『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」4-11~4-15(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一一[#「一一」は中見出し]

 一座のものはだれもみな、この会話に仲間入りしていたが、キチイとレーヴィンだけは別であった。はじめ、一つの国民の他国民に対する影響力という問題が出たとき、レーヴィンはこの問題について、いうべき意見をもっていたので、それがわれともなしに頭へ浮んできた。しかし、前にはひどく重大なものに思われたこの思想も、今はただ夢のように頭をかすめただけで、いささかの興味も呼び起さなかった。それどころか、いったいみんな、なんのためにああやっきとなって、だれにも用のないことをしゃべっているのか、ふしぎに思われるほどであった。キチイとても同様に、みんなが論じている婦人の権利や教育の話には、興味をもたなければならぬはずであった。彼女は外国で友だちになったヴァーレンカのことや、その友だちが苦しい隷属の状態にいることを、いくら考えてみたかしれないし、自分が結婚しなかったらどうなるか、ということも、いくど心の中で考えてみたか、またこのことで姉といくら論争したかしれない! ところが、今はそれが少しも興味をひかないのであった。彼女はレーヴィンと二人で、自分自身の会話をかわしていたのである。いや、それは会話ではなくて、何かしら神秘的な魂の交流であった。それは刻一刻と彼ら二人をちかぢかと結びあわせ、かれらがいま入っていこうとする未知の世界にたいする喜ばしい恐怖の情を、二人の胸に呼び起すのであった。
 まずはじめレーヴィンは、どうして去年、自分が馬車で乗って行くところを見たのか、というキチイの問いにたいして、草刈りの帰りに街道を歩いているとき、偶然出あった次第を物語った。
「それはまだやっと夜の明けるころでした。あなたはきっと、目をおさましになったばかりだったでしょう。お母さまは馬車のすみで、眠っていらっしゃいましたよ。それはすばらしい朝でした。僕は歩きながら、あの四頭立てでやってくるのは、いったいだれだろう? と考えました。りっぱな四頭立ての馬が、鈴を鳴らして走ってくると、一瞬あなたの姿が目の前にひらめいたのです。窓越しに見ると、あなたはこんなふうに坐って、両手に室内帽のリボンを持ったまま、何かひどく考えこんでいらっしゃいましたっけ」と彼は微笑しながらいった。「あのとき、あなたが何を考えていられたか、それが知りたくてたまらないんですがねえ。何か重大なことだったんですか?」
『あたし、とり乱したかっこうをしてなかったかしら?』と彼女は考えたが、こうしたこまかい追憶が、男の心に呼びさます歓喜の微笑を見て、それどころか、自分の与えた印象はすばらしくよかったのだ、と彼女は直感した。彼女は顔を赤らめ、うれしそうに笑いだした。
「覚えておりませんわ、全く」
「トゥロフツィンのよく笑うこと!」トゥロフツィンのうるみをおびた目と、揺れ動く体に見とれながら、レーヴィンはそういった。
「前からあの人をごぞんじですの?」とキチイはたずねた。
「あの男を知らないものはありませんよ!」
「お見うけしたところ、あなたはあのかたのことを、悪い人のように思ってらっしゃるんでしょう?」
「悪い人じゃありませんが、つまらない男なんですよ」
「まあ、違いますわ! 早くそんなお考えを変えて下さいましな!」とキチイはいった。「あたしもあの人のことについて、たいへん失礼な考え方をしていましたけれど、本当はじつに優しい、びっくりするほど親切なかたですのよ。あの人の心ったら、まるで玉のようですわ」
「どうしてあの男の心をお識りになりました?」
「わたしたち、あのかたとは大の仲良しなんですの。わたし、あのかたをよく存じております。去年の冬、あれからまもなく……あなたが宅へいらしたあとで」何かすまないような、同時に信頼しきったような微笑を浮べて、彼女はこういった。「ドリイの子供たちが猩紅熱にかかりましたの。ところが、あのかたが偶然たずねていらっしゃいましてね、まあどうでしょう」と彼女はひそひそ声でいった。「あのかたは、姉がかわいそうでたまらなくって、子供たちの看病の手伝いを始めなさいましたの、ええ、そうですのよ、そうしてまる三週間、姉の家に寝泊りなすって、まるで保姆《ばあや》のように、子供たちの看病をして下さいましたわ」
「あたし、コンスタンチン・ドミートリッチに、トゥロフツィンさんが猩紅熱のときにして下すったことを、お話しているところなの」と彼女は姉の方へ身をかがめていった。
「そうよ、感心してしまったわね、本当にいいかた!」自分のことをいってるなと感づいたトゥロフツィンをながめ、つつましやかにほほえみかけながら、ドリイはこういった。
 で、レーヴィンはもう一度トゥロフツィンを見やった。と、どうして自分は以前、この男のよさを理解しなかったのかと、驚き怪しむ思いであった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、もうこれからは決して、人のことを悪く思いません!」と彼は愉快そうにいったが、それは彼がいま心に感じたことを、率直に告白したまでなのである。

[#5字下げ]一二[#「一二」は中見出し]

 婦人の権利という問題についてはじめられた会話には、結婚生活における男女の権利の不平等という、女性の前ではいささか尻くすぐったい問題が含まれていた。ペスツォフは食事のあいだに、幾度となくこの問題に飛びつこうとしたが、コズヌイシェフとオブロンスキイが、用心ぶかくその話をわきへそらすようにした。
 一同が食卓から立って、婦人たちも出ていったとき、ペスツォフはそのあとへついて行かず、カレーニンに向いて、不平等の主なる原因を説明しはじめた。夫婦の不平等は、彼の意見によると、妻の不貞と夫の不貞の罰しられ方が、法律からいっても、社会の世論からいっても、不平等であるからであった。
 オブロンスキイはせかせかと、カレーニンのそばへいって、タバコをすすめた。
「いや、私はタバコはやらない」とカレーニンはいって、自分はこんな話など恐れはしないということを、ことさら誇示しようとするかのように、冷やかな微笑を浮べて、ペスツォフの方へ向いた。
