『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「当事者が書いた強制連行」(1999年、鄭皙仁、彩流社)

○目次○

第一章 「強制労働収容所」 011
  罪なき囚人   012
  監獄タコ部屋   016
  放水路の作業現場   019
  セメント運び   023
  生き埋め   027
  豪傑タコ   030
  脱走計画   033
  追い回し   036
第二章 降伏を拒否 041
  反抗の代価   042
  視察のまえぶれ   046
  再びタコ部屋へ   053
  第三トンネル   056
  土砂投げ捨て場   060
  姉の手紙   067
  新入りの十一名   071
第三章 タコ部屋初のストライキ 077
  集団抵抗   078
  不意打ち   082
  収拾策   089
  鎮圧対策   099
  警察隊出動   103
  自由労働   108
第四章 日本の法廷に立つ 113
  特高の誘導   114
  札幌刑務所   118
  恩師   123
  裁判   127
  判決言い渡し   136
  あー自由   138
第五章 軍部の陰謀 147
  寝込みを襲った憲兵   148
アイヌに助けられる   153
  就労   163
  初恋の人との出会い   167
  ラブレター   172
  押しの一手   179
  母の思い   185
第六章 燃えあがる憤怒 191
  反乱   192
  徴用令状   197
  徴用解除   202
  復讐   206
  煙たい人   210
  岩見沢へ   214
  鉄道現場   218
第七章 我が祖国、朝鮮半島よ! 225
  強制送還   226
  博多港   232
  帰国   236
  五十年ぶりの北海道   241
あとがきにかえて 249



○概要○
※「概要」では、語り手の鄭晳仁氏を「鄭氏」と省略させてもらった。
※本書で実名が書かれているところは一部をのぞいて伏字にした。
※本書を読んでもらうため、具体的な記述の多くをあえてはぶいた。

第1章(1942年05月~1942年08月?)
・1942年05月初旬、97名と共に強制連行された。ソウル(当時の「京城」)の龍山駅→釜山→下関→青森駅旭川駅→東川村→北海道上川管内の東川村字江卸、という道筋で現場に送りこまれる。青森駅から逃亡防止の見張りがついた。
・初日に10人1組に分けられ、タコ部屋に入れられた。到着初日から棒頭(現場監督)以下20人から服従させるための「洗礼」として殴る蹴るの暴行を受ける。この暴行は1週間続いた。最初は放水路工事。
・タコ部屋の実態:逃亡防止策あり、粗末な食事、現場での暴力、過重な労働(15時間)、リンチ、自由行動の制限(手紙も出せない新聞も読めない)、強制貯金、現場のみでしか使えない「金権」などなど。[詳細は本書にて]
鄭氏は特に何かにつけて暴力を振るう監督たちに反発心をもったようである。
・強制連行→強制労働→生き埋め事件→「豪傑タコ(タコ常習)」の脱走事件→鄭氏の脱走計画とその発覚→鄭氏の「追い回し」への反抗事件→反抗の制裁としてリンチをうける→[第2章へ]

第2章(1942年08月?~1943年05月)
[第1章から]→リンチを受け倒れる病院へ送られる。これは現場視察が予定されていたから行われたと鄭氏は推測する。この病院にも見張りがついた。この入院中、姉に手紙を出す。→一ヶ月後、退院しタコ部屋に戻る。→体力がついてきたのか、棒頭たちへの反発を糧にしたからか、仕事に遅れることはなかった。→1942年11月頃、隧道トンネルに鄭氏を含む100人が送りこまれる→同期の朝鮮人労働者から、朝鮮人労働者者の事故死とその死体をセメント樽につめて土砂捨て場にほうりこまれたことを聞いた。→1943年02月半ばの夜間作業中日本人技師生き埋め事件→1943年04月ごろ、放水路工事の現場に送り戻される。→入院していたときに出した姉への手紙の返事がとどく。→親方の態度が甘くなる→3ヶ月ほど事務補助をする。このときタコ部屋のいろいろな情報を得る→1943年05月初旬、新しく111人の朝鮮人労働者が連れてこられる。→鄭氏は同じタコ部屋に配置された11人の朝鮮人労働者を仲間にして集団反抗を計画する。

第3章(1943年05月~1943年06月?)
新入り11人が入って4日目に集団抵抗を決行する。[詳細は本書にて]→警察隊が来る。このとき要求を渡す。→警察隊が帰って2日後、憲兵隊が来て「自主管理を認める」と呼びかける。→自治体制になる。→10日間、十勝の現場で働く。→江卸の現場に帰った時、特高の刑事がいることを知らされる。

