『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」3-06~3-10(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]

 マーシキン・ヴェルフは刈り終えられた。人人は最後の幾筋かを仕上げたのち、長上衣《カフタン》を着こみ、にぎやかに家路へ向った。レーヴィンは馬に乗って、名残り惜しく百姓たちに別れを告げ、邸の方へ馬を進めた。丘の上でふり返って見たが、低地から立ち昇る霧のために、百姓たちの姿は見えなかった。ただ楽しげな荒《あら》っぽい話し声と、無遠慮な笑いと、鎌のぶつかりあう響きが聞こえるばかり。
 コズヌイシェフはとっくに食事をすまして、自分の部屋でレモン入りの氷水を飲みながら、たったいま郵便局から届いたばかりの新聞や、雑誌に目を通していた。そこヘレーヴィンが、乱れた髪を汗で額に粘《ねば》りつかせ、背中も胸も黒く濡れた仕事着のまま、楽しそうな声で話しかけながら、兄の部屋へ闖入《ちんにゅう》したのである。
「僕らは草場を一つ、すっかり刈りあげてしまいましたよ! ああ、実にいい、すてきだ! ところで、兄さんはどんなふうに日を暮しました?」昨日の不愉快な会話のことなどけろりと忘れて、レーヴィンはこういった。
「やっ、たいへんだ! おまえはまあ、なんてかっこうだい!」とコズヌイシェフは、最初の瞬間、なにか不満げに弟をじろじろ見ながらきいた。「それに、戸を、戸を閉めてくれよ!」と彼は叫んだ。「きっと十匹くらい入れたに相違ない」
 コズヌイシェフは蠅が大嫌いなので、自分の部屋の窓は夜でなければ開けず、戸はいちいち丹念に閉めるのであった。
「大丈夫、一匹も入りゃしませんでしたよ。もし入ってたら、僕がとります。兄さんは本当にできないでしょうね、あれがどんなにいい気持なものか! 兄さんは今日の一日をどうすごしました?」
「私もよかったよ。だが、本当におまえはいちんち草刈りをしたのかい? さぞ狼のように腹をへらしていることだろうな。クジマーがおまえのために、すっかりしたくをしてるよ」
「いや、僕は食べたくないんです。むこうで食事をしてきたから。それより、ちょっといって、体を洗ってきますよ」
「ああ、いってきなさい、いってきなさい。私もすぐおまえの部屋へいくから」小首をふりふり弟を見まわしながら、コズヌイシェフはこういった。「いきなさいったら、早くいきなさい」と彼はにこにこしながらつけ足して、本を一つに集めると、もう出ていくしたくをした。彼は自分まで急に愉快になって、弟と離れたくなくなったのである。「ときに、雨のあいだどこにいたね?」
「あれがなんで雨なもんですか! ちょっとぱらぱらっとしただけじゃありませんか。じゃ、僕すぐきますから。では、兄さんは気持よく一日をすごしたんですね? いや、けっこうです」とレーヴィンは着替えをして出ていった。
 五分ほどして、兄弟は食堂でいっしょになった。レーヴィンは、食事などしたくないような気がしたが、クジマーの気を悪くさせないためにテーブルにむかった。しかし、食べはじめてみると、食事がめちゃめちゃにうまいように思われた。コズヌイシェフはにこにこしながら、その様子を眺めていた。
「あっ、そうだ。おまえのとこへ手紙が来てるよ」と彼はいった。「クジマー、ご苦労だが、下から持って来てくれんか。だが、いいかい、戸をちゃんと閉めとくんだぞ」
 手紙はオブロンスキイから来たものであった。レーヴィンは声を立てて読んだ。オブロンスキイは、ペテルブルグからよこしたのである。
『僕はドリイから手紙を受け取った。あれはエルグショーヴォにいるのだが、なにもかもうまくいかないで困っている。お願いだから、出かけて行って、あれの相談相手になってくれないか、君はなんでもよく知っているのだから。あれも君に会えたら、どんなに喜ぶかしれやしない。かわいそうにたった一人ぼっちなんだよ。義母《はは》は家族づれで、まだ外国にいるのだ』
「こいつはいい、ぜひ行ってこよう」とレーヴィンはいった。「なんならいっしょに行きませんか。とてもいいひとですよ。そう思いませんか?」
「それはここから近いのかね?」
「三十露里、いや、あるいは四十露里もあるかな。でも、道がいいから、愉快な旅ができますよ」
「大いにけっこう」とコズヌイシェフは相変らず、にこにこしながらいった。
 弟の様子が何か直接に働きかけて、彼を楽しい気分にさせるのであった。
「それにしても、たいした食欲だなあ!」弟が皿の上に傾けている赤銅色に焼けた顔や、頸筋を見ながら、彼はこういった。
「すばらしいもんですよ! 兄さんは本当になさらないでしょうが、すべてくだらん考えを頭から追い出すのには、これこそ実に有効な療法ですよ。僕は一つ新しい術語を提供して、医学を豊富にしようと思いますよ、Arbeitscur(労働療法)」
「いやあ、おまえにはそんなもの必要がなさそうじゃないか」
「そう、しかしいろんな神経病患者にはね」
「そう、それは実験してみなくちゃならんよ。じつはね、私は草刈場へ行って、おまえの様子を見ようと思ったんだが、とてもやりきれない暑さなので、森から先へは行かずにしまったよ。で、しばらく腰かけていて、それから森づたいに村へ行ったところ、おまえの乳母に会ったので、百姓どもがおまえをどう見ているか、ちょっとさぐりを入れてみたんだよ。ところで、私の見たところでは、みんなああいうことには不感服らしいね。乳母は、『旦那がたのなさる仕事じゃありません』といったよ。概して、民衆の観念の中では、彼らのいわゆる『旦那がたの』仕事に関して、一定の要求がはっきり存在しているらしい。そこで、自分たちの観念で規定されている枠を、旦那がたが踏み出すのを、彼らは許そうとしないんだね」