「私の考えでは、そうした見方の根本は、ものの本質それ自体に含まれていると思いますな」といって、彼は客間へ行こうとした。が、その時トゥロフツィンが出しぬけに、カレーニンにむかって、思いがけないことをいいだした。
「あなたは、プリヤーチニコフのことをお聞きになりましたか?」シャンパン酒のいっぱいきげんで元気づいた上に、自分ながら苦になる沈黙を破る機会を、前から待ち設けていたトゥロフツィンは、こういった。「ヴァーシャ・プリヤーチニコフです」おもに正客のカレーニンに話しかけるようにしながら、うるみをおびた赤い唇に、人の好さそうな微笑を浮べて、彼はいうのであった。「私はきょう[#「きょう」は底本では「きよう」]聞いたのですか、トヴェーリでクヴィーツキイと決闘して、相手を殺してしまったそうですよ」
 いつでも何かぶっつけるときは、必ず痛いとこを狙うような気のするものであるが、今もオブロンスキイは、今夜は一つ一つの話が、カレーニンの痛いところをねらっているような気がした。彼はまた、義弟をほかへひっぱっていこうとしたが、当のカレーニンが興味ありげにたずねた。
「プリャーチニコフはなんだって決闘したのです?」
「細君のことからですがね。男らしくやりましたよ! 決闘を申しこんで、やっつけたんですから!」
「ははあ!」とカレーニンは気のない調子でいって、眉を吊り上げながら、客間へ出ていった。
「まあ、本当によくいらして下さいましたこと」通り路になっている客間で、ぱったりカレーニンに出会ったドリイは、おびえたような微笑を浮べてこういった。「わたし、あなたにお話がございますの。ちょっとここへ腰をかけましょう」
 カレーニンは、吊り上がった眉からくる例の無関心な表情で、ドリイのそばに腰をおろし、わざとらしくにやりと笑った。
「それはなおさらです」と彼はいった。「私も失礼して、お暇しようと思ってたところですから。明日は発《た》たなくちゃならないのでね」
 ドリイはアンナの無実を固く信じきっていたので、かくも平然として罪もない親友を破滅させようとしている、この冷酷な、心というものをもたぬ男にたいする憤怒の情に、自分の顔が蒼ざめていき、唇がふるえるのを感じた。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ」やけ半分の決意をもって、相手の目をみつめながら、彼女はこうきりだした。
「わたし、あなたにアンナのことをおたずねしましたのに、あなたは返事をして下さいませんでしたね。あのひとはどうなんですの?」
「あれはどうやら達者らしいですよ、ダーリヤ・アレクサンドロヴナ」とカレーニンは、彼女の顔を見ないで答えた。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ。どうぞごめんくださいまし、わたしにこんな権利はないのでございますけれど……でも、わたしはアンナを親身の妹のように思って、愛してもいれば、尊敬もしているものですから。お願いですから、聞かして下さいませんか、いったいあなたがたのあいだには、何があったのでございます? どういうことであなたは、アンナを責めていらっしゃいますの?」
 カレーニンは眉をひそめ、ほとんど目を閉じて、頭《こうべ》をたれた。
「私がなぜ、アンナ・アルカージエヴナにたいする態度を変えなければならぬと認めたか、そのわけはご主人からお聞きになったことと思いますが」相手の目を見ないようにして、おりから客間を通りぬけようとしたシチェルバーツキイを、不満げにじろじろと見まわしながら、彼はそういった。
「わたし信じませんわ、信じませんわ。そんなこと本当にできませんわ!」骨ばった両手をぎゅっと握りしめながら、力のこもった身ぶりをして、ドリイはいった。彼女はつと立ちあがって、片手をカレーニンの袖の上へのせた。「ここではじゃまが入りますから、どうぞあちらへいらして下さいまし」
 ドリイの興奮は、カレーニンにも作用してきた。彼は席を立って、彼女のあとから子供の勉強部屋へいった。二人は、ナイフで一面に傷をつけられた模造革張りのテーブルにむかって、腰をおろした。
「わたし信じません、そんなことは信じませんわ!」自分を避けている相手の視線を捕えようとつとめながら、ドリイはこう口をきった。
「事実を信じないわけにはいきませんよ、ダーリヤ・アレクサンドロヴナ」と彼は事実[#「事実」に傍点]という言葉に力を入れて、いった。
「でも、あのひとは何をしたんでしょう?」とドリイはいった。「いったい何をしたんでしょう?」
「あれは自分の義務をないがしろにして、良人にそむいたのです。これがあれのしたことなんですよ」と彼は答えた。
「いいえ、いいえ、そんなことのあろうはずがございません! いいえ、どうぞそんなことおっしゃらないで。それはあなたのお思い違いでございます」とドリイは両手でちょっとこめかみにさわり、目を閉じながらいった。
 カレーニンは唇ばかりで冷やかに笑った。それで相手にも自分自身にも、自分の確信の鞏固《きょうこ》さを示そうと思ったのである。しかし、この熱烈な弁護は、彼の気持を動揺こそさせなかったものの、彼の傷口を掻きたてたことは事実であった。彼は前より真剣になっていいだした。
「あれが現在の良人にむかって、自分でそのことを声明しているのに、思い違いをするというのは、はなはだ困難なことですよ。なにしろ、八年間の夫婦生活も、息子も、みんな誤謬《ごびゅう》だった、自分は新しく生活しなおしたい、とそういうのですからね」と彼は鼻を鳴らしながら、腹だたしげにいった。
「アンナと不行跡《ふしだら》――わたしどうしても、それを繋《つな》ぎあわして考えることができませんわ、そんなこと本当になりませんわ」
「ダーリヤ・アレクサンドロヴナ!」今はまともに、ドリイの興奮した善良らしい顔を見つめながら、彼はこういいだした。いつのまにか、舌のこわばりが解けていく思いであった。「もし疑惑をいだく余地があったら、私もどんなにうれしいかしれないのです。私が疑念をもっていたあいだは、苦しくはありましたが、まだしも今よりは楽でした。疑念をもっているあいだは、それでも、よもやという希望がありました。が、今は希望もありません。そのくせ、なにもかも疑うようになりました。私は、なにもかも疑わずにいられなくなったものだから、わが子さえ憎むようになりました。どうかすると、本当に自分の子だってことさえ信じられなくなるんですからね。私はじつに不幸です」
