『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」2-31~2-35(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]三一[#「三一」は中見出し]

 天気模様の悪い日で、午前ちゅう雨が降っていた。病人たちは傘を持って、廻廊に群がっていた。
 キチイと母夫人は、モスクワの大佐といっしょに散歩していた。大佐は、フランクフルトで買った既成品の、ヨーロッパ式フロックコートをひけらかして、愉快そうであった。彼らは、反対側を歩いているレーヴィンを、避けるようにしながら、廻廊のこちら側を散歩した。いつものとおりじみな着物をきて、ふちの下へ曲った黒い帽子をかぶったヴァーレンカは、目の見えないフランス婦人の手をひいて、廻廊を端から端へと往復していた。キチイと出会うたびに、彼らはさも親しげな、愛情のある視線を投げかわすのであった。
「ママ、あのひとに話をしかけてもよくって?」未知の知人を目で追っていたキチイは、こういった。ヴァーレンカは泉のそばへよって行ったので、あそこで落ちあったらいいと思ったのである。
「そうね、おまえがそんなにご所望なら、わたしが先にあのひとのことを調べてみましょう。わたし自身で近づきになることにしましょうよ」と母は答えた。「いったいあのひとに、どんな変ったところを見つけたんだろうねえ? きっとお話し相手なんだよ。なんなら、わたしシュタール夫人とお近づきになってもいいよ。わたしはあのひとの義妹《ベル・スール》を知っているから」と公爵夫人は、傲然《ごうぜん》と頭《こうべ》をそらせながらいった。
 公爵夫人は、シュタール夫人が交際を避けていると思って、それに侮辱を感じているのであった。キチイはそれを知っていたから、強《た》ってとはいわなかった。
「まあ、なんて優しい人でしょう!」ヴァーレンカがフランス婦人にコップを渡すのを見て、彼女はこういった。「ちょっとごらんなさい、あのひとのすることは、本当になにもかも率直で優しいわ」
「おまえの engouements(酔狂)ったら、わたしおかしくってしようがない」と公爵夫人はいった。「いいえ、もういっそひっ返しましょうよ」むこうからやってくるレーヴィンと連れの女を見とめて、彼女はこうつけたした。レーヴィンは、そばについているドイツ人の医者と、何か大きな声で腹だたしげにしゃべっていた。
 キチイらが家へ帰ろうとして踵《くびす》をめぐらしたとき、ふいに声高な話し声、というよりも叫びが聞えた。レーヴィンが立ちどまって、どなっているのであった。医者もやはり激昂《げっこう》していた。そのまわりには人だかりがした。公爵夫人とキチイは急いで立ち去ったが、大佐は事の次第を知ろうと思って、やじうまの仲間に加わった。
 しばらくして、大佐は二人に追いついた。
「いったいなんでしたの?」と公爵夫人がきいた。
「恥っさらしな話ですよ!」と大佐は答えた。「私がたった一つ恐れるのは、ほかでもない、外国でロシヤ人に出会うことです。あののっぽ先生、医者の治療のしかたがまちがってるといって、喧嘩をおっぱじめて、雑言《ぞうごん》を吐き散らしたあげく、杖までふりまわすんですからなあ。まったくの恥っさらしですよ!」
「まあ、いやですことねえ!」と公爵夫人はいった。「で、どんなふうにおさまりましたの?」
「ありがたいことに、その時あの……あの茸《きのこ》のような帽子をかぶった娘が仲裁に入りましてな。どうやらロシヤ人らしいですね」と大佐はいった。
「マドモアゼル・ヴァーレンカでしょう?」とキチイがうれしそうにきいた。
「そう、そう、あの娘が一番に機転をきかせましてね、あの先生の腕をとって、つれていったんです」
「ほら、お母さま」とキチイは母にいった。「それだのに、お母さまったら、わたしがあのひとに感心するのがおかしいなんて、あきれてらっしゃるんですもの」
 次の日から、キチイは自分の未知の友を観察しているうちに、マドモアゼル・ヴァーレンカがレーヴィンと連れの女に対して、早くもほかの被保護人《プロテジェ》と同じような態度になっているのに気がついた。彼女はこの二人に近よって、世間話をし、外国語の一つもわからない連れの女のために、通訳の労をとってやるのであった。
 キチイは前よりもさらに熱心に、ヴァーレンカとの交際を許してくれとねだりはじめた。公爵夫人にしてみれば、失礼千万にもなにやらお高くとまっているシュタール夫人に、こちらから近づきを求めたがって、その第一歩を踏み出す形式になるのが心外だった。けれども、ヴァーレンカについていろいろ問い合わせをし、詳しい情報を手に入れたところ、この交際にはたいしていいこともないが、別段なにも悪いことはなさそうだということになり、夫人自身がまずヴァーレンカに接近して、近づきになった。
 娘が泉の方へ行き、ヴァーレンカがパン屋の前へ立ちどまった時を選んで、公爵夫人は彼女のそばへ近よった。
「どうぞお近づきにならして下さいな」と彼女は、持ち前の上品な笑顔で話しかけた。「わたくしの娘が、もうあなたに首ったけでございましてね」と彼女はいった。「あなたはごぞんじないかもしれませんが、わたくしは……」
「公爵夫人、それはもったいないくらいでございますわ」とヴァーレンカは早口に答えた。
「昨日あなたは、本当にいいことをなさいましたわね、あの惨めなお故国《くに》の人に!」と公爵夫人はいった。
 ヴァーレンカは顔を赤らめた。
「覚えておりませんわ、わたしなんにもしなかったようですけど」と彼女はいった。
「だって、あなたはあのレーヴィンを、いやな場面から救っておあげになったじゃありませんか」
「ああ、あれは sa compagne(あの連れのかた)が、わたしをお呼びになったものですから、わたしあのかたのお気をおちつけるように、骨折っただけですわ。あの人はご病気で、お医者さまにご不満なのでございますの。ああいうご病人のめんどうを見るのが、わたしの癖でございまして」
「ああ、わたしも聞きました。あなたはメントナでお伯母さまと、たしかシュタール夫人とごいっしょに、暮していらっしゃるんですってね。わたし、あのかたの義妹《ベル・スール》を存じあげておりますの」
「いいえ、あのかたはわたしの伯母さまではございません。わたしあのかたをママと呼んではおりますものの、親身の関係ではございません。わたしあのかたの養娘《やしないご》でございますの」と、また顔を赤らめながら、ヴァーレンカはこう答えた。
 そのいい方がいかにも率直で、その正直であけっぱなしな顔の表情は、いかにも愛くるしかったので、なぜキチイがこのヴァーレンカにほれこんだのか、公爵夫人はそのわけがわかった。
「で、あのレーヴィンはどんなふうですの?」と公爵夫人はきいた。
「もうお発《た》ちになるそうでございます」とヴァーレンカは答えた。
 この時、母親が未知の友と近づきになったという喜びに輝きながら、キチイが泉のほうから帰ってきた。
「さあ、キチイ、これでいよいよ、おまえがあれほどご交際をお願いしたがっていたマドモアゼル……」
「《ヴァーレンカ》」とこちらはにこにこしながら加勢した。「みなさんがわたしのことを、そうおっしゃるんですもの」
 キチイはうれしさのあまり顔を赤らめて、無言のまま、新しい友の手を長いこと握りしめた。けれど、その手は彼女の握手に応《こた》えないで、彼女の手の中でじっとしていた。しかし、手こそ握手に応えなかったが、マドモアゼル・ヴァーレンカの顔はやや愁いをおびてこそいたけれど、静かな喜ばしい微笑を浮べて、大きいけれど美しい歯をあらわしていた。
「わたしのほうでも前から、こうしていただきたいと、心に思っていたのでございますよ」と彼女はいった。
「でも、あなたはとても忙しくていらっしゃいますから……」
