『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」6-16~6-20(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一六[#「一六」は中見出し]

 ドリイは自分の思いつきを実行して、アンナのもとへ出向いた。彼女としては、妹につらい思いをさせ、その良人に不快な感じを与えるのは、はなはだ不本意なことであった。ヴロンスキイといっさい交渉をもちたくないという、レーヴィン夫婦の気持は、もっとも千万だとは承知していたけれども、彼女はちょっとでもアンナのもとへ訪れて、たとえ相手の境遇は変っても、自分の感情は変るわけがないということを、彼女に示すのが、自分の義務であると思った。
 この旅行については、レーヴィン家に厄介《やっかい》をかけまいと思って、ドリイは村方へ使をやって、馬を雇おうとした。が、レーヴィンはそれを知って、彼女のところへ不足をいいに来た。
「あなたの旅行が、僕にとって不愉快だろうなんて、どうしてそんなことを考えたんです? よしんばまた不愉快であるにもせよ、あなたが僕の馬を使って下さらなけりゃ、僕としてはなお不愉快だろうじゃありませんか」と彼はいった。「あなたはいよいよ本当に出かけるってことを、いちども僕にいわなかったんですものね。村方で馬を雇うということは、第一、僕にとって気持がわるいばかりでなく、何よりいけないのは、百姓たちは引き受けるのは引き受けても、満足に行き着きゃしませんよ。とにかく、馬は僕のとこにあるんだから、もし僕にいやな思いをさせたくなかったら、そいつを使って下さいよ」
 ドリイは承知しないわけにいかなかった。当日レーヴィンは義姉のために、労働用や乗馬用の中から選り抜いて、四頭立ての馬と替馬を用意した。見てくれははなはだよくなかったけれど、一日のうちにドリイを目的地まで送り届けることは、まちがいなかった。ちかぢか出発する公爵夫人のためにも、産婆のためにも、今は馬が必要なときだったので、これだけのことをするのは、レーヴィンにとって楽ではなかったが、現在、自分の家に泊っているドリイが、よそで馬を雇うのを見すごすということは、亭主の義務として、どうしてもできなかった。のみならず、この馬代として請求されていた二十ルーブリの金が、ドリイにとっていかに重大であるかを、彼はよく承知していた。はなはだかんばしからぬ状態にあったドリイの会計は、レーヴィン夫妻にとって、人ごとでなく感じられるのであった。
 ドリイはレーヴィンのすすめに従って、夜の明けぬ間に出発した。道はいいし、馬車は乗り心地がよく、馬は楽しげに走った。馭者台の上には馭者のほかに、レーヴィンが道中安全のためといって、従僕の代りにつけてよこした帳場のものが腰かけていた。ドリイはうとうとまどろみはじめたが、ふと目をさますと、馬車は早くも、とある立て場へ近づいていた。そこでは、馬を替えなければならないのであった。
 かつてレーヴィンが、スヴィヤージュスキイのところへ行くとき立ちよった、例の裕福な百姓の家で茶を飲んで、嫁たちと子供の話をし、老人とヴロンスキイ伯爵の噂をしたあと(老人はヴロンスキイをしきりに褒《ほ》めそやした)、ドリイは十時にさきへ乗り出した。家にいるときは、子供の世話にまぎれて、彼女はものを考える暇など少しもなかった。そのかわり、もう今はこの四時間の道程のあいだに、これまで封じこめられていた考えごとが、とつぜん一時に頭の中に群がり起って、彼女はこれまでついぞないことに、自分の生活をあらゆる側面から考えなおしてみた。その考えは彼女自身にとっても、われながらふしぎなものであった。はじめ、彼女は子供たちのことを考えた。子供たちは、公爵夫人と、それにだれよりもキチイが(彼女は妹のほうをよけい頼りにしていた)、よく見てくれると約束はしたものの、それでも彼女は心配であった。『どうかマーシャが、二度とあんないたずらをしなければいいが、グリーシャが馬に蹴られなどしないだろうか、リリイのお腹《なか》こわしがもっとひどくならなければいいが』しかし、やがて現在の問題が、近い将来の問題に代りはじめた。この冬はモスクワで新しい住居を借りて、客間の家具も新しいのにとり変えなければならない、長女の毛皮外套も買ってやらなければ、などと彼女は考えはじめた。それから、彼女の頭には、もっと遠い将来の問題が浮び出した――どうして子供たちを世の中へ出してやったものだろう? 『女の子はまだたいしたことはないけれど、男の子はどうしたものだろう?』
『今はわたしが、グリーシャの勉強を見てやっているからいいようなものの、それはただわたしが今のところ自由な体で、お産をしないからというだけのことだ。もちろん、スチーヴァなんか、なんのあてにもなりゃしない。だから、わたしが親切な人たちの力を借りて、世の中へ出してやらなくちゃならない。でも、もし、またひょっとお産でもしたら……』すると、こんな考えが頭に浮んだ。女は苦痛のうちに子供を産むというのろいがかけられているというが、それはなんというまちがった話だろう。『産むのはなんでもありゃしないけど、妊娠ということ、――これがたまらないわ』自分の最後の妊娠中のことや、そのとき生んだ赤ん坊の死を思い浮べて、彼女はこう考えた。すると、あの立て場で若い嫁と話したことが思い出された。おまえには子供があるかという問いにたいして、美しい若嫁は快活にこう答えた。
「女の子が一人おりましたけんど、神さまが厄介払いして下せえました。戒食祭のとき、お葬《とぶれ》えをしましただよ」
「どうして、おまえその子がかわいそうじゃないの?」とドリイはたずねた。
「何を惜しがることがありますべえ。そんでなくとも、爺さまにゃ孫がえっとあるだもん。たんだ世話がやけるばっかで、仕事も何もできゃしねえ。たんだ足手まといになるばっかだに」
 若嫁がかわいい、人の好さそうな顔つきをしているにもかかわらず、この答えは、ドリイの耳にいまわしく響いた。が、今はわれともなくこの言葉が思い出された。この無恥な言葉の中にも、いくぶんの真理があった。
『それに、どう考えてみても』結婚後のこの十五年間の生活を顧みて、ドリイはこう考えるのであった。『妊娠、つわり、頭が鈍くなって、なにもかもどうでもいい、といったような気持、それにだいいち、見っともなくなってしまうんだからねえ。キチイだって、あの若くきれいなキチイだって、ずっと器量が落ちたくらいだもの、わたしなんか妊娠すると、見っともない女になってしまう。それは自分でもわかってるわ。お産、苦しみ、あの醜い苦しみ、あの最後の瞬間……それから、お乳を飲ませはじめてからは、夜もおちおち眠られないうえに、あの恐ろしい痛み……』
 ほとんど子供を産むたびに経験する、乳頭のひびの入ったあの痛みを思い出しただけで、ドリイはぞっと身ぶるいした。『それから、子供の病気、あの年じゅうやみまのない心配、そのうえにあの思い出、いまわしい傾向(彼女は、マーシャが木苺畑で犯した罪をおもい起した)、勉強、ラテン語――こんなことはなにもかもわけがわからないで、おまけに骨の折れることばかりだ。そのうえにかてて加えて、その子供が死ぬということ』と、またしても彼女の想像には、クルップ病で死んだいちばん末の乳呑み児の死、あの母心をさいなんでやまぬ、むごたらしい追憶が浮んできた。それから、その葬式、その小さなバラ色の棺にたいする一同の無関心な態度、金モールの十字架のついたバラ色の蓋をしようという瞬間、棺の中から見えた、左右のこめかみに毛の渦巻いている蒼ざめた額や、びっくりしたような小さな口を見たときの、胸を裂かれるような痛み、ただ自分ひとりだけの淋しい悲しみが思い出された。
