『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「従軍慰安婦・内鮮結婚―性の侵略・戦後責任を考える」(1992年、鈴木裕子、未来社)

○目次


I 性侵略・大陸花嫁・従軍慰安婦
1 日本の「近代化」と性侵略(009)
女にとっての日本近代史(009)/公娼制と家制度――女性の自由への抑圧装置(010)/海外膨張・大陸侵略の具に供された女性の“性”(012)/「人民の移住と娼婦の出稼」(012)/台湾・朝鮮にも公娼制をしく(017)/廃娼運動の側の対応(020)
2 「満州」侵略と大陸花嫁(24)
 一九四五年八月の「悲劇」(024)/「満州」支配と大陸花嫁(027)/「満州武装移民」と大陸花嫁(029)/官民競って「花嫁輸出」(032)/「皇国農民道」「皇国婦道」の強調(034)/
3 従軍慰安婦天皇・朝鮮(038)
 「皇軍将兵への贈り物」――天皇従軍慰安婦(038)/従軍慰安婦問題は女の問題の”原点“(045)/朝鮮民族抹殺の意図(047)/「祖国解放」後、朝鮮女性たちは帰れたか(049)
4 天皇の軍隊と従軍慰安婦(051)
 「慰安婦案の創設者」(051)/南京大虐殺と「強姦」(054)/南京大虐殺後、各地に慰安所開設(057)/対ソ戦をにらんで(060)/南方の島々でも(061)/二重の性管理(067)/67

Ⅱ 内鮮結婚
1 「文化政治」と「内觧結婚」(073)
 李王世子垠と梨本宮方子の「内鮮結婚」(073)/「内鮮結婚」の政策的開始(075)
2 皇民化政策と「内觧結婚」(078)
皇民化」政策における「内鮮結婚」(078)/「内鮮一体」の司法的具現(085)/85
3 「内鮮結婚」の破綻(088)
 破綻の象徴――李王家と日本支配層との「結婚」の悲劇的結末(088)/朝鮮女性――日本「同化」に立ちはだかる存在(093)
4 「強制連行」と「内鮮結婚」(101)
「協和事業」の新展開――日本「内地」における「皇民化」の推進(101)/日本「内地」における「内鮮結婚」(105)/おわりに――被害と加害の二重性(110)

Ⅲ 従軍慰安婦に軍と国家は関与しなかったのか
1 「挺身隊」問題をめぐる最近の韓国女性界の動き(116)
 昭和天皇の死と「挺身隊」問題(116)/盧泰愚大統領来日を前に、韓国女性界動きだす(121)/
2 従軍慰安婦に軍と国家は関与しなかったのか(134)
慰安婦は、民間の業者が連れて歩いたもの」(134)/「営業婦の共有観念を徹底し……」(140)/
3 再論・従軍慰安婦に軍と国家は関与しなかったのか(上)(146)
 未決の戦争・戦後責任(146)/無責任、無誠意の姿勢は、従軍慰安婦問題でも一貫(148)/韓国女性界では、挺身隊問題は、女の「人権」問題との認識が強まっている(159)/
4 再論・従軍慰安婦に軍と国家は関与しなかったのか(中)(162)
 小沢発言の意味するもの(162)/繰り返される官僚たちの無責任答弁(164)/
5 再論・従軍慰安婦に軍と国家は関与しなかったのか(下)(176)
 韓国で元慰安婦の女性が名のりでる(176)/よたび国会答弁から(178)/戦後補償問題の背景(181)/個人の補償請求権は認められている(186)/わたくしたちの手で戦後責任に決着を(189)/
6 従軍慰安婦問題と戦後責任(192)
 「第一の罪」と「第二の罪」(192)/“開戦”五〇周年と戦争・戦後責任(194)/ 上坂冬子曽野綾子両氏の所論批判(195)/195 日本人の「戦後」のあり方が問われている(299)/
7 軍慰安所は「強姦防止」でもうけられた(202)
 軍の関与を明白に示す資料の発見(202)/「強姦防止」が慰安所設置の第一の目的(204)/慰安所の開設から管理、統制にいたるまで深く関与(206)/強姦された中国女性の“無念”を思う(209)
あとがき(214)





