『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」6-01~6-05(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#2字下げ]第六編[#「第六編」は大見出し]


[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

 ドリイは子供たちをつれて、妹のキチイ・レーヴィナの領地、ポクローフスコエでひと夏をすごすことになった。彼女自身の領地では、邸がすっかり崩れてしまったので、レーヴィン夫婦が、自分のところで夏をすごすように、勧めたのである。オブロンスキイはその案に大賛成であった。家族とともにひと夏田舎で暮すのは、人生至上の幸福なのだが、勤めがそれを許さないのは残念だといいながら、モスクワに居残り、時おり一日か二日泊りで、田舎へやってきた。子供たち全部に、女家庭教師をつれたオブロンスキイ一家のほか、この夏レーヴィンの家には、なお老公爵夫人も逗留《とうりゅう》していた。それは、ただならぬ[#「ただならぬ」に傍点]体になっている無経験な娘に気をつけてやるのを、自分の義務と心得たからである。のみならず、キチイが外国で親友になったヴァーレンカも、キチイが結婚したら訪問しようという約束を守って、親友のもとに滞在している。それはみんな、レーヴィンの妻の身内や、友だちであった。彼は、その人たちがみんな好きではあったけれども、彼の内々命名した言葉によると、『シチェルバーツキイ的分子』の氾濫《はんらん》によって、自分のレーヴィン的な世界と秩序を圧倒されるのが、いささか残念であった。彼の身内のもので、この夏ここに滞在しているのは、セルゲイ・イヴァーノヴィッチきりで、それさえレーヴィン的というより、コズヌイシェフ的な気分の人だったから、レーヴィン的精神は全滅の形であった。
 長いことがらんとしていたレーヴィンの家も、今はたいへんな人数になってしまったので、ほとんどどの部屋も満員の盛況で、老公爵夫人は毎日食卓につくとき、一同の数を読んで、十三人目にあたる孫か孫娘を、別の小テーブルに坐らせなければならぬ始末であった。それに、家事に気を入れていたキチイも、鶏や、七面鳥や、家鴨《あひる》などを手に入れるのに、少なからず骨を折らなければならなかった。なにぶん、夏のこととて、客も子供たちも食欲旺盛なので、そうした食料品が、かなりたくさんいるのであった。
 家族一同は食卓に向っていた。ドリイの子供たちと女家庭教師、それにヴァーレンカは、茸狩りにどこへ行こうかと、計画を立てていた。
 コズヌイシェフは、その頭脳と学識のため、客一同のあいだで崇拝といっていいほどの尊敬をかちえていたが、茸狩りの話に口を入れて、一同を驚かした。
「私もいっしょにつれて行って下さい」と彼はヴァーレンカを見ながらいった。「私の考えでは、それはなかなかいい仕事ですからね」
「ええ、どうぞ、わたしたちもたいへんうれしゅうございますわ」とヴァーレンカは、顔を赤らめて答えた。
 キチイとドリイは、意味ありげに目を見合わせた。学識の高い賢明なコズヌイシェフが、ヴァーレンカといっしょに茸狩りに行きたいといいだしたのは、最近、キチイの注意をひいていたある種の想像を、裏書きするものであった。彼女は、自分の目つきを気取《けど》られぬため、急いで母親に話をしかけた。食後、コズヌイシェフは自分のコーヒー茶碗を持って、窓ぎわに腰をおろし、弟を相手にしかけていた話をつづけながら、茸狩りのしたくのできた子供たちの出てくるはずになっている戸口を、しきりにじろじろと見やるのであった。レーヴィンも兄に近く、窓じきりに腰をおろした。
 キチイは良人に何か話したいらしく、自分にとって興味のない話の終りを待ちながら、良人のそばに立っていた。
「おまえは結婚してからこっち、ずいぶんと変ったね、しかもいいほうへ」とコズヌイシェフは、キチイにほほえみかけながら弟にいったが、どうやら、しかけていた会話にあまり興味がないらしかった。「しかし、思い切って逆説的なテーマを弁護する癖だけは、相変らず忠実に守ってるね」
「カーチャ、立っているのはよくないよ」妻に椅子をすすめて、意味ありげにその顔を見ながら、良人はそういった。
「そう、しかし、もうこうしちゃいられない」駆け出して来た子供たちを見ると、コズヌイシェフはそうつけ足した。
 その先頭には、長靴下をぴったりとはいたターニャが、茸入れの籠とコズヌイシェフの帽子をふりまわし、横っ飛びに飛びながら、まっすぐにコズヌイシェフの方へ走って来た。
 勇敢にコズヌイシェフのそばまで駆けよると、父親そっくりの美しい目を輝かしながら、彼女はコズヌイシェフに帽子をさしだし、それを彼の頭にかぶせたいという様子を見せながらも、臆病な優しい微笑で、その無遠慮な意図を和らげようとした。
「ヴァーレンカが待ってらしてよ」コズヌイシェフの微笑で、そうしてもかまわないということを見てとって、そっと帽子をかぶせながら、彼女はこういった。
 ヴァーレンカは黄色い更紗《さらさ》の服に着替え、白い布《きれ》で頭を縛って、戸口に立っていた。
「今いきます、今いきます、ヴァルヴァーラ・アンドレエヴナ」コーヒーの残りを飲み干して、あちこちのポケットへ、ハンカチやタバコ入れをつっこみながら、コズヌイシェフはそういった。
