『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」7-21~7-25(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]二一[#「二一」は中見出し]

 バルトニャンスキイのところで、すばらしい晩餐をごちそうになり、おびただしいコニャクを飲んだあとで、オブロンスキイは指定された時間より少し遅れて、リジヤ・イヴァーノヴナ伯爵夫人のもとを訪れた。
「伯爵夫人のとこには、ほかにまだだれが来ている? フランス人かね……」見慣れたカレーニンの外套と、ホック留めの奇妙な、ナイーヴな感じのする外套を見まわしながら、オブロンスキイは玄関番にたずねた。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ・カレーニンさまと、ベッズーボフ伯爵でいらっしゃいます」と玄関番はいかめしく答えた。
『ミャーフカヤ公爵夫人のお察しのとおりだ』とオブロンスキイは、階段を昇りながら考えた。『奇妙だなあ! しかし、伯爵夫人と近づきになっておくのも悪くないて。なかなかの勢力家だからな。もしあのひとが、ポモールスキイに口添えしてくれたら、もう成功うたがいなしだ』
 外はまだ明るかったが、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナの小さな客間の中は、もう窓掛をおろして、ランプがつけてあった。
 ランプの下の円いテーブルのそばには、伯爵夫人とカレーニンが腰かけて、何やら小さい声で話していた。女のような骨盤をして、膝のところが内輪に曲った、美しい目のぎらぎら光る、長い髪をフロックの襟までたらした、美しい顔立ちの、ひどく蒼白な、背の高くないやせぎすの男が、むこうの端に立って、肖像画を掛けつらねた壁をながめていた。女あるじとカレーニンに会釈をして、オブロンスキイはもう一度、未知の男を見やった。
「ムシゥ・ランドー!」と伯爵夫人は、オブロンスキイが驚くほど物柔らかな、用心ぶかい声で呼びかけた。そうして、彼女は二人をひき合わせた。
 ランドーは急にふり返って、そばへより、にっこり笑いながら、オブロンスキイのさしのべた手の中へ、汗ばんだ動かない手を入れると、すぐまたむこうへ行って、肖像をながめはじめた。伯爵夫人とカレーニンは、意味ありげに目を見合わせた。
「お目にかかれて、たいへんうれしゅうございます、ことに今晩はね」オブロンスキイに、カレーニンのそばの席をさしながら、リジヤ・イヴァーノヴナはそういった。
「わたくし、あなたにご紹介するとき、ランドーと申しあげましたが」フランス人のほうをちらと見て、それからすぐカレーニンに視線を移しながら、彼女は小さな声でいった。「じつはあのかたベッズーボフ伯爵なんですの、たぶんあなたもごぞんじでいらっしゃいましょうが。ただ、あのかたはこの呼び方がお嫌いなんでして」
「ええ、聞きました」とオブロンスキイは答えた。「なんでも、ベッズーボフ伯爵夫人の病気を、きれいになおしたそうですね」
「あのかた、今日うちへいらしたんですけど、見る目もお気の毒でしたわ」と夫人はカレーニンに話しかけた。「今度の別れが、あのかたにしてみれば、とてもつらいことでしょう。恐ろしい打撃なんですものね!」
「あの人はいよいよ発《た》つんですか?」とカレーニンはたずねた。
「ええ、パリヘお帰りになるんですの。昨日お告げをお聞きになったものですからね」とリジヤ・イヴァーノヴナは、オブロンスキイを見ながらいった。
「ああ、お告げをね!」この席では、自分がまだ鍵を握っていない特殊なあるものが行われているのだから、もしくは行われんとしているのだから、できるだけ慎重な態度をとらなければならぬと感じて、オブロンスキイはおうむ返しにいった。
 つかのまの沈黙が訪れた。そのあとでリジヤ・イヴァーノヴナは、いよいよ本題にとりかかりますというように、微妙な笑いを浮べながら、オブロンスキイにいった。
「わたしは、前からあなたを存じあげておりましたが、こうしてお近しくしていただけるのは、何よりうれしゅうございますわ。Les amis de nos amis sont nos amis(お友だちのお友だちはつまり自分のお友だちですものね)。でもね、親友になるためには、相手の心をよっく考えなくちゃなりませんが、あなたはアレクセイ・アレクサンドロヴィッチにたいして、それをなさらないのじゃないかと、そう思いますのですけれど。わたしなんのことを申しているか、おわかりになりますでしょう?」美しい物思わしげな目を上げて、彼女はこういった。
「ある程度まではわかります、伯爵夫人、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチの境遇は……」オブロンスキイはなんのことやらよくわからなかったが、あたらずさわらずの返事をしておこうと思って、こんなことをいった。
「変化が生じたのは、外部の境遇ではありません」とリジヤ・イヴァーノヴナは、きびしい調子でいったが、それと同時に、席を立ってランドーのほうへ行ったカレーニンを、ほれぼれした目つきで見守るのであった。「あのかたの魂が変ったのです。あのかたは新しい魂をお授かりになりました。ところが、あなたはあのかたの心に起った変化を、とっくりと考えてごらんになったことがないのじゃございますまいか」
「といって、だいたいのところなら、私もその変化を想像することができます。私たちはいつも親しくしていましたし、今でも……」伯爵夫人の眼に優しい視線でこたえながら、オブロンスキイは心の中で、二人の大臣のうち、夫人はどちらとより親しくしているのだろう、どちらのほうに口添えを頼んだらいいかしらと、思案していた。
「あのかたの心の中に生じた変化は、同胞への愛を弱めるものではありません。それどころか、あのかたの内部に起った変化は、その愛を強めたに相違ありません。でも、あなたはわたしの申しあげる意味が、おわかりにならないのじゃないでしょうか。ときに、お茶はいかがでございます?」盆にのせて茶を運んできた従僕を指さしながら、彼女はこういった。
「十分にはわかりかねます、伯爵夫人。もちろん、あの人の不幸は……」
「ええ、不幸ですわ。でも、それはね、あのかたの心が更新されて、神の祝福でみたされた時、至高の幸福に変ったのでございます」と彼女はオブロンスキイを、ほれぼれとながめながらいった。
『これならどうやら、両方ともに口添えを頼むことができそうだぞ』とオブロンスキイは考えた。
「おお、もちろんです、伯爵夫人」と彼はいった。「しかし、私が考えますには、その変化は非常にインチメートなものですから、だれだって、どんなに親しくしている人だって、口に出すのを好まないじゃないでしょうか」
「それどころじゃございません! わたしたちはそれを話して、お互にたすけあわなくちゃなりません」
「そりゃ申すまでもありません。が、そこには信念の相違というものもありますし、それに……」とオブロンスキイは、物柔らかな微笑を浮べていった。