 彼としては、こんなことをいう必要などなかったのである。彼がドリイの顔を見た瞬間、彼女はそれを察したのである。彼女はこの人が気の毒になってきて、親友の無垢《むく》を信ずる気持が動揺しはじめた。
「ああ、恐ろしい、恐ろしいことですわ! でも、あなたが離婚を決心なすったというのは、いったいほんとでございますの?」
「私は最後の手段を決しました。私としてはほかにしようがないのです」
「しようがないんですって、しようがないんですって……」と彼女は目に涙を浮べながら、くりかえした。「いいえ、しようがなくはありません!」と彼女はいった。
「そこなんですよ、この種類の悲しみというものは、喪失《そうしつ》とか死とかいうほかの場合のように、ただ十字架を負ってればいい、というわけにいかなくって、行動しなくてはならない、それが恐ろしいのです」相手の心の中を察したかのように、彼はこういった。「自分のおかれている屈辱的な境地から、出ていかなければならないのです。三人いっしょに生活していくことはできません」
「わかります、わたしよくわかりますわ」といって、ドリイは首をたれた。彼女は自分のこと、自分の家庭のことを考えながら、しばらく黙っていたが、ふいにきっとなって顔を上げ、祈るようなふうに両手を合わせた。「でも、待って下さいまし! あなたはキリスト教徒なんですもの。あのひとのことを考えて上げて下さいまし! もしあなたに棄てられたら、あのひとはまあ、どうなるでしょう?」
「私も考えたんですよ、ダーリヤ・アレクサンドロヴナ[#「アレクサンドロヴナ」は底本では「アレクサンドヴロナ」]、ずいぶん考えたんですよ」とカレーニンはいった。その顔は赤いしみにおおわれ、どんよりした目は、まともに彼女を見すえた。ドリイはもう真底から彼がかわいそうになった。「私はあれの口から、自分の恥を告げられたあとで、あなたのいわれたとおりのことをしたんですよ。つまり、なにもかももとどおりということにしたのです。あれに改悛の機会を与えたのです、あれを救おうと努力したのです。ところが、どうでしょう? あれは体面を守るといういちばん楽な要求さえ、実行しなかったんですからね」と彼は熱くなっていった。「自分で破滅したくないと思ってる人間なら、救うこともできますが、すっかり性根が腐ってしまって、破滅そのものを救いのように思っている堕落しきった人間を、いったいどうしたらいいのです?」
「どんなことでもよござんすが、ただ離婚だけは思いとまって下さいまし!」とドリイは答えた。
「しかし、どんなことでもって、いったいどうするんです?」
「いいえ、それは恐ろしいことですわ。あのひとはもうだれの妻でもなくなって、破滅の道をたどることになります!」
「私にどうすることができるとおっしゃるんです?」とカレーニンは眉と肩を上げて、問い返した。妻が最後に仕向けたことを思い出すと、彼はまた気持がいらいらしてきて、話の初めころと同じように、冷然となってしまった。「ご同情はありがたく思いますが、もうそろそろお暇しなくちゃなりません」と彼は立ちあがりながらいった。
「いいえ、まあ、待って下さいまし! あなた、あのひとを破滅さすようなことをなすっちゃいけません。まあ、お待ち下さい、わたし自分のことを申しあげますから。わたしはこちらへ片づいてまいりましたが、良人はわたしに不実なことをしましたので、わたしは腹がたつのと嫉妬のために、なにもかもうっちゃって、出て行こうと思いました、自分自身さえ……でも、はっと気がついて、正気に返りました。それはだれのおかげだとお思いになりまして? アンナがわたしを救ってくれたのでございます。で、わたしはこのとおり生きております。子供たちも大きくなってまいりますし、たくも家庭のふところへ帰ってきました。そして、自分が悪かったと思って、前に比べれば、潔白ないい人になってくれましたので、わたしも生きていられるわけでございます……こうして、わたしも赦したのですから、あなたもお赦しにならなくてはなりません!」
 カレーニンは耳を傾けていたが、ドリイの言葉はもはや彼の心に、なんの作用もしなかった。その胸中には、あの離婚を決心した日と同じ、毒々しい気持が湧き起った。彼は何かふるい落すような身ぶりをして、高いきいきい声でいいだした。
「赦すことはできません。また赦そうとも思いません。そんなことは正義にはずれます。私はあの女のために、いっさいのことをしたのですが、あの女はそれをすっかり、泥の中に踏みにじったのです。泥水があれの性にあっておるのですよ。私は意地の悪い男じゃないから、今までかつて他人を憎んだことはありませんが、あの女だけは真底から憎みます。赦すことさえできません。なぜといって、あれがあまりひどいことを仕向けたのだから、憎しみの心が強すぎるのです!」声に憤怒の涙さえ響かせながら、彼はこういいきった。
「汝を憎むものを愛せよ、ですわ……」とドリイははにかみ口調でいった。
 カレーニンはばかにしたように、にたりと笑った。そんなことは、前からわかりきっていたのだけれども、彼の場合にはあてはまらないのであった。
「自分を憎んでいるものを愛することはできますが、自分の憎んでいるものを愛することは、不可能です。ご心配をかけてすみません。めいめい自分の不幸だけでもたくさんなくらいですからな!」とカレーニンは気をとりなおして、悠然と別れを告げて、立ち去った。

[#5字下げ]一三[#「一三」は中見出し]

 一同が食卓を離れたとき、レーヴィンはキチイについて客間へいこうと思った。しかし、あまり露骨にあとを追いまわすように見えて、キチイが不快に感じはせぬかと危ぶまれた。彼は男たちの一座に残って、みんなの話へ仲間入りしたが、キチイの方を見ないでも、その動作、視線、客間の中で彼女の占めている場所が、直感的にわかるのであった。
