『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」7-26~7-31(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]二六[#「二六」は中見出し]

 これまでついぞ一度も、喧嘩したままで、まる一日をすごしたということはなかった。今日がはじめてである。これこそ完全な恋ざめの、一目瞭然たるあかしである。彼が証明書を取りに入って来たときの一瞥《いちべつ》、いったいああいう目つきで、自分を見るなんてことができるだろうか? 自分のほうをながめて、この心が絶望のために張り裂けそうになっているのを見てとりながら、あんなに平気なおちつきはらった様子で、無言のまま通りすぎてしまうことが、いったいできるものだろうか? いや、あれは愛がさめたどころではない、自分を憎んでいるのだ。というのも、ほかの女を愛しているからだ――それはわかりきっている。
 それから、男のいった残酷な言葉を、一つ残らず思い浮べながら、アンナはなおそのうえに、彼が明らかにいおうと思った言葉、いいそうな言葉を考えついて、いやがうえにいらいらするのであった。
『僕は君を留めはしませんから』これはあの人のいいそうな言葉だ。『どこでも好きなところへ行っていいですよ。君は良人との離婚を望まなかったが、おそらくその懐へ帰るためでしょう。さあさあ、お帰んなさい。金が必要だったらあげますよ。いったい何ルーブリいるのです?』
 無作法な人間のいいそうな、残忍しごくな言葉を尽して、ヴロンスキイは彼女の想像の中で毒づくのであった。しかも彼女は、まるで男が本当にそれをいったかのように、これはもう赦せないと思うのであった。
『だって、つい昨夜あの人が、あの真実で潔白なあの人が、愛を誓ったのじゃないか? わたしがひとり合点で絶望したのも、今まで幾度もあったことじゃないか?』と彼女はあとから、すぐ思いなおすのであった。
 アンナはこの日いちんち、二時間ばかりかかって、ウィルソンのとこへ行って来たのを除《の》けると、本当になにもかもおしまいになったのだろうか、まだ和解の希望があるだろうか、すぐこのまま出て行ったものか、それとももう一度会って行ったほうがいいか、という疑惑のうちにすごした。彼女は一日ヴロンスキイを待っていたが、晩に自分の居間へひっこむ前に、頭痛がする云々《うんぬん》の言づけを命じて、それで男の心を占《うらな》おうとした。
『もしあの人が、小間使のいうことにかまわず訪ねてきたら、それはつまりまだ愛している証拠だ。けれど、もしこないとしたら、それは万事休した証拠だから、そのときどうするか、いよいよの決心をつけるんだ!………』
 その晩、彼女はヴロンスキイの馬車のとまった音、ベルの響き、その足音、小間使との話し声を耳にした。彼はいわれたことをそのまま本当にして、それ以上なにもきこうとせず、自分の部屋へ入ってしまった。してみると、なにもかもおしまいなのだ。
 死、男の心に自分にたいする愛をよみがえらせるため、彼を罰するため、彼女の胸に巣くった邪悪な精神が、男を相手につづけてきた闘争に勝をしめるための、唯一の手段としての死が、明瞭に生きいきと、彼女の眼前に立ち現われたのである。
 今となっては、ヴォズドヴィージェンスコエヘ行くとか、行かないとか、良人から離婚の承諾を得るとか得ないとかいうことは、どうだってかまわない。なにもかも不要である。ただ一つ必要なのは、彼を罰するということなのだ。
 彼女がいつもの分量だけ阿片《あへん》をついでから、このびんをぐっと飲み干しさえすれば、ぞうさなしに死ねるのだと考えたとき、そんなことなどいともたやすい、簡単なことに思われたので、彼女はまたもや一種の快感を覚えながら、もうすべてが手遅れになったときに、あの人がどんなに苦しむだろう、どんなに後悔するだろう、どんなに自分の追憶を愛惜するだろう、と考えはじめた。彼女はベッドに横たわって、目を見ひらいたまま、一本の燃え尽きんとする蝋燭の光で、天井ぎわの漆喰《しっくい》模様の蛇腹《じゃばら》、天井の一部に届いている衝立《ついたて》の影を見つめながら、自分がいなくなってしまって、自分というものは彼にとって、ただの追憶にすぎなくなったとき、はたして彼は何を感じるだろうかということを、まざまざと心に描いてみた。『どうして、おれはあんな残酷な言葉を口にすることができたのだろう?』と彼はいうだろう。『どうしてあれにひと口もものをいわずに、部屋を出てしまうことができたろう? 今はもうあれはいない。あれは永久にわれわれから去ってしまったのだ。あれはあすこにいるのだ……』が、突然、衝立の影がふるえだして、蛇腹も天井もすっかり包んでしまった。すると、反対の側から、別の影がさっと襲って来た。つかのま、影は一時にひいてしまったが、またすぐ新しい速力で襲って来て、ふるえながら合流したかと思うと、あたりはまっ暗になってしまった。『死だ!』と彼女は思った。たとえようもない恐怖に打たれた彼女は、いったい自分がどこにいるのやら、長いあいだ合点がいかず、また長いこと、ふるえる指でマッチをさがし出し、燃え尽きた蝋燭のかわりに、新しいのをつけることもできなかった。『いや、なんといっても、生きてだけはいなくちゃ! だって、わたしはあの人を愛しているのだもの。それに、あの人だってわたしを愛してるんだもの! こんなことは過ぎたことで、やがて忘れてしまうわ』生命へ帰った喜びの涙が、双の頬を流れるのを感じながら、彼女はそうひとりごちた。そして、恐怖の念からのがれるために、彼女は急いでヴロンスキイの書斎へ行った。
 彼は書斎でぐっすり寝入っていた。アンナはそのそばへよって、上から顔を照らしながら、長いことつくづくながめていた。いま男が眠っていると、彼女は心から愛情を感じて、その顔を見ていると、いとしさの涙をおさえかねるほどであった。でも、彼女はわかっていた。もし彼が目をさましたら、またもや、おのれの正しさを信じきっている冷たい目で見るだろう、またこちらも愛を語るより前に、男が自分にたいしてどんなにすまないことをしたか、証明しなければやまぬだろう。彼女は男をさまさないで、自分の居間へひっ返し、二度目の阿片を飲んだ後、夜明けちかくなって、重苦しい眠りに落ちたが、その浅い眠りのあいだじゅう、彼女はたえず自分を意識していた。
 朝になって、まだヴロンスキイと関係しない前から、いくども彼女の眠りに繰り返された悪夢が、またもや襲ってきて、彼女の目をさました。鬚《ひげ》をもじゃもじゃさした小柄な老人が、鉄の上にかがみこんで、意味もないフランス語の言葉を、呪文《じゅもん》のように唱えながら、何かしているのであった。すると彼女は、この悪夢のときいつもそうなのだが、この小柄な百姓が、自分のほうになんの注意をも向けないにかかわらず、この鉄に向っている恐ろしい仕事は、ほかならぬ自分を目あてにしているのだと感じた(それがこの夢の恐怖の中心なのであった)。彼女は冷たい汗をびっしょりかいて、目をさました。
 起きあがったとき、まるで霧を透かして見るように、昨日の一日が思い起された。