「神様の真理に、信念の相違なんてあろうはずがございません」
「ああ、そりゃ、もちろんそうですが、しかし……」とオブロンスキイはどぎまぎして、口をつぐんだ。これは宗教の話なのだな、と彼は悟った。
「どうやら、今にも眠りそうですよ」とカレーニンが、リジヤ・イヴァーノヴナのそばへ来て、意味ありげな声でささやいた。
 オブロンスキイはふり返って見た。ランドーは肘椅子《ひじいす》の腕木に肘つきし、背にもたれかかり、首をたれて、窓ぎわに坐っていた。自分のほうへ向けられた人々の視線に気がついて、彼は頭を上げ、子供のように無邪気な微笑を浮べて、にっこりした。
「かまわないでおおきあそばせ」とリジヤ・イヴァーノヴナはいい、軽い動作でカレーニンに椅子をおしやった。「わたくし気がついたのですけれど……」と彼女が何やらいいだした時、従僕が手紙を持って、部屋へ入ってきた。リジヤ・イヴァーノヴナは、さっさと文面に目を走らすと、ちょっと客に断って、驚くべき早さで返事をしたため、従僕に渡して、茶のテーブルへ帰ってきた。「わたくし気がついたんですけど」彼女はしかけた話をつづけた。「モスクワの人、ことに男の人は、宗教にたいしていちばん冷淡ですわね」
「ああ、それは違います、伯爵夫人、モスクワ人はだれより堅固だという、定評があるようです」とオブロンスキイは答えた。
「そう、でも、私の知っている限りでは、君は残念ながら、冷淡な人の部に属しているようだね」とカレーニンは疲れたような微笑を浮べて、彼のほうへ向いてこういった。
「どうして冷淡な気持なんかでいられるでしょう!」とリジヤ・イヴァーノヴナはいった。
「私はこの点で冷淡というのじゃなくて、待機の状態にあるのです」例の人の心を和らげるような微笑を浮べながら、オブロンスキイはそういった。「私にとっては、まだこれを問題にする時期がきたとは、思われませんのでね」
 カレーニンとリジヤ・イヴァーノヴナは、目を見合わせた。
「われわれにとって、時が来たかどうかということは、決して知ることができません」とカレーニンはきびしい調子でいった。「われわれは、心がまえができてるかどうかなどということは、考えるべきじゃないです。天恵というものは、人間の鼻先思案に導かれるものじゃないから、ときとすると、一生懸命に努力しているものには降ってこないで、サウルの場合のように、心がまえのできていないものの上に、降ってくることがあります」
「いいえ、まだ今じゃなさそうですわ」そのあいだにフランス人の動作を見守っていた、リジヤ・イヴァーノヴナはこういった。ランドーは立ちあがって、彼らのそばへ来た。
「お話をうかがってもよろしゅうございますか」と彼はたずねた。
「ええ、ええ、よろしゅうございますとも。わたくし、あなたのおじゃまをしてはいけないと思ったものですから」とリジヤ・イヴァーノヴナは、優しい目つきで相手を見ながらいった。「どうぞごいっしょにおかけなさいましな」
「光を失わないようにするには、ただ目をふさがないようにすればいいのです」とカレーニンは言葉をつづけた。
「ああ、わたしたちの味わっている幸福が、もしあなたにおわかりでしたらねえ。わたしたちはいつでも、自分の心に神の存在を感じているのですからねえ」とリジヤ・イヴァーノヴナは、さも幸福そうな微笑をもらしながらいった。
「しかし、人間はときによると、そういう高みにまで昇って行けない、と感じることがありますからね」とオブロンスキイはいった。宗教的な高みを認めるのは、良心を曲げるわざであると感じながら、同時に、たったひと言ポモールスキイに口添えするだけで、宿願の地位を授けてくれるかもしれぬ人の前で、自分の自由思想を表明する勇気がなかったのである。
「つまりあなたは、罪業《ざいごう》が障害になるとおっしゃるんですの?」とリジヤ・イヴァーノヴナはたずねた。「いいえ、それはまちがった考え方でございますわ。信ずるものにとっては、罪業などはございません、罪はもうあがなわれているのですから。失礼」また別の手紙を持って入ってきた従僕を見て、彼女はそうつけたした。手紙に目を通して、彼女は口頭で返事をした。「あす太公妃のところで……とそういっておくれ……信ずるものには罪業なんかありません」と彼女は話をつづけた。
「そうです、しかし行為のない信仰は、死んだものと同じです」教理問答の中の一句を思い出して、オブロンスキイはこういったが、ただ口辺の微笑だけで、すでにおのれの自主性を擁護しているのであった。
「ああ、それは使徒ヤコブの書にある句ですが」とカレーニンはいった。ある種の非難をこめて、リジヤ・イヴァーノヴナの方へ向いたところをみると、明らかに、二人で一再ならず論じた事柄に関係しているらしい。「この句のまちがった解釈が、どれくらい害をしたかしれません! この解釈ほど、人を信仰からつき放すものはありませんよ、『自分には仕事がない、だから信ずることができない』とこういうのですが、実際は、どこにもそんなことはいってないのです。いわれているのは、正反対なことなんです」
「神さまのために働く、勤労や精進で自分の魂を救うなんて」とリジヤ・イヴァーノヴナは、さもいやらしそうな軽蔑の表情をしていった。「それは、ロシヤの坊さんたちの野蛮な考え方ですわ……ところが、本当はどこにもそんなこと書いてありゃしません。それはね、ずっと簡単で、やさしいことなんですの」彼女は励ますような微笑を浮べて、オブロンスキイを見ながら、つけ足した。それは、宮中の不慣れな環境のためにまごまごしている、若い女官を励ますときと同じようであった。
「われわれは、われわれのために受難したキリストによって救われたのです。われわれは信仰によって救われたのです」目つきでもって、夫人の言葉に賛意を表しながら、カレーニンは相槌を打った。
「Vous comprenez l'anglais?(あなた英語おわかりになります?)」とリジヤ・イヴァーノヴナはたずね、わかるという返事を聞くと、立ちあがって、小さな書棚の本をさがしはじめた。「わたし『Safe and Happy?(安全と幸福)か、それとも『Under the wing』(翼の下にて)を読もうと思いますの」と彼女は相談するように、カレーニンを見やって、そういった。やがて、書物を見つけると、またもとの座に帰って、ページをめくった。「これはごく短いものなんですの。この中にはね、信仰を獲《え》る道と、それによって心をみたされる幸福、いっさいの地上的なものを超越した幸福のことが書いてありますのよ。信ずるものは不幸なんかにはなれません、それは一人きりでないからです。まあ、今におわかりになりますわ」彼女が読みはじめようとすると、また従僕が入ってきた。「ボロズジナ夫人? 明日の午後二時にと申しあげてちょうだい。ええ、そうですの」自分の読もうと思うページに指をはさんで、ため息とともに、美しい物思わしげな目つきで前を見つめながら、彼女はいった。「本当の信仰ってものは、こういう働きをするのでございますよ。あなた、マリイ・サーニナをごぞんじでいらっしゃいます? あのかたの不幸をお聞きになりまして? たった一人の赤ちゃんを失くされたのでございますよ。あのかたは、絶望のどん底に突き落されていらしたんですけど、それがまあ、どうでしょう? この親友を発見なさいましてね、今では赤ちゃんの亡くなったことを、神さまに感謝していらっしゃいますわ。これが信仰の与える幸福なんでございますよ」
