『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」5-21~5-25(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]二一[#「二一」は中見出し]

 カレーニンは、ベッチイやオブロンスキイとの話から、人が自分から求めているのは、妻を解放して、自分の存在で彼女を悩ませないようにすることであり、また妻自身もそれを望んでいることを知って以来、すっかりとほうにくれた気持になり、何一つ自分で決定することもできなければ、いま自分が何を望んでいるのかもわからなかった。で、大満悦で彼の事件にたずさわる人々の手にすべてを任せきって、何をきかれても同意の返事をするばかりであった。ただアンナが彼の家から出て後、イギリス女の家庭教師が小間使をよこして、これからいっしょに食事をしてもいいか、それとも別々にしようかとたずねたとき、彼ははじめて自分の立場をはっきりと見て、思わず愕然としたのである。
 この立場に立って、何よりもつらいのは、自分の過去と現在とをつなぎあわせて、融和させることができない点であった。それは、妻と幸福に暮していた過去が彼の心を乱した、というわけでもない。その過去から、妻の不貞を知るにいたった転機は、すでに苦しみながら体験してしまった。この状態はつらいにはつらかったけれども、彼には理解ができていた。もしあのとき、妻が自分の不貞を告げるとともに、彼のもとを去ってしまっていたら、彼は悲観し、不幸に陥ったに相違なかろうが、それでも今のように、われながら合点のいかぬ絶体絶命の境遇には、落ちなかったであろう。今の彼は、つい先ほどの赦罪、感激、病める妻と仇し男の子供にたいする愛を、現在の状態と――すなわち、それらいっさいの報いででもあるかのように、顔に泥を塗られ、物笑いとなり、だれにも用のない、すべての人に軽蔑されるような人間になったという事実と、融和させることができなかったのである。
 妻が去ってから最初の二日間、カレーニンはいつものごとく、請願者を受けつけたり、事務主任に会ったり、委員会へ出席したり、食堂へ食事に出たりしていた。なんのためにそんなことをするのか、自分でもはっきりわからないままに、彼はこの二日間、ありたけの精神力を緊張させて、平然とした無関心な様子さえ見せようとつとめた。アンナ・アルカージエヴナの荷物や部屋を、なんと始末したものでしょうかという問いにたいして、彼はこの出来事もべつに予想しなかったことでもなければ、飛び離れて異常な椿事《ちんじ》というほどでもない、といったような様子を見せるために、ひと通りならぬ努力をし、またその目的をも達したのである。だれ一人として彼の顔に、絶望の徴候を見いだすことはできなかった。しかし、家出の翌日、アンナが支払いを忘れた雑貨店の勘定書を、コルネイが彼のところへ持ってきて、番頭がそこで待っていると報告したとき、カレーニンは番頭をここへ呼ぶように命じた。
「どうぞおゆるしを願います、閣下、とんだお邪魔を申しあげまして。もし奥さまのほうへというおおせでございましたら、恐れ入りますが、奥さまのおいでになります所番地を、お教えいただきたいもので」
 カレーニンは考えこんだ、と番頭には思われたのである。が、急にくるりとうしろ向きになって、テーブルの前に腰をおろした。両の掌に頭をのせて、彼は長いこと、この姿勢のままであった。幾度か話し出そうとしては、いいよどんだ。
 主人の心を察して、コルネイは番頭に、もういちど出なおしてくるようにいった。また一人きりになると、カレーニンはもうこれ以上、豪毅《ごうき》と沈着の役割を演じる力がないのを自覚した。待たせてある馬車から馬をはずすように命じ、だれにも会わぬからといって、食事のときにも書斎を出なかった。
 彼は世間一般の侮蔑と冷酷の重圧を、もちこたえる力がないと感じた。それは、あの番頭の顔にも、コルネイの顔にも、その他すべてこの二日間に会った人々の顔に、例外なくはっきりと認められた。彼は、人々の憎悪を払いのけることができないと感じた。なぜなら、この憎悪は、彼がわるいからではなく(もしそうなら、彼はよくなるように努力することもできたのである)、彼の不幸が恥さらしな、いまわしいものであるところから生じたためである。つまり、そのために――彼の心がずたずたに引き裂かれているそのために、人々は彼にたいして情容赧[#「情容赧」はママ]がないのである。彼はそれを知っていた。ちょうど犬の群が、責めさいなまれて悲鳴をあげている一匹の犬をいじめ殺すように、人々は自分を破滅させてしまうだろう。彼はそれを感じた。人々からのがれる唯一の方法は、自分の傷口を隠すことであった。で、彼は二日間というもの、無意識にそれを試みたが、今はもはや、この衆寡《しゅうか》敵せぬ戦いをつづける力がないのを痛感した。
 自分はこの悲しみをいだいたまま、全くの一人ぼっちであるという意識は、彼の絶望をひとしお深めたのである。彼の経験しているいっさいのことを打ち明けるような人が、ペテルブルグばかりでなく、どこにも一人としてなかった。高官としてでなく、社会の一員としてでなく、単に苦しめる一箇の人間として彼を憐れむような人、そういう人を彼は一人ももっていなかった。
 カレーニンは孤児として生長した人である。彼は二人兄弟の一人であった。二人とも父親には覚えがなかった。母はカレーニンが十の時に死んだ。財産といっては、些細《ささい》なものであったので、かつて先帝の寵愛を受けていた顕官の伯父カレーニンが、二人を養育していたのである。
 中学と大学を優等で卒業すると、カレーニンは伯父の助けで、はなばなしい官吏生活に入り、それ以来、もっぱら勤務上の栄達に没頭した。中学でも、大学でも、またその後、勤務についてからでも、カレーニンはだれとも、親友らしい関係を結ばなかった。兄だけは、心を許した最も近しい人であったが、外務省に奉職したため、いつも外国で暮していて、カレーニンが結婚してまもなく、同じく外国で死んでしまった。