 いま彼はいささかの努力もしないで、彼女とかわした約束を実行することができた。つまり、すべての人をよく思い、常にすべての人を愛することである。会話は農村の共同体《オーブシチナ》ということにふれた。ペスツォフはそこに、ある特殊な根源を認めて、これを合唱的要素となづけた。レーヴィンはペスツォフにも、また兄にも賛成しなかった。兄はロシヤの共同体の意義を認めているような、いないような態度であった。レーヴィンはこの二人と話しながら、ただ彼らを調停して、その反駁を柔らげるようにのみ努力した。彼は自分自身のいうことにも、また二人のいうことにも、なんの興味もいだかなかった。ただこの二人をはじめ、みんなのものが和気あいあいとして、気持がいいようにと、ただそれのみを念じていたのである。今の彼はただ一つ重大なものを知っていた。そのただ一つのものは、はじめむこうの客間にいたが、やがてだんだん近づいてきて、戸口のところに立ちどまった。彼はその方へ顔を向けはしなかったけれども、自分の方ヘそそがれている視線と微笑を感じて、ついふりむかずにいられなかった。彼女はシチェルバーツキイといっしょに、戸口にたたずんで、彼の方をながめていた。
「ピアノの方へいらっしゃるのかと思いましたよ」と彼はそばへよりながら、話しかけた。「田舎の生活で欠けているものは、それなんですよ――音楽なんです」
「いいえ、あたしたちは、ただあなたを呼びにまいりましたの」と彼女は贈り物で感謝の意を表するように、微笑で相手をねぎらうのであった。「ありがとうございます、よくいらして下さいました。本当に議論するなんて、いい物好きですのね。どうせお互に、相手を言い負かすことなんかできやしませんわ」
「そう、全くです」とレーヴィンはいった。「まあ、たいていの場合は、相手がいったい何を論証しようとしているか、わからないものだから、そのために、むきになって議論することが多いんですよ」
 レーヴィンはよく、こういうことに気がついた――きわめて聡明な人が議論するときでも、さんざん大わらわになって骨を折り、精巧な論理やおびただしい言葉を浪費したあと、論者はやっとのことで、自分たちがお互に証明しようと長いあいだもがいたことは、とくの昔に、論争のはじめから知れきっているのだが、双方とも好むところが違っているために、相手に弱点をつかまれまいとして、おのれの好むところを口にしないのだ、とこういうことを自覚するものである。どうかすると論争の半ばに、相手の好むところを悟って、ふいに自分でもそれと同じものが好きになり、いきなり論敵に同意してしまう。すると、いっさいの論証は不用となって、影をひそめてしまう。彼自身もよくこれを経験した。が、またときによると、その反対の体験もある。やっとのことで自分の好むところ、うまい論証を考え出そうとあせっていた思想が言葉に出る。しかも、偶然うまい誠実みのある表現ができると、急に論敵がそれに賛成して、議論をやめてしまう。つまり、そのことを彼はいいたかったのである。
 彼女は額に皺をよせて、彼のいうことを理解しようと努めた。けれど、彼が説明しかけるやいなや、彼女はもう悟ってしまった。
「わかりますわ!――まず相手がなんのために論争しているか、何を愛しているか、それを知らなくちゃならないんですわね。そうするとはじめて……」
 彼女は、レーヴィンが拙《まず》いいいかたをした思想を、完全に察して、はっきりと表現したのである。レーヴィンは喜ばしげに微笑した。ペスツォフと兄を相手の混乱した、言葉ばかり多い論争のあとで、一足飛びに、ほとんど言葉を用いずして、この上もなく複雑な思想を表現しうる、いとも簡潔に明瞭な心と心の交流に移ったために、何かほっとするような思いであった。
 シチェルバーツキイは、二人のそばを離れていった。で、キチイはそこに出ているカルタ机の方へいって、そのわきに腰をおろし、チョークを手にとって、新しい緑色のラシャの上に、円い形をだんだん大きく描きはじめた。
 二人は食事のときの話、つまり婦人の自由と職業という問題を蒸し返した。レーヴィンは、女の子というものは結婚しなくても、家庭の中で、女にふさわしい仕事を発見することができるという、ドリイの意見に賛成した。彼はこの意見を裏書きするのに、いかなる家庭も、助手となるべき女なしにはやっていけない。貧乏な家でも、金持の家でも、雇い人なり、身内なりの婆やがいるという事実をもちだした。
「ちがいますわ」とキチイは顔を赤らめながらも、そのためにかえって勇敢に、真実みの溢れた目つきで、彼を見ながらいった。「女ってものは、身を卑《いや》しくしなければ、家庭の中へ入って行けない、そういうふうにできているのかもしれませんわ。そして自身も……」
 レーヴィンはただ暗示だけで、彼女の意のあるところを悟った。
「ああ、そうです!」と彼はいった。「そうです、そうです、あなたのおっしゃるとおりです、あなたのおっしゃるとおりです!」
 で、彼はペスツォフが食事のとき、婦人の自由について論証せんとしたことを、のこらず理解してしまった。それはただキチイの胸に、処女の恐怖と卑下心《ひげしん》を見てとったからである。レーヴィンは彼女を愛するが故に、この恐怖と卑下心を直感し、一挙にして自分の論拠を撤回したのである。
 沈黙が訪れた。彼女は依然として、テーブルの上にチョークで線を引いていた。その目は静かな光に輝いていた。彼もその気分に同化しながら、自己の全存在にたえず生長していく幸福の緊張を感じた。
「あら、わたしテーブルにすっかりいたずら書きしてしまいましたわ!」と彼女はいい、チョークをおいて、立ちあがりそうな気配を見せた。
『このひとなしに一人とり残されて、おれはどうしてやっていくのだ!』と彼はぞっとしながら考えた。彼はチョークをとった。
「待って下さい」テーブルにむかって腰をおろしながら、彼はこういった。「僕は前から、あなたにひとつおたずねしたいことがあったのです」
 彼は相手のおびえたような、とはいえ優しい目を、ひたとみつめた。
「どうぞおたずね遊ばして」
「こうなんです」といって、彼は次の頭文字を書いた。い、あ、ぼ、そ、で、な、お、そ、え、そ、あ、? これらの文字は、こういう意味であった。『い[#「い」に丸傍点]つぞやあ[#「あ」に丸傍点]なたはぼ[#「ぼ」に丸傍点]くに、そ[#「そ」に丸傍点]んなことはで[#「で」に丸傍点]きないとお[#「お」に丸傍点]っしゃいましたが、そ[#「そ」に丸傍点]れは永[#「永」に丸傍点]久にですか、そ[#「そ」に丸傍点]れともあ[#「あ」に丸傍点]の時だけですか?』彼女がこの複雑な句を解きえようとは、思いもよらぬことであったが、彼はこれらの言葉を、キチイが解いてくれるかどうかに、自分の全生命がかかっているような顔つきで、じっと彼女をみつめていた。
