『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」6-21~6-25(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]二一[#「二一」は中見出し]

「いや、公爵夫人はお疲れになったらしいから、馬などには興味がおありになるまいと思うね」スヴィヤージュスキイが新しい牡馬を見たいといいだしたので、養馬場まで行こうと誘ったアンナにむかって、ヴロンスキイはこういった。「おまえたちいっておいで、僕は公爵夫人を家までお送りするから。そして、二人でお話してるよ」と彼はいった。「もしそのほうがおよろしかったら?」と彼はドリイの方へふりむいた。
「わたし、馬のことなどなんにもわかりませんから、そのほうがたいへんけっこうでございます」とドリイはいくぶんおどろいて答えた。
 彼女はヴロンスキイの顔つきで、彼が自分から何か求めているのを察した。それははたして誤りでなかった。二人がくぐりを抜けて、ふたたび庭へ出るが早いか、彼はアンナの行ったほうをふりかえって、彼女が自分たちの姿を見もせねば、話も聞くはずがないのを確かめた後、こんなふうにきりだした。
「お察しのとおりです、僕はあなたにお話したいことがあるのです」と彼は笑うような目つきで、相手を見ながらいった。「僕の考え違いじゃないでしょうね、あなたはアンナの親友でしょう」彼は帽子をぬいで、ハンカチをとりだし、禿げかかった頭をつるりとふいた。
 ドリイはなんにも返事しないで、おびえたように彼を見やった。二人きりになったとき、彼女は急に恐ろしくなってきた。男の笑いをおびた目や、きびしい顔の表情が、彼女をぎょっとさせたのである。
 何をいいだそうとしているのだろうと思うと、種々さまざまな想像が、彼女の頭をかすめてすぎた。『この人はわたしに、子供たちをつれて自分のとこへ引き移ってくれと頼むのかしら。それなら、わたしは断らなくちゃならない。それとも、モスクワでアンナのために、社交界に一つのサークルをつくってほしいというのかしら……さもなければ、ヴァーセンカ・ヴェスローフスキイのことや、あの人とアンナの関係をきこうというのかしら。それとも、キチイのことかもしれない、キチイにたいして申しわけなく思っている、とかなんとか』彼女は、ただいやなことばかり想像したが、しかし彼のいおうと思っていることを、察しることができなかった。
「あなたはアンナにたいして、とても感化力をもっていらっしゃるし、あれもあなたを本当に愛していますから」と彼はいった。「ひとつお力添えを願います」
 ドリイは質問の表情で、おずおずとヴロンスキイの精力的な顔をながめた。その顔は、菩提樹を洩れる日光に、ときには全部、ときには一部だけ照らし出されるかと思うと、また陰にさえぎられて、暗くなってしまうのであった。彼女は、それからさき何をいうかと、待ちもうけていた。けれど、彼はステッキの先で小石を突っつきながら、黙って並んで歩いた。
「アンナの以前の女友だちの中で、あなたがたった一人です、うちへ訪ねて来てくだすったのは――ヴァルヴァーラ公爵令嬢は勘定に入れません――あなたがそうなすったのは、僕たちの境遇がノーマルなものと、お思いになったからじゃないでしょう、それは僕にもわかっています。ただこの境遇の苦しさを十分に理解しながら、それでもやはりあれを愛して、力になってやろうとお思いになったからでしょう。僕の解釈はあたっていますか?」と彼はふりかえってたずねた。
「そりゃあそうですとも」とドリイは、パラソルをたたみながら答えた。「しかし……」
「いや」と彼はさえぎった。そして、この動作によって、相手をばつの悪い立場におくことを忘れて、つい何心なく立ちどまった。で、彼女も歩みを止めねばならなかった。「僕ほど深く、強く、アンナの境遇の苦しさを、残りなく感じているものはありますまい。それは当然な話です。もしあなたが、僕を真心のある人間と思ってくださるならばです。僕はその境遇の原因となったのですから、したがって、それを感じるわけです」
「わかりますわ」彼がそういった真摯《しんし》な、断乎とした調子に、思わず見とれながら、ドリイは答えた。「でも、あなたはご自分を原因と感じてらっしゃるそのために、あまり大仰《おおぎょう》に考えてらっしゃるのじゃないかと思いますわ」と彼女はいった。「社交界では、アンナの立場はさぞ恐ろしいものでしょう、それはわたしにもわかります」
社交界、それは地獄です!」暗い顔をして眉をひそめながら、彼は早口にいった。「あれが二週間というもの、ペテルブルグで経験した精神的な苦しみといったら……あれ以上ひどいものは想像もできません。どうかそれを信じていただきたいのです」
「でも、ここでは、……アンナも……あなたも、社交界に必要をお感じにならない間は……」
社交界ですって!」と彼はさげすむようにいった。「僕が社交界なんかに、どんな必要を感じるものですか?」
「その間は――それは永久に続くと思いますが――あなたがたは幸福で、おちついていられますわ。わたし、アンナを見てそう思いますけど、あれは幸福ですわ、本当に幸福ですわ。もう自分でわたしにそういいましたもの」とドリイはほほえみながらいった。そういったとたんに、彼女はいま我れともなしに、本当にアンナは幸福なのかしら、と疑いをいだいた。
 しかしヴロンスキイは、それを疑うふうもなかった。
「そうですとも、そうですとも」と彼はいった。「あれがあの苦しみのあとで生き返ったのは、僕も承知しています。あれは幸福です。現在に幸福を感じています。しかし、僕はどうでしょう?……僕はわれわれの将来が心配なのです……ごめんなさい、あなたはお歩きになりたいのでしょう?」
「いいえ、おなじことですわ」
「ああ、それじゃここに掛けましょう」
 ドリイは、並木道のかどにあるベンチに腰をおろした。彼はその前に立ちどまった。
「あれが幸福なのは、僕にもわかっています」と彼はくりかえした。すると、はたしてアンナが幸福なのかどうかという疑問が、さらに強くドリイの胸を打った。「しかし、それが長く続くでしょうか? 僕らがしたことがいいか、悪いか、それは別問題です。しかし、運命のさいころは投げられたんですから」と彼はロシヤ語からフランス語に移りながらいった。「われわれは一生涯むすび合わされているのです。われわれは最も神聖な絆《きずな》でつながれています。僕らにはもう赤ん坊がありますし、これから先もできるでしょう。しかし、法律からいっても、われわれの境遇からいっても、幾千万の複雑な事情が現われてくるのですが、あれは今ありとあらゆる苦しみを経験した後、心底から休息しているさいちゅうですから、それが見えないのです、見ようと思わないのです。しかし、それも無理はありません。しかし、僕は見ずにいられないのです。僕の娘だって、法律からいえば、僕のものじゃなくて、カレーニンの娘なんですからね。僕はその虚偽がたまらないのです!」と彼は力強い否定の身ぶりをして、暗い質問の表情でドリイをながめた。
 彼女はなんとも答えないで、ただ相手の顔を見ていた。彼は言葉をつづけた。
「明日にも、男の子が生れるかもしれません。それは僕の息子なんですが、法律からいえば、カレーニンの子です。それは僕の苗字と、財産の相続者じゃありません。だから、僕らが家庭の中でいくら幸福であっても、またいくら子供ができても、僕と子供らのあいだにはなんの関係もないのです。それはみんな、カレーニンの家のものですから。どうか僕の立場の苦しさ、恐ろしさを察して下さい! 僕はそのことを、アンナにいおうとしましたが、その話はあれをいらだてさせるのです。あれはそれがわからないし、僕はまたあれにそれをはっきりいうことができないのです。ところで、今度は別のほうから見て下さい。僕は確かに幸福です、あれの愛情のために幸福です。が、僕は仕事をもたなくちゃなりません。僕はその仕事を見つけて、それを誇りとしています、そして、宮廷や軍隊の友だちがやっている仕事よりも、高尚なものだと思っています。もちろんのこと、僕はもうこの仕事を、あんな連中のやっている仕事に見変えようとは思いません。僕はここにじっとして働いていますが、それで幸福であり、満足しています。僕らは幸福のために、それ以上なにも必要がありません。僕はこの仕事を愛しています。Cela n'est pas un pis-aller,(それは決してくだらないことじゃありません)、それどころか……」
