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パイプは長靴の胴へ、袋は行李の中へかくし、叉銃を解いて整列した。将校連はボタンをかけ、軍刀や背嚢をつけ、大きな声でどなりながら列の間を廻っている。輸卒や従卒は馬を車欄につけたり、行李を積みこんだり縛ったりしている。副官や、大隊長、連隊長は馬にまたがり、十字を切り、最後の命令や訓戒や、居残るべき輜重兵に対する事務を授けている。やがて、数千人の単調な足音が響きだした。縦隊は四方に立ち重なる兵卒や、煙や、しだいに濃くなりまさる霧のために、出てきた場所もこれから踏みこもうという道も見分け得ず、どこへ行くかも。知らないで動いて行くのであった。 (行軍中の兵士は船中の水夫の如く、常に自分の連隊によって 囲饒され、制限され、牽引されている。どんなに遠く進んで も、いかに未知の危険な曠野へ踏みこもうとも、船員にとって いつも到るところに、自分の船の同じ甲板、同じマスト、同じ 帆綱が存在する如く、いつも到るところ同じ戦友、同じ列、同 じ軍曹イヴァソーミートリッチ、同じ中隊の飼犬ジューチカ、 同じ上官がついて廻る。)丘(士らは、自分の船ぜんたいをかこ む広漠たる世界を、しいて知ろうと望まない。けれど、戦闘の 当日は軍隊の内面的世界に、なにかしらIさいを決定する、も のものしい或るものの接近を語るような、各人共通の峻敝な音 調が、どこからどうしてともかく聞え始め、兵士らに个相応な 好奇心をそそる。戦闘当日の兵士らは興奮し、連隊の興味以外 へ突出しようとあせり、耳を澄まし眼を昿って、自らの周囲に 行われる事を、根掘り葉掘りして聞くものである。 霧は非常に深く、もはや夜が明け始めたにもかかわらず、十
歩さきはなにも見えなかった。藪が大きな木立に見え、平坦な場所が断崖や傾斜に見えた。どこへ行っても、十歩の外にある眼に見えぬ敵と衝突しそうであった。しかし、各縦隊は依然おなじ霧に包まれたまま、山を登ったり下ったり、庭や墻のそばを通りぬけたりしながら、不案内な初めての土地を長いこと進んだが、どこまで行っても敵に出会わなかった。それどころか、兵士らは、前にも後ろにもロシア軍の縦隊が、同じ方角をさして進むのを見透した。兵卒らは、自分と同じ方向ヘーといってもどこだかわからないけれど1大勢の味方が進んでいることを知り、愉快な気持になってきた。 「おい、どうだ、見ろ、クールクス連隊も通っていったぜ。」という話し声が列の中に起った。 「どうだ、豪勢だなあ、ロシアの軍隊がべらぼうに集まったもんだなあ! よんべ火を焚いた時に見たが、まるで向うの端が見えなかったぜ。てもなくモスクワだあ!」 縦隊の長官は誰ひとり列伍へ近よって、兵士と話をしなかった(縦隊の長官たちは軍事会議の条で述べた如く、まさに開始せんとするこの戦闘に不服で、機嫌を悪くしていたので、たんに命令を実行するというよりほかに、丘(士らを浮き立だせようなどと、よけいな心配をしなかった)。が、それにもかかわらず、丘(士らは戦闘、ことに攻撃に向かう場合O常として、米しげに行進した。しかし、依然として深い霧の中を一時間あまり進んだとき、軍の大部分は足をとめなければならなくなった。混乱と不秩序が生じたな、という不快な意識が列の間に伝かった。この意識はいかにして伝わるか、これを明言することはき
纒
一一一
第
2幻
K
わめて困難である。しかし、この意識がなみなみならぬ正確詒をもって伝えられ、凹地を走る水の如く、眼にこそ立だね、堰き止めることのできぬほど烈しい勢でひろがってゆくのは、疑をはさむ余地がない。もしそれか同盟軍をまじえないロシア軍ばかりであったら、この混乱の意識が全軍の確信となるまでには、だいぶ長い時間がかかったかもしれない。けれど、今度は、一同が特殊の満足と自然な心持をもっ气混乱の原因をわからずやのドイツ大に嫁してしまった。どうやら戦局に害をなす混乱が生じたらしいヽそれはあの腸詰屋鹹叮がしでかしたことだ、と信じきったのである。 「なんで止まったんだ? なにか邪魔をしたのかい? それとも、もうフランス軍に衝突したのかい?」 「いいや、そんな事はない。もしそうならぽんぽんやり出したはずだ。」 「ざまあ見ろ、やたらに出発を急がしといて、やっと出発したがと思うと、原ん中にぼんやり立たしゃがる。なにもかもみんなドイツ人の畜生がまぜ返しゃがるんだ。ちょっ、あのわからずやの畜生めら!」 「ほんによ、おれだったらあいつらを先へ出してやらあ、きっとあいつら、後ろの方で小さくなってるに相違ねえや。ちょっ、飯も食べずに立ってるなんて!」 「どうしたんだ、もうすぐだろうなあ? なんでも騎兵が道をふさいでるとかいう話だ。」と一人の将校か言った。 「くそっ、ドイツの畜生、自分の土地も知りやしない。」といま一人が言った。
「君たちは何師団づきかね?」通りすがりに副官が叫んだ。「十八です。」「じゃ、なぜここにいるんだ? 君らはもうとうに先へいってなくちゃたらないんだよ。こんなふうじゃ、晩までかかったって通過しきれやしない。」 「見ろ、なんて闘抜けなやり口だ。自分で何をしてるかわからないんだ。」と将校は言うなり、馬を駆って立ち去った。 そのあとから一人の将官が馬を進めてきた。そして、腹立たしげになにかロシア語と違う言葉で叫んだ。 「タフア、ラフア、ちぇっ、何をぐだぐだ言ってやがるんだ、なんにもわかりゃしねえ。」去り行く将官の口まねをしながら、一人の兵卒が言った。「あんな悪党めら撃ち殺してくれるぞ!」「八時すぎまでに向うへ着けちゅう命令だったのに、まだ半分ちきやしない。とんだ命令もありゃあるもんだ!」四方からこうくり返す声が聞えだ。 かくして、軍が出発の時に蓄えていた張りきった感じは、いつしか「わからずやの」ドイツ人の措置にたいする憤葱と憎悪の念に変りはじめた。 混乱の原因はほかでもない、左翼にあったオーストリー騎兵隊の行進中、司令長官は中央部隊があまり右翼から離れているのに気づき、騎兵隊ぜんぶが右翼へ移るように命じたのである。数千人の騎兵隊が歩兵隊の前面を通過する間、歩兵隊はじっと待っていなければならなかった。 前方では、オーストリーの縱隊長とロシアの将軍との間に衝突が始まった。ロシアの将軍は騎兵隊を停止するように叫ぶ。
芻2
と平和
戰爭
オーストリーの縦隊長は、これは司令官の命令で、自分の罪でないと言い返す。その間に軍は、退屈し、士気沮喪しながら、停止していた。小一時間の停濳ののち、軍は漸く前方に進ん。で、山を下り始めた。山上に琴れ行く朝霧も、軍の下って行く低地では、ますます深くなるばかりであった。前方の霧の中にまず一発、続いてまた一発の銃声が響き渡った。はじめのうちはさまざまな間隔をおいて、「トラック……タット」と不揃いな音であったが、やがて、しだいしだいに音調も整い、間隔も頻繁になってきた。こうしてボルト。(ツ(河辺の戦闘は開始さ・れた。 河辺の低地で敵を迎えようなどと思わなかった上に、ふいに霧の中で衝突し、上官からは激励の言葉も与えられず、各隊にひろまった『時すでに遅れたり』との意識を心に印せられ、なおそのうえ霧にとざされて、前も横も見ることのできないロシア兵は、のそのそと不承不承に敵と交射を始めた。しかも、上官や副官から機宜に適した命令を受けとることができないので、進んだり立ち止まったりしていた。また副官たちは自分の部隊を発見することができず、不案内の土地を霧にとざされてまごまごしていた。低地へ下って行った第一、第二、第三縦隊ぱかくの如くにして戦闘を開始した。クトウソフの親しく引率してしる第四縦隊は、この時、プラーツェソの高地に立っていた。 戦闘の開始された低地では、まだ濃霧が立ち罩めていたが、頭上はすでに霽れ渡っていた。とはいえ前方に起っている事は少しも見えなかった。敵ははたしてわが軍の想像した如く、十
露里も向うに主力を集めているのか。それとも、すぐそこに、この霧の中にいるのか1八時すぎまでは誰にもわからなかった。 午前九時となった。霧は一面の海原のように低地を罩めてごいたけれど、ナポレオンが部下の元帥たちにかこまれて立っているシごフパニッツ付近の高地は、もうすっかり明るかった。彼の頭上には澄み渡った瑠璃色の空があって、大きな、中身のない、真紅の浮標にほうふつとした太陽の球が、乳いろの霧の海の上をふわふわと揺れている。たんにフランス軍のみならず、当のナポレオンも司令部も、川の向う側でなくI即ち、友軍がその付近に陣地を占めて、戦闘を始めようと計画していたソコルニッツ、及びシごフパニッツ両村の低地でなく、川のこちら側、しかもナポレオンか肉眼をもってわが軍の歩兵と騎兵を見分け得るほど、ちかぢかと陣を占めていたのである。 ナポレオンは、イタリー征討のときと同じ青い外套をつけ、小さな灰色のアラビア馬に乗り、元帥だちよりやや前方に立っていた。彼は、霧の海から浮かび出ている連丘に沿うて遑かに動くロシア軍か言葉もなく見つめ、凹地に起る射撃の音に耳を澄ました。この時分まだやせていた彼の顔は、一本の筋肉すら動かなかった。らんらんたる眼はじっとIところにそそがれていた。彼の予想は誤またなかった。ロシア軍の一部は湖沼地をさして凹みへ下り、一部はプラーツェソの高地を撤兵した。この高地こそは彼が全陣地の鎖鑰として、攻撃を計画していた中心点である。ロシア縦隊が、プラーツ付近の二つの山に形づくられた峡の中で、たえず同じ方向をさして銃剣をひらめかせつ
う、しだいしだいに凹地の霧の海へかくれるのを彼は見た。 昨夜来うけとった報知、深夜前哨に聞えだ車や人の足音、縦隊の不規則な行進、その他の想像によって。連合軍が彼を遠く離れたものと考えている事、プラーツェソ付近を進動しつつある諸縦隊がロシア軍の中堅を成している事、およびこの中堅がすでにかなり疲弊していて、今は攻撃にかかっても大丈夫だということを明らかに見てとったのである。が、彼はまだ戦闘を開始しなかった。 今日は彼にとってめでたい日、戴冠式の一周年に相当していた。夜明け前、彼は二三時間とろとろ眠って、健康で快活なみずみずした顔つきで、たんに一さいが可能と思われるのみならず、事実、成就するような幸福な心持を抱きながら、馬にまたかって戦場へ出た。彼は、爲の中から頭を覗ける高地を眺めつつ、身動きもせず立っていた。彼の冷やかな顔には、恋する幸福な少年によく見られる、『俺は幸福に価いするものだ』と信じきっているような、特殊な陰影が浮かんでいた。元帥たちは彼の後ろに立つたまま、彼の注意を乱すことをはばかっていた。彼はプラーツェソの高地と、霧の中より浮かび出る太陽とか代るがわる眺めている。 太陽がまったく霧の中から出て、まぶしいばかりの光を野にも霧にもさっと浴びせかけたとき(彼は戦闘開始のために、ただこれのみを待っていたかの如く)、白く美しい手から手袋をぬぎ、それをもって元帥たちに合図をし、戦闘開始の命令を発した。元帥たちは副官を随えて八方へ駈け出した。そして、数分の後、フランスの主力はプラーツェソ高地をさして、迅速に出
動を始めた。ロシア軍はしたいしだいにこの高地か撤兵して、左方の凹地へ下るのであった。
一五 クトウソフは午前八時、既に凹地へ下ったプルジェブイシェーフスキイ、およびラソジェロソの縦隊に入れ代る事となっている第四ミヲフードヴィッチ縦隊の先頭に立って、騎馬でプラーツへ出発した。彼は前方の連隊の兵員に挨拶し、進出の命令を下し、これによって彼自身この縦隊を率いるつもりでいることを示した。プラーツ村ちかく進んだとき彼は馬を停めた。 アンドレイ公爵は、総指揮官の幕僚となっているおびただしい人々にうちまじって、長官の後ろに立っていた。アンドレイ公爵はたんとなく興奮し、いらいらしているが、同時にぐっと心の手綱を引きしめて、落ちつきはらっているように自分でも感じた。それは久しい前から望んでいた刹那が到来したとき、誰でも感じる心持であった。彼は今日こそ自分の『トウロソ』か、或いは『アルコラル橋』の実現される日だと固く信じていた。どう実現されるか、それは彼自身にもわからなかったが、かならず実現されるに違いないと確信していた。戦場の地形も友軍の位置も、彼はロシア将校として知りうるかぎり知っていた。自分の作戦計画なぞ、彼はてんで忘れてしまった。なぜなら、今となってはそれを実行することなど、考える必要もないくらいだからである。で、もうヴァイローテルの作戦に没頭したアンドレイ公言は、起り得べきさまざまな偶然を熟考し、自分の敏活な想像力と決断力とを要する場合を、新しく予想して
忿祕
駅爭と下和
みた。 左方のまだ霧深い凹地では、見えざる両軍の交射が聞えていた。そこに戦闘が集中され、またそこに一大障碍が現われるように、アンドレイ公認には思われた。『あすこへおれは一旅団、或いは一師団を率いて派遣される』と彼は考えた。『すると、おれは軍旗を手にして先頭に立って進み、行手にあるものをことごとく粉砕してしまうのだ。』 アンドレイ公爵は、傍を過ぎる大隊の軍旗を、平気で眺めることが出来なかった。軍旗を見ていると、こんな考えが浮かんで来る。『もしかしたら、おれの軍の先頭に立っておし立てて行く軍旗は、あれかもしれない。』 夜霧は、明け方になると、たちまち露に変る霜を高地に残したばかりであるが、凹地では霧がまだ乳白の海をなしてひろがりていた。ロシア軍の諸隊がおりで行った左手の凹地にはなに一つ見えず、ただ砲撃の音が伝わってくるのみであった。高地の上には濃く晴れた空がかかり、右手には大きな太陽の球が輝にいている。遙か前面にあたって霧の海の向い岸に、森の茂った丘が擢んでて見える。敵軍の存在を予想されているこの丘の上には、なにやらあるものが見えていた。 右の方には近衛隊が靴音や車の音を響かせながら、まれに銃剣をひらめかせつつ霧の領分へ踏みこんでいる。左の方の村はずれでは、同じような騎兵の集団が霧の海へ近よっては、その中に没した。前にも後にも歩兵が動いている。総指揮官は村の出口に立って、かたわらちかく軍隊をやり過していた。この朝タトゥソフは疲れて苛だたしげに見えた。彼のかたわらを通過
していた歩兵隊は、なにかさきの方でっかえたらしく、命令もないのに立ち止まった。 「さあ、もういいかげん大隊縦隊の整頓をして、村を迂回するように命令したらどうです。」馬を乗りつけた一人の将官に向かって、クトゥソフが腹だたしげにこう言った。「君はどうして合点がいかないんです。いま敵に向かって進軍している場合、この村の隘路に隊を延長させるのは絶対にいかんのです。」 「閣下、わたくしは村の向うで整頓させようと思ったのです。」と将官は答えた。 クトゥソフは癇癪もちらしく笑いだした。 「敵の眼前に正面を展開するなんて、君もずいぶん結構人ですな、まことに結構人ですよ。」 「敵はまだ遠いです、閣下、作戦計画によると……」 「作戦計画?」と癇性らしくクトゥソフは一喝した。「いったいそれは誰が言ったのです?あ・・・・・・わしの命令することを実行してください。」 「はっ。」 「ねえ君。」ネスヴィーツキイがアンドレイ公認にささやいた。「」e vieux est(rune諮壜ur de chien. St¥臂か臂) このとき帽子に緑の前立をつけ、白い軍服を着たオーストリー将校が、クトゥゾフのもとへかけつけ、「第四縦隊は最早出動したか?」と皇帝の御名をもってたずねた。 クトゥソフはそれに返事しないで、そっぽを向いた。ふとその視線は、そばに立っているアンドレイ公認の上へ落ちた。ボルコンスキイの姿を見つけると、こういう事になったからと言
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第
