○目次
仁木武子さんと私 山本 信夫 7
友の一人として 寿満 歌子 10
まえがき 16
日記の一節より 17
毋の想い出 19
軍隊のぞき唄 23
求める心求められる心 24
勲章 26
汚職 27
追憶の一頁 28
召集令状 31
入隊 34
敬礼演習 38
不動の姿勢 39
実行報告 40
中隊の構成 41
勅諭五ヶ条 45
靴と兵隊 45
軍隊七不思議 46
屁と思う 47
三八式歩兵銃殿 48
対抗ビンタ 51
杉本二等兵 53
しらみ 57
歩兵第四十三聯隊 60
征途 61
坂出の宿 65
その夜の夢 69
日洋丸 70
神戸 76
下関 80
南の海のこと 83
基隆 85
南のくに 88
安平 89
広東の町 92
黄埔 さようなら日洋丸 96
大塘 102
榕樹 109
歩哨勤務 116
土のう作り 120
演習 122
煙草のけむり 125
手紙と兵隊 127
南の国の花嫁さん 129
松井少尉の話 131
当番兵竹内一等兵 134
松井憲法 136
野糞 137
草魚 138
四人の姑娘 141
李福林大人 143
下田一等兵発見 144
首切り少尉 145
拷問 149
銀狐時代 150
首切り第二号 152
慰安所 157
上陸作戦 161
弥彦丸 166
出撃行 171
運命の日 173
汕頭のまち 176
市立一中 180
笹田弘の話 182
高都守義一等兵 185
入院 188
厚地部隊 194
達濠の島 196
因果応報 201
高尾光子 203
広田退作一等兵 208
笹田弘一等兵 213
名馬〝勝孝″号 216
問答有用 218
初年兵 221
H一等兵 223
街の素描 225
李才魂 226
斉藤上等兵 228
蟠竜山 230
分哨勤務 233
大黄崗 237
澄海県城攻略 246
松井作戦成功 259
進級 264
川端伍長 264
汕頭花壇 267
夕焼雲 269
竹囲村 271
銀狐討伐 273
潮洲西方地区掃蕩戦 276
塔下(たうえ) 291
塔下の住い 293
徴 発 294
加給品 296
慰問袋 297
あとがき 301
戦塵に寄せて 306
さようなら………再見 313
読者の方のお便り 339
三冊の文集より 386
第一文集 387
第二文集 395
第三文集 405
手 紙 410
カバー・見返し一毎日新聞社刊「日本の戦史」第三巻から
○概要
「母の想い出」~「歩兵第四十三聯隊」
著者の召集から初年兵教育についての文章。軍隊批判が多い。
「征途」~「安平」
戦地・広東市への出発から到着まで。坂出町の坂出港(おそらく現:香川県坂出市)→神戸→下関→台湾の基隆→広東市
「上陸前夜」~「運命の日」
広州市黄埔に集結ののち、弥彦丸にて広東省汕頭に上陸。著者は船中でマラリアにかかり、病兵として上陸した。
「汕頭のまち」~「徴発」
汕頭にて駐屯ののち、蟠竜山、竹囲、塔下、潮州へ転戦。
「加給品」「慰問袋」
それぞれ加給品、慰問袋についての文章。時期と場所は不明。
028~029 著者の仁木氏自らが書いた経歴
私が充員召集をうけたのが、昭和十三年九月三日と記憶する。入隊は一週間後の十日であった。屯営は徳島市蔵本町歩兵第四十三聯隊。当時は西部第三十三部隊と云われていた。翌十四年四月迄部隊の歩兵砲中隊に配属され、主として対戦車速射歩兵砲の訓練に従事、四月十日独立歩兵第七〇大隊に転属を命ぜられ徳島を出発。坂出に一泊、翌十一日坂出港より日洋丸乗船、神戸、下関、台湾基隆、アンピンを経て広東市に到着したのが四月十八日であった。南支派遣軍の指揮下に入り六月初旬迄現地訓練を受け臼砲小隊に編入さる。六月十日頃広東市黄埔に集結、弥彦丸に乗船三日後台湾ホウコ島に至り後藤少尉の指揮に入る。六月二十二日汕頭に上陸する。南支派遣軍の独立歩兵七〇大隊となる。そして汕頭、竹囲、塔下、潮州と転戦、鶴島丸に乗船。丸亀歩兵十二部隊に帰還。年の暮も近い十二月二十五日故郷の地をふんだ。
