『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」6-11~6-15(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一一[#「一一」は中見出し]

 レーヴィンとオブロンスキイが、いつもレーヴィンの泊まりつけにしている百姓家へ着いたとき、ヴェスローフスキイはもうちゃんとそこにいた。彼は部屋のまんなかに腰かけて、両手を床几につっぱりながら、主婦《おかみ》さんの兄貴にあたる兵隊あがりに、泥のいっぱい入った長靴をひっぱってもらっていたが、例のはたのものにうつるような快活な笑い声を立てた。
「僕はたった今ついたばかりなんです。〔Ils ont ete' charmants.〕(愛すべき連中でしたよ)どうでしょう、さんざ飲ませて、食わせてくれましたよ。またそのパンといったら、じつにすてき! 〔De'licieux!〕(洗練を極めたものなんです)それに、ウォートカ――あんなにうまいやつは、まだ一度も飲んだことがないくらいですよ! それに、なんといっても、金を取ろうとしないんですからね。ただもう、『かれこれいわねえで』とかなんとかいうばかりでね」
「なんで金なんか取るもんですかね? だって、ふるまいでがすもん。あの連中のウォートカを、売りもんと思おっしゃるかね?」やっとのことで、黒くなった靴下といっしょに長靴をひき抜いて、兵隊あがりがこういった。
 猟人たちの靴や、体じゅうなめまわしている泥だらけの犬で汚された部屋の中の不潔さや、中に立ちこめている沼と火薬のにおいにもかかわらず、またナイフとフォークがないのにもかかわらず、猟のときでなければ味わえないような食欲で、猟人たちは夜食をしたため、茶を飲んだ。体を洗ってさっぱりした一同は、乾草を敷いた納屋へ行った。そこには馭者が旦那がたのために、寝床を用意しておいたのである。
 もう暗くなってきたが、猟人たちはだれ一人ねむくなかった。
 銃の当りぐあいや、犬や、以前の猟などの回想と物語のあいだを動揺した後、会話は一同に興味のある話題におちついた。ヴァーセンカがこの一夜の宿と、乾草の香りと、こわれた荷車(前車がはずしてあったために、こわれたものと思ったのである)と、ウォートカをごちそうしてくれた百姓たちと、めいめい自分の主人の足もとにねている犬のすばらしさを、もう何度もくりかえして賛嘆したのをきっかけに、オブロンスキイは、去年よばれて行ったマルトゥスの猟のすばらしさを物語った。マルトゥスは、有名な鉄道成金であった。オブロンスキイは、このマルトゥスがトヴェーリ県にどんな沼を買い占めていて、それがどんなふうに保存してあり、どんな馬車が猟人たちを乗せて行って、どんなテントが弁当を用意して、沼のそばに張ってあったかを、物語った。
「君の気持がわからないね」乾草の上に起きあがりながら、レーヴィンがいいだした。「どうして君は、そんな連中がいやらしくないんだい? そりゃラフィート酒つきの弁当が気持のいいことは、僕だってわかっているけれど、つまりその贅沢三昧が、どうして君はいやらしくないんだろう? そんな連中は、以前の専売商人などと同じような、金のもうけかたをしてるんだよ。もうけるときの金には、世間の軽蔑を買いながら、その軽蔑を平然と無視してさ、それからもうけた金で、以前の軽蔑を臆面もなく買い戻すんだ」
「全くそのとおりです!」とヴァーセンカ・ヴェスローフスキイが応じた。「ぜんぜん同感! もちろん、オブロンスキイは bonhomie(やさしいきもちで)そうしたんでしょうが、他人は『オブロンスキイがあすこへ行くのは……』などといいますからね」
「決して」とオブロンスキイはいったが、そのときにったり笑ったのが、レーヴィンにはちゃんと感じられた。「ただ僕はあの男を、金持の商人や貴族以上に、不正直と思わないまでの話さ。そういう連中だって同じように、労働と知力で金をもうけたんだからね」
「そう、しかし、どういう労働だとおもう? 利権を獲得して、それを転売するのが、いったい労働かね?」
「もちろん、労働さ。僕が労働というのは、あの男が、もしくはああいったふうの人間がいなかったら、鉄道もなかったろう、という意味なのさ」
「しかし、その労働は、百姓や学者みたいなものじゃないよ」
「かもしれない。しかし、彼の労働は鉄道という結果を与える、という意味の労働なのだ。しかし、君は鉄道は無益だという意見だったね?」
「いや、それは別問題だ。僕は鉄道を有益と認めるにやぶさかでないよ。しかし、投下した労力に不相応な利得は、不当なものと認める」
「じゃ、だれが当不当を決めるんだい?」
「不正直な方法や、ずる[#「ずる」に傍点]で獲得したもうけさ」正直と不正直の境界をはっきり決められそうもないのを感じて、レーヴィンはこういった。「ちょうど、銀行のもうけみたいなものさ」と彼はつづけた。「それは悪だよ、以前の買占め時代みたいに、労力なしにばくだいな財産をつくるのは――ただ形が変ったばかりだ。Le roi mort, vive le roi!(王は死んだが、別の王が生きてる)買占めを全廃したかしないかに、今度は鉄道や銀行が現われた。これも労力なしのもうけだからね」
「そう、それはみんな本当で、皮肉な見方かもしれない……じっとしてるんだ、クラーク!」とオブロンスキイは、ごそごそ体を掻いて、乾草をすっかりひき散らした犬を叱ったが、あきらかに、自分のテーマの正確さを信じきっているらしく、おちついて悠々としていた。「しかし君は、正直な労働と不正直な労働の境界を、はっきりさせなかったよ。僕が課長より(しかも仕事は課長のほうがよく知っているのに)、よけい俸給をもらっているのは、いったい不当なのかね!」
「僕にはわからんね」
「ふん、じゃ、僕がいおう。君が自分の農場で、まあ、かりに四千ルーブリよけいにもうけたとしょう[#「もうけたとしょう」はママ]。ところが、この家の主人はどんなに働いてみたって、年に五十ルーブリ以上ははいりゃしない。それは、僕が課長よりよけいに俸給を取り、マルトゥスが鉄道技師よりよけい取るのと、おなじことだよ。僕の見るところはその反対で、社会ぜんたいがそういう連中にたいして、なんの根拠もない敵意をいだいてるんだ。僕は、そこに羨望の念が働いてると思うな……」
「いや、それは違います」とヴェスローフスキイがいった。「羨望なんてものはありえません。が、そこには何か純でないものがありますよ」
「いや、ちょっと待ってくれたまえ」とレーヴィンはつづけた。「僕が五千ルーブリもうけて、百姓が五十ルーブリしかかせがないのは、不当だというんだね。そりゃまさに不当だ、それは僕も感じているが、しかし……」
「そりゃ本当ですよ。なんだって僕らは食って、飲んで、狩をするばかりで、なんにもしないでいるのに、百姓は年がら年じゅう働いてるんでしょう?」とヴァーセンカ・ヴェスローフスキイはいった。どうやら、生れてはじめて、この問題をはっきり考えたらしく、したがって、全く真剣であった。