『喧嘩があったっけ。もう何度もあったことが、くりかえされたのだわ。わたしが頭痛がするといわせたところ、あの人は入ってこなかった。明日は出発なんだから、あの人に会って、出発の準備をしなくちゃならない』と彼女はひとりごちた。ヴロンスキイが書斎にいると聞いて、彼女はそのほうへおもむいた。客間を通りぬけているとき、車寄せに馬車のとまった音がしたので、窓からのぞくと、一台の箱馬車が目に入った。その中からは、薄紫色の帽子をかぶった若い令嬢が身を乗り出して、ベルを鳴らしている従僕に、何かいいつけていた。控室で何か押し問答があった後、だれやら上のほうへあがってくる。と、客間の隣で、ヴロンスキイの足音がした。彼は急ぎ足で階段をおりて行った。アンナはまた窓ぎわへよった。やがて、彼は帽子をかぶらずに車寄せへ出て、馬車のほうへよった。薄紫色の帽子をかぶった若い令嬢は、彼に包みを渡した。ヴロンスキイは微笑を含みながら、何かいった。馬車は動き出した。彼は足早に階段をもとへ駆け昇った。
 彼女の心をおおっていた霧は、突如として散ってしまった。昨日と同じ感情が新しい力をもって、病める心を締めつけた。どうして彼の家に、彼といっしょに、まる一日すごすまでに、みずから卑しゅうすることができたのか、今となっては合点がいかないほどであった。彼女は自分の決意を告げるために、彼の書斎へ入って行った。
「あれはソローキナ夫人がお嬢さんといっしょに、母の手紙と金を持ってきてくれたんだ。きのうもらえなかったものだからね。どうだね、頭痛はちっとはいいかね?」アンナの顔の暗い、勝ち誇ったような表情を、見ようとも理解しようともしないで、彼はおちついた調子でいった。
 彼女は部屋のまんなかに立ったまま、黙ってじっと男の顔を見つめていた。ヴロンスキイはちらと彼女を見上げて、ちょっと眉をひそめたが、また手紙を読みつづけた。彼女は身をかえして、ゆっくりと部屋を出て行った。彼はまだ呼びとめることができたけれども、彼女が戸口まで行き着いても、まだ黙っていた。ただ紙を巻き返す音が、さらさらと聞えるだけであった。
「ああ、ときに」彼女がもう閾《しきい》をまたごうとしたとき、ヴロンスキイはこういった。「明日はいよいよたつのかね? 本当に?」
「ええ、あなたはね、でもわたしはちがいます」と彼女は、ふり返りながら答えた。
「アンナ、こんなふうじゃ暮していけないじゃないか……」
「あなたはね、でもわたしはちがいます」と彼女はくりかえした。
「これじゃいよいよたまらない!」
「あなたは……あなたはこのことを後悔なさいますよ」と彼女はいって、出てしまった。
 アンナがこういったときの絶望の表情にぎょっとして、彼はいきなりおどりあがり、あとを追って駆け出そうとしたが、ふとわれに返って、再び腰をおろした。そして、きっと歯を食いしばり、眉をひそめた。この無作法な(と彼には思われた)何かのおどし文句が、彼をいらいらさせたのである。『おれはいっさいの手段を試みたのだから』と彼は考えた。『もうこのうえはただ気にしないで、うっちゃっとくだけだ』それから、彼は街へ出かけて行き、そのあとでもう一度、母のところへ行くしたくをした。母から委任状の署名をもらわなければならなかったのである。
 彼女はヴロンスキイが書斎を動きまわり、それから食堂を通る足音を聞いた。彼は客間でちょっと立ちどまったが、アンナの部屋へはいこうともせず、ただ自分は留守でもヴォイトフに牡馬を渡すように、と命令したばかりであった。やがてアンナは、馬車がまわされ、戸が開いて、彼がまた出て行った気配を耳にした。けれど、彼はまた玄関の中へ入った。そして、だれやら階段をとんとん駆け昇った。それは忘れた手袋をとりに、従僕頭が駆けだしたのである。アンナが窓へよって見ていると、彼は見むきもせずに手袋を受け取り、ちょっと馭者の背に手でさわって、何やらいった。それから、窓の方はふりむきもせず馬車に乗ると、いつもの姿勢で足と足を組み合わせ、手袋をはめにかかったと思うと、街の角に隠れてしまった。

[#5字下げ]二七[#「二七」は中見出し]

『行ってしまった! もうおしまいだ!』とアンナは窓ぎわに立ったまま、こうひとりごちた。すると、その言葉にたいする答えのように、蝋燭の消えた瞬間に襲いかかった暗黒と、恐ろしい夢の印象が、一つに溶け合いながら、冷たい恐怖で彼女の心をみたした。
「いえ、そんなことのあろうはずがない!」と彼女は叫ぶと、部屋を通りぬけて、強くベルを鳴らした。今では一人きりでいるのが、恐ろしくてたまらなかったので、召使が来るのを待ちきれず、自分のほうから出迎えるようにした。
「伯爵はどちらへお出かけになったか、きいて来ておくれ」と彼女はいった。
 従僕は、御前さまは競馬場の厩《うまや》へいらっしゃいました。と答えた。
「それから御前さまは、もし奥さまがお出かけになるようだったら、馬車はすぐ帰るからと、そう申しあげるようにとのことでございました」
「じゃ、いいわ。ああ、ちょっと待って。わたし今すぐ手紙を書くから。ミハイルに持たせて、厩までやっておくれ。大急ぎでね」
 彼女はテーブルに向って、次のように書いた。
『わたしが悪うございました。お帰りになって下さいまし、よくお話をしなくちゃなりませんから。後生です、帰って下さいまし。わたしは恐ろしいのです』
 彼女は封をして、従僕に渡した。
 今は一人きりでいるのが怖かったので、従僕のあとから居間を出て、子供部屋へ行った。
『どうも違う。これはあの子じゃない! あの碧《あお》い目はどこに行ったのだろう。あのおずおずした笑顔はどうしたのだろう!』頭がこんぐらかっているために、子供部屋へ行ったら見られると思ったセリョージャのかわりに、黒い毛のふさふさと縮れた、赤い頬のふっくらした女の子を見たとき、まず彼女の頭に浮んだのは、こういう考えであった。女の子はテーブルのそばに坐って、コルクの口で強くテーブルを叩きながら、二つのすぐりの実のような真黒な目で、意味もなく母をながめていた。イギリス女の問いにたいして、体のぐあいはたいへんいいから、明日は田舎へ向けてたつと答えて、アンナは女の子のそばに腰をおろし、びんの口のコルクを、その目の前でくるくるとまわしはじめた。しかし、幼な児のよく透る高い笑い声と、片方の眉を動かす様子が、いかにもよくヴロンスキイに似ていたので、彼女は慟哭《どうこく》をおさえながら、そそくさと立ちあがり、部屋を出てしまった。『いったいなにもかもおしまいになったのかしら? いいえ、そんなはずはない』と彼女は考えた。『あの人は帰ってくる。だけど、あのお嬢さんと話したときのあの笑顔と、あの生きいきした様子を、あの人はなんといって説明するだろう? いや、説明なんかしてもらわなくっても、わたしはとにかく信用するわ。もし信用できなかったら、わたしに残された道は一つしかない……でも、そんなことはいやだ……』
 彼女は時計を見た。二十分たっていた。
『今ごろあの人はもう手紙を見て、帰って来てるに相違ない、長いことはない、もう十分ばかりだ……でも、もしあの人が帰ってこなかったら、どうしよう? いや、そんなはずはない。とにかく、目を泣き膨《は》らしたところなんか、あの人に見られたくない。行って顔を洗いましょう。そう、そう、わたしは頭を梳《と》きつけたかしら、覚えがないけれど』と彼女は自分で自分にきいてみたが、思い出せなかった。彼女は手で頭をさわってみた。『そう、ちゃんと梳きつけている。でも、いつのことかしら、とんと覚えがないわ』彼女は自分の手さえ信用ができないで、本当に頭を梳きつけたかどうか確かめに、姿見のほうへ行って見た。頭はちゃんと梳きつけてあったが、いつしたのか思い出せなかった。『いったいあれはだれだろう?』妙にぎらぎら光る目で、おびえたように自分を見つめている、燃えるような顔を鏡の中に見つけて、彼女はこんなことを考えた。『まあ、これはわたしなんだ』と急に合点がいった。それから、自分の全身を見まわしているうちに、突然からだに男の接吻を感じて、身ぶるいしながら両方の肩を動かした。それから、片手を唇へもっていって、接吻した。