「いいえ、あべこべですわ、わたしなんにも用事がないんですのよ」とヴァーレンカは答えたが、その口の下から、新しい知人を見棄てていかなければならなかった。というのは、二人の小さなロシヤ娘が(ある病人の子供であった)、彼女の方へ走ってきたからである。
「ヴァーレンカ、ママが呼んでてよ!」と二人は叫んだ。
 で、ヴァーレンカはそのあとからついて行った。

[#5字下げ]三二[#「三二」は中見出し]

 ヴァーレンカの過去、マダム・シュタールとの関係、それから当のマダム・シュタール自身について、公爵夫人の知った詳細は次のようなものであった。
 マダム・シュタールは、ある人々には良人を悩ました女といわれていたが、またある人々からは、良人の放縦に苦しめられた女ともいわれいつも病身で感激家であった。すでに良人と離婚した後、彼女ははじめての子供を生んだが、その赤ん坊はすぐに死んでしまった。シュタール夫人の肉親の人々は、彼女の感じやすい性質を知っていたので、これを知らせたら夫人の一命が危いと思って、その晩おなじ建物の中で生れた宮中のコックの娘を連れてきて、取代え児をした。それがヴァーレンカだったのである。後日マダム・シュタールは、ヴァーレンカが自分の娘でないと知ったが、ひきつづき彼女を手もとで養育した。ことに、その後まもなく、ヴァーレンカには身内というものが一人もなくなったから、なおさらのことであった。
 マダム・シュタールは、もはや十年以上も門外不出、一度も床を離れることなく、南欧で外国生活をしていた。ある人々はマダム・シュタールのことを、徳の高い宗教的な婦人として、たくみに社会的地位をつくり上げた人だというし、またある人々は、ただ隣人のためにのみ生きている高い精神をもった女性と見えるばかりでなく、真底からそういう婦人である、といっていた。彼女がいったいそういう宗教を信じているのか――カトリックか、プロテスタントか、ロシヤ正教か、だれも知る人がなかったけれども、ただ一つまちがいないのは、彼女があらゆる教会、あらゆる信仰の最高代表者と、このうえもなく親近な関係にあることだった。
 ヴァーレンカは夫人とたえず外国で暮していた。そして、マダム・シュタールを知っているほどの人は、いわゆる「ヴァーレンカ」を知り、かつ愛していた。
 こうした詳細を残りなく知った公爵夫人は、娘がヴァーレンカと近しくしても、別になにもとやかくいうことはないと判断した。ことにヴァーレンカは優れた教育を受け、ものごしも実にりっぱなもので、フランス語も英語もあざやかに話した。が、なにより公爵夫人がこの交際を是認した原因は、マダム・シュタールが病気のために、公爵夫人と近づきになる光栄を奪われて、残念に思っている旨を、ヴァーレンカを通して伝えたことである。
 ヴァーレンカと近づきになってから、キチイはいよいよこの親友にほれこんでしまい、毎日のように、新しい美点を発見するのであった。
 公爵夫人は、ヴァーレンカが歌が上手だと聞いて、今晩うちへきて歌ってほしいと頼んだ。
「キチイは弾けるんですのよ、それに宅にピアノもありますから、もっとも、いいピアノじゃございませんが、そうして下されば、わたしどもどんなにうれしいかしれませんもの」と彼女はいつもの甘ったるい微笑を浮かべていった。キチイはいま特にこの微笑がいやに思われた。というのはヴァーレンカがあまり歌いたくないらしいのに、気がついたからである。
 にもかかわらず、その晩ヴァーレンカは楽譜の手帳を持ってきた。公爵夫人はマリヤ・エヴゲーエヴナ母娘《おやこ》と、大佐を招待した。
 ヴァーレンカは、知らない人たちが同席しているのにもいっこう平気らしく、さっそくピアノのそばへ行った。彼女は自分で伴奏ができなかったけれども、譜を見ながらりっぱに歌った。ピアノの上手なキチイが伴奏することになった。
「あなたは非凡な才能をもっていらっしゃいますのね」ヴァーレンカが第一回を歌い終った時、公爵夫人はそういった。
 マリヤ・エヴゲーエヴナ母娘《おやこ》は、礼をいって賞めた。
「ごらんなさい」と大佐は窓の外を見ながらいった。「あなたの歌を聞きに、あの人の集ったことはどうです」
 なるほど、窓の下にかなり大ぜいの人が集っていた。
「みなさまに喜んでいただいて、わたしも本当にうれしゅうございますわ」とヴァーレンカは気取りけなしにそう答えた。
 キチイは誇らしげに自分の親友を見やった。彼女はその技巧にも、その声にも、その顔にも有頂天になっていたが、何よりも感心したのは、明らかにヴァーレンカが自分の歌のことなどいささかも考えず、人々の賞賛に全く無関心なことであった。ただ、もっと歌ったものでしょうか、それとももうたくさんですかしら? とききたそうな様子であった。
『これがもしあたしだったら』キチイは肚《はら》の中で考えた。『どんなに得意がったかしれやしないわ! あの窓の下の人だかりを見て、どんなにうれしがったかわからないわ。ところが、このひとはまるっきり平気なんだもの。このひとを動かしているのは、ただママの頼みをしりぞけないで、喜んでもらおうという気持ばかりなのだ。いったいこのひとの中には何があるのかしら? このひとにいっさいを無視する力と、何ものにも左右されないおちつきを与えているのは、いったいなんだろう? ああ、なんとかしてその秘密を知って、それを習いたいものだわ!』その平静な顔をながめながら、キチイはこう考えた。
 公爵夫人はヴァーレンカに、もう一つ歌ってくれと頼んだ。ヴァーレンカはピアノのそばにまっすぐに立って、やせた浅黒い手で軽くピアノを叩いて拍子をとりながら、相変らずなだらかに、はっきりと、上手に二曲を歌い終った。
 手帳に書いてある次の曲は、イタリー歌謡であった。キチイは序曲を弾いて、ヴァーレンカをふりかえった。
「これは抜かしましょう」とヴァーレンカは顔を赤らめていった。
 キチイはびっくりして、物問いたげなまなざしをヴァーレンカの顔にとどめた。
「じゃ、ほかのを」この曲には何か結びつけられたものがあるのだな、とすぐに察して、譜をめくりながら、キチイは急いでこういった。
「いえ」手を譜の上にのせてほほえみながら、ヴァーレンカは答えた。「いえ、やっぱりこれにしましょう」
 彼女はこの曲をも、依然としておちついた冷静な調子で、上手に歌い終った。
 歌がすむと、一同はふたたび謝辞を述べて、お茶を飲みに立った。キチイはヴァーレンカといっしょに、家のそばにある小さい庭へ降りていった。
「ねえ、そうでしょう、あの歌にはあなたの心の中で、何かの思い出が結びあわされているんでしょう?」とキチイはいった。「いえ、お話して下さらなくってもようござんすの」と彼女は急いでつけたした。「ただあたっているかどうか、いっていただけばいいんですの」
「いいえ、かまいませんわ! お話しますわ!」とヴァーレンカは率直にいって、返事も待たずにつづけた。「ええ、それは思い出ですの、しかも以前は苦しい思い出でしたわ。わたしはある男を愛して、その人にあの曲を歌って聞かせたんですの」
 キチイは大きく両眼を見ひらいて、無言の感激をこめてヴァーレンカを見つめていた。
「わたしはその人を愛していましたが、その人もわたしを愛してくれました。でも、その人のお母さまが不賛成でしてね、その人はほかの女の人と結婚してしまいました。今その人はあまり遠くないところに住んでいるものですから、わたし時どき見かけることがありますの。あなたはきっと、わたしにはローマンスなんかないとお思いになっていたでしょう?」と彼女はいったが、その美しい顔には、ほんのりと紅《くれない》の光がさした。これがかつてはこのひと全体を照らしたに相違ない、とキチイは考えた。
「どうしてあたしが思わなかったんですの? それどころか、もしあたしが男だったら、あなたを知ったあとでは、だれもほかのひとを愛することなんか、できなかったろうと思いますわ。ただあたしわかりませんの、どうしてその人はお母さまの気に入るために、あなたを忘れて、あなたをふしあわせにすることができたのでしょう――その人には心ってものがなかったんですわ」
