『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」2-21~2-25(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]二一[#「二一」は中見出し]

 臨時厩舎になっている木造のバラックは、競馬場のすぐわきに建てられており、そこへ昨日のうちに、彼の馬が連れてこられているはずであった。彼はまだ馬を見ていなかった。この二三日、彼は自分で乗らないで、調馬師に任せきりだったので、自分の馬がどういう状態で到着し、今どういうふうでいるか、自分でもてんで知らないのであった。彼が幌馬車から出るが早いか、彼の馬丁でグルームと呼ばれている少年が、遠くのほうから彼の馬車を見つけて、調馬師を呼び出した。深い長靴をはき、短いジャケツを着、下頤にだけひと塊《かたま》りの鬚《ひげ》を残した、ひからびたようなイギリス人が、騎手独特の無器用らしい足つきで、両の肘を張り、体をゆらゆらさせながら、彼を出迎えた。
「で、どうだね、フルー・フルーは?」ヴロンスキイは英語でたずねた。
「All right, sir.(万事異状ありません、旦那)」イギリス人はどこか喉の奥で答えた。「いらっしゃらないほうがよろしいですよ」と彼は帽子を持ちあげながら、つけ加えた。「私は口籠《くつご》をかぶせました、あの馬、気が立っておりますので、いらっしゃらないほうがよろしゅうございますよ。興奮させるといけませんから」
「いや、やっぱり行ってみるよ。ひと目見たいんだ」
「では、まいりましょう」相変らず口を開かないで、眉をひそめたまま、イギリス人はそういって、両肘をふりまわしながら、例のばねのゆるんだような足どりで、先に立った。
 二人はバラックのまえの小さな内庭へ入った。小ぎれいなジャケツを着たお洒落《しゃれ》な当番のボーイが、箒《ほうき》を手に持ったまま、入ってくる二人を出迎え、そのあとからついてきた。バラックには五匹の馬が、それぞれ仕切りの中に繋がれていた。そこには、同じく今日つれてこられたはずのおもな競争者、五尺四寸もあるグラジアートルという、マホーチンの所有の栗毛がいるということを、ヴロンスキイは知っていた。ヴロンスキイは自分の馬よりも、まだ見たことのないグラジアートルのほうが見たかった。しかし、競馬界の礼儀から定められた法則で、見ることはおろか、根掘り葉掘りきくことさえぶしつけとされているのを、ヴロンスキイは心得ていた。彼が廊下を歩いているうちに、ボーイは左側二番目の仕切りの戸を開けた。と、栗毛の大きな馬と白い脚が、ヴロンスキイの目に入った。
 彼は、それがグラジアートルであることを知っていたが、開かれた他人の手紙から面をそむける人の心持で、彼はつと顔をわきへ向けて、フルー・フルーの仕切りに近づいた。
「ここにあの馬がおります、マク……マク([#割り注]マホーチンのホはKとHの中間音で、イギリス人には発音困難である[#割り注終わり])……どうしてもあの名がいえません」汚い爪をした親指で、肩越しにグラジアートルの仕切りを指さしながら、イギリス人はこういった。
「マホーチンのかね? そう、あれは僕にとって、油断のならない競争者の一人だよ」とヴロンスキイはいった。
「もし旦那があれにお乗りになったら」とイギリス人はいった。「私は旦那に賭けますがね」
「フルー・フルーは神経が細かいけれど、あれのほうが力がある」自分の乗馬術を賞められたので、にこにこしながら、ヴロンスキイはこういった。
「障碍物では、問題はただ乗馬術と pluck《プラック》だけですよ」とイギリス人はいった。
 Pluck、すなわち精力と大胆さにかけては、ヴロンスキイは十分もち合わせがある、と自任していたばかりでなく、世界中でこの pluck を自分以上に備えているものは一人もない、と確信していた。
「君はたしかに知っているね、あんまりやせる[#「あんまりやせる」に傍点]必要はないだろう?」
「必要ありません」とイギリス人は答えた。「どうか大きな声をなさらないで。馬が興奮しますから」いま前に立っている戸のしまった仕切りを、頤でしゃくって見せながら、彼はこうつけたした。その中では、藁の上で脚を踏み変える音が聞こえた。
 彼は戸を開けた。で、ヴロンスキイは、たった一つの小さな窓にぼんやり照らされている仕切りへ入った。仕切りの中では、新しい藁の上で脚を踏み変えながら、口籠《くつご》をかけられた黒栗毛の馬が立っていた。仕切りの中の薄明りでざっと見まわすと、ヴロンスキイは自分の愛馬のあらゆる点を、ひと目で見てとってしまった。フルー・フルーは中背の馬で、どこから見ても、非の打ちどころがないとはいかなかった。全体が骨細で、胸部はぐっと前へ張り出していたけれども、胸郭は狭かった。尻はやや垂れ気味で、脚は前もそうだが、ことにうしろのほうががに股であった。脚の筋肉は前後とも、特に発達しているほうではなかったが、そのかわり、腹帯にあたるところが並はずれて大きく、ことにいま飼糧《かいば》前ではあり、腹部のひきしまっているこの馬としては、ひどく目立つのであった。膝の下にあたる部分の骨は、前から見ると、指くらいの太さしかなかったが、そのかわり横から見ると、図抜けて広かった。全体にこの馬は、肋骨を除いては、両側から圧しつぶされて、縦に伸びたような感じであった。とはいえこの馬には、すべての欠点を忘れさせる最高級の長所があった。その長所というのは血統[#「血統」に傍点]であった――イギリス風のいいかたによると、どことなしに表われる[#「どことなしに表われる」に傍点]血筋であった。繻子《しゅす》のように滑らかな、ひくひくと動く薄い皮膚におおわれて、網目のような血管の下からくっきりと浮き出している筋肉は、骨と同じくらい堅そうに見えた。飛び出した眼がぎらぎらと楽しそうに光る、乾いた感じの頭は、先の方の、内側の薄皮に血のみなぎったような鼻孔のあたりで、うんと広くなっていた。その体ぜんたい、ことにその頭部に、はっきりした。精力的な、同時に優しい表情があった。それは、ただ口の機械的構造が許さないばかりに物をいわない、そういった感じのする動物の一つであった。
 少なくともヴロンスキイは、この馬がいま自分の感じているいっさいのことを、わかってくれたような気がした。
 ヴロンスキイが中へ入るやいなや、フルー・フルーは深く息を吸いこんで、飛び出した眼を、白いところが充血するほどやぶにして、入って来た二人を反対側から眺めながら、口籠《くつご》をふるわせ、ばね仕掛けのように、脚をかわるかわる踏み変えた。
「そら、ごらんなさい、ずいぶん興奮してるでしょう」とイギリス人はいった。
「おお、かわいいやつ! おお!」とヴロンスキイは馬のそばへよって、なだめながらそういった。
 けれども、彼がそばへよればよるほど、フルー・フルーはますます興奮した。ただ彼が頭のところへ近づいた時、ふいにおとなしくなって、薄い華奢《きゃしゃ》な皮膚の下で、筋肉がぶるぶるとふるえだした。ヴロンスキイはそのかっちりした頸を撫で、尖った項《うなじ》に生えたたてがみが反対側へねているのを、なおしてやった後、蝙蝠《こうもり》の翼のようにひろがった薄い鼻孔へ顔をよせた。フルー・フルーは、張り切った鼻孔で音高く空気を吸ってから、また吐き出し、ぶるっと身ぶるいして、尖った片耳を臥《ね》かせ、主人の袖を捕えようとでもするかのごとく、しっかりした黒い上唇を、ヴロンスキイの方へのばした。しかし、口籠のことを思い出して、ぶるっとそれをひとふりすると、またもやその削ったような脚を、かわるかわる踏み変えはじめた。
「おちつくんだよ、おい、おちつくんだよ!」もういちど手で尻を撫でて、彼はこういった。そして、馬はこのうえない状態でいるという、喜ばしい意識をいだきながら、仕切りから出て行った。