「そう、君はそれを感じていながら、自分の領地を百姓にやらないじゃないか」とオブロンスキイは、わざとレーヴィンの痛いところを突くようにいった。
 最近、二人の婿同士のあいだに、何か秘密な敵対関係が固定してしまったようなふうであった。彼らが姉妹と結婚して以来、ふたりのあいだには、だれがよりたくみに自分の生活を整えるかで、競走でも始ったかのようであった。今も、個人的なニュアンスをとりはじめた会話で、この敵対関係が現われてきたのである。
「僕が領地をやらないのは、だれもそんなことを要求しないからだ。それに、よしんば僕がその気になっても、そういうわけにいかないんだ」とレーヴィンは答えた。「それに、やる相手もないし」
「あの百姓にやったらいいじゃないか。辞退はしまいよ」
「そう、しかし、どんなふうにしてやるんだね? いっしょに出かけて行って、登記でもするのかね?」
「そりゃ知らないが、もし君がそう確信していたら、そうしない権利はないだろう……」
「僕はちっとも確信なんかしてやしないよ。それどころか、やる権利かないと感じている。僕は土地にたいしても、家族にたいしても、義務があるからね」
「いや、待ってくれ。もし君がその不平等をまちがっていると思ったら、なぜ君はそういうふうに行動しないんだね?」
「僕はただ消極的に行動しているのだ。という意味は、自分と彼らの間に存在している境遇の差を、大きくしないように努力しているのだ」
「いや、失敬だが、それはもう逆説だ」
「そうですね、それは何か詭弁《きべん》的な説明ですね」とヴェスローフスキイも相槌を打った。「ああ、この亭主だ!」門をぎいときしませて、納屋へ入ってきた百姓に向って、彼はこういった。「どうだい、まだ寝ないのかね?」
「いんえ、どうして寝られるもんですけえ! わしゃまた、旦那がたこそもうお休みだべえ、と思っておりましたに、話し声が聞えるじゃごぜえませんか。わしゃここへ鉤《かぎ》を取りにめえりやしたんで。これ咬《か》みつきゃしませんかね?」はだしの足を用心ぶかく踏み出しながら、彼はそうつけ加えた。
「ところで、おまえはどこで寝るんだい?」
「わしらァ馬の夜番に行きますだ」
「ああ、なんて夜だろう!」今は開け放しになった門を大きな額縁《がくぶち》にして、夕焼けの弱々しい光の中に見える百姓家と、馬を放した馬車の片端を眺めながら、ヴェスローフスキイはいった。「それに、聞いてごらんなさい、ほら、女が大ぜいで歌う声が聞えますよ。しかも、なかなかうまい。ありゃだれが歌ってるんだね、亭主?」
「ありゃお邸づとめの娘《あま》っこどもが、すぐそこで、隣で歌ってるんで」
「ひとつ出かけて行って、騒ごうじゃありませんか! どうせ寝られやしないから。オブロンスキイ、行きましょう」
「こうして、ねたまま行く方法はないものかなあ」とオブロンスキイは、のびをしながら答えた。「ねているのもすてきだよ」
「じゃ、僕ひとりで行こう」とヴェスローフスキイは元気よく起きあがり、靴をはきながらいった。「諸君、さよなら。もしおもしろかったら、呼びに来てあげますよ。あなたは僕に鷸《しぎ》をごちそうしてくれたから、あなたのことは忘れやしませんよ」
「ねえ、そうだろう、気持のいい男だろう?」ヴェスローフスキイが出て行って、百姓がそのあとの門を閉めるが早いか、オブロンスキイはこういった。
「ああ、いい男だ」先ほどの話題を考えつづけながら、レーヴィンは答えた。彼はできうる限り明瞭に、自分の思想と感情を述べたつもりなのに、相当頭のいい誠実みのある人間が、二人ながら声を揃えて、おまえは詭弁を弄しているという、それが気になったのである。
「そうなんだよ、君。そこには二つに一つを選ぶしかないんだ。一つは現在の社会組織を正しいと認めるのだ。そうすれば、自分の権利を擁護することにもなるのさ。さもなければ、僕のやっているように、不当な特権を利用していると認め、かつ喜んでそれを利用するかだ」
「いや、もしそれが不当であれば、君はその特権を、喜んで利用することはできないはずだ。少なくも、僕にはできないね。僕に何より第一に必要なのは、自分は悪くないと感じることなんだ」
「どうだろう、本当に行ってみないか?」どうやら思想の緊張に疲れたらしく、オブロンスキイはこういいだした。「どうせ寝つかれやしないんだから。本当に行ってみよう!」
 レーヴィンは返事をしなかった。あの話のあいだに、自分はただ消極的な意味でのみ正しい行動をとっている、といったひと言が、彼の心を捉えているのであった。『いったいただ消極的にしか、正しい行動はとれないものだろうか?』と彼は自問した。
「それにしても、新しい乾草はずいぶん強い匂いがするもんだね!」とオブロンスキイは、身を起しながらいった。「これじゃどうしたって寝つかれやしない。ヴァーセンカがあちらで何やらはじめたらしいぞ。大ぜいの高笑いと、あの男の声が聞えるだろう? どうだ行ってみないか? 行こうよ!」
「いや、僕は行かない」とレーヴィンは答えた。
「いったいそれも、やっぱり主義に基づくのかね?」闇の中で自分の帽子をさがしながら、オブロンスキイは微笑を含んでいった。
「主義というわけじゃないけれども、行ったってしかたがないじゃないか」
「ねえ、君、君は自分で自分の身に不幸をひき起すぜ」帽子を見つけて、立ちあがりながら、オブロンスキイはこういった。
「なぜ?」
「だって、僕はちゃんと見て知ってるよ、君が細君にたいして、自分をどういう立場においてるかってことを。聞き及ぶところでは、君たちのあいだでは、君が二日泊りで猟に行くかどうかということが、第一重要の問題だそうじゃないか。それは、牧歌としてはけっこうだが、長い一生それじゃやりきれないよ。男は何ものにも掣肘《せいちゅう》されちゃいけない――男には、自分の男としての興味があるんだからね。男は男らしくしなくちゃだめだよ」とオブロンスキイは門を開けながらいった。
「じゃ、何かい、これから出かけて行って、邸づとめの娘の尻でも追いまわせ、っていうのかね?」とレーヴィンはたずねた。
「もしおもしろければ、それもしちゃならんという法はないさ。〔C,a ne tire pas a` conse'qnence.〕(別にあとくされにはならんからね)。そのために、家の女房が損をするわけじゃなし、僕がただおもしろい目をするだけだ。一番かんじんなのは、家庭の神聖を守るということだ。家庭の中には、何ごともないようにしなくちゃいかん。が、自分で自分を束縛する手はないよ」
「そうかもしれん」とレーヴィンはそっけない調子でいって、くるりと寝返りを打った。「明日は早立ちなんだからね。僕はだれも起さないで、夜明けに出かけるよ」
「Messieurs, venez vite!(諸君、早くいらっしゃい)」と引き返して来たヴェスローフスキイのこういう声が聞えた。「Charmante!(すてきですよ)あれは僕が見つけたんですからね。Charmante. 全くのグレートヒエンですよ、僕はもうその娘と近づきになりました。本当にすばらしい美人なんですよ!」まるでその娘が、自分のために美しく創られたかのように、そして自分のために、これだけの膳立てをしてくれた人間に、満足の意を表するかのように、感心、感心、とでもいったような顔つきで、彼はしゃべりたてるのであった。
