『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」7-16~7-20(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一六[#「一六」は中見出し]

 九時すぎ、老公と、コズヌイシェフと、オブロンスキイは、レーヴィンの部屋に坐って、産婦のことをちょっと話した後、よもやまの物語に移った。レーヴィンはそれを聞きながら、いつともなく過去のこと、今朝までのことを思い出すと同時に、自分のこと、このことのあった昨日までの自分をも思い起した。すると、まるであれ以来、百年もたったような気がした。彼は何かしら、及びもつかない高みへ昇ってしまったような感じで、いま話し合っている人たちを侮辱しないために、しいてその高みから、下界へ降《くだ》っていくのであった。彼は話をしながらも、たえず妻のこと、彼女の現在の状態の詳細、わが子のことなどを考えていた。彼はその息子の存在ということに、自分の考えを慣らそうとつとめていた。結婚して以来、彼にとっては新しい、未知の意義を生じてきた女の世界ぜんたいが、今では彼の観念の中で、ぐっと高くひきあげられてしまい、彼の想像では抱擁することもできないほどであった。昨日のクラブの宴会の話を聞きながら、『あれは今、どうしているんだろう? 寝ついたかしらん? 気分はどんなだろう? 何を考えているかしら? 赤ん坊のドミートリイは泣いているかしら?』などと考えるのであった。ふと話の途中で、何かいいさしにしたまま、彼はおどりあがって、ぷいと部屋を出てしまった。
「あれのとこへ行ってもいいか、だれかいいによこしてくれないか」と公爵はいった。
「承知しました、今すぐ」とレーヴィンは答え、足をとめもせず、そのまま妻の部屋へ行った。
 彼女は眠っていなかった。きたるべき洗礼のことで、ああかこうかと計画を立てながら、母夫人と小さな声で話していた。
 身じまいをし、髪を梳《と》かしてもらって、何か水色の飾りのついたしゃれたナイトキャップをかぶった彼女は、両手を掛蒲団の上に出して、仰向《あおむ》きにねていたが、目で良人を迎えると、その目で彼を自分のほうへひきよせるのであった。それでなくとも晴れやかな彼女の目は、良人が近づくにつれて、いよいよ輝きを増すのであった。その顔には、よく死者に見られるのと同じ、地上的なものからこの世ならぬものへ移る変化が認められたが、しかしそれは永別であり、これは邂逅《かいこう》である。またしても、あの分娩のときと同じ興奮が、彼の胸に迫ってきた。彼女は良人の手をとって、眠れましたかときいた。彼は答えることができなかったので、おのれの弱さを自認しながら、顔をそむけた。
「あたし、とろとろっとしましたのよ、コスチャ!」と彼女はいった。「それで、今あたしとてもいい気持」
 彼女は良人を見上げたが、急にその顔の表情が変った。
「あたしに貸してちょうだい」赤ん坊の泣き声を聞きつけて、彼女はいった。「貸してちょうだい、リザヴェータ・ペトローヴナ、そしてこの人にも見てもらいますから」
「さあ、どうぞ、パパさんに見ていただきましょうね」と産婆は、何かしら赤い、奇妙な、ふるいおののくものをとりあげて、こちらへさしだしながらいった。「ちょっとお待ちあそばせ、その前に身じまいをいたしますからね」といって、リザヴェータ・ペトローヴナは、このふるえおののく赤いものを、ベッドの上において、指だけで持ち上げたり、向きを変えたりしながら、おしめをひろげたり、何かふりかけたり、くるんだりしはじめた。
 レーヴィンはこの小っぽけな、いとも憐れな存在を見ながら、何かしら父親らしい感情のしるしだけでも、自分の内部に見いだそうと、むなしい努力をするのであった。が、彼はただ嫌悪の念を覚えるのみであった。しかし、赤ん坊が裸にされて、サフラン色をした細い細い手や足が、目の前にちらついたとき――やはり一人前に指がついて、おまけに、ほかの指とはちがった形の親指まで見分けられたとき――産婆がそのひくひく動く小さい手を、柔らかいバネのようにおさえつけて、リンネルの初衣《うぶぎ》の中に包もうとしたとき、とつぜん彼は、この小さい生きものにたいする耐え難い憐愍の情と、産婆が粗忽《そこつ》でもしはせぬかという恐怖に襲われて、思わず彼女の手をおさえた。
 リザヴェータ・ペトローヴナは笑いだした。
「ご心配はいりません、ご心配はいりませんよ!」
 赤ん坊の身じまいができて、しゃんとした人形よろしくのかっこうになると、産婆は自分の仕事を誇るかのようにひと揺りして、ちょっとわきのほうへよった。息子のみごとさを、残りなくレーヴィンに見させようというのである。
 キチイも目をはなさず、横目にそちらをながめていた。
「貸してちょうだい、貸して!」と彼女はいい、身を起そうとまでした。
「まあ、あなた、カチェリーナ・アレクサンドロヴナ、いけませんよ、そんなにおうごきになっちゃ! ちょっとお待ちあそばせ、ただ今さしあげますから。今パパさんに、いい男ぶりをごらんに入れますから」
 そういって、リザヴェータ・ペトローヴナは、レーヴィンのほうへ向いて、このぐらぐら揺れながら、初衣《うぶぎ》の中に首を半分かくした、奇妙な赤い生きものを、片手でさしあげて見せた(もう一方の手は、ぐらぐらするうしろ頭を、ただ指でささえているばかりであった)。しかし、そこにはやはり鼻もあれば、横っちょを見ている目もあり、ちゅっちゅっと鳴る唇もあった。
「りっぱな赤ちゃんでございましょう!」と産婆はいった。
 レーヴィンは情なさそうに吐息をついた。このりっぱな赤ちゃんは、ただ嫌悪と憐愍の情を呼び起すばかりであった。それは、彼の予期していたのとは、全然ちがった感情であった。
 産婆が赤ん坊を、慣れない乳房に吸いつかせようと苦心しているあいだ、彼はわきのほうを向いていた。