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つて、たにも自分の副官に責任はないと意識したように、クトゥソフはその毒々しい刺すような表情を和らげた。そして、オーストリーの副官には返事をせず、アンドレイ公芻に向かって言った。 「君ひとつ出かけていって、第三師団が村を通過したかどうか、見てきてくれたまえ。そして、進出をやめて、わしの命令を待つように言ってくれないか。」 アンドレイ公欝が馬を乗り出すやいなや、クトウソフは彼を呼びとめた。 「散兵の配置はできたか、ときいてくれたまえ。」と彼はつけたした・「Co q11'ils font「 ce qu'ils font ! lytt2ぎ一一心匹げい≒幃」やはりオーストリー将校には答えないで、彼はそう言’つた。 アンドレイ公欝は命令を実行に駈けだした。 前方に進んでいる大隊をいくつも追い越して、彼は第三師団の行進を止めた。そして、案の定わが軍の前面に散兵線のないことをたしかめた。散兵線をしけという総指揮官の命令に接して、先頭の連隊長はあきれ返った。連隊長は自分の前方にまだ幾つかの隊があって、敵は十露里以内にいるはずがないと、かたく信じきっていたのである。なるほど、前方には濃霧に包まれた、茫漠たる傾斜地よりほかなにも見えなかった。総指揮官の名をもってこの遺漏を充たすように命令し、公爵は馬を駆ってひっ返した。クトゥソフは元の場所に立つたまま、ふとった体を鞍の上に老人らしくぐたりと落し、眼を閉じたまま重々しく欠伸をしていた。軍はもはや動かなくなり、兵士らは休めの
姿勢をしていた。 「よし、よし。」と彼はアンドレイ公甞に言って、一人の将軍の方へふり向いた。この将軍は時計を手にして、もう左翼の縦隊は全部おりてしまったから、進出していい頃ではないかと言った。 「まだ間に合いますよ。」とクトウソフは欠伸をかみ殺しながら言い、「間に合いますよ!」ともうI度くり返した。 この時、はるかクトウソフの後方にあたって各連隊の歓呼の声が聞えだ。この声は攻撃に向かうロシア軍の全線に、速かに走り近づくのであった。この歓呼の対象となった人は、急速に走ってくるらしい。クトウソフの前に立っている連隊の兵士が叫び始めたとき、クトゥソフは少し脇の方へ向いて、眉をひそめながらふり返った。プラーツェソ街道に沿うて、色さまざまな騎士の一隊らしいものが疾駆している。そのうち二人は余の人々の先に立って、大きざみな駈足で轡を並べ進んでくる。一人は白い飾り毛のついた帽子に黒い軍服を着け、栗毛のイギリス風の馬に跨かっており、いま一人は白の軍服で黒馬に乗っている。これは両皇帝とその侍従隊であった。クトウゾフは正面における老兵の常として、わざとらしく熱のこもった調子で、兵士らに向かい「気をつけ」の号令をすると、敬礼しながら皇帝に近づいた。彼の姿勢も挙動も俄然一変した。彼は、自分で善悪の判断をしない幕下の態度をとったのである。わざとらしい尊敬の色(それは明らかにアレクサンドル帝に不快な印象を与えたに相違ない)を浮かべながら、そばへよって敬礼した。 不愉快な印象は、晴れ渡った空を流れる残んの霧の如く、皇
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帝の若々しい幸福な顔をかすめてすぐに消えた。国を出て以来、ボルコソスキイが初めて皇帝を見た、かのオルミューツにおける閲兵の時にくらべると、彼の顔は微恙の後のこととて、この日いささかやせて見えた。しかし、その美しい灰色の眼の中で溶け合っている崇鮟と謙抑の表情は、かぎりなく魅惑的であった。そのうすい辱には、どんなふうにでも変りそうな表情が見えたが、子供らしく温和な若々しい表情が、全体の調子を支配している。 オルミューツで閲兵のときには、ひときわ神々しく見えた彼が、ここではむしろ快活で精力的であった。彼は三露里の道を駈足で通したので、いくぶん顔に紅を潮していた。そして、馬を止めるとほっと吐息をついて、自分と同じように若々しい、活気にみちた扈従の人々をふり返った。チャルトリーシュキイ、ノヴォシリツォーフ、ヴォルコソスキイ公爵。ストローガノフ、そのほか豊かな服装をした、快活な若い人々が、毛を美しくなでつけられ、一様に鋭気にみちてやや汗ばんだ見事な馬に跨がって、話し合ったりほほ笑んだりしながら、皇帝の後ろに立ち止まった。 フランツ皇帝は血色のいい長い顔をした青年であったが、美しい黒毛の牡馬の上に恐ろしくそり返り、気づかわしげに仔細らしく悠々とあたりを見廻していた。彼は白衣の副官の一人を呼びよせてなにやらたずねた。『きっと幾時に出発したかきいてるのだろう。』とアンドレイ公爵は古い知人フランツ帝を観察しながらこう考え、あの時の謁見を思い出して、微笑を禁じ得なかった。両皇帝の侍従隊には、ロシア、オーストリー両国
の近衛隊と普通隊で選りぬきの勇敢な伝令使がいた。その中にまじって、軛隆のある馬衣を着けた美しい皇帝の控え馬が、調馬師に曵かれていた。 ちょうど、あけはなした窓から新鮮な野の空気が、ふいに息苦しい部屋へ匂いくるように、いま駈けてきたこの華々しい青年の群から、青春と成功の確信が、陰気なクトウソフの参・謀部へ流れこむのであった。 「どうして始めないのかね、元帥?」と、アレクサンドル帝は早口にクトウソフに向かって言いながら、同時にうやうやしげにフランツ帝を眺めた。 「陛下、私は待っているのでござします。」クトゥソフは慇懃に腰を屈めながら答えた。 皇帝はちょっと眉をひそめながら耳をよせて、よく聞えないというふりを見せた。 「待っているのでございます、陛下。」とクトウゾフはくり返した。(この『待っているのでございます』を言ったとき、クトウソフの上膊が不自然にふるえたのに、アンドレイ公爵は気がついた。)「まだ縦隊が全部あつまりませんので、陛下……」 皇帝は聞き分けた。しかし、明らかにこの答えか気に入らなかったらしい。彼は猫背の肩をすくめて、そばに立っているノヴォシリツォーフをちらと見やった。その眼つきは、まるでクトウソフのことを訴えるようであった。 「し4J’ IR&’我雇いか罰鄒彰馳髞匹黯にいるのと違うからね、縦隊ぜんぶ揃わなければ始めないなどと言っていられないよ。」ふたたびフランツ帝の眼を眺めて、皇帝はこう言
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つた。その様子は、たとえ自分の肩をもたないまでも、せめて聞くだけでも聞いて貰いたい、と言うようなふうであった。けれど、フランツ帝はいつまでもあたりを見廻して、人の言うことを聞いていなかった。 「陛下、わたくしが始めないわけは、」もし聞き損じられてはと用心するかのように、響きのいい太い声でクトウソフは言い出した。彼の顔のどこかが、いまI度ぴりりとふるえた。「わたくしが始めないわけは、つまり、わたくしたちのいるところが観兵式場でもなければ、皇后の草原でもないからでございます。」と彼は一語一語明瞭に言った。 扈従の人々はちらと互に眼と眼を見合わせたが、その顔には一様に不平と非難の表情が浮かんだ。『いかに老人だって、あんなものの言い方をしてはならないはずだ、断じてならないはずだ。』と人々の顔が言いたげに見えた。 皇帝はクトゥソフがまだなにか言うかと期待しながら、じっと注意ぶかく相手の眼を見つめていた。しかし、クトウソフはうやうやしく頭を垂れて、同様に相手の言葉を待っているらしかった。ややしばらく沈黙がっづいた。 「ですけれど、陛下、もしお望みでございますなら……」とクトゥソフは頭を上げて、ふたたび以前どおり、なにごとも善悪の批判をしないで、ただ命令に服従するといったような、鈍い一将軍の調子に変りながらそう言った。 彼は馬を進めて、ミ已フードヴィッチの縱隊長を呼びよせ、攻撃の命令を伝えた。 軍はまたざわめき始めた。そして、ノヴゴロド連隊の二阪大
隊、およびアプシェロン連隊の一箇大隊が皇帝のかたわらを進んで行った。 このアプシェロン大隊の進行中、赧ら顔のミ芒フードヴィッチは、外套なしの軍服に勲章をかけつらね、大きな飾り毛のついた帽を斜にかぶって、速足で駈け出した。そして、元気よく敬礼しながら、皇帝の前に馬を止めた。 「Ma fois sire「 nous ferons ce que qui sera dans notrepossibilit4 sire. p丁・甓叫蝠卜E心t」まずいフランス語の発音で侍従隊の人々の冷笑を買いながら、彼は愉快げに答えた。 「将軍、成功を祈る。」と、陛下は彼に言った。 ミ弓フードヴィッチはくるりと馬首を転じ、皇帝の少し後ろに立ちどまった。アプシェロン連隊の兵士らは、皇帝の馬前にいるという意識に刺戟されて、勇ましそうに元気よく歩調をとりながら、両皇帝とその侍従隊のかたわらを通り過ぎた。 「諸君!」とミロラードヴィッチは自信のある、浮きうきした、大きな声で叫んだ。見受けたところ、彼は大砲の響や、決戦の期待や、皇帝のかたわらを元気よく通り過ぎる勇ましいアプシェロン隊の兵士Iスヴォーロフ時分からの戦友の姿などに、極度まで刺戟せられ、陛下の御前ということも忘れてしまったのである。 「よいか、村落の占領は君たちにとって、初めての仕事ではないのだぞ!」と彼は叫ぶ。 「奮って努力いたします。」と兵士らはどなった。 皇帝の馬はこの思いがけない叫喚のために、思わず跳り上っ
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た。ロシアにおける諸所の閲兵式に、皇帝を乗せたこの馬は、ここアウステルリッツの原頭で、騎手の愾ただしくあてる左足の拍車をじっとこらえながら、マルス原yy賢一{←と同じように砲声に耳をそばだてていた。しかし、この砲声の意味も、フランツ帝の黒馬とならんで立っているわけも、自分の上に乗っている人が、この日、言ったり、考えたり、感じたりしたことも、一さい彼にとっては没交渉であった。 皇帝はほほ笑みながら侍臣の一人を振返り、勇ましそうなアプシェロン連隊の兵士らを指さしつつ、なにやら言っていた。 {六 クトウソフは自分の副官たちを随えて、騎銃兵の後から並足で進んだ。 縦隊の尾について半露里ばかりくると、彼は道路の分岐点に一軒さびしく立っている空家(居酒屋であったらしい)のそばに立ち止まった。道は二つとも坂を下っていて、どちらにも軍隊が進んでいた。 霧は散じ始めた。二露里ばかり離れた前面の高地には、もうぼんやりと敵軍が見えていた。左方の凹地では、しだいにはっきり交射の音が聞えてきた。クトゥソフはオーストリーの将軍と言葉を交えながら立ち止まった。アンドレイ公甞はやや後ろに立って、二人を見つめていたが、やがて、一人の副官に望遠鏡を借りようと思い、その方へ向いた。 「ごらんなさい、ごらんなさい。」遠くの敵軍を見ないで、すぐ前の山麓を見おろしながら、この副官はそう言った。「あれ
はフランス兵です!」 二人の将軍と副官たちは奪い合うようにしながら、望遠鏡につかまり始めた。一同の顔色はふいに変って、恐怖の影が現われた。まだ二露里も向うにいるとばかり思いこんでいたフランス兵が、突如おもいがけなく、わが面前に現われたではないか。 「あれが敵軍だろうか?一・・・・・・違y气ノ!・・・・・・・しかし、ごらんなさい、敵ですよ……たしかにそうです……y」れは何というこった?」と言う人々の声が聞えた。 いまクトウソフの立っている場所から、五百歩以上はないと思われる右方の凹地を越えて、アプシェロン連隊さして登ってくる密集したフランス軍の縦隊を、アンドレイ公爵は肉眼で見つけることができた。 『いよいよそうだ。運命を決する時がきたのだ1・ こんどは俺の働く番だ。』 アンドレイ公爵はこう考えると、馬に拍車をあてて、クトウソフのそばへ駈け寄った。 「閣下、」と彼は叫んだ。「アプシェロン連隊を止めなくてはなりません!」 しかし、その瞬間ぱっと煙がひろがって、ちかぢかと発射の音が響き、アンドレイ公爵からほんの一歩ばかり離れた処で、 「おい、みんな駄目だ!」と叫ぶ子供らしいおびえた声が聞えだ。この声はさながら号令のようであった。この声とともに一同は潰走し始めた。 しだいに数を増しながら、ごちゃごちゃに入りまじった群衆は、五分まえに各隊が両皇帝のそばを通りすぎた場所をさして駈け出した。ただにこの乱群を制止するのが困艱なぽかりでな
コ
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く、自分自身この乱群におされて、退却しないでいることも不可能であった。ボルコソスキイはひたすら人々に遅れまいと努め、自分の面前になにが起ったか、モれさえ合点か行かず、たえず怪訝そうにあたりを見廻していた。ネスヴァーツキイは真赤な、毒々しい、不断とは似ても似つかぬ顔をして、早速ここを立去らなければ、かならず捕虜になるに相違ない、とクトウソフに叫んだ。こちらはじっと同じ場所に立つたまま、返事もしないで(ンカチをとり出した。彼の頬からは皀が流れていた。アンドレイ公甞は人波をおし分けてそのそばへ寄った。 「閣下、ご負傷‐なすったのですか?」かろうじて下肥のふるえを抑えながら、彼はきいた。 「負傷はここじゃあない。あそこだ!」傷ついた頬に(ンカチをおしあて、敗走する兵士の群を指さしながらクトゥソフはこう言うと、「あいつらを止めてくれ!」と陦んだが、同時に、彼らを制止することは不可能であることを確信したらしく、馬に拍車をくれて右の方へ駈け出した。 新たに雪崩を打っておし寄せる遁走兵の大群は、彼を渦の中に巻きこんで後方へ引いて行った。軍は密集した一団となって走っているので、一度その中に入ったら、容易に出ることができないくらいであった。あるものは、「早く歩かんか! 何をぐずぐずしてるんだ?」とどなり、あるものはその場でちょっとふり返りざま空中へ発砲し、またある者はクトウソフの乗っている馬を打った。懸命な努力をもって群衆の奔流を左へのがれ出ると、クトウソフは半分以上も減った幕僚を連れて、間近く聞える砲声をあてに進んで行った。クトゥソフにおくれまい
とつとめながら、遁走兵の乱群をのがれ出たアンドレイ公認は、煙に包まれた山の斜面に、まだ射撃をつづけているロシアの砲兵中隊と、それを目がけて突進するフランス軍とを認めた。やや上方にあたってロシアの歩兵隊が立っていたが、砲兵中隊を助けに前進するのでもなければ、のがれ行く人々と同じ方角をさして退却するのでもない。ひとり騎馬の将官がこの歩兵隊を離れて、クトウソフに近よった。クトゥソフの幕僚はただ四人しか残っていなかった。一同は青ざめた顔をして、無言に眼と眼を見合わせている。 「あの卑怯者どもを止めてくれ!・」敗兵を指さしつつ、クトウソフは息を切らして連隊長に言った。しかし、その瞬間、あたかもこの言葉に対する罰かなんぞのように、小鳥の群に似た銃弾が、クトウゾフの幕僚と連隊を目がけて、唸りを生じながら飛んできた。 フランス軍は砲兵中隊に突撃していたが、クヘバいソフの姿を見るとヽその方へ銃口を向けたのである。こ叺一死射撃とともに連隊長は足をおさえた。幾たりかの兵卒が倒れ、軍旗を持っていた少尉補は柄を手からはなした。軍旗は隣の兵卒の銃にからみながら、ふらふらと揺れた。丘(士らは号令もないのに発射を始めた。 「おお! おお!」絶望の表情を浮かべながら、クトゥソフは呻き声をあげてあたりを見廻した。「ボルコンスキイ、」彼は自分の老衰を自覚したようなふるえ声でささやいた。「ボルコンスキイ、」混乱した大隊と敵軍を拑さして彼はささやいた。「これはなんということだ?」
