『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「華北戦記 中国であったほんとうの戦争(朝日文庫版)」(1997年、桑島節郎、朝日新聞社)

○目次○

  第一章 昭和十七年(一九四二年) 009
家郷を出立 009
宇都宮に入営 012
華北の戦場へ 017
独立混成第五旅団 025
青島から芝罘へ 027
山東省紹遠 031
遣唐使の戦場 034
八路軍 037
高度分散配置の中隊 041
教育開始 046
拳銃を乱射する一等兵 061
捕虜虐殺 064
「戦陣訓」と「軍人勅諭」 064
突撃中隊 075
衛生兵教育 081
中隊に復帰 087
初陣 099
いも一個とらない八路軍 107
周囲みな敵のなかの十三名 115
軍紀の乱れ 118
館陶事件 123
毎日が針のむしろ 128
柳林庄の戦い 132
第三次魯東作戦 134
強制連行の中国人たち 139
住民とのふれあい 144
八路軍の反撃 147
  第二章 昭和十八年(一九四三年) 151
井戸に身を投げた工作員 151
斉山の戦い 155
八路軍捕虜の最期 164
密偵虐殺 168
送還された軍曹 172
吉山討伐隊の編成 174
招遠県道頭を出発 176
討伐を楽しむ兵隊 180
三光作戦 184
望楼爆破 192
塞里移駐 198
地雷戦 202
兵舎建設 208
自動車襲撃 213
古城苗家進駐と三都河の戦い 219
決死行 222
古城苗家分遣隊 229
日本人反戦同盟 234
女と兵隊 244 
再び発病 254
  第三章 昭和十九年(一九四四年) 261
色あせた北支派遣軍 261
塞里周辺の討伐戦 268 
乗馬小隊編成 279 
対上官犯事件 282
青煙道路の壊滅 290
相次ぐ全滅 296
小石中隊の配属 299
張画山頭の戦い 303
敵前逃亡 307
棲霞撤収作戦 313
  第四章 昭和二十年(一九四五年) 323
孤立無援の籠城暮らし 323
警乗勤務 328
独立警備歩兵第六十四大隊 339
悲痛な叫び346 
張家姜家の戦い 351
弱い守備隊 358
招遠から撤退 360
龍口の戦い 370
第三中隊の脱出 375
龍口住民の受難 378
龍口脱出 383
膠済線を西へ 387
捕虜になったT二等兵 398
坊子から丈嶺へ 403
復員 409

あとがき 423
文庫版あとがき 429
解説(石島紀之) 433
独立歩兵第十九大隊第一中隊戦没者名簿 440
独立歩兵第十九大隊衛生兵戦没者名簿 442
独立警備歩兵第六十四大隊戦没者名簿 443

カバー装幀=加藤光太郎・川井敦子
写真=1937年ごろの青島市街(朝日新聞社


○各章の概要○

[家郷を出立]~[青島から芝罘へ]
出征、入隊。青島の独立混成第五旅団独立歩兵第十九大隊へ
宇都宮駅名古屋駅下関駅→門司出港→釜山港→山海関駅→青島→山東省東部の招遠。1942年03月03日、著者は第一中隊の駐屯する招遠に配属された。

山東省紹遠]~[高度分散配置の中隊]
1942年03月03日、著者は第一中隊の駐屯する招遠に配属された。。1942年当時の中国戦線の概要。

[教育開始]~[拳銃を乱射する一等兵
初年兵教育その1。四年兵の一等兵陸軍記念日の会食(宴会)の二次会に行けなかったことに腹を立て、乱射事件をおこした。

[捕虜虐殺]
はじめて著者が目撃した日本軍の残虐行為。1942年03月02日午後四時すぎ、招遠城内の北門近くの空き地にて中国人捕虜一名が殺害された。

[「戦陣訓」と「軍人勅諭」]~「中退に復帰」
初年兵教育その2。1942年06月03日~1942年09月30日の間、青島陸軍病院で衛生兵教育を受けたのち帰隊。このとき捕虜刺殺訓練の話を同年兵から聞く。

[初陣]~[いも一個とらない八路軍
1942年11月19日~1942年11月23日の間、下店を拠点に行われた討伐作戦に参加。著者にとっては初陣だったが、戦闘らしい戦闘はなし。この後、下店分遣隊勤務となる。

