、生前からもはや死んでいると評してもよいのではなかろうか。それに比し、西郷はいまでも生きている。私は、こうした結論に最終的に辿り着いた。
 最後に、少々釈明をしておきたいことがある。本書は、一目見てわかるように、すこぶる分量の多い著作となった。これにはいくつか理由がある。まずその第一に挙げねばならないのは、西郷の生涯をできうる限り正確に描くには、それなりの紙幅(枚数)が必要だったことである。本書を精読していただければわかるように、私は、極力、自分なりには、分量を少なくしようと努めたつもりである。だが、西郷の生涯の密度があまりにも濃く、それが不可能だということを執筆の途中で悟った。そこで脇道にそれず、本道をひたすら歩むように心掛けた。そのため、まったく取り上げることができなくなった問題や、もっと深めたいテーマも若干だが残った。しかし、そうした心積りにもかかわらず、その結果がこの分量となった。
 ついで、その第二は、西郷を立ち上がらせ、躍動感を伴う形で彼の生涯を描くには、西郷の個性・持ち味が凝縮して反映されている彼の書簡をできるだけ活用したいと考えたことによる(ちなみに、西郷の同志でもあり、ライバルともなった大久保利通のことをよく理解するためには、その日記を見なければならないとされている)。そのため、殊の外、行数をとられることになった。
 第三は、せっかくの機会を与えられたので、悔いのない西郷隆盛伝にしたいとの私の思いが強かったことによる・私は、出版にあたって、これまで我を張ったことはないが、今回だけは違った。変に短くして、西郷が持つ固有の人間的香りといったものが漂わない味気ない評伝となることは避けたいとの思いが日々強まった。その結果、編集を担当してもらった田引勝二さんには多大な迷惑をかけることになった・売れ行き(販売)を考えれば、もっと短縮しなければならないことは重々承知していたが、より良い評伝にしたいとの私の思いの方が勝ったため、このような分厚い評伝となったのである。それと田引さんには、とくに校正作業の段階で苦労をかけた。とにかく、自分でも想定外の分量となったので、校正に伴う疲れは生半可なものではなかったことは間違いない。このことは、私には実によくわかった。仕事といえばそれまでだが、つくづく有り難いことだと思う。
 以上、最後は真に取り留めのない釈明および感謝の辞となったが、本書が一人でも多くの歴史好きの方にとって、ほんの少しでも参考になりうるものを含む内容となっていれば、筆者としては、これ以上の悦びはない。このことを末尾に記しておきたい。
  二〇一七年五月吉日
  家近良樹

P073~074

   強い復権願望

(略)こうしたことを受けて西郷は、大久保の書簡中にもあったように、来たる新年の春までには帰藩が赦されるのではとの期待を抱いたようである。
 しかし、この後、これが糠喜びであったことを知ると、一転、きわめて暗い内容の書簡を同志に送りつけることになった。万延元年(一八六〇)二月二十八日付で大久保ら鹿児島の同志四名に宛てた書簡(同前)がそれである。以下、いささか長くなるが、いかにも西郷らしさが横溢している文面なので、左に主要な箇所を抜粋して掲げる。

