・以下は撫順戦犯収容所に収容されていた戦犯「N・H」の自筆供述書の一部である。以下のサイトにて公開されている原文P33~P75に対応する。主として「満州国」内での強制労働の実態が書かれている。「監獄に於ける已決犯、未決犯収容者の全死亡者数を掲げますと(略)千分の三〇から子分の一〇〇の高率に上ったのであります。」という記述には鳥肌が立つ。
http://61.135.203.68/rbzf/index.htm
・「侵略の証言――中国における日本人戦犯自筆供述書」(1999年、岩波書店、新井利男ほか)収録の自述書に追加分をくわえた。
・人名はすべて「××××」と伏字にした(原文には明記されている)。
・読みやすくするため、原文とはすこしレイアウトを変えている。文章は変えていない。
筆供自述書
1.姓名 N・H
2.年齢 五十七歳(一八九七年一月三日生)
3.性別 男
4.本籍地 鳥取県鳥取市河原町二一六番地[略]
5.出生地 本籍地ト同ジデス
6.現住所 [略]
7.[略]
第一、学歴[項目1~8、略][原文P02]
第二、官歴[項目1~39、略][原文P02~P13]
第三、罪行[項目1~25は略][項目1~42は原文P13~P61]
26 司法部参事官に就任後、私は当時、全満監獄全部の収容者は、二万八千人、内未決犯人は六千人、已決[※既決のこと]犯人は二万二千人にして、監獄法に依り作業を課すべき已決犯人中、作業に従事し居りました者は、監獄附設の作業場にて約七千人位、外役作業として遼陽監獄鞍山製鋼所作業場に約五百人位、奉天監獄本渓湖分監本渓湖煤鉄公司宮原作業場に約四百人位に止まり、多数の未就業者ある実状に鑑みまして、(一)已決犯人の作業就業率を増加し、監獄作業収入の増加に依り監獄の人的、物的施設の改善、収容者の処遇改善を図ること、(二)作業を通して已決犯人の職業輔導と思想改善(帝国主義的観点の)を図ることの主要方針を定め、又当時各主要監獄は拘禁過剰の状態を呈して居ましたが、資金、資材の関係上、新監獄を建設し、又は全面的に監房の増築する要求は、到底偽満洲国総務庁予算当局の承認を得る見込がありませんので、私は当時、漸次、労働力に不足を告げて居りました日本帝国主義企業会社と交渉し、(一)企業体に於て監獄より出役犯人の収容施設に必要な建物を提供し、且之が改造に必要な資金、資材の一部を負担すること、(二)監獄からの出役犯人に対し、一般工人に近い工賃を支払ふことの条件を以て、已決犯人の外役作業を拡張して、主要監獄の拘禁過剰を緩和すること、又企業体への監獄からの出役犯人の収容所は、漸時、監獄に昇格せしめて、(一)監獄職員の昇進の地位の増加と、監獄経費予算の増加を図ることの方針を定めて、行刑司の各科長及監獄を指導しました結果、左の如き罪行を犯しました。
(一)一九四一年七月以降、一九四三年五月迄の間、平均一日約八千名の、約十八ヶ所の主要監獄の已決収容者を監獄附設の作業工場に於て一日十時間以上の労働に服せしめて、監獄会計の収益増加を図って、収容者に苦痛を与へました。
(二)鞍山監獄(一九四二年四月以前は鞍山収容所)より、一九四一年七月より一九四三年五月三十一日迄の間、毎日五百名乃至八百名の已決犯収容者を鞍山製鋼所に、本渓湖監獄(一九四二年六月以前は本渓湖宮原収容所)より、一九四一年七月より一九四三年五月三十一日迄の間、毎日四百名乃至八百名の已決犯収容者を本渓湖煤鉄公司に、撫順監獄より、一九四二年春頃より一九四三年五月三十一日迄の間、毎日五百名乃至八百名の已決犯収容者を撫順炭鉱に、営口監獄大石橋収容所より、一九四二年春頃より一九四三年五月三十一日迄、毎日三百名位の已決犯収容者を大石橋マグネサイト会社に、錦州監獄阜新分監より、一九四二年春頃より一九四三年五月三十一日迄の間、毎日五百名位の已決犯収容者を阜新炭鉱に夫れ夫れ出役せしめて、一日十時間以上の労働に服せしめて、日本帝国主義搾取企業体に利益を与ふると共に、収容者に苦痛を与へました。
(三)一九四二年四月、遼陽監獄鞍山製鋼所作業場の収容所を鞍山監獄として、又一九四二年六月、奉天監獄本渓湖分監本渓湖煤鉄公司宮原作業場の収容所を本渓湖監獄として夫れ夫れ昇格せしめ、以て人民抑圧の機構を開設致しました。此の二個の監獄の収容者は、拘禁過剰の状態に在る承徳、錦州、奉天第一、安東、遼陽、及其の他監獄内に作業場の施設なき南満の本監より已決犯人を漸時、移送収容したのであります。移送すべき已決犯人は外役作業に従事させるものであるから、可及的刑期の軽い者を選択すること以外、罪別等に依る条件はありませんでした。
以上(一)及(二)の私の行為は、監獄の収容者である中国人民に対する迫害の罪行であり、(三)の行為は、反民主、反人民的な罪悪でありまして、私は、総て此等の責任を自覚し、認罪致すものであります。
27 司法部参事官在任中の一九四一年九月頃より一九四三年春頃迄の間に於て、奉天第一監獄新民分監外十三ヶ所の全満各地の本監獄及分監獄に於て、合計十六回に亘り、数名乃至数十名、集団して総計百九十人位の収容犯人の逃走者を出したる際、看守職員は其の逃走者中の十四名位を射殺し、十三人位に傷害を与へて之を逮捕しました。
右の行為は、私の指導監督の下に在りました監獄職員に依りて、中国人民に対して為されたる屠殺及傷害の重大なる罪行でありまして、私は自己の責任を深く自覚し、認罪するものであります。
28 司法部参事官在任中の一九四三年春頃の某日夜、偽満洲国三江省鶴岡炭鉱工人宿舎に於て火災発生し、多数工人の焼死者を出したる際、右工人宿舎と棟続に隣接して居りました牡丹江監獄佳本斯分監の鶴岡炭鉱出役者収容所にも延焼し、右収容所内の収容者約百数十名中の二十七名の焼死者を出しました。
此の事実は、監獄職員の職務怠慢に依り発生致しました、中国人民に対する不祥の重大事故でありまして、私は指導監督不十分の自己の責任を自覚し、之を認罪するものであります。