[周囲みな敵のなかの十三名]~[八路軍の反撃]
1942年11月23日~1943年01月07日の間、下店分遣隊に勤務。軍旗の乱れが目立つ。館陶事件後も軍紀の乱れは続いた。

[井戸に身を投げた工作員]~[望楼爆破]
1943年01月07日~1943年09月下旬の間、第一中隊に勤務。著者はこの期間に参加した討伐作戦で拷問や虐殺などを目撃。

[塞里移駐]~「古城苗家分遣隊」~「再び発病」
1943年05月、第一中隊は塞里へ移動。1943年09月28日、古城苗家分遣隊に派遣される(それまでは塞里にて勤務)。1943年12月09日、高熱が出る。1943年12月16日、大隊本部医務室に入室。その後、芝罘患者療養所へ入院。1944年01月10日退院し、いったん大隊本部医務室にて勤務。

[色あせた北支那派遣軍]~[相次ぐ全滅]
1944年01月13日、第一中隊の駐屯する塞里に戻る。1944年01月ごろから、大規模な作戦(京漢作戦)による兵力動員で、兵力抽出が行われる。

[小石中隊の配属]~[招遠から撤退]
1944年04月下旬、上の兵力抽出と組織改編に伴い、著者は独立警備第六十四大隊に転属(駐屯地はひきつづき招遠のまま)。
1944年09月中旬、第一中隊は塞里から招遠に再び戻る。これは1944年08月上旬に八路軍側が重要な道路である青煙道路を徹底的に破壊したことが大きいが、日本軍側はこのとき、「撤退した」という意識をもっていなかったようである。第一中隊主力は金鉱(地名。重要な金の鉱山であった。)、分遣隊を招遠に配置。1944年09月中旬~1945年03月の間、著者は主として中隊付として勤務したようだ。1945年03月~1945年08月15日の間、招遠分遣隊に勤務。


[招遠から撤退]~[復員]
1945年08月20日、招遠から撤退。龍口へ。1945年08月27日、略奪や強姦を事実上許可する内容の指示が大隊本部から出され、龍口住民に大きな被害を与えた。1945年08月29日、龍口を出港。1945年09月01日、青島港に到着。1946年01月16日、高密県城内にて武装解除。このときまで日本側・中国側ともに交戦・転戦が行われていたことに注意。このときにも中国人殺害事件がおきている。1946年01月19日、有蓋貨車で滄口に移送される。1946年02月05日、青島港にて復員船に乗り出港。1946年02月07日、佐世保に到着・復員。



○引用○

P245~255
(日本軍と性に関する証言なので、多めに引用した。著作権違反の申告があれば、即座に削除します。)
(2014年12月13日、実名があった部分があったので、伏字にした。)

女と兵隊

(中略)

