『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」5-01~5-05(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#2字下げ]第五編[#「第五編」は大見出し]


[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

 シチェルバーツカヤ公爵夫人は、もうあと五週間しかない大斎期《だいさいき》までに、結婚式を挙げるのは不可能と見なした。というのは、したくの半分もそれまでに、まにあうはずがなかったからである。しかし夫人は、斎戒期のあとではあまり遅すぎるという、レーヴィンの意見に賛成しないわけにいかなかった。シチェルバーツキイ公爵の親身の伯母にあたる老婦人が重態で、まもなく死ぬおそれがあったので、もしそうなると、挙式がいっそうおくれるからであった。そういったわけで、したくを大小二つに分けることに決めて、公爵夫人は、大斎期より前に式を挙げることに同意した。小の部に属するしたくは、今すぐ全部ととのえ、大のほうはあとから送ることに決めた。そして、レーヴィンがそれに賛成かどうかについて、ちっともまじめな返事ができないといって、ひどく腹を立てた。まして、新郎新婦は式のすみしだい、田舎へ行くが、そこでは道具類の必要がないので、この思案はひとしお好都合であった。
 レーヴィンは依然として、狂気のような状態でいた。彼は、自分と自分の幸福こそは、存在するいっさいのものの主要にして唯一の目的であるから、今はもう何一つ考えたり、心配したりする必要はない。そんなことはみんな、ほかのものが代ってしてくれているし、またちゃんと始末をつけてくれるに相違ない、というような気がしていた。それどころか、彼は将来の生活のために、なんのプランも、目的ももっていなかった。なにもかもうまくいくことがわかっていたので、そういう決定は他人にまかせきりにしていた。兄のコズヌイシェフやオブロンスキイ、それに公爵夫人が、どうしたらいいかということを、指導してくれたのである。彼は人から勧められることに、一から十まで賛成するばかりであった。兄は彼のかわりに金を借りてくれるし、公爵夫人は式がすむとすぐモスクワを立てといった。オブロンスキイは外国旅行に行けと勧めた。彼はなんにでも賛成した。
『もし諸君にそれがおもしろかったら、なんでもしたいようにしてくれたまえ。僕は幸福なんだから、諸君が何をしようと、そのために、僕の幸福はふえも減りもしやしない』と彼は考えた。
 彼がキチイに、外国を旅行しろというオブロンスキイの勧めを伝えたとき、キチイがそれに反対して、二人の未来の生活について、何かしらはっきりした要求をもっているのに、一驚をきっした。彼女は、レーヴィンが田舎に仕事をもっていて、それを愛しているのを承知していた。レーヴィンの見るところによれば、彼女はその仕事を理解していなかったばかりでなく、理解しようとさえ思っていない。にもかかわらず、それは彼女にとって、この仕事がきわめて重大なものであると考えるじゃまにはならなかった。こういうわけで、彼女は自分たちの家が田舎にあることを知っていたから、自分たちの住みもしない外国へ行くのを望まず、わが家のあるところへ行きたがったのである。このはっきりと表白された意向は、レーヴィンを驚かした。しかし、それは彼としてどちらでもよかったので、オブロンスキイにむかって、まるでそれが義兄の義務ででもあるように、ポクローフスコエ村へ行ったうえ、持ちまえの豊富な趣味を利用して、いっさいのことを思いどおりに整えてくれと頼んだ。
「だがね、一つきくが」あるときオブロンスキイは、新郎新婦の来着のため、いっさいの準備を整えた後、田舎から帰ってきて、レーヴィンにこういった。「君、懺悔式に行ったという証拠を持っているかい?」
「持っていない。それがどうしたんだい?」
「それがなければ、結婚式が挙げられないよ」
「さあ、さあ、たいへん、たいへん!」とレーヴィンは叫んだ。「僕はなにしろ、もう九年から精進をしたことがないらしいんだからな。そんなこと考えもしなかった」
「けっこうなもんだ!」とオブロンスキイは、笑いながらいった。「それで僕のことを、ニヒリストだなんていうんだからなあ! それにしても、そんなこっちゃだめだよ。精進しなくちゃいけない」
「いったい、いつ? あと四日しかありゃしない」
 オブロンスキイは、この点もうまくこしらえた。で、レーヴィンは精進をはじめた。レーヴィンは不信者であると同時に、他人の信仰を尊敬する人間なので、すべて教会の儀式に参列したり関係したりするのが、はなはだしく苦痛であった。今はすべてにたいして感じやすい、和らいだ気持になっていることとて、この仮面をかぶらなくてはならぬということが、レーヴィンにとっては単に苦しいどころでなく、まったく不可能に思われた。今や光栄に咲き匂うような心の状態になっているとき、嘘をつくという冒涜《ぼうとく》を、あえてしなければならぬ。彼はそのどちらも、できそうにないと感じた。精進せずに証明をもらう方法はないかと、いくらオブロンスキイにきいてみても、そんなことは不可能だと、いいわたされるのであった。
「だいいち、それしきのことが、なんだというのだ――たった二日の辛抱じゃないか? それに、坊さんもじつに優しくって、利口なお爺さんだよ。君が自分でも気がつかないように、その痛い歯をひき抜いてくれるよ」
 最初の祈祷式に立ったとき、レーヴィンは十六七の青年時代に経験した宗教的感情の追憶を更新しようと試みた。が、これは絶対に不可能だと、すぐに確信させられてしまった。で今度は、こんなことは他家を訪問する習慣などと同じで、なんの意味もない、空な習慣と見なすようにつとめてみた。が、それさえなんとしてもできないと感じた。レーヴィンは大多数の現代人と同様、宗教にたいしてあいまいな状態にあった。信ずることはできなかったが、同時に、それはすべてまちがっているという、強い確信ももっていないのであった。そういったわけで、自分のしていることの有意義を信ずることもできなければ、それを空な形式として無関心に見すごすこともできず、この精進のあいだじゅう、自分でも理解できないことをしながら、ばつの悪い、恥ずかしい気持を経験しどおしであった。したがって、内部の声は彼にむかって、これは何かしらよからぬ虚偽の所行である、とささやくのであった。
 勤行《ごんぎょう》の間に、彼は祈祷を聞きながら、自分の見解と背馳《はいち》しないような意味をつけようと努力したり、自分にはそれを理解する力がないのだから、誹議《ひぎ》するのが当然だと感じて、祈祷を耳に入れないようにつとめ、自分の想念や、観察や、追憶に没頭したりした。またそういうものは、教会の中にぼんやり立っているあいだに、ことさら生きいきと頭に浮んでくるのであった。
 彼は昼祈祷、夜祈祷、夕の掟を全部きいて、あくる日はいつもより早く起き、茶も飲まずに、朝の掟をきいて懺悔するため、朝の八時に教会へ行った。
 教会には、乞食のような兵隊と、二人の老婆と、教会の小使のほか、だれもいなかった。