29 司法部参事官在任中の一九四三年一月中旬頃、司法部次長室の部内会議に行刑司から私と刑政科長××××の両名が召集を受けて出席したる際、司法部次長及刑事司長より、今回偽満洲国熱河省に於て反満抗日の中国人愛国者に対する、所謂粛正工作を実施することに決定した、検挙は軍、憲兵、警察が担当し、検察官及特別治安庭の審判官は検挙現場に出張して、捜査と裁判を実施する方針で、被検挙者は千数百名の予定である、行刑司は承徳監獄に命令して之を収容する凖備をせよとの指示を受け、私は其の指示を受けて中途退席し、直に行刑司長室に関係科長及経理担当者を集め、収容者増加に伴ふ食料費、警備人員増員費、承徳監獄監房増築費の経費を追加予算を以て偽満洲国国務院総務庁に請求することを決定し、承徳監獄××××に電報を以て出頭を命じ、翌々日頃、行刑司に出頭した同人に其の旨を伝へ、現在の承徳監獄の収容者は鞍山、本渓湖、其の他南満方面の監獄に移送する様に指示を与へました。其の後大検挙が実施された結果、大体同年五、六月頃迄の間に、千名を少し越へる収容者がありました。数は確知して居りませぬが、死刑の裁判を受けた者は現地で執行せられて居るとの事でありました。
私は此の熱河地区の大検挙に付ましては、組織者たる司法部の一員として重大なる責任を有するものでありまして、反満抗日の中国人愛国者に対する迫害の罪行の責任を深く自覚し、認罪するものであります。
30 司法部参事官在任中の一九四一年七月十七日より一九四三年五月三十一日迄、並司法矯正総局長在任中の一九四三年六月一日より一九四五年八月十五日迄の全期間に於ける全満の本監獄及分監獄の已決犯及未決犯全部の収容者の死亡状況は、左の通りでありました。
(一)一九四一年七月十七日より同年十二月末日迄、全満監獄に於ける、已決犯、未決犯収容者の死亡総数約七千百三十五名位、内死刑の裁判の執行に依る死亡者五十数名位、逃走事故に依り射殺せられたる死亡者若干名、其の他は全部病気死亡者(此の中には逃走事故に依り傷害逮捕せられたる者の死亡を含みます)。
(二)一九四二年一月一日より同年十二月末日迄、全満監獄に於ける已決犯、未決犯収容者の死亡総数、約一万六千名位、内死刑の裁判の執行に依る死亡者約百名位、逃走事故に依り射殺せられたる死亡者十名位、他は全部病気死亡者(此の中には逃走事故に依り傷害逮捕せられたる者の死亡者も含みます)。
(三)一九四三年一月一日より同年十二月末日迄の全満監獄に於ける已決犯、未決犯収容者の死亡総数約一万八千名位、内死刑の裁判の執行に依る死亡者百名位、鶴岡炭鉱収容所の火災事故に依る死亡者二十七名、逃走事故に依り射殺せられたる死亡者約九名位、其の他は全部病気死亡者(此の中には逃走事故に依り傷害逮捕せられたる者の死亡も含みます)。
(四)一九四四年一月一日より同年十二月末日迄、全満監獄に於ける已決犯、未決犯収容者の死亡総数約二万名位、内死刑の裁判の執行に依る死亡者約百名位、逃走事故に依り射殺せられたる死亡者十三名位、他は全部病気死亡者(此の中には逃走事故に依り傷害逮捕せられたる者の死亡も含みます)。
(五)一九四五年一月一日より同年八月十五日迄、全満監獄に於ける已決犯、未決犯収容者の死亡総数約一万一千名位、内死刑の裁判の執行に依る死亡者約七十名位、逃走事故に依り射殺せられたる死亡者数名位、他は全部病気死亡者(此の中には逃走事故に依り傷害逮捕せられたる者の死亡も含みます)。
而して、参考の為に一九三八年から一九四四年迄七年間の監獄に於ける已決犯、未決犯収容者の全死亡者数を掲げますと、一九三八年度六千名位、一九三九年度八千名位、一九四〇年度一万一千名位、一九四一年度一万四千名位、一九四二年度一万六千名位、一九四三年度一万八千名位、一九四四年度二万名位で、毎年監獄を出入する収容者の推定総人員二十万人に対する千分の三〇から子分の一〇〇の高率に上ったのであります。
此の私が司法部参事官及司法矯正総局長として在任中の監獄に於ける病死者の約半数以上は、未決拘禁中に死亡したもので、已決犯の死亡者も裁判を受けて間もなく死亡した人が多かったのでありまして、此の事実は、日本帝国主義侵略者が中国に対する侵略戦争を拡大した後、又米英に対し戦争を開始してから其の植民地であった偽満洲国の厳重なる食料統制と略奪政策が、如何に中国東北に於ける中国人民の体力を低下させ、且犯罪に走らせたか、又警察に於ける犯罪者の取調が、留置場の長期不法拘束と拷問を伴ふ苛酷なものであったかを証明するもので、警察から監獄に送致されて来た人がバタバタと死亡して行く人が多かったのであります。然し、監獄に於ける病死者の増加に付ましては、監獄に於て十分なる責任あるものでありまして、罹病者に対する衣食住の方面に於ける不適当なる処遇、保健衛生施設の不備、作業に病弱者を使用する不法等の事実を十分に認めざるを得ざるところでありまして、私は指導監督者として、指導不十分、監督不十分の重大なる責任あるものであります。私は中国に於ける、私の中国人民に対する最大の罪行として、深く其の責任を自覚し、認罪致すものであります。
31 司法部参事官在任中の一九四二年の暮頃、保安拘置法の制定方針確定し、該法に依り二年間拘束して労働に服さしむべき保安拘置者を収容する矯正輔導院の管理も司法部行刑司に於て担当することとなりましたが、行刑司が監獄の外に矯正輔導院の管理をも担当することになれば、多数の収容者を擁することになり、之が管理の適正、敏速、殊に作業事務の増大に対処する為には、到底従来の行刑司の機構を以てしては不適当となり、又監獄及矯正輔導院の経費の財源は可及的に作業収入の増加に依り、自給自足を強く要求せらるゝに至りましたので、此等の事情に鑑み、司法部行刑司を司法部の外局たる司法矯正総局に改組し、特別会計制度を以て監獄及矯正輔導院の管理経営を行ふことに決定し、私は司法部次長の命に依り司法矯正総局開設の事務を担当することになりました。依って私は総務庁の承認を得て、一九四三年一月一日より監獄特別会計制度を実施し、司法矯正総局官制及分科規定、並に司法矯正総局開設に伴ひ監獄に対する司法部大臣の監督権限の一部を司法矯正総局長に委任することになりましたので、之に伴ふ監獄法の一部改正に関する原案を刑政科長××××をして起草させ、部内の審議を経て更に国務院の審議其の他法案制定の手続を経て、官制、分科規定の制定、監獄法の改正手続を終り、総局長以下の人事問題、其の他諸般の準備を一九四三年五月末日迄に終へ、同年六月一日開庁し、私は総局長に就任することになったのであります。