『まあ、これはどうしたんだろう、わたし気でも狂うのかしら』と思って、彼女は寝室へ行った。そこでは、アンヌシカが掃除をしていた。
「アンヌシカ」小間使の前に立って、その顔を見ながら、自分でも何を話すつもりかわからないで、彼女はこういった。
「あなた、ダーリヤ・アレクサンドロヴナのところへいらっしゃる、とかおっしゃいましたが」相手の気持を察したかのように、小間使はそういった。
「ダーリヤ・アレクサンドロヴナのとこ? ああ、わたし行きますよ」
『往きが十五分、帰りが十五分。もうあの人は出かけたに相違ない、やがてもう着くころだ』彼女は時計を出して見た。『でも、わたしをこんな状態でとり残して、よくまああの人は出て行かれたものだわ。わたしと仲なおりしないで、どうしてあの人は暮して行かれるのだろう?』彼女は窓ぎわへ行って、往来をながめはじめた。時間からいえば、彼はもう帰ってくるころである。しかし、時間の計算が正確でないかもしれない。で、彼女はまたもや、男の出て行った時のことを思い出して、一分二分と数えだした。
 自分の時計と合わせてみるために、大時計のそばへよって行ったとき、だれか馬車を乗りつけた。窓からのぞいてみると、ヴロンスキイの幌馬車であった。しかし、だれも階段へ昇ってこず、下で話し声がしていた。それは、使が馬車で帰って来たのである。彼女は下へおりて行った。
「御前さまとは行き違いになりました……ニジニ・ノヴゴロド線で、おたちになりましたあとでして」
「おまえどうしたの? なんだって……」奥さまの手紙を返そうとしてさしだしている、血色のいい楽しそうな顔をしたミハイルに向って、彼女はこういった。
『まあ、それじゃあの人はわたしの手紙を見なかったんだわ』と彼女は気がついた。
「じゃ、この手紙を持って、ヴロンスカヤ伯爵夫人のいらっしゃる別荘へ行っておくれ、知ってるだろう? そして、すぐにご返事をちょうだいしてくるんだよ」と彼女は使のものにいった。
『ところで、このわたし、わたしはいったいどうしたらいいのだろう?』と彼女は考えた。
『そうだ、ドリイのとこへ行こう、本当だ。さもないと、気が狂ってしまうわ。それに、電報を打つという手もあったんだわ』で、彼女は電文を書いた。
『ゼヒオハナシシタシ、スグオカエリコウ』
 電報を出してから、彼女は着替えに行った。もう着替えをして、帽子もかぶったとき、でっぷりふとっておちついたアンヌシカの目を、彼女は改めてちらと見やった。その小さい、人のよさそうな、灰色の目の中には、まざまざと同情の色が浮んでいた。
「アンヌシカ、ねえ、わたしどうしたらいいだろう?」力無く肘椅子に腰を落して、慟哭《どうこく》しながらアンナはこういった。
「何もそう気をおもみになることはございませんよ、奥さま! こんなのはよくあることでございますもの。まあ、お出かけになってごらんなさいまし、お気持が晴れますでしょう」と小間使はいった。
「ああ、出かけましょう」とアンナはわれに返って、立ちあがりながらいった。「もしわたしの留守に電報が来たら、ダーリヤ・アレクサンドロヴナの家へ届けておくれ……いえ、わたし自分で帰ってくるわ」
『そう、くよくよ考えちゃいけない、何かしなくちゃ。出かけることだ、何よりも第一に、この家から出て行くことだ』すさまじい胸の動悸《どうき》に耳を傾けて、恐怖を感じながら、彼女はこうひとりごち、急いで玄関へ出て、馬車に乗った。
「どちらへ?」馭者台へ坐る前に、ピョートルがたずねた。
「ズナーメンカ、オブロンスキイさまのお宅へ」

[#5字下げ]二八[#「二八」は中見出し]

 晴れ渡った日であった。朝のうちは、ずっとこまかいぬか雨が降っていたが、つい先ほどからっと晴れたのである。屋根の鉄板、歩道のブロック、車道の丸石、往き交う馬車の轍《わだち》、革、真鍮《しんちゅう》、ブリキ――なにもかもが、五月の日ざしにきらきらと輝いていた。午後の三時で、街はいちばんにぎやかな時であった。
 葦毛《あしげ》の速足につれて、しっかりしたバネの上でほんのこころもち揺れる、ゆったりした馬車のかたすみに腰かけて、アンナは絶え間のない車輪のごうごうたる響きの中で、清らかな外気を吸い、目まぐるしく入れ変る印象を送り迎えしながら、またしても最近数日間の出来事を、心の中で繰り返しているうちに、自分の境遇が家で考えたのとは、全く別のように思われてきた。今では死という考えも、それほど恐ろしく明瞭なものには映らなかったし、死そのものも、もはや避くべからざるものとは思われなかった。今では彼女は、自分が身を落して、屈辱に甘んじようとしているのを、みずから責めた。
『わたしは、あの人に赦してくれと哀願している。わたしはあの人に屈服してしまったのだ。つまり、自分が悪かったということを認めたわけなんだけど、いったいなんのためだろう? わたしは、あの人なしには生きていけないのかしら?』あの人なしにどうして生きていこうか、という疑問に答えないで、彼女は看板を読みはじめた。『事務所と倉庫、歯科医……そうだ、わたしドリイになにもかもいってしまおう。あのひとは、ヴロンスキイが嫌いなのだから。さぞ恥ずかしくて、つらいことだろうけれど、でもなにもかもいってしまうわ。あのひとはわたしが好きなんだから、わたし、あのひとのいうとおりにするわ。アレクセイに負けてたまるもんか、あの人なんかに教育されはしないから。フィリッポフ商店、丸パン……なんでも、この店はペテルブルグまで生パンを出してるって話だっけ。モスクワの水はそれほどいいんだわ。ムイチーシチの井戸、薄餅《ブリン》』ふと、彼女はまだ十七の年に、伯母といっしょにトロイツァヘ行ったことを思い出した。『まだ馬車だったんだからねえ。いったいあの赤い手をしてた小娘が、わたしだったのかしら? あの時分、わたしの目にとても美しい、及びもないように思われたもので、今つまらなくなったものもずいぶんあるけれど、でもあの時分に持っていたもので、いま及びもつかぬようになったものもたくさんあるわ。自分がこれほどまで身を落してしまうなんて、あの時分は考えることもできやしなかったわ。わたしの手紙を見たら、あの人はどんなに得意になって、満足がるか知れやしない! でも、わたしあの人に思い知らせてやるわ……まあ、このペンキのいやなにおいったら。なんだってみんな、ああ家を建てて塗りたくるんだろう? 流行装飾品』と彼女は看板を読んだ。一人の男が彼女に会釈した。それはアンヌシカの亭主であった。『うちの寄生虫』ふと、ヴロンスキイのいった言葉を思い出した。『うちの? なぜうちのだろう? 過去を根こそぎ、ひき抜いてしまえないということは、本当に恐ろしい。でも、ひっこ抜いてしまうことはできなくっても、その記憶を隠すことはできる。わたしも隠すことにしよう』そのとき彼女は、カレーニンとの過去を思い浮べ、それを自分の記憶から消してしまったことを考えた。『ドリイは私のことを、二度目の良人と別れるような女だから、つまりまぎれもなくよくないことだ、なんて考えるだろう。いったいわたしは、正しい人間になりたがっているのかしら! わたし、そんなことなんかできやしないんだわ!』と口に出していって、彼女は泣きたくなった。