 初年兵時代は毎日が弓をピンとはったような緊張の連続で、食べることと眠ること以外は何も考えられなかったが、二年兵になるとそれまで木石のようにまったく関心のなかった性に対する欲望が、そろりと頭をもたげてくる。当時の現役二年兵と三年兵は二十一から二十三歳という若さであるから、女体が欲しくなるのも自然の摂理というものである。しかし人家は近くになく、満目これ荒涼という古城苗家分遣隊では性のはけ口もなかったから、人によっては困ったろうと思う。
 中隊にいれば兵隊たちは性の処理にはことかかなかった。招遠駐屯時代は港町龍口のピー屋(中国の売春宿)で、塞里に移ってからはときどき本部連絡で芝罘に行ったさいに、そこにあるピー屋ですましていた。招遠駐屯当時は、第一中隊の兵站基地ともいうべき港町龍口との交流が深く、トラックによる龍口連絡の任務がよくあった。兵隊たちは警乗兵として龍口に行ったさいに、ピー屋に足をむけた。龍口についてから帰りの出発までは、たいてい二、三時間の余裕があるので武装したままピー屋へ行く。私も二年兵になってから、一度戦友に誘われてのぞきにいったことがある。ピー屋は全部で十軒ほどあった。厚化粧をした若い中国人の女が、裾の割れた中国服をわざとまくって白い脚をちらつかせ、「兵隊さん、上がんなさい」と、かたことの日本語で誘いをかけてきた。しかし部屋全体が不潔で、とても上がる気はおきなかった。女たちはたいてい性病にかかっており、たとえサックをやっても恐ろしかった。
 ○○○中隊長は、兵隊の性欲処理にはなかなか理解があった。招遠駐屯時代に、道頭や下店の分遣隊勤務者を三ヵ月ぐらいで全員交代させ、芝罘の大隊本部連絡に全員警乗兵として、安のために出張させるという配慮があった。私も一度この恩恵にあずかり、昭和十八年一月末、大隊本部の中隊長会議に出席する中隊長の警乗兵として芝罘に行った。この警乗兵は道頭・下店の二つの分遣隊の前の勤務者だった○○○○○○軍曹(下店)、○○○○○○軍曹(逆頭)以下二十数名をもって編成された。
「長い間、道頭・下店で禁欲生活をさせて気の毒であった。芝罘へ行って大いに英気を養え」というわけである。
 兵隊の性欲処理のために部隊によっては慰安婦をかかえ、慰安所を設け、性に飢えた兵隊たちの欲望を満たしていた。慰安婦は、朝鮮人と中国人が多かった。しかし、十九大隊は高度分散配置についていたので、慰安所は設けられず、芝罘や威海衛、窓口に所用の任務で行ったさいに中国人のピー屋ですましていた。芝罘や威海衛、龍口ばかりでなく、県城やそれに次ぐぐらいの大きな村にもピー屋があって、度胸のいい古年兵になると、こっそりぬけ出して女を抱いた。
 招遠県城のピー屋は北門を出た右の方にあり、厩勤務の兵隊が乗馬運動にかこつけてよく行っていた。古年兵が用を足している間、初年兵は馬の手綱をもたされて待っていた。古年兵ともなると上官の目を盗んで、でたらめもできた。
 古城苗家分遣隊には一時、林という満州生まれの中国人通訳が、狭い分遣隊できれいな細君と同棲していた。これは兵隊たちの殺伐とした心をなごませる効力があったが、厚化粧をして兵隊たちを悩殺しかねないこともあり、男ばかりの世界ではまずかった。やがてこのことに気がついた中隊長のはからいによって、彼女は塞里に帰っていった。
 私は人営前の半年ぐらいの間、「やがて国家のために戦死するかもしれない若者が、少しぐらいの女遊びをして何か悪い」と、自分勝手な理屈で○○○○○○という私娼街を夜ごとさまよい歩き、ときには東京の吉原や玉の井まで足をのばしたことがあった。しかし、入隊してからは考えが変わり、戦場とはいえ女に接触する機会もかなりあったが、四年間に女を抱いたことはあまりなかった。
 性欲というものは、食欲や睡眠とくらべれば一段次元が低いもので、意志の力によっていくらでも調節できるものである。しかし、これも人によりけりであった。