此の私の司法矯正総局開設の準備行為は、人民仰圧の機構を強化する反人民的罪行でありまして、私は之を自覚し認罪するものであります。
32 司法部参事官在任中の一九四二年暮頃、保安拘置法の制定方針決定したる後、私は司法鄒次長より保安拘置者を収容する矯正輔導院開設事務の担当を命せられ、翌一九四三年三月頃迄の間に於て、刑政科長××××を指導して、矯正輔導院官制及分科規定の原案を作成させ、部内審議を経、更に国務院審議、其の他官制制定の手続を経て、矯正輔導院官制及分科規定の制定を終へ、又刑政科長××××か刑事司長の指導の下に起草しました矯正輔導院令及矯正護送規則の部内審 議に参与し、又鞍山製鋼所、本渓湖煤鉄公司、撫順炭鉱、阜新炭鉱、鶴岡炭鉱、大石橋マグネサイト会社等の日本帝国主義企業体に交渉し、矯正輔導院の収容者を右各企業体の事業の労務に服させることを条件として、矯正輔導院に使用の建物と、之が改造に要する資材及資金の一部を負担し、且出役収容者に対しては一般工人に近い工賃を支払ふことを承認させて、此等各地に順次、矯正輔導院を開設する人事、其他経費予算の請求等の準備行為を致しました。
此の私の行為は、人民迫害の機構の開設を準備する反人民的な罪行でありまして、私は自己の責任を自覚し、認罪致すものであります。
33 司法部参事官在任中の一九四三年一、二月頃、司法部刑事司に於て立案したる保安拘置法案の部内審議に二回位出席し、審議に参画しました。猶之と前後して、刑事司に於て思想保護法を立案したのでありましたが、私は其の法案審議には一度も出席して居りませぬ。
私が此保安拘置法案の審議に参画致しました行為は、中国人民迫害の悪法の制定に参与した重大なる反人民的罪行でありまして、私は自己の責任を自覚し、認罪致します。
34 司法部参事官在任中の一九四二年中に於て、私は刑政科長××××を指導して看守奨懲条例を立案させ、部内審議、其の他必要の手続を経て、之を制定致しました。此の条例制定の目的は、監獄職員をして、収容者の拘禁確保の職務に忠実ならしめんとする反人民的なものでありまして、私の此の条例制定に参画した行為は、中国人民に対する反人民的罪行として認罪するものであります。
35 司法矯正総局長在任中の一九四三年六月一日より一九四五年八月十五日迄の間に於て、私は司法参事官当時定めました方針に従ひ、(一)監獄に於ける、已決犯収容者及矯正輔導院収容者の作業就業率を増加して、監獄特別会計の収益増加を図り、以て監獄及矯正輔導院の人的物的施設の整備改善を期すること、(二)作業を通して、監獄及矯正輔導院収容者の職業輔導と、思想改善(帝国主義的観点の)を図ること、(三)監獄及矯正輔導院に作業場を新設することは、資材資金の関係上実現困難なるを以て、日本帝国主義企業体と交渉し、(イ)企業体に於て、監獄又は矯正輔導院よりの出役者の収容施設の建物と、之が改善に要する資材及資金の一部を負担すること、(ロ)監獄又は矯正輔導院の出役者に対し、一般工人に近い工賃を支払ふことの条件を以て、外役作業を拡張し、外役作業出役者の収容所は、漸時監獄又は矯正輔導院に昇格する方針を定め、監獄附設の工場作業及監獄並矯正輔導院収容者の外役作業の収益目標は、一九四三年度に於ては、一千七百万円、一九四四年度に於ては二千三百万円、一九四五年度に於ては二千七百万円と各定め、之に基き局内各科及監獄、矯正輔導院を指導致しました結果、私は左記の罪行を犯しました。
(一)の(イ) 一九四三年六月頃、偽満洲国奉天省大石橋に於ける、営口監獄大石橋マグネサイト会社作業場の収容所を大石橋監獄に昇格し、営口監獄より逐次収容者を移送し、総数四百名位を収容しました。
(ロ)一九四三年八月頃、監獄及矯正輔導院収容者の食料改善に資する目的を以て、偽満洲国開拓総局より、国有地四千ヘクタールの払下を受け、偽満洲国黒龍江省ドルパト地区に泰康農業監獄を開設し、哈爾賓監獄、斉々哈爾監獄より数百名の短期已決犯収容者を移送し収容しました。
(ハ)一九四三年六月頃、偽満洲国哈爾賓市に哈爾賓矯正輔導院を開設しました。此の矯正輔導院は収容力約三百名乃至四百名で、哈爾賓地方検察庁又は其の附近の地方検察庁に於て保安拘置処分に附した者を収容しました。
(ニ)一九四三年八月頃、偽満洲国奉天省本渓湖市に本渓湖矯正輔導院を開設しました。此の矯正輔導院は収容力約一千名位で、数ヶ所に作業場の収容所を有し、奉天地方検察庁、其の他附近の地方検察庁にて保安拘置処分に附した者を収容しました。
(ホ)一九四三年九月頃、偽満洲国奉天省鞍山市に鞍山矯正輔導院を開設しました。此の矯正輔導院は収容力一千名乃至一千二百名位で、数ヶ所の作業場の収容所を有し、奉天地方検察庁、其の他附近の地方検察庁にて保安拘置処分に付した者を収容しました。
(ヘ)一九四三年十月頃、偽満洲国奉天省撫順市に撫順矯正輔導院を開設しました。此の矯正輔導院は収容力は一千名乃至一千二百名位で、数ヶ所の作業場の収容所を有し、撫順地方検察庁、其の他附近の地方検察庁に於て保安拘置処分に付した者を収容しました。
(ト)一九四三年十一月頃、偽満洲国錦州省阜新市に阜新矯正輔導院を開設しました。此の矯正輔導院は収容力約八〇〇名位で、錦州地方検察庁、其の他附近の地方検察庁に於て保安拘置処分に付した者を収容しました。
(チ)一九四四年二月頃、偽満洲国奉天市に奉天矯正輔導院を開設しました。此の矯正輔導院の本院は約四百名位の収容力で、其の後三ヶ所の作業場の収容所を開設し、全部の収容力は約千名位で、奉天地方検察庁、其の他附近の地方検察庁に於て保安拘置処分に付した者を収容しました。