「ああ、それは本当に……」これから読みにかかったら、ひと息つかしてもらえるだろうと楽しみにして、オブロンスキイはこういった。『いや、どうやら今夜は、なんにも頼まないほうがいいらしい』と彼は考えた。『ただどうか、へまをやらないで、足もとの明るいうちに退散することだ』
「あなたはご退屈ですわね」とリジヤ・イヴァーノヴナは、ランドーのほうへ向いていった。「あなたは英語をごぞんじないから、でもこれは短いものですの」
「いえ、私もわかります」と依然たる微笑を浮べていい、ランドーは目をつぶった。
 カレーニンとリジヤ・イヴァーノヴナは、意味ありげに目を見かわし、そこで朗読がはじまった。

[#5字下げ]二二[#「二二」は中見出し]

 オブロンスキイは、いま聞かされている、自分にとって新しい、奇妙な言葉に、すっかりどぎもを抜かれたような気がした。ペテルブルグ生活の複雑味は、モスクワの停滞からひっぱり出してくれるために、概して彼に刺激の働きを与えてくれた。自分に親しいなじみの深いサークルでは、彼もこの複雑味を理解し、かつ愛したのであるが、この縁遠い環境の中では、ただ面くらい、どぎもを抜かれるばかりで、すべてを包容することができなかった。リジヤ・イヴァーノヴナの朗読を聞き、自分の方へそそがれているランドーの、美しい、無邪気な、それともずるそうな――彼は自分でもよくわからなかった――目を見ているうちに、オブロンスキイは何かしら一種特別な頭の重さを感じてきた。
 思いきって種々さまざまな考えが、彼の頭の中でこんぐらかった。「マリイ・サーニナは、赤ん坊が死んだといって喜んでいる……今ちょっと一服したら、さぞいいだろうなあ……魂の救いのためには、ただ信じなければならない。ところが、坊さんたちはそれをどんなふうにしたらいいか知らないけれども、リジヤ・イヴァーノヴナは知っているのだ……だが、どうしてこんなに頭が重いんだろうなあ? コニャクのせいかしら、それとも、これがあまりどうも変てこりんなためだろうか? しかし、それにしても、おれは今まで何も、ぶしつけなことはしなかったらしい。が、とにかくもうこうなったら、依頼をもちだすわけにはいかんわい。この連中は、お祈りをさせるという話だが、もしおれにそんなことをさせたら、それこそあんまりばかばかし過ぎるぞ。それにしても伯爵夫人は、なんてくだらないことを読んでいるのだろう、だが、発音はなかなかよろしい。ランドーがベッズーボフ、なんだってまたベッズーボフなんだ?』
 突然オブロンスキイは、下頤《したあご》がたまらなく動きだして、あくびになりそうなのを感じた。彼はあくびをかくすために頬髯を撫でて、ぶるっと一つ身ぶるいした。が、それにつづいて、早くも居眠りしている自分を感じた。もういびきをかかんばかりである。と、リジヤ・イヴァーノヴナが、『あの人は眠ってらっしゃいますわ』という声が耳に入った瞬間、はっとわれに返った。
 オブロンスキイは、悪いことをした、見つかったぞと思って、おびえたように目を開けたが、『あの人は眠ってらっしゃいますわ』という言葉は、自分ではなくランドーのことだとわかったので、すぐさまほっとした。フランス人も、オブロンスキイ同様に眠っていたのであるが、オブロンスキイの居眠りは、彼自身の考えたとおり、二人に侮辱感を与えたに相違ないが(もっとも、彼は別にはっきりそう考えたわけではない。すべてがあまりにも奇怪に思われたからである)、ランドーの居眠りはなみなみならず二人のもの、ことにリジヤ・イヴァーノヴナを喜ばしたのである。
「|わが友《モナミ》」音のしないように、絹の服の裾を持ち上げながら、興奮のあまりカレーニンを『アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ』でなく『|わが友《モナミ》』と呼びながら、リジヤ・イヴァーノヴナはこういった。「Donnez-lui la main(あの人に手を貸してあげてください)、Vous voyez?(おわかりでしょう?)しっ!」と彼女は入ってきた従僕を制した。「お会いしません」
 フランス人は肘椅子の背に頭をのせて、眠っていた、それとも眠っているふりをしていたかもしれない。そして、何かつかまえようとでもするように、膝の上においてある汗ばんだ手を、弱々しく動かしていた。カレーニンは立ちあがり、用心ぶかくしようと思いながら、やっぱりテーブルにごとんとさわって、フランス人のそばへ行き、その手の上に自分の手をおいた。オブロンスキイも同じく立ちあがり、もし夢でも見ているのなら、早くさめようと思いながら、大きく目を見ひらいて、二人をかわるがわる見つめていた。それはみんな現実の出来事であった。オブロンスキイは、自分の頭がだんだん変になっていくような気がした。
「〔Que la personne qui est arrive'e la dernie`re, celle qui demande, qu'elle ―― sorte. Qu'elle sorte!〕(いちばんあとに来た人で、疑いをもっているあの人は、出て行ってもらおう。出て行ってもらおう!)」とフランス人は目をつぶったままで、こういった。
「Vous m'excuserex, mais vous voyez …… Revenez vers dix heurs, encore mieux demain.(まことに申しわけありませんけど、ごらんのとおりのわけですから、十時までにいらして下さいまし、明日ならばなおけっこうでございます)」
「Qu'elle sorte!(出て行ってもらいましょう)」とフランス人は、じれったそうにくりかえした。
「C'est moi, n'est ce pas?(それは私のことでしょうか、そうでしょう?)」そうだという返事を聞いて、オブロンスキイは、リジヤ・イヴァーノヴナに頼もうと思ったことも、妹の用事も忘れてしまって、ただ一刻も早くここを逃げだしたい一心で、爪立ちで部屋を出ると、伝染病の家からでものがれるように、いっさんに往来へ駆けだした。そして、少しも早く自分を正気づけようと思って、長いこと馭者を相手に世間話をしたり、冗談をいったりした。
 フランス劇場では、やっと最後の幕に間に合ったし、それからダッタン人の料理屋で、シャンペン酒を飲みなどしているうちに、オブロンスキイ[#「オブロンスキイ」は底本では「オブロンキイ」]は吸い慣れた空気に包まれて、いくらかほっとはしたものの、それでもこの晩は、やはり本当にいつもの気分になれなかった。
 ペテルブルグの宿にしているピョートル・オブロンスキイの家へ帰ると、ベッチイからの手紙が来ていた。あの途中やめになった話をぜひ片づけたいから、明日おいでを願うというのであった。この手紙を読み終って、顔をしかめたと思ったとたん、階下《した》で何か重いものを運ぶ召使たちの足音が、ばたばたと聞えた。