「いいえ、その人はとてもいい人だったんですのよ、それにわたしもふしあわせじゃありませんわ。それどころか、わたしとてもしあわせなんですの。ときに、今夜はもう歌わないんでしょうか?」と彼女は家の方へ足を向けながら、つけ加えた。
「なんてあなたはいい人でしょう、なんてあなたはいい人でしょう!」とキチイは叫び、彼女をひき止めて接吻した。「もしもあたしがほんの少しでも、あなたに似ることができたらねえ!」
「なんのためにあなたがだれかに似なくちゃなりませんの? あなたはそのままでもいい人じゃありませんか」持ち前のつつましい疲れたような微笑を浮かべながら、ヴァーレンカはいった。
「いいえ、あたしはちっともいい人間じゃないんですの。ときに、おたずねしますが……まあ、ちょっと待って下さいな、少し腰かけましょうよ」ふたたび友をベンチの上に自分と並んで坐らせながら、キチイはこういった。「ねえ、男の人があなたの愛をないがしろにして、結婚しようとしなかった、そう考えると腹がおたちになりません?……」
「でも、その人はないがしろにしたんじゃありませんわ。あの人はわたしを愛してくれたんですけど、親孝行だったんだと信じていますの……」
「そうね、でも、もしその人がお母さまの意志に従ったんでなくて、ただ自分かってに?……」とキチイはいったが、もう自分は自分の秘密をさらけ出してしまった、羞恥の紅《くれない》に燃える自分の顔が、もう自分の秘密を暴露してしまった、と感じた。
「それなら、その人は悪いことをしたのですから、わたしなら、そんな人を惜しいと思いませんわ」明らかに、これはもう自分のことではなく、キチイの話だと悟ったらしく、ヴァーレンカはこう答えた。
「でも、侮辱はどうしますの?」とキチイはたずねた。「侮辱を忘れることはできませんわ、忘れられませんとも」舞踏会で奏楽がやんだ時、自分が男にそそいだ最後の一瞥《いちべつ》を思い出して、彼女はこういった。
「侮辱ってなんですの? だって、あなたは何も悪いことをなすったんじゃないでしょう?」
「悪いことより、もっといけないことですわ――恥ずかしいことをしたんですもの」
「でも、何が恥ずかしいんですの?」と彼女はいった。「だって、あなたはご自分に無関心な男の人に、その人が好きだとおっしゃったわけじゃないでしょう?」
「そりゃもう、そんなことありませんでしたわ。あたし一度も、ひと言だって口に出しませんでしたわ。だけど、その人は知っていましたの。でも、だめ、だめ、目つきだってありますし、そぶりだってありますもの。あたし百年も長生きしたって、忘れることはできませんわ」
「で、どうしたんですの? わたしわかりませんわ。かんじんなのは、今でもあなたがその人を愛してらっしゃるか、どうかですわ」とヴァーレンカはなにもかも名ざしていった。
「あたしはその人を憎んでいます。ただ自分で自分を赦すことができませんの」
「で、どうなんですの?」
「羞恥、侮辱」
「まあ、もしだれもかもが、あなたみたいに感じが強かったら」とヴァーレンカがいった。「それと同じことを経験しない娘さんは、一人もいないでしょうよ。それに、そんなことはちっとも重大じゃありませんわ」
「では、何が重大なんですの?」好奇心のまじった驚きの眼で、相手の顔を見つめながら、キチイはこうたずねた。
「そりゃ、重大なことはたくさんありますわ」とヴァーレンカはほほえみながら答えた。
「でも、なんですの?」
「そりゃ、もっと重大なことがたくさんありますとも」とヴァーレンカはなんといっていいかわからないで、そう答えた。しかし、そのとき窓の中から、公爵夫人の声が聞えた。
「キチイ、冷えてきましたよ! ショールを持っていくか、それでなければ、家の中へお入り」
「ほんとにもう時刻ですわ!」とヴァーレンカは立ちあがりながらいった。「わたし、まだマダム・ベルトのところへよらなくちゃなりませんの、頼まれたことがありましてね」
 キチイはその手を握ったまま、情熱にみちた好奇心と祈願をこめながら、まなざしで問いかけた。『なんですの、そんなおちつきを与えるいちばん重大なものって、いったいなんですの? あなた知ってらっしゃるんでしょう! あたしに聞かせてちょうだいな!』
 けれどもヴァーレンカは、キチイのまなざしが何をきいているのか、それさえ理解しなかった。彼女が覚えているのは、ただ今夜まだマダム・ベルトのところへよって、お茶に間に合うように、十二時までにママのいるわが家へ帰らなければならぬ、ということだけだった。彼女は部屋の中へ入ると、譜を集めて、一同に別れを告げ、出かける用意をととのえた。
「失礼ですが、お送りしましょう」と大佐が申し出た。
「そうですとも、どうして今ごろ、夜中に一人で行けるものですか!」と公爵夫人はひき取った。「わたしせめてパラーシャにでもお送りさせますわ」
 ヴァーレンカは、自分のようなものを送らなければならぬという言葉を聞いて、やっとのことで微笑をこらえた。キチイはそれを見てとった。
「いいえ、わたしいつも一人で歩くんですけど、一度だって何かあったためしはございませんわ」と彼女は帽子をとっていった。それから、もう一度キチイに接吻すると、何が重大なことであるかを話さないで、そのまま小わきに譜をかかえ、元気な足どりで、夏の夜の薄闇の中へ隠れてしまった――何が重大なのか、何があのうらやむべきおちつきと品格をあたえるのか、という秘密を身につけたまま。

[#5字下げ]三三[#「三三」は中見出し]

 キチイはシュタール夫人とも知り合いになった。その交際は、ヴァーレンカに対する友情とともに、単に強い影響を与えたばかりでなく、彼女の悲しみをも慰めた。彼女がそこに見いだした慰藉《いしゃ》というのは、ほかでもない、この交際のおかげで、過去とはなんの関係もない、全然あたらしい世界が開けたことである――それは高遠な美しい世界であって、その高みに立つと、おちついた気持でその過去がながめられた。つまり、今までキチイの没頭していた本能的な生活のほかに、精神的な生活もある、ということを発見したのである。この生活は、宗教によって開かれたのではあるが、それはキチイが子供の時分から知っていた宗教とは、なんの共通点ももっていなかった。それは知人のだれかれに会える教会のミサや、寡婦《かふ》の家の夜祈祷という形式をとる宗教でもなければ、神父に叩きこまれたスラヴ語のテキストの暗記に表現されるものとも違っていた。それは多くの美しい思想や、感情と結びあわされた高遠神秘な宗教であって、命じられたがために信じられるというばかりでなく、愛することのできる宗教であった。
 キチイはこうしたいっさいのことを、言葉によって知ったのではない。マダム・シュタールがキチイに話す態度は、自分の青春の思い出として、思わず見とれずにいられないかれんな幼児《おさなご》に対するようであった。たった一度だけ、すべて人間の悲しみを慰めるものは、ただ愛と信仰ばかりである、われわれ人間に対するキリストの憐憫にとっては、些細《ささい》なとるにたらぬ悲しみは存在しない、といったばかりで、すぐさま話題を他に転じてしまった。けれども、キチイは彼女の一挙一動に、その一言一句に、またキチイのいわゆる天国の翳《かげ》を宿したまなざしの一つ一つに、とりわけヴァーレンカから聞いた夫人の身の上話に――そうしたいっさいの中に、『何が重大であるか』という、キチイの今まで知らなかったものを、認識したのである。
 しかし、シュタール夫人の性格がいかに高尚であっても、その生涯がいかに感動的であっても、その生涯がいかに優しく高遠であっても、キチイは心にもなく夫人の中に、何かまごつかせるような点を認めないわけにいかなかった。キチイに肉親の人たちのことをいろいろたずねているうちに、マダム・シュタールはキリスト教徒の善良性にそむく侮辱的な笑いを、にやりと洩《も》らしたことがある。それにキチイは気がついた。それからまた、ある訪問のとき、カトリックの僧侶が居合わせたが、マダム・シュタールは、自分の顔をなるべくランプの笠に隠すようにしながら、なにか特別なにやにや笑いをしているのにも気がついた。この二つの観察は、極めて些細なものではあったけれども、それは彼女をまごつかせ、彼女はマダム・シュタールに疑念をいだくようになった。