「かもしれません。でも、あれはじつに愉快な仕事で、今まで一度も経験したことがないほどです。それに、なにも悪いことはないでしょう、ね、そうじゃありませんか?」とレーヴィンは答えた。「よしんば、彼らの気に入らないとしても、そりゃしかたがありませんよ。もっとも、僕はなんでもないと思いますがね。え?」
「まあ、概して」とコズヌイシェフはつづけた。
「私の見たところでは、おまえは今日の一日に、満足してるらしいな」
「大いに満足してますとも。僕らは草場を一つのこらず、刈りあげたんですからね。それに、一人のすばらしい老人と仲よしになったんです! どんなに愛すべき人間か、兄さんにゃ想像もつかないでしょう」
「じゃ、今日の一日に満足なんだね。私もご同様なんだよ。だいいち、私は将棋の問題を二つ解いたが、その一つはことにおもしろいやつでね、――まず歩《ふ》から始めるんだ。あとでやってみせよう。それから、われわれの昨日の話を考えてみたんだ」
「なんですって? 昨日の話?」さも幸福そうに目を細めて、食後のふとい息をつきながら、レーヴィンはこういったが、その昨日の話というのはどんなことだったか、とんと思い出せなかった。
「私も今では、おまえの考えが部分的には正しいと思うよ。われわれの意見の相違は、次の点にあるのだ。おまえはいっさいの動因を個人の利害とするのに、私は教養のある段階に立っている人間なら、だれしも一般的福祉の観念を有すべきだと考える、そこなんだよ。しかし、あるいはおまえの説も一理あって、物質上の利害から出た活動のほうが、いっそうのぞましいかもしれない。概しておまえの稟性《ひんせい》は、フランスのいわゆる〔primesautie`re〕(思い切りよさ)の度が過ぎるね。おまえが望むのは、はげしい精力的な活動か、しからずんば無なのだ」
 レーヴィンは兄の言葉を聞いていたが、まるっきり何一つわからなかったし、またわかろうとも思わなかった。ただ彼は兄に何か問いかけられて、自分が何も聞いていなかったことを暴露しはしないかと、それだけを恐れていた。
「そうなんだよ、コスチャ」とコズヌイシェフは、弟の肩にさわりながらいった。
「そうですとも、むろん。それに、なんですよ、僕はあえて自説を固持しやしませんよ」
 子供っぽい、さもすまないらしい微笑を浮べて、レーヴィンは答えた。『ええと、おれはいったいなんの議論をしたのだったっけ!』と彼は考えた。『もちろん、おれも正しければ、兄も正しい、そしてなにもかもけっこうなんだ。ただ事務所へ行って、ひととおり指図してこなくちゃ』
 彼は伸びをして、にこにこしながら立ちあがった。
 コズヌイシェフは同じように微笑した。
「おまえが行くのなら、私もいっしょに行こう」と彼はいった。見るからに新鮮の気と、溌剌《はつらつ》たる力を発散させている弟に、別れたくなかったのである。「行こう。そして、事務所へも寄ろう、もしおまえに必要だというなら」
「やっ[#「やっ」は底本では「やつ」]、たいへんだ!」ふいにレーヴィンは、コズヌイシェフがぎょっとするほど、大きな声で叫んだ。
「何、なんだね、おまえ?」
「アガーフィヤの手はどうなのかしら?」
 われとわが頭をたたきながら、レーヴィンはそういった。「僕あれのことをすっかり忘れていたっけ」
「ずっとよくなったよ」
「それにしても、ちょっとひと走り行ってこよう。兄さんが帽子をかぶる暇もないうちに、すぐ帰ってきますよ」
 そういうなり、彼は玩具《おもちゃ》のがらがらのように靴の踵を鳴らして、階段を駆け下りた。

[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]

 スチェパン・アルカージッチ・オブロンスキイが、およそ勤務しているものならだれでも承知しているきわめて自然な、そのくせ勤めていないものには不可解千万な義務、これをしなくては勤務が不可能なというほど必須《ひっしゅ》な義務、つまり、自分のことを忘れられないために本省へ顔出しするという義務を果すために、ペテルブルグへ出かけて行って、その義務遂行のために、有り金をほとんど全部家から持ち出し、競馬や別荘でおもしろおかしく日を暮している間に、ドリイはできるだけ経費を節約するために、子供らをつれて田舎へひっこんだ。彼女が引き移って行った先は、自分の持参金の一部であるエルグショーヴォ村であった。それはこの春、森を売ったところで、レーヴィンのペトローフスコエ村からは、五十露里離れていた。
 エルグショーヴォの古い大きな地主邸は、とくの昔に取りこわされて、ただ一軒の離れが、老公爵の手で修繕され、とりひろげられてあった。この離れは、すべての離れの常として、正面並木道に横を向けていて、南も外《そ》れてはいたけれども、まだ二十年もまえ、ドリイが子供だった時分から、ゆったりして住み心地がよかった。しかし、今ではこの離れも老朽状態であった。この春、オブロンスキイが森を売りに行った時、ドリイはよく家を見て、必要な修繕をさせるように頼んだ。オブロンスキイは、すべて悪いことをした良人の例に洩れず、妻のごきげんとりに一生懸命だったので、自分で家を点検したのち、必要と認めたことを残りなく処理してきた。彼の考えによる必要なことというのは、家具を全部|更紗《クレトン》で張り替え、窓にカーテンをかけ、庭を掃除し、池に小さな橋を架《か》け、花を植えることであった。が、彼はそのほかたくさん、なくてはかなわぬことを忘れていたので、そうした不備が、あとでドリイを悩ますこととなったのである。