 彼女はまじめな様子で彼をながめたが、やがてしかめた額を片手に支えながら、読みはじめた。ときおり、『あたしの考えてること、あたっていますかしら?』とでもささやくように、彼の顔を見上げるのであった。
「わかりましたわ」と彼女は赤い顔をしていった。
「これはなんという言葉です?」永久に[#「永久に」に傍点]を意味する『え』の字を指しながら、彼はこうたずねた。
「これは永久に[#「永久に」に傍点]って言葉ですわ」と彼女はいった。「でも、それは違います!」
 彼は手早く自分の書いた字を消して、彼女にチョークを渡し、立ちあがった。彼女は、あ、わ、そ、へ、で、な、と書いた。
 ドリイはこの二人の姿を見たとき、カレーニンとの話にひき起された悲しみを、すっかり忘れてしまった。キチイはチョークを手に持って、臆病な、しかし幸福そうな微笑を浮べながら、下からレーヴィンを見上げているし、レーヴィンは美しい姿勢をして、テーブルの上にかがみながら、燃えるような目をテーブルと彼女の方へ、かわるがわるそそいでいる。と、ふいにその顔がさっと晴れわたった。彼は判じた。それは『あ[#「あ」に丸傍点]のときわ[#「わ」に丸傍点]たしは、そ[#「そ」に丸傍点]れよりほかの返[#「返」に丸傍点]事がで[#「で」に丸傍点]きな[#「な」に丸傍点]かったのです』という意味であった。
 彼は物問いたげな、臆病な目つきで、彼女を見やった。
「ただあのときだけですか?」
「ええ」と彼女の微笑が答えた。
「じゃ、い……いまは?」と彼はたずねた。
「それでは、これを読んでちょうだい。あたし自分の願っていることを、心から願っていることを申しますから!」彼女はまた頭文字を書いた。『も、あ、あ、わ、ゆ、く、で』――それはこういう意味であった。『も[#「も」に丸傍点]しあ[#「あ」に丸傍点]なたがあ[#「あ」に丸傍点]のときのことを忘[#「忘」に丸傍点]れて、赦[#「赦」に丸傍点]して下[#「下」に丸傍点]さることがで[#「で」に丸傍点]きたら』
 彼は緊張のあまりふるえる指でチョークをとり、それをぽきりと折って、つぎの意味を頭文字で書いた。『僕は何も忘れることも、赦すこともありません、僕はたえず、あなたを愛しつづけていたのです』
 彼女は頬に微笑を凍《こお》らして、彼をながめた。
「わかりましたわ」とささやくようにいった。
 レーヴィンは腰をおろして、長い文句を書いた。彼女はなにもかも悟った。そして、こうでしょうかともきかないで、チョークをとりあげ、返事を書いた。
 レーヴィンは、長いあいだ、彼女の書いたことが解《げ》せなかったので、しばしば相手の目に見入った。それは、幸福のために頭がぼうっとしたのである。彼はどうしても、彼女の書いた文字に言葉をあてはめることができなかった。けれども、その美しい、幸福に輝く目の中に、自分の悟るべきことをことごとく読みとったのである。彼は三つの文字を書いた。しかし、彼がまだ書き終らないうちに、キチイは早くもその手の陰から読みとって、自分でその締めくくりをつけた。『諾』と書いたのである。
「書記ごっこをしておるのかね?」と老公爵がそばへよっていった。「それにしても、もし芝居にまにあいたかったら、そろそろ出かけようじゃないか」
 レーヴィンは立って、戸口までキチイを見送った。
 この会話で、なにもかも残らずいいつくされた。彼女が彼を愛していることも、明日の朝、彼が改めて訪問することを、両親に伝えておこうということも、ことごとく語りつくされたのである。

[#5字下げ]一四[#「一四」は中見出し]

 キチイが行ってしまって、一人とり残されたとき、レーヴィンは彼女と離れた不安をはげしく感じた。そして、ふたたび彼女に会い、彼女と結びつくことのできる明日の朝まで、少しも早く、一刻も早く、時をすごしたいという、矢もたてもたまらない焦燥を覚えた。で、彼女なしにすごさねばならぬこの二十時間が、まるで死か何かのように恐ろしくなった。ひとりぼっちにならないために、時を欺くために、だれかといっしょにいて話すことが必要であった。オブロンスキイはそのために、うってつけの話し相手であったが、彼は夜会に招かれているといって、行ってしまった。が、そのじつ、バレーへ急いだのである。レーヴィンは彼にむかって、僕は幸福だ、僕は君を愛している、君が僕のためにしてくれたことは、永久に、永久に忘れはしない、とただそれだけのことをいう暇しかなかった。オブロンスキイの目と微笑は、彼がその気持をまちがいなく理解しているということを、レーヴィンは悟った。
「どうだね、まだ死ぬ時じゃないだろう?」感動をこめてレーヴィンの手を握りしめながら、オブロンスキイはこういった。
「とーんでもない!」とレーヴィンは答えた。
 ドリイも彼に別れを告げながら、何かお祝いでも述べるように、こんなことをいった。
「あなたがまたキチイとめぐりあいなすって、本当にうれしゅうございますわ。古い友だちって、大切にしなくちゃなりませんわね」
 レーヴィンは、ドリイのこの言葉が不快であった。これは彼にとってじつに高遠な事柄であって、彼女の理解などの及ぶべきことでないのだから、彼女は不遜にもそれを口にしてはならないのだ――そういう彼の気持が、ドリイにはわからなかったのである。
 レーヴィンは一同と別れを告げたが、ひとりぼっちになりたくなかったので、兄にすがりついた。
「これからどこへ行くんです?」
「会議へさ」
「じゃ、僕もついて行こう。いいでしょう?」
「そりゃいいさ。いっしょに行こう」とコズヌイシェフは、にやにやしながらいった。「おまえ、今夜どうしたんだい?」
「僕ですか? 僕は幸福なんです!」二人の乗りこんだ馬車の窓をおろしながら、レーヴィンは答えた。「かまいませんか? どうも息苦しくって、僕は幸福なんですよ。どうして兄さんは今まで結婚しなかったんです?」
 コズヌイシェフはにっと笑った。