 彼の県知事時代に、その地方の富裕な貴婦人であったアンナの叔母が、年こそもう若くはないけれど、知事としては若手であったカレーニンに、自分の姪《めい》をひきあわせ、彼としては結婚の意志を打ち明けるか、その町を去るかしなければならぬような羽目にしてしまった。カレーニンは長いこと躊躇した。この一歩を踏み出すについては、そのときこれを是とする理由と、非とする根拠とが、同じ程度に存在していて、疑いのある場合は慎重にという、彼の原則にそむかせるほどの、しっかりした根拠は見いだせなかった。ところが、アンナの叔母は知人を通じて、彼はもう若い娘を不利な立場においてしまったのだから、名誉上の義務として、彼は申しこみをしなければならぬと匂わせた。で、彼は結婚を申しこんで、許婚《いいなずけ》として、また妻としてのアンナに、自分としてできる限りの愛情を捧げたのである。
 彼がアンナにたいしていだいた愛着は、他人と心情的な関係を結ぼうという最後の要求を、彼のこころから追い出してしまった。いま彼の数多い知人の中には、一人として近しい人間がいなかった。いわゆるひき[#「ひき」に傍点]と称するものはたくさんあっても、親友関係はぜんぜんなかった。カレーニンは自宅へ食事に呼んで、自分の関心をいだいている事件に参与を求めたり、請願者にたいする保護を依頼したり、他人の行為や政府の処置について、腹蔵なく論じあったりするような人は、ずいぶんたくさんあったけれども、これらの人々にたいする関係は、習慣やしきたりによって、しっかり決められた一定の範囲に限られていて、そこから出て行くことは、どうしてもできないのであった。一人、大学時代の友だちがあって、この男とは卒業後ちかしくなり、個人的な不幸についても、語りあえる間柄になっていたが、この友だちはいま遠い地方で学務監を勤めている。ペテルブルグにいる人々の中で、もっとも親しくしていて、打明け話のできそうなのは、事務主任と医師であった。
 事務主任のミハイル・ヴァシーリッチ・スリュージンは、気のさっぱりした、聡明な、道義心の強い男で、カレーニンは、この男が自分に個人的な好意をよせているのを感じた。が、五年間の勤務生活は二人の間に、胸を割っての打明け話を不可能にする障碍をおいてしまった。
 カレーニンは書類の署名を終えて、スリュージンをながめながら、長いことおし黙っていた。幾度かいいだそうとしたが、言葉が口から出なかった。彼はもう心の中で、『君は私の不幸を聞いただろうね?』という文句まで用意していたが、けっきょく、いつものとおり「では、君それをやっといてくれるね?」といって、そのままさがらせてしまった。
 もう一人は医者で、これも彼に好感をいだいていた。しかし、彼らのあいだには、とくの昔から黙契《もっけい》があって、お互に仕事が山ほどあるから、二人とも急がなければならぬ、といったような気持が承認されていた。
 女の友だち、わけても、いちばんしたしい伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナのことは、カレーニンはまるで考えなかった。すべての女は、単に女というだけの理由で、彼にとっては恐ろしく、いまわしく思われた。

[#5字下げ]二二[#「二二」は中見出し]

 カレーニンは、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナのことなど忘れていたが、彼女のほうでは彼を忘れはしなかった。この最も苦しい孤独な絶望の時に、彼女はカレーニンを訪ねてきて、取次ぎもなく書斎へ入って来た。入って見ると、彼は前のとおりの姿勢で、両の掌に頭をのせたまま坐っていた。
「〔J'ai force' la consigne〕(わたし、お指図にそむいてまいりました)」早い足どりで入ってきて、興奮と急激な運動のために重々しく息をつきながら、彼女はこういった。「わたしなにもかも聞きましたわ、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ!」両手で彼の手をしっかと握り、美しい物思わしげな目で、相手の目を見入りながら、彼女は言葉をつづけた。
 カレーニンは眉をひそめて立ちあがり、握られた手をはなして、椅子をすすめた。
「どうぞ、奥さん。私はどなたにもお会いしないことにしてるんですよ、私は病気なのでしてね、奥さん」といったが、その唇はふるえだした。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ!」と伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは、相手から目を放さないで、くりかえした。と、ふいにその眉が、目頭の方からつりあがって、額に三角形をつくった。美しからぬ黄色い顔は醜くなった。が、カレーニンは彼女が自分を哀れんで、今にも泣き出しそうになっているのを感じた。と、彼は感激に襲われた。彼は伯爵夫人のふっくらした手をとって、接吻しはじめた。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ!」興奮のあまりとぎれがちの声で、彼女はいった。「あなた、悲しみにお負けになってはいけません。あなたの悲しみは大きなものですけれど、慰めをお見つけにならなくてはなりません」
「私はうちひしがれてしまいました、私は殺されたも同然です、私はもう人間じゃありません!」相手の手を放しはしたものの、涙にみちた目を見まもりつづけながら、カレーニンはそういった。「私の境涯は、どこにも、自分の中にさえ、よりどころを見つけることができない。じつに恐ろしいものなんです」
「あなたはよりどころをお見つけになります、どうかそれをさがして下さい、ただし、わたくしの中にではありませんよ。もっとも、わたくしの友情は信じていただきたいのですけれど」と彼女はため息とともにいった。「あなたのよりどころは愛でございます。キリストがわたくしどもに、約束して下さいました愛でございます。イエスさまの荷は軽うございます」カレーニンにはなじみぶかい、感激にみちた目で、彼女はそういった。「イエスさまはあなたをささえて、助けて下さいます」