 レーヴィンは眠っているようなふりをした。オブロンスキイは上靴をはき、葉巻に火をつけて、納屋を出て行ったが、まもなく、二人の話し声は聞えなくなった。
 レーヴィンは長いあいだ、眠ることができなかった。自分の馬が乾草を食べる音、それからしばらくして、亭主が総領息子といっしょにしたくして、馬の夜番に出かけて行く様子が、耳に入った。やがて、例の兵隊あがりが、自分の甥にあたるこの家の末の子と二人で、納屋の反対側で、寝じたくをする気配が聞えた。その少年が、か細い声で、猟犬がもの凄く大きく、恐ろしく思われたという印象を、叔父さんに話す声が耳に入る。それから少年が、あの犬は何をつかまえるのかとたずねると、兵隊あがりはしゃがれた寝ぼけ声で、あす猟の旦那がたが沼へ行って、鉄砲をどんどん射ちなさるのだ、と話して聞かせたあと、とうとう少年の質問を封じるために、『寝れや、ヴァシカ、早く寝ねえと、今に見てれや』といったかと思うと、まもなく、自分のほうが鼾《いびき》をかきはじめた。あたりはしんとしてしまって、ただ馬のいななきと、鷸の鳴き声が聞えるばかりであった。『本当にただ消極的にしかやれないのだろうか?』と彼はくりかえし考えるのであった。『いや、どうもしかたがない! おれが悪いんじゃない』こうして、彼はまた明日のことを考え出した。
『明日は朝早く出かけよう。そして、のぼせないように、うんと肚《はら》を据えよう。鷸は無尽蔵だし、田鴫もいる。そして、帰ってくると、キチイの手紙が届いている。そう、あるいはスチーヴァのいうとおりかもしれない。おれは女房にたいして男らしくない。おれは女の腐ったのになってしまったぞ……が、どうもしかたがない! これはまた消極的だ!』
 ヴェスローフスキイとオブロンスキイの楽しげな話し声が、夢うつつのあいだに聞えた。彼はいっとき目を見開いた。月が昇って、開け放された戸口に、明るく月光に照らされた二人が、何か話しながら立っていた。オブロンスキイは一人の娘のみずみずしさを、たった今むいたばかりの新しい胡桃《くるみ》にたとえながら、なにやらいっていた。すると、ヴェスローフスキイは、例の、はたのものにまで伝染するような笑い声を立てながら、どうやら亭主のいったらしい『気に入ったのがあったら、できったけくどきなさるがええ!』という言葉をくりかえしていた。レーヴィンは半ば夢心地で、
「諸君、明日は夜の引明けだよ!」といって、眠りに落ちてしまった。

[#5字下げ]一二[#「一二」は中見出し]

 東が白むと同時に目をさまして、レーヴィンは友だちを起そうと試みた。ヴァーセンカは腹ばいにつっ伏して、靴下をはいた片足を、にゅっとつき出したまま、ぐっすりと寝こんでいたので、どんなに呼んでも返事がなかった。オブロンスキイは夢うつつに、そんなに早く出かけるのはいやだ、といった。乾草の端っこに丸くなって寝ていたラスカさえ、しぶしぶ起きあがって、たいぎそうに後脚を一本ずつ、かわるがわる伸ばすのであった。靴をはき、銃をとって、きいきいきしむ納屋の戸を用心ぶかく開くと、レーヴィンは外へ出た。馭者たちは馬車のそばで眠り、馬はうとうとしていた。ただ一匹だけが、鼻面で飼秣槽《かいばおけ》をひっかきまわしながら、たいぎそうに燕麦を食っていた。外はまだ灰色をしていた。
「なんでこう早く起きさっしゃりましたね、旦那さま?」ちょうど家から出てきた年取った主婦《かみ》さんが、まるで古なじみのような親しさで、彼に話しかけた。
「猟に行くんだよ、おばさん。すぐそこの沼までね」
「裏道づたいに行きゃ、まっすぐでごぜえますよ。うちの打穀場《こなしば》から、大麻畑を抜けてござらっしゃい、細い径《みち》がありますに」
 日焼けのした素肌で用心ぶかく歩きながら、老婆はレーヴィンを案内して、打穀場《こなしば》の枝折戸《しおりど》をおし開けた。
「これからまっすぐに沼へ出られますだ。うちの若えもんたちも、昨夜《ゆんべ》あすこさ夜番に行きましただよ」
 ラスカはたのしげに、細径《ほそみち》をさきに立って走り出した。レーヴィンはのべつ空を見上げながら、軽い足どりですたすたと、そのあとにつづいた。彼は陽の昇らないさきに、沼まで行き着きたかったのである。しかし、太陽は待ってくれなかった。彼が家を出る時には、まだ輝いていた月が、今はただ水銀の一片のように、ぼんやり光っているばかり。以前はいやでも目に入った暁の色が、今ではさがさなければわからなかった。先ほどまでぼんやりとしていた遠い野面のしみが、今はもうはっきりと指点された。それは、裸麦の禾堆《にお》なのであった。もう雄茎を選り抜いてしまった、丈の高い、強い香りを発する大麻に宿った露は、日光を受けないために、目には見えぬけれど、レーヴィンの足ばかりか、上衣を腰の上の辺まで、しとどに濡らした。早朝の澄みきったしじまの中では、ごく小さな物音でも、はっきり聞えた。一匹の蜜蜂が、弾丸のような唸りをたてて、レーヴィンの耳もとをかすめた。じっと目をすえて見つめると、また一匹、さらにもう一匹、目に入った。それはみんな、養蜂場の編垣から飛び出して、大麻畑の上を越し、沼の方をさして姿を消すのであった。小径はまっすぐに沼へ出てきた。沼は立ち昇る水蒸気で、たやすくそれと知られた。水蒸気は、あるところは濃く、あるところは薄いので、小島のような菅《すげ》や楊《やなぎ》の茂みが、その水蒸気の中で揺れて見えるのであった。沼のふちや道ばたで、馬の夜番をした男の子や百姓たちが、ごろごろ横になっていたが、夜明け前にみんな長外套《カフタン》をかぶって、ひと寝入りしているところであった。そこから遠くないところに、脚をゆるく縛られた三匹の馬が、歩きまわっていた。その中の一匹は、足かせをがちゃがちゃ鳴らしていた。ラスカは、早く先へ行かしてほしそうに、あたりを見まわしながら、主人と並んで進んでいた。眠っている百姓たちのそばを通りぬけて、最初の沼地まで来たとき、レーヴィンは撃発装置をしらべて、犬を放してやった。三頭の中の一つで、よく肥えた栗毛の三歳駒が、犬を見ると軽く跳ねて、尻尾をぴんと上げながら、鼻息を立てた。ほかの二頭もびっくりして、縛られた脚で水をじゃぶじゃぶいわせたり、粘《ねば》っこい泥から蹄《ひずめ》を抜くたびに、平手打ちのような音をたてたりしながら、沼の中から躍り出した。ラスカは立ちどまって、嘲《あざけ》るように馬どもをながめた後、もの問いたげにレーヴィンを見上げた。レーヴィンは、ラスカをひとつ撫でてやって、もう始めてもいいという合図に、口笛を鳴らした。
 ラスカは、足もとでふわふわする沼土を踏みながら、楽しげに、またものものしく駆け出した。