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けれど、彼がこの言葉を言いも終らぬうち、アンドレイ公爵は喉もとに迫りくる羞恥と忿怒の溟を感じつつ、早くも馬から飛びおりて軍旗の方へ駈け出した。 「進めっ!」と彼は子供のような甲高い声で陦んだ。 『とうとうやってきた!』とアンドレイ公爵は軍旗の柄を握って、明らかに彼をねらって浴びせかけるらしい弾丸の響きを、心地よく聞きながらそう考えた。幾人かの兵卒が倒れた。 「ウラアー」重い軍旗をやっと両手に支えながら。アンドレイ公爵は叫び、大隊全部が自分の後から走ってくるに相違ない、という自信をいだいて前方へ胝け出した。 実際、彼がひとり走っ。だのは、ほんの五六歩に過ぎなかった。 一人また一人、兵卒が動き出すと、やがて、大隊全部が「ウラ アー」の叫びとともに前方へ駈けだし、彼に追い着いた。大隊 の下士官が駈け寄って、アンドレイ公認の手にふらふらしてい る重い軍旗を引き取ったが、即座にたおれてしまった。アソド レイ公爵はふたたび軍旗を握って、柄を引きずりながら大隊と ともに走った。前方にあたって彼は友軍の砲手らを見た。その うちのある者は戦闘をつづけていたが、ある者は砲を棄ててこ ちらへ走ってくる。彼はまた、砲車の馬の口をとって、砲を廻 転させるフランス歩兵たちをも見た。 アンドレイ公認と大隊とは、もはや砲隊から二十歩の距離にあった。彼はたえまなく頭上に響く弾丸の唸りを聞いた。前後左右では、たえず兵卒らが呻き声を上げて倒れる。が、ボルコソスキイは彼らを見ようとしなかった。彼はただ前方の砲兵隊に生じている事のみを注視していた。帽子を横っちょへねじら
した赤毛の砲卒が、一方からフランス兵が引いている砲の洗桿を、一生懸命に反対の方へ引っぱっている。モの姿をもはっきり見分けることができた。これら二人の自失したような、同時に毒々しい顔の表情を見ると、彼らは自分がなにをしているやら分からないらしかった。 『あいつら何をしているんだろう?』とアンドレイ公甞は二人を見ながら考えた。『どうしてあの赤毛の砲手は武器も持たないくせに、逃げ出そうとしないんだろう? どうしてあのフラソス兵はやつを刺さないのだろう? ここまで逃げ着かないうちに、あのフランス兵は銃のことを思い出して、あいつを刺し殺してしまうだろう。』 実際、いま一人のフランス兵が銃を提げて、相争える二人の方へ駈け寄った。依然として自分を待ち受けている運命を悟らず、揚々として洗桿をもぎ取った赤毛の砲手は、風前の灯にひとしかった。しかし、アンドレイ公甞は、その結果がどうなったか見なかった。ちょうど、だれかすぐそばにいる兵卒が、堅い誅で力いっぱい彼の頭を擲りつけたような気がした。彼は少し痛かったが、それよりむしろ不愉快であった。それはこの痛みが彼の気を散らして、二人の兵卒を見物する邪魔をしたからである。 『これはどうしたのだ? 俺は倒れかかっているのか! なんだか足がへなへなする!・』とアンドレイ公甞は考えると、たちまちあおむけにぶっ倒れた。彼はフランス兵と砲手の争闘の結果がどうなったか、赤毛の砲手が殺されたかどうか、砲門は鹵獲されたか助かったか、それを見るつもりで眼を開いた。が、
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だにも見えなかった。彼の頭上には高い空1晴れ渡ってはいないが、それでも測り知ることのできないほど高い空と、その面を匐ってゆく灰色の雲のほか何もない。 『なんという静かな、穏かな、崇敝なことだろう。俺が走っていたのとはまるっきりべつだ。』とアンドレイ公営は考えた。 『我々が走ったり、わめいたり、争ったりしていたのとはまるっきりべつだ。あのフランス兵と砲手が、おびえた毒々しい顔つきをして、洗桿をひっぱり合っていたのとは、まるっきりべつだ。この高い無限の空を匐っている雲のたたずまいは、ぜんぜん別なものだ。どうして俺は人までこの高い空を見なかったんだろう? 今やっとこれに気がついたのは、じつになんという幸福だろう。そうだ! この無限の空いがいのものは、みんな空だ、みんな偽りだ。この空いがいにはなんにもない、なんにもない。しかし、それすらやはり有りゃしない、静寂と不安のほかなにもない。それで結構なのだ1………』 一七 右寫にあるバグラチオンの隊では、九時になっても戦闘を開始しなかった。ドルゴルーコフの戦闘開始の要求に同意したくなさに、バグラチオソ公営は責任のがれに、この事について総指揮官の意向をただすべく、使を送るようドルゴルーコフに提議した。軍の両翼はほとんど十露里の距離に分たれているので、たとえ伝令が戦死(それはきわめてあり得べきことだ)しないで、総指揮官を発見する(それはきわめて困難なことだ)としても、伝令は早くも夕方でなければ帰るわけに行かない、
という事を。(グラチオソは心得ていた。 。(グラチオンは寝の足りないような、なんの表情もない大きな眼で、自分の幕僚を見廻した。と、興奮と希望のあまりしびれたような子供らしいロストフの顔が、最初に彼の眼に映じた。彼はロストフを派遣することにした。 「もし総指揮官よりも先に、陛下にお目にかかりましたら?」とロストフは挙手をしながらたずねた。 「陛下に申し上げてよろしい。」急いでバグラチオソをさえぎりながら、ドルゴルーコフはいった。 騎搜兵線から交代してきたロストフは、夜明けまえ幾時間か眠ることができたので、自分がいかにも愉快で勇敢な、決断力にみちた人間のように感じられた。彼の四肢には弾力がこもり、心は自己の幸福に対する確信に燃え、あらゆるものが容易で、愉快で、かつ可能であるような気分になっていた。 この朝、彼の希望はことごとく充たされた。即ち、大決戦が始まって、彼はそれに参加している。その上、最も勇敢なる将軍の伝令となった。のみならず、クトウソフのところへ、否、あわよくば皇帝の御前へ、命令を持って出かけようとしているのだ。それは朗かな朝で、乗っている馬は逸物である。彼の胸の中は悦ばしく幸福であった。命令を受け耿ると、彼は馬を駆って戦線を疾駆し始めた。初め、まだ戦闘に入らないで静止している。(グラチオソ軍の線に沿うて進んでいたが、やがて、ウーヴイロフ騎兵隊0占めている広野へ乗り入った。ここではもはや軍の移動や、戦闘準備の兆候が認められた。ウヴアーロフ綮兵隊を通り過ぎると、彼はすでに前方にあたって、大砲や小
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銃の発射の音をはっきりと聞き分けた。銃声はしだいに烈しくなってくる。 もはや以前のように不揃いな間隔をおいて、二発か三発の小銃の音、それにつづいて一発か二発の砲声が聞えるのとちがって、今はプラーツェソ前面の傾斜地の上で、はぜるような小銃の響きが、新鮮な朝の大気の中に聞えていた。それにまじって響く砲声はおそろしく頻繁で、どうかすると、幾つかの砲声がべつべつに聞えないで、一つのとどろきに溶け合うのであった。 傾斜地には小銃の煙が、互に追っ駈けっこでもするように走って、砲の煙は渦巻き、ひろがり、やがて流れてIしょになるのが見える。進み動く集団は、煙の間に光る銃剣によって、歩兵と見分けられ、緑色の砲車のまじった細長い帯は、砲兵と知れた。 ロストフは岡の上にしばらく馬をとめて、眼前に展開する光景を見定めようとした。しかし、いかに注意を緊張させても、その光景を見分けることも、了解することもまるでできなかった。煙の中をなにか人間のようなものが動き、その前にも後ろにもなにかの隊が、尾を引いてぞろぞろ動いているとばかりで、なんのために? 誰が? どこへ? という事は少しもわからない。この光景、この響きは、けっして彼の心中にうら淋しい感情とか、臆病な心持とかを呼びさまさないばかりか、かえって彼に精力と決断とを与えたのである。 『さあもっと、もっとやれ!』心の中でこれらの響きにそう言いながら、彼はふたたび戦線に涓うて進み始めた。やがて、もう戦闘に着手した圏内へ、しだいに深く入りこむのであった。
『もうこのさきどうなるか、俺は知らない。しかし何もかもいいにきまってる。』とロストフは心に思った。 とあるオーストリーの軍隊を通りぬけると、それから先の槹は(それは近衛隊であった)すでに戦闘を開始しているのに、ロストフは気づいた。『なおさら結構だ! そばで見てやろう。』と彼は思った。 彼はほとんど第一線に沿うて進んだ。と、数人の騎馬兵が彼の方をさして疾走してくる。それは隊を乱して突撃から帰ってくる近衛槍騎兵であった。ロストフは彼らのそばを通り抜けたが、ふとそのうちの一人か、血みどろになっているのに気づいた。彼は逸散に胝け出した。 『こんなことは俺にとって没交渉だ!』と彼は考えた。が、それからまだ数百歩も行かぬうちに、左の方から騎兵の大集団が、彼の行手を横切るように、広い野の全面にわたって現われた。この一団は黒馬にまたがり、輝くばかりの白い軍服を着て、真直ぐに彼の方へ向けて速足に進んだ。ロストフはこれらの騎兵の通路をさけようと、全速力で馬を駆った。もし彼らがたえず同じ歩度で進んでいたら、ロストフは楽々と彼らをさけて、通りぬけることができたのである。しかし、彼らはしだいに速力を増して、中にはもう疾走に移った馬もあった。しだいしだいに馬蹄の轟き、武器の響きが明らかに聞え、馬の形、乗手の姿や顔までが見えるようになった。それは前方からおし寄せるフランス騎兵にたいして、突撃を試みんとするわが近衛騎兵であった。 近衛騎兵は疾駆をつづけながらも、なおいくぶんか馬を抑制
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していた。ロストフはすでに彼らの顔を見、「進め、進め!」という号令の声を聞いた。それは、一人の将校が純血種の馬を全速力で走らせながら発した声である。ロストフは馬に踏み殺されるか、さなくば突撃に引きこまれるのを恐れて、馬の力のあらんかぎり隊の前面な疾駆した。が、それでも無事に駈けぬけることができなかった。 一番はじめの近衛騎兵、図抜けて背の高い、あばた面の男は、衝突せずにすみそうもないロストフの姿を目前に見て、毒毒しい顔をしかめた。この近衛騎兵は疑いもなくロストフを、ベドゥインもろとも薙ぎたおすに相違なかった(ロストフはこれらの巨大な人や馬に比べると、自分がいかにもちっぽけな弱弱しい者に思われた)。しかし、ふと思いついて、近衛騎兵の馬の眼の上に一鞭くれた。堂々たる背の高い黒馬は、耳を臥せて踈り上った。けれど、あばたの近衛騎兵は、大きな拍車を力まかせに馬の横腹へぐんぐんあてだ。と、馬は尾をふり首をのばして、いっそうはやく走り出した。 近衛騎兵がロストフの側を通りぬけるやいなや、彼は「ウラアー」という彼らの叫び声を聞いた。ふり返って見ると、その前列は赤い肩章をつけた、見なれぬフランス兵らしい列と入りまじっていた。が、それからさきはなにも見ることができなかった。すぐ引きっづいて、どこからか大砲を撃ち始めて、あたりがいちめん煙に包まれたからである。 近衛騎兵が通り過ぎて煙の中にかくれた刹那、ロストフはその後について疾駆すべきか、或いは、命ぜられたところへ赴くべきかとためらった。それはかのフランス軍さえも驚歎したと
いう華々しい近衛騎兵の突撃であった。あの`偉大な美丈夫-あの価い数千金の馬に跨かって彼のかたわらを駈け過ぎた富裕な青年将校、見習士官の全集団の中で、突撃後に生き残った者はわずか十八人にすぎないと後に聞いて、ロストフは恐ろしくなった。 『おれはなにも羨むにあたらない、俺の仕事は逃げてしまいはしない。それに、俺はすぐ陛下にお目にかかれるかもしれないのだ!』とロストフは思って、またもや先へ駈け出した。 近衛の歩兵隊へ乗り入ると、彼は隊の中にもその周囲にも、砲弾が飛んで来るのに気づいた。それは彼が砲弾の唸りを聞いたからというよりも、むしろ兵士の顔に不安の表情を見、将校の顔に不自然な勇ましい、勝ち誇ったような色を見たからである。 とある近衛歩兵連隊の背後を通り過ぎていると、彼は自分の名を呼ぶ声を耳にした。 「pストフー」 「なんです?」ボリースとは気がつかないで彼は答えた。 「かあどうだい? 第一線に入りこんじやったよ! 僕の連隊は突撃に出かけたぜ!」初めて砲火のなかに立った青年によくある、かの幸福げな微笑を浮かべつつ、ボリースはそう言った。 ロストフは立ち止まって、 「へえそうかい!」と答えた。「で、どうだった?」 「撃退されちゃった!」饒舌になったボリースは生きいきした調子で言った。「まあ、どうだったと思う!」
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というのを冒頭に、ボリースは語り始めた。己れの部署についた近衛隊は、前方に軍の姿を認め、それをオーストリー軍と思ったか、ふいにこの軍中から放たれた砲弾によって、初めて自分らが第一線にあることを知り、予想外なときに戦闘を開始しなければならなかった。ロストフはボリースの言うことをよくも聞かず、馬を進めようとした。 「君どこへ?」とボリースはきいた。 「陛下の御前へ、命令を持ってね。」 「あすこにいらっしやるよ。」 ロストフが陛下でなく、殿下のところへ行くと言ったように聞えだので、ボリースはこう言った。 彼は百歩ばかりかなたに立っている大公を指さした。大公はヘルメット帽をかぶり、近衛騎兵の軍服をつけ、もちまえの怒り肩に八の字眉をして、青い顔をした白衣のオーストリー士官に、なにやら大きな声でどなった。 「だって、あれは大公じゃないか、僕は総指揮官か、でなければ皇帝に用事があるのだ。」と言ってロストフはまた馬を進めようとした。 「伯欝、伯爵。」ボリースと同様に活気づいたベルグが、丁万の側から駈けよりながら叫んだ。「伯爵、僕は右手に負傷しました((ンカチでしばった血だらけの手を示しつつ彼は言った)。それでも正面に踏みとどまっていますよ。伯爵、僕は左手に軍刀を握ってるですよ。フォン・ベルグ家一族はみんな勇士ぞろいですからね、伯爵。」 ペルダはまだなにか言ったが、ロストフは終いまで聞かず、
もう先の方へ駈け出した。 近衛隊とそのさきの空な切れめを通り過ぎると、さっきの近衛騎兵の突撃のような目に会わないために、ロストフは第一線をさけて、もっとも激烈な銃声と砲声の聞える場所を遠く迂回しながら、予備隊の線に沿うて進んで行った。ふいに、とうてい敵を予想することができないような場所で、自分の前方および友軍の後方にちかちかと銃声を聞いた。 『これはいったい何事だ!』とロストフは考えた。『敵が友軍の背部にまおったのか?そんな事があるものか。』すると戦局の結果と、自分自身にたいする恐怖の念がふいに彼を襲った。 『しかし、いずれにせよ、』彼は考えた。『とにかく、こうなればもう迂回する必要はない。俺は当然ここで総指揮官を探さればならん。もしたにもかも駄目になったのなら、俺の功業もみんないっしょに耿日になるまでの事だ。』 ふいにロストフを裝ったいやな予感は、さまざまな軍隊に占められているプラーツ村のかなたの広野を、奥へ奥へと踏み入るに従って、いよいよ確実に裏書されていった。 「いったいたんだ? いったいたんだ? 誰にむけて鬚ってるのだ? 誰が撃ってるのだ?」行手の道を横切ってのがれ走るロシア、オーストリーの兵士の乱群といっしょになったとき、ロストフはこうきいた。 「誰がそんなことを知るものか! みんなすっかりやっつけてしまやがった!・ どうとも勝手になりやがれ!」彼と同様にこのでき事の意味を知らない遁走兵の群は、ロシア語、ドイツ語、チェック語などで口々に答えるのであった。
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「ドイツのやつらを殺しちまえ!」と一人がどなる。「あの謀反人めら、冫どい目に会わしてくれるぞ。」「Zum Henker diese Russen……黯帽J。」となにやらドイツ人がぼやいている。 幾人かの負傷兵が道路を歩いている。罵詈、叫喚、呻吟の声が、わあっと言う一つのどよみに溶けあう。やがて銃声は静まった。後でロストフの聞いたところによれば、ロシアとオーストリーの兵士らは互に同士うちをしたとの事である。 『おお! これはなんたるこった?』とロストフは考えた。『しかも、いつなんどき陛下がお見えになるかわからない処で……しかし、そんな事はない、これはきっと小数の馬鹿者だけの話に相違ない、こんな事は今におさまりがつく、これはそうじゃない、そんな事があってたまるものか。』と彼は思った。『ただ速く、少しも速くこんな連中を通りぬけてしまわなくちゃ!』 味方の敗走というような考えは、彼の頭に浮かびえなかった。総指揮官を探すように命ぜられたプラーツェソの山上に、フランス軍の砲門や兵士を見だけれど、彼はどうして鎰味方の敗走を信ずることができなかったし、信じたくもなかった。 一八 ロストフはプラーツ村の付近で、クトウソフと皇帝を探すように命ぜられていた。しかし、ここにその二人を見なかったのみか、司令官一人いなかった。ただ潰乱せる雑多な軍隊が見受けられるばかりである。彼は一時も早くこの乱群を通りぬけるために、もう疲れはてた馬を駆った。けれども、先へ進むに従