『こんなことはみんな、なんのためだろう? これがいったいどうなるのだろう? わたしが妊娠したり、乳を飲ませたりしながら、いっときも楽な目をせず、年じゅう腹をたてて、ぶつぶつ口小言をいい、自分でもへとへとになり、他人をも悩まして、良人に嫌われきらわれ、一生を送るだけのことなんだ。子供らがろくな教育も受けず、貧しいままに、不幸なものとして生長して行くだけのことなんだ。現にいまだって、もしレーヴィンの家でこの夏をすごさなかったら、わたしたちはどんなにして暮しをつけたかわかりゃしない。そりゃいうまでもなく、コスチャもキチイも気のやさしい人だから、そんなことは気のつかぬようにしてくれるけれども、これは長いことつづくはずがない。あの夫婦も、子供があとからあとから生れるようになったら、わたしたちを助《す》けてくれるわけにはいかない。いまだってあの二人は、窮屈な思いをしているんだもの。お父さまなど、ご自分にはほとんど何一つお残しにはならなかったんだから、どうして頼みになりゃしない。してみると、わたし一人じゃ、子供たちを一人前にすることはできっこない。まあ、自分を卑下して、人の力を借りるよりしかたがない。まあ、かりにいちばん運のいい場合を想像してみても、もう今後子供たちが死なないで、わたしがあれたちをどうにかこうにか育て上げる、というくらいなものだわ。いちばんうまくいった場合は、あれたちがどうやら、やくざ者にならずにすむ、ということだろう。わたしの望むことができるのは、まあ、それが精いっぱいだ。たったそれだけのことに、どれだけ苦しんだり、もがいたりしなければならないやら……一生は台なしだ!』彼女はまたもや、あの若嫁のいったことを思い出した。すると、今度も思い出すさえ胸が悪かったが、しかし、その言葉のうちには、粗野なものとはいえ、いくぶんの真理が含まれていることを、認めないわけにいかなかった。
「どう、まだ遠いかしら、ミハイラ!」われながら空恐ろしくなるような想念から、気をまぎらすために、ドリイは帳場のものにこう問いかけた。
「この村から、七露里ちゅうことでございます」
 馬車は村の通りに沿って、小さな橋にさしかかった。その橋の上を、穀束を背負った百姓女のひと群が、大きな声でにぎやかにしゃべりあいながら、通っていた。女たちは物珍しそうに、馬車をふりかえりながら、橋の上に歩みをとめた。ドリイの目には、自分のほうへ向けられた顔が、どれもこれも健康そうで、さも楽しげで、生の喜びに満ちているように思われ、それが彼女をからかうような気がした。『みんな生きているのだ、みんな生活を楽しんでいるのだ』女たちのそばを通りぬけて、坂道へさしかかったとき、古馬車の柔らかいバネに快く身をゆすぶられながら、ドリイは物思いをつづけた。『ところが、わたしはまるで牢から出されたように、いろんなめんどうや心配でわたしの命を取る世界からのがれて、今ほんのいっとき、人心地がついているありさまだ。みんな生活している、あの女房たちも、妹のナタリイも、ヴァーレンカも、これから訪ねて行こうとしているアンナも、ただわたしだけがそうでないのだ』
『みんなはアンナを攻撃しているけれど、いったいなんのためだろう? いったいわたしのほうが、ましだとでもいうのかしら? わたしには、少なくとも、自分の愛している良人がある。もっとも、わたしの望んでいるような愛し方じゃないけれど、とにかくにも愛している。ところが、アンナは自分の良人を愛していなかった。いったいあのひとのどこが悪いのだろう? あのひとは生活したいのだ。神さまがわたしたちの魂に、そういう欲望を植えつけてくだすったんだもの。わたしだって、あれと同じことをしたかもしれない、それは大きにありそうなことだ。わたしはいまだにわからない――あの恐ろしいとき、あのひとがモスクワの家へ訪ねて来たとき、あのひとのいうことを聞いたのは、いったいよかったのかどうか? あのときわたしは良人を棄てて、新しい生活をはじめなくちゃならなかったんだわ。そうしたら、本当に愛し愛されることもできたろうに。いったい今のほうがいいとでもいうのかしら? わたしはスチーヴァを尊敬していないけど、あの人はわたしに必要だもんだから』と彼女は、良人のことを考えつづけるのであった。『それで辛抱しているだけだわ。いったいそのほうがいいとでもいうのかしら? あの時分なら、わたしも人に好かれたかもしれない。わたしには若いころの器量がまだ残っていたもの』と、ドリイは考えつづけているうちに、ちょっと鏡がのぞいて見たくなった。彼女はハンド・バッグの中に、旅行用の小鏡を用意していたので、それを出して見たい気になったが、馭者の背中と、ゆらゆら揺れている帳場の男の背中を見ると、もしどちらかがふりむいたら、きまりの悪い思いをするだろうと感じて、とうとう鏡を出さなかった。
 しかし、鏡を見なかったけれど、今だってまだ遅くない、と考えた。彼女は、自分にたいしてかくべつ愛想のいいコズヌイシェフや、猩紅熱《しょうこうねつ》のときいっしょに子供の看病をして、彼女に惚れこんでいたスチーヴァの友人、トゥロフツインのことなどを思い浮べた。それからもう一人、良人が冗談半分にいったところによれば、彼女のことを姉妹じゅうで一番の美人と思っている、まだずぶ若い青年がいた。すると、思い切って情熱的な、ほとんどありえないような恋物語が、ドリイの想像に浮んできた。
『アンナのしたことはりっぱなことだわ。わたしもうどうしたって、あのひとを非難なんかしやしない。あのひとは自分も幸福なら、相手の人をも幸福にして、しかもわたしみたいに、いじいじしてやしない。きっといつものように、みずみずとして、聡明で、何にたいしても、開けっぱなしの態度をとっていることだろう』とドリイは考えつづけた。と、何かずるそうな薄笑いが、その唇を皺《しわ》めた。それは特に、アンナのロマンスを考えているうちに、ドリイはそれと平行して、自分に恋している想像上の、集合名詞的性質をおびた男性と自分との、ほとんど同じようなロマンスを思い描いたからである。彼女もやはりアンナと同様に、なにもかも良人に告白してしまったのである。すると、それを聞いたときのスチーヴァの驚きと、狼狽ぶりが、彼女に薄笑いを浮べさしたのである。
 こういった空想のうちに、大街道からヴォズドヴィージェンスコエ村へむかう、曲り角に近づいた。

[#5字下げ]一七[#「一七」は中見出し]

 馭者は四頭立てをとめて、右手の裸麦畑を見やった。そこには百姓たちが一台の荷車のそばに坐りこんでいた。帳場の男は飛びおりようとしたが、そのあとでまた考えなおして、百姓をさし招きながら、命令口調でどなった。馬車が動いているあいだに、顔を撫でていた微風は、とまると同時にぴったり落ちた。汗ばんだ馬が、腹だたしげに追っても追っても、虻《あぶ》がその体にびっしりへばりついた。荷車のほうから伝わっていた、鎌を研《と》ぐ金属性の音が、急にぴったりやんでしまった。百姓たちの一人が起きあがって、馬車のほうへやって来た。
「ちぇっ、あのひょろひょろしてるこたあどうだ!」まだ十分に車で乗り固められていない、ばさばさに乾いたでこぼこ道を、はだしでのろのろと歩いてくる百姓にむかって、帳場の男は怒ったようにどなった。「早くやってこんか!」
 もしゃもしゃした髪を菩提樹の皮で縛った老人が、曲った背を汗で黒ずまして、歩みを早めながら馬車に近より、日焼けのした手で泥よけにつかまった。
「ヴォズドヴィージェンスコエのお邸へおいででがすかね? 伯爵さまんとけえいらっしゃるんでがすかね?」と彼はくりかえした。「あの丘一つ越えたら、すぐ左ィ曲りなさろ、そして広い道まっすぐに行くと、突当りがそうでがすよ。ときに、おめえさまがたァどなたにご用でがすね? 御前さまかね?」
「どうだろうね、お爺さん、みなさんお家にいらっしゃるかしら?」百姓にさえ、アンナのことをどうきいたらいいかわからないで、ドリイはあいまいな調子でこうたずねた。
「きっと家さいらっしゃるだべ」はだしの足を踏み変え踏み変えして、五本の指までくっきりと埃の上に足跡を残しながら、百姓は答えた。「きっと家さいらっしゃるだべ」と、どうやらひとしゃべりしたそうな様子で、くりかえした。「つい昨日もお客さまがみえましただよ。いつもえれえお客さまでの……おう、何用だ?」荷車のそばから、何やらわめく若者のほうへふりかえってから、「ああ、そう、そう! さっきみんな馬ん乗って、麦刈り見物にここさ通らしゃったで、今ごろきっと家にいらっしゃるに違えねえ。ときに、おめえさまがたはどこからござらしゃっただね?」