 沼の中へ駆けこむと、ラスカはすぐ草の根や、水草や、水錆などのなじみの深い匂い、それから、ここでは不似合いな馬糞の臭気などの中で、ここかしこに散らばっている鳥の匂い、何よりも強く興奮を感じさせる、ほかならぬ鷸の匂いを嗅ぎ分けた。沼の苔地や草地のそこここでは、この匂いがことに強く感じられたが、どの方角にむかって強まり、どの方角へむかって弱まっているのか、それがはっきり決められなかった。その方向を発見するためには、遠く風下へ離れなければならなかった。ラスカは自分の脚の運動を感じないで、いつでも必要な時には、すぐとまれるような緊張した駆け足で、東から吹く夜明け前のそよ風を避けて、右の方へ走って行き、今度は風に向ってくるりと身をひるがえした。小鼻をひろげて空気を吸いこむと、彼女はすぐに感じた――脚跡ばかりでなく、当の鳥どもがすぐそこにいる、自分の前にいる、しかも一羽でなく、たくさんいるのだ。ラスカは速度をゆるめた。鳥どもはそこにいる、が正確にどこにいるかは、まだ決定しかねた。その場所を見つけ出すために、彼女はもう輪を描きはじめた。と、ふいに主人の声に気を散らされた。『ラスカ! ここだ!』と彼はいって、別の方角をさしていた。ラスカは、わたしのしかけたとおりにしたほうがよくはないでしょうか、とたずねでもするように、しばらくじっと立っていた。しかし主人は、何もいそうにない、水をかぶった土の盛りあがりを指さしながら、怒ったような声で命令をくりかえした。彼女はただ主人の満足がいくように、その命に従って、ただ捜しているようなふりをしながら、土の盛りあがりをひととおり歩きまわったあと、もとの場所へひっ返した。と再び、鳥どもの気配がすぐさま感じられた。もう今は主人が邪魔をしないので、彼女はどうしたらいいか心得ていた。自分の足もとを見ないで、高い土の盛りあがりにつまずいたり、水に落ちたりして、いまいましく思いながらも、強靭《きょうじん》な脚ですぐ立ちなおっては、一心に輪を描きはじめた。これがいっさいを説明してくれるはずなのであった。鳥どもの匂いはいよいよ強く、いよいよ明瞭に彼女の鼻を打った。ふいにラスカは、はっきり確かめた。――一羽がそこに、土の盛りあがりの陰にいる、わずか五歩の距離にいる。彼女は立ちどまって、全身を静そのものに化した。脚が短いので、自分の前に何ものをも見ることはできなかったけれど、鳥が五歩以上離れていないところにいるのを、彼女は匂いで知ったのである。いよいよはっきりその存在を感じ、期待の情を享楽しながら、ラスカはじっと立っていた。緊張した尻尾はぐっと伸びて、ただその先だけがかすかにふるえるのみであった。口はこころもち開き、耳はきっと聳《そばだ》てられていた。片方の耳は、まだ走っている間に、裏返しになっていた。彼女は重重しく、とはいえ用心深く呼吸しながら、それよりもさらに用心深く、主人をふりかえった。が、首をふりむけるというよりも、むしろ目だけで見たのである。主人はふだん見慣れた顔つきながら、いつも恐ろしい目をして、土の盛りあがりにつまずきつまずき、並はずれてゆっくり歩いていた、と彼女には思われたのである。彼女には、主人がゆっくり歩いてくるように思われたが、そのじつ彼は走っていたのである。
 ラスカが、後脚で土でも掻くようなかっこうで大股に歩きながら、こころもち口を開けて、全身をぴったり地面にくっつけるようにしている、この犬独特のさがしかたに気がつくと、レーヴィンはラスカが、田鴫を狙《ねら》っているのを悟った。どうかうまくいきますように、ことに、最初の鳥を射ち損じないように、と神に念じながら、彼は犬の方へ駆けよった。ぴったりそばまで駆けつけると、背の高い彼は自分の前をながめたとき、犬が鼻で見たものを、目で見たのである。一間ほどしか離れていない、隣り合った土の盛りあがりの合《あわ》いに、田鴫の姿が見えた。田鴫は首をちょいとひねって、聞き耳を立てた。それから、軽く翼をひろげたと思うと、また畳んで、無器用らしく尾をひとふりして、陰にかくれてしまった。
「よし! 行けっ!」とレーヴィンはラスカの尻をついて、こう叫んだ。
『だって、わたしは行けないじゃないか』とラスカは考えた。『どこへ行ったらいいんだろう? ここからなら、わたしはちゃんと感じるんだけれど、前へ出て行ったら、どこに何がいるのか、なんにもわからなくなってしまう』
 しかし、レーヴィンは膝でラスカをとんとついて、興奮したようなひそひそ声で、「さあ、行け、ラスカ!」といった。
『まあ、それがお望みならしてあげますが、もうこうなったら、わたしは自分でも受け合えませんよ』と彼女は考えて、いっさんに土の盛りあがりの間を、前へ駆け出した。今はもう何一つ感じなかった。ただ何一つ合点がいかないままに、見、聞くばかりであった。
 前の場所から十歩ばかり離れたところに、ねっとりしたようなほろほろという鳴き声と、この鳥独特のふくらみのある羽音を立てながら、一羽の田鴫が飛びあがった。一発の銃声とともに、どさりと重々しく落ちてきて、白い胸を湿った沼土にぶっつけた。もう一羽は待ちきれなくて、犬もこないうちに、レーヴィンのうしろから飛び立った。
 レーヴィンがふり返ったとき、鳥はもう遠く離れていたが、しかし弾丸は命中した。足数にして二十歩ばかり飛んだとき、田鴫は上へ直線に舞いあがったと思うと、たちまち鞠《まり》でもほうったように、くるくると回転しながら、乾いた場所へどすんと落ちた。
『これなら、ものになりそうだぞ!』脂の乗った温かい田鴫を獲物袋へしまいながら、レーヴィンはこう思った。『なあ、ラスカ、これならものになるだろう?』
 レーヴィンが銃に装填して、先へ歩き出したとき、太陽は雲に隠れて見えなかったけれど、もう昇っていた。月はすっかり光を失って、一片の雲のように、空に白んでいた。星はもう一つも見えなかった。先ほどまで露で銀色に見えていた湿地が、今は金色に輝いていた。錆びた水は一面、琥珀《こはく》色に染った。草の青は、黄みがかった緑に変った。水鳥の群が、露に輝きながら長い影を投げている川辺の灌木の上で騒いでいた。一羽の隼が目をさまして、乾草の禾堆《にお》の上にとまって、小首を左右に傾け、不満げに沼をながめている。白嘴鴉《しろはしがらす》が野の方へ飛んで行く。跣足《はだし》の小わっぱが、もう馬を追って、長外套《カフタン》の下から首をのぞけて、体じゅうをぼりぼり掻いている老人の方へ行く。鉄砲の煙が牛乳のように白く、草の緑の上になびき漂う。
 男の子の一人が、レーヴィンのそばへ駆けよった。
「小父さん、きのうここに鴨がたくさんいたよ!」と叫び、遠く離れてあとからついて来た。
 レーヴィンは、自分に同感をよせてくれるこの子供の前で、次から次へと、また三羽の鷸を殺したので、愉《たの》しさを倍加する思いであった。

[#5字下げ]一三[#「一三」は中見出し]

 最初の獣なり、鳥なりをのがさなかったら、その日の山|幸《さち》はまちがいないという猟人仲間の迷信は、まさしくそのとおりであった。
 かれこれ三十露里も歩きまわって、飢え疲れながらも幸福なレーヴィンは、十九羽の鷸と、鴨を一羽もって(鴨は腰にぶら下げた、もう獲物袋に入らなかったからである)、宿へ帰った。二人の仲間は、もうとっくに目をさまして、腹がへったとかで、もう朝飯をすましていた。