 これらの言葉の中には、自分自身の高遠な感情にたいする感動があり、また近ごろペテルブルグにひろまっている、カレーニンにはなくもがなと思われる、新しい神秘的な感激の気分が含まれていたにもかかわらず、今のカレーニンはそれを聞くのが快かった。
「私は弱い人間です。私はこなごなに粉砕されてしまいました。私は何一つ予想していなかったので、今も何一つわかりません」
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ!」とリジヤ・イヴァーノヴナはくりかえした。
「現在なくなっているものの喪失なんて、そんなことをいっているのじゃありません、そんなことじゃありません!」とカレーニンはつづけた。「そんなことに未練はありませんが、私は自分の陥っている境遇のために、世間を恥じずにいられないのです。それはよくないことだけれど、私は恥じずにいられません、いられません」
「ねえ、わたくしばかりでなく、世間の人がみんな感心している、あの気高い赦罪の行いは、あなたがなすったのではなくて、あなたのお心に宿っている神さまが、なすったことでございます」とリジヤ・イヴァーノヴナは、感激の目を空に上げながらいった。「ですから、ご自分の行為をお恥じになるわけはございません」
 カレーニンは顔をしかめて、腕を曲げ、指をぽきぽき鳴らしはじめた。
「私の気持をわかっていただくためには、こまごましたことをすっかり、知っていただかなくちゃならないのです」と彼はかぼそい声でいった。「奥さん、人間の力には限界があるものですが、私も自分の力の限界を知ったのです。私は今日まる一日、自分の新しい孤独な境遇から生じた(彼は生じた[#「生じた」に傍点]という言葉に力を入れた)家に関する雑事で、いろいろ指図をしなければなりませんでした。召使、家庭教師、勘定……そういう小さな火が私を焼くのです、私はやりきれなくなってしまいました。食事の時……昨日なんか、危く食事の途中、出ていきそうになりましたよ。息子に顔を見られるのが、がまんしきれなかったのです! あれは、この出来事の意味をたずねはしませんが、しかし訊きたかったのです。私はその視線をじっと受けていられなかったのです! あの子のほうでも、私を見るのを恐れています。が、そればかりじゃない……」カレーニンは、今日もってこられた勘定書のことをいおうと思ったが、そのまま口をつぐんだ。あの青い紙に書いた、帽子やリボンの勘定は、自分自身に対する哀憐の情なしに、思い起すことができなかった。
「わかりますわ、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ!」とリジヤ・イヴァーノヴナは答えた。「わたくしなにもかもわかりますわ。あなたはわたくしの中に助けや、慰めをお見つけになることはできませんでしょうけれど、それでもわたくしは、できる限り、お力になりたいと思ってまいったのでございます。もしわたくしにそうした、こまごました、ご身分にかかるようなわずらいを、あなたからとりのけることができましたら……本当にわかりますわ、これには女の言葉が、女の指図《さしず》が必要でございます。あなたわたくしにまかせて下さいまして?」
 カレーニンは無言のまま感謝の意をこめて、彼女の手を握った。
「わたくしたち、ごいっしょにセリョージャの世話をいたしましょうね。わたくし、実際上のことは得手《えて》じゃございませんけれど、でもお引き受けします。わたくし、お宅の家政婦になりますわ。お礼なんかおっしゃらないで。それは、わたくしが自分でやるのではありませんから……」
「しかし、お礼をいわずにはいられません」
「でもね、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、ただいまおっしゃったような気持に、お負けになってはいけません。おのれを卑しくするものは高められん、というのはキリスト教の最高の徳ですのに、それを恥ずかしがったりなさらないで。それから、わたくしにお礼をおっしゃってはいけません。どうか神さまに感謝して、ご助力をお願いなさいまし。わたくしどもは神さまの中にだけ、おちつきと、慰めと、救いと、愛を見つけることができるのでございますから」こう言って、彼女は目を空に上げ、カレーニンの察したところでは、祈祷をはじめたらしい。それっきり黙ってしまったからである。
 カレーニンも、今は彼女の言葉を聞いていた。今まで不快に思われていた、というより、あらずもがなと感じられていた表現が、今では自然に聞え、慰めをおびて響いた。カレーニンは、この新しい感激の気分を好まなかった。彼は主として、政治的の意味で宗教に興味をいだく信者だったので、二三新しい解釈をあえてする新宗教は、ほかならぬ論争と解剖の門を開くという意味で、原則として彼には不愉快であった。彼は以前、この新しい教えに冷淡な、否、むしろ敵意ある態度をとっていたので、この教えに熱中している伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナとも議論などせず、彼女のほうからいどんできても、つとめて沈黙によって避けるようにしていた。ところが、今はじめて、彼は夫人の言葉に喜んで耳を傾け、肚《はら》の中でも論駁しなかった。
「私はあなたに深く深く感謝します、してくだすったことに対しても、いってくだすったことに対しても」彼女が祈祷を終った時、彼はこういった。
 リジヤ・イヴァーノヴナはもう一度、親友の両手を握りしめた。
「さあ、これからわたくし仕事にかかりますわ」しばらく無言の後、涙のなごりを顔から拭きとって、にっこり笑いながら、彼女はこういった。「セリョージャのとこへ行って見ましょう。ただ、よくせきの時だけご相談いたしますからね」といって立ちあがり、部屋を出た。
 伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは、セリョージャの部屋へ行って、おびえた少年の双の頬に、涙を浴びせかけながら、お父さまは聖人みたいなかたで、お母さまは死んでおしまいになった、と話して聞かせた。
 リジヤ・イヴァーノヴナは約束を守った。彼女は本当にカレーニンの家政や、整理を一身に引き受けた。しかし、彼女が実際上のことは得手でないといったのは、誇張ではなかった。彼女の指図したことは、どれもこれも変更しなければならなかった。というのは、実行のできないことばかりだったのである。それを変更したのは、カレーニンのおつきになっている従僕頭のコルネイで、今ではだれの目にも立たないように、カレーニン家のいっさいをとりしきって、旦那さまが着替えをなさる時に、おちつきはらって、用心ぶかく、必要なことを報告するのであった。とはいうものの、リジヤ・イヴァーノヴナの助力は、このうえもなく役に立った。それはカレーニンに、精神的な支柱となったからである。それは、彼女が自分を愛し尊敬してくれる、と意識するためでもあったが、ことに彼女が、カレーニンキリスト教にひき入れたためである(彼女はそれを考えると、うれしくてたまらなかった)。しかし、より正確にいえば、彼女は無関心なものぐさい信者であった彼を、最近ペテルブルグでひろまった新解釈のキリスト教の、熱心で確乎不抜《かっこふばつ》な味方にしたのである。カレーニンにとっては、この解釈を確信するのは、ぞうさのないことであった。カレーニンはリジヤ・イヴァーノヴナや、そのほか彼らと見解を同じゅうする人々と同様に、深い想像力をもっていなかったからである。この精神的能力があってこそ、想像によって呼び起された観念が、強い現実性をおびてきて、他の観念および現実との一致を要求するものである。彼は、不信者のために存在する死が、自分のためには存在しないし、また自分は完全無欠な信仰をもっていて、その信仰の度をはかる裁き手は自分自身であるから、もはや自分の魂には罪など存在せず、したがって、自分は早くもこの地上で、完全な救いを得ているというような考え方には、なんら不可能なところも、不合理な点も認めないのであった。
 なるほど、自分の信仰観の浅薄さも誤謬《ごびゅう》性も、カレーニンはおぼろげながら感じていたので、自分の赦罪が至上の力の作用だなどと考えないで、ひたむきにこの感情に身をゆだねていた時のほうが、今のように、自分の魂の中にはキリストが生きているとか、書類に署名するのは神の意志を実行するのだ、などと一分一刻ごとに考えているときよりも、むしろより多くの幸福を体験したのを、自分でも承知していた。しかし、カレーニンにとっては、是が非でもそう考えることが必要であり、今の屈辱的な状態においては、たとえ架空のものであろうとも、一同に軽蔑されている自分が、他人を蔑視しうるような高い立脚地をもつことが必要だったので、彼は自分のあいまいな救いを本物と思って、必死に取りすがっていたのである。

[#5字下げ]二三[#「二三」は中見出し]

 伯爵夫人はごく若い、感激性にみちた娘時分に、裕福で、名門で、善良な、しかし放埒無慚《ほうらつむざん》な陽気者のところへ嫁にやられた。良人はもう二月目に、彼女をすててしまって、彼女が感激性の言葉で愛情を誓うのにたいして、ただ冷笑、というよりむしろ敵意をもってこたえた。伯爵の善良な心を知り、かつ感激家のリジヤに、なんの欠点をも認めることのできなかった人々は、彼のこうした態度を、なんとしても説明することができなかったほどである。それ以来、彼らは離婚こそしなかったけれども、別居生活をつづけていた。良人は妻に出会うたびに、必ずわけのわからない毒々しい冷笑で、彼女を遇するのであった。
 リジヤ・イヴァーノヴナはずっと前から、良人に恋することをやめてしまったが、それ以来しじゅう、だれかかれかに恋しつづけていた。よく一度に何人もの男や、女にほれこむこともあった。彼女は、何かずぬけたところのある人なら、ほとんどだれにでもほれてしまった。彼女は、新しく皇族の列に加わったすべての新しい妃殿下や殿下に、残らず恋をした。ある大僧正、あるイギリス人の牧師、ある司教を恋した。ある雑誌編集者、三人のスラヴ人、それからコミッサーロフを愛した。ある大臣、ある医者、あるイギリスの伝道師、そしてカレーニンを愛した。これらすべての恋は、ときに弱まり、ときにたかまりつつ、同時に、きわめて広範囲にわたる複雑な宮廷関係、社交関係をつづけていくじゃまにならなかった。しかし、カレーニンがあの不幸に見舞われて、とくべつ彼のめんどぅをみるようになって以来、彼女かカレーニンの幸福を心にかけて、その家でひと骨折るようになってこのかた、彼女はこれまでの恋はすべて本物でなく、今はただカレーニン一人に、心からほれこんでいるように感じた。彼女が今カレーニンにたいしていだいている感情は、今までのどれよりも強いように思われた。自分の感情を分析し、それを今までのものと比較した時、彼女ははっきりと見てとった。もしコミッサーロフが皇帝の命を救わなかったら、彼女はこの男に恋しなかったに相違ない。もしスラヴ問題がなかったら、ロスチッチ・クッジーツキイに恋などしなかったろう。ところが、カレーニンにいたっては、彼そのものを愛したのである。彼の高邁《こうまい》にして不可解な魂を、彼女にとって懐かしいかぼそい声を、その引き伸ばすような言葉の抑揚を、その疲れたようなまなざしを、その性格を、血管の浮いた柔らかな白い手を愛したのである。彼女は、彼と会うのを喜んだばかりでなく、自分が相手に与えた印象の現われを、その顔に探るようにさえなった。彼女は単に言葉だけでなく、自分というもの全体が彼の気に入ればいいと念じた。今では、これまでかつてないほど、彼女はカレーニンのために、化粧にうき身をやつすようになった。彼女は時とすると、もし自分が良人のある体でなく、彼が自由の身の上だったらどうだろう、などと空想している自分自身に気がついた。彼が部屋へ入ってくると、彼女はわくわくして真赤になった。もし彼が何か気持のいいことをいうと、彼女は歓喜のほほえみを禁ずることができなかった。
