『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

再読したもの NHK「戦争証言アーカイブス」収録の日本軍衛生兵・軍医など20人以上(追加あり)

戦争証言アーカイブ

「日本兵の遺体解剖」|戦争|NHKアーカイブス

Kさん(【陸軍軍医の戦場】収録)

1921年
三重県飯南郡河内村(現・松阪市)に生まれる
1934年
大河内第一尋常小学校卒業後、名古屋の羅紗問屋で働く
1942年
現役兵として独立歩兵第13大隊に入隊。中国山西省太原を経て路安陸軍病院に配属
1945年
路安陸軍病院にて終戦を迎える
1946年
復員 農作業衣や裁縫用品の卸売業を営む

「行き倒れる傷病兵」|戦争|NHKアーカイブス

Oさん(【陸軍軍医の戦場】収録)

1918年
神奈川県足柄下郡吉浜村(現・湯河原町)に生まれる
1936年
東京医学専門学校(現・東京医科大学)入学。在学中より陸軍軍医依託生となる
1942年
陸軍軍医学校入校
1943年
11月、歩兵第213連隊に配属
1944年
シンガポールを経てビルマ
1945年
ビルマ(現ミャンマー)で終戦
1946年
復員 日本鋼管病院に勤務後、開業医に

「生体解剖に立ち会わされる」|戦争|NHKアーカイブス
Iさん(【陸軍軍医の戦場】収録)

1921年
山梨県中巨摩郡落合村(現・南アルプス市)に生まれる
1942年
召集され中国戦線へ 衛生兵となる
 
支那方面軍 甲1420部隊に配属
1945年
中国・北京で終戦を迎える
1947年
5月復員 農業を営む

「山西軍に加わった日本軍」|戦争|NHKアーカイブス
Kさん(【中国華北 占領地の治安戦 ~独立混成第4旅団~】収録)

1925年
兵庫県有馬郡(現・三田市)に生まれる
1939年
鉄道省大阪駅に就職
1944年
11月姫路中部第46部隊に入営後、中国山西省の独立歩兵第14旅団独立歩兵第243大隊に配属
1945年
衛生兵となり、5月、旅団司令部軍医班へ転属。中国山西省路安(ロアン)(*「路」は実際には「さんずい」に「路」)で終戦山西省に残留し、山西軍(閻錫山軍)へ参加
1946年
5月復員 大阪駅に復職、後に国鉄職員に

「変わり果てた兵士たち」|戦争|NHKアーカイブス
Hさん(【南太平洋“軍旗海没” ~兵庫県・篠山 陸軍歩兵第170連隊~】収録)

1921年
東京都大田区生まれ
1939年
高輪中学校卒業
1942年
補充兵として近衞野砲兵第1連隊 入隊
 
衛生兵として東部ニューギニア
1945年
ニューギニア・ウェワクで終戦を迎える
1946年
戦後は家業を継ぎ機械部品の工場を経営する

「沈没したぼすとん丸」|戦争|NHKアーカイブス
Wさん(【南太平洋“軍旗海没” ~兵庫県・篠山 陸軍歩兵第170連隊~】収録)

1921年
東京都港区生まれ
1933年
青山小学校卒業
1942年
補充兵として近衞野砲兵第1連隊 入隊
 
衛生兵として東部ニューギニア
1945年
ラバウル終戦を迎える
1946年
復員、海産物の卸問屋を営む

「口をつぐんできた66年」|戦争|NHKアーカイブス
Kさん(【陸軍軍医の戦場】収録)

1924年
三重県度会郡小川郷村(現・度会町)に生まれる
1945年
1月、現役兵として歩兵第68連隊補充隊に入隊。中国山西省路安へ
1946年
復員 農業に従事

「毎夜の斬り込み攻撃の恐怖」|戦争|NHKアーカイブス
J・Mさん(【フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~】収録)

1943年
19歳のとき陸軍に入隊
1944年
第511降下連隊第1大隊に配属
1945年
ルソン島終戦を迎える
 
戦後、豪州で働き、1949年米国に帰国 ACF Industriesで安全ディレクターに

「注射で安楽死される傷病兵」|戦争|NHKアーカイブス
Sさん(【フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~】収録)

1921年
山梨県道志村にて生まれる。
1942年
現役兵として甲府歩兵第49連隊に入隊。満州に駐留。
1944年
レイテ島に派遣。当時、23歳、兵長(衛生兵)。
1945年
セブ島終戦を迎える。復員後は、故郷で建設会社などに勤務する。

「激闘40日・飢えが命を奪う」|戦争|NHKアーカイブス
Wさん(【玉砕 隠された真実 放送日 2010年8月12日】収録)

