『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「フェミニズムと戦争:婦人運動家の戦争協力」(1997年、鈴木裕子、マルジュ社)

○目次

はじめに   003

序章 総動員体制と婦人団体   11

第1章 中央協力会議女性代表にみる「翼賛」  023
  1 女性と中央協力会議   025
  2 「女性代表」一覧   033
  3 “早の根”女性翼賛のにない手――大日本婦人会背景の女性代表   040

 第2章 高良とみ羽仁説子の場合   045
  1 “興亜の母”の論理と「翼賛」高良とみ   047
  2 「生活刷新」から「生活新体制」への道――羽仁説子   076

第3章 戦時下における婦人運動家の「協力」と「翼賛」  095
  1 参加→解放への「死角」――市川房枝   101
2 「協力の論理」の極限――山高しげり   136
  3 「花ある職場へ」の陥穽――奥むめお   162

第4章 戦時下「女子勤労」と”性“政策   187
  1 国民皆働と「女子徴用」問題   190
  2 戦時女子教育における「勤労」と「母性」   198
  3 「女子勤労」と“性”をめぐって   203
  おわりに   211

終章 「加害」と「被害」の倒錯   215

旧版あとがき   223
新版あとがき   226




○引用

旧版あとがき
 日の丸、君が代靖国、そしていよいよ「皇国史観」の教科書までが登場しようとしている。
 四一年前、莫大な犠牲を払って、やっと手にした「平和」と「民主主義」が、いま、まさに葬り去られようとしている。それに代わって、かつて。軍国日本しちが、またぞろ顔をそろえ、復権を図っている。
 戦争を直接、知っている戦前・戦中派ならずとも、不気味さを覚える今日このごろの状況である。
 日本の女たちは、かつて戦争のとき、いや応なく「銃後の女たち」にしたてられ、協力させられてきた。
 一見、平和に現在を生きるわたくしたちに、果たして、この「銃後の女たち」は、無縁であろうか。
 わたくしたちは、いま、ふたたび、「銃後の女たち」にしたてられようとしているのではなかろうか。
 銃後の女として、ふたたび戦争に協力させられないために、わたくしたちはいまこそ歴史に学ぶときか、と思う。
 女性であるわたくしには、「女性と戦争」のテーマは切実である。だが、このテーマは大きい。本書では、取り敢えず、婦人運動家や婦人指導者の「戦争協力」に絞って論述したが、多面的なアプローチが必要であろう。
 わたくしたちの祖母や母たち、いうならば庶民の女たちが、銃後の女として、戦争体制にどう組みこまれ、かかわっていったのか、をもあわせてみなくては、ほんとうのところはよくわからないであろう。これからの課題としたい。
 本書は、一九八二年五月に日本評論社より刊行された、鹿野政直・由井正臣両氏編にかかる『近代日本の統合と抵抗』第四巻の一篇に収められた拙稿「戦争と女性――女性の『戦争協力』を考える――」をもとに、大幅な加筆をほどこして成ったものである。「はじめに」でも述べたように、自らの戦争体験の加害者性を語ることは少ない。戦争の加害者性を研究の対象とすることも少ない。わたくしが専攻する女性史の分野でも同様である。本書が、こうした状況に、なにがしかの一石を投じることができたら幸いである。
 それにしても、およそ一〇年間にわたって、『銃後史ノート』を発行し、昨年休刊した加納実紀代氏らの「女たちの現在を問う会」の仕事には、随分、触発され、励まされてきた。加納氏らの仕事がなかったら、本書は、たぶん生まれなかった、と思う。
 終わりに、本書の出版にあたっては、マルジュ社編集部の西亨氏に大変おせわになった。深く感謝する次第である。

鈴木裕子
   一九八六年七月



新版あとがき
 本書『フェミニズムと戦争』が上梓されてからはや一一年を迎えようとしています。本書の品切れ状態を機に、この度、マルジュ社の桜井俊紀氏から新版刊行のお申し出を受けました。わたくしはこのお申し出をお受けするとともに、新たに第4章「戦時下『女子勤労』と“性”政策」の一章を加えさせていただきました。なお、この第4章は、一九九五年一月、吉川弘文館から刊行された由井正臣氏編の『太平洋戦争』に収録されたものです(原題は、「戦時下の女性――『女子勤労』と“性”」。本書新版に収めるに際し、一部重複部分を削除いたしました。本書への収録を許された吉川弘文館および編者の由井正臣氏には心から感謝する次第です。