 もうこの四五日というもの、リジヤ・イヴァーノヴナはひどく興奮していた。アンナとヴロンスキイがペテルブルグにいる、という噂を聞いたのである。彼女と顔をあわすことがないように、カレーニンを守らなければならない。それどころか、あの恐ろしい女が彼と同じ町にいて、いつひょっこり顔をあわさぬとも限らないという、悩ましい報知が彼の耳に入らないように、守ってやらなければならない。
 リジヤ・イヴァーノヴナは知人を通して、彼女のいわゆるけがらわしい人たち[#「けがらわしい人たち」に傍点]が、何をしようとしているかを偵察し、この二三日というもの、親友であるカレーニンが彼らに出会わぬよう、その行動を指導することに努力した。彼女は、ヴロンスキイの友だちの若い副官を通じて、いろいろな情報を手に入れていた。この男はまた、リジヤ・イヴァーノヴナを通じ利権を獲得しようと、もくろんでいたので、あの二人は用事をすまして、あくる日は出発することになっている、と夫人に知らせてきた。リジヤ・イヴァーノヴナは、やっと安心しかけたところ、その翌日とどいた手紙の筆蹟《て》を見て、彼女は思わずぎょっとした。それはアンナ・カレーニナの筆蹟だったのである。封筒は、しなの木皮のように厚い紙でできていて、長目な黄色い紙に大きな頭字が打ち出してあった。手紙はえもいわれぬ香りを立てていた。
「だれが持ってきたの?」
「旅館の用たしでございます」
 伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは長いあいだ、腰をおろしたまま、手紙を読むことができなかった。彼女は興奮のあまり、持病の喘息《ぜんそく》を起したほどである。ようやく気持がおちついてから、フランス語で書かれた次のような文言を読んだ。

『Madame la Comtesse(伯爵夫人さま)あなたさまのお心をみたしているキリスト教徒的な感情におすがりして、わたくしはあなたさまにこのような申し訳もない、大胆な手紙をさしあげる次第でございます。わたくしは子供と別れましたために、不幸な身の上になっております。どうか出発前にたった一度、あの子に会わしていただきたく、手を合わせてお願いいたします。わたくしが自分のようなもののことを、あなたさまのご記憶に呼び起したことは、ひらにお赦し下さいまし。わたくしがアレクセイ・アレクサンドロヴィッチでなく、あなたさまにお願いいたしますわけは、わたくしごときもののことを思い起させて、あの寛大なかたを苦しめるに忍びないからでございます。あのかたにたいするあなたさまのご友情を承知しておりますので、あなたさまもわたくしの心持をお察し下さることと存じます。セリョージャをわたくしのとこまで、おつかわし下さいますなり、わたくしがご指定の時刻にあの家へまいりますなり、いたします。またあの家以外のところでしたら、いつ、どこであの子に会えますか、お知らせをいただきたく存じます。わたくしを活《い》かすも殺すもご自由なおんかたさまの、寛大なお心を存じあげておりますので、おことわりのご返事はいただかないものと楽しんでおります。わたくしがどんなにあの子に会いたいと恋いこがれておりますか、あなたさまにはお察しもつかないほどでございます。それゆえ、あなたさまのお助けをどんなにありがたく存じますかも、ご想像がつかないと存じます。
[#地から1字上げ]アンナ』

 この手紙は初めから終りまで、リジヤ・イヴァーノヴナにとっては癇《かん》ざわりであった。内容そのものも、寛大を匂わせる書き方も、ことに妙にざっくばらんな(と彼女には思われた)調子も。
「返事はありません、といっておくれ」とリジヤ・イヴァーノヴナはいい、すぐさま紙ばさみを開いて、カレーニンあての手紙を書いた。今日十二時すぎに、宮中の祝賀式のときお目にかかりたい、というのであった。
『わたくしはある重大な、おもしろからぬことについて、お話し申しあげたいことがございます。場所をどこにするかということは、あちらでご相談いたしましょう、一番よろしいのは、わたくしの宅でございます。あなたの[#「あなたの」に傍点]お茶も用意いたさせますから。ぜひぜひさようお願いします。神さまは十字架をお負わせになりますけれども、また力をも授けて下さいます』ほんの少しでも相手に心がまえをさせるために、彼女はこうつけ加えた。
 伯爵夫人は日に二通か三通、カレーニンあての手紙を書いた。彼女はカレーニンと、こういう形の交際をするのが好きであった。それは直接の接触で得られない優雅さと、秘密めいた感じが含まれるからであった。

[#5字下げ]二四[#「二四」は中見出し]

 祝賀式は終った。退去する人々は、ひょっこり顔をあわしては、その日の新しい出来事――こんど発表された授賞や、高官の異動などを話しあっていた。
「どうでしょう、伯爵夫人マリア・ボリーソヴナを陸軍大臣にして、ヴァトコーフスカヤ公爵夫人を参謀総長にしたら」金モールの大礼服を着たゴマ塩の老人が、今度の異動のことをたずねた背の高い美人の女官に、こんなことをいった。
「じゃ、わたくしを副官にしていただきましょう」と女官は微笑しながらいった。
「あなたのほうはちゃんときまっていますよ。あなたは宗教省のほうです。次官にはカレーニン
「やあ、公爵、ごきげんよう!」そばへよってきた男の手を握りながら、老人はこういった。
「カレーニンのことで、何をいっておられたのです?」と公爵はたずねた。
「あの男とプチャトフが、アレクサンドル・ネーフスキイ勲章をもらいましたよ」
「あの男はもうもらってると思いましたが」
「いや。まあ、ちょっとあの男をごらんなさい」と老人は金モールの帽子でさしながらこういった。大広間の戸口のところには、大礼服の肩から新しい赤い綬《じゅ》をかけたカレーニンが、最高会議の有力な議官の一人と、立ち話をしていた。「まるで新しい銅貨のように、幸福らしく満足しきっておりますな」力士よろしくのりっぱな体格をした美男の侍従と、握手するために歩みをとめながら、彼はそうつけ加えた。
