『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」7-11~7-15(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一一[#「一一」は中見出し]

『なんという驚嘆すべき女だろう、美しくて優しい、しかも気の毒な女だ』オブロンスキイといっしょに、凍った外気の中へ出ながら、彼はこう思った。
「え、どうだ? 僕がそういったろう?」レーヴィンが完全に征服されているのを見て、オブロンスキイはこういった。
「うん」とレーヴィンは物思わしげに答えた。「なみはずれたひとだ! 賢いというより、驚くばかり真実みのあるひとだ。僕はあのひとがかわいそうでたまらない!」
「今度こそは、きっと何もかもうまくおさまるに相違ない。だから、そこなんだよ、見ない前から批評するもんじゃないよ」とオブロンスキイは、馬車の戸を開けながらいった。「じゃ、失敬、道筋がちがうから」
 アンナのことや、彼女とかわした単純な話のことを思いつづけ、それとともに、彼女の表情のこまかいとこまで思い起しながら、いよいよ彼女の立場を思いやり、彼女に対する憐愍《れんびん》を覚えながら、レーヴィンはわが家へ帰った。

 家へ帰ると、クジマーが主人にむかって、奥さまはお元気でいらっしゃいます、お姉上がたはつい先ほど、お帰りになったところでございますといって、二通の手紙をレーヴィンに渡した。彼はあとで気をまぎらされないために、すぐそこの控室で読んだ。一通は支配人のソコロフからきたものであった。ソロコフは、麦は売るわけにいかない、商人は五ルーブリ半しか価をつけないからである、そして金はどこからもとりたてるところがない、と書いていた。いま一通は姉の手紙で、いまだに用件がすまないのを責めていた。
『なあに、それ以上に価をつけないのなら、五ルーブリ半で売ってしまおう』今までたいへんむずかしいことに思われた第一の問題を、なみなみならぬ容易さでレーヴィンは決めてしまった。『ふしぎだな、ここへ来てから、ちっとも暇がありゃしない』と彼は第二の手紙のことでそう思った。彼は、今まで姉の頼みをしおおせていないのを、すまなく思った。『今日も裁判所へいかなかった。しかも、今日は本当に暇がなかったんだからなあ』
 明日こそ必ず行こうと決心して、彼は妻の部屋へ行った。妻の部屋へ行きながらも、レーヴィンは記憶の中で、今日の一日を迅速《じんそく》に点検してみた。今日いちんちの出来事は、ぜんぶ会話であった――彼が聞いたり、自分でも仲間入りした話ばかりであった。その話はどれもこれも、田舎に一人でいるときは、決して興味をもたないようなことばかりであった。ところが、ここにいると、それが非常におもしろいのである。それに、どれもこれもいい話ばかりであった。ただ二ところでした話は、あまりいいといわれなかった。一つは梭魚《かます》のことをいったときと、もう一つは、アンナにたいして感じた優しい愛情に、何かそうでない[#「そうでない」に傍点]ものがあった。
 レーヴィンが入って見ると、妻は沈みがちで、退屈していた。三人姉妹の食事はとても楽しかったはずなのに、いくら待っても待っても、彼が帰らないので、みんなつまらなくなって、二人の姉は帰って行った。で、彼女は一人とり残されたのである。
「で、あなた何をしていらしたの?」何かとくべつ怪しく光っている良人の目を見ながら、キチイはこうたずねた。けれど、良人がすっかりいってしまうじゃまをしないために、彼女は自分の特別な注意を隠して、けっこうけっこうというような微笑を浮べながら、良人がこの一晩をすごした報告を聞いていた。
「でね、僕はヴロンスキイに会ったのが、大いに愉快だったよ。僕はあの男と楽な気持で、ざっくばらんに話ができたよ。わかるだろう、僕はこれから、あの男と決して顔はあわさないようにするけれど、しかしあのばつの悪さだけは、おしまいにしたいものだよ」といったが、決してあの男と顔をあわさないように決心しながら[#「決してあの男と顔をあわさないように決心しながら」に傍点]、すぐその足でアンナのところへ行ったことを思い出して、彼は赤い顔をした。「ところでわれわれは、大衆が酒を飲むなんていうけれど、大衆かわれわれの階級か、僕はどっちかわからないよ。大衆はまあ祭日くらいなものだが、われわれは……」
 しかし、キチイにとっては、大衆がどんな飲み方をするか、などという理屈はおもしろくもなんともなかった。彼女は良人が赤くなったのを見て、そのわけが知りたくなった。
「そう、それから、どこへいらしたの!」
「スチーヴァがやたらに頼むもんだから、アンナ・アルカージエヴナのとこへ行ったよ」
 そういうと同時に、レーヴィンはまたいっそうあかくなった。すると、アンナのところへ行ったのがいいか悪いかという疑問は、いよいよはっきり解決がついた。あんなことをしてはいけなかったと、今さら彼は思い知ったのである。
 アンナの名を聞くと同時に、キチイの目はかくべつ大きく見開かれ、ぎらぎらと光った。が、しいてみずからおさえながら、彼女は興奮を隠して、良人をあざむいた。
「ああ!」と彼女はただそれだけいった。
「おまえはきっと、僕が行ったのに腹をたてはしないだろうね。でも、スチーヴァが頼むし、ドリイもそれを望んでいたものだから」とレーヴィンは言葉をつづけた。
「いいえ、どういたしまして」とキチイはいったが、その目の中には、自分をおさえようとする努力が見えた。それはレーヴィンにとって、そら恐ろしいものであった。
「あれはじつに愛すべき女で、じつにじつに気の毒な、いい女だよ」アンナのこと、そのしていること、それから彼女の伝言などを話した後、彼はこういった。
「ええ、そりゃあのひとは本当に、気の毒な女にちがいありませんとも」レーヴィンが話し終ったとき、キチイはそういった。「そのどこからきたんですの?」
 彼はそれに答え、そのおちついた調子にだまされて、着替えに行った。
 帰ってみると、キチイは前と同じ肘椅子にかけていた。彼がそばへよったとき、キチイはその顔を見上げて、わっと泣きだした。
「どうしたの? どうしたの?」すでに前から『どうしたのか』承知しながら、彼はこうたずねた[#「たずねた」は底本では「たずたね」]。