「なに、僕も大いにうれしいよ、あれはどうやらいいむす……」とコズヌイシェフはいいかけた。
「いわないで、いわないで、いわないで下さい!」両手で兄の外套の両襟をつかみ、それをばたばたさせながら、レーヴィンは叫んだ。『あれはいい娘さんだ』などというのは、あまりにも彼の気持にふさわしくない、平凡で低級な言葉だったのである。
 コズヌイシェフは彼として珍しいことに、からからと愉快そうに笑いだした。
「だが、それにしても、大いにうれしいくらいは、いったってかまわないだろう」
「いや、それも明日のことです、明日のことです、もうそれ以上なんにもいわないで! なんにも、なんにも、ただ沈黙」とレーヴィンはいい、もういちど毛皮外套の襟をぱたりとあわせて、つけ加えた。「僕はあなたが大好きです! しかし、会議に行ってもさしつかえありませんか?」
「むろん、いいさ」
「今日はどういう問題なのです?」とレーヴィンは、たえず微笑しながらたずねた。
 やがて会議の場所へ着いた。レーヴィンは、秘書がどもりどもり記録を読み上げるのを聞いていた。どうやら、読むご当人も何のことやらわからないらしかった。しかし、レーヴィンはその秘書の顔つきからして、彼がじつに愛すべき、善良な、すばらしい若者であることを見てとった。それは、彼が記録を読みながらまごついて、もじもじしているのでも明瞭であった。そのあとで演説がはじまった。人々はある金額の支出と、何かの鉄管の敷設《ふせつ》のことで論争していたが、コズヌイシェフは二人の会員にちくりと針を刺して、勝ち誇ったように長々としゃべった。すると、もう一人の会員は、何か紙きれに書きつけた後、はじめ怯《お》じけついたけれどもやがてひどく毒を含んだ答弁を、慇懃《いんぎん》な調子で述べた。そのあとでスヴィヤージュスキイが(彼もそこにいたのである)、やはり何かしら、じつに美しい上品な言葉で述べた。レーヴィンはそれらに耳を傾けていたが、彼にははっきりわかっていた。そうした金額の支出も、鉄管の敷設も、いっさいなにもない、ありはしない、そしてみんなも決して腹などたてはせず、だれもかれも善良な愛すべき人々で、なにもかもが彼らのあいだで円満に、和気あいあいと進行したのだ。彼らはだれのじゃまもせず、すべての人が愉快な気分でいる。レーヴィンにとってすばらしかったのは、今夜これらの人々が、だれもかれも腹の底まで見えすいていたことである。前には目にもつかなかった些細な徴候によって、彼は一人一人の魂を認識し、彼らがみな善良な人々であることを、はっきりと見定めたのである。とりわけ彼レーヴィンを、人々は今夜なみはずれて愛しているのだ。それは、彼らが優しく彼に話しかけ、未知の人たちまでが、みんな愛想のいい、愛情のこもった目つきでながめるので、それと知られるのであった。
「どうだね、おもしろかったかね?」とコズヌイシェフは彼に問いかけた。
「非常に。僕はこんなにおもしろかろうとは、夢にも思いませんでした。すばらしくおもしろいです!」
 スヴィヤージュスキイがレーヴィンのそばへやってきて、お茶に招待した。レーヴィンはなんだってスヴィヤージュスキイに不満を感じていたのか、何を彼から求めていたのか、いっこうに理解もできなければ、思い出すこともできなかった、彼は聡明で、驚くばかり善良な男であった。
「そりゃ願ってもないことです」とレーヴィンはいって、細君やその妹のことをたずねた。奇妙な連想作用で、というのは、彼の頭の中ではスヴィヤージェスキイの義妹を思う心は、結婚というものに結びついていたために、自分の幸福を語る相手として、スヴィヤージュスキイの妻と義妹より以上の人はない、というような気がしたので、彼は喜んでその家へ出かけた。
 スヴィヤージュスキイは、彼に領地の仕事のことをたずねたが、それはいつものように、ヨーロッパで発見されなかったものを、ロシヤで発見できるはずがない、というような調子であった。が、今はそれもレーヴィンにとって、少しも不愉快でなかった。それどころか、彼の心の中で、スヴィヤージュスキイのいうことは本当だ、そんなことはみんなつまらぬ話だ、といったような気がした。彼はまた、スヴィヤージュスキイが驚くべきデリカシイと優しみをもって、自分の正しさを誇示《こじ》することを避けようとしているのを認めた。スヴィヤージュスキイの妻とその妹は、かくべつ愛すべき人たちであった。二人はもうなにもかも知って、同感しているくせに、ただデリカシイのために口に出さないだけだ、というような気持がした。彼はこの家に二三時間すわりこんで、種々雑多な話をしていたが、自分ではただ一つ、心に溢れることをほのめかしているつもりであった。こうして、みんな[#「みんな」は底本では「みん」]がすっかりあきあきしてしまって、もうとっくに寝る時間がきているのに気がつかなかった。スヴィヤージュスキイは、あくびをしながら戸口まで見送ったが、友の落ち入っている奇妙な心の状態に、内心おどろいていた。
 もう一時すぎていた。レーヴィンは宿へ帰った。そして、まだ残っている十時間を、今からたった一人きりで、焦燥の念をいだきながら、すごさなければならぬのだと考えて、愕然《がくぜん》たる気持になった。寝ずの番にあたっているボーイが、蝋燭をつけておいて、出ていこうとした。レーヴィンはそれを呼びとめた。エゴールと呼ぶそのボーイは、前にはレーヴィンの目にとまらなかったのだが、今みると、非常に気のきいた、善良な、それに第一、親切な男であった。
「どうだね、エゴール、寝ずにいるのは骨だろう?」
「どうもいたしかたございません。これがわたくしどもの勤めなんでございますから、そりゃお邸がただと、ずっと楽でございますが、そのかわり、こちらのほうが稼ぎがたんまりございましてな」
 聞いてみると、エゴールは家族もちで、三人の男の子と、仕立て物をしている娘が一人あって、彼はその娘を馬具屋の番頭の嫁にしたい、と思っているのであった。
 レーヴィンはそれをきっかけにして、エゴールに自分の考えを話して聞かせた。結婚でいちばん大切なのは愛情で、愛さえあれば、いつでも幸福でいられる。なぜといって、幸福はただ自分自身の中にあるものだから。