けれど、すぐに彼女は二人の娘を見て、何がうれしくてああにこにこ笑えるのだろう、と考えはじめた。『きっと愛の話をしてるんだろう? そんなことなどちっとも楽しくなくって、本当に卑しいことなのに、あの娘たちはそれを知らないんだわ……。ブルヴァール、子供たち。男の子が三人かけずりまわっている、お馬ごっこだ。セリョージャ! ああ、わたしはなにもかも失くしてしまう、あの子もとり戻せやしない。そうだわ、もしあの人が帰ってこなかったら、わたしは、なにもかも失くしてしまうんだわ。ひょっとしたら、あの人は汽車に乗り遅れたので、今ごろはもう帰ってるかもしれない。おや、わたしはまた屈辱を望んでいるのかしら!』と彼女はひとりごちた。『いや、わたしはドリイの部屋へ入ったら、いきなりこういってしまうわ。わたしはふしあわせなのよ、もっともそれはあたりまえの話で、自分が悪いのだけれど、それでもとにかくふしあわせなんだから、助けてちょうだい、って。この馬、この馬車――こんな馬車に乗っているわたしは、われながら愛想がつきるわ――みんなあの人のものなんだもの。でも、わたしはもう二度と、こんなものを見やしない』
 ドリイになにもかもいってしまう、その言葉を肚《はら》の中で考え考え、わざとわれとわが傷をかき立てながら、アンナは階段を昇って行った。
「どなたか見えてらしって?」と彼女は控室でたずねた。
「カチェリーナ・アレクサンドロヴナ・レーヴィナさまでございます」と従僕は答えた。
『キチイだ、あのヴロンスキイが恋したことのある、あのキチイだ!』とアンナは考えた。『あの人が愛情をこめて思い出している、あのキチイだわ。あの人は、キチイと結婚しなかったのを、後悔してるに相違ない。わたしのことなんか、にくにくしい気持で思い出して、なんだってあんな女といっしょになったんだろうと、後悔してるにきまってるわ』
 アンナが来たとき、姉妹のあいだには、赤ん坊に乳をやることで、相談がはじまっていたのである。ドリイは一人だけ、ちょうどそのとき話のじゃまをした女客を迎えに出た。
「あら、あんたまだたたなかったの? わたし、こちらから一度お訪ねしようと思ってたのよ」と彼女はいった。「今日スチーヴァから手紙が来ましたわ」
「うちへも電報が来ましたの」キチイを見つけようと思って、あたりを見まわしながら、アンナは答えた。
「その手紙にはね、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチがどういうつもりでいるのか、いっこうわけがわからないけれども、返事をもらわないうちは帰らないって、そう書いてありますの」
「わたし、だれかお客さまがあるらしいと思ったのに。その手紙、読んでもよくって?」
「ええ、キチイなの」とドリイは照れていった。「子供部屋に残っているわ。とても体が悪かったのよ」
「わたしもその話を聞きましたわ。手紙を読んでもよくって?」
「今すぐ持って来ます。でもね、はねつけてるわけでもないのよ。それどころか、スチーヴァは望みをかけているくらい」とドリイは、戸口に立ちどまっていった。
「わたし、望みなんかかけていませんわ。それに、かえっていやなの」とアンナはいった。
『これはいったいどういうことかしら、キチイはわたしに会うのを、身分にかかわるとでも思っているのかしら?』一人きりになって、アンナはそう考えた。『もっとも、それが本当かもしれないけれど、あのひとが、ヴロンスキイに恋していたあのひとが、わたしにそんな様子を見せるって法はないわ。わたしみたいな境遇にいる女は、れっきとした婦人だったら、だれ一人つきあうわけにはいかない、そりゃわたしにもわかっている。あの最初の瞬間から、わたしはなにもかもあの人のために犠牲にした、それはわたしも覚悟の前だけれど、その報いがこれなんだわ! ああ、わたしはあの男が憎くてたまらない! それに、なんだってわたしはここへ来たんだろう? よけいいやな気がして、よけい苦しいばかりなのに』次の間で、二人の姉妹の話し合っている声が、彼女の耳に入った。『いったいわたしはこれからドリイに、何を話したらいいのだろう? わたしがふしあわせだといって、キチイの気休めをするつもりかしら、あのひとの保護に身を屈しようというのかしら? いやだ、それにまたドリイだって、なんにもわかりゃしないわ。何もあのひとに話すことなんかありゃしない。ただキチイを見ることだけは興味がある。わたしがなにもかも、だれもかれも軽蔑している、今となっては、どうだってかまやしないことを、あのひとに見せつけてやるんだ』
 ドリイが手紙を持って入ってきた。アンナは目を通すと、黙って手紙を返した。
「これはもう、わたしの知ってることばかりですわ」と彼女はいった。「だから、こんなことちっとも興味がないわ」
「まあ、どうして? わたしはそれどころか、望みをかけていますのよ」とドリイは好奇の目で、アンナを見ながらいった。今までアンナがこんなに奇妙な、いらいらした様子になっているところを、一度も見たことがなかったのである。「あんた、いつたつの?」と彼女はたずねた。
 アンナは目を細めて、前のほうをながめたが、返事はしなかった。
「どうしたんですの、キチイはわたしに会いたくなくって、隠れてるんですの?」戸口のほうを見て、顔を赤らめながら彼女はこういった。
「まあ、なんてつまらないことを! あれはいま赤ちゃんにおっぱいをやってるんですよ。どうもうまくいかないものだから、わたし教えてやったとこなんですの……あれはとても喜んでますわ。今に来ますよ」嘘をつくことが下手なので、ドリイはしどろもどろにこういった。「ああ、ほら、来ましたわ」
 アンナの来訪を聞いて、キチイは出るのをいやだといったが、ドリイがそれを説き伏せたのである。キチイは勇をふるってくると、顔を赤らめながらそばへよって、手をさしのべた。
「お目にかかれて、本当にうれしゅうございますこと」と彼女はふるえる声でいった。
 キチイの心の中では、このよくない女にたいする敵意と、寛大にしなくちゃならないという気持が相剋《そうこく》していたので、彼女はどぎまぎしていたのである。けれど、アンナの美しい人好きのする顔を見るやいなや、そんな敵意などはたちまち消えてしまった。
「あなたが、わたしに会うのをお望みにならなかったとしても、わたしふしぎに思いはしませんわ。わたし、どんなことにも慣れてしまいましたから。あなたご病気だったんですって? そう、あなたもお変りになりましたわね」とアンナはいった。
 キチイは、アンナが自分を敵意の目でながめているのを感じた。それは、もと保護者の立場にいたアンナが、自分の前で気まずい位置におかれたためだと解釈して、キチイは彼女がかわいそうになった。
 三人は病気のこと、子供のこと、スチーヴァのことなど話したが、明らかに、何一つアンナには興味がなさそうであった。
「わたしお暇乞いにおよりしましたの」と彼女は席を立ちながらいった。
「いつおたちになるの?」
 けれど、アンナはまたもや返事をしないで、キチイに話しかけた。
「ああ、そう、わたしあなたにお目にかかれて、とてもうれしゅうございますわ。あなたのお噂は四方八方から、いろいろ聞いていましたもの、ご主人の口からさえもね。ご主人は宅へいらっしゃいましたが、わたしたいへんあのかたが好きになりましたわ」まさしく肚に一物《いちもつ》ある様子で、彼女はこうつけ足した。「今どこにいらっしゃいますの?」
「田舎のほうへ帰りました」とキチイは顔を赤らめながら答えた。