 昭和十八年八月ごろ、○○○上等兵という性格が粗暴で飲酒癖もある三年兵が古城苗家分遣隊勤務となって中隊から来た。○○○上等兵は上司の中隊長や人事係准尉にうとまれ、初年兵時代から分遣隊勤務が多く、心はかなり荒んでいた。分遣隊勤務が長いということは、それだけ女から遠ざかっていたわけであるから、○○○上等兵は自身の性欲をおさえるのに苦しい思いをしていたのかもしれない。
 ○○○隊長はこの○○○上等兵らとともに、情報の収集や宣撫工作などの名目で、分遣隊のすぐ下にある後辛旺という部落へ行って女をあさっていた。最初に行ったときには確かに情報収集が目的だっただろうが、きれいな女を見て欲望がおきたのであろう。蓬莱県は昔から美人が多く「蓬莱美人」という言葉もあったくらいである。遣唐使の時代に蓬莱へ上陸した使節や留学生か蓬莱の女の色香にまよい、目的地へ行かずにこの地で果てたという話を、なにかの本で読んだことがある。討伐で蓬莱県城や大辛店などへは幾度となく行ったが、私自身も美しい女性を何人も目にした。
 ○○○隊長らは金品で相手の欲心をかって関係した。このとき折衝にあたったのが林通訳である。○○○通訳はやがて○○○隊長と確執をかさね、中隊に呼び戻されることになったが、そのとき○○○隊長に「強姦したのではないぞ。よけいなことをしゃべっちゃいかん」と圧力をかけられていた。
 後辛旺は分遣隊に最も近く、毎日水や薪を運ぶ村であったが、○○○隊長らの女あさりが始まってからは目に見えて非協力的になった。
 そのころ十九大隊では、大隊長が若い日本人の女をかこっていたから、金子隊長らのような下士官が出ても不思議はなかった。
 大隊長クラス以上になると公然と女をかこい、下士官や兵隊は陰でこそこそやる。全部とはいわないが、外地にいた将校の品行が悪いことは言をまつまでもない。彼らはなにかというと「軍紀」や「風紀」をもちだしてやかましくいって、兵隊たちを頭からおさえつけようとしていたが、将校みずからが襟を正し、率先して曜範の実を示さなければ、諸事上官に従っていればよいと諦観している兵隊でも、そういつもいうことばかりはきいていられない。上がこういう状態では、下の軍紀がみだれるのは当然で、強姦などのいまわしい犯罪が多発したのも、ひとつには、女をかこったり金銭をごまかしたりする悪徳将校に対する、兵隊たちの無言の抵抗だったのである。
『岡村寧次大将資料 戦場回想編』(稲葉正夫編、原書房刊)によれば、岡村大将は昭和十三年から十四年にかけて、第十一軍司令官として華中の漢口《かんこう》在任中に兵隊の強姦事件が多発していたことを憂慮して、「戦地強姦罪」という特別の法律を作って兵隊を取り締まるよう、陸軍中央に要請したという。しかしこれはあまりにも一方的で、兵隊ばかりでなく将校をも取り締まるべきであった。ここにもまた一人の最高級軍人の兵隊蔑視をハッキリとみることができる。一部ではあるがおおむね佐官以上の軍人、とくに軍の中央にあったエリートや将官クラスは徹底して兵隊を蔑視していた。
 そのころ各中隊では性病患者が多く発生していた。兵隊ばかりでなく、下士官や将校にも罹患する者が続出した。一度にではないが、大隊にいる全四名の中隊長のうち、三名までが性病に罹患し、うち二名が入院したということもあった。中隊長ともなると、淋病(正式には淋毒性尿道炎)や梅毒などの病名で入院しては部下に対して体裁が悪いので、高級軍医が気をきかして外痔核とか急性咽頭炎などの適当な病名をつけて入院させた。
 十九大隊では、軍医までが性病にかかっていた。「医者の不養生」とはよくいったものであるが、それにしてもずいぶんお粗末な話である。