 彼の説明がここまでくると、しどろもどろになるのに、ドリイは気がついた。そして、彼が、なぜこんな横道へそれるのか、合点がいかなかった。それでも、彼女はこう感じた。いったんヴロンスキイが、アンナにもいえないような、心の底に秘めていることをいいだした以上、彼は今なにもかもいってしまったのであって、彼の田舎でしていた仕事の問題は、アンナとの関係と同様に、心に秘めている考えの部門に属するものにちがいない。
「そこで、先を続けますが」と彼はわれに返っていった。「何よりもかんじんなのは、仕事をする以上、自分のしていることは、自分といっしょに死んでしまうものでない、自分には後継者がある、という信念をもつ必要があります。ところが、それが僕にはないのです。自分と自分の愛する女のあいだにできた子供が、自分のものではなくて、だれかしら自分たちを憎んでいる人間、自分たちに洟《はな》もひっかけないような人間のものになるということを、前からちゃんと知っている男の立場を、あなたひとつ想像してみて下さいね、恐ろしいことじゃありませんか!」
 明らかに、はげしい興奮に襲われたらしく、彼は口をつぐんだ。
「ええ、もちろんですとも、わたしにもよくわかりますわ。でも、アンナにいったい、なにができるのでしょう?」とドリイはたずねた。
「そうです、そのおたずねが、この話を僕の目的へひっぱっていってくれるのです」強《し》いておちつこうとしながら、彼はこういった。「アンナにはできるのです、これはあれの心ひとつなんですから……庶子《しょし》の認知を皇帝に請願するためにだって、離婚が必要ですが、それはアンナしだいでどうにもなるのです。良人は離婚を承知したのです――あのときあなたのご主人か、すっかりうまく話をつけて下すったのですからね。今だっておそらく、いやだとはいわないでしょう。ただひと筆あの男に手紙を書いてやればいいんです。現にあの男は、あれが希望を表明さえすれば、自分はそれを拒絶しないと、あのときはっきりと返答したんですからね。もちろん」と彼は陰鬱な調子でいった。「それは、ああいう魂をもたない人間でなければできないような、偽善者流の残酷な行為の一つではありますがね。あの男に関する思い出の一つ一つが、あれにどんな苦しみを与えるかってことを、あの男はちゃんと承知しているものだから、それであれの手紙を要求するのです。そりゃ、あれとして苦しいのは、僕にもよくわかっていますが、しかし事柄が実に重大なんですから、passer par dessus toutes ces finesses de sentiment. Il y va du bonheur et de l'existence d'Anne et de ses enfants.(こまかい感情にかかずらうのは避けなければなりません、それはアンナと子供たちの幸福と存在に関する問題なんですからね)僕は自分のことはいいません。もっとも、僕だってつらいんですがね、非常につらいんですがね」自分がつらいということにたいして、だれかを威嚇するような表情で、彼はこういった。「こういうわけですから、公爵夫人、僕はあつかましくも、あなたを救いの錨《いかり》と思っておすがりするのです。あれを説きつけて、離婚要求の手紙を書かせるように、ひとつ僕を助けて下さい!」
「そりゃもちろんいたしますわ」最後にカレーニンと会ったときのことを、まざまざと思い起しながら、ドリイは物思わしげにいった。「そりゃもちろんいたしますわ」アンナのことを思い浮べると、彼女はきっぱりした調子でくりかえした。
「どうかあれにたいする感化力を利用して、あれが手紙を書くようにして下さい。僕はあれにこの話をしたくないし、それにほとんどすることができないのですから」
「よろしゅうございます。わたしお話いたしましょう。でも、どうしてあれは自分でそのことを考えないのでしょう?」とドリイはいったが、そのとき突然なぜか、あの目を細めるアンナの奇妙な新しい癖を思い出した。しかも、アンナが目を細めるのは、話が心の底に深く秘めた事柄にふれたときであることも、今さらのように思い起された。『まるであのひとは何から何まで見たくないために、生活にたいして目を細めてるみたいだわ』とドリイは考えた。「わたしは自分のためにも、あのひとのためにも、ぜひぜひお話いたしますわ」相手の感謝の表明にたいして、ドリイはそう答えた。
 二人は立ちあがって、家の方へ歩いて行った。

[#5字下げ]二二[#「二二」は中見出し]

 ドリイがもう家へ帰っているのを見ると、アンナは注意ぶかくその目を見つめた。それは、ヴロンスキイとどんな話をしたのか、ききたげな表情であった。が、言葉に出してはきかなかった。
「どうやらもう晩のお食事の時間らしいわね」と彼女はいった。「お互にまだ顔もろくろく見られませんでしたわねえ。わたし今晩を楽しみにしているんですのよ。今は着替えにいかなくちゃなりませんわ。あなたもやっぱりそうでしょう。わたしたちみんな、普請場で埃だらけになりましたものね」
 ドリイは自分の部屋へ帰ったが、自分ながらおかしくなってしまった。着替えをしようにも、着るものがなかった、というのは、一番いい着物はもう着てしまったからである。しかし、晩餐のためにしたくしたということを、せめて何かで見せるために、彼女は小間使に頼んで、着物にブラシをかけてもらい、カフスをとり変え、蝶結びを飾り、頭にはレースをつけた。
「これだけするのが、精いっぱいだったのよ」と、彼女はほほえみながら、アンナにいった。アンナはもうこれで三度目に、相変らず清楚《せいそ》をきわめた服をつけて、彼女のところへはいって来たのである。
「ええ、わたしたち、ここではひどく儀式ばっていますのよ」自分の盛装をわびるように、彼女はこういった。「アレクセイは、あなたが来て下すったので、とても喜んでいますわ、あんなことはめったにないくらいですのよ。あの人ったら、もうすっかりあなたにほれこんでしまって」彼女はつけ足した。「あなたお疲れにならなくって!」
 晩餐の前には、何を話す暇もなかった。客間に入ってみると、そこにはもうヴァルヴァーラ公爵令嬢のほか、黒いフロックを着た男たちが揃っていた。建築技師は燕尾服であった。ヴロンスキイは新しい女客に、医師と支配人を紹介した。建築技師はもう病院で紹介ずみであった。
 ふとった従僕頭が、円い剃りたての顔と、糊のきいた白ネクタイを輝かせながら、お食事の用意ができました、と報告した。で、婦人たちは立ちあがった。ヴロンスキイはスヴィヤージュスキイに、アンナに腕を貸してくれるように頼み、自分はドリイのそばへ行った。ヴェスローフスキイはトゥシュケーヴィッチに先んじて、ヴァルヴァーラ公爵令嬢に腕をさし出したので、トゥシュケーヴィッチは支配人や医師と同様に、一人だけでついて行った。
 晩餐、食堂、食器、給仕、酒、料理などは、この邸ぜんたいの新式なぜいたくな調子に相応していたばかりでなく、それよりさらに豪華で新式であった。ドリイは、自分にとって珍しいこの豪華さを観察しながら、家政をつかさどる主婦として、ここで見たものを何一つ自分の家に応用しようなどという、大それた望みはいだかなかったけれども――そのぜいたくぶりは、彼女の生活様式などには、及びもつかないものであった――われともなしにいっさいのことをこまごまと注視して、いったいこれはみんなだれが、どんなふうにしたのだろうと、心の中で疑問を発してみた。ヴァーセンカ・ヴェスローフスキイも、彼女の良人も、それどころかスヴィヤージュスキイですら、彼女の知っている多くの人々は、かつて一度もそんなことを考えたことがなく、ただすべて相当な家の主人が、自分の家ではこのとおりなにもかもりっぱにととのっているが、それでも主人である自分は何一つ骨を折りはしない、なにもかもひとりでにできるのだと客に感じさせようとする、それを言葉どおりに信じるだけのことである。ところが、ドリイにはちゃんとわかっていた。ひとりでには、子供にやる粥だってできやしない、だから、こういうみごとなこみいった晩餐をととのえるには、だれかの熱心な注意がそそがれていなければならぬ。ところで、ヴロンスキイが食卓を一瞥《いちべつ》した目つきや、彼が従僕頭に首をふって合図をした様子や、ドリイに菜葉汁《ボトヴィーニャ》と肉汁《スープ》とどちらがいいかとたずねた調子などから推して、彼女はこれらすべてが主人その人の配慮でつくりあげられ、かつ維持されていることを悟った。こういう仕事とアンナとの関係は、他人のヴェスローフスキイとほとんど変りがないのは、一見して明らかであった。アンナと、スヴィヤージュスキイと、公爵令嬢と、ヴェスローフスキイは、用意されたのを楽しく利用するという点で、同じようなお客さまであった。