「どうぞよろしくおっしゃって下さいましな、ぜひともよろしく」
「ぜひとも!」同情の面持ちで相手の目を見つめながら、キチイは単純にくりかえした。
「では、さよなら、ドリイ」ドリイに接吻し、キチイの手を握りしめて、アンナは急ぎ足に出て行った。
「やっぱりもとのままね、そしてやっぱり美しいわね。ほんとにすてき!」姉とさしむかいになったとき、キチイはそういった。「でも、何かしら気の毒なところがあるわ。とても気の毒だわ」
「いえ、今日は何か特別なのよ」とドリイはいった。「わたしが控室まで見送りに行ったとき、なんだか泣きだしそうな様子に見えたもの」

[#5字下げ]二九[#「二九」は中見出し]

 アンナは家を出るときより、もっといやな気持で馬車に乗った。今は以前の苦しみにかてて加えて、キチイとの邂逅でまざまざと感じた、はずかしめられ、斥《しりぞ》けられた思いがあった。
「どちらへまいりましょう? お邸へ?」とピョートルがたずねた。
「ああ、うちへ」今はどこへ行くなどということは考えもせず、彼女はそういった。
『あの二人は、まるで何か恐ろしい、わけのわからない、珍しいものか何かのように、わたしをじろじろ見ていたっけ。だいたいあの男は、何をああむきになって、しゃべることがあるんだろう?』二人の通行人を見ながら、彼女はこんなことを考えた。『自分の感じてることを、人に話すことなんてできるかしら? わたしもドリイに話そうと思ったけど、話さなくってよかったわ。わたしの不幸を聞いたら、あのひとはどんなに喜んだかしれやしない! あのひとはその気持を隠しはしたろうけれど、おもな気持は、あのひとが常々うらやましがっていた楽しみのために、わたしが罰しられたといううれしさに相違ないわ。キチイとなったら、もっと喜ぶにきまっている。あのひとの心持は見通しだわ! キチイは、わたしのあのひとのご亭主に、普通より以上あいそよくしたのを知っているものだから、わたしに焼きもちをやいて、わたしを憎んでいるんだわ。おまけに、ひとを見下げている、あのひとの目から見ると、わたしは不身持な女なんだもの。もしわたしが不身持な女だったら、あのひとのご亭主を首ったけにすることもできたんだわ……もしわたしがその気になったら。それに、わたしその気になったわ。ああ、あの男は自分で自分に満足しきっている』むこうから馬車でやってきた、赤ら顔のふとった紳士のことを、彼女はこう考えた。この紳士は、彼女を知り人と思って、てらてら光る帽子を、てらてら光る禿頭の上に持ちあげたが、やがて自分のまちがいに気がついた。『あの人はわたしを知ってるように思ったんだ。あの人はわたしなんか知りゃしない、世界中のだれだって、わたしのことを知らないのと同じくらいにね。本人のわたしだって知らないんだもの。わたしは、フランス人のいうように、自分の食欲を知ってるくらいなものだわ。ほら、あの子たちはあのきたならしいアイスクリームが食べたいんだ。それは当人たちも確かに知ってるに違いない』アイスクリーム屋を呼びとめた二人の男の子を見ながら、彼女は心に思った。アイスクリーム屋は頭から桶をおろして、手拭の端で汗だらけの顔をふいた。『わたしたちはみんな甘いもの、おいしいものがほしいんだわ。もしお菓子がなかったら、きたならしいアイスクリームでも。キチイだってそうだわ。ヴロンスキイでなければ、レーヴィンといったふうにね。あのひとはわたしがうらやましいのだ。そして、わたしを憎んでいる。わたしたちはみんな、お互に憎み合っているんだわ。わたしはキチイを、キチイはわたしを。それこそ本当だわ。チューチキン理髪店…… Je me fais coiffer par Tutjkine.(わたしはチューチキンのところで髪を結わせるわ)……あの人が帰って来たら、この話をしてあげよう』と考え、彼女はにっと笑った。が、その瞬間、今となってだれに、何一つおかしい話をすることもないのだ、とそう思い返した。『そうだわ、何もおもしろいことも、おかしいこともありゃしない。なにもかもいやらしい。晩祈祷の鐘が鳴っている。あの商人はまあ、なんて几帳面《きちょうめん》に十字を切ってるんだろう、まるで何か落しはしないかと、心配してるみたい。あんな教会だの、鐘の音だの、いったいなんのためだろう、なんのためにあんな嘘が必要なんだろう? ただわたしたちがみんな、お互に憎み合ってることを、隠すためなんだわ。ちょうどあの辻待ち馭者が、さもにくにくしそうに悪口をつきあってるようなふうに。ヤーシュヴィンもそういったっけ、相手はこっちを裸にしようとしてるし、こっちも相手をそのとおりにしてやるつもりだって、それが本当なんだわ!』
 こんなことを考えて、すっかりそれに気がまぎれ、自分の立場さえ考えなくなっていたとき、馬車は邸の玄関先にとまった。迎いに出た玄関番を見たとき、彼女ははじめて手紙を持たしてやり、電報を打ったことを思い出した。
「返事はあって?」と彼女はたずねた。
「ただいま見てまいります」と玄関番は答え、事務机の中を見て、小さな四角い電報入の封筒をとり出し、彼女に渡した。
『十時前には帰れぬ、ヴロンスキイ』と彼女は読んだ。
「使のものはまだ帰らない?」
「まだでございます」と玄関番は答えた。
『ああ、そういうことなら、わたしもどうしたらいいかわかってる』と彼女はひとりごち、腹の中にこみ上げてくる漠とした怒りを感じながら、二階へ駆け昇った。『わたし、自分で押しかけていくわ。永久に去ってしまう前に、なにもかもいってやる。わたしは今まで一度も、あの男ほど憎いと思ったことがない!』と彼女は考えた。外套掛に男の帽子を見ると、彼女は嫌悪のあまり身ぶるいした。男の電報は、自分の電報にたいする返事で、手紙はまだ届いていないということを、彼女は思いめぐらさなかったのである。いま平然として母やソローキナ嬢と話をして、自分の苦しみを喜んでいる男の姿を、彼女は想像に描いた。『そうだ、早くいかなくちゃならない』まだどこへいくのか、自分でもわからないままに、彼女はこうひとりごちた。ただこの家の中でいだかされる感情から、少しも早くのがれたかったのである。この家の召使、壁、品物――なにもかもが彼女の心中に嫌悪と、毒念を呼び起して、一種の重量感をもってのしかかるのであった。
『そうだ、停車場へいかなくちゃならない。そして、もしいなかったら、あすこへ行って、面の皮をひんむいてやらなけりゃ』アンナは新聞で汽車の時間表を見た。晩の汽車は八時二分発であった。『そうだわ、間に合うわ』彼女は馬をつけ変えるように命じて、二三日の旅に必要なものを、カバンにつめはじめた。もう二度とここへ帰ってこないことは、彼女もわかっていた。いろいろ頭に浮ぶ計画の一つとして、彼女はばくぜんとこんなふうにも決めてみた。停車場や伯爵夫人の領地で何かしたあと、ニジニ・ノヴゴロド線の汽車で次の駅まで行き、そこで足をとめることにしよう。
 テーブルの上には、食事のしたくができていた。彼女はそばへよって、ちょっとパンとチーズの匂いを嗅いでみて、何によらず食べものの匂いは、やりきれないのを確かめると、馬車の用意を命じて、外へ出た。家は早くも、往来いっぱいに影を投げていた。日向《ひなた》はまだ暖かい、よく晴れた夕方であった。荷物を持ってお伴についてきたアンヌシカも、馬車の中へ荷物を入れたピョートルも、明らかに不満げな様子をした馭者も――だれもかれも彼女の目にはいまわしく、その言葉も動作も、彼女をいらいらさせるのであった。
「おまえはこなくてもいいよ、ピョートル」