(リ)一九四四年四月頃、偽満洲国奉天省大石橋マグネサイト会社構内に大石橋矯正輔導院を開設しました。収容力は三百名乃至五百名位で、営口地方検察庁、其の他附近の地方検察庁に於て保安拘置処分に付した者を収容しました。
(ヌ)一九四三年九月頃、偽満洲国三江省鶴岡炭鉱構内に鶴岡矯正輔導院を開設しました。収容力は五百名乃至七百名位で、牡丹江地方検察庁、哈爾賓地方検察庁等に於て保安拘置処分に付した者を収容しました。
(ル)一九四四年八月頃、偽満洲国新京特別市に新京矯正輔導院を開設しました。収容力は三百名乃至四百名で、其の後二百名位の収容力ある作業場の収容所を開設し、新京地方検察庁に於て保安拘置処分に付した者を収容しました。
(オ)一九四四年九月頃、斉々哈爾矯正輔導院を倡満洲国龍江省斉々哈爾市に開設しました。此の矯正輔導院の収容力は二百名乃至三百名で、斉々哈爾地方検察庁に於て保安拘置処分に付した者を収容しました。
(ワ)一九四四年十月頃、偽満洲国間島省和龍県三和炭鉱構内に和龍矯正輔導院を開設しました。此の矯正輔導院の収容力は約三百名乃至四百名で、延吉地方検察庁に於て保安拘置処分に付した者を収容しました。
以上の如く、人民威圧と迫害の機構である二ヶ所の監獄及矯正輔導院十一ケ所を開設致しました。
而して、以上十一ケ所の矯正輔導院には一九四三年度末には六ヶ所の既開設の矯正輔導院に総計約四千名位、一九四四年度末には十一ヶ所全部の矯正輔導院に総計約七千名位、一九四五年八月十五日には約八千名位の収容者が在院して居りましたが、此の外に保安拘置法実施以来、日本降服の八・一五迄、二年数ヶ月間に矯正輔導院に於て、労働改善の実績ありとして、二年の拘置期間満了前に釈放したる保安拘置者、約一千名位と、一九四三年中の矯正輔導院に於ける病死者(若干の逃走事故に依り射殺せられた者も含みます)百七十名位、一九四四年中の矯正輔導院に於ける病死者千名位を出役させました。
(ニ)阜新矯正輔導院より阜新炭鉱へ、一九四三年十一月頃より一九四五年八月十五日迄の間、毎日三百名乃至六百名位を出役させました。
(ホ)鶴岡矯正輔導院より鶴岡炭鉱に、一九四三年九月頃より一九四五年八月十五日迄の間、毎日三百名乃至五百名位を出役させました。
(ヘ)大石橋矯正輔導院より大石橋マグネサイト会社に、一九四四年四月頃より一九四五年八月十五日迄の間、毎日三百名乃至四百名を出役させました。
(ト)斉々哈爾矯正輔導院より斉々哈爾站構内作業に、一九四四年九月頃より一九四五年八月十五日迄の間、毎日二百名位を出役させました。
(チ)和龍矯正輔導院より和龍県三和炭鉱に、一九四四年十月頃より一九四五年八月十五日迄の間、毎日二百名位を出役させました。
(リ)哈爾賓矯正輔導院より松花江満鉄埠頭荷上作業に、一九四三年六月頃より一九四五年八月十五日迄の間、毎日百五十名位を出役させました。
(ヌ)新京矯正輔導院より新京市の豆炭会社に、一九四四年九月頃より一九四五年八月十五日迄の間、毎日百五十名位を出役させました。
(ル)奉天矯正輔導院より奉天市鉄西の金属工業会社に、一九四四年夏頃より一九四五年八月十五日迄の間、毎日二百名位を出役させました。
(ヲ)奉天矯正輔導院より奉天市鉄西の同和自動車会社に、一九四四年夏頃より一九四五年八月十五日迄の間、毎日二百名位を出役させました。
(ワ)奉天矯正輔導院より奉天市の満蒙毛織会社に、一九四四年夏頃より一九四五年八月十五日迄の間、毎日二百名位を出役させました。
以上(一)乃至(四)の私の行為中、(一)は中国人民を迫害する機構を開設した重大なる罪行であり、(二)乃至(三)の行為は全て中国人民に対する重大なる迫害の罪行でありまして、私は自己の責任を深く痛感し、認罪するものであります。
36 司法矯正総局長在任中の一九四三年六月一日より一九四五年八月十五日迄の間に於て、私の指導監督の下に在りました監獄及矯正輔導院に於て収容者の集団逃走がありました際、看守職員は左の如く其の逃走者を射殺し、又は傷害して逮捕しました。
(一)監獄関係
イ、一九四三年六月頃より同年秋頃迄の間に於て、鄭家屯監獄、外五ヶ所の監獄[欄外に括弧書きで監獄名の記載あり、地名なのはわかるが小さい字なのではっきり読み取れない――略]、又は監獄作業場に於て合計六回に亘り、総数九十名位に達する七、八名乃至数十名の収容者の集団逃走ありたる際、看守人員は其の逃走者中三名を射殺し、十名を傷害して逮捕しました。
ロ、一九四四年一月頃より同年十二月迄の間に於て、本渓湖監獄本渓湖作業場外、十六ヶ所の監獄[同右――略]、又は、監獄作業場に於て合計二十回に亘り、総数、二百九十名に達する収容者の数名乃至五十名位の集団逃走ありたる際、看守職員は其の逃走者中十四名を射殺し、二十三名を傷害して逮捕しました。
ハ、一九四五年四月頃、鉄嶺監獄某分監に於て収容者十名位の集団逃走ありたる際、看守職員は其の一名を射殺し、一名を傷害して逮捕し、同年五月頃、営口監獄岡田造船所作業場に於て五、六名の収容者の集団逃走ありたる際、看守職員は其の一名を傷害して逮捕しました。
(二)矯正輔導院関係
イ、一九四三年夏頃より同年秋頃迄の間に於て、鞍山矯正輔導院外二ヶ所[同右――略]の矯正輔導院に於て合計三回に亘り総数二十四名に達する収容者の七、八名乃至十名位の集団逃走ありたる際、看守職員は其の一名を射殺し、三名を傷害して逮捕しました。
ロ、一九四四年二月頃より同年秋頃迄の間に於て、奉天矯正輔導院、外十一ケ所[同右――略]の矯正輔導 院、又は作業場に於て合計十三回に亘り総数百三十名に達する収容者の数名乃至十数名の集団逃走ありたる際、看守職員は其の中二名を射殺し、十六名を傷害して逮捕しました。
以上の事実は、総て私の指導監督の下に在りました監獄及矯正輔導院の職員に依りて中国人民に対して行はれた屠殺及傷害の重大なる罪行でありまして、私は深く自己の責任を痛感し、認罪するものであります。