「ねえ、あたしのヴァーレンカは本当にすてきでしょう! ね?」コズヌイシェフが立って行くやいなや、キチイは良人にいった。彼のそういった声は、コズヌイシェフにもきこえるくらいの高さであったが、どうやら彼女はそれが望みらしかった。「なんて美しいんでしょう、上品な美しさですわ! ヴァーレンカ!」とキチイは叫んだ。「あなた水車場の森へいらっしゃるの? あたしたちもあとから行きますわ」
「キチイ、おまえはどこまでも自分の体のことを忘れるんだね!」と老公爵夫人は、あたふたと戸口から出ていった。「おまえ、大きな声をしちゃいけないんですよ」
 ヴァーレンカは、キチイの声と、母夫人の小言を聞きつけると、軽い足どりで、いち早くキチイのそばへやって来た。その敏活な動作、生きいきした顔を染めたくれないの色――すべてのものが、彼女の心に何かなみなみならぬことが生じつつあるのを語っていた。キチイは、そのなみなみならぬものが、なんであるかを知っていたので、たえず注意の目を向けていた。彼女は今わざわざ、ヴァーレンカを呼んだが、それは、キチイの推測によると、今日の食後、森の中で成就さるべき大事に対して、心ひそかに彼女を祝福するためであった。
「ヴァーレンカ、もしあることが実現したら、あたしこんなうれしいことはないわ」と彼女は相手を接吻しながら、ささやいた。
「あなたも、わたしたちといっしょにいらっしゃいます?」キチイのいったことが聞えなかったようなふりをして、ヴァーレンカはどぎまぎしながら、レーヴィンにたずねた。
「僕も出かけますが、ただ打穀場《こなしば》まででね、そこに居残りです」
「まあ、なんだってあなた物好きな?」とキチイはいった。
「新しい荷車を見て、数を調べておかなくちゃならないんだ」とレーヴィンは答えた。「ところで、おまえはどこにいる?」
「テラスにいますわ」

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 テラスには、婦人連中が残らず集った。彼女たちは食後、いつもそこに腰かけるのか好きであったが、今日はそのうえ、そこで仕事があったのである。寝冷え知らずを縫ったり、腹巻を編んだりするほか、今ジャムが煮られているのであった。それは、アガーフィヤ・ミハイロヴナにとって新しい、水を入れずに煮る方法が試みられていたのである。この新しい方法は、シチェルバーツキイ家で用いられているところから、こんどキチイがとり入れることにしたのであった。今までこの仕事を任されていたアガーフィヤは、レーヴィン家でやってきたことは、変改《へんかい》などできるはずがないと思いこんでいたので、ほかにしようがありませんと強情はって、結局、やまももや苺《いちご》に水をさしてしまった。それが露見したために、今みんなの見ている前で、ジャムを煮ることとなり、アガーフィヤは水なしでもりっぱなジャムができるということを、認めざるを得ない立場におかれたのである。
 アガーフィヤは興奮した情なさそうな顔をして、髪をふり乱したまま、やせた腕を肘《ひじ》までむきだしにして、火鉢の上の大鍋をぐるぐるまわしながら、どうかジャムが焦げついて、うまく煮えませんようにと、心の底から祈り祈り、じっと苺を見つめていた。公爵夫人は、自分が新しい方法でジャムを煮るといった張本人のように思われており、アガーフィヤの怒りを一身に浴びているのを感じたので、ほかのことに忙しくて、苺などには興味がない、といったような顔をしながら、よそごとを話していたが、それでも時おり、火鉢の方を横目にちらちらながめていた。
「わたしはね、家の女中たちの着物は、いつも見切場《みきりば》で買うことにしているんですよ」と公爵夫人は、しかけた話をつづけながらいった。「もうそろそろ、泡をしゃくわなくってもいいかえ、ばあや?」アガーフィヤの方へ向きながら、彼女はつけ足した。「お前が手を出すことなんか、まるで要らないことですよ。おまけに暑いし」と彼女はキチイをおしとめた。
「あたし、しますわ」とドリイはいって、立ちあがり、泡立っている砂糖を、そっと匙《さじ》で掻きまわしはじめた。時どき、匙についた泡を落すために、皿の縁《ふち》をこつこつたたいた。皿はもう黄や、バラや、色さまざまな泡におおわれ、その下からは、血のような色をしたシロップが、流れ出していた。
『あれたちはどんなに喜んで、これをお茶の時になめることだろう!』と彼女は、自分の子供たちのことを考えた。自分も子供の時分、どうして大人は一番おいしい泡を食べないのだろうと、ふしぎがったことを、思い出したのである。
「スチーヴァは、お金をやるのが一番いいっていうんですの」奉公人に祝儀をやるのは、どうしたら一番いいかという、先ほどからはじめられていた興味ある話題をつづけながら、ドリイはこういった。「でも……」
「お金なんて、どうしてそんなことが!」と公爵夫人とキチイが、異口同音にいいだした。「女中たちは着物のほうを喜びますよ」
「現にわたしなんか、去年、うちのマトリョーナ・セミョーノヴナに、ポプリンでなく、こんなふうのものを買ってやりましたがね」と公爵夫人はいった。
「覚えていますわ、あれはママの命名日に、あの着物をきていましたわ」
「とてもいい模様――さっぱりしていて、上品で。もしあれが持っていなかったら、わたしもこしらえたいくらいでしたわ。ちょっとヴァーレンカのと似ていますわ。本当にいい柄で、それに安値で」
「さあ、もうどうやらできたようよ」匙からシロップをたらしながら、ドリイがいった。
「たれたシロップが、輪形パンのようなかっこうになれば、それでできてるんですよ。もっとお煮なさい、アガーフィヤ・ミハイロヴナ」
「この蠅!」とアガーフィヤは、怒ったようにいった。「いつまで煮たって、同じことでございますよ」