 エゴールは熱心に聴いていた。そして、見うけたところ、レーヴィンの説がとっくり腑《ふ》に落ちたらしかったけれども、彼はその説の正しさを裏書きするために、レーヴィンが面くらうほど、思いがけない意見を述べるのであった。彼は以前、りっぱなお邸で奉公していた時分には、自分のご主人たちに満足していたものだが、今の主人はフランス人ではあるけれども、やはり心から満足しているとのことであった。
『驚くほど善良な男だ!』とレーヴィンは考えた。
「ところで、エゴール、おまえは女房をもらったとき、女房を好いていたかい!」
「どうして好かないでいられましょう?」とエゴールは答えた。
 そのときレーヴィンは、エゴールも同じように感激に近い心の状態にあって、胸の深い奥底に秘めた気持を、すっかり吐き出してしまおうと思っているのを見てとった。
「わたくしの身の上も、どうしてなかなかたいへんなものでございます。わたくしはまだ小さな餓鬼《がき》の時分から……」ちょうどあくびが人に伝染するように、見るからレーヴィンの歓喜に感染した様子で、彼はこうしゃべりだした。
 けれど、そのときベルの音が聞えて、エゴールはいってしまった。レーヴィンはひとりとり残された。彼は晩餐のとき、ほとんど何も食べなかったし、スヴィヤージュスキイのところでも、お茶も夜食も辞退したが、それでも夜食のことなど考えられなかった。彼は前の晩ねむられなかったにもかかわらず、眠るということはもってのほかであった。部屋の中は涼しかったのに、彼は暑さに息がつまりそうな気がした。彼は通風口を二つとも開けて、そのまん前のテーブルの上へ腰をかけた。雪におおわれた屋根のかげから、模様のある十字架と鎖が見えて、その上には、黄ばんだ明るい光を放つカペラ星を擁《よう》した三角形の馭者座がしだいに高くなっていく。彼はその十字架と星を、かわるがわるながめながら、規則ただしく室内へ流れこむ、すがすがしい凍った空気を吸いこんでいた。そして、夢みごこちで、想像の中へ湧きあがってくる映像や思い出を跡づけていた。三時すぎに、廊下に足音が聞えたので、彼は戸口からのぞいて見た。それは知り合いのカルタ師ミャースキンが、クラブから帰ってきたのである。彼は陰気くさい様子で、顔をしかめ、咳ばらいをしながら歩いていた。『かわいそうに、ふしあわせな男だ!』とレーヴィンは思った。すると、この男にたいする愛と憐憫のために、目がしらに涙が浮んできた。レーヴィンは彼と話をして、慰めてやりたくなった。けれども、自分が肌着一枚なのに気がついたので、思いなおして、通風口の前へいって腰をおろし、ふたたび凍った空気に沐浴《もくよく》をしながら、あのじっとおし黙ってはいるが、彼にとっては深い意味にみちた、微妙な形をしている十字架や、しだいに高く昇って黄色いあざやかな光を放っている星をながめはじめた。六時すぎになると、床掃除人たちがざわざわと音をたて、何かの勤行《ごんぎょう》を知らせる鐘が鳴りはじめた。レーヴィンは体が凍えてきたのに気がついた。通風口を閉じて、顔を洗い、着替えをすますと、通りへ出ていった。

[#5字下げ]一五[#「一五」は中見出し]

 通りはまだ、がらんとしていた。レーヴィンは、シチェルバーツキイ家へ出かけて行った。表玄関の扉はしまっていて、なにもかもしんと寝静まっていた。彼はまたひっ返して、ふたたび宿の部屋へ入り、コーヒーを命じた。もうエゴールとちがう当番のボーイが、注文のものを持ってきた。レーヴィンは、この男と話をしようと思ったが、ボーイはベルに呼ばれて、行ってしまった。レーヴィンは、またコーヒーを飲もうとして、丸パンを口へ入れたが、口はそのパンをどうしていいか、まるで知らないのであった。レーヴィンは丸パンを吐き出すと、外套を着こんで、ふたたび外へぶらつきに出かけた。彼が二度目に、シチェルバーツキイ家の入口階段のところへ来たのは、九時すぎたころであった。家の中では、たったいま起き出したばかりで、料理人が食料品を買い出しに出かけるところであった。まだ少なくとも、二時間はがまんしなければならなかった。
 レーヴィンはその夜からずっと朝にかけて、全く無意識に暮してしまったので、自分という人間がすっかり、物質生活の諸条件から解放されたような気がした。彼は一日なんにも食べず、ふた晩まんじりともせず、肌着一枚で幾時間も厳寒の外気の中ですごした。しかし、彼は今までかつて知らぬほど、生きいきとした、健康な気持がしたばかりでなく、ぜんぜん肉体から超越してしまったように感じた。彼は筋肉の力を借らずに動き、どんなことでもできるような気がした。もし必要さえあれば、空中高く飛ぶこともできるし、家の片すみくらい動かすこともできる、と確信してみたり、四方を見まわしたりしながら、街々を歩きまわった。
 そして、そのとき彼が見たものは、その後もう二度と見られなかった。中でも、小学校へ行く子供たち、屋根から人道へ飛びおりた銀鼠色の鳩、見えない手が店の飾窓に並べている粉のふいたコッペパンなどが、彼に深い感動を与えた。このコッペパンや、鳩や、二人の男の子は、みな地上のものと思えないような存在であった。しかも、それがみんな同時なのであった。一人の男の子が鳩の方へ走って行き、にこにこしながらレーヴィンを見やると、鳩はばたばたと羽ばたきして、空中にふるえている粉雪の間を、日光に羽を輝かせながら、ぱっと飛び立った。すると家の中からは、焼きたてのパンの匂いが流れてきて、コッペパンが並べられた。これらのことがいっしょになって、すばらしくよかったので、レーヴィンは思わず笑いだすと同時に、うれしさのあまり泣きだしたくらいである。新聞横町から、キスローフカと大きくまわり路をして、彼はまた宿へ帰った。そして、前に時計を置いて、十二時を待ちかねながら、じっと坐っていた。隣の部屋では、機械がどうしたとか、何やらが嘘だとか、いうような話をしながら、朝らしい咳《しわぶき》をしていた。この連中は、時計の針がもう十二時に近づいているのを知らないのだ。針はいよいよ十二時をさした。レーヴィンは玄関へ出た。馭者たちは察するところ、なにもかも承知しているらしかった。彼らは幸福そうな顔つきで、先を争って自分の馬車をすすめながら、レーヴィンをとりかこんだ。レーヴィンは、ほかの馭者たちを怒らせないように、つぎに頼むからと約束しながら、その中の一人を選んで、シチェルバーツキイ家へやってくれと命じた。その馭者は、血の気のみちみちた、真赤な頑丈らしい頸に、ぴったり巻きついている白いルバーシカの襟を、長外套《カフタン》の下からのぞかせている様子が、なんともいえないほどすてきだった。この馭者の橇は腰が高くて、具合がよく、その後レーヴィンが二度と乗ったことのないようなものだった。馬もいい馬で、一生懸命に走ろうとしているくせに、一歩も先へ動かないのである。馭者はシチェルバーツキイ家を知っていた。そして、乗っている客に敬意を表するために、特にうやうやしく両腕を円くして、「どうどう」といいながら、車寄せのそばで橇をとめた。シチェルバーツキイ家の玄関番は、きっとなにもかも知っているに違いなかった。それは目もとの微笑にも、口にした言葉にも見え透いていた。