37 司法矯正総局長に就任致しました一九四三年六月一日満州日々新聞記者の訪問を受け、司法矯正総局開設に関する所見を求められたる際私の戦時下司法矯正総局は労働教化に依り監獄及矯正正輔導院の収容者の改遇遷善を図ると共に其の労働を通じて日満一徳一心の本旨に基き、収容者も日本に援助せしむるものであるとの趣旨の談話を為し此の談話が翌日頃の新聞に掲載され、又、其の後、たぶん一九四四年中、一回、該新聞貴社の訪問を受け同様の趣旨の談話を致し又其の談話が翌日頃の新聞紙上に掲載されました。
此の私の行為は、中国人民を欺瞞し之を迫害せんとする意志の表現でありまして、全く反人民的なる罪悪でありまして、私は之を認罪致すものであります。
38 司法矯正局長、在任中の一九四三年八月頃、黒龍江省トルバト地区に、泰康農業監獄を開設するに際し、農場土地内に散在する約四十戸の現住民を強制的に立退かしめました。
此の私の行為は中国人民に対する迫害の罪行でありまして、私は自己の責任を痛感し、認罪致すものであります。
39 司法矯正総局長在任中の一九四三年六月より一九四五年八月十五日迄の間に於ける全満の十一ヶ所の矯正輔導院に於ける収容者中の死亡者は、逃走事故に依り射殺され、又は同様逃走事故に依り傷害して逮捕され、後死亡したりと推定される若干名の者を除き、其の他は全部病死者でありまして、一九四三年度は約百七十名、一九四四年度は約四百七、八十名位、一九四五年度は同年八月十五日迄の間、推定約四百名位以上合計千〇四、五十名位の多数の死亡者を出して居りました。そして之を右二年二ヶ月余の期間内に保安拘置法に依り拘置処分を受けて矯正輔導院に収容されました約一万名余の数に対比致しますと、実に子分の百の死亡率に相当することになるのであります。而して、此の様に矯正輔導院に於て、収容者の多数の死亡者を出しました原因の一半は、保安拘置法施行に依り警察は都市に浮浪する多数の病弱者を一斉に検挙し、之が拘置処分を受けて矯正輔導院に送致せられました結果、此等の収容者は収容と同時に、或は間もなく多数死亡したことに依るものでありますが、又他の一半は矯正輔導院に於ける此等の病弱者又は他の収容者に対する衣食住の処遇の不十分、医療及保健施設の不備、病弱者を重労働に使用する不法の事実に起因するものでありまして、矯正輔導院に十分なる責任あることを認めるものであります。
私は此の事実に対しまして、重大なる監督上指導上の責任があるのでありまして、私は此の責任を痛感し、 認罪致すものであります。
40 司法部参事官及司法矯正総局長在任期間中を通じ私が法案及び官制案の立案又は審議に参加し参与致しましたものは既に前に記述致しました、保案拘置法、矯正輔導院令、矯正護送規則、看守?懲条例、監獄法中一部改正、等に関する各官制案を除き、左の通りであります。
一、監獄法中一部改正案、之は監獄の名称に付て、本監獄を刑務所に分監獄を刑務支所と称する事項に関するもので、私は行刑司の刑政科長××××を指導し、審議して立案せしめ此の審議に参与しました。
一、監獄官制改正案、之は一九四二年、一九四三年、一九四四年、一九四五年の四回に亘り、監獄の開設に関し、又監獄職員の定員数の増加に依り、其の都度改正の為に行刑司の刑政科長、又は司法矯正総局の総務科長をして立案させ之を審議しました。
一、司法矯正総局官制及文科規定改正案、之は一九四四年度、一九四五年度の二回に司法矯正総局に総務科を増設し、参議官を置き、又職員の定員を増加した為に官制を改正せられんとするもので、刑政科長又は総務科長に立案させ、私は此の参議に参与しました。
一、矯正輔導院官制改正案、之は一九四四年度及一九四五年度に於て夫れ夫れし、矯正輔導院を増設し、或は職員の定員を増加した結果、官制を改正せんとするもので、総務科長に立案させ、審議に参与しました。
一、中央刑務官訓練所官制改正案、之は司法矯正総局開設に伴い従来司法部大臣が所長であったもので、司法矯正総局長と改める為に官制を改正せんとするもので、訓練所の主事が立案し、私は審議に参与しました。
以上の法令改正案及官制改正案は、其の都度、国務院各部の次長、大臣の会議、其の他の制定手続を経て改正を完了しました。
猶、私が司法部参議官在任中、監獄法の死刑執行に関する規定中「死刑は絞首して執行す」と規定してありましたものを、「死刑は銃殺又は絞首して執行す」と改正しました。司法部次長××××が、所謂粛清工作等、多数の死刑の裁判を為した場合に必要であると発議し、自ら刑事司に命じ改正手続をさせたるもので、私は此の改正には、参与して居りませぬ。
上記の如く私が法案又は官制案の立案審議に参与しました行為は人民を威厭迫害する機構の整備拡充に関係を有する反人民的罪行でありまして、私は之を自覚し、認罪致すものであります。
41 中央刑務官訓練辞書長(兼務)在任中一九四三年六月より一九四五年八月十五人迄の間に於て、同訓練所が毎年二回、期間三ヶ月を以て毎回三十名の各監獄職員中より招集したる訓練生に対し、自ら又は主事を通して偽満州国建国精神たる日満一徳一心、五族協和の日本帝国主義の欺瞞思想を注入しました。
此の私の行為は中国人民を欺瞞し、堕落せしめんとする反人民的罪行でありまして、
私は自己の責任を自覚し、認罪致すものであります。
42 禁煙促進委員会委員(兼務)在任中の一九四三年八月頃、新京市禁煙総局に開催せる之が第一回の委員会に出席し、禁煙総局長及副局長よりの従来の偽満洲国の禁煙事業の経過報告と当時の阿片癩者約二百万人位を数ヶ年内に矯正する事業計画の報告を受け、他の出席委員と共に之を承認しました。此の委員としての私の行為は、此の委員会は表面上、偽満洲国の所謂阿片断禁十ヶ年政策に基き、阿片癩者の皆無を期することを標榜して居ても、偽満洲国の阿片政策が、国家の有力なる財源として阿片を高価に販売し、中国人民を略奪せんとする本質であり、又委員会の承認しました。矯正計画が癩者に阿片売下を為すものであります限り、偽満洲国が中国人民に対する略奪行為と非人道行為を援助するものでありまして、私は此の自己の罪行を十分に自覚し認罪するものであります。
