『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『シュン@ひろしまタイムライン』の1945年7月19日―1945年7月30日のツイート(作業いったん終わり)

「もし75年前にSNSがあったら?」1945年、広島の中学1年生だった新井俊一郎さんの日記原文(1945年7月11~24日) | 被爆75年ブログ|NHKブログ
「もし75年前にSNSがあったら?」1945年、広島の中学1年生だった新井俊一郎さんの日記原文(1945年7月25~31日) | 被爆75年ブログ|NHKブログ

【1945年7月19日】

いよいよ明日の朝九時半、農村出動が決まった!
ああ待つこと久し。ようやくである!

【1945年7月19日】

おお、燃える、燃える!

校舎付近の燃えそうな物品を校庭にて燃やす。
ものすごい勢いにて燃えるので、科学学級の四年生が皆窓から首を覗かせている。

【1945年7月19日】

学校の図書を各人で持っていくことになった。
我々が読むというのもあるが、疎開のためでもある。


【1945年7月19日】

駅へ明日の打ち合わせをしに行かれた小谷先生が、中々帰られない。


【1945年7月19日】

先生はまだだろうか?待ち始めてもう一時間にもなる。


【1945年7月19日】

先生が帰られた!荷物を駅に持っていくようにとのことだ。急いで支度しよう。

【1945年7月19日】

父兄団として僕らの動員先へ搬入に行っていた父が帰宅した。
臨海教育用の大鍋や食料など、色々と運び込んでくれたらしい。


【1945年7月19日】

雨が降り始めたと思ったらまた警報である。
この雨でまた出発が先送りなどとならなければよいが。

【1945年7月19日】

明日を待て。

【1945年7月20日

本日より我が附属中学一年の農村学徒動員が始まる。まさに大移動である。
あいにくの雨。八本松駅からの行進でびしょ濡れだが、賀茂郡原村まではあと少し。

【1945年7月20日

我が北組と南組は教順寺。東組は真光神社にお世話になる。
級友たちとの共同生活の始まりである。
僕は早速本堂横の廊下を陣取り、荷解きをする。
家から持参した煎り豆は大事に食べるとしよう。


【1945年7月21日】

昨晩は教官より、皆仲良くするよう注意があった。
大所帯での暮らしは何かと不便だ。
特に大人数での食事と風呂は勝手が違いすぎる。
本日は足りていない竈づくりをおこなうそうだ。

【1945年7月22日】

日曜のため休日なり。朝飯は沢山食べられた!満腹。
食事に難儀しているという東城町の科学学級はさぞ羨ましがるだろう。

警戒警報。
騒がしいの。

【1945年7月22日】

暇である。のらりくらり遊ぶという言葉そのものである。
持参したハーモニカを吹いていると、再び警戒警報。
廣島は無事だろうか。心配だ。


【1945年7月22日】

炭本が眉の上を負傷していた。
喧嘩でもしたのだろうか。
教官より就寝時間後に騒ぎすぎるとの注意を受ける。

警戒警報。多いな、今日三度目だぞ。


【1945年7月23日】

宿泊所の大掃除をした。
安眠を妨げる輩、畳のノミ退治である。
畳を上げて竹ぼうきで掃けば、いるわいるわ。ピョンピョンと飛び跳ねる。
我々の荷物も外に出し、日光に当てる。
誰かが畳の敷き間違えをして、ひと悶着あり。

【1945年7月24日】

我々は初めて農家へ出動する。
十七名が先発隊として出発した。
教官より「君達は最初の農家出動隊である。であるから、元気に立派に勤労に従事するよう」と、訓示された。
勇んで寺を出発した。


【1945年7月24日】

今日は田の草抜きをした。ヒルが多くて困る。
日差しも強くとても暑かった。
だが、頑張った甲斐あり、とても感謝され、農家よりジャガイモとおはぎを頂いた。
なんとも嬉しい。そして、美味い。

【1945年7月25日】

農家出動第2日目である。途中まで農家の人が出迎えて来てくれた。
二日続けて作業した者は休みになるのだ。
さあ、今日も頑張ろう!