「あんたは、あのけがらわしい女に、ほれこんでしまいなすったんだわ、あの女はあんたに魔法をかけたんだわ。あんたの目つきで、あたしちゃんとわかったわ。そうよ、そうよ! これがいったいどうなるんだろう! あんたはクラブでさんざん飲んで、カルタをして、それから出かけたんですもの……しかも、それがだれのところなんだろう? だめよ、田舎へ帰りましょう……あたし明日にも帰るわ」
 長い間レーヴィンは、妻の心をおちつかすことができなかった。とどのつまり、酒といっしょになった憐愍《れんびん》の情で、何がなにやらわからなくなってしまったので、アンナの巧妙な感化力に巻きこまれたのだと告白し、これからあの女を避けるようにするからと誓って、やっと妻をなだめることができた。ただ一つ、さらに真心から告白したことは、こんなに長くモスクワに住んで、ただ社交界の話と、飲食のみにすごしているために、頭が変になったのだ、ということである。夫婦は夜中の三時まで話しつづけた。やっと三時になってから、すっかり和解ができたので、眠りに落ちることができた。

[#5字下げ]一二[#「一二」は中見出し]

 客を送り出すと、アンナは腰をおろさないで、部屋の中をあちこち歩きはじめた。彼女は無意識のうちに(最近いつも、すべての若い男にしむけたように)きょう一晩じゅう、レーヴィンが自分を愛するように全力を傾けたのである。妻のある潔白な男にたいして、しかも一晩のうちにできるだけの程度、その目的を達したのは、彼女自身にもわかっていた。レーヴィンはたいへん彼女の気に入ったけれども(ヴロンスキイとレーヴィンのあいだには、男の立場から見て、はげしい相違があったにもかかわらず、彼女は女として二人の共通点を見てとった。つまり、そのためにキチイは、ヴロンスキイをも、レーヴィンをも愛したのである)、しかしレーヴィンが部屋を出ると同時に、彼のことなど考えなくなった。
 ただ一つ、たった一つの想念が、さまざまな形をとって、執念《しゅうね》く彼女につきまとうのであった。『わたしがこれほどほかの男に、自分の妻を愛している家庭人にさえ、強い魅力をもつことができるのに、どうしてあの人[#「あの人」に傍点]はわたしに、ああも冷たいんだろう!……いや、冷たいというのじゃない、あの人はわたしを愛している、それはちゃんとわかっているけど、何かしら新しいものが、今わたしたちふたりを隔てている。どうしてあの人は一晩じゅう、姿を見せないのだろう? あの人は、ヤーシュヴィンをうっちゃっとくわけにいかないから、大佐の勝負を監督しなくちゃならないと、スチーヴァにことづけをしてよこした。でも、いったいヤーシュヴィンは、子供だとでもいうのかしら? まあ、かりにそれが本当だとしよう。あの人は決して嘘なんかつかない人だから。でも、その本当の中には、何か別なものがある。あの人は、自分には別の義務がいろいろあるってことを、わたしに思い知らせる機会があると、それをもっけのさいわいにしてるんだわ。わたしにはそれがわかっていて、それにはわたしも異存がないけれど、なぜそれをわたしに証明しなくちゃならないんだろう? あの人は、わたしにたいする愛情も、あの人の自由を妨げるわけにいかないってことを、わたしに証明したがっているのだ。でも、わたしには証明なんか要はない[#「要はない」はママ]、わたしに必要なのは愛情なんだもの。このモスクワの生活が、わたしにどんなに苦しいかってことを、あの人はわかってくれてもよさそうなはずだのに。いったいこれが生活なのかしら? わたしは生活なんかしてやしない。ただ大団円を待っているばかりだわ。ところが、それがだんだんのびのびになっていく。また今度も返事はありゃしない! スチーヴァも、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチのとこへは行けない、なんていうんだもの。ところが、わたしはもう一度、あの人に手紙を出すわけにいきゃしないわ。わたしは何一つすることも、何一つはじめることも、何一つ変えることもできやしない。わたしは自分をおさえて、いろんな気ばらしを考え出しながら――あのイギリス人の家庭だの、小説を書くことだの、本を読むことだので気をまぎらせながら、じっと待っているばかりだわ。でも、そんなことはみんなごまかしだ、みんなあのモルヒネと同じことだ、あの人はわたしをかわいそうと思ってくれなくちゃならないはずだわ』自己憐愍の涙が目に浮ぶのを感じながら、彼女はそうひとりごちるのであった。
 ヴロンスキイのけたたましいベルの音が聞えたので、彼女は急いでその涙をおし拭った。涙をおし拭ったばかりでなく、ランプのもとに坐って、平静を装いながら本を開いた。彼が約束どおり帰ってこなかったので、不満に思っていることを、彼に見せつけなければならなかったのである。しかし、それは不満だけであって、自分の悲しみは決して見せてはならない。わけても自己憐愍などは金輪際《こんりんざい》見せられない。自分で自分を憐れむのはかまわないけれども、彼に憐れんでもらいたくない。彼女は闘争など望んではいなかったので、彼が闘おうとするのを非難していたくらいであるが、自分でも知らずしらず、闘争の態勢になっていた。
「どうだね、退屈しなかった?」彼女のそばに近づきながら、ヴロンスキイは元気な浮きうきした調子でいった。「ばくちって、じつに恐ろしい本能だね!」
「いいえ、わたし退屈なんかしませんでしたわ。もうとうの昔に、退屈しないことを勉強しましたから。スチーヴァが来ましたわ、そしてレーヴィンと」
「そう、あの二人は、おまえのとこへ来たいといってたっけ。ときに、レーヴィンは気に入ったかい?」と彼は、アンナのそばに腰かけながらたずねた。
「とても。あの人たちはさっき帰ったばかりですわ。ヤーシュヴィンはどうでしたの?」
「はじめ勝ってたんだよ、一万七千ルーブリ。そのとき僕が呼んでやったので、先生ももうすっかり帰るばかりにしていたのに、またひっ返して行って、今度は負けだ」
「じゃ、なんのためにあなたお残りになったの?」ふいに男のほうへ目を上げて、彼女はこうたずねた。その顔の表情は冷やかで、敵意をおびていた。「あなたはスチーヴァに、ヤーシュヴィンを連れて帰るために残る、とおっしゃったでしょう。ところが、それをうっちゃって帰るなんて」