つて、軍容はますます乱れてきた。彼が馬を乗り入れた大這路には、幌馬車をはじめ各種の馬車が蝟集し、ロシア、オーストリーの各科隊の兵士が、負傷したのや負傷しないのや、うようよしている。プラーツェソ高地に揃えたフランスの砲兵隊から飛んでくる砲弾の陰慘ぼ響きのもとに、これらすべてのものが一しょくたになって、ざわざわと姦いている。「陛下はどこにおいでだ? クトウソフ閣下はどこだ?」ロストフは引き止められるだけの者にたずねたが、誰からも答を得ることができなかった。 ついに一人の兵士の襟首をつかんで、無理やりに返事をさした。 「ええ! お前さん! もうみんな疾っくにあっちの方にいますよ、前の方へとっ走っちまったんでさあ!」なにがおかしいのかげらげら笑いながら、体をもぎ離すようにして、兵士はこう言った。 明らかに酔っぱらっているらしいこの兵士をすてて、ロストフは高官の従卒か、調馬師らしい男の馬を止め、執念くたずね始めた。従卒は、皇帝が一時間ばかり前にこの道路を、馬車に乗せられて全速力で運んで行かれたこと、そして、皇帝が重傷を受けたことなどを、ロストフに話して聞かせた。 ‐1そんな事があるものか。」とロストフは言った。「きっとだれか人違いだろう。」 「わたしがこの目で見たのです。」従卒は自信ありげな微笑を浮かべて言った。「わたしだって、もう陛下のお顔を見覚えていいころでさあ。ペテルブルグじゃ何遍も拝んだことがありま
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寸よ。莟い、それはそれは莟い顔をして、馬車に乗っておられました。四頭立の黒馬を追いたてて、わたしどものそばをがらがら走りぬけて行かれました。もうたいてい陛下様の馬や、イリヤー・イヴァーヌイチを見覚えてもいいころでしょうよ。馭者のイリヤーは、陛下よりほかの人を乗せちゃ行かないはずですからね。」 ロストフはその馬を放して、先へ進もうとした。と、そばを通りかかった負傷した将校が彼にむかって。 「いったい君は誰のところへ行くんですか?」ときいた。「総指揮官ですか? それなら閣下は砲弾で戦死されました。胸を撃たれて戦死されました、僕の連隊で。」 「戦死じゃない、負傷だ。」といま一人の将校が訂正した。 「いったい誰です? クトウソフ閣下ですか?」とロストフが問い返した。 「クトゥソフ閣下じゃありません。ええ、なんとか言ったっけなあtlしかし、どっちにしたって同じです、生き残った者は幾らもありゃしないんだから。ほら、あすこへいらっしゃい、ほら、あの村ですよ。あすこには、司令官たちがみんな集まっています。」ホスチIラデック村を指さしながらそう言って、この将校は通り過ぎてしまった。 ロストフはもうなんのために、淮のところへ行くのかわからず、並足で進んでいった。皇帝は負傷、戦は敗れた。いまはそれを信じないわけにしかない。ロストフは遙かに塔と教会の見えている、教えられた方角をさして馬を進めた。いまとたってどこへ急ぐ必要があろう? 皇帝やクトゥソフになにをいう事
があろう、よしや彼らが負傷せずに生きているとしても……。 「少尉毆、この道路を通っていらっしやい、そこをおいでになったらIペんでやられますよ。」と一人の兵隊がわめいた。{}ぺんでやられますよ!」 「おいI・ なにを言うんだい!」といま一人が言った。「どこへおいでになるか知ってるか? こっちの方が近道だぜ。」 ロストフはちょっと考えたが、やがて『やられますよ』と言った方角をさして進んだ。 『今となってはどうだって同じことだ。もし陛下が負傷されたとすれば、俺なぞ命を惜しがる必要はありやしない。』と彼は考えた。 彼はプラーツェソ村からのがれた兵士が、いちばんたくさん殺された場所へ乗り大った。フランス軍はまだここを占領していなかったが、ロシア兵は生き残ったのも負傷したのも、とっくに逃げ去っていた。ちょうど、よくできた畑の麦塚のように、野原には一町ごとに十人十五人の戦死者や、重傷者が倒れていた。負傷者は二人か三人ずついっしょに慥いよってい、どうかすると、わざとらしく感じられるような不愉快な呻吟の声が聞えだ。ロストフはこれらの苦しめる人々を見なしように、駈足で馬を走らした。彼は恐ろしくなった。しかし、彼が恐れたのは、自分の命が惜しいためではなく、この不幸な人々を見ているうちに、自分に必要な勇気を持ちこたえることができそうもない、と思ったからである。 戦死者ぴまき散らされたこの原に向けて、射撃することをやめていたフランス兵は(もうそこには誰ひとり生きた大間かい
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なかったからである)、ふと騎馬の副官の姿を認めると、その方へ砲口を向けて三四発の弾丸を飛ばした。そのひゅうひゅうという恐ろしい響きと、死人がまわりをとりかこんでいるという感じは、ロストフの心中で一つになって、自分にたいする愛隣と恐怖の情に溶け合うのであった。彼は最近うけとった母の手紙を思い出した。『今おれがこうしてこの原中で、砲口を向けられているのを母が見たら、いったいどんな気持がするだろう!』 ホスチ予フゲッタ村はやはりごたごたしているけれど、比較的秩序を保ったロシア軍隊が戦場から引き掲げていた。フランスの砲弾もここまではもはや届かず、銃の響きも尨かに聞えだ。ここではもうすべての人が、戦闘の敗北に帰したことを明瞭に知り、かつ語り合っていた。誰にきいて見ても、ロストフは皇帝の所在も、クトウソフのありかも知ることができなかった。皇帝の負傷にかんする膽は事実だと言う者もあるし、またそれを打ち消す者もあって、こうしたでたらめな噂が広まったわけは、皇帝の侍従隊に加わって、人々とともに戦場へ出た侍従長のトルストイ伯爵が、まったく血の気のないおびえたような顔をしながら、皇帝の馬車に乗って戦場から逃げ戻ったからだ、と説明するのであった。一人の将校は村はずれから左寄りの辺で、だれか司令官らしい人を見受けた、とロストフに教えた。で、ロストフはもう淮かに逢おうなどという希望を抱かず、ただ自分の良心にたいする義務を果たすため、その方角をさして出かけた。 三露里ばかり進んで、最後のロシア軍隊を通りぬけたとき、
溝を掘りめぐらした菜園の近くで、ロストフはその溝に面して立つ二人の騎者を見つけた。白い前立つきの帽子をかぶった一人の方が、なぜか見覚えがあるようにロストフは感じた。いまひとり見覚えのない方の騎者は、見事な栗毛に乗っていたか (この馬はロストフに馴染があるように思われた)、溝の方へ進みよって拍車で馬を一突きし、手綱をゆるめて軽々と向う側へ飛び越えた。馬の後足から盛り上げた土がぱっと跳ねた。彼はいきなりくるりと馬首を向け変えると、また元の方へ溝を飛び越して、白い前立の騎者にうやうやしく話しかけた。同じ事をしろとすすめるものらしい。どこやら見覚えのあるような気がして、なぜか注意をひいてやまないこの騎者は、頭と千でいやだという身ぶりをした。この身ぶりを見た時、ロストフは、これこそ自分の随喜渇仰の的、皇帝だという事を一瞬にして輯ったのである。 『しかし、こんな淋しい原中に、たった一人いるところを見ると、或いは陛下でないかもしれない。』と彼は思った。この時、アレクサンドルは首をねじ向けた。とロストフは自分の記憶に生きいきと刻みこまれている、敬愛してやまぬ顔の輪郭を見定めた。皇帝は色蒼ざめて、頬はこけ、眼は落ちこんでいた。けれど、そのために、かえって優美謙抑の色が以前にも増してこの顔に溢れているのであった。皇帝の負傷説が事実でないのを確かめ、ロストフは幸福の念にたえなかった。また皇帝を見たという事も嬉しかった。彼はドルゴルーコフから授かった命令を伝えるために、直接、皇帝に謁見することができる、いや、ぜひしなければならん、ということを心得ていた。
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しかし、ちょうど、恋する青年が、長い間こがれぬいた少女と初めてさし向かいになったとき、夜な夜な心に描いていたことを、思い切って言い出すことができず、しびれた体をふるわせながら、淮か助けてくれるものはないか、ちょっとでも時を移すか、さもなくばこの場を逃げ出す方法はないかと、不安げにあたりを見廻すのと同じように、いまロストフはなにより一番に望んでいたものに到着しながら、どうして皇帝に近づいていいかわからなかった。その上、いま皇帝に近づくことを非礼とし不可能とするような無数の観念が彼の心に浮かんできた。 『ああ俺は何だか陛下がおI人きりで、力を落していらっしゃるのをいい機会にして、喜んでそれを利用するつもりでいるらしいぞ、こういう悲歎の際であるから、えたいのしれぬ男の顔は、陛下のお眼に重苦しく不快に陜るかもしれない。そのうえ、俺はいま陛下に向かって何か言えるだろう?たった一目、陛下のお顔を見ただけで、囗が乾いて心臓が止まるような気がする位じゃないか。』以前こころの中で、陛下の御前へ出たときの用意に作っておいた無数の言葉は、今となると一つも頭に浮かんでこなかった。おまけに、それらの言葉は大部分、全然べつな条件を予想して作られたものである。即ち勝利と凱旋の場合、殊に彼が負傷のために瀕死の床に臥している場合に述べられるはずであった。陛下が彼の勇敢な行為を感謝すると、彼は事実によって確証された自分の愛を、息もたえだえに陛下の前に披瀝する、こんな光景を予想しているのである。 『それにもう三時をまわって、戦闘も敗北に帰したのに、どうして右翼に対する命令などを、陛下におたずねすることができ
よう? 駄目だ、断じて俺は陛下のおそばへ寄ってはならない。陛下の瞑想を破ってはならない。陛下にいやな眼つきをさせいやな考えを抱かせるより、むしろ百度でも千度でも死んだ方がましなくらいだ。』とロストフは決心し、悒悶と絶望を胸にいだきながら、この場を立ち去った、依然たる逡巡の体で立っている皇帝をたえずふり返りながら。 ロストフがこんなふうに思いめぐらしつつ悵然として皇帝のそばを立ち去ったとき、フォソートーリ大尉が偶然そこへ来あわせた。皇帝の姿に気がつくと、いきなりそのそばへ近よって、かいがいしくいたわりながら、徒歩で溝を渡らした。皇帝は休息もしたかったし、健康もすぐれぬような気がしたので、林檎の樹の下に腰を『おろし、トーりもそのそばに足をとめた。フォソートーリが長いこと、一生懸命になにやら皇帝に話しかけると、皇帝はついに泣き出したらしく、片手で眼をおおい、片手でトーリの手を握りしめた。ロストフは羨望と後悔の念を抱いて、遠方からそれを見つめていた。 『ああ、俺だって、あの男の位置に立つことができたのだ!』とロストフは心のうちで考え、皇帝の運命にたいする同情の涙をかろうじておしこたえながら、今はどこへなんのために行くのやら自分でもわからず、極度の絶望に陥って馬を進めた。この悲しみも、畢竟、自分の心弱さから起ったのだ、こう自覚すると、彼の絶望はさらに深刻を増すのであった。 彼は皇帝のそばへ近よることができた……否、できたのみならず、またそうするべきであったのだ。これは皇帝におのれの信服をしめす唯一の機会であった。しかるに、彼はそれを利用
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しなかった……『俺はなんという事をしたんだろう!』と彼は思った。彼は馬首を転じて、皇帝を見つけた場所へ駈け戻った’。しかし、溝の向うにはもはや誰もいなかった。ただ輜重や馬車が通っているのみであった。ロストフは一人の馭者からクトゥソフの本営はほど遠からぬ村にある、この輜重もその方へ行っているのだということを知った。ロストフは車の後について馬を進めた。 彼のすぐ前をクトウソフの調馬師が、馬衣を着た幾頭かの馬を曳きながら歩いていた。調馬師の後から一幅の行李が進んで行き、その後には兵隊帽に半外套をつけた、足の曲った老僕が歩いていた。 「チイト、おい、チイトー」と調馬師が言った。 「たんだね?・」と老人がぼんやりした声で答えた。 「チイトー 麦打ちに行けよ。」 「ええ、ちょっ、馬鹿馬鹿しい!」腹立たしげにぷっと唾を吐きながら、老人はそう言った。沈黙の行進がしばらくつづくと、ふたたび同じたわむれがくり返された。
午後四時すぎ、戦闘は各方面とも全敗に帰した。百門以上の砲がすでにフランス軍の千に落ちた。プルジェブイシェーフスキイは全軍団を提げて、武器を捨て降服した。その他の縦隊は約半数の人員を失い、入りまじった乱群となって退却した。 ラソジェロソとドプトウーロフの敗残軍は入り乱れて、アウゲスト村に近い池の堤防や岸の上で、押し合いへし合いしていた。
五時すぎには、ただアウゲスト村の堤防の辺で、激しい砲声が聞えるばかりであった。それはフランス軍の一隊か、プラーツェン高地の斜面に多数の砲兵隊を整列させて、退却中のロシア軍を撃っているのであった。 後衛の方ではドフトウーロフその他が大隊を集めて、友軍を追踪するフランス騎兵を撃退するため、しきりに発砲していた。黄昏が迫ってきた。アウゲストの狭い堤防1年とった水車場の主人が頭巾をかぶり釣竿を持って、のん気に腰をおろしていると、そのそばでは孫がシャツの袖をたくし上げて、如露の中でぴちぴちと跳る銀鱗をいじっているような場景や、また尨毛の帽子をかぶって青いジャケツを着たモラヴィヤ人が、小麦を積みこんだ二頭立ての荷馬車に乗って通り過ぎたり、粉だらけの人夫が真白な荷馬車を追っていったりする平和な光景を、永年、見なれたこの狭い堤防の上で、今や死の恐怖のために浅ましい相好になった無数の人が、車幅、大砲の下などをおし介いへし合いしながら、弾丸の下に倒れたり、その倒れた者を踏みこえたり、互に殺し合ったりしている。それもただ一歩と進まぬうちに同じような死骸となるために過ぎなかった。 この乱軍の真ん中へ、十秒ごとに、砲弾が空気を圧縮しながら落下し、榴弾が凄まじい音を立てて爆発しては、おびただしい人を殺して、そばちかく立っている者に血煙を浴びせるのであった. t 手に負傷したドーロホフは、中隊の兵士を十人ばかり連れて (彼はもう将校にたっていた)、徒歩で進んでいたが、それに騎馬の連隊長を加えて、これだけが連隊で生き残った者の全部
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であった。群衆の波に引かれて、彼らは堤防の出口へおしつめられ、八方から圧迫を受けながら立ち止まった。前方の馬が砲車の下に倒れたので、大勢で引き出しにかかっていたのである。一つの砲弾が彼らの後方で誰かをたおした。と、いま一つ前方に落下して、ドーロホフに血煙を浴びせかけた。群衆は死物ぐるいで前へおしかけ、二三歩ふみ出したが、またふたたび堰き止められた。 『ここ百歩ばかり過ぎたら、きっと助かるに相違ない。しかし、もう二分間ここにじっとしていたらかならずやられるに相違ない。』 一人一人がそう考えていた。 群衆の真ん中に立っていたドーロホフは、二人の兵士を跳ねたおしながら、堤防の端へおどりでて、池をおおっている滑っこい氷の上へ駈けおりだ。 「やってこいI・」足の下でみしみしと鳴る氷の上を跳び上りつつ、彼は陦んだ。「やってこい!」と彼は砲に向かってどなった。「大丈夫もつよI………」 成程、氷は彼を支えていたが、しかし、ぐっと擁って、みしみし音を立てていた。砲車や群衆を乗せるどころか、彼一人の重みだけでも今に砕け落ちるのは、一見して明らかであった。人々は彼を眺めながら、氷の上へおりだものかどうかと、決しかねたようにじりじりと岸の方へ寄ってきた。騎馬のまま堤防の口に立っていた連隊長は、ドーロホフの方へ向いて手を上げ、口を開いた。その途端、砲弾が一つ群衆の頭上ひくくひゅうと鳴ったので、一同は思わず首をかがめた。たにやら湿ったものの中へぐじやりと落ちこむような音がした、と思う間に。将軍