「待ってくれ、待ってくれ、たしか十九羽いるはずなんだから」もう飛び立ったときのりっぱさを失って、こちこちに縮みあがり、乾いた血のほうぼうにこびりついた、首を横っちょに向けた鷸や田鴫を、もういちど数えなおしながら、レーヴィンはこういった。
 勘定は正確だった。そして、オブロンスキイの羨望が、レーヴィンには快かった。そのうえになおうれしかったのは、宿へ帰ってみると、もうキチイからの使が、手紙を持って来ていたことである。

『わたくしはいたって丈夫で、楽しい気持でおります。あなたが、わたくしの体を心配していらっしゃるのでしたら、前よりもっと安心して下すってよろしゅうございます。というのは、わたくしのためにマリア・ヴラシエヴナという、新しい護衛者ができたからでございます(それはレーヴィンの家庭生活で、新たに重大な意義をもつこととなった産婆である)。今度わたくしの診察に来てくれたのですが、いたって丈夫だとの見立てでございました。で、わたくしたちは、あなたのお帰りまで、逗留してもらうことにしました。みんな元気で達者でいますから、あなたもどうかおいそぎにならないで、もし猟のつごうがおよろしかったら、もう一日お延ばしになってもかまいません』

 運のよかった猟と妻の手紙、この二つの喜びがあまり大きかったので、猟のあとに起った二つのささやかな不快事も、レーヴィンにはたいした印象を残さなかった。一つのほうは、栗毛の側馬が、明らかに昨日働きすぎたためらしく、飼秣《かいば》を食べないで、しょんぼりしていることであった。馭者は、むりをして内臓を痛めているのだ、といった。
「なにしろ、旦那さま、昨日ああ追いこくったんでございますからね」と彼はいうのであった。「十露里の道をめちゃめちゃに追いこくったんですから、たまったもんじゃありませんや!」
 もう一つの不快事は、はじめせっかくの上きげんを台なしにしたが、あとではただ大笑いに笑ってすませてしまった。ほかでもない、一週間かかっても食べ切れそうもないほど、キチイがふんだんに持たしてよこした食糧が、すっかり空になってしまったのである。疲れて腹ぺこになって、猟から帰って来たレーヴィンは、道みち肉饅頭のことばかり考えていたので、宿に近づいたころには、ちょうどラスカが野禽の匂いを感じるように、肉饅頭の匂いと味をはっきりと感じたほどである。彼は早速、フィリップに食事の用意を命じた。ところが、肉饅頭ばかりでなく、若鶏さえもないという始末であった。
「いや、もうたいした食欲でさ!」とオブロンスキイは笑いながら、ヴァーセンカ・ヴェスローフスキイをさしていった。「僕も別に食欲不振で困るようなことはないが、この先生ときたら、驚嘆するばかりだよ……」
「じゃ、しかたがない!」とレーヴィンは不きげんな顔つきで、ヴェスローフスキイを見ながらいった。「フィリップ、それなら牛肉をくれ」
「牛肉も召しあがってしまわれましたので、私は骨を犬にやりました」とフィリップは答えた。
 レーヴィンは業腹《ごうはら》でたまらなかったので、いまいましそうにいった。「せめて何かひとに残してくれたらよさそうなものを!」彼は泣きだしたくなった。
「それじゃ、とってきた禽《とり》でも料理しろ」ヴァーセンカのほうを見ないように努めながら、彼はふるえる声でいった。「それに蕁麻《いらくさ》をかけてな。それから、牛乳でも頼んでもらってこい」
 牛乳をたらふく飲んでしまうと、もうそのあとは、他人にあんないまいましさをさらけ出して見せたのが、恥ずかしくなってきた。彼は自分のひもじいまぎれのむしゃくしゃ腹が、われながらおかしかった……
 晩にも彼らは猟をして、ヴェスローフスキイでさえも幾羽か仕留めたほどである。夜中に宿へ帰った。
 帰り道も、行きと同じように愉しかった。ヴェスローフスキイは歌をうたったり、例のウォートカをごちそうして、『文句いいなさんな』といった百姓たちのことを思い出したり、それからまた、昨夜の娘《あま》っ子相手の遊びの追懐談をしたりした。そのとき、亭主の百姓が彼に、奥さんはあるかとたずね、ないと聞いて、「おまえさん、人の女房に色目つかわねえで、精出して自分の女子こせえるようにしなさろ」といった。この言葉がかくべつヴェスローフスキイをおもしろがらせたのである。
「とにかく、僕は今度の旅行が実に愉快でした。あなたはどうでした、レーヴィン?」
「僕もしんから愉快でした」とレーヴィンは正直な気持で答えた。彼は自分の家で、ヴェスローフスキイにいだいていた敵意を、すこしも感じなかったばかりでなく、かえって、このうえもない親しみを感じるようになったのが、うれしくてたまらなかったのである。

[#5字下げ]一四[#「一四」は中見出し]

 その翌朝十時ごろ、もう農場をひとまわりしたレーヴィンは、ヴァーセンカにあててある部屋の戸を叩いた。
「Entrez!(お入りなさい)」とヴェスローフスキイは叫んだ。「ごめんなさい、僕はたった今 ablutions(水浴)をしたばかりなんで」レーヴィンの前に下着一枚で立ったまま、彼はにこにこしながらいった。
「どうぞご遠慮なく」とレーヴィンは窓のそばに腰をおろした。「昨夜はよく寝られましたか?」
「まるで死んだように寝ましたよ。今日はまたなんて猟|日和《びより》でしょう?」
「あなた何を飲みます、お茶ですか、コーヒーですか?」
「どちらも飲みません、僕は軽い食事をしますから。しかし、まったく気が咎めますね。ご婦人がたはもう起きていられるでしょうね? ときに、今ちょっと散歩したらいい気持でしょう。あなた馬を見せてくれませんか」
 庭をひとまわりして、厩《うまや》にもより、平行棒の上でいっしょに体操までしたあと、レーヴィンは客とともに家へ帰り、客間へ入った。
「すばらしい猟をしましたよ、かずかずの印象を受けて帰りました!」サモワールのそばに坐っているキチイに近づきながら、ヴェスローフスキイはそういった。「女のかたがこの楽しみを奪われていらっしゃるのは、なんともお気の毒ですね」
『いや、しかたがない、あの男も主婦にたいして、何か話をしなくちゃならないからな』とレーヴィンは肚《はら》の中で考えた。彼はまたしても、客がキチイに話しかけたときの微笑や、征服者らしい態度の中に、何かあるような気持がしたのである……
 マリア・ヴラシエヴナとオブロンスキイといっしょに、テーブルの反対側にすわっていた公爵夫人は、レーヴィンを自分のそばへ招きよせて、キチイの産のためにモスクワへ移ること、そのために住居の準備をしなければならぬこと、などについて話をはじめた。レーヴィンにしてみれば、ちょうどあの結婚のときと同じように、すべて何にもせよ、準備などということは、その卑俗性によって、成就されんとするものの偉大さを侮辱するものとして不快であったが、今度の産の準備は、何かその時期を指で数えてでもいるようにのみこみ顔なので、なおさら侮辱に感じられた。彼は始終、未来の赤ん坊のおしめのしかたがどうのといったような話は、なるべく聞かないようにつとめていた。何かしら神秘めかしい無限に長い繃帯《ほうたい》とか、ドリイがかくべつ大事がる三角巾とかいうようなものには、できるだけ目をそらして、見ないようにしていた。息子の誕生(彼は男の子ができるものと、信じきっていた)という出来事は、みんなが口を揃えていってはいるものの、それでも彼はやっぱり、信じられないのであった。それほど彼の目には、なみなみならぬことに思われたのである。この事実は一方からいうと、不可能とさえ感じられるほどの大きな幸福であると同時に、また一方からいえば、あまりにも神秘な出来事であったので、先を見越したようなひとり合点の知識や、その知識を基にして、何かありふれたことのように皆のやっている準備が、彼にとっては憤慨と、屈辱の種になるのであった。