私は、以上四十二項目に亘り記述致しました如く、一九三六年十月より一九四五年八月十五日迄、約九ヶ年に亘り日本帝国主義侵略者が中国の全東北を其の植民地として、悪辣極まる略奪統治の罪行を敢行するに付、重要なる実行行為を分担し、更に日本帝国主義軍隊が全中国に不法なる侵略戦争を強行するに関し、其の基地東北に懸念なからしむるの重大役割を担任し、中国人民に強大なる弾圧を加へて沿天の罪行を犯し、其の罪万死に価するものがあるのであります。私は、此の自己の重大なる罪行を深く深く認識し、衷心より中国人民に対し謝罪の意を表明し、謹んで認罪致すものであります。而して之が償罪と自己の甦生の道は完全なる思想改造を完成し、日本革命に参加するの只一途にあることを十分に自覚し、茲に之が決意を表明し、其の実行を誓ふものであります。
一九五四年七月三十日 撫順に於て N・H 右食指
筆供自述書(補足)[原文P61~75]
一、錦州地方法院次長在任中の罪行
一九三七年春頃、私は偽満州国新京特別市国務院講堂に於て開催せられたる偽満州国司法部大臣召集に係る全満司法官会議に出席し中国の愛国の志士を迫害する所謂思想対策又は中国人民を迫害するところの新に改訂したる刑法刑事訴訟法及其の他の刑事法規民事法規の運営に関し司法部大臣、同次長、民事司長、刑事司長、最高法院長、同次長等の訓示又は指示を受け或は協議に参与し帰任後、其の会議の成果を自己の指導監督上の執務上に反映し以て反人民的罪行を犯しました。私は此の自己の罪責を認識し認罪致すものであります。
一、延吉地方法院長在任中の罪行
私は一九三八年春頃、偽満州国新京特別市国務院講堂に於て開催せられたる偽満州国司法部大臣の招集に係る全満司法官会議に出席し中国の愛国の志士及中国人民を迫害する治安維持法又は其の他の刑事法規民事法規の運営に関し司法部大臣、同次長、民事司長、、刑事司長、最高法院長、同次長等の訓示又は指示を受け或は協議に参与し帰任後、其の会議の成果を自己の指導監督上の執務上に反映させ以て反人民的罪行を犯しました。私は此の自己の罪責を自覚し認罪致すものであります。
一、黒河省次長在任中の罪行
1.私は一九三九年四月下旬頃、同年九月頃、一九四〇年四月頃、同年九月頃、及一九四一年四月頃の五回に亘り偽満州国新京特別市国務総理官邸に於て開催せられたる総務長官召集に係る全満省次長会議に出席し日本帝国主義侵略者の中国東北に対する殖民地的掠奪統治行政の実施又は日本帝国主義侵略軍隊の対蘇同盟侵略戦争の準備態勢を確立する所謂北辺振興開発計画等の事項に関し、総務長官、総務庁次長、総務庁各處長、関係の各部次長、司長等の訓示又は指示を受け或は協議に参与し、帰任後其の会議の成果を省行政の指導上に反映せしめ以て反人民的反蘇同盟の罪行を犯しました。私は此の罪責を自覚し認罪致すものであります。
2.私は一九三九年五、六月頃、一九四〇年五、六月頃、一九四一年五、六月頃、黒河省公署行動に於て、開催せられたる、偽満州国黒河省長の召集に係る黒河省各県長会議、副県長会議に於て前項記載の中央政府の訓令、支持の事項、徹底に関する省政策、省計画の実施に且指導し以て反人民的反蘇同盟の罪行を犯しました。私は此の罪責を認識し認罪するものであります。
一、司法部参事官在任中の罪行
1 私は一九四二年五、六月頃、偽満州国新京特別市国務院講堂に於て開催せられたる偽満州国司法部大臣の召集に係る全満司法官会議に出席し自ら出席者に対し監獄内に於ける中国人民に対する拘禁作業等の迫害状況を報告すると共に中国人愛国志士及中国人民迫害の刑事法規、民事法規運営に関する事項の協議に参与し以て反人民的罪行を犯しました。私は自己の責任を自覚し認罪するものであります。
2 私は一九四二年六、七月頃偽満州国新京特別市国務院講堂に於て開催せられたる偽満州国司法部大臣の召集に係る全満監獄長副長会議に参与し、司法部大臣、同次長の訓示、行政司長の指示に次いで自らも監獄内に収容せる中国人民を迫害する収容者の拘禁確保、作業強化等の事項に付監獄長及副長に指示を与え且収容者をして作業を通じて日本帝国主義者の侵略戦争を援助せしむる方針を強調し以て反人民的罪行を犯しました。私は此の自己の罪責を自覚に認罪するものであります。
3 保安矯正法制定に参与した罪行。私は従来、保安矯正法の名称を保安拘置法と誤認し、調査官に対する供述に於ても、又私が一九五四年七月三十日附を以て提出致しました筆供自述書中に於ても、保安矯正法を保安拘置法と誤りて供述し、又は記載致しました。故に 茲に之を訂正致します。
一九四二年秋頃、偽満洲国司法部次長××××は、偽満洲国民生部労務司長××××(入蘇中病死)及関東軍等と謀り、一面偽満洲国の治安維持の目的と、又一面当時の偽満洲国に於ける戦時生産事業に必要なる労働力の不足の補充に資する目的を以て、全世界各国に於て一、二ヶ国以外には実施され居らざりし悪法、保安処分の法規を制定し、之に依りて当時全満各都市に浮浪する推定、数十万人と称せらるゝ中国人民を一定期間拘禁し、之を労働に服せしめて迫害せんことを企て、各方面の反対を説得し、総務庁其の他関係各部の首脳者の同意を得て、所謂保安拘置制度の法規、即ち保安矯正法を制定する方針を確定し、其の頃司法部内に於ては科長、参事官、各司長等の部内会議を司法部次長室に召集して、次長より該法制定の方針を明示し、意見を求めました。此の部内会議には行刑司からは私の外、刑政科長の××××を始め、全部の科長が出席しました。そして出席者は余り意見もなく、制定方針は確定し、司法部次長より之に関する法規案の起草を刑事司長××××に命じ、刑事司に於て起草することに決定し、散会しました。其の後刑事司に於て保安矯正法案を起草し、同年末及翌一九四三年气二月頃迄の間、二、三回の部内審議が行はれ、私は此の審議に参加しました。審議の際、私は検察官が保安拘置の処分を決定する原案に対し、裁判は法院の審判官が担当すべきであるとの意見を提出しましたが、検察官の保安拘置処分に対し、不服ある被拘置者は法院に対し、此の検察官の処分の再審査を請求することが出来ると云ふ折衷案が採用され、私の意見は採用されなかったのであります。