は馬から落ちて、血のぬかるみの中へ倒れた。がい誰ひとり将軍の方をふり向こうともしなければ、抱き起そうとも考えなかった。 「氷の上へ出ろ! 氷の上を歩け! 早く出ろ! 曲らんか!おい聞えないのか! 出ろったら出ろ!」将軍に砲弾が命中するやいなや、自分でもなんのためにどなっているのやら、それさえわからない無数の叫び声が唐突に起った。 最後に堤防へ乗り込んだ砲車の一つが、氷の上さして向きを変えた。兵士の群は凍った池の方へ駈けおり始めた。と、先頭に立った兵士の一人の足下で氷がめきめきと割れ、片足が水の中へ落ちこんだ。彼は急いで上ろうとして腰まで落ちこんでしまった。そばに立っていた兵士らは尻ごみし始め、砲の騎手は馬の手綱をしめた。けれど、後の方では「氷の上へ出ろ! なんだってぐずぐずするんだ、出ろ! 出ろ1・」という叫声が依然として聞える。恐怖の叫びが群衆の中に起った。砲車をとりかこんでいる兵士らは、馬頭を転じて前へ進ませようと、鞭をふるって殴りつける。馬は岸を離れた。今まで歩兵を支えていた氷は、このとき大きく崩れ落ちた。氷の上にいた四十人ばかりの兵士は、或いは前へ、或いは後ろへ、互に味方を溺らせ合いながらもがき出した。 砲弾は依然として正しい間隔をおきながら、ひゅうひゅうと飛んでき、氷の上、水の中、とくに堤防と池と岸をおおっている群衆の中へ、凄まじい爆音を立てながら落下するのであった。
編
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第
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一九 アソドレイーボルコソスキイ公爵は、ひるま軍旗の柄を持って倒れたプラーツェソ高地の一隅に、滾々と流れ出る血をそのまま横だわっていた。そして、低い、哀れな、子供らしい声で無意識にうなりつづけた。 夕刻になって彼はうめき声をやめ、ぴったり静まり返った。彼は無意識状態がどれくらいつづいたか知らなかったか、ふと自分がまだ生きていて、焼けっくような、なにか引き裂くような頭の痛みに苦悶しているのに心づいた。 『あれはどこへいった? 今まで気がつかないでいて、今日はじめて見つけたあの高い空はどこへ行った?』これが彼の最初の想念であった。『それにこの苦痛もやはり知らなかった。』と彼は考えた。『そうだ、俺は今までなんにも、なんにも知らなかった。しかし、俺はどこにいるのだ?』 彼は聞き耳を立てはじめた。と、しだいに近づき来る馬蹄の音と、フランス語で話す人々の声が耳に入ってくる。彼は眼を見ひらいた。頭上には雲がIだん高く浮かんでいるばかりで、依然、変りのないかの高い空が展け、雲の隙間からは青々とした無限の淵がうかがわれる。彼はこうべを転ずることができなかったので、馬蹄の音や話し声から推して、疑もなく自分のそばへ寄って立ち止まったらしい人々の顔を、見るわけに行かなかった。 近よってきた騎馬の人は、二人の副官を従えたナポレオンであった。ボナパルトは戦場を巡回して、アウゲストの堤防を狙
撃する砲兵隊に増援を与えるよう、最後の命令をくだすと、戦場に遺棄された戦死者、負傷者の巡視にとりかかった。 (`)e beaux hommes ! gt2」とナポレオンは、戦死した口シアの選抜兵を見てこう言った。この兵士は顔を泥の中に埋め、後頭部を黒ずませ、すでに固くなった一方の千を長々となげ出したまま、俯伏しになって倒れていた。 「陛下、もう砲弾がございません。」この時、アウゲストを射撃している砲兵隊から駈けつけた、一人の副官が報告した。 「予備の方から取ってこさせろ。」と答えてナポレオンは二三歩はなれると、ほうり出された軍旗の柄のそばに、あおむけに倒れているアンドレイ公欝のそばに立ち止まった(軍旗はこの時すでに戦利品としてフランス軍に奪われていた)。 「が冨呂・g19弖 昌皆匹筰」とナポレオンはボルコソスキイを見ながら言った。 アンドレイ公言は、これが自分のことを言ってるのだ、そしてこれを言ったのはナポレオンだなと悟った。彼はこれらの言葉を発した当人を、人々が泓3四と呼ぶのを耳にした。が、蠅の唸りを聞くような気持で、これらの言葉を聞いた。彼はそれに興味を持だなかったのみか、べつだん気にもとめずすぐ忘れてしまった。たんだか頭が焼けるような気がする、体じゅうの血が流れ出てしまうように思われる。彼は眼の前に遙かな、高い永遠の空を見た。彼はこの人がナポレオソー彼の崇拝する英雄であることを知っていた。しかし、この瞬間大ナポレオンも、白雲を浮かべた高い無限の空と彼の魂との間に生じつっあるものに比べては、じつに小さなとるにもたらぬ人間に思われ
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「ああ!」とクトウソフは言った。「あの教訓がお前を匡正してくれる事と、わしは信じておる。しっかり勤務に従うのだぞ。皇帝陛下は御仁恵に渡らせられるから、もしお前にそれだけの功績かあったら、わしもけっしてお前のことを忘れやせん。」 水色の明るい眼は連隊長を眺めた時と同じく、大胆に総指揮官の顔を見つめた。それは自分の表情で、この一兵卒と総指揮官をはるかに隔てている階級の冪を、引き破ろうとしているようであった。 「たった一つお願いがございます、閣下。」彼はもち前のよく響くしっかりした声で、せきこまずに言った。「どうぞわたくしの罪をつぐなって、皇帝陛下およびロシア帝国。に対する信服の念を、証拠だてる機会を与えて下さいまし。」 クトゥソフゆ顔をそむけた。その顔には、さきほどチモーヒソ大尉から眼をそらしたときと、そっくり同じ微笑がちらとかすめた。彼は顔をそむけ眉根に皺を寄せた。それはいまドーロホフの言ったことも、また自分がドーロホフに言い得ることも、みんなずっと以前から承知している、そんな事にはもうあきあきしてしまった、それは自分の必要とするところとまるで進っているIと、クトウソフの挙動は言っているように見えた。彼は踵をめぐらして幌馬車の方へ赴いた。 連隊は中隊ごとに分かれて、ブラウナウからほど遠からぬ指定の宿舎へ赴いた。そこへ行けば靴もはきかえるし、困難な行軍の疲れを休めることもできると、人々は楽しんでいた。 「君、僕に気を悪くしないでくれ給え、チモーヒソ君。」連隊
長は宿営地へ向けて動いて行く第三中隊を迂回しながら。先羂に立って歩むチモーヒソ大尉に馬を近づけてそう言った(連隊長の顔は検閲が無事に済んだために、隠しきれぬ悦びの色を堪えていた)。「職務は公の事だから……あんな事じゃ困るよ……またこの次にあんな事があったら、列前でも何でも癇鎖玉を破裂させるよ……がまあ、僕の方からさきに謝る。君は僕の気性を知ってるだろう…・:いや、非常に礼を言って行かれたよ!」と彼は中隊長に手をさしのばした。 『何をおっしゃるんです、将軍、私がそんな事を思うなどと!』と大尉は答えて、鼻を赤くしながらほほ笑んだ。が、その拍子に、かつてイズマイルの戦いに銃の床尾で打ち折られた前歯が、二本不足しているのをあらあした。 「それからドーロホフ君にも、わしはけっしてあの人を忘れな・いと、そう伝言してくれ給え。そして安心するようにってね。ああ、それから、どうか一つ聞かしてくれ給え、僕は始終たずねて見ようと思っていたのだが、あの男はどんなふうかね、品行はどうだね、そして……」 「勤務の方は非常に鰕正でありますが、しかし、性質がどうも’……」とチモーヒソが言った。 「どうしたね、性質がどうだと谷うんだね?」と連隊長はたずねた。 「閣下、その日その日で気分が変るんであります。」と大尉が答えた。「時には利口で、学問があって、親切ですが、時にはまるで獣です。ポ上フソドでは危く一人のユダヤ人を殺すところでありました、ご承知でしょうけれど……」
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た。いま淮が自分のそばに立っていようと、自分のことを人がなんと言おうと、彼にとってはぜんぜん没交渉であった。ただ人が自分のそばに立ち止まったのを彼は嬉しく思い、これらの人々が自分に助力を与えて、今はなにより美しく思われる生に帰してくれるようにと、それのみひたすら乞いねがった。事実、彼はいま生というものを別様に解釈し始めたのである。彼は体を動かし、なにか声を出して見ようと思って、ありったけめ力をふりしぼった。彼は弱々しく足をぴくりと微動さして、自分が燐れまれるような、力ない、病的な呻きを発した。・「ああ! この男は生きている。」とナポレオンは言った。「こ・の青年を起して繃帯所へ連れて行け!」 こう言いおいて、ナポレオンはランヌ元帥の方をさして進んで行った。ラソヌは幅子をとって微笑を浮かべ、戦捷を祝しつつ皇帝に近よった。゛んマッドレイ公欝はそれからさきの事をたにも覚えていない。担架に乗せられたり、運搬の際に揺られたり。繃帯所で傷を探針で掻きまわされたりしたときの、恐ろしい痛みのために意識を失ったのである。彼はその日の終りごろ、ほかのロシアの負傷兵や俘虜将校とともに病院へ運びこまれたとき、始めてようやく我に返った。この移動のときには、彼は幾らか気分がすがずがしくなり、あたりを見まわしたり、ものを言うことさえできるようになった。 彼が我に返ったときはじめて聞いた言葉は、早口に語る護衛将校のフランス語であった。 つ」こに立ってなくちゃならない。今にすぐ陛下がご通過あそ
ばすのだからな。陛下はこの俘虜の先生がたを見たいとおっしゃるのだ。」 「今日の俘虜の数は凄いものだ、ほとんどロシア軍ぜんぶ七雛らないばかりだ。陛下も多分あきあきなすったろうよ。」といま一人の将校が言う。 「そうさね、しかし、人の噂によると、この大はアレクサンドル皇帝の近衛師団ぜんぶの指揮をしてたんだとよ。」第一の将校は、白い近衛騎兵の正服をつけている、一人の負傷したロシア将校を指さしながら言った。 ボルコソスキイはこの大が、ペテルブルグ乃社交界でたびたび出あったことのある、レープユン公爵であることに気づいた。もう一人おなじく負傷した近衛騎兵将校で、十九歳ばかりの青年が、この大とならんで立っていた。 ボナパルトは駈足で近よって馬を止めた。 「だれが一番の古参者かね?」と彼は俘虜を見て間いかけた。 大佐レープユソ公爵が名ざされた。 「君はアレクサンドル皇帝の近衛騎兵連隊長かね?」とナポレオンがきいた。 「わたしは中隊を指揮しておりました。」とレープユソが答えた。「君の連隊はりっぱに自分の義務を果たした。」とナポレオン。「大将軍の讃辞は一兵卒にとってなによりの報酬です。」とレープユン。「その讃辞を悦んで君に与えます。」とナポレオンは受けた。「君のそばにいるこの青年は淮かね?一
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レープユソ公爵はスフチェーレソ中尉と答えた。 ちらとその方を眺めて、ナポレオンはほほ笑みながら言った。 「11 est venu bien 」eune se frotter &nous.#¥tktn?」」弋こられたものだな・」 「若いということは勇敢であることをさまたげません。」と、ぎれぎれな声でスフチェーレソが言い放った。 「りっぱな答だ。」とナポレオンが言った。「君はなかなか出世するよ!」 獲物をひときわ立派にするために同じく皇帝の前におかれたテソドレイ公爵は、彼の注意をひかずにいなかった。ナポレオンは彼を戦場で見たことを思い出したらしく、彼に向かって、jeune homme 90 ‐この言葉とともにボルコソスキイの姿が、はじめて彼の記億にたたみこまれたので1という言葉を使って話しかけた。 「うん、君、若い人?」と彼は言った。「気分はどうだね、n!onbrave P ¥Is」 アンドレイ公爵はたった五分ばかり前、自分を運ぶ兵卒に二こと三こと話しかけることができたにもかかわらず、いまはただ射るような隕ざしをナポレオンにそそいだきり、黙りこんでいた……きょう彼が発見し理解したかの公平にして善良な高い空に比べると、この瞬間、ナポレオンの心を占めているすべての興味、浅薄な虚栄心、勝利の悦び、そしてこの大英雄自身までが、なんの価値もない小さな者に思われた。彼は返事する気にもなれなかった。 のみならず、多量の出血に起因する衰弱や、深手の苦痛や、
近い死の期待などが呼びさました峻厳荘重な思想に比べては、一さいのものがことごとく無益で無価値に思われた。ナポレオンの眼を見つめながら、アンドレイ公爵は功名の無価値なこと、何人もその意義を知りえない人生の無価値なこと、生きているものの誰一人として意味を知ることも、証明することもできない死の、なおいっそう無価値なことを思っていた。 皇帝は答えを待たないで馬首を転じた。立ち去りぎわに長官の一人に向かって、 「この人たちによく気をつけて、わしの陣営へ連れてこさしてくれ。侍医のラルレイに傷を見さしてやろう。では、さようなら、レープユソ公爵。」こう言って彼は馬に拍車をあて、駈足でさきへ進んで行った。彼の顔には自足と幸福の色が輝いていた。 兵士らはアンドレイ公爵を運んでくる途中、妹のマリヤが首にかけた金の聖像が眼に入ったので、そっととりはずしておいたが、俘虜にたいする皇帝の優しい態度を見ると、急いでその聖像をもとへ戻した。 アンドレイ公爵は、誰がどうしてかけてくれたか気づかなかったが、思いがけなくも、軍服の上から細い金の鎖のついた聖像がかかっていた。 『ああ、どんなにかいいこったろう。』妹が心をこめて、うやうやしげに首へかけてくれたこの聖像を眺めながら、アンドレイ公欝は心に思った。『もしいっさいがマリヤの考えるように簡単明瞭であったら、どんなにかいいだろう。この肬ではどこに救いを求め、あの世では1墓の下ではなにを期待したらい
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いか、それがすっかりわかったら、さぞいいだろうなあ! も しいま「神よ、我を燐れみ給え……」と言うことができたら、。俺はどんなに幸福で、平穏な気持でいられるかしれないのだが、しかし、誰にそれを言うのだ? 漠然とした、理解することのできない力に向かってか? いや、俺はそんなものに祈ることができないぽかりでなく、偉大だとも無価値だとも言葉でいい現わすことができない。』と彼はひとりごちるのであった。 『それともマリヤがここにこの守袋の中に縫いこんでくれた神様だろうか? 何もない、何もない。俺に理解のできるいっさいのものが無価値でなにかしら意味のわからない、しかし、非常に重大なあるものが偉大であるIということよりほか、正確なものは何もないのだ!』 担架が動き出した。一歩一歩揺れるごとに、アンドレイ公爵はたえがたい疼痛を感じた。熱病やみのような状態がしだいにつのってきて、彼はうわ言を言い始めた。戦闘の前夜に経験した、父、妻、妹、それから近い中に生まれるわが子などにかんする優しい空想、つづいて価値なき小人ナポレオンの姿、そして最後に、これらすべての上に君臨する高い空などが、熱に浮かされた彼の幻覚の基訓をなしていた「 禿 山での静かな生活や、穏かな家庭の幸福か、彼の脳裡に浮かんできた。彼がこの幸福を楽しんでいるとき、他人の不幸に喜びを感じているような、同情のない、浅薄な眼つきをした、小人ナポレオンかふいに姿を現わした。それと同時に、恤疑と苦悶が始まったが、ただかの空ばかりが平安を約するのや。あった。夜あけごろ、すべての空想は、前後不覚の混沌たる