「おれたちは遠方のもんだよ」と馭者が馭者台にあがりながらいった。「じゃ、もうすぐだな?」
「すぐそこだちゅうに。ちょっと出ると……」手で車の泥よけをいじりながら、老人はいった。丈夫そうながっしりした若者も、同じようにそばへよって来た。
「なんだね、とり入れのほうの仕事でもねえだか?」と彼はきいた。
「知らないよ」
「だから、つまり、左さ曲ると、すぐお邸さ突き当るだで」と百姓はいった。どうやら旅の人と別れるのが心残りで、もっとしゃべりたいらしい様子であった。
 馭者は車を進めた。が、一行が曲り角を入るか入らないかに、百姓はどなりだした。
「待ちなさろ! おうい、旅の衆! 待ちなさろ!」今度は二人、声を揃えて叫ぶのであった。
 馭者は馬をとめた。
「お邸の旦那衆がござらっしゃるだよ! そうれ、そこんとこに!」と百姓は叫んだ。「そうれ、おしかけて来さっしゃるわ!」街道づたいに進んでくる四人の騎馬の人と、四輪馬車に乗った二人を指さしながら、彼はこういった。
 それは馬に乗ったヴロンスキイと、その騎手と、ヴェスローフスキイと、アンナ、それから四輪馬車に乗ったヴァルヴァーラ公爵令嬢と、スヴィヤージュスキイであった。彼らは散歩のついでに、あたらしく着いた麦刈り機の動きぐあいを、見に来たのである。
 馬車がとまったとき、騎馬の人々はゆっくり歩き出した。先頭にはアンナと、ヴェスローフスキイが立っていた。アンナはがっちりした、背の低い、たてがみを刈りこんだ、尾の短いイギリス種の馬に乗って、おちついた並足で進んでいた。高い帽子の下から、黒い髪のはみ出した美しい首、むっちり肥えた肩、黒の乗馬服に包まれた細腰、それに全体におちついた優美な乗り方は、ドリイをはっとさせるほどであった。
 最初の瞬間、アンナが馬に乗っているのが、無作法なように思われた。女が馬に乗るということは、ドリイの考え方では、若い娘の軽い媚態《びたい》と結びついていたので、彼女にいわせると、アンナの境遇にふさわしくないのであった。けれども、彼女をちかぢかと見たとき、ドリイはすぐさま、彼女の乗馬に妥協してしまった。その優美な姿にも似ず、アンナのポーズも、衣装も、動作も、すべてがじつにさっぱりとおちついて、気品があるので、これ以上自然にはなりえないほどであった。
 アンナと並んで、スコットランドふうの帽子のリボンをなびかせながら、ヴァーセンカ・ヴェスローフスキイが、はやりにはやった灰色の騎兵馬にまたがり、ふとった両脚を前へつき出して、明らかにわれとわが姿に見とれながら、進んで来た。彼に気がつくと、ドリイは浮きうきした微笑を禁じえなかった。そのあとから、ヴロンスキイが馬を進めていた。その乗っている馬は、※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]《だく》をかけさせられて、はやりきったらしい、純血種の濃い栗毛であった。彼はそれをおさえようとして、手綱をさばいていた。
 そのあとには、騎手の服装をした小柄な男がつづいた。スヴィヤージュスキイと公爵令嬢は、大きな逸物の黒馬《あお》をつけた新しい四輪馬車に乗って、騎馬の人々に追いついて来た。
 古い幌馬車のすみっこにちぢこまっている小柄な婦人が、ドリイと気がついた瞬間、アンナの顔は喜ばしい微笑に輝いた。彼女はあっと叫んで、鞍の上でぶるっと身をふるわせ、馬に※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]《だく》をかけた。幌馬車のそばまでくると、人手を借りず馬から跳《と》びおりて、乗馬服をおさえながら、ドリイのほうへ走って行った。
「わたしはそうだろうと思いながら、まさかと思いましたよ。まあ、なんてうれしい! わたしがどんなにうれしいか、あなたにはとても想像がつかないでしょう」ドリイに顔をおしあてて接吻したり、また身をはなして、にこにことドリイを見まわしたりしながら、彼女はこういった。「アレクセイ、うれしいことがあるのよ!」馬から降りて、こちらへ近よってくるヴロンスキイをふりかえりながら、アンナは声をかけた。
 ヴロンスキイは、灰色の高い帽子をぬぎながら、ドリイのそばへよった。
「あなたに来ていただいて、僕たちがどんなにうれしいか、おそらく本当にしては下さらないでしょうね」自分のいった言葉に特別の意味を加えながら、丈夫そうな白い歯を見せてほほえみつつ、彼はこういった。
 ヴァーセンカ・ヴェスローフスキイは、馬から降りないで、例の帽子をとり、さもうれしそうに頭の上でリボンをひらひらさせながら、婦人客に歓迎の意を表した。
「このかたはヴァルヴァーラ公爵令嬢ですの」四輪馬車がそばまで来たとき、ドリイの物問いたげな視線にこたえて、アンナはそういった。
「ああ!」とドリイはいったが、その顔はわれともなしに、不満の色を現わした。
 ヴァルヴァーラ公爵令嬢は、自分の良人の叔母で、彼女は前から知っていたけれども、尊敬してはいなかった。ヴァルヴァーラ公爵令嬢は、生涯、金持の親戚の居候《いそうろう》をしてすごした。それは彼女も知っていたが、今は赤の他人のヴロンスキイの家にいるということが、良人の親戚であるだけに、ドリイに侮辱を感じさせた。アンナはその表情に気がつくと、どぎまぎして顔をあからめ、乗馬服を手から放したひょうしに、その裾を踏んづけた。
 ドリイは、そこにとまった四輪馬車に近よって、そっけなくヴァルヴァーラ公爵令嬢とあいさつした。スヴィヤージュスキイもやはり知り合いであった。彼は、あの変人の友だちが若妻といっしょに、どんな生活ぶりをしているかとたずねた後、不揃いな馬や、つぎはぎだらけな幌馬車の泥よけを、ちらと一目に見てとると、ご婦人がたは四輪馬車にお乗りになったら、と申し出た。
「ところで、私はこの『乗りもん』に乗って行きましょう」と彼はいった。「馬はおとなしいし、公爵令嬢はりっぱな馭者ですから」
「いいえ、あなたがたはそのままにしていらっしゃい」と、アンナがそばへよりながらいった。「ところでわたしたちは幌馬車でまいりましょう」とドリイの腕をとって、いっしょにつれて行った。
 ドリイは、まだ見たこともない優美な馬車や、すばらしい馬や、自分を囲む優美な輝かしい人人を見て、目がちらちらするほどであった。しかし、何よりもびっくりしたのは、よく知りぬいている、自分の好きなアンナに生じた変化である。もとアンナを知らなかった、しかもそれほど注意ぶかくないほかの女であったなら、わけても、ドリイが道々考えたようなことを考えなかった女なら、アンナに何も変ったところはない、と思ったに相違ない。
 けれども、今のドリイは、ただ恋愛の時期にのみ女に現われる一時的な美しさ、今アンナの顔に見いだしたその美しさに、はっと目を見はったのである。彼女の顔のなにもかも、――はっきりと現われている頬の笑《え》くぼも、頤《あご》も、唇の締め方も、顔のまわりを飛びめぐっているようなほほえみも、目の輝きも、動作の優美で機敏なことも、声音《こわね》の豊かさも、それからヴェスローフスキイが、彼女のイギリス馬に乗らせてほしい、右足からの※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]《だく》を教えたいからといったとき、それに答えた腹だたしげな、しかも優しい調子―なにもかもか特に魅力的であった。しかも、彼女自身もそれを知って、喜んでいるように思われた。
 女ふたりが幌馬車に乗ったとき、ふたりながらどぎまぎしてしまった。アンナがどぎまぎしたのは、ドリイが自分にそそいでいる注意ぶかい、物問いたげなまなざしのためであった。ドリイのほうは、スヴィヤージュスキイが『乗りもん』といったひと言から、アンナが自分といっしょに汚い古馬車に乗ったため、気がさしたのである。馭者のフィリップも、帳場の男も、同じことを感じた。帳場の男は当惑を隠すために、婦人たちを助け乗せようとして、そわそわしはじめたが、馭者のフィリップは陰気になってしまい、これから先は、こんな見てくれのよさに気圧《けお》されまい、と心がまえをした。彼は逸物の黒馬《あお》を見て、皮肉らしくにやっと笑った。この黒馬は、四輪馬車につけてプロミナージュ([#割り注]プロムナードのなまり[#割り注終わり])にはよかろうが、暑さの中をひと息に四十露里も走れっこないと、早くも決めてしまったのである。