隠然として此の御恥を義挙を以て、取り返され候御謀略願い奉り候。此の豚(=西郷が自分を卑称したもの)入らざる儀に御座候得共、考えの儘《まま》申し上げ候。…陳《のぶ》れば天下の形勢漸々衰弱の体、実に慨歎《がいかん》の至りに御座候。橋本(=橋本左内)迄死刑に逢い候儀案外、悲憤千万堪え難き時世に御座候。…願わくは此の一ヶ年の間、豚同様にて罷り在り候故、何卒姿を替《か》え走り出でたく、一日三秋にて御呼び返しの期、相待ち居り候処、益《ますます》報い深く罷り成り、尚々|恨《うら》みを生じ候|時宜《じき》にて、野生罷り登り候で又々|何様《いかよう》の肝癪《かんしゃく》差し起こし候も計《はか》り難く、幸い孤島に流罪中の事故、黙止候様との猶予不断の蜚(=保守派)吟味相付け候わんかと、苦察いたし居り候儀に御座候。(略)。然る処、容易ならざる御直書(=藩主忠義直筆の誠忠組への諭告書)迄の一条、夢々斯《ゆめゆめかく》の如き時宜に及び申す間敷と考え居り候処、何とも有難き御事、只々此の死骨さえ落涙仕り候儀に御座候。畢竟《ひっきょう》、諸君の御精忠御感応と飛揚仕り候次第に御座候。御国家の柱石に相成れとの御文言恐れ入り奉り候御事に御座候。…一野生御呼び返しこれなき儀は何方に拒《こば》まれ候や、残情此の事に御座候。早《はや》捨て切り居り候|命《いのち》、何のため生きながれ(=生きながらえ)候や(下略)


P288~290

   対会桑戦を想定
 さらに、この点との関連で目を引くのは、西郷と大久保の両者が、クーデターを決行することで、会桑両藩(とくに会津藩)が軍事的行動に出る可能性を、かなりの確率で想定(予想)していたことである。(略)
 このことは、クーデター決行直前段階の西郷書簡によって窺われる。西郷は、十二月五日付で郷里の蓑田伝兵衛に宛てた書簡(『全集』二)において、京都の昨今の情勢を伝えた。(略)
 西郷は、こう記したうえで、さらに「此の上は、十分王政復古の御基本は罷り立ち申すべき勢い」だと書き足した。つまり西郷は、いままでの幕府政治は良くないとする徳川慶喜の考え方がはっきりしてきた、そして二条摂政も慶喜が昔の政治体制に戻すという考えを持っていないこと、および旧い体制でやっていこうという会津・桑名の論が幕府(慶喜)の考え方ではないことが初めてわかったのだと報じた。ついで、これを受けて王政復古クーデターの成功はほぼ間違いないとしたうえで西郷は、「会・桑の処は、如何にも安心は出来申す間敷《まじき》か、動くものならば、此の両藩かと相察せられ申し候[#「動くものならば、此の両藩かと相察せられ申し候」に傍点]」(傍点引用者)と断じた。
(略)
 同様の認識は、情報を共有していた以上、もちろん大久保にもあった。そして、大久保の場合は、西郷よりも、より戦いの相手を絞っていた。会津藩である。このことは、大久保が十二月五日付の蓑田伝兵衛に宛てた書簡(『大久保利通文書』二)中に次のように記していることで判明する。「会桑に至りては今に周旋もいたし、反正の廉《かど》これ無く、……御発動の日にいたり候得ば、幕(府)に於いて究めて干戈《かんか》(=武器)をもって動き候義は万々御座無く、今は会のみの事にあい成り候得ば、少々動き候ても差し知れたる事と愚考仕り候」。
「御発動の日」とは、言うまでもなく王政復古クーデターを決行する日であった。大久保の認識では、クーデターをやっても、幕府は兵を挙げて動くことは「万々御座無く」、絶対になかった。それゆえ、大久保は、クーデター後に挙兵するとしたら会津藩のみだとみて、同藩との戦いには十分勝利できると踏んだ(「差し知れたる事」)。