忘却の闇の中へ溶けこんで、一つにまじり合ってしまった。この状態はナポレオンの侍医ラルレイの意見によると、回復よりも、むしろ死によって解決されるらしかった。Iu'est un sujet nerveux et bilieuxs」とラルレイが言った。「il n"en r6chappera pas.2作アンドレイ公認は見こみのない他の負傷者といっしょに、土地の住民に世話をまかされることとなった。
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第 四 編 一
千八百六年の初め、二コライーロストフは賜暇を得て帰国した。ジェニーソフもやはりヴオローネジュヘ帰郷することになったので、ロストフはIしょにモスクワまで同行し。自分の家へ逗留するようにすすめた。モスクワの一つ手前の駅で、ある友人に出あったジェニーソフは、この男を相手に酒を三本倒した。乗継ぎ橋の底に長くなって、道の凸凹のはげしいのも平気で、いっかな眼をさまそうとしなかった。そばに坐っている口ストフはモスクワが近づくにつれて、段々じりじりしてきた。 『もうすぐかな? もうすぐかな? ああ、こんな往来や、店や、店に並んでいるパソや、街燈や、辻馬車や……じつにいまいましいな!』とロストフは考えたが、そのとき、彼らはもう町の関門で、自分たちが賜暇で帰ったことを記入して、モスクワへはいっていたのである。 「ジェニーソフ、着いたぞ! ええ、まだ寝てるんだな!」彼ぱ全身を前へ乗り出しながらこう言った、ちょうどこの身がまえでもって、橇の速力を早めようとするかのように。 ジェニーソフは答えなかった。 「ああ、ここは馬車屋のサバールが辻待ちしている四つ角だ。ほら、ここにいるのがサバールだ。そして、馬も以前と同じだ。ああ、あれはよく薑餅を買ったことのある店だ。もうすぐか
な? おい!」「どの家ですね?」と馭者がきいた。「そら、あの一番はじにある大きな家だ。いったい貴様あれが見えないのか! あれがおれの家たんだ。」とロストフは言った。「あれがおれの家なんだI ジェニーソフー ジェニーソフー もうすぐ着くぜ!」 ジェニーソフは頭を上げて咳ばらいをしたが、なんとも答えなかった。 「ドミートリイ、」とロストフは馭者台にすわっている従僕に声をかけた。「あれは家の灯だろう?」 「さようでございます。そして、お父様のお書斎も明るいようでございます。」 「まだ寝ないでいるだろうか? うん? 貴様どう思う?―いいか、忘れちゃいかんぞ、すぐ新しい上衣を出すんだぞ。」と新しいひげをひねりながら、ロストフはつけ足した。「さあ、早くやらんか、」と彼は馭者をどなりつけた。「おい、起きろよ、ヴァーシヤ。」と彼はまたもや首を垂れたジェニーソフの方へ向いた。「さあ、こら、急がんか、酒代に三ルーブリくれてやる、早く!」もう橇が車寄せから三軒手前まで来ているのに、ロストフはこう叫んだ。 彼はなんだか馬が動かないような気がした。ついに艪は車寄せさして右手へ曲っだ。ロストフは自分の頭上に、漆喰の剥げた見覚えのある蛇腹や、入口の階段や、歩道の柱などを見た。彼はまだ止まりきらぬうちに、橇を飛びおりて玄関へ駈けこんだ。大きな家は、だれが中へはいってこようと、我不関焉と言
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つだように、依然として不愛想らしくじっと立っていた。玄関には誰もいなかった。 『どうしたんだろう! みんな無事なのかしらん?』とロストフは考えて、心臓の凍るような気持でちょっと立ち止まったが、またすぐ見なれた歪んだ階段を上って、玄関の奥の方へと駈け出した。いつも伯爵夫人が汚ない汚ないと言って憖っていた戸口の(ンドルが、やはり弱々しく開いた。控え室にはm蝋燭がたった一本燃えていた。 ミ(イロ老人は箱の上で眠っていた。お供廻りのプロコーフ゛イは(箱馬車の後ろを持って吊り上げるほどの力持ちであった゛ヽじっと坐゜て布の齢尠で靴を編んでいたがヽなにげなく戸の開いた方を見やった時、その気のなさそうなねむたげな表情は、ふいに歓喜と鶩樗の色に変った。 「まあ、坊っちゃま! 若旦那さま!」彼は主人と気がついてこう叫んだ。「これはまあ、なんというこった? 坊っちゃまがお帰りなされた!」プロコーフイは興奮のあまり身をふるわせながら、一同に知らせるためであろう、客間の戸口をさして駈け出したが、また思いなおしたらしく、ひっ返して、若主人の肩に身をなげた。 「みんな達者かね?」ロストフは自分の手をもぎ離しながらき 「はい、お險さまで! お險さまですっかり…・:ただいま夜食をお上りになったばかりでございます。若旦那さま、よくお顔を見せてくださりませ1・」 「みんな本当に変りはないかい?」
「お陰さまで、はい、お陰さまで!」 ロストフはジェニーソフのことをすっかり忘れてしまって、誰にも自分の帰ったことを取次がせず、毛皮外套を脱ぎすてると、暗い大きな広間をさして爪さきだちで飛び出した。同じカ。ルタ机、同じおおい布のかぶさった枝燭台、なにもかも以前のままである。しかし、もう淮か若主人を見つけたので、彼が客間まで駈け着かないうちに、横手の戸口からなにやらまっしぐらに。嵐のように駈け出して、いきなり彼に抱きついて接吻しはじめた。それから、第二第三と、同じような者が、第二第三の戸口から飛び出した。つづいてまた抱擁、また接吻、それにまた、歓喜の涙と叫び声が彼をとりかこんだ。彼はどこに誰がいるのか、淮が父か、誰がナタージャか、誰がペーチャか見分けがつかなかった。一同の者が一時に叫び、語り、接吻するのであった。ただその中に母がいなかったIそれだけは彼も覚えていた。 「わしはまるで思いがけなかったよ……一一コールツカ……よく帰ってくれた!」 「あらまあ……珍しい……{一Iリャが……すっかり見違えてしまったわII蝋燭がないI。お茶を翳くI・} 「ねえ、あたしをキスしてちょうだ廴!」 「兄さん……あたしも。」 ソーニャ、ナターシャ、ペーチャ、アソナードルペッカーヤ、ヴェ上フ、老伯爵などが彼を抱きしめた。召使や小間使たちも部屋へいっぱいになって、口々に話し合にいながら感嘆の声を上げていた。
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・ペーチャは彼の足にぶら下って、‘ [僕にも!]と叫んだ。 ナターシャは兄を自分の方へかがませて、軍服の裾につかま りながら。顏じゅう一面に接吻をした後で、彼のそばを飛びの き、牝山羊のように同じ処で踊りながら、黄色い声でわめき立 てるのであった。 どちらを向いても、喜びの涙に輝く愛の眼があった。どちら を向いても、接吻を求める唇があった。 ソーニャは緋ラシャのように赤い顔をしながら、同じく彼の’手にとりすがって、待ち焦れていた人の眼に視線を注ぎっつ、 はれやかな顔を仕合わせらしく輝かしていた。ソー・{ヤはもう 満十六を過ぎて、非常に美しくなっていたが、しかし、この幸 福な歓喜にみちた興奮の瞬間、ことさらあでやかに見えるので あった。彼女は微笑を含んで息を殺しながら、眼を放さずに彼 を眺めていた。彼は感謝するようにちらと彼女を瞥見したが。 やはり、まだ誰か待受けるようにさがし求めていた。老伯爵夫 大が出てこなかったのである。やがて、戸口に足音が聞えだ。 が、この足音は母と思われぬほど早かった。 しかし、それはやはり彼女であった。彼女はロストフの出征 中に縫った、見覚えのない新しい着物を身にまとっていた、一 同は彼のそばを離れた。と、彼は母の方へ駈け出した。二人が 両方から出合ったとき、夫人は慟哭しながら彼の胸にたおれか かった。彼女は顔を上げることができないで、ただわが子の軍 服の冷たい飾紐にひしとおしつけるばかりであった。誰も気の つかないうちに、部屋へはいってきたジェニーソフは、そこに
つつ立つたまま、人々の様子を眺めて涙をふいていた。 「ヴァシーリイージェニーソフ、ご子息の友達です。」不審そうに自分を眺める伯爵に向かって、彼は名を名乗った。 「おお、それはようこそ! 知っています、知っています。」ジェニーソフを抱いて接吻しながら、伯爵はこう答えた。「Sコールシカが手紙でしらせました……ナターシヤ、ヴSIラ、この方がジェニーソフさんだよ。」 同じく仕合わせらしく歓喜にみちた顔が、いくつもいくつも飛んできて、ジェニーソフの髯むくじゃらな姿をとり巻いた。 「あらまあ、゛ジェニーソフさん!」とナターシヤは黄色い声を上げて叫んだ。そして、歓喜のあまりわれを忘れて飛び上り。彼を抱きしめながら接吻した。一同はこのナターシヤのふるまいにきまりの悪い思いをした。ジェニーソフも同じく顔を赤めたが、それでも、微笑を浮かべながら、彼女の手をとって接吻した。 ジェニーソフは。あらかじめ用意してあった部屋へ案内された。ロストフ家の人々は長椅子部屋に集まって、f一コールシカをとり巻いた。 老伯爵夫大はすこしも彼の手をはなさないで、一分ごとに接吻しながら、わが子とならんで坐っていた。その余の人々は二人のまわりに群れ集まって、彼の匸二行一瞥をものがすまいと努めながら、歓喜にみちた、惚れぼれしたような目をはなさなかった。弟妹らは兄に近い席を、互に争いながら奪い合った。そして、兄のために茶や、(ンカチや、パイプなど運んでくる役目で喧嘩をはじめた。
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叭二と平和
ロストフは人々の示してくれる愛に非常な幸福を感じたが、しかし、再会の最初の一瞬間が、うっとりするほど嬉しかったので、今の幸福がもの足りなく思われた。で、彼はいつまでももっと、もっと、もっとなにやら待ち設けていた。 翌朝、二人は旅の疲れで九時過ぎまで寝た。 次の間には軍刀、バッグ、背嚢、開け放したカバソ、汚ない長靴などがごろごろしていた。磨ぎ上げられた拍車つきの二足の靴は、たったいま壁のそばへよせかけられた。下男たちは洗面器や、ひげ剃の湯や、ほこりをはらった服を運んできた。あたりには煙草と男の匂いがしていた。 「おい、グリーシュカ、パイプをよこせ!」とヴァシカージェ一一-ソフのしゃがれだ声が叫んだ。「ロストフ、起きないか!・」 ロストフは澁い眼をこすりながら、くしゃくしやになった頭か・熱した机から持ち上げた。 「どうした、遅いのか?」 「遅いわ、九時過ぎてよ。」とナターシャの声が答えた。そして、次の間で糊をした着物の摺れる音と、少女だものささやいたり笑ったりする声が聞えだ。心もち開いた戸のすき間には、なにか空色したものや、リボンや、黒い髪や、楽しげな顔がちらちらしていた。それは兄たちが起きたかどうかと、ナターシャと、ソーニャと、ペーチャか見にきたのである。「二コーレソカ、お起きなさいよ!」また戸のそばでナターシャの声が聞えだ。「今すぐだ!」 このときペーチャは隣の部屋で軍刀を見つけて、いきなり手
にとった。そして、軍人の兄を見た小さな男の子が、いつも感ずるような歓喜の情を覚えながら、姉たちにとって半裸体の男を見るのはぶしつけだということを忘れて、いきなり戸を開けた。 「これ兄さんのサーベル?」と彼は叫んだ。 少女たちは思わず飛びのいた。ジェニーソフはおびえた眼つきをして、助けを求めるように友をふり返りながら、自分の毛むくじゃらな足を毛布の中へかくした。戸はペーチャを入れるとまた閉まった。戸の向うでは笑い声が聞えだ。 「二コーレソカ、部屋着のまま出ていらっしやい。」とナターシャの声が言った。 「これ兄さんのサーベル?」とペーチャがきいた。「でなければ、あなたのですか?」熱情的な尊敬をもって、彼はひげだらけな色の黒いジェニーソフの方へ向いた。 ロストフは急いで靴をはき、ガウンをまとって部屋を出た。ナターシャは拍車のついた長靴を片足にはいて、いま一方をはきかけていた。ソーニャはきりきり舞いをしながら、いまにも服の裾をひろげて、べったり床へ坐ろうとしたところへ、ひょっこりロストフが出てきたのである。二人とも同じ新しい空色の服を着け、いきいきと楽しそうなバラ色の顔をしていた。ソーニャはいきなり逃げ出したが、ナターシャは兄の手をとって、長椅子部屋へひっぱっていった。やがて、二人の間に話がはじまった。二人はほかの者にはなんの興味もない、無数の瑣末な事柄について、互にたずね合ったり答え合ったりして、いくら話しても話しつくせないような気がした。ナター・・シャは兄
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の言葉や自分自身の言葉に、いちいち笑い声を上げた。モれはなにもおかしいからではなく、彼女の気分が浮き浮きしていたからである。彼女は笑いとなって現われる喜びを、おさえることができなかった。 「まあ、本当にいいわねえ、素敵ねえ!」彼女はなんでもかでもこうつけたした。 ロストフは熱い愛の光線の作用で、家を出ていらい一度も浮かべたことのない子供らし卜微笑が、一年半後に初めて心の中にも、顔の上にも、ひろがるのを感じた。 「ちょいと、お聞きなさいな、」と彼女は言った。「兄さんはもうすっかり大人になったの? あたしね、あなたがあたしの兄さんだと思うと本当に嬉し卜わ。」彼女は彼のひげにさわって見た。「あたしは兄さんたち男ってものが、どんなものだか知りたいわ。あたしたちと同じよう? ちがって?」 「なぜソーニャは逃げ出したんだい?」とロストフはきいた。 「ええ、あれにはいろいろわけがあるのよ! 兄さんはソーニャとどんなふうに話をして? お前とおっしゃるの、あなたとおっしゃるの?」 「出たとこ勝負さ。」とロストフが言った。 「あなたと言ってちょうだ卜、後生だから、わたし後でわけを話すわ、いいわ、いま言ってしまってよ。兄さんも知ってるでしょう、ソーニャはあたしの友達なの、それもあの人のためには手まで焼くほどの友達なの。ほら、ごらんなさい。」 彼女は紗の袖をまくって、長いやせた華奢な手を出した。その肩の下I肘よりずっと上の辺(それは夜会服でもかくれる
ような処であった)にある赤い傷あとを見せた。 「これはね、ソーニャに愛を証明するために焼いたの。なんでもないのよ、卦算を火で焼いて、それを押しつけたの。」 自分のもとの勉強室で、肘掛にクッションをのせた長椅子に腰をかけ、このナターシャの無性に元気づいた眼を眺めているうちに、ロストフはまた家庭的な子供らしい世界にはいった。それはほかの人には無意味なものであったが、しかし、彼にとっては、人生における最も悦ばしい快楽の一つであった。それ故、愛を証明するために卦算で手を恍いたという話も、あながち無用の業とは思われなかった。彼はその心持を了解したので、べつに驚きもしなかった。 「それでどうしたの? それだけかい?」と彼はきいた。 「まあ、それくらい仲がいいのよ! なあに、そんなことはなんでもないの、馬鹿なことなのよ、卦算で焼くなんて。だけど、あたしたちはいつまでも親友なの。ソーニャはいったん誰かを愛したら、永久に変りゃしないわ。でも、あたしにはその心持がわからなくってよ、あたしすぐ忘れてしまうの。」 「そう、で、どうしたの?」 「ねえ、あの人はあたしとそして兄さんを愛してるのよ。」 ナターシャはふいに赧くなった。 「ねえ、兄さん覚えてるでしょう。出立の莨に……ね、あの人の言うには、あのことは兄さんにすっかり忘れて貰いたいって……あの人はこう言うのIあたしは一生あの人を愛するけれど、あの人は自由であってほしいって。ねえ、そうじゃなくって、立派な言い分でしょう、潔白な考えでしょう! ね、ね?