 オブロンスキイは何ごとかと部屋を出てみた。それは、若返ったピョートル・オブロンスキイであった。彼はぐでんぐでんに酔っぱらってしまって、階段をあがることができなかったのである。しかし、スチェパン・アルカージッチを見ると、下へおろせといいつけ、相手の肩につかまりながら、彼の部屋へ行き、どんなふうにその晩をすごしたかという話をして、すぐに眠ってしまった。
 オブロンスキイは、めったにないことに、意気銷沈してしまって、長く寝つくことができなかった。何を思い出してもいまわしかったが、まるで何か恥ずべきことのように、何よりいまわしく思い起されたのは、リジヤ・イヴァーノヴナのもとですごした数時間であった。
 翌日、彼はアンナの離婚を拒絶するという、きっぱりした返事をカレーニンから受け取った。この決定の基礎になったのは、昨夜あのフランス人が本当か嘘か知らないが、夢の中でいったことに相違ないと悟った。

[#5字下げ]二三[#「二三」は中見出し]

 家庭生活で何かと実行するためには、夫婦間の完全な決裂か、それとも愛の一致が必要である。ところが、夫婦の関係があいまいで、どっちつかずの場合には、どんなことも実行するわけにいかない。
 多くの家庭が長年のあいだ、夫婦のどちらにとっても飽きあきした状態のままでいるのは、ただ完全な決裂も一致もないからにすぎない。
 ヴロンスキイにとっても、アンナにとっても、暑さと埃《ほこり》の中のモスクワ生活はたえがたかった。太陽はもう春というより、夏のような照らし方をし、ブルヴァールの樹はもうすっかり若葉をひろげて、その葉が早くも埃まみれになっている。にもかかわらず、彼らはもうとくに決定したとおり、ヴォズドヴィージェンスコエヘ帰らないで、二人ながらいやになってしまったモスクワの生活をつづけていた。なぜなら、最近ふたりのあいだには、一致というものがなかったからである。
 彼ら二人を離間さしているいらいらした気分には、外面的になんの原因もなかった。で、よく話をつけようとするいっさいの試みは、それを除かないばかりか、ますます増大さすばかりであった。この内面的ないらだたしさは、彼女にとっては、男の愛情の減退がもとになっていたし、彼にとっては、女のために自分で自分をこんな苦しい立場においたという悔悟の念と、その立場をアンナが楽にしようとしないどころか、いよいよ苦しくするという不満が原因になっていた。彼らはどちらも、自分のいらだたしさを口に出していわなかったが、互に相手がまちがっていると思って、なんでも口実さえあれば、それを証明しようとつとめた。
 アンナにとっては、彼は習慣も、思想も、希望も、精神的の特徴も、いっさいをひっくるめて、ただ一つのもの、すなわち女性にたいする愛であった。しかもその愛は、彼女の感じ方からいえば、自分ひとりだけに残らず集中されねばならなかった。ところが、この愛が減退したのだから、したがって、彼はその愛をほかの女、数人もしくは一人の女に移したに相違ない、とこう判断して、彼女は嫉妬するのであった。彼女の嫉妬は、特定の女に向けられたのでなく、男の愛情の減退に向けられたのである。まだ嫉妬の対象をもたなかったので、彼女はそれをさがし出そうとした。ほんのちょっとした暗示でもあると、彼女は自分の嫉妬を、一つの対象から別のものへ移した。ときには、男が独身時代からの関係で、容易に交渉をもつことのできる商売女たちに嫉妬するかと思えば、ときには、いつでも会うことのできる社交界の婦人に嫉妬し、またときには、想像の生んだ令嬢に嫉妬した。男が自分と手を切って、その令嬢と結婚しようと企《たくら》んでいる、ように思われるのであった。この最後の嫉妬が、何よりも彼女を苦しめた。その最もおもな原因は、彼自身が打明け話のとき、ついうっかりと、母はじつに自分という人間を理解しない、なぜなら、ソローキナ公爵令嬢と結婚しろとすすめるなんて、よくもそんなことがいえたものだと、口をすべらしたからである。
 こういうふうに嫉妬するにつけて、アンナは男にたいして憤慨の念をいだき、ことごとに憤慨の口実を見つけ出した。この天涯孤独な身の上で、モスクワにすごしたあいだの悩ましい期待の心持、カレーニンの不決断と返事の遅延、自分の孤立無援――これをすっかり男のせいにした。もし彼に愛情があったなら、自分の境遇の苦しさを理解して、そこからひき出してくれそうなものである。彼女が田舎でなく、モスクワに暮していることも、やっぱり男のせいなのであった。あの人は自分の望んでいるように、田舎に埋れて暮すことができないのだ。あの人は社交界がなくてかなわないために、自分をそんな恐ろしい状態におきながら、その苦しさをわかってくれようとしない。なおそのうえ、彼女が永久に自分の子供とひき分けられてしまったのも、やっぱり男の責任なのであった。
 ときとして、たまに訪れる愛情こまやかな時期でさえ、彼女は安心しきれなかった。彼女は男の愛情の中に、以前なかったおちつきと、自信のニュアンスを認めた。それが彼女をいらいらさすのであった。
 もう黄昏《たそがれ》であった。アンナは、独身連中の宴会に出かけて行った男の帰りを待ちながら、たった一人書斎のなかを、あちこち歩きまわっていた(この部屋にいれば、車道の轟音があまり聞えないのであった)。そして、昨日ふたりが喧嘩して、いいあったことを、こまかい端々まで思い返していた。いさかいの口火となった、頭に刻みこまれている侮辱的な言葉からさかのぼって、その導火線となったところまでひっ返し、そのときの話の発端までたどりつくと、彼女はあんな罪のない、だれの心にもさわらない話から、ああした不和がひき起されたとは、いかにも信じられない気持がした。全くそれはそのとおりなのであった。いっさいの事のおこりは、彼が女学校を不要なものだといって冷笑し、彼女がそれを弁護したことによるのである。彼は女子教育一般を侮蔑して、アンナの保護しているイギリス娘のハンナなども、物理の知識などてんで必要がないのだ、といった。
 それがアンナをいらいらさせた。彼女はそこに、自分の仕事にたいする侮蔑的なあてこすりを見たのである。で、彼女は自分を傷つけられたしっぺ返しを考えついて、それを口に出していった。
「わたしは、愛する人が理解するようなしかたで、あなたにわたしというものを、わたしの感情を、理解してもらおうとは思っていませんけれど、でもただのデリカシイだけは、もっていただけるものと思っていましたわ」と彼女はいった。
 案の定《じょう》、彼はいまいましさに顔を真赤にして、何かいやなことをいった。それにたいしてなんと答えたか、彼女は覚えていなかったけれども、そのとき彼はなんのためやら、おそらくこれも女を傷つけようというつもりらしく、こんなことをいったのである。
「僕はね、君があの娘を猫かわいがりするのが不快なんだ。実際それはそのとおりなんだよ。だって、それが不自然なのは見え透いているもの」
 彼女が自分の苦しい生活をまぎらすために、かろうじて築き上げた世界を破壊しようとするこの残酷さ、彼女を不自然だ、猫かぶりだといって非難するこの無理非道は、彼女を爆発させてしまった。