「あら、かわいいこと、あれをびっくりさせないで!」手摺《てすり》にとまって、木苺《きいちご》の茎をくるりとまわして、ついばみはじめた一羽の雀を見て、キチイが出しぬけにこういった。
「そうね、でも、おまえもっと火鉢のそばを離れるようにおし」と母夫人はいった。
「A propos de Varenka.(ときに、ヴァーレンカのことですけど)」とキチイはフランス語でいった。彼女らは、アガーフィヤにわからないように、ずっとこの言葉で話していたのである。「ねえ、ママ、あたし今日なぜだか決まるのを待ってるんですの。なんのことかおわかりになって? ああ、そうなったら、どんなにいいでしょう!」
「それにしても、あんたはたいした仲人《なこうど》の名人ね?」とドリイがいった。「慎重に、しかもうまく二人を結び合わしてるんですもの……」
「ねえ、ママ、どうお思いになるか、いってちょうだい」
「何をどう思うの? あの人[#「あの人」に傍点]は(あの人というのはコズヌイシェフのことである)、いつだって、ロシヤでも指折りのお嫁さんをもらうことが、おできになったんだからね。今では、もうそれほど若くはないけれど、それにしたって、今でもあの人のとこへ行きたいという人は、ずいぶんあるでしょうよ、そりゃわかっていますよ……あの娘《こ》は本当にいい娘さんだけれど、あの人ならもっと……」
「いいえ、ママ、よく合点してちょうだい。あの二人にとっては、これ以上のことは考えられないくらいよ。第一――あのひとはすばらしいかたなんですもの!」とキチイは、指を一本折りながらいった。
「あの娘《こ》はたいそうあの人の気に入ってますわ、そりゃ確かよ」とドリイが相槌《あいづち》を打った。
「それから、あの人は社会でりっぱな位置を占めてらっしゃるんだから、奥さんの財産だの、社会上の位置なんてものは、まるっきり必要がないんですもの。あの人に入り用なのは、ただ気立てのいい、かわいらしい、おちついた奥さんだけですわ」
「そうね、あのひとといっしょなら、おちついて暮せるわ」とドリイがまた相槌を打つ。
「第三には、奥さんがあの人を愛するってことですけど、それもあるし……つまり、これがまとまったら、本当にいいんだけどねえ! 今にもあの二人が森から出てきて、なにもかも解決がつくのを、あたし待ちこがれているのよ。目つきを見ただけで、あたしすぐわかるわ。もしそうなったら、どんなにうれしいかしれないわ。あなたどう思って、ドリイ?」
「まあ、おまえそうやきもきしないで。おまえは決してやきもきしちゃならないんですよ」と母夫人はいった。
「なにもあたし、やきもきなんかしてやしませんわ、ママ、あたし今日こそ、あの人が申しこみをしそうな気がしてなりませんの」
「ああ、本当にふしぎなものねえ、男の人がいつ、どんなふうに申しこみをするかってことは……何か堰《せき》みたいなものがあって、それがふいに破れるんですもの」物思わしげにほほえみながら、自分とスチーヴァの昔を回想して、ドリイはこういった。
「ママ、お父さまはあなたに、どんなふうに申しこみをなすったの?」と、出しぬけにキチイが問いかけた。
「なんにも変ったことはありませんよ、ごくあたりまえでしたよ」と公爵夫人は答えたが、その顔は思い出のために、ぱっと一面に輝いた。
「だめよ、いったいどんなふうでしたの? とにかく、おたがい同士お話することを許される前に、あなたはパパを愛してらしたんでしょう?」
 女の一生で最も重大なこうした問題について、今は母と同等の立場で話ができるのに、キチイは特殊の魅惑を感じていた。
「そりゃ愛していましたとも。お父さまはわたしの田舎の家へ、よくいらっしゃいました」
「でも、どんなふうにきまったんですの、ママ?」
「おまえは、自分たちが何か新しいことを考え出したつもりなんだろう? ところが、いつだって同じことなのよ。なにもかも、目つきや笑顔できまったのさ……」
「まあ、うまいことをおっしゃいましたのね、ママ? 本当に目つきと笑顔ですわ」とドリイが相槌を打った。
「でも、パパはどんなことをおっしゃって?」
「じゃ、コスチャはおまえにどんなことをいったの?」
「あの人はチョークで書いたんですの。そりゃすてきでしたわ……あれは、ずいぶん昔のことみたいな気がしますわ!」と彼女はいった。
 こうして、三人の女は同じことを、じっと考えこんでしまった。キチイが最初に沈黙を破った。彼女はあの結婚前の冬の一部始終と、自分がヴロンスキイに打ちこんでいたことを、ふと思い出したのである。
「ただ一つ問題があるんですの……それはヴァーレンカの昔の恋なんですけど!」自然の連想でこのことを思い起して、キチイはそういった。「あたし、いつかこのことを、セルゲイ・イヴァーノヴィッチに話して、その心がまえをしていただこうと思っていますの。男の人ってみんな」と彼女はつけ足した。「あたしたちの過去にたいして、恐ろしく嫉妬ぶかいんですもの」
「みながみなじゃないわ」とドリイがいった。「それは、あんた、自分の旦那さまから推してそう思うだけよ。あの人は今だに、ヴロンスキイのことを思い出して、悩んでいるのでしょう。ね? 本当でしょう?」
「本当よ」とキチイは物思わしげに、目だけで笑いながら答えた。
「ただわたし、わからないことがある」と公爵夫人は、母親の立場から試みた娘に関する観察を擁護しながら、こう言葉をはさんだ。「いったいおまえのどんな過去で、あの人は気をもんでいるのだろう? ヴロンスキイがおまえのあとを追いまわしたことかえ? そんなことは、どんな娘にだってありますよ」
「そう、でも、あたしたちがいってるのは、そんなことじゃないんですの」とキチイは顔を赤らめていった。