 しかし、そのかわり、身寄りもなければ友もない孤独の身で、わびしい失意をいだきながら、何一つ望みもしなければ、何一つ物惜しみもしないヴァーレンカは、キチイが心ひそかに念願していた、かの完成そのものであった。ただおのれみずからを忘れて他人を愛しさえすれば、おちつきと幸福と美を獲得できるということを、ヴァーレンカの実例によって悟ったのである。キチイは自分もああいうふうになりたいと思った。何が最も重大[#「最も重大」に傍点]であるかを悟って、キチイはこの発見に有頂天になるだけで満足せず、いま啓示された新しい生活に猶予《ゆうよ》なく心身を捧げた。マダム・シュタールをはじめ、ヴァーレンカの数えあげたその他の人々が、どんなことをしたかという彼女の話を総合して、キチイは早くも、未来の生活プランを立てた。ヴァーレンカからいろいろ話を聞かされたシュタール夫人の姪《めい》アリーヌのように、いかなるところに住もうとも、常に不幸な人々を見つけ出して、できるだけの助けを与え、聖書を頒《わか》ち、病人や犯罪人や瀕死の人々に、福音書を読んで聞かそう。アリーヌがしたように、犯罪者に福音書を読んで聞かすという考えは、わけてもキチイの気に入った。が、それらはすべてキチイの秘密の空想であって、母親はおろか、ヴァーレンカにさえ打ち明けなかった。
 とはいえ、この計画を大規模に実行する時期のくるまで、キチイは今すぐこの温泉場でも――ここにはあんなにおおぜいの病人や不幸な人人がいることだから、ヴァーレンカにならって、自分の新しい生活規範を実地に応用する機会を見いだすのは、容易なわざであった。
 はじめ公爵夫人は、キチイがシュタール夫人ことにヴァーレンカに対する熱狂《アングーマン》にひどく浮かされていると、ただそれだけのことに気がついたにすぎなかった。母夫人の見たところによると、キチイは単に行動の上で、ヴァーレンカを模倣しているばかりでなく、知らずしらずのうちに、歩きぶり、話し方、まばたきする癖まで、まねているのであった。しかし、しばらくたって公爵夫人は、娘の内部でそうした憧憬《しょうけい》とは別に、何かしらまじめな精神的転換が成就《じょうじゅ》されているのを認めた。
 キチイは以前ないことに、シュタール夫人からもらった聖書を毎晩のように読み、社交界知人をさけて、ヴァーレンカの保護のもとにある病人、ことに病める画家ペトロフの貧しい一家と接近した。公爵夫人はそれに気がついた。キチイは明らかに、この家族の中で特志看護婦の義務を果しているのが、自慢らしかった。なにもかも結構なことで、公爵夫人もそれに対して何もいい分はなかった。まして、ペトロフの妻はどこから見ても、れっきとした婦人であり、大公妃もキチイの活動に目をつけて、彼女を慰めの天使といってほめそやしたくらいだから、なおのこと文句のつけようがなかった。もしそこに行きすぎさえなかったら、なにもかも結構だったはずである。公爵夫人はキチイが極端に走っているのをみて、じきじきに娘にそれを注意したことがある。
「Il ne faut jamais rien outrer. (物事は決して度を過ごしてはいけません)」と彼女はいった。
 しかし、娘はなんとも答えなかった。ただ心の中で、キリスト教の仕事で行きすぎをうんぬんすることはできない、とそう考えただけである。一方の頬を打たれたら今一方をさし出せ、外套を剥《は》がれたら肌着をも与えよと命じている、そうした教えに従うのに、どんな行き過ぎがありうるものか? けれど、公爵夫人はその行き過ぎが気に入らなかった。しかも、それよりもっと気に入らなかったのは、キチイが自分の秘密をみなまで母に打ち明けようとしない、とこう直感したことである。事実、キチイは自分の新しい見方や感情を、母から隠していたのである。キチイがそれを打ち明けなかったのは、母親を尊敬しなかったからでも、愛しなかったからでもなく、ただそれが自分の母親だったからにすぎない。彼女は母親にそれを話すくらいなら、いっそ行きあたりばったりの人に打ち明けたに相違ない。
「どうしたものやら、アンナ・パーヴロヴナは、長いこと家へおみえにならないねえ」と公爵夫人はある時、ペトロフの妻のことをそういった。「わたし呼んだんだけれど。あのひとはどうやら何かに不満らしいね」
「いいえ、あたしそんなこと気がつきませんでしたわ」とキチイはさっと顔を赤くしていった。
「おまえもずいぶん、あそこへ行かないじゃありませんか?」
「あたしたち明日、お山へ遠足に行くことになっていますもの」とキチイは答えた。
「なに、いいでしょう、いらっしゃい」娘のもじもじした顔に見入って、その当惑の原因を察しようとつとめながら、公爵夫人はそう答えた。
 その日ヴァーレンカが食事にやって来て、アンナ・パーヴロヴナが明日の山登りを中止したことを知らせた。と、キチイがまた顔を赤らめたのに、公爵夫人は気がついた。
「キチイ、おまえペトロフさん夫婦と、なにかいやなことがあったんじゃない?」母子《おやこ》ふたりきりになった時、公爵夫人はそうきいた。「どうしてアンナ・パーヴロヴナは、子供たちもよこさなければ、うちへも来なくなったの?」
 キチイはそれに答えて、自分たちの間には何も変ったことはなかった、アンナ・パーヴロヴナは、あたしに不満をいだいているらしいけれど、どういうわけか合点がいかないといった。キチイがそう答えたのは、全く本当のことであった。彼女は、アンナ・パーヴロヴナの態度が変った理由を、知らなかったとはいうものの、ほぼ推察はしていた。その推察というのは、母親に話すことができなかったばかりでなく、自分自身にさえいいかねるような性質のものであった。それはわかってはいても、自分でさえはっきり認めることのできないような、そうした推察の一つであった。それほど恐ろしいことで、もし違っていたら、恥じ入らなければならない。
 またしても、またしても彼女の心の中で、この家族と自分との関係を、一つ残らず検《あらた》めてみた。いつも会うたびに無邪気な喜びを現わす、アンナ・パーヴロヴナの人の好さそうな円顔を思い浮べた。病画家に関するふたりの会話、さし止められている仕事から気持をそらすようにして、なるべく散歩につれ出そうという相談、『僕のキチイ』といって、彼女がそばにいなかったら寝ようとしない小さい男の児の愛着、こういうことを思い起した。そのころはなにもかも実によかった。それにつづいて、茶色の上衣を着た、頸の長いペトロフのやせた姿、まばらな縮れ毛、はじめの間キチイに恐ろしく思われた物問いたげな水色の眼、彼女がいると元気に生きいきと見せかけようとする病的な努力、それを彼女は思い出した。はじめのうち、彼女はすべての肺病患者に対して感じるのと同じ嫌悪《けんお》を、克服《こくふく》しようとつとめたこと、なんの話をしようかと話題を考え出すのに苦心したこと、なども思い起した。キチイを見る時のペトロフのおずおずした、感激にみちた目つき、そういうとき彼女の経験した同情と、奇妙なばつの悪い感じ、そのあとから頭をもちあげる自分の善行意識、それを彼女は思い起した。こういうことは、なにもかも実によかった! でも、それはみな、はじめの間だけであった。今は、三四日前から、急にすっかりだめになってしまったのである。アンナ・パーヴロヴナは、そらぞらしいお愛想でキチイを迎え、たえず彼女と良人を観察するのであった。
 彼女がそばへよるたびにペトロフの示す、あのいじらしいほどの喜びが、はたしてアンナ・パーヴロヴナの態度の冷淡になった原因だろうか?