「いや、あの人は少しふけましたよ」と侍従はいった。
「苦労が多いせいですよ。あの男はいま法案ばかり書いておりますからな。先生、なにもかも箇条を追って説明してしまうまでは、あの不運な話し相手を放免しっこなしですよ」
「何がふけたどころですか? Il fait des passions.(あの男は恋をしていますよ)私のにらんだところでは、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは、いまあの男の細君にやきもちを焼いていますよ」
「まあ、なんですって? リジヤ・イヴァーノヴナのことは、どうか悪くおっしゃらないで下さいまし」
「へえ、いったいあのひとがカレーニンにほれこんだのが、悪いことなんですか?」
「本当ですの、カレーニナがここにいるというのは?」
「いや、ここじゃ、宮中じゃありません、ペテルブルグですよ。私は昨日あのひとがアレクセイ・ヴロンスキイと、bras dessus, bras dessous.(互に腕を組み合って)モルスカヤ街を歩いているのに出会いましたよ」
「C'est un homme qui n'a pas……(あのひとはじつに)と侍従はいいかけたが、そこへ皇族の一人が通りかかったので、言葉を止め、道をゆずりながら敬礼をした。
 こうして、人々はたえずカレーニンの噂をして、非難したりあざ笑ったりしていたが、当のカレーニンは、うまくつかまえた最高議官の行く手をふさぐようにしながら、一分もやみまなしにとうとうと弁じたてて、この機をのがすまいとばかりに、自分の財政法案を逐条的《ちくじょうてき》に説明しているのであった。
 妻が家を出ていくとほとんど同時に、カレーニンの身の上には、官吏として最もつらいこと、すなわち昇進の停止ということが、降って湧いたのである。この昇進の望みがなくなったということは既定の事実で、だれもがそれを明瞭に見てとったのであるが、カレーニンはまだ、自分の栄達が終りを告げたことを、自覚しなかった。ストレーモフとの衝突がもとなのか、妻に関する不幸が因をなしたのか、それともただ、カレーニンが運命に予定されていた限度まで到達してしまったのか、とにもかくにも、官吏としての彼の活動が終りを告げたということは、今年に入って、だれの目にも明白になったのである。彼はまだ重要な地位を占めていたし、多くの委員や評議会の一員であるけれども、すでに出しがらになった人間で、だれ一人、何一つ、彼から期待するものがなくなってしまった。何を彼がいっても、何を提議しても、人々はまるで、とくの昔に知れきった、なんの必要もないことをもちだされたような顔をして、聞いていた。にもかかわらず、カレーニンはそれを感じないばかりでなく、かえって直接国政に参加しなくなったため、今では前よりもいっそう明瞭に、他人の仕事の欠点や誤謬が目につくようになり、その是正の方法を示すのが、自分の義務であると考えた。妻と別れてからまもなく、彼は新しい裁判制度に関する第一の覚え書を起草した。それは、彼として執筆を予定されている、だれにも必要のない無数な覚え書の一つで、全体として、国政のあらゆる部門にわたっているのであった。
 カレーニンは、官界における自分の絶望的な地位に気づかず、それを悲観しなかったばかりでなく、むしろ、いつにもまして、自分の活動ぶりに満足していた。
『妻あるものは妻の心に副わんとして、憂き世のことを思いわずらえども、妻なきものは主のみ心に副わんとて、神のことに思いをそそぐ』と使徒パウロはいっているが、今すべてのことについて、聖書を指標としているカレーニンは、よくこの本文を思い起した。彼は妻と別れて以来、この法案の起草によって、前よりもさらに多く、主のために奉仕しているような気がした。
 なんとかして逃げ出そうと、最高議官が目にみえてじりじりしているにもかかわらず、カレーニンはいささかもたじろぐ色がなかった。ようやく皇族の通過を利用して、議官がうまくすべり抜けた時、彼ははじめて説明をやめた。
 一人きりになると、カレーニンは首をたれて、考えをまとめていたが、やがて放心したようにあたりを見まわし、戸口の方をさして歩き出した。そこで、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナに会えそうなものと思ったのである。
『それにしても、あの連中はどうしてあんなに元気で、丈夫なんだろう』香水をつけた頬ひげを右左に分けている、たくましい体格の侍従や、大礼服を着た公爵の赤い頸を、通りすがりに眺めながら、カレーニンはそう考えた。『この世のすべては悪なりとは、よくいったものだ』と彼は侍従の腓《ふくらはぎ》を、もういちど横目に見ながら、肚の中で考えた。
 ゆっくりゆっくり足を運びながら、カレーニンはいつもの疲れたような、気取った態度で、自分の噂をしているこれらの人々に会釈をして、戸口の方をふり返りながら、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナを目でさがすのであった。
「ああ! アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ!」カレーニンが小柄な老人のそばを通りかかって、冷やかな身ぶりで頭を下げた時、老人は意地悪く目を輝かしながらいった。「まだお祝いをいいませんでしたな」と小柄な老人は、彼の新しくもらった綬をさしながらいった。
「ありがとう」とカレーニンは答えた。「今日はなんというすッばらしい[#「すッばらしい」に傍点]天気でしょう」いつもの癖で『すばらしい』という言葉に力を入れながら、彼はつけ加えた。
 みんなが自分を笑っているのは、彼も承知していたが、しかし彼は人々から敵意以外、何ものをも期待していなかった。彼はもうそれに慣れてしまったのである。
