『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「一下士官のビルマ戦記」(1981年、三浦徳平、葦書房)

○目次○

第一部平和な戦陣
第一章 地球の頌……………………………………………………………………………009
 1 地の果警備隊 009
 2 エボミーの山岳民族 014
 3 首を狩られた英国兵 022
第二章 片脚と命……………………………………………………………………………027
 1 偵察饑に片脚を掃射 027
 2 切断手術の公開 030
第三章 野象の来る村………………………………………………………………………037
 1 センイワ村の対空監視哨 037
 2 田植え競争 041
 3 象狩り 045
第四章 天の橋守り…………………………………………………………………………050
 1 ゴクテーク渓谷 059
 2 犒守り志願のロートル 053
 3 鉄道技師の執念 057
 4 眼下の鉄橋 061
第五章 飢餓行軍実験隊……………………………………………………………………006
 1 耐乏行軍命令 066
 2 糧株は一週間分 070
 3 自分の眉毛が見える 076
 4 最後は玉砕 084
第六章 雲南ルート覚え書き………………………………………………………………086
 1 ラシオ線 086
 2 モンミッ卜駐屯 088
 3 白石小隊 091
 4 桃源境無惨 096
第七章 或る戦死……………………………………………………………………………100
 1 来客奇縁 100
 2 初陣 103
 3 新兵いびり 107
 4 初年兵哀歌 111

第二部激闘の中
第一章 生と死のはざま……………………………………………………………………117
 1 小倉連隊創設 117
 2 モール空挺要塞 119
 3 明暗――二人の脱出兵 124
第二章 蜂の巣陣地…………………………………………………………………………132
1 モールの丘 132
2 総攻撃潰ゆ 136
3 ああ、友軍機 139
4 万策尽く 142
 5 ミートキーナヘ前進 145
第三章 黎明攻撃前後………………………………………………………………………150
 1 運命の分かれ道 150
 2 ナムクインの空挺陣地 154
3 第七野戦補充隊 157
 4 肉弾 161
第四章 ナムクインの虹……………………………………………………………………168
 1 二人の中隊長 168
 2 紅顔の兵士たち 172
 3 ナムクイン離脱 176
第五章 ミートキーナヘの道……………………………………………………………179
 1 第三大隊編成新たに 179
 3 砲撃の下を前進 183
第六章 ある脱走兵…………………………………………………………………………186
 1 奇妙な巡り合い 186
 2 脱走計画 188
 3 敵陣地をすりぬける 191
 4 山賊(黒田)部隊に配属 193
 5 雲南戦線へ 198
第七章 密支那守備隊………………………………………………………………………202
 1 連合軍の奪回作戦 202
 2 死臭ただよう陣地 209
 3 死守すべし 212
 4 七中隊生存者なし 216
第八章 降って湧いた敵……………………………………………………………………219
 1 味方同志の銃撃戦? 219
 2 敵だ! 221
 3 降伏勧告に応ぜず 225
 4 肉薄攻撃班前進せよ 227
第九章 虐 殺………………………………………………………………………………232
 1 非常命令 232
 2 部落民全員を集める 236
 3 白昼の悪夢 239
第十章 最後の丸木舟………………………………………………………………………243
 1 脱出命令 243
 2 後背尖兵・広中中隊 247
 3 妄執の渡河点 249
 4 大隊長が最初に渡河 253
 5 地獄舟 256
 6 見殺し 261
終章 命を鴻毛の軽きに比し………………………………………………………………………266
 1 ビルマ方面軍撤退 266
 2 戦争の真実 268

   あとがき 270
   第百十四連隊第三大隊戦死者名簿 274

   * 本書所収の説明図は防衛庁防衛研修所戦史室著『戦史叢書・イラワジ会戦』(朝雲出版社)による




○各章の概要○
第一部
第一章 1942年秋(昭和十七年秋)から4~5カ月間、ビルマ北西部にあるロントンに派遣される。その後、ロントンからさらに北西130キロにある部落エボミーに派遣される。エボミーとロントンの間を三週間ごとに交代する。
 1943年の初め(昭和十八年の初め)、英国兵の捕虜を捕える。捕虜の事件から2~3カ月後にエボミー駐屯小隊は大隊本部のあるモガウンに撤退。