 馬の興奮はヴロンスキイにも伝染した。彼は、全身の血が心臓へ集ってくるような気がした。馬と同様に、動いたり、噛みついたりしたくなった。恐ろしくもあれば、愉快でもあった。
「じゃ、僕は君をあてにしてるよ」と彼はイギリス人にいった。「六時半には現場にいるようにね」
「万事ちゃんとしておきます」とイギリス人はいった。「ところで、どこへいらっしゃいます、御前《マイ・ロード》?」思いがけなくも、今までほとんど使ったことのない、この日 my Lord という言葉をつかって、彼はたずねた。
 ヴロンスキイはびっくりして首を持ち上げ、相手の問いの大胆さに驚きながら、彼の得意な見方で、イギリス人の眼でなく額を眺めた。しかし、イギリス人がこの問いを発した時、彼を主人でなく騎手と見なしたのだ、ということを合点して、ヴロンスキイはこう答えた。
「ブリャンスキイのところへ行かなくちゃならないんだ。一時間したら帰るよ」
『今日はもう何度、この質問を向けられたことやら?』とひとりごちて、彼は顔を赤らめた。こんなことはめったにないことであった。イギリス人は注意ぶかく彼を見つめて、ヴロンスキイがどこへ行くか知っているように、こうつけ加えた。
「競走の前には、気を静めておくのが第一です」と彼はいった。「ふきげんになったり、何事にまれ、気持を乱したりしてはいけません」
「All right.」とヴロンスキイは微笑しながらいい、馬車に飛び乗って、ペテルゴフヘやれと命じた。
 ようやく馬車が走り出すか出さないかに、朝から雨の脅威を感じさせていた黒雲か、空一面にかぶさって、どっとばかり夕立を降らした。
『こいつはいかんぞ』とヴロンスキイは、幌を上げながら考えた。『それでなくても、いいかげんぬかるんでいたのに、これじゃすっかり沼になっちまう』幌《ほろ》で包まれた馬車の中で一人きりになると、彼は母と兄の手紙をとりだして、ひととおり目を通した。
 はたして、それは何から何まで同じことであり、母も兄も、だれもかも一様に、彼の心の問題に干渉するのを必要と見なしているのだ。この干渉は彼の内部に毒々しい感情――彼のめったに経験しない感情を呼びさました。
『いったいあの連中に、なんの関係があるんだろう? なぜみんな、おれのことを心配するのを、義務のように心得ているんだろう? それに、なんだってみんなおれにからむんだ? つまり、これはなにかしら、彼らの理解できないことだからさ、これがもしありふれた、俗悪な社交界の情事だったら、彼らもおれをかまわずに、うっちゃっといたことだろう。ところが、これはなにかしら別のものだ、玩具《おもちゃ》じゃない、あの女がおれにとって命より貴いものだということを、彼らは感じたに相違ない。で、この何かが不可解なものだから、それでみんないまいましいのだ。よしわれわれの運命がどんなものであろうと、またどうなろうと、それはわれわれが作り上げたものだから、不平なんかいいやしない』
 われわれ[#「われわれ」に傍点]という言葉で、自分とアンナを結びつけながら、彼はこうひとりごちた。
『だめだ、あの連中はわれわれに、いかに生くべきかを教えなければ承知できないんだ。ところが、彼らは幸福が何かということが、てんでわかっちゃいないのだ。われわれはこの恋がなくちゃ、幸福もなければ不幸もない、つまり生活がないってことを、彼らは知らないんだからなあ』と彼は考えるのであった。
 彼がこの干渉のために、すべての人々に腹をたてたのは、彼らすなわちすべての人々のいうことが本当であると、心の底で感じていたからである。彼は感じていた――自分とアンナを結びつけた恋は一時の浮気ではない。それならば、すべての社交界の情事のように、あるいは気持のいい、あるいは不快な記憶のほか、双方の生活になんの痕跡《こんせき》もとどめず、過ぎ去ってしまうはずである。彼は自分と彼女の立場の苦しさを、残りなく痛感していた。二人の関係が、二人の住んでいる社会ぜんたいの目に曝《さら》されていて、自分たちの恋をかくしたり、偽ったり、嘘をついたりすることが、困難なのであった。しかも、二人を結びあわしている情熱があまりにもはげしく、二人ながら自分たちの恋のほかは、なにもかも忘れがちであるにもかかわらず、その恋を隠して、策略をめぐらし、たえず他人のことを考えなければならないのだ。
 自分の本性からいっていまわしいきわみである虚偽や欺瞞《ぎまん》を、あえて犯さねばならぬ場合がしばしばくりかえされるのを、彼はまざまざと思い起した。わけても、彼女がこの虚偽と欺瞞の必要のために、羞恥の情に苦しめられるのを、彼は一再《いっさい》ならず見てとった。それを彼はまざまざと思い起した。すると、アンナと関係して以来ときおりやってくる、奇妙な感じを覚えた。それは、何ものかに対する嫌悪の念であった。それはカレーニンに対するものか、おのれ自身に対するものか、社交界ぜんたいに対するものか、自分でもよくわからなかった。しかし、彼はいつもこの奇妙な感じを、追いはらうようにしていた。で、今もぶるっと一つ身ぶるいして、自分の物思いをつづけていった。
『そうだ、彼女はもとは不幸ではあったけれども、誇りをもっておちつきがあった。ところが、今はおちついて品格を保つことができなくなった、彼女自身はそうした様子を見せないけれど。いや、これは早くけりをつけなくちゃならない』と彼は自分で肚《はら》をきめた。
 その時はじめて、はっきりした考えが頭に浮んだ。どうしてもこの虚偽を打ち切らねばならぬ、しかも早ければ早いほどいいのだ。
『二人ともいっさいをなげうって、どこかへ身をかくし、自分の恋にこもってしまうのだ』と彼はひとりごちた。

[#5字下げ]二二[#「二二」は中見出し]

 夕立は長くもつづかなかった。もう手綱なしにぬかるみを走る両方の脇馬をひっぱるようにして、全速力を出して疾駆《しっく》する中馬の働きで、ヴロンスキイが目的地へ近づいた時には、ふたたび太陽が顔をのぞけた。本通りの両側に並んだ別荘の屋根や、庭の古い菩提樹《ぼだいじゅ》は、みずみずした光で輝き、木々の枝は楽しげに雫《しずく》をふらせ、屋根屋根からは水が流れ走っていた。彼はもうこの夕立で、競馬場が台なしになることなどを考えず、この雨のおかげでたしかに彼女は家に、しかも一人でいるのに相違ないと、そればかり喜んでいた。というのは、最近、温泉場から帰ってきたカレーニンが、まだペテルブルグからここへ移って来ていないのを、知っていたからである。
 彼女一人のところへ行きあわせるものと期待しながら、ヴロンスキイはいつもよくやるように、なるべく人目につかない目的で、小橋を渡らずに馬車を下り、徒歩《かち》で歩き出した。彼は通りから正面玄関へ行かないで、内窓のほうへ入っていった。
「旦那はおいでになってるかね!」と彼は園丁にたずねた。
「いいえ、でも奥さまはおいでになります。まあ、玄関のほうからお入り下さいませ。あちらに人がおりますから、お開けいたします」と園丁は答えた。
「いや、おれは庭のほうから行くよ」
 アンナが一人きりでいるに相違ないと思い込んで、彼は彼女のふいを襲って、びっくりさせようと思った。というのは、彼はきょうくると約束しなかったし、彼女も競馬を前に控えてまさかやって来まい、と思っていたに相違ないからである。彼はサーベルをおさえて、両側に花の植わった径《みち》の砂を、用心ぶかく踏みながら、庭に面したテラスの方へ進んでいった。今ヴロンスキイは、道々考えた自分の立場の苦しさや困難さを、すっかり忘れてしまった。彼の思ったのはただ一つ、今すぐにただの空想でなく、現実にあるがままの生きた彼女の全部が見られる、ということだけであった。彼は音のしないように、足の裏ぜんたいをつけるようにしながら、早くもテラスのゆるい石段を上りかけたが、その時ふいに、いつも忘れがちのことを思い出した。それは、彼女との関係で最も悩ましい一面、彼女の息子であった。もの問いたげな、彼の目にはいやらしく思われるまなざしをした息子。