「いいえ、も少しいわせておくれ」と母はつづけた。「それに、おまえはヴロンスキイとの話し合いを、わたしにさせてくれなかったじゃないの。覚えておいでだろう?」
「ああ、ママ!」とキチイは苦痛の表情でいった。
「今では、おまえたちをおさえることができないんだからねえ……おまえとあの人の交際は、きまった線より先へ出るわけにいかなかったんですよ。わたし自分であの人を呼びつけて、そういってやりたかったんだけど。もっとも、おまえは興奮しちゃいけないんですよ、キチイ、お願いだから、そのことを覚えていて、気をおちつけておくれ」
「あたし、ちっとも興奮しちゃいませんわ、ママ」
「でも、あの時アンナが来てくれたのは、キチイにとってなんてしあわせだったでしょう」とドリイがいった。「そして、あの人にとっては、なんて不幸だったでしょう。今じゃこのとおり、あべこべになってしまいましたもの」われとわが想念にぎょっとして、彼女はつけ加えた。「あの時アンナはあれほどしあわせで、キチイのほうが自分のことを不幸だと思っていたのに、まるっきり反対になってしまいましたわ! わたくし、よくあのひとのことを考えるんですの」
「まあ、考える人は、もっとありそうなものだのに。あんな薄情な、けがらわしい、いやな女のことなんか」キチイがヴロンスキイでなく、レーヴィンと結婚したことを忘れかねている母夫人は、こういった。
「そんな話をするなんて、いい物好きだわ」とキチイはいまいましそうにいった。「あたし、そんなことを考えないわ、それに考えたくもないわ……考えたくもないわ」テラスの階段を昇ってくる、聞き慣れた良人の足音に耳を傾けながら、彼女はそういった。
「そりゃなんのことだね、考えたくもないって?」テラスへ入りながら、レーヴィンはたずねた。
 が、だれもそれに答えなかった。で、彼は問いをくりかえさなかった。
「みなさんの女人王国を撹乱《こうらん》して申しわけありません」と彼は不満げに一同を見まわして、こういった。みんなが何かしら、自分の前ではいいかねる話をしていたことを、察したのである。
 ちょっと一瞬、彼はアガーフィヤに同感した。苺を水なしで煮ていることや、一般にこの家に縁のないシチェルバーツキイ家の影響が浸みこんでくることに対して、不満を感じたのである。彼はやっと笑ったが、それでもキチイのそばへよった。
「え、どうだね?」いまキチイにたいする時、だれもが見せるような表情で妻をながめながら、彼はまたこうたずねた。
「なんでもありませんの、いい気持よ」とキチイはほほえみながら答えた。「あなたのほうはいかが?」
「旧式の荷車の三倍もよけいに運搬できるよ。じゃ、子供たちを迎えに出かけるかね? 僕は馬車の用意をいいつけておいたが」
「まあ、おまえはキチイを馬車に乗せて行くつもりなの?」と母夫人は非難の語調でいった。
「しかし、ゆっくりやりますから、公爵夫人」
 レーヴィンはふつう婿《むこ》がいうように、公爵夫人のことを一度も『お母さん』といったことがない。で、それが公爵夫人にはおもしろくなかった。しかし、レーヴィンは公爵夫人を心から愛し、尊敬しているにもかかわらず、亡き母に対する愛慕の情をけがすことなしには、夫人をお母さんと呼ぶことができなかった。
「いっしょにいらっしゃらない、ママ?」とキチイはいった。
「わたし、そういう無分別なまねを見たくありません」
「じゃ、あたし歩いて行きますわ、だって、あたし体のぐあいがとてもいいんですもの」キチイは立ちあがり、良人に近よって、その手をとった。
「体のぐあいがいいからって、ほどほどというものがありますからね」と公爵夫人はいった。
「ときに、どうだね、アガーフィヤ・ミハイロヴナ、ジャムはできたかね?」アガーフィヤの心をひき出してやろうと思って、にこにこ笑いかけながら、レーヴィンはこういった。「新しいやりかたでうまくいったかい?」
「きっとよろしいでございましょう。わたくしどものやりかたで申しますと、煮過ぎでございますがね」
「そのほうがいいのよ、アガーフィヤ・ミハイロヴナ、腐らなくって。だって、家じゃ氷がみんな溶けてしまって、しまっておくところがないんだものね」すぐ良人の意向をさとって、同じ気持で老婆に話しかけながら、キチイはそういった。「そのかわり、おまえの漬物は大したもので、お母さまなんかも、ほかであんなのは食べられないと、おっしゃってますわ」と彼女は微笑を浮べて、老婆の肩掛をなおしてやりながら、つけ加えるのであった。
 アガーフィヤは怒ったような目つきで、キチイを見やった。
「そんなに慰めていただかなくても、けっこうでございますよ、奥さま。わたしは、あなたさまがこの人といっしょにいらっしゃるところを見ただけで、うれしいのでございますから」と彼女はいったが、旦那さまでなくこの人[#「この人」に傍点]といったぞんざいな言葉づかいが、かえってキチイを感動さしたのである。
「あたしたちといっしょに茸狩りにいかない? 場所を教えてもらいたいわ」
 アガーフィヤはにっこり笑って、首をふったが、それはちょうど、『あなたには腹をたてようと思っても、それができませんね』とでもいうようであった。
「どうぞ、わたしのいうようにしてちょうだい」と老公爵夫人はいった。「ジャムの上に紙をかぶせて、ラム酒でしめしておくの。そうすると、氷はなくっても、決して黴《かび》がこないから」

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

 キチイは、良人とさしむかいになれたのが、特にうれしかった。というのは、彼がテラスへ入って来た時、何を話していたかとたずねたのに、だれも返事をしなかったため、なんでもすぐ敏感に反映する彼の顔に、悲しみの影が走ったのに、気がついたからである。