 しかし、公爵夫人は彼の気持が理解できなかったので、彼がそのことを考えたり話したりしたがらないのを、軽率で冷淡なためと解釈していた。そういうわけで、ますますしつこくつきまとうのであった。彼女はオブロンスキイに住居を見る役目を命じ、今もレーヴィンをそれで呼びよせたのである。
「僕はなんにもわかりません。公爵夫人。どうかお考えどおりにして下さい」と彼はいった。
「いつ引越しするか、それを決めなくちゃなりません」
「僕にはまったくわからないのです。ただ僕にわかっているのは、モスクワも医者もなくたって、何百万という子供が生れてるということだけです……なんのために……」
「ああ、もしそういうことなら……」
「いや、そうじゃありません、何ごともキチイの心任せです」
「キチイにそんな話をするわけにはいきません。なんですの、あなたは、わたしがあの娘《こ》をおどかせばいい、と思ってらっしゃるの? 現にこの春も、ナタリイ・ゴリーツイナが、産科医が悪かったばかりに、亡くなりましたからね」
「僕はなんとでもおっしゃるようにします」と彼は陰鬱な顔をして答えた。
 公爵夫人はまたいろいろといいだしたが、彼は聞いていなかった。公爵夫人の話も、彼のきげんをわるくしたには相違ないが、彼が陰鬱になったのはその話のせいではなく、サモワールのそばの光景であった。
『いや、あれじゃやりきれない』キチイのほうへかがみこんで、持ちまえの美しい微笑を浮べながら、何やら話しているヴェスローフスキイと、赤くなって興奮している妻のほうを、ときおりちらちらと見やりながら、彼は心の中で考えるのであった。
 ヴァーセンカの姿勢にも、その目つきにも、その微笑にも、何か不純なものがあった。それどころか、レーヴィンの目には、キチイの姿勢や目つきにさえ、何か純でないものが感じられたのである。すると、またしても彼の目の中の光が消えた。またもや前日のように、突然なんの連絡もなく、彼は幸福と、平安と、自足の絶頂から、絶望と、憤怒と、屈辱のどん底へ投げこまれたような気がした。またもやだれもかも、なにもかもいまわしく思われてきた。
「どうか、公爵夫人、お考えどおりにして下さい」と彼はまたしても、ふり返りながらいった。
「王の冠はさても重いものかな([#割り注]プーシキン『ボリス・ゴドゥノフ』の台詞[#割り注終わり])!」とオブロンスキイは冗談半分に、彼にいった。明らかに、公爵夫人との会話ばかりでなく、いち早く感づいたレーヴィンの興奮の真因を、ほのめかしたものらしい。「ドリイ、今日はおまえどうして遅かったんだね?」
 一同は、ドリイを迎えに席を立ったが、ヴァーセンカはちょっと腰をもちあげて、新しいタイプの青年に特有な、婦人にたいしてあまり慇懃《いんぎん》にしないやりくちを応用して、ほんのこころもち会釈しただけで、何やら笑いながら、ふたたび会話をつづけた。
 ヴァーセンカとキチイの会話は、またこの前と同様アンナのことと、恋は社会の条件を超越しうるかどうか、ということであった。キチイにしてみれば、この会話は不快なのであった。内容そのものからいっても、その調子からいっても、別してこれが良人にどういう影響を与えるかが、ちゃんとわかっている点からいっても、この会話は、彼女をわくわくさせないではおかなかった。が、彼女はあまりにも率直で無邪気だったので、うまくこの話を切りあげることもできなければ、この青年が明らかに自分に気のあることを感じて、そのために思わずいだかされた外面的な満足の色を、隠すことさえできなかったのである。彼女はこの会話を切りあげたいと思ったが、どうしたらいいかわからないのであった。自分が何をしても、すべて良人の注意をひいて、なにもかも悪いほうへとられるのは、彼女にちゃんとわかっていた。案の定《じょう》、彼女がドリイに、マーシャはどんなふうかとたずねたとき、そしてヴァーセンカが、こんなつまらない話がいつおわるかと待ちかねながら、気のない顔つきでドリイをまじまじ見つめはじめたとき、レーヴィンはその質問が不自然な、いとわしいごまかしのように思われた。
「どうします。今日も茸狩りに行きましょうか?」とドリイはたずねた。
「行きましょうよ、あたしもまいりますわ」とキチイはいい、顔を赤らめた。彼女は礼儀上ヴァーセンカに、あなたもいらっしゃいますか、と聞こうと思ったけれども、それが口に出なかった。「あなたどこへいらっしゃるの、コスチャ?」良人が決然たる足どりでそばを通りすぎようとしたとき、彼女はすまなそうな顔をしてこうたずねた。このすまなそうな表情が、彼の疑惑をことごとく裏書きしたのである。
「僕の留守に機械技師が来たのに、まだ会っていないんだ」と彼は、妻の顔も見ないでいった。
 彼は下へ降りて行った、が、また書斎を出る暇もなく、体にたいする注意も忘れて、足早にあとを追ってくる、聞き慣れた妻の足音が耳に入った。
「おまえどうしたんだい?」と彼はそっけなくいった。「いま忙しいんだよ」
「失礼ですが」とキチイはドイツ人の技師にいった。「あたし、ちょっと主人に話がございますので」
 ドイツ人は行こうとしたが、レーヴィンはそれにたいして、
「どうかご心配なく」といった。
「汽車は三時でしたね?」とドイツ人はたずねた。「万一おくれでもしたら」
 レーヴィンはそれに答えないで、妻といっしょに部屋を出た。
「さて、どういう話があるんです?」と彼はフランス語できりだした。
 彼は妻の顔を見なかった。それに、身重の妻が顔ぜんたいをわなわなとふるわせて、惨めな消えも入りそうな様子をしているのは、見たくなかった。
「あたし……あたしが申したいのは、こんなふうでは生きていけないってことですの、これは拷問《ごうもん》ですわ……」と彼女はいいだした。
「そこの食器室に召使がいるよ」と彼は腹だたしげにいった。「痴話場はご免こうむるよ」
「じゃ、こちらへまいりましょう!」
 二人は通りぬけの部屋に立っていたのである。キチイは隣の部屋へ入ろうとしたが、そこではイギリス婦人がターニャの勉強をみていた。
「じゃ、庭へ出ましょう」
 庭へ出ると、径《みち》の掃除をしている百姓に行き当った。奥さまの泣きはらした顔や、旦那さまの興奮した顔を百姓に見られる、などということも考えなければ、二人とも、何かの不幸からのがれようとする人のような顔つきをしていることも考えずに、彼らは早足に先へ先へと進んだ――ただ肚にあることをいってしまわなければならない、お互に疑いを解かなければならない、しばらく二人きりでいなければならない、その方法によって、いま感じている苦しみをのがれなければならないと、そのことばかりを感じながら。