[1942年秋~1943年春の初めごろ:ロントン及びエボミーに駐屯。]

第二章 1943年春(昭和十八年春)、モガウンに駐屯。このころ、負傷した兵士の「切断手術の公開」があった。
第三章 1943年夏(昭和十八年夏)、チャウメに第三大隊が駐屯。第三大隊はチャウメ周辺の各地に警備隊として駐屯。この章では著者の部隊がメイミョウ近くの部落センイワに駐屯したときのできごとが記述されている。二週間ごとに駐屯地を交代する。
第四章 1943年夏(昭和十八年夏)と推定されるころ、ゴクテークの鉄橋の警備の為駐屯。ここでも二週間ごとに駐屯地を交代する。
第五章 1943年10月頃(昭和十八年十月ごろ)、チャウメ―ラシオ間で飢餓行軍実験が行われる。二週間の予定だったが十七日かかる。
第六章 1943年夏~1944年初め(昭和十八年夏~昭和十九年初め)、モンミット駐屯、チャウメとモンミットの間にある部落モゴックに著者は魅かれる。チャウメ―モンミット間を往復。
 1944年10月(昭和十九年十月)、モンミットでの作戦の用意の途中でモゴックに着くと、モゴックは灰燼となっていた。

[1943年春ごろ:モガウンに駐屯。]
[1943年夏~1944年初めごろ:チャウメに第三大隊が駐屯。著者はチャウメ周辺のセンイワ、ゴクテーク、モンミットなどに駐屯(一定期間をおいて駐屯地を交代していた)。]

第七章 1940年(昭和十五年)、華南・広東省にて駐屯。初年兵の自殺があった。

第二部
第一章 1944年2月末(昭和十九年二月末)、ビルマ北部にあるミートキーナに集結を命じられる。同年3月21日~22日にかけて、行軍の途中モールで英軍と交戦し大敗北する。行軍のルート:警備地のシャン州→サガイン→インドウ→モール
第二章 1944年3月~5月(昭和十九年三月~五月)モールにて再び英軍陣地に攻撃するも敗北。後続の部隊と交代して5月2日ごろ(五月二日ごろ)モール山脈に沿ってミートキーナをめざして前進。
第三章 1944年5月(昭和十九年五月)、ミートキーナにむけて行軍する途中ナムクインで交戦。敗北する。
第四章 第三章のつづき。1944年5月(昭和十九年五月)、ナムクインでの交戦とその直後の様子。同年1944年5月18日、ナムクインからミートキーナに向けて行軍。
第五章 1944年5月(昭和十九年五月)、モガウンを経由してミートキーナにむけて行軍する途中に砲による攻撃を受ける(負傷者なし)。同年5月24日、著者の所属する第三大隊はミートキーナに到着。
第六章 ある脱走兵の話をまとめた章。1944年7月(昭和十九年七月)、脱走兵Aは他の兵士2人から誘われてミートキーナから川(イラワジ川?)を越え英軍の歩哨線を越えまた別の川を越えホーピン、さらにモーニンへの脱出した。ここでモーニンにあった黒田部隊にまぎれこんだ。ここから同年8月~9月ごろ(拉孟玉砕後だと書かれている)にかけてマンダレー→ラシオ→ビルマ公路→センウイの野戦病院。同年9月頃タイまで下がれとの命令でタイのチェンマイまで移動したときに終戦を迎える。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E5%85%AC%E8%B7%AF
第七章 1944年5月24日(昭和十九年五月二十四日)、著者の所属する第三大隊はミートキーナ守備隊の指揮下に入り米英中軍と交戦したが、完全に包囲され日本軍側からは見離された形で死傷者が増えるばかりだった。同年7月中旬、守備隊は戦線を縮小した。
(ミートキーナ=ミチナ)
第八章 1944年7月(昭和十九年七月)、ミートキーナの日本軍陣地の中に突然、別の日本軍陣地を攻撃する部隊があった。同志討ちをやめさせようとそこに向かうと、その部隊は英国兵の部隊だった。この部隊12~13人は日本軍側の8人の肉薄攻撃班が全滅させた。
第九章 上の第八章の直後、英国兵の部隊が現われた地点の近くにあった部落のビルマ人27人を呼び出して全員殺害した。
第十章 1944年8月3日(昭和十九年八月三日)、ミートキーナからイラワジ川を渡って脱出する作戦が行われた。著者は順番が最期だと言われていたが、偶然にも別の船に乗って川を渡ることができた。