 おなじように冷たい戦闘準備の表情が、彼の顔にも現われた。
「第一、僕はなんにもおまえにことづけを頼みゃしなかったよ。第二に、僕は一度も嘘をついたことはない。まあ、何よりも、僕は残りたいから残ったまでさ」と彼は渋い顔をしていった。「アンナ、いったいなんのためだ、なんのためだ?」ちょっと黙っていた後、ヴロンスキイは彼女のほうへ身をかがめて、こういいながら、手を開いた。彼女がその上に、自分の手をのせるのを期待したのである。
 彼女は、こうした愛情の誘いかけがうれしかった。けれども、何かしらふしぎな悪の力が、その気持にまかせることを許さなかった。それはあたかも、闘争の条件が彼女に、降伏を許さないかのようであった。
「そりゃもう、残りたかったから、残りなすったのでしょうよ。あなたはなんでも、したいことをしてらっしゃるんですから。でも、なんのためにわたしにそんなことをおっしゃるの? なぜですの?」しだいしだいに激してきながら、彼女はこういった。「いったいだれかが、あなたの権利を否定したのでしょうか? でも、あなたは自分だけいい子になりたいんですから、いい子になってらっしゃるがよろしいでしょう」
 ヴロンスキイの手は閉じられた。彼はちょっと身をひいた。その顔は前よりもさらにかたくなな色をおびてきた。
「あなたにとっては、それは強情というだけのことですけど」じっと男の顔を見つめていたが、とつぜん、自分をいらいらさせるその顔の表情に名前を見つけると、彼女はこういった。「全く強情なんですわ。あなたにとって問題は、ただわたしにたいして勝利者になるかどうか、というだけのことですけれど、わたしにとっては……」彼女はまたもや、われとわが身がかわいそうになって、ほとんど泣きださないばかりであった。「わたしにとってこれがどういうことか、あなたにわかってもらえたらねえ! 今みたいに、あなたがわたしに敵意を――ええ、全く敵意ですわ――もってらっしゃるのを感じると、それがわたしにとってどんな意味をもつかってことは、とてもあなたに想像もつかないでしょうね! わたしが今この時、どんなに不幸に近づいているか、どんなにわたしが恐れているか――自分で自分を恐れているか、あなたにはしょせんおわかりにならないでしょうよ!」と彼女は慟哭《どうこく》を隠しながら、くるりとむこうをむいてしまった。
「まあ、いったいおまえどうしたのだ?」彼女の絶望の表情にぞっとして、またもや女のほうへ身をかがめ、その手をとって接吻しながら、彼はこういった。「なんのためだね? いったい僕が家の外で楽しみを求めている、とでもいうのかね? 僕が女との交際を避けていない、とでもいうのかね?」
「そうでしょうとも!」彼女はいった。
「ねえ、ひとついってもらおうじゃないか、おまえの心がおちつくには、いったいどうしたらいいんだね? おまえがしあわせになるためなら、僕はどんなことでも辞せないつもりなんだよ」女の絶望に動かされて、彼はこういった。「今のように、何かわけのわからぬ悲しみから、おまえを救い出すためなら、僕はどんなことだってしてみせるよ、アンナ!」と彼はいった。
「なんでもないの、なんでもないの!」と彼女は答えた。「わたし自分でもわかりませんの、孤独な生活のためか、神経のせいか……まあ、こんな話よしましょう。競馬はいかがでした? まだ話して聞かせて下さいませんでしたわね」なんといっても、自分の側に帰した勝利の喜びを隠そうとつとめながら、彼女はこうたずねた。
 彼は夜食を注文して、競馬の模様を詳しく話しはじめた。しかし、その声の調子にも、だんだん冷やかになっていくまなざしにも、彼が女の勝利を赦し難く思っているのが、ありありと見えていた。彼女が克服《こくふく》しようとつとめた片意地な気持は、またもやしだいに彼の内部に、根を張ってくるのであった。彼は前よりもアンナにたいして冷淡になった。それはちょうど、自分のほうから折れて出たのを、後悔しているかのようであった。また彼女のほうでも、自分に勝利を与えた言葉、すなわち、『わたしは恐ろしい不幸に近づいています、それで自分で自分が恐ろしいのです』という言葉を思い起して、この武器は危険なものであるから、もう二度と使ってはならない、ということを悟ったのである。彼女はこういうことを感じた。二人を結び合わす愛と並んで、二人のあいだには、何かしら意地悪い闘争の精が巣くっていて、彼女はそれを男の心からも、ましてや自分の心からはなおさら、追い払うことができないのであった。

[#5字下げ]一三[#「一三」は中見出し]

 どんな生活条件でも、人間として慣れえないものはない。ことに、周囲のものが自分と同じように暮していると見てとった場合には、なおさらのことである。三ヵ月前のレーヴィンであったなら、いま自分のおかれているような条件で、安らかに眠ることができようとは、とうてい信じられないことであったに相違ない。何の目的もない無意味な生活をして、おまけに収入以上の生活をして、のんだくれて(彼はクラブであったことを、それ以外の呼び方ができなかった)かつて妻の恋していた男と、わけのわからない親友関係を結んで、堕落した女とよりいいようのない女を訪問するなどという、いっそうわけのわからない行動をし、その女に心をひかれて、妻に嘆きをかけた――そういう条件のもとで、安らかに眠ることができようとは、思いもよらぬことであるべきはずなのに、疲労と、不眠の一夜と、酒のおかげで、彼はぐっすりと、安らかな眠りに落ちたのである。
 五時ごろに、戸のぎいと開く音で、彼は目をさました。彼はとび起きて、あたりを見まわした。キチイはそばの寝床にいなかった。が、仕切りのむこうでちらちらと動く灯影が見え、妻の足音が聞えた。
「どうしたの?……どうしたの?」と彼は寝ぼけ声でいった。「キチイ! どうしたの?」
「なんでもないのよ」蝋燭を手に持って、仕切りのむこうから出て来ながら、彼女はそういった。「わたしちょっと気分が悪くなったものですから」と彼女はとくべつかわいい、意味ありげな微笑を浮べていった。
「どう、はじまったの、はじまったの?」と彼はおびえたように口走った。「使をやらなくちゃ」と彼はあたふたと着替えをはじめた。