 百姓たちは荷車のそばから立ちあがって、主客の出会いを物珍しく、楽しげに見物しながら、それぞれ感想を述べるのであった。
「やっぱうれしいと見《め》えるな、長えこと会わなかったでな」もしゃもしゃ髪を菩提樹の皮で縛った老人が、こういった。
「のう、ゲラシム小父《おじ》さ、あの黒馬《あお》さつけて麦運びしたら、はかがいくべなあ!」
「見れや! あの股引きはいてるな。女だべか!」女鞍《めぐら》にまたがったヴァーセンカ・ヴェスロースキイをさしながら、一人がこういった。
「うんにや[#「うんにや」はママ]]、男だあ。見れや、あの早く突っ走ったことを!」
「どうだね、皆の衆、どうやら昼寝はしねえと見えるな?」
「今どきなんの昼寝どこけえ!」と老人はいって、はすに太陽を見上げた。「もう午《ひる》はすぎちまったでねえか! さあ、釣《かぎ》ィ持って、はじめた、はじめた」

[#5字下げ]一八[#「一八」は中見出し]

 アンナはドリイのやせて、疲れはて、小皺に埃のたまった顔を見て、心に思ったこと、つまりドリイがやせたことをいおうとしたが、自分がいちだんと美しくなったことを思い出し、ドリイの目もそれを語っていることに気がついて、ほっとため息をつきながら、自分のことをいいだした。
「あなたはわたしを見て」と彼女はいった。「わたしのような境遇にいてしあわせになれるものかと、そう考えてらっしゃるでしょう? まあ、かまわないわ! こんなこと白状するのは恥ずかしいんだけど、わたしは……わたしは申し訳のないほど幸福なんですの。わたしの身の上には、まるで魔法みたいなことができたんですの。よく夢の中であるでしょう、怖くって息がつまりそうなのに、ふと目をさましてみると、なんにも怖いことはないのに気がつく。わたしも目をさましたんですの。わたしはとてもせつない、恐ろしいことを経験したんですけど、今ではもうずっと前から、とりわけここに移ってから、本当に幸福なんですのよ……」と彼女は臆病げな質問の微笑をうかべて、ドリイを見ながらそういった。
「わたしも本当にうれしいわ!」とドリイはほほえみながらいったが、その調子は自分で思ったより冷たかった。「わたしあんたのために、とてもうれしいわ。どうして手紙をくれなかったの?」
「どうしてって?……わたしにそれだけの勇気がなかったんですの……あなたは、わたしがどんな境遇にいるかってことを、忘れてらっしゃるんですわ……」
「わたしに手紙を書くのに? 勇気がなかったんですって? ああ、あんたにわかってもらえたらねえ、わたしはどんなに……わたしが思うのにはね……」
 ドリイは、けさ考えたことをいおうと思ったが、なぜか今は、場所柄に似合わしくないような気がした。
「もっとも、この話はあとにしましょう。あの普請《ふしん》はなんなの?」彼女は話題を変えたいと思って、アカシヤやライラックの生垣の緑ごしに見えている、赤や緑の屋根を指さしながら、こうたずねた。「まるで小さな町みたいね」
 けれども、アンナはそれに答えなかった。
「いや、いや! あなたはわたしの境遇を、どう考えてらっしゃるの、どういうご意見ですの? 聞かせて」と彼女はきいた。
「わたしの思うには……」とドリイはいいかけたが、ちょうどそのとき、イギリス馬に右足から※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]《だく》を踏ませることに成功したヴァーセンカ・ヴェスローフスキイが、短いジャケツを着て、女鞍《めぐら》の鞣《なめ》し革に重々しくぺたぺたと尻を落しながら、二人のそばを※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]で走りすぎようとした。
「うまくいきますよ、アンナ・アルカージエヴナ!」と彼は叫んだ。が、アンナはそのほうを見ようともしなかった。けれど、ドリイはまたしても、馬車の中でこんな長い話をするのは、ぐあいが悪いように感じたので、自分の考えを短く縮めていった。
「わたしはなんとも考えちゃいませんわ」と、彼女はいいだした。「わたしはいつもあんたが好きなのよ。ところで、人を愛する以上、あるがままのその人を、そっくり愛するのが本当で、こう自分であってほしい、というようなことじゃありませんわ」
 アンナは友の顔から視線をそらし、目を細めて(それはドリイの今まで知らなかった、新しい癖である)、この言葉の意味を十分に理解しようとして、じっと考えこんだ。やがて、自分の望みどおりに解釈したらしく、ちらとドリイを見やった。
「もしあなたに罪があるとしても」とアンナはいった。「あなたが来て下すったのと、いまいってくだすった言葉とで、すっかり帳消しになってしまうでしょう」
 ドリイは、彼女の目に涙が浮んだのを見てとった。彼女は無言に友の手を握りしめた。
「ところで、あの普請はなんですの? ずいぶんたくさんねえ!」つかのまの沈黙の後、彼女は前の問いをくりかえした。
「あれは使用人の住居だの、工場だの、厩だの、そんなものですの」とアンナは答えた。「そして、ここから遊園地になりますのよ。なにもかも荒れほうだいだったのを、アレクセイがすっかりもとのとおりにしましたわ。あの人はこの領地が大好きでしてね、わたしも思いがけなかったくらいですの。もう夢中になって、農場の経営に打ちこんでますのよ。もっとも、あの人は才分の豊かな人でしてね! 何に手をつけても、りっぱにやってのけますの。あの人は退屈なんかしないどころか、熱心に仕事をしていますわ。わたしの知っているかぎりでは、あの人はよく見通しのきく、りっぱな農場主になりましてね、そのほうにかけては、けちなくらいですの。もっとも、けちなのは農場経営のほうだけで、何万というお金に関係したことになると、勘定なんかしないんですからね」と、彼女はさもうれしそうな、しかもずるいところのある微笑を浮べていった。それはよく女が、自分の好きな男の性質で、自分だけが発見した秘密を語るときの微笑であった。「ほら、あすこに大きな普請が見えるでしょう? あれは新しくできる病院ですのよ。あたしの考えるには、十万以上かかるでしょうよ。これが今のところ、あの人の dada(道楽)ですの。しかも、これがどんなことではじめられたかご存じ? 百姓たちが草場を安く譲ってくれと頼んだところ(確かそうだったと思いますわ)、あの人はそれを※[#「てへん+発」、ページ数-行数]《は》ねつけたんですの。そこで、わたしがあの人のことを、けちだといって攻撃したところ、もちろん、そのためばかりじゃなくって、いろんなことがいっしょになったんですけど、あの人はこの病院の普請をはじめたんですの。どうでしょう、自分のけちでないところを見せるためなんですからねえ。まあ、それはかりに c'est une petitesse(つまらないこと)かもしれませんけれど、わたしはそのために、よけいあの人を愛していますのよ。いまにあなた家をごらんになりますが、それはお祖父さん時代からの邸で、外から見たところは、何一つ変っていませんの」
「まあ、すばらしいわねえ!」庭に繁っている老木の、濃淡さまざまな緑のあいだから見える、円柱の並んだりっぱな邸を見て、ドリイは思わず賛嘆の声を上げた。
「ね、いいでしょう? それに家の中からも、二階から見た景色なんて、すてきですのよ」
 二人の馬車は、小石を敷きつめ、花壇で飾った玄関前の広庭へ入って行った。そこでは二人の職人が、ほろほろした花壇の土を、孔の多い石で囲っていた。馬車は屋根付きの車寄せにとまった。
「ああ、あの人たちはもう着いていますわ」たったいま入口階段のそばから曵かれて行く乗馬を見て、アンナはこういった。「ね、この馬、いい馬でしょう? あれがカップなんですの。わたしの愛馬でしてね。こっちへ曳いて来て、お砂糖をやっておくれ。伯爵はどちら?」内から飛んで出た二人の接客係の従僕に、アンナはこう問いかけた。「ああ、あすこだわ!」ヴェスローフスキイといっしょに、中から出てくるヴロンスキイを見て、彼女はこういった。