[1944年3月~5月2日:モールにて交戦。1944年5月中旬:ナムクインにて交戦。1944年5月24日~1944年7月下旬:ミートキーナにて交戦。1944年8月03日:ミートキーナを脱出]



○引用○

P232~268

第九章 虐殺

  1 非常命令

 ○○○連隊長は、○○○中尉から第三大隊が、連合軍の重機分隊を殲滅した詳細な報告を受けた。完全に撃滅したということで一応は安堵した。しかしその分隊が侵入してきたことは謎であって、日本軍の攻撃を目的としていたものか、或いは偶然に迷いこんできたのか何とも判断が出来ない。また残る疑惑はどの経路を辿って入り込んで来たかだ。何れにしても友軍の陣地内に潜入してきたことは容易な問題ではなく、とりも直さず防禦態勢に隙があったことを証している。侵入地点は北からか、或いは西南部か、○○○大佐はこの点を重視した。三大隊長○○○大尉の意見を糺し、○○○中尉と更に検討を続けたが、胸の奥底に或る疑惑が膨らんできた。やがてそれは次第に大きく凝結していった。
 一線陣地はあらゆる努力を傾注して、昼夜とも敵を一歩も寄せつけず、必死で抵抗している。どの地区の守備陣地も戦死傷者が続出して、隊と隊との警戒範囲は逐次広がってはいるか、それにしても今度のように敵の侵入を見逃すとはどういうことだ。しかも輓馬を曳いた重装備の部隊である。○○○大佐の考えとは、それはあくまで推測であるが、地理に明るい現地人が秘かに手引きをしたのではないかということだ。地形に精通している者なら、点から点に迂回して到達することは不可能ではあるまい。若し敵に内通するような人物がいるとすれば、それをどのように探知するか、これは難かしい問題だ。しかし再びこのような事態を防ぐためには、危険な人物を処断しなければならない。連合軍の侵入を防禦する方法の中の一つとして、○○○大佐が第三大隊長に示した結論は、或る非常手段であった。
 電話でその処理命令を受けた大隊長は流石に反論した。「あの部落は人員も少なく、今まででも敵意などはなく、そのような気配は感じられません。私の考えでは良民ばかりだと見受けます。こういう手段は後あとまで大きく尾を引くことになり、まかり間違えば大変なことになりましょう。国際問題ということも考えなくてはならないでしょう。中国戦線と違って友好国のことですからもう少し検討してみてはどうでしょうか、今の段階では私はその御命令はどうかと思います」そういう意味のことを具申して反対の意見を述べた。命令は絶対であるという原則にもかかわらずこのときはその根拠を強く主張した。
 しかし電話の向こうの○○○大佐の声は怒気を含んで、怒鳴るというよりも喚きかえしてきた。「今から調査をして判断するというのか、そんな生温《なまぬる》い判断じゃ駄目だ。今夜にでもまた侵入して来ないとも限らんじゃないか、貴公はそれが絶対無いと断言出来るか。今度でもあれだけ大騒ぎをしたのに、この次には二倍も三倍もの敵が入って来たらどう処置する心算だ。陣地の直ぐ横に今まで現地人を放置していたのは重大な手抜かりだ。そのために引き起こした問題じゃないか今言ったことはグズグズせずに直ぐ掛かれ。命令だ。こういう疎漏で守備隊全般に響いてくることを考えると、一刻も猶予している場合ではない。こう逼迫《ひっぱく》したときに後のことまで言っておれるか、この事についての責任は一切俺がとる。後のことは心配するな。三大隊は命ぜられたことだけを即刻、断行せよ、そのために○○○軍曹たちを残しておいたのだ。いいか、一人も容赦をするな。方法については一任する」否も応もなかった。敵の重機分隊を殲滅はしたが、三大隊守備徂当の陣地内での出来事だ。その失態を衝かれると大隊長には一言もない。不可抗力だとか、予想外だったというような弁明は一切通用しない世界だ。そしてその事後の処置を新たな命令として与えられた。こうして第三大隊は、誰一人として想像もしなかった事件処理を背負うことになった。