「いいえ、いいえ」微笑を浮べたまま、良人の手をおさえながら、彼女はこういった。「きっとなんでもありませんわ。わたしちょっと気分が悪くなっただけで、それも今はなおりましたわ」
 そういって、彼女は寝台に近より、蝋燭を消して横になり、そのまま静まった。なにかおさえつけているらしい、彼女の息づかいの静けさも、ことに何より、彼女が仕切りの陰から出ながら「なんでもありません」といった特殊な優しみと興奮の表情も、彼にはうさんくさく思われたけれども、眠くてたまらなかったので、そのまま寝ついてしまった。ただ後になって、妻の息づかいの静けさを思い起した時、彼は悟った。彼女が女の一生で、最も偉大な出来事を待ちもうけながら、身動きもせず彼のそばにねていた時、その尊くも愛すべき心の中で生じていたいっさいを悟ったのである。七時ごろ、肩にさわった妻の手とその低いささやきが、彼の目をさました。彼女はどうやら、良人を起すのが気の毒なという気持と、話をしたいという望みのために、内部闘争を感じているらしかった。
コスチャ、びっくりしないでね。なんでもないんだから、でも、どうやら……エリザヴェータ・ペトローヴナを呼びにやらなくちゃなりませんわ」
 再び蝋燭がともされていた。彼女はベッドの上に坐っていたが、その手にはこの二三日、仕事にしている編物を持っていた。
「どうかびっくりしないでね、なんでもないんだから。わたし、ちっともびくびくしちゃいませんわ」良人のおびえたような顔を見て、彼女はこういった。そして、良人の手を自分の胸へ、それから唇へおしあてた。
 彼は自分のことなど忘れてしまい、妻から目をはなさずに、急いで跳ね起きると、部屋着をひっかけ、たえず妻を見つめながらたたずんだ。出かけなければならないのに、彼は妻のまなざしから、視線をはなすことができないのであった。彼は妻の顔を愛し、その表情、まなざしを知り抜いているはずでありながら、こういうふうな彼女は、今まで一度も見たことがないのであった。今のこういう妻の前に立って、昨夜、彼女を悲しませたことを思い出すと、彼はわれながら自分という人間がいまわしく、恐ろしいものに感じられた! ナイトキャップからはみ出した柔らかい髪に縁《ふち》どられた、ぼっと紅味《あかみ》をさした彼女の顔は、喜びと決意に輝いていた。
 キチイの性格には全体として、不自然なところや条件的なものは、きわめて少なかったのであるが、それにもかかわらず、いま忽然として、いっさいのおおいがとり去られ、彼女の魂の真の核心が、その目のなかに輝いた時、レーヴィンは自分の眼前に露呈されたものに、驚嘆の目を見はらずにはいられなかった。この単純な赤裸の姿の中に、彼の愛しているキチイが、なおはっきりと見える思いであった。彼女はにこにこ笑いながら、良人をながめていた。けれど、ふいにその眉がぴりりとふるえて、彼女は頭をぐいと上げ、足早に良人に近づいて、その手をとり、全身をぴったりおしつけて、良人に熱い息を浴せた。彼女は苦しんでい、その苦しみを良人に訴えるかのようであった。で、彼ははじめ一瞬、いつもの癖で、自分が悪いような気がした。しかし、妻の目の中にこもっている優しい表情は、わたしはあなたを責めてなんかいません、かえってこの苦痛のためにあなたを愛しています、と語っているのであった。
『このことでおれが悪いのじゃないとすれば、いったいだれが悪いのだろう?』われともなしにこんなことを考えながら、この苦痛の責任者をさがし出して、そのものを罰しようと思った。が、責任者などはなかった。彼女は苦しみ、訴えながら、この苦しみに凱歌を上げ、それを喜び愛しているのであった。彼女の魂の中で、何か美しいものが成就せられているのは、彼もはっきり見てとったけれど、それが何であるかは、理解することができなかった。それは彼の理解力を絶していることであった。
「あたしママのところへ使を出しましたわ。だから、あなたエリザヴェータ・ペトローヴナを迎えに、大急ぎでいらしてちょうだいな……あっ、コスチャ!………なんでもないの、もうなおりましたわ」
 彼女は良人のそばを離れて、ベルを鳴らした。
「さあ、もういらしてちょうだい。パーシャが来ますから。あたし大丈夫よ」
 こういってキチイは、夜の間に持って来ておいた編物仕事をとりあげて、また編みにかかった。レーヴィンはそれを見てびっくりした。
 レーヴィンは、一方の戸口から出て行くとき、もう一方の戸口から、小間使が入ってくる足音を聞いた。彼が戸のそばに足をとめて聞いていると、キチイは小間使にいろいろと詳しく指図して、自分でもいっしょにベッドを動かしはじめた。
 辻馬車はまだなかったので、橇《そり》に馬をつけさせたが、その用意のできる間に、彼は着替えをして、もういちど寝室へ駆けつけた。それは、爪先立ちで走るというより、翼が生えて飛んでいるように思われた。寝室の中では、二人の小間使がまじめな顔をして、なにやらおき変えていた、キチイは歩きあるき、せっせと編物の目をひろいながら、指図をしていた。
「僕はこれから医者を呼びにいくよ。エリザヴェータ・ペトローヴナのところへは、もう迎えが行ったそうだから。もっとも、僕もよってみるがね、何か要るものはないかね? ああ、ドリイのとこは?」彼女は良人の顔を見たが、明らかにそのいうことを聞いていないらしかった。
「ええ、ええ、行ってちょうだい」眉をしかめて、片手をふりながら、彼女は早口にいった。
 彼がもう客間へ入ろうとしたとき、とつぜんあわれっぽいうめき声が、寝室に起ったと思うと、すぐに静まった。彼は足をとめたが、長いあいだなんのことかわからなかった。
『ああ、あれはキチイだ』と彼はひとりごち、頭を抱えて、階下《した》へ駆けおりた。
『主よ、憐みたまえ! 赦したまえ、助けたまえ!』どうしたのか、ふいに口をついて出た言葉を、彼は幾度もくりかえした。しかも、不信者である彼が、ただ口先ばかりでなく、この言葉をくりかえすのであった。今この瞬間、彼のいだいているいっさいの疑惑どころか、理性によっては信ずることができないと、自分でもよく承知している体験まで、いささかも神にすがる妨げにはならなかった。いまやそれらいっさいのものは、塵泥《ちりひじ》のごとく彼の心からけし飛んでいた。自分自身も、自分の魂も、自分の愛も、その掌中に握られていると感じているものをさしおいて、はたしてだれにすがることができようぞ?