 とつぜん、笑い声が彼に頭を上げさせた。それは、キチイが笑ったのであった。赤ん坊が乳を吸いたしたのである。
「もうたくさんでございます、たくさんでございます!」と、産婆はいったが、キチイは放そうとしなかった。赤ん坊はその腕の中で寝てしまった。
「さあ、ごらんなさいまし」良人によく見えるように、赤ん坊をくるりとまわしながら、キチイはそういった。小さな年寄りくさい顔が、いっそうくしゃくしゃになったと思うと、赤ん坊はくさめをした。
 レーヴィンは微笑をし、感動の涙をかろうじておさえながら、妻に接吻すると、薄暗い部屋から出て行った。
 彼がこの小さな生きものにたいしていだいた感情は、予期していたのとは全然ちがっていた。この感情の中には、何一つ楽しいものも、喜ばしいものもなかった。それどころか、それは新たな悩ましい恐怖であった。それは、新たに傷つきやすい領域ができた、という意識であった。しかも、この意識ははじめのあいだじつに苦しかった。この頼りない生きものが苦しむようなことはないか、という恐怖があまりにも強かったので、それにまぎれて、赤ん坊がくさめをしたときに経験したふしぎな無意味な喜び、というよりむしろ誇らしい感じには、いっこう気づかずにしまったのである。

[#5字下げ]一七[#「一七」は中見出し]

 オブロンスキイの財政状態は、はなはだかんばしくなかった。
 森を売った金の三分の二は、すでに使いはたされ、残りの三分の一は、一割の利息天引きで、ほとんどぜんぶ商人から取ってしまった。それ以上、商人は金を出そうとしなかった。そのうえ、ドリイがこの冬はじめて頑強に自分の財産権を主張して、森の最後の三分の一にたいする代金受領契約書に、署名することを拒んだから、なおさらであった。俸給はぜんぶ家のほうの費用と、始終たえまのないこまごました借金の支払に消えてしまうので、金というものがてんでなかった。
 それは不快な、ぐあいのわるいことで、オブロンスキイの意見によると、このままつづいてはいけないのであった。その因《よ》って起るところは、彼の考え方によれば、自分のとっている俸給が、あまり少ないからであった。彼の占めている地位は、五年前には、明らかにきわめて有利なものであったが、今となっては、もうそういうわけにはいかない。ペトロフは銀行の頭取を勤めて、一万二千ルーブリ取っているし、スヴェンチーツキイは会社の重役で一万七千ルーブリ、ミーチンは銀行の創立者として、五万ルーブリ取っている。
『きっとおれは居眠りをして、人に忘れられてしまったのだ』とオブロンスキイは肚の中で考えた。で、彼はあたりの情勢に耳を澄まし、目を配りはじめたが、その冬の終りごろ、一つ非常に有利な位置を見つけ出したので、はじめまずモスクワから、伯父や、伯母や、友人たちを通して攻撃を開始したが、機熟したころを見計らって、その春みずから、ペテルブルグへ乗りこんだ。それはこのごろ以前よりずっと多くなった、甘い汁のたっぷり吸える、年収千ルーブリから五万ルーブリまで、いろいろ段階のある地位の一つで、彼がねらったのは、南方鉄道と銀行との合併による、相互信用代理委員会の位置なのである。この位置は、すべて類似の位置と同じく、一人の人間に具備することのむずかしいほど、広汎《こうはん》な知識と活動力を要求した。ところで、そういう資質を具備した人間はいないけれども、不潔白な人間より、潔白な人間がこの位置についたほうが、なんといってもまだましである。オブロンスキイは、力点なしの潔白な人間であったのみならず、力点つきの潔白な人間でもあった。それは、モスクワ人が潔白な活動家、潔白な作家、潔白な雑誌、潔白な会社、潔白な方向、などというときに、この言葉がもつ特殊な意味においてである。それは、人間なり会社なりが、不潔白でないということを意味するばかりでなく、場合によっては、政府にちくりと針を刺すだけの働きがある、という意味なのである。オブロンスキイはモスクワで、この言葉の用いられている社会に生活し、その社会で潔白な人間と見なされていたので、ほかのもの以上、その位置にたいする権利をもっていたわけである。
 この位置は、七千ルーブリから一万ルーブリの年収を与えるし、それにオブロンスキイは官職を退くことなしに、その位置を占めることができるのであった。これを獲得できるかどうかは、二つの省と、一人の貴婦人と、二人のユダヤ人によって決定されるのであった。これらの人々には、もう渡りがつけてあったけれども、オブロンスキイはじきじき、ペテルブルグでみんなに会っておく必要があった。のみならず、オブロンスキイは離婚問題で、カレーニンからきっぱりした返事をもらってやると、妹のアンナに約束していた。そこで、ドリイに頼んで五十ルーブリもらうと、彼はペテルブルグへ向けて発《た》って行った。
 カレーニンの書斎に腰かけて、ロシヤの財政不振の原因を論じた意見書を聞きながら、オブロンスキイは、自分の用件とアンナのことをきりだそうと、朗読の終る時をひたすら待っていた。
「そう、そりゃ実際そのとおりだ」もうこれなしでは字を読むことのできなくなった鼻眼鏡をはずして、カレーニンが旧《もと》の義兄を疑問の表情でながめたとき、オブロンスキイはこういった。「そりゃ細部に関しては実に正鵠《せいこう》をうがっているが、しかしそれにしても、現代の原則は自由ということだから」
「さよう、しかし私は、自由の原則を包括《ほうかつ》する別の原則を提唱するものだ」『包括する』という言葉に力を入れて、カレーニンはこういった。それから、また鼻眼鏡をかけながら、そのことを述べてある場所を、読んで聞かせにかかった。
 まわりを大きく空けて、きれいに書いた原稿をめくって、カレーニンはもう一度、説伏力にみちた箇所を朗読した。
「私が保護政策を望まないのは、個々の人の利益のためではなくて、一般の福祉のためなんだ――下層階級のためにも、上流階級のためにも同様にね」鼻眼鏡の上からオブロンスキイを見ながら、彼はそういった。「ところが、彼らは[#「彼らは」に傍点]これが理解できないんだ、彼らは[#「彼らは」に傍点]個人的利益のみに没頭して、美辞麗句をのみ、これ事としているのだ」