 薄い法衣《ころも》の下から、長い背筋の右左がくっきりと見えている、年の若い補祭が彼を迎えると、いきなり壁際の小テーブルのそばへ行って、掟を読みはじめた。読経が進むにしたがって、特に『主よ憐れみたまえ』(これがちょうど『れみたん、れみたん』と聞えるのであった)という同じ言葉を、ひんぴんと早口にくりかえすところになると、自分の思想は閉ざされ、封じられてしまっているので、今はそれにさわったり、揺すぶったりしてはいけない、さもないと混乱が生じる、とこう感じた。で、レーヴィンは補祭のうしろに立ったまま、相変らず耳をかさず、注意を払わないままで、自分のことばかり考えていた。
『彼女の手は驚くばかり表情に富んでいる』昨日ふたりで隅《すみ》のテーブルにむかって坐っていたときのことを思い出して、彼はこんなことを考えた。このころはほとんどいつもそうであるが、二人は何も話すことがなかった。で、彼女はテーブルの上に手をのせて、開いたり、閉めたりしていたが、自分でもその動きを見て笑い出した。彼はその手を接吻したこと、そのあとでバラ色の掌《てのひら》についている筋を調べて見たことを思い出した。『また、れみたん、だ』とレーヴィンは十字を切り、礼拝をし、同じく拝をする補祭の背の、しなやかな運動を見つめながら、こんなことを考えた。『彼女はそのあとでおれの手をとって、筋を見ると、あなたの手相はとてもよくってよ、といったっけ』彼女は自分の手を見、補祭の短い手を見た。『さあ、もうまもなくすむぞ』と彼は考えた。『いや、またはじめからやりなおしらしい』祈祷の言葉に聞き入りながら、彼はこう考えた。『いや、やっぱりおしまいだ。そら、もう床に額をつけて、拝をしている。いつも終る前にはああするんだ』
 三ルーブリ札を目立たぬように受けとって、プリスの袖の折り返しの中に隠すと、補祭は帳面に書きこみますといって、がらんとした会堂の板石に新しい靴を響かしながら、元気よく祭壇の中へ入っていった。と、すぐにそこから顔をのぞけて、レーヴィンを小手招きした。それまで閉じこめられていた思念が、レーヴィンの頭の中で、もそろと動いたが、彼は急いでそれを追いのけた。『なんとかなるだろう』と思って、説教台の方へ進んだ。段々の上に昇って右へ曲ると、司祭の姿が目に入った。うすい半白の頤鬚《あごひげ》を生やし、疲れたような、人の好い目をした老司祭は、経机のそばに立って、聖礼記のページをめくっていた。軽くレーヴィンに会釈すると、すぐ慣れた声で祈祷を唱えはじめた。それがすむと、額を床につけて拝をし、レーヴィンの方へまともに向きなおった。
「ここには目に見えぬ主キリストが、あなたの懺悔を聞こうとして、立っておいでになります」と彼ははりつけ像をさしながらいった。「あなたは、聖なる使徒によって建てられた教会の教えることを、すべて信じておられますかな?」レーヴィンの顔から目をそむけて、両手を襟飾の下で組みあわせながら、司祭は言葉をつづけた。
「私はすべてを疑いました。今でも疑っています」とレーヴィンはわれながら不愉快な声でいって、口をつぐんだ。
 司祭は、まだ何かいわないかと、数秒間じっと待っていたが、やがて目を閉じて、Oをはっきりいうヴラジーミルふうの発音([#割り注]力点のない o は a のように発音されるのが普通[#割り注終わり])で早口にいいだした。
「疑いは弱い人間につきものでな。しかし、われわれは慈悲深い主に力をつけていただくために、お祈りをせにゃなりませんて。いったいあなたは、特にどういう罪をおもちですかな?」まるで一刻もむだにしまいとつとめるかのように、いささかの隙もなくこうつけ加えた。
「私のおもな罪は疑いです。なにもかも疑って、大部分は疑いの中におかれています」
「疑いは弱い人間につきものでな」と司祭は同じ言葉をくりかえした。「が、おもにどういうことを疑われますな?」
「なにもかも疑います。どうかすると、神の存在さえ疑うくらいです」とレーヴィンは思わずそういうと、自分で自分のいったことの無作法さにぎょっとした。が、司祭はレーヴィンの言葉に、なんの印象も受けなかったらしい。
「神の存在に、なんの疑いがありえましょうぞ?」かすかにそれと認められる微笑を浮べて、彼は急いでそう答えた。
 レーヴィンは黙っていた。
「あなたは神の創造を自分の目で見ていながら、どうしてその創造主について疑いをいだくことができるのでしょう?」と司祭は慣れた語調で早口につづけた。「天の穹窿《きゅうりゅう》をもろもろの星辰《せいしん》で飾ったのは、だれだと思います? 大地をこうした美でおおったのは、だれだと思います? 創造主でなくて何でしょう?」質問の表情でレーヴィンを見ながら、彼はそういった。
 僧侶と哲学的な討論をするのは、ぶしつけだと感じたので、レーヴィンはただ問いに直接関係のあることだけ答えた。
「知りません」と彼はいった。
「ごぞんじない? それなら、どうしてあなたは、神がいっさいを創造したことを疑われるのです?」と司祭は愉快そうな怪訝《けげん》の調子でたずねた。
「私はなんにもわかりません」自分の言葉がばかげているのを感じ、またこういう立場にあっては、ばかげて聞えないわけにいかないのを感じて、レーヴィンは顔を赤らめながら、こういった。
「神に祈って、お願せられるがよい。聖者と呼ばれる神父たちでさえ、疑いをいだいて、信仰の固めを神に祈られたくらいですからな。悪魔は大きな力をもっておるから、われわれはそれに負けてはなりません。神に祈りなさい、神にすがりなさい。神に祈りなさい」と彼は早口にくりかえした。
 司祭は何か考えこんだように、しばらく黙っていた。
「お聞きしたところでは、あなたは私の檀家《だんか》で法の子であるシチェルバーツキイ公爵の令嬢と、結婚なさるそうですな?」と彼は微笑しながら、つけ加えた。「りっぱな娘さんじゃ」
「ええ」とレーヴィンは顔を赤くしながら、答えた。『なんだって懺悔の式で、こんなことをきく必要があるのだろう?』と彼は考えた。
 彼のこの疑問に答えるように、司祭はいった。
「あなたは、これから結婚しようとしておられる。神はおそらく、あなたに子孫を恵まれるに相違ない。そうではありませんか? もし不信の方へとひいていく悪魔の誘惑を征服されなんだら、いったいあなたは自分の幼いものに、どんな教育を授けるおつもりですな?」と彼はつつましやかな非難をこめていった。「もしあなたがわが子を愛されるなら、あなたは善良な父親として、単に富や、奢侈《しゃし》や、名誉のみを、子供のために望まれはしまい。子供たちが救われるように、真理の光で魂を照らされるようにとねがわれる、そうではありませんかな? もし無垢な幼いものがあなたに向って、『お父さん、この世で私たちを喜ばしてくれるいっさいのもの――大地、水、太陽、花、草などは、いったいだれが創《つく》ったのですか?』ときいたとき、あなたはどう答えます? まさか、『わしは知らない』と答えはなさるまい。主の神が、その偉大なるみめぐみによって、あなたに啓示《けいじ》してくだすったこれらすべてのことを、知らずにおられるわけはありますまい。それとも子供さんがあなたに向って、『あの世ではいったい、どんなことが私を待ち受けているのでしょう?』ときいたとき、あなたは何も知らずにいて、いったいなんというつもりです? いったいなんと答えられます? 世俗の快楽や、悪魔の誘惑にまかせてしまわれますか? それはよくないことじゃ!」といって、彼は言葉を止め、頭を傾けて、善良なつつましい目でレーヴィンをながめた。
 レーヴィンは今はなんとも答えなかった。それは、僧侶と議論したくなかったからではなく、だれも彼にそんな問いを発するものがなかったからである。自分の幼い子供たちがこういう質問をしかけるまでには、まだまだまがあるから、なんと答えたものか考えることもできる。