 二人がほかのものより一足さきに出て、裸麦の穂や穀粒のいっぱいちらばっている、埃《ほこり》っぽい、平坦な街道へぶらぶらとさしかかり、邸が見えなくなった時、彼女は前よりもしっかり良人の腕によりかかって、自分の方へひきしめた。彼はもうつかのまの不快な印象を忘れてしまった。今は妻の妊娠を思う心が、ひとときも頭を去らないので、愛する女とただ二人相接していても、肉感的な気持を全く超越した、彼にとって新しい、純な、喜ばしい快感を覚えるのであった。何も話すことはなかったが、妻の声の響きが聞きたかった。こんど妊娠してからというもの、彼女の声は、そのまなざしと同様、変ってきたのである。その声には、まなざしとおなじく、柔らかみとまじめさがあった。それは、たえず一つの好きな仕事に気持を集中さしている人に、よく見られるようなものであった。
「そんなふうにして疲れやしない? もっとよりかかりなさいよ」と彼はいった。
「いいえ、大丈夫。あたしこうして差し向かいになれて、本当にうれしいわ。そして、正直なところ、あたしみんなといっしょに暮すのも楽しいけれど、冬のあいだいつも二人きりですごした晩がなつかしいわ」
「あれもよかったけれど、これのほうがもっといいんだよ。どっちもいいよ」妻の腕をしめつけながら彼はいった。
「ねえ、あなたが入ってらした時、あたしたちがなんの話をしていたか、ごぞんじ?」
「ジャムの話?」
「ええ、ジャムの話もしていましたけど、そのあとで、結婚の申しこみのしかたの話になりましたの」
「ああ!」とレーヴィンはいったが、妻の言葉よりも、声の響きに耳を傾けていた。そして、たえず道のことばかり考えていた。道はいま森に入ったので、妻が足を踏みそこないそうなところを、迂回《うかい》するのであった。
「それから、セルゲイ・イヴァーノヴィッチとヴァーレンカのことも。あなた気がおつきになって……あたしそうなればいいと、しんから望んでいますのよ」と彼女はつづけた。「あなた、このことをどうお思いになって?」そういって、彼女は良人の顔をのぞきこんだ。
「どう思ったらいいかわからないね」とレーヴィンはほほえみながら答えた。「セルゲイはその点で、僕にはとてもふしぎに思われるんだよ。ほら、おまえに話して聞かせたことがあるだろう」
「ええ、ある娘さんに心から恋してらしたところ、その娘さんが亡くなったとか……」
「それは、僕がまだ子供だった時のことなんだね、僕は人の話で知っただけなんだ。だが、あの当時の兄を覚えているが、そりゃ驚くほど美しい人だったよ。しかし、それ以来、兄の女性に対する態度を観察しているのだが、なかなか愛想がよくって、ときには気に入った女もあるのだけれど、それは兄にとって、ただの人間というまでのことであって、女じゃない、といったような気がするよ」
「そう、でも、今度のヴァーレンカとのあいだには……何かありそうよ……」
「そりゃあるかも知れない……しかし、それについては、あの人をよく知っておく必要があるね……あれは一種特別な、驚嘆すべき人物なんだよ。あの人は、精神生活ばかりで生きているのだ。あれはあまりにも純潔な、高邁《こうまい》な精神をもった人なんだよ」
「え? いったい恋愛はあの人の値うちを落すとでもおっしゃるの?」
「いや、そうじゃない。だが、兄は精神生活だけで生きるのに慣れて、現実と妥協することができないんだよ。ところが、ヴァーレンカは、なんといっても、現実だからね」
 レーヴィンもいまではもう大胆に、自分の思想を述べることに慣れてきたので、思想に正確な言葉の衣《きぬ》をかぶせようなどと努力しなかった。今のような愛情にみちたときには、妻が自分のいおうと思うことを、ただの暗示で悟ってくれるということを、彼は承知していた。と果して、彼女はちゃんと悟ったのである。
「そうね、でも、あのひとには、あたしほど現実性はなくってよ。あたしにはちゃんとわかっていますけど、兄さんは決してあたしなんかに恋をなさらないわ。ところが、あのひとは、どこからどこまでも、精神的なんですもの」
「うん、しかし、兄はおまえをとても愛しているよ。そして、僕の身内がおまえを愛してくれるってことは、僕にとっていつでも愉快なんだ……」
「ええ、兄さんはあたしに親切にして下さいますわ、でも……」
「でも、死んだニコライ兄さんほどじゃない……おまえとあの兄さんとは、おたがい同士に愛し合っていたからな」とレーヴィンは最後までいってしまった。「いや、いってはならないって法はない!」と彼はつけ加えた。「僕は時どき、自分で自分を責めるんだよ。とどのつまり、忘れてしまうに相違ないと思ってね。ああ、あれはなんという恐ろしい、しかもりっぱな人間だったろう……ときに、僕らはなんの話をしていたっけね?」しばらく無言の後、レーヴィンはこういった。
「じゃ、あなたは、あのかたに恋はできないとお考えですの?」とキチイは、自分の言葉に翻訳しながらたずねた。
「恋ができないというわけじゃないが」とレーヴィンは微笑しながらいった。「兄には、そのために必要な弱さがないんだよ……僕はいつも兄をうらやんでいたが、こんなに幸福になった今でさえ、やっぱりうらやましい」
「恋ができないってことが、うらやましいんですの?」
「兄が僕よりすぐれてるのがうらやましいんだ」とレーヴィンは相変らず、微笑しながら答えた。「兄は自分のために生きてるのと違うからね。兄の全生活は義務に捧げられている。だから、おちついて満足していられるのだ」