 オブロンスキイにはちゃんとわかっていた。カレーニンが彼ら[#「彼ら」に傍点]、すなわち彼の政策を容れないで、ロシヤにとって、大きな悪の原因となった人々が、行なったり考えたりしていることを話しはじめると、その時はもう話が終りに近づいた証拠なのである。そういうわけで、彼は喜んで自由の原則を撤回《てっかい》して、万事カレーニンの説に賛成した。カレーニンは物思わしげに、原稿のページをめくりながら、口をつぐんだ。
「ああ、ときに」とオブロンスキイはいった。「君にお願いがあるんだけれど、いつかポモールスキイに会ったとき、話のついでに、一口そういってもらえないかしらん、僕が南方鉄道相互信用代理委員会に、今度あきのできる位置を非常に希望しているって」オブロンスキイは、この位置のことを夢寐《むび》にも忘れなかったので、その名称もすっかり慣れっこになっていた。で、一口もまちがわずに、すらすらといってのけた。
 カレーニンは、その新しい委員会の仕事がどういうのか、根掘り葉掘り詳しくたずねて、じっと考えこんだ。その委員会の活動に、何か自分の案に牴触《ていしょく》するようなところはないかと、かれこれ思い合わせていたのである。しかし、この新しい機関の活動範囲は、きわめて複雑なものであり、一方、彼の法案はすこぶる広汎な領域にわたるので、即座にこれを判断することができなかった。そこで、彼は鼻眼鏡をはずしながらいった。
「そりゃもういってあげていいが、しかしいったいなんのために、君はその位置を望むんだね?」
「俸給がいいのだ、九千ルーブリまでは出るんだからね。ところで、僕の財政状態といったら……」
「九千ルーブリ」とカレーニンはおうむ返しにいって、眉をひそめた。
 この俸給の大きな数字は、彼にこういうことを思い起させた。この面から見ると、オブロンスキイの望んでいる仕事は、彼の法案の根本意義に正反対なのであった。なぜなら、彼の方針はいつも緊縮に傾いていたからである。
「私は、いつかも覚え書に書いたとおり、現代においてそうした巨額な俸給は、わが国の政治のあやまれる経済的 assiette(状態)の兆候だと思う」
「じゃ、いったい君はどうなればいいというんだね?」とオブロンスキイはいった。「まあ、早い話が、銀行の頭取は一万ルーブリから取っているが、それはつまり、それだけの値うちがあるからだろう。また高級の技師は、二万ルーブリももらっている。なんといったって、生きた仕事だからね!」
「私にいわせれば、俸給は商品に対する代価なんだから、やはり需要供給の法則に従わなくちゃならん。もし俸給額の指定が、この法則からはずれるとだね、たとえば、二人の技師が同じ専門学校を卒業して、二人とも同じくらい学問と才能があるのに、一人は四万ルーブリからもらって、もう一人は二千ルーブリで満足しなくちゃならん、というような場合だね。さもなくば、銀行の頭取に法律家とか、軽騎兵とか、特殊な専門知識をこれっぽっちももっていない連中を任命して、莫大な俸給を与えるとすればだね、俸給は需要供給の法則によらずして、情実によったものだと結論しなくちゃならん。そこには、それ自身としても重大であると同時に、国政にも有害な影響を与える職権濫用が存するので、私が思うのには……」
 オブロンスキイは急いで、義弟の言葉をさえぎった。
「そりゃそうだが、しかし君もわかっているとおり、こんど新設される委員会は、まぎれもない有益な施設なんだからね。なんといったって、生きた仕事だよ! 特に、仕事を潔白に運用していくことが大事とされているのだ」とオブロンスキイは力点をつけていった。
 しかし、潔白[#「潔白」に傍点]という言葉のモスクワ的な意味は、カレーニンに通じなかった。
「潔白は単に消極的な資質にすぎないよ」と彼はいった。
「しかし、とにかく」とオブロンスキイはいった。「ポモールスキイにひと言いってくれたら、僕は大いに恩に着るよ。ちょっと、話のついでにさ」
「しかし、このことでは、ボルガーリノフのほうが主役だと思うが」とカレーニンはいった。
「ボルガーリノフのほうは、もうすっかり承知しているのだ」とオブロンスキイは、顔を赤くしながらいった。
 ボルガーリノフの名が出たとき、オブロンスキイが赤くなったのは、ほかでもない、彼は今朝このユダヤ人のボルガーリノフのところへ行ったところ、この訪問が彼に不快な記憶を残したからである。
 オブロンスキイは、自分の奉仕しようとしている仕事が、新しい、生きた、潔白な仕事であることを、固く信じきっていたのだが、今朝ボルガーリノフが、疑いもなく故意に彼を二時間も、ほかの請願者といっしょに応接室に待たしたとき、彼は急にばつが悪くなってきた。
 彼がばつの悪い思いをしたのは、リューリックの遠孫である彼オブロンスキイ公爵が、ユダヤ人の応接室で二時間も待たされたということか、それとも生れてはじめて、祖先の例に従って国家に勤務しないで、新しい舞台に乗り出そうとしていることか、いずれにしても、彼はひどくばつが悪かった。ボルガーリノフのところで待たされたこの二時間のあいだ、オブロンスキイは元気よく応接室を歩きまわったり、頬髯《ほおひげ》をひねったり、ほかの請願者と話したり、自分がユダヤ人のところで待たされたことについて、あとで人に聞かせるために地口《じぐち》を考えたりしながら、彼は自分のいだいている感情を、他人はもちろん、自分自身にさえ隠そうと一生懸命であった。
 にもかかわらず、彼はその間ずっとばつが悪く、いまいましかった。しかも、われながらなんのためかわからないのである。地口を考え出そうとしたが、『猶太人《ジュウ》に用事があって、十分くさった』といったようなことより、何一つうまい考えが出なかったせいか、それとも、何かほかに原因があったのだろうか。ところで、ようやくボルガーリノフが面会して、明らかに相手の屈辱を勝ち誇るような態度で、くそ丁寧に扱いながらも、ほとんど拒絶同様の返事をしたとき、オブロンスキイは一刻も早くそのことを忘れてしまおうとした。で、今もそれを思い出すやいなや、赤面したわけである。