「わたし本当に残念ですわ、ただ粗野な物質的なものだけがあなたに理解されて、自然に見えるってことがね」と彼女はいい、部屋を出てしまった。
 昨晩、彼がアンナのところへやって来たとき、二人は以前のいさかいのことを口にしなかった。けれど、いさかいは納まりはしたものの、すっかり消えてはしまわないということを、二人とも感じていた。
 今日、彼は一日うちにいなかった。アンナは、彼と喧嘩しているのだと思うと、さびしく苦しくてたまらなかった。で、なにもかも忘れ、赦し、和解したくなり、自分を非とし、彼を是としようと考えた。
『わたしが自分でわるかったんだわ。わたしいらいらしやすくって、無意味な嫉妬《しっと》ばかりしてるんだもの……あの人と仲なおりして、田舎へ帰りましょう、むこうへ行けば、ずっと気持がおちつくから』と彼女はひとりごちた。
『不自然!』ふと、自分を何よりも侮辱したひと言を思い浮べた。いや、言葉よりもむしろ、自分を傷つけようというその心持である。『あの人が何をいおうとしたか、わかってるわ。自分の娘を愛さないで、他人の子をかわいがるのが不自然だ、とそういいたかったんだわ。あの人に、子供にたいする愛なんて、何がわかるものか、あの人のために犠牲にしたセリョージャにたいする愛情が、あの人にわかるはずがない。あれは、ただわたしの心を傷つけようと思ったまでのことだ! いいえ、あの人はほかの女を愛しているのだ、きっとそうに違いない』
 自分の心をおちつけようとして、もう何度も何度も通ったところを、またもやどうどうめぐりして、以前のいらいらした気分に帰ったのに気がつくと、彼女は自分で自分にぞっとした。
『いったいほんとにだめなのかしら? なにもかも自分にかぶることはできないのかしら?』と彼女はひとりごち、また初めからやりなおしにかかった。『あの人は真実があって、潔白で、わたしを愛しているのだわ。わたしもあの人を愛していて、近いうちに離婚も成立する。その上に何がいるんだろう? ほかでもない、おちつきと信頼だ。そして、万事自分が悪かったと思うことだ。そうだ、今にもあの人が帰って来たらさっそく、わたしが悪かったといいましょう。もっとも、わたしが悪いのじゃないけれど……そして、二人で田舎へ帰りましょう』
 もうこれ以上考えて、またいらいらした気分にひきこまれないために、彼女はベルを鳴らして、田舎へ帰るしたくに荷造りするから、トランクを持って来るように命じた。
 十時になって、ヴロンスキイが帰って来た。

[#5字下げ]二四[#「二四」は中見出し]

「いかがでした、おもしろうございました?」男を迎えに出ながら、彼女はすまなそうな、つつましやかな表情でたずねた。
「いつものとおりさ」アンナのきげんがいいことをひと目で見てとって、彼はそう答えた。彼はそういう変化には慣れていたが、今日は自分も上々のきげんだったので、特にそれをうれしく思った。
「おやおや、これは! こいつぁいい!」と彼は控室のトランクをさしていった。
「ええ、もう帰らなくちゃなりませんわ。わたし馬車で散歩に出かけたところ、とてもいい気持でしたので、急に田舎へ帰りたくなりましたの。ね、あなたも別にご用はないでしょう?」
「それこそ僕も望むところさ。今すぐくるからね、よく相談しよう、ただちょっと着替えをするだけだ。お茶の用意をいいつけておくれ」
 そういって、彼は書斎へ行った。
 彼が『こいつぁいい』といった調子に、何か侮辱を感じさせるものがあった。まるで、だだをこねなくなった子供にでもいうようである。それよりもっと侮辱を感じさせたのは、彼女の申しわけなさそうな態度と、彼のみずからたのむところありげな態度の対照である。彼女は瞬間、心の中に闘争欲のこみあげるのを感じたが、努力してようやくそれをおさえつけて、やはり楽しげな様子で、ヴロンスキイを迎えた。
 ヴロンスキイが入ってきたとき、彼女はある程度、用意した言葉をくりかえしながら、自分のすごしたきょう一日の模様や、出発に関する計画などを話した。
「じつはねえ、わたしほとんど霊感といってもいいほどの気持がわいてきましたのよ」と彼女はいった。「なんのためにここで離婚を待ってるんだろう? そんなことは田舎にいたって同じことじゃないか? と思いましてね。これ以上待っていられませんわ。わたし、もうあてにしたくありません、離婚のことなんて、いっさい聞きたくありませんわ。そんなことは、わたしの生活になんの影響もありゃしない、とそうきめてしまいましたの、あなたも賛成して下さるでしょう?」
「そりゃそうとも!」彼女の興奮した顔を見て、ヴロンスキイは不安げにこう答えた。
「あなたクラブで、どんなことをなすったの? どんな人たちが集まりまして?」ちょっと黙っていた後、彼女はたずねた。
 ヴロンスキイは客の名前をいって、
「食事はすばらしかったよ。それに、ボート・レースがあったりして、なにもかも相当おもしろかった。しかし、モスクワでは ridicule(おかしなこと)なしじゃすまないんだね。スエーデン王妃の水泳教師という婦人が現われてね、自分の技術を示したわけさ」
「え? 泳いだんですの?」とアンナは眉をひそめてきいた。
「なんだか赤い costume de natation(水泳着)を着てるんだが、年とったみっともない女なんだ。で、いつ出発するね?」
「なんてばかげた思いつきでしょう! それで、なんですの、なにか特別な泳ぎ方をするんですの?」アンナは男の問いに答えず、こうきいた。
「なんにも変ったことはありゃしない。だから、おそろしくばかげてるっていうのさ。で、いつ出発しようと思うね?」
 アンナは、いやな想念を追いのけようとでもするかのように、さっと頭をふった。
「いつ出発するかですって? そりゃ早いだけよござんすわ、明日は間にあわないから、明後日にしましょうよ」
「そうだね……いや、待ってくれ。明後日は日曜で、母のところへ行かなくちゃならないんだ」とヴロンスキイは、もじもじしながらいった。なぜなら、母の名を口にするが早いか、アンナがうさんくさそうに、自分を見つめるのを感じるからであった。彼がもじもじすると、それはアンナの疑いを確かめることになる。アンナはかっと赤くなって、男から身を離した。今ではスエーデン王妃の水泳教師でなく、ヴロンスキイ伯爵夫人と同じモスクワ近郊の村に住んでいる、ソローキナ公爵令嬢が、アンナの心に浮んでくるのであった。
「明日だって行けるじゃありませんか!」と彼女はいった。
「ところが、だめなんだ。僕の行かなくちゃならん用事のために、明日はまず委任状と金を受け取っておく必要があるんだが、それが明日はだめなんだ」と彼は答えた。
「それなら、わたしたちは行くのをすっかりやめましょう」
「そりゃどうして?」
「わたし、それよりも遅かったら発《た》ちませんわ。月曜でなかったら、すっかりやめですわ」
「どういうわけだね?」とヴロンスキイは、驚いたようにいった。「だって、そんなこと無意味じゃないか!」