「でも、切符をいかがいたしましょう?」
「じゃ、好きなようにおし、わたしはどっちでもいいから」と彼女はいまいましそうに答えた。
 ピョートルは馭者台に飛び乗って、両手を腰にあてると、停車場へやるように命じた。

[#5字下げ]三〇[#「三〇」は中見出し]

『さあ、また馬車に乗った! またわたしはなんでもわかるようになった』馬車が動き出して、車道のこまかい丸石の上で揺れながら、がらがらと轍《わだち》の音を立て、またしても目に映る印象があとからあとから変りはじめたとき、アンナはこうひとりごちた。
『ええと、いちばんおしまいに、うまいことを考えたのは、いったいなんだったっけ』と彼女は一生懸命に思い出そうとした。『チューチキンの理髪店だったかしら? いや、そうじゃない。ああ、そうだ、ヤーシュヴィンのいったことだっけ。人間を結び合わせるたった一つのものは、生存競争と憎悪だってことだ。だめよ、あなたがたはそんなに馬車を走らせたって、しようがありませんよ』どうやら郊外へ遊山《ゆさん》にいくらしい、四頭立ての幌馬車に乗った連中に向って、心の中でそういった。『それに、あなたがたの連れて行ってる犬だって、なんの助けにもなりませんよ。自分というものから、のがれることはできませんからね』ふとピョートルのふりむいた方へ視線を投げたとき、頭をぐらぐらさせながら巡査にひかれていく、半分死人のように酔いつぶれた職工が目に入った。『そうだ、あのほうか早道だわ』と彼女は考えた。『わたしもヴロンスキイ伯爵と二人で、たくさんのものを期待したけれど、あれだけの満足も発見することができなかったわ』彼女はそのときはじめて、今まで考えるのを避けるようにしていた自分たち二人の関係に、いっさいのものを明瞭に照らして見せる光線をあててみた。『いったいあの人は、わたしに何を求めたのだろう? 愛よりも虚栄心の満足のほうだったんだわ』彼女は、二人が結び合ったはじめのころ、男のいった言葉や、おとなしい猟犬を思わせるような表情などを思い起した。今となってみると、なにもかもが彼女の推測を裏書きするのであった。『そうだ、あの人の心の中にあったのは、虚栄的な成功の勝利感だったんだわ。そりゃもちろん、愛もあったに違いないけど、成功の誇りのほうが勝っていた。あの人はわたしを自慢にしていたのだ。ところが、今はそれも過ぎてしまって、何も自慢にすることがなくなってしまった。自慢どころか、恥ずかしくなったんだわ。あの人は、できるったけのものを、わたしからとってしまって、今じゃわたしはいらないものになったのだ。あの人はわたしを荷厄介にしながら、わたしのことについて破廉恥になるまいと、骨折っているのだ。昨日もひょいと口をすべらして、自分は背水《はいすい》の陣を布《し》くために離婚を望むのだ、結婚を望むのだといったっけ。あの人はわたしを愛してはいるけれども、その愛し方はどんなふうなんだろう? The zest is gone(味がぬけてしまったのだ)。あの男は、みんなびっくりさせてやろうと思って、自分で自分に大満足なんだわ』馬術練習所の馬に乗って行く、頬っぺたの赤い手代を見ながら、彼女はこんなことを考えた。『そう、あの人にとっては、わたしというものに、もうあの味がなくなったんだわ。もしわたしが離れてしまったら、あの人は肚の底で喜ぶに相違ない』
 それは単なる想像ではなかった――今や彼女に人生と、人間同士の関係の意義を啓示してくれる、かのふしぎな光線によって、はっきりとそれを見定めたのである。
『わたしの愛はだんだん情熱的になり、わがままになっていくのに、あの人の愛は次第に消えていく、だからそのために、わたしたちはだんだん離れていくんだわ』と彼女は考えつづけるのであった。『しかも、それをどうすることもできない。わたしにとっては、すべてがあの人の中にあるので、あの人がもっともっと、わたしにいっさいを捧げてくれるように要求する。ところが、あの人はだんだん、だんだんわたしから離れようとしている。わたしたちはつまり、結びつくまでは両方から接近していったのだけれど、それからあとは、支えることのできない力で、別々のほうへ離れていってるんだわ。しかも、それを変えることはできない。あの人はわたしのことを、無意味にやきもちを焼くというし、わたしも自分のことを、無意味にやきもちを焼くといったけれども、それは本当じゃない。わたしはやきもち焼きじゃなくって、不満なのだわ。でも……』突然ある想念が浮んだために、彼女は興奮のあまり思わず口を開き、馬車の中で位置を変えた。『もしわたしが、あの人の愛撫だけを熱情的に望むただの情婦だけでなく、そのほかの何かになることができたらいいのだけど、わたしはほかのなんにもなることはできないし、またなりたくもないわ。わたしはこういう望みをもっているために、あの人に厭気《いやき》を起させるし、あの人はあの人で、わたしに憎らしいという気を起させるんだわ。でも、そうなるよりほかしかたがないのだ。そりゃわたしにだってわかっている、あの人はわたしをだましたりなんかしやしない。ソローキナに気があるわけでもなければ、キチイに恋してもいないし、わたしに心変りもしやしない。そんなことはすっかりわかっているけれども、それだからって、わたしの気持は休まりゃしない。もしあの人が愛してもいないくせに、義理[#「義理」に傍点]でわたしに優しく親切にするばかりで、わたしの望むものを与えてくれなかったら、それは憎しみよか千倍も悪いくらいだ! それは地獄というものだ! ところが、本当にそのとおりなんだわ。あの人はもうとうから、わたしを愛しちゃいない。ところで、愛が尽きると、憎しみがはじまるものだから……このへんの通りはちっとも見覚えがないわ。何かしら丘みたいなものがあって、どこもかしこも家ばかりだ……そして、家の中には人、どこへ行っても人、人……どれくらいいるのやら、際限がありゃしない。しかも、みんなおたがい同士憎み合っているのだ。さて、そこで一つ考え出してみよう。わたしは幸福になるために、いったい何を望んでいるのだろう? そこでと? わたしは離婚の承諾をもらって、カレーニンがセリョージャも返してくれたとしよう、そしてヴロンスキイと結婚する』カレーニンのことを思い出すと、彼女はまざまざと生けるがごとく、その姿を目の前に見た。火の消えたような、生気のない、つつましやかな目、白い手の上に浮いた青い血管、声の抑揚、指をぽきぽき折る音。それにつづいて、二人のあいだにあった、同様に愛と呼ばれていた感情を思い起すと、彼女は嫌悪の念にぶるっと身ぶるいした。『さて、わたしは離婚の承諾をもらって、ヴロンスキイ夫人になるとして、それからどうだろう、キチイは今日みたいなあんな目つきで、わたしを見なくなるかしら? だめだわ。それに、セリョージャだって、わたしに二人の良人があることをたずねたり、考えたりしなくなるかしら? またわたしとヴロンスキイのあいだに、どんな新しい感情を考えつこうというのだろう? 何か――もう幸福などということは望まないまでも、せめて苦しまないですむような状態が、つくりだせるかしら? だめ、だめ!』今や彼女はいささかの躊躇もなく、われとわが問いに答えた。『だめなことだ? わたしたちは生活の力におされて、別れわかれになっていくのだわ。そして、わたしはあの人の不幸の原因になり、あの人はわたしの不幸のもとになる。しかも、あの人にしても、わたしにしても、別の人間につくりなおすことはできやしない。