 馬はまだ用意ができていなかったが、彼は一分一刻もむだにしないで、これからなすべきことをやってのけようという肉体力と、注意力の特殊な緊張を内部に感じたので、馬を待たずに徒歩で出かけ、クジマーにあとから追ってくるように命じた。
 街かどで、むこうから急いでくる夜の辻待ち橇に出会った。小さな橇の中には、ビロードの外套を着て、肩掛けを頭からかぶったエリザヴェータ・ペトローヴナが乗っていた。『ありがたいこった、ありがたいこった!』そうと気がついて、有頂天になりながら、彼は思わず口走った。眉や睫毛《まつげ》の白っぽい彼女の小さな顔は、今やなにか特別まじめな、むしろいかついくらいな表情をしていた。
 馬をとめないようにと馭者に命じて、彼は産婆と並んで、もと来たほうへ走り出した。
「じゃ、二時間ばかりでございますね? それより長くはありませんね?」と彼女はたずねた。「ピョートル・ドミートリッチ(医者)はお宅にいらっしゃるでしょうが、お急《せ》かせなさるには及びませんよ。ああ、それから、薬局で阿片をお買いになってくださいまし」
「じゃ、あなたは無事にいくとお思いですね? 主よ、憐みたまえ、助けたまえ!」門から出てくる馬を見て、レーヴィンはこう口走った。クジマーと並んで橇に飛び乗ると、彼は医師のもとへ馬を走らせた。

[#5字下げ]一四[#「一四」は中見出し]

 医者はまだ起きていなかった。下男がいうには、「おやすみになるのが遅かったので、起してはいけないというお申しつけでございました。おっつけお目ざめでございましょう」とのことであった。下男はランプのほやを掃除して、それにすっかり気をとられている様子であった。下男がほやなどに一生懸命になって、レーヴィンの家庭に生じていることに無関心なのが、はじめはひどく彼をびっくりさせたが、すぐ思い返して、だれも自分の感じを知っているものもなければ、また知る義務もないのだ、ということを悟った。だから、この無関心の障壁を打ちぬいて、自分の目的を達するためには、なおさらおちついて、よく考えたうえ、断乎たる行動をしなければならぬ。
『あわてないで、何一つ手落ちのないようにしなくちゃならんぞ』これからしなければならぬことにたいする注意力と肉体力が、いよいよ強く盛りあがってくるのを感じながら、レーヴィンはこう自分で自分にいって聞かせた。
 医者がまだ起きていないと知ったとき、レーヴィンは頭に浮んださまざまな案の中から、つぎのものを選んだ。クジマーには手紙を持たせて、別の医者のところへやり、自分は薬局へ阿片を買いに行く。もし自分が帰って来ても、まだ医者が起きていなかったら、下男に鼻薬をかがせ、もし下男がその手に乗らなかったら、力づくで是が非でも医者を起さなければならぬ。
 薬局ではやせぎすの薬剤師が、下男のほや掃除とおなじ無関心さで、前から待っている馭者のために、粉薬をオブラートで包んでいたが、阿片は売るわけにはいかない、と断った。せきこんだり、逆上したりしないようにつとめながら、レーヴィンは医者や産婆の名を挙げて、阿片が要るわけを説明しながら、薬剤師を説き伏せにかかった。薬剤師は仕切りの陰にむかって、ドイツ語で、阿片を出してもいいかと相談をし、よろしいという返事を聞いて、びんと漏斗《じょうご》をとり出して、大きいびんから小さいほうへゆっくりと移し、レーヴィンがそんなことをしなくてもいい、というのもかまわず、レッテルを貼りつけ、封をして、おまけに紙に包もうとした。これにはレーヴィンもたまりかねて、いきなりその手からびんをひったくり、大きなガラス戸の外へ駆けだした。医者はまだ起きていなかった。今度は、カーペットを敷いていた下男は、起すわけにいかぬと断った。レーヴィンはあわてずに、十ルーブリ紙幣《さつ》をとり出して、ゆっくりと一語一語発音しながら、しかも時間をむだにしないように、紙幣を下男に渡して、ピョートル・ドミートリッチが(これまでたいした存在でないと思っていたピョートル・ドミートリッチが、今はレーヴィンの目になんと偉大に、ものものしく思われたことか!)どんな時にでも往診してやると約束されたのだから、きっと腹なんかたてられはしない、どうか安心してすぐ起しに行ってくれ、とじゅんじゅんと頼んだ。
 下男は納得《なっとく》して、二階へあがって行き、レーヴィンには待合室へ通ってくれといった。
 戸のむこうでは、医者が咳ばらいをしたり、歩きまわったり、顔を洗ったり、何かいったりしているのが、レーヴィンの耳に入った。三分すぎた。レーヴィンは、もう一時間以上たったような気がした。彼はもはや待っていられなかった。
「ピョートル・ドミートリッチ、ピョートル・ドミートリッチ!」と彼は開いたドア越しに、祈るような声でいった。「どうかお赦し願います。どうかそのままで、ちょっと会ってください。もう二時間以上も待っているのですから」
「ただいま、ただいますぐ!」と答える声がしたが、医者がそれを笑い笑いいっているのを聞いて、レーヴィンは驚きあきれた。
「ほんの一分間だけ」
「ただいま」
 医者が靴をはいているあいだに、二分間たった。それから服を着て頭を梳《と》かすのに、さらに二分間すぎた。
「ピョートル・ドミートリッチ!」とレーヴィンはまたもや、哀れっぽい声でいいかけたが、ちょうどその時、きちんと着替えをし、頭を梳かした医者が、姿を現わした。『こういう連中には良心ってものがないのだ』とレーヴィンは考えた。『こっちが生きるか死ぬかという時に、悠々と頭なんか梳かしてるんだからなあ!』
「お早うございます」と医者は、手をさしのべながらいった。そのおちつきぶりは、まるで相手をからかうようであった。「まあ、そうお急ぎになることは要りません。ときに、いかがです?」
 できるだけ前後の事情をはっきりさせようとつとめながら、レーヴィンは妻の容態について、必要もないことをこまごまと話しはじめたが、のべつ自分で自分の話の腰を折っては、これからすぐいっしょに行ってくれ、と頼むのであった。