「あなたにはそりゃ無意味でしょう。だって、あなたはわたしのことなんか、どうでもいいんですもの。あなたはわたしの生活を、理解しようとなさらないんですわ。ここでたった一つわたしをひきつけていたのは、あのハンナです。ところが、あなたはそんなことなんか芝居だ、とおっしゃるんですもの。だって、昨日あなたそうおっしゃったでしょう、わたしは自分の娘をかわいがらないで、あのイギリス娘を愛しているような顔をしてる、それは不自然だって。いったいわたしがここで、どういう生活をしたら自然なのか、それがうかがいたいもんですわ」
 つかのま、彼女はわれに返って、自分のこころぐみを裏切ったことに、ぞっとした。けれど、われとわが身を滅ぼしていると知りつつ、彼女はおのれをおさえることができなかった。男のほうがまちがっていることを、証明せずにいられなかった。男に屈服することができなかった。
「僕は一度もそんなことをいやしないよ。ただそういうだしぬけの愛情には同感できない、とそういっただけだよ」
「どうしてあなたは、いつも率直を自慢なさりながら、本当のことをおっしゃらないんでしょうね?」
「僕はそんなことを自慢した覚えがないし、一度も嘘をついたこともないよ」腹の中にこみあげてくる怒りをおさえながら、彼は低い声でいった。「じつに残念だね、おまえが……なにを尊敬しないのは……」
「尊敬なんてものは、愛情のあるべきところがからっぽなとき、それを隠すために考え出したものですわ……もしあなたが、もうわたしを愛していらっしゃらないのなら、ちゃんとそうおっしゃったほうがいいわ、そのほうが潔白ですわ」
「いや、これじゃもうたまらない!」とヴロンスキイは、椅子を立ちながら叫んだ。それから、彼女の前に立ちはだかって、ゆっくりとこういった。「いったい、なんのためにおまえは、僕の忍耐力を試験しようとするのだ!」といった彼の調子は、まだいろいろいいたいことがあるけれども、がまんしているのだぞ、とでもいうようであった。「辛抱《しんぼう》にもきりがあるからね」
「それはどういう意味なんですの?」男の顔ぜんたい、ことにすごみをおびた残酷な目つきに現われている憎悪の色を見て、彼女は思わずこう叫んだ。
「それはね……」と彼はいいだしたが、やめてしまった。「いったいあなたは、僕にどうしてくれといわれるんです。それをまず聞かなくちゃならない」
「わたしに何を望むことがあるものですか? わたしに望むことができるのは、あなたがわたしを棄てないことですわ、あなたはそうしようと考えてらっしゃるけど」彼がいいきらなかったことを察して、アンナはこういった。「でも、わたしが望んでいるのは、そんなことじゃありません。そんなことは第二義的な話ですわ。わたしの望むのは愛情ですけど、それがないんですもの。だから、なにもかもおしまいですわ」
 彼女は戸口のほうへ歩きだした。
「お待ち! お……まち!」とヴロンスキイは、暗くひそめた眉を開きはしなかったが、女の手をとってひき止めながら「いったいどうしたというんだ? 僕が出発を三日のばさなくちゃならないといったら、おまえはそれにたいして、僕のことを嘘つきだ、不正直だといったろう」
「ええ、それにもう一度くりかえして申しますが、わたしのためになにもかも犠牲にしたといって、わたしを責めるような人は」またもや、以前のいさかいのときの言葉を思い出して、彼女はこういった。「そういう人は不正直よりもっと悪い、心ってものをもたない人ですわ」
「いや、人間の辛抱にもきりがある!」と叫んで、ヴロンスキイはさっと彼女の手を放した。
『あの人はわたしを憎んでいる。それはわかりきっている』と彼女は考え、無言のままふり返りもせず、不確かな足どりで部屋を出てしまった。『あの人はほかの女を愛している、それはもっとはっきりわかっている』自分の居間へ入りながら、彼女はそうひとりごちた。『わたしの望んでいるのは愛情なのに、それがないとすれば、もうなにもかもおしまいだわ』と自分で自分の言葉をくりかえした。『だから、片づけなくちゃならない』
『でも、どんなふうに?』と自問して、彼女は鏡の前の肘椅子に腰をおろした。
 自分はこれからどこへ行ったものだろう――養育してもらった伯母のところか、ドリイのところか、それともいっそ、一人で外国へ行ってしまおうか? それから、あの人[#「あの人」に傍点]はいま書斎で何をしてるだろう、あれは本当にぎりぎりの決裂なのか、それともまだ仲なおりの可能[#「可能」はママ]があるだろうか? またペテルブルグのもとの知り人たちは、こんど自分のことをなんというだろう。カレーニンはこのことをどんなふうに見るかしら――などといったような想念をはじめとして、今度この決裂のあとは、どんなことになるかという問題について、その他さまざまな想念が頭に浮んだけれども、心底からそうした考えに没頭してはいなかった。心の底にはたった一つだけ、彼女をひきつける、漠《ばく》とした想念があったけれども、はっきりそれを意識することができなかった。もう一度カレーニンのことを思い起したとき、彼女は産後の大病時代と、そのころたえずつきまとっていた感じを思い浮べた。『なぜわたしは死ななかったのかしら?』という、当時自分のいった言葉と、そのころの感情が記憶に浮んだ。と、ふいに彼女は、自分の心の底にあるものを悟った。そうだ、ただこれ一つのみが、いっさいを解決する想念なのである。『そうだ、死ぬのだわ!………』
『カレーニンとセリョージャの恥も不名誉も、わたしの恐ろしい恥辱も――なにもかも死によって救われるのだ。死ぬことだわ。そうしたら、あの人も後悔して、かわいそうに思ってくれるだろう、愛してくれるだろう、わたしのために苦しむだろう」自己憐愍の微笑を頬に凍《こお》りつかしたまま、彼女は肘椅子に坐って、左手の指輪を抜いたりはめたりしながら、自分が死んだあとの男の気持を、まざまざと心に描いてみるのであった。
 近づいてくる足音、男の足音が、彼女を呼びさました。指輪の始末に気をとられているようなふりをして、彼女はふり返ってみようともしなかった。
 ヴロンスキイはそばへよって、彼女の手をとり、低い声でいった。
「アンナ、もし望みなら、明後日たつことにしよう。僕はなんでも異存なしだよ」
 彼女は黙っていた。
「どうだね」と彼はきいた。
「あなた自分でごぞんじでしょう」と彼女はいったが、その瞬間、もうこらえきれなくなって、声を立てて慟哭《どうこく》しはじめた。
「棄ててちょうだい、わたしを棄ててちょうだい!」慟哭のあいだあいだに、彼女はいうのであった。「わたしあす出て行きます……いえ、それ以上のことをします。いったいわたしがなんでしょう? ふしだらをしでかした女です。あんたの首についた重石《おもし》です。わたしあんたを苦しめたくない。そんなこといやです! わたしあんたを自由にしてあげますわ。あんたはわたしを愛しちゃいないんですもの、ほかの女の人を愛してるんですもの!」
 ヴロンスキイは、どうか気をしずめてくれと拝むようにして頼み、おまえの嫉妬にはかけらほどの根拠もありはしない、自分の愛は一度も冷めたことがないし、今後も冷めることはない、今こそ前にも増しておまえを愛している、と誓った。