『そうだわ』と彼女は追想をつづけた。『一昨日、アンナ・パーヴロヴナが、いまいましそうな口調で、《もうね、ずっとあなたばかり待ち焦《こが》れて、あなたとごいっしょでなければ、コーヒーもいただこうとしないんですのよ、あんなにひどく弱ってしまっているのに》といった時、そこには何か不自然なものが感じられ、あのひとの善良な性質に不似合いなものがあったっけ』
『そう、もしかしたら、あたしがあの人に膝掛を渡したのが、アンナ・パーヴロヴナは不愉快だったかもしれない。そんなことはいっこうなんでもないのに、あの人がひどく不手際な受け方をするものだから、あんなにくどくどとお礼をいうものだから、あたしまでが悪くなってしまったくらいだわ。それに、あの人が描いて、しかもみごとに出来たあたしの肖像。それに何より問題なのは、あのもじもじした、優しみの溢れた目つき………そうだわ、そうだわ、きっとそうに違いない!』キチイはぞっとしながら、ひとりこうくりかえした。『いいえ、そんなはずはない、そんなことがあってはならない! あの人はあまり惨めすぎるわ!』と彼女はあとからすぐこうひとりごちた。
 この疑念が、彼女の新生活の魅力に毒をさすのであった。

[#5字下げ]三四[#「三四」は中見出し]

 もう医者から指定された湯治の期限も終るころに、シチェルバーツキイ公爵が帰って来た。彼はカルルスバードから、当人の言いぐさによると、ロシヤ気分を満喫するために、キッシンゲンにいるロシヤの知人を訪ねて来たのである。
 公爵夫妻の外国生活を見る目は、全く相反していた。公爵夫人はなにもかもりっぱなものと思って、ロシヤの社会では確乎たる位置を占めているにもかかわらず、外国ではヨーロッパ式の貴婦人になろうとつとめていた。しかし、彼女はロシヤ貴族の夫人であって、ヨーロッパの貴婦人ではなかったから、いくらかぐあいが悪いというようなふりをしていた。ところが、公爵のほうはその反対に、外国のものはなにもかもいやなものにきめてしまって、ヨーロッパ風の生活を苦痛に思い、ロシヤで身につけた自分の習慣を固持して、外国ではことさら実際以上に、欧州人らしく見せまいと努力していた。
 公爵は全体にやせて、頬に袋がぶらさがるほど皮膚をたるませて帰って来たが、しかしこのうえもない上きげんであった。ことにキチイがすっかり快《よ》くなっているのを見て、彼の浮きうきした気分はさらにたかめられた。キチイがシュタール夫人と、ヴァーレンカと親しくしているという報告、それからキチイに何かの変化が生じたという公爵夫人の観察は、公爵をまごつかせた。それは、自分よりほかのものに娘が心をひかれるとき、彼のいつも感じる珍しくもない嫉妬感と、娘が自分の感化を脱してどこか手の届かない領域へいってしまいはせぬか、という恐怖を呼びさましたのである。しかし、そういうおもしろからぬ報告も、彼がいつも持ち合わしているし、特にカルルスバードの温泉でさらに度を増した、人のよい楽しい気分の中に溺れてしまった。
 帰って来た翌日、公爵はいつもの長い外套を着て、ロシヤ人らしい皺《しわ》のよっただぶだぶの頬を、糊のきいたカラアで突きあげながら、上々のきげんで、娘とともに鉱泉場へ出かけた。
 それはすばらしい朝であった。小庭つきのさっぱりした楽しそうな家々、ビールのせいで顔も手も赤くして、愉快そうに働いているドイツ人の女中たちの姿、輝かしい太陽などは、人の心を浮き立たせた。けれど、鉱泉場へ近づくにしたがって、行き合う病人の数が多くなった。ドイツではあたりまえになっている整美した生活条件の中で、彼らの姿はひとしお惨めに見えるのであった。この矛盾も、今ではもうキチイの心を打たなくなった。さんさんたる太陽も、楽しい緑の輝きも、音楽の響きも、彼女にとってはすべての知人たちをかこむ自然の額縁《がくぶち》であり、よいほうなり悪いほうなりにむかう変化の背景であった(彼女はその変化にたえず注意していた)。しかし、公爵の目から見ると、六月の朝の輝きと光や、流行の浮きうきしたワルツを奏する音楽のひびきや、ことに頑丈な女中たちの姿は、ヨーロッパのあらゆるすみずみから集って、わびしげに動きまわっている死人のような人々と一つになって、何かぶしつけな醜いもののように思われた。
 いま愛娘《まなむすめ》と腕を組んで歩いている公爵は、得得たる感じと、何か若返ったような気持さえ覚えながらも、自分の元気な歩きぶりや、脂《あぶら》の乗りきった大柄な肉体が、なんとなくばつの悪いような、気の咎《とが》めるような思いであった。彼はほとんど、人中で裸になっている人と同じ気持を経験した。
「ひとつ紹介しておくれ、おまえの新しい友だちにわしを紹介しておくれ」と彼は肘《ひじ》で娘の腕を締めつけながら、いった。「わしはな、この大嫌いなソーデンではあるが、おまえをこんなに快くしてくれたので、大好きになったよ。しかし、ただ気が滅入《めい》る、気が滅入っていけない。あれはだれだね?」
 キチイは、むこうからやってくる知った人やら、知らない人の名を父に教えた。公園の入口のすぐそばで、女の手引きにつれられた盲目のマダム・ベルトに出会った。キチイの声を聞きつけると、この年とったフランス婦人の顔に、感動の表情が浮かんだのを見て、公爵はうれしくなってしまった。マダム・ベルトはさっそく、フランス人特有の大仰《おおぎょう》なお世辞をふりまきながら、公爵に話しかけて、こんなお嬢さまをおもちになっておしあわせでございます、と賞めそやし、キチイのことを面と向って、宝だ、真珠だ、慰めの天使だといいながら、天にまで持ちあげかねない勢いであった。
「ははあ、ではこの子は第二の天使なんですか」と公爵は微笑しながらいった。「この子はヴァーレンカを天使第一号といっていますから」
「おお! マドモアゼル・ヴァーレンカ――あれは本当の天使でございますよ、allez(まったく)」とマダム・ベルトはひき取った。
 廻廊で、彼らは当のヴァーレンカに出会った。彼女は赤い優美なハンド・バッグを持って、いそいそとむこうからやってきた。
「やっとパパが帰ってらっしゃいましたわ」とキチイは彼女にいった。
 ヴァーレンカは、何をしてもそうなのであるが、率直な自然なこなしで、頭を下げるとも、小腰をかがめるともつかぬ、そのあいだの動作をして、すぐさま公爵に話しかけたが、それは彼女があらゆる人と話すのと同じ、無理のないさばけた調子であった。
「もちろん、あなたのことは知っております。知っておりますとも」と公爵はほほえみながらいったが、キチイはその微笑によって、自分の親友が父の気に入ったことを悟った。「いったいどこへそんなに急いでおいでですな?」
「母がここへきていますの」と彼女はキチイの方へ向いていった。「昨晩よっぴて眠れなかったものですから、お医者さまが外出するようにとおっしゃいましたの。わたし、母の手仕事を持っていくとこなんですの」
「では、あれが天使第一号だな」ヴァーレンカが立ち去った時、公爵はこういった。
 公爵は、ヴァーレンカを冷やかしてやろうと思ったのだけれども、この娘が気に入ってしまったので、どうしてもそれができなかったのである。キチイはそれを見てとった。
「さあ、これからおまえの親友を、すっかり見ることができるぞ」と彼はつけ加えた。「マダム・シュタールも、もしもわしに光栄を授けて思い出してくれたらな」
「まあ、パパはあのかたを知ってらっしゃいましたの?」マダム・シュタールの名を口にした時、父の眼に輝いた嘲笑を見てとって、キチイはぎょっとしながらたずねた。
「あの女の亭主を知っておったよ、それにあの女も少々、あの女が敬虔主義者《ピエチスト》になる前にな」
「なんですの、ピエチストって?」自分がシュタール夫人の中に認めて、あれほど高く評価していたものが、一定の名称をもっているのに、早くも驚愕の念をいだきながら、キチイはこうたずねた。