 アンナは、一座の会話をあやつっていくという点で、主婦なのであった。この会話は一家の主婦として、きわめて骨の折れるものであった。食卓はさして大きくないし、支配人や技師のような、まったく別の世界に属して、ふだん見慣れぬ豪奢ぶりに圧倒されまいと努力している人人、一座の会話に長く仲間入りすることのできない人々を混えている、この骨の折れる会話を、アンナはいつもの独特な手ぎわで、自然にあやつっていった。ドリイの観察したところでは、それに満足すらも感じているらしい。
 話題は、トゥシュケーヴィッチとヴェスローフスキイが、二人きりでボート乗りをしたことに移った。それから、トゥシュケーヴィッチが、ペテルブルグのヨット・クラブが、最近催した競漕のことを話しだした。けれども、アンナは話の切れ目をねらって、さっそく建築技師のほうへ話しかけた。彼を沈黙から引き出すためである。
「ニコライ・イヴァーヌイチは、びっくりしていらっしゃいましたわ」と、彼女はスヴィヤージュスキイのことをいった。「あの方が前にいらしたときからくらべて、新しい普請がとてもはかがいった、とおっしゃってね。でも、わたしなんか、毎日行って見ながら、あまり進行が早いので、毎日おどろいていますわ」
「こちらのお邸の仕事はやりようございます」と技師は、微笑しながらいった(彼は自己の品位を意識した、うやうやしい、おちついた人間であった)。「県庁の役人相手の仕事とは、まるで違います。山のような書類を書くかわりに、わたくしが御前にじきじきご報告して、説明申しあげると、ほんのひと言ふた言ですんでしまいますから」
アメリカ式のやりかたですな」とスヴィヤージュスキイは、微笑を浮べていった。
「さよう、あちらでは合理的な建築法が行われておりますから……」
 話題は、アメリカ官権の涜職問題に移ったが、アンナはすぐそれをほかへ向けて、支配人を沈黙からひっぱり出した。
「あなた、いつか麦刈機ってもの、ごらんになって?」と彼女はドリイに話しかけた。「あたしたち、あなたに出会ったとき、ちょうどそれを見に行ってましたのよ。わたしも生れてはじめて見ましたわ」
「どんな仕掛けなんですの?」とドリイはきいた。
「まるで鋏とおなじことなの。板が一枚あって、それにたくさんの鋏がついてるんですの。こんなふうに」アンナはその美しい、真白な、一面に指輪のはまった手に、ナイフとフォークをとって、そのかっこうをして見せた。自分の説明では、何一つわかりっこないのは、彼女も明らかに承知しているらしかった。けれども、自分の話が上手で、自分の手が美しいことを心得ているので、やはり説明をつづけるのであった。
「そりゃいっそ、鉛筆削りのナイフといったほうが早そうですね」彼女から目をはなさずにいたヴェスローフスキイが、からかうようにそういった。
 アンナはこころもちにっと笑ったが、返事はしなかった。「そうじゃありません、カルル・フョードロヴィッチ、ちょうど鋏みたいでしょう?」と彼女は支配人のほうへふりむいた。
「O ja.(はい、さようで)」とドイツ人は答えた。「Es ist ein ganz einfaches Ding.(あれはいたって簡単なものでございます)」といって、機械の構造を説明しはじめた。
「あれで束《たば》を縛らないのは、物足らんですな」とスヴィヤージュスキイがいった。「私がウインの博覧会で見たのは、針金で縛っていくのでしたよ。あのほうが便利がいいようですよ」
「Es kommt drauf an …… Der Preis vom Draht muss ausgerechnet werden.(そうとしても……針金の値段も計算に入れなけりゃなりませんでな)」と沈黙を破らされたドイツ人は、ヴロンスキイのほうへふりむいて、「〔Das Ia:sst sich ausrechnen, Erlaucht.〕(一つ計算してみましょうか、御前)」とドイツ人はポケットヘ手をつっこんで、手帳にはさんだ鉛筆を出そうとした。それでいつも、計算をすることにしていたのである。しかし、自分はいま晩餐の席にいるのだということを思い出したのと、ヴロンスキイの冷やかなまなざしに気がついたのとで、そのままさし控えた。「Zu complicirt, macht zu viel Klopot.(あまりこみ入りすぎておりまして、あまりめんどうになりますから)」と彼は言葉を結んだ。
「〔Wu:nscht man Dochots, so hat man auch Klopots.〕(金がほしかったら、めんどうな思いもしなくちゃなりませんよ)」とヴァーセンカ・ヴェスローフスキイが、ドイツ人をからかいながら、そういった。「J'adore l'allemand.(僕はドイツ語が大好きですよ)」と彼はまた同じような微笑を含んで、アンナに話しかけた。
「Cessez.(およしなさい)」と彼女は冗談半分に怖い顔をしていった。
「わたしたち、畑であなたにお目にかかれると思っていましたのに、ヴァシーリイ・セミョーヌイチ」と彼女は病身な医者に話しかけた。「あなたも行って、ごらんになったのでしょう?」
「私も行って見ましたが、すぐずらかってしまったのです」と医者は陰鬱な諧謔《かいぎゃく》の調子で答えた。
「すると、いい運動をなすったわけですね」
「ええ、すばらしい運動でした!」
「ときに、あのお婆さんの容態はどんなですの? まさかチフスではありますまいねえ?」
チフスじゃありませんが、どうもけっこうだとは申しにくいですね」
「まあ、残念ですこと!」とアンナはいった。こうして、家の子郎党にひととおりのお愛想をすましてから、彼女は自分の仲間と話をはじめた。
「しかし、アンナ・アルカージエヴナ、あなたの話では、なんといっても、機械を組み立てることは難かしそうですな」とスヴィヤージュスキイが、冗談半分にいった。
「そんなことありませんわ、どうしてですの?」とアンナは、ほほえみながらいったが、その微笑は、自分が試みた機械の組立ての説明には、スヴィヤージュスキイでさえ認めざるをえなかったほど、何かの魅力を含んでいて、それを自分も承知している、という意味のことを語っていた。彼女に今までなかった、こういう若々しい媚態は、ドリイに不快な響きを感じさせた。
「しかし、そのかわり、建築のほうにかけたら、アンナ・アルカージエヴナの知識は、驚嘆すべきものですよ」とトゥシュケーヴィッチがいった。
「そうですとも、昨日も僕が聞いていたら、アンナ・アルカージエヴナが、ストローバだの、プリントゥスだのと、いっておられるじゃありませんか」とヴェスローフスキイがいった。「僕、ちがったこといってやしませんか?」
「だって、何もふしぎなことありませんわ、あんなにしょっちゅう見たり、聞いたりしてるんですもの」とアンナはいった。「あなたなんか、家はなんでつくるのか、それさえきっとごぞんじないでしょう?」
 アンナは、自分とヴェスローフスキイのあいだに結ばれた、ふざけたような調子に、自分ながら不満でいるくせに、いつとはなく自分から、その調子に落ちていくのであった。ドリイはそれを見てとった。
 この場合、ヴロンスキイのとった態度は、レーヴィンとまるで違っていた。明らかに、彼はヴェスローフスキイの饒舌を、いっこう重大視していないどころか、かえってこうした冗談を、奨励しているらしかった。
「じゃ、ヴェスローフスキイさん、いってごらんなさい、石と石を何でくっつけるんです?」
「もちろん、セメントですよ」
「大出来! じゃ、セメントって、どんなもんですの?」