一応支那事変に於ける部分は之で終り、昭和十六年十一月三日再度の応集により西部第六六部隊(松江聯隊)に入隊、不運にもマラリアによる病弱兵として留守隊勤務を命ぜられた。仝年十二月八日対米英宣戦布告により大東亜戦争ボッ発となった。昭和十八年十一月召集解除迄、本来の業務から逸脱し殆んどを炊事係下士官としての勤務を拝命し大いにその腕前をふるった。十九年三月頃川崎市富士電機製造K.K.の労務課調査係に勤務、第二十一富士寮、第十富士寮の寮長を兼務し、昭和二十年一月再々度の召集をうけ徳島西部八八部隊に入隊する。時既に敗戦の色濃く断末魔の様相を呈し始めていた。護土第七部隊に配属され終戦の日を迎えたのである。
○引用
下田一等兵発見(P144)
「下田」という一等兵が行方不明となり、無惨な死体となって発見された時のこと。
“糞たれめ!こんどおりがあったらもう誰でも彼でも容赦せんぞ!’やってやるッ!”“そうだ!こっちがやられるかどうかという時に仏心なんか絶体に出さないぞッ!”
本当に無念の涙がひとりでに頬をつたいおりた。敵に対する憎悪の念がフツフツとたぎってきた。そして今迄もっていた甘っちょろい!生白い戦争に対する批判的な考え方が、大きく変ってゆくのを私は認めざるを得なかったのである。たしかにこの様な事が悪循環の因となるだろう。生死をかけた環境の中にひとりでに生じてくる人間の情は平常の良識などで、はかり知ることは出来ないものである。
慰安所(P157~161)
軍隊の唐変木がつけそうな名前である。そういう私も最初この慰安所が何であるか全然知らなかったのである。一杯のコーヒーとレコードの無料サービスする休憩所だろうと思いこんでいた。とんでもない思い違いであった。広東河南に工陸してしばらくたった或日、
“オイッ、初年兵、あしたは休みだよ、慰安所にでもゆくかッ!”
“ハイッ一しょにお願いします”
“ナニッ一しょに?ウンそりゃ連れてってやらん事もないが俺にはなじみがあるのでなア!マア一人ゆく所じゃけんお前等同志でゆくんだな!”
なじみという言葉に私は疑惑をかんじた。
“古兵殿、慰安所ってどこにあるんですか”
“そして何をする処ですか、将棋や碁はありますか”
顔を見合せていた古兵達がニヤニヤ笑い乍ら云った。
“すぐそこだ!こいつは面白い、慰安所を知らん奴が来たぞ、オイッあしたかきたらゆけば判る、よう分るけん、そりゃええ所だぞ!”
戦友達に聞けば判ったのであるが、その時の私は意地があった。聞くのが面目ない気がしたのである。
翌日古兵のあの不可解な返答をためす為に私は外出し、慰安所なる所に行ってみた。
“百聞は一見にしかず!一発にしかず!
なる程、慰安所とは読んで字の如くなぐさめ安ずる所である。それに河南の繁華街にあった。鉄筋二階建の大きな家がそうである。部屋数にしてゆうに二十四、五はとれる。大きな一部屋をバラック式に板しきりがしてある。私か入ってゆくと大勢の兵隊が列を作り待っている。私はある列の後端にくっついた。そこ迄はまだ慰安所は何であるか判らなかったが、だん/\ついてゆくと窓口があって兵隊が金を払っている。代りに黄色い券が交付される。私も前の兵隊の通り一円を払った。貰った券を見て私はとっさに気がついたのである。それには十五号雪子№6と記入されていた。同時にサックを渡されたのである。
“兵隊さん、どこの人?日本のどこ?!