「あなたはこれから、人生の盛りに入ろうとしておられる」と司祭はつづけた。「だから、おのれの進むべき道を選んで、それを守っていかねばなりません。どうか神がその大いなる恵みによって、力を与え、憐みをたれてくださるよう、よくお祈りせにゃなりませんぞ」と彼は結んだ。「主なる神であるわれらのイエス・キリストは、その豊かなる慈悲と人間愛によって、子なる汝を赦したまわん……」といって、許しの祈祷を唱え終ると、司祭は彼を祝福して、放免した。
 この日、宿へ帰ると、レーヴィンは喜ばしい気持を経験した。それは、ばつの悪い状態が終りを告げた、しかも嘘をつかないですんだ、ということなのである。なおそのほか、何か漠とした追憶が残った。あの善良で優しい司祭のいったことは、はじめ感じたほどばかげたものではなく、そこには何か闡明《せんめい》を要することがある。
『もちろんいまじゃない』とレーヴィンは考えた。『いつかまたあとで』今レーヴィンはいつもにまして、はっきりと感じた。自分の心の中は、何かしら不明瞭で、純でない。宗教に関する自分の心の状態は、自分が他人の中にまざまざと見て不快に感じ、そのために友人のスヴィヤージュスキイを非難した、あれと同じことであるのを自覚したのである。
 この晩、ドリイのもとで、許婚《いいなずけ》といっしょにすごしたレーヴィンは、ことのほか快活であった。そして、自分の興奮した心持を、オブロンスキイに説明しながら、ちょうど輪を飛びぬけることを教えられた犬が、やっと合点がいって、要求されることをまんまとやってのけ、うれしさのあまり、きゃんきゃんないたり、尻尾をふったり、テーブルや窓の上へとびあがったりする、それとおなじように愉快でたまらないのだ、といった。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 式の当日、レーヴィンはしきたりに従って(公爵夫人とドリイは、すべてのしきたりを厳重に守るように主張した)許婚の顔を見ないで、偶然来合わせた三人の独身もの、コズヌイシェフと、大学時代の友だちで今は自然科学の教授をしているカタヴァーソフと(これはレーヴィンが往来で会って、無理にひっぱってきたのである)それからモスクワの単独判事であり、レーヴィンの熊狩り仲間である介添人のチリコフと、自分のホテルでいっしょに食事をした。その会食は、非常ににぎやかであった。コズヌイシェフはこの上もない上きげんで、カタヴァーソフの奇抜な話しぶりに興がっていた。カタヴァーソフは、自分の独創ぶりが理解され、みんなに買われているのを感じて、むやみにそれをひけらかした。チリコフは、にぎやかに人のいい調子で、どんな話にでも相槌を打っていた。
「さて、そこで」講壇で癖になった言葉尻をひきながら、カタヴァーソフはこういった。「われらの友コンスタンチン・ドミートリッチは、かくのごとき有為なる青年でありました。私は、この席におらぬ人のことをいっておるのであります。その当時は学問を愛して、大学卒業後も、人間的な興味をもっておりました。ところが、今はその才能の半分は、おのれを欺くことに向けられ、残りの半分は、その虚偽を弁護することに向けられています」
「あなたのような手ごわい結婚の敵は、またと二人見たことがありませんよ」とコズヌイシェフはいった。
「いや、私は結婚の敵じゃなくって、分業の味方なんです。なんにも芸のない人間は、人間をこしらえるのが本当です。その他の人々は、できた人間の教化と、幸福に協力すべきである、とこんなふうに私は考えております。この二つの職業を混同したがるものは、数え切れないほどありますが、私はその数に入っておりません」
「君が恋をしたと知ったら、僕はどんなにうれしいかわからない!」とレーヴィンはいった。「どうか僕を結婚式に呼んでくれたまえ」
「僕はもう恋をしているよ」
「そうだ、烏賊《いか》にだろう。ねえ」とレーヴィンは兄に話しかけた。「ミハイル・セミョーヌイチは、栄養に関する著述を執筆中なんですが……」
「いや、まぜっかえしちゃいけない! そりゃなんの著述だってかまわないが、要は、僕が本当に烏賊《いか》を愛しているということです」
「しかし、烏賊は君が細君を愛するじゃまをしないだろう」
「烏賊はしないが、女房のほうがじゃまをするんですよ」
「どうして?」
「まあ、見てみたまえ。君は農場や猟を愛しているが、まあ、今にわかるよ!」
「ああ、今日アルヒープが来たが、プルードノエに大鹿がうんといるそうだよ。それに、熊も二頭ね」とチリコフはいった。
「ああ、そいつを、君たちは僕ぬきで捕るんだね」
「まったく本当だよ」とコズヌイシェフはいった。「だから、熊狩りにも、はじめからおさらばをしなくちゃならないんだ、家内が出してくれないからね!」
 レーヴィンはにっこり笑った。妻が出してくれない! そう考えると、じつにうれしくて、熊の姿を見るという喜びを永久に断念するのも、あえて辞さないと思った。
「だが、その二頭の熊を、君ぬきで捕るのかと思うと、なんといっても残念だね。覚えてる、あの最後のハピーロヴォ村を? 素晴しい猟ができるわけなんだがなあ」とチリコフはいった。
 レーヴィンは、猟なんかなくっても、どこかに何かいいことがあるかもしれない、などといって、相手をがっかりさせたくなかったので、なんにもいわなかった。
「この独身生活に別れを告げるという習慣ができあがっているのも、意味のないことじゃないね」とコズヌイシェフがいった。「どんなに幸福になるにせよ。やっぱり自由と別れるのは、名残りおしいからね」
「正直に白状したまえ、あのゴーゴリの花婿([#割り注]喜劇『求婚』の主人公ポドカリョーシン[#割り注終わり])みたいに、窓から飛び出したくなるような気持があるだろうね」
「きっとあるにちがいない、が白状なんかしやしないよ!」とカタヴァーソフはいって、大きな声でからからと笑い出した。
「どうだね、窓は開いてるよ……これからトヴェーリヘ行こうよ! 牝熊は一匹だけだから、穴までいけるよ。本当に行こうよ、五時の汽車で! そのうえは、なんとでもおかってに」とチリコフはにこにこしながらいった。
「ところが、正直な話」とレーヴィンも微笑しながらいった。「僕は自分の心の中に、自由を惜しむ気持を発見できないんだよ!」
「なに、君の心の中は混沌《こんとん》をきわめているので、何一つ発見できないのさ」とカタヴァーソフはいった。「まあ、待ちたまえ、今に少し気持の整理がついたら、そいつを発見するから」
「いや、それなら僕は自分の(彼は友人の前で、愛という言葉を使いたくなかった)……幸福感以外に、たとえ少しでも自由を失う哀惜を感じそうなもんだが……かえって反対に、その自由の喪失《そうしつ》を喜んでいるくらいだよ」
「困ったもんだ! 度し難い衆生《しゅじょう》だなあ!」とカタヴァーソフはいった。「まあ、彼の済度《さいど》のために、といって悪ければ、彼の空想がせめて百分の一でも実現するように、一つ乾杯しよう。もしそうなったら、それこそこの世にまたとない幸福だからね」
 食事がすむとまもなく、式に列席するのに着替えがまにあうように、客はみな帰っていった。
 一人きりになると、これらの独身者たちの話を思い返しながら、レーヴィンはもう一度、自分で自分に問うてみた――彼らの話した自由喪失の気持が、はたして自分の心にあるだろうか?