該法案は部内審議の後、次長大臣の決裁を得て国務院に回附され、国務院各部次長会議、各部大臣会議の各決議、並に参議府会議の諮詢を経て、偽満洲国皇帝が裁可し、国務総理及内容の事項に関係ある各部大臣の副書にて、一九四三年春頃、公布実施されたのであります。而して、此の保安矯正法の内容は大略次の通りであります。(一)保安拘置処分の対照者は、 1前科者、起訴猶予者、刑の執行猶予者にして、再び犯罪を犯す虞あるもの、2労働を厭忌する浮浪者にして、犯罪を犯す虞あるもの、回拘置期間は、原則として二年間、但し特別の必要ある場合は延長が出来る、二年の拘置期間中、労働改善の実績ある者は二年の期間満了前釈放し得ること、(二)被拘置者を拘置期間中労働に服せしめて、労働に依り改善せしむること、(三)拘置処分は検察官の決定に依り、此の決定に不服ある被拘置者は法院に不服を申立て、審判官の再審査を受けることが出来る、(五)保安拘置処分を受けたる者は、原則として矯正輔導院に収容するが、特別の事情に依りては公私の機関に委託して之が改善を期し、又は軍部に委託し、或は民生部大臣の指導管理下に在る公私の団体に収容させ、労働に従事せしむ、此の場合、司法部大臣及民生部大臣は協議して其の条件内容を決定すること、等でありました。
私が以上の如き制定の経過と内容を有する、中国人民に重大なる迫害を加へ、以て日本帝国主義者の侵略戦争の遂行を援助することを目的とする、悪辣なる法律案の審議に参加致しましたことは、中国人民に対する重大なる罪行でありまして、私は深く此の罪責を痛感し、認罪致すものであります。
一、司法部参事官及司法矯正総局長在任中の罪行
1 一九四二年十二月偽満州国に於て公布実施しました矯正輔導院及矯正護送規則は一九四三年二、三月頃より当時司法部参事官在任中の私と司法部刑事司長××××の指導に下に司法部行刑司の刑政科長××××が其の法令案及規則案の起草に着し××××が一九四三年四、五月錦州地方検察庁自重に輔任後は司法矯正総局総務科庁××××が継承して奇想を担当し一九四三円十一此の起草を終え司法部内の審議に附したる後、大臣、自重の決済を経て国務院に回附し法律制定に関する所定の手続を経て制定され公布となったものであります。而して此の矯正輔導院令は保安矯正法に依る保安拘置者を収容する矯正輔導院に於ける収容者の処遇手続を規定したものでありまして、特に其の内容として収容者に対する械具の使用を認め又収容者が看守職員に反抗し又は暴動を起し或は逃走を企てたる場合に於ては看守職員に対し其の携帯する佩剣又は?器[※鈍器?]を使用して之か反抗を抑圧し或は収容者を殺害又は傷害し得る権利をも与えたる即ち中国人民に対する迫害又は屠殺をも許容する反人民的悪法であります。又矯正護送規則は保安矯正法に依る保安拘置者を検察庁より矯正輔導院に又は矯正輔導院より他の矯正補導院に護送する。手続に関する同様中国人民迫害の規則でありまして、私が此の二つの法規の法案の起草を指導し其の法案の司法部内に於ける審議に参与しました行為は反人民的な重大なる罪行であります。私は此の罪責を自覚し認罪致すものであります。
2 私が司法部参事官に任命され偽満州国司法部行刑司の事務を管掌することとなりました一九四一年七月一七日以前より哈爾賓監獄に於ては在満日本帝国主義軍隊用の机及椅子の製作及軍用木の製材を請負ひ又営口監獄に於ては同様日本帝国主義侵略軍隊の関東軍兵事部の注文に依り在満日本人在郷軍人会用の銃剣術用の防具の製作を請負ひ又奉天第二監獄に於ては在満日本帝国主義侵略軍隊用の毛皮革の揉皮を請負ひ夫れ夫れ監獄附設の工場に於て中国人又は日本人の収容者をして製作せしめて居ました。私は参事官としても又司法矯正総局長に就任後も此の作業方針を継続承認し一九四五年八月十五日迄の間に左記の如く日本帝国主義侵略軍隊の軍需品を製作せしめました。
(一)哈爾賓監獄に於て一九四一年七月一七日より一九四五年八月十五日迄、毎日三百名内外の中国人収容者を使用し日本帝国主義侵略軍隊用の机、椅子等の製作及軍用木材の製材にて総金額四百万円位の作業をしました。
(二)営口監獄に於て一九四一年七月一七日より一九四五年八月十五日迄、毎日二百名内外の中国人収容者を使用し、在満日本人在郷軍人会用の銃剣術防具を毎年二万数千組位此の総金額百五十万円位を製作しました。
(三)安東監獄に於て、一九四三年春頃より一九四五年八月十五日迄、毎日百数十名の中国人収容者を使用し、在満満日本人在郷軍人会用の銃剣術防具を毎年一万数千組位、此の総金額八十万円位を製作しました。
(四)遼陽監獄に於て、一九四二年暮頃より一九四五年八月十五日迄、毎日百数十名の中国人収容者を使用し、在満満日本人在郷軍人会用の銃剣術防具を毎年一万数千組位、此の総金額八十万円位を製作しました。
(五)奉天第二監獄に於て、一九四一年七月一七日より一九四五年八月十五日迄、毎日百数十名の日本人収容者を使用し在満日本帝国主義軍隊用の防寒用毛皮革の揉皮作業を実施し毎年七、八十万円位の作業収入を得て居りました。
(六)奉天矯正輔導院より一九五四年七月三十日附、筆供自述書に記載しました如く、一九四四年夏頃より一九四五年八月十五日迄、奉天市の同和自動車会社の日本軍隊用貨物自動車製造作業に毎日二百名位の収容者の労力を提供して居りました。
以上、記述の如く、私の指導監督の下に於て各監獄が軍需品を製作し又は軍用物資の製材揉皮等を請負ひ矯正輔導院より軍需作業に収容者の労力を提供致しました行為は中国人又は日本人収容者を此等の作業に従事させて、迫害すると共に日本帝国主義軍隊の中国侵略の遂行を援助したものでありまして私は計画者指導者監督者として其の重大なる責任を自覚し認罪するものであります。