 この少年はほかのだれよりも、二人の関係の障碍になることが最も多かった。彼がそばにいると、ヴロンスキもアンナも何事にせよみんなの前でいえないよう話を、大っぴらですることができなかったばかりでなく、少年にはわからないようなことでも、匂わすようにさえ話す気になれなかった。彼らはそれを申しあわせたわけでなく、ひとりでにそう決まったのである。この少年を欺くことは、自分自身に対する侮辱と考えたに相違ない。少年の前では、二人はただの知人のように話をした。が、これほど大事をとっているにもかかわらず、ヴロンスキイは、よく自分の方にそそがれている少年の注意ぶかい、けげんそうなまなざしを捕えた。そして、自分に対する時に少年の見せる、奇妙におどおどした、むらのある態度や、ときには甘えたり、ときには冷淡になったり、はにかんだりする様子に気がついた。どうやら少年は、この男と母の間には、自分などに意味のわからぬ、何か重大な関係があるのを、直感しているかのようであった。
 また事実、少年は自分がこの関係を理解できないのを感じ、この男に対してどんな感情をもつべきであるかを、自分で自分にはっきりさせようとつとめながらも、それができないのであった。感情の発現に対する少年の敏感さで、彼は明瞭に見てとった――父親も、家庭教師も、保姆《もり》も、だれもかれもが、単にヴロンスキイを好かなかったばかりか、なんにも口に出してはいわなかったけれど、嫌悪と恐怖の目で彼をながめている。ところが母親は、最も親しい友のように扱っているではないか。
『いったいこれはどういうことだろう? あの男は何ものだろう? どんなふうにこの男を愛したらいいのかしら? もしこれがわからなければ、僕がいけないのだ。でなければ、僕が馬鹿か、悪い子供なんだ』と少年は考えた。そのために、あれほどヴロンスキイにぎごちない思いをさせた、試すような、物問いたげな、そして、いくぶん反感をいだいたような表情と、臆病なむらのある態度が生じるのであった。この子がそばにいると、ヴロンスキイはいつも必ず、最近しばしば経験するようになった、奇妙な、いわれのない嫌悪の情を呼びさまされた。この子供の同席が、ヴロンスキイとアンナの胸に呼び起す感情は、航海者のいだく感情に似通っていた。羅針盤らしんばん》を見ると、いま自分の走っている方角は、本当の正しい方向とはなはだしくかけ離れていることを知りながら、船の進行を止めるだけの力がない。一分ごとにいよいよその誤差《ごさ》は大きくなっていくが、正しい方向から遠ざかっていくのを自認するのは、おのれの破滅を自認することであった。
 人生に対してナイーヴな眼をもったこの少年は、とりもなおさず羅針盤であって、彼らが知っていながら知ることを欲しないものから、どれほどそれているかを示すものであった。
 このときは、セリョージャは家にいなかった。彼女は全くの一人ぼっちで、テラスに腰をかけ散歩に出かけて雨にあったわが子の帰りを待っていた。彼女はわが子をさがしに、下男と小間使を出し、じっと坐って待っていたのである。大きな刺繍のある白い服を着た彼女は、テラスのすみの花の陰にいて、彼の来たのに気づかなかった。黒い髪の房々と渦巻いた頭を傾けて、手すりにのっている冷たい如露《じょうろ》に額をおしあて彼のよく知りぬいている指輪をはめた美しい両手で、その如露をおさえていた。その姿ぜんたい、頭、頸、手の美しさは、そのつど、まるで思いがけないもののように、ヴロンスキイをはっとさせるのであった。彼は歓喜の目でながめながら、歩みをとめた。けれど、彼女に近よろうとして一歩ふみだした時、彼女は早くもその接近を感じて、如露をつき放し、火照《ほて》った顔を男の方へふりむけた。
「どうしたんです? かげんでも悪いんですか?」と彼は近よりながら、フランス語でいった。彼は走りよりたかったのだけれど、ひょっとだれかいるかも知れないと思い出して、バルコンの戸をふり返った。そして、いつものことながら、びくびくして、あたりを見まわさなければならぬ身の上を思って、さっと顔を赤らめた。
「いいえ、わたしなんともありませんわ」立ちあがって、さしだされた男の手を固く握りしめながら、彼女はそういった。
「わたし思いがけなかったわ……あなたがいらっしゃるなんて」
「あっ! なんて冷たい手でしょう!」と彼はいった。
「あなた、わたしをびっくりさせるんですもの」と彼女はいった。「わたしたった一人で、セリョージャを待っていたの。あの子、散歩に出かけたもんですから。あっちの方から帰ってくるわ」
 しかし、彼女がおちつこうとつとめたにもかかわらず、その唇はふるえていた。
「赦して下さい、突然やって来て。しかし、僕はあなたを見ずには、一日もすごすことができないんです」と彼はいつものようにフランス語でいった。それはロシヤ語のあなた[#「あなた」に傍点]というたまらないほど冷たい言葉と、危険なおまえ[#「おまえ」に傍点]を避けるためであった。
「なんのために赦すんですの? わたし本当にうれしいのに!」
「でも、あなたはかげんがわるいか、何か悲しいことがあるんでしょう」女の手をはなさず、相手にかがみこみながら、彼は言葉をつづけた。「いったい何を考えてたんです?」
「いつも一つことばかり[#「一つことばかり」はママ]」と彼女はほほえみながらいった。
 彼女は真実をいったのである。いつ、どんな瞬間でも、何を考えていたかときかれたら、彼女はあやまりなく、それはただ一つのこと、自分の幸福と不幸のことです、と答えたに違いない。いま彼が来あわせた時にも、彼女はこういうことを考えていたのである。ほかでもない、なぜほかの女、例えばベッチイなどにとっては(彼女は、社交界には隠されている公爵夫人と、トゥシュケーヴィッチとの関係を知っていたのである)、こういうことがすべて手軽にいくのに、どうして自分にとってはこうも苦しいのだろう、ということであった。今日はある事情によって、この想念が特に彼女を悩ました。彼女はヴロンスキイに、競馬のことをたずねた。彼はそれに答えたが、彼女が興奮しているのを見て、その気をまぎらそうと思って、競馬の準備の模様をきわめて気軽な調子で話しはじめた。
『いったものか、いわないでおこうか?』男のおちついた優しい眼を見ながら、彼女はこう考えた。『この人はあんなに幸福で、あんなに競馬に夢中になっているから、このできごとがわたしたちにとって、どんな意味をもっているか、十分にはわからないだろう、本当に理解してはくれないだろう』
「しかし、僕が入ってきた時、何を考えていたかは、いってくれませんでしたね」ふと自分の話を中途で切って、彼はこういった。「さあ、聞かしてください!」
 彼女は返事をしなかった。こころもち頭をたれて、その額ごしに、長い睫毛《まつげ》の下に輝く眼で、物問いたげに彼を見つめた。むしりとった木の葉を玩具《おもちゃ》にしていた手は、わなわなとふるえた。彼はそれに気がついた。と、その顔は従順の気持と、奴隷のような心服を現わした。彼女はそれを見ると、気が折れてしまうのであった。
「どうも見たところ、何ごとか起ったようですね。あなたに何か心配事があって、それを僕が知らずにいたら、僕はいっときでも平気でいられるはずがないでしょう? 話して下さい、お願いですから!」と彼は祈るように繰り返した。
『そう、もしこの人がこのことの意味を、十分にわかってくれなかったら、わたしこの人を赦せないに相違ない。いっそ[#「いっそ」は底本では「いつそ」]いわないほうがいい、何も試してみる必要はないわ』やはりじっと男を見ながら、彼女はこう考えたが、木の葉を持った手がしだいにはげしくふるえるのか、自分でも感じられた。
「さ、お願いだから!」と彼女の手をとってくりかえした。
「いいましょうか?」
「ええ、ええ、ええ……」