「公爵夫人はどこへお入れします?」とヴロンスキイはフランス語で、アンナに問いかけたが、返事を待たないで、もう一度ドリイにあいさつし、今度はその手に接吻した。「僕は、バルコンに向いた大きい部屋がいいと思うが」
「ああ、いいえ、あすこは遠すぎますわ! それよか、かどのお部屋がよろしゅうございますわ。わたしたち、しょっちゅう会うんですから。さあ、まいりましょう」とアンナは、従僕の持ってきた砂糖を馬にやりながらいった。
「Et vous oubliez votre devoir.(あなたはご自分の義務をお忘れですのね)」同じく入口階段へ出て来たヴェスローフスキイに、彼女はそういった。
「Pardon j'en ai tout plein les poches.(ごめんなさい、ポケットにいっぱいもってるものですから)」と、こちらはポケットのチョッキに指をつっこみながら、笑顔で答えた。
「Mais vous venez trop tard.(でも、あなたのいらっしゃりようが遅すぎるんですもの)」砂糖をやるとき馬に濡らされた手を、ハンカチで拭きながら、彼女はそういった。
 アンナはドリイのほうへふりむいた。
「あなた、ごゆっくりおできになって? それとも一日きり? そんなことだめですよ!」
「わたし、そういう約束で来たんですもの、それに子供たちが……」とドリイは、われながらどぎまぎした気持で、そういった。それは、幌馬車の中からハンド・バッグをとってこなければならぬからでもあったし、また自分の顔が埃まみれなのを知っていたからでもある。
「だめよ、ドリイ、後生ですから……まあ、今にわかりますわ。さ、まいりましょう、まいりましょう!」といって、アンナはドリイをその部屋へ案内して行った。
 その部屋は、ヴロンスキイのいった本座敷ではなく、アンナの言葉を借りると、ドリイにあやまらなくてはならぬような部屋であった。が、そのあやまらなくてはならないような部屋さえ、ドリイがいままで、かつて住んだことのないようなぜいたくなもので、外国の一流のホテルを連想さすのであった。
「ああ、ほんとにこんなうれしいことないわ!」乗馬服のままで、ちょっとかりにドリイのそばに腰をおろしながら、アンナはこういった。「子供たちのことを話して聞かしてちょうだいな。スチーヴァにはほんのちょっと会いましたけど。でもあの人には、子供の話なんかできないんですもの。わたしの大好きなターニャはどうしています? もう大きくなったでしょうね、きっと?」
「ええ、とても大きくなりましたわ」とドリイは言葉みじかに答えたが、子供のことをこんな冷淡な調子で答える自分に、われながらあきれる思いであった。「わたしたち、レーヴィン家で楽しく暮していますのよ」と彼女はつけ加えた。
「じつはね」とアンナはいった。「あなたがわたしをさげすんでいらっしゃらないことがわかっていたら……みなさんで家へ来て下さるとよござんしたのに。だって、スチーヴァとアレクセイは、古くから大の仲良しだったんですもの」と彼女はいい足して、ふいに真赤になった。
「そうね、でもわたしたち、いまでも気持よく暮していますから……」とドリイはもじもじしながら答えた。
「そうね。もっとも、わたしうれしまぎれに、ばかなことばかりいってますわ!」とアンナは、また嫂《あによめ》に接吻しながらいった。「でも、あなたはわたしのことをなんと、どんなふうに考えてらっしゃるか、それをまだおっしゃいませんでしたわね。わたし、それが聞きたくてたまらないんですの。だけど、あなたにありのままの自分を見ていただけるのが、わたしとてもうれしいんですのよ。わたし何よりも、自分が何かを証明したがっているなんて、そんなことを人から思われたくありませんわ。わたし、なんにも証明しようとは思いません。わたし、ただ生きたいだけですの。自分以外のだれにも、悪いことをしたくないと思うだけですわ。それだけの権利は、わたしにもありますわね、そうじゃなくって? もっとも、こんなことをいいだしたら、長い話ですから、あとでなにもかもゆっくりお話しましょうね。これからわたし着替えにまいりますわ。ここへも小間使をよこしますから」

[#5字下げ]一九[#「一九」は中見出し]

 一人きりになると、ドリイは主婦の目で自分の部屋を見まわした。邸へ近づいてくる途中、またその中を通ってくるあいだじゅう、それから自分の部屋へおちついた今、すべて彼女の目に入るものは、これまでイギリス小説の中で読んだばかり、ロシヤでは、しかも田舎では、ついぞ見たこともないような、新しいヨーロッパふうの奢侈と、華美と、豊富の印象を与えた。フランスふうの新しい壁紙をはじめとして、部屋いっぱいに敷きつめてあるカーペットにいたるまで、なにもかも新しかった。寝台はマット付きのバネ入りで、枕|上《がみ》には特別な飾りがついており、いくつか重ねた小さなクッションには、絹の枕おおいがしてあった。大理石の洗面台、化粧机、小さなソファ、テーブル、壁炉《カミン》の上の青銅の置時計、巻カーテン、帷《とばり》――すべて高価な新調品であった。
 ご用をききに来た小間使は、着物から髪かたちまで、かえってドリイよりも流行のふうをしていて、部屋ぜんたいと同じように、高価な新品であった。ドリイは、この小間使がていねいで、こざっぱりしていて、まめまめしいのが気持よかったけれど、なんとなく間が悪かった。ちょうど、運悪く、まちがって持ってきた補布《つぎ》のあたった短上着《コフタ》のために、きまりの悪い思いをさせられたのである。わが家ではあれほど自慢にしていたつぎはぎが、ここでは恥ずかしかったのである。家では事情がはっきりしていた。六枚の短上着《コフタ》をつくるのに、尺《アルシン》六十五コペイカの生地が二十四|尺《アルシン》いる、したがって、飾りや仕立てを別にしても、合計十五ルーブリ以上になるが、その十五ルーブリを倹約したわけである。ところが、この小間使の前では、あながち恥ずかしいというのではなく、ばつが悪いのであった。
 古いなじみのアンヌシカが、部屋の中へ入って来た時、ドリイはしんからほっとした。おしゃれの小間使は、奥さまの方へ呼ばれていったので、アンヌシカはドリイと二人きりになった。
 アンヌシカは、オブロンスキイの奥さまの来訪がうれしくてたまらぬ様子で、のべつ幕なしにしゃべりつづけた。彼女は自分の奥さまの境遇や、とりわけアンナにたいする伯爵の愛情と信服について、自分の考えを述べたがっているのに、ドリイは気がついた。けれども、相手がその話をもちだしそうにすると、ドリイはつとめてそれをおさえるようにした。
「わたくしは、アンナ・アルカージエヴナとごいっしょに育てられましたので、わたくしにとっては、あのかたが何よりもいちばん大切なのでございます。それはもう、わたくしどもがとやかく申すことではございませんけれど、もうあんなに思い合うということは……」
「ではね、お願いだから、これを洗濯に出してちょうだいな。もしよかったら」とドリイは話の腰を折った。
「かしこまりました。こちらには洗濯だけに、女が二人べつに雇ってございましてね、みんな機械で洗濯するのでございますよ。御前さまがなにもかも、みんなご自分でお指図をなさいましてねえ、あんな旦那さまはそれこそ……」
 そのときアンナがはいって来て、そのためにアンヌシカのおしゃべりがとぎれたので、ドリイはやれやれと思った。
 アンナは、きわめてあっさりした精麻《バチスト》の服に着替えていた。ドリイはそのあっさりした服を、仔細《しさい》にながめた。このあっさりした趣味が、いかなる価値を有し、またどれだけの金を要したかを、彼女は知っていた。
「古いおなじみでしょう」とアンナはアンヌシカをさしていった。
 アンナは今はもじもじしなかった。彼女はすっかりおちついて、自由な態度になっていた。いま彼女は、ドリイの来訪によってひき起された印象を、征服してしまって、表面的な無関心の調子になっているのが、ドリイの目にもとまった。それは彼女の感情や、大切な思念をしまっている心の房《へや》の扉を、ぴったり閉めきったようなぐあいであった。