P303

   西郷にとって計算外の出来事

(略)
 だが、近年の研究では、こうした見方を修正する見解も出されつつある。最大の根拠は、西郷が、当初はともかくとして、徳川慶喜の政権返上後は攪乱工作の見合わせを伊牟田・益満に指示したことである。したがって、十一月下旬から関東各地で始まった浪士集団による攪乱工作は、西郷の命令に従わなかった現地指導者独自の判断によったと考えられるようになった。
 新たに登場してきた見解は正しいと思われる。それは、薩摩藩邸焼き打ちの情報を知らされた直後の慶応四年一月一日付で蓑田伝兵衛に宛てて発せられた西郷書簡(『全集』二)中に、次のようにあるからである。「(事件の報を受けて)大いに驚駭《きょうがい》いたし候仕合いに御座候。……江戸において諸方へ浪士相|起《た》ち動乱に及び候趣に相聞かれ候間、必ず諸方へ義挙いたし候事かと相察せられ申し候。……爰許《こころもと》にて壮士の者暴発致さざる様御達し御座候得共、いまだ訳も相分からず、……其の内決して暴動は致さざる段御届け申し出で置き候儀に御座候。……百五十人計り罷り居り候て決して暴挙いたす賦《つもり》とは相見得ず、京師の暴動に依り如何様共致すべくとの様子にて、乙名敷《おとなしく》罷り在り候趣は近比《ちかごろ》迄相聞こ得《え》居り候処、……残念千万の次第に御座候」。
 事件発生の情報を知らされた西郷が、「残念千万」とごく親しい人物に対して書き送ったことは軽視しえない。

P322

   柔らかな対応

夕暮れにようやく終わった、この日の会談に臨んだ西郷の態度は、後年の勝の回想によると、ひどく「おおらか」で寛大なものだったらしい。(略)
大久保は、西郷に劣らない「胆力」の持ち主ではあったが、彼では西郷のような柔らかな対応はなしえなかったであろう。ましてや、「逃げの小五郎」といわれた木戸の「胆力」では西郷のマネはとうていできなかったとみなせる。まさに心中に余裕のある千両役者なればこそとりうる風格の漂う対応となった。

P365~366

   なぜ同意したのか

 つづいて、記述上の流れからいって、当妖、ここで検討しておかねばならないのは、士族の救済問題に人一倍熱心であった西郷が、なぜ士族の特権を全面的に否定することになる廃藩クーデターに同意したのかという問題である。この点を解明するうえでまず参考にしなければならないのは、廃藩直後に郷里の親友である桂久武に宛てて送られた西郷の七月二十日付の書簡(『全集』三)である。そこには廃藩に同意した被の心境が次のように綴られていた。長くなるが、重要なので大事な箇所を以下に抄録することにしたい。

天下の形勢、余程進歩いたし、是迄《これまで》因循の藩々、却《かえ》って奮励いたし、尾張を始め、阿州・因州等の五・六藩建言に及び、大同小異はこれあり候得共、大体郡県の趣意、日々御催促申し上げ候|位《くらい》、殊に中国辺より以東は、大体郡県の体裁に倣《なら》い候模様に成り立ち、既に長州侯(=毛利|元徳《もとのり》)は知事職を辞せられ、庶人と成らせらるべき思食《おぼしめ》しにて、御草稿(=廃藩願いの草稿)迄も出来居り候由に御座候。封土返献天下に魁《かい》(=さきがけ)たる四藩、其の実蹟(績)相挙らず候わでは大いに天下の嘲笑《ちょうしょう》を蒙り候のみならず、……当時は(=現在は)万国に対立し、気運開き立ち候わでは、迚《とて》も勢い防ぎ難き次第に御座候間、断然公議を以て郡県の制度に復され候事に相成り、命令を下され候時機にて、……天下一般|比《かく》の如き世運と相成り、如何申しても(=どう反対しても)十年は防がれ申す間敷、此の運転は人力の及ばざる処と存じ奉り候。

 ここから明らかとなるのは、名古屋・徳島・鳥取といった有力藩から、藩知事の辞職論や廃藩建白が相次いで出される中、「万国」と「対立(対峙)」するためにも、藩を廃し中央集権国家を樹立することは逆らえない時代の流れだと西郷が冷静に受け止めての同意だったことである。

P414~415

   突然の朝鮮使節志願

 しかし、大事なことは、政府関係者の多くが副島が成果を上げて帰国したと受けとめたことである。そして、その一人がほかならぬ西郷であった。ついで副島は、帰国後、中国で得た大いなる自信を背景に、朝鮮問題の解決に自らがあたりたいと願い出たようである。そして、この段階で西郷の朝鮮使節への志願が突如なされるに至る。そうした意思表示がなされたことを、史料面で証明する最初のものが、先に少し触れたように、明治六年七月二十九日付板垣退助宛西郷書簡であった。いささか長くなるが、重要なので関係する箇所を抄録する。