第4章(1943年06月?~1943年09月)
1943年06月ごろ、刑事にだまされて札幌刑務所に閉じこめられる。ここで「監房長」という人に会い、いろいろなことを教えてもらう。[詳細は本書にて]→札幌刑務所に閉じこめられてから約3ヶ月後、一度も調書を取られることなく裁判を受ける。鄭氏と弁護士の弁論がすぐれていたためか懲役六ヶ月、執行猶予二年の判決を受ける。→判決の翌日、釈放。→その後、支援をしてくれた人達へのお礼をかねて江卸の工事現場に戻る。しかしそこで施行社や特高刑事の怪しい動きがあることを教えられる。

第5章(1943年09月~1945年01月?)
江卸の工事現場に戻って2、3日後の夜、鄭氏の夢に鄭氏の母が現われて「早く起きて」と危険を伝えてくれた。そこで起きて便所に行くと、憲兵たちが来て集団反抗の中心人物11人を拉致してしまった。鄭氏はその場から逃げだした。→捕まらないように山中を3日3晩逃げる→山を下りようとした時に熊と遭遇するも、なぜか熊はそこを立ち去る。→熊遭遇事件の直後にアイヌのおばあさんと会い、アイヌの集落で10日間世話をしてもらう。また、アイヌの古老からアイヌのことについていろいろと教えてもらう。ここでアイヌの文化に偏見をもたず感銘をうけたのは鄭氏の人間性によるものだろう。[詳細は本書にて]→アイヌの古老が紹介してくれた日東鉱山(クローム鉱)で働く。→日東鉱山で「島牧」という場所にある鉱山を紹介してもらう。特高につかまらないように遠くへ行きたかった鄭氏は「島牧」に行く。→西島牧の永豊鉱山(マンガン鉱山)で働く。ここで1年以上をすごす。ここで「光子」という人に恋をする。[詳細は本書にて]

第6章(1943年09月?~1945年06月?)
鉱山幹部の配給に関する違反を指摘する。→(1945年09月頃と推定)鉱山側から報復として根室の牧の内飛行場建設工事に徴用されるようしむけられる。→徴用から3ヶ月後の1944年12月、過重労働で倒れる。→そのまま徴用解除で鉱山に送り返される。→鉱山側の報復に憤慨して鉱山事務所などで大暴れする。→1945年03月、「鈴木組の組頭」の紹介で岩見沢の鉄道現場に行く。→岩見沢の鉄道現場にて雪かきの仕事をする。

第7章(1945年06月~1945年08月15日~~1992年05月)
1945年06月初旬、「本籍地入隊」として強制送還をうける。→[岩見沢→大阪→神戸→下関→博多→釜山→仁川の実家]→強制送還は鄭氏の祖父の指示と知る。そのまま実家にいて、1945年08月15日の敗戦を知る。
[1945年08月15日~1992年05月までのことは本書にて] 
1992年05月08日、北海道の僧侶の招待で再び北海道に行く。
ここで以下のことを知る。
・初恋の人「光子」は別の人と結婚し、孫を持つ身になっていた。
・調べに行った裁判所と検事局から、鄭氏の受けた裁判記録はないといわれた。
・札幌市立図書館で調べた結果、集団反抗事件の時期の新聞が「欠」となっていた。
・東川村には中国人被害者の慰霊碑はあるが、朝鮮人被害者については慰霊碑はおろか記録も残っていなかった。


●非常におおまかな概要●

[強制連行→東川村江卸のダム工事で強制労働とリンチ→集団反抗→自主労働へ→逮捕と裁判→仲間11人の拉致と自身の逃亡→アイヌの人たちに助けられる→東川村から西に数百キロ移動して永豊鉱山で働く→初恋→鉱山側の陰謀で徴用をうける→徴用解除ののち鉱山で大暴れ→別の鉄道工事現場へ→朝鮮半島へ強制送還→敗戦]