[#5字下げ]一八[#「一八」は中見出し]

「ところで、僕はもう一つ用事があるんだよ、君も察していると思うが……アンナのことなんだ」しばらく無言の後、このいやな記憶を払い落しながら、オブロンスキイはいいだした。
 オブロンスキイがアンナの名を口に出すが早いか、カレーニンの顔は見る間に一変した。先ほどまでの生きいきした表情にひき変えて、疲れて死んだような色が浮んできた。
「いったいどういうご用ですかね?」廻転椅子をくるりとまわして、鼻眼鏡をサックにしまいながら、彼はこういった。
「解決なんだよ、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、なんらかの解決だ。いま僕は君を」オブロンスキイは、『侮辱されたる良人としてでなく』といいかけたが、それでは事をこわしてしまうおそれがあると考えて、こういう言葉にかえた。「国家的人物としてでなく(しかし、これはとってつけたようであった)ただ一箇の人間として、善良な人間として、キリスト教徒として頼むのだ。君はあれを憐んでやらなくちゃならない」と彼はいった。
「といって、いったいなにを憐むんだね?」とカレーニンは小さな声でいった。
「つまり、あれを憐むんだよ。もし君が僕のように、始終あれに会っていたら――僕は冬中ずっとあれといっしょにすごしたんだが――君もあれをかわいそうと思ったに相違ない。あれの境遇は恐ろしいものだ、全く恐ろしいものだ」
「私の見るところでは」とカレーニンはさらに細い、ほとんどきいきい声で答えた。「アンナ・アルカージエヴナは、自分の望んだすべてのものを得たように思われるが」
「ああ、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、お願いだから、お互に罪を問い合うようなことは、やめようじゃないか! すんだことはすんだことだからね。あれが何を望み、何を待っているかは、君もわかっているだろう――つまり離婚だ」
「しかし、私の考えでは、アンナ・アルカージエヴナは、私が息子を置いていくように要求したら、離婚は断念するということだったが。私はそのとおりの返事をしたので、この話もそれで終ったものと思っていた。私はこの話は終りを告げたものとみなします」とカレーニンはきいきい声でいった。
「いや、お願いだから、興奮しないで」とオブロンスキイは、義弟の膝にさわりながらいった。「事件は終りを告げちゃいない。くどいようだが、もう一度いわせてもらうと、こういうことなんだよ。君たち二人が別れた時、君は男として、できうる限り寛大な態度をとって、あれになにもかも、自由も、そして離婚さえも与えてくれた。あれはそれをありがたく感じた……いや、君、妙に思わないでくれ、全くありがたく感じたんだよ。あまり感激しすぎたものだから、はじめは君にたいするおのれの罪を感じて、いろいろなことをとっくり考えなかった。考えることができなかったのだ。あれはなにもかも辞退してしまった。しかし、現実が、時《タイム》が証明したのだ、自分の境遇が苦しい、やりきれないものだってことを」
「アンナ・アルカージエヴナの生活は、私にとってなんの興味もありえません」カレーニンは眉を上げながら、さえぎった。
「失礼ながら、僕はそれを信じない」とオブロンスキイはもの柔らかにいい返した。「あれの境遇は、あれにとって苦しいばかりでなく、それがだれにとっても、なんの役にも立たないんだからね。それは身から出た錆《さび》だ、と君はいうだろう。そりゃあれも自分で承知しているので、君にお願いしているわけじゃない。あれは自分ではっきりと、あの人に何かお願いするなんて、そんなずうずうしいことはできない、といっているくらいだ。しかし、僕が、われわれ肉親が、おれを愛してるみなのものが、君にお願いする、懇願するよ。なんのためにあれは苦しんでいるのだ? それがためにいったいだれが得をするのだろう?」
「失敬だが、君は私を被告の立場においてるようだね」とカレーニンは口をきった。
「いや、決して、決して、これっぱかりも、君ひとつ合点してくれたまえ」またもや彼の手にさわりながら、オブロンスキイはこういった。それはまるで、こうして彼の体にさわるということが、義弟の心を和《やわ》らげると、確信しているもののようであった。「僕はただ、あれの境遇が苦しいものであるが、それは君によって救われる、しかも君はそのために何一つ失うことはない、とただそれだけのことがいいたいのだ。僕がすっかりうまくやって、君が気もつかないようにしてみせるよ。だって、君は約束したんじゃないか」
「その約束は前にしたので、私の考えでは、息子の問題がこの件を決定したものだと思う。のみならず、アンナ・アルカージエヴナも、寛大な気持をもってくれそうなものだと、私もそれをあてにしていたんだが」とカレーニンは真蒼になり、わなわなふるえる唇で、やっとこれだけのことをいった。
「あれのほうでこそ、いっさいを君の寛大心にゆだねているんだよ。あれが願っているのは、懇願しているのは、たった一つ――現在おかれているやりきれない境遇から救い出してほしいということだ。あれはもう、子供を渡してくれとはいっていないよ、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、君は優しい人だから、ほんのいっとき、あれの身になってくれたまえ。あれのような境遇におかれていると、離婚の問題は生死の問題だからね。もし君が前に約束しなかったら、あれも自分の境遇をあきらめて、田舎に住んでいたかもしれないが、なにしろ君の約束があるものだから、あれも君に手紙を出して、モスクワへ引き移ってきたわけだ。ところが、モスクワではだれか人に会うたびに、心臓に刀を刺されるような気がするんだが、そのモスクワにもう六ヵ月もすごして、毎日毎日解決を待っているんだからね。それは、なんのことはない。死刑を宣告された人間の首に縄をつけたまま、もしかしたら殺すかもしれぬが、またひょっとしたら赦免《しゃめん》にするかもしれぬといって、何ヵ月も何ヵ月も置いておくようなものだよ。あれに憐みをたれてやってくれたまえ、あとは僕がひき受けて、なにもかもうまくまとめるから…… Vos scrupules(君の懸念は)……」