「アンナ、なんのためにおまえは自分をも、僕をも苦しめるんだね?」と彼は女の手を接吻しながらいった。今や彼の顔には、優しい愛情が現われていた。彼女は、男の声に涙の響きがあるのを自分の耳で聞き、その湿りを自分の手に感じたような気がした。そのせつな、アンナの絶望的な嫉妬は、物狂わしい情熱的な愛情に変った。彼女は男を抱きしめて、その頭、頸、両手に、接吻の雨を降らした。

[#5字下げ]二五[#「二五」は中見出し]

 もう完全に和解ができたと感じて、アンナは朝からいそいそと、出発の準備にかかった。昨夜はお互に譲り合っていたので、出発は月曜になるか火曜になるかきまってはいなかったものの、今は出発が一日早かろうが遅かろうが、アンナは全く平気な気持で、かいがいしく出発準備をすすめていた、彼女が自分の居間で、蓋《ふた》を開けたトランクの上にかがみこみながら、荷物の選《え》り分けをしているとき、もう着替えをすましたヴロンスキイが、いつもより早く入ってきた。
「僕はこれから、母のところへ行ってくるよ、エゴールの手を通して、金を送ってくれるかもしれないからね。そうすれば、僕は明日にも立てるんだ」と彼はいった。
 彼女は、申し分のないきげんであったにもかかわらず、母の別荘へ行くと聞いて、何かにちくりと刺されたような気がした。
「いいえ、わたし自分でもしたくが間に合いませんから」と彼女はいったが、すぐそのとき、『じゃ、わたしの思ったとおりにすることもできたんじゃないか』と考えた。「いいえ、あなた自分でしようと思ったとおりにしてちょうだい。まあ、食堂へ行ってらっしゃいな、わたしすぐ行きますから。ただこのいらないものを選り出してしまってから」もう山のように衣装を抱えているアンヌシカの腕に、まだ何やらのせながら、彼女はそういった。
 彼女が食堂へ入ったとき、ヴロンスキイはいつものビフテキを食べていた。
「わたし、この家の部屋という部屋が、どんなにいやでたまらないか、あなた想像もおつきにならないでしょう」男と並んで、コーヒー茶碗の前に腰をおろしながら、アンナはいいだした。
「こういった chambres garnis(造作付き貸家)ほど、恐ろしいものはありませんわね。部屋に表情がないんですもの、魂がないんですもの。あの時計、窓掛、それに何より壁紙、――まるで悪夢ですわ。わたし、まるで聖約の地か何かのように、ヴォズドヴィージェンスコエのことを考えていますのよ。あなた、まだ馬をお送りになりませんの?」
「いや、馬は僕らのあとから送らせることにした。おまえどこかへ行くのかい?」
「わたし、ウィルソンのところへ行こうと思って。あのひとに着物を持って行ってやらなくちゃなりませんの。じゃ、いよいよ、明日ですね?」と彼女は浮きうきした声でいった。が、突然その顔色がさっと変った。
 ヴロンスキイの従僕頭が、ペテルブルグから来た電報の受取をちょうだいしたい、といってきたのである。ヴロンスキイが電報を受けとったからといって、何も特別なことはないわけであるが、彼は何かアンナに隠そうとでもするように、受取は書斎にあると答え、急いで彼女に話しかけた。
「明日は必ず片づけてしまうよ」
「電報はどこからですの?」と彼女は、相手の言葉を聞かないでたずねた。
「スチーヴァからさ」と彼はしぶしぶ答えた。
「どうしてわたしに見せてくださらなかったの? スチーヴァとわたしのあいだに、何も秘密はないはずじゃありませんか」
 ヴロンスキイは従僕頭を呼び返して、電報を持ってくるように命じた。
「僕が見せなかったのは、スチーヴァがなんでも電報を打つ癖があるからだよ。何も解決がついていないのに、電報なんか打ってもしかたがないじゃないか」
「離婚のことですの?」
「そう、しかしこの電報によると、まだなんの結果も得られないということだ。近日中に確答をもらう、とはいってるがね。まあ、読んでごらん」
 アンナはふるえる手で電報を受け取って、ヴロンスキイがいったのと同じ文意を読んだ。最後にまだ、こうつけ加えてあった。『希望少なし、しかし可能なことも不可能なことも、極力やってみる』
「わたし昨日もいったとおり、いつ離婚してもらえるか、またはたして離婚してもらえるものやら、もらえないものやら、そんなことはいっさい、どうだってかまいませんの」と彼女は赤い顔をしていった。「だから、わたしにお隠しになる必要は、ちっともなかったんですわ」
『してみると、この人は女からもらった手紙も、隠せるわけだわ、いえ、隠しているかもしれないわ』と彼女は考えた。
「ところで、ヤーシュヴィンがヴォイトフと二人で、今日、午前中に訪ねてくるといってたっけ」とヴロンスキイはいった。「どうやらあの男はペスツォフを、すっからかんに負かしてしまったらしいよ。やっこさんがとても払い切れないほど――かれこれ六万ルーブリ近く」
「いいえ」明らかに男がこの話題の転換で、おまえはいらだっているぞ、ということを示したのだと思うと、彼女はいよいよいらだちながらいった。「どうしてあなたは、この知らせが隠しだてしなければならないほど、わたしにとって重大なものだとお思いになりますの? そんなことは考えたくないと、わたしそういったじゃありませんか。ですから、あなたもわたしと同じように、あまりこんなことを気になさらないように、お願いしたいものですわ」
「僕が気にするのは、状態をはっきりさせたいからだよ」と彼はいった。
「はっきりさせなくちゃならないのは、形式じゃなくて愛情ですわ」言葉ではなく、その言葉を発する男の冷たいおちついた調子に、いよいよいらだちながら、彼女はこういった。「なんのために、あなたはそれをお望みになりますの?」
『やれやれ! また愛の話か』と彼は顔をしかめながら考えた。
「なんのためかってことは、おまえも知っているはずじゃないか。おまえのためと、それからさきざきできる子供のためだ」と彼はいった。
「子供なんかできませんわ」
「それは大いに残念だ」と彼はいった。
「あなたは、子供のためにそれが必要なので、わたしのことは考えてくださらないんですのね?」彼がおまえのため[#「おまえのため」に傍点]と子供のためといったのを、すっかり忘れてしまって、というより、ろくろく耳に入れないで、彼女はこういった。
 子供ができるかどうかという問題は、久しい前から論争の的となって、彼女をいらだたせていたのである。男が子供をほしがるのを、彼女は自分の美を尊重しない証拠と見なした。
「ええ、おまえのためにといったじゃないか。何より第一に、おまえのためなんだよ」痛みでも感じたように、彼は顔をしかめながらくりかえした。「なぜって、おまえのいらいらするおもな原因は、境遇の不安定からくるものだってことを確信するからだ」
『そうだわ、今はもう空《そら》をつかうのもやめて、冷たい憎しみがまる出しだわ』男の言葉は聞こうともせず、自分をからかいながらながめている、男の中にひそむ冷やかな、残忍な審判者を、恐怖の念をもってじっと見つめながら、彼女は考えるのであった。
「原因はそんなことじゃありません」と彼女はいった。「わたしが完全にあなたの支配下にあるってことが、どうして、あなたの言葉を借りると、わたしのいらいらする原因になるのやら、わたし合点がいかないくらいですわ。そこにどうして、境遇の不安定があるのでしょう? あべこべですわ」