○引用


1 日本の「近代化」と性侵略

   女にとっての日本近代史
 日本資本主義の基礎が、生糸・織物・紡績など繊維産業に働く年若い女性労働者によって築かれたことは、今日、周知の事実であろう。彼女らの紡いだ糸や織物が海外に輸出されることで外貨を獲得し、その金で殖産興業のための産業機械や、富国強兵のための武器・軍艦などが輸人さ札、日本。近代化”の土台をつくった。
 そのように“近代化”に犬切な役割を果たした糸姫・織姫たちであったが、それにふさわしい処遇を陂女たちは受けていたであろうか。答は否である。一口に「女工哀史」といわれる労働条件や労働環境、生活状態が彼女らのおかれていた悲惨な境遇を物語っている。端的にいえば、糸姫・織姫たちは、日本資本主義発展のためのいけにえとなったのである。 この一事をもってしても、日本の“近代”は、決して明るいものではなく、ましてや栄光のそれでもない。おどろおどろしい暗うつをその底に潜めていたといえた。

   公娼制度と家制度――女性の自由への抑圧装置

 近代化のいけにえとなったのは糸姫・織姫ばかりでなかった。性的自由を抑圧されていた娼婦たちもまた日本近代化のためのいけにえとされたのであった。 明治政府は、一八七二年一〇月、太政官布告第二九五号をもって、いわゆる「娼妓解放令」を出した。これは俗に「牛馬きりほどき」と呼ばれたが、そのゆえんは、さきの太政官布告を受けて出された司法省の省令第二二号の一節に次のような言言があったからである。

……娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ故ニ従来同上ノ娼妓芸妓へ借ス所ノ金銀並二売掛滞金等ハ一切債ルヘカラザル事(『日本婦人問題資料集成 第一巻 人権』ドメス出版、一九七八年、一九五ページ)

 ここにおいて娼妓らは解放されるやにみえたが、政府は、もとより遊廓そのものを廃止する考えは毛頭なかった。ただ、「近代国家」としての体裁をつくろうがために、国際体面上、一片の法令を出しだのにすぎなかったのである。
 かつての遊廓は貸座敷、遊女屋(楼主)は貸座敷業者と名を加え生きのこった。娼妓にたいしては「当人ノ望ミニヨリ遊女芸妓等ノ渡世致シ度キモノハ夫々吟味ノ上可差許次第」(「人身売買厳禁に関する東京府令」一八七二年一〇月、同前書一九六ページ)といった形式上の「自由出願」制をとった。が、これはまさに形の上だけのことで、彼女らは引き続き楼主たちの厳しい管理と搾取下におかれ続けた。江戸時代の遊廓制度は、ここに早くも近代公娼制として復活し、より強固な確立をみた。
 いいかえるなら公娼制度とは、国家公認の買春制度であって、国家は業者らに営業許可の鑑札を与えるかわりに彼らから税金をかすめとったのである。国家と業者は女性の性を収奪する上で、まさに共犯関係に立つたといえた。
 女性を抑圧するシステムにもう一つ、家制度(家父長制)があった。明治政府は、家制度創出にも早くから着手し、大日本帝国憲法(旧憲法。一八八九年公布)、教育勅語(一八九〇年公布)を経て、いわゆる明治民法(一八九八年公布)をもって総仕上げさせた。この家制度(家父長制)と公娼制度は、いわばメダルの表と畏の関係にあって、ともに女性にたいする抑圧・支配の要となった。この二つのシステムは相互に補完しながら女たちを男権支配・権力(天皇制権力)支配の右とに組み敷いていく機能を大いに発揮した。なお、付言すれば、男権支配・権力支配の殼頂点に立っていたのは、国家の「大家父長」とされた天皇であった。