「私はそんなことをいってるんじゃない、そんなことを……」とカレーニンは、さもけがらわしそうにさえぎった。「しかし、あるいは、私は約束する権利のないことを、約束したかもしれない」
「じゃ、君はいったん約束したことを拒否するのかね?」
「私はかつて一度も、なしうることを実行するのを拒否なんかしたことがない。しかし、あの約束したことがどの程度まで可能かどうか、すこし時間の余裕がほしいね」
「いや、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ」とオブロンスキイは、おどりあがっていいだした。「僕はそんなことを信じたくない! あれは女として想像しうる限りの、不幸な身の上なんだよ。君は拒絶する権利がないよ、それしきの……」
「どの程度まで約束したことが可能かどうか。〔Vous professez d'e^tre un libre penseur,〕(君はみずから自由思想家と公言しておられる)が、私は信仰をもつ人間として、こういう重大な件について、キリスト教の掟にそむくような行動はとれない」
「しかし、キリスト教の社会でも、わがロシヤでも、僕の知っているかぎりでは、離婚は許されている」とオブロンスキイはいった。「離婚はロシヤの教会でも許されている。現にわれわれは……」
「許されてはいるが、そういう意味ではない」
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、それは君とも思われない」しばらく黙っていて、オブロンスキイはこういった。「ほかならぬキリスト教徒の感情に動かされて、いっさいを赦し、すべてを犠牲に供する覚悟をしたのは、いったい君じゃなかったのかね?(また僕らもそれに敬服したのじゃなかったかね?)現に君は自分の口から、下衣を取るものに上衣を与えよう、といったじゃないか。それなのに、今は……」
「お願いです」ふいにすっくと立ちあがり、真蒼な顔をして、頤《あご》をがたかたふるわせながら、カレーニンはきいきい声でこういいだした。「お願いです、やめて下さい、やめて下さい……その話は」
「ああ、いけない! もし君をいやな気持にさしたのなら、堪忍してくれたまえ、どうか堪忍してくれたまえ」とオブロンスキイは片手をさしのべて、どぎまぎしたように、微笑しながらいった。「僕はただ使者として、頼まれたことを伝えただけなんだからね」
 カレーニンも自分の手を出して、じっと考えこんだが、やがて口をきった。
「私はよく熟考して、指示を求めなけりゃなりません。明後日きっぱりした返事をしましょう」と彼はなにやら考え合わせた様子でこういった。

[#5字下げ]一九[#「一九」は中見出し]

 オブロンスキイがもう帰ろうとしたとき、コルネイが来て取り次いだ。
「セルゲイ・アレクセエヴィッチでございます!」
「セルゲイ・アレクセエヴィッチて、いったいだれだね?」とオブロンスキイはいいかけたが、すぐ思い出した。
「ああ、セリョージャか!」と彼はいった。『セルゲイ・アレクセエヴィッチなんて、どこかの局長かと思った。ちょうどアンナも、会って来てくれと頼んでたっけ』と彼は思い出した。
 と同時に、アンナが自分を送り出しながら、『とにかく、あの子に会うでしょう。いまどこにいて、だれがついているか、よくきいてちょうだいね。そしてね、スチーヴァ……もしもできたら! だって、できるでしょう?』といったときの、臆病らしいみじめな表情を思い出した。オブロンスキイは、この『もしもできたら』が何を意味するかを悟った。それは、もしできたら、子供をこちらへもらえるように離婚の話をまとめてくれ……というのであった。今となってみると、そんなことは考えるまでもない、ということがわかっていたが、それでもオブロンスキイは、甥《おい》に会えたのがうれしかった。
 カレーニンは義兄に向って、息子には決して母親の話をしないことになっているから、ひと口もいわないようにしてくれと頼んだ。
「あの子は母親に会ったあとで、ひどい病気にかかったんですよ、われわれがついうっかりしていたものだから」とカレーニンはいった。「みんな、命さえどうかと心配したくらいだが、合理的な治療と夏の海水浴で、やっと健康をとりもどしたわけです。今度も私は医師のすすめで、あの子を学校へやることにしました。するとはたして、友だちの影響があれによくきいて、今ではすっかり丈夫になってね、勉強もよくできますよ」
「よう、りっぱな若者になったね! なるほど、これじゃセリョージャじゃなくて、まさしくセルゲイ・アレクセエヴィッチだ!」青い上衣に長ズボンをはいて、元気よく、らいらくに入って来た、美しい、肩幅の広い少年を見ると、オブロンスキイはにこにこしながらいった。少年は健康そうな、快活らしい様子をしていた。彼は他人のつもりで伯父《おじ》にあいさつしたが、ふと気がつくと、顔を赤らめ、何か侮辱でもされたように、腹だたしげにくるりとそっぽを向いた。少年は父のそばへよって、学校からもらってきた通信簿を渡した。
「うむ、これなら人並みだ」と父はいった。「もう行ってよろしい」
「あの子は少しやせて、背が高くなったね。もう子供じゃなくて少年だ。僕はあんなのが好きさ」とオブロンスキイはいった。「どうだね、私を覚えているかね?」
 少年はちらと父をふり返った。