「いや、そうお急ぎになることはありませんよ。何しろ、あなたはごぞんじないでしょうが、きっと私なんかに用はありませんよ。しかし、お約束したことですから、まあ伺うことは伺いますがね、しかし、あわてることはありません。どうかまあおかけ下さい、コーヒーを一杯いかがです?」
 いったいあなたは、私をからかってるんじゃありませんか、とでもききたげな目つきで、レーヴィンは医者を見やった。しかし、医者はそんな気持などさらさらなかった。
「わかりますよ、わかりますよ、そのお気持は」と医者は微笑しながらいった。「私自身も、家庭をもった人間ですからね。しかし、こういう場合には、われわれ亭主というものは、じつにみじめな存在ですからな。私の患家先では、奥さんのお産のたびに、ご主人がいつも厩へ逃げこむというのがありますよ」
「しかし、ピョートル・ドミートリッチ、あなたのお考えはいかがです? 無事にいくとお思いですか?」
「すべての兆候から推して、ご安産といえますな」
「では、すぐ来て下さいますね?」コーヒーを運んできた男を、憎々しげに睨みながら、レーヴィンはこういった。
「一時間ばかりして伺います」
「いや、お願いですから」
「では、まあ、コーヒーだけでも、ゆっくり飲ましていただきましよう[#「いただきましよう」はママ]」
 医者はコーヒーにかかった。二人ともしばらく黙っていた。
「ときに、トルコはひどくやられてるじゃありませんか。あなた、昨日の海外電報をお読みになりましたか?」と医者はパンをむしゃむしゃ噛みながらいった。
「いや、私はもうたまらない!」とレーヴィンはおどりあがっていった。「じゃ、十五分もたったら、来て下さいますね?」
「三十分して!」
「まちがいありませんね」
 レーヴィンが家へ着いたとき、公爵夫人と落ち合った。二人はいっしょに、寝室の戸口へ近よった。公爵夫人は目に涙を浮べ、その手はふるえていた。レーヴィンを見ると、夫人は彼を抱きしめて、わっと泣きだした。
「え、どんなふうですの、リザヴェータ・ペトローヴナ?」晴ればれした、しかもものものしげな顔つきをして、戸の中から出てきたリザヴェータ・ペトローヴナの手をとって、夫人はこう問いかけた。
「順調にまいっております」とこちらは答えた。「あなたさまから、横になるようにおっしゃってくださいまし。横のほうがお楽でございますから」
 彼は今朝目をさまして、何ごとがはじまったかを知った瞬間から、早くも心がまえを定めた。それは、考えたり予想したりしないで、すべての思想と感情を閉め切ってしまい、妻の気持を乱すどころか、その反対に心をおちつかせ、その勇気をささえるようにしながら、目前に控えていることを断乎として忍ぶ、ということであった。どんなことが起るだろうか、いかなる結末を告げるだろうか、などと考えることさえみずから禁じながら、これは普通どれくらいかかるかということを、いろんな人にきいて、その答えで判断した結果、レーヴィンは一人こころの中で、五時間だけ辛抱して、自分の気持をわれとわが手にぐっとおさえつけよう、と腹をきめた。またそれは不可能でないように思われたのである。しかし、医者のもとから帰って来て、ふたたび妻の苦しみを見たとき、彼はいよいよひんぱんに、『主よ、赦したまえ、助けたまえ』をくりかえし、嘆息したり、顔を空へ向けたりしはじめた。これはもちこたえられそうもない、手放しで泣きだすか、それとも逃げだすかしそうだ、そういう恐怖さえ感じはじめた。それほど彼は苦しかったのである。しかも、まだ一時間しかたっていなかったのである。
 しかし、その一時間の後に、また一時間たち、二時間、三時間たち、ついにまるまる五時間すぎた。それは、彼が忍耐の最大限ときめた時間であったが、状態は依然として同じであった。彼はいつまでも辛抱していた。ほかにどうすることもできなかったからである。彼は一刻一刻、もうこれで忍耐の最後の局限に達した、もう今にも心臓が憐愍のために張り裂けるだろう、と心に思いつづけるのであった。
 しかし、さらに幾分かすぎ、幾時間かたち、また幾時間かたった。そして、彼の苦痛と恐怖感は、いやが上に募って、緊張するのであった。
 レーヴィンにとっては、それをぬきにしては何ひとつ考えることのできない日常生活の諸条件が、もういっさい存在しなくなった。彼は時間の観念を失ってしまった。ときにはわずか数分間――キチイが彼をそばへ呼んで、自分の汗ばんだ手を握らせ、なみはずれた力で良人の手を握りしめるかと思うと、急にまたおしのけたりした幾分かのあいだが、数時間の長さに感じられるかと思うと、また数時間が数分間のようにも思われるのであった。彼は、リザヴェータ・ペトローヴナに、衝立《ついたて》のむこうに蝋燭をつけてくれと頼まれた時、びっくりしてしまった。聞けば、もう晩の五時だったのである。もし今がやっと朝の十時だといわれても、彼はやはりたいして驚きはしなかったであろう。そのとき自分がどこにいるかということも、いつ何があったかということも、やはりよくわからなかった。彼はときにけげんそうな、ときに苦しげな、ときに微笑を浮べて良人をおちつかせようとする。妻の充血した目を見た。彼はまた公爵夫人を見た。夫人は緊張のあまり真赤な顔をして、白髪をふり乱し、唇を噛みしめて、一生懸命に涙をのみこんでいるのであった。またドリイをも、太い巻タバコをすっている医者をも、しっかりと決然たる色を面に現わして、人々をおちつかせようとしている産婆をも、渋い顔をして広間を歩きまわっている老公をも見た。しかし、彼らがいつやって来ていつ出て行ったか、彼らがどこにいたのか、彼はなんにも知らなかった。公爵夫人は医者といっしょに寝室にいたかと思うと、今度はいつのまにか、食卓のしたくのできている書斎にいた。かと思うと、それは公爵夫人でなく、ドリイだったりした。それから、どこかへ使にやられたのも、レーヴィンは覚えていた。一度、彼はテーブルと長椅子をほかへ移すように頼まれた。彼は、キチイのために必要なことだと思って、一生懸命にそれをしたところ、あとで聞けば、彼は自分のために寝床を用意したのであった。