「ときに、あんたの赤ちゃんはどんなふうなの、アンナ?」とドリイはたずねた。
「アニーですの?(彼女は自分の娘のアンナをそう呼んでいた)丈夫ですわ。もうすっかりよくなりましたの。あなた、ごらんになりたい? じゃ、まいりましょう、お目にかけますわ。保姆《もり》のことで、とてもめんどうなことがいろいろとありましてね」と彼女は話しはじめた。「わたしどもは、イタリー人の乳母を置いていましたが、いい女なんですけど、とても頭がわるいんでしてね! いっそ国へ帰そうかと思ったんですが、アニーがすっかりなついてしまったので、やはりそのままにしていますの」
「でもあんたがた、どんなふうになすったの?……」とドリイはいいかけた。女の子がどちらの姓を名乗ることになったのか、それをききたかったのだけれども、アンナの顔が急に曇ったのに気がついて、問いの意味を変えてしまった。「どういうふうになすって? もう乳をお離しになったの?」
 けれど、アンナは悟ってしまった。
「あなたがきこうとなすったのは、そんなことじゃないでしょう? あなたはあの子の苗字《みょうじ》のことがききたかったんでしょう? あたったでしょう? そのことでは、アレクセイも苦しんでいますわ。あの子には苗字がないんですもの。いえ、あの子はカレーニナですけどね」合わさった上下の睫毛《まつげ》しか見えないほど目を細めて、アンナはこういった。「もっとも」と、ふいに明るい顔になって、「このことはあとでよくお話しましょう。さあまいりましょう、あの子をお目にかけますから。〔Elle est tre`s gentille〕(とてもおとなしいんですのよ)。もうはいはいしていますわ」
 家じゅうどこへ行っても、ドリイの目をそばだたした豪奢さが、子供部屋ではなおいっそう、彼女に感嘆の目を見はらせた。そこには、イギリスから取りよせた小さな車、歩くための練習の器械、それからはいはいのために特別に設けられた玉突き台に似たソファ、揺《ゆ》りかご、一種特別な新しい浴槽などがあった。それらはみなイギリス製の、がっちりした上質のもので、ちょっと見ただけでも、きわめて高価なものらしかった。部屋も大きくて、非常に天井が高く、それに明るかった。
 二人が入って行ったとき、女の子は肌着一枚で、テーブルのそばの小さな肘椅子に坐って、スープを吸わしてもらっていたが、胸のあたりはびしょびしょになっていた。子供部屋の雑用をするロシヤ人の女中が、赤ん坊を養ってやりながら、どうやら自分もいっしょに、ごちそうになっていたらしい。乳母も保姆もいなかった。この二人は次の間にいて、そこから奇妙なフランス語の話が聞えてきた。彼女たちはその言葉でやっとおたがい同士、意志を通じ合うことができたのである。
 アンナの声を聞きつけて、しゃれたなりをした、背の高い、不快な顔をした、不純な表情のイギリス女が、白っぽい髪をふり立てながら、せかせかと戸口から入ってきて、アンナが何一つ小言をいったわけでもないのに、すぐさまいいわけをはじめた。アンナがひと口いうたびに、イギリス女は急いで、「Yes my lady(はい、奥さま)」といくたびでもいうのであった。
 眉毛と髪が黒くて、顔の紅い、鶏肌の丈夫そうな赤い体をした女の子は、見なれない顔をじっと見たときのきびしい表情にもかかわらず、ドリイの気に入ってしまった。彼女は、その丈夫そうな様子が、うらやましくなったほどである。その子のはいかたも、やはりひどく彼女の気に入った。ドリイの子供は一人も、こんなはいかたをしなかった。この子は、カーペットの上におろされて、着物の裾をかかげてもらったとき、思わず見とれるほどかわいかった。まるで小さな野獣のように、輝かしい黒い瞳で、大人たちを見まわしながら、みんなが自分を見とれているのが、いかにもうれしそうな様子で、にこにこしながら、足を横っちょに向け、両手にうんと力を入れてつっぱると、勢いよく胴体をぐっと前へ引きつけて、また両手をさきのほうへのばすのであった。
 しかし、子供部屋ぜんたいの空気と、ことにイギリス女が、ひどくドリイの気にくわなかった。アンナのように人を見る目をもった女が、こんな感じの悪い、下品なイギリス女を、自分の子供につけておくのは、アンナの作っているような正常でない家庭へは、りっぱな婦人が雇われてこないからだ、とそうよりほかには、ドリイも解釈のしようがなかった。のみならず、アンナと、乳母と、保姆と、赤ん坊は、どうも一つに溶け合っていないで、母親がここを訪ねてくるのは異例に属するということを、何かの言葉の端から、ドリイは悟ったのである。アンナは子供に玩具《おもちゃ》をとってやろうとして、それを見つけ出すことができなかった。
 何よりもあきれたことには、赤ん坊の歯が何本生えているかときかれたとき、アンナはその答えを誤った。最近生えた二本の歯のことは、ぜんぜん知らなかったのである。
「わたしどうかすると、自分がここではよけいな人間だと思うと、苦しくなることがありますのよ」子供部屋を出ながら、戸口にあった玩具をのけるために長裳《トレーン》をかかげて、アンナはそういった。「はじめての子のときは、こんなふうじゃなかったんですけど」
「わたしその反対だと思ってましたわ」とドリイは臆病そうにいった。
「いいえ、違いますわ! だって、あなたご存じでしょう、わたしがあの子に会ったことを、セリョージャに」とアンナは、さながらはるかな何ものかを見るように、目を細めながらいった。「もっとも、その話はあとにしましょうね。あなた、とても本当にできないでしょうが、わたしはまるで飢えきったものが、急に山ほどのごちそうを出されたので、何から先に手をつけていいかわからない、ちょうどそれと同じことなんですのよ。山ほどのごちそうというのは、ほかでもない、あなたのことなの! これからあなたとしようと思っている、いろいろなお話のことなの。そういう話は、ほかのだれともできませんからねえ。だから、わたしどの話から始めていいかわかりませんのよ。〔Mais je ne vous ferai gra^ce de rien.〕(でも、わたし何も遠慮してるわけじゃありませんの)。わたし、なにもかもいってしまわなくちゃなりません。そう、そう、これから家でお会いになる人たちのことを、ひととおり説明しておかなくちゃなりませんわねえ」と、彼女はいいだした。「まず婦人のほうから申しますと、第一がヴァルヴァーラ公爵令嬢ですが、あなたあのことご存じですわね。あなたとスチーヴァが、あのひとのことをどう考えてらっしゃるかも、わたしちゃんと知っていますわ。スチーヴァにいわせれば、あのひとの人生の目的は、カチェリーナ・パーヴロヴナ伯母さまより、自分のほうがえらいってことを、証明することなんだそうですが、それは全くそのとおりだとしても、あのひとはいい人ですわ。それにわたし、あのひとに心から感謝していますの。ペテルブルグにいるころ、わたしいっとき、どうしても un chaperon(付添婦人)の要《い》ることがありましてね、そのときちょうど、あのひとが現われたってわけですの。でも、全くあのひとはいい人ですのよ。あのひとのおかげでわたしの境遇の苦しさが、ずいぶん楽になったんですもの。どうやらお見受けしたところ、あなたはわたしの境遇の苦しさが、十分にわかっていらっしゃらないようね……。あのペテルブルグにいたときのことですの」と彼女はつけ足した。「ここではわたし、すっかり気持がおちついて、幸福でいます。でも、この話もあとにしましょう。ほかの人たちのことも、順々にお話しなくちゃね。次はスヴィヤージュスキイですが、あの人はここの貴族団長で、なかなかりっぱな人なんですの。ただあの人は何かアレクセイに頼みごとがありましてね。あなたもおわかりでしょうが、今度わたしたちが田舎へおちつくことになってから、アレクセイはあれだけの財産を持っているものですから、大変な有力者になったわけですの。それからトゥシュケーヴィッチ、あなたお会いになったことがあるでしょう。もとベッチイのとこにいたんですけど、今度お払い箱になったものですから、わたしどもの方へ来たわけですの。