「覚えています、mon oncle(伯父さん)」と彼は伯父を見あげて答えたが、また目を伏せてしまった。
 伯父は少年を呼びよせて、その手をとった。
「え、どうだね、何をしてる?」いろいろ話をしたいと思いながら、何をいったらいいかがわからなくて、彼はそういった。
 少年は顔を赤らめ、返事をしないで、自分の手をそっと伯父の手からひきぬこうとした。オブロンスキイがその手を放すやいなや、彼は放たれた小鳥のように、物問いたげに父の顔を見ると、足早に部屋を出てしまった。
 セリョージャが最後に母を見てから一年たった。それ以来、彼は一度も母のことを聞かなかった。その年に彼は学校へ入れられ、友だちというものを知り、彼らを愛した。あの再会のあとで、彼を病気にした母に関する空想や思い出は、今ではもう彼の心を占めなくなった。そういうものが頭にうかんでくるときは、男の子であり学生である自分にとって恥ずかしい、女々《めめ》しいものとして、追い払うようにした。彼は、父と母のあいだに争いがあって、そのために二人は別れたのだ、ということを知っていた。父親といっしょに残るのが自分の運命であると承知して、その考えに慣れようとつとめた。
 母親に似た伯父を見ると、彼はいやな気がした。それは、かの恥ずべきものと考えている思い出を、呼び起したからである。そのうえ、書斎の戸口で待ちながら、小耳にはさんだ言葉から推しても、ことに、父親と伯父の顔つきから判断しても、二人のあいだには、母の話がかわされていたに相違ないと察したので、彼はなお不快であった。自分といっしょに暮していて、自分に命令権をもっている父を非難したくないのと、わけても卑しいものと信じている感傷にとらわれないために、セリョージャは、自分の平静を乱しに来たこの伯父を見ないように、またこの伯父の思い出させたことを考えないようにつとめた。
 しかし、あとから出て来たオブロンスキイが、階段の上で彼を見つけて、そばへ呼びよせ、学校では放課時間に何をしているかときいたとき、セリョージャは父がいないために、伯父と話しこんだ。
「僕らはこのごろ鉄道ごっこをしてるんです」と彼は伯父の問いに答えていった。「それはね、こうするんです。二人がベンチの上に坐って、お客になるんです。一人はベンチの上に立って、みんなつながるんです。手と手をつないでもいいし、バンドを持ってもいいんです。こうして、部屋中を駆けだすんです。戸はみんな前から開けておくんです。ところが、その中でも車掌になるのが、とてもむずかしいんですよ!」
「それは立ってるのかい?」とオブロンスキイは、ほほえみながらきいた。
「ええ、そりゃ勇気がいるし、はしっこくなくちゃいけないんです。急にとまったり、だれか落っこちたりしたときなんかなおさらね」
「うん、そりゃなまやさしいことじゃないね」今はもう子供らしくなく、ぜんぜん無邪気といえない、母親似の生きいきした目を、淋しい気持で見入りながら、オブロンスキイはそういった。カレーニンには、アンナのことをいわないと約束したにもかかわらず、彼はつい辛抱しきれなくなって、
「おまえお母さんを覚えているかね?」とふいにたずねた。
「いえ、覚えちゃいません」とセリョージャは早口に答えたと思うと、紫色に見えるほど赤くなって、目を伏せてしまった。もうそれ以上、伯父は何一つききだすことができなかった。
 三十分ばかりたった時、スラヴ人の家庭教師が、自分の教え子を階段の上で見つけたが、すねているのか泣いているのか、わからなかった。
「どうしたんです、きっと倒れたときにどこか打ったんでしょう?」と家庭教師はいった。「だから、あの遊戯は危いといったんですよ。校長先生に申しあげなくちゃなりませんね」
「もし打ったからって、だれにも見つかるようなことはしやしませんよ。本当ですとも」
「じゃ、いったいどうしたんです?」
「うっちゃっといてちょうだい!………覚えていたっていなくたって……あんな人のかまったことじゃありゃしない! 僕がなんのために覚えているんだ? どうかかまわないでおいてください!」と彼はいったが、それは家庭教師ではなく、全世界にむかっていったのである。

[#5字下げ]二〇[#「二〇」は中見出し]

 オブロンスキイはいつものごとく、ペテルブルグでもむだに時をすごしはしなかった。ペテルブルグでは、妹の離婚と就職運動という仕事のほか、彼のいわゆるモスクワのかびくさい臭いを、洗い落す必要があった。
 モスクワは、カフェ・シャンタンや乗合馬車があるとはいっても、やっぱりよどんだ沼であった。それは、オブロンスキイの常に感じるところであった。しばらくモスクワにいて、ことに家族のそばに暮していたために、彼は意気|沮喪《そそう》したのを自分で感じた。長いこと、どこへも出ずにモスクワに暮していると、彼はとどのつまり、妻のふきげんや口小言、子供たちの健康や教育、自分の勤務上のこせこせした興味などで、神経衰弱になりそうになるのであった。それのみか、借金をかかえているということさえ、気になってくる。ところが、ペテルブルグへやって来て、自分の仲間のサークルでしばらく暮すと、たちまちそうした物思いも、火の前の蝋のように溶けてしまった。そこはモスクワと違って、人々は無意味な生存をつづけているのでなく、生活している、人間らしい生活をしている。
 妻とは何か?……つい今日も彼は、チェチェンスキイ公爵と話したことである。チェチェンスキイ公爵には妻も家族もある――貴族幼年学校に入っているもう一人前の子供たちがある。にもかかわらず、一方には別の正式でない家庭があって、そこにも子供たちがいる。第一の家庭もりっぱなものではあるけれども、チェチェンスキイ公爵は、第二の家庭にいるときのほうが、より多く幸福なのである。彼は長男を第二の家庭へつれて行って、それをわが子の知情を発達させる有益なことと考えている、などとオブロンスキイに話したが、もしこれがモスクワだったら、人がなんというだろう?