   海外膨張・大陸侵略の具に供された女性の“性”
 「征韓論」(一八七五年)以後、日清(一八九四~九五年)・日露(一九〇四~五年)の両戦争と続く海外膨張・大陸侵略政策のなかで、日本の支配層は、女性の“性”を道具にして、自らの野望を果たそうとした。
 まずは、当時、「海外醜業婦」と呼ばれた、いわゆる「からゆきさん」の存在である。彼女らは貧しい故郷、家をあとにし、異郷で文字通り身を売って、くらしを立て、親元に送金していた。異国にくらす人の通性からいって故郷や家を憶う気持ちはいっそう強かったであろう。されば、祖国が他国と戦争を交えたならば、意識の底に眠っていたであろう「愛国心」にたやすく火がつくことも想像されるところである。楼主どもが、巧みな口舌で彼女らの愛国心をいっそうそそったことも容易に察せられよう。こうして彼女らはすすんで献金するように仕向けられたが、これを日本“娘子軍《じょうしぐん》”の美談として当時の新聞は取り上げ、さかんに書きたて、さらに彼女らの愛国心や忠誠心(天皇・国にたいする)をあおったのである。

   「人民の移住と娼婦の出稼」

 さて、ここに「人民の移住と娼婦の出稼」と題する一片の論説がある。筆者は、慶応義塾の祖、近代日本の代表的啓蒙思想家としても名高い福沢諭吉で、一八九六年一月一八日付の『時事新報』(福沢が主宰)に発表されたものである。
 この年は、当時の清国(眠れる獅子と称されていた。現在の中国)と戦い、勝利した翌年で、福沢もこの年元旦の『時事新報』で、日本の勝利を感激をこめてこう述べている。

 兎に角に外国の土地を併せて日本の版図を拡張するが如きは、古来我国人の思ひ至らざる所なりしに、一昨年の夏、風《ふ》としたる行掛《ゆきがかり》より清国と戦端を開き、交戦|凡《およそ》一年間、海陸ともに大勝利を制して敵を屈伏せしめ、戦勝の名誉を全うして干戈《かんか》を収めたる其結果は、先人の曾て思ひ至らざりし版図の拡張にして、却て自から事の意外に驚くばかりなり[中略]吾々今代の日本国民は何等の幸福ぞ、建国以来未曾有の愉快を懐いて建国以来未曾有の新年に逢ふ。(「明治二十九年一月一日」『時事新報』一八九六年一月一日付、『福沢諭吉全集』第一五巻、岩波書店、一九六一年、三四五ページ)