【1945年7月25日】

寺のすぐ横を流れている温井川で顔と体を拭く。
冷たくて、とても気持ちがいい。
ああ、今日もよくやった。


【1945年7月25日】

原村に父がやって来た!僕の忘れ物を持ってきてくれた。
廣島や家は無事だそうだ。よかった。
父に貰った海苔巻きを頂いた。美味しい。我が家の味。
去っていく父の姿を見送る。


【1945年7月26日】

近頃、食事のときにご飯が少量だ。そのためか腹が減ったという者がだいぶいるようである。
今日は風呂に入った。
まず教官が入り、その後出席番号順に入る。実に気持ちがいい。


【1945年7月27日】

本日は千ノ丸部落の千田さんのところに出動。
サツマイモを一人四個ずつ頂いた。
昨年獲れたものだそうだが実に美味しい。しかも白飯と、じゃがいもの煮物まで出してもらった。
千田さんのためにも、一心に働かなくては!


【1945年7月28日】

昨日と同じく千田さん宅に八名出動する。
最初にさつまいもの畑の中の雑草を抜く。
どなたか知らないおばさんが来られて、僕たちの作業を見てくださった。
午前中は皆少しさぼっているように見えたが、午後は全員が一体となって勤労に従事した。

【1945年7月28日】

帰るときに農家の方に美味しい白米をご馳走になった!
我々は農家の人々の親切さにいたく感激し、今より作業に熱中しようと深く心に決めた。
おまけに豆を煎ったものまでいただいた!夕食は食べず、じゃがいもとキャベツをいただく。ありがたくいただく。


【1945年7月29日】

日曜日だが一部は農家に出動している。我々は出動する番ではないから寺で休む。これから庭に麦を出して乾かす。

今日はなんと夕方に演芸会がある。
とても楽しみだ。

【1945年7月29日】

今まで病室で寝ていた名柄、楠本、山崎、今井の四人が廣島に帰省する。
僕たちは少しうらやましく思った。

【1945年7月29日】

午後からは、皆畳の上で寝転んで読書に熱中したり、先生とトランプをして遊んで、白熱した!
夕食はおかゆだったため腹一杯食べた。

いよいよ、演芸会だ。緊張!

【1945年7月29日】

投票の結果、三位だった!僕はハーモニカを独奏した。
自信が無くて、もらえないと思っていたが、皆拍手をしてくれた。

【1945年7月30日】

今まで千田さんの家に出動していたが、今度は東組と共に八幡宮の近所の河野さんの家に出動だ。

【1945年7月30日】

田んぼの除草をやる。腰が痛い。
東組はサボっている。
何ということだ。

【1945年7月30日】

僕たち北組は、良く働いた。
附中の面目をしっかり守ったのだ。
帰寺前に、おみやげのお米を七合ほど頂く。ありがたい!

【1945年7月30日】

四日ぶりに風呂に入る。
原村に来て二回目である。
疲れが取れる。


【1945年7月30日】

夕食はご飯、エビ、昆布、豆腐、副食の桃半個を頂く。
旨い!

昭和六年山形県生まれ、八歳より廣島で過ごす十三歳。廣島高等師範学校附属中学校一年北組の副級長。
七月二十日から、母、父の暮らす廣島市を離れ、賀茂郡原村に農村出動(疎開)中。北組の皆と教順寺にて共同生活をしている。
よく絵を描き、時には漫画を描く。

【1945年7月31日】

今日は出動せず、母ちゃんへ手紙を出した。
昨日は三人位の父兄が来られ、今日帰られた。
退屈なので本を読んでいる。


【1945年7月31日】

昼食はおかゆを食べた。
今からお寺の田んぼの除草を機械でやるそうだ。
いつもより楽そうだ。


【1945年7月31日】

教官に呼ばれたので行くと、
「教官室当番をよくやってくれた。」
とお誉めの言葉と、トマトを御馳走になった!
とても嬉しい!


【1945年7月31日】

怪談があった。少し怖かったが、これで胆が太いということが実に大切であるかがわかった。

【1945年7月31日】

七月を振り返る。
今月は農村出動という初めての経験をした。
弟が疎開をしていたので、心の準備は出来ていたが、一時は慌ててしまった。
やはり、胆が太いことは大事だ。

【1945年7月31日】

七月を振り返り その二
農村の方々はとても優しく接してくださって、僕たちのような歳がわかく、力の少ない少年のことも、とても信頼してくださった。

【1945年7月31日】

七月を振り返り その三
農村の方やお寺の方のご親切に報いるために、一心に増産しなければならん!

明日も務めを果たそう。
寝。

以下、保存した分です。