「これは、コンスタンチン・ドミートリッチ、お久しぶりでございますな!」
 彼はなにもかも知っているばかりでなく、明らかにほくほくもので喜んでいながら、その喜びを隠そうとつとめているらしかった。その年寄りらしい愛嬌のある目を見ると、レーヴィンは自分の幸福に、また何か新しいものを発見したようにさえ思うのであった。
「みなさんもうお起きになったかね?」
「どうぞお入り下さいまし! それはここへ置いていらっしゃいまし」レーヴィンが帽子をとりにひっ返そうとしたとき、彼はにこにこしながら、そういった。これは何かわけがあるのだ。
「どなたにお取次ぎいたしましょう?」と従僕がきいた。
 従僕はまだ若い新参の洒落者であったが、ごく善良な感じのいい男で、やはりなにもかも心得ていた。
「奥様に……公爵に……お嬢さんに……」とレーヴィンはいった。
 彼が最初に会ったのは、マドモアゼル・リノンであった。彼女は広間を通りぬけていたが、その髪も顔も晴ればれと輝いていた。彼がひと言話しかけるかかけないかに、とつぜん戸のむこうで衣《きぬ》ずれの音が聞えた。すると、マドモアゼル・リノンは、忽然とレーヴィンの目から消えて、幸福の近づいてきた喜ばしい恐怖が彼の全身に伝わった。マドモアゼル・リノンはあたふたして、彼をうっちゃらかしたまま[#「うっちゃらかしたまま」は底本では「うっちゃらかしてまま」]、次の戸口をさして歩き出した。彼女が出ていくやいなや、せかせかと早く嵌木床《バルケット》を踏む軽い足音が響きはじめた。彼の幸福、彼の生命、彼自身、否、彼自身よりも優れたもの、あれほど長い間さがし求めていたものが、急速に近づいてくる。彼女は歩いているのでなく、何か目に見えぬ力によって、彼の方へ翔《かけ》ってくるのであった。
 レーヴィンは、ただ澄みわたった、真実みのこもった、彼女の目を見たばかりである。それは、男の心をも満たしている愛の喜びに、おびえたような表情をしていた。その二つの目は、愛の光で彼に目つぶしを食わせながら、次第に近く近く輝いてくる。彼女はすぐそばへ、さわりそうなほどちかぢかと立ち止った。その両手があがったと思うと、彼の肩の上におろされた。
 彼女は、自分にできることはすっかりしてしまった。男のそばへ駆けよって、臆しながら、歓喜に燃えながら、身も心も男にゆだねたのである。彼は抱きしめて、おのれの接吻を求めている口に唇をおしあてた。
 彼女も同じく夜っぴて眠らないで、午前中彼を待っていたのである。両親は一も二もなく同意して、彼女の幸福を幸福とした。で、彼女は彼を待ち受けていた。彼女はだれよりも一番に、自分たち二人の幸福を、男に告げたかったのである。彼女はただ一人で、男を迎える心がまえをしたが、その思いつきがうれしくもあれば、気おくれして恥ずかしくもあった。そのために、彼女は自分でも、どんなことをするやらわからなかった。男の足音と声を聞きつけると、彼女は戸の外に立って、マドモアゼル・リノンが行ってしまうのを、待っていたのである。マドモアゼル・リノンは出ていった。彼女は、何をどんなふうに、などということを考えもしなければ、自分の心にたずねてもみずに、いきなり男のそばへ近づいて、今したとおりのことをしたのである。
「ママのとこへまいりましょう!」と彼女は男の手をとって、いった。彼は長いあいだ、なんにもいうことができなかった。それは、自分の感情の崇高さを、言葉で傷つけるのを恐れたからというよりは、何かいおうとするたびに、言葉のかわりに、幸福の涙がほとばしり出そうな気がしたからである。彼は女の手をとって接吻した。
「いったいこれが本当だろうか?」やっとのことで、彼はくぐもり声でいいだした。「おまえが僕を愛してくれるなんて、とても本当にできない!」
 キチイはこの『おまえ』という言葉と、自分をながめた男の臆病な目つきに、思わずにっこりとほほえんだ。
「ええ!」と彼女は意味ありげに、ゆっくりと答えた。「あたしとても幸福ですわ!」
 彼女は男の手をはなさないで、客間の中へ入った。公爵夫人はその二人を見るなり、息づかいがだんだん早くなったと思うと、いきなりわっと泣き出したが、すぐにまた笑いに移って、レーヴィンには思いもよらぬ力強い足どりで、二人の方へ走ってきた。そして、レーヴィンの頭を両手に抱いて、彼に接吻した。彼の頬は、涙でしとどに濡らされてしまった。
「ああ、これでなにもかもすみました! わたしはうれしい。どうかかわいがってやってちょうだい。本当にうれしい……キチイ!」
「手早いとこをやりなおったな![#「やりなおったな!」はママ]」と老公爵は、強《し》いて平気を装いながら、こういったが、レーヴィンは老公が自分の方へ向いたとき、その目がうるんでいるのに気がついた。「わしは前から、いつもこうなるのを望んでおったんだよ」レーヴィンの手をとって、自分の方へひきよせながら、老公はそういった。「わしはもうあのときから、そら、このおはねさんが、とんでもない考えを起して……」
「パパ!」とキチイは叫んで、父の口に両手で蓋《ふた》をした。
「いや、もういわんよ!」と彼はいった。「いや、わしもじつに、じつに……うれ……ああ、わしはなんという馬鹿爺だ……」
 彼はキチイを抱きしめて、その顔に接吻し、それから手、さらにまた顔に接吻した後、十字を切ってやった。
 キチイが、そのぶよぶよした手を長いこと、優しい愛情をこめて接吻するのを見たとき、レーヴィンは、今まで赤の他人であったこの老人にたいする、新しい愛の感情につつまれるのを覚えた。