「その、こう、どろどろに捏《こ》ね合わした……いや、その漆喰《しっくい》みたいなもんです」一座の哄笑を呼びさましながら、ヴェスローフスキイはこんなことをいった。
 陰気くさい沈黙に陥っている医師と、建築技師と、支配人を除いて、食卓にむかった人々のあいだには、話の絶え間がなく、ときには軽くすべっていったり、ときには何かにひっかかったり、ときにはだれかの痛いところをさわったりした。一度ドリイも痛いところにさわられて、思わずかっと赤くなるほど逆上した。それからあとになって、何かよけいな、不愉快なことをいいはしなかったか、とみずからかえりみた。スヴィヤージュスキイがレーヴィンのことをいいだして、ロシヤの農業では、機械はただ害になるばかりだという、彼の奇怪な確信を披露したのである。
「僕はそのレーヴィン氏を知る喜びを有していないけれど」とヴロンスキイは、微笑を含みながらいった。「しかし、おそらくあの人は自分の非難している機械を、一度も見たことがないのでしょう。もし自分で見て実験したとしても、いいかげんなやりかたで、しかも外国のものじゃなく、そこらへんのロシヤ出来の機械だったのでしょう。それで、どうしてちゃんとした意見がもてるものですか?」
「要するに、トルコ式の意見ですよ」とヴェスローフスキイは微笑を浮べて、アンナにそういった。
「わたしは、あの人の考えを弁護する力がありませんけれど」とドリイはかっとなって、いいだした。「あの人がたいへん教養のある人だってことは、申しあげられます。もしあの人がこの場にいらしたら、ちゃんとした返答をなすったことでしょうが、わたしにはそれができませんの」
「私もあの男が大好きで、われわれは大の仲よしなんですよ」とスヴィヤージュスキイが、人のいい微笑を浮べていった。「〔Mais pardon, il est un petit peu toque'〕(しかし、失礼ながら、あの男は少々ばかり気ちがいじみていますよ)なにしろあの男は、地方自治体だの、単独判事なんてものは、みんな不必要だといいはって、何一つ関係しようとしないんですからな」
「それは、わがロシヤ人に共通の無関心ですよ」とヴロンスキイは、氷を入れたフラスコから、細い脚のついた杯《さかずき》に水を注ぎながら、いった。「われわれのもっている権利から生ずる義務を感じないものだから、したがって、その義務を否定するのです」
「わたしはあの人ほど、自分の義務を実行するのに厳格な人を、ほかに知らないくらいでございます」ヴロンスキイのこうした優越の調子が癇にさわって、ドリイはこういった。
「僕はその反対です」なぜかしら、この話で明らかに痛いところへさわられたらしく、ヴロンスキイは言葉をつづけた。「僕はその反対です。ごらんのとおり、僕はニコライ・イヴァーヌイチの(と彼はスヴィヤージュスキイをさした)ご推薦によって、名誉単独判事にしていただいた光栄を、感謝しています。僕の考えでは、集会へ出かけて行って、百姓の馬の問題を審理する義務は、僕のなしうるいっさいのことと同様に、重大なことと思っています。だから、もし僕を県会議員に選挙してくれたら、名誉なことだと思います。僕はただそれだけで、地主として享楽している利益に、報いることができるのですから。ところが、残念なことには、この国の大地主として、当然もたなければならぬこの義務を、理解しない人がたくさんいましてね」
 ドリイにとっては、彼が自分の家の食卓にむかって、おのれの正しさを信じて泰然としているのが、ふしぎでたまらなかった。彼女はふと思い出したが、それと反対のことを考えているレーヴィンも、わが家の食卓にむかいながら、やはり自分の判断を断乎として主張するのであった。けれども、彼女はレーヴィンが好きなので、その味方であった。
「では、伯爵、この次の集会には、あなたをあてにしてよろしいですね?」とスヴィヤージュスキイはいった。「しかし、少し早目に行かなけりゃなりませんな、八日にはむこうへ着いていなけりゃ。もしあなたが宅へおいでくださればですな」
「わたしはあなたの 〔beau-fre`re〕(義弟)に多少賛成しますわ」と、アンナはドリイにいった。「でも、あの人みたいな意味じゃありませんの」彼女は微笑を浮べながら、付け足した。「近ごろロシヤには、あまりそういった社会的な義務が多すぎますもの。それが心配ですわ。もとは役人がおおぜいいて、何をするにも役人が必要でしたが、それと同じように、今ではなんでもかでも、公務員なんですわ。アレクセイは、ここへ来て六ヵ月にしかならないのに、もう確か五つか六つの、いろんな公共団体の委員ですものねえ。監査役、単独判事、県会議員、陪審員馬匹改良会のなんとか。Du train que cela va(もしこんなふうでいったら)そのためにすっかり時間をとられてしまいますわ。そんなふうな仕事がこう多くなったら、ただの形式になってしまいはしないかと、それが心配ですの。あなたは、いくつぐらい委員をしていらっしゃいます、ニコライ・イヴァーヌイチ?」と彼女はスヴィヤージュスキイに話しかけた。「たしか二十以上でしょう?」
 アンナは冗談の調子でいっていたが、その声にはいらいらしい響きがあった。アンナとヴロンスキイを、しげしげと観察していたドリイは、すぐそれに気がついた。それからまた、ヴロンスキイの顔がこの話になると、たちまちまじめで頑固な表情をおびてきたのに、ドリイは心づいた。なおそのほか、ヴァルヴァーラ公爵令嬢が話題を変えようと思って、急いでペテルブルグの知人の話をもちだしたのに気がつき、それからまた、きょう庭でヴロンスキイが藪から棒に、自分の社会的活動のことをいいだしたのを思い起して、この社会的活動の問題には、なにかしらアンナとヴロンスキイの、微妙ないさかいが結びつけられているな、とドリイは悟ったのであった。
 食事も、酒も、食卓の設備も――なにもかもりっぱなものであったが、それはみなドリイが長いこと離れている招待宴で、以前よく見たようなものばかりであった。ここにはやはりそれと同じような、無人格と緊張の性格をおびているので、不断の日のささやかなつどいであるだけ、ドリイは不快な印象を与えられた。
 食後、一同はしばらくテラスで休んだ。それからローンテニスの勝負がはじまった。人々は二組に分れ、きれいにならしてよく固めたクロケットのグラウンドに立っている、金色に塗った柱に張られたネットの両側に陣取った。ドリイはちょっとやってみたが、長いことやりかたがわからなかった。やっと合点がいったときには、すっかり疲れてしまったので、ヴァルヴァーラ公爵令嬢と並んで、ベンチに腰をおろし、ただの見物人になった。彼女のパートナーであったトゥシュケーヴィッチも、やはりやめてしまったが、そのあとの連中は、長いこと勝負をつづけた。スヴィヤージュスキイとヴロンスキイの二人は、なかなか上手で真剣に戦った。彼らは、自分の方へ飛んでくるボールをよく見きわめて、急ぎもせねば遅れもせず、そのそばへ駆けより、ちゃんとバウンドを待って、正確にラケットをふるって、ボールをネットのむこうへ送った。ヴェスローフスキイはだれよりもまずかった。あまりのぼせすぎるのであった。しかしそのかわり、陽気な騒ぎ方で、ほかのものをおもしろがらせた。彼の笑いと叫び声は、たえることがなかった。彼もほかの連中と同様、婦人たちの許しを得て上衣をとった。で、白いシャツ一枚の美しい大柄な姿と、汗ばんで紅潮した顔と、はげしい動作は、くっきりと印象に残った。
 ドリイがその晩、床について、目を閉じるが早いか、クロケット・グラウンドを飛びまわっているヴァーセンカ・ヴェスローフスキイの姿が見えてきた。
 テニスの間、ドリイは気が浮き立たなかった。そのときも、いぜんとして続いているヴァーセンカ・ヴェスローフスキイと、アンナとのふざけたような関係も、子供もいないのに大人ばかりが子供じみた遊戯をしている、その全体の不自然さが、彼女の気に入らなかったのである。しかし、ほかの人の興をさまさないためもあり、また自分でも、なんとかして暇をつぶさなければならないので、彼女はひと休みしてから、ふたたび勝負に加わって、さも楽しそうなふりをした。ドリイはその日いちんち、自分より上手な役者といっしょに芝居をして、自分のつたない演技が、全体をそこねている、というような気がしてしかたがなかった。