 彼はこの質問に微笑した。『自由だって? 自由なんか何にするのだ? 幸福というものは、彼女を愛し、彼女の望みを望み、彼女の考えを考えることで、つまりそこになんの自由もありゃしない――これこそ幸福なのだ!』
『しかし、おれは彼女の考えを、希望を、感情を知ってるだろうか?』ふいに何かの声が彼の耳に、こんなことをささやいた。微笑は顔から消えて、彼は考えこんでしまった。とつぜん、奇妙な感情がおそってきた。恐怖と疑惑――いっさいにたいする疑惑が襲ってきたのである。
『もし彼女が、おれを愛していなかったらどうする? もし彼女が、ただ結婚したいがためにのみ、おれと結婚するんだったら、いったいどうしたらいいんだ? もし彼女が、自分で自分のしていることが、よくわからないとしたら、どうしたらいいのだ?』と彼は自問した。『もしかしたら、彼女はふとわれに返って、結婚した後にはじめて、おれを愛していないことを悟るかもしれない、愛するはずがなかったことを、悟るかもしれない』こうして、キチイに関する奇怪千万な、思い切っていやな考えが、頭に浮びはじめた。彼はヴロンスキイを嫉妬して、一年前に彼女とヴロンスキイをいっしょに見たあの晩が、つい昨日のことのように思われた。もしかしたら、彼女は本心を全部うち明けなかったのかもしれない、とも疑ってみた。
 彼はがばと跳ね起きた。
「いや、このままうっちゃってはおけない!」と彼は絶望をいだきながら、こういった。『ひとつ出かけて行って、きいてみよう。そして、最後にもう一度、われわれは自由なんだから、思いとまったほうがよくはないかと、そういってやろう、どんなことだって、一生不幸な目を見て、恥をさらし、不貞を忍ぶよりはましだ※[#感嘆符二つ、1-8-75]』心に絶望をいだき、すべての人にも、自分にも、また彼女にも、毒々しい気持を覚えながら、彼は宿を出て、シチェルバーツキイ家へ出かけた。
 キチイは奥の間にいた。彼女はトランクに腰かけて、椅子の上や床にひろげ立てた、色さまざまの着物を選り分けながら、何か小間使に指図していた。
「あら!」レーヴィンに気がつくと、喜びに満面えみ輝きながら、彼女は叫び声を上げた。「あんたどうして、あなたどうして? (この最後の日まで、彼女はレーヴィンに『あんた』といったり、『あなた』といったりしていた)。まあ、思いがけない! あたし娘時代の着物を選り分けてますのよ、だれにどれをやるかって……」
「ははあ! それはいいですな!」暗い目つきで小間使を見ながら、彼はそういった。
「あっちイ行ってらっしゃい、ドゥニャーシャ、あたしまた呼ぶから」とキチイはいった。「あんたどうなすったの?」小間使がいくが早いか、思い切って『あんた』言葉を使いながら、彼女はこう問いかけた。妙に興奮した暗い男の顔に気がついて、彼女はぎょっとしたのである。
「キチイ、僕は苦しんでいるのです。一人で苦しんでいるのが、たまらなくなって」彼女の前に立ちどまり、祈るようにその目を見守りながら、声に絶望をひびかして、こういった。彼はその愛に満ちた誠実な顔を見ただけで、自分のいおうと思っていることは、なんにもならぬということを、早くも見てとりはしたものの、やはり彼女自身に、自分の疑いをはらしてもらいたかった。「僕が来たのはね、まだ時はすぎていないってことを、いうためなんです。こんなことは、すっかりご破算にして、あやまちを直すこともできますからね」
「なんですって? あたし、なんにもわからないわ。あんたいったいどうしたの?」
「ほかでもない、僕が百度も千度もいったことです。考えずにいられないことです……つまり、僕が君を妻にする資格がないってことです。君は僕との結婚を承諾するはずがなかったんですよ。もういちど考えてごらんなさい。君は思い違いをしたんです。よっく考えてごらんなさい。君が僕を愛するなんてはずがない……もし……なんだったら……いっそ正直にいって下さい」と彼は女の方を見ないでいった。「それでは、僕は不幸になるでしょう。人はなんとでもかってにいうがいい、どうなったって、そんな不幸な目にあうよりはましです……まだ手遅れにならない今のうちにしたほうがいい……」
「あたしわかんないわ」とキチイはおびえたように答えた。「つまり、あんたは破談にしようとおっしゃるの……結婚しないほうがいいって?」
「そう、もし君が僕を愛していないなら」
「あんたは気でも狂ったの!」と彼女はいまいましさに、顔を真赤にして叫んだ。けれど、男の顔があまりにもみじめだったので、彼女は自分のいまいましさを抑え、肘椅子にかかっていた着物を投げすてて、男のそば近く腰をおろした。「あんた何を考えてるの? すっかりいってちょうだい」
「僕はね、君が僕を愛するはずがないと、そう思っているのです。なんのために僕を愛することができるだろう?」
「ああ、あたしなんといったら……」というなり、キチイは泣きだした。
「あっ、僕はなんてことをしたのだろう!」と彼は叫んで、女の前にどうと膝をつくと、その手に接吻しはじめた。
 五分ほどして、公爵夫人が部屋へ入ってきたとき、二人はもう仲なおりしていた。キチイは、自分が彼を愛していることを、納得さしたばかりでなく、なんのために愛するかというわけをも、説明したのである。あたしがあなたを愛するのは、あなたという人をすっかり理解しているからです、あなたが当然、何を愛するかってことを、知っているからです、そして、あなたの愛するものは、なにもかもいいからです、と彼女はいった。彼は、それがこの上なく明瞭なことに思われた。公爵夫人が入ってきたとき、二人はトランクの上に並んで坐ったまま、着物の選り分けをしていたが、レーヴィンが結婚の申しこみをしたときに着ていた茶色の着物を、キチイがドゥニャーシャにやろうというのにたいして、レーヴィンはこの着物はだれにもやってはいけない、ドゥニャーシャには空色のをやればいいといって、口論している最中であった。
「あんたはわからないのね! あの子はブリュネットだから、そんなものは似合やしなくってよ……あたしちゃんとつもりがしてあるんですもの」
 彼がやってきたわけを知ると、公爵夫人は半分冗談、半分まじめに腹をたてて、早く帰って着替えをなさい、そしてキチイが髪を結うじゃまをしないで下さい、もうすぐにシャルルがくるんだから、といった。
「この子はそれでなくとも、この二三日なんにも食べないで、器量が悪くなったのに、あんたはそんなばかなことをいって、この子の気持を悪くするなんて」と彼女はいった。「とっとと帰ってちょうだい、とっとと帰って、いい子だから」
 レーヴィンは恥じしめられ、恐縮しながら、それでも安心してホテルへ帰った。兄も、ドリイも、オブロンスキイも、盛装して彼を待ち受け、もう聖像で祝福するばかりにしていた。もうぐずぐずしている暇はなかった。ドリイはもういちど家へ帰って、花嫁を聖像といっしょに乗せて行く役目をあてられて、ポマードをうんとつけた頭をカールさせた長男を、連れてこなければならなかった。それから、介添人を迎えに、馬車を一台やらなければならないし、コズヌイシェフを送って行くもう一台の馬車も、またここへ帰ってこさせなければならなかった……要するに、恐ろしくこみいった手配が、いろいろたくさんあったのである。ただ一つまちがいないのは、もう六時半になるから、ぐずぐずしていられない、ということであった。