「わしも自分でよくわからんのだが、ただあの女がなんでもかでも、どんなふしあわせでも神さまに感謝する……ということだけは知っておるがな。なにしろ、亭主が死んだことまで、神さまに感謝してるんだからなあ。いやはや、おかしなことになってくるのさ、夫婦の仲がよくなかったのでな……あれはだれだ? なんというみじめな顔をしておることか!」ベンチに腰かけている、あまり背の高くない病人に気がついて、彼はそうきいた。病人は茶色の外套を着て、白ズボンをはいていたが、それは肉のなくなった足の骨の上に、奇妙な襞《ひだ》をつくっていた。この病人は、麦わら帽子をちょっともちあげて、まばらな縮れ毛と、帽子の痕《あと》が病的に赤く残っている秀でた額をあらわした。
「あれはペトロフといって、画家なんですの」とキチイは赤くなって答えた。「そして、あれが奥さん」と彼女は、アンナ・パーヴロヴナを指さしながら、つけたした。ペトロフの妻はこの時わざと、径《こみち》づたいに駆け出した子供のあとを追って行ったのである。
「なんて惨めな男だろう、だが、実に人なつこい顔をしとる?」と公爵はいった。「どうしておまえそばへ行ってあげなかったんだ? 何かおまえにいいたそうにしておったじゃないか」
「そうね、じゃ行きましょう!」キチイは決然とうしろへ返りながら、こういった。「今日はお加減いかがですの?」と彼女はペトロフに問いかけた。
 ペトロフは杖にもたれて立ちあがり、臆病げに公爵を眺めた。
「これはわしの娘ですよ」と公爵はいった。「お近づきを願います」
 画家は会釈して、輝くばかり白い歯を見せて、にっこり笑った。
「公爵令嬢、私たちは昨日あなたをお待ちしていたんですよ」と彼はキチイにいった。
 そういうひょうしに、彼はひょろっとよろけた。するともう一度その所作を繰り返して、わざとしたのだというふりを見せようとつとめた。
「あたし、お訪ねしようと思ったんですけど、ヴァーレンカの話によりますと、アンナ・パーヴロヴナからお使があって、あなたがたはいらっしゃらないってことでしたから」
「え、行かないんですって!」とペトロフは真赤になって、すぐに咳きこみながら、妻を目でさがしさがしいった。「アネッタ、アネッタ!」と彼は大声に呼んだ。すると、その細い白い頭筋には、太い血管が縄のように怒張《どちょう》した。
 アンナ・パーヴロヴナがそばへ寄った。
「どうしておまえは、公爵令嬢のとこへ、私たちはまいりませんなんて使を出したんだ?」声が出なくなって、彼はいらいらとささやくようにいった。
「こんにちは、お嬢さま」とアンナ・パーヴロヴナは、わざとらしい微笑を浮べていったが、それは今までの態度とは、似ても似つかないものであった。「お近づきになれまして、光栄でございます」と彼女は公爵の方へ向いた。「ずいぶん長くお待ち申しあげていたのでございますよ、公爵」
「どうしておまえは公爵令嬢のとこへ使を出して、私たちが行かないなんて申しあげたんだい?」と画家はもう一度しゃがれた声でいったが、それは前よりもっと腹だたしげであった。明らかに、声がいうことを聞かないで、自分の言葉に思いどおりの表情を与えることができないために、ますますいらだってくるらしかった。
「あら、どうしましょう! わたし、うちでは行かないものと思ってたものですから」と妻はいまいましそうに答えた。
「どうして、だって……」彼はまた咳きこんで、あきらめたように片手をふった。
 公爵はちょっと帽子を持ちあげて、娘とともにそばを離れた。
「やれやれ!」と彼は重々しく吐息をついた。「ああ、ふしあわせな人たちだ!」
「そうなんですのよ。パパ」とキチイは答えた。「それに、ごぞんじないでしょうけれど、お子さんが三人もあって、女中はいないし、蓄えもほとんどないんですからねえ。アカデミイから少々もらってらっしゃるだけでね」自分に対するアンナ・パーヴロヴナのふしぎな態度の変化のために、こみあげてくる興奮をおさえつけようとしながら、彼女は勢いこんで物語るのであった。「ああ、むこうからマダム・シュタールも見えましたわ」と車のついた肘椅子を指さした。その中では、枕をぐるりと積んだ上に、何かしら鼠色と空色の着物に包まれたものが、パラソルの下に横たわっていた。それがシュタール夫人なのであった。そのうしろには、車を押す役になっている、頑丈づくりのドイツの人夫が立っていた。そばには、キチイの名前だけ知っている、白っぽい髪をしたスウェーデンの伯爵がいた。幾たりかの病人がこの貴婦人を、何か珍しいもののように見物しながら、肘椅子の辺をうろうろしていた。
 公爵はそのそばへ寄った。と、その眼の中には、いつもキチイを当惑させる冷笑の火花が閃いたのを、彼女は早くも認めた。彼はマダム・シュタールに近づいて、みごとなフランス語で話しかけたが、それは今ではもう話す人のきわめて少なくなった、実に慇懃《いんぎん》な愛想のいいフランス語であった。
「私を思い出して下さるかどうか知りませんが、私は娘にお示し下さるご親切にお礼を申しあげるため、自分のほうからご記憶を呼びさましてさしあげねばなりません」帽子をとったままかぶらないで、彼はこういった。
「アレクサンドル・シチェルバーツキイ公爵でございましょう」とマダム・シュタールは、例の天国を反映したような眼を上げて答えたが、今やキチイはその中に不満の色を読みとった。「本当にうれしゅうございますこと。わたしはお嬢さまがとても好きになってしまいましてねえ」
「お体の調子は相変らずおよろしいんでしょうな?」
「はあ、わたくしもう慣れてしまいましたから」とマダム・シュタールはいって、スウェーデンの伯爵を公爵にひきあわせた。
「あなたはあまりお変りになりませんな」と公爵は彼女にいった。「私はもう十年か、十一年もお目にかかる光栄を有しませんでしたが」
「はあ、神さまはわたくしどもに十字架もお下しになりますが、それを背負っていく力も授けて下さいますから。いったいなんのためにこの生活がつづいていくのか、よくふしぎに思うくらいでございますよ……そっち側ですよ!」と彼女はいまいましそうに、ヴァーレンカをきめつけた。膝掛で足をくるむ、そのしかたが悪かったのである。
「それは善行をするためでしょうな、おそらく」と公爵は目で笑いながらいった。
「それはわたくしどもの、とやかく考えるべきことではございません」公爵の顔に浮んだニュアンスに気がついて、シュタール夫人はそういった。「では、そのご本を、わたくしに届けて下さいますね、伯爵? ご親切くれぐれもありがとうございます」と彼は若いスウェーデン人にいった。
「やあ!」そばに立っているモスクワの大佐が目に入ると、公爵は思わず叫び声を上げた。シュタール夫人に会釈したあと、父娘《おやこ》は仲間に入ったモスクワの大佐とともに、そのそばを離れた。
「あれがわがロシヤの|貴族《アリストクラート》ですよ!」冷笑的になりたい気持で、モスクワの大佐はこういった。彼はシュタール夫人が自分と近づきでないので、いささか向っ腹を立てていたのである。
「あの女は、相変らずですわい」と公爵はいった。
「あなたは病気前から、あのひとをごぞんじだったんですか、公爵、つまり、あのひとが床につく前から?」
「なに、あの女は私の知っておる時分に、床についたんですよ」と公爵はいった。
「なんでも、十年間おきたことがないそうですな……」
「起きないわけは、足が短いからですよ。あれはひどくかっこうの悪い女でな……」
「パパ、そんなはずありませんわ!」とキチイが叫んだ。
「口の悪い連中はそういっとるよ、おまえ。それにしても、おまえのヴァーレンカはさぞいじめられてることだろうな」と彼はつけ加えた。「いやはや、ああいう病気の奥さんがたときたら!」
「あら、違いますわ、パパ!」とキチイは熱くなって、抗議を申しこんだ。「ヴァーレンカはあのかたを、神さまみたいに崇拝していますわ。それに、あのかたは数え切れないほどいいことをしていらっしゃるし! だれにでもお好きな人にきいてごらんなさいまし! あのかたとアリーヌ・シュタールは、だれでも知らない人はありませんから」