 彼女は、もし居心地がよかったら、二日逗留するつもりで、ここへ来たのであった。しかし、その夕方、テニスをしている間に、明日は帰ろうと決心した。道中ではあれほど憎悪した、悩ましい母親としての心づかいが、のんきに一日をすごした今となってみると、もう別なふうに思われてきて、そのほうへ心ひかれるのであった。
 晩の茶を飲み、ボートで夜遊びしたあと、ドリイは自分の居間で一人になって、着物を脱ぎ、薄い髪をとき、寝仕度にかかったとき、彼女は心からほっとした。
 それどころか、今にもアンナがやってくるのかと思うと、いやな気持さえした。彼女はたった一人で、いろいろと考えたかったのである。

[#5字下げ]二三[#「二三」は中見出し]

 ドリイがもう寝《やす》もうとしたとき、アンナが夜の姿で入って来た。
 その日いちんち、アンナは胸の奥にしまっていることを話しだそうとしながら、いつもふた言み言いいかけては、やめてしまった。「あとにしましょう、二人さしむかいで、なにもかも話しましょうね。あなたに話したいことが、山ほどあるんですから」と言い言いしたものである。
 今こそ二人はさしむかいになったが、アンナは何を話していいか、わからないのであった。彼女は窓のそばで腰かけて、じっとドリイを見ながら、汲みつくせないように思われる胸のひめごとを、あれかこれかと残らずさがしてみたが、何一つ見つからなかった。彼女はこのとき、なにもかもいってしまったような気がした。
「ときに、キチイはどうですの?」重々しい吐息《といき》をつき、さも申しわけなさそうにドリイを見ながら、彼女はこういいだした。「ほんとのことをいってちょうだいね。ドリイ、あの人はわたしのことを怒ってやしなくって?」
「怒ってるなんて! とんでもない!」とドリイはにこやかにいった。
「でも、憎んでるでしょう。軽蔑してるでしょう?」
「そんなことあるもんですか! でもね、あんたもわかるでしょう、ああいうことは赦せないものよ」
「そりゃそうだわ」とアンナは顔をそむけて、開いた窓の方を見ながらいった。「でも、わたしが悪いわけじゃないわ。いったいだれが悪いんでしょう? また悪いって、どんなことなのかしら? あれよりほか、なりようがあったかしら? ねえ、あなたどう思って? あなたがスチーヴァの奥さんでないなんてことが、いったいありうるものかしら?」
「全くわからないわ。でも、あんた、こういうことを聞かせてちょうだい……」
「ええ、ええ、でも、わたしたちはまだ、キチイのことをすっかり話さなかったわ。あのひとはしあわせ? レーヴィンはりっぱな人だって噂だけど」
「りっぱといったくらいじゃ足りないわ。わたし、あの人以上にすぐれた人は知らないくらいよ」
「まあ、それはよかったこと! わたしも本当にうれしいわ! りっぱといったくらいじゃ足りないんですって」と彼女もくりかえした。
 ドリイはにっこり笑った。
「でも、あんた自分のことを聞かせてちょうだい。お互にいくらでも話があるんだから。それに、わたしたち話し合ったのよ。あの……」ドリイはあの男をなんと呼んでいいかわからなかっだ。伯爵というのも、アレクセイ・キリーロヴィッチと呼ぶのも、何か妙なぐあいであった。
「アレクセイとね」とアンナはいった。「わたし知ってますわ、あなたがたが、お話したことを。でも、わたしあなたに真正面からききたいの、あなたわたしのことをどう思って、わたしの生活のことを?」
「まあ、そうだしぬけにきかれたって、なんてったらいいか? わたし本当にわからないわ」
「だめよ、とにかくいってちょうだい……あなた、わたしたちの生活をごらんになったでしょう。もっとも、忘れないでちょうだい、あなたが見たのは夏の生活で、つまり、あなたもいらしったし、わたしたちが二人っきりでないときなんですから……ところが、わたしたちがここに着いたのは春のはじめで、それこそ二人っきりで暮しましたの。またこれからさきも、そうして暮しますわ。わたし、それより以上のことは望みません。でもね、考えて見てちょうだい、わたし一人で暮すことがあるの、全くのひとりぼっちで。それはこれからもあることなのよ……わたしいろんなことから推して、わかっていますの。それはしょっちゅう、くりかえされるにちがいありません。あの人は月の半分うちを明けるようになるでしょうよ」と彼女は席を立って、ドリイに近く腰をおろしながらいった。「そりゃもう」と何かいいかえそうとしたドリイをさえぎって、「そりゃもう、わたしだって、むりにあの人を引き留めはしませんわ。今度も競馬があって、あの人の馬が出るものですから、あの人も出かけて行きますの。そりゃわたしだって、喜んではあげますけど、でもあなた、わたしのことを考えてみてちょうだい、わたしの境遇を想像してみてちょうだい……でも、こんなことをいったってしようがないわ!」彼女はにっこり笑った。「で、あの人あなたにどんな話をしました?」
「あの人がいったのはね、わたしが自分で話したいと思ったことなの。だから、あの人の代弁するのは、わたしにとって楽なのよ。つまりね、なんとかならないだろうか、可能性はないだろうか……」ドリイはいいよどんだ。「あんたの境遇をなおす、いえ、よくすることはできないだろうか……ということなの。わたしがこれをどう見るかってことは、あんたにもわかってるでしょう……でも、なんといったって、できることなら、結婚したほうがいいにきまっているから……」
「つまり、離婚なのね?」とアンナはいった。「ねえ、どうでしょう、ペテルブルグで、わたしを訪ねて来たたった一人の女は、ベッチイ・トヴェルスカヤなのよ。あなた、あのひとを知ってるでしょう? 〔Au fond c'est la femme la plus de'prave'e qui existe. 〕(まったくのところ、あれはこの世で一番堕落した女ですわ)あのひとは、この上もなくけがらわしいしかたで、主人をだましながら、トゥシュケーヴィッチと関係していたんですからね。ところが、そのベッチイがわたしにむいて、あなたの境遇が変則である間は、あんたなんかと交際しない、っていうんですからね。わたしが人と比較なんかしてると、そんなふうに思わないでちょうだい‥…わたし、あなたの気持はよくわかってるんですからね、ドリイ。でも、あたしついに思い出して……まあ、それで、あの人なんていいました?」と彼女はくりかえした。
「あの人はね、あんたのためにも、自分のためにも苦しんでいるって、そうおっしゃったわ。あんたは、それはエゴイズムだっていうかもしれないけれど、でも正当なエゴイズムだわ、高潔なエゴイズムだわ! あの人は第一に、自分の娘を法律上りっぱに自分のものとしたい、あんたの良人になりたい、あんたにたいして権利をもちたいんですの」
「どんな妻だって、どんな奴隷だって、今の境遇にいるわたしほど、こんなに奴隷的になりきっているものが、またと二人あるでしょうか?」と彼女は暗い調子でさえぎった。
「何よりもいちばんあの人が望んでいるのは、あんたが苦しまないようにすることなの」
「それはできない相談よ! それから?」
「それからね、いちばん正当な希望は、あなたがたの子供たちが苗字をもつってこと」
「子供たちってなんのこと?」ドリイの顔を見ないで、目を細めながら、アンナはこうきいた。
「アニイと、それから先ざきできる子供よ……」
「それなら、あの人は安心していいわけだわ。わたしにはもう子供はできないから」
「どうしてできないっていいきれるの?……」
「できませんわ、だってわたし子供がほしくないんですもの」
 こういって、ひどく興奮しているにもかかわらず、ドリイの好奇にみちた、驚きと恐怖の無邪気な表情に気がついて、アンナは思わずほほえんだ。
「わたしお医者様にそういわれましたの、あの病気のあとでは……」
 ……………………………………………………
「そんなはずないわ!」とドリイは、大きく目を見はっていった。それは彼女にとって、ただならぬ発見の一つで、その結果と結論があまりにも大きかったので、はじめ一瞬、これを残らず考え合わせることは不可能であって、これについてはまだまだたくさん考えなければならぬ、といったような気がした。