あの人は、アレクセイの言葉を借りますと、ご当人が見せかけようとするとおりの人物として受け取れば、非常に気持のいい人間の一人なんだそうです。それに、ヴァルヴァーラ公爵令嬢にいわせると、Et puis, il est comme il faut(とても申し分のない人ですからね)それから、ヴェスローフスキイ……かれはあなたもご存じですわ。とてもかわいい坊っちゃんですの」と彼女はいったが、いたずらっ子らしい微笑がその唇を皺《しわ》めた。「あのレーヴィンとのいきさつは、なんと乱暴な話でしょう? ヴェスローフスキイがアレクセイに話して聞かせたんですけど、わたしたちほんとにできませんわ。〔Il est tre`s gentil et nai:f〕(とてもおとなしくって、無邪気な人なもんですものね)」と彼女はまた、例の微笑を見せていった。「男の人には、気の紛れることが必要なもんですから、アレクセイにもいろいろと、お仲間が要《い》るわけなんですの。ですから、わたしもあの人たちを大事にしていますのよ。家の中を生きいきとにぎやかにして、アレクセイが何も新しいことを望まないように、しなくちゃなりませんからね。それから、今に支配人をごらんになるでしょう。ドイツ人ですけれど、とてもいい人間で、仕事もよくできるものですから、アレクセイは大変この人を高く買っていますわ。それから、お医者さまがいます。若い人で、ずぶの虚無主義者ってわけじゃありませんが、まあ、どうでしょう、ナイフでものを食べるんですのよ……でも、なかなかいいお医者さんですわ。それから、もう一人は建築技師…… Une petite cour(ちょっと宮廷といった形ですわ)」

[#5字下げ]二〇[#「二〇」は中見出し]

「さあ、小母さま、ドリイをお連れしましたよ、あなたずいぶん会いたがっていらっしゃいましたわね」ドリイといっしょに、大きな石畳のバルコンヘ出ながら、アンナはこういった。そこには、日陰になったところで、ヴァルヴァーラ公爵令嬢が刺繍台にむかって、アレクセイ・キリーロヴィッチ伯爵のために、肘掛椅子のカヴァーをぬいとっていた。「このひとは、晩のお食事まで、何もほしくないっておっしゃるんですけど、何かひと口食べていただくように、あなたからお指図してくださいませんか。わたしアレクセイをさがしに行って、みなさんをお連れしてきますから」
 ヴァルヴァーラ公爵令嬢は愛想よく、そしていくらか保護者めいた態度で、ドリイを迎えると、すぐさま説明にかかった。わたしがアンナのところで暮しているのは、もう前から、姉のカチェリーナ・パーヴロヴナ(これはアンナを養育した人である)よりも、あれを愛していたからであるが、みんながアンナを見すててしまった今となっては、この一番つらい過渡期にあれを助けてやるのが、自分の義務と思うからです、というのであった。
「そのうちに、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチが、離縁を承知してくれたら、そのときはわたし、またもとの独り暮しにかえります。ところが、今のうちは、わたしもあれの役に立ちますから、ずいぶんつらいことがありますが、自分の義務をつくします。だって、他人とは違いますからね。それにしても、おまえは感心だね、本当によく来てやってくれました! あの二人はどこへ出しても恥ずかしくない、りっぱな夫婦のように暮しておりますよ。あの二人を裁くのは神さまで、わたしたちの知ったことじゃありません。だって、ピリュゾフスキイとアヴェーニエヴアにしても……それに例のニカンドロフだって、それからヴァシーリエフとマーモノヴァにしても、リーザ・ネプトゥノヴァにしても……だれもあの人たちのことを、なんともいわなかったじゃありませんか? そして、とどのつまり、みんなあの人たちとつきあうようになりました。それに、〔c'est un inte'rieur si joli, si comme il faut. Tout-a`-fait a` l'anglaise. On se re'unit le matin au breakfast et puis on se se'pare.〕(この家の中が本当に楽しくって、しかも礼儀正しくって、すっかりイギリスふうなんです。朝の食事のときみんな顔を合わせて、それからめいめい別れわかれになるんですよ)。晩餐の時までは、みんな自分の好きなことをすることになっています。晩餐は七時なの。スチーヴァがおまえをここへよこしたのは、大変いいことです。あの人もここの二人と、関係を続けたほうが得ですもの、おまえもおわかりのとおり、あの人はお母さまと兄さまの手を通したら、どんなことでもおできになるんだからね。そればかりでなく、あの人はずいぶん善根を施していますよ。あの人はおまえに病院のことをおっしゃらなかった? Ce sera admirable.(さぞりっぱなものになるでしょうよ)なにもかも、パリからとりよせなすったんだからねえ」
 二人の話は、アンナに腰を折られた。彼女は男連中を玉突き部屋で見つけて、みなといっしょにテラスヘひっ返したのである。晩餐まではまだだいぶ時間があったし、天気もよかったので、この残った二時間をすごすために、いくつかの案がもちだされた。ヴォズドヴィージェンスコエでは、時をすごす方法はいくらでもあったが、それはすべてポクローフスコエとは違っていた。
「Une partie de lawn tennis.(テニスをひと勝負しましょう)」と、ヴェスローフスキイが美しい微笑を浮べながら提議した。「アンナ・アルカージエヴナ、またあなたと組みましょう」
「いや、暑いから。それより庭を散歩して、ボートに乗ることにしよう。ダーリヤ・アレクサンドロヴナに、両岸の景色を見せるから」というのは、ヴロンスキイの提案であった。
「私はなんにでも賛成です」とスヴィヤージュスキイがいった。
「わたしの思うには、ドリイは散歩がいちばんいいでしょう、そうじゃありません? ボートはそれから後にしましょう」とアンナはいった。
 そういうことにきまった。ヴェスローフスキイ[#「ヴェスローフスキイ」は底本では「ヴェスローフキイ」]とトゥシュケーヴイッチは、川の水浴場へ行って、そこでボートの準備をしたうえ、みんなを待っていると約束した。
 二組の男女が、小径《こみち》づたいに歩き出した、アンナとスヴィヤージュスキイ、ドリイとヴロンスキイとである。ドリイは、いま自分をとり囲んでいる新しい環境に、いくらか気づまりを感じて、不安をいだいていた。抽象的、理論的には、彼女もアンナの行為を認めていたばかりか、かえっていいことのようにさえ思っていた。概して、一点非の打ちどころのない貞淑な女というものは、その貞淑な生活の単調さに疲れたとき、遠くのほうから不倫の恋を見て、これを赦す気になるのみか、むしろうらやむほどである、なおそのほか、彼女は心からアンナを愛していた。しかし、現実の彼女が、ドリイにとって縁のない人々にとり巻かれているのを見、またこれらの新しい人々の上品な調子に接したとき、彼女はどうもばつが悪かった。ことに不愉快なのは、自分の享楽している生活の便宜のために、いっさいを赦しているヴァルヴァーラ公爵令嬢であった。
 概して、抽象的には、ドリイもアンナの行為を是認していたが、その行為の原因となった男を見るのは、彼女にとって不快であった。のみならず、彼女はヴロンスキイをいつも虫が好かなかったのである。彼女はヴロンスキイを、ひどく高慢ちきな人間のように見なしていたが、しかも彼という人間に、財産以外、なにも誇るべきものを見いだすことができなかったのである。ところで、彼のほうは自分の家にいるために、知らずしらず、前よりもっとドリイの前でぶる[#「ぶる」に傍点]ようなところがあったので、彼女はヴロンスキイといっしょにいると、どうしても自由な気持になれないのであった。ドリイが彼にたいして感じた気持は、自分の短上着《コフタ》のために、小間使にたいして感じた気持に似かよっていた。小間使の前で、自分のつぎあてのために、べつだん恥ずかしいというわけではないが、ばつの悪い気持がしたのと同じように、ヴロンスキイの前へ出ると、彼女はいつも自分自身のために、恥ずかしいというのでもないが、ばつの悪い思いをするのであった。