(中略)

  3 白昼の悪夢

 定められた時間ごろになると、住民たちがバラバラに集まって来た。午后の砲撃は終わっていたからもう安心していた。思い思いの容れものを携えて喜々としていた。誰も私か伝えた言葉を疑っていない。それどころか私の顔を覚えていて、笑顔を見せる可愛い娘もいた。杖をついた老母が通り、嬰児を横抱きに乳房を含ませた若い女房や、若い青年もいた。子供たちは、はしゃいで樹の下を駆け回った。どれも形ばかりの衣服をまとい、例外なく素足であった。誰もが着のみ着のままの極限に近い困窮に堪えていたのであろう。私は○○○兵長に部落に急いで行き、残っている者がいないかどうかを調べるように言い付けた。全員の集合を確かめて大隊長に報告するまでは、私の仔務は終わらない。「全員が集まってしまうまで暫く待ってくれ、それまでにもし飛行機が来ると危いから、そこの壕の二つに入って待つように、全員が揃ってから品物を渡す」私は区長を呼んでそのように指示をした。区長は頷いて皆に伝え、彼等は言われた通り、何の疑いもなく二カ所の掩体壕の中に入った。後から少し遅れた者も加え、数えると二十七人揃った。
 ○○○兵長が帰って来て、もう部落には誰も残っていないという。「全員の集合を終わりました。確かに二十七人居ります」大隊長に報告すると、「よし判った、壕の中から一人も出すな、厳重に監視せよ」そう言うと陣地の真ん中に突っ立った。「全員そのままで聞け、○○○伍長以下は二ヵ所の壕の前に軽機を据えよ、○○○曹長の組は合図をしたら五人ずつ引き出してあの樹の下に連れていけ、途中で逃がすな、訊問は俺がやる。○○○軍曹の分隊は一列横隊に整列、二人一組で一人を射つ。慎重に狙え、残余は副官の指示に従い周囲を警戒、逃げる気配が見えたら突き殺せ、全員、着剣!」大隊長はテキパキとぬかりなく、各部署に対して指示を与えた。
 今、大隊長が企図した処置方法が明らかになった。銃殺するのだ! 全員を。この方針は私か呼ばれる前に、既に副官や○○○曹長と決めていたのだ。あまりのことに私の総身は粟立った。私たちは今までに捕虜の首を刎ねた、陣地の中の敵を手榴弾で粉砕した、助命を乞う敵兵の胸を銃剣で貫ぬいた――。しかしその何れも混戦中の出来ごとである。これらの行為は敵と味方の立場においてのみ生じる、戦闘間の常套のことであった。私自身も無我夢中の状態でそのような行動をとって来た。そうしなければ自分の命が失われるからだ。しかし今度のことは違う。総てに衵反する。敵愾心もなければ憎悪も湧いてこない、何の罪もない人々が今殺されようとしている。無抵抗のまま、確とした理由もなく。けれどもこうなった以上、最早や止める何の手段もない。紛れもなく既に私は、残忍な兵士の一人に加えられている。敵兵侵入の結果は、連隊長の命令によってこのような成行になった。そして仕組まれた筋書を、充分知らなかったとは言え、現地人に甘言を用いて集合させた私の罪も非常に大きい。何とも名状しがたい感情が胸をたたきつけた。