映画でもあつかってくれなさそうエピソードの数々だが、すべて事実だという。




○引用○

P130~133

 被告等の調書がないがため、裁判長の審理も的確な質問を出来ない。これをねらって警察も検事も私たちの調書を取らなかった。奸計の底を見るようで、警察と検事を憎む思いがいっぱいとなっていた。
 被告の陳述調書もなく事実審理を進行している裁判部の苦衷を私は思いやられた。
 「よーし、俺の供述でやってやる。今に見てろ」と力んでいた。
 被告十一名の審理方法も被告の答弁も型を押したが如く大同小異のものであった。傍聴人達の興奮も極限に達し、法廷は騒々しかった。
 十一名の審理を終えた裁判部は最後の常理となっている私の番であった。
「被告、河東正春。」と呼び出された。
「被告、河東正春、被告はその日どんなことをしたか。」とオームがえしの審理質問であった。
「ハイッ、被告河東正春、良心に問い、恥じざる事実を申し述べます。われわれは日本の戦争勝利のため産業戦士となって徴用され、寒冷地の北海道へ強制連行されて参りました。前金をもらい使って身を売った日本人タコとは違います。
 しかしながら、タコ部屋の○親方とヤクザくずれの手下二十名はわれわれをタコ部屋に閉じ込め、鮮人タコと呼び、けなし、島国根性を丸出しにして、民族差別も露骨に蔑視、虐待、奴隷の如く酷使しながら、絶対的服従を強要し、こん棒で殴りつけ、土下座させ無制限の暴力をわれ等にふるいました。
 私は昭和十七年(一九四二)五月、十七歳の年で、叔父の徴用代理勤めを請負い、昭和十八年(一九四三)六月警察に誘導され、刑務所にぶち込まれるまで、満一年間以上を奴隷の如く酷使された者です。私はドロ押しの作業中、追い回しという○の手下に早くドロを押さんかと尻を針で刺されました。この追い回しは棒先に太い布団縫い針をねじ込み、ドロを押すわれわれの尻を突つかんばかりに脅かし、死の行進を余儀なくされました。
 不死身と言えども人間の体力には限りがあると思います。芯が疲れて動けない状態となっているにもかかわらず、怠けていると言って、私の尻を思いっきり刺すのでした。戦争勝利のための産業戦士、徴用に応じたわれわれに対し、もてなすところか針を刺すという行為に対し、私は憤怒のあまり、
「オイッ土方、お前も人間か。」と詰問しました。ところが、それが反抗だ。タコ部屋の反抗に対する見せしめだといい、○の手下二十名からなる袋叩きに、参ったと言わないばかりに、あまつさえ私は半殺しにされました。
 私は炎症をおこし四十度の熱をだし、身動きならぬわが身を三尺の縄モッコの中にいれ、担ぎ出し、作業場の裸地に転ばされ、患わせる彼等、薄情極まりない畜生等を人間とはどうしても思えませんでした。」と供述をしていたが、法廷は水を打ったようにしんと静まり、傍聴席の中から、
「土方って人間でないわ。戦争勝利のために来たと言う徴用者をどうしていじめられる。日本人の恥さらしだよね、これは。」という声が聞こえてきた。
「土方の蛮行はそれだけではありません。私の徴用同期の○○○は重労働の酷使に耐えられず作業場に倒れ病となりタコ部屋の中で闘病中でありましたが、非人道的な彼等は薬一粒与えるのではなく、部屋に病人が居ると部屋の雰囲気が陰気臭くなると言って、病人を部屋の外へと引きずり出し、土に穴を掘って、病人○○○を生き埋めにしました。」と供述するや、
「ひどい。聞いていられねえ。病人と言っても生きた人を埋めるなんて。」と泣き出す婦女子等の傍聴客もいた。
「私も同期のように生き埋めにされる運命とあきらめておりましたが、天佑神助か、東京のお偉方の視察の前触れとなって、東川の医院に入れられ一ヶ月の加療を受け、こうして被告となっております 土方の親方とヤクザくずれの手下等はわが徴用同期の事故死となった四名の亡骸を真っ二つに折り畳み、棺桶のかわりにセメント樽に詰め、蓋を閉めて釘を打ち付け、トンネル掘削の掘り出し上の捨て場に埋めもせず投げたのでした。
 私の彼等に対する恨みはわが身の心にも、わが身の骨の隅まで焼き付き、深く刻まれています。私は死を覚悟し、その日先頭に立って、土方等に飛び掛かりました。
 私は力のある限り、蹴り、殴り、張り倒してやりました。このような状況の中で数えて殴るとか、計算をして蹴るとか、とてもそんな事はできません。
 裁判長殿、供述のついでに一言お願い申し上げます。私は彼等に怨みがあってした事でした。制裁を重くなされても悔いはしません。
 ただここに入る十一名は入所わずか四日しかならない者達で、彼等に怨みなどあるはずがありません。私に同情し、付和雷同したばかりの十一人。寛大なる処分をお願い申し上げます。裁判長殿、以上でございます。」と供述を終えた。