「わたし妊娠していますの」と彼女は低い声でゆっくりといった。
 手の中の木の葉は、さらにはげしくふるえだした。しかし彼女は、男がこの知らせをどう受け取るかを見定めるために、相手から目をはなさなかった。彼は、さっと蒼ざめて、何かいおうとしたが、言葉を止めて、女の手をはなし、頭をたれた。『ああ、やっぱりこの事実の意味を、すっかりわかってくれたんだわ』と考え、彼女は感謝の念をこめて、男の手を握った。
 しかし、彼女は考え違いをした。彼がこの知らせの意味を理解したのは、彼女が女として解釈したのとは違っていた。この知らせを聞くとともに、彼がこのごろよく発作的に襲われる何者かに対するかの奇怪な嫌悪の念が、いつもに十倍した力で襲ってきたのである。が、同時に、彼はこういうことも感じた。彼が常づね望んでいた危機が、今こそ到来したのであって、もはやこれ以上良人に隠すことはできない。方法はともあれ、少しも早くこの不自然な状態を破ってしまわなければならぬ。女の興奮が生理的に彼に伝染したのである。彼はうっとりした従順な目つきで女をながめ、その手を接吻すると、立ちあがり、無言のままテラスをひとまわりした。
「そう」決然とした足どりで女のそばへよって、彼はこういいだした。「僕にしても、あなたにしても、お互の関係を玩具のように見たことはありませんが、しかし今こそ僕たちの運命がきまったのです。どうしてもけりをつけなくちゃなりません」と彼はあたりを見まわしながらいった。「僕たちが生活しているこの虚偽に」
「けりをつけるんですって? どうけりをつけるの、アレクセイ?」と彼女は小さな声でいった。
 彼女はいま心がおちついて、その顔は優しい微笑にかがやいていた。
「ご主人を棄てて、二人の生活を結びあわすんです」
「今だって結びあわされてるじゃありませんか」と彼女は聞えるか聞えないかの声で答えた。
「そう、でも完全に、完全にね」
「だって、どんなふうにするんですの、アレクセイ、教えてちょうだい、どんなふうに?」出口のない自分の立場に対する悲しい嘲りを響かせながら、彼女はこういった。「いったいこんな状態から脱け出す方法があって? だって、わたしは自分の良人の妻じゃなくって?」
「どんな状態からだって、脱け出す方法はありますよ。決心しなくちゃ」と彼はいった。「どんな状態だって、いま君がおかれている状態よりかましだもの。だって僕にはよくわかっているよ、君はいっさいのものに苦しんでいる――世間にも、息子にも、良人にも」
「ああ、ただ良人には苦しみませんわ」と彼女は気さくな薄笑いを浮べていった。「わたしわからないけど、あの人のことなんか考えちゃいませんわ。あの人なんか存在していないんですもの」
「君のいうことは真実みを欠いている。僕は君って人を知ってるんだもの。君はあの人のことでも苦しんでいるよ」
「だって、あの人はてんから知らないんですもの」と彼女はいったが、突然、燃えるような 紅《くれない》の色がその顔に射してきた。頬から額、頭筋までも真赤になって、羞恥の涙が眼ににじみ出た。「まあ、あの人のことはいわないことにしましょう」

[#5字下げ]二三[#「二三」は中見出し]

 ヴロンスキイは、今ほどきっぱりした調子ではなかったけれども、すでに幾度か自分たちの状態を考察するように、彼女に話を向けたものであるが、いつも表面的で軽はずみな彼女の考え方にぶっつかるのであった。今も彼女はその調子で、彼の申し出に答えたわけである。そこにはなにかしら、彼女が自分にもはっきりさせることのできない、否、させたくないようなものがあるらしかった。彼女がその話をはじめるたびに、本当のアンナはどこか、自分自身の内部へひっこんでしまって、彼にとって縁のない、彼の嫌いな、彼の恐れている、奇妙な、別の女が姿を現わして、彼に楯《たて》つくのであった。しかし、今日は彼もすっかりいってしまおうと決心した。
「あの人が知っているにせよ、知らないにせよ」とヴロンスキイは持ち前のしっかりした、おちついた調子でいった。「あの人が知っているにせよ、知らないにせよ、そんなことは僕たちに、なんのかかわりもありゃしません。僕たちは……あなたはこのままでいるわけにいきません、ことに今となっては」
「じゃ、あなたはどうしろとおっしゃるんですの?」と彼女は依然たる軽い嘲笑の調子でたずねた。男が自分の妊娠を軽く受けとりはしないかと恐れていた彼女が、今度は男がそのために何か企てねばならぬという結論をひきだしているのをみて、いまいましくなったのである。
「あの人になにもかも打ち明けて、あの人を棄てて行くのです」
「たいへん結構ですわ。まあ、かりにわたしがそうするとして」と彼女はいった。「それからどうなるかおわかりになって? わたし今からなにもかも話してお聞かせしますわ」たった今まで優しかった彼女の限の中に、毒々しい光が燃えはじめた。「《あなたはほかの男を愛して、その男と罪ふかい関係を結んだんですな?》」彼女は良人の口まねをしながら、カレーニンがいつもするように、罪ふかい[#「罪ふかい」に傍点]という言葉に力を入れた。「《私は宗教、民法、家庭の面において、いかなる結果が生ずるかを、あなたに警告しておきました。ところが、あなたは私のいうことを聞かなかったのです。いまさら私は自分の名を、汚辱にゆだねるわけにいきません……》」彼女は《自分の息子をも》といいたかったのであるか、わが子を冗談事にひきだすわけにいかなかった。「《自分の名を汚辱にゆだねるわけにいかない……》まあ、こんなふうのことを、まだ何かいうでしょうよ」と彼女はつけたした。「だいたいまあ、あの人は持ち前の国士ぶった態度で、明瞭正確に、わたしを手放すことはできないが、しかしできるだけの手段を講じて、外聞の悪いことを避けるようにする、というでしょう。そして、自分のいったことを、おちつきはらって几帳面《きちょうめん》に実行するに違いありません。そういうことになるんですの。あれは人間じゃなくて機械です。しかも、意地のわるい機械ですわ、怒ったときにはね」と彼女はつけ加えたが、その時カレーニンの姿や話しぶりを、こまごましたところまで一つ残らず思い起して、その中に見出しえる限りのものを良人の罪に擬《ぎ》し、自分が良人にたいして犯した恐るべき罪悪のために、かえって何一つ良人を赦そうとしないのであった。
「しかし、アンナ」とヴロンスキイは、彼女をなだめようと努《つと》めながら、相手を説伏しなければやまぬような、しかし物柔らかい声でいいだした。「それにしても、あの人にいわなくちゃならない、そのうえではじめて、あの人のとる方法に従って善処すべきだよ」
「どうするの、駆落ちするの?」
「駆落ちしたってかまわないじゃありませんか。僕はこのままでつづけていけるとは思われない……それも自分のためじゃない――あなたが苦しんでいるのが、目に見えているんだから」
「そう、駈落ちして、あなたの情婦になるんでしょう」と彼女は毒々しくいい放った。
「アンナ」と彼は優しく咎めるような調子でいった。
「そうよ」と彼女はつづけた。「あなたの情婦になって、なにもかも破滅させてしまうんだわ……」
 彼女は、息子をもといいたかったのだが、この一語を口にすることができなかった。
 あの強い潔白な性情をもっているアンナが、どうしてこの偽りの状態を忍びながら、そこから出て行こうとしないのか、ヴロンスキイには合点がいかなかった。しかし、そのおもな原因が、彼女の口に出すことのできない息子という一語にあることが、彼には察しられなかったのである。わが子のこと、その父親をすてた母親に対する将来の関係のことを考えると、彼女は自分のしたことが空恐ろしくなって、もはや冷静に判断しようとせず、ただもう女らしく、すべてをもとのままにして、息子がどうなるかという恐ろしい問題を忘れたい一心に、虚偽の理屈や言葉で自分を安心させようとするのであった。