 戸口から入ってくる伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナの、コルセットからぬけ出している黄色い肩と、さし招くような美しい物思わしげな目を見ると、カレーニンはいつまでたっても若若しそうな白い歯並みを見せて、にっこり笑い、彼女のそばへよっていった。
 リジヤ・イヴァーノヴナの化粧は、このごろ、彼女の身じまいがいつもそうであるように、彼女として非常な苦心を要したのである。いまや彼女の化粧の目的は、三十年前とはまるで正反対であった。その当時、彼女は何かで自分を飾りたかった。そして、飾れば飾るほどよかったのである。ところが、今はその反対に、彼女はいつも必ず、年や姿に不相応な飾り方をしているので、それらの装飾と容貌との対照が、あまり恐ろしいものにならないよう、ただそればかり注意しなければならなかった。カレーニンに対しては、彼女はまんまと目的を達し、彼の目には魅力のある女に映ったのである。彼女は彼にとって、周囲をとりまいている敵意と嘲笑の海のただなかにある、好意どころか愛情の孤島であった。
 あざけりをおびた視線の中をくぐりながら、彼は光にひかれる植物のように、彼女のほれぼれとしたまなざしへひかれていった。
「おめでとうございます」と目で彼の綬をさしながら、彼女はこういった。
 満足のほほえみをおさえながら、彼は目をふさいで、肩をすくめた。それは、そんなことなど私を喜ばすことはできません、とでもいいたげであった。リジヤ・イヴァーノヴナは、カレーニンが決して自分の口からは白状したことはないけれども、それが彼にとっておもな喜びの一つであることを、よく承知していた。
「わたくしたちの天使《エンゼル》はどうでございます?」とリジヤ・イヴァーノヴナはいった。セリョージャのことなのである。
「私はどうも、あの子に心から満足しているとは申されません」とカレーニンは眉をつり上げ、目を見ひらきながらいった。「それに、シートニコフも不満なのです(シートニコフは、セリョージャの普通教育を託されている教育家であった)。いつかお話したとおり、あの子には一種、冷淡なところがあります、すべての人間、すべての子供の心を、当然動かさなければならないような、もっとも重大な問題に対してですな」勤務以外に、彼が興味をもっている唯一の問題である息子の教育について、彼は意見を開陳しはじめた。
 リジヤ・イヴァーノヴナの助けによって、ふたたび生活と活動に復帰したとき、カレーニンは自分の手もとに残った息子の教育に従事するのを、おのれの義務と心得た。これまで一度も、教育の問題について考えたことのない彼は、しばらくのあいだ、この問題の理論的研究に時を捧げた。人類学や、教育学や、教授法に関する本を何冊か読んで、カレーニンは自分で一つの教育計画を立て、ペテルブルグでも有数の教育家を招いて、仕事にとりかかった。で、この仕事がいつも彼の気にかかるのであった。
「そうですね。でも、あの心はどうでしょう? わたくしの見たところでは、あの子の心は、お父さまそっくりでございますわ。ああいう心をもった子供が、よくないなんてはずはございません」とリジヤ・イヴァーノヴナは、感激の語調でいった。
「ええ、そうかもしれませんな……ただ私は、自分の義務を果しているだけです。それが私のなしうるいっさいです」
「あなた宅へいらして下さいますね」とリジヤ・イヴァーノヴナは、しばらく無言の後、こういった。「わたくし、あなたにとっておもしろくないことを、お話しなくちゃなりませんの。わたくしはねえ、あなたに何彼《なにかに》のことを思い出させないようにしてさしあげるためには、どんな犠牲もいとわないのでございますけれど、ほかの人はそう考えておりませんものですから。わたくしあのひと[#「あのひと」に傍点]から手紙をもらいましたの。あのひと[#「あのひと」に傍点]はここに、ペテルブルグにおりますのよ」
 カレーニンは妻のことをいいだされると、ぎくっと身ぶるいしたが、すぐさまその顔には、死のごとき不動の表情が固定した。それは、この事件に関する完全な無力を表わすものであった。
「それは私も覚悟していました」と彼はいった。
 伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは、感激にみちた目つきで彼をながめた。すると、彼の魂の偉大さに対する賛嘆の涙が、その目に浮んでくるのであった。

[#5字下げ]二五[#「二五」は中見出し]

 古い陶器が飾ってあり、肖像画の掛けつらねてある、小さな、居心地のいい、リジヤ・イヴァーノヴナの書斎へ、カレーニンが入っていった時、当の女主人はまだそこにいなかった。
 彼女は着替えの最中だったのである。
 円いテーブルの上にはクロースがかけてあって、シナ焼の茶器と、アルコール・ランプの湯沸しがのっていた。カレーニンは、書斎を飾っている無数の肖像画を、ぼんやりとひとわたり見まわした後、テーブルに向って腰をおろし、その上にのっていた聖書を開いた。伯爵夫人の衣ずれの音で、彼ははっとわれに返った。
「さあ、これでゆっくりできますわ」興奮したような微笑を浮べて、せかせかとテーブルと椅子とのあいだを抜けながら、リジヤ・イヴァーノヴナはこういった。「うちでお茶をいただきながら、ゆるりとお話いたしましょうね」
 相手に心がまえさせるような言葉を、二こと三こといったあとで、リジヤ・イヴァーノヴナは重々しい息づかいをし、顔を赤らめながら、自分の受け取った手紙を、カレーニンの手に渡した。
 手紙を読み終ってから、彼は長いこと黙っていた。
「私の考えでは、私はこれを拒絶する権利がありませんね」と彼は目を上げて、臆病そうにこういった。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、あなたはどんな人の中にも、悪ってものをお認めになりませんのね!」
「それどころですか、私はすべてが悪であると観じているのです。しかし、これを拒絶するのが、はたして正当であるか……」
 彼の顔には、思いきりのわるい表情と、自分にとって不可解な事件について、忠言と、支持と、指導を求めるような色が浮んだ。