 「○○曹長、右側の壕から五人、あの樹の下に連れていけ、壕の監視は後の入口に気を付けろ、逃げ出す気配があったら突け、掛かれ!」何の疑いもなく子供の手を引いた区長夫婦に、幼児を抱いた女と、若い男の五人が出て来た。若夫婦のどちらかが区長の子であろう。子供たちは孫だろうか、樹の下に並ばせられ、大隊長が早口で詰問した。英語である。「お前たちの部落の者は皆イングリシュのスパイだ。それで処分する」言葉の意味は判らなくても彼等は異常な雰囲気に気付いた。口々に何か叫んだ。区長は両手を合わせて嘆願した。しかし既に遅かった。兵隊たちがさっと退き、前面に構え銃をした銃口が集中していた。「射て!」断固とした号令が怫然として総てをかき消した。パン、パン、パン、パン小銃の音が軽く響いた。五人が一様に膝をこくん[#「こくん」に傍点]と折り、ゆっくり思い思いの方角に頭を向けて地に伏した。胸に抱かれた幼児と共に、六人の生命は瞬間にして消えた。倒れる前の一瞬、区長の眼に怨嗟の色を見た。銃声のみが虚にひびき罪なき人々は散った。別の兵隊が七、八人駆け寄ると殪れた死体を、ひょいと持ち上げて後の交通壕に落した。足許の雑草が何事も無かったように風にそよいだ。
 この間何分もかからなかった。あまりにもあっけないシーンであった。まことに簡単な行動であり、これ以上省略すべきことは何もないように思われた。瞬きすれば見落してしまいそうな出来ごとだ。号令の外は誰も沈黙している。少しの間、静寂が流れた。並んでいた兵隊の間からざわめきが起った。それは銃殺のためではない、一人の若い男が壕の裏の上部から逃げ出したのである。掩体壕の上部には小さい空気抜きの穴を作る。銃殺の方に気をとられた隙に、常識では考えられぬ裏側の小さい穴から、猿のように身をくぐらせたのである。男は懸命に走った。二〇メートル、三〇メートル、青いロンギー(腰布)が翻って足の裏が白く見えた。四〇メートル、五し走り、角度を傾おけると泥の中に頭からのめり込んでいった。また一人の生命が消えた。
 住民たちは集まった時までは当然のことだが日本軍を信頼していた。食物を与えてくれるという我々を救世主のように思っていただろう。しかしそれが窮屈な壕に押し込まれたままになったとき、新たに危惧が生まれた。若い男が何となく不審を感じたとき、数発の銃声が聞こえた。反射的に危険を感じ、それが常識外の力となって脱出を可能にした。連れ出された六人が消えて、脱出を図った彼を待っていたのも矢張り死であった。住民が日本軍の行動を感じ取った以上、早急に処置を急がねばならない。「両方の壕に手榴弾をたたき込め!」新たな命令が出たとき、その残酷さに挑戦する如く、豪雨が沛然と打ち付けてきた。「急げ!」ニカ所の壕の、入口と空気穴から数発ずつの手榴弾が投げ込まれ、兵隊は身を伏せた。入口にいたらしい二、三人の男女が走り出たが、軽機関銃が仆《たお》した。轟音が続けざまにひびいて、掩体壕の上部が崩れ落ちて壕は完全に沮れてしまった。死が何であるかも判らぬような子供たちを含んだ二十数人の命を呑み込んだままに。
 深い交通壕に並べられた六人の屍体は激しく降る雨にたたかれて、手足が白く見えた。天地は晦冥して、あたかも身を震わせて号泣しているように感じられた。瞋恚の炎に燃える林の中は、許されぬ怒りに包まれていた。それは灰色に塗り込まれたおどろおどろとした白昼夢のような出来ごとだった――。