「おまえがわかろうとしないのは、じつに残念だ」かたくなに自分の考えを証明しようとしながら、彼はさえぎった。「不安定というのはほかでもない、おまえの目に僕が自由なように映ることだよ」
「そのことなら、あなたは全く安心していらして大丈夫ですわ」と彼女はいい、くるりと顔をそむけて、コーヒーを飲みにかかった。
 彼女は小指を一本だけ離して、茶碗をとり上げ、それを口ヘもっていった。幾口か飲むと、アンナは男のほうをちらと見た。と、その顔の表情によって、自分の手も、身ぶりも、コーヒーを飲むときに唇で立てる音も、彼にいまわしい感じを与えているのが、まざまざとわかった。
「わたしはね、あなたのお母さんが何をお考えになろうと、またどんなふうにあなたを結婚させようと、思っていらっしゃろうと、いっこう平気ですわ」と彼女はふるえる手で、茶碗をおきながらいった。
「僕らは今そんな話をしてるんじゃないよ」
「いいえ、この話をしてるんですわ。そして、はっきりいっておきますが、わたしにとって、人情ってものをもたない女は、よしんば年寄りであろうとなかろうと、あなたのお母さんであろうと他人だろうと、ぜんぜん興味がありません。そんなひとのこと、知ろうとも思いませんわ」
「アンナ、お願いだから、僕の母のことで、不遜な口のききかたをしないでくれ」
「わが子の幸福と名誉が何にあるかってことを、心で察しることのできないような女は、つまり人情がないんですわ」
「もう一度お願いするが、僕の尊敬している母のことで、不遜な口をきくのはよしてもらおう」と彼は声を高め、きっとアンナをみつめながらいった。
 彼女は返事をしなかった。じっと男を見つめ、その顔その手を見入りながら、彼女は昨夜の仲なおりの場面と、男の情熱的な愛情をこまかなふしぶしまで思い浮べた。『それと同じ愛情を、この人はほかの女にもふりまいているのだろう、ふりまこうと思っているのだろう!』と彼女は考えた。
「あなたは、お母さんを愛してなんかいらっしゃいません。そんなことは言葉だけですわ、言葉、言葉ですわ!」憎悪の色を浮べて男を見ながら、彼女はそういった。
「もしそういうことなら、そのときは……」
「決心しなくちゃなりません、だからわたしも決心していますわ」といい、彼女は出て行こうとした。が、そのときヤーシュヴィンが部屋へ入って来た。アンナはあいさつして、立ちどまった。
 胸の中に嵐が吹きすさんで、恐ろしい結果になるかもしれぬような、生涯の岐路に立っているとき、なぜそんなとき他人の前で仮面《めん》をかぶる必要があったのか、どうせ遅かれ早かれ、なにもかも知ってしまう人間ではないか? 彼女はなぜかわからなかったが、すぐさま胸の中の嵐をおししずめて、腰をおろし、客と話をはじめた。
「ときに、いかがでございます、貸し金はお手に入りまして?」と彼女はヤーシュヴィンにきいた。
「なに、べつだん。全部はもらえそうにありませんが、水曜日に出発しなきゃなりませんのでね。ところで、君たちはいつ?」とヤーシュヴィンは目を細めながら、ヴロンスキイにきいた。明らかに、いま喧嘩があったことを察したらしい。
「たぶん明後日になるだろう」とヴロンスキイは答えた。
「それにしても、ずいぶん前からの話じゃないか」
「でも、今度こそいよいよ本当ですの」まともにヴロンスキイの顔を見ながら、アンナはいった。その目つきは、どうか仲なおりの望みがあるなんて、考えないで下さい、とでもいうようであった。
「いったいあなたは、あのふしあわせなペスツォフがかわいそうでないんですの?」と彼女はヤーシュヴィンとの話をつづけた。
「そうですね、アンナ・アルカージエヴナ、かわいそうだか、かわいそうでないか、一度も自分にきいてみたことがないんでしてね。だって、僕の全財産はここにあるんですからね」と彼は脇のポケットをさしてみせた。「だから、今は金持でも、今晩クラブへ行けば、帰るときには乞食になってるかも知れないんですよ。なにしろ、僕と勝負をする相手も、やっぱり僕を肌着一枚ない丸裸にしよう、と思ってるんですからね、こっちも同じことでさあ。そこで、真剣勝負を戦わすわけでして、そこにおもしろみがあるんですよ」
「でも、もしあなたに奥さんがおありになったら」とアンナはいった。「奥さんの気持はまあ、どんなでしょう?」
 ヤーシュヴィンは笑いだした。
「だからこそ、僕は結婚しなかったし、また結婚しようとも思わなかったらしいですな」
「じゃ、ヘルシングフォルスは?」とヴロンスキイは話の仲間に入って、にっこり笑顔になったアンナを、ちらと見やった。そのまなざしに出会うと、アンナの顔はまるで『忘れちゃいませんよ、やっぱり同じことです』とでもいいたげに、冷たいきびしい表情になった。
「まあ、あなた恋をなさいましたの?」と彼女はヤーシュヴィンにきいた。
「ええ、そりゃもう! 何度やったかしれません。ところがね、中には、カルタのテーブルに向っても、ランデヴーの時間がくると、いつでもそこを離れることのできる人があるでしょう。ところが僕は、恋をすることはできるけれども、晩になると勝負に遅刻しないようにする。それが僕のやりかたなんですよ」
「いいえ、そのことじゃありません、わたし現在のことをうかがってるんですわ」彼女はヘルシングフォルス[#「ヘルシングフォルス」に傍点]といいかけたが、ヴロンスキイのいった言葉をくりかえしたくなかったので、口をつぐんだ。
 牡馬を買うことになっているヴォイトフが来た。アンナは立ちあがって、部屋を出た。
 家から出かける前に、ヴロンスキイは彼女の居間へ入ってきた。彼女はテーブルの上で何かさがしているようなふりをしようと思ったが、そんなそらぞらしいまねをするのが恥ずかしくなって、冷やかな目でまともに男を見やった。
「何ご用ですの?」と彼女はフランス語でいった。
ガンベッタの証明書をとりに来たのだ、あれを売ったもんだからね」といった彼の調子は『おれは、くどくど話し合ってる暇なんかないのだ、それになんの役にも立たないからな』という意味を、言葉よりも明瞭に表白していた。
『おれはアンナにたいして、何一つ悪いことはないのだ』と彼は考えた。『もしあれが自分で自分を罰しようと思っているのなら、tant pis pour elle(なおさらあれにとっては悪くなるばかりだ)』が、部屋を出ようとしたとき、彼女が何かいったような気がした。すると、ふいに彼の心臓は、女にたいする憐愍のためにうちふるえた。
「なんだね、アンナ?」と彼はきいた。
「わたしなんにも」と彼女は相変らず冷やかに、おちついて答えた。
『なんにも、それなら tant pis(さらにいけなくなるばかりだ)』と彼はまた冷淡な気持になり、くるりと身を転じながらこう考えて、出て行こうとした。出て行きしなに、彼女の蒼白い、唇をわなわなふるわしている顔が、鏡の中に映っているのを見た。彼は足を止めて、何か慰めの言葉をいってやろうと思ったが、彼が何かいうことを考えつくより前に、足が彼を室外へ運び出してしまった。彼はこの日いちんち家を外にすごした。夜おそく帰って来たとき、小間使が、「アンナ・アルカージエヴナは頭がお痛みになりまして、だれも部屋へ入らないようにおっしゃいましてございます」といった。