「じゃ、あんたは?」とキチイは、からかうような、愛情にみちた微笑を浮べながら、問い返した。
 彼女は、自分に微笑を浮べさした思想の径路を、なんとしても言葉に現わすことができなかったに相違ない。しかし、最後の結論は、兄に随喜渇仰して、おのれをおとしめている良人は、けっきょく、真摯《しんし》でないということである。キチイにはよくわかっていた――この不誠実の[#「不誠実の」はママ]よって起る原因は、兄にたいする愛と、自分があまりにも幸福なのに良心がとがめるのと、別して、たえずつきまとっている自己完成の希望なのである。彼女は良人のそういうところが好きなので、そのために微笑したのである。
「でも、あんたは? いったいなにがご不満ですの?」依然たる微笑を浮べたまま、彼女はこうきいた。
 妻が自分の不満を信じてくれないのが、彼にはうれしかった。で、彼は無意識に、妻が信じないわけをいうようにしむけた。
「僕は幸福だけれど、自分自身[#「自分自身」は底本では「自分自分」]に不満なんだ……」といった。
「だって、幸福なのに不満だって、どうしてそんなことになれますの?」
「さあ、なんてったらいいかなあ?………心のほうでいえば、お前が今にもつまずかないようにというよりほか、なんの望みもないのだが……あっ、そんなにとびあがったら、だめじゃないか!」妻が径《みち》に横たわっている枝をまたごうとして、あまり急激な動作をしたので、それをとがめるために話が中断した。「ところが、自分のことを頭で批判して、他人と較べ出すと、別してあの兄と較べ出すと、自分はだめだと感じるのさ」
「いったいどこがだめなんですの?」依然たる微笑を浮べたまま、キチイはつづけた。「あんただって同じように、他人のために尽してらっしゃるじゃありませんの? あの農舎だって、農場だって、著述だって……」
「いや、僕はこう感じるね、特に今はなおさら――おまえのせいなんだよ」と彼は妻の腕をぐっと締めて、こういった。「そういうことがみんな本当でないのは。僕はなにもかもいいかげんに、お義理でやってるだけだ。もしああいう仕事を、お前を愛するのと同じように愛していたら……ところが、近ごろはまるで宿題でもやるように、しぶしぶなんだからなあ」
「まあ、そいじゃパパのことなんかなんとおっしゃるでしょう?」とキチイはたずねた。「じゃ、なんですの、パパもだめなんですの? だって、世の中のためになることを、なんにもしていないんですもの」
「公爵? それは違う。人はおまえのお父さんのような、単純さと、明朗さと、善良性をもたなくちゃならない。ところが、僕に果してそれがあるだろうか? 僕は仕事をしないで煩悶しているが、それというのも、みんなおまえのせいだよ。まだおまえというものがいなくって、まだこれ[#「これ」に傍点]がなかったときには」と彼は妻の腹を、目でさしながらいった。彼女はその意味を察した。「僕は全力を仕事にそそいでいたが、今はもうそれができない。そこで良心がとがめるんだよ。僕は全く宿題をやるように、しぶしぶやっているんだ、みずから偽ってるんだ……」
「じゃ、今すぐセルゲイ・イヴァーノヴィッチと、入れ代りになりたいとお思いになって?」と、キチイはいった。「あの人のように、その社会的な仕事をして、宿題を愛する、ただそれだけがお望みですの?」
「もちろん、望みやしないさ」とレーヴィンは答えた。「もっとも、僕はあまり幸福すぎて、何がなんだかわからなくなったよ。じゃ、おまえはきょう兄が申しこみをすると思うんだね?」しばらく無言の後、彼はこうつけ足した。
「そうも思ったり、そうじゃないと思ったり。ただあたし、そうあってほしいと、一生懸命に願ってるんですの。ああ、ちょっと待ってちょうだい」彼女は身をかがめて、道ばたに咲いている野生のカミツレの花を摘み取った。「さあ、勘定してちょうだい、申しこみをするかしないか」と彼女は良人に花を渡しながらいった。
「する、しない」細長い、真白な、まんなかに筋のついている花瓣をむしりながら、レーヴィンは一ひらごとにこういった。
「だめよ! だめよ!」良人の指の動きを、わくわくしながら見まもっていたキチイは、急にその手をつかんでおし止めた。「あんた二枚いちどきにちぎってよ」
「やあ、そのかわり、このちっちゃいのは勘定に入らないことにしよう」育ち切らない短い花瓣をむしりながら、レーヴィンはそういった。「おや、馬車が追っついたよ」
「キチイ、おまえくたびれやしないかえ?」と公爵夫人が叫んだ。
「いいえ、ちっとも」
「なんならお乗りよ、もし馬がおとなしかったら、そしてゆっくりいかせれば」
 しかし、乗るもの[#「乗るもの」は底本では「乗るがもの」]はなかった。もうすぐそこまで来ていたので、一同は歩いて先へ進んだ。

[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]

 黒い髪を白い布で縛ったヴァーレンカは、子供たちにとり囲まれて、優しく楽しげにそのせわを焼いていたが、好きな男と意中を打ち明け合うようなことになるかもしれないと思うと、よそ目にもそれと知れるほど興奮していたので、ひとしお魅力を増していた。コズヌイシェフは、彼女と並んで歩きながら、たえずその様子に見とれていた。彼女の顔を見、彼女のいった優しい言葉や、彼女について知ったいっさいの美点を思い起すと、彼はいよいよ、自分のいだいている感情は何か特別なものであって、ずっと遠い昔、まだ青春の時代にたった一度だけ経験した感情と同じであると、意識せざるをえなかった。彼女に近く接している喜びの情は、しだいしだいにつのってきて、あげくのはてには、自分の見つけた茸――脚の細い、ぐるりのまくれこんだ、大きな白樺茸を、彼女の籠に入れようとして、ふとその顔をのぞいたとき、喜ばしげな、同時におびえたような紅《くれない》の色が、さっと彼女の顔一面に散るのを見て、彼は自分でもどぎまぎしてしまい、無言のままにっこり笑って見せたが、その微笑は、あまりにも多くのことを語ったのである。