「そうかもしれん」と公爵は、彼女の腕を締めながらいった。「しかし、それよりいいのは、だれにきいても、だれも知らないようにすることだよ」
 キチイは口をつぐんだが、それは何もいうことがなかったからでなく、父にも自分の秘密の考えを、打ち明けたくなかったからである。とはいえ――ふしぎにも――彼女は父の見方に屈服せず、自分の聖物に近よらせない覚悟であったにもかかわらず、一ヵ月のあいだ大切に胸の中にしまっていたシュタール夫人の神々しいおもかげが、あとかたもなく消え失せたのを感じた。それは、その辺にほうり出されている着物を人間と思い違いしたものが、ただ着物がころがっているにすぎないと、悟ったのと同じ気持であった。そこに残ったのは、ただ足の短い女であった。自分の姿が悪いために寝床から離れずにいて、膝掛のくるみかたが違うといって、おとなしいヴァーレンカを苦しめているのだ。もうどんなに想像力を働かせても、もはや以前のマダム・シュタールを復活させることはできなかった。

[#5字下げ]三五[#「三五」は中見出し]

 公爵は自分の浮きうきした気分を、家族のものにも、知人にも、シチェルバーツキイ一家の滞在している家の主人であるドイツ人にまで感染さした。
 キチイといっしょに鉱泉場から帰ると、公爵は自分の家へ大佐と、マリヤ・エヴゲーニエヴナと、ヴァーレンカをコーヒーに招待して、テーブルと肘椅子を小庭の栗の木の下へ持ち出させ、そこで昼食のしたくを命じた。主人も下女も、彼の浮きうきした気分にかぶれて、元気づいてきた。彼らは公爵の切離れのいいことを知っていた。で、三十分ののちには、二階に住んでいるハンブルグの病身な医者でさえ、栗の木の下に集った健康そうなロシヤ人の一座を窓越しに見て、羨望の念を覚えたほどである。白いテーブル・クロースをかけ、コーヒー沸し、パン、バタ、チーズ、野禽《やきん》の冷肉などを並べたテーブルのそばには、薄紫色のリボンのついたレース帽をかぶった公爵夫人が、無数の輪《わ》になってふるえる木の葉の影を受けて、お茶やサンドウィッチを配っていた。その反対の端に公爵が陣取って、健啖《けんたん》を発揮しながら、大きな声でおもしろそうに話していた。公爵のそばには、買物がひろげて立ててあった。ほうぼうの温泉場で買ったさまざまな小箱、麦わら細工、ありとあらゆる種類の紙切りナイフなどを、みんなに頒《わ》けてやった。女中のリースヘンと主人も、数に洩れなかった。彼は主人を相手に、こっけいなブロークンのドイツ語で冗談をいいながら、キチイを癒《いや》したのは鉱泉ではなくて、彼のつくるすばらしい料理、ことに黒すもも入りのスープだ、と主張するのであった。公爵夫人は、良人のロシヤ式の癖をひやかしながらも、この温泉場へ来てからついぞないほど元気づいて、浮きうきしていた。大佐は例によって、公爵の冗談を聞いて、にやにやしていた。しかし、彼が細心に研究している(と当人は考えていたのだ)ヨーロッパのこととなると、彼は公爵夫人の肩をもつのであった。人のいいマリヤ・エヴゲーニエヴナは、公爵がこっけいなことをいうたびに、腹をかかえて笑った。ヴァーレンカも、今までキチイが見たこともないほど、公爵の冗談にくすぐられて、弱々しいが伝染性の笑いでぐったりとしていた。
 それらはすべて、キチイの心を楽しませたが、それでも彼女は、ある一事を心にかけずにはいられなかった。父が彼女の親友たちをはじめとして、彼女が好きでたまらなくなった新しい生活を、妙におもしろそうにながめるために、自然と彼女の胸に呼びさました問題が、どうしても解けないのであった。この問題にかてて加えて、ペトロフ一家との関係が一変してきた。この変化は、今日ことさら不快に感じられたのである。一座の人々はみんな楽しそうであったが、キチイは愉快になることができなかった。それがまたよけいに、彼女を苦しめるのであった。彼女はちょうど、子供の時分に罰として自分の部屋へ閉じこめられ、姉たちの楽しげな笑い声を聞いたときに似たような、そうした気持を経験していた。
「まあ、あなた、なんだってこうむやみにお買いになりましたの?」と公爵夫人は微笑を浮べて、コーヒーの茶碗を夫に渡しながらいった。
「なに、ちょっと散歩に出かけて、その辺の小店のそばによるだろう、すると『エルラウヒト・エクスツェンツ・ドゥルヒラウヒト(閣下、旦那さま、御前さま)』といって、お買いあげを懇願するのだ。そこで、この『|御前さま《ドゥルヒラウヒト》』を聞くと、わしはもうがまんができなくなって、十ターレルくらいはいつのまにか消えてしまう、というわけだ」
「それはお退屈のせいですわ」と公爵夫人はいう。
「むろん退屈のせいさ。退屈さといったら、おまえ、身の置き場がないほどだよ」
「どうして退屈することなど、おできになるのでしょうね、公爵? いまドイツには、あれほどおもしろいことがたくさんございますのに」とマリヤ・エヴゲーニエヴナはいった。
「なに、わしもおもしろいことはすっかり知っておりますよ。黒すもも入りのスープも知っていれば、えんどう入りのソーセージも知っておりますよ」
「いや、公爵、なんといわれても、彼らの施設は興味がありますよ」と大佐はいった。
「じゃ、いったいなにがおもしろいんです? やつらはみな銅銭《あかせん》のように満足しておる、どいつもこいつも負かしたというわけでな。ところが、わしはいったい、なにに満足しろといわれるんですな? わしはだれも負かしはせん。ただ自分で靴をぬいで、おまけに、それを戸の外へ出しておかにゃならん。それだけのことですよ。朝になると起き出して、さっそく着替えをして、サロンへ茶を飲みにいかにゃならん始末ですよ。ところが、国におればまるで別ですて! 朝も悠々《ゆうゆう》と目をさまして、ちょいと何かに腹をたてて、口小言をいって、よっく正気に返ってから、何から何までとっくりと考える、すべて急がず慌《あわ》てずにな」
「しかし、時は金なりですよ、あなたはそれを忘れていらっしゃる」と大佐は注意した。
「時といって、どんな時です! そりゃ時によると、まる一月分に五十コペイカくらいしか出せないこともあれば、三十分の間に一文もとれんことがありますのでな。そうだろう、カーチェンカ? おまえどうしたんだね。ひどくつまらなそうな顔をしとるが」
「あたしどうもしませんわ」
「あなたいったいどこへ? もっとゆっくりしていらっしゃい」と、彼はヴァーレンカの方へふりむいた。
「わたし家へ帰らなくちゃなりませんの」とヴァーレンカは立ちながらいい、またきゃっきゃっと笑い出した。やっと笑いがおさまると、彼女は暇を告げ、帽子をとりに家の中へ入った。
 キチイはそのあとからついていった。ヴァーレンカさえも今は彼女の目に、別人のように映ってきたのである。それは別に悪くなったわけではないが、前に想像していたのとは違ってきたのである。
「ああ、こんなに笑ったことは、久しいことなかったわ!」傘やハンド・バッグを集めながら、ヴァーレンカはこういった。「なんていいかたでしょうね、あなたのお父さまは!」
 キチイは黙っていた。
「今度いつお目にかかりましょう?」とヴァーレンカはきいた。「ママは、ペトロフさんとこへ行くっていってるんですけど、あなたもいらっしゃる!」ヴァーレンカを試すつもりで、キチイはこういった。
「わたしまいりますわ」とヴァーレンカは答えた。「あの一家は、出発の用意をしていますから、荷造りのお手伝いをするように、お約束しましたの」
「じゃ、あたしもいきますわ」
「いいえ、なんだってあなた?」
「なぜ? なぜ! なぜ?」とキチイは眼をいっぱいに見ひらきながら、ヴァーレンカをやるまいと、パラソルに手をかけていった。「いえ、待ってちょうだい。なぜですの?」
「なんでもないの。だって、お父さまもお帰りになったことだし、それにあそこでも、あなたがいらっしゃると、窮屈がるでしょうから」