 十九大隊は高度分散配置についていた関係上、四名(以前は三名)の軍医がいた。本部にいるのが一番先任の軍医で「高級軍医」と呼ばれ、残りの三名は各中隊に配属されていた。そのなかの褄霞の中隊に配属になっていた医学専門学校を出たばかりという若い軍医は、サックもつけずにピー屋の女に接したために、たちまち淋病をうつされてしまった。ちょうど青煙道路がズタズタに切断されて、芝罘との連絡が途絶したときだったので、薬が手にはいらず、病気は慢性化し、後々まで尾をひいてこの軍医を苦しめた。
 当時、女に接するさいには必ずサックをつけるよううるさく警告されていたが、性病の恐ろし方を認識しなかったり億劫がったりしてつけなかったので、多くの将兵が性病に罹患した。当時はまだペニシリンもないときであるから、淋病にはテラポールという薬をのんだり、過マンガン酸カリ液で尿道洗浄をやったりした。梅毒にはサルバルサン(六〇六号ともいわれた)が特効薬として広く使われた。この薬は明治四十三年(一九一〇年)に創製された有機砒素化合物で、ペニシリンが出現するまでは梅毒に対する唯一の薬として重用された。私は梅毒に感染した兵隊に、軍医には内証でひそかに注射してやったことが何回かある。
入院する兵隊の病気には等級があり、戦傷などは一等症で、内科関係の病気は二等症、性炳は三等症となっていた。この三等症で入院するということは一番不名誉なことで、上官の信頼をうしなって進級は遅れ、戦友には軽侮されてさんざんである。
 以前、Tという三年兵の上等兵が性病を患って○○○中隊長に激しく叱責されたことがあった。その後彼は昭和十八年八月上旬に、古城苗家付近の大隊討伐で肋膜炎にかかり、芝罘患百療養所に入院した。
 それから1ヵ月後の九月なかばごろ、○○○○○○大尉を討伐隊長とする褄霞県下の大隊討伐で、孤家院《こかえん》という村に宿営中、T上等兵が入院先の芝罘患者療養所で死亡したという電報が、芝今の大隊本部からはいった。討伐隊の無線兵○○○上等兵が電文を○○○中隊長に差しだしたところ、中隊長は「うん」といっただけで、別に哀悼の気持ちを示すようなこともなかった。
 中隊長のもとから帰ってきた○○○○○○上等兵は、指揮班の兵隊にやや怒気をふくんだ声でこういった。「兵隊は絶対に性病にかかってはだめだ……」
 大隊長が芝罘患者療養所に部隊の入院患者を見舞った時、性病で入院中の一人の兵隊を激しく叱責したこともあった。当時、大隊本部医務室に勤務していた私は、その兵隊の外出する際にサックを手渡し、「必ずこれをやっておみやげ(性病)をもらうなよ」と強く念をおしたが、使わなかったらしく感染してしまった。
 ○○○大隊長がその兵隊を叱責した際に、私は大隊長随行してその場にいたが、一喝をくらったその兵隊は見るも気の毒なほど萎縮しきっていて、あわれであった。若気のいたりであるから、怒ったところでどうなるものでもない。しかもそのころ大隊長け宿舎に若い女をかかえこみ、「夜のみの妻」としていたという将校であるから、性病にかかった兵隊を叱責する資格はないはずである。
 また軟性|下疳《げれん》という性病にかかり、この性病でよくできる横痃《おうげん》(鼠蹊《そけい》リンパ節にできる腫れ物、横根ともいう)を自分で切ってしまったという勇ましい兵隊もいた。
 この兵隊は私の中隊にいたKという兵隊で、たまたま「芝罘連絡」に行って感染してしまった。一般に淋病、梅毒、軟性下疳、鼠蹊リンパ肉芽腫症を性病というが、軟性下疳は淋病や梅毒より軽くみられる傾向があった。
 Kの股のつけ根が赤く腫れ、日がたつにつれて朧んできた。Kは旅団砲兵隊(青島)で蹄鉄工兵の修業教育を六ヵ月近くもうけたが、この教育には馬の外科手術も含まれていたため、消毒薬を塗って自分で横痃を切ってしまった。昔、勇ましい江戸っ子は剃刀をもって海に飛び込み、自分で横痃を切ったということを本で読んだことがあるが、Kの場合もこれと似たようなものである。切開したキズ口には馬糧に混入する吉見粒ほどの岩塩を二つ押し込んで、痛いともいわずに足をひきずりながら休まずに勤務を続けたのであるから、Kもたいしたものである。