「わたしお願いするわ、哀願するわ」突然、彼女は男の手をとって、今までとはころりと違った、真実みのある優しい声でいった。「この話はもう二度としないでちょうだい!」
「でも、アンナ……」
「決して二度とね。万事わたしにまかせてちょうだい。自分の立場の卑しさも恐ろしさも、わたしはよっく知っているのですけれど、それはあなたの考えてるほど、たやすくきめられるものじゃないわ。だから、わたしにまかせて、わたしのいうことを聞いてちょうだい。もうわたしに向って、その話は二度としないでね。約束して下さる?……だめ、だめ、約束して!」
「そりゃなんでも約束するけれど、僕はどうしても平気でいられない、ことにいま君のいったことを聞いたあとでは。君が平気でいられないのに、僕だって平気でいられまいじゃないか……」
「わたし?」と彼女はおうむがえしにいった。「そう、わたしもときには苦しみますわ。でも、あなたが二度とこの話をもちだして下さらなければ、こんなこともそのうちになんとかなりますわ。あなたかそのことをいいだしなさると、ただわたしを苦しめるばかりよ」
「わからないなあ」と彼はいった。
「わたしにはわかっていますわ」と彼女はさえぎった。「あなたみたいに潔白な人は、嘘をつくのがさぞ苦しいでしょう。そう思って、わたしあなたがお気の毒なの。わたしよくそう思うんですけど、あなたはわたしのために、自分の一生を台なしになすったのねえ」
「僕もいまちょうどそのことを考えてたんだ」と彼はいった。「君も僕のために、なにもかも犠牲にしてくれたねえ。君が不幸だということで、僕は自分で自分を赦すことができない」
「わたしが不幸なんですって?」男の方へ身をよせて、歓喜の微笑でその顔を見とれながら、彼女はこういった。「わたしはね、お腹のすいた人が食べるものをもらったみたいよ。そりゃ、その人は寒いかもしれません。着物も破れているかもしれません、恥ずかしいかもわかりません。でも、その人は不幸じゃありませんわ。わたしが不幸なんですって? いいえ、これがわたしの幸福なんだわ……」
 ふと近づいてくるわが子の声を聞いて、彼女は素早くテラスを一瞥《いちべつ》して、とっさに立ちあがった。その眼は、ヴロンスキイの見なれた火に燃えだした。彼女は敏捷な身ぶりで、いっぱい指輪のはまった美しい両手を上げ、男の頭をはさんで、じいっと長いこと見つめていたが、笑みを含みながら、唇を開いて、顔を近づけ、すばやくその口と両方の眼に接吻して、つき放した。彼女は行こうとしたが、ヴロンスキイがそれをひきとめた。
「いつ?」有頂天になって女をながめながら、彼は小声できいた。
「今晩一時に」と彼女はささやき、ほっと重い息をつくと、例の軽く早い足どりで、わが子を迎えに行った。
 セリョージャは大公園で雨にあい、保姆《もり》と二人で四阿《あずまや》に坐っていたのである。
「では、さよなら」と彼女はヴロンスキイにいった。「もう急いで競馬場へ行かなくちゃだめよ。ベッチイがわたしを迎えにくるって約束なの」
 ヴロンスキイはちらと時計を見て、そそくさと出て行った。

[#5字下げ]二四[#「二四」は中見出し]

 カレーニン家のバルコンで時計を見た時、ヴロンスキイはひどく不安な気がして、自分の考えたことに気をとられていたため、文字盤の針を見ながら、いったい何時かわからなかった。彼は国道へ出て、ぬかるみの中を用心ぶかく歩きながら、自分の馬車の方へ行った。彼の心は、アンナに対する感情でいっぱいだったので、いったいいま何時やら、ブリャンスキイのとこへ寄る暇があるのやら、ないのやら、なんにも考えなかった。よくあることだが、何のあとには何をすることにきまっているという、外部的な記憶力しか残っていなかった。もう影の斜めになっている茂った菩提樹の下で、馭者台の上に居眠りしている自分の馭者に近づいて、汗ばんだ馬の上で縒《よ》れつ縺《もつ》れつしている蚊や、ぶよ[#「ぶよ」に傍点]にしばらく見とれた後、馭者を起し、馬車に飛び乗って、ブリャンスキイのとこへやれといいつけた。七露里ばかり行った時、やっといくらか正気づいて、時計を見たところ、もう五時半だとわかって、こいつは遅れたぞ、と思った。
 この日は幾種類かの競馬があった。まず護衛兵の競馬、それから将校の二露里競馬、四露里競馬、そのあとが彼の参加している障碍物であった。自分の競馬には間《ま》にあうことができたけれども、もしブリャンスキイのとこへ行ったら、もうやっとこさで、それも陛下や扈従《こじゅう》の臨御されたあとへ着くようになる。それはよろしくなかった。しかし、ブリャンスキイにはぜひよると約束したので、彼はつづけて先へ行くことにし、馭者には三頭立に容赦しないように命じた。
 ブリャンスキイの家へ着くと、五分ほどいたばかりで、もと来た道へひっ返した。この疾駆《しっく》は彼の気持をおちつけた。アンナとの関係にふくまれた重苦しいいっさいのものも、二人の話のあとに残った宙ぶらりんなものも、すべて彼の頭から吹っ飛んでしまった。今や彼は楽しい興奮をいだきながら、競馬のことや、とにかく間にはあうということを考えた。そして、時おり、今夜のあいびきの幸福を期待する念が、あざやかな光のように、想像裡に燃えあがるのであった。
 別荘帰りの馬車や、ペテルブルグから競馬に行く馬車を追い越し追い越し、競馬場の雰囲気へしだいに近づくにしたがって、目前に控えた競馬を思う気持が、いよいよ彼の全幅を領していった。
 彼の宿舎には、もうだれ一人いなかった――みんな競馬へ行ってしまったので、従僕は門のそばで彼を待ちわびていた。彼が着替えしている間に、従僕はもう二番の競馬が始ったこと、大ぜいの旦那が彼のことをたずねに来たこと、厩舎からは二度もボーイが駆けつけたこと、などを報告した。
 急がず騒がず着替えをして(彼は決して急いだり、自制心を失ったりすることかなかった)、ヴロンスキイはバラックへ馬をやるように命じた。バラックからは、もう競馬場をとり囲んでいる馬車、徒歩の人、兵隊などの海が見え、人でわきたっている桟敷が見渡された。どうやら、第二番の進行中らしかった、というのは、彼がバラックに入った時、鈴《りん》の音が聞えたからである。厩に近づくと、マホーチンの持ち馬で、脚の白い栗毛のグラジアートルに出あった。青い縁《ふち》飾りがついているために耳の大きく見える、だいだい色に青の馬衣を着せられて、競馬場へ曳かれて行くところであった。
「コードはどこにいる?」と彼は馬丁にたずねた。
「厩の中にいます、鞍をおいてるところで」
 戸の開いた仕切りの中で、フルー・フルーはもう鞍をつけていた。これから曳き出すところであった。
「遅れなかったね?」
「All right! All right! なにもかもちゃんとしております、ちゃんとして」とイギリス人は答えた。「どうか興奮なさらんで下さい」
 ヴロンスキイはもう一度、全身をふるわしている愛馬の美しい姿を一瞥した後、やっとの思いでこの見ものから目を放しながら、バラックを出た。彼はだれの目もひかないように、ちょうどいいころあいに桟敷へ乗りつけた。たった今、二露里競馬が終ったばかりで、一同の眼は最後の力を揮《ふる》って馬を追いながら、決勝点へ近づいている先頭の近衛騎兵と、それにつづく軽騎兵にそそがれていた。輪《わ》の中からも外からも、人々は決勝点へひしめき寄った。近衛騎兵の一団は兵隊も将校も、自分たちの将校であり同僚である人の優勝を期待しながら、喊声《かんせい》を上げて、喜びを表現していた。勝負の終りを告げる鈴が鳴り渡るとほとんど同時に、ヴロンスキイは群衆の中へ気づかれぬように入った。と、泥のはねだらけになった、背の高い一着の近衛騎兵は、鞍の上につっ伏して、苦しそうな息をしている、汗で黒ずんだ、灰色の牡馬の手綱をゆるめはじめた。