 ドリイは、自分がどぎまぎしているのを感じて、何か話題を見つけ出そうとした。家や庭を賞めたりするのは、権高い性質の彼には、気に入らないだろうとは感じたけれども、ほかに話の種を考えつくことができなかったので、彼女はとうとうヴロンスキイにむかって、お宅がとても気に入りました、といった。
「ええ、あれは非常に美しい建物です。いい意味の古風なスタイルでしてね」と彼はいった。
「わたしはお玄関の前の広庭がとても気に入りましたわ。あれはもとからあのとおりでしたの?」
「いいえ、そうじゃありません!」といった彼の顔は、満足のあまり輝きわたった。「この春のあの広庭を、あなたのお目にかけたかったですよ!」
 それから彼は、はじめ控えめであったが、そのうちにだんだん夢中になりながら、邸や装飾の細かな点に、彼女の注意をうながしはじめた。見受けたところ、ヴロンスキイは自分の荘園の改良と美化に、少なからず力をそそいだので、新しい客の前で自慢をしたいという要求を感じたらしく、ドリイの賛辞をしんから喜んだ。
「もし病院を見たいとお思いでしたら、そしてお疲れでなかったら、すぐそこなんですがね。行ってみましょう」といいながら、本当に相手が退屈していないか確かめるために、彼女の顔色をうかがった。
「おまえも行くかね、アンナ?」と彼女のほうへふりむいた。
「ごいっしょにまいりましょう、よろしいでしょう?」と彼女は、スヴィヤージュスキイに話しかけた。「Mais il ne faut pas laisser le pauvre Veslovsky et Touchkevitch se morfondre dans le bateau.(でも、ヴェスローフスキイとトゥシュケーヴィッチを、あのボートのなかで待ちぼうけさせちゃかわいそうですわ)だれかやって、そういわせなくちゃ。――ええ、それはね、あの人がここへ立てようとしている記念碑ですの」前に病院の話をした時と同じ、いかにも心得ているような、ずるそうな微笑を浮べながら、彼女はドリイの方へ向いてそういった。
「いや、大変な事業ですな!」とスヴィヤージュスキイはいった。しかし、ヴロンスキイにお太鼓をたたいていると思われたくないので、彼はすぐさま、やや非難をこめた調子でつけ加えた。「しかしね、伯爵、私がふしぎに思いますのは」と彼はいった。「民衆のために衛生方面でこれだけたいしたことをなさりながら、学校事業にたいして、いっこう無関心でいらっしゃることです」
「〔C'est devenu tellement commun, les e'coles〕(それはもうすっかり月並みになってしまいましたからね、学校なんか)」とヴロンスキイはいった。「わかってくださるかどうか、私そういう意味でなく、つい熱中してしまったんですよ。では、病院はこっちのほうです」並木道から横へそれる径《こみち》を、ドリイにさして見せながら、彼はこういった。
 婦人たちはパラソルを開いて、横の径へ出た。いくつかかどを曲って、小さなくぐりの外へ出ると、ドリイは前の方の高台にそびえている。大きな、美しい、凝った形の建物を見た。もう普請はほとんど終っていて、まだペンキを塗らない屋根が、強い日光にまぶしく光っていた。落成した建物のそばに、もう一つ新しいのが起工され、ぐるりにいっぱい足場がかけてあった。前掛をした職人たちが、足場の下で煉瓦積みをしていたが、桶《おけ》から漆喰《しっくい》を流しては、鏝《こて》でならしていた。
「お宅の仕事は、ずいぶんはかがいきますな!」とスヴィヤージュスキイがいった。「この前うかがったときは、まだ屋根ができていなかったのに」
「秋までには、すっかり落成いたしますの。中のこまかいところは、おおかたもうできあがっていますから」とアンナはいった。
「ところで、この新しいほうはなんですか?」
「それは医者の住居と薬局です」とヴロンスキイは答えたが、むこうから短い外套を着た建築技師がこちらへやって来るのを見ると、婦人たちにわびをいって、そのほうへ歩いて行った。
 職人たちが石灰を取り出している坑《あな》をぐるりとまわって、彼は建築技師といっしょに立ちどまり、なにやら熱心にしゃべりだした。
「破風《はふ》がやっぱり低いんだよ」どうしたのかというアンナの問いにたいして、彼はそう答えた。
「わたし、土台を上げなくっちゃと申しましたでしょう」とアンナはいった。
「さよう、もちろん、そうすればよかったのですが、アンナ・アルカージエヴナ」と技師はいった。「しかし、もう時機を失しましたから」
「ええ、わたしとても、こういうことに興味があるんですの」アンナが建築のことに詳しいのに感嘆したスヴィヤージュスキイに、彼女はそう答えた。「新しい建物は、病院につりあわなければならないのですけど、後から考えついたものですから、設計もなしにはじめてしまいましてね」
 建築技師との話を終ってから、ヴロンスキイは婦人たちのほうへ帰って来て、病院の内部を案内した。
 外のほうはまだ軒蛇腹《のきじゃばら》の仕上げさいちゅうだし、階下ではペンキを塗っているのに、二階はもうほとんど全部が完成していた。広い鋳鉄《ちゅうてつ》の階段を昇って、小広いところへ出ると、彼らはとっつきの大きな部屋へ入った。壁は大理石まがいに塗られ、大きな一枚ガラスがもう窓々にはめられて、ただ寄せ木の床が完成していないだけであった。持ち上げた角板に鉋《かんな》をかけていた指物師が、仕事をやめ、髪を縛っていた紐をとって、旦那さまにあいさつをした。
「これが受付の部屋です」とヴロンスキイがいった。「ここには写字台と、テーブルと、戸棚のほか、なんにも置きません」
「どうぞこちらへ、こうまいりましょう。あなた、窓のそばへよらないで」とアンナは、ペンキが乾いたかどうか試しながらいった。「アレクセイ、ペンキはもう乾いてますわ」と彼女はつけ足した。
 受付室から、一行は廊下へ出た。ここでヴロンスキイは、新式の換気装置を見せた。それから、大理石の浴室や、変ったバネのついた寝台を見せた。つづいて次ぎつぎと、病室と物置、洗濯物入れの部屋を見せた後、新しい装置の暖炉、それから、必要な品を廊下づたいに運んでいくとき、音を立てない手押車、その他さまざまなものを見せた。新しい発明なら、なんでも知っているスヴィヤージュスキイは、これらすべてのものに敬意を表した。ドリイは、いままで見たこともないものばかりなので、ただもう驚嘆の目を見はるばかりであった。そして、なにもかも知ろうとして、いちいちくわしく質問したが、それがいかにも、ヴロンスキイにとってうれしそうであった。
「いや、これはロシヤでたった一つの、完全な設備をもった病院でしょうよ」とスヴィヤージュスキイはいった。
「こちらには、産科はおおきになりませんの?」とドリイはたずねた。「これは田舎では、たいへん必要なものでございますわ。わたしもよく……」
 すると、いつものいんぎんさにも似ず、ヴロンスキイはそれをさえぎった。
「ここは産院じゃなくって、病院なので、伝染病以外のあらゆる病気を、目標にしているのです」と彼はいった。「ああ、これを一つ見てください……」と彼はドリイのほうへ、回復期の患者用として、新しくとりよせた肘椅子をおし出した。「あなた、ちょっとごらんください」といって、彼はその椅子に腰かけて、動かしはじめた。「患者は歩くことができないのです、まだ力がないか、それとも足が悪くってね。ところが、患者にとっては、新鮮な空気が必要です。そこで、これに坐って、自分で動かして行く……」
 ドリイはすべてのものに興味をもった。彼女はなにもかも気に入ったが、なにより気に入ったのは、この自然で素朴な熱中ぶりを示す、当のヴロンスキイであった。
『そうだわ、この人はとてもかわいい、いい人なんだわ』彼の言葉を聞いているのではなく、その顔を見ながら、彼女はときおりそう思った。そして、彼の表情にじっと深く見入りながら、心ひそかにアンナの立場に身をおいてみた。彼の生きいきとした様子が、すっかり気に入ってしまったので、彼女はアンナが彼に打ちこんだ理由がわかってきた。