それから、彼は書斎にいる医者のところへ、何かたずねにやらされた。医者はその返事をしたあとで、議会の擾乱事件を話しだした。それから、彼は公爵夫人のいる寝室へ、金銀の袈裟《けさ》をつけた聖像をとりにやらされた。彼は公爵夫人のつれてきた老婢といっしょに、聖像をとろうとして、戸棚の上へ這いのぼったところ、燈明をこわしてしまった。老婢はキチイのことについても、燈明のことについても、心配しないようにと彼をなだめた。で、彼は聖像を持って行って、キチイの頭のところにおき、一生懸命に枕の下へつっこんだ。しかし、そういったすべてのことを、いつ、どこで、なんのためにしたのか、彼は覚えていなかった。また同様に、なぜ公爵夫人が彼の手をとって、哀れっぽい目つきでその顔を見ながら、気をおちつけてくれと頼んだのやら、なぜドリイがちょっと食事をするようにと無理にすすめて、彼を部屋から連れ出したのか、なんのために医者までが同情の目で彼をながめ、水薬を飲むようにいったのか、彼はわけがわからなかった。
 彼はただ一年前に町の宿屋で、兄ニコライの臨終の床で完成されたと同じようなことが、今また完成されようとしているのを意識し、直感しただけである。しかし、それは悲しみであり、これは喜びであった。とはいえ、その悲しみもこの喜びも、ひとしく家常茶飯事的な条件の外におかれ、この日常生活に開いた隙間とでもいうようなものであり、そのあいだから高遠なあるものがうかがわれるのであった。そして、この完成されていくあるものは、どちらの場合にも同じように、悩ましく重苦しく近づいてくるのであった。そして、どちらの場合にも、魂はこの高遠なるものを諦視《ていし》すると同時に、同じ不可解な働きによって、今までかつて想像もしなかったような偉大な高みへ昇っていった。それは、もう理性があとからついていけないような世界であった。
『主よ、赦したまえ、助けたまえ』と彼はたえず心の中でくりかえした。あれほど長いあいだ、もう二度とかえることができないほど、こういう気分とは絶縁しきったように考えていたにもかかわらず、幼年時代や少年時代と同じように信じやすい、単純な心をもって神にむかっているのが、自分でもそれと感じられた。
 この間じゅう、彼は二つの別々な気分の囚《とりこ》になっていた。一つはキチイのいないとき、つまり、太い巻タバコをあとからあとから吸っては、いっぱいになった灰皿の端でそれを消している医者といるときであり、食事や、政治や、マリヤ・ペトローヴナの病気の話をしているドリイや老公といっしょにいるときであった。そういうとき、レーヴィンはふと、つかのま、いま何ごとが行われているのか忘れてしまって、まるで夢からさめたような気がした。――もう一つは、キチイの部屋に、その枕もとにいるときの気分であった。そこでは、同情のあまり心臓が張り裂けそうでいながら、いつまでたっても裂けもしないで、彼は絶え間なく神に祈るばかりであった。そして、寝室からもれる叫び声が、つかのまの忘却から呼びさますたびに、彼は最初の瞬間に感じたのと同じ、奇妙な錯覚に襲われるのであった。いつも叫び声が耳に入るたびに、彼はおどりあがって、いいわけに駆けだすのであったが、途中で、自分が悪いのではないと思い出す。すると、なんとかして守ってやりたい、助けてやりたいと思う。けれども、妻を見ると、またしても助けることはできないと悟って、ぞっとしながら、『主よ、赦したまえ、助けたまえ』と唱えるのであった。時がたつにしたがって、この二つの気分は、いよいよ深まっていった。彼女の見えないところにいると、彼は妻のことを全く忘れて、いよいよおちついていくし、妻の叫びを聞くと、その苦しみそのものも、それにたいする無力感も、さらにさらに悩ましくなっていく。彼はおどりあがって、どこかへ逃げだしたいと思うが、やっぱり妻のもとへ駆けつけるのであった。
 どうかすると、キチイがまたしても、またしても自分を呼びつけると、彼は妻を非難したい気になるけれども、その微笑を含んだ忍従の表情を見、『あたしすっかりあなたをへとへとにしてしまいましたわ』という言葉を聞くと、彼は神を責めたくなってくる。しかし、神のことを思い起すと、すぐさま赦したまえ、憐れみたまえと祈念するのであった。

[#5字下げ]一五[#「一五」は中見出し]

 彼は時刻が遅いのか、早いのか、まるでわからなかった。蝋燭はもうほとんど燃え尽きていた。ドリイはつい今しがた書斎へやって来て、ちょっと横になったら、と医者にすすめた。レーヴィンは、医者のしゃべっている山師の催眠術師の話を聞きながら、じっとそこに腰をおちつけて、彼の巻タバコの灰をながめていた。ちょうど陣痛のおさまっているときだったので、彼は自己忘却の状態に陥っていた……彼はいま起っていることを、すっかり忘れてしまっていた。医師の話を聞きながら、彼はそれをちゃんと理解していた。とふいに、なんともいえない叫び声が聞えた。その叫びが、たとえようもないほど恐ろしかったので、レーヴィンはとびあがることさえせず、息を殺しながら、おびえたような、物問いたげな目つきで医者を見やった。医者は小首をかしげながら聞き耳を立て、けっこうけっこうというような微笑を洩らした。すべてがなにもかもあまり異常だったので、レーヴィンはもうなんにも驚かなかった。『きっとこれがあたりまえなのだろう』と彼は考えて、そのまま腰をおちつけていた。ああ、あれはだれの叫び声だったろう? 彼はおどりあがって、爪先立ちで寝室へ駆けこみ、リザヴェータ・ペトローヴナと公爵夫人のうしろをまわって、枕もとのほうに決められた自分の場所に立った。叫び声は静まったが、今度は何やら変ったところがあった。何が変ったのか――彼は見もしなければ、わかりもしなかった。それに、また見たいとも、わかりたいとも思わなかった。しかし、彼はリザヴェータ・ペトローヴナの顔つきで、それを見てとったのである――産婆の顔はいかつく蒼ざめていた。そして、下顎はこころもちふるえ、両眼はじっとキチイの顔にそそがれてはいたけれど、相変らず決然たる色を見せていた。汗ばんだ頬や額に髪がねばりついて、燃えるように赤い、苦しみぬいてへとへとになったキチイの顔は、良人のほうへ向けられて、その視線を捕えようとしていた。そして、さしあげられた両手は、彼の手を求めるのであった。彼女は汗ばんだ両手で、彼の冷たい手をつかみ、それを自分の顔へおしあてはじめた。