 露骨な領土拡張主義・膨張主義であることは一読して明らかであろう。この膨張主義とまさに見合った形で「人民の移住と娼婦の出稼」は書かれる。






あとがき

 「従軍慰安婦」問題は、今、新たな段階に入った、との感がわたくしにはする。旧軍関係者や研究者などには周知の事実であった「従軍慰安婦」の軍関与にたいし、日本政府がようやくそれを認め、公式に謝罪を表明したからである(一九九二年一月二百)。従来の姿勢からすれば、一歩前進であろう。
 が、実態・真相究明に向けての政府の取り組みは依然として消極的で、また、補償についても、「司法の判断も待って」と、“慎重”な構えをくずしていないのはなぜだろうか。 元「慰安婦」にされた女性たちの年齢と、現在の境遇、のこされている歳月を思うと、これは。悠長”を通りこして、“非情”ともいうべき措置である。もし、宮沢首相が本当に「胸がつまる思い」で、心底から「おわびと反省の気持ち」(一九九二年一月一六~一八日の首相訪韓時の謝罪のことば)をもっているなら、今すぐにでも国会に真相究明のための委員会をもうけ、すみやかに補償特別立法の成立を図るべきである。これがせめてもの人間の誠意というものではあるまいか。
 もし政府や国会がぐずぐずしていて、果断な措置を怠るなら、ことはまことに重大になる。政府間のみならず、日韓(朝)間の民衆意識に埋めがたい、決定的な溝を生じさせることになるからだ。
 わたくしたち日本人は、朝鮮民衆にたいし、植民地支配という「第一の罪」をおかした。そればかりでなく、戦後四六年間ものあいた、「第一の罪」を認めることさえ抑圧してきた(「第二の罪」)。そして、今や、罪を認めておきながら、為すべきことを為さない、「不作為の作為」ともいうべき「第三の罪」をもおかしかねない位置に立だされているのである。 日本国政府と日本国民衆は、外からみれば同一である。政府の怠慢は、即、国民の怠慢とみられるのは理の必然である。ならばこそ、わたくしたちは政府を督励して、植民地支配と戦争責任そして戦後責任を十分に果たすよう要求していくのが「主権者」としてのスジであろう。
 「従軍慰安婦」問題は、「慰安婦」にさせられた女性のうち、八割以上(推定)が、植民地下の朝鮮女性であった(台湾人女性や、その他日本軍が占領したアジア太平洋地域の女性たちをも「慰安婦」にさせた事実も銘記すべきであろう)ことから、すぐれて民族的な問題であることは、本書のなかで再三、述べた通りである。
 他方、この問題は、女性の人権の基本である性的自由を考えるうえでゆるがせにできない問題でもある。本書でくわしく述べたように、そもそも「従軍慰安婦」制度は、旧日本軍(「皇軍」)の将兵たちによる、中国大陸での相次ぐ強姦事件に際し、もうけられたものである。「強姦予防」「性病予防」そして兵土たちの「反乱防止」には女の性をあてがえばよい、という発想なのだ。ここには当然のことながら、女の性への尊厳は一かけらもなかった。
 だが、「従軍慰安婦問題」は、単に過去の過ぎ去った問題なのだろうか。
 また、戦時中の異常な状況下でやむを得なかった、という声が女性のなかにさえある、という。たとえば、こうである。「慰安婦制度は戦争という異常な情況下で風俗面での弊害を最小限に留めるためにとられたギリギリの選択であって必要悪だったと思います」(新井佐知子「従軍慰安婦問題に思う」『現代コリア』一九九二年一月号、なお、新井氏は、同様の趣旨のことを「だれも書かなかった『従軍慰安婦問題』の核心部分」『週刊時事』一九九二年二月一日号、でも述べている)と。
 「従軍慰安婦」を必要悪とする論者にわたくしは問いたい。もし、あなたが女で、たまたま日本植民地下の朝鮮半島に生まれ、「慰安婦」にさせられたとしたら、あなたは、それをも「必要悪」だとして甘んじて受けるのだろうか。もし、あなたが男で、あなたの妻や妹や娘さんが、“人狩り”的に見知らぬ戦場へ連れていかれ、兵土たちの「慰みもの」になったとしたら、それをも仕方がない、必要悪だと思って、あきらめるのだろうか。
 一九九二年二月一七、一八日の両日、『産経新聞』一面のコラム「産経抄」は、全国紙としての「見識」を疑わせる一文を堂々とかかげた。やや長くなるが引用する。

……例のキャンペーンは宮沢訪韓をねらいすましてわきおこり、「国は臭いものにフタをしてきた」という批判や非難を声高に浴びせた。その通り、慰安婦問題(女性がではない)は臭いもの、おぞましいもの、恥ずべきものにほかならない▼しかし逆説的にいえば、臭いものだからフタをしたのは当然なのである。あの問題は戦争遂行時の国家の下半身というべきものであって、喜々として白日にさらす性質のものではない。本来、含羞をもって恥じらいつつ、声をひそめて語るべきものだからである▼臭いものは茶の間や新聞や教室にひろげるのはふさわしくなく、それを鬼の首でもとったかのように生徒の学習材にする教師は一体どんな神経をしているのか、不思議でたまらない。国家の下半身、つまり。軍隊と性”の処理はどこの国でも頭の痛い難題だった▼〔中略〕▼よその国の軍隊や兵士はみな品行正しく、日本だけがおぞましい恥部をひきずっていたと教えるのは歴史をゆがめている。また、従軍慰安婦の多くは日本人だったのであり、韓国女性がすべて強制連行されたかのような報道も事実を伝えていない。〔略〕敗戦直後、横須賀市日の出町の一画に「アミューズメント・ハウス」という名の施設が誕生した。進駐した米軍専用の慰安所であり、数十人の日本人女性がそこで米兵を“慰安”した▼それは米軍側の要求でもあり、日本側の発想でもあった。彼女たちはいわゆる一般子女の“性の防波堤”として自己犠牲を強いられたものだったのか、それともドルを目当ての“商売”としての側面が強かったのか。今となっては正確なことはわからない▼しかし、それら慰安女性たちが人権侵害や人道の名の下に補償や謝罪を要求したという話は寡聞にして知らない。ただ基地ヨコスカに限らず、日本の至るところに進駐軍相手の“夜の女”がたちまち激増した現実をみれば、そうきれいごとは言えないだろう▼十九世紀初頭、ナポレオンのフランス軍はスペインをはじめとする遠衽先で略奪と暴行と虐殺の限りを尽くした。両角良彦氏の『反ナポレオン考』(朝日選書)によると、転戦する軍隊のあとを売笑婦とイカサマとばく師が追いかけ、そして一個中隊につき六人の女性の“従軍”が認められた▼当時それは各国に共通したことであって、「いくら道学者流の批判を加えても、彼女らこそが勇名高いナポレオン軍団を陰で支えたという事実は隠せない」。彼女たちの数奇で薄幸な、あるいはしたたかな人生の中に戦場の現実があった▼こう書いたからといって、戦争を賛美したり、日本軍の行為を是認したりするものでは断じてない。恥ずべく、おぞましかったのは何も日本だけなのではない。国家の下半身と人間の歴史はそういうものだった、といいたいのである。