「こんなふうでは生きていけませんわ。これは拷問ですわ! あたしも苦しめば、あなたも苦しんでらっしゃる、それもなんのためでしょう!」二人がようやく菩提樹並木の曲り角にある、人目離れたベンチまでたどりついたとき、彼女はこういった。
「しかし、おまえたった一つだけいっておくれ――あの男の調子には何か無作法な、純でない、ひとを卑しめるような性質の、恐ろしいものはなかったかい?」またあの晩とおなじ、両の拳《こぶし》を胸にあてたポーズで、妻の前に立ちはだかりながら、彼はこういった。
「ありました」と彼女はふるえる声でいった。「でも、コスチャ、あたしになんの罪もないってことが、いったいあなたの目には入りませんの? あたしは朝から、ちゃんとした態度をとろうと思っていたのに、ああいう人たちは……なんだってあの人はやって来たんでしょう? あたしたちはあんなに幸福だったのに!」肥えてきた体ぜんたいを揺るがせる慟哭《どうこく》に、息をつまらせながら、彼女はこういった。
 庭掃除の男は、驚きの目を見はった。はじめは何ものも旦那がたを追いかけてもいなかったし、何も避けて逃げなければならぬようなものもなかった。それから今度は、ベンチの上に何一つうれしいものもあるはずがないのに、庭掃除の見たところでは、二人はおちついた様子で、目を輝かしながら、彼のそばを通りぬけて、邸のほうへ帰って行ったのである。

[#5字下げ]一五[#「一五」は中見出し]

 レーヴィンは妻を二階へ送って、ドリイのほうへ行ってみた。ドリイはドリイで、この日ひどく悲観しきっていた。彼女は部屋の中を歩きまわって、すみっこに立って泣きわめいている女の子に、怒ったような声でこんなことをいっていた。
「今日はそうして、一日立ってらっしゃい、そしてご飯も一人で食べるんですよ。そして、お人形さんも持たしてあげないし、新しい着物もこしらえてあげないから」もうどんな罰をくだしたらいいかわからないで、彼女はこういった。
「ああ、だめです、この子にはほとほと愛想がつきてしまいますわ!」と彼女はレーヴィンのほうへふりむいた。「いったいどこから、あんないやな性質が出てくるんでしょうねえ?」
「しかし、いったいなにをしたんです?」とレーヴィンは、かなり冷淡な調子でたずねた。彼は自分のことを相談しようと思ったのに、ばつの悪いところへ来合わせたのが、いまいましかったのである。
「この子はグリーシャと二人で、木苺《きいちご》畑へ行きましてね、そこで……いえ、わたしこの子のしたことを、口でいうこともできませんわ。わたしつくづく。ミス・エリオットが惜しくてなりません。今度の家庭教師ったら、ちっとも気をつけてくれないんですもの、ただの機械ですわ……Figurez vous, que la petite ……(まあ、考てもみて下さいな、こんな小さな娘が……)」
 ドリイはマーシャの犯罪を物語った。
「そんなことは、なんの証明にもなりゃしません、それはいまわしい傾向じゃなくって、ただのいたずらですよ」とレーヴィンは、義姉をなだめようとした。
「でも、あなた何か気になることがおありのようですね? なんの用でいらしたの?」とドリイはたずねた。「あちらはどんなふうですの?」
 この問いの調子には、自分のいおうと思っていることが、きりだしやすいようなところがある、とレーヴィンは感じた。
「僕はあちらにはいなかったのです、キチイと二人で庭にいたのです。僕らはもうこれで二度喧嘩をしたのです、あれ以来……スチーヴァが来てから……」
 ドリイは賢そうな、理解のある目で彼を見た。
「ねえ、ひとつ胸に手をおいて、僕の問いに答えて下さい。キチイではなく、あの男の態度に、良人にとって不愉快な、いや、不愉快なのじゃない、恐ろしい、侮辱になるようなところはなかったでしょうか?」
「さあ、なんといったらいいでしょう……立ってらっしゃい、すみっこに立ってらっしゃい!」と彼女はマーシャにむかってそういった。女の子は、母の顔にあるかなきかの微笑を見てとると、さっそくからだを動かそうとしたのである。「社交界の意見としては、あの人の態度は、若い人のだれでもとるような態度だ、とそういうでしょう。〔Il fait la cour a` une jeune et jolie femme.〕(若い美しい女のごきげんをとっている)のですから、社交界慣れた良人は、それを得意としなくちゃなりませんね」
「そう、そう」とレーヴィンは暗い顔をしていった。「でも、あなたは気がついたでしょう?」
「わたしばかりじゃありません、スチーヴァも気がついていますわ。たくはお茶のあとで、わたしにはっきりいいましたもの、〔je crois que Veslovsky fait un petit brin de cour a` Kiti.〕(僕は確かにそう思うね、ヴェスローフスキイはキチイに少々ばかりおぼしめしがあるんだよ)って」
「いや、けっこう、それで安心しました。僕はあの男を追っぱらってやります」とレーヴィンはいった。
「まあ、何をいうんですの、気でも狂ったんですか?」とドリイはぎょっとして叫んだ。「何をいうんですの、コスチャ、正気に返って下さいよ!」と彼女は笑いながらいった。「さあ、もうファンニイのとこへ行ってもよろしい」とマーシャにいって、「そりゃだめよ。でも、たってのお望みなら、わたしからスチーヴァにいいましょう。たくがうまく連れて帰ってくれますわ。ほかにお客さまが見えることになってるから、とでもいえますからね。どっちにしたって、あの人はこの家には不向きな人ですものね」
「いや、いや、僕が自分でいいます」
「でも、あなた喧嘩をしてしまうでしょう?」
「とんでもない。僕はかえって愉快なくらいです」とレーヴィンは全く愉快そうに、目を輝かせながら答えた。「さあ、この子を赦しておやんなさいよ、ドリイ! もうこれからはしないから」と幼い犯人のことをそういった。マーシャは、ファンニイのとこへ行こうとしないで、思い切り悪そうに母の前に立ったまま、期待の情をこめて、上目づかいに母の視線を捕えようとしていた。
 母親はちらとその方を見やった。女の子は、わっとばかりしゃくりあげて泣きながら、母の膝に顔を埋めた。ドリイはその頭の上に、やせたしなやかな手をのせた。
『われわれとあの男のあいだに、いったいどんな共通点があるのだ?』と考えて、レーヴィンはヴェスローフスキイをさがしに出かけた。
 控室を通りぬけるついでに、停車場行きの幌馬車の用意を命じた。
「昨日バネがこわれましたので」と従僕がいった。
「ふん、じゃ旅行馬車でもいい、ただ早くするんだぞ。お客さまはどこに見える?」
「ご自分の部屋へいらっしゃいました」
 レーヴィンが入って行ったとき、ヴァーセンカはカバンの中から、いろんな物をとり出して、新しいロマンスの譜をひろげたて、馬に乗るために、革の脛当《すねあて》を足に合わしているところであった。