 彼女にとって今までのみこめなかった、一人か二人しか子供のない家庭の秘密を、忽然《こつぜん》としてあからさまにしたこの発見は、あまりにも多くの想念と、考量と、矛盾した感情を呼びさましたので、ドリイは何一ついうことができず、大きな目を見ひらいて、びっくりしたようにアンナの顔をながめた。それは、自分の空想したのと同じことであったが、今それができると知ったとき、彼女は思わずぞっとした。これはあまりにも複雑な問題の、あまりにも簡単な解決であると感じた。
「N'est pas immoral?(それは不道徳なことじゃなくって?)」しばらくだまっていた後、彼女はこうきいた。
「なぜ? まあ、考えてもちょうだい、わたしには二つに一つの方法しかないのよ。妊娠するか、つまり病身でいるか、それとも良人の(だって、良人と同じことですもの)友だちとなるか、仲間になるか、ですわ」とアンナはわざとうわっすべりな、軽はずみな調子でいった。
「そりゃそうよ、そりゃそうよ」自分が自分で考えた論証を聞きながら、今はもうそこに前ほどの説得性を見いだすことができないで、ドリイはそういった。
「あなたにとっては、ほかの女の人にとっては」さながら相手の考えを察したように、アンナはいった。「まだ疑うところがあるかも知れないけど、わたしにとっては……ねえ、わかってちょうだい、わたしは妻じゃないのよ。あの人はわたしを好きなあいだは、わたしを愛してくれるでしょう。ところが、どうしてわたしはあの人の愛情を支えることができるんですの? これですの?」
 彼女は白い両手を腹の前へのばして見せた。
 興奮したときでなければないような恐ろしい速さで、思想と追憶がドリイの頭に群がり起った。
『わたしは』と彼女は考えるのであった。『スチーヴァをひきつけることができなかった。あの人はわたしを離れて、ほかの女のところへ行ってしまった。あの人がわたしに見変えたはじめての女は、いつもきれいで陽気なたちだった。でも、あの人はそれを見棄てて、別の女をこしらえた。いったいアンナも、それでヴロンスキイ伯爵をひきつけて、いつまでも留めておけるだろうか? もしあの人がそれだけを求めているとすれば、お化粧にしても態度《ものごし》にしても、もっと魅力のある、もっと楽しみになる女を見つけるに相違ないわ。アンナのむきだしの手がどんなに白くても、美しくても、あのむっちりした姿ぜんたいがどんなにりっぱでも、あの黒い髪の下に見える興奮した顔が、どんなにあでやかであっても、あの人はもっといいのを見つけるに相違ないわ、ちょうどあのいやらしい、みじめな、それでもいとしいうちのスチーヴァが、いつもさがしては見つけ出すように』
 ドリイはなんとも返事しないで、ただほっとため息をついた。アンナは不賛成を表明するそのため息に気がついたが、それでも言葉をつづけた。彼女には、まだいろいろ論証のストックがあり、しかもそれは、なんとも返事のしようがないほど強力なものであった。
「あなたは、そんなこといけないとおっしゃるのね? でも、よく分別しなくちゃなりませんわ」と彼女は言葉をつづけた。「あなたは、わたしの境遇を忘れてらっしゃるのよ。どうしてわたしに子供をほしがることができましょう? わたし、生みの苦しみのことをいってるのじゃありません。そんなことは怖かありませんもの。まあ、考えてもみてちょうだい、わたしの子供はどんな人間になるのでしょう? 他人の苗字を名乗る不幸な子供ですわ。その誕生のそもそもから、父母や自分の誕生を恥じなくちゃならない、そういう立場におかれるんですわ」
「だからこそ、離婚が必要なんじゃないの」
 しかし、アンナはその言葉を聞いていなかった。彼女は、いくども自分を説き伏せようとした論証を、最後までいってしまいたかったのである。
「もし、わたしが不幸な人間をこの世に生み出さないために、自分の理性を使わなかったら、いったいなんのために理性を授かっているのでしょう?」
 彼女はちょっとドリイを見やったが、返事を待たずに言葉をつづけた。
「わたしは年中、その不幸な子供にたいして、すまないような気がするでしょうよ」と彼女はいった。「もし生まなかったら、少なくともその子供たちは、不幸にならないでしょう。もしその子供らが不幸だったら、それはわたし一人のせいになるわ」
 それは、ドリイが自分自身にいって聞かせた論証であった。が、今アンナのいうことを聞きながら、なんのことかわからなかった。『いもしないものにたいして、どうして申しわけないことになるのだろう?』と彼女は考えた。ふと、こんな考えが浮んだ。『もしどうかしたひょうしに、わたしのかわいいグリーシャがこの世にいなかったら、それがあの子のためにしあわせだなんて、そんなことがあるかしら?』それはドリイにとってあまりにも奇妙で、とっぴょうしのないことだったので、頭の中でどうどうめぐりする、混乱した、気違いじみた考えを追い散らすために、首をふっていた。
「いえ、わたしにはわからないけど、それはよくないことだわ」嫌悪の表情を面に浮べながら、彼女はただそういったばかりである。
「そう、でもあなた忘れないでね、あなたがどういう身分で、わたしがどういう身分だかってことを……それにまだ……」自分の論証が豊富で、ドリイの論証が貧弱なのにもかかわらず、やはりそれはよくないことだと自認した様子で、アンナはこうつけ足した。「あなた、いちばんだいじなことを忘れないでちょうだい、今のわたしの境遇はあなたと違うんですから。あなたにとって問題は、もうこれ以上子供をもたないことを望むか、どうかということだけど、わたしの問題は、子供をもつことを望むかどうか、ということなんですもの。それはたいへんな相違よ。あたしの今の境遇では、そんなことを望むわけにいかないのを、あなたわかってくだすって?」
 ドリイは別に反駁しなかった。彼女はとつぜん、アンナとはもう遠く離れてしまったのを感じた。二人の間にはいろんな疑問があって、それについては、どうしても意見が一致しないから、もういっそ話さないほうがいいのであった。

[#5字下げ]二四[#「二四」は中見出し]

「だから、なおさらあんたは、自分の境遇をちゃんとしなくちゃならないじゃないの、もしできることなら」とドリイはいった。
「そうね、もしできることなら」とアンナはとつぜんまるで別な、低い、淋しそうな声で答えた。「いったい離婚はどうしてもだめなの? わたし、あんたのご主人は承知だと聞いたけど」
「ドリイ、わたしその話はしたくないの」
「じゃ、よしましょう」アンナの顔に苦痛の表情を認めて、ドリイは急いでこういった。「ただわたしが思うのはね、あんたあまり暗い見方をしてるわ」
「わたし? ちっとも。わたしとても楽しくって、満足してるわ。あなた気がついて、Je fais des passion(わたし恋をしてるのよ)ヴェスローフスキイと……」
「ええ、本当のことをいうと、わたしヴェスローフスキイの調子が気に入らないの」とドリイは、話題を変えようと思っていった。
「いいえ、そんなことは決してありませんわ! あれはアレクセイをあやつる役目をするだけで、なんでもありはしません。あの人は子供も同然で、わたしの両手にしっかりおさえられているの。あなたわかるでしょう、わたしはあの人を自由自在にあやつっているので、まあ、あなたのとこのグリーシャと同じこったわ……ドリイ!」とつぜん彼女は話題を変えた。「あなたは、わたしが暗い見方をするとおっしゃったわね。あなたにはとてもわかりっこないのよ。それはあまり恐ろしいことなんですもの。わたしは頭から見ないようにしていますの」
「でも、わたしはなんといっても、必要だと思うわ。できるだけのことは、なんでもしなくちゃならないわ」
「でも、何ができるんでしょう? 何一つできやしません。あなたは、アレクセイと結婚することが必要なのに、わたしがそれを考えないっておっしゃいましたね。わたしがそのことを考えないんですって!」と彼女はくりかえしたが、くれないの色がさっと顔じゅうにひろがった。彼女は立ちあがって、ぐっと胸を張り、ほっと重々しい吐息をつくと、例の軽い足どりで部屋の中をあちこち歩きだしたが、ときおり歩みをとめるのであった。「わたしが考えないんですって? いいえ、わたしが考えない日といっては、一日も、いっときもありません、かえって考えるがために、自分で自分を責めているほどですわ……だって、それを考えると、気が狂いそうになるんですもの。まったく気が狂いますわ」と彼女はくりかえした。「わたしこのことを考えだすと、もうモルヒネなしじゃ眠れないんですの。でも、よござんす。おちついてお話しましょう。みんながわたしに、離婚しろといいますが、第一、あの人が承知しやしません。あの人はいま、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナにひきまわされているんですから」