 オブロンスキイは、よく気のつく父親となり良人となりたいと、自分ではずいぶんつとめていたのであるが、どうしてもおれは妻子のある人間だということを、頭に刻みこむことができなかった。彼には独身者の趣味があって、何ごともそれを標準にして行動した。モスクワへ帰ると、彼はさも得意げに妻にむかって、なにもかも準備はできた、まるで玩具のようにかわいい家だから、ぜひ行ってごらんと報告した。オブロンスキイにとっては、妻の田舎行きはあらゆる点で、大いに好都合なのだった。子供たちの体にもいいし、経費も節約できるし、自分もずっと自由がきく。ドリイのほうでも、夏の田舎行きは子供のために、ことに猩紅熱《しょうこうねつ》のあとがなかなかはっきりしない女の子のために、必要であるのみならず、彼女にとって苦痛の種である薪屋、魚屋、靴屋などのこまごました借金や、それにともなうつまらない屈辱感からのがれるためにも、必要なことであると考えていた。なおその上に、この田舎行きが彼女にうれしく思われたのは、妹のキチイを村の方へひっぱりよせようと、空想していたからである。キチイは夏の半ばに外国から帰ってくるはずであったが、医者から水浴を命じられていた。彼女は温泉場から手紙をよこして、わたしたち二人にとって、幼いころの思い出にみちているエルグショーヴォで、姉さんといっしょにひと夏くらすほどうれしいことはない、と書いているのであった。
 はじめしばらくの間は、田園生活もドリイにとって、ひどくつらいものであった。彼女は子供の時分、この村に暮したことがあるので、田舎はありとあらゆる都会生活の不快をのがれる避難所である、田舎の生活は優美でこそないけれども(この点ではドリイもすぐ妥協した)、そのかわり安直で便利である、物はなんでもあって、なにもかも安くて、なんでも手に入れることができ、子供たちの体にもいい、といったような印象が残っていた。ところが、いま主婦として田舎へ来てみると、いっさいがまるで予想と違っているのを発見した。
 着いた翌日、抜けるような雨が降って、夜中には廊下と子供部屋に雨漏りがしはじめたので寝台を客間へ移さなければならなかった。下の台所で働く女中がいないし、牝牛は九頭もありながら、家畜番の女の説明によると、あるものは孕《はら》んでいるし、あるものはまだ子牛同様だし、あるものは年をとり過ぎているし、またあるものは乳の出が悪くって、バタもなければ、子供たちに飲ます牛乳さえ足りない始末であった。卵もなかった。鶏も手に入らなかった。焼くのも煮るのも、紫がかった色をした、筋だらけの、年とった牡鶏なのであった。床を洗うのに女を雇おうと思っても、みんな馬鈴薯掘りに行ってまにあわない。馬車で散歩に出ることもできなかった。一頭きりの馬がじゃじゃばって、轅《ながえ》につけると暴れるのであった。水浴びをする場所もない、――川の岸はすっかり家畜に踏み荒らされて、街道からまる見えなのである。それどころか、ちょっと散歩に出ることもできなかった。垣根のこわれたところから家畜が庭へ入りこんで、その中には恐ろしい牡牛が一匹まじっていた。ものすごく唸るところからみると、きっと角で突くやつに相違ない。衣装をしまう戸棚もなかった。あるにはあっても、戸がよくしまらない。そばを通ると、ひとりでに開くという始末。釜も壺もなかった。洗濯用の罐《かん》もなければ、女中部屋にはアイロン台さえなかった。
 安静と休息のかわりに、彼女の目から見ると、こんな恐ろしい災難にぶっつかったので、ドリイははじめ絶望に陥ってしまった。一生懸命にやきもきしてみたが、その状態がどうにもならないことを痛感して、のべつ目に滲み出す涙をおさえるのであった。美しい上品な顔をしているので、オブロンスキイのお気に入り、玄関番から支配人に抜擢《ばってき》された軍曹あがりの男は、ドリイがいくら困っていてもいっこう同情を示そうとせず、ただうやうやしい調子で、「なんともいたしかたがございません、みんなしようのない手合いでございますからな」というだけで、何一つ力をかそうとしなかった。
 この状態は、救いのないもののように思われた。しかし、オブロンスキイ家には、すべて大家族の邸の例にもれず、目には立たないけれど重大な役割をつとめる、有益な人物が一人いた。それはマトリョーナ・フィリモーノヴナであった。彼女は奥さまを慰めて、今になにもかも丸くおさまりますよ[#「丸くおさまりますよ」に傍点]、と口癖のようにいい(これは彼女のおはこで、マトヴェイも彼女からそれを借用したのである)、自分はあわてず騒がず、仕事をつづけるのであった。
 彼女はすぐ支配人の細君と懇意になり、着いた当日、この女と亭主の支配人といっしょに、アカシヤの下でお茶を飲みながら、あらゆる問題を評議した。まもなく、このアカシヤの下に、マトリョーナのクラブができあがってしまった。支配人の細君と、組頭と、帳場の男を会員とするこのクラブを通して、やっかいな生活上の問題が、ぽつりぽつりと解決されていき、一週間もしたころには、本当になにもかも丸くおさまった[#「丸くおさまった」に傍点]のである。屋根は修理され、台所女中も見つかり(これは組頭の懇意にしている女であった)、鶏も買い入れ、牝牛も乳を出すようになり、庭には丸太囲いをし、料理台も大工につくらせ、戸棚には鍵をとりつけたので、もうかってに開かなくなった。兵隊ラシャをかぶせたアイロンの台は、肘椅子の腕木から箪笥《たんす》へかけ渡されて、女中部屋ではアイロンの匂いがするようになった。
「そら、ごらんなさいまし! いつも、だめだ、だめだ、といってらっしゃいましたけど」とマトリョーナは、アイロン台を指さしながらいった。
 麦わらで壁をつくった水浴小屋まで建てられた。ドリイは水浴をはじめた。こうして、ドリイにとって、おちつきこそないけれど、便利な田園生活にかけられた期待が、部分的ながらも実現された。六人の子供をつれたドリイには、おちつきなどということは望まれなかった。一人が病気にかかれば、また一人が病気しそうになってくる、一人に何か足りないことがあると、もう一人はよからぬ性質のきざしを示してくる。云々《うんぬん》といったふうで、おちついた気分になる時はほんの時たま、しかも間が短かった。しかし、こうした不安や心づかいが、ドリイにとっては、唯一の可能な幸福なのであった。もしこれがなかったら、彼女は自分を愛してくれぬ良人のことを、ひとりくよくよ考えていなければならなかったに相違ない。のみならず、子供が病気の場合を想像する恐怖、病気そのもの、よからぬ性質のきざしを発見した時の悲しみは、母親にとってたえ難いものではあるけれども、しかし今ではもはや、子供そのものがささやかな喜びをもって、彼女の悲しみを償ってくれるのであった。それらの喜びは、さながら砂の中の金のように、目立たぬほど小さなものであった。いやな時には、彼女はただ悲しみばかり、ただ砂ばかり見たが、調子のいい時には、ただ喜びばかり、ただ金だけを見るのであった。