○索引○
(実名はプライバシー保護のため○○○で伏せることにする)

006~007 山東省地図 昭和16年(1941年)ごろ
008 北支方面軍ならびに独立混成第5旅団編成表(昭和17年4月)
009 茨城県西茨城群宍戸町(現友部町)南小泉の鎮守の森 茨城県宇都宮の東部第三十六部隊 昭和十七年二月九日
011 「女を強姦した」といったたぐいの自慢話が多く
011 『幕末勤王歌人集』(内閣印刷局
013 ○○○町は宇都宮の有名な私娼街(売春街)で 翌日の二月十日
017 二月十八日 出発日
019 「わが守護神」亡き母の写真
020 十九日午後七時頃
021 スポーツの試合にでも行くような明るさ 二十日早朝 下関 門司出発
022 井上清著『天皇の戦争責任』(現代評論社刊)
023 二十一日早朝 釜山港
024 独立歩兵第十九大隊に転属 万里の長城 二月二十四日 山海関駅 二月二十七日 青島兵站
025 約三万人ほどの日本人
027 独混四旅 蒋介石麾下の干学忠軍
028 自動車第二十五連隊 三日間滞在 「魯中作戦」
029 青煙道路 三月一日の午後八時
030 硫黄島 歩兵第百四十五連隊長
031 約七百人いたという
032 三月三日 第一中隊の駐屯地招遠に到着 十四日目
033 傀儡中国軍 へんぴ
034 煉瓦を積み重ねて作った百平方メートルほどの建物が約五千平方メートルほどの敷地の中に数十ほど散在し
036 (佐久間亮三編『日本騎兵史』原書房) 落とし子 従軍回想録『思い出』 
モーゼル拳銃を暴発させた 日本人と朝鮮人のホステスが三人 乱射 物資を横流し
037 昭和十七年二月二十六日
040 井陘炭鉱
042 東京都ほどの面積である招遠県をわずか二百名足らずの兵力で守っていたのである
044 「自昭十七年三月三日至昭和十七年五月二十七日、中華民国山東省招遠県招遠において初年兵第一期の本業基本訓練並びに同地付近の警備」
047 「北伐派遣軍の歌」
054 中国人の下働き 空腹
057 「班内総ビンタ」
059 家永三郎
060 あごの骨が折れて内地還送
061 三月十日
064 三月十二日の午後四時すぎ 北門に近い城内の空き地 「今からお前たちに八路の捕虜の首切りを見せる」
065 その落ち着いた態度 「中国共産党万歳!」 少しも騒がず
066 「おい初年兵さん、これを持ってみな」 生首 解剖 武士の情けというものではなかろうか
075 芝罘特務機関
077 「おい、みんな見ていろ。いまあれを撃ってやるから」
078 銃声と同時に、ロバが狂奔
081 五月二十七日、私は衛生兵の教育を受けることになり
083 青島陸軍病院 [写真]
086 皇軍慰問
087 九月三日までの
084 昭和十七年六月三日 十月二十一日 八月一日付
090 日射病
091 捕虜刺殺訓練
092 総合雑誌『潮』の昭和四十七年七月号 城野宏氏
097 「可愛いスウチャン」
099 昭和十七年十一月十八日
100 暴れまわってみたい
102 「第三次魯東作戦」
107 ○○○討伐隊は、十一月十九日より二十三日まで 交戦はなかった
109 山下龍三『中国人民解放軍
110 家永三郎
114 十一月二十三日午後三時
115 「○○○討伐隊ハ『と号作戦』参加ノタメ現兵力ヲモッテ二十四日十三時マデニ黄城集ニイタリ、大隊長ノ指揮下ニハイルベシ」 下店分遣隊は招遠の南方三十三キロ
119 「いま、犬を撃ったところだ」
120 隊長がおとなしく、ほかに口やかまし下士官が一人もおらず、三年兵が主力とあっては、でたらめになるのも当然であった。
122 女房と関係する者
128 昭和十八年一月七日
130 昭和十七年四月十四日 自殺 十月二十八日
132 実施した。
134 「華人労務者内地移入に関する件」
137 『星火燎原(4)』
138 皆殺し 内田銀之助中将
139 聞いた話
140 「もうよい、離してやれ」
143 『潮』昭和四十七年五月掲載の藤島宇内
144 劉連仁
145 天津の貨物廠
146 昭和十七年十二月下旬 白河村の村長
151 昭和十八年一月七日、下店分遣隊の全員が中隊に復帰することになった。
152 石柵という村 槐樹荘という村
153 道の脇の井戸に身を投げた
155 昭和十八年一月十七日 翌十八日未明
161 新聞に掲載された
163 一般には「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬと思っている人が多いようだが、私は一度も聞いたことがない。
165 ことごとく殺してしまった。
169 昭和十七年十二月三十一日 しかし今回、現実に同じような残虐行為を目にして
170 局部に火のついたコーリャンがらを押しつけた