 ドリイはさっと身を反らして、椅子に腰をかけ、首をあちこちと向け変えながら、さも苦しそうな同情の面持で、歩きまわるアンナを目で追っていた。
「でも、やってみなくちゃなりませんわ」と彼女は小さな声でいった。
「そうね、かりにやってみるとしましょう。ところが、それはどういうことなのでしょう!」と、彼女はいったが、それは明らかに、幾千度となくくりかえして、もうすっかり諳《そら》で覚えている想念らしかった。
「それはつまり、あの人を憎んでいながら、それでも申しわけないことをしたと感じているわたしが――ええ、わたしあの人を寛大な人間と思っています――そのわたしが自分を卑下して、あの人に手紙を書くということなんです……まあ、かりにわたしが努力して、それをするとしましょう。その結果は、侮辱にみちた返事を受けとるとか、承諾の返事をもらうかですわ。まあ、かりに、結果がよくて、承諾の返事をもらうとしましょう……」アンナはこのとき、部屋の遠いすみの方へ行って立ちどまり、窓のカーテンをどうかしていた。「承諾の返事をもらったとしても、セ……セリョージャは? 決してあの子を渡してくれる気づかいはありませんわ。すると、あの子はわたしの棄てて行った父親の手もとで、わたしをさげすみながら、大きくなっていくでしょう。ね、察してちょうだい、わたしは二人を同じ程度に愛しているような気がしますの。でも、その二人を自分より以上に愛していますわ、セリョージャとアレクセイを」
 彼女は部屋のまんなかへ出て、両手でひしと胸を抱きしめながら、ドリイの前に立ちどまった。白いガウンを着たその姿は、とくべつ大きく幅広に見えた。彼女は首をすくめて、興奮のあまり全身をわなわなふるわせているドリイの、つぎの当った短上衣《コフタ》を着てナイトキャップをかぶった、やせた小柄なみじめな姿を、涙に光る目で額ごしに見つめるのであった。
「わたしは、ただこの二人だけを愛しているんですけど、その二つの愛は両立しないものなんですの。わたしは、それを結び合わすことができません。ところが、わたしに必要なのは、ただそれ一つだけなんですもの。もしそれがだめなら、もうどうでもいいの。本当にどうだってかまいませんわ。まあ、なんとか片がつくでしょうよ。こういうわけで、わたしはこのお話をすることもできなければ、したくもありませんの。ですからね、あなた、わたしを責めないで下さいね。何ごとにつけても、悪く思わないでちょうだい。あなたの純潔な心持では、わたしのくるしみを残らず理解するなんて、とてもできないことですわ」
 彼女はドリイのそばへよって、並んで腰をおろし、すまないような表情で、相手の顔をのぞきこみながら、その手をとった。
「あなた何を考えてらっしゃるの? わたしのことをなんとお思いになって? どうかわたしをさげすまないでちょうだい。わたしは侮蔑される値うちもないんですから。わたし本当にふしあわせなんですわ。もしだれか不幸な人間があるとすれば、それはほかでもない、このわたしなんですわ」というなり、彼女は顔をそむけて泣きだした。
 一人きりになると、ドリイはお祈りをして、ベッドに入った。アンナと話しているあいだは、しんそこからかわいそうでたまらなかったが、今度はどんなにつとめてみても、アンナのことを考えることができなかった。わが家と子供たちの追憶が、何かとくべつ新しい魅力をもって、一種の新しい光輝に包まれて、彼女の心に湧き起ったのである。この自分の世界が、今はなんともいえないほど尊い、懐かしいものに思われてきて、それをよそにしては、一日もよけいな時をすごす気になれなかった。で、明日はどうあっても帰ろうと肚《はら》を決めた。
 アンナはそのあいだに自分の居間へ帰って、グラスをとりだし、その中へ薬をいくたらしか落した。その主成分はモルヒネなのであった。ぐっと飲み干すと、しばらくじっと坐っていたが、やがておちついた浮きうきした気持になって、寝室へおもむいた。
 彼女が寝室へ入ったとき、ヴロンスキイはじっと注意ぶかく彼女をながめた。ドリイとの会話の痕跡《こんせき》を見つけ出そうとしたのである。彼女があんなに長くドリイの部屋にいた以上、その話はきっと出たに相違ない、それは彼も知っていた。しかし、興奮をおさえて、なにやら隠しているようなアンナの表情には、何一つ発見することができなかった。そこには、慣れっこになっているとはいいながら、いぜんとして彼を魅了せねばやまぬ美しさと、その美しさを意識する気持と、その美しさが男に作用するようにという願望があるばかりだった。彼は別に自分のほうから、二人でどんな話をしたかとはたずねなかったが、彼女が進んで何かいうだろうと、期待していた。けれども、彼女はただこういったばかりである。
「ドリイがあなたのお気に召して、あたしこんなうれしいことありませんわ。ね、そうでしょう?」
「だって、僕はあのひと前から知ってるんだもの。あれは本当に善良な人らしいね。〔Mais excessivement terre-a`-terre.〕(もっとも、ごく平凡な女ではあるがね)しかし、なんといっても、あのひとが来てくれたのは、大いにうれしかった」
 彼はアンナの手をとって、もの問いたげにその目を見つめた。
 彼女はそのまなざしを別の意味にとって、にっこり笑いかけた。

 翌朝、主人側の懇請にもかかわらず、ドリイは帰りじたくをした。あまり新しくない長外套《カフタン》をまとい、なかば駅逓馭者風の帽子をかぶったレーヴィンの馭者は、泥よけのつぎはぎだらけな幌馬車に、毛色の不揃いな馬をつけて、沈みがちな、しかも決然たる表情で、撒砂《まきずな》のしてある屋根つきの車寄せへ乗りこんで来た。
 ヴァルヴァーラ公爵令嬢や、男連中に別れのあいさつをするのは、ドリイにとって不愉快であった。一日くらしてみたうえで、彼女も主人側も、自分たちはお互にそりが合わないから、いっそ別れたほうがいいということを、はっきり感じたのである。ただアンナだけは悲しかった。ドリイの出発とともに、彼女との会談に呼びさまされたような感情を、もうだれにも胸の中にかきたてられることはない、ということが、彼女にはわかっていたのである。この感情をかきたてられるのは、彼女にとって苦痛であったが、しかしそれは彼女の魂の最もすぐれた部分である。が、この魂のよき部分も、現在、彼女の送っている生活にまぎれて、まもなくおぼろになってしまうに相違ない。それが彼女にはわかっていたのである。
 野へ出ると、ドリイはほっとしたような、快い感じを経験した。彼女は馭者たちに、ヴロンスキイ家のことをどう思うか、ときいてみたくなった。と、ふいに馭者のフィリップが、自分のほうからいいだした。
「金持なこたあ金持に相違ねえでしょうが、馬に燕麦をたった三斗しかくれねえんで、鶏の鳴くまでにゃ、きれいに食っちまいましたよ。三斗やそこらどうしますかね? ほんのおやつでさあ。きょうび宿屋でも、燕麦は四十五コペイカでがすからね。うちなんかじゃ、お客さまの馬には、いくらでも食うだけやりまさあ」
「けちな旦那ですよ」と帳場の男も相槌を打った。
「ところで、あすこの馬をどう思って?」とドリイはきいた。
「馬はもう、いうがもなァごぜえませんや。それに食べもんもけっこうで。でも、何かわっしゃおもしろくねえ気持がしましたよ、ダーリヤ・アレクサンドロヴナ。あなたさまはなんとお思いなせえますか知れませんがね」美しい善良そうな顔をふりむけて、彼はこういった。
「わたしもやっぱりそうなの。ときに、どうだろうねえ、夕方までには着くかしら?」
「着かなきゃしようがごぜえませんや」