 こんど田舎にひっこんでから、彼女はこの喜びを意識する度数が、しだいに多くなってきた。よく子供らを見ながら、彼女はありたけの努力をして、自分は子の愛に迷っている母親の欲目で、わが子を買いかぶっているのだ、といくら自分にいって聞かそうとしても、やっぱり自分の子は六人が六人ながらすばらしい、みんなそれぞれ趣きは違うけれど、類のないほどいい子供ばかりだ、とひとりごちずにはいられなかった。そして、自分を幸福に感じ、子供らを誇りとするのであった。

[#5字下げ]八[#「八」は中見出し]

 五月の終りごろ、もういっさいがどうにかこうにか整理がついた時、彼女は田舎の邸の不備を訴えてやった手紙に対して、良人から返事を受け取った。彼はその手紙で、万事に注意が行き届かなかった詫びをいい、都合のつきしだい、そちらへ行くと約束した。こんな都合などは、ちょっとつきそうになかったので、ドリイは六月の初旬まで、たった一人で田舎暮しをした。
 ペテロ祭週の日曜日に、ドリイは子供たち一同に、聖餐を受けさせるため、祈祷式に出かけた。ドリイは妹や母親や友だちなどと、しんみりした哲学的な話をするような時、宗教に関する自由主義的な考え方で、よく相手を驚かすことがあった。彼女は一種独特の、奇妙な輪廻《りんね》観をいだいていて、教会のドグマなどにはほとんどお構いなく、固くそれを信じていた。けれど、家庭の中では、単にみずから範を示すためばかりでなく、心底から真正直に、教会の要求を残らず厳重に実行した。で、子供らが一年近くも、聖餐を受けずにいるということが、気になってたまらないのであった。今度マトリョーナの賛成と同情を得て、夏ではあるが今それを済まそう、と決心したのである。
 ドリイは四五日前から、子供たちにどんな着物をきせようかと、思案をめぐらしていた。幾枚かの着物が新しく縫われたり、仕立てなおされたり、洗濯されたりした。縫いこみや襞《ひだ》が出され、ボタンがつけられ、リボンが工夫された。ただ、家庭教師のイギリス婦人が仕立を引き受けたターニャの着物だけが、ひどくドリイをやきもきさせた。イギリス婦人は、仕立てなおしをする時に、合わせ縫いを注文どおりの場所にせず、あんまり袖を出し過ぎたので、危くその着物を台なしにしてしまうところであった。ターニャは肩のところが窮屈で、見ても痛々しいほどであった。しかし、マトリョーナが機転をきかして、まちを入れたり、飾り襟をつけたりしたので、やっと取り返しがつきはしたものの、イギリス婦人とは、ほとんど喧嘩にならないばかりであった。しかし、当日の朝は、なにもかもうまくおさまって、九時ごろには、――それまで神父に、祈祷式を待ってもらうように頼んでおいたのである、――今日を晴れと着飾った子供たちが、喜びに照り輝きながら、母親が出てくるのを待って、入口階段の馬車の前に立っていた。
 馬車には、暴れ癖のあるヴォロンの代りに、マトリョーナの肝煎《きもいり》りで、支配人の栗毛がつけられた。自分の身じまいで手間どったドリイは、白い紗《しゃ》の着物をきて、馬車のところへ出てきた。
 ドリイはいろいろと心をつかって、わくわくしながら、髪を結《ゆ》ったり、着物をつけたりした。もと彼女は、美しくなり、人の気に入られようと思って、自分自身のために化粧したものである。その後、年をとるにしたがって、だんだん身じまいをするのがいやになってきた。自分ながら器量の落ちたことがわかったのである。しかし、今ではまた、身じまいをするのに満足を感じ、わくわくするようになった。今の彼女の身じまいは自分のため、自分を美しくするためではなく、ただかわいい子供たちの母親として、全体の印象を傷つけないためであった。で、最後にもういちど姿見をながめた時、彼女は自分の様子に満足した。彼女は美しかった。しかしその美しさは、かつて彼女が舞踏会などで美しくありたいと望んだような、そういう種類のものではなかったけれども、いま彼女がいだいている目的にかなった美しさであった。
 教会には、百姓や、宿屋の亭主や、その女房連よりほか、だれもいなかった。けれどもドリイは、子供たちや自分が彼らに呼び起した感嘆の色を見てとった、少なくとも、見てとったような気がした。子供たちは、はなやかな着物をまとった姿が美しかったばかりでなく、行儀のいいところが愛らしかった。もっとも、アリョーシャの態度は、申し分なしとはいえなかった。のべつぐるぐる身をくねらせて、自分の上衣の背中を見ようとするのであった。しかしそれでも、この子は並はずれてかわいかった。ターニャはおとなびた様子で、小さい弟や妹を見てやっていた。ところで、末娘のリリイは、何を見ても無邪気な驚きを示すところが、なんともいえぬほど愛らしくて、聖餐を受けてから、“please some more”(どうかもう少し)といった時などは、思わずほほえまずにはいられないくらいであった。
 子供たちは家へ帰る道々、何か荘重なことが行われたのを感じたらしく、ひどくおとなしかった。
 家へ帰ってからも、万事ぐあいよくいった。ただ朝の食事の時、グリーシャが口笛を吹きだした。しかし、何より悪いことには、イギリス婦人のいうことを聞かないで、とうとうお菓子がもらえないことになってしまった。もしドリイがその場にいあわせたら、こういう日に罰を与えたりなどさせなかったに相違ない。しかしイギリス婦人の処置を支持しないわけにはいかないので、その決定に裏書をし、グリーシャにはお菓子をやらないことにした。これがいささか一同の歓びをそこなった。
