1921年長野県に生まれる
1941年現役兵として三戸工兵第51連隊に入隊
1942年憲兵に転科、陸軍憲兵学校に入学
卒業後、東京憲兵隊に転属
1943年第6野戦憲兵隊に転属 ニューギニア・ハンサ上陸
1945年終戦 当時、憲兵軍曹
1946年神奈川・浦賀にて復員
復員後は、農業、土地家屋調査士、不動産業に従事
[1] ニューギニア上陸 05:23
[2] マダンへ 06:58
[3] 山越えの行軍 03:01
[4] 連合軍についた地元の人々 05:05
[5] アイタペ作戦 03:21
[6] 飢餓のなかの戦闘 04:23
[7] 極限状況の兵士たち 05:31
[8] 終戦 03:42
[9] 終戦4年後の戦犯容疑 09:32
[1] ニューギニア上陸 05:23
ハンサへ入るその日だったな。4月の11日ごろじゃねぇかと思うんだ。そのときに、朝、向こうの哨戒機に発見されたの。そう、「だから、今日、早く降りちゃうんじゃねぇか」ってそんなこと言っててけども。わしら、それでも10時ごろ、船が出ることができたからね、よかったんさ。それで、上陸してみたけれど、やっぱり体弱ってたなぁ。上陸して、そこでひとまとめになって、ちょっと休憩したら、20師団の師団参謀の高田さんっていう参謀が来て。そして、「いちばん東のはじの方の取り締まりやって」って言われて、おれ行ったわけ。そこんとこは、「しどにい丸」っていう船の荷物を主に下ろしてたね。そいで、「しどにい丸」の船を下ろしてたり、その周辺に土民部落もあったし、それからその手前に、荷物の置く手前くらいのところに、高射砲陣地なんかあったんですよ。そいで、おれはまぁ、取り締まりだからその辺をぐるぐる回っておったときに、午後2時だったな。「敵機襲来」っていう情報が入ったのさ。そしたら、そばにおった前から来てた兵隊、そして、「あと20分たてば来るぞ」って。確かに20分たったらね、山の向こうの方にね、点、点、点と3つ。黒い星見えるん。「おっ、来たぞ」ってわけだ。そして来たらねぇ、ハンサでちょうどに20分ばっか、かかりますからね、そいで、そのいちばん東のはじの、わしら(が)いた頭の上をぐーんと飛行機が、三機編隊でね、スーッと飛んだ。
そしたら「しどにい丸」のとこに爆弾落としたもんだからね、水柱が「シャーッ」とあがってるの。そいだから、あれは3機で飛んでった真ん中のやつが落としてったんだな。真ん中のが命中して、その機関部からはもう、水蒸気が「ダー」と上がってるじゃないかね。だから両はじの方から落としたのは船を外れたけどもね。それも、水柱「ズーッ」と上へ上がってった。それで、落としてしまったら、そのまんま帰って行っちゃたけどもね。そのとき、そんなふうになったもんだから、とても、高射砲なんか、ずいぶん撃ってたらしいからね。その辺の船のあれですねぇ、煙でもってね、見えなくなっちゃったんです。そうだなぁ、30分くらいたったら、海が、だんだん煙が見えなくなくなってくるとね。そしたら、我々の護衛艦出すって行ってくれた駆潜艇が、海軍の駆潜艇ですよ。どこ行ったやら、さっぱりわからない。ただ、哀れに思ったのは、あれだけ、護用船だ、民間から徴用した、そうした貨物船ね。それが、一、二、三、四、とあって。5つ目のが、あれさ。水蒸気を「バーッ」て上がりっぱなしになってるな。そして、同時にやね、こんな丸太で作ったな、どこで作ったやらと思うような担架な。担架ったって、普通の布張った担架じゃねぇんですよ。あ、ツルで、こう、からいで(絡ませて、編んで)あってね、そして、丸太が、このくらいのを両方に置いてね。そして、そこに担架に戦死した者ば乗っけて来たんです。それで、どん、どん、どん、どん上がってくるでしょ。それがずーっと3列に並んだのが80人ばかりある。
[2] マダンへ 06:58
それから今度は雨、まだ、そのころ雨季ですからねぇ。雨降って困ったけれども、「船でマダンへ行くか」「歩いて向かって行くか」とみんなで協議したんさ。だけども、船で、いっぺん、そんな経験したからね、兵船おっかなくて嫌だからね。「歩いて行こうっ」ていうこと。「まぁ歩いて行こうっ」ていうことになったら、ニューギニアっていうのはあれねぇ、雨期になると道路が川になっちゃうんですよ。そしたら川歩いて行くんだからね、まぁ、ドブン、ドブンしてさ、とってもやない、そばに車(大八車)あったから、車につけて上がれたんだけど、とってもじゃない。車の方は骨折れたように。しまいに今度は、あのウリンガンまで歩いて行ったけど。ウリンガンからもう、とってもそんな車なんてそんな引いていかんねぇから、そこに置きっぱなしにしてさ。そして、みんなで、自分の荷物は自分でしょって、そして、マダンまで行きましたよ。
Q:マダンへ行くときはどの部隊と一緒に?