 聖像で祝福するという儀式は、いっこう儀式にならなかった。オブロンスキイはこっけいなものものしいポーズで妻と並び、聖像を手に持って、レーヴィンに床に額をつけてお辞儀をするように命じた後、人のいいばかにしたような微笑を浮べて、三度かれを接吻した。ドリイもそれと同じことをして、すぐ急いで出かけたが、またもや馬車のやりくりで、こんぐらかってしまった。
「じゃ、こうしよう。おまえはうちの馬車に乗って、あの子を迎いに行きなさい。セルゲイ・イヴァーノヴィッチは、ご面倒でも家へよってもらって、それから廻したらいいじゃないか」
「なに、私はそれでけっこうですよ」
「じゃ、私はごいっしょに行くことにする。荷物はもう出したね?」とオブロンスキイはいった。
「出した」とレーヴィンは答え、クジマーに着替えを命じた。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

 群衆、ことに女たちが、結婚式のために煌々《こうこう》と照らされた教会を、とりまいていた。中へもぐりこむことのできなかった連中は、窓のあたりに群がって、ぶつかりあったり、口論したり、格子の間からのぞきこんだりしていた。
 もう二十台以上の馬車が、憲兵に整理されて、往来に沿ってならんでいた。警部は厳寒をも物ともせず、制服を輝かしながら、入口に立っていた。なおあとからあとからと、たえまなく馬車が乗りつけた。時には、花を飾り裳《もすそ》をかかげた貴婦人、時には、男が縁《ふち》なし帽や黒いソフトをぬぎながら、教会の中へ入ってきた。会堂の中では、二つの吊燭台も、季節季節に関する聖像の前の蝋燭も、もう赤々とともされていた。聖壁の真赤な地色の上に輝く金泥、金箔をほどこした聖像の木彫、栄福燈や燭台の銀、床の板石、ところどころの毛氈《もうせん》、唱歌席の上に下げた幡《はた》、説教壇の階《きざはし》、黒ずんだ古い書物、袈裟《けさ》、法衣《ころも》、すべてのものがいっぱいに光を浴びている。暖炉で温められた会堂の右側には、燕尾服、白ネクタイ、制服、花|緞子《どんす》、ビロード、繻子《しゅす》、髪、花、あらわな肩、胸、長い手袋などの群れている中で、控えめなしかし活気のある会話がつづいて、それが高い円天井に怪しくこだまするのであった。扉がぎいと開くたびに、群衆の話は静まって、新郎新婦の入ってくる姿を見んものと待ちかまえて、いっせいにその方をふりむいた。が、扉はもう十度も開いたにもかかわらず、いつもそれは――右手の招待席に加わる遅参した男客か女客か、でなければ、警部をだますか手なずけるかして、左手の一般席に加わる見物の女であった。身内のものも見物人も、期待のありとあらゆる段階を越してしまったのである。
 はじめのあいだは、新郎新婦が今にもくることと思って、この遅延をなんとも思わずにいた。それから、だんだんとひんぱんに戸口の方をふり返って、何か起ったのではないかといいあった。やがて、この遅延がばつが悪くなってきて、親戚も客も、花婿のことは考えないで、話に気をとられているようなふうをしようとつとめだした。
 補祭頭は、自分の時間の貴重なことを思い知らせるかのごとく、じれったそうに、窓のガラスが震えるほど、大きな咳ばらいをした。唱歌席では、待ちあぐねた歌手たちが、声ならしをしてみたり、洟《はな》をかんだりするのがきこえた。司祭は、花婿はまだこないかと、伴僧や補祭をかわるがわる出して、自分も紫色の袈裟に繍《ぬ》いの帯をしめた姿で、いよいよひんぱんに脇の戸口へ出ていっては、花婿の到着を待ちかねていた。とうとう一人の貴婦人が時計を見て、「それにしても妙ですね!」といった。すると、客はみんな不安を感じて、声高に驚きや不満を表白しはじめた。介添人の一人が、何ごとが起ったのか様子を見に出かけた。
 そのときキチイは、もうとっくにしたくをすまして、白い式服に長いヴェールをたらし、金柑の花を飾った冠をかぶって、仮親になった姉のリヴォーヴァ夫人といっしょに、シチェルバーツキイ家の広間に立って、花婿が教会へ着いたという知らせが、自分の介添人からくるのを、もう三十分以上もむなしく待ちながら、窓の外をながめていた。
 その間にレーヴィンは、ズボンをはいているが、チョッキも上衣もなしで、自分の部屋をあちこち歩きまわっては、のべつ戸の外をのぞいて、廊下を見まわしていた。しかし廊下には、自分の待ち受けている人の姿が見えないので、絶望したような顔つきでひっ返しては、悠然と煙草をふかしているオブロンスキイに、両手をふりまわして、食ってかかるのであった。
「こんな恐ろしい立場におかれた人間が、いったいどこにあるだろうか!」と彼はいった。
「そう、ばかげているね」とオブロンスキイは、とりなすように微笑しながら、相槌を打った。「だが、おちつきなさい、今に持ってくるから」
「いや、どうして、君」とレーヴィンは、狂憤をおさえながら、いうのであった。「それに、このばかばかしく胸のあいたチョッキ! がまんができない!」自分のワイシャツの皺になった胸を見ながら、彼はこういった。「それにしても、もし荷物が停車場へ行ってしまったら、どうしよう!」と彼は絶望して叫んだ。
「そのときは僕のを着るさ」
「そんなら、とっくにそうすりゃよかったんだ」
「こっけいに見えちゃよくない……まあ、待ちたまえ、まるくおさまるから[#「まるくおさまるから」に傍点]」
 それは、こういう次第である。レーヴィンが着替えを命じたとき、老僕のクジマーが燕尾服、チョッキ、その他、必要なものいっさいを持ってきた。
「シャツは!」とレーヴィンは声をつつ抜けさせた。
「シャツはお召しになっていらっしゃいます」平然としてほほえみながら、クジマーは答えた。新しいシャツを残しておくということを、クジマーは考えなかった。なにもかも荷造りして、シチェルバーツキイ家へ運べという命令を受けて、彼は燕尾服ひと揃いだけ残して、すっかり持って行ってしまったのである。新郎新婦は今晩すぐ、シチェルバーツキイ家から発つことになっていた。朝から着ているワイシャツは、もみくたになっていて、胸あきの大きな最新流行のチョッキでは、どうにもならなかった。シチェルバーツキイ家へ使をやろうにも、あまり遠すぎた。で、ワイシャツを買いにやったが、まもなくボーイが帰ってきて、日曜だからどこもかしこも閉っている、とのことであった。オブロンスキイの家へ人をやったところ、持ってきたシャツが、お話にならぬほど幅が広くて、丈が短かった。とうとうシチェルバーツキイ家へ使をやって、荷物を解かせることにした。みんなが教会で花婿を待っているのに、当人は檻《おり》に閉じこめられた獣のように、部屋の中をあちこち歩きまわっては、廊下をのぞきのぞき、今日キチイに会ったことを思い出して、今ごろキチイはどんなことを考えているかしれない、と想像しながら、恐怖と絶望に襲われていた。
 やっとクジマーが申しわけなさそうな顔をして、息も絶えだえに、ワイシャツを持って部屋へ飛びこんだ。
「危いところでまにあいました。もう車力に積んでいるところでございました」とクジマーはいった。