 牡馬は懸命に足をつっぱりながら、大きな体の速度を縮めた。すると、近衛騎兵は重苦しい夢からさめたもののように、あたりを見まわし、かろうじて微笑をもらした。同じ隊や他の隊の人々が、どっとばかり彼をとり囲んだ。
 ヴロンスキイは、桟敷の前を控えめな、しかも自由な態度で動きまわったり、話をしたりしている、一粒選りの上流の人々を、わざと避けるようにしていた。彼はそこにカレーニナも、ベッチイも、兄の妻もいることを知ったが、ほかのことに気をまぎらさないために、わざと彼らのそばへ行かなかった。けれども、ひっきりなしに出会う知人たちは、済んだ競馬の詳細を物語ったり、なぜおくれたのかとたずねたりした。
 優勝者が賞品をもらいに桟敷へ呼ばれて、一同がその方へふりむいた時、ヴロンスキイの兄のアレクサンドルが近よって来た。参謀肩章をつけたこの大佐は、あまり背が高くなく、アレクセイと同様にがっしりした体格だったが、それよりさらに美男で、酔って赤い鼻をしていたけれども、開けっぱなしなバラ色の顔をしていた。
「おまえは僕の手紙を受け取ったかね?」と彼はいった。「おまえはいつ行ってみても、つかまらないんだからなあ」
 アレクサンドル・ヴロンスキイは、放縦な、ことに酒びたりの生活で有名だったが、それにもかかわらず、完全に宮廷風の人間であった。
 今も彼は弟を相手に、きわめておもしろからぬ話をしようとしながら、多くの人々の目が自分たちにそそがれるおそれがあるのを知っていたので、何かつまらないことで弟と冗談をいってでもいるように、笑顔をつくっていた。
「受け取りましたがね、全くのところ、何をあなたが[#「あなたが」に傍点]やきもきされるのか、とんと合点がいきませんよ」とアレクセイはいった。
「僕がやきもきするのはほかでもない、今もおまえがいないことに気がついたし、月曜日にもペテルゴフでおまえに会った人があるという、そのことなんだよ」
「しかし、世の中には、その直接の当事者のみが審議《しんぎ》すべきことがありますからね。あなたのやきもきなさることは、やはりそういった……」
「そう、しかしその時は勤めなんかしないで……」
「僕は干渉しないで下さいとお願いしてるんです、それっきりですよ」
 アレクセイ・ヴロンスキイの眉をひそめた顔は、さっと蒼くなり、つき出た下頤がぴくっとふるえた。こんなことは、彼としては珍しいことであった。彼はきわめて善良な心をもった人の常として、めったに怒ることはなかったけれども、いったん腹をたてて、下頤がふるえると、危険な男になってくるのを、アレクサンドル・ヴロンスキイは心得ていた。アレクサンドル・ヴロンスキイは、愉快そうに微笑した。
「僕はただ、お母さんの手紙を渡そうと思っただけだよ。お母さんに返事を出しなさい。そして、競馬の前に気分を乱しちゃいけないよ。Bonne chance(幸運を祈るよ)」と彼はにこにこしながらつけ加えると、そばを離れてしまった。
 そのあとで、またもや親しげなあいさつの声が、ヴロンスキイをひきとめた。
「君は友人を無視する気なのかい! ごきげんよう、mon cher!(君!)」とオブロンスキイが声をかけた。この燦然《さんぜん》たるペテルブルグの上流人の中でも、モスクワにいる時に負けず劣らず、バラ色の顔と、きれいにつやつやと撫でつけられた頬髯を輝かしている。「昨日やって来たんだがね、君の勝利を見ることができて、非常にうれしいよ。いつ会えるかね?」
「あす集会所へ来てくれたまえ」とヴロンスキイはいい、失礼を謝しながら、外套の袖に握手して、競馬場のまんなかへ行った。そこでは大障碍物競走の馬が、もう曳き出されていた。
 競走をすまして、汗みどろにへとへとになった馬は、馬丁に曳かれて連れて行かれ、次の競走に出る新しい元気な馬が、あとからあとからと姿を現わした。多くはイギリス種で、頭被をかぶり、腹のぐっと緊《し》まっているところでは、大きな怪鳥《けちょう》のようにおもわれた。全体にひきしまった美女フルー・フルーが弾力のこもったかなり長い脛《はぎ》を、バネ仕掛けのように踏みかわしながら、右手へ曳かれて行った。フルー・フルーから遠くないところでは、耳のたれたグラジアートルが、馬衣をとってもらっていた。すばらしい尻をして、蹄《ひずめ》のすぐ上にのっているような感じのする、度はずれに短い脛《はぎ》をもったこの牡馬の、完全に均斉《きんせい》のととのった、大柄な美しい姿は、思わずヴロンスキイの注意をひきとめた。彼は自分の馬の方へ行こうとしたが、またもや知人にとめられた。
「ほら、あすこにカレーニンがいるよ」とその知人は、話をしている途中でこういった。「細君をさがしてるんだ。ところが、細君は桟敷のまんなかにいるんだが、君、会ったかい!」
「いや、会わなかった」とヴロンスキイは答え、知人が指さしたカレーニナのいる桟敷の方へふりむかず、自分の馬に近よった。
 ヴロンスキイが指図しようと思っていた鞍を見る暇もないうちに、騎手たちは番号札を受け取りに桟敷へ行って、それから出発せよと呼び出された。真剣な、厳しい、多くは蒼白な顔をした十七人の将校は、桟敷に集って、番号を抽《ひ》いた。ヴロンスキイは十七番に当った。「乗馬!」という声が聞えた。
 自分がほかの騎手たちとともに、衆目の焦点になっているのを感じて、ヴロンスキイは緊張した気持で、自分の馬に近づいた。彼は緊張すると、おおむね動作がゆっくりして、おちつくのであった。調馬師のコードは晴れの競馬だというので、よそ行きの服を着ていた。それは、ボタンをきっちりかけた黒のフロックコートに、頬をつき上げる糊のきいたカラア、黒の山高帽に、騎兵靴であった。彼は常のごとく、ゆったりとものものしい態度で、フルー・フルーの前に立って、手ずから両方の手綱をおさえていた。馬は依然として、熱病にでも罹《かか》ったようにふるえていた。焔にみちた眼は、近づいてくるヴロンスキイの方へ、ぐっと斜《はす》に向けられた。ヴロンスキイは、腰帯の下へ指を一本さしこんでみた。馬はいっそう眼をやぶにして、歯をむき出し、一方の耳をねかした。イギリス人は唇を皺めた。自分のつけた鞍を検査などするのに対して、冷笑を示そうと思ったのである。
「早くお乗りなさい。そのほうがわくわくしませんから」
 ヴロンスキイは最後にもう一度、自分の競走者たちを見まわした。いったん走り出したら、もう見られないことを知っていたのである。二人は早くも衆に先んじて、スタートの方へ馬を進めていた。危険な競争者の一人であり、ヴロンスキイの友人であるガリツィンは、自分を乗せようとしない栗毛の牡馬のまわりを、うろうろしていた。細い乗馬ズボンをはいた小柄な近衛軽騎兵は、イギリス人のまねをしようと思って、猫のように馬の背中に身をかがめながら、※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]《だく》ですすんでいた。クゾヴリョフ侯爵は真蒼な顔をして、グラーボフ牧場産の純血種の牝馬に乗り、イギリス人に轡《くつわ》をとらしていた。ヴロンスキイも同僚一同も、クゾヴリョフの癖を知っていた。神経が『弱い』くせに恐ろしく自尊心が強いのであった。一同は、彼がなんでもかでも恐れることを知っていた。彼は軍馬を走らせるのを恐れているくせに、今は軍馬で競走することに決心したのである。それはほかでもない、それが恐ろしいことであるのと、よく人が頸の骨を折るのと、障碍物の一つ一つに軍医がおり、赤い十字を縫いつけた病院車や、看護婦が控えているからであった。二人は目と目を見合わせた。ヴロンスキイは賛成といったように、愛想よく彼に瞬きして見せた。ただ一人、最も主な競争者である、グラジアートルに乗ったマホーチンだけは、そこに見あたらなかった。
「お急ぎにならないで」とコードはヴロンスキイにいった。「そして、一つだけ覚えていていただきたいのは、障碍物の前で手綱をしめても、ゆるめてもいけないということです。馬のするままにさせてお置きなさい」