ありとあらゆる試みをしつくして、ねじはできるだけ巻いたんだもの……ああ、乞食女が赤ん坊をつれている。あの女は、自分をかわいそうなものと思っているだろうが、わたしたちはみんなだれもかれも、ただおたがい同士憎み合い、苦しめ合うためだけに、この世へほうりだされたのじゃないかしら? 中学生が通っている――笑ってる。セリョージャ?』と彼女は思い出した。『わたしも自分はあの子を愛していると思って、われとわが愛情に感激したものだっけ。ところが、わたしはそれをほかの愛情に見変えて、あの子なしに暮しながら、恋に満足しているあいだは、なんにも不平をいわなかったじゃないか』恋と呼んでいたもののことを思い浮べると、彼女は嫌悪の情に打たれた。彼女はいま自分の生活のみならず、いっさいの人の生活を見透すことができたが、その明察は彼女を喜ばせた。『わたしにしても、ピョートルにしても、馭者のフョードルにしても、あの商人にしても、あの広告に書いてあるヴォルガ河の岸に住んでいる人たちにしても、みんな同じことだわ。どこへ行っても、いつの世でも』彼女がそう考えたとき、馬車はもうニジニ・ノヴゴロド停車場の低い建物に近づいて、荷担ぎ人夫がばらばらと、馬車を目がけて駆けだした。
「切符はオビラロフカまでにいたします?」とピョートルがきいた。
 彼女はどこへ、なんのために来たのか、すっかり忘れてしまっていたので、この問いをのみこむのに、ひどく骨が折れた。
「ああ」と金を渡しながら答えると、赤い小さなハンド・バッグをとりあげて、彼女は馬車をおりた。
 群衆を分けて、一等待合室の方へ向かいながら、彼女は自分の境遇のいっさいのデテールと、自分の迷っているさまざまな決心を思い起した。と、またしても、ときに希望、ときに絶望が、痛ましくふるえおののく疲れきった心の古傷を、ここかしことかきたてるのであった。汽車を待つ間に、放射状の長椅子に腰をかけたまま、彼女は入ったり出たりする人々を、嫌悪の念をもってながめながら(彼らはみんないやらしかった)いろいろのことを考えた。ときには、オビラロフカの駅へ着いて、男に手紙を書くことや、何を書こうかということを考えたり、ときには、今あの人が母親に向って(こちらの苦しみも知らないで)自分の境遇の苦しさを訴えていることを想像したり、またときには、自分が部屋へ入って行ったとき、男に向っていうことを考えたりした。かと思うと、自分の生活はまだ幸福であるかもしれないということや、自分が苦しいほど男を愛しかつ憎んでいることを考え、心臓が恐ろしいまで鼓動しているのを感じた。

[#5字下げ]三一[#「三一」は中見出し]

 ベルが鳴って、だれかしらみっともない、ずうずうしい、と同時に自分の与える印象にたいして注意ぶかい若い男たちが、せかせかと通って行った。それから、鈍い動物的な顔をしたピョートルも、例のしきせ[#「しきせ」に傍点]を着てゲートルつきの靴をはいた姿で、待合室を横切り、奥さまを汽車まで送るために、彼女のそばへやって来た。アンナがプラットフォームづたいに、騒々しい男たちのそばを通りぬけたとき、彼らはぴったりと鳴りをひそめた。一人がいま一人に、アンナのことを耳打ちした。もちろん、何かいやらしいことにきまっている。彼女は高いステップに昇って、たった一人|車室《クペー》の中で、かつては白かったものらしい、汚れきったバネ入りの長椅子に腰をおろした。荷物はバネの上でぶるっとふるえて、すぐおちついた。ピョートルはばかみたいな微笑を浮べて、車の外で別れのしるしに、金モール入りの帽子を持ちあげた。高慢ちきな車掌が戸をぱたんと閉めて、掛金をかけた。大きく腰をふくらました醜い婦人、(アンナは心の中で、この女を裸にしてみて、その醜さにぞっとした)と二三人の女の子が、不自然な笑い方をしながら、下のほうを駆けぬけた。
「カチェリーナ・アンドレエヴナのとこよ、なにもかもあのひとのところよ、|叔母さま《マ・タント》!」と一人の女の子がわめいた。
『あの女の子もみっともないくせして、しなをつくってるわ』とアンナは思った。だれも見たくなさに、彼女はすばやく席を立って、空っぽの車の反対側の窓ぎわに腰をおろした。もつれた髪の毛を帽子の下からはみ出させた、きたならしい、醜い百姓が、身をかがめて、列車の車輪を見ながら、窓のそばを通りぬけた。『このみっともない百姓には、何か見覚えがあるみたいだ』と、アンナは考えた。と、例の夢を思い出して、彼女は恐怖のあまり身ぶるいしながら、反対の戸口のほうへ身をひいた。車掌が戸を開けて、夫婦づれの旅客を入れた。
「あなたお出になりますか?」
 アンナは答えなかった。車掌も、入って来た旅客も、ヴェールにかくされた彼女の顔の恐怖の色に、気がつかなかった。彼女はもとの片すみにひっ返して、腰をおろした。夫婦づれは、そっと気どられぬように、注意ぶかく彼女の着物を見まわしながら、反対側に席をしめた。亭主も細君も、アンナの目にはいまわしく思われた。亭主のほうは、タバコを吸ってもかまいませんかとたずねたが、それは明らかにタバコを吸うためではなく、彼女に話しかけるためらしかった。かまいませんという返事を聞くと、彼は細君を相手に、フランス語で話しはじめたが、それはタバコよりもっと必要のなさそうな話であった。二人はただ、アンナに聞いてもらいたさに、空とぼけながら、ばかげたことばかりしゃべっていた。彼らが互に鼻についてしまって、おたがい同士憎み合っているのを、アンナはまざまざと見てとった。またこういうみじめな醜夫醜婦を、憎まないわけにいかないのだ。
 第二鈴が鳴った。つづいて手荷物を運ぶ音、ざわざわという物音、叫び、笑い声などが聞えた。アンナにとっては、だれも何一つうれしがることがないのは明瞭だったので、その笑い声が痛いほど心をいらいらさせた。で、彼女はそれを聞かないために、耳に蓋をしたいほどであった。ついに第三鈴が鳴って、笛がぴりぴりと鳴り、汽笛が響き渡ると、連結部がぐいと張った。亭主のほうは十字を切った。『いったいあれはなんのつもりなのか、ひとつご当人にきいてみたいものだわ』にくにくしげに男を見やりながら、アンナは肚の中でそう思った。彼女は、細君の顔をかすめて窓越しに、じっとプラットフォームに立っているのに、まるでうしろへ流れていくような見送りの人々をながめていた。アンナの乗っている車は、レールの継ぎ目継ぎ目で、規則ただしくごとんごとんと躍りながら、プラットフォームを通りすぎ、石垣をすぎ、信号所をすぎ、ほかの車輛のそばをかすめすぎた。車輪はしだいに調子よく、なめらかに軽い響きを立てながら、レールの上をすべって行った。窓は夕日にあかあかと照らされ、そよ風はカーテンをもてあそんだ。アンナは相乗りの人たちのことを忘れて、車の軽い動揺に身をまかせ、新鮮な空気を吸いこみながら、またもや考えはじめた。
『ええと、何をわたしは考えていたんだっけ! そうだ、人生が苦痛でないような状態は考え出せない、ということだったわ。わたしたちはみんな、苦しむために生れてきたんだわ。わたしたちはみんなそれを承知していながら、どうかして自分で自分をだまそうと、その方法を考え出しているのだ。でも、真実を見ぬいてしまったら、いったいどうしたらいいのだろう?』
「人が理性を授けられているのは、平安を乱すものからのがれるためですわ」と女のほうはフランス語でいった。いかにも自分のいった言葉に満足らしい様子で、怪しげな発音に臆面なしであった。
 その言葉はさながら、アンナの想念に呼応するかのようであった。