3 私が司法部参事官、及司法矯正総局長在任中の一九四一年七月十七日より一九四五年八月十五日迄の間に 於て、私の指導監督下に在りました監獄に於て、法院の裁判に依る死刑を執行した収容者の数は、大体左の通と推定致します。即ち、一九四一年七月十七日より同年十二月末日迄、約五十数名位、一九四二年度は約百名内外、一九四三年度は約百名内外、一九四四年度は約百名内外、一九四五年一月一日より同年八月十五日迄約七十名位であります。而して、此死刑執行の手続け、検察庁の検察官が起訴し、法院の審判官が死刑の裁判を宣告し、被告人が其の裁判に上訴せずして確定した場合、或は被告人が其の裁判に服せず控訴(第二審高等法院に対する上訴)し、又は更に上告(第三審最高法院に対する上訴)し、第二審或は第三審の裁判が同じく死刑の裁判を宣告し、之が確定した後に於て、検察庁の検察官は其の刑事々件の記録一切と批准請求書を司法部刑事司を経由して司法部大臣に提出し、死刑の裁判の批准を請求し、批准の後、検察官は監獄に対し其の執行を命令し、監獄に於ては検察官、監獄の長、医師立会の上、監獄法所定の絞首又は銃殺の方法に依り執行するのであります。そして其の執行完了後、監獄より司法矯正総局に死刑執行に付ての文書報告があるのであります。
尚此の死刑を執行された収容者中には、大体百分の二十乃至百分の三十の割合に於て、政治犯の収容者が含まれて居りました。
以上の死刑の執行は、私の監督下に在りました監獄に於て行はれた中国人愛国の志士及中国人民に対する屠殺の重大なる罪行でありまして、私は自己の責任を自覚し、認罪致すものであります。
4 私が司法部参事官、及司法矯正総局長として在任中の一九四一年七月十七日より一九四五年八月十五日迄の間に於て、全満二十六乃至二十九ヶ所の本監獄、八十数ヶ所の分監獄、及約二十ヶ所の代用監所に毎年大体十万人以上、二十万人以下と推定される入監者出監者あり、常時、平均毎日約二万八千人位(内未決犯収容者五千人乃至七千人位、已決犯収容者二万一千人乃至二万三千人位)の全収容者がありました。而して、此等の収容者は、日本帝国主義侵略者が中国の東北を日本の植民地として略奪統治を為すことに妨礙《ぼうがい》となるものとして犯罪者として社会より隔離して監獄に拘禁され、更に已決犯収容者は、私が企画実施させました監獄内又は監獄外の作業に従事せしめて苦痛を与へ、其の結果、過労に依り収容者の死亡数を増加せしめた事実を認められるものでありまして、以上は中国人愛国の志士又は中国人民に対する重大なる迫害と屠殺の罪行であります。私は計画者、指導者、監督者と致しまして深く自己の罪行を痛感し、認罪致すものであります。
5 私が司法部参事官、及司法矯正総局長在任中の一九四一年七月十七日より一九四五年八月十五日迄の間に於て、奉天第一監獄は偽満洲国奉天医科大学の要求を容れ、監獄内に於て病死し、屍体引取人なき数百人の収容者の屍体を解剖学上の研究資料に提供する名義の下に、同大学に送附して、解剖せしめたのであります。
此の監獄の行為は、中国人民に対する反人道的な罪行 でありまして、私は監獄に対する指導監督者として其 の責任を自覚し、認罪致すものであります。
一、司法矯正総局長在任中の罪行
1 私は司法矯正総局長在任期間中の一九四五年五、六月頃の二回に亘り、偽満州国新京特別市国務院講堂に於て開催せられた偽満州国司法部大臣の召集に係る全満司法官会議に参列し、自らも監獄内に於ける中国人民の収容者に対する拘禁又は作業者の迫害状況を報告すると共に中国人愛国の志士に対する迫害を目的とする所謂思想対策又は中国人民迫害の刑事法規又は民事法規運営に関する事項の協議に参与し以て反人民的罪行を犯しました。私は自己の責任を自覚し、認罪するものであります。
2 私は自ら召集者として一九四三年六、七月頃、満州国国務院講堂に於て全満監獄長(副長も含む)及矯正輔導院長会議を又一九四四年四、五月頃、司法矯正総局講堂に於て、全満刑務所長(副長も含む)及矯正輔導院長会議を夫夫れ開催し此等会議の席上各司法部大臣及同次長の訓示に引続き自ら監獄及矯正輔導院の収容者に対する拘禁の確保と作業の強化を強調し更に収容者をして労働を通じ、日満一徳一心の本旨に基き日本帝国主義侵略戦争に寄与せしむべきであるとの趣旨を訓示を為し之を実施させ、以て中国人民を迫害し日本帝国主義者の侵略戦争を援助するの罪行を犯しました。私は自己の罪責を認識し之を認罪するものであります。
3 私は一九四四年一月頃より一九四五年春頃迄の間に於て、日本帝国主義陸海軍の侵略戦争を援助する目的を以て監獄及矯正輔導院の職員及収容者を欺瞞煽動し、収容者より総額約五万円位を作業賞与金又は所持金中より出金させ職員の棒給より約五、六万円を出金させ他の寄附金と合して、日本帝国主義陸海軍に軍用飛行機各一機宛の製作資金(一機十万円)を寄附し、以て収容者職員等の中国人民より献金名義にて欺瞞略奪を行い日本帝国主義陸海軍の侵略戦争遂行を援助する反人民的罪行を犯しました私は自己の罪責を自覚し、認罪するものであります。
4 私が司法矯正総局長在任中の一九四三年五月頃より一九四五年八月十五日迄の間に於て、保安矯正法に基き保安拘置処分を受け、全満十一ケ所の矯正輔導院に収容せられたる中国人民は約一万名(此の中には右期間中、矯正輔導院に於て死亡したる収容者約千数十名と、二ケ年の拘置期間満了前、労働改善の実績ありとして釈放せられたるもの推定約一千人を含む)に達したのであります。而して、私は矯正輔導院に対し、此等収容者に対する拘禁の確保と作業の強化を指導し、或は班組織に依る作業成績、連帯責任制(連坐賞、連坐罰)を、実施させて収容者に苦痛を与へ、其の結果、過労に依り収容者の死亡数を増加せしめたことを認かるものでありまして、右は中国人民に対する重大なる迫害、及屠殺の罪行であります。私は矯正輔導院の開設者、指導者、監督者として自己の重大なる罪責を痛感し、認罪するものであります。
一九五四年八月十四日 撫順に於て N・H
右食指
[原文P76~82は各統計表と(補充)名義の文章]
※本記事は「s3731127306の資料室」2017年02月25日作成記事を転載したものです。