 グリーシャは泣きなき、ニコーレンカだって口笛を吹いたのに、あのとおり罰を受けないですんでいるじゃないか、僕はお菓子がもらえないから泣くんじゃない、――そんなことはどうだってかまやしない。ただ片手落ちたことをされるのがくやしいのだ、といった。それはあまり情ないことだったので、ドリイはイギリス婦人と談合したうえ、グリーシャをゆるしてやろうと肚《はら》をきめ、彼女の部屋へ足を向けた。ところがその時、広間を通り抜けようとして、ふと目にとまった光景は、思わず目頭に涙がにじむほどの喜びで、彼女の胸をいっぱいにしたので、彼女はもう自分の独断で、幼い罪人をゆるしてしまった。
 罰せられた少年は、広間のすみの窓じきりに腰かけてい、そのそばには、ターニャが皿を持って立っていた。お人形にご馳走してやるというのを口実にして、彼女は自分の菓子を子供部屋へ持って行くように、イギリス婦人から許可をもらい、そうするかわりに、弟のとこへ持っていったのである。自分に加えられた罰の不公平なことをいって泣きつづけながら、グリーシャは持ってきてもらった菓子を食べていた。そして、泣きじゃくりの間々に、「姉さんもお食べよ、いっしょに食べようよ、……いっしょに」というのであった。
 はじめターニャは、グリーシャをかわいそうと思う気持だけであったが、やがて自分の善行を意識する心が動き出したので、自分まで目に涙をためてしまった。けれど、弟の申し出をこばまないで、自分も菓子を食べるのであった。
 母の姿を見ると、二人はぎょっとしたが、その顔の表情を見分けて、自分たちはいいことをしているのだと合点すると、きゃっきゃっと笑いだし、口にお菓子をいっぱいほおばったまま、微笑にほころびる唇を両手でこすりはじめたので、二人の喜びに輝く顔は、涙とジャムでめちゃめちゃになってしまった。
「あれまあ※[#感嘆符二つ、1-8-75] 新しい白い着物が! ターニャ! グリーシャ!」子供の着物を汚すまいとつとめながらも、涙のにじんだ目にさも幸福そうな歓喜を浮べて、母親はこういった。
 新しい着物は脱がせられて、女の子にはブラウス、男の子には古い上衣が着せられた。そして、馬車のしたくが命ぜられた――またもや栗毛がつけられて、支配人をがっかりさせた。それは茸《きのこ》とりに行き、水浴びをするためであった。子供部屋には、どっとばかり歓喜の叫びが起って、その騒ぎは、水浴びに出発する時までやまなかった。
 茸は籠にいっぱいとれた。リリイまでが白樺|茸《たけ》を見つけたほどである。もとはたいていミス・グルーが見つけて、それをリリイに見せたものであるが、今度はリリイが自分で、大きな白樺茸を見つけたのである。で、一同は声を揃えて、「リリイが茸を見つけた!」と歓呼の声を上げた。
 それから川の方へ行って、馬車を白樺の木陰にとめ、水浴び小屋の方へ行った。馭者のチェレンチイは、尻尾で虻《あぶ》を追う馬を立ち木につないだあと、草を踏み柔らげて、白樺の木陰に大の字になり、安タバコをふかしはじめた。水浴び小屋からは、子供らの楽しげな金切り声が、たえず彼の耳まで流れてきた。
 おおぜいの子供を監督してそのいたずらを止めるのはやっかいなことだったし、大きさのまちまちなたくさんの靴下や、ズボンや、靴などを、いちいち覚えていて混同しないようにし、紐やボタンをといたり、はずしたり、また結んだり、はめたりするのは、なかなか容易なことではないけれども、ドリイは常づね自分でも水浴びが好きで、子供たちのためにもなると考えていたので、子供たちといっしょに水浴びするほど、楽しいことはなかった。あのふっくらした小さな足をいじって、それに靴下をはかせたり、丸裸の体を両手に抱いて水に浸けたり、ときにはうれしそうな、ときにはおびえたような叫び声を耳にしたり、半ば怖《こわ》そうな、半ば楽しげな目を大きく開けて、息を切らしている顔を見つめたり、水をばちゃばちゃはねかえしている天使のような姿を眺めたりするのは、彼女にとって何より大きな喜びであった。
 もう子供たちが半分がた着物をきせられたころ、薬草取りに行ってきた晴着姿の百姓女が幾人か、水浴び小屋のそばに近よって、臆病そうに足をとめた。マトリョーナは、水に落した大タオルとシャツを乾《ほ》させようと思って、その中の一人に声をかけた。そこでドリイは、女房たちを相手に話をはじめた。女房たちははじめのうち、何をきかれているのかわからないで、手で口に蓋《ふた》をしながら笑っていたが、やがてまもなく度胸がついて、心おきなく話すようになったが、心の底から子供たちに見とれている様子が、ありありと見えたので、ドリイはたちまちこの女たちが気に入ってしまった。
「あれ、まあ、なんて別嬪《べっぴん》さんだか、色の白いこと、まるで砂糖でこせえたようだ」と一人がターネチカに見とれて、首をふりふりそういった。「でも、やせてるねえ……」
「ああ、病気したもんだから」
「あれ、まあ、この子も水に入れなさっただか?」ともう一人が乳呑児をさしていった。
「いいえ、これはまだ生れて三月にしかならないんだもの」とドリイは誇らしげに答えた。
「あれ、まあ!」
「おまえにも子供があるの?」
「四人でござえましたが、二人になっちめえましたよ、男と女と。下のほうはこの前の謝肉祭《カーニバル》に乳離れしましただ」
「いくつになるの?」
「へえ、数え年の二つでごぜえます」
「どうしてそんなに長く乳を飲ませるの?」
「わしらのしきたりで、お精進三度ちゅうことになっておりますが……」
 こうして話は、ドリイにとって何よりの興味のある問題に移っていった、――どんなふうにお産をしたか? 子供の病気は何か? 亭主はどこにいるか? しょっちゅう帰ってくるか?