 *戦後の巣鴨で、この件について、何人かが進駐軍から取り調べられている。



P268~269

  2 戦争の真実
 この草稿が出来上がって、五、六人の戦友が回し読みをした。そして今更冷酷な隊長、自殺した兵のこと、部落民の殺戮などを晝かなくてもよいではないか、という反論が出た。理由はそれなりに一理かおる。しかしそれでは真実を永久に覆い隠すことになるのではないか、到底戦争の実態とはいい難い。真実を知って貰うことが、戦死者の冥福を祈ることにつながるのではなかろうか――と判断した。
 そう考えて反対の意見もあったが、一切を削除しないことにした。だから山田一等兵(仮名)の自殺は南支での出来ごとだが敢て挿入した。これも当時の銃後の大にとっては、想像外のことではなかったかと思う。
 話は別になるが、日本軍が日中戦争で南京攻略を始めたころから、残虐性を云々されたが、これは果して日木軍だけに限られたことなのか――。我々は南支で正規の中国兵や、ゲリラ隊と交戦した。後にはビルマでもフーコンや雲南戦線で戦い、或る程度の残忍性を知った。アメリカ軍とは直接にビルマで交戦しなかったので、その点については知らない。では紳士《ジェントルマン》の英国軍隊はどうであったか――。
 二十年三月、中部ビルマの要衝メークテーラーに、英軍の機甲部隊が雪崩れ込んで来た。乾期で灼け付いた赤土が、岩のように固くなっている平原だった。ここで菊・狼・勇などの兵団が迎え撃ったが、何れも全滅に近い打撃をうけて敗退した。このとき不幸にして敵の手中に落ちた負傷兵や、捕虜になった日本兵を彼等はどのように処置したか? その方法や実状を、私はとても口や筆にすることは出来ない。突入して来たその英軍部隊が、いかに日本軍に対して報復的な憎悪を抱いていたとしても、どの国の軍隊でも到底なし得ないような残虐非情さで、捕虜と負傷兵に対処したのである。そのときの手段は、今になっても総身が震《ふる》うほどの怒りか湧き上がってくる。戦場という殺伐さが異常心理を生み、そのような行為となって現われる。人道と平和を標榜する英軍部隊でさえ、戦場ではこのように変貌していった。これも今ならまだ目撃者もいるが、先になるとそれを証明する者も無くなるだろう。そうして総べてが風化して消え去る。戦争とはあらゆる人種の人間性をネジ曲げ、抹殺してしまうものなのだ。ドイツの“アウシュビッツ”のように、また旧満州ソ連軍のように。
 故に私はなお戦争を憎む。永久に――。