 三分ほどして、レーヴィンは傷口を暴《あば》きたくなさに時計も見ず、いちもくさんに廊下を駆け出した。
「もうそんなことをしたって、いくらの違いもありゃしないよ」悠々と彼のあとからついて行きながら、オブロンスキイは微笑を含んでいった。「まるくおさまるよ[#「まるくおさまるよ」に傍点]、まるくおさまる[#「まるくおさまる」に傍点]ってば……」

[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]

「やっと着いた! あれが花婿さんだ!」「どれが?」「ちょっと若いほうかしら?」「ところで、花嫁さんは、まあ、生きた心地もなさそうだわ!」レーヴィンが車寄せで新婦を迎え、相たずさえて基内へ入ったとき、群衆ががやがやしゃべりだした。
 オブロンスキイは、遅れたわけを妻に話した。客は微笑しながら、おたがい同士ささやきあっていた。レーヴィンは何一つ、だれひとり目に入らなかった。彼は目もはなさずに、新婦を見つめていたのである。
 人々は異口同音に、彼女がこの二三日のあいだにひどく器量が落ちて、かんじんの式のとき、ふだんよりずっと見劣りがするといった。が、レーヴィンはそうは思わなかった。長いヴェールをかぶって、白い花で飾られた高い髷《まげ》や、かくべつ処女らしい羞恥の風情で長い頸の両脇を隠し、前の方を開いて見せている襞《ひだ》の多い高い立襟や、驚くばかり細い腰を見て、彼はキチイがいつもより美しいような気がした。それは、こうした花や、ヴェールや、パリからとり寄せた衣服が、彼女の美に何ものかを加えたからでなく、こうした衣装の人工的なはなばなしさにもかかわらず、その愛らしい顔や、まなざしや、唇の表情が、いぜんとして、彼女独特の無垢《むく》な誠実さの表現だったからである。
「あたし、もう逃げたくおなりになったのかと思ったわ」と彼女はいい、にっこり笑って見せた。
「じつにばかばかしいことができちゃって、話すのも気がひけるほどさ!」と彼は赤い顔をしながらいったが、このときそばへよったコズヌイシェフの方へ向かなければならなかった。
「お前のワイシャツ一件は傑作だねえ!」とコズヌイシェフは、頭をふりふり、微笑しながらいった。
「ええ、ええ」何をいわれているのやらわからずに、レーヴィンはそう答えた。
「さあ、コスチャ、今こそ決断しなくちゃならないぜ」とオブロンスキイが、わざとおびえたような顔をしていった。「重大な問題なんだ。今こそ君は、その重大性を完全に評価しうる状態にあるんだからね。蝋燭は使いさしのにするか、それとも新しいのにするか、とこうきかれたんだがね。値段の違いは十ルーブリ」唇を微笑の形にしながら、彼はこうつけ足した。「僕は決を下したんだが、君が異存を申し立てやしないかと思って、心配なのさ」
 レーヴィンは冗談だということを悟ったが、笑うことができなかった。
「さあ、そこで、どうなんだ、新しいのにするか、使いさしのにするか? そこが問題なんだよ」
「そう、そう! 新しいのだ」
「いや、それで僕も大いにうれしい! 問題は解決した!」とオブロンスキイは、にこにこしながらいった。「それにしても、人間はこういう場合ずいぶんばかになるもんだなあ」レーヴィンがとほうにくれたように義兄の顔を見て、新婦の方へ歩き出したとき、彼はチリコフにそういった。
「よくって、キチイ、あなたが先にカーペットに膝をつくのよ」とノルドストン伯爵夫人が、そばへよりながらいった。「あなたもけっこうですこと!」彼女はレーヴィンにいった。
「どう、恐ろしくない?」年とった伯母のマリヤ・ドミートリエヴナが、そうきいた。
「あなた寒くないの? 顔が蒼いわよ。ちょっとかがんでごらん!」姉のリヴォーヴァ夫人がキチイにそういって、肉づきのいいみごとな両腕を丸くしながら、微笑を浮べて、妹の頭の花をなおしてやった。
 ドリイがそばへよって、何かいおうとしたが、言葉が出ず、泣きだしたかと思うと、不自然な声で笑った。
 キチイはレーヴィンと同じく、心ここにないような目で一同をながめていた。自分に話しかけられるすべての言葉にたいして、ただ幸福の微笑で答えることができるだけであった。それが今の彼女には、きわめて自然なのであった。
 とかくするうちに、番僧たちは法衣をまとい、司祭は補祭とともに、戸のそばにある聖書台のそばへ進み出た。司祭は何かいってレーヴィンの方へ向いた。レーヴィンは司祭のいったことが、よく聞き分けられなかった。
「花嫁の手をとって、前へお出なさい」と介添人がレーヴィンにいった。
 長いことレーヴィンは、自分が何を要求されているか、わからなかった。長いこと人々は、彼のすることをなおそうとし、もううっちゃっておこうと思った。というのは、彼がいつも違う手を出したり、違う手をとったりしたからである。――と、そのときやっと彼は悟った。右の手で、位置を変えずに、花嫁の右手をとらなければならなかったのである。ようやく彼が、花嫁の手をちゃんと本当にとったとき、司祭は数歩ふたりの前へ出て、聖書台のそばに立ちどまった。親戚や知人の群が、ざわざわ話したり、裳《もすそ》をさらさら鳴らしたりしながら、二人のあとから進み出た。だれかが、かがみこんで、花嫁の裳をなおした。会堂の中はしんと静まり返って、蝋のたれる音さえ聞えるほどであった。
 円い僧帽をかぶり、銀髪を二つに分けて、耳のうしろにはさんだ小柄な老司祭が、背中に金の十字架のある重い銀の袈裟の下から、小さな年寄りじみた両手を出して、聖書台のそばで、何かをまさぐっていた。
 オブロンスキイは用心ぶかく、そのそばへ行って、なにやらささやくと、レーヴィンに目くばせし、またうしろへひっこんだ。
 司祭は、花模様のある蝋燭を二本ともして、蝋がゆっくりたれるように左手で横に持ち、新郎新婦に顔をむけた。司祭は、レーヴィンの懺悔僧をしたのと同じ人であった。司祭は疲れたような、もの憂い目つきで花婿花嫁を眺め、ほっとため息をついて、袈裟の下から右手を出し、その手で花婿を祝福すると、同じようではあるが、慎重な優しみのニュアンスをつけながら、三つ合わせた指を、キチイのうなだれた頭にのせた。それから、二人に蝋燭を渡して、振香炉《ふりこうろ》をとると、ゆっくりそばを離れた。
『いったいこれは本当なのだろうか?』とレーヴィンは考えて、花嫁をふりかえった。少し上の方からその横顔が見えたが、わずかにそれと知られる唇と、睫毛《まつげ》の動きによって、彼女が男の視線を感じたことがわかった。彼女は、ふりむきはしなかったけれども、高い襞襟《ひだえり》が動いて、小さなバラ色の耳の方へあがった。ため息はその胸の中で止まって、長い手袋をはめた、蝋燭を持っている小さな手がふるえたのが、彼の目に入った。
 ワイシャツの騒ぎも、遅刻も、知人や親戚との会話も、彼らの不満も、自分のこっけいな立場も、なにもかもいちどきに消え失せて、彼はうれしくもあれば、恐ろしくもなってきた。
 銀色の法衣を着て、長い捲き毛を左右に立てている、美しい大柄な補祭頭が、元気よく前へすすみ出て、慣れた手つきで、二本指で聖帯をひき上げ、司祭の前に立ちどまった。