 ドリイは、この女房たちと別れて帰りたくなかった。その話は彼女にとって実におもしろく、その興味は全く同じなのであった。ドリイの身にして何より気持よかったのは、これらの女房たちが揃いも揃って、彼女がたくさんの子持で、しかもみんな器量よしなのに感心しているのが、まざまざと見えていたからである。女房たちはドリイを笑わせたが、同時にイギリス夫人を怒らせた。というのはミス・グールが、自分にとって不可解な笑いの原因となったからである。一人の若い女房が、いちばんあとで着物をきているイギリス婦人を、まじまじとながめていたが、ミス・グールが三枚目のスカートをはいた時、とうとうがまんしきれないで、「あれまあ、巻きつけること、巻きつけること、いくらでも際限がねえだ!」といったので、一同はどっとばかり笑いくずれたのである。

[#5字下げ]九[#「九」は中見出し]

 水浴びでまだ頭の濡れている子供たちにとり囲まれながら、頭を布でくるんだドリイが、もう家の近くまで来た時、馭者がいいだした。「どこかの旦那が歩いてみえる。どうやらポクローフスコエの旦那らしい」
 ドリイは前の方を見すかしたが、鼠色の帽子に鼠色の外套を着た見覚えのあるレーヴィンが、むこうからやってくる姿を見かけて、うれしくなってしまった。彼女はいつもレーヴィンが好きだったが、今はこういう光栄に包まれた場面を見てもらえるのだと思うと、ことにうれしかったのである。レーヴィン以上に、彼女の偉大さを理解してくれるものはほかになかった。
 彼女を見た時、レーヴィンはかねて想像に描いていた、未来の家庭風景の一つに直面する思いであった。
「あなたはまるで雛《ひな》をつれた牝鶏みたいですね、ダーリヤ・アレクサンドロヴナ」
「ああ、なんてうれしい!」と彼女は手をさしのべながらいった。
「うれしいなんていいながら、知らせて下さらないんですからね。僕のところには、いま兄が逗留《とうりゅう》していますよ。実はスチーヴァから手紙をもらって、あなたがここにいらっしゃることを知ったのです」
「スチーヴァから?」とドリイは驚いたように問い返した。
「ええ、あなたがここへ引き移られたことを、知らせてよこしたのです。そして、僕が何かあなたのお役に立つかもしれない、と考えているらしいのです」とレーヴィンはいったが、そういってしまってから、急にどぎまぎして、ぷつりと言葉を切り、菩提樹《ぼだいじゅ》の若いひこばえをむしっては食い切りながら、無言のまま、馬車のそばについて歩きつづけた。彼がどぎまぎしたわけは、良人のすべき仕事に他人の助力を受けるのは、ドリイにとって不快だろうと想像したからである。事実、ドリイは家庭内の用事を他人におしつけるという、このスチーヴァのやり口が気に食わなかった。そして彼女はすぐさま、レーヴィンにはそれがわかっているのだと悟った。この思いやりの細かなところ、神経のデリケートなところ、それがドリイのレーヴィンを愛するゆえんであった。
「僕はもちろん」とレーヴィンはいった。「それはただ、あなたが僕に会いたがっていらっしゃる、という意味にすぎないと察しましたよ。そして、大いに愉快なのです。いうまでもなく、都会の婦人であるあなたからみると、ここはさぞ殺風景に思われるでしょうが、もし何か用があれば、喜んでお役に立たしてもらいます」
「いいえ、どういたしまして!」とドリイはいった。「はじめのうちは不自由でしたけれど、うちのばあやのおかげで、今じゃなにもかもりっぱに整いましたわ」と彼女は、マトリョーナをさしながらいった。こちらは自分のことを話しているのを察して、にこにことさも親しげにレーヴィンに笑顔を向けた。彼女はレーヴィンを知っていたばかりでなく、彼が小さいお嬢さまに似合いの花婿であることも知っており、その話がまとまることを望んでいたのである。
「どうぞお乗りあそばせ、わたくしどもはこっちのほうへ詰めますから」と彼女はレーヴィンにいった。
「いや、僕は歩いて行くよ。さあ、子供たち、だれか僕といっしょに、馬と競走するものはないかい!」
 子供たちはあまりよくレーヴィンを知らなかったし、いつ会ったかも覚えていなかったが、しかし大人がわざとらしいお愛想をいうときに、よく子供たちが心にいだく妙なはにかみと、嫌悪の色を示さなかった。そういうわざとらしさは、しばしば子供たちから、手痛い罰を食わされるものである。何ごとによらず空《そら》をつかう人間は、きわめて聡明な洞察力に富んだ相手を、まんまとだましおおせることもあるが、子供はどんなに知恵の足りないものでも、この上なく巧妙に偽装された仮面をもすぐに見分けて、そっぽを向いてしまうものである。ところがレーヴィンは、たとえどんな欠点があるにしても、仮面《めん》かぶりの性質ばかりは影すらもなかったので、彼らは母の顔にみとめたのと同じ親愛感を、レーヴィンに対して示したのである。彼の招きに応じて、上の二人はすぐさま馬車を飛びおりて、彼のそばへいき、まるで相手が保姆《もり》か、ミス・グールか、それとも母親ででもあるように、平気で彼といっしょに駆け出した。リリイもそちらへいくとせがみだしたので、母親は彼に娘を手渡しした。彼はリリイを肩車に乗せて、そのまま駆け出した。
「心配なさらないで、心配なさらないで、ダーリヤ・アレクサンドロヴナ!」と彼は母親に楽しげな笑顔を見せながら、そういった。「ぶっつけたり、落したりする気づかいはありませんから」全く、彼の器用そうな、力強い、注意の行き届いた、一生懸命に緊張した動作を見ると、母親もすっかり安心して、彼の方を眺めながら、けっこう、けっこうというように、晴れやかにほほえむのであった。
 この村へ来て、子供らにとりまかれ、感じのいいドリイと話しているうちに、レーヴィンはよくあることながら、子供らしく快活な気分になってきた。ドリイもまた、彼のこういうところが特に好きなのであった。子供らといっしょに走りながら、彼はみんなに体操を教えたり、まずい英語でミス・グールを笑わしたり、自分が田舎でやっていることを、ドリイに話して聞かせたりした。
 食後、ドリイは彼とさしむかいでバルコンに腰をかけ、キチイのことをもちだした。
「あなたごそんじ? キチイがやがてここへ来て、ひと夏中わたしといっしょに暮すことになっていますのよ」
「本当ですか?」思わずかっとなって、彼はこういったが、すぐに話題を変えるために、「じゃ、牝牛を二頭こちらへ届けましょうか? もし勘定をきちんとしたいとおっしゃるなら、月五ルーブリずつ払っていただきましょう。あなたのほうで気恥ずかしくなかったらですよ」
「いいえ、ありがとうございますが、わたしのほうも万事ととのいましたから」
「ははあ、それじゃお宅の牝牛を拝見しましょう。もしご異存がなければ、飼い方も僕が指図しましょうよ。これはもう餌のやりかた[#「やりかた」は底本では「やりたか」]ひとつですからね」