 家へ帰ると、みんなが無事で、しかもかくべつかわいく思われたので、ドリイは急に元気になって、自分の旅の話をし、大事にもてなされたことや、ヴロンスキイ家の生活が豪奢で、その趣味のいいことや、みんなのして遊んでいることなど物語って、だれにもひと口として、彼らのことを悪しざまにいわせなかった。
「アンナとヴロンスキイがどんなに情の深い、いい人かってことを合点するためには、あの人たちをよく知らなくちゃなりません。わたしも今度、ヴロンスキイって人がよくわかりましたわ」むこうにいるあいだ感じていたばくぜんとした不満と、ばつの悪さをすっかり忘れてしまって、いま彼女はまったく嘘でもなんでもなく、そういうのであった。

[#5字下げ]二五[#「二五」は中見出し]

 ヴロンスキイとアンナは、相変らず同じ生活条件で、いぜんとして離婚のためになんの方法も講ぜず、夏いっぱいと秋のはじめを田舎で暮した。二人のあいだでは、どこへも行かないことに相談がきまっていた。しかし、長く二人きりで暮せば暮すほど、ことに秋、客のないときなどは、この生活をもちこたえていくことはできない、なんとか変更の必要があるということを、二人ながら感じさせられた。
 生活は一見したところ、これ以上は望めないと思われるほど、申し分ないものであった。収入は十分あるし、健康にも恵まれ、子供もあって、二人ながらそれぞれ仕事をもっていた。アンナは客のないときでも、いつも変りなく身じまいに心を配っていたが、同時に読書にも専念して、小説でも堅いものでも、当時評判になった本は、じゃんじゃん読んだ。彼女は、しじゅう購読している外国の新聞や、雑誌に推賞されている書物を、かたっぱしからとりよせて、孤独な生活をしている場合でなければ望まれないような注意ぶかさで、それらのものを読破した。のみならず、ヴロンスキイの携わっている仕事についても、彼女は残らず書物や専門の雑誌で研究したので、彼はしばしば農業や建築ばかりでなく、馬匹飼育やスポーツに関する質問さえ、いきなり彼女のところへもっていくようになった。彼はアンナの知識と記憶に一驚を喫して、はじめのあいだは疑いをいだきながら、その真否を確かめようとした。すると、彼女は問われたことを書物の中に見つけ出して、彼に見せるのであった。
 病院の設備も、彼女の興味を呼びさました。彼女は単に手伝いをしたばかりでなく、自分でいろいろと設備をしたり、考えついたりした。しかし、なんといっても、彼女にとって最も重要な配慮は、彼女自身であった。自分がどの程度、ヴロンスキイにとってたいせつなものであるか、彼が棄てたいっさいのものをどの程度まで償うことができるか、という意味における彼女自身なのであった。彼女の生活で唯一の目的となったこの希望、単に男に気に入ろうとするばかりでなく、一心に男に仕えようとするこの希望を、ヴロンスキイはありがたいとは思いながらも、彼女が一生懸命に男を愛の網に包みこもうとするのを荷厄介に感じるようになった。だんだん時がたっていって、ますます自分がこの網にからまれているのを見ると、彼はその中から出たいというのではないけれども、それが自分の自由を妨げはしないかどうか、試してみたいという気持を、しだいに強くいだくようになった。日とともにいよいよ募ってくる、自由になりたいというこの欲望がなかったら、そして会議や競馬のために町へ行こうとするたびに、いつも必ず起る悶着《もんちゃく》がなかったら、ヴロンスキイは自分の生活に、完全に満足だったといえるであろう。彼が選んだ役割は、富裕な土地所有者の役割であって、この階級こそロシヤ貴族の中核をなすべきものであった。この役割は、ぴったり彼の好みに合ったばかりでなく、こうして半年もすごした今となっては、たえず増大していく満足を与えるのであった。彼の仕事はいよいよ強く彼の興味をそそり、いよいよ深く彼をその世界へひきこみながら、非常に調子よく進んだ。病院や、機械や、スイスからとりよせた牝牛や、その他さまざまなものが、ばくだいな出費を要したにもかかわらず、彼は自分の財産を蕩尽《とうじん》するどころか、かえって大きくしたという確信を得た。領地の収入とか、森や穀物や羊毛の売却だとか、土地の貸付とかいう問題になると、ヴロンスキイは石のように固くて、値段を落さない腕をもっていた。このヴォズドヴィージェンスコエでも、ほかの領地でも、大農場の経営ということにかけては、彼はもっとも単純な、危険性の少ない方針を守り、この上もない倹約家で、農場関係のこまかいことにまで算盤《そろばん》をはじいた。ドイツ人の支配人は、狡猾な要領のいい男で、いつもはじめはうんと高く吹っかけておいてから、よく勘定してみたら、同じものがずっと安くできるから、すぐもうけが手に入る、といったような計算書を差し出して、いろんな買物をすすめるのであったが、ヴロンスキイはその手に乗らなかった。支配人のいうことをとっくり聞いて、詳しく根掘り葉掘りたずね、これからとりよせるものなり、造るものなりが、ロシヤに知られていない最新式のものであって、人を驚かすに足りるような場合でなければ、決して同意しなかった。のみならず、彼は余分の金があるときでなければ、大口の支出をしないようにしていたし、その支出をするときには、ありとあらゆる点を詳細に調べて、その金で最上のものを手に入れなければ承知しなかった。こういうわけで、彼の仕事のやりくちを見ただけで、彼が自分の財産に穴をあけているのでなく、かえってふとらしていることが明瞭であった。
 十月にカーシン県貴族団の選挙があった。この県にはヴロンスキイ、スヴィヤージュスキイ、コズヌイシェフ、オブロンスキイなどの領地があり、レーヴィンのも一部これに属していた。
 この選挙はさまざまな事情と、これに関係している人物のために、社会一般の注意を惹起《じゃっき》した。いろいろの噂がやかましく、人々はそれにたいして、準備おさおさ怠りなかった。これまで一度も選挙に出たことのない、モスクワやぺテルブルグの人々ばかりでなく、外国にいる人たちまでが、この選挙のために集って来た。
 ヴロンスキイはもう久しい前から、スヴィヤージュスキイに、この選挙に出かけることを約束していた。
 選挙の前に、しじゅうヴォズドヴィージェンスコエを訪問していたスヴィヤージュスキイは、ヴロンスキイを迎えにやって来た。
 その前日、ヴロンスキイとアンナのあいだには、前から予定されていた旅行のために、喧嘩がはじまらないばかりであった。それは田舎でいちばん退屈な、重苦しい秋の季節であった。で、ヴロンスキイは闘争にたいする心がまえをしながら、今までアンナと話をするときについぞ見せたことのないような、きびしい冷たい表情を顔に浮べて、自分の旅行のことを声明した。しかし、驚いたことには、アンナはその知らせを、おちつきはらって聞いた。ただ帰りはいつになるか、ときいたばかりである。そのおちつきぶりが合点いかないので、彼は注意ぶかく彼女をながめた。彼女はそのまなざしにたいして、にっこり笑った。彼女が自分自身の中に閉じこもってしまう癖があることを、ヴロンスキイは承知していた。またそれは、彼女が自分のもくろみを彼に知らさないで、何か心の中に決心したときに限るということも、彼にはわかっていた。彼はそれを恐れた。が、痴話場《ちわば》を避けたさが一心に、彼は自分の信じたいと願っているもの――彼女の分別のよさを信じでいるようなふりをした、いや、ある程度こころからそれを信じたのである。
「おまえきっとさびしがりなどしないだろうね?」
「たいてい、大丈夫でしょう」とアンナはいった。「昨日ゴチエから本が一箱とどきましたから大丈夫、さびしがりなんかしませんわ」
『ははあ、あの調子でいこうとしてるのだな、そりゃまあけっこうだ』と彼は考えた。『さもないと、いつもいつも同じことばかりだからな』
 こうして、彼はアンナに腹を割った話をさせないで、そのまま選挙に立ってしまった。彼らが結び合わされて以来、最後まではっきり気持をいいあわないで別れたのは、これがはじめてであった。一方からいうと、彼はその点が気になったけれども、また一方からいうと、そのほうがいいと思った。『はじめのあいだは今のように、何かはっきりしなくって、隠しだてでもしてるような気がするけれども、そのうちにあれも慣れてくるだろう。いずれにしても、おれはあれになんでも捧げてしまうが、男性としての独立だけはそうはいかない』と彼は考えた。