『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

239連隊 その09 略あり


1918年長野県に生まれる
1939年松本第50連隊に入隊
 幹部候補生として盛岡予備仕官学校に入学
1940年第239連隊第6中隊小隊長を命ぜられ、北支山西省
1943年ニューギニア・ウエワク上陸
1944年アイタペ作戦当時、第12中隊長 中尉
1945年終戦 当時、陸軍大尉
1946年神奈川・浦賀にて復員


[1] ニューギニアに上陸 05:21
[2] 過酷な熱帯の環境 03:54
[3] 連合軍の上陸 02:28
[4] 「乾坤一擲」の攻撃 04:08
[5] 大砲も塩もない軍隊 03:17
[6] 攻撃失敗 03:16
[7] 終戦のとき 02:49



[1] ニューギニアに上陸 05:21
ニューギニアに)上陸したのがね、ここに書いてあるわ。支那の青島から出てね、パラオ諸島で2週間くらい様子を見て、あの年からもう敵の潜水艦があって危なくてこれなかったんですよ。だから様子を見てね。それからニューギニアへやっと来たんです。だからその、兵隊、兵隊ってのはどこ行くかってことも、わたしたちにもね、下級幹部にも知らさなかったんですよ。青島出るとき、ガダルカナル行くのか、ニューギニア行くのか、どこ行くのかわけがわからない。それでもその、兵隊ってのは感覚でわかるんですね。それでもう台湾の沖まで船が来たときにね、輸送船が来たら、もう海ん中に飛び込んで自殺する人が出てきた。もう苦しいより死んだ方がいいってことだ、そういうことですね。えらいことですよ。そして今度はパラオ諸島に来たところが、これ、戦時中だってのにもう半ズボンで植民地でしょ。半ズボンでテニスやって遊んでるんですよ、みんな。戦争なんかそっちのけで。そこで初めてパパイヤだとか、ヤシの実の中の実をね、飲んだとか。それが初めて南方行って、「やぁ、ヤシの実ってのは、おいしいもんだ」なんて言って、みんなと話をしてそれでいたんです。それで結果的にはここまでは無事に来たですけれども、ウエワクって町ってことになってたんですけどね、サンゴ礁、リーフがいっぱいでね。1万トン級、7、8000・・・2、3000トンでもだめだな。桟橋着けないんです。リーフきれいで、下が。それですからね、4キロ5キロから6キロ、小さい桟橋から離れたところに船が泊って、そこから小さい船でもちっちくち荷物を運んだり、人間が上陸したりするわけなんです。

それが18年のね、2月の2日に、初めて一歩、ニューギニアに踏みしめたと。そうしたところがね、わたしたちの船団が41師団だから、1万トン級ぐらいのが3隻くらいで行ったかや。大勢行くんですよ。それがね、みんな敵に分かってたんです。もう暗号はもちろん、解読されてたし。

だから、飛行場のそばで天幕張って、そしてまず一応寝たんですよ。そしたらもうそのとき飛行場の爆撃ですよ。

だから我々を狙った、狙っただか、飛行機を狙ったか、まぁ思うのは飛行機ってことなんですがね、人間がいくらいたったって、飛行機をやってしまえばいいからね。

そんなとこでもって、中国にそんな爆弾を落とすとこだとか、高射砲撃つだとか、あるいはサーチライトで照らすなんてことがいっぺんもないでしょ。仕掛け花火を見てるような気がしてね。みんなで出て、危ないこともほったらかして見てたんですよ。

「なんで空襲なんて、屁でもねぇ」とかなんとか言ってたんですが、そんなこと、空襲を受けたことないからね。それから上がって、ウエワク。あ、この、どこだや、ウエワクは。あぁ、ここだね。ウエワクで上がって、それからブーツってところがあるんですよ。すぐそばにね。ウエワクのどっかこの辺に。ここに飛行場がありましてね。一応、戦闘にならないんで、そこを整備するってことで。だから飛行場の整備作業をやってたんです、歩兵がね。それが約8か月やってました。

飛行場っていっても、あれさね、掩体壕(えんたいごう)、つまり、あの土手をつくったわけ。飛行機が爆撃で直撃弾でやられりゃぁあきらめるけれども、横に撃ったときにいいように、こういう、そのくらい高い土手をつくったわけ。そんな作業。簡単な作業さね。そこへ飛行機を入れとく。入れとくわけだ。だからまぁ、原始的な仕事をやってたわけさね。道具も何もなくて。田舎の土方と同じでモッコかついでやってたわけだ。8か月くらいやってたなぁ。