 レーヴィンは話をほかへもっていくために、乳牛飼養の理論をドリイに述べたてた。それはほかでもない、牝牛は要するに、飼葉《かいば》を牛乳に変化させる機械にすぎない、云々《うんぬん》というのであった。
 彼はそんな話をしながらも、キチイの詳しい消息が聞きたくてたまらなかったが、同時にそれが怖いような気もした。あれほど苦労して獲得した安穏をくずされるのが、怖かったのである。
「ええ、ですけど、それにはいちいち気をつけて監督する人がいるでしょう、いったいだれがそれをするんですの?」ドリイは気のない調子で答えた。
 彼女は今マトリョーナの働きで、自分の家政を整えたので、もう何一つ変更したくなかったのである。それに彼女は、レーヴィンの農事上の知識を信用していなかった。牝牛は牛乳製造の機械だという彼の説も、うさんくさく思われた。そういう種類の説は、ただ農場の仕事を妨げる恐れがあるにすぎない、というふうに思われるのであった。彼女の目から見ると、それはすべてはるかに単純なものであって、マトリョーナが説明したように、ペストルーハやベロバーハに、飼秣《かいば》やふすまの溶《と》き水をやることであり、料理人が台所の汚れた洗い水を、洗濯女の牝牛に飲ませないようにすることである。それはわかりきったことであった。粉類の餌がどうとか、草の飼秣《かいば》がどうとかいう理屈は、はっきりしなくってうさんくさい。それにだいいち、彼女はキチイのことが話したかったのである。

[#5字下げ]一〇[#「一〇」は中見出し]

「キチイが手紙をよこしましてね、世間を離れて静かに暮したい、それよりほかに望みはない、と申しているんですのよ」ややしばらく沈黙ののち、ドリイはこういいだした。
「どうです、あのひとの健康は、いいほうなんですか?」とレーヴィンは、胸をわくわくさせながらたずねた。
「おかげさまで、すっかり快《よ》くなりましたの。あの子が胸の病だなんて、そんなことはわたし一度だって、本当にしたことがありませんわ」
「ああ、僕は本当にうれしいです!」とレーヴィンはいった。彼がそういって、言葉もなくドリイをながめた時、彼女は何か涙ぐましいほどたよりない表情が、その顔に浮んだように思われた。
「ねえ、コンスタンチン・ドミートリッチ」持ち前の善良な、いくらか嘲りの影をおびた微笑を浮べながら、ドリイはこういった。「あなたはなんのために、キチイに腹をたてていらっしゃいますの?」
「僕ですか、僕は腹なぞたてちゃおりませんよ」とレーヴィンは答えた。
「いいえ、腹をたてていらっしゃいますわ。じゃ、この前モスクワヘいらした時、なぜわたしどもへも、キチイのとこへも、寄って下さいませんでしたの?」
「ダーリヤ・アレクサンドロヴナ」髪の根もとまで赤くなりながら彼はいった。「僕は意外なくらいですよ、どうしてあなたのような優しい心をもったかたが、それをお感じにならないか。どうして僕を単純に、かわいそうだと思って下さらないんでしょう。だって、あなたはごぞんじなんでしょう……」
「わたしが何を知ってるんでしょう?」
「僕が申しこみをして、拒絶されたことをごぞんじのはずです」とレーヴィンはいい放ったが、つい一分前までキチイに対して抱いていた優しい感情が、たちまち彼の心中で、侮辱に対する憤りの念に変ってしまった。
「わたしが知ってるって、どうしてそうお思いになりまして?」
「それは、みんなが知っているからです」
「いいえ、それはあなたのお考え違いよ。わたしそんなことは知りませんでしたわ、もっとも、察してはいましたけれど」
「ああ、そうですか? じゃ、これでご承知になったわけです」
「わたしはただね、何かあったために、あの子がひどく苦しい思いをしたということと、あの子がその話は二度といいだしてくれるなとわたしに頼んだこと、ただそれだけしか知りませんでしたわ。あの子は、わたしにさえ話さなかったくらいですから、ほかの人にも話さなかったにきまっています。でも、あなたがたの間に、いったいどんなことがあったんでしょう? 聞かせていただけませんかしら」
「それはもうお話しました」
「いつですの?」
「僕がいちばん最後にお宅へ伺った時です」
「ねえ、わたし申しあげますけど」とドリイはいった。「わたしあの子がかわいそうなんですの、かわいそうで、かわいそうで、たまりません。あなたは、ただ自尊心で苦しんでらっしゃるだけですけど」
「かもしれません」とレーヴィンは答えた。「しかし……」
 彼女はそれをさえぎった。
「でも、わたしあの子がかわいそうなんですの、今となってみると、なにもかもすっかりわかるんですもの」
「ダーリヤ・アレクサンドロヴナ、失礼ですが」と彼は席を立ちながらいった。「お暇します、さようなら、ダーリヤ・アレクサンドロヴナ」
「いけません、待って下さいな」と彼女は相手の袖を捉えながらいった。「ちょっとお待ちになって、まあ、お掛けなさいまし」
「どうぞお願いです、この話はしないことにしましょう」と彼は腰をおろしながらいったが、同時に、いったん葬られた希望が、また胸の中で頭をもちあげて、そろっと動き出すような気がした。
「もしわたしがあなたってかたを好きでなかったら」とドリイはいったが、その目には涙が浮んだ。「もしわたしがこのとおり、あなたをよく存じあげていなかったら……」
 もう死んだものと思っていた感情が、次第しだいによみがえってきて盛りあがり、レーヴィンの胸いっぱいになりそうであった。
「ええ、今こそわたし、なにもかもわかりました」とドリイはつづけた。「あなたにはこんなこと、とてもおわかりにならないでしょうね。あなたがたは、自由な立場にいて、ご自分で選択なさる殿方は、自分がだれを愛してるかってことを、いつだってはっきりご承知でいらっしゃいます。けれども、年ごろの娘ってものは、待ち受ける立場にいて、おまけに処女の羞恥心というものもありますし、男の人を遠くのほうから見ているばかりで、なんでも言葉どおりに信じてしまいますからねえ、――そういう娘にしてみると、自分でもなんといっていいかわからないような感情をいだくこともよくありますわ」
「そう、しかし心が響きを立てなければ……」
「ええ、そりゃ心は響きを立てます。でも、まあ、考えてごらんなさいまし。あなたがた殿方は、ある娘に目をおつけになると、その家へ出入りをして、当人と接近したうえ、ご自分の好きなものが発見されるかどうか、十分見きわめをおつけになったあとで、いよいよ自分は愛していると確信ができたら、申しこみをなさるでしょう……」
「さあ、そうとばかりもいえませんが」
「そんなこと、どっちだって同じですわ。こうして、ご自分の愛が熟するか、二つの対象の間で天秤が一方へさがるかした場合、あなたがたは申しこみをなさるのです。娘のほうの気持なんか、たずねてみもしません。娘も自分で選ぶべきだと申しますけれど、娘は選ぶことなんかできません、ただ『ええ』とか、『いいえ』とか答えるばかりですわ」