「よろしい、よろしい」とヴロンスキイは手綱をとっていった。
「もしできれば、先頭にお立ちになることですが、たとえあとになっても、最後の一分まで自暴《やけ》になっちゃいけません」
 馬が動く暇のないうちに、ヴロンスキイはしなやかな力強い動作で、刻み目を入れた鋼鉄の鐙《あぶみ》に片足かけ、ひきしまった体をぎいぎい音の鞍の上に、軽々と、しかもしっかりおちつけた。右足を鐙にはめ、二重になった手綱を、慣れた手つきで指の間に巧《うま》くおさめた。すると、コードは手を放した。どの脚から先に踏出したらいいかわからないように、フルー・フルーは長い頸で手綱をひっぱったと思うと、バネ入りのようにしなやかな背の上で、乗り手を軽く揺りながら歩き出した。コードは歩度を速めながら、あとからついてきた。興奮した馬は、乗り手をだまそうとしながら、左右かわるがわる手綱を引いた。ヴロンスキイはそれをなだめようとして、声と手で空しい努力をするのであった。
 もう彼らは、スタートになっている場所をさして、堰《せ》き止めてある川のそばへ近づいていた。騎手は前の方にも、うしろの方にも、大ぜいいたが、突然ヴロンスキイは自分のうしろから、ぬかるみの道を※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]《だく》で走ってくる馬蹄の音を聞きつけた。と、あの脚が白くて、耳の大きいグラジアートルに跨《また》がったマホーチンが、彼を追い越した。マホーチンは大きな歯をむき出しながら、にっこり笑った。けれど、ヴロンスキイは怒ったように彼をじろっと見た。概して、彼はこの男を好かなかったが、今は彼を最も危険な競争者と見なしていたので、彼がそばを駆けぬけて、自分の馬を逸《はや》らせるのがいまいましかった。フルー・フルーは※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]《だく》の姿勢で、右脚をさっと上げると、二つばかり跳ねた。そして、手綱がしまっているのに腹をたてて、速足に移り、騎手を揺り上げ、揺り上げしはじめた。コードも同じく眉をひそめ、しゃれた足つきで、ほとんど走るように、ヴロンスキイのあとを追った。

[#5字下げ]二五[#「二五」は中見出し]

 競走に加わった将校は、全部で十七人であった。競馬は、桟敷の前面にひろがった周囲四露里もある、大きな楕円形の囲いの中で行われることになっていた。この囲いの中に、九つの障碍物が設けてあった。河、桟敷のすぐ前にある高さ三尺の板を張った大きな柵、水のない溝、水のある溝、斜面、アイルランド式の踏※[#「土へん+朶」、第3水準 1-15-42]《バンケット》(それは、枯枝を一面に突き刺した土坡《どは》で、一番むずかしい障碍物の一つであった)、そのかげに――馬の目に見えないように――もう一つ溝が設けてあったので、馬は一度に二つの障碍物を跳《と》び越すか、命を落すかしなければならなかった。そのあとになお二つの溝――水のあるのとないのとがあって、決勝点は桟敷の反対側になっていた。けれど、競馬のスタートは円周の中ではなくて、それより百間ばかり離れたわきのほうになっていた。しかも、これだけの距離の間に、第一の障碍物があった――それは、幅七尺ばかりの水を堰《せ》いた河で、跳《と》び越そうと歩いて渡ろうと、騎手たちの随意になっていた。
 騎手たちは、三度ばかり一列に並んだが、そのたびにだれかの馬が前に乗り出すので、またしてもはじめからやりなおさねばならなかった。スタートの名人になっているセストリン大佐は、もう癇癪を起しかけたが、四度目にやっと号令をかけることができた。「進めえ!」――と、騎手たちはいきなりぱっと飛び出した。
 すべての目、すべての双眼鏡は、騎手たちがスタートで列を作りはじめた時から、色さまざまなその一団に向けられていた。
「そら出た! 走り出した!」期待の沈黙がつづいたあとで、あちらからもこちらからも、こういう声々が聞えた。
 群を作っているのや、一人一人別になっている立ち見の連中は、すこしでもよく見えるように、ちょこちょこ歩きながら、あっちこっち場所を変りはじめた。騎手の集団は、もう最初の瞬間から少し延びて、あるいは二人ずつ、あるいは三人ずつ、あとからあとからと川へ近づくのが見えた。観衆の目には、みないっしょに駆け出したように見えたが、騎手たちにとっては重大な意義を有する一秒、ないし二秒の差があったのである。
 興奮しているうえに、あまり神経質すぎるフルー・フルーは、最初の瞬間を逸したので、幾頭かの馬にスタートを先んじられたが、まだ川まで走り着かないうちに、ヴロンスキイは、むやみに手綱をぐんぐんとひく馬を、一生懸命におさえながら、苦もなく三頭を抜いてしまった。
 もう彼の前には、すぐ鼻の先で軽々と尻で拍子をとっている、マホーチンの栗毛グラジアートルと、一番のトップを切っている美しいジアナと、この二頭だけになった。ジアナは、生きた心地もないクゾヴリョフを乗せて、走っていた。
 はじめ幾分かのあいだ、ヴロンスキイはまだ自分をおさえることも、馬を制御することもできなかった。第一障碍物の川に着くまでは、馬の運動を指導できなかった。
 グラジアートルとジアナは、いっしょに川へ近づいて、ほとんど同じ瞬間にさっと河の上へ飛びあがり、向かい側へ跳《おど》り越した。フルー・フルーは目にも止まらぬ早業で、さながら空とぶ鳥のように、二頭のあとから高く舞いあがった。ヴロンスキイは、体が空中へもちあがったなと感ずると同時に、思いがけなく自分の馬のほとんどすぐ下に、川の向こう側でクゾヴリョフがジアナといっしょに、ばたばたもがいているのに気がついた(クゾヴリョフは跳んだあとで、手綱をゆるめたので、馬は彼を乗せたままもんどりうったのである)。ヴロンスキイがこの顛末《てんまつ》を知ったのはあとのことで、その時はただ、フルー・フルーが足をおろすべき場所が、ジアナの足か頭かにあたりはしないかと、それを気づかっただけである。けれど、フルー・フルーは、ちょうどおちていく猫のように、跳躍のあいだに足と背に力を入れて、馬をよけて飛びおり、そのまま先へ突進した。
『おお、かわいいやつ……』とヴロンスキイは考えた。
 川を越してからは、ヴロンスキイは完全に馬を自由に扱えるようになった。で、大きい柵はマホーチンのあとから越して、その先の無障碍区間二百間ばかりのところで、彼を追いぬいてみようと計画しながら、馬をひきしめにかかった。
 大障碍の柵は玉座のまん前にあった。彼らが悪魔(この板張りになった柵は、こういう綽名《あだな》をつけられていた)のそばへ近づいた時、皇帝も、廷臣一同も、群衆も――あらゆる人が彼ら二人、ヴロンスキイと、一馬身だけ先に立っているマホーチンを見つめていた。ヴロンスキイは、四方からそそがれているこれらの視線を身に感じながら、何一つ目に止まらなかった。彼が見ているのは、ただ自分の馬の耳と頸、それに向こうからこちらを目がけて飛んでくる地面と、彼の前で目まぐるしく拍子をとりながら、いつも同じ距離を保って行くグラジアートルの胴体と、白い足ばかりであった。グラジアートルは飛びあがったかと思うと、何一つぶっつかった音も立てず、短い尾をひとふりして、ヴロンスキイの視界から消えてしまった。
「ブラーヴォ!」とだれかの声が叫んだ。
 その瞬間、ヴロンスキイのすぐ前、というより彼の眼の下に、柵の板がちらと見えた。馬は運動にいささかの変化を示さないで、彼を乗せたまま舞いあがった。板は隠れた。ただうしろで、何かがたりと音がしただけである。先頭に進んでいるグラジアートルのために逸《はや》り立ったフルー・フルーは、柵の手前で、あまり早く飛びあがったので、後足の蹄《ひづめ》で板を打ったのである。けれど、彼女の歩調は狂わなかった。ヴロンスキイは、泥の塊《かたま》りを顔にはねつけられながら、またグラジアートルと同じ距離になったのを悟った。彼はまたしても自分の目の前に、グラジアートルの胴体と、短い尻尾と、相変らず遠ざかりもせず迅速に動く白い足を見た。