“とくしま”
”とくしまってどこ?“
“四国のとくしま、判るだろう”
“ああ四国のとくしま‼ネそこの人、奥さんある?”
“ない”
“遊んだ事あるの?”
“ある”
“ネー、そんなにアッサリ云わずに、ネー”
“人の事聞いて、お前どこの産だ”
“わたいかい、朝鮮”
“朝鮮の人か?北?南?”
“北よ、咸鏡北道のズット奧の方、生れはネ。育ったのは下関よ”
(略)いやらしいという人があるかもしれんが、やはり需要と供給の関係が相互に成立していた。希少価値は特にみとめられた。現地供給のものはやはり安く五〇銭、朝鮮人が一円、内地人は一円五十銭であった。この事を吾々兵隊は“見るみる十銭入れる/\五十銭入れてもちあげる一円五十銭”と言ったものである。マッチ一本燃える間、見るのが十銭であった。娘子軍の正式の名前は慰安婦である。病人を看護するから看護婦、男を慰安するから慰安婦、という間の抜けた様で理屈にかなった呼び名がある。どこかの唐変木の発案、アイデアに違いない。女禁制の軍隊にだれが植えたか。“姫小松”この掟はいつの間にか崩れ去っていたのである。この様に軍が正式にこうした制度を認めたのは、只漫然とした理由や又民主的に兵隊側の意見を採用して出来たものではなかった。戦いに勝つという最高の目標に対する一手段として尊い体験から生れ出たものであった。今では立派な軍隊の必需品、必要悪になっていた。
(略)たまにこの娘子軍の中の女にホレル奴が出てくる。
斉藤ばかりではなかった。只絶対に色分け出来る事があった。夫婦生活をした経験の持ち主は先ずホレなかった様である。
“俺は、しょうことなしに目をつむって間に合せてくるんだ。その他の事であんな女に何かある?”こう云う兵隊もいた。然し娘子軍の連中にしても、おおよその兵隊には商売として一ツの乳しぼりの機械としての務めを果しているにすぎなかったのであるが、いかに商売とは云え彼女等も人間である。人問に許された好、嫌、愛、憐の情け持っていた。千人の男に接しても、本当に好きになれる人はごくわずかしかないと彼女等は云うのである。
私は先に必要悪と云ったが、人間にとって食べる事と性欲の行使はだてや冗談ではなく絶対にモラルであると思う。
比較的長く引用した。仁木氏が「慰安婦」を否定しきれていないのが、逆に印象的である。ちなみに「戦塵」は仁木氏が亡くなった後に奥さんの武子さんがまとめた本である。奥さんはこの記述をどう思っていたのだろうか。
潮洲西方地区掃討戦(P276~291)
P289~290に部落掃討という名目のもとに放火・放火殺人が行われたことを書いている。
“此の部落は軍の命令により焼滅する”
部隊長の命令が出た。吾々が引揚げた後、敵側に利用せしめないため徹底した処置をとる事がつけ加えられた。サア喜んだのは兵隊である……大っぴらに焼打が出来るとあっては……火を見て喜ぶのは子供の本能である。兵隊はたわいない子供と云ってよかった。とにかく焼打位面白いものはない。藁に火をつけると次から次へと投げこんでゆく。家財道具から燃えはじめ、屋根にうつると黒煙と赤い焔が血の様な色どりを作る。去りもやらず家にとじこもる住民があった。そんなものに兵隊は頓着しない。人の入ったまま火のついた藁束が投げこまれる。消火しようとすると手榴弾がとびこむ。逃げる者は殺さなかったが、立向えば立ち処に死が与えられた。どだい戦場の真只中に一般の民衆が居る忝自体が我々には不思議であり、又我慢のならない事であった。どうなろうと知った事かという理屈を並べ乍らも虫けらの如く殺される人間をみて、いつ迄も平静でいる事は出来なかった。然しこの戦野にあって道徳も倫理も人道とやらもそんな理性は遠く消滅し、既に自分等も又虫けらにも劣る動物となっていた。
○索引○
008 鶴見俊輔 星野芳郎
009 労災事故 山本信夫先生
032 十銭の白銅貨
040 幼稚園のおゆうぎ
040 アイドル
042 かわいがる
043 悪玉の標本
046 ”たくる”
059 それ迄の何十倍かの経験
068 出征兵士の墓地
071 社会の縮図日本!