1921年
岐阜県高鷲村(現・郡上市)に生まれる
1941年
12月召集 歩兵第229連隊の衛生兵に
1942年
11月ニューギニア・ブナへ
1945年
ラバウル終戦を迎える
1947年
戦後は、郷里で民宿経営

「届けられなかった遺書」|戦争|NHKアーカイブス
Oさん(【ガダルカナル 繰り返された白兵突撃 ~北海道・旭川歩兵第28連隊~】収録)

1920年
北海道伊達町にて生まれる。
1941年
現役兵として旭川歩兵第27連隊入隊。
1942年
第28連隊に転属。第2悌団・機関銃中隊の衛生兵としてガダルカナル島上陸。当時、22歳、上等兵(衛生兵)。
1943年
ガダルカナル島撤退後、再び旭川に駐屯。
1945年
復員。復員後は、国鉄に復職する。

「川を流れていく遺骸」|戦争|NHKアーカイブス
Nさん(【ビルマ 退却戦の悲闘 ~福井県敦賀歩兵第119連隊~】収録)

1917年
福井県三国町に生まれる
1943年
第53師団衛生隊入隊、第119連隊とともにビルマ戦線へ
1945年
終戦
1947年
復員後は、大学の事務職に就く

「帰国後、いわれのない差別」|戦争|NHKアーカイブス
Kさん(【引き裂かれた歳月 証言記録 シベリア抑留】収録)

1922年
福岡県に生まれる
 
尋常高等小学校卒業
1943年
満州第299部隊(野砲兵第26連隊)入隊
1945年
独立歩兵第784大隊に転属
1945年
南溝にて終戦 終戦時、独立歩兵第784大隊所属兵長
 
収容所は、コムソモリスク
1948年
舞鶴にて復員
 
復員後は、漁業に従事

「5回におよんだ生体解剖」|戦争|NHKアーカイブス
Yさん(【陸軍軍医の戦場】収録)

1916年
埼玉県児玉町(現・本庄市)に生まれる
1934年
東京慈恵医科大学入学
1941年
駒込病院に勤務後、短期現役軍医に
1942年
中国山西省路安陸軍病院に配属
1945年
山西省終戦。現地に残り共産党軍との戦闘に参加
1952年
太原戦犯管理所に収監
1956年
起訴免除となり帰国。西荻窪診療所に勤務のち所長
2010年
逝去

「“処分”された重傷者」|戦争|NHKアーカイブス
Iさん(【フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~】収録)

1917年
宮城県本吉区に生まれる
1943年
東北大学医学部卒業
1944年
フィリピンにある海軍103病院に軍医として配属
1946年
マニラのアメリ野戦病院にて終戦を迎える。当時、28歳、海軍中尉。復員後は気仙沼にて医師として暮らす。

「捨て石の作戦に動員された」|戦争|NHKアーカイブス
Sさん(【硫黄島 地下壕に倒れた精鋭部隊 ~鹿児島県 陸軍歩兵第145連隊~】収録)

1923年
鹿児島県姶良郡溝辺村に生まれる
1943年
歩兵第145連隊に入隊
1944年
硫黄島の戦いに参加 第二大隊六中隊上等兵
1947年
浦賀にて復員
 
農業を営む

「卒業式会場上空を飛ぶ砲弾」|戦争|NHKアーカイブス
Mさん(【沖縄・ひめゆり学徒隊】収録)

1925年
那覇市に生まれる
1944年
沖縄師範学校女子部入学
1946年
以降、沖縄各地の小中学校に勤務
1989年
ひめゆり平和祈念資料館証言員、同資料委員長
1996年
ひめゆり平和祈念資料館副館長
2002年
ひめゆり平和祈念資料館館長
2011年
公益財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり平和祈念財団理事長

「学徒隊解散・自決を覚悟」|戦争|NHKアーカイブス
Mさん(【沖縄・ひめゆり学徒隊】収録)

1928年
旧勝連村に生まれる
1941年
沖縄県立第一高等女学校入学
1946年
以降、沖縄各地の小中学校に勤務
1989年
ひめゆり平和祈念資料館証言員、同資料委員
2009年
ひめゆり平和祈念資料館副館長
2011年
公益財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり平和祈念財団執行理事(新規事業準備室長)

「陸軍病院、負傷兵を前に」|戦争|NHKアーカイブス
Tさん(【沖縄・ひめゆり学徒隊】収録)

1927年
那覇市に生まれる
1944年
沖縄県師範学校女子部入学
1946年
以降、沖縄各地の小学校、養護学校に勤務
1989年
ひめゆり平和祈念資料館証言員、同資料委員
2008年
公益財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会評議員
2011年
ひめゆり平和祈念資料館証言員