 レーヴィンの顔つきに、何か特別なものがあったか、それとも当のヴァーセンカが、自分の企てた ce petit brin de cour(ちょっとした恋愛遊戯)が、この家庭にふさわしくないと感じたのか、とにかく彼は、いくぶんレーヴィンの出現にどぎまぎした。
「君は脛当をつけて、馬に乗るんですか?」
「ええ、このほうがずっとすっきりしますよ」とヴァーセンカは、肥えた足を椅子にのせて、いちばん下のボタンをかけながら、快活な人のよい微笑を浮べて、こういった。
 彼はまぎれもなく、愛すべき好漢であった。で、レーヴィンは、ヴァーセンカの目つきに臆した色を認めたとき、彼がかわいそうになり、家の主人たる自分として、われながら気がさした。
 テーブルの上には、けさ二人が体操をしながら、水ぶくれのした平行棒を持ち上げようとして折った、棒の端くれがのっていた。レーヴィンはこの棒の端くれを取り上げて、なんときりだしたらいいかわからぬままに、ささくれ立った端っこをむしりはじめた。
「僕、じつは……」彼はこれで口をつぐもうとしたが、ふとキチイと、今まであったことを残らず思い起すと、断乎たる目つきで相手をながめながら、彼はこういった。「僕は君のために馬車の用意をさせましたよ」
「といって、なんのことです?」と、ヴァーセンカはびっくりしていいだした。「どこへ行くんです?」
「君が停車場へ行くんです」棒の端をむしりながら、レーヴィンは陰鬱な調子で答えた。
「あなた、どこかへ行くんですか、それとも何か起ったんですか?」
「何か起ったというのは、新しい客がくることになったものだから」ささくれた棒の端っこを、いよいよ早くむしりながら、レーヴィンはいった。「いや、客がくるんじゃありません、何ごとも起ったのじゃありません、が、僕は君に発《た》ってもらいたいのです。僕の無作法は、なんとでもかってにご解釈を」
 ヴァーセンカはぐっと身を反らした。
「僕はあなた[#「あなた」に傍点]に説明を願います……」やっと事情を悟って、彼は威厳を示しながら、こういった。
「僕は説明するわけにいきません」頬骨がふるえるのを隠そうとつとめながら、レーヴィンは低い声でゆっくりといった。「君もきかないほうがいいですよ」
 もうささくれた端っこは、全部むしりとられたので、レーヴィンは太いほうの端に指をかけて、棒を二つにひき裂き、落ちかけた端を一生懸命につかまえた。
 どうやら、この緊張した両腕と、けさ、体操のとき自分でいじってみた筋肉と、ぎらぎら光る目と、低い声と、ぴくぴくふるえる頬骨が、言葉以上にヴァーセンカを納得させたらしい。彼はひょいと肩をすくめて、ばかにしたように、にたりと笑って、おじぎをした。
「ちょっとオブロンスキイに会うことはできませんか?」
 肩をすくめたのも、ばかにしたような笑い方をしたのも、レーヴィンをいらだたせなかった。
『この男、それよりほかに何をすることがあるものか?』と彼は考えた。
「今にここへよこします」
「それはまた、なんて気ちがいじみたまねだ!」友だちの口から、彼がこの家を追い出されようとしているのを聞いたオブロンスキイは、レーヴィンが客の出発を待ちながら、庭を散歩しているところを見つけて、こういった。「Mais c'est ridicule!(だって、ばかげてるじゃないか!)いったい君は何を血迷ったんだい? Mais c'est au dernier ridicule!(これはばかの骨頂だよ!)いったい君はどんな気がしたんだい、もし若い男が……」
 しかし、レーヴィンを血迷わせた事情は、どうやらまだ彼に痛みを感じさせるらしかった。というのは、オブロンスキイが原因を説明しようとしたとき、急いでそれをさえぎったからである。
「どうか、原因を説明しないでくれ! 僕としては、それよりほかの方法がないんだから! 僕は君にたいしても、またあの男にたいしても、はなはだ気が咎めるけれど、しかし、あの男としては、ここを出たってたいしてつらいことはないだろうが、僕と家内にとっては、あの男の存在が不愉快なんだ」
「しかし、あの男にとっては侮辱だよ! Et puis c'est ridicule(それに、これはばかばかしいこったよ)」
「ところが、僕にもそれは侮辱で、苦痛なんだ! 僕は何も悪いことをしないんだから、僕が苦しむわけはない!」
「いやはや、君がこんなことをしようとは、これだけは僕も思いがけなかったよ! 〔On peut e^tre jaloux, mais a` ce point c'est du dernier ridicule!〕(人間やきもちをやくのはかまわんが、もうこうなっちゃばかの骨頂だよ!)」
 レーヴィンはくるりと踵《くびす》を転じて、義兄のそばを離れ、並木道の奥へ入って、ただ一人あちこち歩きつづけた。まもなく、旧式な旅行馬車のとどろきが聞えたと思うと、ヴァーセンカが乾草の上に坐って(不運にも、この旅行馬車には腰掛かなかったのである)、例のスコットランドふうの帽子をかぶって、ごとごと揺られながら、並木道を通りすぎるのが見えた。
『こりゃまた、いったいどうしたんだ?』従僕が家から駆け出して馬車をとめたとき、レーヴィンはこう思った。それは、レーヴィンのすっかり忘れていた技師であった。技師はぴょこぴょこおじぎをしながら、ヴェスローフスキイに何かいったかと思うと、やがて馬車に乗って、二人はいっしょに行ってしまった。
 オブロンスキイと公爵夫人は、レーヴィンのやりかたに憤慨していた。彼自身も、このうえない|ばかげた《リディキュール》ことであるのみならず、四方八方へ申し訳がなく、恥さらしをしたように感じていた。しかし、自分ら夫婦がさんざん苦しんだことを思い出したとき、この次にはどういう処置をとるだろうと自問したが、やっぱり同じことをすると自答した。
 それにもかかわらず、その日の終りごろには、レーヴィンのやりかたを赦すことのできない公爵夫人を除く一同は、まるで罰をすました子供か、苦しい接見式の接見を終った大人のように、なみはずれてうきうきし、元気になってきた。そういうわけで、その晩、公爵夫人がいなくなってから、ヴァーセンカ追放の一件を、ずっと前の出来事のように話し合った。父親に似て、おもしろおかしく物語る才能をもったドリイは、ヴァーレンカを笑いころげさせてしまった。ほかでもない、彼女は三度も四度も、新しくこっけいなおまけをつけながら、こんな話をしたのである。彼女がお客さまのために、新しい蝶むすびをつけてしたくをし、もう客間へ入ろうとしたとき、突然がらがらと大きい頑丈な馬車の音がした、いったいだれがあの車に乗っているのだろう? と思って見ると、当のヴァーセンカが、スコットランドふうの帽子をかぶって、ロマンスの譜と脛当《すねあて》をかかえて、乾草の上に坐っているではないか。
「まあ、せめて箱馬車でも出してやればいいものを! と思っていると、『待ってくれ』という声が聞えるじゃないの。ああ、やっぱり気の毒になって、ひきとめるのかと思いながら見ていると、ふっとちょ[#「ふっとちょ」はママ]のドイツ人をわきに乗せて、がらがらと行っちまったじゃありませんか……それで、わたしの蝶むすびもむだになってしまいましたわ!………」