「行かないで、行かないで! あたし怖くないわ、怖くないわ!」と彼女は早口にいった。「お母さま、耳輪をはずして、じゃまっけになるから。あなた怖がってなんかいらっしゃらないわね? もうすぐね、すぐね、リザヴェータ・ペトローヴナ……」
 彼女はおそろしく早口にこういって、にっこり笑おうとした。とふいに、その顔が醜くゆがんで、彼女は良人をぐいとおしのけた。
「だめだ、ああ、たまらない! あたし死んじゃう! あっちィ行って、あっちィ行って!」と彼女は叫んだ。そして、またもや、あのなんともいえないような叫び声がはじまった。
 レーヴィンは両手で頭をかかえて、部屋の外へ駆けだした。
「大丈夫、大丈夫、これでいいのよ!」とドリイがうしろから彼に声をかけた。
 けれど、みんながなんといおうとも、彼は今こそもう万事休すと思いこんでいた。彼は戸口の柱に頭をもたせながら、隣の部屋につっ立ったまま、今までかつて聞いたこともないような、ある何ものかの叫びと咆哮《ほうこう》を聞いていた。そして、これはかつてキチイであったものが叫んでいるのだ、ということを彼は知っていた。彼はもうとっくから、子供なぞどうでもよくなっていた。それどころか、今はその子供を憎んでいた。もはや彼女の命さえどうでもよかった。彼はただこの恐ろしい苦痛がやんでくれればと、それのみひたすら祈った。
「ドクトル! これはいったいどういうことなんです? どういうことなんです? ああ、やりきれない!」入って来た医者の手をつかんで、彼はこういった。
「おしまいですよ」こういった医者の顔が、あまりまじめだったので、レーヴィンはおしまい[#「おしまい」に傍点]という言葉を、死という意味にとったのである。
 われを忘れて、彼は寝室へ駆けこんだ。彼が最初に見たものは、リザヴェータ・ペトローヴナの顔であった。それは前よりももっと気むずかしい、いかつい表情をしていた。キチイの顔はなかった。もとその顔があった場所には、緊張した様子からいっても、そこから起る響きからいっても、ものすごいようなあるものがあった。彼は心臓が張り裂けそうな気がして、寝台の横板に顔を伏せた。恐ろしい叫びはやまなかったばかりか、ますますその恐ろしさを増していったが、やがてあたかも、恐怖の頂上まで達したように、突然ぴたりとやんでしまった。レーヴィンは、われとわが耳が信じられなかったが、疑うことはできなかった。叫び声はやんだのである。そして、静かな、しかも忙しそうな動きと、衣《きぬ》ずれの音と、あわただしい息づかいが聞えた。とぎれとぎれながらも、生きいきとした、優しい幸福そうな彼女の声が静かに「やっとすんだ」といった。
 彼は頭をもちあげた。両手をぐったりと蒲団の上に投げ出して、なみなみならぬ美しい、おだやかな顔をした彼女が、無言のままじっと彼を見ていた。そして、にっこり笑おうとしたけれど、それができないのであった。
 すると、急にレーヴィンは、この二十二時間ずっと住んできた神秘な、恐ろしいこの世ならぬ世界から、たちまちもとの住み慣れた世界へ、戻って来たような気がした。けれども、それは今や新しい堪え難いほどの幸福の光に、満ち輝いているのであった。張りきっていた絃《いと》はすっかり断ち切られた。まるで思いもかけなかった歓びの号泣と涙が、恐ろしい力で腹の底から湧き起り、全身をふるわせはじめたので、彼は長いあいだ口がきけなかったほどである。
 彼は寝台の前にばったり膝をついて、妻の手を唇へおしあてながら、しきりに接吻した。すると、その手はかすかな指の動きで、夫の接吻にこたえるのであった。ところが、そのあいだに寝台の裾のほうでは、リザヴェータ・ペトローヴナの巧者な手の中で、まるで燭台の上に燃える小さな火のように、一箇の人間の生命が揺れ動いていた。それは、これまでかつてなかったものであるけれど、やはり人なみに同じような権利を主張し、同じように自分なりの意義を感じながら生きて行き、自身と同じような人間を繁殖して行くのである。
「生きています! 生きています! しかも、男の子さんですよ! ご心配はいりません」リザヴェータ・ペトローヴナが、ふるえる手で赤ん坊の背中をぺちゃぺちゃたたきながら、こういう小声がレーヴィンの耳に入った。
「お母さま、ほんと?」とキチイの声がいった。
 ただ公爵夫人のすすりなきが、彼女に答えるのみであった。
 と、沈黙のただなかに、母親の問いにたいする疑う余地のない答えとして、室内のそこここに聞える控えめな話し声とはまるきり違った、新しい声が起った。それは、どこからとも知れず出現した新しい一箇の生命の、勇敢で傍若無人な、何一つ顧慮しようとしない叫び声であった。
 もしちょっと前に人がレーヴィンにむかって、「キチイは死んだ、そして赤ん坊も彼女といっしょに死んだ、彼らの子供は天使で、神はつい彼らの前にいられるのだ」といっても、彼は少しも驚かなかったに相違ない。けれども、今はもう現実の世界へ立ち帰ってしまってみると、妻が生きているばかりでなく、健康でやけにわめきたてている生きものが自分の息子だ、ということを了解するためには、一生懸命に思考力を緊張させなければならないのであった。キチイは無事で、苦しみは終った。そして、自分は筆紙につくせないほど幸福である。彼はそれを理解して、そのためにこの上もなく幸福であった。しかし、赤ん坊は? いったいどこから、なんのために来たのだろう? そして、何者だろう?……彼はどうしても、この考えになじむことができなかった。彼はそれが何かありあまった、よけいなものみたいに感じられて、長いあいだ慣れることができなかった。