『そういうことなら』と彼は心の中でいった。『おれはよく考えて、決心しなくちゃならない。子供のように、一時の迷いに身を任すべきじゃない』
「今度は一つ、みんなから離れて、自分で茸を捜《さが》しに行きますよ、そうしないと、私の獲物がいっこう目立ちませんからね」と彼はいい、今までみんな打ち揃って、まばらに立った古い白樺の間を縫いながら、絹糸のような低い草を踏んで歩いていた森のふちから、奥の方をさして、一人でさっさと歩き出した。そこで、白樺の白い幹のあいだから、泥楊《どろやなぎ》の灰色の幹や、どす黒い胡桃《くるみ》の茂みが見えていた。百歩ばかり離れて、バラ色のまじった赤い穂花が、今を盛りと咲いている、まゆみの茂みの陰へ入ると、コズヌイシェフは、もうだれにも見られまいと思って、歩みをとめた。あたりはひっそりと静まり返っていた。ただ頭上の白樺の梢で、蜜蜂のむれに似たおびただしい蠅が、ひっきりなしに唸っているのと、時おり遠くの方から、子供たちの声が聞えてくるばかりであった。突然、ほど遠からぬ森のはずれで、グリーシャを呼ぶヴァーレンカのコントラルトが響いた。と、さも喜ばしげな微笑が、コズヌイシェフの顔に浮んだ。この微笑を意識すると、コズヌイシェフは自分の心の状態を、さも困ったものだというように頭をふり、葉巻をとりだして、吸いにかかった。彼は白樺の幹にマッチをこすりつけたが、長いこと火がつかなかった。しなやかな白樺の薄皮が、燐に巻きついて、火が消えてしまうのであった。ようやく一本のマッチが燃えついた。やがて香りのよい葉巻の煙が、ゆらゆら揺れる幅の広い布のように、灌木の上や、しだれた白樺の枝の下を縫いながら、前へ前へ、上へ上へと流れはじめた。煙の流れを目で追いながら、コズヌイシェフはゆっくり歩みを運んで、自分の心の状態を考察するのであった。
『どうしてそれがいけないんだ?』と彼は考えた。『もしこれが一時の燃焼とか、ただの情欲とかいうものだったら――もしおれがこの思慕を、相互的思慕を(おれはあえて相互的ということができる)ただそれのみを経験しているとしたら、それはおれの生活ぜんたいの傾向に背馳《はいち》するものだと、直感しなければならないはずだ。もしおれがこの思慕の情に身をまかせることによって、自分の使命や義務にそむくと感じたら……しかし、そんなことはない。ただこれに対する反対の論拠として挙げうるのは、おれがマリイをうしなった時、生涯、彼女の記憶に貞節を守ろうと誓った、あの事実だけだ。これだけは、今の感情に対する反対論証として挙げることができる……これは重大なことだぞ』とコズヌイシェフはひとりごちたが、同時に、この考量は自分一個人にとっては、なんらの重要性も有しえないと感じた。ただ他人の目から見て、彼の詩的な役割がそこなわれる、というくらいのことである。『それ以外には、いくらさがしてみても、おれは自分の感情を否定する反対論を、見つけることはできない。もしおれが理性だけで選択したら、これ以上のものは何一つ発見できないだろう!』
 自分の知っている婦人や令嬢を、いくら思い出しても、冷静に判断して、自分の妻に望ましい資質を残りなく、全く残りなく、あれだけの程度に具備している娘は、一人として思い浮べることができなかった。彼女は青春の美とみずみずしさを、完全に備えているが、それかといって子供ではない。もし彼女が自分を愛しているとすれば、それは意識的な愛であって、一箇の女性として、かくありたい愛し方である。これがまず一つとして、次には、彼女は社交性から遠いばかりでなく、社交界に対して嫌悪の念すらいだいているが、それと同時に、社交界を知りぬいていて、上流婦人としての礼儀作法をすべて身につけている。これがなくては、コズヌイシェフの生活|伴侶《はんりょ》などということは、考えることもできないのである。第三としては、彼女は宗教的な女であるが、たとえばキチイなどのように、子供らしく無意識に宗教的で、善良なのとは違って、彼女の生活は宗教的信念に基礎を置いている。きわめてささやかな点にいたるまで、コズヌイシェフは妻として望ましいいっさいのものを、彼女の中に見いだしたのである。彼女は貧しく孤独な身の上だから、キチイの場合に見らるるごとく、うようよと身内のものをひき入れて、実家《さと》の影響を良人の家へ及ぼすような心配はなく、すべての点で良人を徳とするであろう。これも彼が未来の家庭生活のために、常に望んでいたところである。しかも、いっさいの資質を備えた娘が、自分を愛しているのだ。彼は謙遜な男ではあったけれども、それを認めないわけにいかなかった。また彼のほうでも、彼女を愛している。ただ一つ不利な点は、彼の年齢であった。しかし、彼の系統は長命のほうで、彼自身、一本の白髪もなく、だれが見ても、四十以上とは思えなかった。それに、ヴァーレンカもそういった――五十の人を老人扱いにするのはロシヤだけで、フランスでは五十の人は 〔dans la force de l'a^ge〕(男ざかり)で、四十の人は un jeune homme(青年)と心得ている、と。そのことも記憶に残っている。しかし、当の彼が二十年前のように、若々しい心をもっていると感じているのに、年の勘定などが何になろう? いま彼のいだいている感じこそ、はたして青春ではなかろうか?