「壕内でのたうちまわる人々」|戦争|NHKアーカイブス
Mさん(【沖縄・ひめゆり学徒隊】収録)

1926年
石垣市に生まれる
1941年
沖縄県女子師範学校入学
1946年
沖縄文教学校師範部入学
 
石垣島で小学校教諭に
1989年
ひめゆり平和祈念資料館証言員、同資料委員
2009年
ひめゆり平和祈念資料館館長
2011年
公益財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり平和祈念財団理事

「死んでいく同級生たち」|戦争|NHKアーカイブス
Uさん(【沖縄・ひめゆり学徒隊】収録)

1928年
糸満村に生まれる
1942年
沖縄県師範学校女子部入学
1946年
以降、沖縄各地の小学校に勤務
1989年
ひめゆり平和祈念資料館証言員、同資料委員
2011年
公益財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり平和祈念財団評議員

“三途の川で会いましょう”|戦争|NHKアーカイブス
Oさん(【悲劇の島 語れなかった記憶 ~沖縄県伊江島~】)

1927年
生まれる
女子救護班に所属
速射砲部隊に配属され、最前線で日本軍と共に戦闘に参加
最後の総攻撃で、友人を失う

「戦場に送るため救った命」|戦争|NHKアーカイブス
Iさん(【従軍看護婦が見た戦争】収録)

1920年
広島県佐伯郡に生まれる。
1940年
召集、京都陸軍病院高野川分院配属。
1943年
召集解除。二度目の召集。旧満州錦州陸軍病院に配属。
1945年
拉拉屯分院で敗戦を迎える。11月、中国共産党八路軍に従軍。
1950年
朝鮮戦争で中国の義勇兵の治療に当たる。
1953年
帰国

「病院船での火葬」|戦争|NHKアーカイブス
Mさん(【従軍看護婦が見た戦争】収録)

1921年
新潟県佐渡郡に生まれる。
1941年
日赤看護婦養成所新潟支部卒業。召集、病院船に勤務。2年間、朝鮮半島北部から南はラバウルまで、太平洋を22往復して患者輸送にあたる。
1945年
8月、広島の大野陸軍病院で原爆患者の救護に当たる。戦後は、新潟県や東京都で小学校の養護教諭を務める。

「指示された注射」|戦争|NHKアーカイブス
Mさん(【従軍看護婦が見た戦争】収録)

1916年
岡山県和気郡に生まれる。
1933年
日赤看護婦養成所岡山支部で教育を受ける。臨時看護婦として召集。その後、東京陸軍病院郡医学校に配属。
1941年
265救護班として、中国大陸の漢江第15兵站病院、漢江第2陸軍病院配属。
1944年
312救護班として、フィリピン・マニラ第63兵站病院に配属。その後、比島139兵站病院、比島134兵站病院などに配属
1944年
9月、米国に投降。捕虜収容所へ。
1945年
日本の掃海艇で帰国。戦後は、兵庫県で農業を営む。

「見捨てられた兵士」|戦争|NHKアーカイブス
Oさん(【従軍看護婦が見た戦争】収録)

1925年
朝鮮全羅北道の全州に生まれる。
1944年
日赤看護婦養成所朝鮮本部卒業後、召集されマニラの第63兵站病院に配属。マニラ空襲後、中部ルソンのカバナツアンへ患者とともに移動。
1945年
バヨンボンの134兵站病院へ転属。6月、キヤンガンに向けて敗走。9月、投降。カンルバン捕虜収容所、モンテンルパ刑務所に勤務。
1946年
8月、引き揚げ船で帰国。

“死ぬことは当たり前”|戦争|NHKアーカイブス
Mさん(【従軍看護婦が見た戦争】収録)

1924年
福岡県山門郡に生まれる。
1943年
臨時看護婦として召集。471救護班として旧満州東寧陸軍病院に配属。
1945年
8月、吉林省龍生で終戦を迎える。9月、延吉捕虜収容所へ。
1946年
5月、中国共産党八路軍に従軍。中国大陸を数千キロにわたって南へ行軍。内戦終了後は洛陽の病院に勤務。
1953年
帰国(京都・舞鶴)。

「苦しみを消すモルヒネ」|戦争|NHKアーカイブス
Mさん(【陸軍軍医の戦場】収録)

1917年
山口県山口市に生まれる
1936年
日本医科大学入学。陸軍軍医依託生となる
1942年
陸軍軍医学校入校
1943年
同校卒業後、第36師団歩兵第224連隊に配属
1944年
中国を経て3月、西部ニューギニア
1945年
ニューギニア・サルミで終戦
1946年
復員 地元で開業医となる

(追加あり……)