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と平和
戰爭
ほんとうに潔白でしょう? ね?」とナター・シャは興奮したまじめな調子でたずねた。その様子から察すると、いま彼女の言ったことは、前にも二人で涙ながらに話したことがあるらしい。 ロストフは考えこんだ。 「僕はどんな事だろうと、いったん言いだしたことを取り消したりなんかしない。」と彼は言った。「それに、ソーニャはまったく可愛い子たんだもの、そういう幸福を碌に振るような馬鹿はありゃしない。」 「いいえ、いいえ、」とナターシャは叫んだ。「あたしその事はもうソーニャとよく話したわ。兄さんがきっとそう言うに違いないと、あたしたちも思ってたの。だけど、それは駄目よ。なぜって、そうじゃなくって、もし兄さんがそんな事をおっしゃると、自分の言葉に束縛されたような考えでいらっしゃると、まるであの人がわざとそう言ったようにたってしまうわ。そうすれば、兄さんが仕方なしに、あの人と結婚するような工合になるでしょ。そうすれば、まるっきり妙なふうになるじゃありませんか。」 ロストフは、これらすべての事が二人の少女によって、よく考慮されているのを見てとった。ソーユヤは昨夜もその美しさで彼を驚かしたが、今朝ちらと見たときには、また一段と美しいように思われた。彼女は満腔の熱情をもって彼を愛している (彼はこれに少しも疑いなさしはさまなかった)、美しい十六の少女であった。『今おれがあの娘を愛して結婚するのが、いけないとしう理由はない。』とロストフは考えた、『しかし、今はまだまだほかに楽しみや仕事がある! そうだ、実際、二人
とも立派な考えを出してくれた。まだ暫く自由の身でいなくちやたらない。』 「いや、結構だ。」と彼は言った。「またあとで話そう。ああ、本当に僕はお前が好きだよ!」と彼はつけたした。 「ところで、お前はどうだい、ボリースに心変りしなかったかい?」兄はこうたずねた。 「あら、あんな馬鹿らしいこと!」と笑いながらナターシヤは叫んだ。「あの人のことも淮のことも、あたし考えてやしないわ、知りたくもないわ。」 「おやおや!・ で、お前どうなの?」 「あたし?」とナターシヤはきき返した。と、幸福げな微笑がその顔を照らした。「兄さん、シュポールを見て?・」 「いや。」 「有名な踊手のシュポールを見ないの? まあ、それじゃ兄布んにはわからなくってよ。あたしはね、こうたのよ。」 ナターシヤは両手で輪を描きながらスカートをつまんで、踊子のように二三歩とびすさってくるりと向きをかえ、軽跳舞をして足と足とをうち合わせ、爪さきを立てて二三歩すすんだ。 「ほら、立ってるでしょう? ほうらね。」と彼女は言ったが、すぐ爪さき立ちは持ちきれなくなった。「ね、あたしこうたのよ! 誰んとこへもお嫁入りしないで踊子になるわ。だけど、誰にも言わないでもようだい。」 ロストフは、次の間にいたジェニーソフが羨ましくなるほど、大きな声で愉快そうに笑いだした。ナターシヤもこらえきれないでIしょに笑い出した。
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「ねえ、いいでしょう?」と彼女はたえず言いつづけた。「いいね。で、ボリースのとこへはお嫁に行きたくないの?」 ナターシャはぱっと赧くなった。「あたしは淮んとこへもお嫁入りしたくないの。あたしあめ人にもそう言ってやるわ、今度あった時。」「おやおや!」とロストフは言った。「まあいいわ、そんなことみんなつまんない事なのよ。」とナターシャはしゃべりつづけた。 「兄さん、あのジェニーソフさんていい人?」と彼女はきいた。 「いい人さ。」 「そう、ではさよなら。着がえなさいな。あのひとこわい人、ジェニーソフさん?」 「なぜこわいんだい?」と二コライはきいた。「どうして、ヴアシカは立派な男だよ。」 「兄さんはあの人をヴァシカつて呼ぶの?一一一一・・・おかしいわねえ。それでどうなの、あのひと本当にいい人?」 「本当にいい人だよ。」 「じゃ早くお茶を飲みにいらっしゃい。みんな一し″にね。」 こう言ってナターシャは爪さきで立ち上り、踊子のするような恰好で部屋を出た。しかし、その微笑は幸福にみちた十五くらいの女の子にしかできないような微笑であった。客間でソーニャに出会ったとき、ロストフは顔を赧らめた。彼はソー。ニャにどんな態度をとっていいかわからなかった。ゆうべ再会の第一瞬には、歓喜にまぎれて接吻したか、今日はそれをするわけにゆかないのを二人とも感じた。ロストフは母や妹をはじめ、
一同の者が疑わしげに彼を眺めながら、ソーニャにたいしてどんな態度をとるか見てやろうと、待ちもうけているのを直覚した。彼はソーニャの手を接吻して、「あなたIソーニャさん。」と呼んだ。しかし、二人の眼が出あったとき、その眼ざしはへだてのない口をきき、優しく接吻しあったのである。彼女は自分の眼つきでもって、大胆にもナターシャを使いにして二コライの旧約をほのめかしたことを詫び、また彼の愛にたいして感謝の意を表した。彼はまた自分の眼つきでもって、自由を提供してもらった礼を言った。たとえどうなろうとも、自分はけっして彼女にたいする愛を変えぬ。なぜなら、どうしても彼女を愛さないではいられたいから、とこう言うようであった。 「だけど、本当に変だわねえ。」とヴェーラが一座の沈黙の瞬間を利用して言った。「いまソーニャと二コーレソカが他人行儀に、『あなた』言葉で挨拶するんですもの。」 ヴェーラの言葉はいつものようにもっともであったが、ほとんどすべての彼女の言葉と同様に、一同にきまりの悪い思いをさした。たんにソーニャや二コライやナターシャぽかりでなく、老伯甞夫人までが(夫人はわが子から立派な配偶を奪う危険のあるソーニャと二コライの恋を恐れていた)、同じく小娘のように赤くなった。しかし、ロストフが鶩いたのは、ジェ4Iソフが新しい軍服を着け、頭を油で光らせ、香水の匂いをぷんぷんさせながら、戦場でよく見かけたと同じしゃれた様子で客間へはいってきて、婦人たちにたいしてひどく愛想のいい鵑士になりすましたことである。これはロストフの夢にも期待し得ないことであった。
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二 軍隊からモスクワへ帰ってきた二コライーロストフは、家の人だちからは大切な息子、英雄、愛すべき二コールシカとし气親戚の者からは可愛くて気持のいい慇懃な青年として、知人からは美しい軽騎兵中尉、巧妙な踊手、モスクワでも指折りの花婿候補者として歓迎された。 ロストフ家の交際はモスクワ全市が相手であった。今年ロストフ家の領地がぜんぶ二番抵当に入れられたので、金は老伯甞の手元にうんとあった。で、二コールシカは自身専用の乗馬や、まだモスクワでは誰もはいていない風変りな最新流行の乗馬ズボンや、思いきって爪先の細い、小さな銀の拍車のついた、最新流行の長靴を購めて、しごく愉快に時を過した。 帰宅後、もとの生活状態になれるまで幾らかの時日を経てから。ロストフはしだいに快い感じを味わい始めた。彼は自分が非常に成人して、すっかり大人になりきったような気がした。神の掟器品皙四の試験に落第L-t悲讐したこと、ダヴリーラから辻馬車賃を借りたこと、ソーニャと秘密に接吻したことIそういうことは今からはかりしれぬほど遠い、少年時代の戯れかなんぞのように追想された。彼はいま銀色燦爛たる軍服に、ゲオルギイ勲章をつけた軽騎兵中尉として、人から尊敬されている相当な年輩の有名な銃猟家だちと一しょに、自分の乗馬で駈けの練習をしたり、また並木街に住む知合いの婦人のところへ毎晩でかけていったり、またアル(Iロフ家の舞踏会でマズルカの指揮をしたり、カーメソスキイ元帥と戦争の話をし
たり、イギリスークラブヘ出入したり、それからジェニーソフの紹介してくれた四十恰好の大佐と、「君僕」で話したりした。 皇帝にたにいする熱情的な愛は、モスクワへ帰って幾分さめてきた。しかし、ここでは皇帝を見たこと夊なければ、見る機会もなかったので、彼はしばしば皇帝のことや、皇帝にたいする自分の愛を語ったが、それでも自分はすべてを語ったのではない、まだまだ他人の理解できないようなものが、自分の皇帝にたいする感情の中にかくれている、と悟らせるように話をし向けた。彼は当時モスクワ全市が『肉体を有する天使』の名称をもって表白している、アレクサソドルーパーヴロヴィッチ陛下にたいする尊崇の念に、心の底から同感していた。 軍隊へ去るまでのモスクワにおけるこの短い滞在中、ロストフはソーニャと接近するどころか、かえって遠々しくなってしまった。彼女がきわめて美しく可憐であり、しかも熱烈に彼を恋していることは明らかであった。しかし、彼はちょうどいまある一つの時期に遭遇していた。この時期におけるすべての若い人たちは、そんな事にかかわっている暇のないほど沢山の仕事を抱えているような気がして、無用な関係を結ぶことを恐れ、いろいろの事に必要な自己の自由を尊重しなくてはならぬIとこんなふうに考えるものである。モスクワ滞在中、ソーニャのことを思い及ぶたびに、彼はこう独りごちた。『ええ! まだまだあんな女は沢山あるさ。どこかほかにもおれの知らない女が、まだまだ幾らでもいるに相違ない。愛や恋は、したいと思えばいつだってできる。が、今はそんな暇はない。』その上に、女との交際は、男の品格を落すようにも思わ
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れた。彼は気の進まぬふりをして、舞踏会や婦人たちの会へ出かけた。競馬や、イギリスークラブや、ジェニーソフとIしょの遊蕩や、例の処へ出かけることなどは、また別問題であった。それは若い軽騎兵として法にかなった事なのである。 三月初旬、老伯爵イリヤー・ロストフはバダラチオソ公欝歓迎のため、イギリスークラブで催される晩餐会の準備に忙殺されていた。 部屋着をきた伯爵は広間を歩き廻りつつ、イギリスークラブの料理番頭を勤めている有名なフェオクチストとクラブの庶務員に、バダラチオソ公爵の歓迎会につかうアス。ごフガスや、新しい胡瓜や、苺や、犢や、魚などの指図をしていた。伯爵は創立の日からクラブの会員であり幹事長であって、バグラチオン歓迎会の準備をクラブから一任された。それは、こうした大がかりな歓迎会の準備を見事にしおおせる人が、他にないからで昌あったが、主な理由は準備に特別な金がいるとき、平気で身銭を費う人がめったにないからであった。料理番と庶務員は愉快そうな顔をして伯爵の命令を聴いた。なぜなら、この人の指揮の下で 何千ルーブリとかかるような晩餐会の準備をするときほど、懐の暖まることはないからである。 「ではいいか、帆立貝をな、帆立貝を亀汁に入れるんだぞ、いいか!」 「そうしますと、冷たいのを三つでございますね冫………」と料理番が尋ねた。 伯爵はちょっと考えこんだ。 「それより少くするわけにはゆくまい、三つだ……そして、マ
ヨネーズが一つ……」と彼は拑を折りながら言った。 「それで蝶鮫は大きいのをおとり寄せにたりますか?」と庶務員がきいた。 「負けないと言うなら、どうも仕方がないさ、とり寄せるがいい。あっ、そうだ、危く忘れるところだった。それからもう一つ間食品を出さなくちゃならん。ああ、大変だ!」と彼は両手で頭をつかんだ。「いったい誰が花をとって来てくれるんだろう? ミーチェンカー おいミーチェソカー ひとつお前、ポドモスコーヴナヤヘ大急ぎで行ってくれないか。」声に応じてはいってくる支配人に向かって、彼はこう言った。「お前ひとつポドモスコーヴナヤヘ大急ぎで行って、植木屋のマクシームカにいいつけてな、ひとつ百姓どもを奉公働きに呼び集めてくれ、ありったけの温室の花を毛氈に包んで、ここへ持って来るように言うんだぞ。それから金曜日までに植木鉢を二百揃えておくようにな。」 それからまださまざまな命令を与えたのち、彼は夫人のところへ休息に行こうとした。が、また一つ大切な事を思い出して、わざわざ自分でひっ返した。そして、料理番と庶務員を呼び返して、ふたたび何かいいつけ始めた。と、戸口に軽い男の足音と拍車の響きが聞えて、平穏なモスクワ生活で疲れを休めたためらしく、小ざっぱりと垢抜けのした、美しい、血色のいい、薄いひげのぼっと黒い若伯甞がはいって来た。 「ああ、お前か! まるで眼がまわりそうだ。」老伯甞はなにやら恥じるようなふうで、わが子に笑みかけながらこう言った。 「せめてお前でも手伝ってくれるといいんだがなあ! そう
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だ、まだ唱歌手がいるんだっけ。音楽隊は家にあるが、どうだ、ひとつジプシイでも呼ぼうか? お前たち軍人仲間は皆あれを好くからな。」 「なんです、お父さん、バグラチオソ公爵がシェングラーベソ役の準備したときだって、今のお父さんほど訃洳てやしなかったでしょうよ。」と息子は微笑しながら言った。 老伯爵はわざと憖ったようなふりをして見せた。 「なんだ、お前、そんな講釈を言わないで、自分でやって見るがいい。」 と伯爵は料理番の方を向いた。こちらはうやうやしい利口そうな顔をして、じっと観察するような、しかも愛想のいい眼つきで親子を見くらべていた。 「若い者って仕様のないものだなあ、フェオクチストー」と彼一は言った。「われわれ老人を愚弄しているんだ。」 「仕方がございませんよ、御前、若い方はただ十分に召し上ったらそれでいいので、いろんな物を集めたり飾。つたりするのは、若い方の役目じゃございませんからね。」 「そうだ、そうだ。」と伯欝は叫んで、愉快そうに息子の両手をつかんだ。「ああそうだ、お前は悪いところへ来合わせたよ!お前すぐ二頭立の橇に乗って、ペズーホフ伯爵のところへいってな、イリヤー・アソドレエヴィッチ伯爵の使だが、お宅から苺と新しいパイナップルを分けて戴きたい、とこんなふうに言ってくれ、ほかではけっして手に入らないでなあ。当の伯爵がご不在だったら、従妹の令嬢がたのとこへいって頼むがいい。モの足ですぐラズダリヤイヘいって、I馭者のイパートカが
知っておるさIそして、ジプシイのイリューシカを見つけてくれ。そら、あのオルロフ伯爵家で白いJザック外套を着て踊った男だ、覚えておるだろう。彼奴をここへ、おれの処へひっぱってこい。」 「ジプシイ女もIしょにここへ連れてきましょうか!」と二コライは笑いながらきいた。「ね、ね!………」 この時ドルベッカーヤ夫人が事務的な忙しない、同時にいつも彼女の顔を去らぬキリスト教信者らしい謙抑な表情を浮かべつつ、ほとんど聞えないくらいの足どりで、部屋の中へはいってきた。ドルペッカーヤ夫人には毎日のように、自分の部屋着姿を見られているにもかかわらず、伯爵はその度にきまり悪そうなふうをして、自分の身なりを詫びるのであった。 「いえ、伯爵、どういたしまして。」彼女はつつましやかに眼をふさぎながらこう言った。「あのベズーホフ伯爵のところへはわたくしが参ります。」と彼女は言った。「ピエールさんがこちらへお移りになりましたから、もう今度はあの家の温室からなんでも手に入れることができます。わたくしもあの方にお目にかからなければなりません、あの方がボリースの手紙を届けて下さいましたの。お陰さまで、ボーリヤはこんど参謀づきにたりました。」 ドルペツカーヤ夫人が仕事の一部を分担してくれるのを非常に喜んで、伯爵は彼女のために小さい方の馬車に馬をつけるように命じた。 「あなた、ペズーホフさんにぜひともおいでを願ってください。私はあの方の名前も書き入れておくから。どうです、あの