『主よ、祝福したまえ!』ゆっくりと、あとからあとから荘重な音が、空気の波をふるわせながら響きはじめた。
『われらが神よ、常に祝福したまえ、今も、とわに、とことわに』と老司祭は、聖書台の上で何かをまさぐりつづけながら、つつましく、歌うような調子で答えた。すると、目に見えぬ唱歌隊の完全な和音が、会堂を窓から円天井までみたしながら、広々と調子よく起って、一瞬やんだかと思うと、静かに消えた。
 いつもの如く、天より下したまうやわらぎと救い、宗務省、皇帝のために祈った。また、今日むすびあわされる神のしもベコンスタンチンと、エカチェリーナのうえを祈った。
『おお、神よ、彼らにより全く、より平和なる望みと、助けを授けたまえと祈り申す』という補祭頭の声で、全会堂は呼吸するかのようであった。
 レーヴィンはそれらの言葉を聞いていたが、思わずはっとした。
『どうしてあの人たちは、助けということを悟ったんだろう、まったく助けが必要だ!』先ほどの恐怖と疑惑を思い起しながら、彼はそう考えた。『おれはいったい何を知ってるんだ? こんな恐ろしいことを決行しながら、いったいおれに何ができるというのだ?』と彼は考えるのであった。『助けもなしに? まったく、今のおれには助けが必要なんだ』
 補祭が唱応歌を終ったとき、司祭は本を手に持って、新郎新婦にむかった。
『離れしものを一つに結びたまう、とわなる神よ!』と彼はつつましい、歌うような声で唱えた。『破るべからざる聖なる愛の結合を彼らに授け、イサクとレベッカに世継ぎを与えて、汝の聖約を示したまいし神よ。汝みずから、汝のしもベコンスタンチンとエカチェリーナを祝福し、すべてのよき行いに導きたまえ。恵み深く、衆生を愛し給うおん神なれば、汝に栄えを送らん、父と子と精霊に、今に、とわに、とことわに』
『アーメン』目に見えぬコーラスが、空中に流れひろがった。
『離れしものを一つに結びたまう、愛の結合を授けたまう――これはなんという意味深い言葉だろう、このあいだ感じていることに、なんとよく適当していることだろう!』とレーヴィンは考えた。『いったいあれもおれと同じことを感じてるのかしら?』
 と、ふり返ったひょうしに、視線がぱったり出会った。
 そのまなざしで、彼女も自分と同じことを感じていると結論した。が、それはまちがっていた。キチイは勤行《ごんぎょう》の言葉を、ほとんど理解しなかったばかりか、式の間じゅう、まるで聞いていなかったのである。そんなものを彼女は聞いたり、理解することができなかった。彼女の心をみたして、いやが上にもましていく一つの感情が、あまりにも強かったのである。それは、もはや一月半も前から彼女の心に成就して、この六週間というもの彼女を喜ばし、かつ苦しめていたことが、完全に成就した喜びの情であった。彼女が茶色の着物をきて、アルバートの家で無言のまま彼に近より、彼に身をまかせたあの日に、彼女の心の中で、あの日あの時、いっさいの過去の生活との絶縁が成就し、全く別な、新しい、彼女にとってぜんぜん未知な生活がはじまったが、現実においては、古い生活がつづいていた。この六週間は、彼女にとって最も幸福な、と同時に、最も苦しい時であった。全生活も、あらゆる希望も、期待も、自分にとってまだよくわからぬ、あの一人の男性に集中された。この男性とは、当人以上に不可解な感情――ときどき接近させ、ときどき反※[#「てへん+発」、ページ数-行数]させる感情によって結ばれていながら、それと同時に、彼女は前と同じ生活条件で暮しつづけていた。古い生活をつづけながら、彼女は自分自身と、過去のいっさい――品物、習慣、自分を愛してくれた人々、また現に愛してくれている人々にたいする、なんともしようのない完全な無関心にぞっとした。この無関心を悲しんでいる母親にたいしても、かつてはこの世の何よりも愛していた優しく懐かしい父にたいしても、その無関心は同じことであった。時にはこの無関心にぞっとしたり、時にはまた、自分をこう無関心にさせたものを喜んだりした。この男性との生活をほかにしては、何一つ考えることも望むこともできなかった。しかし、この新しい生活はまだこないで、それをはっきり想像することさえできなかった。あるのはただ、新しい未知のものに対する期待と――恐怖と、喜びだけであった。ところが、今こそ、今こそ期待も、未知も、以前の生活を斥けた悔悟も――なにもかも終りを告げて、新しいものがはじまるのだ。この新しいものは、未知であるがゆえに、恐ろしくないはずがなかった。しかし、恐ろしいにせよ、恐ろしくないにせよ――それはもう六週間前に、心の中で成就され、今は心の中でとっくに成就されたものが、聖化されているのみである。
 司祭はまた聖書台の方へ向いて、キチイの小さな指輪を、やっとのことでとり上げ、レーヴィンに手を出させて、その指のいちばん上の関節にはめた。『神のしもベコンスタンチンは、神のしもベエカチェリーナにめあう』それから、あまりの弱々しさに哀れをもよおすような、キチイのバラ色をした小さな指に、大きな指輪をはめて、司祭は同じことをいった。
 新郎新婦はいくども、どうしたらいいのか察しかねて、そのつど、まちがってばかりいるので、司祭は小声で、それを訂正してやった。ついに必要なことをなし終えると、彼は二人に指輪で十字を切って、またキチイに大きな指輪を渡し、レーヴィンに小さいほうを渡した。二人はまたもやまちがって、二度も指輪を手から手へ渡したが、それでも、要求されるのとは違ったふうになった。
 ドリイとチリコフとオブロンスキイは、それをなおそうとして前へ出た。あたりがざわつき、ささやきが起り、人々の顔に微笑が浮んだが、新郎新婦の荘重な感激の表情は、依然として変りがなかった。それどころか、手のやりかたをこんぐらかせながらも、二人の顔つきは前よりさらにまじめに、ものものしくなった。オブロンスキイは、めいめい自分の指輪をはめるように、微笑を浮べながらささやいたが、その微笑はひとりでに唇の上に凍りついた。さすがの彼も、この場合いかなる微笑も二人を侮辱するにちがいない、と感じたのである。
『なんじははじめより男と女の性を創りたまい』指輪の交換がすむと、司祭はこんなふうに誦《ず》しはじめた。『なんじのみ手によりて、妻は族《うから》を助け受くるため、良人に結び合わさるるなり。良人に結び合わさるるなる。われらの主なる神よ、なんじのみ業《わざ》の継承となんじの聖約のために、選ばれてなんじのしもべとなりしわれらの父祖に真実を授けたまいし神よ、なんじのしもベコンスタンチンとエカチェリーナを守りて、彼らの婚姻を信仰と、一致と、真理と、愛の中に固めたまえ……』
 レーヴィンは、いよいよ強く感じざるを得なかった。結婚に関して自分のいだいていたすべての空想、いかにして自分の生活を建設しようかという空想は、ことごとく児戯《じぎ》にすぎない。結婚というものは、自分が今まで理解していなかった何ものかである。それはいま現在、自分の身の上に成就されんとしているにもかかわらず、今はなおさら、はっきりと理解できないでいる。彼の胸には、いよいよはげしい戦慄がこみ上げてきて、聞き分けのない涙が、目に溢れるのであった。

[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]