「いいえ」とリジヤ・イヴァーノヴナはさえぎった。「何ごとにも限度というものがございます。わたくし、不義ということならわかります」と彼女はいったが、それはあまり正直とはいわれなかった。なぜなら、何が女を不義に導くかということは、とうてい理解することができなかったのである。「でも、わたくし、残忍な気持だけはわかりません。しかも、だれにむけて残忍を働いたんでしょう? あなたにむけてですよ! 現に、あなたのいらっしゃるその同じ町に、どうして足をとめることができたんでしょう? いえ、いえ、人は長生きすると、いろんなことを知るものですわねえ。わたくしも、あなたのお心の気高さと、あの女の卑しさを思い知りました」
「しかし、だれがはたして石を投げうるでしょう?」明らかに、自分の役割に満足している調子で、カレーニンはこういった。「私はなにもかも赦したのですから、あれにとって愛の要求であるものを、あれから奪うことはできません――わが子に対する愛の要求を……」
「でも、これが愛でしょうか、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ? これが本心でしょうか? かりにあなたがお赦しになったとしても、赦していらっしゃるとしても……あの天使みたいな子供の魂に働きかける権利を、わたくしどもはもっているでしょうか? あの子は、あのひとを死んだものと思っております。あのひとのことを神さまにお祈りして、あのひとの罪を赦していただくように願っております……またそのほうがよろしいのでございます。それなのに、もしそんなことをしたら、あの子はなんと思うでしょう?」
「私もその点は考えませんでした」カレーニンは、どうやら賛成らしくこういった。
 リジヤ・イヴァーノヴナは両手で顔をおおって、しばらく黙っていた。祈祷をしたのである。
「もしあなたが、わたくしの忠告をお望みになるのでしたら」祈祷をすまして、顔から手をのけながら、彼女はいいだした。「それはおよしあそばせと申し上げます。このためにあなたの傷口が開いて、あなたが苦しんでいらっしゃるのが、わたくしの目に入らないとお思いですの? まあ、かりにあなたがいつものとおり、ご自分のことは忘れていらっしゃるとしましょう。ですけれど、これがいったい、どういうことになるでしょうか? あなたにとっては、また新しい苦しみになり、子供にとっては、悩みの種になるばかりではありませんか? もしあのひとに、何か人間らしいところが残っていたら、自分のほうからそんなことを望まないのが、本当でございます。いいえ、わたくしは少しもためらわずに、およしあそばせと申します。もしお許し下されば、わたくしあのひとに手紙を書きますわ」
 カレーニンは同意した。で、リジヤ・イヴァーノヴナはフランス語で、次のような手紙を書いた。

『拝復
 あなたさまに関する追憶はお子さまの心に、さまざまな疑問を呼び起すおそれがあると思います。それは、お子さまにとって神聖であるべきものに対する非難の精神を植えつけずには、答えることのできないような疑問でございましょう。それゆえ、ご主人の拒絶を、キリスト教徒としての愛の精神から出たものと、お察し下さるよう願い上げます。天なる神のみ恵みの、あなたさまの上にあらんことを。
[#地から1字上げ]伯爵夫人リジヤ』

 この手紙は、リジヤ・イヴァーノヴナが自分自身にさえ隠していた、秘密の目的を達した。それは心の底からアンナを辱しめたのである。
 カレーニンはカレーニンで、その日はリジヤ・イヴァーノヴナのもとを辞して、わが家へ帰ってからも、いつもの仕事に没頭することもできなければ、今まで感じていたような、救われたる信者としての心の平静をも、見いだすことができなかった。
 リジヤ・イヴァーノヴナが、条理ただしく述べているとおり、妻は自分にたいしてかえすがえすも罪ふかい女であり、自分はそれに比べると聖者のようなものであるから、その妻に関する追憶が、彼を当惑させるはずなどなかったのである。にもかかわらず、彼は平静であることができなかった。彼は読んでいる本の意味がわからず、悩ましい追憶を追い払うことができなかった。妻にたいする自分の関係、それから今にして思えば、妻にたいして犯した自分自身のあやまち、あの競馬からの帰り道で、妻の口から不貞の告白を聞いた時の自分の態度、特に彼女から世間体のみを要求して、決闘を申しこまなかったことを思い出すと、慚愧《ざんき》の念に似たものが心を悩ますのであった。それから、自分が妻にあてて書いた手紙の思い出も、彼にとっては苦しかった。ことに、だれになんの要もない自分の赦罪、仇し男の子供に対する心づかいは、彼の心を羞恥と悔恨の念に焼く思いであった。
 それと同様に、いま彼女との過去を思い返しながら、長い動揺の末に求婚した時の拙い言葉を思い起した時、彼は羞恥と悔恨の念を覚えた。
『しかし、いったいおれはなんの罪があるのだ?』と彼はひとりごちた。すると、この疑問はいつものごとく、また別の疑問を呼び起すのであった。いったいあのヴロンスキイとか、オブロンスキイとか……あの太い腓《ふくらはぎ》をした侍従などという連中は、自分とは違った感じ方をするのだろうか、違った恋をするのだろうか、違った結婚のしかたをするのだろうか? 彼の想像には、あのみずみずした、健康な、おのれを疑うことのない人々が、無数にうかんできた。こういう連中は、いつでも、いたるところで、われともなく、彼の好奇にみちた注意のまなこをひくのであった。彼はこうした考えを追い払いながら、自分は仮りのこの世のためでなく、永遠の世界のために生きているのであって、自分の魂の中には和《やわ》らぎと愛があるのだと、自分で自分に信じさせようとつとめた。しかし、彼がこの仮りの世でした、ただ仮りのつまらない(と自分には思われた)あやまちは、彼の信じている永遠の救いなどないかのように、彼を悩ますのであった。とはいえ、その誘惑は長くつづかなかった。まもなくカレーニンの心には、いつもの平静と気高さが戻ってきた。そのおかげで、彼は覚えていたくないことを、忘れることができたのである。