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方と奥さんの間は?」と彼はきいた。 ドルペッカーヤ夫人は眼を上へ向けた。と、彼女の顔には深い哀傷の色が浮かんだ。 「ああ、伯甞、ピエールさんは大変お不仕合わせなんですよ。」と彼女は言った。「わたくしの聞いた噂が本当だとすれば、じつに恐ろしいことでございます。あの当時、ピエールさんの幸福を皆で喜びあったころは、そんな事など思いもよりませんでしたのにねえ! あのベズーホフの若伯甞はまったく立派な天使のような心を持っていらっしゃるんですがねえ! ええ、わたくしは心底からあの方がお気の毒で、できるだけ慰めてあげたいと存じますの。」 「いったい、どうしたんですか?」とロストフ親子がたずねた。 ドルペツカーヤ夫人は深い溜息をもらした。 「ドーロホフ、あのマリヤーイヴァーノヴナの息子さんね。」と彼女は内証らしく声をひそめた。「あの人がエレーナさんをす っかりまるめこんでしまったそうですよ。ピIIルさんはその男を誘って、ペテルブルグの家へお留めになったのですが、ちょうど……エレーナさんがこちらへおいでになったので、あの暴れ者も後から追っかけてきたそうでございます。」ドルベツカーヤ夫人はこう言って、ピIIルにたいする同情を現わそうとしたが、つい自然と出てくる言葉の調子や薄笑いは、彼女が暴れ者と呼んだドーロホフにたいする同情を示すのであった。 「なんでもピエールさんは心配のあまり、死人のようにたっていらっしゃるという話ですの。」 「ははあ、しかし、なんにしてもクラブへくるように言ってく
ださい、1すっかり気分がまぎれてしまいますよ、すばらしい大酒もりですからね。」 翌る三月三日、午後一時すぎ、二百五十人のイギリスークラブ会員と五十人の来賓が、今日の貴賓でありオーストリー戦争の英雄である、バグラチオン公爵の来着を待ち受けていた。 アウステルリッツ役の報知を受けとってから、最初しばらくのあしだ、モスクワは疑惑の雲にとざされていた。当時ロシアは余り勝利になれていたので、この敗北の報知に接したとき、ある者は頭から信じなかったし、ある者はこうした奇怪なでき事の説明を、なにか異常な原因に求めた。正確な知識と重みを俥えているモスクワじゅうの名士が悉く寄り集まるイギリスークラブでも、報知の入りはじめた十二月の月には、さながら一同が沈黙の約束でもしたように、戦争のことも今度の敗北のことも、一さい話をしなかった。ラストープチソ伯爵、ユーリイードルゴルーキイ公爵、ヴァルーエフ、マルコフ伯爵、ヴイヤーゼムスキイ公爵など、輿論の方向を固める人々はクラブヘロ出しをしかいで、ごく親密な人々と共に自宅へ寄り集まっていた。他人の口まねをして話すモスクワの人達は(イリヤー・口ストフもその仲問であった)、しばらくのあいた指導者がないので、戦争に関して一定の意見を持だないでいた。なにかよくない事がある、しかし、この不吉な報知を批判するのは至難の業だから、いっそ沈黙を守った方がいい、とこんなふうにモスクワの人々は直覚したのである。しかし、暫くたってから、ちょうど陪審員が合議室から出てくるように、クラブ内の意見を確定する名士が現われて、一同ははじめて明瞭に確固たる調子
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で話し始めた。ロシア軍の敗北というこの信じ難い、かつて聞いたこともない、有り得べからざるでき事の原因が発見されたのである。なにもかもが明瞭になり、モスクワの隅から隅まで同じことを話し始めた。その原因というのは、オーストリー軍の背反、粗悪な糧食、ポーランド人プルジェブイシェーフスキイ及びフランス人ラソジェロソの裏切り、クトゥソフの無能、それから(これは大きな声で言えない事だが)、悪いつまらぬ人間を信任した皇帝の未熟と無経験などであった。 しかし、一同の囗を揃えて言うところにょれば、ロシア軍の働きはじつに非凡なもので、奇蹟的な勇気を示した。兵士、将校、将軍たちはことごとく英雄であった。しかし、英雄中での萸雄はバグラチオソ公爵であった。彼はシェングラーベソ役、及びアウステルリッツの退却によって有名になったのである。この退却の際、彼は一糸乱さず自分の軍隊を引率して、終日二倍の強敵を撃退しつづけた。モスクワで(グラチオソが国民的英雄に選ばれたのは、彼がモスクワになんの関係もない、赤の他人だということが一因をなしていた。彼はなんの係累も陰謀もない、単純で磊落な、ロシア軍人の代表者、しかもイタリー遠征の記憶によって、スヴォーロフの名と結びっけられた人として、敬意を表せられたのである。そのうえ、彼にこのような尊敬をささげるということは、クトゥソフにたいする一般の反感と侮蔑とを、もっとも直截に表明しているのであった。 「もし。(グラチオソ公爵がいなかったら、il faudrait l'inven‐“ter.轄丿豐燹賢驚」と諧謔家のシソツソにヴォルーアールめ言葉をもじってこう言った。クトゥソフの事は誰もなんとも
言わなかった。ただ一部の者は彼を宮廷づきの古狸だの、老ぽれの好色漢だのと罵った。 「なんべんも仕損じなけりやものにならぬ。」過去の勝利の記憶をもって、僅かに今度の敗北を慰めるドルゴルーコフ公欝の言葉が、モスクワの全市いたる処にくり返された。と同時に、 「フランス兵を戦場に向かって蹶起せしめるには、悲憤慷慨的語句をもってすべく、ドイツ兵にたいしては、退却は前進よりも危険であることを、論理的に証明するを可とするが、ロシア兵にはただできるだけ力を抑制さして、もっとゆっくり! もっとゆっくり!と頼まなくてはならない。」というラストープチソの言もくり返された。アウステルリッツ役でわが軍の兵士将校が発揮した勇気の、個々の実例に関する新しい物聯が、後から後からと到る処で伝えられた。ある者は軍旗を奪還し、ある者は五人のフランス兵を叩き嘶り、ある者は一人で五門の大砲を装填した。また、知らない大はベルグについても語り合った。即ち、ベルグが右手に負傷しながら、左手に軍刀を持って前進をつづけたというのである。ボルコソスキイの事はなんとも話がなかった。ただ近しい知人のみは、彼が身重な妻を変人の父親のもとに残して、若死したのを気の毒がった。 Ξ 三月三日、イギリスークラブの部屋部屋は、語り合う人々のどよめきでみたされていた。そして、クラブ員や来賓は春野を飛びめぐる蜜蜂の如く、あなたこなたと行きちがったり、腰かけたり、立ったり、集まったり、別れたりしていた。たいてい
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の人は軍服や燕尾服を着ていたが、中には髪粉をつけ、長衣を着こんでいる人もあった。髪粉をつけて長靴下に短靴をはいたお四季施の従僕らは、戸口戸口に立って、なにかご用を勤めることはないかと、来賓やクラブ員の一挙一動を毛見落さないように、一生懸命気をくばっている。、 出席者の多数は世間から尊敬を受けている老人連で、その自信ありげな顔は幅広で、指は太く、挙動も音響もしっかりしていた。この種の人たちはいつもきまりの席について、いつもきまりの組を作っていた。残りの少数は一時的な偶然の客、主として若い人たちであった。その中にジェニーソフも、ロストフも、またセミョーノフ連隊づきの将校となったドーロホフもまじっていた。青年組、といってもとくに若い軍人連の顔には、老人組にたいする侮蔑的な尊敬の表情が浮かんでいた。それはまるで旧時代の人に向かっ气我々は悦んであなた方を尊敬しますが、しかし、なんといっても未来は我々のものですよ、それを覚えていてください、とでも言うようであった。 ネスヴイーツキイは古いクラブ員としてこの場へ来合わせていた。ピエールは、妻の好みによって、髪をのばし眼鏡をはずして、流行の服装をしていたが、もの憂げな顔つきをして、広間を歩き廻っていた。彼はいつもの如く、富に跪拝する人々の雰囲気にとり巻かれたが、もうくせになっている上から見おろすような態度で、面倒くさそうな軽蔑の色を浮かべながら、これらの人々をあしらっていた。 年から言えば、彼は若い人たちの中にまじらなければならないのだが、富と門閥によって年とった名士たちの仲間にはにいっ
ていた。それゆえ、彼はたえず次から次へと、さまざまな組を渡り歩くのであった。老人連の中でももっとも高名な人々は、こうした組の中心とたっていた。で、知らぬ人までが、名士の意見を聞くために、うやうやしくそばへ寄ってくるのであった。中でも一番大きい組はラストープチソ伯爵、ヴァルーエフ及びナルイシュキンの周囲に形づくられた。ラストープチソは、ロシア軍がオーストリーの遁走兵に列を乱されたので、やむなく銃剣をもって、遁走兵の間に進路を切り開かねばならなくなった、という話をしていた。 ヴァルーエフは、ウヴァーロフがペテルブルグから派遣されたのは、アウステルリッツ役に関するモスクワ市民の意見を探るためだと、秘密めかしく語った。 第三の組ではナルイシュキソが、オーストリー軍事会議のでき事を話した。それはスヴォーロフがこの会議でオーストリー将軍たちの愚問にたいして、雄鶏の啼きまねをしたというのであった。そこに立っていたシンシソはちょっを洒落てみたくなったので、クトゥソフはこの簡単な技術I即ち雄鶏のように叫ぶことすら、スヴォーロフから学び得なかったと言った。しかし、老人たちは、今日ここでクトゥソフのことを口にするのは、甚だ非礼であると悟らせるように、いかつい顔をしてこの諧謔家を眺めた。 イリヤー・ロストフ伯爵は、柔らかい靴をはいて食堂から客間へと、気づかわしげな忙しそうな様子で歩き廻った。そして、すべて自分の知っている人々-名士にも非名士にも、ぜんぜん同じ調子で早口に挨拶し、ときどき眼でもって息子の凛々し
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い姿をさがした。そして、その姿が見つかると、悦ばしそうに視線をその上に落して、しきりに眼まぜをして見せた。二コライはドーロホフと窓のそばに立っていた。彼らはつい近ごろ知合いになったばかりだが、二己フイはこの知己を疎かならず思っていた。老伯甞は二人の方へ近よってドーロホフの手を握った。 「私のところへもおいでを願います。そうですか、君は家の倅と知合いなんですか……戦地ではIしょにいたんですね。一し″に勲功を立てられたんですな……ああI ヴァシーリイーイグナーチッチ……}」機嫌よう、お爺さん。」と彼は通り合わせだ小柄な老人に声をかけたが、皆まで言い終らぬうちに、突然あたりがざわざわと動き始めた。一人の従僕が駈けてきて、おびえたような顔をしながら、「お見えになりました!」としらせた。 幾つかのベルがけたたましく響き渡った。幹事連は前へ駈け出した。方々の部屋に散らばっていた来賓は、箕の上で簡われた裸麦のようにI塊りに群集して、広間へ通ずる大きな客間の戸口に立ち止まった。 控室の戸口に帽子も剣もないバグラチオソが現われた。二つともクラブの習慣に従って玄関番に預けたのである。アウステルリッツ役の前夜、ロストフが見受けたときのように、灰色の羊皮の帽子をかぶって長い鞭を肩にしてはいなかった。身幅の狭い新しい軍服の上に内外の勲章をかけつらね、その上、ゲオルギイ星章を左の胸にっけていた。見受けたところ、彼はたったいま晩餐会の用意に、頭や頬ひげを刈りごんできたらしいが、
それが彼の容貌に不利な変化を与えたのである。彼の顔にはなんだか子供らしくのん気そうなところができて、それが持ち前のしっかりした男らしい輪郭と対照して、いくぶん喜劇的な表情すら与えるのであった。彼とともに当地へ着いたベクレショフとウヴァーロフは、正客たるバグーフチオソを自分たちより岑きへ通そうとして、戸口のところに立ち止まった。。(グラチオソは彼らの好意を平然と利用したくないらしく、暫くためらったので、戸口のところがちょっとごたごたしたが、とうとうやはりバグラチオソがさきに立って進んだ。彼は手のや力場に困りながら、遠慮らしく武骨な足どりで客間の嵌木細工の床を歩いて行った。かつてシェングラーペソ村で、クールスク連隊の先頭に立って進んだときのように、弾丸の飛びしきる耕地のよを歩く方が、彼にとってはずっと楽なのであった。 幹事らは第一の戸口で彼を迎えて、こうした貴賓に接しうる喜びを二こと三こと述べたのち、相手の答えも待だないで、まるで自分たちのものにしてしまったかのように、彼をとり巻いて客間の方へ導いた。客間の戸口はとても通れそうもなかった。それはクラブ員や来賓が群集して、互におし合いへし合いながら、珍しい獣かなんぞのようにバダラチオソ公爵を、人人の肩越に眺めようとしているからであった。イリヤー・ロストフ伯欝は誰よりもIばん元気よく笑いながら、「通してくれ給え、モンーシェル、通してくれ給え、通してくれ給え。」と言いつつ群衆をおし分けて、貴賓を客間へ通すと、真ん中の長椅子に坐らせた。クラブの名誉会員ともいうべき大頭株は、新たに着いた人々をとり巻いた。イリヤー・ロストフ伯爵は、再び
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第
む夕
群衆をおし分けて客間を出たが、やがてすぐいま一人の幹事と共に帰って来た。そして、大きな銀の皿を持って、バダラチオソ公爵に近よった。皿の上にはわざわざ作らせて印刷した。この英雄に対する讃美の詩がのっていた。バグラチオッは皿を見ると、助けを求めるようにびっくりした顔つきであたりを見まわした。しかし、すべての人の眼の中には、降参おしなさいという要求が見えていた。いま自分はこの人達の掌中にあるのだと悟って、バグラチオソは断然両手で皿を掴み、それを運んで来た伯爵をなじるような、腹立たしげな限つきでじっと見据え`だ。淮やらが親切にバグラチオソの手からひき耿って(でなければ、彼は皿を晩までも支えていて、そのまま食卓へつく積りではないかとさえ思われた)、そして彼の注意を詩の方へ向けさした。、『では、読んで見よう。』というかの如くで、(グラチオソは疲れた視線を紙に注いで、まじめな懸命らしい様子をして読み始めた。すると、作者が自分で詩をとって朗読した。バグラチオソ公爵は首を傾げて聴いていた。 かくて歴 山の御代を栄あらしめ わがタイタスの玉座を護れ 猛将善士の徳を一身に兼ね備え 祖国にありてはリフェイたり 戦場にてはシーザーたれ ああ幸運なるかなナポレオン 将軍バグラチオンの力量を わが経験により知りたるか
もはや露国のアルキードを敢て煩わさんともせずなりぬ……
しかし、まだ彼がこの詩を読み終らぬうちに、侍僕頭が雷霆の如き声で、「食卓の準俥が整いましてございます!」と披露した。やがて、扉が開かれた食堂からは、ポロネーズの舞踏曲が響いてきた。「勝利の雷とどろけよ、猛きロシアよ戯れ遊
べ。」ロストフ伯爵は、いつまでも詩の朗読をつづけている作者の方を、腹だたしげに一瞥して、バグラチオソに一揖した。一同は詩よりも食事の方が大切だと感じたので、すぐさま席を立った。ふたたびバグラチオソが先頭に立って食堂に向かった。陛下の御名に関係ある両アレクサソドル(即ちベクレショフとナルイシュキソ)にはさまれた一番の上席に、バグラチオソは招じ入れられた。三百人の客は官等と地位によってそれぞれ席を定めた。身分の重い大ほど主賓に近かった。それはちょうど水が低い土地に深く溢れるのと同様、きわめて自然に行われた。 食事のちょっと前に、ロストフ伯甞は息千を公甞にひきあわした。バグラチオソは二コライの顔を思い出し、二こと三こと言葉をかけたが、それはこの日かれが発したすべての言葉とひとしく、なんとなく辻褄が合わず間が抜けていた。バグラチオソが自分の息子と言葉をまじえているとき、イリヤー伯甞はさも嬉しそうな、誇らしげなさまで一同を見まわした。 二己フイはジェニーソフのほか、新たに知合いになったドーロホフとともに、ほとんどテーブルの中央に座か占めた。彼ら
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