『そうだ、おれとヴロンスキイとの両|天秤《てんびん》だったんだ』とレーヴィンは考えた。と、彼の心中によみがえりかけていた亡霊はふたたび死んでしまって、ただ悩ましいほど胸をおしつけるのであった。
「ダーリヤ・アレクサンドロヴナ」と彼はいった。「それは着物とかなんとか、そういう買物を選ぶのと同じことで、愛の選択じゃありません。とにかく選択はすんでしまったのです。それで結構です……もう取り返しはつきません」
「ああ、誇りなんだわ、誇りなんだわ!」とドリイはいったが、それは女のみが知っている別種の感情と比べて、相手の持っているこの感情の卑しさを、さげすむような調子であった。
「ちょうどあなたがキチイに申しこみをなすった時、あの子はご返事ができないような状態にいたんですわ。あの子の心には動揺が起っていたのです。あなたか、ヴロンスキイか、という動揺がね。あの子は、ヴロンスキイには毎日会っていましたけれど、あなたには長いことお目にかからなかったでしょう。もしかりに、あの子がもっと年をとっていたら……たとえば、わたしがあの子の立場に立っていたとすれば、そこに動揺なんかありえなかったんですけど、わたしあの男はいつも虫が好かなかったのですが、やっぱりああいうことになってしまいました」
 レーヴィンはキチイの答えを思い出した。彼女は、いいえ、それはできないことですわ[#「いいえ、それはできないことですわ」に傍点]、といったのである。
「ダーリヤ・アレクサンドロヴナ」と彼はそっけない調子でいった。「僕はあなたのご信頼をありがたいとは思いますが、でも僕の考えでは、あなたは考え違いをしていらっしゃいます。僕の態度が正しいにしろ、まちがっているにしろ、あなたがそうして軽蔑していらっしゃるその誇りが、カチェリーナ・アレクサンドロヴナに関するいっさいの考えを、僕にとって不可能なものにするのです……おわかりですか、絶対に不可能なのです」
「わたしはただこれだけのことを申しましょう。おわかりでもありましょうが、わたしはわが子同様に愛している妹の話をしているのでございます。わたしはね、あの子があなたを愛していたとは申しませんが、あの時あれがお断りしたのは、別段なんの証明にもならないってこと、ただそれだけ申しあげたかったんですの」
「僕にはわかりません!」とレーヴィンはおどりあがりながらいった。「あなたは僕にどんな苦しみを与えていらっしゃるか、それがご自分にはおわかりにならないのですか※[#疑問符感嘆符、1-8-77] これはたとえていえば、あなたの赤ちゃんが死んだのに、あの子はこうだった、ああだった、いま生きていたら、あなたはそれを見てさぞお喜びになるでしょう、などと人からいわれるのと同じことですよ。ところが、赤ちゃんは死んでしまったのです、死んでしまったのです……」
「あなたはなんておかしなかたでしょう」沈んだ薄笑いを浮べてレーヴィンの興奮を見ながら、ドリイはこういった。「ああ、わたしもこれでだんだんとよくわかってきましたわ」と彼女は考え深そうにつづけた。「じゃ、キチイが来ても、うちへいらしては下さいませんね?」
「ええ、まいりません。もちろん、僕はカチェリーナ・アレクサンドロヴナを避けたりなんかしませんが、しかしできる限りは、僕なんかが同席して、あのひとに不快な目をさせることのないようにつとめますよ」
「あなたは本当に、本当におかしなかたね」とドリイは優しい目つきで、相手の顔に見入りながら、くり返した。「じゃ、よろしゅうございます、この話はなかったことにいたしましょう。ターニャ、何しにきたの?」そこへ入ってきた女の子に、ドリイはフランス語でこういった。
「あたしのシャベルどこにあるの、ママ?」
「ママはフランス語でお話してるでしょう、だからあんたもそうしなくちゃだめよ」
 女の子はいおうとしたけれども、フランス語でシャベルをなんというのか忘れてしまった。母親はそばから教えてやったあと、どこでそのシャベルを探したらいいか、同様にフランス語でいった。レーヴィンにはそれが不快に思われた。
 今は、ドリイの家にしても、その子供たちにしても、もう前ほど魅力がなくなったような感じであった。『それに、なんだって子供相手に、フランス語なんか使うんだろう?』と彼は考えた。『じつに不自然で、真実味がない! 子供たちだって、それを感じている。フランス語を教えることは、真実性を殺すことだ』と彼は肚《はら》の中で考えたが、その実、ドリイもこの問題を、ものの二十ぺんも思案したあげく、真実性を犠牲にしても、この方法で子供たちを教育することを、必要と認めたのを、彼は知らなかったのである。
「まあ、どこへいらっしゃるんですの。もう少しお待ちになって」
 レーヴィンはお茶の時まで残ることにしたが、楽しい気分はなごりなく消えてしまって、彼は妙にばつが悪かった。

 茶をすましてから、レーヴィンは馬車のしたくをいいつけるために、控室まで出ていったがひっ返してみると、ドリイは何か興奮して、顔色も普通でなく、目には涙さえたたえているのであった。レーヴィンが部屋を出た時、ドリイにとって突如きょう一日の幸福と、子供たちについていだいている誇りを、一挙にして崩壊さすような出来事が起ったのである。グリーシャとターニャが毬《まり》のことで喧嘩をして、子供部屋の叫び声を聞きつけたドリイが部屋から駆け出していってみると、二人は恐ろしい形相《ぎょうそう》をしていた。ターニャはグリーシャの髪の毛をひっ掴んでいるし、グリーシャは憤怒のあまり顔をひん曲げて、ところ嫌わず拳固で撲りつけていた。これを見た時、ドリイの胸の中で、何かがちぎれたような気がした。それは、彼女の人生に、闇がおおいかぶさってきたような感じであった。自分があれほど誇りにしていた子供らも、ごくありふれた子供どころか、粗暴な野獣的傾向をもった、教育を誤った、よくない意地悪の子供であることを、彼女は忽然《こつぜん》として悟ったのである。
 彼女はほかのことなど、何一つ話すことも考えることもできず、レーヴィンに自分の不幸を物語られずにいられなかった。
 レーヴィンは、彼女が不幸なありさまでいるのを見て、それは何も悪い性質を証明しているのではなく、子供はだれでも喧嘩するものだといって、彼女を慰めようとした。が、そういいながらも、レーヴィンは心の中でこう考えた。
『いや、おれは変な気どりをやめて、子供たちとフランス語をしゃべったりなんかしまい。しかし、おれの子供はあんなふうのと違うんだ。ただ子供をスポイルしないように、不具にしないようにするんだ、そうすればすばらしい子供ができる。そうとも、おれの子供はあんなふうじゃない』
 彼は別れを告げて立ち去った。彼女もそれを止めようとしなかった。