 扨《さと》朝鮮の一条、副島氏も帰着相成り候て御決議相成り候や。若《も》し、いまだ御評議これなく候わば、何日には押して参朝致すべき旨御達し相成り候わば、病を侵し罷り出で候様仕るべく候間、御含み下されたく願い奉り候。弥《いよいよ》御評決相成り候わば、兵隊を先に御遣わし相成り候儀は如何に御座候や。兵隊を御繰り込み相成り候わば、必ず彼方よりは引き揚げ候様申し立て候には相違これなく、其の節は此方より引き取らざる旨答え候わば、此より兵端を開き候わん。……断然使節を先に差し立てられ候方御|宜敷《よろしく》はこれ有る間敷や。左候得ば、決って彼より暴挙の事は差し見得候に付き、討つべきの名も慥かに相立ち候事と存じ奉り候。……公然と使節を差し向けられ候わば、暴殺は致すべき儀と相察せなにとぞられ候に付き、何卒《なにとぞ》私を御遣わし下され候処、伏して願い奉り候。副島君の如き立派の使節は出来申すべきかと存じ奉り候間、宜敷《よろしく》希い奉り候。(中略)
 追啓、御評議の節、御呼び立て下され候節は何卒前日に御達し下されたく、瀉《しゃ》薬(=下剤)を相用い候えば、決して他出相調い申さず候間、是又《これまた》御含み置き下さるべく候。

   使節を志願した動機

 本書簡には、西郷が朝鮮使節を志願した動機(背景)が、すでにかなりの程度鮮明に記されている。(略)


P531

   愛され親しまれる西郷へ

(略)だが、本書中で描写してきたように、本来の西郷隆盛は(略)たしかに豪傑肌で、これ以上ない大役を与えられても、見事に演じきれるだけの力量があった千両役者だったが、半面律儀で繊細な神経の持ち主であった。そして、そのぶん、彼は苦悶に満ちた人生を歩みつづけ、最後は城山で悲惨な死を迎えざるをえなかった。すなわち西郷は、政治的には、これ以上ない形での敗者(朝敵)として生涯を閉じた。それは、彼が愛してやまなかった武士層による道義的な国家建設を目指すという目標が未完に終わったことを意味した。我々は、このことを忘れてはなるまい。


記事作成者コメント:現代日本社会は、西郷隆盛という人間を切り捨てようとしているらしい。今年のNHK大河ドラマの無残な失敗をみると、私にはどうしてもそう思える。そのかわり、兵士の肉片と武器の残骸でつくった「不死の化け物」で”日本”を守ろうとしているらしい。
これはもちろんたとえだが、単純な靖国史観の復活(それが何を意味するのかはさておき)ではなく、もっと不気味な「何者か」に”日本”がすがろうとしているように思えてならない。明治維新150周年に対する批判は、そこから始めるべきだ。そのようなことでしか守れない”日本”とは何なのか、放棄したってまったくかまわないのではないだろうか。もっと八方破れに生きるべきではないだろうか。それこそ民族文化ではないだろうか。妙な言い方になるが、私にはそう思えてならない。
いくら「過去の人」と切り捨てようとも、未来に必ず待ち受ける人々がいる。どんなに不完全であろうと、まるごとのその人と向き合う価値のある存在、それが過去に確かにいたということ、そのことを確認するのが、歴史を学ぶことの意味であるはずなのだ。その歴史観の変容の罪は、必ず未来で裁かれるだろう。

 歴史学をやってまして、いろんな経験が一方的に不幸だと受けとめなくて済むようになったということが、この年まで生きてきて一番ありかたいなと思いますね。

「敗者の側から幕末維新史を振り返る ――会津藩や徳川慶喜はなぜ敗れたのか――」(家近良樹)の紹介 - s3731127306973のブログ