 教会には、モスクワじゅうの親戚、知人が集っていた。結婚式のあいだ、ともし火の照り輝く会堂の中では、盛装の夫人、令嬢、燕尾服に白ネクタイや制服姿の男たちのあいだでは、作法を乱さぬ程度の静かな会話がつづいていた。それは主として、男子たちが口きりをするので、女のほうは常に彼らの心を強く動かす神聖な儀式の、一部始終を観察するのに、すっかり気をとられているのであった。
 花嫁にいちばんちかいサークルの中には、二人の姉がいた。それは上のほうのドリイと、外国から帰ってきた、おちつきのある美人リヴォーヴァ夫人である。
「いったいまあ、なんだってマリイは、ご婚礼だというのに、あんな黒みたいな紫色の服なんか着てるんでしょう?」とコルスンスカヤはいった。
「あのひとの顔色では、あれがたった一つの救いですもの……」とドルベッカーヤが答えた。「でも、ふしぎですわねえ、どうして晩に結婚式なんか挙げるんでしょうねえ。これは商人ふうのやりかたですわ……」
「だって、きれいに見えますもの。わたしもやっぱり晩に式をしましたわ」とコルスンスカヤは答えて、ため息をついた。その晩の自分がどんなにあでやかであったか、良人の自分に首ったけになった様子が、どんなにこっけいだったかを回想し、今はなにもかもすっかり変ってしまった、とそう思ったからである。
「なんでも、十度以上介添人をすると、結婚できないっていう話ですね。私は自分を結婚から保証するために、十度目を勤めたいと思ったんですが、先口を取られてしまいましたよ」とシニャーヴィン伯爵は、自分に気のある美しいチャールスカヤ公爵令嬢にそういった。
 チャールスカヤは、ただ微笑だけで答えた。彼女はキチイをながめながら、いつ、どんなふうにしてシニャーヴィン伯爵と並んで、キチイの位置に立つだろう、そのときはどんなぐあいに今の冗談を思い知らせてやろうか、などと考えていた。
 シチェルバーツキイ公爵は、老女官のニコラーエヴァに、自分はキチイが幸福になるように、あの子の付け髷の上に冠をのせてやるつもりだ、などといっていた。
「付け髷なんかすることはなかったのですよ」自分の好きな年とった寡夫《かふ》が、もし自分と結婚したら、式はごく簡素なものにしようと、前から決めこんでいたニコラーエヴァは、こう答えた。「わたし、そんな大げさなことが嫌いでしてね」
 コズヌイシェフは、ダーリヤ・ドミートリエヴナをつかまえて、結婚式のあとで旅行に出る風習がひろまったのは、新郎新婦はいつも多少きまりが悪いからだと、冗談まじりに大まじめでいった。
「弟さんは、おいばりになってもよろしゅうございますわ。すばらしくきれいな花嫁さんですもの。あなたきっとお羨《うら》やましいでしょう?」
「私はもうそんな気持なんか、卒業してしまいましたよ」と彼は答えたが、その顔は思いがけなく沈んだ、きまじめな表情になった。
 オブロンスキイは妻の妹に、例のラズヴォードの地口《じぐち》を話して聞かせた。
「冠をなおさなくちゃなりませんわ」とこちらは聞きもしないで、こう答えた。
「あのひと、すっかり器量が落ちてしまって、本当に残念ですこと」とノルドストン伯爵夫人は、リヴォーヴァ夫人にいった。「それにしても、レーヴィンさんは、あのひとの小指だけの値うちもないわ。そうじゃなくって?」
「いいえ、あたしあの人が大好きですわ。何も、あの人が未来の義弟《ボー・フレール》だからじゃありませんの」とリヴォーヴァ夫人は答えた。「それに、あの態度のりっぱなことはどうでしょう! ああいう場合、りっぱな態度をとるってことは、こっけいに見えないってことは、とてもむずかしいものよ。ところが、あの人はこっけいじゃないわ、固くならないで、いかにも感動している様子なんですもの」
「あなた、これを待ってらしたご様子ね?」
「ええ、ほとんど。あの子はいつも、あの人を好いておりましたもの」
「さあ、これから、どちらが先に敷物の上に足を入れるか、見てみましょうよ。わたし、キチイに入れ智恵しておいたんですの」
「おなじことですわ」とリヴォーヴァ夫人はこたえた。「わたしたちはみんな従順な妻ですもの。これはわたしたちシチェルバーツキイ家の筋なんですもの」
「わたし、わざとヴァシーリイより先に足を入れましたわ。あなたは、ドリイ?」
 ドリイは二人のそばに立って、その話を聞いていたが、返事をしなかった。彼女はすっかり感動していたのである。涙が目にあふれて、ちょっとひと言いっても、わっと泣き出しそうであった。彼女はキチイとレーヴィンのために喜んでいた。心中ひそかに、自分の結婚式のころに立ち帰りながら、笑み輝いているオブロンスキイをちょっと見やって、現在のすべてを忘れてしまい、無垢な初恋の時代ばかりを追想していた。彼女は自分一人ばかりでなく、身辺の親しい婦人たちすべてを思い起した。かれらがキチイと同じように、過去と絶縁して、神秘な未来へ踏み入ろうとし、愛と、希望と、恐怖をいだきながら冠の下へ立った、あの生涯にただ一度しかない荘重な瞬間における彼女らのことを考えたのである。こうして、心に浮んできた多くの花嫁たちの中で、彼女はふと、かの愛すべきアンナのことを思い浮べ、つい近ごろ、聞いたばかりの離縁話の詳細を思い出した。彼女も同じように金柑の飾り、ヴェールをかぶって、清浄無垢な姿をして立っていたではないか。ところが、今はどうだろう?『本当にふしぎなものだ!』と彼女は思わず口に出していった。
 この神聖な式の詳細を注視していたのは、姉たちや、親友や、親戚ばかりではなかった。縁もゆかりもない見物の女たちも、胸をわくわくさせ、息を殺しながら、新郎新婦の一挙一動、顔の表情の一つ一つも見のがすまいと、一心不乱に目を凝《こ》らして、冗談をいったり、よそごとをいったりする無関心な男たちにたいしては、いまいましそうな様子で、返事をしなかったり、ときには耳もかさないのであった。
「どうしてあんなに目を泣きはらしてるんでしょう? いやいやお嫁にいくのかしら?」
「あんなりっぱな男のとこへ、いやいやいくなんてことがあるもんですか? あれは公爵か何かですか?」
「ところで、白い繻子《しゅす》の衣裳を着ているのは、姉さんでしょうか? まあ、あの補祭がどなるのを聞いてごらんなさい『なん[#「さい『なん』ですって」はママ]じの良人を恐れよ』ですって」
「チェードフ寺院の連中でしょうか?」
「いえ、宗務省づきですわ」
「わたし、従僕にきいたんですけど、すぐ自分の領地へつれて帰るんですって。ものすごいお金持なんですとさ。だから、お嫁にやったのよ」
「いいえ、似合いのご夫婦だわ」
「ねえ、マリヤ・ヴァシーリエヴナ、あなたは硬布製下袴《クリノリン》は離して着るものだ、などと議論してらしたけど、ごらんなさい、あの鳶色《とびいろ》の着物を着てるかた、公使の奥さんだそうですけど、あんなにくっついてるじゃありませんか……だから、またあんなふうになったんですわ」
「まあ、なんてかわいい花嫁さんでしょう、まるで花で飾った小羊みたい! なんとおっしゃったって、わたしは自分の仲間だけに女のほうが気の毒ですわ」
 教会の戸口をすべりこんだ見物の女たちの間では、こんな会話がかわされていた。