076 宇都宮師団管下
077 酒のつりあげ作業
089 海南島上陸説
091 虎門要塞 黄埔江 この秘密という奴はとんでもない大馬鹿やろうであった。
092 松井少尉
095 タン民船
105 淡路島由良の要塞に長い間坐っていた大砲
107 ”若旦那”
108 広東省広州市(広東市)河南大塘村 南支那派遣軍小田(治太郎)部隊松田隊
109 李福林頭目の妾宅
110 点と線にすぎない
110 下田義輝一等兵失踪 五月○○日の点呼
119 女形
126 ”酒で想い出し煙草で忘れ” オソソの缶詰
130 ライカ 泣き婆
131 蒐集隊長
132 三十万円の機密費 泥棒の大親分、林某
133 慰安婦 大阪朝日に 彼の記事
139 周囲の民家から
141 [引用者注:これは重大なわいせつ行為もしくは婦女暴行であり、このような意識は批判されるべきだろう] 結局彼女等はそのやさしい肉体を我々に鑑賞させただけで放免された
145 悪循環の因
146 紅卍会
148 まっ白いアブラ肉
153 広東占領後約半年である。
162 六月○日
170 粤東派遣支隊は六月二十二日未明を期し、汕頭を攻略せんとす。
178 内地の女から朝鮮の女がいる
180 慰安婦の病気検診であった
186 朝日新聞に此の戦斗の記事が載っていた。拗山の戦斗教訓という見出しであった。 ”我小田部隊松田隊は、敵の約二ケ大隊の兵力と交戦戦斗を交える事約五時間、勇猛果敢な我軍は、執拗に食い下る敵を鎧シュウ一触遂にこの敵を駆逐せり、敵の遺棄死体約七〇、我方の損害頗る軽微なり”
197 毎日新聞社刊『日本の戦史』
198 達濠島 角石
200 徴発
204 慰安所 高尾光子劇団 慰問使節
208 流行歌手 渡辺はま子
214~215 この部落は三中隊によって完膚なき迄に破壊され焔の中に崩れ去ったのである。
223 慰安婦
225 こんな家の捜査をやったこともあった
235 ”あきらめたいと願ってもあきらめ切れない気持” 彫刻
246 ○月○○日
247 全漢謀将軍
248 治安維持会 大阪一〇四師団 寝返った
251 弾薬クーリー 苦力
257 死んだ顔 けものの様な行為
263 強姦と云ったが、果してその部類に入るかどうか
264 昭和十五年・一・一附で上等兵に進級した
267 ドイツ人
268 汕頭花壇と名をかえ日本人と現地人の共同経営の料理店となっていた。
271 昭和十四年十一月
276 徴発 一〇四師団の一部 二十四師
277 混成第十一師 独立第九旅
278 早々と竹囲を出発した。
276 汕頭上陸から一年の日が過ぎていた。
277 潮洲に集結する事になった
285 去年の六月上陸以来
289 “此の部落は軍の命令により焼滅する”
291 この塔下の部落に居つく事になった
295 徴発 豚十二頭、鶏四十五羽
378 本多勝一
※本記事は「s3731127306の資料室」2015年01月20日作成記事を転載したものです。