171 「野郎!」と叫ぶと同時に銃剣をブスッと腹部に突き刺し、近くにあった井戸へ突き落として上から小銃を数発撃ちこんだ。
172 一週間後の一月二十四日
173 三日後、 のち内地還送
174 旅団討伐の命令が下った
175 このとき私は大隊本部付を命ぜられ
176 徴用された中国人たちにとっては災難であった 四月五日午前七時
177 歩兵第百四十五連隊長
180 「八路軍地区のあらゆる物資を収奪して八路軍の戦力の衰亡をはかるべし」という命令が
181 現地調達 中には女を捜す者もある。
184 陸軍には肋膜炎や肺結核の患者が非常に多かったが、
186 通訳にきいたところ、道案内の中国人が道をまちがえたというので○○○中隊長が怒って軍刀で一突きに突き刺してしまったという。 くだん
187 の村長 「オーデトントンデーメイユウ(俺はなんにも知らない)」
188 拷問 コーリャン殻に火をつけて局部におしつけ 「すごいなあ! すごいなあ!」
189 井戸のなかへ、ちょうど吸い込まれるように、われとわが身を投げ捨て果ててしまった 「戦争に勝つためには仕方がない」 中隊長の住民殺害はその後も散発的に続いていたのである。 『北支の治安戦(2)』によると、 全然知らなかった。
190 本多勝一著『中国の旅』(朝日新聞社刊)や『中国の日本軍』(創樹社刊)、石上正夫著『平頂山事件』(青木書店刊) 参謀長田中隆吉少将
191 『郷土兵物語』(松本政治編、岩手日報社刊)には、第三十六師団(敗戦時ニューギニア)の将兵による山西省駐屯時代の談話が掲載されている 「あまりふれたくない焦土戦術の話だが(中略)戦争とはいえ、ほとほといやな戦術だった。連隊はできるだけこの命令に服従しない方針をとった」
192 松本重治著『上海時代(中)』(中央公論社刊)によると、田中隆吉が「中国人などは人間ではなく豚である。なんでもやっちまえばいい」と放言したと書かれている。
193 タマゴの下に仕掛けてあった爆弾
194 五月七日深夜
196 昭和十八年一月十日
198 『季刊現代史6』(松本清張発行、藤井忠俊編集、現代史の会刊)
199 華北交通
210 狭い濠のなかを逃げまわる中国人たち目かけて拳大の石を力いっぱい投げたので、一人が腕に大ケガを負ってしまった。
211 「いまに見ておれ」 しかしある日、たまたま逃げ遅れた若い夫婦を発見したことがあった。彼らを捕らえようとしたところ、いきなり裸のまま逃げようとしたので、中隊長が軍刀をふるって一刀のもとに斬り殺してしまった。アッという間の惨劇である。 住民殺害 たかが中尉といっても封建時代の君主と同様で 
220 婦女を凌辱する事件が頻発し
232 九月二十八日、私は討伐隊を離れて古城苗家分遣隊勤務を命ぜられた。
235 十一月十三日夜
247 性の処理
260 『中国残留日本兵の記録』
261 塞里の中隊に帰ったのは一月十三日であった。
265 北支那特別警備隊
267 転出命令
274 しばって中隊に連行したのみであった
275 性格的に信頼できないところがあった。
285 同じような事件が発生した。 昭和十九年六月二十日
292 八月上旬 道路が壊滅的に破壊
293 八月下旬、第一中隊が塞里を 放棄
300 昭和十九年九月中旬 招遠に撤退
303 中隊には、夫が出漁中の留守をねらってその妻を犯す兵隊がいたり、将校に暴力をふるったり、兵隊同士で喧嘩し、はてに手榴弾を暴発させて大ケガをするというような、手に負えない兵隊もいた このとき黄山館から南東約十キロほどの道路沿いにある村を全尸焼きはらうという残酷な掃討を行った。
304 今回の旅団討伐で焼き討ちされた家は百尸近くにのぼり、屋根は焼けおち、壁だけが残るという見るも無残な姿となってしまった 九月二十一日
307 厚生省との間で依然として抗争を続けている。
310 小説『軍旗はためく下に』(結城昌治著、中央公論社刊)
312 中隊長のペン先一つでどうにでもなった。
314 鋸歯牙山
316 大連の映画館のチラシ
340 この改編で、私は独立警備歩兵第六十四大隊(以後、六十四大隊と略称する)に転属することになった 私は三月初めより招遠分遣隊で約一月間にわたりのんきな日々を送っていたが、
341 慰安所までもうけられていたのにはびっくりした。 招遠県にひとつしかない小・中学校の校舎を追い出された中国の子供たちはいったいどこで勉強を続ければよいのだろう。 六十四大隊は、つぎのような部隊の出身者で編成された。
343 北支方面軍ならびに第12独立警備隊編成表(昭和20年8月15日)
348 「これは犯されたな」と思って
371 焼き殺してしまった。
379 「市中に出て各自、適宜、糧秣を徴収せよ」

※本記事は「s3731127306の資料室」2015年01月19日作成記事を転載したものです。