○索引○
012 昭和十七年(一九四二)五月初旬、労務徴用の集合場所は 京城(現在のソウル)の龍山駅前の広場であった。
013 日本発送電株式会社
017 タコ釣り
019 いささかの悪感情などいだいたことはなかった
021 実に十五時間の重労働
024 セメント樽
026 一週間を期限に新入りの気合入れはいったん中止となった。 囹圄の囚人
027 七月半ばの頃であった。
028 「片づける」 こん棒を脳天に食らわし
029 親方発行の金権
030 このような勇ましい男をタコ常習と呼ぶ
036 酷使に蔑視の生活も三ヶ月と折り入る頃
038 堪忍の緒が切れて
047 平成四年九月聴取、平成四年十月死亡)
049 「だって朝鮮の人が日本人のように話せるのですか?」
052 早速手紙を書き、未納にて郵便屋へ出して
053 入院加療、ちょうど一ヶ月
054 親方の頭だと思えば棒頭のはらわたと思い
055 鈴木のタコ部屋に送られて
056 朝鮮人蔑視を当たり前と思うのがけしからんと憤慨した。
057 四人が死んで、今は六名
058 突然天井が崩れ
059 谷間の墜落死
062 決意を新たにしながら鈴木部屋に来てはや3ヶ月
063 施行社の技師と監督等が
067 日本人タコも満期となったのか見当たらなかった。
066 昭和十八年(一九四三)二月の半ば、第三トンネルの隧道のコンクリート打ちつけ作業中、施行社の技師が一人行方不明になっているはずである。
067 四月の半ば、放水路工事が再開となって、私を含む徴用同期十名は○○親方の部屋へと復帰した。
070 (朝鮮人)の事務補助
071 昭和十八年(一九四三)五月初旬
073 東郷平八郎提督 忠臣蔵
074 彼等が君らをいじめているのは君らを奴隷化するための策略の一つなんだ
075 現役の拳闘選手でした
081 新入りが入所して三日目の夜
086 日本人タコ等は一人も残らず皆が立ち去っていた。
093 集団抵抗の趣旨
099 ざっと見ても一千名以上であった。
102 モンテクリスト伯
103 予期していた鎮圧のための警察隊、約百余名が三台のトラックに便乗し施行社事務所の前に到着したのは昼頃であった。
105 警視に文書を手渡した 各社の新聞記者は熱心に取材 阻止組の石投げが開始された
107 警察が撤収し二日が経過した午前十時頃
108 兄弟二千余名を救う解放 これが昭和十八年(一九四三)五月の半ば、陸の孤島、江卸発電建設工事作業場の朝鮮人暴動、騒動の事件と報道された事件の全容である。
110 徴用年期もあと十ヶ月 私たち十名は十勝の拓殖鉄道トンネル工事場へと行くことになった
111 派遣十日目に鉄道トンネル掘進作業は一旦中止となり
115 ボクサーは脳みそ足りずであった。 騒動事件を起こし、もはや一ヶ月を経過している。
119 独房の中での十日間が過ぎ、十一日目の午前十時、看守は独房の扉を開き
121 囹圄の身となって百日余り。
128 公判確定の日は明けた。昭和十八年(一九四三)九月の半ば頃と記憶している。
134 判決言い渡しは七日後、この法廷にて言い渡す」
138 三ヶ月余の拘置所暮らしで、日本の社会相をいささか分かるようになった
139 翌日の朝、午前十時、私たち十二名は札幌刑務支所から釈放された。
139 九月下旬の自然
142 同僚等の歓待の中、二、三日が瞬く間に過ぎ去っていった。
148 時計の針は午前二時を指していた。
152 三日三晩この山の中を捜索出来るものではないであろうと思い、よーし山を下りようとした瞬間、熊と出会う不祥事
162 古老の家にいた十日間 君のために当ってみたが
166 旭川、滝川、岩見沢、札幌を経て小樽、倶知安を通過し、目的の駅、黒松内で下車した。 島牧はまたこの黒松内からバス便で四時間もかかるところで、泊港寿都と海岸沿いの細い道をバスに揺られながら、やっと西島牧の永豊町へ着いた。
169 昭和十八年(一九四三)の大晦日
170 この山に来て、はや六ヶ月、十九の春となっていた。
177 『吾が輩は猫である』 昭和二十年(一九四五)正月元旦。
180 カーバイト
199 令状には根室の牧の内飛行場建設工事場行きの差し出となっていた。
202 徴用となって三ヶ月、一二月に入る頃
208 「なにっ、この生意気な、朝鮮人のくせに。」
209 貴様が巡査であろうとも陛下に楯突く怪しからん奴は容赦しないぞ。」
215 昭和十八年の末から十九年の間の足掛け三年にわたりこの山で暮らした。今は二〇年の三月、
218 一メートル五十センチほどの除雪作業
226 終戦間近の昭和二十年(一九四五)六月初旬の頃であった。
233 狂気の沙汰としか思えない予科練の乱れた姿であった。
234 人間爆弾
235 昭和二十年(一九四五)六月の半ばのこと
236 仁川に帰って、一ヶ月余りが過ぎた一九四五年八月十五日、呪われた第二次世界大戦天皇の降伏放送で終止符が打たれた。
242 一九九二年、東亜日報に載った「強制徴用朝鮮人に謝罪します」の記事が契機となり、北海道の妙法寺の住職沢田寛徳氏を知るようになった。 妙徳会の招待で一九九二年五月八日怨恨の地北海道を訪れた。

※本記事は「s3731127306の資料室」2015年01月29日作成記事を転載したものです。