○索引○
010 昭和十七年の秋、私たちの部隊(菊兵団)は北部ビルマ一帯の警備に就いた。 私が所属する中隊はロントン
と呼ぶ地区に派遣の命令が出たが ホーピン
012 インドウジ湖 モガウンに在る大隊本部
013 慰安所 連さん
014 女性の裸体画描き 美術学校出身者 そうした駐屯生活が四、五カ月も続いたとき、通信班が新たな命令を受け取った。”西北方一三〇キロの分岐点に、別名あるまで一箇小隊を派遣すべし”というものである。
015 その分岐点はエボミーと呼ぶ小さな部落
018 塩分不足
021 そのような辺境の駐屯小隊は三週間毎に、ロントンの中隊本部からの交代で引き揚げるのだが
022 ウィンゲート挺進隊が侵入した時期 昭和十八年の初めである。
023 英人の生首
024 空軍中尉 チャールズ チタゴンの飛行隊
025 それから更に二、三カ月ほど経ったときエボミー駐屯小隊は参謀部の命令で、ビルマ最西北
026 のこの地域から撤退した。
027 我々の部隊は山奥の警備地から移動して来て、モウガンの町に駐屯した。 そのころ(昭和十八年春)モガウン地区には膨大な軍需品が秘かに集積されつつあった。
036 モガウン守備隊は全滅した
038 我々の部隊(歩兵第百十四連隊三大隊)はラシオ鉄道沿線の小さな町、チャウメに駐屯していた。
039 警備隊の任務は二週間くらいの間隔で、附近の水源地や鉄橋の警備、それから対空監視哨に出て行くくらいで割合のんびりしていた。
045 この村の名は”センイワ”と呼ぶが
052 この重要な地点をゴクテークの鉄橋と呼び、私の属する歩兵第百十四連隊の第三大隊が警備を担当していた。
066 「指揮下の部隊より乙装備の二箇小隊を編成して現在地を出発し、行軍によってラシオに向かって前進せよ。該地に到着後は直ちに反転、再び出発地に帰営すべし。行動期間は二週間以内とす。」
069 支那のときのように徴発もでけんし シャン州は 牛乳をタップリ入れてくれるインド人のコーヒー店の前には慰安所もあって、 第一装
072 いくらかの軍票 徴発 四本の樹を全部伐り倒し
075 ラシオ
078 山羊 そう思った森野兵長は拳銃を抜くと一発で射ち殺した
082 慰安所 チャウメ
086 『ビルマ路の心臓を衝く』伊藤知晄 昭和十四年頃書かれたもののようだ ラングーン バーモ イラワジ河
088 モンミット 鉄道終点のラシオの手前、一五〇キロのチャウメの町に昭和十八年春から我々の部隊は、軍直轄部隊として附近の警備に就いた。その年の夏、軍司令部から新しい命令が出た。北方一五〇キロの地点モンミットに一箇小隊を駐留させよというもので、任務は兵補募集であった。
094 グルカ兵 ウィンゲート挺進隊員
095 兵隊たちの銃剣に消えた
096 ナツム鉱山 安宅産業と言った記憶がある 私がそのコースを往復する任務は昭和十九年の初めで終った。
107 福和墟と呼ぶ部落
109 失禁
113 特高だったという曹長
114 南支広東省 増城県福和墟
117 我々の部隊は昭和十九年三月、モールの英軍との戦闘で、初めて敗北の悲惨を思い知らされた。
118 玉井勝則 火野葦平
119 第二次チンディッド作戦
120 シャン州附近を警備していた歩兵第百十四連隊の第三大隊が、連隊本部のあるミートキーナに集結を命じられたのは十九年の二月末である。
122 昭和十九年三月二十二日の暁にはまだ少し間があった。
125 広場の隅に何人かの日本兵が両手を縛《くく》られて、それを英兵が銃剣で順番に突き殺すのが見えた。 地獄絵
129 ジョホール水道
135 自爆
140 B24
143 毒ガス
145 第五十三師団(安兵団)
148 藤井重夫氏著の『悲風ビルマ戦線』
152 「御苦労であった。命令を与える。当ナムクインに英軍部隊が出現した。第三大隊はこの敵を殲滅せよ」
158 鳥取連隊 京阪地方出身者
160 龍兵団の脇山大隊
164 中国の督戦隊
177 カドの菊第三野戦病院
179 モウガン
180 ここは昭和十七年の暮から十八年の五月まで、第三大隊が警備していた懐しい町である。
181 ナムクインで戦闘 フーコン
182 安兵団
185 第三大隊がミートキーナに到着したのは五月二十四日の朝で
188 ――もう七月に入っていたと思う。
189 ホーピン
193 安兵団 ホーピン
194 ロッキード イラワジ会戦
196 強盗
198 兵補 軍服装の朝鮮人 狼兵団
199 「淀部隊」 拉猛(※「拉孟」のまちがいか?) 騰越 龍陵
209 連隊本部の附近には商売が駄目になった慰安婦の妓たち十数人が避難してきて、前線に運ぶ握り飯などを作るのを手伝っていた。
210 東京音頭 祇園小唄 佐渡おけさ 既に五月下旬から雨期に入っている。
211 野戦病院と言っても名だけのもので ゲリラの土民
212 博多人形師  手足の《も》げた人形 禿鷹  第三十三軍の本田軍司令官
213 これは連隊本部附近に避難している慰安婦が握ってくれているという話だ。
214 ノンタロー島
215 七月の中旬ごろ守備隊は戦線を縮少した。
217 七月の中ごろ
219 七月の中旬ごろだ。
220 憲兵分隊
226 レコード マイク
228 誰でも靖国神社に行き度くないのは同じだ。
242 戦後の巣鴨 進駐軍
243 七月の末、守備隊長水上少将はミチナの放棄を決意した。
244 第一線の各陣地に、転進命令が伝わって来たのは、七月末日の夕刻から、八月一日の早朝にかけてである。
246 懸賞金 手榴弾を渡した
247 我々の部隊が転進を指示された八月三日の朝が明けた。
254 ”葉隠れ精神” 或る隊で乗船順位のことで逆上した兵隊が、指示をしている下士官を射殺したと言うのである。 殺伐な話
259 「手を離せ、離さんと斬るぞうー」と言うなり軍刀をすっと引き抜くと、いきなり延びている腕の何本かを次々に叩き切った。 「ギヤァー」 悪鬼羅刹《あっきらせつ》
266 ペグー山系 策集団 髪を短く切った看護婦 看護婦の何人かが力尽きて流されたという悲惨な話
267 私の従兄
268 斬込隊 英国の機甲部隊
269 菊・狼・勇などの兵団
270 右肺の切除手術 丸山豊先生
271 『月白の道』 品野実 『異域の鬼』

※本記事は「s3731127306の資料室」2015年01月28日作成記事を転載したものです。