[2] 過酷な熱帯の環境 03:54
それでマラリアと熱帯熱ってやつがあって。マラリアっていうのは、4日熱が出れば、3日休んで、また4日熱が出るってやつ。それが4日熱。5日熱っていうのは、5日続いて熱が出て、4日休んでまた出るってやつね。そのほかにね、熱帯熱ってやつがあったの。熱帯熱ってやつはそんな区別がなくて、出たら出っぱなしなんですよ。だいたい41度、42度近く上がるとね、黒水病(致死型マラリア)っていって、しっこが真黒になっちゃうんですよ。そうなれば助からなかったんですよ。それでまだ食べ物があるときですら、これだけもう、何もしないでただ飛行場の整備をやってるだけで2000人いなくなってるんですよ。えらいことじゃないですか。

よほどその、なんだ、人間が住むのに環境が悪いってことです。湿度が多いんですよ。湿度がまぁ、90何パーセントっていうことですから、だから水の中に入ってるのも同じなんですよ。

そこでもう、狂ってるのが何人もできてきてる。えらいことじゃないですか。ここには、8か月いたんです。ブーツってとこに。その間に狂ってね、雑嚢(ざつのう)ってやつがあるんですよ。軍隊でいえば、いろいろのものを入れる雑嚢ってやつ。まぁ、雑の袋ってことですね。かばんみたいなやつがあるんだ。小学校の生徒の。そこへいろいろ入れる、入れてくんですよ。弾薬はこれ、弾薬嚢って言って、前に2つ後ろに一つやってるけど、いろいろのものはそれ入れるんです。それが兵隊にとっては、どれだけありがたいもんだか懐かしいもんだか、わからないです。それで、狂ってもその、雑嚢だけは離さないんですよ。それで、「母さん、ただいま参りました。」なんて言って、うちへ帰ったようなこと言って、狂ってる。気の毒なもんさね。そして若い、20歳から30の間でしょ、わたしなんか現役だから。それで頭を、自分の頭を、鉈(なた)でたたいてさね、頭中血だらけにしてるのもいたしね。まぁえらいことですよ。将校で狂ったなんて言うのは、刀振り回して危なくてしょうがないんですよ。わたしの同期生のやつも野戦病院へ入れられてたけど、担架へ体全部縛り付けてさね。そうでないと暴れて、暴れてしょうがないわけだ。刀も取り上げて。何するかわからないから、振り回すから危なくてしょうがない。

まぁそんなようなことで、8か月くらいいて初めて、この、マダンを目指して行ったんですがね。これで、その時分はね、200トンから800トンくらいの漁船があるんですよ。徴用して取ったのが。それを、海上トラックって言ってたんです。海上トラックってなんのことなんだって、トラックが海ん中歩くじゃねぇかと思ったら、そういう漁船を称して海上トラック。で、だいたい、200人から300人乗れるんですよ。その海上トラックで、このハンサってとこあるんですよ。ここがウエワクかや。これがマダンだから、これがハンサってとこあるでしょ、ハンサ。ハンサってとこあるでしょ。そこまで船で行けたんですよ。18年の暮まで、12月ですがね。まぁまぁ、どうにかこうにかハンサで上陸して、あとは陸路を歩いてここへ行ったんですよ。マダンへ。


[3] 連合軍の上陸 02:28
マダンを取ろうと思って、ここへグンビ岬ってとこへ敵が上陸してきたんですよ。そのときの、書いてありますね。239i(歩兵連隊)の森永大隊と、ミンデリーのを挟んで、敵が数百名の敵が来たと。それを、一人だけ待っててね、川を渡るやつを待ってて、そして川の渡りかけたとこから、鉄砲撃ちゃ逃げちゃうでしょ。そうだから、うんと引き寄せて、それで数百名殺しちゃったんです。そしたらおどけてねぇ、はじめて、ここで日本軍がアメリカ軍を阻止したっていう、ことになったんですよ。これは、軍司令官が方面軍司令官の賞状をいただいたりして、まぁ内地まで伝わったそうだ。3大隊っての活躍がね。森永大隊ってのが。

ここはマダンが、軍司令部がいるでしょ。師団長もいるし、連隊長もいるし、みんな幹部が集まってるところでしょ。それで食べ物はあるっさね。弾はいくらでもあるし、元気はいいだでね。そういうわけでここはだめですよもう。ラバウルから持ってきて、食べ物なくなっちゃっていけないに、ここはいくらでも食べ物あるでしょ、元気のいいときだもの。それで大戦果をあげたんです。それっきり今度は敵は驚いちゃって、こっち来れないんざね。これはマダンはなんともとんでもない話だと。日本の兵隊今、いちばん元気のいいときだでね。そんなとこ行ったったってだめだってわけで。それでこんなに後ろに上がられたんですよ、アイタペの。それでこの辺から西部ニューギニアになるんですよ。イリアンジャヤってやつですね。東がパプア・ニューギニアで、こっちはイリアンジャヤで今のインドネシアに入ってます、この半分はね。そんなところに上がられたら、袋のねずみにされちゃったんですよ。こっちが、こっちだけ。


(略)