『平安を乱すものからのがれる』とアンナは心の中でくりかえした。そして、頬っぺたの赤い亭主とやせた細君をちらと見て、こんなことを見てとった。細君が自分のことを、理解されざる女気取りでいると、亭主のほうは細君を欺いて、彼女のうぬぼれを支持しているのだ。アンナは例の光線をこの二人の上に移して、あたかも彼らの生涯の歴史を知りつくし、彼らの魂の路地という路地を究《きわ》めつくしたような気がした。しかし、そこに何もおもしろいものはなかった。で、彼女は自分の想念をつづけた。
『そうだわ、とても平安を乱されているわ。ところで、それからのがれるために、理性が授けられているのだから、のがれなくちゃならない。もうなんにも見るものがなくなって、なにもかも見るのがいやらしくなったんだもの、どうして蝋燭を消さないって法があるものか? だけど、どんなふうにしたものだろう? なんだってあの車掌は、棒の上なんか伝って走って行ったんだろう? なんだってあの連中は、向うの車にいる若い人たちは、あんなに大きな声でわめいているのだろう? なんだってあんなにしゃべってるんだろう、なんだって笑ってるんだろう? なにもかもまちがっている、なにもかも嘘だ、なにもかも偽りだ、なにもかも悪なんだ!………」
 汽車が停車場へ近づいたとき、アンナは旅客の群にまじって、外へ出た。そして、まるでだれもかれも癩病《らいびょう》患者ででもあるかのように、一生懸命、人にさわらないようにしながら、プラットフォームに降り立つと、いったい自分はなんのためにここへ来たのだろう、何をするつもりだったのかと、しきりに思い出そうとした。前には可能に思われたことが、今ではひどく困難に感じられた。ことに、しばらくもじっとさせてくれない醜悪な人々の騒がしい群の中では、何一つ思いめぐらすことができなかった。荷担《にかつ》ぎ人夫が駆けよって、荷物を持たしてくれというかと思えば、若い人たちがプラットフォームの板を踵でがたがた踏み鳴らし、大きな声でがやがや話し合いながら、アンナをじろじろふり返って見たり、それかと思うと、向うからくる人が、自分の避けるほうへ道を避けるのであった。もし返事がなかったら、また先へ乗っていくつもりだったのを思い出して、彼女は一人の人夫を呼びとめ、ヴロンスキイ伯爵あての手紙を持った馭者が、その辺にいないかとたずねた。
「ヴロンスキイ伯爵ですって? 今そこにあのお邸から来た使のものがおりやしたが、ソローキナ公爵夫人とお嬢さまの迎いにみえたので。その馭者ってのは、どんな様子をした男でございますね?」
 彼女が人夫と話しているあいだに、青いしゃれた袖無し外套を着こみ、時計の鎖などちらつかせた、赤ら顔の陽気そうな馭者のミハイルが、りっぱに使命をはたしたのが大自慢の態《てい》で、彼女のそばへよって手紙をさし出した。アンナは封を切ったが、もう読まない先から、心臓が縮まる思いであった。
『おまえの手紙が行き違いになったのを、非常に残念に思っている。僕は十時に帰宅する』とヴロンスキイは無造作な筆蹟で書いていた。
『やっぱりそうだ! わたしの思ったとおりだ!』と彼女は毒々しい薄笑いを浮べながら、ひとりごちた。
「いいわ、おまえうちへお帰り」とアンナはミハイルに向って、小さな声でいった。彼女が小さな声でいったのは、心臓の鼓動が早いので、息がよくできなかったからである。『いいえ、わたしはおまえなんかにいじめられやしないから』と彼女は威嚇《いかく》の気持で考えたが、その相手はヴロンスキイでもなければ、自分自身でもなく、自分を苦しませる何者かであった。彼女は停車場の建物を通り越して、プラットフォームを先へ先へと行った。
 プラットフォームを歩いていた二人の小間使が、首をうしろヘそらせて彼女をながめ、その衣装の品さだめをして、何やらいった。『あれは本物よ』彼女の身につけているレースのことを、こんなふうにいった。若い男たちは、彼女をじっとさせておかなかった。彼らはまたしても、アンナの顔をのぞきこんで、何やら不自然な声で、笑い笑いどなりながら、そばを通りすぎた。駅長が通りすがりに、汽車にお乗りになるのですか、とたずねた。クワス売りの少年は、目もはなさず彼女を見つめていた。『ああ、いったいどこへ行ったものだろう?』プラットフォームを先へ先へと進みながら、彼女はこう考えた。いちばんはじまで来て、立ちどまった。眼鏡の紳士を出迎えに来て、大声に笑ったり、しゃべったりしていたいくたりかの婦人と子供たちは、彼女がそばまで来たとき、じろじろその様子を見まわすのであった。彼女は歩みを速めて、そのそばを離れ、プラットフォームのはずれまで行った。向うから貨物列車がやって来た。プラットフォームが震動しはじめ、彼女はまた汽車に乗っているような気がした。
 と、はじめてヴロンスキイに会った日、轢死《れきし》した男のことを思い出すと、彼女は忽然《こつぜん》として、何をなすべきかを悟った。水の入ったタンクから線路のほうへ通じているいくつかの階段を、軽々とした早い足どりで降りて行くと、彼女は走りすぎる列車とすれすれのところに立った。彼女は汽車の下のほうを見つめた。ゆっくりとすべって行く第一輛目の車の螺旋《らせん》、鎖、高い鋳鉄の車輪――彼女は、前部の車輪と後部の車輪の中間にあたる部分と、その中間の部分が、自分のまん前へくる瞬間を、目分量で測定しようとした。
『あすこだ!』石炭の粉と石にまみれた、車の陰の枕木を見つめながら、彼女はこうひとりごちた。『あすこだ、ちょうどまんなかを狙《ねら》って。そうすれば、あの人を罰することにもなるし、すべての人からも自分自身からも、のがれることになるんだ』
 彼女は、ちょうど自分の前へ来た第一輛目の車の、中央部へ身を投じようとしたが、赤いハンド・バッグを腕からはずそうとして、それに手間どった。もう遅い、第一輛目の中央部はすぎてしまった。次の車を待たなければならない。水浴びをしようとして、いざ水へ入るときに感じるような気持が、彼女をつかんだ。彼女は十字を切った。この十字を切るという仕慣れた動作は、彼女の心に娘時代、子供時代の幾多の思い出を呼び起した。とふいに、彼女にとっていっさいをおおっていた闇がさっと破れて、そのせつな、生活が過去の明るい喜びをことごとく網羅して、彼女の眼前にひらけた。けれど、彼女は近づいてくる二輛目の車の車輪から、目をはなさなかった。そして、車輪と車輪の中間部がちょうどまん前へ来たとき、彼女は赤いハンド・バッグをわきへ投げ出すと、首を両肩のあいだへひっこめて、車の下へ両手をついて倒れた。そして、すぐに起きあがるための用意らしく、身軽な動作で膝をついた。と、その瞬間、彼女は自分のしたことにぞっとした。『わたしはどこにいるのだろう? わたしは何をしているのだろう? いったいなんのために?』彼女は身を起して、わきのほうへ飛びのこうとした。が、何かしら容赦のない大きなものが、彼女の頭をひと突きし、背中をつかんでひっぱった。『神さま、どうかなにもかも赦して下さい!』争ってもかいのないのを感じて、彼女はこう口走った。小柄な百姓が何やら唱えながら、鉄の上で何か仕事をしていた。彼女は一本の蝋燭の光で、不安と、欺瞞と、悲哀と、悪にみちた書物を読んでいたが、その光はかつてないほどの強さでぱっと燃えあがって、今まで闇の中に沈んでいたいっさいのものを照らし出したと思うと、急にぱちぱちと音を立てて暗くなり、永久に消えてしまった。
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