 彼が別の方からまた森のはずれへ出たとき、斜陽の明るい光線の中に、黄色い服を着て、籠を手に持ち、軽い足どりで白樺の老木のそばを通りすぎるヴァーレンカの優美な姿を認めた。ヴァーレンカの姿のこの印象は、一面に斜陽の光線を浴びている黄ばみはじめた燕麦畑と、その先の青い遠方《おちかた》に溶けるような、黄色のまじったはるかな古い森の、はっとするほど美しいながめと、一つに溶け合ったのである。彼は感激のとりことなった。もう決心がついたような気がした。茸《きのこ》をとろうとしてしゃがんだばかりのヴァーレンカは、しなやかな動作で立ちあがって、うしろをふり返った。コズヌイシェフは葉巻をすて、断乎たる足どりで、彼女の方へ進んで行った。

[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]

『ヴァルヴァーラ・アンドレエヴナ、私がまだとても若かったころ、自分で女性の理想をつくりました。私はその女性を愛して、もしそれを自分の妻と呼ぶことができたら、さぞ幸福だろうと思いました。私は長い生涯を送ってきましたが、今はじめてあなたのなかに、自分の求めているものを発見しました。私はあなたを愛します、そしてこの手をあなたにさし出します』
 コズヌイシェフは、もうヴァーレンカから十歩の距離まで来たとき、こうひとりごちていた。彼女は膝をついて、グリーシャにとられないように、両手で茸を防ぎながら、幼いマーシャを呼んでいた。
「こっちよ、こっちよ! ちっちゃいのがたくさんあるわ!」持ちまえのかわいい、胸から出るような声で、彼女はこういった。
 近づいてくるコズヌイシェフを見ると、彼女は起きあがろうともしなければ、位置を変えもしなかった。けれど、なにもかもが、コズヌイシェフの耳に、彼女は自分の接近を感じて、それを喜んでいると、ささやくのであった。
「何かお見つけになりまして?」白い布《きれ》の下から、しずかなほほえみを浮べた美しい顔をふりむけながら、彼女はこう問いかけた。
「一つも」とコズヌイシェフはいった。「あなたは?」
 ぐるりをとりまく子供らに気をとられて、彼女は返事をしなかった。
「それから、またこれ、枝のそばにあるの」と彼女は幼いマーシャに、小さな茸をさして見せた。それは、乾いた草をおし分けて出たために、弾力のあるバラ色の笠を横に裂かれていた。マーシャがその茸を、二つの白い部分に割ってとりあげた時ヴァーレンカはやっと立ちあがった。「こうしていると、わたし幼い時分のことを思い出しますわ」コズヌイシェフと並んで、子供のそばを離れながら、彼女はこうつけ足した。
 二人は無言のまま幾足か歩いた。ヴァーレンカは、彼が何かいおうとしているのを、見てとった。それがなんの話かを察して、喜びと恐怖の興奮に、胸のしびれるような思いであった。二人はまた先へ先へと進んで、もうだれにも話を聞かれないところまで来た。が、彼はいつまでも話し出さなかった。ヴァーレンカとしては、黙っているほうがよかった。黙っていたあとのほうが、茸の話をしたあとよりも、二人のいいたいことがきりだしよかったからである。にもかかわらず、ヴァーレンカは自分の意志に反して、ふと口をすべらしたかのように、こんなことをいった。
「じゃ、あなたはなんにもお見つけになりませんでしたの? もっとも、森の中はいつも少ないものですけど」
 コズヌイシェフはほっとため息をついて、なんとも返事をしなかった。彼女が茸のことをいいだしたのが、いまいましかったのである。彼は、幼年時代のことをいいだしたはじめの言葉に、ヴァーレンカをひき戻そうとしたが、まるで同じくおのれの意志にそむくように、しばらく黙っていた後、彼女の最後の言葉にたいして、こんなことをいった。
「私はただこんなことを聞いただけです、白茸はおもに森のはずれにあるんですって。もっとも、私は白茸の見分けがつかないんですがね」
 それからまた幾分かすぎて、二人はさらに子供たちから遠ざかり、完全に二人きりになってしまった。ヴァーレンカの心臓ははげしく動悸《どうき》して、自分でその音が聞えるほどであった。彼女は、自分の顔が赤くなり、蒼くなって、また赤くなるのを感じた。
 シュタール夫人のもとにおかれたあの状態のあとで、コズヌイシェフのような人の妻となるのは、幸福の頂上のように思われた。のみならず、彼女は自分がコズヌイシェフに恋しているものと、信じて疑わなかった。しかも、それが今に決まるに相違ないのだ。彼女は恐ろしかった。男がいいだすのもこわかったし、いわれないのもこわかった。
 今その話をしなければ、もはや二度と機会はこない。コズヌイシェフもそれを感じた。ヴァーレンカの視線も、頬のくれないも、伏せた目も、なにもかも病的な期待を示していた。コズヌイシェフはそれを見てとって、彼女をあわれに思った。今なにもいわないのは、とりもなおさず、彼女を侮辱することになる、そこまで彼は感じた。彼は心の中で、自分の決心を是《ぜ》とするいっさいの論証を、すばやくくりかえしてみた。自分の求婚をいい表わそうと思った言葉も心の中でくりかえした。けれども、そうした言葉のかわりに、なにかしら、ふと頭に浮んだ考えにつられて、彼はこんなことを問いかけた。
「白茸と白樺茸は、どんなところが違うんですか?」
 ヴァーレンカがそれに答えたとき、彼女の唇はふるえた。
「笠はほとんど区別がないのですけれど、脚が違いますの」
 この言葉が口から出ると同時に、彼も彼女も、もうこれでなにもかもお終いになった、いわなければならぬことは、ついにいわれずして終るに相違ない、ということを悟った。それまで頂点に達していた二人の興奮は、だんだんしずまってきた。
「白樺茸の脚は、二日も髭を剃らないブリュネットの頤《あご》みたいですね」とコズヌイシェフは、もう平静な声でいった。
「ええ、ほんとにね」とヴァーレンカは微笑しながら答えた。こうして、二人の散歩の方向は、ひとりでに変った。彼らはしだいに子供たちの方へ近づいて行った。ヴァーレンカは胸の痛みと羞恥を感じたが、同時にほっとしたような気持をも覚えたのである。
 家へ帰って、いっさいの論拠をあらためてみたとき、コズヌイシェフは、自分の判断が誤っていたと結論した。彼はマリイの記憶にそむくことができないのであった。
「静かに、子供たち、静かに」子供の群が喜びの喚声を上げながら、どっと自分たちの方へ飛んで来たとき、レーヴィンは妻をかばうように、その前に立ちはだかって、怒ったような声さえ立てながら、子供たちを叱りつけた。
 子供たちのあとから、コズヌイシェフとヴァーレンカも森を出てきた。キチイは、ヴァーレンカにきいてみる必要さえ感じなかった。二人のおちつきはらった、いくらか恥じしめられたような表情で、彼女は自分の計画が実現しなかったのをさとった。
「え、どうだった?」ふたたび家路をさして帰る途中、良人は彼女にたずねた。
「だめですわ」とキチイはいったが、その話しぶりや微笑が、父親を連想さすのであった。レーヴィンはよくそれに気がついて、満足を覚えたものである。
「どうだめなんだね?」
「こういうふうなんですの」彼女は良人の手をとって、口ヘ持って行き、閉じたまま唇をあてながらいった。「ちょうど僧正の手を接吻するようなぐあいなの」
「どちらがだめなんだね?」
「両方とも。こういうふうでなくちゃいけないのよ……」
「百姓たちが通ってるよ……」
「大丈夫、見えやしなかったわ」