 ヴロンスキイが、今こそマホーチンを追いぬかなければと思った同じ瞬間に、フルー・フルーは早くも彼の意中を察して、まだなんの合図も受けないうちに、ぐんと歩度を加え、いちばん有利な側面――縄を張ってある方からマホーチンに近づきはじめた。けれど、マホーチンは縄の方へ近づけないようにした。ヴロンスキイが外側からでも抜けると考えるが早いか、フルー・フルーはもう足を変えて、そのとおりに追い越しはじめた。もう汗で黒ずみかけたフルー・フルーの肩は、グラジアートルの胴体と並行した。しばらくのあいだ彼らは並んで走った。けれど、やがて近づいて来た障碍物の手前で、ヴロンスキイはあまり大きく外廻りをしないように、手綱を操《あやつ》りながら、斜面の上ですばやくマホーチンを追い越した。泥のはねで汚れた相手の顔が、ちらっと彼の目に映った。相手がにやりと笑ったようにさえ思われた。ヴロンスキイはマホーチンを抜いたが、それでも自分のすぐうしろに敵手の存在を感じ、背中のすぐそばに拍子ただしい蹄の音をたえまなく聞き、きれぎれな、まだなまなましいグラジアートルの息を感じた。
 つづく二つの障碍物――溝と柵は、難なく越された。しかし、ヴロンスキイの耳には、グラジアートルの鼻息と蹄の音が、いっそう近く聞えて来た。彼は馬に拍車《はくしゃ》を入れた。と、フルー・フルーがやすやすと速力を加えたのを感じて、喜びを禁じえなかった。グラジアートルの蹄の音は、ふたたび前と同じ距離で聞えはじめた。
 ヴロンスキイは先頭になった。それは自分でも望んだことだし、コードもすすめたことである――今では彼も成功を信じて疑わなかった。彼の興奮と喜びと、フルー・フルーに対する優しい愛情は、次第に強くなって行った。あとをふり返って見たくてたまらなかったけれど、思い切ってそうすることができなかった。そして、グラジアートルに残っていると感じられただけの余力を、自分の馬にも蓄えておくために、なるべく気をおちつかせるようにしながら、馬にも拍車を入れないようにつとめた。ただ一つ、しかも最も困難な障碍物が残っていた。それさえまっさきに越したら、彼は第一着となるに相違ない。彼はアイルランド式踏※[#「土へん+朶」、第 3水準 1-15-42]《バンケット》を目ざして突進した。彼はフルー・フルーといっしょに、まだ遠くの方からこの踏※[#「土へん+朶」、第 3水準 1-15-42]《バンケット》を見た。と、彼らは両方とも、人も馬も、一瞬間、疑惑に襲われた。彼は馬の耳に躊躇の動きを認めて、鞭をふり上げた。けれどもすぐに、その疑惑は根拠のないものだと感じた。馬はなすべきことを心得ていた。フルー・フルーはぐっと身を乗り出すと、彼が予想したのと寸分たがわず正確に一跳ねして、大地を蹴ったまま惰力に身をまかせ、その力に乗って、遠く溝の向こう側まで飛んでいった。それから、フルー・フルーはなんの努力もなく、同じ調子、同じ足どりで疾走をつづけた。
「ブラーヴォ! ヴロンスキイ!」障碍物のそばに立っていた一団の人々のこう叫ぶ声が、彼の耳にも聞えた――彼は同じ連隊仲間の声だと承知していた。彼は、ヤーシュヴィンの声をいやでも聞き分けたが、その姿は見えなかった。
『おお、なんてかわいいやつだ!』と彼はうしろの気配に耳を澄ましながら、フルー・フルーのことを考えた。『越しやがったな!』うしろにグラジアートルの跳躍の音を聞きつけて、彼はこう考えた。もう残っているのは、幅四尺五六寸の、水をたたえた最後の溝が一つだけであった。ヴロンスキイはもう、そんなものなど眼に入らなかった。彼は大きく差をつけて、一着になりたいと思ったので、疾走の勢いにうまく拍子をあわせて、馬の頭を上げたり下げたりしながら、円形を描くように手綱をさばきはじめた。馬が最後の力を出しながら、走っているのを感じた。馬は肩や頸をびっしょり濡らしているばかりでなく、たてがみや頭や尖った耳の上にも、汗が玉をなして滲《にじ》み出していた。彼女ははっはっと呼吸していた。けれど、この最後の力だけでも、残りの二百間には十分なのを、彼は承知していた。ヴロンスキイは、自分の体がいっそう地面に近づいたように感じたのと、一種特別な柔らかい動き方によって、自分の馬がうんと速力を加えたのを知った。小溝などは、まるで気もつかぬように飛び越えた。まるで小鳥のように飛び越えたのである。
 けれども、ちょうどその瞬間に、ヴロンスキイは自分が馬の運動に従わないで、自分でもどういうことかわけがわからなかったが、鞍の上に尻を落して、騎手として許すことのできないような拙《つたな》い動作をした。彼はそれを感じてぎょっとした。と、たちまち彼の姿勢が変った。彼は、何か恐ろしいことが起ったのを感じた。まだ何ごとか起ったのか、はっきり思いめぐらす暇もないうちに、早くも栗毛の牡馬の白い足が彼のすぐそばに閃き、マホーチンが全速力で駆けぬけて行った。ヴロンスキイの片足が地面にふれた。そして、馬の体がその上に倒れかかった。彼がやっとのことで足を抜くか抜かぬかに、馬は横だおしに打ち倒れて、苦しげにぜいぜい喘《あえ》ぎながら、起きあがろうと努力して、その細い汗みどろの頸を空しくさしのべるのであった。彼女はまるで弾丸《たま》を受けた小鳥のように、彼の足もとでばたばたと身をもがいた。ヴロンスキイの拙《つたな》い動作が、背骨を折ったのだ。けれども、彼がそれを悟ったのは、ずっと後のことである。いま彼が感じたのは、マホーチンが見るみるうちに遠ざかって行くことと、自分がじっと動かぬ汚ない地面に、よろよろしながら立っていることと、フルー・フルーが苦しげに息をつきながら、彼の前に身を横たえて、主人の方へ頭をねじむけながら、その美しい眼で見つめていること、ただそれだけであった。ヴロンスキイはそれでもまだ、どうしたことやら、はっきり合点がいかないで、馬の手綱をぐいとひっぱった。馬はまた小魚のように全身びくびくさして、鞍の両翼をはためかせながら、前足を立てようとしたが、尻を持ち上げるだけの力がなく、すぐによろよろとなって、また横だおしに倒れてしまった。ヴロンスキイは、興奮のあまり醜くなった顔を真蒼にしながら、下顎をがくがくふるわせ、靴の踵で馬の腹を蹴って、またもや手綱をひっぱりはじめた。けれども、馬は動かなかった。鼻面を土の中へおしつけて、例のものういような眼つきで、ただじっと主人を見上げるばかりであった。
「あああ!」とヴロンスキイは両手で頭を抱えながら、うめき声を立てた。「あああ! おれはなんということをしたんだ!」と彼は叫んだ。「競馬には負けてしまった。しかも、それはおれ自身の罪なのだ、恥ずかしい、許すべからざる罪なのだ! おまけに、あたらかわいい馬を台なしにしてしまった! あああ! おれはなんということをしたんだ」
 大ぜいの人や、医者や、看護手や、同じ連隊の将校たちが、彼の方へ走ってきた。なさけないことに、彼は自分が無事で、少しも負傷していないのを感じた。馬は背骨を折っていたので、射殺ということにきまった。ヴロンスキイは、人々の質問に答えることもできなければ、だれ[#「だれ」は底本では「たれ」]一人に口をきくこともできなかった。彼はくるりと踵《くびす》を返すと、頭から落ちた帽子を拾おうともしないで、自分でもどこへという考えなしに、さっさと競馬場を出ていった。彼は自分を不幸な人間と感じた。彼は生れてはじめて極度の苦しい不幸――自分が因《もと》となったとり返しのつかない不幸を、身に体験したのである。
 ヤーシュヴィンは帽子を持って彼に追いつき、家まで送っていった。三十分の後、ヴロンスキイはわれに返った。しかし、この競馬の思い出は、彼の生涯のうちで最も重苦しく、悩ましい追憶として、永久に彼の心に残ったのである。