 さて、旧版刊行後、この一〇年余の間におこった変化はまことに大きいものがあります。ベルリンの壁崩壊に始まる東西冷戦体制の終えん、社会主義国家の倒壊……と世界はかつてない激変に見舞われました。その一方で相変わらず世界の各地で「局地」的戦争・紛争(もっともその地の住民にとっては「局地」どころではありませんが)が続き、武力紛争下での女性への組織的暴力もやみません。
日本においても大きな変化がありますが、ここではそのいちいちを示すことはできません。ただ、日本の戦争犯罪・戦争責任問題で決して見のがすことのできないのは、いわゆる「従軍慰安婦」問題の浮上でした。半世紀の沈黙を破って、当の被害女性が名乗り出て、告発と証言をおこなった意義ははかりしれないほど大きかったと思います。自らの尊厳と人間回復を願ってたちあがった彼女たちのたたかいについて、わたくしは、二〇世紀世界女性人権史の最後を飾るものと書いたことがありますが、いまもますますその感を強めています。
慰安婦」問題をはじめとしたこの間の戦後賠償運動は、さかのぼって日本の戦争犯罪・戦争責任問題にたいしても市民や若い世代のなかに真剣に取り組ませる姿勢や動きをもたらしているように思えます。これはまことに歓迎すべきことで、研究者も大いに学ぶ必要があることでしょう。
 わたくしたちは、日本がアジアの民衆にたいしておこなった侵略や植民地支配の実相・実態を正確に知り、主体的な戦争反省の力量を高めていくことが大切であることをわたくしは確信するものです。そのためには女性や民衆の戦争への協力・加担の歴史的事実について正視しなければならないでしょうし、戦争責任にたいしてもまっすぐに向きあわねばならないと思います。
 もとより戦争指導者たちと、わたくしたち女性・民衆の戦争への責任の度合いはまったく異なります。敗戦直後に支配層から出されたいわゆる「一億総懺悔」論は、天皇はじめ戦争指導者たちの責任の所在をいんぺいするためのきわめて欺瞞的なものでした。
 わたくしたち市民が主体的な戦争反省をするということは、たとえば、「慰安婦」問題の国家責任・法的責任を避けるために設けられた「女性のためのアジア平和国民基金」(略称・「国民基金」または「アジア女性基金」。一九九五年七月発足)やそれに与する一部知識人が強調している「政府と国民が協力してつぐない」をすることでは決してありません。これは要するに現代版「一億総懺悔」論にほかなりません。国家犯罪たる本質をかくし、責任の所在をあいまいにするものです。わたくしたち市民が主体的な戦争反省をおこなうということは、市民として主権者として、国家責任を負う政府にたいし、戦争犯罪への法的責任を履行させることと分かちがたく結びついているのではないでしょうか。
 さて、旧版刊行後一〇年ほど経過してから何人かの方々から、この本『フェミニズムと戦争』を中心としてご批判を頂戴しました。その一、二を左に示したいと思います。一つは女性史研究者の米田佐代子氏からのものです。
「鈴木氏が『この本〔『フェミニズムと戦争』――引用者汪〕を彼女ら(婦人運動家たち)に対する「告発」のつもりで書いたのではない』と明言しているにもかかわらず『戦時中彼女たちはこのように戦争に協力し、冀賛体制にのみこまれた。この誤りを二度とくり返さないようにしよう』という『教訓』を引き出すという方法になることは避け難く、『告発型』になるのは当然であろう。鈴木氏はそのことを率直に認めるべきであろう」「『告発型』の議論が、ややもすると戦争体験者を『見せしめ』的に扱うことになる点を指摘し」(米田佐代子「平塚らいてうの『戦争責任』論序説」『歴史評論』第五五二号〈一九九六年四月〉)云々と。
 いま一つは、女性学・社会学研究者の上野千鶴子氏からのものです。
「『国家』の限界と『天皇制』の悪は、歴史によって事後的にのみ宣告されたもので、そのただなかに生きている個人がその『歴史的限界』を乗りこえられなかった、とするのは歴史家としての不当な『断罪』ではないだろうか。鈴木の女性史が数々のすぐれた問題提起に満ちており、女性史に対して重要な貢献をしたことを認めつつも、しばしば『告発』史観と呼ばれるのは、このいわば歴史の真空地帯に足場をおくような超越的な判断基準のせいにほかならない」(上野千鶴子「『国民国家』と『ジェンダー』」『現代思想』一九九六年一〇月号)と。
 ここではお二人の批判にたいし、反論するいとまはありませんが、ただわたくしは、「告発型」とも「告発」史観とも思っておりませんし、この本を「告発」目的のために書いたのでもありません。読者がこの本を丹念に読んでいただけるなら、そのことはたぶん首肯されるでしょう。
 しかし、あえて「告発」という言葉にこだわるなら、わたくしはこの本を書きながら、アジアの戦争犠牲者や被害者からの「告発」を背中にひしひしと感じたものです。
 さらにいうなら「告発」するということは、たぶん「告発」されるという覚悟なくしてはできるものではありえないはずです。
 思わず長々しい「あとがき」となりました。読者の方々からのご叱正を切にのぞんでいます。
   一九九七年六月九日
鈴木裕子


※本記事は「s3731127306の資料室」2017年08月07日作成記事を転載したものです。