「いいえ、いってちょうだい、どうしてあたしが、ペトロフさんとこへしょっちゅう行くのをお望みにならないの? だって、あなた望んでいらっしゃらないでしょう? なぜですの?」
「わたし、そんなこといいはしませんでしたわ」とヴァーレンカはおちついた声でいった。
「いいえ、お願いですから、いってちょうだい!」
「すっかりいってしまいましょうか?」とヴァーレンカはきいた。
「ええ、すっかり、すっかり!」とキチイはひきとった。
「いえね、それには何も、とりたてていうほどのことはないのよ。ただミハイル・アレクセエヴィッチが(それは画家の名であった)、もとは早く引き上げるといってらしたのに、今度は立つのがいやになってきたんですの」とヴァーレンカはほほえみながらいった。
「で、で?」とキチイは、沈んだ眼でヴァーレンカを見つめながら急《せ》きたてた。
「でね、どうしたわけかアンナ・パーヴロヴナが、あの人がたちたがらないのは、あなたがここにいらっしゃるからだ、とそういったんですの。もちろん、それはまずかったんですけど、つまりそのために、あなたのことから喧嘩が起ったんですのよ。なにぶんごぞんじのとおり、ああいう病人は、癇《かん》が強うござんすからねえ」
 キチイはいよいよ顔をくもらせながら、押し黙っていた。ヴァーレンカは、自分の言葉の効果を和らげ、相手をおちつかせようとつとめながら、一人でしゃべっていた。彼女は爆発が近づいてくるのを見ながら、それが涙になるか言葉になるか、見当がつかなかった。
「ですからね、あなたはいらっしゃらないほうがいいのよ……ね、あなたおわかりになるでしょう、気を悪くなさらないでね……」
「自業自得《じごうじとく》なんだわ、自業自得なんだわ!」ヴァーレンカの手からパラソルをひったくって、友の眼をちょっとはずした方角を見ながら、キチイは早口にいいだした。
 ヴァーレンカは、友の子供らしいいきどおりを見て、にっと笑おうとしたが、気を悪くされてはと遠慮した。
「何が自業自得なんですの? わたしわかりませんわ」と彼女はいった。
「自業自得というのはね、こんなことなにもかも見せかけだったからですわ。みんな真心から出たんじゃなくて、考えだしたことだったんですわ。よその人なんか、あたしになんの用があるんでしょう。現にそのために、あたしは夫婦喧嘩のもとになってしまいました。あたしが、だれにも頼まれもしないことをしたからだわ。なにもかも見せかけだからよ! 見せかけだわ! 見せかけだわ!」
「だって、なんのために見せかけなさる必要があるんですの?」とヴァーレンカは静かにいった。
「ああ、なんてばかげているんでしょう、なんていまわしい! あたしなんの必要もなかったんですわ……なにもかも見せかけよ!」と彼女はパラソルを開けたり、つぼめたりしながらいった。
「でも、どんな目的で?」
「自分をよく見せたいためですわ、世間の前で、自分の前で、神さまの前で。みんなをだますためだったんですわ。いいえ、もうこれからは、そんな誘惑には乗りません! たとえ悪い人間でも、とにかく、嘘つきの面かぶりにはなりませんわ!」
「まあ、だれが嘘つきなんですの?」とヴァーレンカはなじるようにいった。「あなたのおっしゃることを聞いていると、まるで……」
 しかし、キチイは激情の発作に襲われていた。彼女は相手にしまいまでいわせなかった。
「あたし、あなたのことをいってるんじゃなくってよ、決してあなたのことじゃありません。あなたは完成そのものですもの。ええ、ええ、あなたがたがみんな完成された人だってことは、あたし承知しています。でも、あたしがいけない人間だからって、どうしようがあるんでしょう? もしあたしが悪い人間でなかったら、こういうことにならなかったでしょうか? してみると、あたしは面なんかかぶらないで、ありのままの人間でいますわ、アンナ・パーヴロヴナなんかに、なにも関係ありゃしませんわ! あの人たちはどうとも、好きなように暮したらいいんです、あたしはあたしの好きなようにするから。あたし、これよりほかの人間にはなれません……こんなことはみんな見当ちがいですわ、見当ちがいですわ!………」
「いったいなにが見当ちがいなんですの?」とヴァーレンカはけげんそうにきいた。
「なにもかも見当ちがいなんですの。あたしは、自分の心の命じるようにするほか、生きていくことができません。ところが、あなたがたは規則どおりに生活していらっしゃるんですもの。あたしはただ単純に、あなたを好きになっただけですけど、あなたはただあたしを救うために、あたしを教えるために愛して下すったんでしょう!」
「それはあなたのお考え違いよ」とヴァーレンカはいった。
「いえ、あたし人さまのことはなんにも申しません、あたしただ、自分のことをいってるだけですの」
「キチイ!」と呼ぶ母夫人の声が聞えた。
「こっちへきて、パパにあの珊瑚《さんご》を見せておあげなさい」
 キチイは傲然として、親友と和睦《わぼく》もせず、テーブルの上から珊瑚の入った箱をとって、母の方へいった。
「どうしたのおまえ? 真赤な顔をして?」と両親は声を揃えていった。
「なんでもありません」と彼女は答えた。「あたしすぐまいりますから」といって、もときた方へ駆け戻った。
『あのひとまだその辺にいるわ!』と彼女は考えた。『なんといったらいいかしら、ああ、どうしよう! あたしなんてことをしでかしたんだろう、なんてことをいってしまったんだろう! なんのためにあのひとに失礼なことをいったのかしら? どうしたものだろう? あのひとになんといおう?』と考えながら、キチイは戸口に立ちどまった。
 ヴァーレンカは帽子をかぶり、傘を手に持って、テーブルの前に腰をおろしたまま、キチイのこわしたバネをと見こう見していた。彼女はふと頭をあげた。
「ヴァーレンカ、勘忍してちょうだい、勘忍して!」とキチイはそばへよりながら、ささやいた。「あたし自分でも何をいったか、覚えがないんですの。あたし……」
「わたくし全くのところ、あなたにいやな思いをさせたくなかったんですの」とヴァーレンカはほほえみながらいった。
 講和は締結された。しかし、父親の帰来とともに、キチイにとっては、今まで自分の生活していた世界が一変してしまった。彼女は今度あたらしく認識したいっさいを、否定はしなかったけれども、自分がなりたいと望んだものになれると思ったのは、自己|欺瞞《ぎまん》であったと悟った。それはさながら、目のさめたような気持であった。自分が達したいと思ったあの高みに、みせかけも虚栄心もなしに身をささえるのは、容易ならぬわざであることをはっきりと感じた。のみならず、彼女は自分の住んでいる、この悲しみ、病気、瀕死の人々の世界の重苦しさをも、身にしみじみと感じた。それを愛しようとして、われとわが身に加えている努力も、悩ましいものに思われてきて、少しも早くすがすがしい空気の中へ、ロシヤへ、エルグショーヴォ村へ帰りたくなった。そこへは、手紙で知ったところによると、もう姉のドリイが子供たちをつれて、引き移っているのであった。
 けれども、ヴァーレンカに対する愛は衰えなかった。別れに際して、キチイは彼女に、ぜひロシヤヘ帰って、自分の家へ来てほしいと頼んだ。
「あなたの結婚なさる時に伺いますわ」とヴァーレンカは答えた。
「あたし決して結婚しませんわ」
「あら、それじゃわたしも決してお伺いしないことよ」
「じゃ、あたし、ただそのためだけに結婚しますわ。よござんすか、その約束を覚えててちょうだいね!」とキチイはいった。
 医師の予言は適中した。キチイは完全に回復して、ロシヤヘ帰った。彼女は前のようにのんきで、快活ではなくなったが、そのかわりおちついてきた。モスクワの悲しみも、今は思い出となってしまった。
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