 子供たちは?………ペテルブルグでは、子供たちは父親の生活のじゃまをしない。子供はそれぞれ学校で教育を授けられていて、モスクワのように、子供たちにはありったけぜいたくな生活をさして、両親はただ働いて苦労するのが本当だなどという、このごろはやりの、たとえばリヴォフの主張するような、むちゃな考え方は存在しない。ここでは、人はすべて教養ある人間として当然しかるべきように、自分自身のために生きなければならぬ、ということをちゃんと理解している。
 では、勤務は?……勤務もここでは、モスクワのように末の見こみのない、根気一点ばりの労役ではない。ここでは勤務にうまみがある。えらい人に邂逅《かいこう》して、何かとサービスをしたり、気のきいたことをいったり、いろいろとおもしろいことを仕方話《しかたばなし》で、巧みにやって見せたりすると――ブリャンツェフのように、思いがけない出世ができる。この人には、オブロンスキイも昨日出会ったが、今では一流の政治家である。こういう勤務にはうまみがある。
 とりわけ、金銭上の事柄に関するペテルブルグ人の見方は、オブロンスキイの心をおちつかせるような働きがあった。バルトニャンスキイは、その|暮し振り《トラン》からみて、少なくとも年五万ルーブリは使っているに相違ないが、昨日この問題について、彼におもしろいことをいった。
 食事の前、オブロンスキイは話に脂《あぶら》がのって、バルトニャンスキイにこんなことをいった。
「君はたしか、モルドヴィンスキイと懇意にしているはずだね。どうか僕のためにひと肌ぬいで、あの男にたったひと言口添えしてくれないか。じつは、僕の坐りたい椅子があるんだ。南方鉄道……」
「いや、どうせ僕は忘れてしまうよ……しかし、君もいい物好きだね、ユダヤ人どもといっしょに、あんな鉄道事業に首をつっこむなんて……君がなんといったって、やっぱりけがらわしいこったよ」
 オブロンスキイは、これは生きた仕事だとはいわなかった。バルトニャンスキイには、そんなことをいっても、わからないに違いない。
「しかし、金がいるんだよ、生活していけないんだもの」
「だって、現に生活しているじゃないか?」
「そりゃ生活はしているが、借金でさ」
「え、なんだって? たくさんあるのかい?」とバルトニャンスキイは、同情の色を浮べてたずねた。
「ああ、うんとあるんだ、二万ルーブリから」
 バルトニャンスキイは、おもしろそうにからからと笑った。
「いやはや、しあわせものだよ!」と彼はいった。「僕なんか百五十万から借金を背負って、なんにもありゃしないけれど、ごらんのとおり、それでも生きていけるよ!」
 オブロンスキイは口先ばかりでなく、実際それが本当なのを見せられた。ジヴァーホフは三十万の借金があって、懐には一コペイカもないくせに、ちゃんと生活している、しかもその生活ぶりといったら! クリフツォフ伯爵は、とっくに社会から葬られた身でありながら、女を二人も囲っている。ペトローフスキイは、五百万ルーブリの金を蕩尽《とうじん》した男であるが、いまだに依然たる生活をつづけているのみか、大蔵省に勤めて、二万ルーブリの年俸をもらっている。しかし、そればかりでなく、ペテルブルグはオブロンスキイに、肉体的にも快い作用を及ぼした。つまり、若返らすのであった。モスクワでは、彼はどうかすると白髪を見つけたり、食後に居眠りをしたり、伸びをしたり、重々しい息をつきながら、ゆっくりゆっくり階段を昇ったりして、若い女を相手にしても退屈し、舞踏会でも踊らなかった。ところが、ペテルブルグへくると、いつも骨の髄から、十も若返るような気がするのであった。
 彼がペテルブルグで経験する気持は、外国から帰ったばかりの六十歳になるオブロンスキイ老公爵が、ついきのう彼に話したのと同じであった。
「われわれはここでは、生活のしかたを知らないのだ」とピョートル・オブロンスキイはいった。「君は本当にするかどうか知らんが、わしは、バーデンでひと夏すごしたが、いや、全く、すっかり若返ったような気持になったよ。若いきれいな女を見ても、すぐあじな気になるし……ちょっと食事をしても、一杯やっても、力がわいて、元気が起ってくるんだからな。ところが、ロシヤヘ帰ってくると、女房のところへは行かにゃならん、それからまた田舎へも行く用事があったりして、いや、全くのところ、二週間もたつと、もう部屋衣なんか着こんでしまって、食事のときも着替えをしなくなってしまう。若い女のことを考えるどころか、すっかり爺くさくなってしまって、もう後生願いをせんばかりのありさまだ。これでまたパリあたりへ行けば、またとり戻せるだろうがな」
 オブロンスキイも、このピョートル老公爵と全く同じ相違を感じた。モスクワではすっかり箍《たが》がゆるんでしまって、もしその調子で長くつづけたら、それこそ万が一、後生願いをしはじめないとも限らない。が、ペテルブルグへくると、またりっぱに一人前の男だ、という気持になる。
 ベッチイ・トヴェルスカヤ公爵夫人と、オブロンスキイのあいだには、久しい以前から、はなはだ奇妙な関係が存在していた。オブロンスキイはいつも冗談半分に、夫人の尻を追いまわして、同じく冗談半分に、思いきってぶしつけなことを口に出した。それが何よりも、夫人の御意に入るのを知っていたからである。カレーニンと話し合った翌日、オブロンスキイは夫人の家へよったところ、すっかり若返った気持になって、この冗談半分のごきげんとりとでたらめぐちに、ついうかうかと深入りしてしまい、のっぴきならぬ羽目になってしまった。しかも、ふしあわせなことには、彼は夫人が好いたらしいどころか、いやでたまらなかったのである。そういうわけで、ミャーフカヤ公爵夫人がやって来て、このさしむかいにけりをつけてくれたので、もう大喜びであった。