部隊と一緒なんかはないです。その部隊っていうことは自分たちの8方面軍から、18軍に配属になって。18軍の一部として前進したから、わしらは、わしらで行ったんですがな。そのときそだねぇ、20人、30人くらいで一緒に行ったかなぁ。
Q:18軍の司令部も一緒?
いえ。司令部はもう先に行ってた。後をわしらは追及して行くようになったね。
夕方って夜だからさぁ、もう寝ようと思ってた。そのとき4人か。5人くれぇいたかなぁ兵隊飛んできてな。「小林兵長殿。司令官側の支隊長がお呼びでございます」って。支隊長におれが呼ぶなんて、「おれのなん、知ってるはずがねぇ」と思ってたわさぁ。だけど、呼ばれたんだから「そんじゃあ行ってくる」と。で、おれまぁそのとき、そんとこで軍装して行ったん。ほんときに、そうだなぁ。これどのくらい、200メートルくらい歩いて行ったか。100メートル歩いて行った。とにかく歩かなくちゃいかねぇし行ったら、そしたら支隊長がそこに立っててね。そこで、「小林兵長が参りましたっ」つったら、「御苦労さま」って、せって言ってくれた。そのまぁ、おれ「御苦労さまっ」て言われたのが、おれがいちばん、感激してるとこさ。だっておれ軍隊に入ってな、「御苦労」って言われたことは数あるけども。「御苦労さま」って言われて「さま」付けで言われたとかそのとき初めてだよ。だから、なんだ。御苦労さまって言うのは「将官級じゃなきゃいわれない」なんて思ってたんだよな。そのぐらいなんだよ。そして、「命令は副官から聞いてくれ」と。そして、その大御所行って。そして、命令おれ聞いてたんだけれどさぁ。そしたら、お前そこんとこで12月、8日か9日だな。そのころ、先の攻撃あるってんだな。その攻撃あるっていうので、おらが、戦死者がどのぐらい出そうだ、負傷者がどのぐらい出そうだっていうような計算してた。「あー。戦争だなぁ」って思うな。そいで、おれのとこへ受けた命令は、「これからすぐ出発してくれ」と。それで、「コパっていうとこに急ぐ」とかな。「コパんところへ軍が集結するからな。コパんとその付近の、謀諜と、謀諜っていうのは、謀諜とその土民の保護とな。それをおれに担当しろ」って言われて、おれはその日に出てったんだよ。出てったって、ニューギニアで、夜出て行くなんて、真っ暗なんだからねぇ。だから、薪(まき)2本持ってさ。そして、薪に炎が出ちゃうっちゃいけねぇから。それ持って兵隊を1人は連れて。そして、歩いてジャングルん中に行ったんだけれども。
Q:そのあとはコパ?に行かれたんですね?
ええ。コパにも、コパにはわしらの方の、部隊の分隊、分隊つって分隊の長がいたわけです。コパから・・・ていうのはそうだなぁ。4キロ、5キロばかりじゃねぇなぁ。5キロくらいあったかな。そのぐらいの距離のところへ行ってきたわけです。
Q:そこではどんなことしてたんですか?
わしが?そのとこは、結局、対峙してる向こうには連合軍がおるでしょ。こっちは、日本軍がいる。その、中ですからね。その、土民をだね。なるべくこっちい引きつけとかんじゃいけないのが、わしらの仕事ですわね。
[3] 山越えの行軍 03:01
Q:途中補給はあったんですか?
ええ。そのころだって補給っていうのはねぇ、わしらでもらってくるからね。あるんだけれども。まぁ、そのころだって、みんな十分にもらってるわけじゃないからね。まぁ、ニューギニアに上陸すると同時に、軍から受けるの、三分の一て、三分の二程度っての、一応、あれですね。軍が計算する量の三分の二を食糧としてもらってたわけだからね。だから、もうどっちにしたって現地で、食糧見つけなきゃしょうがなかったです。
Q:その後はどうしたんですか?
それから、また前線出て、今度は南海支隊はいつだって前線だからね。わしらもそ、のあとついて、そして、前線へ出てって。そして、50師団は迎えたわけだよね。
Q:前線て言うと東の方ですかね?
はい。東の方、東の方ね。
Q:50師団は戻って来たんですか?
うん。戻ってきました。なんだ。高い山(を越えてね。あれ何だ、4千メートルばなしてせった、峠超えてきたわけですよ。
Q:敗残兵ですよね?
ひどい格好ですよ。そのときねぇ。わし道で会ってね。いちばん先にあった兵です。タノっていうのね。あの峠超えて来たうちでね、いちばん初めにあった兵隊は、「どんな格好してたかあんたわかるかい?」裸だった。裸でがってね。それを、土民が担架にのっけてね。担いできてくれた。
Q:下着もないんですか?
下着もない。よくまぁしかし、おれたちと、すれ違ってから後、「いったいどういうふうにしてくれるかなぁ」と思っておれはそのときいたんですけどな。よくまぁ、土民がね、見てくれたと思ってる。
Q:担がれてきた人は病気?
いやいや、病気って、歩けるって程度じゃないものね。歩けはしないと思ってるんだけど。それでも、みんなそこまで担いできてくれる。
(略)