 「一体どんな神経をしているのか、不思議でたまらない」のは、むしろこちらの方である。
 「産経抄」氏は、何だかんだと、理屈をつけて「迷説」を正当化・合理化されているようにみえるが、つまるところ、“軍隊”に“性”はつきもので日本だけが批判されるいわれはない、ということにつきている。男性なるものは、すべて、性的衝動にがられる動物でやむを得ない、といったことを吐露しているようなものである。が、こうした思いこみ(「男性神話」)は、そうでない男性にたいして失礼なのではあるまいか。
 また、占領下の「アミューズメント・ハウス」について触れている点も、事実誤認がもとになっている。本書でも触れたように(四三~四五ページ)、当時、日本政府は、率先して占領軍のための「慰安政策」をとったのである。
 「産経抄」氏は、「慰安婦」(「娼婦」、「売春婦」)にたいしても根強い偏見と差別の持ち主であるようにわたくしには思われる。わたくしは、たとえ、みずから身を売った「娼婦」であったにしても、男権社会=家父長制社会にあっては、ひとしく犠牲者である、と考える。このことは、本書のなかで再三にわたって述べたので、ぜい言を要さないであろう。

 さて、本書は左に記す初出誌に掲載された拙稿をもとに、若干の修正・削除をおこない、注釈部分(*で記した)を大幅に加えてまとめたものである。
 Iは、「1」が『社会主義』一九九二年一月号(原題は「海外膨張策と“性”侵奪」)、「2」が同三月号(原題通り。以下、初出時とタイトルが同一である場合は略)、「3」が『未来』一九九一年一月号、「4」が『社会主義』一九九二年二月号にそれぞれ掲載されたものである。
 Ⅱは、「内鮮結婚」(上・中・下)として『未来』 一九九一年二月号・四月号および一九九二年一月号にそれぞれ掲載されたものである。
 Ⅲは、「1」が『未来』一九九〇年八月号(原題は「『挺身隊』(朝鮮人従軍慰安婦)問題をめぐる最近の韓国女性界の動き(紹介)」)、「2」「3」「4」「5」「6」「7」は、同一九九〇年一〇月号、一九九一年九月号、一〇月号、一一月号および一九九二年二月号、三月号にそれぞれ掲載されたものである。
 『未来』掲載中に読者の方々から寄せられたあたたかお励ましには率直にいって力づけられた。
 李順愛氏、山口明子氏、山下英愛氏、吉見義明氏、伊東秀子氏には、翻訳や資料の提供等でご厚意を受けた。あらためで謝意を表したい。また、わたくしの属する「天皇制・おんな塾」「グループ・性と天皇制を考える」のメンバーにも感謝したい。 おわりに『未来』掲載中から、一書にまとめあげるまでの間、細かいご配慮をいただいた編集部の石田百合さんに深謝する。

一九九二年二月二一日
鈴木裕子



※本記事は「s3731127306の資料室」2017年08月09日作成記事を転載したものです。