「ああ、あなたもお見えになっていらしたのねえ」とミャーフカヤ夫人は、彼を見ていった。「ときに、あのお気の毒なお妹さんはどうしていらっしゃいます? あなたそんなふうに、わたしをごらんにならないで下さいましよ」と彼女はつけ足した。「みんな世間の人が――あのひとより百倍も劣るような人たちが、みんながかりで、あのひとの攻撃をはじめましたけれど、わたしはあのひとのしたことを、りっぱだと思っていますわ。あのひとがペテルブルグへ来たとき、ヴロンスキイがわたしに知らせてくれなかったので、けしからんと思っておりますよ。わたし、あのひとを訪ねて行って、どこへでもいっしょにおしまわったんですがねえ。どうか、わたしが変らぬ愛情をもっているってことを、お妹さんに伝えて下さいましな。さあ、あのひとのことを話して聞かせてちょうだい」
「いや、あれの境遇は苦しいものです、あれは……」『あのひとのことを話して聞かせてちょうだい』というミャーフカヤ公爵夫人の言葉を、持ちまえの単純な心から真《ま》に受けて、オブロンスキイは物語をはじめようとした。ミャーフカヤ夫人はいつものでんで、すぐにそれをさえぎって、自分のほうから話しはじめた。
「あのひとは、わたしを除けて、みんなのしていることをしたまでですが、ただ隠さなかっただけのことです。あのひとは嘘をつきたくなかったので、それこそりっぱなやりかたですわ。それよりいっそうよかったのは、あの半気ちがいの義弟《ボー・フレール》([#割り注]カレーニン[#割り注終わり])を棄てなすったことですよ。どうか失礼ごめん。みんなはあの人のことを、賢い、賢い、っていってましたが、ただわたしだけはばかだっていってましたよ。ところが、今度リジヤ・イヴァーノヴナと、ランドーと結びついたのを見て、みんなあの人のことを、半気ちがいだといいだしたんですよ。わたしも、みんなのいうことに同意したくないんですけど、今度ばかりはそういうわけにいきませんの」
「ああ、一つ私に事情を話して下さいませんか」とオブロンスキイはいった。「いったいこれはどういうことでしょう? きのう私は妹のことで、あの男を訪ねて行って、きっぱりした返事を聞かせてくれといったところ、返事はしないで、少し考えるからということでした。ところが、今朝、返事のかわりに、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナのところへこい、という招待が届いたのです」
「ああ、そうですよ、そうですよ!」とミャーフカヤ夫人は、さもうれしそうにいった。「あの二人は、ランドーのご託宣を聞くんですよ」
「え、ランドーですって? なんのために? そのランドーって何者です?」
「まあ、あなたはジュール・ランドーをごぞんじないんですの? Le fameux Jules Landau, le clairvoyant?(あの有名な千里眼のジュール・ランドーを?)これもやっぱり半気ちがいですがね、あなたの妹さんの運命は、この男次第なんですよ。あなたがなんにもごぞんじないのも、みんな田舎暮しのせいですよ。じつはねえ、このランドーというのは、パリのある商店の手代だったんですが、あるときお医者さまのところへ行きましてね、そのお医者さまの待合室でつい居眠りをしたんですの。その夢の中で、一人一人の患者に療法を教えはじめたじゃありませんか。それがふしぎにあたるんですの。その後、ユーリイ・メレジンスキイ――ごぞんじでしょう。あの病気している?――の奥さんが、このランドーのことを聞いて、ご主人のとこへひっぱって来て、治療をさせたと思《おぼ》しめせ。わたしにいわせると、いっこうなんの験《しるし》もありゃしません。だって、あの人は相変らず、ひ弱そうな様子をしているんですもの。ところが、あのご夫婦はすっかり信用してしまって、あの男を方々ひっぱりまわしましてね、とうとうロシヤヘつれて帰ったわけですの。すると、ここの人がみんなどっとおしかけましてね、そこでランドーがみんなを治療しはじめたわけですの。ベッズーボヴァ伯爵夫人は、あの男に病気を癒《なお》してもらったために、すっかりほれこんでしまって、とうとう養子になすったくらいですの」
「どうして養子にしたんです?」
「どうしてもこうしてもありません、ただ養子にしたんですよ。あの男は今もうランドーじゃなくって、ベッズーボフ伯爵なんですの。しかし、それはどうでもいいことでしてね、リジヤが――わたしはあのひとが大好きなんですけど、でも頭がまともについていないんですわ――そのリジヤがね、あたり前の話ですけど、あのランドーに打ちこんで、今ではあのひとも、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチも、あの男なしじゃ何一つ決められないんですの。ですから、あなたの妹さんの運命も、今じゃそのランドー、一名ベッズーボフ伯爵の手に握られてる、というわけなんですの」